勇気のボタン 二人の道 最終話

  • 2014.02.08 Saturday
  • 18:30
季節は真夏。暦は八月。灼熱の太陽がジリジリと大地を焼いていく。
「暑い・・・。こんな中を二時間も歩きまわってると死んじまう・・・。」
頭に巻いた白いタオルは汗を吸い込んで重くなり、Tシャツは夕立にでもあったかのようにビショビショに濡れている。
俺は動物たちと神社の境内に腰を下ろし、自販機で買ったお茶をがぶ飲みしていた。
「なかなか見つからないわねえ。めぼしい場所はほとんど捜したのに・・・。」
モンブランが疲れた息を吐く。
「しゃあねえよ。なんたって相手はモグラなんだから。
いくら捜しまわったところで、地面に潜ってたら分かりゃしないって。」
カモンがマサカリの頭の上で首を振る。
「ねえ悠一。どうしてこんな頼みを引き受けちゃったの?
モグラの仇討なんて、どう考えても首を突っ込むのは馬鹿らしいのに。」
マリナが長い尻尾を動かして尋ねてくる。
「仕方ねえのさ。こいつは馬鹿でお人好しだから、モグラの頼みすら断れねえんだ。
ほんっとに、キャン玉のちっちぇえ男だぜ。」
マサカリが肉に顔をめり込ませながら、苛立たしそうに愚痴る。
「俺もう飽きたぞ。ミミズを突きに行っていいか?」
チュウベエが馬鹿丸出しの顔で翼を振る。
俺は言い返すのもめんどくさくて、ひたすらお茶を飲んでいた。
ふん!俺だって後悔してるよ。なんでモグラの仇討なんか引き受けたのか・・・。
十日目前に近所の路地を歩いていると、畑のあぜ道から一匹のモグラが顔を覗かせていた。
こんな昼間にモグラが出て来るなんて珍しいと思い、おもわず話しかけたのが運の尽きだった。
「頼むよあんた!俺の兄貴の仇を討ってくれ!」
何のことか分からずに話を聞くと、どうやらそのモグラの兄貴分が、別のモグラに生き埋めにされたという。
地中で生活するモグラが生き埋めとはこりゃまた・・・・。
そんなもん、川で溺れる魚みたいなもんじゃないか。
しかしそのモグラは言い張った。
「俺の兄貴は、半座ェ門にやられたんだ。でも俺の力じゃ無理だから、あんたが仇を討ってくれ!」
まったくもって意味不明であるが、なぜか俺はこの話を引き受けることになってしまった。
そのモグラは松吉というのだが、まあとにかく人の話を聞かない奴だった。
このままほうっておけば、自分が仇を討つ!と言うので、なんとか宥めているうちにこんな頼みを任されてしまった。
そして半座ェ門とやらが行きそうな場所を教えてもらい、十日もかけて捜索しているのだ。
「ほんとに断ればよかったなあ・・・俺も飽きてきたし、このままバックレようかな・・・。」
飲み干したお茶をゴミ箱に投げ入れ、境内にゴロリと寝転がる。
すると一匹の猫が近付いてきて、俺の頭をペシペシと叩いた。
「だらしないですよ、悠一さん。」
「おお!ジャスミンじゃないか。」
俺は身体を起こし、キジトラの猫を抱きかかえた。
まだ大人というには小さく、子猫というには大きな身体をしているその猫は、ゴロゴロと喉を鳴らして笑った。
「悠一さん、ちょっと疲れてますね。なんだかげっそりしてますよ?」
「まあこう暑いと食欲もで出なくなるよ。お前の方は元気そうだな。」
「ええ、そりゃあもう。毛穴からはち切れるくらい元気ですよ。」
そう言ってさらにゴロゴロと喉を鳴らす。
この猫の名はジャスミン。
今年の初夏に、藤井から任されたあの子猫だ。
あの日、あんなに感動的な別れをしたあと、俺は切ない余韻に浸っていた。
その余韻は次の日まで続き、感傷的な気分になって窓から外を眺めていた。
すると突然家のチャイムが鳴り、藤井がバツの悪そうな顔で立っていた。
「ごめん・・・この子を渡すのを忘れてた・・・。」
相変わらずドジなやつだと笑ったが、よく考えればそのことに気づかない俺もドジだった。
藤井は子猫と幾つかの猫缶を渡し、はにかんだ笑顔で「それじゃ。」と手を振って去っていった。
あの日から八日間、俺はジャスミンの母猫を捜しまわった。
たった一人での同盟の活動。なかなか大変だったが、なんとかジャスミンの母猫を見つけることが出来たのだ。
喜ぶジャスミン、感動する俺とマサカリ達。
だがジャスミンの母猫は冷たかった。
「悪いけど、あんたを育てる余裕はない。ごめんね・・・・。」
母猫は、ジャスミンの他に二匹の子供を抱えていた。
みんなガリガリに痩せていて、生きていくのに精いっぱいという感じだった。
昔に公園の機関車の下にいた猫の親子のことを思い出し、なんだか切ない気持になった。
ジャスミンの母猫に会いたいという気持ちは正しいし、母猫の現実的な意見も正しい。
こういう時は、動物の頼みを引き受けた人間が責任をもって解決しなかればならない。
俺はジャスミンを説得し、家で飼うことに決めた。
母猫は申し訳なさそうにしていたが、彼女が謝る必要など何もない。
人情や愛情だけで、野良の世界は生きていけないのだから。
軽い財布の中身をはたいて母猫に餌を渡し、俺はそのまま帰って来た。
ジャスミンは母を恋しがって泣いていたが、世の中にはどうすることも出来ないことだってあるんだ・・・。
家に帰ったジャスミンは、しばらくずっと泣いたままだった。
しかしすぐに他の動物たちと打ち解け、仲良くなっていった。
ジャスミンという名前も、モンブランが付けたものだった。
ジャスミンはその名を大いに気に入り、我が家にもずいぶん馴染んでくれたが、ここで問題が起きる。
・・・我が家の財政がやばいのだ・・・・。
たかが猫一匹増えただけと侮るなかれ。
動物を飼うということは、餌代やトイレの砂代だけではなく、それなりの病院代がかかるのだ。
残念ながら今の俺には、人に自慢出来るような収入は無く、自分の生活を切り詰めることで動物を養っている状態だ。
そこへ子猫が一匹増えたとなると、俺は毎日を煮干しと沢庵だけで過ごすハメになり、おそらくそんな生活は続かない・・・。
どうしようかとジャスミンを抱きながら散歩に出かけると、今いる神社に辿り着いた。
ここは猫神神社。昔にセンリという偉い猫の神様がいたらしくて、その神様を祭っている神社だ。
何気なしに境内へ入って腰を下ろしていると、ふいに後ろから誰かに話しかけられた。
「あらあら、誰かと思えばあの時の・・・・。」
聞き覚えのある声に振り返ってみると、そこには真っ白な毛並みをした綺麗な猫が座っていた。
「・・・たまき?お前はたまきじゃないか!」
そう、かつて俺に道を開くきっかけを与えてくれた猫が、すぐ目の前にいたのだ。
「久しぶりね。あの時よりずいぶん成長したみたいだけど、顔がげっそりよ。
ちゃんとご飯は食べてる?」
俺は驚きと嬉しさのあまり泣きそうになり、ジャスミンを抱きしめながら答えた。
「ええっと・・・あんまり良い食生活は出来てないな。
家にいっぱい動物がいて、とにかく金が掛かるもんでさ。」
泣くのもカッコ悪いので、グッと涙を堪えていた。
するとたまきは俺の心を見透かしたように、「一人で辛くない?」と首を傾げて尋ねた。
「あんたの周りには動物はたくさんいるみたいだけど、心を許せる人間はほとんどいないんじゃない?」
「ああ・・・そうだよ・・・。藤井っていう彼女がいたんだけど、ちょっと事情があって今は離れてるんだ。」
「なるほど・・・。あのね悠一、一人で意地を張るのと、一人で強く生きていくのは違うんだから無理しちゃダメよ。
あんたは意地を張るところがあるから、もっと素直に人に対しても心を開かないと。
そうしないと、今の生活だってもっと苦しくなって、動物も養えなくなるかもしれないわよ?」
「・・・・・・・・・・。」
その時、やっぱりこいつはたまきだと思った。
この鋭い発言や、相手を包み込むような柔らかい口調。
俺はとうとう我慢が出来なくなって、一筋だけ涙をこぼした。
そして胸に抱えている心配事をポツリポツリと語り始めたんだ。
「実は・・・今すごく困ってることがあるんだ。
この子猫を引き取ったのはいいんだけど、養えなくて困ってる。
でも捨てるわけにもいかないし、かといってすぐに収入のある仕事に就けるわけでもないし・・・。
もう・・・どうしたらいいのか・・・・。」
堪えていた涙がまた流れ落ち、思わず顔を逸らした。
以前なら、こういう時に心の支えになってくれたのは藤井だった。
あいつは自分なんか役に立たないと言っていたが、それは違う。
あいつが傍にいたから、俺は何だって頑張ることが出来たんだ。
どんな悩みでも、正面から真剣に受け止めてくれたから・・・・。
あの日、カッコをつけて藤井を送り出したくせに、今度は俺の方が参ってる。
なんて情けなくて頼りないんだか・・・・・。
自分を責める心が溢れだし、もはや涙を止めることが出来なかった。
涙と鼻水を垂らしながら俯いていると、たまきは静かな声で「悠一、顔を上げなさい」と言った。
「その子猫を私に預けなさい。」
「たまき・・・。」
「あんたは何でも一人で抱え込みすぎなのよ。どうせその子猫は、あんたの彼女から預けられたものなんでしょ?」
どうして分かる?と尋ねようとしたが、たまきにそんな質問はナンセンスだった。
こいつは何でも見抜いてしまうのだから。
「そこまで生活が苦しいなら、その彼女に言って子猫を飼うお金くらい振り込んでもらえばいいものを、まったくあんたは意地っ張りなんだから。」
「で、でも・・・・それはちょっとカッコ悪いかなって・・・・。」
「あんたは体裁を気にしてご飯が食べられるほど偉くないでしょ?
自分一人のことでもいっぱいいっぱいくのクセに。
いいからその子は私に預けなさい。」
まるで母親のように厳しく言われ、俺は躊躇いながら頷いて子猫を預けた。
「名前は?」
「ああ・・・ジャスミンっていうんだ。」
「そう。ならジャスミン、これからは私があんたの母親代わりになってあげるわ。
大人になるまでは、私と一緒にここで暮らしましょう、いいわね?」
「・・・・・・・・・・。」
ジャスミンはたまきに怯え、俺の方に目を向けて来る。
「・・・ごめんなジャスミン。今の俺じゃ、お前まで手が回らないんだ。
偉そうなことを言って引き取ったクセに・・・ほんとに申し訳ない。」
目を瞑り、深く頭を下げた。
するとジャスミンは、俺の気持ちを理解してくれたようにコクリと頷いた。
「分かった・・・。でも、たまには会いに来てくれるよね?」
「ああ、もちろんだ。ここは家からそんなに遠くないし、いつでも会いに来るよ。
だから・・・我慢してくれるか?」
俺は真っすぐにジャスミンを見つめる。
透き通った大きな子猫の目は、じっと俺の心を覗いているようだった。
「じゃあ約束ね、きっと会いに来てくれるって。
それなら・・・私はここで暮らすよ。」
そう言って小さな尻尾を持ち上げ、「指きりしよ」と微笑んだ。
俺は小指を絡めて指きりをして、ジャスミンの頭を優しく撫でた。
「じゃあなジャスミン。またすぐに会いに来るから。」
「うん、待ってる。」
ジャスミンは喉を鳴らして俺を見上げ、バイバイと言って尻尾を振った。
「たまき、ジャスミンのことよろしく頼むな。それじゃ。」
そう言って神社を後にしようとした時、「待ちなさい」と呼び止められた。
「どうした?」
足を止めて振り返ると、たまきは境内の下に入り、何かを咥えて出て来た。
「これ持って行きなさい。大した額じゃないけど。」
彼女の口には白い封筒が咥えられていて、俺の足元にポトリと落とした。
まさかとは思いつつ中を覗いてみると、やはりお金が入っていた。
それも諭吉さんが五枚も・・・・・・。
「お、お前・・・・とうとう犯罪に手を染めて・・・・、」
するとバシっと足を叩かれて「馬鹿!」と怒られた。
「それは私が稼いだお金よ。まあ猫にそんなもの必要ないんだけど、報酬だっていうから受け取っただけ。
あんたにあげるわ。」
「ほ、報酬って・・・・いったい猫がどうやって金を稼ぐんだよ?」
「世の中にはね、あんたみたいな若僧が知らないことはたくさんあるのよ。
知らなくてもいいことだってたくさんあるわ。
だから細かいことは気にせず、それでちょっとはマトモな物を食べなさい。」
「・・・・・いいのか?ほんとにもらっても?」
「私には必要ないからね。持って行きなさい。」
正直ありがたかった。もうほんとに、俺の家の財政は破綻寸前だったから・・・。
「悪いな、ありがたく使わせてもらうよ。」
拝むように白い封筒を掲げ、ポケットにねじ込んだ。
「いい、悠一。あんたはとにかく意地を張るところがあるから、それは直すこと。
そうしないと、今の苦しい生活は何も変わらないわよ。
いつまでも遠くにいる彼女に気を遣ってると、自分の人生が息詰まるだけよ。
もっと素直に、前向きに生きなさい。」
たまきはそれだけ言い残し、ジャスミンの首を咥えて地面に下りる。
そして神社の裏の方へサッと走って行った。
「お、おい・・・たまき!」
後を追いかけたが、たまきとジャスミンは忽然と姿を消していた。
神社の周りをグルリと捜してみても、もう見つけることは出来なかった。
「あいつ・・・・やっぱり不思議な猫だな。まさか猫又とかだったりして・・・・。
いや、そんなことあるわけないか。いくらなんでも妖怪ってのはさすがに・・・・な。」
自分で言って自分で馬鹿らしくなり、少しだけ笑ってしまう。
俺は神社に向かって頭を下げ、心の中でたまきに礼を言ってその場を後にしたのだった。
あれから二カ月近くが経ち、俺はその間にもチョコチョコとここへ来ていた。
ジャスミンにはよく会うものの、たまきにはまったく会えない。
一度だけジャスミンにたまきのことを尋ねたが、「秘密」と笑って教えてもらえなかった。
まあいいさ。たまきが何者であれ、俺はあいつのおかげでまた救われたんだ。
いくら感謝してもし切れないから、いつかは恩返しがしたいと思っている。
もし俺が今より成長したら、たまきはきっと姿を見せてくれる。そんな気がするから・・・。
「ねえ悠一。もうそろそろ行きましょうよ。あんまり休んでるとほんとにバックレたくなるわよ。」
「そうだな。それじゃそろそろ行くか。」
俺は腰を上げ、ジャスミンの喉を撫でてから境内に下ろした。
「それじゃまた会いに来るから。たまきによろしくな。」
「うん、暑いから熱中症にならないように気をつけてね。」
俺は笑いながら頷き、動物たちも「じゃあなジャスミン」と声を掛ける。
木陰に覆われた神社の階段を下りながら後ろを振り返ると、もうジャスミンの姿は消えていた。
「あいつも不思議な感じがする猫だよな。まあ、たまきと一緒にいればそうなるか。」
俺は小さく「またな」と呟き、動物たちと並んで神社を後にした。

            *

神社の佇む山が、夏の日差しに照らされている。
猫神神社をあとにした俺は、川を挟んだ土手の広場から、じっとその景色を眺めていた。
「どうしたの?そんなに遠くを睨んでさ。」
モンブランが不思議そうに尋ねてくる。
「いや・・・あの神社って、これから何度もお世話になりそうな気がしてさ。
まあただの勘だけど。」
そう言うと、マサカリとカモンが吹き出した。
「だはははは!お前に勘なんてあるのかよ?」
「もしあったとしても、ケータイの電波一本分以下だろ?
まだコックリさんの方が信用出来そうだぜ。」
「うるさいな。俺にだって勘ぐらいあるよ。」
すると今度はチュウベエが尋ねてきた。
「そりゃ面白い。ぜひお前の勘ってやつをみせてくれ。
今から十秒後に、いったい何が起こると思う?」
そう言って頭の上で翼を広げながら馬鹿にしたようにからかう。
「いいだろう、今から十秒後の未来を当ててやる。
う〜ん・・・・、多分、翔子さんが俺の後ろから肩を叩いてくる。」
「ブブ〜!正解は頭の上にウンコを落とされるでした。」
チュウベエは嬉しそうに笑って、プリっと糞を落としていく。
「おいコラ!何するんだお前は!」
捕まえようとすると、慌てて飛び上がって逃げられてしまった。
「だはははは!チュウベエのやりそうなことだ。
悠一もそれくらい予想しろってんだ。」
マサカリは肉厚の顔を揺らして大笑いするが、頭に何かが落ちてきて首を傾げた。
「ん?なんだこれは?」
「俺のウンコ。お前も俺の行動が読めてない。」
チュウベエはケタケタ笑い、マサカリは牙を剥き出して唸る。
「てめえ・・・今日こそは焼き鳥にしてやる!」
「誰がイノブタ犬に捕まるか。ぺっぺ。」
「うわ、汚いわねえ・・・。唾を飛ばさないでよ!」
「まあしょせん鳥類だから、一ミリくらいしか脳みそがつまってないんだよ。
そのてんハムスターの俺は・・・・ん?頭に何かが・・・・。」
「カモンも俺の行動が読めてない。全員ウンコまみれ。」
「てめえ!焼き鳥にしてやる!」
「だから唾が飛んでるんだって!この馬鹿オスども!」
うるさいほど喚きながら、動物たちは暑さもにも負けずに暴れ回る。
マサカリの背中に乗ったマリナが、陽射しに目をうっとりさせて呟いた。
「はあ・・・夏は血が温まるわ。最高。」
俺はその光景を眺めながら、ホッとした思いでいた。
藤井が去ってから明るさを失っていたけど、今は元気なマサカリ達に戻っている。
そうだよ・・・これが俺の家族なんだ。
うるさいくらいに明るくて、いつでも退屈しないほどトラブルを起こす。
これこそが俺の生活だったんだ。
藤井と同盟を組む前からずっと、こんな感じで過ごしていたんだ。
そう思うと、ふと不思議な気持ちになった。
「俺って・・・昔と比べてほんとうに変わったのかな?
藤井といる時は変化する自分を自覚していたけど、今は・・・よく分からないな。
でもまあ、これも人生の変化ってやつなのかもな。」
意味もなく感傷的になって動物たちを見つめていると、誰かにポンと肩を叩かれた。
「有川さん。」
お、この声は・・・・・。
俺は後ろを振り返って、肩を叩いた女性に笑いかけた。
「こんにちわ、翔子さん。」
「今日はみんなでお散歩ですか?ずいぶん賑やかだけど。」
「ええ、チュウベエが糞を撒き散らしてみんな怒ってるんです。ほら、俺も。」
そう言って頭を見せると、翔子さんは可笑しそうに笑っていた。
「いいですね、私もインコに糞を落とされてみたい。」
「そ、そうですか・・・・あんまりオススメしないですけど・・・。」
やっぱり変わったところがある人だ・・・・。
そう思いながら苦笑いをしていると、「冗談ですよ」と笑い返された。
「おうおう悠一!何を鼻の下を伸ばしてやがんでえ!
ほんっとにお前は美人に弱えなあ。」
マサカリがヨダレをまき散らしながら文句を飛ばす。
「お前こそ餌をもらう気満々じゃないか。汚いヨダレを垂らしてからに。」
「あははは!いいよ、ちゃんと持って来てるからあげる。」
「すいません・・・毎回毎回・・・・。」
俺は恐縮して頭を下げ、マサカリは遠慮もなしに翔子さんの手から餌をもらっている。
「あ〜あ・・・またうちのご主人の手をべちゃべちゃにして。
だからあんたは汚いのよ。顔も中身も、そして前世も。」
「なッ・・・ぜ、前世も汚い・・・・だと・・・。」
コロンの痛烈な毒に固まるマサカリ。しかし餌だけはしっかり食べていた。
いつかカモンとコロンで毒舌を対決をやらせてみたいものだ。
「はい、もうないよ。お終い。」
「あ〜あ、これっぽっちかよ・・・。もっとくれよ。」
「もらえるだけでもありがたいと思え。どこまで図々しいんだよお前は。」
マサカリの頬の肉をブヨブヨと引っ張り、リードを引いて翔子さんから引き離した。
「いいなあ、こういう生活ってすごく楽しそう。」
「いやあ、けっこう大変ですよ。
どいつもこいつも個性的すぎて、ほんとに手に負えない時があるから。」
するとモンブランがサッと駆け寄って来て、「私はお淑やかでしょ?」と流し目をよこしてくる。
「どこがだよ、お淑やかのおの字もないっての。」
モンブランの頭をワシャワシャと撫でまわし、ゆっくりと立ちあがって夏の陽射しに目を細めた。
今年は本当に暑い。出来ればこのまま家に帰りたいが、そういうわけにもいかないだろう。
このままほうっておけば、松吉は半座ェ門に仇討をしに行ってしまうかもしれないのだから。
「それじゃお前ら、モグラを捜しに行くぞ。」
「ああ、そういえば忘れてた。」
「ていうかもういいんじゃないか?ほうっとこうぜ。」
カモンとチュウベエはめんどうくさそうに言う。
「俺だって辞めたいよ。でも引き受けた以上は仕方ないだろ?」
「じゃあさ、もしモグラを見つけたら仇討するの?」
モンブランが尻尾を揺らして尋ねて来る。しかも妙に目をキラキラさせて・・・。
う〜ん、危険だ。こいつは多分モグラを食う気でいるのだろう。
「まさか、そんなことはしないよ。ただ向こうのモグラにも話を聞くだけだ。
松吉は人の話を聞かない奴だから、きっと何かの誤解をしているんだと思う。
だから半座ェ門にあって、詳しい話を聞かないとな。」
流れる汗を拭きながら言うと、翔子さんが興味津津の目を向けてきた。
「なんだか面白い話をしてますね。モグラを探すんですか?」
「ええ、ちょっとやっかい事を頼まれまして。」
「じゃあ私も混ぜて下さい!こう見えても土掘りは得意なんですよ!」
そう言って力強く拳を握る。
この人・・・やっぱり変わってるところがあるよなあ。
でも人手は多い方が助けるというもの。俺はその好意を受け取ることにした。
「じゃあお願い出来ますか?」
「ええ、、もちろん!コロンも一緒に手伝いますから!」
勝手に参加を決められ、コロンはえらい迷惑そうな顔で「私は嫌だわ・・・」と呟いていた。
俺は今では、翔子さんの目の前でも堂々と動物たちと喋るようにしている。
はっきりと動物と話せると言ったことはないが、もう完全にバレバレだろう。
しかし人のいい翔子さんは一切にそのことにツッコミを入れず、当たり前のように振舞ってくれている。
それはとてもありがたいし、お互いに余計な気を遣わずにすむというものだ。
「あ、でも今日は仕事は大丈夫なんですか?」
そう尋ねると、翔子さんは「ええ、今日は日曜日ですから。」と笑った。
「そうか、そうだったな。なんだか最近曜日の感覚が無くて困ってるんですよ・・・ははは。」
「そうなんですか?でも今はお仕事をされているんですよね?」
「ええっとですね・・・一週間ほど前にクビになりました。
動物のことで色々と時間を使っていたら、遅刻やら無断欠勤やらで・・・。
また次の仕事を捜さないといけなくて。」
「それは大変ですね・・・・。」
そう、大変なのだ。このままでは一家全員飢え死にしてしまう。
それなのに、俺は呑気にモグラなど捜しているわけだ。
まったく・・・・どうしてこうも俺は動物に振り回されるのか。
しかしいくら嫌だと思っていても、困っている動物がいたらほうっておけないのが性分なのだ。
頭を掻きながら苦笑いをみせていると、翔子さんは窺うような目で俺の顔を覗き込んだ。
「あのですね・・・・もしよかったらなんですけど・・・・。」
いつもの翔子さんらしくない不安そうな声で尋ねられ、俺は思わず身構えてしまう。
「な、なんでしょうか・・・・?」
「今はお仕事はされていないんですよね?」
「はい・・・プータローですが・・・。」
「でも早く次の仕事を見つけたいと・・・?」
「そうしないと生きていけないですからね・・・・。」
「じゃあ・・・私の所で働きませんか?」
「へ?翔子さんの?」
アホみたいな間抜け面で聞き返すと、翔子さんは真剣な顔で頷いた。
「この近くにうちの会社の販売所があるんですけど、一人辞めちゃったんですよ。
だからもしよかったら、そこで働いてみませんか?」
これは・・・思いもよらない天の恵みでは・・・。
「でもいいんですか?そんなに簡単に決めちゃって。
俺なんか、動物のことで遅刻やら何やらでクビになる男なのに・・・。」
「う〜ん・・・まあいきなり正社員は難しいかもしれないですけど、アルバイトなら問題ないと思いますよ。
それにうちの会社は、ちゃんと真面目に働く人なら正社員に登用することもよくありますから。
だからもし有川さんさえよければ・・・・・。」
もちろん俺に断る理由などない。理由などないのだが・・・・・。
しかし素直には頷けない。
それは藤井のことがあるからだった。
この話を聞いたら、あいつはどう思うだろう?
多分・・・いや、きっと良い顔はしないだろう。
言葉には出さないが、あいつは翔子さんのことはあまり好きではなさそうだったし。
でも働かないと食っていけないわけで・・・・、う〜ん・・・困った。
「やっぱり・・・・ダメですか?」
翔子さんは遠慮がちに俺の顔色を窺う。
「あ、あの・・・・一つ聞いてもいいですか?」
「はい、なんでしょう?」
「その・・・どうしてそんなに俺に気を遣ってくれるんですか?」
「・・・どういうことですか?」
「以前にコロンを助けた時、翔子さんはお礼をしてくれましたよね?
家に呼んでくれて、お父さんにも会わせてくれて。
しかも豪華な夕食まで御馳走してくれたし。
おまけに文房具や靴もたくさんもらって、なんだか逆に悪い気がしちゃったんです。」
「何言ってるんですか。コロンの命の恩人なんだから、それくらい当然ですよ。」
「で、でも!今だって俺に仕事を紹介してくれたし・・・・。
ただの犬の散歩友達なのに、どうしてそこまでしてくれるのかなって・・・・。」
はっきり言って、翔子さんは優しい。
いや、はっきり言わなくても優しいのだが、それでもどうしてここまで俺に優しくしてくれるのか?
別に深い意味なんてないのかもしれないし、まさかに俺に惹かれているなんてことはもっとないだろう。
困った顔で考え込んでいると、翔子さんは笑いながら俺の背中を叩いた。
「有川さん。」
「は、はい・・・。」
「私たちは、ただの犬の散歩友達じゃないですよ。
今は立派な普通の友達じゃないですか。」
「ふ、普通の・・・友達?」
「はい!まあ普通って変な言い方だけど、でも犬の散歩友達ってなんだか限定的じゃないですか。
そうじゃなくて、私たちは犬のことが関係なくても友達って意味です。
それに・・・有川さんは私の憧れの人でもありますから。」
「あ、憧れ・・・・ですか?」
「だって有川さんは動物と・・・・・、ね?」
「あ・・・ああ!そういう意味ですか!ああ、ええ・・・なるほどねえ・・・ははは。」
ああ、少し焦った・・・。憧れだなんて言うもんだから、妙なことを想像してしまった。
「私はね、ほんとうに友達だと思える人は大切にしているんです。
心を許せる友達って、ある意味じゃ恋人よりもっと大切な存在ですよ。
ちょっと恥ずかしい言い方をすると、人生の宝っていえるくらい大切なものだと思ってるんです。
だから・・・友達が困っていたら放っておけないでしょ?」
翔子さんは少しだけ首を傾げ、屈託のない笑みを向ける。
俺はドスン!と心を打ち抜かれたように、しばらく言葉が出てこなかった。
友達・・・・心を許せる友達か・・・・・。
そういえば、今までにそんな相手と出会ったことはなかったな。
藤井は大切な存在だけど、あいつは恋人であって、友達とはまた異なるんだろうな。
その時、俺はようやく気づいた。
どうして翔子さんと会うのが楽しみだったのか?どうして翔子さんと一緒にいると心が落ち着くのか?
それは友達だったからだ。
そこでふと、この前たまきに言われたことを思い出した。
『意地を張るクセを直すこと、そして素直に前向きに生きること』
そうか・・・そうだよな・・・。
いくら藤井が恋人だからって、あんまりあいつに気を遣ってると、人生が息詰まるだけって言われたもんな。
そうだよ、あいつだって自分を鍛える為に、前の彼氏の所で働いてるんだ。
そしてそれを後押ししたのは俺なんだ。
自分の道を拓くには、まず自分のことを考えなきゃいけないんだ・・・・。
「翔子さん。」
俺は足を止めて翔子さんの方を向き、小さく頭を下げた。
「その・・・お願い出来ますか?仕事のお話を・・・。」
「もちろんですよ!ていうか頭なんて下げなくていいですから。
困った時は持ちつ持たれつ、それが友達でしょ?」
翔子さん・・・あなたはなんて良い人なんだ・・・。
これ以上何かを言われたら、ちょっと泣きそうですよ。
俺は顔を上げて頭を掻き、照れと嬉しさを誤魔化した。
「じゃ、じゃあお願いします。仕事の件・・・。」
「はい!細かいことは近いにうちに連絡しますね。
それじゃあ・・・モグラを探しに行きましょうか?」
「そうですね。でもどっかで飲み物を買ってから行きましょう。
こう暑いと干上がっちゃいますから。」
俺たちは土手の向こうにあるディスカウントショップへ向かう。
マサカリが俺にも何か買ってくれと騒ぎ出し、コロンに痛烈な毒を吐かれて黙っていた。
モンブランは暑さにも負けずに俺達の前を歩き、カモンはマサカリの頭の上でウィンクを飛ばしている。
チュウベエは翔子さんの肩にとまってピーチクさえずり、マリナはマサカリの背中で陽射しにウットリしている。
翔子さんは楽しそうに喋りながら動物たちを見つめているし、コロンはめんどくさそうに明後日の方を向いている。
誰もかれもが個性的で、やっぱり今年の夏も退屈しない。
もうすぐ八月も終わってしまうけど、暑さはまだまだ残るだろう。
藤井・・・お前は頑張ってるか?
俺は俺で楽しくやってるぞ。
お前と離れてから二カ月近く経つけど、ほとんどメールがないのは忙しいせいかな?
まあ・・・きっと今は自分のことが優先なんだろう。
それでいい、そうじゃないと、俺達が離れた意味がない。
俺だって、また新しく自分の人生を歩き始めたんだから。
ずっと二人でいられると思っていた時間は幻で、それは悪いことじゃないのかもしれない。
俺と藤井は出会って、そしてお互いが変わり始めたんだ。
俺はあいつからたくさんのものをもらって、もしかしたらあいつだって俺からもらってたのかもしれない。
だから変わり始めたんだ。
今はそれぞれの道を歩く時なんだ。
こうやって離れることで、大事なものが見えることだってあるんだから。
そして・・・いつかお前と再会した時、俺は心の中にしまってある言葉を伝えるよ。
『お前が好きだ。だから、ずっとそばにいてほしい。一生、俺のそばにいてほしい』
この想いを受け取ってくれるかどうかは分からないけど、でも必ず伝えるよ。
今日、家に帰ったら手紙でも書こうかな。
仕事が決まりそうだってことや、マサカリ達が相変わらず暴れ回ってることを。
だったらディスカウントショップに行ったら、手紙用の封筒も買わないとな。
土手に上ると、蒸し暑い風が吹き抜けた。
それは夏の終わりを告げる、切ない風のようにも思えた。
暑さは残っても、八月が終わればもう夏じゃない。
楽しさと切なさが混ざり合う不思議な季節は、もう終わりに近づいている。
ここからまた秋が来て、冬が来て・・・・・。
次の夏が来るまでに、俺自身はどんなふうに変わっているんだろう?
この夏が過ぎれば、また来年も夏が来る。その時、今よりも成長出来ているようにしっかり歩かないと。
俺は一人じゃない。動物たちもいるし、翔子さんもいる。
そして・・・遠く離れていても、強い絆で結ばれた藤井がいる。
土手に立ち止まって夏の終わりの景色を見ていると、マサカリにグンとリードを引っ張られた。
「なにボーっとしてんだよ。みんな行っちまうぜ。」
「ああ、早く飲み物を買いに行こう。ついでにお前のおやつもな。」
マサカリは喜んでリードを引っ張って行く。
俺は一瞬だけ土手の向こうを振り返り、青々と茂る草と、昂ぶる空を見つめた。
「藤井。またいつか、絶対に二人でこの場所を歩こうな。」
マサカリに引っ張られながら土手を駆け降り、木の根っこにつまづいて転んでしまった。
遠くで待つ翔子さんと動物たちが笑い、俺は苦笑いしながら立ち上がる。
そして去りゆく夏に背中を向けながら、みんなの元へ走って行った。


                                 完

勇気のボタン 二人の道 第九話

  • 2014.02.08 Saturday
  • 18:28
藤井から別れを告げられて半年。
何度も謝りの電話やメールを送ったが、返事は一切なかった。
まあ当然だろう。俺は言ってはいけないことを言ったのだから。
俺とあいつは一緒だ。
だから・・・あいつの気持ちは分かっていたのに・・・。
なのに、それを踏みにじるようなことを言ってしまった。
こんな・・・こんな動物と話せる以外取り得のない男と一緒にいてくれたのに。
だからこの半年間は、なるべく藤井のことを考えないようにしていた。
思い出すと辛くなるし、自分が情けなくなってくるし。
本当に誰かを好きになるっていうことは、その分苦しむことなのかもしれない。
そして、その人のことがどんなに愛しくても、永遠に関係が続くわけじゃないのかもしれない。
これからもっともっと時間が経って、「そういえばあんな恋愛もあったなあ」なんて言う日が来るのかもしれない。
でも・・・どんな言葉を並べたところで、それは結局自分を慰める言い訳なのだ。
偶然立ち寄ったコンビニで藤井と再会し、俺の心は痛いほど疼き出した。
忘れたと思っていたのに、藤井を見た瞬間に身体が熱くなった。
俺は・・・まだあいつのことが好きなんだ・・・・・。
そうさ、本当のことを言うと、この半年の間に藤井のことを考えなかった日は一度もない。
あいつのことを思い出すたびに、それを忘れようと必死に誤魔化していただけだ。
・・・・まだ・・・終わってないのかもしれない・・・・。
あんな場所で偶然に再会して、しかも藤井の方から話しかけてきた。
いや、話しかけるというより、何かを頼もうとしていた。
それもかなり切羽詰まった顔で・・・。
別れた男に、あそこまで必死な顔で頼むことってなんだろう?
また動物に関することかな?
それとも、もう一度同盟を組もうとか?
恋愛関係は無理だけど、動物のことに関してだけは仲良くしようとか?
・・・・分からない。全てはただの想像でしかない。
動物たちは、俺に気を遣ってか一度も藤井のことを話題に出したことはない。
まだ藤井と付き合う前、一度だけあいつと大ゲンカをしたことがあった。
あの時も、こいつらは気を遣って藤井の名前を口にしなかったっけ。
でも・・・本当は言いたいだろうな。
藤井のことや、あいつと過ごした思い出のことを。
・・・悪いなお前ら、毎回毎回気を遣わせてしまって。
飼い主なのに、余計な心配や気づかいをさせてしまって。
・・・・季節は初夏。
ちょうど二年前のこの時期に、藤井と再会したんだ。
あの夜の公園で、モンブランを捜しに行った時にバッタリと。
いや、バッタリじゃないな。あいつは俺に会いに来るつもりだったんだから。
藤井のことを考えて苦しいと思うのは、また同じ季節がやって来たからかな?
夏を運んでくるこの匂いが、妙に俺の心を掻き立てる・・・。
開けた窓の外にはトンボが飛んでいるけど、俺の心は沈んだままだ。
ずっとずっと前にやめたタバコにも手を出してるし、これじゃ成長する前の俺に逆戻りじゃないか。
淡い夏の匂いを感じながら、タバコの煙がふわっと宙に消えていくのを眺めていた。

