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  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:58
これで『手の平の裏側』はお終いです。ちょっと変な感じの小説になってしまいました。
新しい小説はもう書き終わっているので、また載せます。それでは。

手の平の裏側 最終話 彷徨う魂

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:54
色づいた紅葉が、シトシトと雫を垂らしている。
朝から降り続ける小雨は、紅葉と相まってえも言えぬ風情を醸し出す。
「・・・・・・・・・・・・。」
違和感の正体に気づいてから二ヶ月後、俺は激しい葛藤に悩まされていた。一人で山を歩きながら、子供のように指をしゃぶっている。
幼児退行・・・・ではない。自分の精神を守る為、恥ずかしながらこうせざるをえないのだ。幸い人気の少ない山なので、こんな姿を誰かに見られることはない。
別に見られてもいいんだけど、まあ・・・あまり気持ちのいいものじゃないだろう。見せる方も、見せられる方も。
何度も何度も登った山だけど、来る度に違う顔を見せてくれるように感じる。止まっていても、絶えず動いているのが自然である。一度出会った景色は、二度と出会うことは出来ない。
「・・・・・・・・・・・・。」
指をしゃぶるのでは飽き足らず、手の甲を口に突っ込む。目は挙動不審に動き、子供のようなおぼつかない足取りで階段を上って行く。
・・・・・道が二手に分かれている。出来ればこのまま頂上まで登ってしまいたいが、それだとバイトに遅れてしまう。・・・いやいや、バイトなどどうもいいではないか。
「・・・・・・・・・・・。」
結局、頂上まで登ることにした。視線は定まらず、どこを見ているのか自分でも分からない。しかし虚ろな心の動きとは裏腹に、足は勝手に、そしてしっかりと動いていく。
ほらね、やっぱり心と身体は別々に動く。いくら精神が虚ろでも、肉体が健康ならば足は動いてくれる。本人の意志とは関係なしに、目的を遂行する為だけに動いてくれる。
なんと便利な代物だろう。心と身体は別々の方がいい。もし繋がっていたりなんかしたら、俺の身体はとうに壊れているだろうから。
「・・・・・・・・・・・。」
階段が終わり、険しい獣道に差し掛かる。手の甲をしゃぶりながら、慣れた動きで登っていく。危険な場所もなんのその。身体に染みついた動きは、ほぼ自動で山道を攻略してくれる。やっぱり・・・・身体は便利な代物だ。
山を登り始めて三十分・・・木立の開けた頂上に到着した。城跡の石畳を歩き、街が見下ろせる場所で立ち尽くす。
「・・・・・・・・・・・・。」
ここから見る景色は、昔からまったく変わっていない。中学の頃、学校を抜けだして来た時から、ほぼそのままに形を変えてない。川が流れ、街がそびえ、山々が連なっている。
小雨のせいで靄がかかり、空の上の方は、どこかに吸い込まれるように消失している。
あの空の上には・・・・何がある?下に広がる世界は変わらない。なら、その上に広がる世界は・・・いったいどこへ続いているのだろう?
《もし風の神様がいるのなら、この身体を風に変えて、今すぐあの空の上へ吸い込ませて下さい。そのまま消えて無くなってもいいから、どうか・・・・。》
この頃、徐々に空想と現実の境目は消失し始めていた。二つの世界の間には、決して取り払われることのない壁があるというのに、そのことも忘れ始めていたのだ。
自分がもっとも危惧した瞬間が、足音を立てて迫って来ていた。どっちつかずで、どこへも行けない。ただただ二つの世界の狭間を彷徨うばかりで、身も凍る居心地の悪さがある。
腰を下ろし、手の甲を口から離した。ヨダレが口の端から流れ、眠るように横になる。
「・・・・・・・・・・・。」
どれくらいそうしていただろうか?ポケットの中のケータイがブルブルと震え、少しだけ我に返った。
バイト先からの電話だった。時間が来ても出勤しないので、工場長から電話が掛かってきたようだ。
「もしもし・・・?」
工場長から、いったいどうしたのかと尋ねられる。怒るでも心配するでもなく、淡々とした事務的な口調だった。
むこうに感情がないのであれば、こちらも感情を持たずに受け答えが出来るというもの。
素直に今の状況を伝える。バイトをすっぽかし、山に登って放心していると。
工場長は苦笑いを返し、明らかに返答に困っていた。まあ・・・そりゃそうなるだろう。
怒られないだけマシというものだ。いや・・・怒ってくれた方がいいのか?
短いやり取りを終え、プツリと電話を切る。今日をもって退社ということになり、働く場所を失ってしまった。・・・・果たして、これは重要な問題だったのかな?
そもそも重要って何だ?俺にとって、いったい何が重要なのか?
「・・・・・・・・・・・・。」
決まっている。いま、あの空に重なっている、別の世界へ行くことだ。決して叶わないと知っていても、もはやそれを捨てることは出来なかった。
・・・・廃人・・・だったと思う。もはやただの廃人。生きることも、そして死ぬことさえもどうでもいい。なぜならこの場所は、俺の立つべき世界ではないのだから。
一時間ほど頂上で寝転がり、ゆっくりと立ち上がって街を見下ろす。ここから見る景色は何も変わっていないけど、それは俺の錯覚かもしれない。本当は・・・・絶えず動いているはずなのだ。街も人も自然も・・・・・そして、世界自身も。
「・・・・・・帰ろか。」
山道を下り、山を後にして家に向かう。途中で長溝さんの家に差し掛かった時、後ろから声を掛けられた。
「清水さん!」
誰かと思って振り返ると、人懐こい笑顔をした男がいた。
「どうも!」
「ああ、久しぶり。」
彼は長溝さんの友達で、ゴリと呼ばれている。いかついニックネームとは裏腹に、親しみやすくて明るい青年だった。
ゴリ君は人と話す時に笑顔を絶やさない。相手が誰であれ、よほどのことが無い限りはニコニコとしている。
「散歩ですか?」
「うん、そんな感じやな・・・。ゴリ君は長溝さんと遊んでんの?」
「そうっす。ヤッ君と一緒にカードゲームしてるんですよ。」
ヤッ君とは、もう一人の長溝さんの友達だ。古風な男で、武士かと思うほど潔癖な雰囲気を纏っている。俺とゴリ君が話していると、長溝さんが家から出て来た。
「おお、何やっとん?」
「ん?ちょっと散歩。」
「え?でも今日はバイトちゃうの?」
「クビになった。ついさっきやけど。」
「なんで!」
俺は事情を話した。何の感情も交えず、ただ淡々と事務的に。
仕事に対しては真面目な長溝さんのことだから、きっと怒るだろうと思っていた。しかし彼女の見せた反応は、俺の予想とは異なるものだった。
「ええやん、行きたくなかったんやろ?」
笑いながら言う長溝さん。俺は少々面食らって頷いた。
「行きたくないっていうか・・・現実のことがどうでもよくなってきて・・・。」
「まあそういう時もあるって。私も二回くらい仕事をバックレたことあるし。」
それを横で聞いていたゴリ君が、「仕事だけじゃないやろ?」と茶化した。
「結婚式だって二回くらいドタキャンしてるやん。何の連絡も入れんと。」
「行きたあなかったんやからしゃあないやん。」
「じゃあ何で行くって約束したん?」
「勢い。後から考えたら、やっぱり行きたくなくなってもたんや。」
長溝さんは、何でもないことのようにサラリと言う。
「嫌なもんは嫌なんやから、すっぽかしてもしゃあないねん。自分のやりたい事が優先やから。」
ゴリ君は諦めの混じった苦笑いを見せる。それは俺も同じで、まさか彼女がここまでいい加減な人間だとは知らなかった。仲良くなったつもりだったけど、まだ全然分かっていなかったんだな・・・。
長溝さんはすぐ近くにあるおばあちゃんの家に向かい、こちらを振り返って手招きをする。
「今からカードゲームやるんやけど、一緒にやろうよ。」
「いや、俺はあんまりそういうのは興味ないからええわ。」
「ほんま?じゃあ横で見とく?」
「いや、それもちょっと・・・・。」
興味がないと言っているのに、なぜ横で見なければいけないのか?いったいどういう発想をしていれば、そんな言葉が出て来るのか?
「今日暇なんやろ?上がって行きんか?」
「・・・まあ、そこまで言うなら・・・。」
ゴリ君と並んでおばあちゃんの家に上がり、二階の部屋でテーブルを囲む。長溝さんとゴリ君、そしてヤッ君がカードゲームを始めた。
カードには様々な絵が描かれていて、その下に説明文が乗っている。横で見ているだけでも何となくルールが分かって来て、そう難しくないゲームであるように感じられた。
長溝さんの手札を覗きこむと、「一緒にやる?」と誘われた。
「・・・じゃあ、ちょっとだけ・・・。」
カードを受け取り、まじまじと手札の説明文を読む。ゴリ君が丁寧にルールを説明してくれて、いざゲームの開始となった。
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
・・・・・退屈だった。周りは笑いながらやっているのだが、俺は黙々とカードを切っていくだけだ。勝っても負けても何にも思わないし、こんなもので一喜一憂する意味が分からなかった。それでも・・・みんなは楽しそうだった。よく考えてカードを切り、勝てば嬉しそうに笑っている。
「・・・・・・・・・。」
「どうしたん?」
「ん?」
「面白くない?」
「・・・・・うん、まあ。」
「始めから興味ないって言うてたもんな。もう止める?」
「・・・悪いけど、この回が終わったら・・・。」
ゴリ君が一番で上がり、俺はドンケツだった。やっぱり何も感じないし、何も思わない。
せっかく誘ってくれたのに悪いと思ったが、自分が退屈だと思うものは続かないのだ。
彼女の家を後にし、ぶらりと散歩に出かける。コンビニで一服ふかし、むかし通っていた幼稚園の近くを通った。
時刻は午後四時半。園児たちは帰宅していて、先生の姿も見当たらない。幼稚園のフェンスの外からじっと園内を見渡し、かつてここに通っていたことを思い出す。
「あの頃は・・・こんな狭い空間でさえも、広いと思えたもんや。」
幼稚園は、決して大きいとはいえなかった。建物にしろ運動場にしろ、大人になった今となっては、本当に小さく見える。
ここへ通っていた時は、家と幼稚園だけが世界の全てだった。漠然と外の世界を思い描くことはあっても、それはほとんど現実感を伴わなかった。
だから仮面ライダーやウルトラマンを、本気で信じていたのだ。
俺の近くにはいなくても、必ずどこかにいるのだと。俺の知っている狭い世界の外に、きっと彼らは存在しているのだと。
そういう感覚が消えたのは、いったいいつなのだろう?小学生に上がってからか?いや、もっと遅かったような気もするが・・・・。
「あの時は・・・本気で信じてたからなあ・・・。絶対に仮面ライダーがおるって。いや、ひょっとしたら、今でも信じてるのかもしれへん。この現実の世界にはおらへんだけで、空想の世界にはおるはずやから。」
子供の頃は、空想と現実がごちゃ混ぜになるものだ。自分だっていつか仮面ライダーになれるかもと期待していた。
それがいつからか、仮面ライダーは現実にはいないと知った。心のどこかで微かな期待はあったけど、やはり現実にはいないものだと分かるようになった。
「・・・何が違うんやろ?空想の世界に行きたがることと、仮面ライダーを信じること。いったい何が違う?」
・・・同じだ。どちらも人の想像が生み出したものなのだから、違いなどないのだ。仮面ライダーを信じてるといえば子供っぽいし、神や仏を信じているといえばそうは思われない。でも結局は同じ事だと思う。空想の世界だって・・・・それらと同じだ。
要は、自分がどうであるかってことだ。いくら神を否定されても、信じている人にとっては存在しているのだ。ならば俺も、空想の世界を・・・・信じてみようかな。
神に会いたいと思っても、神には会えない。それでも神を信じる人がいる。だったら、空想の世界へ行けなくても、それを信じて何が悪い?
あの大木は俺を抱きしめてくれるけど、それだって俺がただそう感じているだけに過ぎないのだ。でも・・・それは俺にとっては紛れも無い真実。
そう考えた時、ようやく自分の矛盾が見えてきた。空想の世界へ行けないと分かっていながらも、俺はそこへ行きたがっている。でも・・・・現実は現実で、空想は空想なのだ。
こんな事に気づいたからといって、きっと俺は変わらない。劇的に成長し、しっかりと現実の世界で生きていけるようになるなんて、これっぽっちも思っていない。
でも・・・とりあえずは認めることから始めようか。空想の世界へ行けないこと。俺は現実の人間であること。
それでもなお空想の世界への憧れが捨てられないのなら、これは長溝さんの言った通りにするしかない。
「漫画家とか小説家か・・・・。映画監督・・・は、今からはちょっと無理っぽいな。
でもなあ・・・なんか違うような・・・どれもシックリ来おへんのよなあ。」
まあすぐには答えなんか出ない。いや、そもそも答えなんてものが必要なのか・・・?
堂々巡りの思考は相変わらずで、しかしそれを楽しんでいる自分がいる。
なんだ、結局はこういうのが嫌いじゃないんだ。どうでもいい事を考えたり、空想の世界に浸ってみたり。嫌だ嫌だと言いながらも、きっと一生これは治らない。
あの日・・・口に土を詰め込んで、夜空に手を伸ばした。あれが俺の本心で、これから先もああいうふうに発狂するのかもしれない。どこかでプツリと糸が切れた時、崖を飛び降りて帰らぬ人になる可能性もある。
「・・・ええよ、そうなっても別に・・・。何を知ろうが、何に気づこうが、大したことじゃないもん。俺はただ・・・・この世界に興味がないだけや・・・。」
幼稚園を後にして、田んぼのあぜ道を歩いて行く。長溝さん達は、まだカードゲームをやっているのだろうか?彼女たちは実に楽しそうに遊んでいたけど、あれは俺には分からない感覚だ。でも・・・一人でブラブラ田んぼをうろつくことだって、人から見れば退屈な行動に見えるんだろうな。
視点を変えれば見方が変わる。そんな事はどうでもいいけれど、どうでもいいことを考えるのが楽しい。答えの出ない自問自答を楽しみながら、細いあぜ道を抜けていった。


