短編小説「最後のトランペット」
- 2022.01.24 Monday
- 13:28
JUGEMテーマ:自作小説
継続は力なり。
夏に始めたダイエットは年を越え、翌年の一月まで続いた。
もちろんこれからも続けるつもりだ。
なにせ今までこれといって目標を達成した試しがない。
色んなことに挑戦しては挫折したり、飽きたり、気づけば忘れていたり。
継続なんて言葉は自分の中になかった。
しかし小学二年生の甥っ子に駆けっこで負けたとなれば、もはやそうも言っていられない。
あれは悔しかった。
去年の夏、忙しい妹夫婦に変わって甥っ子と姪っ子の遊び相手を務めた。
『兄ちゃん暇でしょ?明日子供の面倒見ててくれない?』
実家に来た妹にそう言われた。
『面倒見るって何すればいいんだ?』
こちとらロクにモテない独身野郎だ。子供の面倒を見るといっても具体的にイメージが湧かなかった。
『ウチに来て遊んでやってくれればいいから。昼ご飯は作っておくからチンするだけいいし。あとは危ないことしないように見張ってて。』
『別にいいけど。』
『夕方までには私か翔くんが帰って来るから。じゃあお願いね。』
そう言って家の鍵を渡された。
妹も旦那も仕事で、しかも学童保育も子供園も休みだった。
だから俺が駆り出された。
あの時の俺はニートだった。
パワハラ上司に嫌気が差し、転職先でもこれまたキツイ上司に当たってしまったものだから、ちょっとした欝状態になっていた。
半年前から実家に引きこもり、ダラダラと時間を消費するだけの毎日だったので、『暇でしょ?』と言われては頷くしかなかった。
こんな俺でも家族の役に立つのなら全然引き受けるし、甥っ子と姪っ子は可愛いし、今にして思えば『ちょっとは外へ出ろ』という妹からの気遣いだったのかもしれない。
まあ理由はなんでもいい。
俺は半日ほど甥っ子と姪っ子の面倒を見ることになった。
『家の中が飽きたって言うかもだから、外へ連れて行ってもいいけど近所の公園だけね。
あと暑いから帽子とタオル忘れずに。冷蔵庫にお茶とかスポーツドリンクあるからそれも持ってってこまめに水分補給させて。
それと時間は30分だけ。まだ遊びたいってダダこねたら、ママが怒るって言えばお兄ちゃんは納得する。妹は泣くかもだけど構わず連れて帰って。』
俺はメモを取った。俺が子供だった頃の夏とは違い、今は熱中症を気にしなければいけないほどの猛暑になってしまった。
親は大変だし子供は可哀想である。
そして当日。最初は家の中で遊び、腹が減ったと言うので昼飯をレンジでチンし、眠いと言うので昼寝をさせてから、一日一時間のゲームをした。
やがて『外に行きたい』とダダをこねたので、徒歩で一分ほどの公園へ連れていった。
砂場で遊んでから汗を拭き、遊具で遊んでから水分補給をさせ、持ってきたボールで遊んでからまた水分補給。
かなり大変だ。しかしタイムリミットの30分まであと五分ほど。最後は鬼ごっこをしようということになった。
ジャンケンなんてすっとばして俺が鬼に指名された。
まあいい。すぐに捕まえてやろう。
そう思ったんだけど、そんな上手くはいかなかった。
まだ四歳の姪っ子はすぐに捕まえた。
『なんですぐ捕まえるの!』と泣かれたけど、鬼ごっことはそういうゲームだ。
だが甥っ子の方はなかなか捕まえられなかった。
いくら子供がすばしっこいとはいえ、相手はまだ小学二年生。大人の俺が翻弄されるなんて・・・・。
やがて俺の方が先に息が上がった。
すると『もう鬼ごっこはいいから駆けっこしよっか』と提案してきた。
その時、甥っ子は悪い顔をしていた。『コイツ、大人のくせに僕より足が遅い』という顔を。
いいさ、挑発するなら乗ってやろう。
『そこのブランコからあっちの滑り台までね。』
『わかった。』
『じゃあイっちゃんがヨーイドンていう!』
俺と甥っ子はスタートラインに立ち、姪っ子が『ヨーイドン!』と叫ぶ。
果たして結果はどうだったか?三回やって三回とも俺の惨敗だった。