            *

藤井と会った日の夜、マサカリの散歩から帰って動物たちに餌をやっていた。
いつもならもっと騒ぐのに、この半年間はずっと大人しい。
最初は戸惑ったけど、今は慣れてしまった。
あれだけ賑やかだった俺の家は、いまやシンと静まり返っている。
マサカリとモンブランの喧嘩も減ったし、カモンの毒舌もキレがなくなっている。
チュウベエはさらに間が抜けて馬鹿になっているし、マリナはさらに大人しくなってしまった。
きっと・・・こいつらの心の中にあることは、俺と同じなんだ。
『藤井に戻って来てほしい』
でも余計なことをベラベラ喋れば、思わず藤井の名を口にしてしまうことを恐れているんだろう。
まったく・・・俺は飼い主として失格だな。
コンビニで藤井と会った時の熱はまだ抜けず、夕食を食べる気にもなれなくて出かけることにした。
玄関にいって靴を履いていると、マサカリがトタトタと歩いてきた。
「どっか行くのか?」
「ああ、ちょっと散歩にな。お前も来るか?」
「いや、さっき行ったばかりだからいいや。飯食って腹も重いし。」
「そうか。一時間ほどで帰ってくると思うから、留守番を頼むぞ。」
マサカリは返事をする代わりに尻尾を振り、部屋に戻ってクッションに寝そべっていた。
俺はゆっくりとドアを開けて外に出て、少しばかり温い空気を吸い込んだ。
「まだちょっとだけ陽が残ってるな。」
地平線には薄っすらと紺色の光が残っていて、街に濃いシルエットを作り出している。
俺はパタンとドアを閉め、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。
階段を下りてアパートの敷地から出て、もう一度初夏の空気を吸い込んだ。
「夏ってのは・・・・どうしてこう切なくなるんだろうな。
ワクワクもするけど、それ以上に切ない気持になってくるよな。」
楽しいことの裏側には、それと同じくらいの悲しさがある。
花見の季節に、そしてクリスマスに、それを楽しむ人間の裏で、寂しさに涙を流す人間もいる。
俺も、ずっと昔はその裏側の人間だった。
生来人と喋るのが得意ではなくて、ほとんど友達は出来なかった。
初めての彼女だって、二十歳を超えてから出来たのだ。
「動物が・・・・動物だけが・・・俺を支えてくれたな。」
大人になるまでの間、俺が心を開いているのは動物に対してだけだった。
この力のせいで同級生からはいじめられるし、親には頭を疑われて病院へ連れて行かれたこともあった。
周りにいる人間は、誰一人として俺を理解してくれなかった。
「あの時は辛かったな・・・誰も味方がいなくて・・・・。」
そう、あの時は誰一人として味方はいなかった。
人間には・・・・・・。
でも、動物は違った。
あれは小学生の時、ドルという野良犬と仲良くなったことがある。
白い毛をした雑種の老犬で、優しい顔をしたメスだった。
ドルは元々は飼い犬だったのだが、家族が引っ越しをする時に捨てられたのだった。
そしてドルの家には俺と同じくらいの男の子がいて、その子とはずいぶん仲が良かったと言っていた。
きっとドルは、俺に対してその男の子のことを重ねて見ていたのだろう。
夏休みに入っても、俺はずっとドルと遊んでいた。
友達のいない俺の為に、日が暮れるまで毎日一緒に遊んでくれた。
しかしある日、突然ドルは姿を見せなくなった。
俺はしばらくドルを捜し回った。夏休みの全てを使って、ドルの行きそうな場所を何度も捜したのだ。
しかしいくら捜しても見つけることが出来ず、きっと嫌われてしまったのだと落ち込んだんだ。
でも・・・夏休みが明けて学校が始まった時、同級生が会話しているのを聞いて真実を知った。
『あのウロウロしてた白い犬、保健所に連れて行かれたらしいよ。
チーちゃんのお母さんが電話したんだって。』
・・・・・ショックだった。
俺の・・・俺の一番の友達だったのに・・・・。
あんなに優しくて、あんなにずっと一緒に遊んでくれたのに・・・。
一度人に捨てられて、それでも生きていこうと決めていたのに・・・・。
なんでそんな酷いことをするんだ?何で俺から友達を奪うんだ?
子供だった俺はますます心を閉ざし、、ほとんど誰とも喋ることはなくなった。
そう・・・俺は・・・あの時から人間を嫌いになっていったんだ。
俺をいじめる同級生、俺を病院に連れていく両親、そして・・・ドルを保健所へ送った大人達・・・。
人間とは何て嫌な生き物なんだ!でも・・・俺も人間じゃないか。
子供だった俺は、何ともいえない矛盾に嫌気がさし、動物と喋ることさえ避けるようになっていた。
でも・・・ある一匹の猫と出会って変わった。
その猫はたまきという名前で、ドルと同じような真っ白な綺麗な猫だった。
確かたまきと会ったのは二十歳くらいの時だったと思うが、それでもたまきの方が何倍も貫禄があった。
人生の酸いも甘いも知り尽くしたようなメス猫で、なぜか人間の社会のことにも通じていた。
そういう意味ではとても変わった猫だったが、俺は彼女に救われたのだ。
『あんたの持つその力は、なんにも恥ずかしいものじゃない。
胸を張って堂々としていればいいの』
その言葉のおかげで、どれほど俺が救われたことか・・・。
人間嫌いは相変わらずだったが、動物に対しては心を開くようになっていた。
多少は明るくなった俺は、お礼を言う為にたまきが住みついている神社に行ったのだが、彼女はいなかった。
その後も何日か通ったが、やはり会うことは出来なかった。
今思えばとても不思議な猫だったが、たまきのおかげで俺は立ち直れたんだ。
そしてそれから年月が経ち、マサカリ達と出会った。
みんな個性的で、一緒にいると退屈しない連中だった。
それからまた月日が経ち、俺は夜の公園で藤井と再会した。
その出会いこそが、本当の意味で俺を変えてくれたのだ。
藤井と過ごす時間や、同盟の活動の中で知り合う人間や動物のおかげで、俺は変わったんだ。
自分に自信が持てるようになったし、こんな俺にも勇気があることを知った。
だから・・・ずっと藤井と一緒にいたいと思ったんだ。
藤井がいて、動物たちがいて、他にはなんにもいらない。
それこそが俺の人生のすべて。そう思えるくらい、大切なものだったのに・・・。
「ほんとに馬鹿だよなあ・・・俺は・・・・・。」
夜の街灯を見上げ、寄って来る羽虫を払いながら呟く。
季節が変わったおかげで夜でも寒くはないが、俺の心はずいぶんと冷え切ったままだ。
何も考えずに、そして何も感じずに歩いていると、いつの間にかあの公園に来ていた。
「なんだよ・・・無意識のうちにここへ来ちゃったのか・・・・。
どんだけ未練がましいんだか俺は・・・・。」
バカバカしくなって小さく笑い、公園の中に入って遊具を見渡した。
「ここだよなあ・・・ここでモンブランの名前を呼んでたら、林の奥から藤井が出てきたんだ。」
あの時はビックリしたが、今同じことが起きたらどうだろう?
俺はやっぱりビックリするのかな?
「・・・ははは、何考えてんだか俺は・・・。
呼んでも藤井が出て来るわけないんじゃんか。」
分かっている。そんなことは分かっているのに・・・なぜか気持ちが抑えられない。
今すぐにでも林の奥に向かって、藤井の名前を叫びたい。
そうすれば・・・・きっと藤井は・・・・・。
気がつけば口元に手を当てていた。
そして大きく息を吸い込み、林の中に向かって叫んだ。
「藤井いいいいいいい!」
俺の声が暗い林の中に吸い込まれていく。
・・・・何も返ってこない。ただ生温い風が吹いてくるだけだ。
もう一度息を吸い込み、藤井の名前を叫ぶ。
「藤井いいいいいいいいいい!」
今度はさっきより大きめに叫んだが、やはり林の中からは何も返ってこない。
耳を澄ましていると、かすかに葉っぱが揺れる音が聞こえた。
しかしそれは風に揺れているだけであって、俺の声に返事をしているわけではない。
「・・・あるわけないか、藤井の声が返ってくるなんて・・・。
最初から分かってたけど、でも・・・・寂しいな。」
しばらく真っ暗な林の中を見つめ、自分を納得させるように頷いた。
「終わりさ・・・もう。終わりなんだ・・・。」
小さな呟きは温い風と共に消えていく。
俺はポケットに手を突っ込み、思い出の場所に背を向けて振り返った。
そして・・・・・・我が目を疑った。
俺の目の前に、じっとこちらを見つめる藤井が立っていた。
「藤井・・・・・。」
思わず声が漏れてしまい、しかしその後は何も言葉が出て来なかった。
鼓動はバクバクと激しく唸り、瞬きさえ忘れてその顔に見入っていた。
「・・・・・久しぶり。」
少しだけ伸びた髪を揺らし、藤井は語りかけるように笑った。
しかしすぐに笑顔は消え、また静寂が戻ってくる。
温い風が頬を撫でていき、俺の鼓動はさらに速くなっていく。
そして無意識に足が動いて、藤井の前に歩み寄っていた。
「藤井・・・いつからいたんだ・・・?」
じっと顔を見つめると、藤井は少しだけ目を逸らした。
「有川君が来る前から・・・ずっと・・・。」
有川君か・・・・。そうだよな、もう今は付き合ってるわけじゃないんだもんな。
小さな寂しさは、一瞬にして大きな悲しみに変わり、痛いほど胸を締め付けた。
藤井は目を逸らしたまま公園の横にある蒸気機関車を見つめ、懐かしそうに笑った。
「むかし・・・ここに野良猫の親子がいたよね。
お腹を空かした子供を抱えて、お母さんの方はガリガリに痩せてさ。」
俺も蒸気機関車を見つめ、「ああ、覚えてるよ」と答えた。
「あの時は大ゲンカをしたんだ。
子猫をどうするかで、お前と母猫は意地を張り合ってたもんなあ。
俺がそれに対して余計なツッコミを入れたもんだから、お前を怒らしちゃったんだ。」
「ふふ・・・あの時は本当に大変だったね。
なんとか一匹だけ里親が見つかったけど、他の子猫は母猫と一緒にどこかへ消えちゃったから。
みんな元気でいてくれるといいけど・・・・。」
藤井は目を細め、あの時の猫達を思い浮かべているようだった。
「そのあと有川君に電話して、仲直りしたんだよね。
あの電話をかける時・・・すっごく緊張したんだよ。」
そう言って藤井は俺の方を見つめ、ニコリと笑ってみせた。
その笑顔は、俺がよく知っている藤井の顔だった。
いつでもこの笑顔が傍にあったんだ・・・。
俺も動物たちも、この笑顔のおかげで明るくなっていたんだ。
「あの時はちゃんと仲直り出来たけど・・・・今度はそうはならなかった。
ずっと考えてたんだけど・・・やっぱり私は・・・・。」
藤井は言いづらそうに口を噤み、悲しそうな瞳で公園を見つめた。
そうさ、俺が馬鹿なせいで喧嘩をして、俺が馬鹿なせいで別れたんだ。
全ての理由は俺にあるんだから、俺が動かなきゃ始まらないんだ。
だから・・・・ちゃんと謝らないと・・・・。
「藤井。」
俺は低い声で呼びかけ、藤井に近寄った。
「・・・・・・・・・・。」
藤井は何も言わずにこちらを見上げ、俺の言葉を待っている。
大丈夫だ・・・ちゃんと素直な気持ちを言えばいいだけなんだから・・・。
考えることなんてないんだ。心の中から出て来る言葉をそのまま・・・。
「お、俺さ・・・・この半年間、ずっとお前のことを・・・・・、」
意を決してそう言いかけた時、俺の言葉を遮るように藤井が口を開いた。
「ねえ、一つだけお願いがあるんだ。」
「お、お願い・・・・?」
突然言葉を遮られたせいで、俺は拍子抜けして素っ頓狂な声を出した。
藤井は鞄の中を漁り、一枚の写真を取りだした。
そしてわずかに躊躇いながら、それを俺の方に差し出した。
「なんだこの写真は?」
「うん・・・ちょっとね・・・。とりあえず見てみて。」
なんだか意味ありげな言い方だな。
受け取るのが怖い気もするが、断るわけにもいかない。
ゆくっりと手を伸ばして写真を受け取り、じっと見つめた。
「これは・・・子猫?」
街灯が照らす写真の中には、小さな子猫が写っていた。
場所はどこかの草原だろうか?
青々とした草が茂り、晴れた空が眩しく広がっている。
子猫はカメラに目を向けて手を伸ばしていて、濃いキジトラ模様が印象的だった。
「可愛い子猫だな。それで、この猫がどうかしたのか?」
「うん・・・実は・・・・・。」
藤井は言いにくそうにもじもじと指を動かしている。
「なんだよ、何か特別な事情でもある子猫なのか?」
「・・・特別かと言われると、特別かもしれないけど・・・・。
でも事情があるのは私の方なの・・・。」
「お前に?何の事情があるんだ?」
こいつがもじもじとするのは珍しいことではないが、今日は少しばかり様子が違っていた。
まるで自分を責めるような感じで唇を噛み、肩を竦めて俺の顔をチラチラと窺っている。
「あのね・・・その子の母猫を捜してあげてほしいんだ。」
「この子猫の母猫を?ということは、こいつは野良猫ってことか?」
「うん。二週間前に、私のマンションの近くで拾ったんだ。
雨に濡れて可哀想だったから、家に入れて乾かしてあげたのね。
そうしたら急に泣きだしたの。お母さんに会いたいって。」
「まあこれだけ小さい猫だったら母親が恋しいだろうな。」
「そうなの。ずっとお母さんのことを呼んでいて、すごく寂しがってる。
だから・・・私が必ずあなたのお母さんを見つけてあげるって約束したんだけど、全然うまくいかなくて・・・。
でも諦めるわけにはいかないから、地道に捜し回っていたのね。
張り紙や聞き込みもしたけど、それでも上手くいかなくて困ってたら・・・。」
そこでまた言い淀み、今度は完全に俯いて黙ってしまった。
なんだよ、そんなに言いにくい事情があるのか?
俺は緊張しながら藤井の言葉を待った。
「・・・その・・・実家に帰らなきゃいけなくなって・・・・。」
「実家に?」
「うん・・・・・。」
「なんか暗い声だな?どうかしたのか?」
「・・・・・・・・・・・。」
俺は思った。これはまったく藤井らしくないと。
こいつが動物のことをほったらかして、他の事を優先するなど考えられない。
「その・・・実家に帰るってのは、一時的に帰るんじゃなくて、向こうに住むってことなのか?」
「・・・多分ね。もうここにいる理由もないし、それに・・・大事な用があるから。」
「大事な用?この子猫をほったらかしてまでやる用事か?」
「私はその子のことを優先したい。でも・・・今回ばっかりはそうもいかないから。」
「なんだよ、さっきからもったいぶった言い方してさ。俺には言いにくいことなのか?」
そう尋ねると、藤井は小さく首を振った。
鞄を握りしめ、ゴクリと喉が鳴るのが聞こえた。
「言いにくいっていうか・・・今だから言えるっていうか・・・・。」
「今だから言えるって・・・・・どういうことだよ?
まさか俺達が別れたことに関係してるのか?」
「・・・・・・うん。」
一気に不安が押し寄せてきた。
別れたから言えることなんて・・・だいたい理由が限られているんじゃないか?
「もしかして・・・他の恋人が出来たからとか?」
心臓が口から飛び出しそうなほど緊張して尋ねると、藤井は険しい顔で横を向いた。
「あのね・・・悠ちゃんと別れたあと、久しぶりに実家へ帰ったんだ。
自分から別れようって言ったくせに、すごく落ち込んじゃって・・・。
なんだかこの街にいられなくなって・・・お正月の連休があったから、しばらく戻ろうと思って。
そしたら・・・向こうで昔に付き合ってた人に会って・・・それで・・・・。」
「・・・・ヨリを・・・戻したのか?」
ああ・・・目の前が暗くなっていく。
もしここで「うん」と言われたら、俺は地獄へ真っ逆さまじゃないか。
こんな展開はぜんぜん予想していなかったな・・・。
そんな俺の心を見透かしてか、藤井は少しだけ笑った。
「違うよ。今はまだ・・・そんな関係にはなってないから。」
「あ・・・ああ!そ、そうか・・・・よかった・・・。」
急に安堵が押し寄せ、口の中が渇いて舌を動かした。
「でもね、この先はどうなるか分からない。」
「・・・・え?そ、それは・・・どういう意味で・・・?」
「その人はね、今でも私のことが好きだって言ってくれたの。
そして、もしよかったら・・・自分の仕事を手伝ってくれないかって。」
「ほ、ほほう・・・そうなのか・・・へへえ・・・なるほど・・・・。
で、それはどんな仕事なんだい、ええ?」
なんだ、今の聞き方は?
俺の頭が明らかにおかしくなってるぞ。
どうやら予想もしない展開にバグを起こしているらしい。
藤井は可笑しそうに少しだけ笑い、話の先を続けた。
「その人が今やってる仕事っていうのが、ペット探偵なんだ。」
「ぺ・・・ペット探偵・・・?」
「その人ね、ちょっとだけ悠ちゃんと似てるところがあって、動物は好きなんだけど、人が苦手だったの。
だから三年前にサラリーマンを辞めて、二年くらい時間を掛けてしっかりと動物のことを勉強したんだって。
そして去年の夏頃に探偵業を始めて、今はそれなりに上手くやってるみたい。
でも人手が足りなくて困ってるって言ってた。
こういう仕事に憧れる人は多いけど、実際は地味で大変だし、忍耐も根気もものすごく必要だから、みんな続かないんだって。
本当に動物が好きで、本当に動物を愛している人じゃないと、すぐに辞めちゃうみたい。」
「へええ・・・・そういうもんなのか・・・。」
まあ何となく分かる気がする。
動物と話せる力を持っていても、動物に関するトラブルを解決するのは難しいのだ。
ならば普通の人がペットを捜そうとなると、もっともっと大変な仕事に違いない。
そしてその大変な事を脱サラしてまで始めるとは、よっぽど動物のことが好きなんだろう。
「なんかすごい仕事だな。暇がほしくて会社を辞めた俺とは大違いだ。
ぜんぜん似てないんじゃないか、その人?」
「・・・そう言われれば、似てるとも言えないかな。
何となく雰囲気が似てるところはあるけど、あの人はもっと計画的というか・・・。」
う〜ん・・・サラリと貶されているのか、これは?
しかし俺が無計画な人間であることは当たっているので、何も言い返せないが。
「その人・・・・沖田君っていうんだけど、沖田君はとにかく動物が好きなんだ。
それが縁で付き合い始めたようなものだったから。」
「そうか・・・じゃあお前は、沖田君とやらの所に戻るってことか?」
「そう・・・なるね。ずっと迷ってたけど、もうこの街にいる理由もないし、会社も辞めちゃったし。」
「お、お前も会社を辞めたのか?」
「そうしないと実家に帰れないでしょ?今月の中旬に退社して、すぐに向こうに戻るつもりだったんだ。
でも・・・その時にこの子を拾ったから・・・・。」
藤井は俺に渡した写真を見つめて言う。
その目は、子猫に対して申し訳なさそうに謝っているようだった。
「そっか・・・じゃあ俺に会いに来たのは、この子猫のことを任せる為だったんだな?」
「うん・・・。沖田君の仕事が忙しいから、すぐに手伝ってくれって言われて。
だから・・・本当に身勝手だって分かってるけど、その子のことをお願い出来ないかな?」
「・・・・それは・・・・。」
うん、別にいいよ!って簡単に引き受けられるわけないだろ。
こんな話を聞かされて、しかもこんな予想外の展開になって・・・・。
今さら俺の気持ちなんか言えないじゃんか!
困った顔で黙っている俺を見て、藤井は窺うような目で見つめてくる。
「やっぱり・・・無理かな?
子猫の母親捜しを出来る人なんて、有川君しか思いつかなくて・・・。」
そりゃまあ、母猫を見つけるなんてのは、動物と喋れる人間にしか無理だろう。
しかし俺は躊躇っていた。
この頼みを引き受けてしまえば、それは藤井との決別を意味するように思えたからだ。
「藤井、これを引き受ける前に、一つだけ聞きたいことがあるんだ。」
「何?」
藤井は不思議そうに首を傾げる。
俺は写真持った手を下げ、真っすぐに藤井を見つめながら尋ねた。
「お前は・・・沖田って奴のことが好きなのか?」
「・・・・・・・・・・・。」
沈黙か・・・。ということは、俺の質問は核心をついたってことの証拠だろう。
もし違うなら、すぐにそう言えばいいのだから。
藤井は少し迷うような表情をみせてから、小さく首を振った。
「今は・・・・違う。私はまだ・・・悠ちゃんのことが・・・。」
呼び方が付き合っていた頃に戻っているが、藤井はそのことには気づいていないようだった。
だったら、これは本心ということで間違いないってことだろう。
「でも、今は一緒にいられない。
だって、同盟の活動を始めて変わったのは、悠ちゃんだけじゃないから。」
「俺だけじゃない?それは・・・お前にも変化があったってことか?」
「うん。私は昔から動物のことが好きで、この力を活かして何かの役に立ちたかった。
そして、悠ちゃんと同盟を組むことで、その夢は叶った気がしたの。
でも活動を続ければ続けるほど、もっともっと動物の役に立ちたいと思うようになった。
おぼろげだった夢が形を持ったことで、自分の目標が見えたの。」
「それは・・・・どんな目標なんだ?」
「今よりもっと、自分を鍛えるってことかな。
たくさん同盟の活動をしてきたけど、上手く解決してハッピーエンドの方が少なかった気がする。
だからもっともっと力を入れて活動しなきゃって思ったんだけど、それも空回りするばかりで・・・。
その子猫の母親捜しだって、きっと悠ちゃんと一緒ならもう解決してるよ。」
藤井は自嘲気味に笑い、悔しそうな目で足元を見つめる。
「それは買いかぶりだよ。俺は大したことは出来ない。
いっつものらりくらりと行き当たりバッタリで、お前が言ったように計画性なんてないんだから。
ただなんとなく、自分の感覚を頼りに動いてるだけだよ。」
そう言うと、藤井は拳を握って詰め寄ってきた。
「それよ!その感覚っていうのが、私は鈍いの。
悠ちゃんより計画性はあると思うけど、いっつも肝心なところでドジするし・・・。
やる気も明後日の方向にいって空回りすることが多いし・・・。
今まで二人で活動してたけど、私が役に立ったことなんかほとんどない。
それどころか失敗ばかりして、悠ちゃんに助けてもらうていうのがいつものパターンだから。
もう・・・そういう自分が情けなくて嫌になったの。」
「だから、沖田の所へ行って自分を鍛えようっていうのか?」
「・・・うん。正直なところ、また失敗ばかりしそうで怖いけど、でもこれはチャンスだから。
プロの探偵の元で働けば、きっと今より鍛えられると思うし・・・。」
藤井の顔は真剣だった。
きっと、今の藤井の目には動物のことしか映っていないんだろう。
だったら・・・沖田がどうとか、俺との恋仲がどうとかは二の次なのかもしれない。
やっと見つけた自分の道。それは何ものにも代えられない。
その気持ちは。俺も少しだけ分かる気がするな・・・。
むかし、たまきという猫に言われた言葉。
『あんたの持つその力は、なんにも恥ずかしいものじゃない。
胸を張って堂々としていればいいの』
あの言葉のおかげで、俺は自分の道が開けた。
誰にも心を開かなかったのに、動物に対してだけは心を開くようになった。
そして・・・そのおかげで色々な出会いを経験して、人間にも心を開くようになったんだ。
だったら、今度は藤井の番なのかもしれない。
こいつには夢があって、それがしっかりと形に成ろうとしている。
なら色恋がどうとかで、それを邪魔するわけにはいかない。
これは藤井にとって、人生の分岐点になるはずだから。
「藤井、この子猫のことは任せろ。俺が必ず母猫を見つけてみせる。」
「悠ちゃん・・・いいの?」
「ああ、こんな役目は俺にしか無理だろう?
それに最近はマサカリ達も退屈してるから、みんな喜んで手を貸してくれるはずさ。」
「よかった・・・断られたらどうしようかと思ってた・・・。ありがとう。」
藤井は涙ぐんで俯き、小さく鼻をすする。
俺はその肩に手を置き、藤井の目を真っすぐに見つめた。
「きっと、今が藤井にとって大事な時なんだ。
だから・・・俺も今は自分の気持ちをしまっておくよ。」
「悠ちゃんの気持ち・・・?」
「実はな、コンビニでお前に再会した時、俺はすごく嬉しかったんだ。
何度も忘れようとしたけど、やっぱり無理だった。
だから・・・もう一度しっかり謝って、俺の気持ちを伝えるつもりだった。
さっき林に向かってお前の名前を叫んでたのもその為だよ。
あそこから出て来てくれたらいいなと思ってさ。」
そう言って小さく笑うと、藤井は驚いたように目を見開いていた。
「うそ・・・・。だってあんなにボロクソ言ってたくせに・・・・。」
「ええっと・・・それはごめん・・・。あれは言い訳のしようがないよな。
そればかりは、許してくれなんて言えないよ。
でもやっぱり、俺はお前のことが・・・・。」
そう言いかけて、グッと言葉を飲み込んだ。
ダメだ、ダメだ!これは今は言ってはいけない。
せっかく藤井が自分の道を歩もうとしているのに、それを邪魔するようなことは言ってはいけないんだ。
もう意地とか感情とかに負けていられない。そんなものはグイっと心の中に押し込んで、素直にものを言わないと。
「誰だって、自分が変わる瞬間ってあると思うんだ。
俺は昔、たまきっていう猫と出会ってから変わった。あれがきっかけだったんだ。
だったら藤井にだって、何かが変わるきっかけが訪れるかもしれない。
俺はそれを邪魔することは出来ないから、今は自分の気持ちはしまっておく。
そして・・・もしまた会うことがあったら、その時は伝えるよ。
俺の・・・お前に対する素直な気持ちを・・・。」
「悠ちゃん・・・。」
藤井の目がじわりと涙で濡れていく。
俺はその手を握り、小さく揺さぶって語りかけた。
「戦ってこいよ、藤井。
俺が一人ぼっちの殻から抜け出したように、お前だってきっと何かが変わる。
自分のやりたいことに真剣に向き合えば、きっと何かが変わるんだ。
その時まで・・・・俺は待ってるよ。マサカリ達と一緒に。」
そうさ、これこそが今の俺の素直な気持ちだ。
これ以外に、今の藤井にかけるべき言葉なんてないんだ。
藤井はボロボロと涙をこぼし、鼻水をすすってしゃっくりをあげる。
「う・・ううう・・・・なによ・・・今日の悠ちゃん・・・・。
別れてから・・・久しぶりに会ったのに・・・すごい偉そう・・・・。」
「え?ああ、いや・・・違うんだ!別にそんなつもりで言ったわけじゃなくて!
俺も同じような経験があるから、お前にも頑張ってほしいと思ってだな・・・その・・・。」
しまった、ちょっと熱くなりすぎたか。
今のはテレビドラマに出て来る鉄血教師みたいだったかな・・・。
しかし藤井はしゃっくりをしながら首をふり、「そうじゃない!」と叫んだ。
「嬉しいの・・・。きっと嫌われてると思ってたから、まさかそんなふうに言ってくれるなんて・・・。
ずっと一人で抱え込んでた自分が馬鹿みたい・・・・。ふうう・・・・。」
涙は滝のように溢れ、鼻水も子供のように垂れていく。
しゃっくりのし過ぎで顔は赤くなり、俺はなんだか可笑しくなって笑ってしまった。
「顔がビチョビチョだぞ。いい歳して子供みたいな泣き方するなよ。」
指で涙と鼻水を拭ってやると、藤井はギュッと抱きついてきた。
俺の背中に手を回し、痛いくらいに指を立てて抱きしめてくる。
「私・・・頑張ってくるから・・・。もっと動物の役に立てるように、頑張ってくるから・・・。
だから待っててね。いつか必ず、ちゃんと帰ってくるから・・・。」
「うん、待ってるよ。その時まで、ほんのちょっとのお別れだ。」
俺たちは強く抱きしめ会い、お互いの存在を確認しあった。
それはまるで、俺が勇気を振り絞って告白をした、あの夏の夜のようだった。
しばらく抱きしめ会ったあと、俺たちはじっとお互いを見つめた。
そしてほんの軽いキスを交わし、二人とも照れながら笑った。
生温い風が駆けていく中、手を繋いで駅まで歩いていく。
何も言わずに、ただ二人だけの時間を感じて・・・。
きっと藤井も、あの夜のことを思い出しているはずだろう。
時々見つめ合い、小さく笑って歩いていく。
街灯が照らす夜の道をすり抜け、駅に到着して藤井は切符を買う。
そして長い髪を揺らして、そっと俺の手を握ってきた。
「正直いうと、すごく不安なんだ。
でもそれを怖がってちゃダメなのよね。
私は自分の夢があるから、ここで逃げたらダメなんだよね?」
「ああ、お前ならきっと大丈夫だよ。
俺の人生で出会った中で、お前ほど動物に情熱を燃やすやつはいなかったからな。
きっと大丈夫さ。」
「ありがとう・・・。私、戦ってくるから。
もっと成長して帰って来るから、その時まで待っててね。」
「うん。あ!でも・・・あんまり遅いと、カモンとは会えなくなるかもしれないな。
ハムスターの寿命はそんなに長くないから、三年後とかだともういないかもしれないぞ?」
冗談っぽく言うと、「もう、やめてよ」とかなり真剣に怒られてしまった。
「冗談だよ。でもお前の家の猫はどうするんだ?実家に連れて行くのか?」
「もちろん。うちの家族はみんな動物好きだもの。
ただ、実家にいる猫と仲良く出来るかどうかが心配だけどね。
でも喧嘩したって私がいるから大丈夫。なんたって動物と話せるんだから。」
胸を張って笑い、握った手を小さく振る。
「・・・・・それじゃ、もう行くね。」
「うん・・・またな。」
俺達は、またあの夜の時のようにキスをした。
なんだかとても甘酸っぱい気持ちになり、照れ臭くて咳払いをして誤魔化してしまった。
藤井は微笑みながら手を離し、改札へ続く階段を上がっていく。
「悠ちゃん。ちょっとの間だけのお別れだけど・・・元気でね。」
「ああ、マサカリ達とワイワイやりながら待ってるよ。お前も元気でな。」
俺は手を振り、藤井も手を振り返して笑う。
そしてクルリと前を向き、コツコツと靴を鳴らして階段を上がっていった。
藤井の姿が遠ざかる。階段の向こうへ・・・・そしてこの街の向こうへ遠ざかろうとしている。
「藤井!」
俺は階段に駆け寄り、周りの目もはばからずに大声で叫んだ。
「俺達には、二人だけの絆がある!
他の誰にもない、二人だけの特別な絆があるんだ!
だから・・・・・どんなに離れていても繋がってるからな!」
振り向いた藤井は、また泣きそうな顔で涙ぐみ、大きく頷いて手を振った。
そして階段を駆けのぼり、改札へ向かう通路へ消えていった。
「行っちまった・・・・。まさかこんな展開になるなんてなあ。」
たまたま散歩に出かけた夜に、無意識にあの公園に辿り着いた。
そして林の中に向かって叫ぶと、本当に藤井が現れた。
緊張しながら俺の気持ちを伝えようとすると、話はあらぬ方向へ転がり始め、まったく予期しない展開になった。
「でも・・・これでいいんだよな。
藤井にとっては、今は自分のことが一番大事な時なんだ。
だから・・・いつか戻って来るまで待つだけさ。」
藤井が消えた階段を見つめ、しばらくそのまま立ち尽くす。
温い風は駅の中にも吹きつけ、俺の短い髪をさすっていく。
「・・・帰るか。」
多少未練がましく思いながら、踵を返して駅から出る。
一年前にはあった駅の近くのコンビニがなくなっていて、なんだか寂しく感じる。
「ちゃんと時間は流れてるんだよなあ。だったら、変わらないものなんてありゃしないか。」
藤井と手を繋いで土手を歩いた時、この時間は永遠のものだと思った。
しかし・・・それは幻だった。
永遠なんてどこにもなくて、あの幸せは俺と藤井が作り上げていたものだった。
だったら、それはいつか変化の時が訪れて当たり前だ。
いつか藤井が戻って来た時、あいつはどんなふうに変わってるんだろう?
今よりもっと大人びて、運動神経なんかもよくなったりしてて・・・。
「それはないか。大人びるのはともかく、あいつの運動神経の悪さは筋金入りだもんな。」
一人で呟いて小さく笑い、信号の手前で後ろを振り返った。
「藤井、頑張ってこいよ。お前が戻ってくるまで、俺も一人で同盟の活動を続けるからさ。」
再会がいつになるか分からないし、再会した時に二人がどういうふうに変わっているのかも分からない。
でも・・・胸にしまった藤井への想いだけは、失くすわけにはいかない。
あいつが帰ってきた時、こいつを伝えないといけないのだから・・・。
信号を渡り、暗い夜道に抱かれながら歩いていく。
夏の夜ってのは、どうしてこうも人の心を高ぶらせるのか?
楽しくて、切なくて、でも心地良い・・・・。
初夏の匂いを堪能しながら歩いていると、ふとあいつらのことを思い出した。
「ああ、そういえば一時間ほどで帰るって言ったんだっけ・・・。
もうとっくに時間は過ぎてるから、あいつら心配してるかもな。」
俺は街灯の照らす夜道を走り出す。
もう藤井が消えた駅を振り向くことはせず、あいつらが待つアパートへ向かっていく。
そうさ、俺にだって自分の向かう道がある。
あいつらの待つアパート、そしてこれからの自分の人生。
とりあえずは・・・一人でも同盟の活動を続けていくだけさ。
今は何も見えなくても、真っすぐ進んでいけば必ず何かがあるはずだ。
少しずつ、地道に活動を続けていこう。
いつか藤井が戻ってきた時、また二人で始められるように。
夜の空気も、そして夜の星も、みんなが夏を迎える準備をしている。
これからだ。これからまた、暑くて長い夏が始めるんだ。
高鳴る鼓動と、淡い喜びを抱き、俺は自分が帰るべき場所へ駆けて行った。