            *


あれから五年が経った。違和感の正体に気づき、それを認めることで、少しは楽になった。
しかし・・・俺は何も変わっていなかった。今年で三十二歳になったというのに、ちっとも進歩していない。
今は長溝さんのおばあちゃんが持っている、ボロい一軒家に住んでいる。ボロいと呼ぶのも躊躇うほどのボロさで、とろあえず人が住める最低限の建物という感じだ。
その分家賃は安いので、アルバイトの安月給でも何とかやっていける。贅沢なんてほとんどしないし、唯一の楽しみといえば、近くのマクドナルドに行くことらいである。
ああいう場所に一人で行って、黙々とポテトを頬張る。まさに、これこそが実生活における至福の時だった。人が大勢いるのに、誰もこちらを見ていない。だからいつだって一人になれる。
これが何とも心地いい。もちろん家にいても一人だが、環境を変えれば孤独の楽しみ方も広がるというものだ。
給料日までもう少し。今のところは、マクドナルドを我慢しなければならない。しかしそれよりも、今の俺には大事なことがある。
この五年の間でちっとも進歩をしていないと言ったが、それは実生活での話だ。あの余計な違和感、そして無駄な思考。それらはより磨きがかかり、ますます冴えていく。
きっと・・・これを人に言ったら笑われるだろうと思うが、俺はなんと、あの大木の声が聞こえるようになったのだ。
我ながら完全に常軌を逸してしまったと思うが、そんなことはどうでもいい。要はあの大木から声が聞こえるかどうか、それこそが重要なことなのだから。
そしてもう一つ、それと並ぶくらいに重要なことがある。以前行ったあの滝だが、あそこへ何度も通ううちに、あることに気づいた。
それは手の平で触れらないものは、手の裏側で触れられるというとだ。前にあの滝に触れようとした時、頭に声が響いてストップがかかった。
それは俺の声か、それとも龍神の声か、それは今でも分からないが、確かにストップがかかったのだ。しかし、前々回にあの滝へ行った時、ふと思い立ったことがある。
触れるのではなく、ただ手を伸ばしてみようと・・・。
触ろうとするから止められるのであって、ただ手を伸ばせばどうなるのか?何となくの思いつきでやってみたのだが、この時はストップがかからなかった。
伸ばした手は滝に触れ、冷たい水の感触が伝わってきた。あの時、俺が滝に触ったのではなく、滝の方が俺に触れてきた感じがした。
それはきっと、手の平で触ろうとしなかったことがよかったのだと思う。いま見ている世界が全てではないというのなら、俺の手だって、いま見ている手が全てじゃないのだろう。
物に触れられる手の平があるのなら、それに重なる別の手があってもおかしくはない。
あの滝に別の世界が重なっているように、俺自身だって、別の何かが重なっているはずだ。
それを心と呼ぶか、意識と呼ぶか、それとも神と呼ぶか?それは個人によって違うだろうけど、肉体に重なる肉体というのは、確かにあると思う。だからこの手も一つではない。
言うなれば、手の平の裏側とでもいおうか。それは決して、手の甲のことではない。
この手の平に重なる、もう一つの手の平のことだ。ただ手を伸ばせば、普通の手の平で触れられないものが、手の平の裏側で触れられる。
あの大木も、あの滝も、ただそこに在るだけ。そして、俺だってそこに在るだけ。
ならば俺もあの大木も、そしてあの滝だって、全然違いなどないのだ。問題なのは、大木や滝から話しかけられることじゃない。
ただそこに在るだけという、当たり前の事実に気づけば、まさに目の前に在るものから、様々なものを感じ取れる。それを感じているのは自分で、大木も滝も、何かを発信しているわけじゃない。俺がそれに触れて、彼ら、もしくは彼女らを感じ取れる力があるかどうかということだ。
それは単なる妄想に過ぎないけど、その妄想こそが、空想の世界の根源であり、まさに俺が望む全てのものだった。
この世に生を受けて三十二年。実用的なことは何一つ身につかず。無駄なことばかりが肥大化し、磨かれていく。
俺の魂は未だにフラフラと彷徨うばかりで、現実にも空想にも行けずに漂っている。それで善しとは言えないけど、生き場のないものはどうしようもない。
いつか何かの針に引っ掛かるか、それともこのまま消えていくか・・・・。そんなことは悩んでも仕方なく、もはや今の自分をどうすることも出来ない。
・・・・いいさ、それならそれで。どうせこの現実の世界で望むものなどないのだから。
無駄な思考を楽しんでいると、長溝さんがやって来た。酒を片手に部屋に上がり、すっかり出来あがった様子でご機嫌に口を開く。
「今日は天気がええな。後でどっかに行こか。」
「どっかって・・・どこ?」
「どこでもええやん。」
「どこでもか・・・・困るな。」
彼女の何処でもいいは、何処でもよくないのだ。暗に私の行きたい場所を当ててみせろと言っている。彼氏でもないのに、無駄な気を遣うのはいつものことだ。
「じゃあ・・・海か山?」
「・・・山かな。」
「鶏籠山行く?」
「嫌や、毎日走ってるもん。」
「ほな動物園の近くの山。」
「そやな。そこ行こか。カメラ持って。」
鶏籠山とは、いつも俺が登っている山のことだ。そして動物園の近くの山は、童謡の流れるスピーカーがある山だ。こちらを選ぶということは、登山ではなく散歩をしたいのだろう。
「ほなこれ飲んだから行こか。」
手にしたハイボールの缶を飲み干し、並んで玄関まで出る。
「ちょっと待って。俺も一服。」
玄関先でタバコを吹かしながら、ゆっくりと靴を履く。灰皿にタバコを押し付け、表に出て背伸びをした。
「なんか曇ってるな。雨降るかもしれへんで。」
「ええやん、濡れても死なへんから。」
「極論やんか、それ。」
「人生なんて、死ぬか生きるかのどっちかやで?くよくよ悩んでも仕方ないねん。早く行こ。」
曇り空を気にしながら、気の置けない友達と並んで歩く。どうでもいい話に花が咲き、どうでもいいことで笑い合った。
山に続く坂道に差し掛かり、夏を呼び寄せる蒸し暑い空気が絡みつく。
「あのさ、いきなり話変わるけどええ?」
「何?」
「俺な、きっとこれからも成長せえへんと思うわ。なんにも身に付かへんやろし、前にも進まへん。」
「うん。」
「それでええと本気で思ってるんやけど、これからも友達でおってくれる?」
「・・・ええけど、一つ約束して。」
「なに?」
「なんでもええから、創ってみてくれへん?」
「創る?なにを?」
「なんでもええねん。小説でも漫画でも。写真でもええで。君は空想にしか興味がないんやろ?じゃあさ、なんか創ってよ。それやったら、これからも友達でおってもええで。」
「・・・その道で飯食えってこと?」
「違う、違う。そんなんどうでもええねん。創るか、創らへんか、そのことを聞いてるねん。私は生きるか死ぬかやけど、君にとっては、そんなんどっちでもええんやろ?」
「うん。どうでもええな。」
「だから、創るか、創らへんか。それだけ考えといてってこと。もし何かを創るっていうんやったら、これからもずっと友達でいよう。」
「・・・・分かった。じゃあなんか創ってみるわ。とりあえず漫画でも描いてみよか。」
「おお、ええやんか。漫画のことやったら何でも聞いて。教えたるで。」
長溝さんは嬉しそうに顔をほころばせる。まだ彼女と付き合っていた時、しきりに写真を勧めてきたけど、もしかしたら写真じゃなくてもよかったのかもしれない。絵でも漫画でも、何かを創れと言いたかったのだろう。
きっと・・・いくら現実の世界がどうでもよかろうと、何もしないわけにはいかない事を伝えたかったんだ。それが何の役に立たないことでも、やるかやらないかで大違いなのだから。
しばらく無言で坂道を上っていく。動物園を抜け、遊歩道の入り口に立って、山を登っていく。スピーカーのセンサーが反応し、美しい童謡のメロディが流れ始めた。
『みかんの花咲く丘』
とても優しく、そして心地の良い歌だ。歌詞は流れないけど、メロディだけでも心に染みるものがある。
「あ!そういえば童謡で思い出したけど、メトロポリタンミュージアムって歌知ってる?」
「それ前にも言うてたな。」
「あれな、ごっつう気になって仕方ないねん。あれに登場する女の子ってさ、元々は絵の中の住人やったんちゃうかな?だから天使像もファラオも仲良くしてくれたし、夜の美術館に一人でおった説明もつくし・・・・・、」
相変わらずどうでもいいことに熱が入ってしまう。だけど・・・形のないもの、答えの出ないもの、そういうものこそ面白いんじゃないか。
長溝さんは真剣な顔で話を聞いている。相槌を打ったり、時には自分の意見を返したり。やっぱり友達ってのはいいものだ。これだけは現実の世界の宝だな。
遥か遠くの方で雷鳴が響いている。降り出した雨も気にせずに、ひたすら空想の世界のことを語り合っていた。


                                  −完−

手の平の裏側 第五話 空想の蟻地獄

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:50
犬を連れて、いつもの公園に来ていた。
桜の季節はとうに終わり、代わりに青い葉っぱが木々を彩っている。いつもの散歩コースを歩き、途中でベンチに座って考えた。
「気持ちええな・・・外は・・・。陽射しが刺さるようや・・・・。」
退院してからしばらくは、ずっと家に籠っていた。布団から這い出る気力もなく、ただ日付が変わるのを待っていた。
時間が経てば、何かが変わって・・・俺を助けてくれるんじゃないか?この病気の苦しみから、救い出してくれるんじゃないか?
そう期待していたが、いくら待ち望んでも救世主は現れなかった。いい加減業を煮やした俺は、勢いで外に出てみることにした。
それは退院してから七ヶ月後のことだった。久しぶりに感じる外の空気。部屋のライトとは違う、太陽の光。
冬眠を終えた生き物が、土から出てきたような気分だった。
・・・気持ちいい・・・・。
家の中にいては決して感じることの出来ない刺激が、チクチクと肌を刺している。それはとても心地良い刺激で、思わず足が動き出す。
庭先に吊るしてあるリードを掴み、犬の散歩に出かけた。久しぶりの散歩は、眠っていた感覚を呼び覚ましてくれた。
心を守る為に閉ざしていた五感が、ケータイのアンテナが立つようにビンビンと反応する。
身体全体で外の世界の喜びを感じ、力が漲ってくる。
まだ・・・・まだ力が残っていた・・・・・。
安心した俺は、ちょくちょく外に出るようになった。やきそば君や、長溝さんにも会うようになり、近所の工場で簡単なバイトを始めた。
そして今日、犬の散歩のついでに、あの大木に会いに行こうと思った。ずいぶんと顔を見せていなかったから、向こうも心配しているかもしれない。
「リン、ちょっと遠くまで行こか。」
ポケットからおやつを取り出すと、リンは喜んだ。ぎこちないお座りとお手をして、俺の手からおやつを頬張っている。ベンチから立ち上がり、大木の立つ場所へ向かう。
久しぶりに会う彼、もしくは彼女は、いつもと変わらぬ様子でそびえていた。
「久しぶり。」
皺の刻まれた肌に手を触れ、再会の喜びを伝える。俺の頭を撫でてくれた枝は、途中からポキリと折れていた。
「誰がやったんや・・・可哀想に・・・・。」
折れた枝の先端を指でさすり、腕を回して大木に抱きつく。
「・・・・・・・・・・・。」
・・・・よかった。まだ・・・まだちゃんと抱きしめてくれる。俺の中には、この大木の抱擁を感じる力が残っている。それだけで満足だった。もし抱きしめてもらえなかったら、いったいどうしようかと不安だった。
「・・・優しいな、お前は・・・。何も言わんと、じっと抱きしめてくれるなんて。」
木は喋らない。何も伝えない。人間のように、邪魔な言葉を持っていない。それこそがコイツのいい所だ。
家に引きこもっている時、やることがないのでたくさんの本を読んだ。心がハッとさせられるような言葉はいくつもあったが、しょせん言葉は言葉だ。いくら筋の通った文章を書こうと、言葉の限界は越えられない。
「しょせん人間が作ったもんや・・・。言葉に重きを置いてる奴なんて、絶対に信用出来へんわ・・・・。」
想像力、形而上、神・・・・表現する言葉は違えど、その意味は同じ。現実の世界ではないものの存在。そして・・・俺は現実の世界に興味がない。
ならば、形而上だの神だの・・・・そういうものに目を向けていることになるはずだ。
「・・・・固いよな、どれも・・・。もっとこう、ソフトにシックリくるような言葉がええな。どんなんがあるかな?」
大木に抱かれながら、考えを巡らせる。しかしなかなか良い言葉が浮かばず、眉間に皺を寄せて唸るしかなかった。
「難しいな・・・言葉って・・・。しょせん言葉といいながら、されど言葉って感じや。」
言葉は大したものではない。けど、馬鹿にも出来ない。どうやら言葉を馬鹿に出来るほど、俺は大した人間ではないようだ。
「・・・・・・・・・・。」
頭の中に、パッと何かが浮かんだ。それは入院中に思い出していた、あの童謡だった。
「タイムトラベルは楽しい メトロポリタンミュージアム 目覚まし時計ここに かけておくから・・・・。」
主人公の女の子が、五千年も眠り続けるミイラの為に、目覚まし時計をセットしてあげるのだ。
もし目覚まし時計のベルが鳴って目を覚ましたら、今の世の中を見てさぞ驚くに違いない。
『なんだここは!砂漠とピラミッドはどこにある?だいたい目覚まし時計って何だ!』
うん、絶対にそう言うに決まっている。ということは、五前年の月日が流れた現代は、ファラオが立つべき世界ではないということだ。
彼が知るエジプトの王国は、過去の渦の中にしか存在しないのだから。
「もしかしたら・・・ファラオも俺と同じ違和感を抱えるかもしれへん。王様をやってた経験を活かして選挙に立候補するも、自分の時とはやり方が違いすぎてついて行かれへんやろな。」
圧倒的な知名度のおかげで、他の候補者に大差をつけて当選。国会で専制君主制の復活を提案するも、野党の反対にあって挫折。
それならばと無所属の議員になって地道に活動するも、誰も自分の話を聞いてくれない。向けられるのは好奇の眼差しばかりで、仕事の依頼はテレビのバラエティ番組ばかり。
いい加減うんざりしてきたファラオは、再び石の棺に入って眠りにつくことを選ぶ。
「可哀想に・・・目覚まし時計さえなかったら、今でも夢の中におられたものを。」
勝手にファラオに同情の念を抱き、今の自分と重ねてしまう。どう頑張ろうが、どう足掻こうが、自分とは異なる世界で生きていくことは出来ない。だって・・・自分はその世界の住人ではないのだから・・・・。
「・・・ほんま、こういう想像力だけは逞しいよな、俺は。」
なんだか可笑しくなってきて、強く大木に抱きつく。その時、ふと良い言葉が浮かんだ。
「・・・・空想・・・か?俺がずっと見てるのは、空想の世界のことか・・・?」
空想・・・それは人が生み出した、この世ならざる世界。現実でもあの世でもない、人の想像力が生み出した、形を持たない世界のこと。
「生きてる人間は、現実の世界におる。死んだ人間は、あの世へ行く。まああの世っていうもんがあったらの話やけど・・・・。でも、空想の世界は、どっちでもない。生きてようが死んでようが、空想の世界へ行くことは叶わへんやろ。」
もし死んだ人間が空想の世界へ行くのなら、俺の祖母はどこかのマンガや小説に登場していなければおかしい。しかしながら、未だに空想の世界に登場する祖母を見たことがない。
「でも・・・偉人とか有名人は、空想の世界に行ける人がおるよなあ。映画でもドラマでも、過去の人が出て来ることはあるし。」
・・・・難しかった。空想とは何のか、今の俺には分からない。ただ一つ言えることは、現実の世界とは異なる場所だということ。もし空想の者が現実に存在したならば、それは現実の者になってしまうのだから。この二つの世界は、しっかりと分かれているのだ。
「・・・ええな、空想か・・・。俺が抱えてる違和感は、空想の世界へ行きたくても行かれへん葛藤のことかもしれんな。」
思いもかけず答えが出てしまい、ホッと安心する。しかし・・・答えが出るということは、悩みの種がハッキリするということ。その悩みの種が現実的に解決出来るものならいいけど、もしそうでないのなら・・・・・。
「一生苦しむことになるな。絶対に叶わへん願いを抱えて、死ぬまで苦しむっちゅうことや。」
愛しい人を亡くし、後を追う人がいる。そういう人の気持ちを理解出来なかったけど、今なら分かる気がする。
「死んだ人間とは会われへん。どんなに願ったって、どう頑張ったって、それは無理なんや。もしそれを受け入れられへん人間がおったとしたら、後を追っても仕方ないよなあ。」
愛する者を失った悲しみたるや、想像するのも辛いものだ。ならば俺の苦しみは・・・・いったいどこの人間が分かち合ってくれるのか?
現実が嫌だから、空想の世界がいい。・・・・これは、ただの思春期じゃないか!
いくら熱心に説明したところで、馬鹿にされて終わりだ。『早く大人になれ!』と一喝されて、それで全てが終了。まともに取り合う人間がいたら、それこそ不思議というものだ。
「・・・・あかんわ、人に言われへん・・・。また一人で抱え込まなあかんのかな?」
大木から離れ、堤防の向こうに流れる川を見つめる。すぐ近くには赤い橋が架かっていて、誰かが自転車を押して歩いていた。
「・・・長溝さんに、相談してみよか・・・・。」
彼女は意外と近い所に住んでいる。あの橋を渡って、五分も歩けば家に着くのだ。
「リン、一旦帰ろか。お前に餌やらなあかんし。」
大木の根元の臭いを嗅ぎまわっていたリンは、チョロチョロとオシッコをかけてマーキングをしていた。