大した距離じゃない。ほんの20メートルくらいだ。
なのに小学二年生を相手に一度も勝てないなんて・・・・。
『やった!大人に勝った!』
甥っ子が勝ち誇る。
『運動不足だね。』
姪っ子の言葉が突き刺さる。ていうか四歳ってもうそんな言葉を知ってるんだな・・・・。
喜ぶ子供たちとは対照的に俺は落ち込んだ。やがて夕方になり、仕事を終えた妹が帰って来た。
この出来事を話したら、『仕事辞めてから太ったからじゃない?』と言われた。
『やっぱずっと家にいるの良くないよ。欝もマシになってきたんでしょ?』
『まあかなり。』
『じゃあこれからはジョギングとかウォーキングでもしたら?軽くでも運動した方が心にも体にもいいって言うし。』
『そうしようかな・・・・。』
・・・・まあこういう理由でダイエットを始めた。
まずは軽い運動から。
ウォーキングやジョギング。そしてちょっとした筋トレと、あと縄跳び。
暑いので早朝や夕方にやった。
これを一ヶ月ほど続けると、身体を動かす習慣がついてきた。
だから少しトレーニングの量を増やした。
近所のジムに行ってダンベル持ったりスクワットしたり。懸垂もやった。最初は二回くらいしか出来なかったけど、ジム通いを続けるうちに五回、六回と連続で出来るようになった。
夏が終わり、秋が来る頃には十回こなせるようになり、ダンベルも重いやつに持ち替えた。
ゆっくり走るジョギングも、ハイペースで走るランニングに変わり、たまには坂道ダッシュもやった。
食事制限もした。
脂っこいものは控えて野菜を多く食べた。ご飯もおかわりは禁止して、腹が減ったら煮干で満たした。
こんなことを年の瀬まで続けていたら、妙に良い身体になっていた。
ムキムキってわけじゃないけど、薄ら腹筋が割れて、小さいけど力こぶもある。
もちろん体重も減った。その分だけ身体が軽くなった。脚だって鍛えられたから余計に軽く感じる。
夏前と比べて引き締まったのだ。
目に見える変化っていうのは嬉しい。努力を実感するからやる気が上がる。
だから年が明けても継続中だった。
どこまで続けるかは分からないけど、去年の夏から始めたんだから、今年の夏くらいまではやってみようと思う。
これならもう子供には負けない。ということで甥っ子とリベンジマッチをした。
正月に家族で集まった時、また悪い顔をしながら『競争しよ』と言ってきたので、返り討ちにしてやった。
三回やって三回とも俺の勝ち。鬼ごっこでもすぐ捕まえた。
自慢することじゃないんだけど、素直に嬉しくて、甥っ子の前で勝ち誇っていたら拗ねてしまった。
姪っ子からは『大人気ない』と言われる始末。
最近の四歳はよく言葉を知っている。
まあ事情はどうであれ、俺は生まれて初めて努力というものを継続しているのだ。
おかげで欝もかなり改善され、今年の初めに仕事が決まった。
もう営業はやりたくないので配達の仕事だ。
運転は得意だし、記憶力は良い方だし、無茶なノルマを課されることもないし、何よりパワハラ上司がいないので、前職と比べたら天国だった。
でもって彼女も出来た。
こっちは年末の出来事なんだけど、ジム通いを続けているうちに仲良くなった女性がいるのだ。
最初は挨拶だけだった。だけどしょっちゅう会うから少しずつ話すようになっていった。
彼女もダイエット目的で通っていて、じゃあ一緒に頑張ろうってことで、それから飯に行ったりデートしたりして、12月の終わりには付き合うようになっていた。
今はかなり幸せである。
それもこれも甥っ子に駆けっこで負けたことがキッカケで、ダイエットを継続したからこそだと思ってる。
でもって最近は犬も飼った。
前々から欲しかったんだけど、なんだか踏ん切りがつかなかった。
でも思い切って飼うことにしたのだ。
柴の子犬だ。毛並みはモフモフだし、全体的に丸っこいフォルムで可愛いし、よく懐いてくれる。名前は『ハジメ』だ。
あまりに可愛いので車に乗せて色んな場所へ散歩に連れて行く。
もう少し大きくなったら一緒にランニングもしたい。