勇気のボタン 二人の道 第八話

  • 2014.02.08 Saturday
  • 18:26
荒涼とした河原の向こうに、手つかずの原生林が残る山がそびえている。
昔から地元の人々に親しまれ、戦国時代には大名の城が建っていたそうだ。
俺はマサカリとモンブラン、そしてカモンを連れてその山に来ていた。
「昨日ここへ来てたんだ。この辺りの野生動物と話をする為にな。」
マサカリは山道の入り口を見つめ、フンフンと鼻を動かしている。
「この辺りの野生動物は、ほとんどがこの山に住んでるみたいなの。
だからフェレットとの仲裁の話をする為に来たんだけど・・・。」
モンブランも山道の入り口を見つめ、重々しい息を吐いた。
「昨日は思うような成果は上がらなかったわ。
みんなフェレットを敵だとみなして、こっちの話を聞こうともしなかった。
マサカリなんか鹿の角で突き飛ばされたんだから。」
モンブランはその時の光景を思い出すように目を細め、「ぷぷ!」と噴き出していた。
「おうおう!何がおかしいんでえ!」
マサカリが腹の肉をタルンタルン揺らして怒りを露わにする。
「だって・・・あの時すっごく可笑しかったから。
鹿の角がマサカリのお腹に刺さった時、ブヨン!っていって脂肪で跳ね返してさ。
鹿も『そ、そんな馬鹿な・・・』って驚いてたじゃない。
私達だけじゃなくて、イタチやタヌキも笑いを堪えてたわよ。」
モンブランはニヤニヤとしながらその時のことを想像し、また「ぶふ!」と吹き出す。
「てめえ・・・俺は危うく崖から落ちそうになったんだぞ!」
「そうそう!あれも可笑しかったわ。崖から落ちそうになった瞬間、木の間に挟まってさ。
あんたの脂肪がムニ!ってなってたわよね、ムニ!って。
・・・・・ぶふ!ダメだわ!笑いを堪えられない!あははははは!」
モンブランは漫画のように涙を流しながら爆笑する。
「お・・・おのれ・・・俺の災難を笑いやがって・・・。
お前も同じ目に遭わせてやる!」
マサカリは牙を剥き出して突進する。
しかしモンブランはあっさりとかわし、マサカリはそのまま石の柱に激突した。
「ぐふうッ!」
勝手に突っ込んで、勝手に自爆するマサカリ。
モンブランと喧嘩をする時は、だいたいこんな感じで決着する。
「元気出せよデブ犬。お前が面白いネタをばら撒く駄犬ってのは今に始まったことじゃないんだから。」
カモンが毒舌交じりの慰めを掛け、ニヒルな顔でウィンクを飛ばした。
「昨日もそうやってウィンクを飛ばしてたな。
最近流行ってるのか?」
俺がそう尋ねると、カモンは「テレビドラマさ」と答えた。
「最近くっそ下らねえ恋愛ドラマをやっててさ。
そこで主人公の男が決めゼリフの時にこうやってウィンクをするのさ。
でもだいたいそのせいでフラれるんだけどな。」
それは恋愛ドラマじゃなくてギャグドラマなんじゃ・・・。
「でも以外とモテるんだよその男が。
ほら、真剣にやってるのにギャグにしかならない奴っているだろ?
ああいうのって、笑いを取る気がないから逆に面白いんだよな。
場を和ませるには一番だぜ。」
そう言ってまたウィンクをするカモン。
まあ・・・笑えるというよりなんだか腹がたつけど・・・。
「さあさあ、冗談はこれくらいにして山に登ろうぜ。
じゃないといつまで経ってもフェレットと野生動物の争いは終わらないからよ。」
カモンは偉そうに言い、パチパチとウィンクを飛ばしてくる。
そして俺の胸ポケットに顔をツッコミ、丸っこいお尻を出してイビキを掻き出した。
「また寝たのかよ・・・。まあ起きてても役に立たないからいいけどさ。」
本当は昨日のスターティング・メンバーであるチュウベエを連れてくるはずだったのだが、今日は用事があるらしくて断られた。
その代わりに手を上げたのがカモンで、「きっと何かの役に立つから!」と何の役にも立たなさそうな言葉で胸ポケットによじ登ってきたのだ。
「ねえ悠一、早く行きましょ。ずっとこんなことやってると陽が暮れちゃうわよ。」
「そうだな。おいマサカリ、さっさと立てよ。山に登るぞ。」
「むうう・・・覚えてろよお前ら・・・。」
俺たちは気を引き締めて山道に入り、石で出来た階段を上りはじめた。
「昨日はフェレットと話し合ったあと、この山へ来たんだよな?」
俺が尋ねると、モンブランは「そうよ」と尻尾を振った。
「あれからフェレットと話し合ったんだけど、まったくラチがあかなくてね。
だから野生動物と話をする為にここへ来たってわけ。
しばらく悠一を待ってたんだけど、いつまで経っても来ないから置いて行ったのよ。」
「それで、その野生動物との話し合いはどんな具合だったんだ?
今までの話を聞いてる限りじゃ、上手くはいっていないみたいだけど。」
「そうねえ、フェレットよりは多少話は通じたわ。
でも気の荒い鹿がいて、何かにつけて怒ってくるのよ。
だからマサカリが襲われたわけなんだけど・・・。」
そう言ってまたマサカリの方を見つめ、「ぷぷ!」と吹き出す。
「ふん!あの鹿野郎・・・今度会ったらタダじゃおかねえからな。」
今度会ったらタダじゃおかねえ・・・今までに何度そのセリフを聞いたことか。
しかしタダじゃおかないことが実行されたことは一度もなく、だいたいは尻尾を下げてビビっている。
「あの鹿野郎は馬鹿丸出しだったけど、他のタヌキやイタチはそうでもなかったぜ。
意外とフェレットに同情的な奴もいてな、上手く話せばなんとかなるんじゃないかと思ったよ。」
「そうか・・・じゃあ今回の話し合いで納得してくれるといいけどなあ。」
淡い期待を抱きつつ、石造りの階段を上って行く。
山登りなんて久しぶりなもんだから、もう息が上がり始めてしまった。
それでもなんとか踏ん張って階段を上り終えると、今度はゴツゴツとした獣道が現れた。
「ここを上るのか・・・けっこうしんどいな。」
「でも距離は短いからすぐに山頂に着くわよ。
ただ横が崖になってるから、落ちないようにだけ気をつけてね。」
モンブランは俺達を先導するようにスタスタと歩いていく。
さすがは猫・・・身が軽いことで。
階段で堪えた足に鞭を打ち、険しい獣道を上っていく。
「はあ・・・はあ・・・さすがに堪えるよ・・・・。」
ぜえぜえと息があがり、プルプルと足が震えだす。
それでも何とか力を振り絞って上っていくと、意外に早く山頂の近くまで辿り着いた。
「ああ、もうすぐだな・・・。」
「だから言ったでしょ、距離は短いって。」
確かに大した時間をかけずに登ることが出来た。
でもよく考えみれば当たり前か。昔は山頂に城が建っていたんだから、上り下りに時間がかかるとまずいもんな。
葉を落とした木々の隙間から青い空が見え、もうすぐ山頂であることを知らせる。
そして岩のゴツゴツした細い道を通り抜けると、落ち葉で覆われた石畳が現れた。
「おお!これは昔の城跡だな。」
天守閣はないが、石畳や石の階段はまだ残っている。
永い時の重みに感心しながら見入っていると、マサカリにリードを引っ張られた。
「今は歴史に感心してる場合じゃないぜ。この上の山頂に動物たちが待ってるはずなんだからよ。」
「そうだったな。よし、じゃあ行くか!」
俺は気合を入れ、白い息を吐きながら山頂へ続く道を上った。
「おお!こりゃすごい・・・。」
かつて城が建っていた山頂は、僅かな石畳を残して平地になっていた。
そしてその場所に多くの動物たちが群れを成していて、一斉にこちらを振り向いた。
「あんたらは昨日の・・・・。」
立派な角を持つ鹿がツカツカとこちらに寄って来る。
「あれが昨日マサカリを突き飛ばした鹿よ。気をつけて。」
気をつけてって言われても、いったい何をどう気をつければいんだ?
鹿はこちらにお構いなしにどんどん近付いてくる。
するとグン!リードが引っ張られ、思わず転びそうになった。
「おいマサカリ!なんだよ急に。」
振り返って見てみると、マサカリは尻尾を垂れて怯えていた。
やっぱりただのヘタレじゃないか・・・・。
俺は鹿に向き直り、軽く手を上げて「こんにちわ」と挨拶をする。
しかし鹿は無言のままツカツカ歩いて来るので、少しだけ怖くなって後ずさった。
「そう怯えるな。何もしない。」
鹿は耳に響くダンディーな声で喋りかける。
そして俺の手前で足を止め、顎をしゃくって後ろを示した。
「あんたらの仲間が来てるぞ。フェレットと一緒にな。」
「俺達の・・・仲間・・・?」
もしやと思って動物の群れを覗き込むと、タヌキと話し込む藤井がいた。
その横には昨日のフェレット達がいて、何かを喚き立てている。
「藤井・・・やっぱり一人で来てたのか?」
昨日はメールで『フェレットの件は私一人でやる』と言っていたが、本当に一人で来るところが凄まじい。
もしかしたらまた危険な目に遭うかもしれないのに、やはり動物のことになると人が変わるようだ。
「おい悠一、どうすんだ?藤井はまだこっちに気づいてないけど。」
マサカリが尻尾を垂らしたまま尋ねてくる。
そしてモンブランも俺の足元で藤井を見つめながら言った。
「私はちゃんと謝った方がいいと思うわ。
こういうのは長引かせると良くないもの。今なら傷が浅くて済むわよ?」
マサカリとモンブランにせっつかれ、俺は躊躇いがちに横を向いた。
「確かに謝りたいけど・・・許してくれるかな?」
ボソリとそう呟くと、胸ポケットがゴソゴソ動いてカモンが顔を出した。
「話は聞かせてもらったぜ。」
「お前いつから起きてたんだよ?」
「ついさっきだ。それより俺もモンブランの意見に同感だな。
お前みたいな賞味期限の切れたスルメのような男を好きになってくれる女なんて、きっとこの先現れないぜ?
ジュラ紀から白亜紀へ移り変わるくらい時間が経っても、きっと現れないはずさ。」
そう言ってまたウィンクを飛ばす。
例えの意味も分からないし、ウィンクは腹立たしいし、俺はムギュッとカモンを押し入れた。
「でもまあ・・・確かにお前達の言うとおりだよな。悪いのは俺なんだから、ちゃんと謝らないと。」
「そうよ、変な意地張ってちゃダメよ。ここは男らしくビシッと決めなさい。」
「だな。同盟の活動はそれからでも出来るってもんだ。」
モンブランとマサカリに励まされ、俺は強く頷いて藤井の方へ向かった。
「藤井。」
遠くから呼びかけると、藤井はビクッと顔を上げて回りを見渡していた。
「こっちこっち。」
俺は手を上げて近付いて行く。
集まっていた動物たちが「誰だこいつ?」と怪訝な目を向けてくる。
「やっぱり一人で来てたんだな。あんまり無茶してると危ないぞ。」
「・・・悠ちゃん・・・・・。」
藤井は立ち上がり、意外そうな目で俺を見つめる。
そして少しだけ笑い、目を逸らして俯いた。
少し気まずい感じはあったが、俺は動物たちの間を抜けて藤井の前に立った。
いざ藤井を前にすると、心の中で用意していた謝罪の言葉が出てこなくなる。
それは意地を張っているからではなくて、言いようのない緊張からくるものだった。
「悠一、がんばって。」
モンブランが俺の足を叩き、小声で呼びかけてくる。
俺は頷き、藤井を見つめて口を開いた。
「その・・・昨日は悪かった・・・。
あれは俺の本心じゃなくて、ついつい意地を張って言ってしまったんだ。
だから・・・・ごめん。許してくれないか?」
藤井は俺の言葉を無表情で受け取る。
その顔からは、いったい何を考えているのか分からなかった。
「私は・・・・・。」
小さな声で呟き、顔を逸らしてタヌキの前にしゃがみこむ。
「私は怒ってないよ。ただ悲しかっただけ。
いくら意地を張ったからって、あんな言葉は聞きたくなかった。
謝ってくれたのは嬉しいけど、そんなに簡単に割り切れるものじゃないから・・・。
だから・・・もう少し時間をちょうだい。」
「藤井・・・。」
これでもう話し合いは終わりとばかりに、藤井はフェレットの方を向いて話しかける。
「ねえ、タヌキさんもこう言ってることだし、縄張りの件はもう納得してもいいんじゃないかな?
お互いが時間帯や場所をずらすことで衝突を避ける。
それ以外に方法はないと思うんだけど?」
「うむむ・・・でもな〜んかそっちの言い分が一方的に通っているような・・・。」
鼻の頭に傷のあるフェレットが、納得のいかない様子で腕を組む。
「でもさっきタヌキさんが言ってたじゃない。
ここに暮らす外来種はあなた達だけじゃないって。
ヌートリアもいれば、川の中にはミドリガメだっているわけだし。
それにそこのハクビシンさんなんかは、大昔に日本へ入って来て、今じゃすっかり日本の動物として定着してるのよ。
元々日本にいた動物達と上手く共存することは、絶対に無理なわけじゃないと思うの。
そりゃああまりにも生態系が滅茶苦茶になったらアレだけど、元はといえば人間のせいなんだし、それに関しては偉そうなことは言えない。
だからここは一つ、タヌキさん達の提案に納得して、みんなで仲良く暮らしてみないかな?」
藤井は諭すように優しく語りかける。
フェレット達は難しい顔で何やら話し合い、意見が決まったように頷いた。
「まあ考えてみよう。俺たちも巣に戻って仲間たちに意見を聞かないとな。」
「そうだね、それがいいと思う。」
じゃあ来週のこの時間に、またここに集合っていうのはどうかな?」
「いいぜ。こっちも良い答えを用意出来るように努めるよ。」
フェレット達はなぜか偉そうにふんぞり返る。
お前らはどこの政治家だよ・・・。
しかしとりあえず話は纏まったようで、タヌキの差し出した手をフェレット達は握りしめた。
「まあ何やかんやと色々あるけど、上手くやっていこうじゃないか。」
「いいだろう。あんな事やこんな事の問題があるが、一旦は争いをやめよう。」
両者の間でしか分からない言葉が交わされ、納得したように頷き合う。
ここにフェレットと野生動物の争いは一応の決着をみたことになる。
いやあ、よかったよかった。
そう思いながらみんなが笑っていると、ただ一人だけ納得していない者がいた。
「ちょっと待て。俺はそんなイタチもどきなんて認めんぞ。
ただでさえ今は生活が苦しいんだ。
季節は冬だし、ハンターだってうろついてるし。
なのに何でそんな奴らを受け入れる必要がある?」
鹿はフンフンと鼻息荒く近づいて来る。
「そもそも生存競争とは、生き残りをかけた戦いなのだ。
その小っこいげっ歯類モドキが飢えて死ぬのなら、それもまた自然の定め。
人の手を離れて暮らす以上、野生のルールに従うべきだと思うが?」
だから・・・お前らはどこの政治家だよ!
ここは野生動物の国会か?
鹿は怒りが収まらない様子で角を持ち上げる。
そして猛々しく鳴いてフェレットに突進して来た。
「ここは俺達の縄張りだ!他所者は去るか死ぬのみ!」
フェレット達は一目散に逃げ出し、残された藤井の方へ鹿の角が迫る。
「危ない!」
俺は藤井を守るた為に駆け出し、鹿の前にはだかった。
しかし石畳につまづいた鹿はバランスを崩し、マサカリの方へ突っ込んでいった。
「うわあああああ!」
たっぷりと肉のついたお腹に、鹿の角がプスリと刺さる。
「マサカリ!」
そこでムニ!っと変な音が聞こえ、鹿の角がビヨンと跳ね返された。
「くそ!またお前か・・・。」
鹿は悔しそうに顔を歪め、前足を踏み鳴らしてまた突進しようとする。
俺はマサカリを守るように抱きかかえ、鹿に向かって叫んだ。
「おい落ち着け!暴れても問題の解決にはならないぞ!」
「黙れ人間!元はといえばお前らが悪いのだ!何でもかんでも動物を捨ておって!」
鹿の怒りはさらに増し、「ぶふん!」荒い鼻息を吹き出した。
その時、俺の胸ポケットからカモンが顔を出して「待ちな!」とカッコをつけた。
「おいおい鹿さんよお。お前のオツムは石ころ以下のようだな。」
「なんだと・・・。げっ歯類が何を偉そうに・・・。」
「はん!げっ歯類こそが全ての哺乳類の祖先なのさ!
鹿も犬もフェレットも、それに人間だってそうだ。
ここは一つ、俺の顔に免じて事を丸く収めてくれよ、な?」
そう言って胸ポケットに肘をかけ、ニヒルな笑顔でウィンクを飛ばした。
「ば、馬鹿・・・・そんなことしたら余計に怒るだろ!」
俺は無理矢理カモンを引っ込めるが、モンブランは「見て!」と言って前足を指した。
するとさっきまで怒っていた鹿が、身体をプルプルと震わせて俯いている。
そして「ぶふ!」と笑いを堪える声が聞こえた。
「げ・・・げっ歯類がウィンクって・・・駄目だ・・・。腹筋が・・・・。」
鹿は堪りかねたように笑いだし、大きな角を揺らしていた。
「だはははは!ネズミがウィンクでカッコをつけるなんて初めて見たぞ!
いったいどこでそんなマネを覚えたんだ!」
高らかな笑い声が響き、周りの動物たちは呆気に取られる。
カモンはポケットから顔を覗かせ、「人間のテレビドラマだよ」とまたカッコをつけて言った。
「そうか、人間のテレビか。お前はネズミのクセにそんなものを見ているのか?」
「悪いかよ?俺は一日中家にいることが多いから、クルクルで回るかテレビを見るくらいしか楽しみがないんだよ。」
「そうか・・・。人に飼われている動物も大変だな・・・。」
鹿は同情するように頷き、怒りを鎮めてフェレット達を見つめた。
「お前ら、怒って悪かったな。今日はこのネズミみ免じて許してやるぞ。」
ずいぶん偉そうな言い方だが、フェレット達はホッと安心して前に出て来た。
「まああんたらの気持ちも分かるよ。縄張りが取られたら生きていけないもんな。」
「でも俺達だって生きていかなくちゃいけないんだ。とりあえず巣に戻って仲間に話してみるよ。」
争いの緊迫感はどこかへ消え去り、ようやくお互いの和解が成立したようだ。
ここから先は動物たちの問題であって、人間が首を突っ込むのは野暮というものだろう。
「マサカリ、モンブラン、帰ろうか。」
俺は踵を返してリードを引っ張り、登山道に向かう。
「藤井、もうこいつらは大丈夫さ。これ以上ここにいたら邪魔になるぞ。」
俺の言葉に藤井は頷き、立ちあがってフェレット達に手を振った。
「きっと上手く話し合いが纏まるって信じてるわ。
それじゃ・・・また来週ここへ来るから。」
フェレット達は頷いて手を振り返し、他の動物たちも自分たちの住処へ散らばっていった。
「下りは危ないから慎重にね。」
モンブランが獣道を先導し、俺達が歩きやすい道を選んでくれている。
俺は後ろを振り返り、ヨタヨタと獣道を下る藤井に手を伸ばした。
「転ぶと危ないぞ、掴めよ。」
いつもなら「ありがとう」と笑って俺の手を取るのだが、今日は違った。
「いいよ、平気だから。」
その声は妙によそよそしく、俺とまったく目を合わそうとしなかった。
なんだよ・・・ちゃんと謝ったのに・・・・。いつまで怒ってるんだよ。
心の中で悪態を吐き、「さいですか」とぶっきら棒に言って山道を下っていく。
そして石造りの階段まで辿り着くと、藤井は俺達とは反対の道へ下り始めた。
「おい、どこ行くんだよ?」
「どこって・・・家に帰るに決まってるじゃない。
こっちから下りた方が駅に近いから・・・。」
「俺の車で送っていってやるよ。一緒にこっちから下りよう。」
「・・・やめとく。私は一人で帰るから。」
藤井は背中を向けて山道を歩き出す。
それはまるで、昨日の俺と同じだった。
こいつも意地を張ってんだな・・・。しばらくそっとしとくか。
俺は藤井の背中を見送り、動物たちと並んで階段を下りていった。
「ねえ、このままでいいの?」
モンブランが心配そうに尋ねてくる。
「藤井のやつ相当怒ってるな。まあ昨日の悠一の態度を考えれば当たり前だけど。」
カモンも俺を責めるように言い、嫌味ったらしい目で睨んでくる。
「でも昨日の今日で簡単に機嫌は直らねえわなあ。
俺はしばらく時間を置いた方がいいと思うぜ。」
こういう時、マサカリは意外と冷静な意見に言う。
俺は何も返事をせず、黙々と歩いて山を下りていった。

         *******

あの日から一週間、藤井からは何の連絡もなかった。
俺から一度だけ電話とメールを入れたことがあるが、返事は戻ってこなかった。
いったいいつまで怒ってるのかと気になったが、あいにく恋愛経験の少ない俺には対処の方法が分からなかった。
このまま時間が経って、怒りが解けるのを待つべきか?
それともこちらから行動を起こすべきか?
やきもきしながら過ごしていると、ある出来事が起こった。
それは・・・またしても翔子さんに関係する事だった。
朝にマサカリの散歩をしていると、翔子さんと出会った。
「有川さん!」
翔子さんは笑いながら駆け寄ってくる。
そして、その隣には元気になったコロンがいた。
「この前はありがとね。おかげで命拾いしたわ。」
コロンはニコリと笑って言う。
俺は目だけで頷き、翔子さんに向き直った。
「よかったですね、コロンが元気になって。」
「はい!多少の傷痕は残っていますけど、今はもうピンピンしてます。」
満面の笑顔で嬉しそうにコロンを撫で、ポケットから餌を取り出してマサカリにあげていた。
「おう!気が利くじゃねえか。」
遠慮という言葉を知らないマサカリは、ヨダレまみれの口で翔子さんの手を舐める。
「ちょっとあんた。うちのご主人の手を汚さないでよね。
汚ったない顔してからに。」
「んだとお!俺のどこが汚いんでえ?」
「全体的に汚いわよ。見た目も中身も、あと雰囲気もね。」
「な・・・雰囲気まで汚い・・・・だと・・・。」
マサカリはショックを受けて俯き、それでも餌だけはしっかりと食べている。
コロンの毒舌ぶりは健在で、ここまで元気になればもう大丈夫だろう。
翔子さんは手を広げて「もう無いよ、お終い」と笑った。
「ち・・・もっとくれよ・・・。」
もらえるだけでもありがたいと思え。どこまで意地汚いんだか・・・。
翔子さんはベタベタに汚れた手を気にする様子もなく、相変わらず眩しい笑顔で笑いかけた。
「この時間にお散歩だなんて珍しいですね?今日はお仕事は休みなんですか?」
「ええ、まあ仕事っていってもバイトなもんですから、コロコロと時間が変わるもんで。」
「そうなんですか?私はアルバイトってしたことないから、どういうものかいまいち分からないんですよね。」
むう・・・これが金持ちと庶民の差か。
そこで俺はふと疑問に思って尋ねた。
「あ、あの・・・・前から思ってたんですけど、翔子さんってお幾つなんですか?」
そう尋ねてからしまったと思った。
女性に対していきなり年齢を聞くなんて失礼だったか・・・・。
しかし翔子さんはまったく気にするそぶりもなく答えた。
「今は二十四です。あと二か月でもう一個歳を取っちゃいますけど。」
そう言って可笑しそうに笑っていた。
「大学を卒業してから父の仕事を手伝ってまして、いつかは自分の会社を持つのが夢なんです。」
「へえ・・・お父さんはどんなお仕事を?」
「文具メーカーを経営しているんです。あと靴や家具も造ってるんですよ。
稲松文具っていう会社なんですけど。」
「い、稲松文具って・・・あの有名な?」
「有名かどうかは知らないですけど、うちの文具を使っている人は多いと思いますよ。
靴もそこそこ買って頂いているみたいだし。」
「ははあ・・・・そりゃまた大きな会社で・・・・。」
稲松文具の文房具なら、俺もよく使っていた。
ライオンが噛んでも穴が開かない筆箱とか、ヤシガニが挟んでも折れない鉛筆とか、あとは非常食にもなる消しゴムとか。
実際にそんな状況になる事があるのかどうかは別として、ユニークで性能の良い文具が揃っていることは確かだ。
「私はそこで商品の開発に関わっているんです。
この前発売された、空気に触れると消えるボールペンは私が開発したんですよ。
まあ書いてるそばから消えていくのが難点なんですけどね。」
それはボールペンとしての機能を果たしていないような気もするが、そのユニークさこそが稲松文具の魅力だろう。
「もっともっと良い商品を開発出来るようになって、いつかは自分のメーカーを持ちたいんです。」
「すごいですね、その若さでしっかりした夢を持っているなんて。」
「ふふふ、褒めても何も出ないですよ。」
翔子さんは照れ臭そうに笑い、俺達は並んで歩き出した。
「あ、そうだ!これからお時間はありますか?」
何かを思い出したように声を上げ、窺うような目で俺を見つめてくる。
「ええ、今日は空いてますけど・・・どうかしたんですか?」
「実はこの前のお礼をしようと思って。今から私の家に行きませんか?
お渡ししたいものがあるんです。」
「いやいや、いいですよお礼なんて。そんなつもりでコロンを助けたわけじゃないし・・・。」
「いいえ、是非お礼をさせて下さい。じゃないと父に叱られてしまうし。」
「お父さんに?」
翔子さんは頷き、自分の父親にこの前の出来事を伝えたと笑った。
すると彼女の父は「きちんとその人にお礼をするように」と言ったという。
「父は褒めてましたよ、有川さんのこと。若いのに立派な行動だって。
出来ることなら、一度家に連れて来なさいとも言ってました。」
「い、いや・・・そんな大層なことをしたわけじゃ・・・・、」
「何言ってるんですか。有川さんのおかげでコロンは助かったんですよ。
だからもし時間があるなら・・・これから私の家に来て頂きたいんですけど・・・ダメですか?」
翔子さんは上目遣いに俺を見つめる。
別に行っても構わないのだが、どうも乗り気がしない・・・。
ここのところのトラブルは、ほとんどが翔子さん絡みの事なのだから。
もちろん翔子さんが悪いわけじゃないけど、それでもなあ・・・・。
眉を寄せて迷っていると、翔子さんは躊躇いがちに俺の顔を覗き込んできた。
「もしかして・・・あの後何かありました?」
「え?あの後というのは・・・?」
「この前有川さんのアパートにお邪魔したじゃないですか。
あの時すごく藤井さんが怒ってましたよね?
だから・・・・喧嘩をしちゃったとか・・・?」
ううむ・・・やはり女性はこういうことには鋭いようだ。
しかし俺はこの質問をありがたいと思っていた。
なぜなら恋人と喧嘩をした時の対処法を、ぜひ女性の視点から教えてもらいたかったからだ。
俺は正直にあの日の出来事を話し、今は藤井と上手くいっていないことを伝えた。
慣れない説明なのでたどたどしくなってしまったが、翔子さんは真剣に聞いてくれていた。
もちろん動物と話せるということは秘密にしておいたが、きっともうバレてるんだろうな・・・。
しかし翔子さんは一切そのことにはツッコミを入れず、ただ黙って聞いてくれていた。
そして俺の話を聞き終えて、開口一番に「それは有川さんが悪いです」と言われてしまった。
「前にも言ったけど、有川さんは動物のことには敏感だけど、女性のことには鈍いと思います。
それじゃ藤井さんが可哀想だし、怒るのも当たり前ですよ。」
「はあ・・・やっぱりそうですか・・・。」
「会社を辞めた有川さんをわざわざ追いかけてくるくらいだから、よっぽど好きだったんだと思いますよ。
それなのに・・・その時の思い出を『そんなの知らない』で済ますなんて、はっきり言ってかなりヒドイです。
もし私が藤井さんの立場だったら、きっと怒ると思うな。」
ぐむうう・・・・痛烈なKOパンチを食らった気分だ。
確かに自分でも悪いと思っていたが、他人から言われるとグサっとくるもんだな・・・。
「じゃ、じゃあですね・・・こういう時はどういうふうに謝ればいいんでしょうか?
この前に謝った時は、全然許してくれなくて・・・・。」
「許してもらおうと思ってるからダメなんですよ。
それって結局自分のことを考えているわけでしょう?
そうじゃなくて、きちんと藤井さんのことを考えて謝ってあげないと。」
「藤井のことを・・・考えて・・・。」
「そうです。喧嘩の原因になったのは、二人の思い出や絆でしょう?
それをどうでもいいって言っちゃったんだから、傷はかなり深いでしょうね。
こういう時は小細工をせず、堂々と自分の気持ちを語らないと。
有川さんは、本当はどう思っているんですか?
藤井さんと再会した時のことや、付き合い始めた時のことを。」
「そ、そりゃあもちろん大事に思ってますよ。
ていうか、今までに忘れたことなんて一度もありませんからね。
あの夜の公園の出来事は・・・きっと俺の中から一生消えないと思う。」
俺は真剣な声で語った。やや熱い感じになってしまったが、これこそが俺の本心なのだから。
すると翔子さんはバシっと俺の背中を叩き、励ますように笑いかけた。
「だったらそれを言ってあげればいいんですよ。
あれやこれやと言い訳を考えるんじゃなくて、自分の気持ちを素直に伝えればいいんです。
そうすれば、きっと藤井さんの心に届くと思いますよ。
ああ、有川さんも、あの時の思い出や絆を大事に想っててくれたんだって。」
「ははあ・・・素直な自分の気持ちをねえ・・・。」
じゃあ俺は自分の本心を語ればいいということか。
それなら藤井は許してくれると・・・・・、いかんいかん!この許してほしいと思い気持ちがダメなんだ。
そうじゃなくて、藤井のことを考えて、それでいて素直に自分の気持ちを伝えて・・・。
なんか難しいな。果たして俺に出来るのか?
そもそも素直な気持ちっていったい・・・・。
「ふふふ、その顔は困ってますね。」
「ええ、もう・・・かなり・・・。」
「でも行動を起こすのは早い方がいいですよ。もう喧嘩をして一週間ほど経ってるんでしょ?
なら藤井さんの方も、少しは落ち着いて話を聞いてくれると思いますから。」
「・・・なるほど。やっぱり早い方がいいですか?」
「もちろんですよ。時間が必要な場合もありますけど、仲直りは早いにこしたことはありません。
ズルズルと無駄に引き延ばしていると、本当に修復出来ないくらい険悪になることもありますからね。」
そうか・・・早い方がいいのか・・・。
なら、今日にでも連絡を取って、もう一度謝るべきかもな。
俺だって藤井とは早く仲直りしたいし、あいつに傍にいてほしいし。
ああ、これも素直な気持ちってやつか?
考えた言葉じゃなくて、こういうふうに心の中からスッと出て来た言葉を伝えればいいのか。
なるほどねえ・・・なかなか奥が深いな。喧嘩をしている動物を説得する方がよっぽど簡単かもしれない。
「あれから一週間・・・そろそろ藤井も俺の話を聞いてくれるかもな。」
そう言ってふとあることに気づいた。
確か一週間前にあの山へ行った時、藤井はまた来週ここへ来ると言っていた。
あの時も今と同じくらいの時間帯だったから、今から行けば会えるかもしれない。
善は急げというし、マサカリの散歩のついでに行ってみるか。
「翔子さん、申し訳ないんですが、今日はちょっと家に伺うのは無理みたいです。」
「どうしてですか?さっきは予定は空いてるって。」
「ええ、でも今さっき用事が出来まして・・・。」
そう言うと、翔子さんは「もしかして藤井さんのことですか?」と尋ねた。
「はい。実は川を渡った先にある山に、藤井が来ているはずなんです。
だから今から謝りに行こうかと思って・・・。」
「そうなんですか・・・。だったら仕方ないですね。
早く謝った方がいいって急かしたのは私だし、お礼はまた今度にさせて頂きます。」
「すいません、せっかく誘ってもらったのに。」
「いいんですよ、気にしないで下さい。
でも川を渡るなら私の家と同じ方向だから、途中まで一緒に帰りましょう。」
俺は小さく笑って頷き、川沿いの道を歩いて行く。
空はどんより曇ってきて、今にも雨が降り出しそうだった。
そして土手を上って橋を渡り、山の方へ続く細い道に入った。
しばらく歩くと図書館が出てきて、その向こうにある突き当りの電気屋で立ち止まった。
二つに分かれる道の前で翔子さんと向かい合い、俺は頭を掻きながら礼を言った。
「ありがとうございます、相談に乗ってもらって。」
「いえいえ、きちんと謝って藤井さんと仲直りして下さい。」
「はい、それじゃあ・・・。」
そう言って去ろうとした時、マサカリが翔子さんの方に走っていった。
「おいおい、なんだよいきなり・・・。」
「翔子よお、まだ餌持ってるんだろ?別れの餞別にもうちょっとくれよ。」
マサカリはヨダレを垂らし、フンフンと翔子さんのポケットの匂いを嗅ぐ。
「ちょっと馬鹿犬、うちの主人を困らせるんじゃないわよ。」
「うるせえ、餌があったら食う、山があったら登る。それが男ってもんだ。」
「意味分かんないわ・・・。やっぱりアホだわこいつ。」
コロンは呆れた顔でため息を吐き、マサカリはお構いなしに翔子さんのポケットに鼻を突っ込む。
「おいコラ!いい加減にしろよ。」
俺は強引にマサカリを引き離そうとするが、なかなか離れてくれない。
むうう・・・さすがに腐ってもブルドッグだ、力だけは一人前にある。
「離れろって言ってるだろ!このデブ犬め!」
「うるさい!餌をくれるまでは離れない!」
俺とマサカリの取っ組み合いが続き、翔子さんは困った顔でポケットを押さえている。
「餌がほしいの?だったらあげるからちょっと待って・・・・、」
そう言ってポケットの中に手を入れた時、マサカリが腹の肉を揺らして飛びかかった。
「きゃあ!」
翔子さんはバランスを崩して倒れそうになり、俺は咄嗟に腕を伸ばして抱きかかえた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、はい・・・・。すみません・・・。」
マサカリはまだ餌に向かって飛びかかろうとしている。
俺は足で顔を押しのけ、マサカリを遠ざける。
「お前いい加減にしろよ!あんまり調子に乗ってると本気で怒るぞ!」
「うるせえ!お前が藤井と喧嘩してるから悪いんだ!
飼い主のイライラってのは動物に伝わるんだぜ。
みんな口には出さないけど、ほんとはイライラを隠してるんだよ。
さっさと藤井と仲直りして、俺達を安心させろってんだ!」
「はあ?何で藤井が関係あるんだよ。
お前らは何でもかんでも藤井、藤井ってうるさいな!」
「だって俺達は藤井が好きなんだよ!
あいつが一緒にいると、悠一も他の動物たちも明るくなるんだ。
翔子なんかどうでもいい!早く藤井と仲直りしろこのスルメ男!」
「この野郎・・・黙って聞いてりゃ調子にのりやがって・・・・。」
不穏な空気に怯え、翔子さんは不安そうな目で呟く。
「あ、あの・・・マサカリどうしちゃったんですか?
なんだかすごく怒ってますけど・・・。」
「なんでもないですよ、馬鹿犬の戯言です。」
俺は翔子さんを抱えたままマサカリを睨み、大きく息を吸い込んでから怒鳴った。
「藤井が何だってんだよ!今はあいつは関係ないだろ!
何でもかんでも藤井、藤井って・・・うっとうしいんだよお前らは!
思い出だの絆だの・・・そんなもんが何だってんだ!今さら知るかよそんなこと!」
ああ・・・なんてこった・・・。また始まっちまった。
本心を押しのけて、怒りと意地がしゃしゃり出て来やがった。
本当はこんなこと思っていなくても、一時の感情ってやつは止めようがないくらい強力だった。
曇っていた空からパラパラと雨が落ち、じょじょに勢いをましていく。
まるで今の俺みたいに・・・・。
「だいたいな、藤井はいちいち細かくてうるさいところがあるんだよ。
あいつの動物に対する情熱はすごいけど、ちょっと行き過ぎなところがあるんだよ!
でも恋人だから我慢して付き合ってやってたのに、こんなしょうもないことでイチイチ怒られてたまるかってんだ!」
あまりに大きな声で怒鳴ってしまい、マサカリや翔子さんは怯えていた。
俺・・・なんでこんなに怒ってるのかな?
なんでこんなに腹が立って、なんでこんなに必死になってるんだろう?
その時、ピンと気づいた。
ああ・・・俺は・・・藤井と一緒なんだ。
伝えたいことがあるのに、上手く言葉に出来なくて・・・・。
本当の気持ちが相手に伝わらないもどかしさを感じて・・・だからこんなに怒ってるのか。
なんだ、俺も藤井と一緒なのか。
でも・・・だからこそ怒りは止まらなかった。
言ってはいけないことを、この口から大声で言ってしまった。
「あいつは・・・・・きっと誰でもいいんだよ・・・。
動物と話せて、自分の言うことに素直にうんうんって聞いてくれる男なら誰でもいいんだ。
きっと俺のことを好きになったのは、気が弱くて大人しい男だったからだ。
その方が言うことを聞いてくれやすいと思って・・・。
・・・何が同盟の活動だよ・・・。そんなもん一人でやってりゃいいんだ。
別の男と・・・動物と喋れる男を捕まえて・・・そいつとやってりゃいいんだ。
下らねえ・・・もう動物のことなんかうんざりだよ。
俺には俺の人生があって、動物ばっかりに構ってる暇なんかないんだ。
あいつとの絆だの思い出だの、そんなもんはクソっ食らえだ!
別の男とまた・・・絆だの思い出だのを作れば済む話だ!
藤井の動物に対する情熱とか・・・俺との絆とか・・・全部うっとうしいんだよ!」
取り繕うことも出来ない最低な言葉を発し、今まさにこの瞬間、俺はクズに成り下がった。
そう・・・この時の俺は、どうしようもない馬鹿だった。
マサカリも翔子さんもただ黙りこみ、、辺りがシンと静まりかえる。
図書館から出て来た親子が何事かと目を向け、自転車に乗った通りすがりのおばちゃんも怪訝な目を向けていた。
そして・・・・・山へ続く細い道に、藤井が立っていた。
じっとこちらを見つめながら、怒ったように瞳を震わせている。
「藤井・・・いつからいたんだ・・・?」
背中にブワっと嫌な汗が滲む。
口の中が渇き、リードを握る手の平にも汗が滲んできた。
「・・・・・・・・・・・・・。」
俺は翔子さんを抱えたまま固まり、藤井はじっとその光景を睨んでいた。
「藤井!戻って来てくれよ!悠一の代わりに俺が謝るからさ!」
マサカリは勢い良く駆け出し、俺の手からスルリとリードが抜ける。
「なあ藤井!みんなお前に会いたがってるんだよ。
お前がいてくれないと、悠一がギスギスするもんだからみんなイライラしてんだ。
だから頼むよ、あのバカを許してやってくれ、この通り!」
マサカリは頭を下げ、目を瞑って尻尾を震わせる。
「マサカリ・・・。」
藤井は膝をついてマサカリの頭を撫で、悲しそうに見つめて呟いた。
「ごめんね・・・ごめん・・・・・。」
それだけ言って立ち上がり、濡れる目から涙をこぼした。
そして背中を向けてスタスタと去って行く。
「おい藤井!待ってくれよ!ちゃんと悠一にも謝らせるからさ。
だから許してやってくれよ。お願いだから戻って来てくれえ!」
マサカリの叫びも虚しく、藤井は振り返ることなく去って行く。
その背中は、明らかに俺のことを拒絶していた。
「あの・・・・ごめんなさい・・・また私のせいで・・・。」
翔子さんは俺から離れ、険しい表情で言う。
俺は首を振り、遠ざかる藤井の背中を見つめて呟いた。
「翔子さんは何も悪くありませんよ。
・・・俺が・・・俺が悪いんです・・・・。」
藤井は遠くの角を曲がって消え去り、辺りには静けさだけが残された。
降り出した雨は夕立のように激しく打ち付け、目の前の景気をぼやけさせていく。
冷たい風が一瞬だけ吹き抜け、俺はマサカリのリードを握って言った。
「帰ろう・・・。」
マサカリはがっくりと項垂れてのそのそと歩きだし、一度だけ後ろを振り返っていた。
俺は呆気に取られて立ちつくす翔子さんに頭を下げ、重い足取りで家路についた。
マサカリはみんなにこの出来事を話し、俺は動物たちから散々に罵られた。
いいさ、好きに言ってくれ。もう何も言い訳はしないから。
その日、夜遅くに藤井からメールが届いた。
その内容は、たった一行だけのシンプルなものだった。
『別れよう、さようなら。』
色んな思い出が詰まった一年半は、俺が一瞬にして砕いてしまった。
悲しみが胸に押し寄せ、ホロリと涙がこぼれる。
幸せに浮かれて、自分のことだけを考えて・・・最も大切なものをこの手で潰してしまった、最低の日だった。