            *


下町の風情を残す町に、低い建物が並んでいる。寂れた商店、無駄に立派な公民館、それらが並ぶ通りに、長溝さんの家は立っていた。
たてつけの悪いドアを開け、勝手に中に入る。外観もボロいが、中はもっとボロい。薄暗い石の廊下を歩き、ミシミシと鳴る階段を上がって部屋に入った。
「・・・・おらんな。おばあちゃんの家に行ってんのかな?」
彼女の祖母は、この近くに住んでいる。この家は祖母の持ち家であり、タダ同然で借りる代わりに、祖母の世話をしているのだった。
「まあええわ。待ってたら来るやろ。」
リンを家に連れて帰り、長溝さんにメールを送った。家に来てもいいとのことだったので、こうして待っているのだが・・・・約束をしてもどこかへ行っているのはいつものことだ。
本棚からマンガを見つくろい、適当に時間を潰していく。
彼女の飼っている猫が膝に乗って来て、仰向けになって喉を鳴らしていた。マンガを読みながら待つこと三十分、ようやく彼女は現れた。
「おう、来てたんか。」
「三十分前にな。おばあちゃんの家行ってたん?」
「いや、郵便局。また依頼が入ったから。」
「依頼?ブライダルの撮影とか?」
「ちゃうちゃう、絵の依頼。この前描いた絵を友達に見せたら、一緒におった子が欲しいって言うたから。だからちゃんと色を塗り直して送ってきた。」
「すごいな、芸術家やんか。」
「いや、それほどでもないで。」
この上なく嬉しそうにする長溝さん。ご機嫌でテーブルの前に座り、昼前だというのに酒を呷り始めた。
「好きやな、お酒。」
「まあな。素面でやってられへんわ。」
「でも飲み過ぎるとアル中になるで?」
「自分かてニコ中やんか。」
「ニコ中・・・?」
「タバコ。吸う量が増えてるって言うてたやん。」
「ああ、そらそうやな。お互いさまってことや。」
どうでもいい会話から始まるのが、俺たちの常である。彼女はグビグビと酒を呷り、まったく酔いを見せない様子でパソコンを睨んでいる。
「それ仕事?」
「そう。今度姫路でイベントやるねん。それのチラシを作らなあかんから。」
「酒飲みながら出来るの?」
「あんまり酔わへんからな。」
「すごいな、俺は缶ビール一本で酔うわ。」
「あたしもタバコ一本で吐きそうになるわ。」
「お互いさまやな。」
「そやな。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・あのな、ちょっと意見を聞かせてほしいねん。」
「ええで、仕事しながらやけど。」
「うん、かまへんで。」
俺は彼女の酒を一口だけ嘗め、タバコを吸いたい気持ちを抑えて切り出した。
「実はな、今まで悩んでたことがあるんやけど、ようやくその答えが出たんや。」
「ほほう、悩みとな?」
「うん。俺が大木に抱きついてるのは知ってるやろ?」
「前に言うてたな。それで?」
「今日も行ってきたんや。犬の散歩のついでに抱きついてきた。」
「ふうん・・・。」
「その時にさ、ファラオのことを考えたんや。」
「ファラオ?」
「うん、ファラオ。メトロポリタンミュージアムっていう歌があるやろ?」
「・・・・ああ、NHKのやつな。昔見てたわ。」
「あれの中にファラオが出てくるやん?それで女の子が目覚まし時計を掛けるやろ?」
「・・・そうやったかな?」
「そうやねん。それでさ、もしファラオが五千年の眠りから覚めたら・・・・・・、」
俺が妄想したファラオの話をすると、長溝さんは爆笑していた。酒を抱えたまま俺を見つめ、肩を揺らして顔をくしゃくしゃにしている。
「自分のそういうところは面白いよなあ。ようそんなん思いつくな?」
「なるべくリアルに想像したつもりやねん。でもさ、もし俺の妄想した通りになったとしたら、もういっぺん眠りにつくファラオの気持ちは分かるやろ?」
「分かるけど、それは君の妄想やろ?」
「そうや、俺の妄想や。だからこの先が重要なんや。ええか、俺は昔から・・・・・、」
今までに何度か話したことはあるが、もう一度彼女に説明していく。幼い頃から抱えていた違和感のこと。そのせいで、なかなか現実の世界でうまくいかなかったこと。そして、今日ようやく違和感の答えが見えたこと。
俺が求めているのは空想の世界であって、現実の世界にはなんの興味もない。熱くそう語ると、長溝さんは困ったように顔をしかめた。
「気持ちは分かるけど、それでどうやって生きていくん?現実が嫌やなんて、誰でも一緒やで?私だって、行けるもんなら空想の世界に行きたいわ。」
「いや・・・現実が嫌なんじゃなくて、どうしても昔から違和感があってな・・・。」
「それはみんな一緒やろ。現実って思い通りにいかへんから現実なんやで?しんどいのはみんな一緒やし。そこから逃げたって何も変わらへんよ。」
「それは分かってるけど、俺が言うてるのは・・・・そういう堅苦しいことじゃなくて。もっとこう・・・言葉にしにくいけど、これを抱えたままずっと生きていくんかなってこと。これが消えてくれるんやったらそれでええけど、昔からずっと残ったままやから、どうしたらええんかと思ってるだけやねん。みんな大人になって、こういう感覚は薄れていくもんやろ?それが消えへんってことは・・・・どうしたらええんかなって・・・・。」
「そんなん自分次第やで?じゃあなに、君はこれからどうするつもりなん?現実が嫌やからって・・・、」
「嫌なんじゃなくて、違和感が・・・・、」
「同じことやって。どっちにしたって、現実の世界で生きていくしかないんやで?だから、その・・・・傷つくかもしれへんけど、はっきり言うで。」
「うん。」
「君な・・・・ちょっと甘え過ぎやねん。言うてることも分かるし、気持ちも分かる。
でもな、やっぱりそれは誰でも一緒やと思うよ。みんな誰だって、自分がこうなりたいとか、こういう事をやりたいとか、そういう想いを持ってるんやから。そういう夢を叶えたいんやったら、現実の世界で頑張るしかないで。自分の夢を掴んでる人っていうのは、きっと誰よりも戦ってきた人なんやから。」
「・・・・・・・・・・。」
長溝さんは語る。俺の言葉を正面から受け止め、実に大人の意見をぶつけてくる。それは反論のしようもない正論で、俺は黙るしかなかった。
「私が昔に漫画家やってたことは知ってるよな?」
「・・・うん。」
「私だって、小さい頃から夢があって、絵の道に進みたいと思ってたんや。だからとにかく絵を描いて、雑誌に応募したりしてた。バイトしながら、空いた時間でずっと漫画を描いてたんや。それでようやくプロになって、しばらく連載してた。」
その事は知っている。以前に彼女の描いた漫画を見せてもらったことがある。プロの原稿というものを初めて見た時、そのクオリティの高さに驚いたものだった。彼女の魂が込められた漫画は、今でも鮮明にこの目に焼き付いていた。
「やっと夢が叶って漫画家になったけど、それでも続かへんかった。なんでか分かる?」
「・・・さあ?」
「それはな、プロになってからの方がもっと厳しいから。才能のある人が、ずっと漫画に人生を捧げてるのがプロやねん。私はそういう世界で生きていくには、覚悟が足りへんかった。他のことを全部犠牲にしてまで、漫画を描き続けることが出来へんかったんや。だから漫画家を辞めた。それに・・・・自分がどう頑張っても、一戦で活躍してるような漫画は描かれへんって分かったから・・・。」
長溝さんは、少しだけ寂しそうな表情をみせる。それでも決して目を逸らさず、俺に言葉を投げかける。
「プロの世界って、すごい人がいっぱいおるねん。だから・・・そういう場所に行くことで、自分の限界を知ることが出来た。それだけでも漫画家になった価値があったと思う。
君だって、そんなに空想の世界が好きなら、何かに挑んでみたらええやん。」
「何かって・・・・何?」
「それは自分で考えるんや。漫画家とか小説家とか、あとは・・・・映画監督とか。」
「・・・・・・・・・・・。」
長溝さんは本気だ。夢物語ではなく、本気でそうアドバイスしている。それはとてもありがたいことだけど・・・・・。
「そうやな。考えてみるわ。」
「うん、何かやるんやったら手伝うで。漫画とか絵やったら教えられるし。写真でもええで。」
「うん。あのさ、話は変わるんやけど、うちの犬が・・・・・、」
どうでもいい話題に切り替え、先ほどの話を脇にどける。長溝さんは俺の話に熱心に答えてくれて、それはとてもありがたいことだと思った。
でも・・・・違う・・・・。俺が言いたかったのは、そういうことじゃないんだ。
夢の話をしたいわけじゃなく、小説家や漫画家になりたいわけでもない。空想の世界という言葉を使ったのがいけなかったのかな・・・・。
決して他人とは共有出来ない感覚・・・・。本人のみぞ知る、誰にも理解されない感覚。
そうやって考えるのは、自分の殻に閉じこもっているだけなのか?
長溝さんの家を後にして、しばらく辺りをぶらつく。彼女の家を出てすぐ右に曲がると、十字路に出る。それを北に向かうと、長い長い坂道が現れる。この坂道を上っていけば、小さな動物園に辿り着く。学生の頃に学校を抜出して行った、あの動物園だ。そこからさらに上にのぼると、山を切り開いた遊歩道に出る。童謡の小道と名前のついている遊歩道で、途中に音楽の流れるスピーカーがあるのだ。
ここからだと少し遠いが、行ってみることにした。坂道を上り、動物園を通りすぎて、遊歩道の入り口に立つ。
「久しぶりやな、ここへ来るのは・・・・。」
急な階段を上り、整備された遊歩道を歩いていると、何かが目の前を横切った。
「イタチ?・・・・いや、違うな。あれは多分・・・・フェレットや。」
最近この辺りで、野良フェレットが増えていた。どこからやって来たのか知らないが、家の近くで見かけたこともあった。
「遠い国から連れてこられて、ポイっと捨てられるなんて・・・人間はええ加減やな。」
フェレットの動きは、イタチに比べると遥かに鈍いように感じた。それは人に飼われていたせいか、それとも元々の動きが鈍いのか?どちらにせよ、あれでは長くは生きられないだろう。他の動物に捕食されるか、車に轢かれて死んでしまうか。
「ここはあいつらの国じゃないんや。生きていくのは大変やろなあ・・・。」
フェレットは日本にはいない動物だ。人間がペットにしたいからという理由で持ちこんだに過ぎない。そういう勝手な理由で持ち込んだなら、せめて最後まで飼うのが責任だろうに。
「アクセサリーちゃうのになあ・・・可哀想に・・・。」
いくら嘆いたところで、金になるなら何でもやるのが人間だ。ご高説を垂れる人間はもちろんのこと、それらを正論で批判する人間だって、一皮捲れば同類かもしれない。
「そういう俺も人間やし、あのフェレットからすれば、憎き敵に変わりはないんやろな。」
フェレットが横切って行った道を進み、音楽が流れるスピーカーの前に立つ。童謡のメロディが流れ始め、軽快な気分で遊歩道を上っていった。
頂上につくと、見晴らしのいい展望台があった。螺旋階段を上り、真っ赤な石の床を踏みしめる。
「今日は晴れてるから眺めが綺麗や。」
町を流れる揖保川という大きな川が、蛇行しながら南に向かっている。遠くには化学工場の煙突が見えていて、蜃気楼のように靄がかかっていた。
あの工場の向こうには海があって、その海には大小様々な島が浮かんでいる。一度だけ友達と行ったことがあるけど、のどかで良い島だった。
「長溝さん・・・・俺、よう分からへんねん。自分のことも、この違和感のことも。なんでこんな違和感を持ってるんか、よう分からへん。でもそれを言葉で伝えるのには、無理があるなよなあ・・・・。」