でもそれはまだ無理なので、車であちこちドライブして、良さそうな場所で散歩をするのだ。
今週末は海へ行く。
ほんとは彼女も一緒に行く予定だったんだけど、会社が人手不足らしくて休日出勤だと愚痴っていた。
彼女も犬が大好きなので、『ぜったいまた誘ってね』と言っていた。
だったら甥っ子と姪っ子を誘おうかと思ったんだけど、妹が『さすがに海に行くなら兄ちゃんだけに任せるのは心配』と止められた。
『そうなると私もついて行かなきゃいけなくなる。でも悪いけどその日は仕事だから。私の都合が空いてる時に誘ってあげて。』
うむ、それはその通りだ。
以前に半日だけとはいえ子供の面倒を見て、その大変さを痛感した。
親である妹からしてみれば、ついこの前まで引きこもっていた兄貴に子供を預けて海に行かせるのは不安に決まってる。
だから結局は俺とハジメだけで海へ行くことにした。
でもそんなに遠くの海じゃない。
家から一時間弱ほどだ。
干潟が綺麗な海で、砂浜を思いっきり走ったり、春になると潮干狩りも出来る。
『ハジメ。明日は俺と海に行こうな。』
言ってる意味が分かってるのか分かってないのか、ハジメはスリッパを咥えて振り回していた。
*
翌日の朝、ハジメと海へやって来た。
あまり人はいない。土曜だから多いかなと思ったけどそうでもなかった。
まあ冬だし、釣りに向く場所でもないから、休日だからって多いわけじゃないみたいだ。
人がいないと干潟がより広く感じるし、遠浅の海に陽の光が反射して綺麗だ。
風もほとんどないから波もないし、水平線は遠くまでよく見える。休日に相応しい穏やかな海模様だった。
ハジメにリードを付けて車から降ろす。
いっぱい草が茂っている空き地が駐車場代わりなので、ハジメは早速あちこち草の臭いを嗅いでは、ここだっていう場所にマーキングしていた。
ついでに大きい方もしたので忘れずに持って帰る。犬を飼うなら基本的なマナーは守らないといけない。
「干潟に行くか。」
海岸線にはずっと柵が続いているんだけど、何箇所か扉みたいになっていて、ここから中に入れる。
干潟へ足を踏み入れると、ズボ、ズボと靴が沈んでいった。これはきっと靴の中が砂まみれになる。
ハジメは初めての海に興奮気味で、波打ち際まで駆け寄った。
でもあんまり速く走らないでくれ。余計に靴の中が砂まみれになる。
最初のうち、ハジメは少し怖がっていた。
波が押し寄せては飛びのき、引いては少し前に出る。でもすぐに慣れて走り回った。
「楽しいか?」
足元がずぶ濡れだけどお構いなしにはしゃいでる。俺はハジメを持ち上げて水平線を見せてやった。
「どうだ?海って大きいだろ。」
小さな尻尾が垂れている。高い所はあまり得意じゃないので、「悪い悪い」と下ろしてやった。
それからしばらく海で遊んだ。貝殻を拾ったり、磯の生き物を観察したり。ハジメはなんでも興味津々だった。
海へ来て30分近く。ハジメは疲れたのか、足元にまとわりついてくる。抱っこしてくれの合図だ。
「はいはい。はしゃぎすぎるからだよ。」
抱き上げて肩に乗せる。
車に戻り、ハジメの足を拭いて、座席を倒して一緒に寝転んだ。
ハジメは寝息を立てる。俺もなんだか眠くなってきた。
穏やかな海と心地いい波音。それに車の中は陽射しのおかげで暖かい。
気づけばハジメを抱いてウトウトしていた。
・・・・そんな時だった。どこからかトランペットの音が聴こえた。
どこで吹いてるのか探すと、干潟の西側にある展望台の上に、それっぽい人影があった。
俺と同じくらいの若い男だ。
しかも上手い。聴き入ってしまうくらい上手なトランペットだった。
何一つ楽器の演奏が出来ない俺からしたらプロなんじゃないかって思う上手さだ。
なんの曲かは分からないけど、今日みたいな海に合った穏やかなメロディだった。
ハジメも顔を上げる。ただ音に反応してるだけだと思うけど、なんとなく興味深そうにトランペットの男を見ている気もする。
「もっと近くで聴いてみるか?」