勇気のボタン 二人の道 第七話

  • 2014.02.06 Thursday
  • 18:21

修羅場という言葉は、俺には一生縁のない言葉だと思っていた。
恋愛事情や女絡みで揉めるなど、俺にとっては宝クジが当たるより遠いものだったはずだ。
いや、むしろ自分が修羅場を望んでも、神様は決してそれを与えてくれないと思っていた。
『お前にそんなものは関係なし!動物と喋っておればよい!』
うん、きっと神様はそう言うはずだ。
それがなぜ?どうして?ホワイ?
今の俺は人生で最大の居心地の悪さを感じていた。
正面には翔子さん、隣には藤井、そして周りを囲むように動物たちが座っている。
入り乱れる殺気のぶつかり合い、突き刺さる視線の交錯。
さっきまで明るくはしゃいでいた翔子さんも、異様な雰囲気を感じて口を噤んでいる。
そして上目遣いにチラチラと周りを見渡し、肩をすくめて正座していた。
この鉛のように重たい空気を最初に打ち破ったのは、意外にも翔子さんだった。
「あの・・・なんだか私・・・お邪魔でしたかね・・・?」
さらに肩を竦めてみんなを見渡し、最後にチラリと藤井の様子を窺う。
ここはやはり女同士として、何か通じ合うものがあるのだろうか?
翔子さんの視線を受けた藤井は、少しだけ表情を緩めて口を開いた。
「あなたが翔子さんですね。確か一度だけお会いしたことがあるはずです。」
そう言われて翔子さんは首を傾げ、しげしげと藤井を見つめた。
「ああ!確かに動物の里親探しの時に・・・。」
藤井は何も言わずにコクリと頷き、自分の手元を見つめた。
「有川君からよく話は聞いています。マサカリの散歩で知り合ったって。」
「ええ、去年の夏前くらいだったと思います。
ブルドッグを連れている人なんて珍しいなと思って、声を掛けたんです。」
「そうですか・・・。で、それからずっとお友達で?」
藤井・・・声にだんだんと殺気がこもってきたな・・・。
翔子さんは僅かに怯え、「はい・・・」と小さく呟く。
俺は助け舟を出そうとして口を開くが、「ちょっと黙ってて」と睨まれてしまった。
怖い・・・さっきから怖いよ藤井・・・。
しかし藤井の他に、もう一つ鋭い視線が突き刺さっていた。
それはモンブランだ。まるで獲物を狩るライオンのように、身も凍る殺気を放っている。
俺はサッと目を逸らしてお茶を飲んだ。
藤井は「ふう・・・」と息を吐き、再び表情を緩めて翔子さんを見据える。
「私が知りたいのは、どうしてあなたがここにいるのかということ・・・。
そして、ここで有川君と何をしていたのかということです。」
その声は静かだが怒りが込められていて、場の空気に緊張が走った。
翔子さんは申し訳なさそうに俯き、さらに縮こまって答えた。
「実は・・・うちの犬が猪に突き飛ばされて・・・・。」
それを聞いた藤井の表情が一変した。
「猪に・・・?」
「はい。実は・・・・・・、」
翔子さんはコロンが猪にはねられた事を話した。
そして助けを求めていると俺が現れたことや、一緒に病院まで付き添ってもらったこを。
その説明を聞いた途端に、藤井の殺気は見る見るうちに小さくなっていった。
「それで・・・そのコロンちゃんは大丈夫だったんですか?」
藤井はいつもの表情に戻り、心配そうに眉を寄せていた。
「幸い命に別条はないみたいで、三日ほどで退院できると言われました。
あの時は・・・ほんとうに慌てちゃって・・・。」
翔子さんの目尻が濡れ、鼻をすすって涙をぬぐう。
藤井は同情するように暗い顔になり、ハンカチを差し出した。
「それは心配でしたね・・・。でも助かってよかった。」
「・・・すいません・・・。」
翔子さんはハンカチを受け取って目尻を押さえ、俯いたまま話を続ける。
「有川さんはずっと付き添っていてくれたんですけど、人を待たせているからと言って途中で出て行きました。
でもしばらくすると戻ってきて、また私に付き添ってくれたんです。
河原に行ったら藤井さん達がいなくなっていたから、ここでコロンが出て来るのを待ちますと言って・・・。」
「そうなんだ・・・そんな事情が・・・。」
「私・・・ずっと不安で仕方なかったんです。もし死んじゃったらどうしようとか、後遺症が残ったらどうしようとか・・・。
でも有川さんがずっと励ましてくれて・・・。絶対にコロンは大丈夫だから、信じて待ちましょうって。
それがどれほど私を励ましてくれたか・・・。
それから一時間後くらいにコロンが出てきて、命に別条はないと言われたんです。
もし有川さんが病院に運んでくれなかった、コロンはもっと重症になっていたと思います。
だから・・・本当に感謝しています。」
翔子さんはまたハンカチで目を拭い、小さく鼻をすする。
そして藤井まで涙ぐみ、「そうだったんだ・・・」といつもの優しい声に戻っていた。
おお!なんだかこのまま無事に終わりそうな予感。
しかしそんな安堵を打ち砕くように、モンブランが鋭い一言を放った。
「ねえ藤井さん。さっきの話の中に、翔子さんがこの家に来た理由は一つも説明されてなかったわよね?」
藤井はビクっとモンブランを見つめ、本来の目的を思い出したようにまた怖い顔に戻った。
おのれモンブランめ。鈍い藤井ならこのまま誤魔化せたかもしれないのに・・・。
部屋の空気はまたピリピリと張り詰め、藤井は翔子さんに尋ねた。
「お話はよく分かりましたけど、どうして有川君の家に来ているんですか?」
むうう・・・また怖い声に戻ってるし・・・。
藤井よ、お前はどこからそんなに怖い声を出しているんだ?
翔子さんは息を吐いて頷き、小さな声で説明した。
「実は有川さんに相談があったんです。うちの猫のことで・・・。」
「カレンのことですか?」
藤井に問いかけられると、「知ってるんですか?」驚いた表情をみせた。
「昨日聞きました。カレンと翔子さんの彼氏の折り合いがよくないって。」
「そうなんです・・・そのせいで昨日彼と喧嘩しちゃって、別れることになってしまったんです。」
すると「おやまあ」とモンブランが声を上げ、興味津津で耳を立てた。
「でもそれ以外にもう一つ有川さんに聞きたいことがあって・・・・。」
「・・・どんなことですか?」
藤井はゴクリと息を飲んで言葉を待つ。
モンブランは「まさか愛の告白をするつもりだったんじゃ?」と野次馬根性を剥き出していた。
お前はこの状況を怒っているのか楽しんでいるのかどっちなんだよ・・・。
翔子さんはしばらく間を置き、藤井を見返して答えた。
「私・・・ずっと考えていたことがあるんです。
もしかしたら有川さんは、動物と会話を出来るんじゃないかって。
だからそれを確かめる為にここへお邪魔したんです。」
「・・・・・・・・・・。」
藤井は言葉を失くして固まっていた。
まあ当然だよな。俺達の核心に触れる質問なんだから。
「有川さんの家へ来たのはたまたまなんです・・・。
本当はどこか喫茶店にでも入ってお話を伺うつもりだったんですが、生憎お金を持ち合わせていなくて・・・。
そしたら寒そうにしている私を見て、有川さんが自分のアパートへ誘ってくれたんです。」
「・・・・・・・・・・。」
藤井はまだ固まったままだった。さっきの翔子さんの言葉は聞いていたのだろうか?
翔子さんは湯呑みを握り、そこにカレンやコロンを思い浮かべるように目を揺らしていた。
「ずっと前から心に引っ掛かっていたんです。
でもまさかそんなこと現実にあるはずないし、でも自分の中のモヤモヤは消えないし・・・。
だから・・・直接聞いてみようと思ったんです。」
翔子さんは顔を上げ、真剣な目で俺達を見つめる。
藤井はまだ固まっていたが、なんとか口を動かして尋ね返していた。
「・・・有川君は・・・何て答えてましたか?」
そう問いかける藤井の顔は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
怒るわけでもなく、かといって優しい顔でもない。
もっと切実な・・・そして追い詰められたような表情だった。
翔子さんはその迫力に気圧されながら、戸惑いがちに答えた。
「えっと・・・その答えを聞く前に藤井さん達が帰って来たから、まだ聞いていません。」
「ほんとに・・・?」
「ほんとです・・・。」
すると藤井はホッと安堵の息を吐き、急に明るい顔になって笑った。
「じゃあその質問には、有川君に代わって私が答えますね。
彼は動物と会話をすることなんて出来ません。」
これで説明は終わりとばかりに、ニコニコと笑顔を振りまく藤井。
なんか・・・これはこれで怖いな・・・。
しかし翔子さんは納得がいかない様子で問い返した。
「で、でも・・・私は有川さんが動物と喋っているところを見たんです。
この家に来てからだって、このハムスターと喋っていたし。」
そう言ってカモンを手に平に乗せて持ち上げる。
カモンは神妙な顔で腕を組み、意味不明にウィンクを飛ばしてきた。
だか藤井は笑顔を崩さない。それどころかより明るい声で応じる。
「ああ、それは有川君のクセなんです。
たまにそうやって動物とお喋りごっこをするんですよ。
特に疲れてる時とか。」
なんだそれ?まるで俺が頭のおかしい人間みたいじゃないか・・・。
「で、でも他にもあるんです!
初めて会った時だって、なぜか私の名前を知っていたんです。
あれってきっと、コロンから教えてもらったんだわ。何やらコソコソ話してたし・・・。
それに昨日だってカレンの気持ちを言い当てたし、窓際にやって来たそこのインコと話をしていたし。
普通はそんなことしませんよね?だから・・・やっぱり動物と喋れるんだわ、有川さんは。」
翔子さんは口元に手を当てて、一人で頷いている。
隣にいたチュウベエがニヒルに笑い、カモンと同じようにウィンクを飛ばしてくる。
だから何なんだよお前らは・・・・・。
そして、藤井はやはり笑顔を崩さなかった。
まるで外回りをする営業マンのように、どう見ても嘘くさい微笑みを振りまいている。
「あのね翔子さん。申し訳ないけど、私はあなたより有川君のことをよく知っているんです。
その私が言うんだから間違いありません。彼に動物と喋る力なんてない。
まったく、これっぽっちも、ミジンコの触覚ほどもありません。
お分かりいただけましたか?」
怖ええ・・・これはこれで違う意味で怖いよ・・・。
翔子さんはまだ何かを言い返そうとしていたが、藤井の迫力に負けて黙りこんでしまった。
「・・・・分かりました。どうやら私の勘違いだったようですね。」
「ええ、まったく。それはもう。」
藤井よ・・・頼むからその笑顔はやめてくれ。
それならまだ怒っている方がマシだよ・・・・。
これ以上何を言っても無駄だと悟ったのか、翔子さんは小さく笑いながら頷いた。
「すみません、いきなりお邪魔してしまって。
これ以上長居してもご迷惑なので、そろそろお暇させて頂きますね。」
そう言って頭を下げ、いそいそと立ち上がって俺を見つめた。
コロンのこと、本当にありがとうございました。
また改めてお礼をさせて下さい。」
「いえいえ、そんなのはいいですよ!
俺もただコロンを助けたかっただけですから。」
「でもコロンの恩人です。
このまま何もお礼をしないのは、家訓に反しますから。それでは。」
再び頭を下げ、そして藤井の方にも振り返って頭を下げる。
「藤井さん・・・一つお聞きしてもよろしいですか?」
「何でしょうか?」
藤井は笑顔を崩さすに見つめ返す。
「これは私の勘なんですけど・・・もしかしたら藤井さんも動物と・・・・、」
しかしそこで翔子さんは言葉を止めた。
その理由は、藤井の笑顔が一瞬で消えたからだ。
『これ以上は踏み込まないで』
藤井の目はそう言っていた。
男の俺でも分かるくらいなんだから、女同士ならより敏感に感じたことだろう。
翔子さんは何も言わず、もう一度頭を下げてドアに向かった。
そして靴を履いて俺の方を振り返る。
「今日は本当にありがとうございました。」
「いいんですよ、早くコロンの怪我が治るといいですね。」
「はい。その時は・・・また改めてお礼に伺います。」
翔子さんは髪を揺らして微笑み、ドアを開けて出て行こうとする。
「あ、あの・・・よかったら送って行きましょうか?
まだ外は寒いですし。」
すると翔子さんは首を振り、少しだけ目をつり上げて言った。
「ダメですよ、これ以上藤井さんを怒らせたら。
私のことはいいですから、早く戻ってあげて下さい。
藤井さん・・・有川さんの彼女なんでしょ?」
「・・・・・・はい。」
「じゃあこれ以上他の女性にかまっちゃダメですよ。
最初からそのことを知っていたら、私だって家にお邪魔しなかったのに。」
ああ、そういえば藤井が彼女だってことは言ってなかったんだっけ・・・。
俺はとことん女心に鈍いらしい。
翔子さんはそれを見透かしたように笑い、ドアを閉めながら手を振った。
「有川さんって、動物のことには敏感だけど、女の人にはちょっと鈍いですよ。
ちゃんと藤井さんのことを大事にしてあげて下さいね、それじゃ。」
パタンとドアが閉められ、俺はふうっとため息を吐いた。
俺が鈍感なばかりに、翔子さんにまで迷惑をかけちゃったな・・・。
これからはもっと気をつけないと。
そう思いながら振り返ると、藤井と動物たちが立っていた。
「お、おう・・・・みんなお揃いで・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
全員の視線が俺に突き刺さる。
特に藤井の視線が強烈に・・・・・・。
あまりの緊張に立ち尽くしていると、モンブランが「部屋に戻りなさい」と睨んだ。
「はい・・・。」
俺は恐縮しながら肩を竦め、トコトコと部屋に戻る。
「ここに座る。」
モンブランがペシペシとテーブルの前を叩き、「早く!」と促した。
「はい・・・。」
きちんと正座で座り、背筋を伸ばして息を飲む。
藤井は俺の正面に腰を下ろし、開口一番にテーブルを叩いた。
「悠ちゃん!」
「は、はい!」
「昨日約束したばかりでしょ!何かあって遅れる時は電話するって!」
うう・・・だから怖いんだよ藤井・・・。
しかしここで下手に反論したら吊るし上げに遭うことは目に見えている。
俺はポケットに手を入れ、壊れたケータイを取り出した。
「もちろん電話しようと思ったよ。でもほら、これ・・・。」
バキバキに割れた液晶を見せると、マサカリが「なんだこりゃあ・・・」と驚いていた。
「多分猪にぶつかった時に壊れたんだ。
俺はコロンを病院に運んで翔子さんに付き添っていたから、ちゃんと藤井に電話しようと思ったんだよ。
でもこんなケータイじゃ電話なんか掛けられないし、だから直接言いに行こうと思って河原に戻ったんだ。
でもお前たちの姿が見えなかったから、そのまま動物病院に引き返したんだよ。
翔子さんを一人にするのは可哀想だったし、コロンのことも心配だったから。」
一息に説明して、周りの反応を待つ。
すると藤井は少しだけ表情を和らげて口を開いた。
「そのことについてはとやかく言う気はないよ。
ううん、それどころか立派だと思う。
もし私が悠ちゃんの立場だったら、きっと同じ行動を取ってたと思うし。」
よかった・・・。このことについては反論はないようだ。
しかし矢継ぎ早に次の質問が飛んでくる。
しかもなぜかモンブランから・・・・・。
「あのさ、いくらなんでも家に上げる必要はないと思うのよね。
確かに外は寒いけど、それならそのまま動物病院で話をすればよかったじゃない。」
「で、でも・・・相談したいことがあるって言われたら、動物病院で話すってのはちょっと・・・。」
「喫茶店やファミレスじゃダメだったの?」
「いや、それはさっき説明しただろ?お金がなかったんだよ。
それに翔子さんがすごく寒そうにしてたから、思わず家に来ますか?って誘ったんだよ。」
「ほんとに〜・・・・?」
「ほんとだよ!何をそんなに疑ってんだよ。」
モンブランは目を細くして俺を睨みつける。
こいつ・・・絶対に楽しんでやがるな。
すると今度は思いがけないところからツッコミが入った。
「でも俺さっきの会話を聞いたぞ。」
そう言ってチュウベエが翼を広げる。
「き、聞いたって何をだよ・・・・」
「翔子が帰る時に言ってたじゃないか。藤井が彼女だって知ってたら、家にお邪魔しなかったって。
だったら悠一は、どうして藤井のことを最初に言わなかったんだ?」
くそ!チュウベエのクセに鋭いツッコミを・・・・。
普段は馬鹿なクセに、どうしてこういう時だけお前の頭は冴えてるんだよ!
案の定、モンブランが水を得た魚のように勢いを増した。
「チュウベエ!それナイスツッコミよ!あんたの口座に三千ルーブルあげるわ!」
なんのクイズ番組だよ・・・。
だいたいインコが口座を持ってるわけないだろ。
「ねえ悠一!さっきチュウベエが言ったことは的を射てるわ。
どうして最初に、藤井さんという彼女がいることを言わなかったの?
やっぱりやましい下心があったんじゃないの?」
「だから違うって!それはたまたま言いそびれただけだよ。
お前らはどれだけ俺を疑えば気が済むんだ?」
なんだかだんだんと腹が立ってきて、つい俺の口調も荒くなる。
「なんでそんなに怒ってんだ?
なんにもやましい事がないなら、正々堂々としておけばいいだろ?」
マサカリが肉厚の顔を近づけて鼻息を吹きかけてくる。
「お前らがしつこいから怒ってるんだよ。
ていうか、お前らは楽しんでるだけだろ?特にモンブランは。」
「ん〜ん、そんなことないわ。私は藤井さんの為を思ってやってるのよ。」
「それこそほんとかよって話だ。いいか、俺は何にもやましいことなんてないんだ。
全ての事情は今まで説明した通りで、それに嘘偽りはない!
確かにお前たちをほったらかしたのは悪かったけど、事情が事情なんだから仕方ないだろ。
もうこれ以上この話はしたくないし、聞きたくもない。
終わりだ終わり!」
「ええ〜、つまんない・・・。」
モンブランはオモチャを取り上げられた子供のようにガッカリする。
ほれ見ろ、やっぱり俺をからかって楽しんでただけじゃないか。
まったく・・・こいつらの悪ふざけには付き合い切れない時がある。
「藤井。」
俺が呼びかけると、藤井は顔を上げて真っすぐに見つめてきた。
「その・・・ほったらかしにしたのは悪かった。
でもわざとじゃないし、翔子さんとも何もやましいことはない。
だから・・・その・・・機嫌を直してくれないか?」
もちろん俺にだって申し訳ないという気持ちはある。
もし藤井の家に行って、知らない男が来ていたら不快に思うだろう。
でも充分説明はしたはずだし、これ以上の追及は無意味なはずだ。
そしてその気持ちが伝わったのか、藤井はコクリと頷いた。
「いいよ、もう怒ってないから大丈夫。
悠ちゃんの言うとおり、事情が事情だったしね。」
「分かってくれたか・・・。いや、これからは俺も気をつけるよ。」
ニコリと笑って言うと、藤井も小さな微笑みを返してくれた。
しかしすぐに真剣な表情に戻って、身を乗り出して尋ねてきた。
「でもね、私が本当に気にしてるのはそのことじゃないの・・・。」
「ん?どういうことだ?」
思わず聞き返すと、藤井は自分の手元を見つめながら切り出した。
「悠ちゃんは一生懸命説明してくれたけど、まだ答えが出ていないことがある。
私が一番気にしているのは・・・そのことなの。」
「悪いけど話がぜんぜん見えてこないな。
いったい何を気にしてるんだ?」
そう言うと、藤井はピクリと眉毛を動かしてキツイ表情になった。
な・・・なんだ・・・?俺は何かまずいことを言ったか?
もう全ての質問には答えてるはずなのに・・・・。
「悠ちゃん。」
「・・・なんだよ?」
「翔子さんの質問に・・・何て答える気だったの?」
「いや、だから何のことか分からないって言ってるだろ。
はっきり言えよ。」
「・・・・・・・・・・・。」
藤井は不満そうに表情を曇らせ、苛立ちを隠すように指を動かしていた。
「翔子さんは、悠ちゃんが動物と話せるかどうか知りたがってたんだよね?
その質問には何て答える気だったの?
今まで通り、私たちだけの秘密にしておくつもりだった?
それとも・・・・・本当の事を教えるつもりだったの?」
ここへ来て藤井は、今までで一番真剣な目で睨んできた。
俺は思いもよらない質問に首を傾げ、腕を組んで睨み返した。
「なんだよ・・・そんなことか・・・。
やけにもったいぶって質問するから心配して損したじゃないか。」
「そんなことって・・・・、それ本気で言ってるの?
これってすごく大事なことなんだよ。」
「分かってるよ。でも翔子さんは俺の友達みたいなもんなんだから、別に知られたっていいだろ?
あの人は動物にも理解があるし、それに子供の頃は動物と喋るのが夢だったらしいから。」
「・・・じゃあ、本当のことを教えるつもりだったのね?
自分は・・・動物と喋れるって。」
「そうだよ。それがどうかしたのか?」
「どうかしたのかって・・・・・。」
藤井は拳を握り、瞳を揺らして身を乗り出した。
「なんでそんな大事なことを軽々しく教えようとするの!
いくら友達だからって、なんでそんな大事なことを私抜きで決めるの!」
「な、なんだよ・・・急に怒りだして・・・・。」
「怒るに決まってるじゃない!私たちは同盟を組んで活動をしてるんだよ?
それは動物と話が出来る者同士の同盟じゃない。
なのに・・・何で軽々しく誰かに教えようとするのよ!」
藤井はバシンとテーブルを叩きつけ、鬼のような目で俺を睨む。
あまりに怒りが高すぎて、顔が真っ赤になっている。
俺はいきなりの叱責に怖じ気づき、宥めるように言った。
「ちょっと落ち着けよ・・・。そりゃ確かに大事なことだけど、そこまで怒ることじゃないだろう?」
優しい口調で藤井の肩に手を置く。
すると藤井は俺の手を払ってさらに詰め寄ってきた。
「そこまで怒ることじゃないだろうって・・・どういうことよ?
怒るに決まってるじゃない!動物と話せるのは二人だけの秘密でしょ?
それが・・・それが私と悠ちゃんの始まりだったじゃない・・・。」
あまりの剣幕に、動物たちは怯えたように部屋の隅で固まっている。
『藤井はどうしちまったんだ?』
マサカリの目が俺にそう語りかけている。
「去年の夏前に悠ちゃんが会社を辞めて・・・私はちょっとだけショックだった。
これでもう会えなくなるんだって思ったら、胸が締め付けられそうだった・・・。
でも・・・あの時はただの同僚で、まだぜんぜん親しくなかったから何も言えなかった。」
「藤井・・・・。」
藤井は腰を下ろし、翔子さんに貸したハンカチを握りしめる。
小さく鼻のすする音が聞こえ、深く俯いて髪を揺らしていた。
「でも・・・やっぱり悠ちゃんに会いたいから・・・イグアナの本を口実にやって来て・・・。
それで夜の公園で再会して・・・・・。
ねえ、あの時私が言った言葉を覚えてる?
『有川君は、私と同じ力を持ってる気がする』・・・そう言ったのよ。」
藤井の声はだんだんとかすれていく。
顔は見えないが泣いているのだと分かり、慰めようと手を伸ばした。
しかしその手はあっさりと払われ、小さな泣き声を漏らして目尻をぬぐっていた。
「俺は・・・覚えてるよ。あの夜のことを忘れたことはない。
だって・・・あれが全ての始まりだったんだから。」
そう、あの夜から俺の人生は変わり始めた。
暇が欲しいという下らない理由で会社を辞めた男が、色んな動物や人間と接することで変わり始めたんだ。
今の俺があるのは、藤井と出会ったおかげだ。
それは分かる。それは分かるが・・・藤井がここまで怒る理由が分からない。
別に動物と話せる力のことを誰かに教えたっていいじゃないか。
実際に去年の夏に、広田さんという植物と会話が出来るおばさんに教えたことがあるんだから。
あの時、藤井は怒るどころか、自分もそのおばさんと会ってみたいとはしゃいでいたはずだ。
なのにどうして今回は怒っているんだ?
相手が翔子さんだから?それともやっぱり昨日と今日のことを怒っているからか?
・・・分からない。俺にはさっぱり分からない。
何も答えない俺に業を煮やしたのか、藤井は顔を上げて話を続けた。
「あの日、悠ちゃんにイグアナの本を届けに来たのには理由がある・・・。
一つは・・・悠ちゃんのことが好きだったから。
自分の気持ちを伝えないまま終わるのが嫌だったから・・・。」
それは知っている。俺達が付き合い始めたのも、やはりあの夜の公園からだった。
俺が藤井に告白すると、藤井は答えた。
『私はもっと前から、有川君のことが好きだった』と。
こんな俺のどこを好きになったのか分からないが、今までその理由を深く考えたことはなかった。
また言葉を失う俺に、藤井は再び語りかけた。
「私が会社を辞めた悠ちゃんに会いに来たのは、それだけじゃない。」
俺は藤井の方を見つめ、息を飲んで言葉を待つ。
壁に掛けた時計の音がやけに大きく聞こえ、それが空気の重さを掻きたてていく。
藤井は大きく鼻をすすって息を吐き、濡れた瞳で俺を見つめてきた。
「あの夜に悠ちゃんに会いに来たのは、私と同じ力を持っていると思ったから。
会社にいる時の悠ちゃんは、心ここにあらずって感じでいつもボーっとしてた。
でも・・・その中にふと感じるものがあったの。
この人は、どこか別の場所を見ているって。
ここじゃないどこかを見つめて、ここじゃないどこかの音を聞いている。
その時、私は気づいたの。
ああ・・・この人は私と同じなんだって。
他の人には見えない動物の心が見えて、他の人には聞こえない動物の声が聞こえるんだって。
ただの勘でしかなかったけど、でも絶対に間違いないって確信があった。
そして・・・その確信は正しかった。
あの時私は感じたの。この人は、出会うべくして出会った人だって。
そして動物と話せるこの力は、私たち二人を繋ぐ絆だったんだって。」
ああ・・・思いだした・・・。藤井と再会したあの夜、確かにそんなことを言っていた。
だからこそ俺を追いかけてきたのだ。同盟を組もうと・・・。
そうか・・・あれが出発点で、あそこから全てが始まったんだ。
あの同盟の話が無ければ、俺たちが繋がることもなかったんだ。
今になってそのことを思い出し、どうして藤井が俺のことを好きになったのか少しだけ分かった気がした。
きっと、藤井は仲間を求めていたのだ。
本当の自分を見せられる人間を、そして本当に心を開いて話し合える人間を。
だから俺のことを・・・・・。
・・・ごめんな、藤井・・・。素直にそう言いたいと思った。
しかし何かがそれを拒否していた。
恐らく昨日から続くイザコザのせいで、俺も少しばかり腹が立っているのかもしれない。
別にわざとやったわけじゃないのに、どうしてここまで問い詰められる必要があるのか?
過去に広田さんに動物と喋れることを教えた時には怒らなかったくせに、どうして今回はこんなに怒るのか?
色々な苛立ちや葛藤が渦を巻き、俺の口から出て来た言葉は、謝罪とは程遠いものだった。
「・・・知らないよそんなこと。」
藤井の肩がピクンと揺れ、驚いたように目を見開いていた。
きっと今のは深く傷ついたに違いない。
今ならまだ間に合う、ちゃんと謝った方がいい。
自分の中の本心はそう語りかけて来るが、俺のしょうもない意地がそれを拒んだ。
「そんな昔のことなんかどうだっていいだろ。
大事なのは今どうであるかだ。
俺たちはお互いが好きで付き合っているわけだし、上手くいってるじゃないか。
それに同盟の活動だってちゃんとやってる。
上手くいかない時もあるけど、でも手を抜いたことなんかない。
いつだって困ってる動物を助ける為に、力いっぱいやってきたんだ。
そして・・・それはこれからも変わらない。
俺はお前が好きだし、同盟の活動だって誇りに思ってるよ。
でも・・・こんなちょっとしたことでそこまで怒られる筋合いはない。
俺の持ってる力を誰に話そうと、それは俺の勝手だろ?
お前にとやかく言われる筋合いはないよ!」
思わず語気を荒げてしまい、最後は怒鳴りつけるような形になってしまった。
・・・最悪だ。これだから意地を張るとロクなことにならない。
そのことを知っているはずなのに、どうして止められなかったのか?
俺は思わず顔を逸らし、横目で藤井の顔を見た。
「・・・・・・・・・・・・・。」
悲しそうな、そして切なそうな目で俯いている。
もうそこに怒りはなく、半分諦めのような表情が混じっていた。
「そんな顔するなよ。俺は間違ったことは言ってない。
俺のことを誰にどう話そうと、俺の自由なんだからな。」
ああ・・・また言っちまった・・・。
でもここまで来ると、意地って奴は簡単に引っ込めることが出来ないのだ。
藤井は顔を上げ、もう怒りも涙もない目で見つめていた。
「悠ちゃん・・・。動物と話が出来る力は、誰にでもあるわけじゃない。
そんな人は私の知る限り、悠ちゃんと私しかいない。
・・・でも二人は出会った。運命なのか偶然なのか・・・、ううん、きっと運命だと思ってる。
こんなに広い世界で、こんなに変わった人間同士が出会ったんだもの。
だから私たちの絆は特別なものだと思ってた。
でも・・・それは私だけだったのかな?
悠ちゃんにとっては、なんでもない事だったのかな?」
藤井の声は柔らかかった。
先ほどまでの問い詰めるような荒々しさはなく、ただ語りかけるような静かな口調だった。
「俺は・・・・・。」
俺もお前と一緒だよ。
今さっき、大事なことを思い出したから。
どうしてお前が俺に会いに来たのか、どうしてお前が俺のことを好きになったのか。
そのことが理解出来た今、どうしてお前が動物と話せる力にこだわるのかよく分かった。
だから・・・俺もお前と同じだよ。
動物と話せるってことは、他の誰にもない俺達だけの絆だ。
・・・・・そう答えたかった。
でも意地ってやつは中々顔を引っ込めてくれない。
こんな重要な場面でも、本心を押しのけてグイグイとしゃしゃり出て来る。
「俺は・・・・・そんなふうに思ったことはないよ。」
くそ!何でこんな言葉が出て来るかな・・・。
違うのに・・・ほんとはそんなこと思ってないのに・・・。
「確かに動物と話せる力は珍しいけど、他にも同じ人間がいるかもしれないだろ。
もっといえば、もしお前が、俺以外に動物と話せる男と出会ってたら、そいつのことを好きになってたかもしれないだろ。
だから・・・俺はこんなものを特別な絆だなんて思ったことはない。
だからこの力のことを誰かに話したって、お前に文句を言われる筋合いなんてないよ。」
言葉ってやつは恐ろしいものだ。
いくら本心では違うと思っていても、口に出した途端に「実はその通りなんじゃないか?」と思えてくる。
「そうだよ、もし藤井が俺より先に別の男と出会って、しかもそいつが動物と話せる奴だったら、きっと好きになってるはずさ。
そんなものが俺達の絆だとしたら、それってすごく寂しいんじゃないか?
なあ藤井。お前は本当に俺のことを好きなのか?
俺の持つこの力に、ただ仲間意識を感じているだけじゃないのか?
これから先の人生で、俺以外に動物と話せる男がいてさ、しかもそいつがカッコイイ男だったらどうするんだ?
そいつがすごい金持ちで、高学歴の高収入の男だったら、それでもお前は俺を選ぶのか?
なんなら、動物と話せる力を持った男なら、誰でもよかったんじゃ・・・・、」
そこまで言った時、藤井の平手が俺の頬を叩いた。
パシン!と気持ちがいいくらいの音が響き、藤井の涙交じりの目が俺を見つめていた。
「ああ・・・いや・・・・。」
藤井の平手打ちと刺さるような視線のおかげで、俺は我に返った。
そしてとんでもないことを口走ったことに気づき、慌てて謝ろうとした。
「ご、ごめん!違うんだ!そんなつもりじゃなくて・・・・。」
しかし藤井は聞く耳を持たない。
バッグを掴み、勢い良く立ちあがって俺を睨んだ。
「・・・・悠ちゃんの本心はよく分かった・・・・。
もう何も言わない。翔子さんにでも誰にでも、自分のことを話したらいい。
私は・・・悠ちゃんにとってその程度の存在だったんだから・・・・。」
震える声で言葉を投げつけ、逃げるように部屋から出て行く藤井。
俺は立ち上がり、慌てて後を追いかけた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!今のは俺が悪かった。」
藤井を引きとめようと腕を掴むと、また平手打ちが飛んできた。
「今さらそんな言い訳聞きたくない!
私は・・・私は誰でもよかったなんて思ってないよ!
悠ちゃんだから好きになったのに・・・。悠ちゃんだから、同盟を組もうと思ったのに・・・。
でもそんなふうに思われてるなら、これ以上一緒にいられない!」
「ち、違うんだ・・・。話を聞いてくれ。」
「触らないでよ!」
藤井は唇を噛んで俯き、靴を履いてこちらを振り返った。
「お金を持ってるからとか・・・カッコイイからとか・・・そんなのどうだっていい!
悠ちゃんだから好きになったのに・・・・。
悠ちゃんが・・・悠ちゃんが動物と話せる力を持ってるから、もっともっと好きになっただけなのに!
他の誰でもいいわけないじゃない!
私はそんなにいい加減な女じゃない!馬鹿にしないでよ!」
「いや、違うんだ!俺の話を聞いてく・・・・・、」
俺の伸ばした手を振り払い、藤井はドアを開けて出て行った。
追いかけようとして外に向かうと、勢いよく戻ってきたドアに顔を打ち付けた。
「痛い!」
思わず鼻を押さえてしゃがみこみ、ドアノブに手を掛けて外に出る。
「藤井!」
藤井は階段を駆け下り、逃げるように走り去って行った。
「ああ・・・なんてこった・・・・。」
舌打ちをしてドアを叩きつけ、藤井が去って行った道路を睨みつける。
「俺は・・・どうしてあんなことを言ったんだ・・・。
しょうもない意地を張って・・・。馬鹿だ俺は!」
ドアを開けて中に入ると、動物たちが不安げな目でこちらを見つめていた。
「悠一・・・さっきのは言い過ぎだぜ。」
「あれじゃ藤井が怒るのは当たり前だな。」
マサカリとカモンが責めるような口調で言う。
俺は返事をせずに部屋に戻り、テーブルの前に腰を下ろした。
しばらく何も考えられずに、藤井の怒っている顔だけが目に焼き付いていた。
「初めてかもな・・・あそこまで怒ったところを見たのは・・・・。」
それからすぐにケータイが鳴り、メールの着信を知らせた。
俺は躊躇いながらケータイを手に取り、そっとボタンを押してメールを開いた。
『しばらく会わない。フェレットの件は私一人でやるから。』
俺はケータイを閉じ、テーブルの上に置いて寝転んだ。
「ごめんな藤井・・・・って、今さら言っても遅いか。」
冷たく吹きつける冬の風が、カタカタと窓を揺らしていた。