長溝さんは、わけの分からない俺の言葉を、正面から真剣に受け止めてくれた。他の人なら鼻で笑われて終わっていただろうに、ちゃんと話を聞いてくれたのだ。やきそば君だって、同じように俺の言葉を受け止めてくれるかもしれない。
でも・・・どんなに仲のいい友達だって、相手のことを本当に理解することは無理だ。俺だって、あの二人のことを本当に理解しているわけじゃないんだから。
「自分で・・・・自分でどうにかするしかないか、この感覚は・・・。」
自分のことは、自分で折り合いをつけるしかない。どこの誰だって、きっとそうしているだろうから。
その日の夜、CDを買ってきた。
『メトロポリタンミュージアム』
これがどうしても聴きたくなってしまったのだ。パソコンにセットして、曲名をクリックする。不思議なメロディが流れ出し、韻を踏んだ歌詞が耳に入ってくる。
一人の少女が、夜の博物館を探検する。天使の石像が動き出し、夜は冷えるので服を貸してくれと頼まれる。女の子は、赤い靴下を片っぽだけ差し出した。
次はファラオの棺を見つける。石の棺に入ったファラオは、五前年もの時を眠り続ける。
少女は棺の上に目覚まし時計をセットし、その場を後にするのだ。
そして楽器のケースをトランク代わりにして、また冒険に出発する。最後は絵の中に閉じ込められ、そこで歌は終わる。
聴けば聴くほど病みつきになるメロディーで、当時のパペットアニメを思い出した。少女は確か、ミイラになったファラオと踊っていたはずだ。石の棺が勝手に動き、中から出て来たファラオが、包帯を伸ばして少女と踊る。このシーンが一番怖くて、コタツの中に隠れていたのだ。
しかし・・・今になってこの曲を聴くと、妙に考えさせられてしまう。あのパペットアニメの映像が頭の中に浮かび、まとまらない考えが悶々と広がっていった。
「あの子は・・・最後に絵の中に閉じ込められた・・・。でも、本当のところはどうなんやろ?閉じ込められたんじゃなくて、始めからあの絵の中におったんと違うかな?もしそうなら、色々と説明がつくんやけど・・・・・。」
夜になると動き出す、天使の石像とファラオのミイラ。ということは、あの博物館は夜になると不思議な現象が起きるということだ。だったらあの少女だって、元々は絵の中にいたとしてもおかしくはない。いや、その方がシックリくるじゃないか。夜の博物館に女の子が一人でいるのだって、それで説明がつく。それにファラオだって、五前年の眠りを邪魔されたって、ちっとも怒らなかったのだ。それどころか、楽しそうに踊っていた。
「・・・同族やから、ファラオは怒らへんかったんや。あの女の子は、同じ博物館の仲間やから、仲良くしてあげたんや。でも・・・あの肝心の少女は、自分が絵の中の存在やってことに気づいてるんやろか?もしそれを知らんまま終わるんやったら、ちょっと切ないよなあ・・・・。」
自分の立つ世界を知らないまま終わる・・・・。
こんなに切ないことがあるだろうか?この曲を作詞した人が、どういう意図であんな内容にしたのかは分からない。けど・・・俺の考えでは、あの少女は絶対に絵の中の住人だと思う。そして、おそらく本人はそのことに気づいていない。自分は生きた人間だと信じ込み、博物館を探検しているのだ。
これは・・・・怖いことかもしれない・・・・。
今立っているこの場所に、何の疑問も抱かない。本当に自分が立つべき世界を知らない。それはきっと、醜いアヒルの子と同じなのだ。
自分をアヒルと信じているから、ギャップが生まれる。でも、自分は白鳥だと知れば、それは何の違和感もないはずである。
自分は誰?自分の立っている世界はどこ?決して目を逸らすことの出来ない疑惑は、とうとう俺を蝕んだ。心の病という形をとって、いい加減に気づけと襲いかかってきた。その痛みに耐えかねて、自殺を図った・・・。
俺は・・・どうしてこの世界の存在だと信じていたのだろう?あなたはこの家の子供ですよと教えられ、何を根拠にそんなことを信じたのか?
「・・・これはもう・・・やばいな。俺は・・・来るところまで来てるで・・・・。」
異常な考え方をしているのは、自分でも分かっている。いや、自分で異常だと理解しているぶん、まだマシというものか。
もしこの考えを異常だと思わなくなった時、それは・・・・・どうなるのだろう?
心配した親に精神科へぶちこまれるか?生きるのが嫌になって、再び自殺を試みるか?
どう転んでも、決して良い結果にはならない。
「脳が・・・・脳が異常なんか?それとも精神か・・・?」
これ以上考え込むと本当に参ってしまいそうなので、夜のドライブにでも出かけることにした。ガソリンが少ないことに気づき、近くのスタンドで給油する。煌々と照らす明かりの元で給油をしていると、ふと足元が軽くなるのを感じた。
「・・・・・・・・・。」
・・・・足元を見る。しかし何の変化もない。ちゃんと、間違いなく地面を踏んでいる。
《・・・・気持ち悪い・・・・。》
給油レバーを戻し、ガソリンタンクを閉めて車を発進させる。
・・・・とにかく・・・・人気のない場所に行かなければ・・・・。ここは・・・絶対にここにいてはいけない・・・・。
正体不明の強迫観念に襲われ、夜の国道を走り抜けていく。とにかく北へ向かった。
町の明かりは少なくなり、それと同時に心が高揚する。それはあの大木に抱かれた時の高揚とは違い、もっともっと激しい高揚だった。タバコの火が家を燃やし尽くすような、どうしようもないエネルギーの炸裂・・・・・。
このままではいけないと思い、お気に入りの曲をかけて気を紛らわす。だが・・・これがいけなかった。
スピーカーから流れてくる曲は、海外のミュージシャンのものだった。自分と世界、自分と宇宙。そういうものを歌っている曲だ。英語なので歌詞は聴きとれないが、独特のメロディーのせいで、さらに高揚感が呷られる。
「・・・・・・・・・・。」
しっかりとハンドルを握っていた。そうでないと・・・真っすぐ走る自信がなかった。
しばらく国道を走ると、開発に失敗した寂れた街に差し掛かった。さながら現代のゴーストタウンで、妙な不気味さがある。
まったく人が住んでいないわけではないが、夜になるとこの街の無機質さが際立つ。
高揚と無機質・・・・自分と宇宙・・・・。
車に流れる曲はサビに差し掛かかり、そういった取り留めのない思考を加速させる。
・・・・・もう・・・・・限界だった・・・・。
車を止め、ドアを開けて飛び出した。ボロボロと涙を流し、顔を掻きむしって雄叫びを上げる。
「うわああああああああああん!やだよおおおおお!もういやだあああああ!」
何を叫んでいるのか、自分でも分からない。ただ・・・・溢れ出る言葉は止められなかった。
「ああああああああああ!行きたい!つれて行ってよおおおおお!」
夜空に向かって手を伸ばす。その先には月が浮かんでいて、周囲には宝石のように星が散りばめられていた。それはとても美しく、この世の光景とは思えなかった。
「ここじゃない!ここじゃないのにいいいいいい!うわあああああああああん!」
発狂したまま走り出し、ガードレールを乗り越えようとして失敗する。こういう時でも、人の身体はキチンと受け身を取ってくれるのだ。きっと・・・心と身体は別物であるという証だろう。どんなに心が歪んでいても、身体は自分を守る為に独立して動く。
受け身を取ったおかげで怪我はなく、ガードレールの向こうの木立へ走って行く。
「んんんんん・・・・うわあああああああああん!」
それは雄叫びというより、子供の癇癪に近かった。デパートの屋上の乗り物に乗せてもらえない時に、子供が喚き散らすあれと同じだ。
月を見上げたまま指をしゃぶり、ダラダラとヨダレを流す。意味不明な寄声を発して、夜空に向かって手を伸ばす。
『タイムトラベルは楽しい メトロポリタンミュージアム 目覚まし時計ここに かけておくから』
俺は・・・・あのファラオと一緒だ・・・。目を覚ましたが為に、自分とは異なる世界に現れてしまった。それならば・・・もう一度眠りにつけば、自分の世界に戻れるのか?
俺も・・・ああやって棺に入れば・・・・永遠に夢の中で・・・・。
・・・・いやいや、待て。もしかしたら、こっちが夢かもしれない。もう少し先には崖があるが、そこを飛び降りたら最後・・・・夢から覚めてしまうのかもしれない。
もう・・・何がなんだか滅茶苦茶だった。指をしゃぶったまま膝をつき、じっと地面を睨みつける。手にいっぱいの土を握り、ひたすら口の中に入れていった。
なぜそんな行動に出たのか分からないが、行動の理由などどうでもいい。口がパンパンになるくらい土を詰め込み、ヨダレと共に吐き出した。涙と鼻水が混ざり合い、顔まで滅茶苦茶になっていく。
「うわああああああああん!ここじゃない!ここじゃないよおおおおおお!」
爪を立てて顔を掻きむしり、また口の中に土を詰めこんでいく。吐き気が催してきて、それでも土を頬張った。
吐き出しては詰め込み、詰め込んでは吐き出す。
「ぶふう・・・・うううう・・・・・ああああ・・・・・・。」
顔に土を塗りたくり、指を咥えてうずくまる。地面に向かって雄叫びを上げ、また空を見上げて月を睨んだ。
心と身体は別物だし、心と意識だって別物かもしれない。いったいどの自分が、こんな馬鹿なマネをしているんだろう?
いくら癇癪を起しても、空想の世界になど行けるはずがないのに。
以前、滝を見に行った時に感じたことが蘇る。あそこには確かに、別の世界が重なっていた。いま自分が見ている世界が全てではない。それは田んぼの中の生き物が、田んぼこそが世界の全てではないと言っているのに等しい。あの狭い水田だけが、世界なのではないと。この外には、遥かに広い世界が広がっているのだと。
しかしあの生き物たちは、自分の力だけでは決して外へ行くことは出来ない。田んぼの外に広がる世界は、想像するより他にないのだ。
そして・・・・今の俺は、それとまったく同じ状況だった。俺の知る世界だけが、全ての世界ではない。なぜなら、ちゃんと知っているから。あの滝の空間に、別の世界が重なっていたように、いま見上げている夜空にも、別の世界が重なっていることを。
気が狂っていたとしても、精神が歪んでいたとしても、そんなことは問題じゃない。
今、俺がここにいて、それを感じている、知っているということが重要なのだ。
そして、知っているということは、耐えがたい苦痛でもある。俺が現実の世界の住人である限り、どう足掻いても別の世界へは行けない。
あの田んぼの生き物が、一生を田んぼの中で過ごすように、この俺もまた、この現実の世界で過ごすしかない。どんなに嫌でも、どんなに違和感を覚えようとも・・・・。
夜空に向かう雄叫びは、とどまるところを知らない。声が掠れても、決してこの叫びは止められない。
違和感の正体は、空想の世界へ行きたいという願望の表れだったのかもしれない。生まれながらにして傍にあったこの感覚は、ただただ俺を苦しめる。
・・・・教えてくれなくていいのに・・・・。
知らない方が幸せだった。自分が何を望むかなんて、一生知らなくて良かったんだ。
叶うことのない願いなら、最初から持っていない方がよかった。
空想と現実・・・・その間には、決して取り除かれることのない壁が立ちはだかっている。
俺はその壁に張り付き、ただ向こう側を眺めているしかなかった。指を咥えながら、もの欲しそうに・・・・・恨めしそうに・・・・・。
知りたかった違和感の正体を知ることで、ずぶずぶと空想の蟻地獄に嵌っていった。