ハジメは尻尾を振る。とりあえず一緒に展望台の近くまで行った。
途中でまた抱っこをねだってきたので肩に乗せながら。
近づくにつれて鮮明に聴こえる。突き抜けるような爽快な音だ。
でもいきなり演奏をやめた。
俺が見てることに気づいて、恥ずかしそうにトランペットを仕舞いだした。
「やめちゃうんすか?」
もっと聴きたかったからそう言ってしまった。
男はギョっとしていた。《なんだコイツ?》って感じだろう。いきなりやって来て親しげに話しかけんなって。
俺だって普段は知らない男になんか話しかけない。
でもあまりに上手だったからつい口走ってしまった。
男の顔がどんどん強ばっていく。動きを止めてじっと俺を睨んでる。
《あれ?けっこう怖い人?》
怒ったのかもしれない。
でも見た目はヤンキーでもその筋の人でもなく、いかにも爽やかな好青年って感じだ。
俺より全然イケメンだし、背だって高くてオシャレだし。
若いくせに渋い色のロングコートをばっちり着こなしていて、なんか男から見てもカッコイイ男だった。
だけど中身は怖い人なのか、《やんのか?》みたいな目つきをしてる。
《これミスったかも。》
怒られたら嫌だ。だからペコっと頭を下げてそそくさ退散しようとした。
展望台を降りたらダッシュで車に戻ろう。
そう思って背中を向けた時、「もっと聴きたい?」と言われた。
「へ?」
「やめちゃうんですか?って言ってたから。」
「ああ・・・そうっすね。迷惑じゃなければ。でも邪魔しちゃ悪いし俺はこれで。」
「邪魔なんかじゃないよ。むしろこっちが迷惑だったかなと思って。こんな場所でトランペットなんて。」
「そ、そうなんすか・・・・。俺はてっきり怒ってるのかなと。」
「ああ、ごめん。緊張したり恥ずかしくなったりすると顔が怖くなるってよく言われるんだ。でも全然怒ってないから大丈夫。」
「ほんとに?」
「ほんと。」
「なら・・・もうちょっといいすか?」
「いいよ。まだまだ吹くつもりだったから。」
男はトランペットを構えて曲を奏でる。
さっきとは違ってテンポの早い曲だった。でもって次は悲しい曲で、次はノリの良い曲で、次は切ない曲で、その次は静かな曲で、まるでメドレーみたいにポンポン曲を変えていく。
しかも全部上手い。お世辞抜きで聴き入ってしまう。なんならちょっとお金を払ってもいいくらいだ。
矢継ぎ早に曲が変わっていって、最後にすごい感動的な曲を吹いてから「これでおしまい」とトランペットを下ろした。
「どうだった?」
「いや!マジすごいっす!めっちゃすごいっすよ!」
我ながら語彙力がない。でもそれくらい興奮したし感動した。そういう時は単純なことしか言えなくなる。
男は「ならよかった」と満足そうに頷いた。
「最後にこんなに喜んでもらえるなんて。もう悔いはないよ。」
「最後?」
「トランペット。今日で最後にしようってここへ来たんだ。」
「・・・・えええ!なんでっすか!?こんな上手いのにもったいないっすよ!」
「これでも一応プロだから。上手く吹けないと仕事が来ないよ。」
「ああ、やっぱそうなんすね。素人とは思えなかったすもん。」
「さっきの演奏、楽しんでくれた?」
「そりゃもうめっちゃ!あ・・・・ちょっと金とか払った方がいいすか?」
プロとは知らずにお願いしてしまったんだ。でも財布にはそんなに入ってなくて、「あんま金ないんでこれでもいいっすか」と千円札を一枚取り出した。
もうちょっとあるにはあるけど、帰りにハジメの餌を買わないといけない。
上目遣いにお金を差し出すと、「いいっていいってそんなの」と押し返された。
「ここで勝手に吹いてたのは俺なんだから。」
「いやでもプロなんすよね?じゃあ無料ってわけには・・・、」
「・・・・・・・。」
「どうしたんすか?すごい切ない顔してますけど。」
「お金なんて貰えないよ。俺にはそんな資格ないんだ。」
あんなすごい演奏をしたのになんでそんなことを言うんだろう?
それともプロの世界ってのはこんなにすごい人でも食っていけないもんなのか?