勇気のボタン 二人の道 第六話

  • 2014.02.06 Thursday
  • 18:19

「傷はそんなに深くなかったので、命に別条はありません。
しかし出血がひどかったので、力が戻るまで多少時間がかかるでしょう。
まあ三日ほど入院して問題がなければ、家へ帰ることが出来ますよ。」
獣医さんは安心させるように翔子さんに微笑みかける。
「ああ・・・よかった・・・。ありがとうございます。」
目に涙を浮かべながら頭を下げ、小さなベッドに寝かされているコロンの頭を撫でた。
「コロン、よかったね。命に別条はないって・・・・。」
「・・・・・・・。」
包帯に巻かれたコロンは、薄く目を開けて口を動かした。
「どうしたの?何か伝えたいの?」
翔子さんは耳を近づけてコロンの声を聞き取ろうとする。
「・・・クウーン・・・・。」
「うん、痛かったね。でももう大丈夫だからね。」
ポツリと涙を流してコロンに頭をくっつける翔子さん。
俺はその後ろで腕を組んで笑っていた。
「くそ・・・あの猪め・・・。いつかボタン鍋にしてやるわ。」
コロンは腹立たしそうに愚痴をこぼす。
手術を終えたばかりでこれだけの元気があれば大丈夫だろう。
それからコロンは奥の部屋に連れて行かれ、翔子さんは入院の説明と治療費を払う為に受付に向かった。
「助かってよかった・・・。
あれだけ毒を吐く元気があれば、きっとすぐに回復するだろうな。」
俺は入り口のドアの近くで翔子さんを見つめ、外を振り返って藤井のことを考えた。
「あいつらどこ行っちまったんだろうな。
フェレットもいなくなってたから、一緒に巣穴にでも行ったのかな?」
多少心配ではあるが、まさかまた猪に襲われることもないだろう。
ここは下手に捜し回るより、アパートであいつらが帰って来るのを待つことにするか。
そう考えながら外を眺めていると、翔子さんにポンと背中を叩かれた。
「ああ、翔子さん。もう入院の説明やらは終わったんですか?」
「はい。とりあえず三日はこちらで入院させて頂いて、調子がよければすぐに退院できるそうです。」
「そりゃよかった。コロンはすぐに元気になりますよ。
なんたってあいつは・・・・、」
あいつは毒を吐くくらい元気でしたからね。
そう言いかけて慌てて口を噤んだ。
まずい、まずい・・・。下手なことを言ったらまた疑われてしまう。
苦笑をみせて誤魔化すと、翔子さんは真剣な目でじっと見つめてきた。
「あ、あの・・・・翔子さん・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
これは明らかに俺のことを疑っている。
昨日翔子さんは言った。『有川さんて、動物と喋れるんじゃないですか?』と。
その疑惑は今日になっても残っているようで、翔子さんの視線は俺を射抜くように突き刺さっている。
しかしふと表情を緩め、小さく笑って言った。
「今日は麻酔が効いているから、しばらく眠ったままだそうです。
それに今は絶対安静だから、下手に刺激を与えない方がいいみたいで。
だから今日はここにいてもすることがありません。」
「そ、そうですか・・・。なら今日は家に帰ってゆっくり休んだ方がいいかもしれませんね。
コロンがあんなことになって、翔子さんもショックだろうし。」
俺は冷や汗を掻きながら、ゴクリと唾を飲んだ。
なるべく早く別れないと、きっと良くない事が起こる。
自分の中の警報ランプが、赤く点滅しながらそう告げていた。
「じゃ、じゃあこれで・・・・。」
俺は引きつった笑顔で手を上げ、自動ドアをくぐって外に出た。
そしてアパートに向かって駆け出そうとした時、後ろからギュッと腕を掴まれた。
「待って下さい!」
嫌な汗が背中じゅうに噴き出す。
腕を払って逃げ出そうかと思ったが、さすがに翔子さん相手にそれは気が引ける。
「有川さん。」
翔子さんは、顔に似合わない低い声で呼びかける。
俺は恐る恐る振り向き、「なんでしょう・・・?」と無理やり笑顔を作った。
「これからちょっとお時間を頂けませんか?お話したいことがあるんです。」
「お・・・お話・・・ですか?」
「はい。昨日のカレンのことと・・・そして有川さんのことで。」
「お、俺のこと?」
翔子さんは何も言わずにコクリと頷く。
ああ・・・これはいよいよまずいかも・・・・。
きっと今の俺は馬鹿みたいに引きつった顔をしていることだろう。
しかし、そこでふと疑問に思った。
どうして俺は、動物と会話出来ることがバレるのを恐れているのだろう。
いや、理由はある。あるにはあるが・・・それは赤の他人だった場合の話だ。
俺のことをよく知らない人間にいきなり「俺、動物と会話出来るんですよ」などと言ったら、確実に変質者扱いされるからだ。
多少知っている人間であっても、きっと引くに違いない。
しかし翔子さんならどうか?
ここまで疑惑を持ち、尚且つ犬の散歩友達としてそれなりに親しくなっている。
ならば・・・別にバレてもいいんじゃなかろうか?
きっと翔子さんなら、俺のことを変な目で見たりしないんじゃないだろうか?
頭の中で様々な葛藤が浮かび、一人悶え苦しんでいた。
すると翔子さんは俺の腕から手を離し、明後日の方を見つめて口を開いた。
「私ね・・・ずっと夢があったんです。」
「夢・・・ですか?」
「子供の頃から動物が好きで、いつか動物と喋れるようになったらいいなって思っていたんです。
でも大人になるにつれて、そんなことはどう頑張っても不可能だって分かって・・・。
だからせめて・・・心と心で動物と繋がることが出来るような人間になりたいと思ったんです。」
翔子さんは無表情のまま淡々と語る。
しかしその瞳には微かに悲しみが含まれていた。
「でも・・・私って不器用だから、それさえ上手く出来なくて・・・。
私は真剣に動物のことを考えているつもりなんですけど、いっつも空回りしちゃんですよ。
だからきっと・・・カレンやコロンは私のことを鬱陶しいと感じているはずです。」
「翔子さん・・・。」
冷たい木枯らしが吹きぬけ、犬を連れたおばさんが身を震わせて病院に入っていく。
俺はそれを目で追いながら、翔子さんを振り返って言った。
「それは違いますよ翔子さん。カレンもコロンも、翔子さんのことを鬱陶しいなんて思っていません。」
また木枯らしが吹き、落ち葉がカサカサと道を転がっていく。
翔子さんは髪を揺らして俺の方を見つめた。
「きっと・・・カレンもコロンも、翔子さんに飼われていることを幸せに感じていると思いますよ。
そりゃあたまには喧嘩をすることもあるでしょうけど、それは俺だって同じです。
マサカリと取っ組み合うなんてしょっちゅうですからね。
お互いの気持ちが空回りして、誤解を生むことだってある・・・。
でも、それは本当に相手のことを考えているからでしょう?
どうでもいい奴なら、喧嘩すらしませんしね。
だから・・・きっと翔子さんの気持ちは動物たちに伝わっていると思います。
たとえそれが空回りであっても、最後にはちゃんと伝わるもんですよ。」
少しカッコをつけた言い方になってしまったが、今の言葉は俺の本心だった。
人間でも動物でも、本気で付き合えば喧嘩をするのは当たり前だ。
俺はあいつらと一緒にいる間に、そういう大事なことを教えてもらった。
動物たちに・・・そして藤井に・・・。
俺の気持ちが伝わったのかどうかは分からないが、翔子さんは泣きそうな顔で俯いて鼻をすすった。
「・・・ありがとう・・・そう言ってもらえると嬉しい・・・。」
木枯らしに髪を揺らしながら、翔子さんは顔を逸らして涙を拭う。
そして大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着かせるように胸に手を当てた。
「有川さん。きっと・・・私の考えは正しいと思います。」
一瞬何のことか分からず、「はい?」と素っ頓狂な声を出してしまった。
「私は・・・ずっと迷っていたんです。
自分の考えが正しいのか、間違っているのか・・・。
現実的に考えればそんなことはあり得ないし、でも心の中の疑念は消えないし・・・。
ずっとずっと迷っていたんですけど、さっきの有川さんの言葉を聞いて確信しました。
あなたは・・・きっと動物と会話が出来るはずです。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
昔の哲学者は言った。『語りえぬことについては、沈黙せざるをえない』
俺はその言葉に従い、じっと黙りこむ。
もちろんその哲学者は、誤魔化す為に黙れと言っているわけじゃないだろう。
しかし・・・俺は迷っていた。
動物と喋れる力のことを話してもいいのか、ダメなのか?
二つの考えを天秤に掛けた時、僅かであったが「喋っちゃえ」という方が勝った。
俺は神妙な顔で咳払いをして、まっすぐに翔子さんを見据えた。
「あの・・・実はですね・・・・・・・、」
しかしその時、翔子さんはブルッと身を震わせてクシャミをした。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ちょっと冷えたみたいで・・・。
すいません、話の腰を折ってしまって。どうぞ気にせずに続けて下さい。」
翔子さんは俺の言葉を一つも聞き漏らすまいと、目に力を込めて見つめてくる。
しかしまたクシャミをして腕をさすっていた。
「このままじゃ風邪を引きますよ。どこか暖かい場所へ移動しましょう。」
「す、すみません・・・。」
俺は上着を脱いで翔子さんい手渡した。
「どうぞ。」
「いえいえ!悪いですよそんなの。」
「何言ってるんですか、本当に風邪引いちゃいますよ。
昨日は翔子さんがハンカチを貸してくれたんだから、気にせずに使って下さい。」
「で、でも・・・・。」
翔子さんは申し訳なさそうに躊躇っていたが、俺は後ろに回って肩に羽織らせた。
「それじゃすぐ近くに喫茶店があるから、そこでお話しましょうか?」
「分かりました。」
俺たちは動物病院のすぐ近くにある喫茶店に向かう。
しかしその途中であることを思い出し、財布を取り出した。
「ああ・・・そういや金を下ろすの忘れてたんだった・・・。」
ただでさえ軽い俺の財布が、薬局で薬と包帯を買った為にさらに軽くなっていた。
すると翔子さんは「私が払いますからいいですよ」と笑った。
「いやいや、そりゃ悪いですよ。」
「いんです、お時間を頂いているのは私の方なんですから。」
そう言って笑いながら財布を取り出すが、急に表情を変えて財布の中を覗き込んだ。
「ああ!そういえば私もさっきの治療費の支払いで・・・・・。」
どうやら翔子さんの財布もずいぶんと軽くなってしまったようである。
「今日はカードも持って来てないし・・・どうしよう・・・。」
そりゃあ犬の散歩でいちいちカードを持ち歩く人間はないだろう。
俺からすれば、財布を持っているだけでもちょっと驚きだったが、これが庶民とお金持ちの違いなのかもしれない。
翔子さんは困ったようにオロオロと財布の中を見つめている。
「ダメだ・・・やっぱりないや・・・。」
そしてまたクシャミをして肩を震わせていた。
俺は空を見上げて少しだけ考え、躊躇いがちに翔子さんに尋ねた。
「あ・・・あの・・・よかったら家に来ますか?」
そう尋ねると、翔子さんはキョトンと目を丸くする。
「家って・・・有川さんの家ですか?」
「え、ええ・・・そうです。もしよかったらですけど・・・・。」
気を遣いながら尋ねると、翔子さんは固まったまま動かない。
俺は慌てて手を振り、すぐに自分の言葉を撤回した。
「いやいや!嫌ならぜんぜんいんですよ、ええ!
このままだと翔子さんが寒いだろうし、ここからだと俺のアパートが近いからそう言っただけで。
だからぜんぜん・・・うん・・・やっぱりどこか他の場所へ行きましょう。
あ、そうだ!俺今からコンビニでお金を下ろしてくるから、どこかの他の喫茶店にでも・・・・、」
自分でも何を言っているのかわけが分からない。
しかし俺が言い終える間に、翔子さんは強く首を振って「行きます!」と答えた。
「有川さんの家って、たくさん動物がいるんでしょう?
犬に猫にハムスターに、それにインコとイグアナまで。」
「ええ、でも今は犬と猫とインコはいないと思いますが・・・・。」
「それでもいいんです!私・・・一度でいいから動物たちに囲まれて暮らすのが夢なんです!
だから実際にそうやって暮らしている人の家に行けるなんて感激っていうか・・・。
是非連れて行って下さい、有川さんの家に!」
翔子さんは拳を握り、鼻が触れるほど顔を近づけてくる。
う〜ん、やはりこういうところは藤井に似ている気がするなあ。
「分かりました、じゃあ今から行きましょうか。」
「お願いします!」
まるで戦場に赴くように気合を入れ、いつもの穏やかな表情が消えていく。
さっきまでクシャミをして寒がっていたのに、今は身体の中から炎が燃え上がるように熱い目をしていた。
見た目とは裏腹の熱い情熱に驚きながらも、俺は翔子さんを家に案内した。
「ここが俺のアパートです。」
「へええ・・・ここに動物の楽園が・・・・。」
翔子さん・・・ちょっとおかしくなってませんか?
壁にヒビが入り、屋根にツタが巻きつくこのアパートのどこが楽園に見えるのでしょうか?
俺は適当に笑いを返し、ドアを開けて中に招き入れた。
「汚い部屋ですけど・・・。」
「うわあ・・・動物の匂いがプンプンする・・・素敵・・・。」
「そうですか・・・?ほとんどの人は臭いというんですが・・・。」
「そんなことありません。私は獣の匂いって大好きなんです。」
そう言って深呼吸をしながら胸いっぱいに吸い込む。
「まあまあ・・・どうぞ中へ上がって下さい。」
「はい、お邪魔します。」
翔子さんはトコトコと俺の後ろをついてくる。
そして部屋に入ると、窓際のマリナを見つけて寄声を上げた。
「きゃあ!イグアナ!」
手を叩いて駆け寄り、目をキラキラとさせて見つめている。
「おい悠一。なんだよこの美人は?藤井やマサカリはどうしたんだ?」
テーブルの上でハムスター用のブランコに乗っていたカモンが、鋭い口調で尋ねてくる。
「藤井達とはぐれちまったんだよ。」
「なんで?」
「それは翔子さんの犬が・・・・、」
俺は手短に説明しながら、台所へ行ってお茶を淹れてきた。
「なるほどねえ・・・この人が翔子さんか。悠一が熱を上げるのも分かる気がするなあ。
お前ってけっこう面食いだから。」
「そんなんじゃないよ。ちょっと話があるっていうからここへ来てもらっただけだ。
外は寒いし、金もなかったし。」
暖かい番茶をすすりながら言うと、カモンはちっこい腕を組んで俺を睨んだ。
「後でどうなっても知らないぜ。昨日あんなことがあったばかりなのに。」
「だから別にやましいことなんてないよ。ただ話をするだけなんだから。」
俺は湯呑みを置き、マリナと戯れる翔子さんを呼んだ。
「あの・・・お茶淹れましたんでよかったらどうぞ。」
「ああ、ありがとうございます。」
ニコニコとしながら振り向き、マリナを抱えて俺の向かいに座る翔子さん。
彼女の腕の中で、マリナが迷惑そうな顔をしていた。
「ちょっと・・・何なのよこの人は?イグアナの扱いってもんを全く分かってないわ・・・。」
小声で愚痴をこぼし、イラついたように尻尾を振っている。
翔子さんはそれを喜んでいると勘違いして、さらに身体を撫でまくる。
「こんなにイグアナを触ったのって初めて。ほら、喉を鳴らしてごらん。」
翔子さん、いくらイグアナの頭を撫でても喉は鳴らしませんよ・・・。
マリナは呆れたように息をつき、「なんとかしてちょうだい」と助けを求める。
「あの・・・翔子さん。」
「はい、なんでしょう?」
「可愛がってあげるのはいいんですが、そいつちょっと嫌がってるみたいで・・・。」
「ええ!そうなんですか?ごめんね、気づかなくて・・・。」
申し訳なさそうに謝り、そっとマリナを下ろす。
俺は立ち上がってマリナを抱え、陽が当たる窓際の棚に乗せてやった。
「イグアナは変温動物ですから、暖かい場所を好むんです。
特に今みたいな寒い季節はね。」
マリナは日光を受けて顔を緩め、「ふう・・・」と気持ちよさそうに声を漏らした。
「マリナっていうんですか、そのイグアナ?」
「そうです。そしてこっちのハムスターがカモン。」
俺はカモンを手に乗せ、翔子さんの前に近づける。
「うわあ、可愛い!私もハムスター飼いたいんです。
でもカレンがいるから飼えなくて・・・・。
有川さんの家では、猫がハムスターを襲ったりしないんですか?」
「そうですねえ・・・喧嘩はするけど、襲うってことはないですね。
みんな仲良くやってますから。」
「へええ・・・すごいなあ・・・羨ましいなあ・・・。」
翔子さんはとろけるような瞳でウットリして、カモンを手に平に乗せた。
「ほらカモン。喉を鳴らしてごらん。」
そう言ってまた頭を撫で始める。
う〜ん・・・動物のことが好きなのは分かるけど、動物に対しての知識はほとんどないらしい。
喉を鳴らすハムスターがいたら、俺もこの目で見てみたいものだ。
「おい悠一、この女は大丈夫なのか?
見た目は綺麗だけどオツムがアレだぜ。」
カモンは顔をしかめて翔子さんを指さす。
俺は苦笑いしながらお茶を飲み、正座に座り直して翔子さんに話しかけた。
「翔子さん、そろそろお話というのを・・・・。」
遠慮がちにそう言うと、「ああ、すいません!」と我に返って背筋を伸ばした。
「ええっと・・・じゃあまずはカレンのことから・・・・。」
真剣な表情に戻って湯呑みを掴み、そこに映る自分の顔を見つめながら口を開いた。
「昨日有川さんが帰ったあと、彼が家に来たんです。
その時はちょうどカレンは外に出ていましたから、彼はすごくご機嫌でした。
その様子を見て、ああ・・・やっぱりこの人はカレンが嫌いなんだなって・・・。」
「う〜ん、そこまで露骨に態度に出るなんて、よっぽど猫が嫌いなんですね。」
「ええ・・・。でも問題はその後なんです・・・。
しばらく彼と喋っていると、カレンが窓の外に帰って来たんです。
だから中に入れようと窓を開けたら、急に彼も立ち上がって私を止めたんです。
もう少し外に出しとけばいいって。」
「カレンに戻って来てほしくなかったんですね?」
翔子さんは目を伏せて頷き、手を温めるように湯呑みを両手で掴む。
「すいません、寒いですよね?すぐにストーブを入れますから。」
「ああ、いえ・・・お構いなく。」
部屋の隅にある電気ストーブを掴み、翔子さんの隣に置いてスイッチを入れた。
「ほんとうはコタツがあったんですが、二週間前に動物たちが暴れてコードが切れちゃったんですよ。
エアコンが温もるまで、ちょっとそれで我慢していて下さいね。」
「すみません、気を遣わせてしまって・・・。」
翔子さんは電気ストーブの温もりに頬を緩め、貸していた上着を脱いで「これ、ありがとうございました」と脇に置く。
俺は軽く相槌を打ち、リモコンを操作して暖房のスイッチを押した。
「それで、その後はどうなったんですか?」
翔子さんはお茶を一口飲み、暗い顔で話を続けた。
「その後は彼と喧嘩になりました。
私は早くカレンを中に入れたかったんです。外は危険だし寒いから。
でも彼は反対しました。もうしばらく外に出しておけばいいと。
そしてピシャリと窓を閉めてカーテンまで引いてしまったんです。」
「そりゃ強気に出ましたね。」
「だから私はカッとなって怒っちゃったんです。
外は寒し、早く入れてあげないと可哀想だから邪魔しないでって。
そしたら彼も怒りだしちゃったんです。俺と猫とどっちが大事なんだ!あんなもんほっとけって!って
そして私の手を握って外に出ようとしたんです。」
「外にですか・・・?」
「お前の家にいたら、動物のことばかりで落ち着いていられないからと。
だから俺の家に行こうって。
もちろん私は断りましたよ。カレンをほうっておけるはずがないから。
そしたら・・・・・。」
「そしたら・・・・・?」
翔子さんは息を飲み、すがるように湯呑みを握りしめた。
「そしたら彼は窓を開けて、カレンのことを追い払ったんです。
そのせいでカレンは危うく窓から落ちそうになって・・・・。
気がついたら私は・・・また彼のことをブッてしました。今度はグーで・・・。」
むうう・・・グーで殴るとは相当頭に血が昇っていたに違いない。
普段のおっとりした翔子さんからは想像もつかないな。
「殴ったあとにハッと我に返って謝ったんですけど、彼はすごく怒ってて・・・。
何が何でもお前を俺の家に連れて行くって言って、力任せに腕を引っ張られたんです。
そして廊下に連れ出されたところで、ちょうど兄と出くわして・・・。」
「お兄さんって・・・あの武道の達人のお兄さんですか?」
「そうです。私が無理矢理に引っ張られている姿を見て、すぐに彼の腕を捻じり上げたんです。
死にたいのか?って怖い顔で睨みながら。」
俺はその場面を想像してブルリと身震いした。
きっと翔子さんの彼氏は、オシッコをチビるほど怖かったに違いない。
「彼は兄の迫力に怖がって平謝りしていました。
そして逃げるように家から出て行って、その後にメールが来たんです。
恋人より猫を選ぶような奴とはやってられない。別れようって・・・。」
「ははあ・・・じゃあ今の彼氏さんとはもう・・・・、」
「終わりました。殴った私も悪かったから、電話を掛けたんですけど出てくれなくて。
多分・・・もう会うことはないと思います。
有川さん・・・これってやっぱり私が悪いと思いますか?
やっぱり・・・動物に対して過保護すぎるからこうなってしまったんでしょうか?」
「う〜ん・・・それは・・・・。」
何とも言えない。俺は他人の恋愛事情に口が出せるほど、恋愛に詳しい男ではないのだ。
しかし話を聞いている限り、その彼氏さんはちょっと可哀想な気がする。
きっと翔子さんは、彼氏といる時でもカレンにかまいっぱなしだったのだろう。
そうなれば恋人として不満が溜まるのは当然で、そういう意味では彼氏の怒りは正しいと思う。
しかし大切にしている飼い猫に手を上げられて我慢しろというのも無理な話だ。
もし俺が翔子さんの立場だったら怒るだろうし、でも彼氏さんの男としての気持ちも分かる。
・・・複雑だ・・・。というより、他人の恋愛問題などに首を突っ込みたくない。
「申し訳ないですけど、俺には何とも言えません。
これは翔子さんと彼氏さんの問題だから・・・。すいません。」
情けない答えだと思いながら頭を下げると、翔子さんは「いえいえ、いいんです!」と手を振った。
「こんなのただの愚痴ですもんね。下らない話を聞かせてしまってすみません。」
深く頭を下げられて、俺は恐縮しながらカモンを掴んで振り回した。
「おいコラ!なんで俺を振り回す必要があるんだ!」
「ああ、ごめん。ちょっと気持ちを落ち着かせようと思って。」
「そんなもんは深呼吸でもしてろ!こんなのはハムスターの正当な扱い方じゃない!
俺は断固抗議するぞ!今日の餌は三割増にしろ!」
「それは断るけど、謝るのは謝る。すまん。」
「ぬうう・・・なんか腹立つな。プイ!」
カモンはほっぺたをパンパンに膨らませ、腕を組んでそっぽを向いてしまった。
その姿を見た翔子さんは「可愛い!」と言ってカモンを抱き寄せる。
そしてスリスリ頬ずりをした後、真剣な顔で俺に尋ねた。
「有川さん・・・正直なところを言うと、彼とのことを相談しに来たんじゃないんです。
これは確かに私たちの問題だから・・・。
私が本当に有川さんに聞きたいことは一つだけです。
動物と喋ることが出来るのかどうか、そのことだけです。・・・どうなんですか?」
翔子さんは射抜くような視線を向けながら、そっとカモンを撫でた。
「さっきだってこのハムスターに話しかけていましたよね?
まるで動物の言葉が分かっているみたいに・・・。
だから教えてくれませんか?有川さんは、動物と会話が出来るのか?」
場の空気が重くなり、カモンとマリナが俺に視線を飛ばして来る。
その目は明らかにこう言っていた。『余計なことを喋らないほうがいい』と。
しかし翔子さんの視線も負けてはいなかった。『私に本当のことを教えてちょうだい』と。
二つの視線が俺を攻め立て、心の中に激しい葛藤が起きる。
しかしここで翔子さんに嘘を吐けば、わざわざアパートまで来てもらった意味がなくなってしまう。
俺は覚悟を決め、大きく息を吸い込んで口を開いた。
「そこまで真剣に尋ねられたら、俺も真剣に答えないと失礼ですね。」
翔子さんはゴクリと唾を飲み、カモンを抱いたまま身を乗り出す。
「実はですね、俺は動物と・・・・。」
「動物と・・・?」
翔子さんはさらに身を乗り出す。俺はその視線を受け止め、堂々と答えた。
「俺は動物と喋ることが・・・・、」
腹に力を込めて言おうとした時、ガチャリとドアが開いた。
「うい〜、大変だったな・・・。まさかタヌキにケツを噛まれるとは思わなかったぜ。」
「ほんとねえ、野生動物の方も相当怒ってもんねえ。」
この声は・・・・・マサカリとモンブラン!
ということは藤井達が帰って来たのか?
「でもみんな怪我がなくてよかった。怒ってる動物を相手にする時は気をつけないとね。」
やっぱり帰ってきた・・・。
俺は口を開けたまま固まり、背中に嫌な汗が滲んでくるのを感じた。
「それにしても悠一はどこ言ったんだ?薬局なんてそんなに遠くないだろ?」
「さあな、もしかしたらまた翔子と会ってたりして。」
「まさか〜!いくらなんでも昨日の今日でそれはないでしょう〜。」
動物たちはワイワイと騒ぎながらこちらへやって来る。
そして俺と翔子さんが向かい合って座っているのを見て、固まったように立ち尽くしていた。
「よ、よお・・・お帰り・・・。」
顔の筋肉を無理矢理引っ張り上げて笑う俺。
言葉を失くして固まる動物たち。
そしてその後ろから藤井がトタトタと歩いて来た。
「みんなどうしたの?そんな所で立ち止まって。」
藤井は不思議そうに言いながら部屋へ入って来て、動物たちと同じように固まった。
「や、やあ・・・お帰り・・・・・。」
なんとか笑顔を作ろうとするが、もはや顔の筋肉が硬直して動かない。
部屋の空気が木枯らしよりも寒く凍りつく。
まるでここだけ時間が止まっているように感じられ、俺の唾を飲む音がやけに大きく響いた。
「マサカリ!久しぶり。」
翔子さんはマサカリに駆け寄り、よしよしと撫でて頬ずりをしている。
動物たちはその光景を冷めた目で見つめ、俺の方に言いようのない殺気をぶつけてくる。
「あ、あの・・・どこ行ってたんだ?薬局に行って戻って来たら誰もいなくてさ。」
そう言って薬と包帯の入ったレジ袋を掲げると、藤井はツカツカと歩み寄って来て俺を睨みつけた。
「・・・どういうこと?」
怖ええ・・・。藤井のこんな怖い声を聞いたのは初めてだ。
その時俺はピーンと感じた。
ああ、これが女を怒らせるということか。
いつもの優しい藤井はどこへやら、今は氷の女王のような冷たい殺気を纏って俺を見下ろしている。
「ねえ有川さん、マサカリまた太ったんじゃないですか?
ほら、お腹がこんなにぷよぷよ。」
場違いな明るい声が響き、マサカリのお腹がタプンタプンと鳴っている。
すると藤井の殺気はさらに恐ろしさを増し、より低い声で聞いてきた。
「・・・・・ねえ、これはどういうこと?説明してくれるわよね?」
やっぱり怖ええ・・・。いつもの藤井とはまったく別人じゃないか。
「あははは!ほっぺもいっぱいお肉がついてる!」
藤井のこめかみがピクリと動き、一瞬だけ翔子さんを睨みつける。
翔子さん!お願いだからこれ以上藤井を刺激しないで!
俺はこれまでの人生で最も大量の冷や汗を流し、震える手でお茶を飲んだ。
湯呑みの中の番茶には、怖い顔で見下ろす藤井が映っていた。