手の平の裏側 第四話 恥さらし

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:48
寝静まった夜の街を、一台のバンが走って行く。
後部座席でガタガタ揺られながら、隣に積んである送風機を支えた。
《・・・・帰りたい・・・・。》
猛スピードで高速を走って行くバンに揺られながら、夜空を照らす月を眺めた。
あの日、田んぼを見に行ってから決意した。この現実の世界で、何が出来るか挑戦してみようと。収入の少ないアルバイトをやめ、長時間労働の仕事を探すことにした。いくつか正社員の試験を受けてみたが、見事に落選。それでも諦めずに仕事を探していると、あるコネで深夜の清掃バイトに受かった。
アルバイトといっても、勤務時間は社員と大差はない。給料も悪くないし、福利厚生だってしっかりしている。
面接を受けた時、若い部長さんにこう言われた。
「うちはよっぽどのことが無い限り落とすことはないから。ただまあ・・・続くかどうかは分からへんけどね。けっこうしんどい仕事やから、頑張って続けてねとは言われへん。とりあえず自分で体感してみて。」
頑張りますので、よろしくお願いしますと答えた。その場で採用が決まり、一週間後の夜八時に事務所へ来てくれと言われた。
このバイトの面接、絶対に落ちることはないと分かっていた。なぜなら、ここを紹介してくれたのは、この会社の重役である父なのだから。
別の大きな会社から出向という形で来ていて、本部長という大きな肩書きを持っていた。
いくら面接をしても仕事が決まらない俺を見かねて、うちを受けてみろと言われたのだ。
・・・・受かった時は嬉しかった。アルバイトではあるけれど、真面目にやっていれば正社員登用もあるらしいので、しっかり働こうと思った。
だが、現実はそんなに甘くない。面接の時に部長さんが言った通り、なかなかに大変な仕事だった。
夜の八時か九時くらいに出社し、仕事を終えて帰って来るのは、翌日の朝の八時くらい。
仕事はかなりの重労働で、しかも俺の苦手なチームワークときていた。営業の終わったスーパーなどへ行き、三人から四人くらいのチームで仕事をするのだが、全員の連携が上手く取れていないと仕事が遅れるのだ。
モップで床に洗浄液を塗り、それを特殊な機械で磨いていく。残った洗浄液を水切りで集め、バキュームの機械で吸い取る。その後にモップで水拭きをして、最後にワックスをかける。送風機で乾燥を促し、完全に乾いたら終了。
作業の流れ自体は単純だし、一つ一つの作業も難しくはない。しかし誰かが一人遅れると、作業全体に支障をきたす。
生来チームワークが苦手な俺は、どうしてもこの仕事に馴染めなかった。それに昼夜が逆転するのも辛い・・・・。
せっかく見つけた仕事なのに、五回目の出勤の時には嫌気がさして仕方なかった。たった五回で何かが分かるわけではないが、それでも自分がこの仕事を続けるのは無理だということは分かった。
そして今日・・・・六回目の出勤だった。営業の終わったドラッグストアを清掃し、その後はコンビニを二件回った。帰宅すると朝の八時になっていて、どっと疲れて布団に寝転んだ。
「・・・・しんど・・・もう辞めたい・・・・。」
これが普通のバイトなら、すぐにでも辞めているだろう。しかしながら、今の仕事は親のコネを使って始めたものだ。もし今ここでやめたら、父の顔に泥を塗ることになってしまう。それだけは嫌だと思いつつも、この時点で今の仕事を続ける気は失せていた。次の出勤まで三日間の休みがある。それまでにじっくり考え、結論を出そう。
次の日、仕事の疲れで泥のように眠っていた。目を覚ますと夕方の四時になっていて、何もせずに一日が終わろうとしていることに唖然とする。
「あかんわ・・・こんなん・・・。寝て起きての生活なんて、絶対にあかん・・・。」
現実の世界で挑戦すると決めた。それならば、ただ寝て起きての生活など、断じて許されない。
疲れた身体を布団から引き剥がし、何処でもいいから何処かへ出かけていく。適当に車を走らせ、辿り着いた先は、最近出来たばかりの道の駅だった。
海沿いに立つ道の駅は、新規オープンということもあって賑やかだった。すぐ近くに漁港があるものだから、海の幸を売りにしている。
店内で魚や貝を買えば、それを外に出て炭火焼にすることが出来るらしい。
「上手そうやな・・・ちょっと食べてみよかな。」
店員さんに声をかけると、予想より高い金額であった為に、炭火焼は断念した。
何も買わずにベンチに座り、眼下に広がる海を眺める。
「これ・・・下に降りられるみたいやな・・・。」
道の駅のすぐ傍は、切り立った崖になっていた。その崖の合間に、小さな浜がある。大勢の家族連れやカップルが、ワイワイとはしゃいでいた。
タバコを一服吹かし、缶コーヒーを呷りながら階段を下りていく。小さな浜に降り立ち、穏やかな瀬戸内の海を眺めた。
「・・・同じ海でも、上から見るのと浜から見るのとじゃ違うなあ。」
浜に下りて海を見るということは、海の目線に自分の目線を合わせるということだ。同じ高さに立つことで、その広大さと雄大さが伝わってくる。
堤防のコンクリートに腰を下ろし、缶コーヒーを手にして考え込む。
「今の仕事・・・・やっぱり辞めよか・・・。」
父の顔を考えると、こんなに短期間で辞めることには抵抗があった。しかし幼い頃から、一度嫌だと思ったことは続いた試しがない。
ケータイを手に取り、父に電話を掛ける。
「もしもし、オトン?あのな、申し訳ないんやけど・・・・・、」
今の仕事を辞めたい旨を伝えると、散々に説教をされた。同じ話が延々と続き、後半にはケータイを耳から離していた。
・・・まあ、当然のことだろう・・・・。たった六回行っただけで、その仕事の何が分かるのかというものだ。しかし嫌なものは嫌なので、そこははっきり言うしかない。父は渋々であるが承諾してくれて、その日のうちに会社に辞職したい旨を伝えた。
それから二週間後、俺はまったく違うバイトに勤しんでいた。大きなショッピングモールの中に入っている、オシャレな時計屋だ。
以前のバイトも販売業だったので、きっとここなら続くと思った。しかし・・・・結果は散々・・・。同じ販売業でも、売るものが違えば仕事の内容も変わってくる。時計を見に来る人は多いが、そんなにバカバカ売れるようなものではない。狭い店内では暇を持て余すことが多く、清掃の仕事の時とは逆の辛さを覚えた。
《・・・何やってんねん、俺は・・・・・。》
新しく始めたバイトも、たったの二週間で辞めてしまった。店長にはえらく引き留められたが、やはり嫌だと思ったものは続かない。それに・・・この頃には、若干であるが精神を病みつつあった。
田んぼを見に行ったあの日、現実の世界で頑張ると誓った。それなのに、違和感から生まれるどうしようもないギャップを埋めることは出来なかった。
何時、何処で、何をしていても、やはり強烈な違和感が襲ってくる。仕事に身が入らず、常に自分というものに疑問を持ってしまう。
《また・・・またこいつのせいで俺は・・・・・。》
人と同じように出来ない、人と同じように生きられない・・・。学生の頃、この違和感のせいで周りより遅れていた。皆が大人の階段を上る中、俺はその流れから取り残されていた。幼少期から抱える違和感を拭えないせいで、いつまでも幼稚な世界に浸っていたのだ。
年齢とともに失われるはずの、曖昧で役立たずなイメージの世界。当たり前のことを不思議と感じ、どうでもいいことに疑問を持ってみたりする。
自分・・・自分・・・自分・・・・、そして世界・・・・。
言葉にするのが難しいものほど、強く興味をそそられた。残念ながら、立派な大人になって生きていくには、そういうものは邪魔だった。
だから多くの人がそれを斬り捨てる。当たり前のことは当たり前、どうでもういいことはどうでもいい。自分だの世界だの・・・・細かいことは割り切って、目の前の仕事なり、用事なりをこなす。
そうすることで、生計を立て、恋人を見つけ、家庭を持ち、人生を組み立てていく。
みんな・・・みんなそうやって生きている。辛いことがあっても、嫌なことがあっても、人生とはそういうものだと割り切り、一人の人間として、自立して生きていく。
それこそが強さ、それこそが戦い・・・・・。
いつか校舎の窓から見た、冬の校庭の木々。葉を落とし、いずれ訪れる春を待ちわびて耐えている。戦わねば、生き残らねば、次なる春を迎えられない。
あの時、もし自分が過酷な野生の世界に放り出されたら、生きていけるかどうか分からないと思った。しかし、今なら分かる。きっと俺は、過酷な野生の世界では、一日ともたずに死んでしまう。
もしライオンに生まれ変わったとしたら、狩りが出来ずに死んでしまう。どうして狩りをする必要があるのか?どうして自分はライオンとして生まれたのか?生きていくのに余計なことばかりを考え、その結果・・・・どんな獲物も狩ることが出来ずに餓死していくだろう。シマウマやガゼルに生まれ変わったとしても、結果は同じかもしれない。
あっさりとライオンやヒョウに捕食されるか、もしくは群れからはじき出されて野垂れ死にするか。俺が愛してやまない自然の世界は、俺が生きていけるほど甘い世界ではないと、今なら分かる。
・・・・欠落している・・・・と思った・・・・。
子供の頃に、誰もが持つ不思議な感覚。大人になるにつれて消えるはずの、何の役にも立たない曖昧な感覚。きっと・・・・ほとんどの人は、そういう感覚を殺す術を持っているのだと思う。
そうでなければ、一人の人間・・・いや、一個の生命として、自分の寿命を全うするのは難しい。なのに俺ときたら、どうもそういう能力が欠落しているらしい。
自立し、一人の大人として生きていく為には不要な感覚。成長する上で障害にしかならない、自転車の補助輪のような幼稚な道具。
皆が成虫になる頃、俺だけが芋虫のままだった。いつまで経ってもサナギにすらなれない、トロトロ歩くことしか出来ない芋虫のままだった・・・。


          *


「ありがとうございました。」
店を去る客に頭を下げる。サッと踵を返し、ミニラボにネガを持って行く。
「これ急ぎでお願いします。」
プリンターをいじる女性に声をかけ、またお客さんから声が掛かってカウンターへ走って行った。
清掃の仕事、時計屋の仕事、この二つをあっさり辞めて、一年近くブラブラとしていた。
一人で近場をうろついたり、たまに友達と釣りに行ったり。やきそばの澤井とは、一昨日にも風呂に行った。今でもやきそばを作っているのかと尋ねると、「そんなこと聞くな!」と怒られてしまった。どうやらやきそばでは人生が啓けないことを悟ったらしい。
では俺はというと、古巣に戻っていた。大学を辞めた時、カメラ屋でバイトをしていた。田んぼを見に行ったり、やきそば君と風呂に行ったりしていた時に続けていたバイトだ。
一月ほど前に、たまたま今の店に遊びに来た。すると店長から「もう一回ここで働らかへんか?」と声を掛けられたのだ。
特にやることもなかった俺は、その場であっさりと引き受けた。そしてここへ戻って半月後、アルバイトから準社員に昇格した。
まあ準社員なんていっても、しょせんはアルバイトなんだけど、それでも勤務時間は長くなるし、ちょこっとだけ時給も上がる。社員と同じように手当てや保障だってつくし、安いながらも年二回のボーナスも出る。
これで・・・これで一つ、現実の世界で進むことが出来た。しかし思っていたような充実感はなく、ただ仕事をして時間が過ぎていくという感覚だけだった。相変わらず違和感は拭えないし、自分とか宇宙とか・・・・何の役にも立たないしょうもないことも考えている。きっと・・・・きっとまだ足りないのだろう。
もっともっと現実の世界で確かなものを手にしないと、この違和感は消えないのかもしれない。
それから夏が過ぎ、秋が過ぎ、年も開けて本格的に寒い季節が始まった。暦は一月、それもかなり下旬だ。身を切るような寒さのなか、ブラブラと歩いていつもの場所に行った。
「ええな、この寂れた感じが・・・・。」
いつもの場所とは、家から徒歩で十五分くらいのところにある、あの蔵の近くだった。まだ中学生だった頃に学校を抜けだし、大木によじ登って中に侵入した。
今思えばかなり無茶をしたものだが、あれはあれでいい経験だったと思う。思春期の時の甘酸っぱい感覚が蘇り、じっと蔵の壁を眺める。
今日ここへ来たのは、この蔵が目的ではない。その近くに生えている、あの大木が目当てなのだ。
「いつ見ても壮大な感じがするなあ・・・。」
年季を感じさせる樹皮は、皺を刻んだようにめくれている。パサパサと硬く、そして渇いていた。大木を守る囲いの中に入り、そっと手を触れてみる。
「・・・・・・・・・・・・。」
目を閉じ、五感を研ぎ澄まし、身体から力を抜く。もちろんそんなことをしたって、何かが起こるわけではない。ファンタジーの世界のように、大木の声が聞こえるわけでもなく、木に宿った妖精が現れるわけでもない。
でもここへ来ると、必ずこうするのだ。ただ無心になり、大木の肌に触れる。それだけで俺の心は、ふっと軽くなる。
この木は何も与えてくれない。俺に対して何をしてくれるわけでもない。しかしこの木のおかげで、俺は感じることが出来る。煩わしい現実のこと、心を悩ます違和感のこと、そういう猥雑なもの全てが、この木のおかげで掻き消されていく。
もちろんそれを感じているのは自分なんだけど、その感覚を得るにはこの大木が必要なのだ。
「・・・・・・・・・・。」
気持ちが高揚してくる。それは炎のように激しい高揚ではなく、水が沸騰するような、徐々に沸き立つ高揚であった。
そっと手を離し、ぐるりと辺りを見渡す。誰もいないことを確認して、大木に腕を回した。
身体を預けるように抱きつき、頬をつけて目を瞑る。自分の持っているものを全て委ねるように、大きな大きな木に抱きついた。
頭に何かが触れる・・・・。目を開けて見上げると、垂れ下がった枝が触れていた。
「・・・撫でてくれるんか?」
細い枝に触れ、優しく握りしめる。もう一度目を閉じ、大木に抱きついた。
「・・・・・・・・・・・。」
考えない、感じない・・・・。ただ委ねるように身を任せれば、この木は抱きしめてくれる。俺のちっぽけなこの身体を、そっと包みこんでくれる。
木に腕はない。抱きしめもしない。そんなことは分かっているが、俺はいま確実に抱きしめられている。言葉では言い表せないこと、五感では感じ取れないこと。かといって、霊能力だの超能力だのと、いかがわしい力ではない。
この木が在って、俺が在って・・・・ではこの二つの存在は、いったい何が違うのか?
二つの命を隔てる壁を取り払った時、ちゃんとこの木は抱きしめ返してくれる。お互いが別々のものではないと認識すれば、異なる存在の壁は取り払われる。
生きていくうえで、働くうえで、まったく役に立たないものばかりが磨かれてしまい、とうとう大木を抱きしめるなどといった、傍から見れば頭を疑われる行為にまで出てしまった。もしここを知り合いに見られたら、きっと噂が立つに違いない。
『あいつは頭がおかしい』と。
・・・・・別にいいさ。頭がおかしかろうが、変人だろうが。
まともな職につくより、可愛い彼女を見つけるより、俺にとってはこっちの方が大事なのだから。この大木と抱きしめあえることの方が、よっぽど幸せを感じる。金、恋愛、夢、およそ人が喜ぶものなど、俺はいらない。
ただ・・・もし願いが叶うなら、このまま大木に吸い込まれてしまいたい。サラサラと溶けて、何もかも無くなって・・・・この大木の中に吸い込まれたら、それはどんなに幸せだろう。
限りある命なら、本当に心から望む願いを叶えてほしい。誰に頼めばいいかなんて分からないけど、もし俺の声を聞いてくれる者がいるなら、どうかこの大木と一緒にしてほしい。
・・・・どうか・・・・誰か・・・・・お願いだから・・・・・・。