「君は何かに一生懸命になったことってある?」
いきなりそんなことを聞かれて、「いや、ないっす」と即答した。
間髪入れずだったので男は笑った。
「そっか。なんかそこまでスパっと言い切れるってすごいね。あ、もちろん馬鹿にしてるわけじゃないよ。清々しいなっていうか。」
「だって努力とは無縁の人生っすから。まあでもちょっとくらいならあるかも。」
「そうなんだ。スポーツとか芸術とか?」
「去年からダイエットを始めたんです。」
甥っ子に負けたことや、それが悔しくてダイエットを始めたら良い身体になったこと。
欝も改善したし仕事も見つかったし彼女も出来た。
ハジメを抱き上げて「ほら、犬も飼ったんすよ」と見せびらかした。
「俺って今までこんなに頑張ったことなんてなかったんすよ。だから継続は力なりっていうか、努力ってしてみるもんだなあって。」
「そりゃすごいね。報われる努力って最高でしょ?」
「ほんとマジでそう思います。だからまだまだ続けようかなって。」
「うん、良いことがある努力なら続けた方がいい。俺はそうはならなかったから。」
男はトランペットを掲げて、「コイツのせいで人生を棒に振ったよ」と言った。
「え?でもプロになったんすよね?なら報われてるじゃないっすか。」
「最初だけはね。高校の時からずっと頑張ってきてプロになって、初めて仕事をもらった時は最高に嬉しかった。
緊張もしたし、ステージ上で足も震えてた。でも終わった後はほんと最高だったな。しかもまた次の仕事が舞い込んでさ。
だからもっと努力したし、仕事も精一杯こなした。けっこう有名なミュージシャンのバックバンドに呼ばれたこともあるんだよ。」
そう言って男が口にしたのは誰でも知ってるような一流ミュージシャンだった。
「マジっすか!俺その人のライヴ行ったことありますよ。たしか四年前だったかな。大阪でやってたやつ。」
「ほんとに?じゃあ多分俺もいたよ。後ろでトランペットを吹いてた。」
「・・・・・・・。」
「どうしたの?」
「感動してるっす・・・。マジですげえなって。後でサインいいすか?」
「俺のでよかったら。」
男はまた笑う。だけど「でもこれで最後」とトランペットを仕舞った。
「あの・・・なんで辞めるんすか?もしかして仕事があんまり来なくなったとか?」
「まあそれもある。浮き沈みの激しい世界だから。でも食える程度には声が掛かるから金銭的な問題じゃないんだ。」
「じゃあなんでっすか?あんな上手なのに辞めるなんて、よっぽどの理由っすよね?」
けっこう突っ込んだ質問をしてしまった。俺は思ったことを口走ってしまう癖がある。
しまった!と後悔しても吐き出した言葉は飲み込めない。
だけど男は怒ることもなく答えてくれた。
「得るモノより失ったモノの方が多いから、これ以上続ける気がなくなった。」
めっちゃ気になる。その失ったモノとやらが。でもさすがにこれ以上踏み込んだら失礼だ。
適当に相槌を打って、分かった風な雰囲気だけ出しといた。
でも男は自分から失ったモノとやらについて話し出した。
「もう君に会うことは無いだろうし、旅の恥は掻き捨てってことで聞いてくれる?」と前置きしてから。
俺は神妙な表情を作って頷く。まあ内心はゴシップ記事を読むような安っぽい好奇心だけど。
でも話を聞き終えた時には切ない気持ちになっていた。
そして最後にもう一曲だけ演奏してくれた。
これは聴いたことがある。
悲しいけど惚れ惚れするようなメロディ。
ほんとはピアノの曲だけど、爽快なトランペットの音だと明るさと悲しさが混ざり合って、なんだかチグハグな感じがしてかえって切なくなる。
聴き終えた俺は拍手を送った。
ハジメも尻尾を振っている。
ショパンの「別れの曲」だった。
*
ハジメは海に大満足だった。
それに素晴らしいトランペットも聴けたし俺も満足だ。
帰り道の車の中で、あの爽快な音を思い出す。そしてトランペットのあの人のことも。
一つのことを一生懸命頑張って、それをずっと続けていれば必ず成果が出る。
目標まで到達するか、夢が叶うところまで行けるかどうかは分からないけど、何もしなかった時よりかは確実に変化が起きる。