勇気のボタン 二人の道 第五話

  • 2014.02.06 Thursday
  • 18:17
次の日の朝、俺たちは川沿いの土手に来ていた。
思えばこの場所に数々の思い出があるが、今日は感傷に浸りに来たのではない。
フェレットと野生動物の縄張り争いの仲裁の為にやって来たのだ。
土手の向こうには枯れた草や木が覆い茂っていて、どうみてもこの国の植物ではないものも生えていた。
「こうしてじっくり見てみると、外来種っていっぱいいるんだな。
あの草なんかアマゾンに生えてるような奴じゃないのか?」
「そうだね。人間はなんでも他所から持ちこんじゃうから、こうして色んな植物が生えてるんだよ。」
「だよなあ・・・。よく考えればアメリカザリガニだって外来種だし、ヌートリアなんかもそうだ。
でもこれから何千年とか時間が経つと、それはそれで一つの生態系になったりするのかな?」
「そうかもしれないね。でもその頃には私たちは生きてないけどね。」
藤井は可笑しそうにニコリと笑って言う。
今日は動きやすそうなジーンズに、紺色のジャケットを羽織っていた。
頭にはニット帽をかぶっていて、手には軍手をはめている。
「お前は相変わらず同盟の活動の時は気合入ってるよなあ。
特にその軍手がすごい。二十代の女の子が、休みの日に身につけるもんじゃないよな。」
笑いながらからかうと、「いいの」と拗ねてしまった。
「動きやすい恰好じゃないと困るでしょ?それに草が茂ってるから軍手の方がいいし。」
「おいおい・・・まさかあの草むらの中に入って行く気か?」
「もちろん。何度か下見に来たんだけど、あの草むらの中にいることが多いみたいなの。
だから早く行こ。」
藤井は元気いっぱいに土手を駆け降り、途中でつまずいて転びそうになっていた。
「やる気はあっても運動神経は鈍いな。」
俺は苦笑いしながら土手を下りた。
今日のお供はマサカリとモンブラン、そしてチュウベエだ。
まあこれもいつも通りのスターティング・メンバーである。
マリナは「私は家にいる」と言うし、カモンは下手をするとフェレットに食われる可能性がある。
そして正直なところを言うと、マサカリも家に置いてきたかったのだ。
しかしでしゃばりのこいつは、「俺も連れていけ!」と駄々をこねていつもの通りとなった。
マサカリが役に立った記憶はほとんどないのだが、まあ連れて来たものは仕方ない。
俺はマサカリのリードを引いて藤井の後を追いかけた。
「動物のことになると、藤井は人格が変わるよなあ。」
マサカリがたるんだ肉をブルブルふるわせて言った。
「それが藤井さんのいいところじゃない。
できれば悠一にもあれくらいのバイタリティがほしいわ。」
モンブランが冷たい流し目を寄こして言う。
こいつはまだ昨日のことでご機嫌斜めらしい。
一晩中嫌味を言っていたくせに、いつまで根に持つのか・・・・・。
そしてチュウベエは相変わらず馬鹿丸出しで、俺達をほったらかして地面の虫をつついている。
「おいチュウベエ。下手してフェレットに食われるなよ。」
「大丈夫、俺はそんなに鈍くない。」
充分鈍いよお前は・・・・・。
とまあ動物たちへの一通りのツッコミが終わったところで藤井に追いついた。
草を掻き分け、獲物を探すタカのような目で辺りを睨んでいる。
「藤井、顔が怖すぎだぞ。それじゃフェレットが逃げちゃうって。」
「え?ああ、そうか。じゃあ笑っておくね。」
そう言ってタカのような目のまま、口だけニコニコと笑っている。
う〜ん・・・こっちの方がよっぽど怖い・・・。
「それじゃモンブラン、お前はいつも通り単独行動で探してくれ。
見つけたら知らせるように。」
「ブ、ラジャー!」
「しょうもないギャグはいいよ。さっさと行ってこい。」
モンブランはシャシャっと駆け出し、草むらの中に消えていく。
そしてチュウベエも虫をつつくのに飽きたのか、空を舞ってフェレットを探し始めた。
「マサカリは臭いで探索してくれ。あまり期待はしてないけど。」
「おうおう、俺の鼻を舐めるなよ!人の二倍は鼻が利くんだぜ!」
それは犬としては失格だろう。
しかしどっちみちこいつには期待していないから問題ないが。
俺は藤井の方を見つめ、大きな声で呼びかけた。
「藤井!あまり無茶して怪我するなよ!」
「分かってる〜!」
全然分かってなさそうな声で返事が戻ってくる。
しかしまあ、これもいつものことだ。俺が冷静でいれば済むことであり、適当に歩き回って辺りを探していく。
「フェレットかあ・・・。なんかイタチのちっちゃい感じの奴だよな?」
「昨日図鑑で見たじゃねえか。もし見つけたら、俺様が一口で『パクリ!』だぜ。」
「パクリ!だぜ、じゃないよ。食ったら話が聞けないだろうが。」
俺は呆れた声を出しながら、草を分けて地面を覗き込んでいく。
所々に鹿の糞が落ちていて、それを踏まないように気をつけながら歩いた。
そして二十分ほど探しまわった頃だろうか、空を舞うチュウベエから「いたぞ!」と声が響いた。
「どこどこ!どこにいるの?」
藤井は草の種を服にいっぱいつけながら顔を上げた。
「そこそこ!藤井のすぐ後ろだ!」
「私の後ろ・・・?」
そう言われて振り向くと、枯れた草むらの向こうから「フゴー、フゴー」と低い声が聞こえた。
「な、何・・・・?何がいるの?」
それは明らかにフェレットの声ではなかった。
もっと大きくて、そしてもっと怖い生き物の声・・・。
それに気づいた時、俺は藤井の元に駆け出していた。
「逃げろ藤井!そいつは猪だ!」
「い、猪・・・・?」
藤井が呟いた瞬間、草むらの陰から大きな黒い塊が飛び出してきた。
そして藤井に向かって一直線に突進していく。
「きゃああああ!」
「藤井ー!」
何かがぶつかる音がして、藤井は草むらの中に倒れて見えなくなってしまった。
「くそ!こっちだ猪!こっちへ来い!」
俺は大きく手を振りながら藤井の元へ走っていく。
猪は俺の方を振り向き、怖い目で睨みながら突進してきた。
「やばッ!」
ドスドスと重い足音を響かせて猛スピードで突進してくる。
するとパニックを起こしたマサカリが「ギャンギャン」と吠えまくり、肉厚の顔を震わせてヨダレをまき散らした。
猪はその姿に怯え、一瞬だけ足を止める。
「フゴー、フゴー・・・。」
向かい合うマサカリと猪。
一方は油粘土を丸めて作ったような不細工なブルドッグ。
もう一方は筋骨隆々とした野生の猪。
戦えば勝負など見えているが、マサカリの狂ったようなパニックの声に、猪はかなり怯えているようだった。
しかしそこは腐っても野生の猪、すぐに気を取り直し、こちらに走って来た。
「ぎええええええ!」
マサカリはリードを引きずって逃げ出し、俺は成す術なく猪に突き飛ばされた。
「ぐふうッ・・・。」
猪の頭にぶつかった俺は、軽い交通事故のように宙を舞う。
あまりの衝撃に動けないでいると、猪はそのままどこかへ走り去ってしまった。
「なんてパワーだよ・・・。一瞬頭が真っ白になったぞ・・・。」
痛みは感じないが、突進された衝撃でしばらく動けなかった。
それを空から見ていたチュウベエが、「大丈夫か!」と飛び降りて来る。
「しっかりしろ悠一!死んだからダメだ!」
「死ぬわけないだろ・・・。でも・・・ちょっと死ぬかと思ったけど・・・。」
身体を触って確認してみると、幸い大きな怪我はしていないようだった。
マサカリが馬鹿みたいに吠えてくれたおかげで、きっと猪の勢いが削がれたんだろう。
「マサカリもたまには役に立つな・・・。真っ先に逃げ出しやがったけど・・・。」
なんとか立ち上がって遠くを見渡すと、マサカリがブルブル震えながらこちらの様子を窺っていた。
そこへモンブランが駆け寄って来て、引きつった顔で「悠一!死んじゃダメ!」と飛びついてきた。
「だから死なないよ。それよりお前らは無事だったか?」
「うん、私は平気。」
「俺も空にいたから問題ない。」
「ならよかった。」
ホッと胸を撫でおろすと、俺は一番大事なことを思い出して駆け出した。
「藤井!大丈夫か!」
猪に突き飛ばされたせいで頭が真っ白になっていたが、藤井のことを思い出して弾かれたように走り出した。
そして草むらの中に倒れている藤井を抱き起し、「しっかりしろ!」と肩を揺らした。
「おい藤井!目を開けろ!死んだらダメだ!」
すると藤井は「・・・う〜ん・・・」と呟きながら目を開け、俺の顔を見つめて笑った。
「死んだりしないよ、私は平気。」
藤井はニコリと笑って身体を起こした。
「ほんとうに大丈夫か?どこも怪我してないか?」
俺は藤井の肩を掴んで顔を近づける。
「うん、平気、平気。猪にぶつかる前に、そこの石につまずいて転んじゃったから。」
そう言って藤井が指さした先には、地面から大きな石が突き出ていた。
「ああ・・・よかったあ・・・。俺はてっきり猪にはねられたのかと思ったよ・・・。」
「私ももうダメだって思ったけど、運動神経が悪いおかげで助かったみたい。
つまずいて転ぶのも、たまには悪くないよね。」
藤井は冗談っぽく言って笑い、俺も「自慢することか」と笑いながら返した。
そして藤井を藤井の肩に手を回して「立てるか?」と尋ねた。
「うん、大丈夫。ちょっとお尻を打って痛いけどね。」
するとそこへモンブランとチュウベエがやって来て、心配そうに藤井を見つめた。
「大丈夫藤井さん?」
「うん、平気。ありがとね。」
「俺・・・・猪って言うの忘れた。すまん・・・。」
「いいよ、そういうこともるって。」
いや、こういうことがあっちゃまずいだろ。
ちゃんと猪だって教えろと怒ろうとしたが、チュウベエはかなり反省したように落ち込んでいた。
「まあ・・・なんだ。次からは何の動物か教えてくれよ。」
優しい口調で注意すると、「ブ、ラジャー」と翼で敬礼をするチュウベエだった。
俺は呆れた顔でため息をつき、遠くの土手を見つめた。
「マサカリ、いつまでもビビってないでこっちへ来い。」
肉厚の顔をまだブルブルと震わせ、マサカリは恐る恐るこちらに歩いて来た。
「まったく・・・どんだけヘタレなんだよあのブルドッグは・・・。」
しかしマサカリのおかげで助かったのも事実で、苦笑いしながら頭を掻いていると藤井が声を上げた。
「ちょ、ちょっと悠ちゃん!そこ・・・。」
藤井が指さした先を見てみると、草むらの陰から二匹の小動物がこちらを見つめていた。
「おお!これはフェレットじゃないか。」
驚きながら近付くと、フェレットはビクッと身をすくめて逃げようとした。
「ちょっと待ってくれ!お前たちに話があるんだ。」
そう呼びかけると、フェレットは足を止めてこちらを振り返った。
「俺たちは怪しいもんじゃないから怖がらないでくれ。」
笑いながら腰を落とし、フェレットに顔を近づけて喋りかけた。
「俺は有川悠一。動物と喋れる変わった人間さ。」
「俺達と・・・喋れる?」
二匹のフェレットは顔を見合わせて首を傾げる。
「ははは、変な人間だろ。ちなみにそっちの女の子も俺と同じさ。」
そう言って藤井の方に手を向けると、フェレットはまた驚いた顔をみせた。
「こんにちわ、私は藤井真奈子っていうの。よろしくね。」
藤井は微笑みながら手を差し出す。
フェレットは困惑した様子で俺達を見つめ、藤井の手に鼻を近づけて臭いを嗅いでいた。
「ほんとに・・・俺達と話せるのか?」
「うん、今日はあなた達をお話をする為にここへ来たんだ。
そしたら猪に襲われちゃってこんなことになっちゃったけど。」
藤井はおどけたように肩をすくめる。
二匹のフェレットは背中を向けてコソコソと話し合い、チラチラをこちらを見ている。
そして鼻の頭に傷がある右側のフェレットが、「何の用だ?」と警戒する声を出した。
「実はね、最近この辺りでフェレットと野生動物が縄張り争いをしているでしょ?
そのことについて話をしに来たの。」
するとフェレット達は急に怖い顔で怒りだした。
「ここは俺達の縄張りだぞ!人間が俺達を捨てやがったからこんなことになってんだ!」
「そうだそうだ!お前たち人間と話し合うことなんかない!」
小さな拳を振り上げてプリプリ怒り、こちらの話を聞こうとしないフェレット達。
藤井は困った顔で手を振った。
「ま、まって!別にあなた達を責めにきたとかそんなわけじゃないから・・・・、」
「うるさいこのホモサピエンスどもめ!霊長類だからって威張るな!」
「そうだそうだ!進化の歴史からいえば、俺達イタチ科の方がより哺乳類の祖先に近いんだぞ!」
フェレット達は意味不明な論理で騒ぎ立てる。
藤井はさらに困惑して首を振った。
「だ、だから・・・別にあなた達を責めるつもりは・・・・・、」
「うっせ!ここから去れ!いね!立ち去れ!ぺっぺ!」
子供みたいに駄々をこねて唾を飛ばし、腕を組んでふんぞり返るフェレット達。
とりつく島もないその態度に、藤井は泣きそうな目で俺を見上げる。
「どうしよう・・・話も聞いてくれいない・・・。」
「まあまあ、こういう時は世間話から入るのがセオリーさ。」
俺はフェレットに微笑みかけ、軽い口調で喋りかけた。
「やあ君たち。今日は天気が良くて気持ちいいな。」
するとフェレット達は顔を見合わせ、曇った空を見上げた。
「どこが良い天気なんだ?」
「今にも雨が降りそうだぞ。」
「え、ええっと・・・・ははは・・・こりゃ失敬・・・。
で、どうだい?この辺りのミミズは美味いだろう?
もう今日は飯は食ったのか?」
フェレット達はまた顔を見合わせ、冬の荒涼とした河原を見つめた。
「こんな季節にミミズが獲れると思うか?」
「そもそも食い物に困ってなきゃ、この辺の動物と争ったりしないだろ?」
「・・・それはその通りだ。なんか会話が噛み合わないな。」
俺は苦笑いしながら顔を逸らす。むうう・・・世間話作戦は大失敗だったか。
「会話が噛み合わないのはお前のせいだろ!俺達をイタチもどきだと思って馬鹿にしやがって!」
「そうだぞこのアホ人間!お前も霊長類なら、もっと考えて喋れ!」
「あ、あはは・・・・すいません・・・。」
霊長類ヒト科の俺、イタチ科の動物に見事に撃沈される・・・。
それを見ていたモンブランが「だらしない・・・」とため息をつき、フェレットの前にしゃしゃり出た。
「あんた達、こっちの話くらい聞きなさいよ。」
「うっせ!ネコ科はあっち行け!帰れ!立ち去れ!ぺっぺ!」
「お前らは人間に媚び過ぎなんだよ!恥ずかしくないのか!」
フェレットはさらに攻勢を強めるが、それをモンブラン相手にやったのはまずかった。
モンブランは毛を逆立て、尻尾を太くして襲いかかった。
「黙れこのイタチもどき!ネコ科を馬鹿にするんじゃないわよ!」
「うわあああああああ!」
「食われるううううう!」
モンブランは猫パンチの一撃でフェレット達を殴り倒し、マウントポジションをとってパンチの嵐をお見舞いしている。
「なんなんだよこのコントは・・・。話し合いどころじゃないぞ。」
なんだか馬鹿らしくなって立ち上がると、遠くの方で犬の悲鳴が聞こえた。
「なんだ・・・今の声は?小型犬の鳴き声っぽかったけど・・・。
藤井、お前も今の悲鳴聞こえただろ?」
そう尋ねて藤井を見下ろすと、必死にモンブランを引き離そうとしていた。
「ダメよ暴力は!ちゃんと話し合わないと!」
「何言ってるのよ!こいつらが先に喧嘩を売ってきたのよ!」
「それでも暴力はダメ!とにかく落ち着いて。」
藤井は興奮するモンブランをなんとか宥め、フェレット達に向き直って謝った。
「ごめんね、驚かしちゃって・・・。」
「へん!まったくだ!これだからネコ科は野蛮なんだ!」
「そうだそうだ!ネコ科で偉そうにしていいのは、ライオンとかトラとかの猛獣だけだ!」
「なんですってええええ!」
「いいから落ち着いて!あなた達も冷静になって!」
藤井はネコ科とイタチ科の下らない喧嘩に巻き込まれ、右往左往としている。
いったい何をやってんだかまったく・・・・・。
また馬鹿らしくなってため息をついた時、藤井の右手から血が流れているのに気づいた。
「おい藤井!お前手を怪我してるじゃないか。」
「え?ああ、ほんとだ。でもぜんぜん痛くないから大丈夫だよ。」
「ダメだって。けっこう血が出てるじゃないか。」
俺は藤井の手を取り、軍手を脱がせてじっと傷口を見つめた。
「きっと転んだ時に何か刺さったんだな。
ちょっとひとっ走りして薬と包帯を買ってくるから。」
「いいよ、そんなに大げさにしなくても。」
「何言ってんだ。バイ菌でも入ったら化膿するぞ。
ちょっと待っててくれ。」
「あ、悠ちゃん!」
俺は土手に向かって走り出す。
するとまたフェレット達が騒ぎ出して、藤井を困らせていた。
「お願い、早く帰って来てね。」
手を振って返事をし、土手に上がって近くの薬局に走って行く。
同盟の活動の時には、毎回といっていいほどこういうトラブルが起こる。
だから俺も落ち着いて行動出来るってもんだ。
「何回もこういう経験をしてると慣れてくるよなあ。
動物の話を聞くのも楽じゃないけど、それより予想もしないトラブルの方がもっと大変だ。」
その大変なトラブルに慣れることが、いいことなのかどうかは分からない。
しかし今はそんなことより、藤井の怪我をどうにかするのが先だ。
そう思いながら土手を走っていると、「誰かー!」と助けを求める声が聞こえた。
「あれ・・・この声は・・・まさか!」
立ち止まって声の聞こえた方を眺めると、遠くの方で一人の女性が犬を抱えて泣いていた。
「やっぱり翔子さんだ・・・いったい何があったんだ?」
俺は再び土手を走りだして、河原沿いの広場に向かう。
すると俺の姿に気づいた翔子さんが、助けを求めるように「有川さん!」と叫んだ。
「どうしたんですか翔子さん!何かあったんですか?」
「コロンが・・・コロンが・・・。」
翔子さんはグスグスと泣きながら、腕に抱えたコロンを見つめる。
するとコロンの身体は、赤い血でべっとりと濡れていた。
「な、なんだこれ・・・。何か怪我でもしたんですか!」
そう尋ねると、翔子さんは鼻をすすりながら答えた。
「さっき・・・そこの草むらから猪が飛び出してきて・・・コロンにぶつかっていったんです。」
「猪が・・・・。」
「コロンは人形みたいに飛ばされて・・・猪はそのまま向こうへ走って行って・・・・。
私は・・・一瞬何が起きたのか分からなくて・・・・。
それで我に返ってコロンに駆け寄ったら・・・コロンが・・・・。」
翔子さんは子供のようにしゃっくりをしながら泣きじゃくり、俺の腕を掴んでくる。
「助けて下さい!このままじゃコロンが死んじゃう・・・・コロンが・・・。」
「落ち着いて下さい。ちょっとコロンをみせてもらえますか?」
俺はコロンを受け取り、血が滲む傷口を見つめた。
そこには大きな擦り傷と、何かで切られたような痕があった。
「猪の牙にやられたのか・・・。」
俺の記憶ではあの猪は牙を持っていなかったように思ったが、咄嗟のことだから見落としたのかもしれない。
どっちにしろ切れているものは切れているのだから、すぐに病院へ連れていかなければいけない。
「翔子さん、今から病院に行きましょう!」
「びょ、病院・・・・、ああ、そうか!病院へ行かないと・・・。」
翔子さん・・・相当パニックになっていたんだな。
病院に連れていくことも思いつかないなんて・・・・。
「土手向こうの公園の近くに動物病院がありますから、すぐに行きましょう!」
俺はコロンを抱えて走り出した。
翔子さんも弾かれたように立ち上がり、俺の後ろを追って来る。
「助かりますよね?コロンは助かりますよね?」
「・・・すいません、俺は医者じゃないから安易なことは言えない・・・。
今はとにく治療を受けないと。」
「うう・・・コロン・・・。」
コロンは俺の腕の中でぐったりとしていて、苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。
そしてわずかに目を開き、俺のことを見つめた。
「・・痛いわ・・・あのバカ猪め・・・・。」
こんな時でも毒を吐くとはコロンらしい。
しかしそれだけ力が残っているということだ。
「大丈夫だコロン。きっと助かるからな。」
「・・・あんたに言われても・・・説得力がないわ・・・・。」
「そりゃそうだ。」
コロンは少しだけ笑い、俺もニコリと微笑みを返す。
土手を上り、転ばないように気をつけて下りていく。
そして一気に公園を駆け抜け、道路を渡ってすぐの動物病院に駆け込んだ。
「すいません!犬が猪にはねられたんです!すごく血も出てるしすぐに診て下さい!」
受付に駆け寄ってコロンの傷を見せると、すぐに対応してくれた。
「ここは俺の動物たちが掛かっている病院なんです。
とても腕の良い先生たちがいますから、きっとコロンを助けてくれますよ。」
俺は翔子さんを励ますように言い切った。
ありゃ?これじゃさっきの言葉と矛盾するな。
俺は医者じゃないから安易なことは言えないなんて言ってたのに。
しかし翔子さんは俺の言葉に励まされたようで、「はい・・・」と涙を拭きながら頷いた。
待合室のドアが開いてすぐに先生が現れ、コロンをそっと渡した。
あとは医者に任せるしかない。
俺と翔子さんは待合室の椅子に座り、じっとコロンの無事を祈った。
その時ふと本来の目的を思い出し、「あ!」と声を上げた。
「どうしたんですか・・・?」
「ああ、ちょっと電話を・・・。」
俺は病院の外に出てケータイを取り出し、藤井に電話を掛けようとした。
しかしケータイの液晶はバキバキにヒビ割れていて、バッテリーの蓋も真っ二つに割れていた。
「なんだこれ?なんでこんなことに・・・・、」
そう呟きかけて、さっき猪に突進されたことを思い出した。
「ああ、そうか・・・。きっとあの時の衝撃で壊れたんだ。」
どうしよう・・・何かあって遅れる時は電話を掛けるって昨日言ったばかりなのに。
だからといって翔子さんをこのままほったらかして行くのも悪い気がするし・・・。
「どうしよう・・・・。」
少しの間じっと考え込んだが、藤井はここから近くにいるんだから直接言いに行けばいいかと思った。
病院に戻って待合室に向かうと、翔子さんは祈るように手を組んで目を瞑っていた。
そして俺の気配に気づいて顔を上げる。
「有川さん・・・・。」
その目はとても暗く、真っ青な顔をして涙を滲ませていた。
「こんな・・・こんなことになるなんて・・・。
ただお散歩をしていただけなのに、こんなことになるなんて・・・。」
その言葉はまるで自分を責めているようだった。
悔しそうに唇を噛み、隣に座った俺の腕をギュッと握ってくる。
「私がもっと注意していれば、コロンはこんなことにならなかった。」
そう呟いて、閉じた目からポロリと涙をこぼす。
俺は翔子さんの肩をポンと叩き、首を振って言った。
「翔子さんのせいじゃありませんよ。誰だってあんな場所で猪に襲われるなんて思いません。」
「でも・・・私は知っていたんです。川の向こうの山から、ときどき猪が下りてくることがあるって・・・。」
「・・・まあ、正直いうと俺も知ってましたよ。
あの草むらには、山から下りてくる動物がうろついてることを。
鹿やタヌキなんかもしょっちゅう見ますからね。
でも・・・まさか猪に襲われるなんて誰も考えませんよ。
俺だってあんな場所で猪に突進されるなんて思ってませんでしたから。
ほら、猪のせいでケータイがこんなことに。」
そう言って壊れたケータイを見せると、翔子さんは目を見開いて驚いていた。
「え?まさか有川さんも・・・・・?」
「ええ、実はさっきあの草むらで・・・・・、」
俺は手短に事情を説明した。もちろん動物と話が出来るということは伏せて。
翔子さんは口元に手を当て、「そうだったんですか・・・」と暗い声を出した。
「よく無事でしたね、有川さん。その藤井さんという女性の方も大丈夫なんですか?」
「はい、猪にぶつかる寸前に石につまずいて転んだから無事です。
でもそのせいでちょっと手を切っちゃって・・・。
だから薬局に薬と包帯を買いに行こうとしたんですけど、その時に翔子さんの悲鳴が聞こえて助けに来たんです。」
「そうだったんですか・・・。ありがとう、有川さん。きっと私一人じゃパニックになって何も出来なかった・・・。」
翔子さんはそう言って頭を下げ、俺の腕を強く握りしめた。
「いえいえ、いいんですよ。犬の散歩友達の翔子さんをほうっておくなんて出来ないから。
それに俺もコロンのことは好きなんです。だからなんとしても助かってもらわないと。」
俺は翔子さんの手を優しく叩き、勇気づけるように笑いかけた。
「有川さん・・・・・。」
「大丈夫、きっとコロンは助かりますよ。
ええっと、それでですね・・・。さっき説明した藤井のことなんですが、向こうの河原で待たせたままになってるんですよ。
手に怪我をしてるし、薬と包帯も買って行かなきゃいけないし。だから・・・ちょっとここを離れさせてもらいたいんですが・・・。」
「ああ・・・そうでしたね・・・。すみません、付き添って頂いて・・・。
もう私なら大丈夫ですから、すぐに藤井さんのところへ行ってあげて下さい。」
「はい。でもまた後で戻って来ます。俺もコロンのことが心配だし、翔子さんも一人じゃ心細いだろうから。」
「いいんですか?」
「ええ、もちろん。あ、でも藤井やマサカリも一緒に来るかもしれないですけどいいですか?」
「ぜんぜん構いません。マサカリが来るなら私も嬉しいですから。」
「分かりました。じゃあ後でみんなでここへ戻ってきます、それじゃ。」
俺は翔子さんに軽く頭を下げ、急いで病院を出た。
そして振り返って受付の後ろに掛かっている時計を見ると、藤井達の元を離れてからかなり時間が経っていた。
「まずいな・・・・すぐに行かないと。
でも藤井の怪我をほうっておくわけにもいかないから、先に薬局へ行くか。」
動物病院から走って五分のドラッグストアに向かい、そこで消毒液と包帯を買った。
そして急いで藤井達が待っている草むらに戻ると、そこには誰もいなかった。
「お〜い、藤井〜!モンブラ〜ン!」
大声で呼びかけても返事がない。
「マサカリ〜!チュウベエ〜!どこだ〜!」
しばらく辺りを探し回ったが、姿もなければ返事もなかった。
「みんなどこかへ行っちまったのか?」
俺は口元をしかめて立ち尽くし、ケータイを取り出した。
「ああ、そうだった・・・。ケータイは壊れてるんだった・・・。」
額に嫌な汗が流れ、もう一度大声で呼びかける。
しかしやはり返事はなく、近くに誰の気配も感じなかった。
「こりゃあまたモンブランに怒られるな・・・・。
でもコロンを助ける為だったんだし、後で説明すれば分かってくれるか。」
俺は藤井達を捜すのを諦め、翔子さんの待つ病院に戻ることにした。
事情が事情だから仕方ない。
そうさ、ちょっと遅れたくらいで毎回毎回謝ってられるかってんだ。
別にわざとほったらかしたわけじゃないんだし、コロンを助ける為だったんだし。
もしぎゃあぎゃあ文句を言ってきたら、今度は俺だって本気で言い返してやる。
いくら動物たちだからって、いくら藤井だからって、俺がペコペコする理由なんてないんだ。
そうさ・・・俺は何も悪くない。翔子さんとコロンを助ける為だったんだから。
しかしその心の緩みが、後に藤井と別れるきっかけになるとは思いもよらなかった。
雲の間から射す光に目を細め、冷たい風に吹かれて翔子さんの待つ病院に向かっていった。

勇気のボタン 二人の道 第四話

  • 2014.02.06 Thursday
  • 18:15
言い訳というのは、時に自分を奈落の底へ叩き落とすものだ。
自分の身を守る為に言った言葉が、さらに自分を追い詰めていく。
誰が言ったかしらないが、「一つの嘘をつくためには、百の嘘を用意することになる」というのを聞いたことがある。
何もやましいところがないのなら、始めから素直に自分の気持ちを言うべきだ。
下手に嘘をつくと、かえって相手を傷つけることになるのだから・・・。
俺は嘘をつくのが下手だった。
いや、嘘というより、言い訳が下手といった方が正しいだろう。
それが自分にとって一番大切な相手ならなおさらだ。
藤井との約束を忘れ、翔子さんに家に行って浮かれていた自分が、ほんとうに情けなくなってくる。
だから藤井が怒るのは当たり前なのだ。
しかし・・・この時の俺は藤井が本当に怒っている理由を理解していなかった。
藤井は、俺が翔子さんと会っていたことに怒っていたのではない。
もっと別の・・・まったく違う理由で怒っていたのだ。
それはよくよく考えれば分かったことなのに、俺は藤井を理解しようとはしなかった。
自分だけのことを考えて・・・自分だけの幸せを考えて・・・。
恋は盲目になる。
俺はあの時、盲目どころか聴覚まで失っていたようだ。

〜半年前〜

俺の部屋に気まずい空気が流れている。
皆が俺を囲むように座り、痛いほどの厳しい視線を向けている。
そして俺の正面には藤井が座っていて、俯き加減で険しい表情をしていた。
チュウベエよ・・・俺はあれだけ誤解を招くようなことは言うなと釘を刺したのに・・・。
お前はどうしてここまでアホなんだ。
俺が車を飛ばしてアパートに帰って来るや否や、ドアを開けてモンブランが走って来た。
そして「この浮気者!」と思い切り猫パンチをかまされたのだった。
何のことか分からずに部屋に入ると、動物たちが藤井を囲って慰めるような言葉をかけていた。
いったい何をやっているのかと声をかけたら、全員が親の仇でも睨むような目を向けてきた。
その時俺はピーンと感じた。
チュウベエめ・・・絶対に余計なことをベラベラ喋ったなと・・・。
俺の考えは的中し、近くに寄ってきたマサカリが言った。
「ひでえぜ悠一。藤井というものがありながら、他の女とイチャつくなんて。」
ああ・・・思いっきり誤解されている。
話に尾ひれ胸びれがついて、あらぬ方向にいっている。
おのれチュウベエ!お前が余計なことを言ったからこんなことに!
憎しみと怒りをこめて睨みつけると、チュウベエはケロっとした顔で「よ!」と翼を広げた。
う〜ん、こいつは本気で焼き鳥にしてやろうか・・・・。
しかしながら、藤井も他の動物たちも、チュウベエの言葉を真に受けるほど馬鹿ではなかった。
テーブルの上に座っていたマリナが、「まあ座って」としっぽを向けた。
俺はテーブルをはさんで藤井の正面に座り、気まずい雰囲気に耐えながら回りを見渡していたのだった。
さて・・・いったい誰が最初に口を開くのか?
しばらく待ってみたが誰も喋らないので、仕方なく俺が口を開くことにした。
小さく咳払いをして、背筋を伸ばして皆を見渡す。
「ええっと・・・何か誤解をしているみたいだから言っておくけど、俺にやましいことは何もないからな。
藤井を待たせてたのは悪いと思ってるけど、ちょっと知り合いの相談を受けていただけだから。
だから・・・断じてチュウベエの言葉は信じるな。・・・以上です。」
俺は腕を組み、胸を張って言いきった。
そうさ、何もやましいことはないのだから、堂々としていればいいのだ。
そう思ってふんぞり返っていると、モンブランが口を開いた。
「ねえ悠一。あんた何か勘違いしてない?」
「勘違い?何がだよ?」
俺はじっとモンブランを睨みつける。するとモンブランは怖い目で睨み返してきた。
「あんたは私達を待たせていたのよ。でもまあ・・・それは許すわ。
この家の動物たちは、あんたが意外とチャランポランなところがあるって知ってるからね。
でも藤井さんはそうはいかないわ。
こうしてせっかく家まで来てくれたのに、何の連絡も寄こさずにほったらかすなんてどういうつもり?
しかも全然ケータイにも出ないし。」
「そ、それは悪かったと思ってるよ。」
「じゃあなんでケータイに出なかったの?いくら相談を受けてても、電話くらい気づくわよね?」
「そんなこと言ったって、気づかなかったんだからしょうがないだろ。
別にわざと出なかったわけじゃないんだから。」
「ふ〜ん・・・なんかいかにも浮気した男が言いそうな言い訳ね。」
モンブランはツンと鼻を持ち上げ、冷たい目で睨んでくる。
お前は俺の女房かよ・・・・・。
すると今度はマリナが口を開いた。
「あのね悠一、別に責めてるわけじゃないのよ。
ただきっちり説明してほしいだけなの。どうして藤井さんとの約束をほったらかして、翔子さんとやらの相談を受けていたのか。」
「い、いや・・・だからそれは・・・たまたまバイト帰りのコンビニで会って、相談したいことがあるって言われたから・・・。」
「じゃあ聞くけど、その翔子さんって人と、藤井さんのことはどっちが大切なの?
恋人との約束をほったらかしてまで、翔子さんの相談を受ける意味って何?」
マリナは落ち着いた声で問い詰めてくる。
こいつにはモンブランとは違った怖さがあるから、下手な受け答えは出来ない。
俺は顔をしかめて目を瞑り、細目を開けて言った。
「俺にとって大切なのは、もちろん藤井に決まってるさ。
でも・・・翔子さんはかなり切羽詰まってた感じだったんだよ。
今付き合ってる彼氏さんと、飼い猫のカレンが仲が悪いらしくてな。
しかも・・・カレンはその彼氏さんに叩かれたことがあるっていうから、相談を受けることにしたんだ。」
そう言った途端、藤井の顔色が変わった。
俯いて悲しい表情をしていたのに、突然怖い顔になって「猫を叩いた?」と呟く。
「翔子さんはそう言ってたけど、カレンによればちょっと手で払われただけだと・・・。
でももし俺が翔子さんの立場だったら、きっと怒ると思うから相談に乗っただけだよ。」
すると藤井は「そっか・・・」と納得した顔でで頷く。
そして口元に手を当てて、じっと何かを考え込んでいた。
・・・また気まずい沈黙が流れる。
動物のオス連中は神妙な顔で黙りこくっていて、下手に口を開くのをためらっているようだった。
まあ当然だろうな。うちのメス達はかなり気が強いから、下手に口を出せばかえって自分が攻撃を受ける可能性があるから。
じっと黙りこんだ部屋には、カチカチと時計の音だけが響く。
俺はその沈黙に耐えかねて、台所へ行ってお茶を飲もうとした。
「ねえ悠ちゃん。」
突然藤井が呼びかけて来た。
俺は中腰のまま固まり、「なんだ?」と振り向いた。
「・・・・・なんにもないよね?」
「何がだ?」
「だから・・・・その翔子さんって人と・・・なんにもないよね?」
藤井は不安そうな、そして問い詰めるような目で見つめてくる。
阿呆な俺は、素っ頓狂な声で「何が?」と聞き返していた。
その途端にモンブランの猫パンチが股間に炸裂し、思わず股を押さえてうずくまった。
「・・・お・・お前・・・いったい何するんだよ・・・・。」
「この馬鹿ッ!何が?じゃないわよ!素っ頓狂な声で間抜け面さらすな!」
「い、いや・・・だから何をそんなに怒って・・・・、」
「うるさい!今までの流れからしたら、藤井さんが何を心配してるか分かるでしょ?
あんたと翔子さんの間に、何もやましいことは無いのかって話よ!」
モンブランは目をつり上げて牙をむき出している。
その顔は般若のように恐ろしく、俺は思わず後ずさってしまった。
「あ・・・あるわけないだろ!なんにもないよ!
俺と翔子さんとの間に、全然やましいところなんかない!これは誓って約束する!」
「ほんと?」
「ほんとだよ!」
「じゃあ何で翔子さんの家まで行ったの?
相談を受けるだけなら、喫茶店とかでもよかったじゃない?」
ぬうう・・・鋭いツッコミばかりしやがって・・・。
だからお前は俺の女房かよ。
しかしここで怒れば俺の立場は不利になる。冷静にいかないといけない。
「翔子さんの家に行ったのは、カレンを見てほしいって頼まれたからだよ。
俺ならカレンの気持ちが分かるんじゃないかって言われてな。
まあそのおかげで、危うく動物と会話できるってことがバレそうになったけど・・・。
でも断じてやましいところはない!それは約束する!」
「ほんとに?」
「ほんとだとも!」
モンブランは疑わしそうな目で見つめ、藤井に振り返って尋ねた。
「ああ言ってるけど、藤井さんはどう思う?」
藤井はまた悲しい顔で俯き、じっと黙りこむ。
しかしすぐに顔を上げて、明るい顔で言った。
「うん、私は悠ちゃんの言葉を信じる。だからもうこの話はこれでいいよ。」
ニコニコ笑いながら手を叩き、一人で頷いて納得している。
「はあ・・・藤井さんはほんとにお人好しねえ。
こういうのは叩けばいくらでもホコリが出る話なのに・・・。」
モンブランは呆れて首を振るが、マリナが「まあまあ」と取り成した。
「藤井さんがいいって言ってるんだから、それでいいじゃない。
それによく考えてみれば、悠一に浮気ができるほどの甲斐性があるとも思えないし。」
「ああ!それもそうね。確かに悠一に二股なんて無理だわ。
私ったら何でこんな簡単なことに気づかなかったのかしら。ごめんね悠一。」
そんな謝り方をされても嬉しくない。でも元はといえば俺が原因なので、こちらも頭を下げて謝った。
「悪かったな藤井。ごめん。」
「いいよ、わざとじゃないんだし。それに動物の為に相談を受けたんだから。
私はもう気にしてないよ。」
藤井・・・ちょっと無理してるな。
俺は台所に行ってお茶を二つ入れ、テーブルに戻って藤井の前に置いた。
「次からは気をつけるよ。何かあって遅れる時は、必ず連絡を入れるから。」
「うん、ありがとう。それじゃこの話はもう終わりにして、同盟の活動の話をしようか。」
「そうだな。で、今回はフェレットと野生動物の仲裁だったな。
いったいどんなふうにして仲裁を・・・・、」
そう言いながらポケットのケータイを出した時、何かがスルリと落ちた。
「ん?なんか落ちたぞ悠一。」
マサカリがそれを咥えて持ち上げた。
「あ、悪い。ええっと・・・・、ああ!」
俺のポケットから落ちたのは、翔子さんからかしてもらったハンカチだった。
するとカモンがめざとくそれを見つけ「お前そんなハンカチ持ってたか?」と首を傾げた。
「どれどれ、私にも見せて。」
ここでまたモンブランがでしゃばり、ふんふんとハンカチの匂いを嗅いでいる。
「・・・これって、ちょっとだけカレンの匂いがする。っていうことは、まさか!」
しまった!モンブランとカレンは友達だったのだ。
俺は恐る恐る顔を逸らし、手を伸ばしてハンカチを奪い返そうとした。
しかしモンブランはサッと飛びのき、テーブルの上に乗ってしげしげとハンカチを見つめた。
「ねえ悠一。これってカレンの匂いがついてるんだけど、どういうこと?」
「な、なにがだよ・・・。」
「だから、このハンカチの持ち主は翔子さんってことでしょ!どうしてあんたがあの人のハンカチを持ってるのよ?」
「い、いや・・・それには事情があって・・・。」
「事情?何の事情よ?」
何度も言う。お前は俺の女房か!
「あのな、家を出るときに門にぶつかて鼻血を出したんだ。
だから翔子さんがそれをかしてくれた。それだけだ。」
「ほんとに?」
「お前もしつこいな。翔子さんとは何もないって言ってるだろ。
それはちゃんと洗って返さなきゃいけないんだから寄こせよ。」
俺はハンカチを奪い取り、膝の腕で丸めた。
モンブランはまだ納得のいかない様子で何かを言おうとしたが、「いいよ、モンブラン」と藤井が宥めた。
「鼻血が出たならハンカチをかりたって不思議じゃないよ。
私は悠ちゃんのことを信じてるし、もうこれ以上こんな話で騒ぎ合っても仕方ないから。
だから同盟の活動の話をしましょ、ね?」
「・・・まあ、藤井さんがそう言うなら。」
モンブランは渋々という感じでテーブルから下り、藤井の膝の上にチョコンと座った。
いつもなら俺の膝に座るくせに、今日は完全にご機嫌斜めだな・・・。
まあこういう時はそっとしておくに限る。
「で、藤井。同盟の活動の話ってのはなんだ?確か明日の土曜にやる予定なんだよな?」
「うん、明日の朝からの予定なんだけど、悠ちゃんは大丈夫?」
「もちろん。夕方からバイトだから、一日中は付き合えないけどな。」
「平気、平気。明日はとりあえず話を聞きに行くだけだから。
それでね、色々と考えたんだけど、先に話を聞きに行くのはフェレットの方から・・・・、」
今までのことを綺麗さっぱり忘れたように、藤井は明日の活動内容を説明していく。
その説明にはやはり熱がこもっていて、拳を握って力説していた。
俺は腕を組んで真剣に頷き、それから一時間ほど話し合って同盟会議は終わり。
時刻はちょうど七時になっていたので、俺が作った晩飯を一緒に食べながら談笑をしていた。
そして俺の車で藤井を家まで送り届け、マンションの植え込みの近くに停めた。
「お前もずっとこのマンションだよな。引っ越そうとか思わないの?」
「うん、気に入ってるんだ、ここ。」
俺はマンションの入り口まで藤井を送り、そして小さな声で謝った。
「今日は悪かったな・・・ごめん。」
「ううん、全然気にしてないから大丈夫。だから悠ちゃんもあんまり気にしないで。」
「ああ、わかった。それじゃ明日の朝九時に迎えに来るよ。」
「うん、待ってる。」
俺たちは少しの間見つめ合い、ほんの軽いキスを交わして笑い合った。
「それじゃ気をつけて帰ってね。」
藤井は手を振ってマンションの中へと入っていく。
俺も笑顔で手を振り返し、車に乗ってマンションを見上げた。
藤井の住んでいる二階の部屋にパッと明りが点く。
「藤井・・・今日は悪かった。また明日な。」
夜の路地を駆け抜け、街灯に目をやりながら考えた。
やっぱり浮かれすぎるとロクなことがない。
今日はどちらかといえば悪い日だろう。
でも・・・大して大事にもならなかったし、藤井も機嫌を直してくれてよかった。
あとはせいぜいモンブランに嫌味を言われるのを我慢すればいいだけで、俺の心のモヤモヤはすっかり晴れていた。
次の日に、俺の下手くそな言い訳のせいで大ゲンカになるとも知らずに。
そして・・・それが原因で二人の絆に亀裂が入ることになるとも知らずに・・・・・。