            *


冬が過ぎ、春がやって来た。赤いリードで犬を引っ張りながら、花見客の残したゴミを蹴り飛ばす。
「ちゃんと持って帰れや、アホどもが。」
家の近くの公園には、毎年美しい桜が咲く。土手の上に並んだ桜の木が、鮮やかな華の道を作り出すのだ。
それは見ているだけでも惚れ惚れするし、風が吹いて花びらが舞うと、この世ではない幻想的な風景となる。
今年もそんな季節がやってきたのは嬉しいことだが、ここへ押し寄せる花見客どもは、どうもマナーがなっていない。騒ぐだけ騒いで、ゴミをほったらかしていく。きちんと持って帰る人もいるんだろうけど、全員がゴミの始末をしないと意味がない。
「楽しむだけやったら誰でも出来る。後始末までやって帰れっちゅうねん。」
近くに落ちていたゴミを拾い、錆びたドラム缶のゴミ箱に投げ入れる。土手の下ではボランティアのおばちゃんが、せっせとゴミを拾っていた。
「リン、なんでも食うなよ。また腹壊すから。」
食い意地の張った犬は、食べ物の残りカスを探して鼻をヒクヒクさせている。リードを引っ張ってゴミから引き離し、土手の階段を下りて帰っていった。
部屋に戻ると、絵具の水入れを掴んで洗面所に向かった。このところ、絵を描くことにハマっているのだ。ちょっとだけ値の張る絵具を買い、ちょっとだけ値の張る筆も買った。
決して上手いとはいえない下絵を机に広げ、バシャバシャと筆を濡らして紙に塗っていく。
使っているのは水彩だった。それも透明水彩という、たっぷり水を含ませて使用する絵具だ。これを使う場合、まず紙に水を塗らないといけない・・・・らしい。らしいというのは、立ち読みをした教本にそう書いてあったからだ。そもそも絵を描くことに決まりごとがあるなんて知らなかったから、とりあえずそのようにしてみる。
なるほど・・・・確かに先に水を塗った方が描きやすい・・・・。
初めて透明水彩を使った時、素直にそう感じた。きっとこういう技法だって、先人の積み重ねからきているものなのだろう。それに対して敬意を払う為、しばらくは水を塗ってから描いていた。そして今日もそうしようと思ったのだが、なんだか面相臭くなってやめた。
「やっぱり絵を描くのに決まりごとがあるなんておかしいわ。好きなように描いたらええねん。」
絵を上手に描くには、それなりの技術がいる。だからとにかく練習をした。模写もやったし、デッサンだってたくさん描いた。そのうえで出して結論・・・・好きなように描くこと。この道で飯を食うつもりならともかく、好きでやっているだけなのだから、誰にも従う必要はないはずだ。
ちなみに何を描いているかというと、コミック風のキャラクターである。今までに出かけた先で見た風景、そしてあの大木・・・。経験と記憶の中に生きるそれらを、絵によって形を持たせたいと思った。
あまり美術の絵を描く気にはなれず、気がつけばコミック風の絵ばかり描いていた。美しい海に立つ、空想のキャラクター。それは時に妖精であるし、時に女神であるし、たまに悪魔だの、龍だのも描く。
俺が見たもの、感じたこと、それらに合致するようなイメージで、ひたすら描いていく。
・・・・絵は良いと思った。まるでマラソンのように、余計な考えが吹き飛んでいく。紙の上に描かれるキャラクターに命を吹き込むことだけを考え、デッサンと配色を決めていく。真っ白な紙に、一から世界を想像する。その行為は、自分を内面の世界に没頭させるにはピッタリだった。
不思議と絵を描いている時だけは、あの違和感は治まってくれた。筆を置くとまた疼きだすのだが、絵を描いている時だけは大人しい。
どうやら・・・・俺は対処療法を見つけたようだ。あの違和感のせいでどうしようもなくなった時、絵を描けばいい。それも真剣に、真面目に、全てのエネルギーを使って描くならば、やはり心の疼きは治まるのだ。
でも、これが一時的なものに過ぎないことも分かっていた。対処療法とは、あくまで痛みや不快感を和らげる為のもの。根本的な解決にはならないのだから。
それでも・・・今は絵を描くことをやめられない。それは違和感を抑える為だけではなく、何かがシックリくる感覚があったからだ。これを続けていれば、何かの出口が見つかるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、ただ筆を走らせていった。
「・・・・・・・・・・・。」
ちょっと疲れた。筆を置き、窓を開けて一服する。見慣れた町を眺めていると、また違和感が疼きだした。
「・・・・ん?」
今・・・・違和感の中に違和感があった。なんとも妙な言い方だと思うが、確かにそう感じた。ずっと俺を悩ませてきた違和感・・・・もしかしたら、それそのものが形を変えようとしているのか?
「・・・・・・・・・・・。」
タバコを吸い尽くし、灰皿に押し付ける。・・・・深く考えるのはやめようと思った。どうせロクなことにならない。自分ではどうしようも出来ないのだし、これはもう・・・うん、ほうっておくしかない。いつかなるようになるだろう。
ただひたすら絵を描き、内面の世界へと没頭していく。描き始めてから三時間後、ケータイにメールが届いた。ブルブルと震える電話を掴み、液晶を確認してみる。
『長溝香織』
差し出し人を見て驚いた。ずっと昔に別れた女が、いきなり何の用かと身構えた。ボタンを押してメールを開くと、予想もしないことが書かれていた。
『久しぶり。最近カメラ屋で働いてるんやね?この前店に行ったらおったから、ちょっと驚いた。そこでちょっとお願いがあるんやけど、私のやってる写真教室を手伝ってくれへんかな?今度の土曜にやるんやけど、人手が足りんから助手をやってほしいの。周りにカメラに詳しい人がおらんから、君に頼みました。いきなりで迷惑かもしれへんけど、よかったらお願いします。』
「・・・・・・・・・・・。」
断ろうと思った。自然消滅で別れた女が、二年近く経ってからいきなりこんなメールを寄こしてくるなんて・・・・。
「・・・・いや、でも・・・別に引き受けてもええかな。断る理由なんて特にないし、カメラにだって詳しくなったし。なによりちょっと面白そうや。」
すぐにメールを返し、写真教室の話を引き受ける。どんな具合にやるのかは知らないが、今までに経験したものではないことは確かだ。
それから五日後、写真教室の日がやって来た。長溝さんは車で迎えに来てくれて、久しぶりにも関わらず、なんの気まずい空気もなしに喋ることが出来た。
「元気にしてた?」
「まあまあかな?自分は?」
「色々あったわ。都会に出て仕事したり、他にもまあ・・・・色々とな。」
「そうか。大変やな。」
「そうやねん。」
髪は以前より短くなっていた。顔立ちもそのままだが、頬に赤い点々が出来ていた。
「それ何?ニキビ?」
「ああ、これな。ニキビやねん。いつの間にかこんなに増えてもてん。病院行ったら薬くれたから、すぐ治ると思うけど。」
「そうか、早く治ったらええな。」
「そやな。」
このドライな会話・・・・昔のままだった。もしかしてこの子は、彼女としてではなく、友達としてなら良い関係になれるかもしれない。
二年近く会っていなかったというのに、ここまで楽に会話が出来る相手も珍しい。普通なら元恋人と再会すれば、もっとギクシャクするもんじゃないのかな?
・・・・きっと、この子はやきそば君と同じ種類の人間なのかもしれない。あれやこれやと人生を模索し、他人から見たら馬鹿なことでも、真剣に取り組んでみる。そういう心意気を持つ奴は、俺は嫌いじゃない。
真面目なことを真面目にやる奴より、馬鹿なことを真面目にやる奴の方が、よっぽど面白いのだから。
長溝さんは、やきそば君と同じ。それならば、俺とも似ていることになる。目的地に着くまでの間、二人の会話が途切れることはなかった。
しょうもないことを真剣に語り合い、愚痴や希望を交えながら、楽しく喋っていた。
車は高速道路を下り、加古川市という街に着く。この街にあるショッピングモールの一室で、写真教室が開かれているらしい。
「教室ってどんなことやんの?」
「どんなって・・・まあマニュアル操作で教えてるな。オートは使わへん。自分で設定して、失敗したりしながら撮るねん。その方が上達も早いしな。」
「そら言えてるわ。」
「生徒は女性限定やねん。おっさんとか来られてもしんどいから。」
「ええんちゃう。おっさんが集まる教室なんてようさんあるからな。同じ女同士の方が気が楽やろ。」
「そやろ!絶対にそう思うやんな?」
「店に来る客かて、中年のおっさんが一番性質悪いからな。例えばさ、お釣りの渡し忘れをしたとするやん?」
「うん。」
「こういう場合な、若い子とかおばちゃんは、しっかり謝って、きちんとお釣りを返せば許してくれるんや。でもおっさんの場合はそうはいかん。あいつら意味不明なプライド持ってるから、お釣りを間違われたっていう事実が許せへんねん。この俺になにを釣りの間違いをしてくれてんねん!・・・みたいな。だからいくら謝ろうが、ネチネチ怒ってみたり、大きい声出して怒鳴ってみたり。アホちゃうか思うわ。」
「ああ〜・・・分かるわ。ごっつう分かる。私も前にコールセンターで働いてたから、だいたい分かるねん。」
「守るプライドなんかないクセに、何を面子気にしてんねんって話やで。小さいミスで切れてる時点で、プライドなんか無いやん。」
「ははは!相当溜まってるな。今の仕事しんどい?」
「・・・・ちょっとな。だんだん接客業いうのがしんどくなってきた。特におっさんは。」
「分かるけど、あんまり言い過ぎたらあかんよ。接客業ってそういうもんやから。おっさんにはおっさんの考えがあるねん。こっちとしてはウザいけどさ。」
「・・・知ってるよ、ちょっと愚痴っただけや。」
しょうもないことを愚痴っている間に、車はショッピングモールに到着した。立体駐車場に車を止め、エレベーターで四階まで上がっていく。
「今日はモデル撮影やねん。友達の女の子に来てもらってるから。」
「そうなん?」
「大学一年のピチピチやで。」
「ピチピチて・・・。今ってそういう表現使わへんやろ?」
「ええやん、ピチピチはピチピチやねん。」
四階に着き、渡り廊下を歩いて店に入る。カルチャーセンターの受付のおばさんと挨拶を交わし、写真教室が行われる部屋に入った。モデルとなるピチピチの子は先に来ていて、簡単に挨拶をすませる。五分ほどの短いミーティングを終え、俺の役割が決まった。
モデル撮影の補助、及び生徒さんの分からない質問に答えること。生徒は全員で六人いる。みんな初心者なので、俺の持っている知識でも充分役に立つとのことだった。
時間が来ると、生徒さん達が集まった。全員おばちゃんだったが、誰もが気のいい人ばかりだった。簡単なレクチャーを行い、長溝さんの知識が及ばない所は、俺がサポートしていく。そして近所にある公園に出かけ、モデル撮影が始まった。
ピチピチの子は、立派にモデルをこなした。モデルをやるなんて初めてだと言っていたが、とても初めてとは思えないくらい様になっていた。
生徒のおばちゃんたちは、「可愛い」だとか「いいね!」と高揚しながらシャッターを切っていく。俺はレフ板という光を反射させる板を持ち、モデルさんの顔を照らしていた。
講師である長溝さんは、なぜか生徒と一緒になってはしゃいでいた。「いいよ!」を連発しながら、自分自身も撮影を楽しんでいた。
《なるほど・・・・こういうやり方もあるんやな。ただ教えるんじゃなくて、生徒と一緒に楽しむんか・・・。》
正直言って、長溝さんの写真に対する知識は乏しい。それでも立派に写真教室をやっていけるのは、一重にこの人柄のおかげだろうと思った。
教えるのではなく、一緒になって楽しむ。その方が、生徒さんだって楽に撮影が出来るのだろう。
二時間の撮影はあっという間に終了し、挨拶を交わして解散する。俺は助手をした報酬に昼飯を奢ってもらい、タバコを二箱買ってもらった。そして家まで送ってもらい、車を降りて手を振った。
「お疲れ様。」
「うん、今日はありがとう。助かったわ。」
「いやいや、こっちこそ楽しかったよ。なんか・・・色々と勉強になったし。」
「ほんま?」
「ほんま、ほんま。」
「じゃあまた手伝ってよ。来月もやるからさ。」
「うん、休みが合えば手伝うよ。」
長溝さんは「ほなな」と手を振り、レトロな外観の車で走り去っていった。
「・・・・楽しかったな、まじで。」
家に入り、タバコを吹かして空を見る。どんな具合になるのか予想もつかなかったが、写真教室は楽しかった。
「引き受けてよかったわ・・・なんかすごい新鮮やった。」
そう、とても新鮮だった。しかし・・・・それ以上のものはない。今回の最大の収穫は、写真教室ではなく、長溝さんと友達になれたことだ。
恋人として付き合うから上手くいかなかった。最初から友達として付き合っておけば、きっとやきそば君と同じように、気の置けない友達になっていただろう。
「ええもんや、友達って・・・。家族でも恋人でもない。でもなんでも馬鹿なことが話し合える。こんな最高の関係って、他にないで。」
その日から、彼女とはちょくちょく遊ぶようになった。俺の予想通り、やはり変わり者だった。でもそれが嬉しい。まともな奴と付き合ったって、きっと俺は長続きしない。
変人で、常識から外れていて、それでいて馬鹿なことを真剣に考える。一見すれば世の中のはみ出し者だけど、誰よりも真面目に人生を考えている。そして真面目に考え過ぎるあまり、なかなか上手くいかない。
俺も、長溝さんも、やきそば君も・・・そういう意味では同じだった。最高の友達が増えたのは嬉しいことだが、ここへきて問題も出てきた。
あの田んぼで誓ったことが、もうそろそろ限界に来ていた。現実の世界で何かを掴み、しっかりと自分の立つ足元を確かめる。そういう誓いは、もうそろそろ耐えられなくなっていた。
仕事は真面目にこなしている。自分でもよく働いている方だと思うし、部長さんから正社員のお誘いもあった。それに人間関係だって、恋人は無理だったけど、最高の友達が出来た。何でも話し合える、馬鹿で真面目な友達が。
夢は・・・・持てなかったな。でも絵にハマったんだから、やりたいことは見つけたわけだ。その道で飯を食おうなんて思わないけど、きっと絵は一生やめないと思う。
かつて自分が持っていなかったものが、たくさん手に入った。現実の世界で確かなものを持てば、きっと何かが見えてくると信じていたから・・・・。
でも、何も変わらない・・・・。あの厄介な違和感は、いっこうに消えてくれない。それどころか、日を増すごとに強くなっている気がする。
いったい自分は何を望んでいるのか?この違和感を消すにはどうしたらいいのか?またもいつものように考え始め、辿り着く先も決まっている。
・・・・自分・・自分・・・自分・・・・・、そして世界や宇宙・・・・。
この感覚はまったく消えてくれない。まともに生きていくには不要な代物なのに、どう足掻いても消えてくれない。この違和感も、自分だの宇宙だのを考える無駄な思考も、俺から離れる気はないらしい。いや、そもそも、俺自身がそれらを手放そうとしていないのかもしれない。
厄介なものだと思いつつ、その実かなり重要なものだと分かっている。もしこの違和感がなくなれば、俺は俺でなくなってしまう。無駄なことを考える思考だって、決して嫌いというわけじゃないんだ。
頑張ったら何かが変わると思っていたけど、そうじゃなかった。変わることを拒否していたのは、この俺自身だと気付かされただけだった。
・・・・どうしよう・・・どうしたらいい・・・・?
いったい誰に尋ねているのか分からない。でも一人で考え込むには限界があった。こういう時、俺は最高の友を持っている。それは長溝さんでも、やきそば君でもない。
あの大木だ。言葉なんて必要ないし、考えることも感じることさえも必要ない。全てを委ねて、そっと包んでくれるあの大木がいるのだ。
家を出て、足早に大木の元に向かう。彼・・・いや、もしかしたら彼女かもしれないが、大木はいつもと同じ場所で、じっと佇んでいた。
そっと手を触れ、目を閉じる。
「・・・・・・・・・・・・・・。」
いつもと同じ、冷たいけど暖かい。腕を回し、強く抱きつく。何も考えず、何も感じず。
頭に枝が触れ、優しく撫でてくれる。しばらくすると、向こうもそっと抱きしめてくれた。
「・・・・やっぱ・・・無理やわ・・・。」
そう、無理だった。俺が踏みしめるこの世界は、やはり俺の立つ世界ではない。ここへ来る度に、強くそう感じる。
それから半年後、俺は心の病にかかった。辞めたいと思っていた仕事を続けたせいか、それともまったく別の理由からか?はっきりとした原因は分からないが、俺の心は病んでしまった。家から出られなくなり、息の詰まる日々が続く。友達にも会わなくなってしまい、あの大木の元へも行けなくなってしまった。
飯を食い、眠り、病院と家を往復するだけの日々。逃げ場もなく、暗い穴の底でうずくまっているような感覚だった。
・・・・・辛い。・・・・俺が・・・・蝕まれていく・・・・。
しだいに心は腫れ上がり、その痛みに耐えかねて自殺を図った。
次に目を開けた時は、病院のベッドの上にいた。手に何かを巻きつけられ、尿道には管が入っている。
家族は心配そうに俺を見下ろし、何かを語りかけてくる。意識がボーっとしているので、何を喋っているのか分からない。でも・・・とりあえず頷いておいた。この時、俺の胸の中には、ある想いだけがあった。
《恥ずかしい・・・・。》
何が恥ずかしいのか分からない。しかし、恥ずかしいという感情だけが胸を満たしている。
家族に迷惑をかけたせいか?それとも上手く生きていけない自分への情けなさからか?
出来ることなら、今すぐにこの世から消えてしまいたい気分だった。
家族が帰り、病室で一人になる。もちろん看護師さんがいるんだけど、精神的には一人ぼっちだった。
その寂しさを紛らわす為か、頭の中では、昔に聴いた童謡がリフレインしている。子供の頃は怖くて仕方なかった童謡が、グルグルと頭の中を回っていた。
『メトロポリタンミュージアム』
深夜の博物館を、一人の少女が冒険するという内容の歌だ。確かNHKで流れていた童謡のはずで、歌に乗せてパペットアニメが流れるのだ。
俺は、この歌とパペットアニメが怖くて怖くて仕方がなかった。
『タイムトラベルは楽しい メトロポリタンミュージアム 赤い靴下でよければ 片っぽあげる』
突然動き出した天使像が、女の子に服を貸してくれと頼むのだ。そして女の子は、赤い靴下を片っぽだけ差し出す。その後はエジプトのファラオの棺桶に出くわし、その中から包帯を巻いたミイラが出て来て、一緒に踊るのだ。最後は女の子が絵の中に閉じ込められて終わる。
歌の内容も、そしてパペットアニメ特有のぎこちない動きも、怖くて怖くて堪らなかった。
しかし・・・それがなぜに今になって思い出されるのか・・・・?
孤独な病室で目を瞑りながら、ただその歌に耳を傾けていた。