俺の場合だとダイエットをしたおかげで色んな変化が起きた。それも良い変化がたくさん。
でもそうじゃない人もいる。
一つのことを追求して、ずっとそればっかり続けてきて、やっと手には入った夢だったのに、他の大事なモノを失ってしまった人がいる。
・・・・トランペットの人は、トランペットでプロになって、その道で飯を食うって夢を叶えた。
だけどその代わり色んなモノを犠牲にしてきた。
まずこの道で生きていくって言ったら親に猛反対された。
すごく厳しい家で、両親は医者っていうエリートだ。
だからなんのために良い大学まで行かせてやったんだって怒られた。
そもそも音楽の世界で食っていけるわけないんだから目を覚ませって。
父親には殴られ、母親には落胆された。
それでも自分の夢を選んだ。結局親には勘当されてしまった。
だけど新しい出会いもあった。恋人が出来たんだ。
彼女は夢を応援してくれたんだけど、最終的には去ってしまった。
結婚を望んでいたのに、いつまでもトランペット一本の男に愛想を尽かしてしまった。
これ以上支えられないといってフラれた。
でもまだ仲間がいた。一緒に頑張る音楽仲間が。
だけど一人、また一人と辞めていって、残った仲間は一人だけ。その人はもはや相棒みたいな感じだった。
でもある仕事が原因で喧嘩別れしてしまった。
この仕事をこなせば一人前と認められるようなすごい仕事の候補に二人が挙がった。
相棒はこの仕事だけは譲ってくれと頼んだ。
お前は俺より才能があるし、業界の人からも注目されてる。
でも俺はこの仕事を逃したら次はない。
だから頼むって土下座までしたんだけど、それを断った。
その事とこの事は関係ないからって。
結局相棒は候補から外され、あの人に決まった。
おかげで一人前として認められて、仕事も増えていった。
でもそのせいで相棒との仲にヒビが入った。
お前は薄情な奴だと罵られて、だんだん仲が悪くなっていった。
しばらく相棒と会わない日々が続いた。
でもってある日突然昔の音楽仲間から、アイツ行方不明になったぞと教えられた。
しかもその数ヵ月後、麻薬か何かで捕まったと噂を聞いた。
調べてみたら本当だった。
家族も恋人も仲間も失って、それでも負けじと頑張り続けてきた。
けど気づいた時にはもう周りに誰もいなくて、いつだって孤独な状態になっていた。
そして・・・限界になった。
いつまた大事な人を失うんだろうって考えると、恋人も友達も作れなくなってしまって、仕事場でも浮いていたらしい。
アイツは腕はあるけど無愛想な奴だって噂が流れて、もっともっと孤立していった。
声が掛かって仕事をこなして、終わればすぐに帰る。
寂しいけど俺にはトランペットがあるからと、なんとか自分を励ましていた。
でもそのうち演奏するのが苦痛になっていった。
何を吹いても、どこで吹いても、誰と演奏してもちっとも楽しくなくなったと言っていた。
楽しいから、好きだから、幸せを感じるから始めたし、だからこそ続けてきた。
だけどもうそういった前向きな感情は消えてしまって、だんだんと音楽から離れたいと思うようになっていったそうだ。
ある時、リハーサルで演奏していたら、急に吐き気を感じたらしい。
その日は一時的なものだったんだけど、日に日に吐き気は強くなっていった。
でも仕事に穴を空けるわけにはいかないから、薬で抑えたり、トイレに閉じこもって気分を落ち着かせたり、不調を誤魔化しトランペットを吹いた。
家族も恋人も仲間もいない一人ぼっちのままで。
でもずっとそんな無理は続かなかった。
ある日のこと、トランペットの手入れをしようと手に取った時、ものすごい嫌悪感が走って、振り払うように落としてしまったそうだ。
そして気づいた。
今の俺はトランペットを吹きたくないんだって。
このまま無理してたら心底嫌いになってしまって、でもそれだとなんの為に色んな犠牲を払ってここまで頑張ってきたのか分からなくなる。
俺はまだトランペットが好きなのか?まだ夢を続ける自信があるのか?