勇気のボタン 二人の道 第三話

  • 2014.02.05 Wednesday
  • 20:05
人生では予期せぬ出来事がしばしば起こる。
インコに糞を落とされること、夜の公園で辞めた会社の同僚と再会すること。
そして・・・翔子さんの家に行くことだ。
いったいどこで俺の人生の歯車が暴走し出したのか分からないが、少なくともこれは悪いことではない。
あの憧れの翔子さんの家にお呼ばれするなど、本来俺の人生の筋書きには書かれていないはずだった。
ああ・・・神様・・・あなたの気まぐれに感謝します。
こんな味気ない賞味期限の切れたスルメみたいな男に、こんな幸運を授けてくださるなんて。
俺は明日から、一か月は猫まんまで暮らしてもかまいません!
火照った顔でニコニコと運転していると、翔子さんは前方を指さして「あそこです」と言った。
「あの黄色い屋根の家の向こうが、私の家なんです。」
「おお・・・あれが・・・。」
俺は息を飲んで翔子さんの家を見つめた。
・・・違う、あれは家じゃない。
なんというか・・・・・豪邸である。
テレビの特番でやっているセレブ特集で出てきそうな、現代におけるキャッスルだ!
しかしよくよく思い出せば、俺は一度だけ翔子さんの家に来ているのだ。
もちろん中に入ったことはないが、以前に来た時はあんな豪邸ではなかった。
それに場所も変わっているような気がする。
そのことを翔子さんに尋ねると、「建て替えをしたんです」と答えた。
「兄がこっちに帰って来たから、二世帯住宅にしたんですよ。
でもちょっと大きすぎる家になっちゃって、かえって不便なんですけどね。」
むうう・・・これが金持ちと貧乏人の差か・・・。
家が広くて不便などという言葉は、俺は一生口にすることはないだろう。
俺は車を端に寄せ、ゆっくりと翔子さんの家の前で止まる。
そして窓を開けて家を見上げ、「ははあ・・・・」と馬鹿みたいな溜息をついた。
「これはまさしく金持ちの家だ・・・。まるで小型のマンションくらいあるじゃないか・・・。」
モダンと近代がうまく融合されたオシャレな外観に、フットサルが出来そうなくらい広い庭がある。
入口には大きな石柱が立てられていて、まるでギリシャの神殿かと見紛うほどだった。
俺はゴクリと唾を飲んで家を見渡し、大きな車庫に止まっている車を見て声をあげた。
「すごい!ベンツが二台、それにBMWが一台!あれは・・・ハーレーもあるじゃないか!」
俺はいったいどこの世界に迷い込んだのか?
どこかで次元のヒズミにでも入り込み、まったく違う世界へ来てしまったのではないか?
そう思えるほど、俺の持つ世界観とはかけ離れた光景だった。
ああ・・・こりゃ言葉も出ないや・・・やっぱり帰ろうかな・・・。
何も言葉が出てこずに家を見つめていると、翔子さんは車から降りて石柱のインターフォンを鳴らした。
「お母さん、ちょっと門を開けてくれない?」
液晶付きのハイテク万歳なインターフォンに向かって翔子さんが喋る。
すると低い電動音が響いて、大きな門が左右に開かれていった。
「ぬおおお!自動で開いた!」
自動で開く扉など、コンビニやスーパーだけじゃなかったのか?
個人の家でも自動で開く門があるとは・・・・・。
もう今の俺に言葉はない。ただただこの豪邸に圧倒されるばかりで、魂が抜けたように放心していた。
「有川さん、中に車を止めて下さい。そこに来客用のスペースがありますから。」
「ら、来客用・・・・・。」
身を乗り出して庭の中を見ると、芝生で造られたオシャレな駐車場があった。
翔子さんはそっちに向かって歩き、手を向けて「どうぞ」と微笑む。
「ええっと・・・それじゃあ失礼します・・・・。」
ハンドルを握る手が震え、思わずエンストを起こしそうになる。
そして緊張で爆発しそうな鼓動を抑え、丁寧に車をバックさせた。
「オーライ!オーライ!」
翔子さんはガソリンスタンドの店員のように車を誘導する。
ダメですよ翔子さん!あなたみたいな美しい貴族が、俺みたいな賞味期限切れのスルメにそんなことしたら!
俺は冷や汗を掻きながら恐縮し、なんとか車を停めて「はあ・・・」と息をついた。
「それじゃ家の中にご案内します。どうぞ。」
翔子さんはワンピースの裾を翻し、足早に家のドアへ歩いていく。
ちゃ、ちゃんと粗相のないようにしないとな・・・・。
ゴクリと唾を飲み、ドアを開けて待つ翔子さんの元へ向かう。
「ふふふ、そんなに緊張しなくていいですよ、はい。」
こんな俺のためにスリッパを揃えてくれて、しかも脱いだ靴まで靴入れに入れてくれる。
「ああ・・・なんだかすいません・・・。
あまり豪華な家だから緊張しちゃって・・・。」
「そう固くならずにくつろいで下さい。それじゃこっちです。」
翔子さんはパタパタとスリッパを鳴らし、階段を上がっていく。
家の中は高そうなアンティークや絵が並んでいて、それらをキョロキョロ見回しながらあとをついて行った。
「ここが私の部屋です。どうぞ。」
高そうな木造のドアを開け、翔子さんはニコニコと中に手を向ける。
「ふおお・・・・・ここが翔子さんの・・・。いい匂いがする・・・。」
「え?何か言いました?」
「いやいや!何とも素晴らしいお部屋で・・・ご愁傷様です・・・。」
「だからそんなに緊張しなくていいですよ。」
翔子さんは口元に手を当てて可笑しそうに笑い、ベッドで丸まっているカレンを連れてきた。
「ほら、カレン。有川さんだよ、覚えてる?」
「・・・・・・・・・・・・・。」
カレンはじっと俺を見つめ、綺麗な目をまん丸に見開いている。
俺に対して何も喋りかけてこないのは、きっと気を遣ってくれているのだろう。
翔子さんは二コリと笑ってカレンをおろし、窓を少しだけ開けて風を入れた。
「それじゃお茶を持ってくるからちょっと待っていて下さいね。」
眩しいほどの笑顔を残し、スリッパを鳴らして部屋を出ていく翔子さん。
「あ、お構いなく・・・・・。」
緊張と興奮が入り混じった変な汗を流しながら、じっと翔子さんの部屋を見回した。
「ふええ・・・なんか洗練されたオシャレな空間だなあ・・・。」
部屋は和風かつ清楚に整えられていて、あまり物が置かれていなかった。
いくつか女性が好みそうな小物がタンスの上に並んでいるが、あとはベッドとテーブル、そしてフカフカのクッションがあるだけだった。
「チャラチャラしてないのにオシャレというか・・・これが美的センスってやつなのか・・・。」
わけの分からない言葉を漏らして部屋を見つめていると、何かが足元にぶつかってきた。
「女の子の部屋をジロジロ見てるんじゃないわよ、いやらしい顔してからに。」
「おお!お前はコロンじゃないか!元気だったか?」
床に膝をつき、トイプードルのコロンの頭をよしよしと撫でる。
「あんたこそ最近見なかったじゃない。あのデブ犬は元気なの?」
「元気も元気!元気すぎて困ってるくらいだよ。」
コロンは小生意気でカモンに負けないくらいの毒を吐くことがあるが、それでも俺はこの犬が好きだった。
竹を割ったようなサッパリとした性格は、どこかモンブランに通じるものがある。
「で?なんであんたみたいな気の抜けたビールのような男がここに来てるの?
場違いを通り越して、異星人の襲来のように感じるんだけど。」
う〜ん、相変わらずキレのいい毒を吐く。ここまで言われると、なかなか気持ちのいいものだ。
「実は翔子さんから相談を受けたんだよ。そこのカレンのことでな。」
「カレンが?」
俺は後ろを振り向き、背中を曲げてカレンに顔を近づけた。
「久しぶりだなカレン。元気にしてたか?」
「うん、まあまあね。去年のボス猫争いの時は迷惑かけちゃったわね。」
カレンはこの辺り一帯を仕切るボス猫のゴロ助と付き合っている。
ゴロ助はカレンをかばう為、小次郎というライバル猫と死闘を演じていたのだが、お互いの誤解が解けて和解したのだった。
「最近は猫同士の争いとかはないのか?」
「うん、小さな喧嘩はしょちゅうあるけど、前みたいな大ゲンカはないわね。
ゴロ助と小次郎が上手く仕切ってくれてるから。」
「そうか、そりゃ何よりだ。」
俺はカレンを抱きかかえ、膝に乗せて頭を撫でた。
彼女は俺の猫さばきに身を任せ、うっとりしながらゴロゴロと喉を鳴らしている。
もしこれがモンブランだったら、もうちょっと丁寧にとか文句を言うのだが、カレンは実に素直でおとなしい子だ。
きっと翔子さんの躾がいいんだろうな。
しかしずっとカレンと戯れているわけにもいかず、翔子さんが戻って来る前に大事なことを聞かなければいけない。
「なあカレン。ちょっと聞きたいことがあるんだけど。」
「なあに?」
「実は翔子さんの付き合ってる彼氏のことなんだけど・・・・・。」
俺がそう言った途端、コロンは大きな声で爆笑した。
「あはははは!あんたもしかして内の主人のこと狙ってるの?
彼氏のこと聞いてどうするつもりよ?あはははは!」
「うるさいな!そういう意味じゃないよ!
俺が聞きたいのは、カレンが翔子さんの彼氏をどう思ってるかってことだ。」
「なんだ、そうなの。つまんない。」
コロンはケロッとして冷めた目を向けた。
まったく・・・こいつの頭には人をからかうことしかないのか。
俺は気を取り直し、もう一度カレンに尋ねた。
「カレンは翔子さんの彼氏のことをどう思ってる?」
「なんでそんなことを聞くの?」
カレンは不思議そうな目で俺を見つめる。
「実はな・・・翔子さんから相談されたんだよ。
彼氏がカレンのことを嫌ってるって。この前にカレンのことを叩いたって怒ってたしな。」
「もう、大げさね翔子ちゃんは・・・。叩くっていっても、ちょっと手で押しのけられただけなのに。」
カレンはツンと鼻をとがらせ、窓の外を向いた。
「でも俺は翔子さんの気持ちが分かるんだ。もし俺が同じ立場だったら、きっと怒ってると思うからさ。」
「翔子ちゃんはちょっと神経質なところがあるのよ。
いつもはおっとりしてるのに、私やコロンのことになると頭に血が昇っちゃうから・・・。」
「でもそれだけ大事にされてる証拠じゃないか。あんないい飼い主なかなかいないと思うぞ。」
「そうだけど・・・ちょっと過保護っていうか・・・。最近あんまり外にも出してもらえないし。」
カレンは不満そうに言って目を細める。
外へ出たかがる猫と、外へ出したがらない飼い主か・・・。
これは猫を飼う者にとって永遠のテーマかもしれないな。
「まあお前の気持ちはよく分かるけど、今は質問に答えてくれないかな?
カレンは翔子さんの彼氏のことをどう思ってるんだ?」
再度尋ねると、カレンはうんざりしたように首を振った。
「別にどうも思わないわ。悪い男じゃないと思うけど、大した男でもないし・・・。
私が好きなのはゴロ助みたいな男らしい男なの。
いつでも正々堂々としてて、潔くて逞しくて・・・・。ああいうのを男っていうのよ。」
確かにゴロ助は男らしい。いや、男らしいというより怖い・・・。
人間の俺でもビビるくらいの迫力があるのだから。
しかし人間の男と猫のオスを比べるのはいかがなものか。
「翔子ちゃんの彼氏が私を嫌ってるのは知ってるわ。
でも・・・私はあの男のことは何とも思ってない。
付き合おうが別れようが、好きにしたらいいのよ。」
それだけ言い残すと、カレンはトコトコ歩いて窓に向かった。
するとすかさずコロンが後を追い、窓の下でキャンキャンと吠えた。
「ちょっとカレン!外に出たらまた怒られるわよ。」
「いいのよ、最近ほとんど出てないんだから。すぐ帰って来るから邪魔しないで。」
カレンは窓の隙間からピョンと庭の木に飛び移り、地面に飛び降りてどこかへ去って行った。
「あ〜あ、またご主人が心配するわね・・・。」
コロンはため息交じりに言い、フカフカのクッションの上で寝転んだ。
「なんかお前の家も大変だな、色々と・・・。」
「どこの家庭にも事情はあるわよ。犬でも猫でもね。」
こいつは酸いも甘いも知り尽くした銀座のママかよ・・・・・。
犬にしては達観しすぎだろ。
俺は胡坐を掻いて翔子さんが戻って来るのを待つ。
カレンから聞いた話をどう伝えようかと考えていると、ガチャリとドアが開いた。
「すいません、お待たせしちゃって。なかなかお茶っ葉のフタが開かなくて。」
俺は背筋を伸ばして座り直し、恐縮しながら頭を下げた。
「いえいえ、そんな・・・・。どうぞお構いなく・・・。」
コロンは冷めた目を向けて「あんた分かりやすすぎ」と嫌味を飛ばす。
翔子さんはお盆を持って座り、高そうなティーカップに高そうなクッキーを置いて「どうぞ」と笑いかけた。
「ああ、これはどうも・・・。いやあ、これはなかなかいい湯呑みですねえ。」
どう見ても湯呑みではないティーカップを持ち、緊張で引きつった笑いをみせる俺。
翔子さんは可笑しそうにクスクスと笑い、部屋を見渡して首を傾げた。
「あれ、カレンは?」
「ああ!カレンはそこの窓から外へ・・・・、」
そう言った瞬間に翔子さんは立ち上がり、俺を突き飛ばして窓へ向かった。
「カレン・・・。また外に出ちゃったの・・・・。」
心配そうに眉を寄せ、しばらく外を見渡してから肩を落とす。
「あ・・・あの・・・止めた方がよかったですかね・・・?」
恐る恐る尋ねると、翔子さんは目を瞑って首を振った。
「いいんです・・・。最近ほとんど外へ出してなかったから、きっと鬱憤が溜まっていたんだと思います。」
ああ・・・こんな美人がこんな悲しい顔をするなんて・・・。
俺も翔子さんみたいな美人に、一度でいいからこんなふうに心配されてみたい。
そんなしょうもないことを考えながらお茶を飲んでいると、翔子さんは俺の前に腰を下ろした。
「私って・・・動物のことになるとついついムキになっちゃうんです。
最近この辺りにイタチやフェレットがウロウロしてるから、もしカレンに何かあったらと思うと心配で・・・。」
「もしかして、この辺りでも野良猫とフェレットが喧嘩してるんですか?」
「ええ・・・そういう光景を何度か見たことがあります。・・・って、有川さんの所もですか?」
翔子さんは意外そうに尋ねる。
「実は俺の家の猫もフェレットと喧嘩をしたことがあるんですよ。
でも翔子さんの家の近くでもそういうことが起きてるとなると、これはちょっと問題だな・・・。」
「問題って・・・どういうことですか?」
「ああ、実はですね・・・・、」
俺は昨日藤井から聞いた話を説明した。もちろん俺と藤井が動物と話せるということは秘密にして。
翔子さんは興味深く聞いていて、ときどき相槌を打ちながら「そうなんですか・・・」と呟いた。
「やっぱりペットを捨てる人って後を絶たないんですね・・・。捨てるくらいなら飼わなければいいのに。」
「俺もそう思います。でも捨てられたフェレットが増えてるのは間違いないみたいですから、どうにかしないと。」
「・・・可哀想ですね、フェレットも。野生で数が増えたって、それは捨てた人間のせいなのに・・・。」
翔子さんは胸を痛めるように手を当てる。どうやらこの人も、藤井と同じタイプの人間らしい。
普段はおっとりでも、動物のことになると熱が入る。
どうやら俺は、そういう人間と相性がいいらしい。
でもこんな話ばかりをしていても仕方ないので、肝心のカレンのことを話さなければ。
「あのですね、カレンのことなんですが・・・・、」
そう言った途端、翔子さんは身を乗り出して顔を近づけてきた。
「何か分かりましたか!あの子の気持ちが?」
「え・・・ええっと・・・実はですね・・・・・。」
翔子さん・・・お願いですからもう少し顔を離して下さい。
じゃないと、俺は緊張のあまり何も喋ることが出来ないから・・・。
「教えて下さい!有川さんならカレンの気持ちが分かったんじゃないですか?」
「ええっと・・・結論から申しますとですね・・・。」
「結論から言うと・・・・。」
翔子さんはさらに顔を近づけてくる。
俺は堪らなくなって目をそらし、顔を真っ赤にして答えた。
「カレンは、翔子さんの彼氏さんのことを何とも思っていないようです。」
「何とも・・・思っていない・・・。」
「はい。カレンの好む男は、もっと堂々として潔い男なので、今の彼氏さんには興味がないと。」
「そう・・・ですか・・・。カレンは・・・今の彼をどうでもいいと・・・。」
翔子さんは顔を離して俯く。俺は海面から上がったダイバーのように息を吸い、大きく深呼吸した。
カレンの言葉はどこか投げやりに感じたけど、それはあくまで俺の印象なので黙っておいた。
「有川さん、笑わないで聞いて下さいね。」
翔子さんは真剣な目で俺を見つめ、自分の腕を擦りながら口を開いた。
「実は・・・カレンと仲の悪い男性とお付き合いして、上手くいった試しがないんです。
あの子は人の本質を見抜く目を持っているみたいで、情けない男性や自分勝手な男性は嫌うところがあるんです。
でも素直じゃないから、それをあまり表に出さなくて・・・・。
だから今の私の彼に興味が無いっていうことは、嫌いっていうことなんだと思います。
もっと言うと、この人と別れろってことなんだと・・・・。」
綺麗な瞳を揺らし、口元に指を当てて考え込む翔子さん。
その顔は切なく、そして迷いに満ちていた。
俺はもう一度座り直し、上目づかいに翔子さんを見ながら言った。
「それは考えすぎなんじゃないですか?
確かに今の翔子さんの彼氏は、カレンの好みじゃないけど・・・。
でも別れろなんて思うほど嫌ってるかというと・・・やっぱり考えすぎのような・・・。」
すると翔子さんはブルブルと首えを振って「そうじゃないんです」と答えた。
「カレンはきっと・・・私のことを心配してくれているんだと思います。」
「どういうことですか?」
「・・・お恥ずかしい話なんですが、私ってあまり男の人を見る目がないんです。
最初は良い人だと思って付き合っても、時間が経つにつれて横暴になったり、時には手を上げられたり・・・。」
「なッ!手を上げるって・・・殴られたってことですか?」
「・・・はい。」
「そんな・・・・・・。」
いったいどこのクズ野郎がそんなことをしやがるんだ!
もしこの先の人生でそいつと出会うことがあったら、マサカリにケツを齧らせてモンブランに顔を引っ掻かせてやる!
しかし今までに付き合った男性からそんな仕打ちを受けたとすると、今の彼氏に対して慎重になるのも分かる気がする。
誰だって嫌な思いはしたくないのだから。
翔子さんは暗い顔でコロンを見つめ、肩を落としてため息を吐いた。
「そうやって男の人で失敗して、いつも兄に助けられるんです。」
「へえ、いつも助けてくれるなんて、すごく優しいお兄さんなんですね。」
「その代わりいつも怒られますけどね。しっかり男を選べ!って。
普段は優しいんですけど、怒るとすごく怖いんです。
昔から武道を嗜んでいて、空手二段、柔道三段、プロボクサーのライセンスも持ってるし、体も大きいから。」
「へ、へえ・・・・そりゃすごい・・・・・。」
なぜか俺の背中に冷たい汗が落ちる。別に俺が怖がる必要なんてないけど、出来るならそのお兄さんに会いたくないな。
そう思いながら何気なく窓の方を見ると、一羽の鳥がとまっていた。
「ん・・・あれは・・・チュウベエ?」
「・・・・・・・・・・。」
そう、よく見るとそれはチュウベエであった。
オカメインコ特有の赤いほっぺ膨らまし、睨むような目で俺を見つめている。
「ちょ、ちょっと・・・すいません・・・。」
翔子さんに頭を下げて立ち上がり、窓に行ってチュウベエを手に乗せた。
そして翔子さんから見えないように背中を向け、小声でコソコソと話しかける。
「お前・・・こんな所で何してるんだよ?」
顔をしかめて尋ねると、チュウベエは意外なことを言った。
「それはこっちのセリフ。俺はお前を捜して飛び回ってたんだ。
悠一こそここで何してるんだ?」
「い、いや・・・・何って・・・。ちょっと翔子さんの相談を受けてたんだよ。」
「翔子?」
チュウベエは顔を動かして翔子さんを見つめ、「ああ、あれか」と素っ気ない声で言った。
「マサカリの散歩で知り合った人だな。」
「そうだよ。翔子さんの飼ってる猫のことで、ちょっと相談を受けてたんだよ。」
俺は翔子さんの方を振り返り、チュウベエを隠しながら様子を窺った。
するとチュウベエは「はあ・・・」と大きなため息を吐き、呆れた顔で俺を睨んだ。
「悠一。お前、あの人の相談を受けている場合じゃない。もっと大事な相談があるだろ。」
「大事な相談・・・?なんだよ?」
「藤井に決まってるだろ。ずっと俺達のアパートで待ってるぞ。」
「・・・・・・ああああ!しまった!」
俺は頭を抱えて大声で叫んだ。
なんてこった・・・。藤井との約束をすっかり忘れていた。
翔子さんの家に来ることに浮かれてばかりいて、すっかり藤井のことが抜け落ちていた。
慌ててケータイを確認すると、藤井からの着信が二件入っていた。そしてメールも・・・。
「す、すまんチュウベエ!今からすぐに帰るから、藤井にもうちょっと待っといてくれって伝えてくれ。」
「分かった。それじゃ。」
チュウベエは翼を広げて飛び立とうとする。しかし俺はギュッと掴んでそれを阻止した。
「待て!お前・・・分かってると思うけど誤解を招くようなこと言うなよ。」
「ん?誤解って何だ?」
「いや・・・だから・・・。藤井との約束を忘れて翔子さんの家に来てたことだよ。
それくらい分かるだろ?」
そう言うと、チュウベエは首を傾げて「分からない」と答えた。
「悠一は友達の相談を受けていただけ。だから遅れた。何の問題もない。」
「いや、問題があるんだよ。彼女をほったらかして別の女の人の家に行ってたなんてバレたら、余計な誤解を招くだろ?
そうなれば、きっとマサカリやモンブランが面白半分に騒ぎ立てるに決まってるんだから。」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ。だから余計なことは言うな。分かったか?」
俺は念を押すように睨みつける。
こいつはちょっと抜けたところがあるから、こうして釘を刺しておかないと何を言うかわかったもんじゃない。
チュウベエは素直に「分かった」と頷き、パタパタと空へ飛び立っていった。
「はあ・・・なんてこった。藤井との約束を忘れるなんて・・・。」
俺は浮かれすぎた自分に腹を立て、小さく舌打ちをした。
藤井との約束を忘れるなんて・・・最低だな俺は。
いくら翔子さんの家に招かれたからって、情けないにもほどがある。
自分に落胆し、肩を落として振り返ると翔子さんが立っていた。
「あの・・・どうかしたんですか?」
「い、いえいえ!なんでもありません・・・ははは・・・。」
「でも・・・さっき大声で叫んでたじゃないですか。しまった!って。」
「ええっと・・・それはその・・・・。」
「それにさっきそこにインコがいましたよね?あれって有川さんの飼ってるインコですか?
ずいぶん懐いてましたけど・・・・。」
「そ、そうですよ・・・。俺のインコです。
日中は外に出して、ああやって好き勝手に飛び回ってるんですよ、ええ。」
これはまずい。翔子さんは明らかに俺を怪しい目で見ている。
さっきまでの眩しい笑顔はどこへやら。今は初めて見る生き物に出会ったような顔で困惑していた。
さて・・・どうやって切り抜けようか?
そう考えながらチラリと横に目をやると、コロンが呆れた顔で見つめていた。
≪馬鹿・・・。≫
彼女の目は確実にそう言っていた。
翔子さんは相変わらず困った顔で見つめているし、俺はどうしていいか分からずに苦笑いをみせていた。
「あの・・・もしかしたらなんですけど・・・・。」
翔子さんは遠慮がちに尋ねてくる。
「は、はい!何でしょうか・・・・。」
「有川さんて・・・もしかして動物と喋れるんじゃないですか?」
「な、なにを馬鹿なことを!そんなことあるわけが・・・・、」
すると翔子さんは一歩前に出て、また顔を近づけてきた。
「有川さん。」
「は、はい・・・・。」
「もし有川さんが動物と喋れるとしたら、色々なことに説明がつくと思うんです。
カレンの気持ちが分かったこと。さっきインコに向かってコソコソと話しかけていたこと。
それに・・・初めて会った時、私の名前を知っていたことも。」
「そ、それは・・・・・。」
そう、俺は初めて翔子さんと会った時、コロンからその名前を教えてもらったのだ。
そして思わず翔子さんの名前を口にしてしまい、変質者扱いされて逃げられてしまった。
「あの時だって、コロンとコソコソ話してましたよね?
犬好きなら珍しいことじゃないから不思議に思わなかったけど、今にして思えば、あの時に私の名前を・・・・。」
翔子さんは口元に手を当ててじっと考え込む。
もうダメだ・・・。これ以上ここにいたらバレてしまう・・・。
俺は苦笑いを見せながら横に移動し、ドアの前まで歩いて頭を下げた。
「あ、あの!今日は用事があるんでこれで失礼します・・・・それじゃ!」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
翔子さんは手を伸ばして呼び止めるが、俺はドアを開けて階段を駆け降りた。
そして靴を履いて振り返り、「お邪魔しました!」と頭を下げて玄関を出た。
庭の門は閉まっていたが、勢いに任せて飛び越えようとした。
しかし俺の脚力では飛び越えることは及ばず、顔面を打ちつけて倒れてしまう。
「大丈夫ですか!」
追いかけてきた翔子さんが俺に駆け寄り、肩を掴んで起こしてくれる。
「す、すいません・・・。」
「待っていて下さい、今開けますから。」
そう言って玄関に戻り、何かのスイッチを押して戻ってくる。
表の門は電動音を鳴らして左右に開き、俺は鼻を押さえながらフラフラと出ていく。
「ああ、ちょっと有川さん!車を忘れてますよ。」
「え、車?・・・ああ、そういえば車で来てたんだ・・・。」
なんて恥ずかしい失態をさらしてしまったんだ俺は・・・。
部屋から逃げ出し、門にぶつかって倒れるなんて・・・。
ポケットからキーを取り出してドアを開け、慌てて中に乗り込んでエンジンを掛けた。
「そ、それじゃお邪魔しました・・・。」
窓を開けてもう一度頭を下げると、翔子さんはニコリと笑ってハンカチを差し出した。
「鼻・・・ちょっとだけ血が出てますよ。これ使って下さい。」
「い、いや・・・そんなの悪いですよ・・・。」
「いいから気にせずに、はい。」
そう言って俺の手を取り、高そうな柔らかいハンカチを握らせた。
「す、すいません・・・なんか色々と・・・・。」
「気にしないで下さい。家に呼んだのは私なんですから。
ハンカチを返すのはいつでもいいですから、気をつけて帰って下さいね。」
「・・・ありがとうございます。それじゃ。」
俺はハンカチで鼻を押さえつつ、手を振って車を発進させる。
ルームミラーには微笑みながら手を振り返す翔子さんが映っていた。
「なんか・・・今日は良い日なんだか悪い日なんだか分からないな・・・。」
翔子さんから渡されたハンカチは、とても柔らかくて良い匂いがした。
しかしもう浮かれるのは終わりだ。
今は藤井が待っている俺のアパートへ急がないと。
ハンカチをポケットに入れ、アクセルを踏み込んで車を走らせていった。
心の中で藤井に謝りながら・・・。

勇気のボタン 二人の道 第二話

  • 2014.02.04 Tuesday
  • 16:41
勇気は誰にだってある。もし自分には勇気が無いと思っていたら、それは気づいていないだけだ。
自分の中に眠っている勇気に、気づいてないだけだ。
でも、その勇気を呼び起こすにはきっかけがいる。
最初から勇気を出せる人間もいるだろうけど、生憎俺はそんなに強くはない。
藤井に告白したあの日、俺は勇気を振り絞った。
自分の中の、ちっぽけで小さな小さな勇気だったけど、それでも振りしぼったんだ。
だから・・・藤井はそれを受け止めてくれた。
いや、伝わったと言った方が正しいかもしれない。
俺は女性に疎いから、どうして藤井が俺のことを好きになったのかは分からない。
あの暑い夏の夜に告白をした時、藤井は言っていた。
『私はずっと前から有川君のことが好きだった。』
そう・・・俺が藤井に惹かれる前から、藤井は俺に惹かれていたのだ。
こんな頼りなくて、情けない男に・・・。
そう、本当に俺は情けない男だ。
一番大切な人なのに、どうしてその気持ちを理解してやろうとしなかったのか?
どうしてもっと、あいつの話に耳を傾けようとしなかったのか?
半年前に大喧嘩したあの日、藤井は泣いていた。
あいつが泣くのは珍しいことじゃないけど、でもあの時の涙はいつもと違っていた。
普段あいつが流す涙は、たいてい他の誰かの為だ。
もっといえば、ほとんどの場合は動物の為に泣いている。
でも・・・あの時の涙は違った。
あいつは自分の為に泣いていた。
抑えられない自分の感情や、上手く伝えられない自分の気持ちのもどかしさに泣いていた。
俺は・・・その涙を受け止めようとしなかった。
言い訳ばかりして、何一つ藤井の気持ちを考えようとしなかった。
去年の夏の夜、あいつは俺を正面から受け止めてくれたのに、俺はあいつを受け止めようとはしなかった。
それはなぜか?答えは分かっている・・・。
俺は・・・いつの間にか自分のことしか考えていなかったからだ。
藤井と一緒にいる時の幸せ。それは藤井が傍にいてくれるからあるものなのに、俺はあいつを見ていなかった。
俺が大事にしていたのは藤井ではなく、幸せを感じる自分のことだけだった。
・・・俺はほとんど恋愛経験がない・・・。
藤井と付き合う前に、一人だけ女性と付き合っていたが、まったく長続きしなかった。
今となってはどうして付き合うことになったのかも思い出せないような相手だった。
でも藤井は違うのに・・・。俺はあいつが好きになって、俺から告白して付き合い始めたのに・・・。
恋愛経験に乏しい俺は、まったく分かっていなかったのだ。
恋は人を盲目にさせるということを・・・。
幸せに浮かれてばかりいる俺は、幻ばかり見て盲目になっていた。
俺の目は曇りまくって、目の前に立つ藤井を見ていなかった。
だから俺達は・・・別れることになってしまったんだ・・・。
責任は俺にある。それは分かっている。
しかしもう遅い。終わったことだ。今さら女々しいことを言っても仕方がない。
そう思っていたのに・・・あんなコンビニで再開するなんて思ってもいなかった・・・。
藤井を一目見た瞬間、俺の心は高鳴った。
初めてあいつと手を繋いで歩いた時のように、言いようの無い喜びが湧きあがった。
・・・ああ・・・俺はまだ藤井のこと・・・・好きなんだな・・・・。
心には鮮明に藤井の笑顔が残っていて、それは消えることのない刻印なのだと思い知らされた。
だから・・・・もう一度・・・あいつと・・・・・。
それが都合の良い考え方だと分かっているけど、そう思わずにはいられない。
そして、あの日自分の犯した愚行を後悔していた。
どうして俺は・・・藤井をほったらかして・・・・翔子さんと・・・・・。