手の平の裏側 第三話 井の中の蛙

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:46
田植えが始まった初夏の季節を、何も持たずにブラブラと歩く。
午後からは自動車免許の講習が入っているが、なんだか行く気になれずにボンヤリしていた。特に車の免許が欲しいわけではなかったが、大学を辞めてしまったのですることがなく、暇つぶしにと通い始めただけであった。
「なんで大学生っちゅうのは、あんなにアホなんやろなあ。中学の時の思春期が、三割増しくらいで酷くなってるよなあ。」
中学を出て高校を卒業し、少し大人になったかと思いきや、そのほとんどが大学に行くと馬鹿になり下がる。
クソみたいな話題で馬鹿騒ぎし、酒を飲んで暴れたり、子供みたいな悪さをして処分を食らったり・・・。
「アホとちゃうか。もう小学生とちゃうねんぞ?身体だけデカくなって、心は幼児退行してるやんけ。大学って馬鹿になる為に行く場所なんか?」
大学生特有のアホなノリに耐えきれず、二回生の始めに辞めてしまった。親にはずいぶんと怒られたが、まあそれは仕方ない。だってあの人達がお金を出してくれたのだから。
「大金をドブに捨てたようなもんや・・・。大学があんな場所やって分かってたら、最初から行かへんかったのに・・・・。何でも思いつきで行動したらあかんな。」
大学を辞めてから四年、フリーターとしてプラプラ過ごしていた。振り返っても何の感慨もなく、ただ時間が過ぎただけであった。
風が吹き、小さな苗がいっせいに踊り出す。あぜ道に座ってその光景を眺め、水の張った田んぼに指を入れた。
「温いな・・・。」
じんわりと指を包む、濁った田んぼの水。底の泥を掻き回すと、キノコ雲のように黙々と泥が立ち昇った。
「この土の中、ようさん卵があるからな。あと一ヶ月後くらいには、あいつらが孵ってるやろ。」
あいつらとは、田んぼの季節になると現れる、カブトエビやホウネンエビのことであった。
それに混じってオタマジャクシやゲンゴロウも現れる。様々な形の生き物たちが、田んぼの中を遊泳する季節がやって来るのだ。
そうなれば田んぼの中はにぎやかになり、見ているだけでも充分に楽しめる。
「早く孵ってくれへんかなあ。待ち遠しいわ。」
しばらく田んぼを眺め、ケータイで時間を確認してから立ち上がる。時刻は午前九時。
もうすぐバイトが始まる時間で、面倒くさい気持ちを抑えつつ、田んぼを後にした。


            *


「お疲れさまでした。」
午後三時にバイトが終わり、ダラダラとした足取りで家に向かう。免許の講習は午後五時からだから、それまで少しだけ時間があった。
家の近くの本屋にフラリと立ち寄り、ざっとマンガのコーナーを眺めて行く。集めているコミックスの新刊が出ていたので、それを片手に店の中を歩き回った。
政治経済の本のコーナーを抜け、怪しげな本が並ぶ棚に目をやった。
「なんなんやろなあ、これ。ほんまに読む奴とかおるんか?」
いかにもオカルトという感じの本が並ぶ棚を見て、どんなもんかと手に取ってみた。
引き寄せの法則だの、波動だの・・・・そういうものを信じることで人生が変わるらしい。
波動といえば、宇宙戦艦ヤマトの波動砲くらいしか浮かんでこない。
「波動砲のエネルギー源って、いったい何やろ?ガンダムのメガ粒子砲はミノフスキー粒子やけど・・・・波動砲のエネルギーっていったい・・・・・、」
リアルタイムの世代ではないので、ヤマトに関する詳しい知識はない。しばらく考えてみたが、しっくりくる理屈が思いつかずに諦めた。
「まあ・・・なんかアレやな。ごっつい未知のエネルギーなんやろ、多分。」
適当な理屈で納得し、本を棚に戻して歩いて行く。小説のコーナーをざっと眺めるが、たくさんありすぎて誰が誰だが分からない。
有名な作家の本を手に取り、パラパラとめくっていく。
今までほとんど小説など読んだことがないので、とりあえず有名どころの作家の本を買って帰ることにした。
「重いな・・・こんなにようさん読めるかな・・・。」
文庫本ではなくて、ハードカバーで買うことにした為、脇にいっぱいの本を抱えることになってしまった。
「なんかあと一冊買おか。」
小説のコーナーを後にし、旅行本の棚を眺める。北海道だの四国だの、これでもかというくらいに派手に紹介してある。そのすぐ横の棚に、地元の兵庫県を紹介する本があった。一応は旅行本らしいが、中身は兵庫県の観光名所、それも自然が豊かな場所を紹介してあった。
「そういや、あんまり兵庫県のことなんか知らんもんな。これも買ってみよか。」
どこかで聞いたことがあるが、兵庫県というのは県民性が薄いらしい。元々は別の藩だった場所を無理矢理くっつけたものだから、統一性のいうものがあまりない。
かく言う俺も、地元である播州以外の兵庫県などほとんど知らないのだ。特に北部の方になると、別の県のように言葉も文化も変わるらしい。
本を買って家に帰り、マンガを平らげてから旅行本を眺める。
「凄いな、武田城って・・・まるでラピュタやんか。」
神秘的な雲海の中に、武田城が天空の城のように浮かんでいた。本当にこんな光景があるのかと思うくらい、現実離れした世界のように思えた。
「まさかCGなんてことはないやろし・・・・凄いな、これ。」
現実の世界でも、こんなに空想的な絵が撮れるのだと感心する。その時、心の中にある硬いものがコトリと動いた。
「また反応したな。でもだいたい・・・・うん、これが反応する時は分かってきたわ。」
現実から乖離したものを見せられた時、または感じた時に、この硬いものは動き出す。今までに何度かそのことを経験していて、今となっては驚きもしなかった。
「こういう所、いっぺん行ってみたいな。」
そう思うと、車の免許を取ることに俄然興味が湧いてきた。車さえあれば、自分の望む場所に行ける。今まで身が入らなかった講習を、真剣に受けようかと考えが変わっていった。
兵庫県の案内本には、魅力的な場所がたくさん載っていた。免許を取った時の自分を想像し、ムクムクと夢が膨らんでいく。
時計を見ると午後四時過ぎを指していて、慌てて身支度を整えた。教習所は俺が通っていた高校よりも、もっとずっと向こうにある。自転車を漕いで四十五分ほどなので、もう出ないと間に合わない。
せっかく高校を卒業したのに、また自転車で長距離を走るのはウンザリするが、それでもあそこへ通う楽しみが出来た。
早く免許を取って、自分の行きたい場所に行けるようになりたい。俺は筋金入りの飽き性だが、自分の求めるものはトコトンまで追求する性質なのだ。
その日から真剣に講習を受け出した。教習所に設置されているパソコンで、何度も仮免許の予習を行う。実技練習だって、この日を境にグングンと上達しだした。
結局のところ、物事とはやる気次第でどうにでもなると知った瞬間でもあった。努力の甲斐あって見事に仮免許をパス。そして本試験の筆記講習も通過し、念願の免許を手に入れることが出来た。
車は何でもよかったので、整備士である兄に頼んで、適当に見つくろってもらった。兄に頼んで数日後、中古屋から古いクーペが届き、俺の愛車となった。
さて、準備は整った。これで自分の望む場所に行ける。かなり臭い表現かもしれないが、昔から翼が欲しいと思っていたのだ。自分の望む場所、自分の望む世界へ行ける翼が欲しいと・・・。
今、それはようやく手に入った。黒塗りの古臭いクーペは、まさに魔法の翼のように思えた。