それを確かめるためにあの海へ来ていたのだ。
水平線の見える展望台で、自分のためだけに吹くトランペットはとても気持ちよかったそうだ。
そこへ俺がやって来たせいで、また吐き気を催してしまった。
人が見てるってことは、ステージで演奏してるのと変わらないから。
だからすぐに帰ろうと思ったらしいけど、俺の『やめちゃうんすか?』って言葉に固まってしまった。
俺としては『演奏をやめるのか?』って聞いたつもりなんだけど、あの人にとっては『トランペットをやめるのか?』に聞こえてしまったらしい。
初めて会った人にそんなこと言われるわけないのに、そう言われたんじゃないかって思い込むくらい追い詰められていたんだ。
でも今日ここへ来たのはまだトランペットが好きかどうか確かめるためだった。
だから演奏を続けることにした。
たった一人のお客さんの前で。
そして素晴らしい演奏を披露した。
あれは最高だった。あの人自身もここ最近で一番の演奏だって言っていた。
そしてこう思った。なんだ、俺はまだまだいけるじゃないかって。
でも演奏を終えた後、俺がお金を払おうとした瞬間に、また嫌な気持ちが戻ってきた。
お金を受け取るってことは、仕事として演奏したってことになる。
どうしてもそれが受け付けなかった。心が鎖で縛られたみたいに嫌な気分になったらしい。
そして自覚してしまった。俺はもうプロではやっていけないんだって。
趣味なら続けられるかもしれないけど、趣味で満足するならそもそもプロになっていない。
色んなものを犠牲にしながら、たった一つの夢を追い続けてきた。
継続は力なり。あの人の夢は叶った。叶ったけど幸せにはなれなかった。
だから今日ここで辞めることにしたのだ。
最後に「別れの曲」を吹いたのは、ずっと続けてきた大事な夢との決別だった。
・・・・なんだか切ない。
俺は生まれて初めての努力と、生まれて初めての継続で幸せになりつつあるのに、あの人はそうじゃなかった。
もちろん俺とは全然レベルが違う努力と継続だけど、だからこそ切ない気分になる。
頑張って頑張って、たどり着いた先があんな終わり方なんて。
あの人との別れ際、俺は尋ねた。
『いつかまたやるんすよね?』
あの人は首を振った。
『辛くなるからもうやらない。』
そう言って『コイツを持ってたらまた辛くなる。ここで会ったのも何かの縁だし、もらってやってくれないか』と渡された。
俺は断った。だって吹けないんだから。
でも吹けないなら飾っておけばいいと言われた。
ほんとにいらないなら売ってもいいしって。
じゃあ自分で売ればいいのにと思ったけど、きっとそれも辛いんだろう。
だってずっと大事な相棒だったのに、それを自分でお金に換えにいくなんて。
俺は断りきれずに受け取ってしまった。
『今日ここへ来てよかった。』
あの人は悲しいような、スッキリしたような顔で去っていった。
てなわけでトランペットは車の助手席にある。
黒い革のケースに収まって。
ハジメは物珍しそうにジャレていたけど、飽きてしまったのかチョコンと前足をケースに乗せて俺を見ている。
その目は何かを訴えかけるようで、「もしかして吹いてほしいのか?」と尋ねた。
ハジメは尻尾を振る。あの人の演奏は子犬までファンにしてしまったのかもしれない。
「分かったよ。練習して吹けるようになる。」
そうは言ったものの「ただ・・・」と付け加えた。
「あの人みたいに吹けるようになるのはどれだけ時間が掛かるんだろう。きっとすぐには無理だから気長に待っててくれよ。」
納得したのか、ハジメはケースに顎を乗せてうたた寝を始める。
次の休日、俺は努力のテーマを変えることにした。
ダイエットはいったんお休み。
ハジメと一緒に海へ来てトランペットを吹いてみる。
でも俺は素人だ。聴くに堪えないひどいもんだった。
ハジメはワン!と怒る。
「まあ焦るなって。俺はゆっくり上達していくんだから。そのうち絶対ちゃんと吹けるようになってみせるから。」
このトランペットを受け取ったのなら、あの人と同じになってはいけない。
ゆっくりでもいいから、周りを大事にしつつ努力を続けていくのだ。
海に向かって思いっきり吹いてみる。
下手くそな音が冬の海に響く。
風はないけど緩い波の音。
遠くを行く船の音。
どこかで鳥が鳴く声。
ハジメがまた吠える。
耳にはあの人の素晴らしい音色だけが残っていた。
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