            *


〜半年前〜

公園で会った次の日、俺はバイト帰りの道で考えていた。
「フェレットと野生動物の共存ってなあ・・・。
そう上手くいくかなあ・・・・。」
去年の秋に実家から持ってきた車を運転し、雨がぱらつく国道を走っていく。
蒸し暑さが車内を占領して、ボロいエアコンをかけて窓の外に目をやった。
「でもあいつは一度言い出したら聞かないから、やるしかないか。」
お気に入りの曲をかけて鼻歌を歌い、昨日の藤井とのやり取りを思い出してた。

         *******

寒空の下で土手に上がった俺達は、手を繋いで橋の方へと向かった。
藤井は拳を握って熱弁をふるい、いかに今回の活動が大事かを力説していた。
「フェレットってペットとして人気があるんだけど、捨てちゃう人もいるのよね。
それが野生化してこの辺りに住みついているんだけど、イタチやタヌキと揉め事を起こしてるらしいのよ。」
「揉め事?どんな風に?」
「一番多いのは餌の取り合いみたいね。虫とかトカゲとか、あとは人の捨てていったゴミとか。
ほら、前にカラスとトンビの縄張り争いに巻き込まれたのを覚えてる?」
「ああ、そういえばあったなあ。あの時はチュウベエが活躍したんだっけ?」
そう言って頭の上のチュウベエを見上げると、翼を広げて頷いた。
「そう。あの時、俺が活躍した。そのおかげで、カラスの群れは藤井のマンションから去っていった。」
「あの時のカラスはちょっと怖かったなあ。最終的に俺達の話を理解してくれたからよかったけど・・・。」
まだ藤井と恋仲になる前に、カラスとトンビの縄張り争いに巻き込まれたことがあった。
トンビの大群に縄張りを奪われたカラスが、藤井のマンションの周りに大挙してきたのだ。
しかしチュウベエが身体を張った活躍をしてくれたおかげで、なんとか大きなトラブルにならずに済んだのだった。
「野生に生きる動物って、すごく縄張り意識が強いでしょ?
だから元々この辺りにいた動物は、なんとしてもフェレットを追い払いたいみたいなの。
だからしょっちゅう喧嘩を起こしてるんだけど、そのとばっちりが他の動物達にもいっているみたいなのよ。」
「他の動物?」
「うん、例えば飼い猫とかね。実はうちのモモとココも、ちょっと被害に遭ってるんだ。」
「ほんとかよ!大丈夫なのか?」
「うん、そこまで大したことじゃなかったから。でもね、行き場を失くしたフェレットやイタチが他の場所に移動してるのよ。
だからその場所を縄張りにしてる野良猫たちと、揉めたり喧嘩したりしてて・・・。
これは何とか手を打たないとと思ったわけ。」
「そうか・・・そこまで深刻なのか・・・。」
俺は眉を寄せて考え込み、後ろをついてくるモンブランに尋ねた。
「お前は被害に遭ったことはないのか?」
「全然。なんかイタチもどきみたいな奴に喧嘩を売られたことはあるけど、お尻の毛を噛みちぎって追い払ってやったわ。」
モンブランは胸を張り、尻尾を振って自慢げに語る。
「お前にこんな心配は無用だったな。聞いた俺が悪かった。」
「ちょっと、何よそれ!私をレディ扱いしない気?」
モンブランは猫パンチをかまし、ぷりぷり怒ってそっぽを向いてしまった。
「だははははは!こいつにメスらしさの欠片もあるかってんだ!
玉と竿が無いだけで、中身は立派なオスなんだからよ!」
よせばいいのにマサカリが茶化し、「うっさいこのデブ犬!」と殴られていた。
「まあ冗談はともかくとして、どうやって問題を解決するんだ?
まさかフェレットを全部捕まえて、元の国に戻すとか言うんじゃないだろうな?」
「いくら私でもそんな無茶は言わないよ。」
藤井は頬を膨らませて怒ったように拗ねるが、すぐに元の表情に戻って続けた。
「ここは私達が間に立って、フェレットと野生動物の仲裁をするっていうのはどうかな?」
「仲裁だって?動物同士の喧嘩に首突っ込むってのか?」
「喧嘩じゃないよ。縄張り争いだから。」
「似たようなもんじゃないのか?」
そう言うと、藤井は「分かってないなあ」と首を振った。
「いい悠ちゃん。野生動物にとって、縄張りっていうのは命の次に大事なものなの。
もしそれが他の動物に奪われたら、食べる物も住む場所もなくなっちゃうんだよ。
縄張りを巡る戦いっていうのは常に命懸けで、ライオンだってそれで殺し合うこともあるんだから。」
「ほお・・・すいぶん詳しいな。」
「まあね!ペットだけじゃなくて、野生動物のことについても勉強してるから。」
藤井は誇らしげにVサインをするが、俺は乗り気になれずに顔をしかめた。
「でもさあ、そんな危険な戦いの仲裁に入って大丈夫かな?
下手すれば怪我するんじゃ・・・・。」
「普通の人ならそうかもしれないね。でも私達には動物と話せる力があるじゃない。
だから双方の言い分を聞いて、何とか共存の道を探そうって考えてるの。」
「う〜ん・・・でもフェレットって外来種だろ?それで共存っていうのはどうなんだろ?
生態系とかにも影響が出そうな気がするんだけど・・・・。」
「ああ・・・生態系か・・・・そこまでは考えてなかったな・・・・。」
あれだけ勢いが良かったのに、突然大人しくなって黙ってしまう藤井。
なんだかそれが可愛くて、握った手を引いて肩をくっつけた。
「あらまあ、デレデレしちゃって。ほんとに熱いわねえ。」
マリナが流し目をよこして茶化してくる。俺はコホンを咳払いし、藤井の顔を見つめた。
何やら真剣に考えているようで、急に「よし!」と叫んで顔を上げた。
「まあ色々問題はあるかもしれないけど、ここはとりあえずお互いの話を聞いてみようよ。」
「・・・良いアイディアが浮かんでこなかったんだな?」
意地悪そうに言うと、「細かいことはいいの!」と怒られてしまった。
「とにかく今度の休みに話を聞きに行ってみようよ。
夜にこの辺りを歩けば、きっとフェレットを見られるはずだから。」
その後も動物達が話しに加わってやいのやいのと言っていたが、結局良いアイデアが浮かばずに藤井案が採用されたのだった。

              *******

小雨を見つめながら昨日のことを思い出していると、なんだか可笑しくなって笑ってしまった。
「ほんとに変わらないよなあ、藤井は・・・。出会った時のままだ。
それに比べて俺は変わったんだろうか?自分では変わったと思ってるけど、藤井の目から見たらどうなんだろうな。」
他人の目から自分を覗くことは出来ない。しかし相手に自分がどう映っているかは気になるものだ。
それが一番大切な人ならなおさらに・・・・・。
目の前の信号が赤に変わり、ゆっくりブレーキを踏んで止まる。
そしてふとマサカリの餌が少ないことを思い出し、近くのコンビニに寄っていくことにした。
「あいつカリカリだけだと怒るからな。もうちょっと食う量を減らしてくれたら、家計も楽なんだけど・・・。」
思わず愚痴が出るが、マサカリの大食いは今に始まったことじゃない。
あいつは食うことに人生をかけているから、もし餌の量を減らしたら何をしでかすか分からないのだ。
手間のかかる動物達だが、俺にとってはかけがえのない家族であり、一番の理解者達である。
あまり藤井にばかり熱を上げていると、またニヤニヤした顔で文句を言われてしまうかもしれない。
「手がかかるけど、やっぱり大事な存在なんだよな、俺にとっては。」
コンビニに近づき、ハンドルを切って駐車場に入る。
田舎の駐車場というのは店舗の五倍くらい大きくて、車の出し入れが楽なのでありがたい。
空いたスペースに駐車し、店に入ってペットフードのコーナーに向かう。
そして犬缶を三つほど掴み、レジで精算を済ませて店を出ようとした。
するとその時、後ろから声を掛けられて振り返った。
「あの・・・有川さん?」
「・・・ああ!翔子さん!」
淡い紫のワンピースを着た女性が、頭の後ろでアップに纏めた髪を揺らしながら近づいて来る。
「お久しぶりです。ワンちゃんのお買い物ですか?」
剥き出しで手に持った犬缶を見つめ、首を傾げて尋ねる。
「ああ・・・ええっと・・・マサカリの餌です。最近よく食べるもんだから。」
最近じゃなくて昔からよく食べるのだが、翔子さんを前に緊張して、わけの分からないことを言ってしまった。
「マサカリちゃんぽっちゃりしてますもんね。またお腹をプニプニしたいな。」
「ええ、もういつでもプニプニして下さい!そりゃもう、いつでも!ええ!」
俺はわけの分からない汗を掻き始め、意味不明に犬缶を振って笑う。
この人は北川翔子さん。去年の夏の初めくらいに、マサカリの散歩をしている時に知り合った。
見惚れるほど整った顔立ちに、つり目だが優しさを感じる愛嬌のある目。
そしてプロのモデルかと思うくらい抜群のスタイルをしていて、全身から美しいオーラが溢れ出ている人だ。
正直・・・俺は翔子さんに憧れていた時期があった。
もちろん藤井と付き合う前の話だが、今でも目の前に来られるとドキドキしてしまう。
卑しい下心など持ち合わせていない。持ち合わせていないが・・・この美しさには参ってしまう。
まとに目を合わせることが出来ずにはにかんでいると、翔子さんは可笑しそうにクスクスと笑って尋ねてきた。
「最近ほとんど会いませんよね?去年は犬の散歩をしてたらよく会ってたのに。」
「ええ!実はですね・・・ちょっと仕事の都合で散歩の時間帯が変わりまして・・・。」
「ああ、お仕事の都合で・・・。私はてっきりマサカリの調子でも悪いのかと心配してました。」
「いやいや、あいつはアホみたいに元気ですよ!だからほら、こうしてたっぷり犬缶も買って。」
「そっか、よかった・・・。コロンもきっと不思議に思っていたと思いますよ。
どうしてマサカリがいないんだろうって。でも元気ならよかった。」
コロンとは翔子さんの飼っているトイプードルの名前である。
俺はあの小生意気な犬の顔を思い出し、頭を掻きながら言葉を返した。
「ああ、いや・・・あはは・・・どうも・・・。大変ご愁傷さまで・・・・。」
またもや意味不明なことを言ってしまい、自分が恥ずかしくなって咳払いで誤魔化す。
翔子さんはニコニコと俺を見つめ、眩しいくらいに笑顔を輝かせて言った。
「それじゃ私はこれで。また犬のお散歩でお会い出来るといいですね。」
「ええ、そりゃあもう是非!キリンより首を長くして心待ちにしております、ええ!」
ああ、今日の俺はダメだ・・・。アホ丸出しで情けなくなってくる・・・。
しかし翔子さんは気に止める様子もなく、笑顔で手を振って去って行った。
ポーっとしながらその姿を見送っていると、ケータイが鳴ってポケットを漁った。
「おお、藤井からか。」
向こうも仕事を終えたようで、可愛い絵文字付きのメールが送られてきた。
「仕事終わったかな?私はさっき終わって家に帰る途中です。
家に帰ってモモとココに餌をやったら、悠ちゃんの家に行くね。
今度の同盟の活動のことで話し合いたいから。」
「これは昨日行ってたフェレットのやつだな。
相変わらず動物のことになると行動的だよなあ。」
苦笑いをしながら外に出ると、誰かの気配を感じて顔を上げた。
「あの・・・・ちょっといいですか?」
それは先ほど店を出ていったはずの翔子さんだった。
とても思い詰めた顔をしていて、悲しそうに俯いている。
いったいこんな美人が悲しむ理由って何だろうなどとどうでもいいことを考えていると、急に顔を上げて手を握ってきた。
「お願いです!今から相談に乗ってもらえませんか!」
「そ、相談・・・ですか?」
いきなり手を握られ、しかも鼻が触れるほど顔を近づけてくる翔子さん。
俺はパニックと興奮で頭がおかしくなり、「へ、へへえ・・・」などと妙な返事をしてしまった。
翔子さんは俺の手を強く握りしめ、じっと見つめてくる。そしてまた俯いて口を開いた。
「実は・・・今付き合ってる彼のことなんですけど・・・。」
「翔子さんの彼氏・・・ですか?」
以前に一度だけ、翔子さんが男の人とデートをしている時に会ったことがある。
この美人に負けず劣らすの美男子で、精悍で爽やかな雰囲気のナイスガイだった。
「実は私・・・今の彼のことでちょっと困ってることがあるんです・・・。
こんなの有川さんにしか相談出来なくて・・・・。」
「お、俺に・・・ですか?でも俺は恋愛には疎いから、誰か他の方に相談された方が・・・・。」
そう言うと、翔子さんはブルブルと首を振って俺を見つめた。
「違います!恋愛というよりかは・・・動物のことなんです・・・。」
「動物の・・・・・?」
「はい・・・。私の飼っている猫のことなんですけど・・・。」
「翔子さんの猫って・・・確かカレンっていう名前の綺麗な猫ですよね?」
「そうです!覚えてくれてたんですか?」
「もちろんですよ。あの時は大変でしかたからね。」
これも以前の話だが、モンブランに頼まれて、猫の派閥争いの仲裁に手をかしたことがある。
あの時のイザコザの原因になっていたのがカレンだった。
綺麗な毛並みをしたアメリカンショートヘアで、モンブランとは大違いの上品な猫だった。
「カレンは私にとって大切な家族なんです。でも・・・今の彼はあまりカレンのことが好きではないみたいで・・・。」
「そうなんですか。もしかして猫アレルギーとか?」
「・・・違います。私があまりにもカレンに構い過ぎるから、それが不満なんだと思います。」
「ははあ・・・なるほどねえ。ヤキモチですか?」
「内にはカレンの他にコロンもいますけど、彼は犬は好きだから、コロンには不満はないみたいなんです。
でも猫の方は元々好きじゃないみたいで・・・私に合わせてずっと我慢していたみたいです・・・。
でも最近ポツポツ不満を漏らし始めて、それから一気に不満が爆発していったんです。
そして・・・・この前カレンのことを・・・・。」
翔子さんは辛そうに唇を噛み、俺の手を痛いほど握りしめる。
そして目尻を濡らして、揺れる瞳で俺を見つめた。
「この前カレンのことを・・・ブッたんです!」
「ブッた・・・?叩いたってことですか?」
「そうです!そんなに強くじゃないけど、平手でパシン!と。
それを見た瞬間にカーッと頭に血が昇っちゃって、気がついたら私が彼をブッてました・・・・・。」
ううむ・・・。なんだか複雑な事情がありそうだが、翔子さんの気持ちはよく分かる。
いくら彼氏とはいえ、自分の猫を叩かれたらそりゃ腹が立つだろう。
しかし部外者の俺が偉そうに口を突っ込むのもアレだし・・・いったいここは何と言えばいいのか・・・。
すると翔子さんは俺の手を離し、胸の前でモジモジと指を動かして言った。
「もしよかったら・・・これからお時間を頂けませんか?
今から私の家で・・・ゆっくり相談させてほしいんです。」
「しょ、翔子さんの家!・・・いえいえ!そんな・・・滅相もない!」
「あ!やっぱり迷惑ですよね、こんな話は・・・。」
翔子さんは残念そうにガックリと項垂れる。
俺はすぐに首を振って「そうじゃありません」と強く否定した。
「相談に乗るのは構わないんですが・・・いきなり翔子さんの家というのは、いささか緊張するかなって・・・。」
「いえ、それには理由があるんです。」
「理由?」
翔子さんは頷き、足元に目を落として答えた。
「あの・・・何て言うか有川さんは・・・動物の心が分かるんじゃないかって思っているんです。」
「・・・・・・・・・・・。」
「だから・・・直接カレンに会ってもらった方が、相談しやすいかなって思って・・・。
彼はカレンのことを嫌っているけど、カレンは彼のことをどう思っているのか知りたくて。
・・・ごめんなさい、なんだかすごく変なこと言ってますね、私。」
いいえ、あなたは何も間違ったことは言っていませんよ。
なぜなら、俺は動物の言葉が分かるから。そして、会話も出来るから。
だからカレンの気持ちを知るのは容易いことです。さあ、翔子さんの家に行きましょう。
そう言いたい気持ちを堪え、グッと言葉を飲み込む。
そんな俺の顔を見た翔子さんは、「やっぱりご迷惑ですか?」と申し訳なさそうに尋ねる。
「・・・分かりました。翔子さんの家に行って、カレンに会ってみましょう。
ご期待にそえるかどうかは分かりませんけどね。」
そう言うと、翔子さんは手を叩いて喜んだ。
「ほんとですか!ありがとうございます!じゃ、じゃあ私の家に案内しますね!」
俺の手を掴み、コンビニの駐車場を横切って横断歩道を渡ろうとする翔子さん。
「ちょ、ちょっと待って下さい!よかったら車で行きませんか?」
俺は駐車場の端に止めてある古臭いクーペを指差した。
「ちょっと中は狭いですけど、この雨の中を歩いて行くよりはいいでしょう?」
「いいんですか?わざわざ車でなんて・・・。」
「もちろんですよ。その方が速いですしね。」
「分かりました。じゃあお言葉に甘えて・・・。」
翔子さんは小さく笑って頷く。
俺はエスコートするように車まで先導し、ドアを開けて「どうぞ」と笑った。
「それじゃ失礼します。」
翔子さんが助手席に乗り込み、俺は丁寧にドアを閉める。
そして反対側に回って運転席に乗り込み、キーを指してエンジンを掛けた。
「ボロい車なもんでエアコンが効きにくいですけど、ちょっと我慢して下さいね。」
「いいえ、お構いなく。暑いのは平気ですから。」
ああ・・・やっぱり笑顔が眩しい・・・。
俺は意気揚々とギアを入れて車を発進させ、国道へ滑り出していく。
まさか翔子さんの家に行く日が来るとは思いもよらず、ただただ浮かれてばかりいた。
そう・・・一番大切な人との約束を忘れて・・・。
翔子さんは家までの道のりを丁寧に教えてくれる。
その声が優しくて、俺は情けないまでに浮かれて車を走らせていく。
ポケットの中では、藤井からメールが届いてケータイが震えていた。
しかしそのことにまったく気づかずに、翔子さんの家へと向かって行った。

勇気のボタン 二人の道 第一話

  • 2014.02.03 Monday
  • 15:15

蒸し暑い風が雲を運び、晴れた空をどんよりと覆っていく。
頬に冷たい滴が当たって空を見上げると、瞬く間に目も開けられない程の雨が襲ってきた。
「やべえ!ずぶ濡れになっちまう!」
近くのコンビニ避難し、ガラス窓から土砂降りの外を睨んで顔をしかめた。
「こりゃしばらく出られそうにないな。ちょっと立ち読みでもして時間を潰すか。」
コミック雑誌を手に取り、適当に内容を読みとばしていく。
「あの漫画、連載終わったのか。なんだよ、けっこう好きだったのに。」
お気に入りの漫画が載っていないことに腹を立て、パラパラとページを捲っていく。
すると誰かが後ろを通り過ぎ、よく知る匂いが鼻をくすぐった。
「・・・・・・・・・・・・・。」
俺は心臓が爆発するほど緊張して、漫画に顔を向けたままチラチラとその人物を見た。
「・・・やっぱり藤井・・・。」
どうやら向こうは俺に気づいていないらしい。
猫缶とジュースを手に取り、足早にカウンターへ向かって行く。
ポケットからボロボロの茶色い財布を取り出し、小銭をカウンターに並べて店員に相槌を打っていた。
「・・・相変わらずだな、あの腰の低い態度。ボロい財布もそのままだし・・・・。」
漫画から顔を上げ、思わず藤井に見惚れる。
店員と話す声が聞こえて来て、俺は思わず熱いものが込み上げて目を伏せた。
あの声、あの顔、あの雰囲気、そして・・・あの笑顔。
どれもこれもが、鮮明に俺の心に残って離れない。
もっと見ていたいと思うが、これ以上は堪えられなくなって店を出ることにした。
「こんな所で泣いたら馬鹿らしいしな。見つからないうちに退散だ・・・。」
漫画を元に戻し、気づかれないように俯きながら自動ドアへ向かう。
しかし誰かが近づく気配を感じて思わず顔を上げると、ドンとぶつかってしまった。
「ああ!ごめんなさい!」
ぶつかって来た相手は申し訳なさそうに頭を下げ、伏し目がちに俺を見上げた。
そしてその瞳に俺が映った瞬間、「あ!」と素っ頓狂な声を出して固まった。
「・・・ああ・・・・、よう。・・・久しぶり・・・。」
俺は苦笑いを見せながら手を上げる。背中に冷たい汗が流れ落ち、鼓動が跳ね上がって口から心臓が飛び出しそうになる。
「・・・・あ・・・・ええ・・・・。」
藤井は一瞬で顔を真っ赤にして、サッと目を逸らす。
まるで見知らぬ土地にやって来たかのように困り果て、オロオロとレジ袋を握りしめていた。
二人の間に気不味い空気が漂う。
半年ぶりの再会は、二人の間に空いた溝をさらに広げていたようだ。
何か喋らないと思い、必死に言葉を探すが何も出てこない。
ただ気不味い時間だけが流れ、俺は堪え切れなくなってもう一度手を上げた。
「そ・・・・それじゃ・・・・。」
緊張のあまり声が裏返り、逃げるようにドアへ向かう。
そして、自動ドアのガラスに映る藤井が、躊躇いがちに手を伸ばしてきた。
そっと俺のTシャツの裾を掴み、ガチガチに緊張した顔で何かを言おうとしている。
・・・なんだ?何を言うつもりだ藤井?散々言い争って、散々傷つきあって別れたはずなのに、今さら何を言おうとしている?
もう一度やり直そうとか?それとも借りた金を返してないとか?いや、もしかしたらまだ文句を言い足りないだけか?
ほんの一瞬で様々なことが浮かび、俺は藤井の言葉を聞くのが怖くなって息を飲んだ。
ガラスに映る藤井が、震える唇を動かして何かを伝えようとしている。
俺は全ての感覚を聴覚だけに研ぎ澄まし、藤井の口から出て来る言葉を聞き取ろうとした。
・・・・しかし、肝心の俺の肝っ玉は、まったく準備が出来ていなかった。
緊張と恐怖で顔が引きつり、もはや心拍数が限界まで達している。
藤井がクイっと俺のTシャツの裾を引っ張り、かすれるほど小さな声で喋りかけてきた。
「・・・あ・・・あの・・・お願いが・・・・・。」
その瞬間、俺は店から出て逃げ出していた。
シャツを掴んでいた藤井の指が外れ、「あ!」と何かを言いたそうな声が追いかけてくる。
いいよもう!何も話すことなんかないんだからやめてくれ!
ようやく最近心が落ち着いてきたのに、また苦しめないでくれ!
もう・・・もうお前とのことで傷つきたくないんだ!
心の叫びを必死に押し殺し、ダッシュで家路へと駆け抜ける。
さらに勢いを増した夕立が襲いかかってきて、服も靴もグショグショに濡れていくが、そんなことはお構いなしに走った。
・・・俺はまだ・・・藤井のことを・・・。
半年ぶりの再会が、またしても傷心を刺激し、藤井のことを思い出させていく。
あんなに仲が良かったのに。
動物と話せるなんて不思議な力を持った者同士が、こうして巡り会えたのに。
二人で協力して、色んな動物を助けて来たのに。
ほんの・・・ほんの些細なことが、俺達をダメにした。
タバコの残り火から家が燃え上がるように、ほんの小さな亀裂が、俺達を引き裂いた。
お互いに罵り会い、お互いに傷つきあい、泣きながら別れたあの日。
そう、あの日もちょうど、こんな風に雨が降っていたんだ。
季節外れの、夕立のような大雨が・・・・・・・。
 

            *
 

〜半年前〜

季節は冬。ほんの束の間の秋があっさりと通り過ぎ、冷たい木枯らしが枯葉を揺らしている。
俺は動物達と一緒に公園のベンチに座り、暖かい缶コーヒーをすすっていた。
「うう、寒い・・・。こんなに寒いと凍っちまうぜ。」
たっぷりと太ったブルドッグのマサカリが、肉に顔をめり込ませてブルブルと震える。
「そんだけ太ってどこが寒いのよ。いつでも脂肪のコートを着てるくせに。」
白猫のモンブランが呆れた顔で言い放ち、猫パンチでマサカリの背中を叩く。
「こいつは我慢ってのが出来ないんだよ。食う、寝る、ウンコする。
それ以外の道から外れると、顔を肉にめり込ませて愚痴を言うしか出来ないんだから。」
ハムスターカモンが俺のダウンジャケットの隙間から顔を覗かせて毒を吐く。
「でも寒いもんは寒いぞ。こう寒くちゃミミズだって獲れなくなる。」
俺の頭の上で、オカメインコのカモンが翼を広げる。
「私は寒いのは苦手だわあ。あんた達は恒温動物だからいいわよねえ。
爬虫類に冬は堪えるのよ、まったく・・・・・。」
イグアナのマリナはトカゲ用のセーターを着て寒さに身を縮めている。
「でもこれ暖かいわあ。さすが藤井さん、気が利くわよねえ。」
マリナが着ているセーターは、藤井が編んでくれたものだった。
変温動物のマリナが、寒い思いをしないように秋の終わりにプレゼントしてくれたものだった。
「ほんとにいい彼女を持ったよなあ、悠一は。料理も上手いしセーターも編めるし。
それに人間にも動物にも優しいしよ。」
マサカリがニヤけた顔で頭を突いていくる。
「でもまあ、藤井だって好きで悠一と付き合ってんだ。
こんな甲斐性無しの馬鹿のどこがいいのか分からねえけど、こいつと付き合うっていうだけで、けっこうな変わり者だと思うぜ?」
カモンの毒舌にみんなが頷く。
「そうよねえ、あんなに良い子ならもっとマシな男と付き合えるはずなのに、どうして悠一なのかしら?」
モンブランも不思議そうに首を捻り、寒さに堪えかねて俺の膝に乗ってくる。
そして真っすぐに俺を見上げ、尻尾を振って尋ねてきた。
「悠一と藤井さん、付き合ってどれくらいだっけ?」
「そうだなあ。去年の夏の終わり頃からだから、もう一年以上経つことになるな。」
「けっこう長く続いてるわね。大きな喧嘩もないし、浮気もないし、悠一けっこう頑張ってるじゃない。」
モンブランがマセた顔で肘を突いてくる。
するとすかさずカモンがツッコミを入れた。
「違う違う、喧嘩がないんじゃなくて、喧嘩する度胸がコイツにないだけだ。
それと浮気をしないんじゃなくて、浮気出来るだけの甲斐性がないだけだ。」
「ああ、言えてる。じゃあさっきの褒め言葉は無しね。」
カモンの毒舌にまたもやみんなが頷き、俺はいささか腹が立って拗ねた顔をした。
「まったく・・・お前らの口の悪さはいつまで経っても治らんよなあ。
いったい誰のおかげで生きていけるんだか・・・。」
俺は腕を組み、顔をしかめて言った。
すると動物達は急に怖い顔で詰め寄って来て、ギャアギャアと抗議を始めた。
「そういう言い方はどうかと思うぜ。飼い主の肩書きを振りかざすなんて卑怯だ!」
「そうよ!悠一サイテー!そんなんだといつか藤井さんに振られるわよ!」
「中身がない奴に限って肩書きに頼るのさ・・・。こいつはクズなんだ。」
「俺、悠一を見損なった。ここでウンコする。」
「今のはちょっと大人げない言い方よねえ。私・・・悲しくなっちゃう。」
「お前らな・・・人を散々罵ったくせに、自分が何か言われるとそれかよ!」
俺は立ち上がって文句を言う。しかし誰もまともに聞いておらず、暇そうに枯葉を眺めていた。
「ぐううッ・・・。いったい誰がこいつらを躾けたんだ。飼い主の顔が見てみたいよ。」
「お前が飼い主だろ。躾けたのもお前だ。」
マサカリがすかさずツッコミを入れ、勝ち誇った顔で笑う。
クソ!顔が肉にめり込んでいる分際で偉そうに・・・。いったいお前一匹の食費だけで、どれだけ金がかかってると思ってやがる!
そう言い返したかったが、また一斉に反撃を喰らうことが分かっているのでやめておいた。
するとモンブランがピョンとベンチから飛び下り、前足で公園の入り口を指した。
「ほら、藤井さんが来たわよ。機嫌直して。」
そう言ってペシペシと俺の足を叩き、嬉しそうに藤井の元へ駆け寄って行く。
他の動物達も一斉に駆け寄り、キャッキャと楽しそうに喜んでいる。
「お前らの飼い主は俺だぞ、まったく・・・・・。」
ジャケットのポケットに手を突っ込み、ゆっくりと藤井の元へ歩いて行く。
俺の姿に気づいた藤井は、二コリと笑って手を振った。
「おはよう悠ちゃん。今日も寒いね。」
「ああ、まったくだ。カイロでも持って来ればよかったよ。」
俺も笑顔を返し、白い息を吐いて藤井を見つめる。
付き合い始めて一年と四ヶ月くらい。ありゃ、もうちょっとで一年半になるのか?
なんだかアッという間に時間が過ぎて、付き合いだしたのがほんの昨日のことのように感じられた。
去年の夏の終わりに、この公園で俺の気持ちを伝えた。
なけなしの勇気を振り絞り、藤井に対する素直な気持ちを伝えたのだ。
恐ろしいほど怖かったが、藤井は俺の言葉を正面から受け止めてくれた。
そして・・・私も有川君のことが好きだったと言ってくれた。
彼女を駅まで送っていく途中、星の輝く夜でキスをした。
あの時の感触、あの時の息づかい、あんなに近くに藤井を感じたのは初めてのことで、今でも心をくすぐることがある。
気がつけば一年半も恋人として過ごし、その間に退屈したことなど一度もなかった。
お互いが動物と話せるという力を持っていて、力を合わせて困っている動物達を助けてきた。
上手くいくこともあれば、そうでない時もあったけど、藤井と出会ってからの時間は、人生で一番充実していた。
だから今でも一緒にいて楽しいし、こいつを好きな気持ちにまったく変化はない。
いや、それどころかますます惹かれていく。今の俺には、藤井のいない人生なんて考えられなかった。
きっと・・・きっとこれからもこんな幸せな時間が続くに違いない。
そして・・・藤井はずっと傍にいてくれるに違いない。
俺達の間に、何の心配ごともないのだから。
「どうしたの悠ちゃん?じっと見つめて。」
「え?ああ・・・いや、今日の服似合ってるなと思って。」
「ほんと?これ新しく買ったコートなんだ。着るのは初めてだけど、似合ってるって言ってもらえてよかった。」
藤井は嬉しそうに笑ってコートを見せつける。
薄いグリーンの明るいコートは、藤井によく似合っていた。
そしてブラウンのロングスカートを翻し、動物達と並んで公園の奥へと歩いていく。
「じっとしてたら寒いから、歩きながら話そ。」
「そうだな。」
カモンをジャケットの中に入れ、落ちないようにジッパーを上げる。そしてマリナを首に巻いて俺達は歩きだした。
「それいいね、イグアナのマフラー。」
「お前が作ったセーターのおかげで、けっこう暖かいよ。」
藤井は嬉しそうに笑い、公園の奥の林へと向かう。
後ろで手を組んでバッグを揺らし、枯れた葉を揺らす木々を見上げて目を細める。
「何度も来ても思い出すね、あの日の夜を。」
懐かしそうに表情を緩め、どこか遠い目で藤井は喋る。
「悠ちゃんが忘れていったイグアナの飼育本を届けに来て、ここでモンブランと出会った。
そしたらそこへ悠ちゃんがやって来て・・・・・。」
「俺もよく覚えてるよ。いきなりお前が林の中から出て来た時はビックリしたけどな。
でも・・・もっとビックリしたのはその後だよ。」
そう、会社を辞めてから藤井と再開したあの日の夜・・・・。
俺は度肝を抜かれることを言われたのだ。
『私も有川君と同じで、動物と喋れる力を持っている。』
まさかこんなに身近に、俺と同じ力を持つ人間がいるとは思わなかった。
しかし・・・それだけでは終わらなかった。
こともあろうに藤井は、俺と同盟を組もうと言い出したのだ。
私達のこの力を使って、困っている動物を助ける同盟を組もうと。
暇が欲しいという下らない理由で会社を辞めた俺は、めんどくさいことは御免だと断ろうとした。
しかし、結局は引き受けてしまったのだ。
そして一夏の間、藤井と共に同盟の活動に勤しんだ。
迷い犬を飼い主の元へ届けたり、子猫を抱えて腹を空かした母猫を説得したり・・・。
まあほとんどの場合は、上手く解決出来なかった。
動物には動物の事情があり、こちらの想いだけでどうにかなるほど甘くはないと思い知らされることもあった。
でも、藤井と同盟を組んだことは全然後悔はしていない。
いや、それどころか、あの日の夜にこいつと再開しなければ、俺は今でも下らない人間のままだっただろう。
自分に自信が持てず、勇気も出せない退屈な人間だったはずだ。
今の俺があるのは藤井のおかげだ。
こいつと出会ったこと、そしてこいつと一夏を過ごしたことで、俺は変わり始めたのだから。
あの日の淡い感傷に浸っていると、藤井がそっと手を握ってきた。
「素手で寒くない?霜焼になっちゃうよ。」
藤井は手袋を填めた指を絡め、以前より伸びた髪を揺らして微笑みかける。
「平気だよ、寒いのには強いんだ。」
俺はその手を握り返し、微笑みを返す。
動物達はニヤニヤと俺達を見つめ、マサカリがドンと頭突きをかましてきた。
「イチャイチャしやがってこの野郎。だらしない顔がさらにだらしなくなってるぞ。」
「・・・・うるさいな。余計なチャチャを入れるな。」
唇を尖らせて反論すると、動物達からドッと笑いが起きる。
俺は少し恥ずかしくなって顔を逸らすと、藤井も可笑しそうに笑っていた。
「照れ屋だよね、悠ちゃんは。」
繋いだ手を小さく振りながら、藤井は軽快な足取りで林を抜けていく。
そして川の見える土手に上った時、真剣な表情になって口を開いた。
「それじゃ今回の同盟の活動を説明するね。
実は最近、捨てられたフェレットがこの辺りに増えててね、元々住んでいたイタチやタヌキが・・・・・、」
藤井は深刻な顔で、今回の活動の内容を説明していく。
いつもはホンワリと優しい雰囲気と表情をしているのに、動物のこととなると一変する。
真剣な目で宙を睨み、熱のこもった声で力説する。
その姿を見る度に、こいつは本当に動物のことが好きなんだなあと思わされる。
もちろん俺も動物は好きだが、藤井の動物に対する想いはもっと凄まじい。
繋いだ手に力を込め、拳を握って語りかける。
俺は真剣に頷き、相槌を打ったり質問をしたりしながら話し合っていく。
時に動物達も合いの手を入れて、藤井の声はさらに熱を帯びていく。
俺は幸せだった。藤井と笑い合う瞬間、動物達に囲まれて楽しく過ごす時間、そして真剣に同盟の活動に取り組むこの情熱。
今・・・俺は全てが満たされていた。
何も心配事はないし、悩み事だって取るに足らないものばかり。
動物達と、そして藤井と笑い合うこの時間があれば・・・俺は何もいらない。
そして、この幸せはずっとなくならない。
そう信じて、ただただ藤井と過ごす時間を幸せに感じていた。
しかし・・・それはただの幻想であるとは、この時の俺は知らなかった。
不幸がずっと続くことが無いように、幸せがずっと続くことも無い。
近いうちに、俺と藤井の間に些細なトラブルが起こることになる。
その些細な出来事は二人の絆にヒビを入れ、やがて大きな亀裂となって弾けてしまう。
俺達の仲をかき乱すトラブルは、足音が聞こえるくらいに近くまでやって来ていた。
しかし今は気づかない。この幸せがずっと続くと信じて、ただ笑い合っていた。

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