            *


「おはよう。今日どこ行く?」
彫りの深い顔をした、長い黒髪の女の子が手を振って走って来る。
「特に決めてないけど、ドライブしながら行ったらええやん。」
「そやな。あたしカメラ持ってきたんや。後でモデルになって。」
人生で初めて出来た彼女、長溝香織。免許の本試験で明石に行った時、彼女と知り合った。
趣味も性格も違うのに、なぜか話が合って盛り上がった。お互いに試験に合格し、今度一緒にドライブに行こうと約束したのだ。
そして三回目のドライブの時、我慢出来なくなって、自分の気持ちを打ち明けた。恋愛なんて初めての経験だったから、最低の告白のしかただったと思う。
長溝さんは驚いて固まっていたが、はにかみながらOKをくれた。その日の帰りに、生まれて初めてのキスをして、その翌日には初体験まで済ませた。
車という翼、可愛い彼女、素晴らしいものが同時に手に入り、まさに幸せの絶頂だった。
長溝さんは助手席に乗り込み、嬉しそうな顔でカメラをいじっている。おもむろに俺の方にレンズを向け、カシャリとシャッターを切った。
「いきなり撮らんといて、恥ずかしいから。」
「ええから手えどけて。あと前見てて、カメラ目線にならんように。」
「そう言われると余計カメラを意識するわ。」
苦笑いしながら車を走らせ、海辺に向かって走っていく。
「新舞子行くん?」
「多分な。嫌やったら他のところにしよか?」
「なぎさ公園がええな。おんなじ海行くんやったら。」
「ほなそうしよか。」
干潟の綺麗な新舞子を諦め、のどかな遊歩道が広がるなぎさ公園へ向かう。
「運転上達したな。」
「ほんま?でもまだバックが苦手やねん。」
「あたしも苦手。この前壁にぶつけたもん。」
「マジで?大丈夫やったん?」
「家の壁やからな、どうってことないわ。親父は泣いてたけど。」
車は山間の細い道を進んでいく。峠を二つほど越え、大きな通りに出てスピードを上げていく。途中にあるスーパーでお菓子とジュースを買い、長溝さんが俺に食べさせてくれた。
人生でこんなに幸せなことがあるとは思いもよらず、胸に置かれた硬いものの存在など、すっかり頭から消えていた。
幸福と充実感に満たされ、人生初の彼女と惚気あいながら、なぎさ公園の前に着いた。大きな駐車場に車を止め、外に出て背伸びをする。
「やっぱまだ運転中は気い張るわあ・・・・。ちょっと疲れた。」
「お疲れ。帰りは私が運転しよか?」
彼女は運転が大好き。今までのデートの時も、自分から運転すると代わってくれたことがあった。ただし・・・・その腕は危なっかしいが・・・・。
「とりあえず今は大丈夫かな。しんどくなったらお願いするわ。」
「了解〜。」
そう言ってカメラバッグを肩に掲げ、レンズを付け替えて海を写している。カシャリと機械的な音が響き、思わずレンズを覗きこんだ。
「ちょっと、撮られへんやん。」
「いや、中はどうなってんのかと思って。」
「撮ってみる?」
「・・・・ほな、ちょっとだけ。」
カメラを受け取り、しげしげと見つめる。わけの分からないボタンがたくさん付いていて、思わず顔をしかめた。
「どうやって撮るんか分からへん。」
「ここにシャッターがあるやろ?これ押したらええから。」
「・・・・・・・・・・・。」
押したらええからと言われても、それ以外のことはまったく分からない。でもせっかく渡されたので、とりあえず撮ってみる。海に向けて一枚、シャッターを切る。渇いた機械音が響き、わずかにカメラが震えた。
「・・・・・なんか、気持ちええな。」
「そやろ!もっと撮ってええで!フィルムたくさんあるから。」
お言葉に甘え、海に向けて数枚シャッターを切る。砂浜と小さな公園、そして遠くの工場まで続く遊歩道。ファインダーを通して見るそれらは、まるで別の世界ように思えた。
「楽しいな!これ。」
「やろ?君もカメラやりんか。そんなに高くないで。」
「どれくらいすんの?」
「安いのやったら・・・一眼レフで四、五万くらいかな。レンズは別やけど。」
「・・・・それが安いんか高いんか分からんわ。」
カメラを返し、真剣に写真をやってみようかと考える。ファインダーを通して覗く世界、そしてその瞬間を切り取る感覚。どちらも病みつきになりそうだった。
しかし・・・心の中の硬いものは動かない。もし・・・もしもカメラが俺を別の世界へ連れて行ってくれるなら、きっとコイツが反応するはずだ。それなのに、心の中の硬いものは、ウンともスンとも言わなかった。
「・・・・・やっぱり・・・ええかな、カメラは?」
「なんで?楽しいよ。」
「それは分かるけど・・・でもやっぱりやめとく。」
「なんでもやってみな分からへんで?ハマるかもしれへんやん。」
「そうやけど・・・・やっぱりええわ。」
長溝さんは何も言わずに俺を見つめ、無言でスタスタと歩いて行ってしまった。エッキスの時もそうだけど、自分が愛するものを否定的に言われると、誰だって腹が立つのだろう。
別にカメラを馬鹿にしたわけではないが、彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。
それから一時間ほどなぎさ公園をうろつき、昼飯を食べて別れた。その日以来、長溝さんはしきりにカメラを勧めてきた。しかし・・・俺はやはり拒否した。
・・・・何かが違う・・・・。
確かにカメラは面白いけど、それでも・・・・・シックリこなかった。長溝さんは彼氏と一緒に写真を撮りたかったようで、その夢が叶わないことに不満を抱きだした。
そして・・・俺たちの間に溝が出来た。三週間も連絡を取らない日が続き、ある日別の男と手を繋いで歩いているのを見て、この恋は終わった。人生初の彼女は、あっさりと俺の元から離れていってしまったのだ。
しかしながら、まったく未練というものはなかった。彼女にフラれたら、普通はもっと落ち込むものだと思っていたのに、特にこれといった感情が湧かない。
「きっと・・・本気で好きとちゃうかったんやな、お互い。」
初夏は通りすぎ、本格的に暑い季節に突入する。夏休みを利用して帰省している友達と会い、近所のスーパー銭湯に言ってマッタリと話しこんだ。
「この前彼女が出来てな・・・・それですぐ別れたわ。」
「なんで?」
「・・・さあ?よう分からんけど、お互いのこと好きじゃなかったんかな?」
「好きと違うのに、付き合うもんなんか?」
小学生の時から付き合いのあるこの友達は、俺に負けず劣らず女に縁がない。興味津津で俺の話を聞き、冴えない顔で見つめてくる。
「あのな・・・予想と違って、恋人ってのはそんなにええもんと違うかなって。確かに付き合ってる時は楽しかったけど、今となっては何が楽しかったんか全然分からへんねん。」
「お前なにいっちょ前に喋っとんどいや。」
「お前より経験あるで。0と1とじゃ違うやろ?」
「そらそうやけど・・・・。」
「そんなヘコむなや。話題変えよう。」
それから仕事の話に転がり、今やっているバイトの不満であるとか、理想の女であるとか、内容もない話をとりとめもなく続けた。いったん話が途切れ、沈黙が流れる。
友達は「ちょっと話変わるけどな」と前置きをして、神妙な顔で手元を見つめた。
「あのな・・・俺、最近始めたことがあんねん。」
「何?」
「やきそばを作ってんねん。」
「やきそば?それがどうしたん?」
「あのな・・・やきそばって、色んな具を入れるやんか?」
「うん。」
「それでさ、色々と考えながら作らなあかんわけよ。炒めたりとか、調味料とか。」
「うん。」
「そうやってやきそばを作り出して・・・・俺、ちょっとずつ変わってきたような気がするんや。」
「・・・・どういうこと?」
「だから・・・やきぞばって色々と考えながら作らなあかんやろ?それを人生に置き換えて考えると、そういうやきそばの作り方とか・・・色々と役に立つと思うねん。」
「・・・何言うてるか分からへん。」
「だからな、人生って色々と考えなあかんやろ?」
「うん。」
「それで・・・やきそばも色々考えて作らなあかんわけや。そうやってやきそばを作ってると、俺自身が最近変わってきたような気がするんや。ちょっとだけやけど、前より明るくなったと思うし、社交的になってるはずなんや。」
「やきそばのおかげで?」
「いや、違うって。やきそばを作ることによって、自分の人生がな・・・・・・、」
友は力説する。やきそば作りが、いかに人生に影響を及ぼすかを。俺は喉まで出てかかった言葉を抑えるのに必死で、何も言わずに頷いていた。
《・・・こいつ、アホとちゃうか・・・・。》
しかしこの友人がアホなのは昔から知っているので、あえて何も言うまいと思った。やきそばから人生を啓いてはいけないなんて、そんな決まりはないのだから。
風呂から上がり、他愛ない話を続けていると、もう夜の十一時を過ぎていた。
「もう帰ろうや。」
「そやな。お前はやきそば作らなあかんもんな。」
「ちょっと馬鹿にしてるやろ?」
「そんなことないよ。ちょっとじゃなくて、めっちゃ馬鹿にしてるから。」
「ぬははははは!お前ちょっと体育館の裏来いや。」
「ここ風呂屋やいうねん。どこに体育館があんねん。」
「ぬははははははは!」
昔からの友達というのはいい。気の置けない友達ほど、人生で素晴らしい宝物はないと思う。恋人なんかより、やきそばで人生が変わると思っている友人といるほうが、よっぽど楽しいのだから。
その次の日、バイトが休みなので遠くへ出かけた。車に乗って遠出をする時は、絶対に一人に限る。誰かと一緒に行動するのは、近場へ出かける時だけだ。
なぜなら、一人で見知らぬ場所へ行く時ほど、自分と向かい合う最高の時間はないのだから。
「この車・・・・ほとんどエアコン効かへんなあ。まあ中古で三十万やからしゃあないけど・・・・。」
温度設定を最大まで落とし、お気に入りの曲を聴きながら走って行く。とりあえず目指す場所は決めていて、全国でも有数の名瀑に向かうのだ。
この前買った兵庫県の本には、天滝という立派な滝が乗っていた。それはまさに天から降りてくるような、壮大な滝の写真だった。
これは必ず見なければと思い、片道二時間もかかる道のりを走っていく。
「どっかで飯食おか。」
家から出て一時間。国道沿いにあるファミレスに入る。適当に腹ごしらえをし、さらに北を目指して旅立っていく。
途中で大きなダムが目に入り、路肩に車を止めて降りてみた。
「相変わらず凄いな・・・・。」
引原ダムという縦長のダムは、山の間を縫うように遠くまで続いている。黒緑の水面を揺らめかせながら、得体の知れない何かが潜んでいる雰囲気を醸し出していた。
「オカンが言うてたな。このダムの底には村が沈んでるって。」
大昔、ダムの底には集落があったそうだ。それが今は水の底に沈んでいる。かつてその集落に住んでいた人々は、自分たちの住処がダムに沈むとは思ってもいなかっただろう。
「どういう気持ちなんやろな・・・・自分の村が沈むって・・・・。」
ダムを見つめながらじっと考える。この水の底に、かつて人々が暮らしていたことを。
切ないような、寂しいような気持ちがこみ上がり、手すりに身体を預けて項垂れた。
「もし・・・俺の町がこんなふうに沈んだら・・・・きっと悲しいな。いくら時の流れやとしても・・・やっぱり寂しく感じるやろなあ。」
感傷を抱えたまま、しばらくダムを睨む。車に戻り、国道に出て走り出すと、左脇に小さな看板が見えた。
『この先 音水渓谷』
初めて見る看板だった。引原ダムへは何度か来たことがあるが、それは家族に連れられてのことだった。
「こういうことがあるから、遠出は一人に限るんや。大勢でおると気付かんことも、一人ならすぐに気付くからな。」
看板の下には、左に逸れる細い脇道が伸びている。少し迷ったが、ハンドルを切ってその道へ入っていった。
「うわあ・・・・ごっつう細いなあ。通れるか?」
道は急勾配な上に、車がギリギリ一台通れるような狭さだった。慎重に運転しながら、細い橋を渡って坂道を上る。
チラホラと民家が立っているが、あまり人の気配は感じない。舗装された道路をしばらく走ると、大きな石がいくつも転がる、険しい山道に出た。
「これを通っていくんか・・・・なんか冒険やな。」
ワクワクしながら山道に入り、大きな石に気をつけながら進んでいく。ギアをセカンドに落とし、慎重に慎重に走っていく。すると突然パチン!と大きな音が鳴り、思わず身を竦めた。
「なんや今の・・・?何かぶつかったんか?」
車を止めて外に出ると、山道の脇に立つ木から、プラリと枝が垂れ下がっていた。
「ああ・・・これがフロントガラスにぶつかったんやな。スピード落としててよかった。」
木の枝をどかし、再び走って行く。道はさらにゴツゴツと険しくなり、車が激しく揺さぶられる。そして草木のない開けた場所に辿り着いた。少し先は深い森に覆われ、わずかに水の音が聞こえた。
「多分あの先やな。」
車が邪魔にならないように脇に止め、外に出て辺りを見渡す。
「・・・・空気が澄んでる。ええ匂いがするなあ・・・・。」
木と水と空気だけ。あとは自分が踏みしめる大地。深い山の中の風情は、余計なものを排除した神聖な空間だった。
胸いっぱいに空気を吸い込み、水の音が聞こえる方へ向かう。深い森の入り口には、小さな祠が建っていた。
「山の神様かな?龍神っぽいな・・・・知らんけど。」
勝手に龍神と決めつけ、手を合わせて頭を下げる。山を汚さないことを誓い、財布から十円玉を取り出して、祠の前に置いた。
奥の方に目を向けると、深い森が続いていた。水の音が大きく聞こえるので、すぐ近くに滝があるのだろう。
険しい足場を慎重に歩き、地面から突き出している岩の上にのぼると、滝の姿が見えた。
「おお・・・小さいけど綺麗な滝やな・・・・・。」
山奥へと続く森から、大量の水が流れ落ちていた。滝の中央には岩があり、二手に分かれて落ちている。
勢いのついた水は白く染まり、下に溜まる滝つぼへと注がれていく。高さは五、六メートルくらいの小ぶりな滝だが、その姿は水墨画のように美しかった。
「・・・・・・・・・・・。」
山から湧き出る澄んだ水。それを取り巻く汚れの無い空気。心の中の硬いものが反応し、コトコトと音を立てて動き回る。
・・・・・・世界が・・・・重なっている・・・・。今見えているこの景色の裏側に、もう一つの世界が重なっている・・・・。
どう頑張っても言葉に出来ない何かが、確かにそこに在るのを感じた。岩から下り、足場に注意しながら滝のふもとまで近づく。夏だというのに水は冷たく、滝から落ちる水しぶきが顔にかかる。
・・・・・在る。ここには・・・ここであって、ここではない世界が在る・・・・。
それは感じることだけが可能な世界で、決して向こう側へ行くことが許されない。しかし、今ひしひしとそれを感じている。
冷たい水で顔を洗い、もう少し先まで滝に近づいてみる。そして・・・何かに止められるように、ピタリと足が動かなくなった。
《・・・ここから先へは、入ってはいけない・・・・。》
・・・自分の声・・・・だったと思う。自分の声が、そう警告してきた。いや、もしかしたらこれは・・・・龍神の声?
《これ以上先に進むべからず。見ているだけでよしとしろ・・・・・。》
「・・・・・・・・・・・・・。」
手を伸ばせば滝に触れられる。それに触れたいと思う自分と、止めようとする自分。
・・・・どっちの声が正しい?触れるべきか?触れざるべきか?
磁石のように反発する二つの声は、山彦のように共鳴して打ち消し合う。そして・・・・俺は手を引っ込めた。
《触れてはいけない・・・・。》
強く・・・・強くそう感じた。ここではない世界へ行きたいと願いながら、その世界へ旅立つことは許されない。
この空間には、必ず別の世界が重なっている。それは確かなのに・・・そこへ行くことは断じて許されない。
・・・・あの世?自分が行こうとしていたのは、あの世なのか?・・・いや、違う。決して生を捨てたいと思っているわけではない。生きることを放棄したいわけじゃない。
しかし・・・・ここは自分の立つべき世界ではない。しっかりと確かな感触があるこの世界は、きっと俺が生まれて来るべき世界ではなかった・・・・。
「・・・・・アホくさ。中学生か、俺は・・・・。中二病じゃあるまいし。」
およそ思春期の時に通りすぎる感覚は、二四歳になっても残っている。なんと馬鹿らしく、恥ずかしい・・・・・。
ここではない世界なんて、あるわけがないのに・・・・。心の中にある硬いものだって、そんなもんはしょせん、俺が勝手に想像しているだけじゃないか。
現実に目を向けるのが嫌で、ただ自分が生み出したイメージの世界に浸かっているだけだ。
そんなものにいくら目を向けたところで、人生が変わるわけじゃない。
これじゃ・・・こんなんじゃ、やきそばを作って人生が変わると思っているのと一緒じゃないか。俺は・・・あいつを笑うことなんて出来やしないんだ。
ゆっくりと立ち上がり、滝を見つめてからその場を後にする。来た道を引き返し、天滝を目指すことをやめて家に帰った。
・・・・俺は幼稚なだけだ。なんで・・・・なんでこんな・・・・・。
部屋に入った途端に、胸に熱いものがこみ上げてきた。それは心の中に置かれた硬いものを溶かし、ドロドロと液状に変えていく。それに同調するように涙が流れ、どうしようもなくなってうずくまった。
・・・・やっぱり俺は・・・おかしい・・・・。たかが自分で創り出したイメージを捨てられないなんて・・・・やっぱりおかしい・・・。
病気なのだと思った。人格か精神に、きっと異常があるに違いない。だからこんなに下らないことで泣いているし、いつまでも足を引っ張られている。
それでも・・・・それでも感じるんだから、仕方ないじゃないか!心に疼く違和感も、足元が浮いているような非現実感も、あの滝の向こうに別の世界が在ると思ったのも、全部ほんとうに感じたんだから仕方ないじゃないか!
ティッシュを丸め、強く目に押し付ける。滲んだ涙がしみていき、それでも目頭は熱いままだった。
「おかしい・・・こんなんおかしいわ・・・絶対に・・・。」
心に置かれた硬いものは、もはやその形をなくして溶けている。それは心を覆うように張りつき、強烈な違和感が蘇ってくる。それも以前より遥かに強力になって・・・・・。
ポケットから財布とケータイを取り出し、机の上に置く。湧き上がる嫌な違和感を抑えるため、タバコを吹かして気持ちを落ち着けた。
「・・・・・・・・・・・。」
ニコチンのおかげでわずかに気が和らぐが、それでも違和感は抑えきれない。机の上のケータイがブルブルと震え、メールの着信を知らせる。差し出し人を見てみると、やきそばの友達からだった。
『明日帰るから、今日も風呂行こうぜ』
絵文字も何もない、質素で簡単なメール。しかも連日でスーパー銭湯に行こうなどと誘ってくる。
「澤井らしいな。」
すぐに返信を送り、風呂に行くことを承諾する。十秒と経たずにメールが返ってきて、『ほなそういうことで、八時に迎えにいく』ということだった。
ケータイを放り投げ、もう一本タバコを吹かす。遠出をするはずだったのに、途中で帰ってきたもんだから予定がなくなってしまった。
やりかけのゲームの続きをするか?それとも本でも読むか?・・・どちらも乗り気になれない。しばらく考えた挙句、この前の田んぼを見に行くことにした。
今ならたくさんの生き物が、水田の海を遊泳していることだろう。タバコなんかより、あれを見ている方がよっぽど心が落ち着きそうだ。
家を出て車に乗り、五分ほど走った所にある本屋に駐車する。本屋の前には、交通量の多い道路が走っていて、車に注意しながら渡る。大きなマンションの脇道を抜け、遮断機のない踏み切りを渡って住宅地を抜けた。
その向こうには低い山がそびえていて、そのふもとにお目当ての田んぼがあった。
用水路のそばに膝をつき、そっと中を覗き込む。
「おお!おるおる。ようさん泳いでるなあ・・・。」
大昔から姿を変えない生き物が、ひと夏の命を謳歌する為に、所狭しと泳ぎ回っている。
赤い身体をもつカブトガニのような姿のカブトエビ。仰向けになりながら、たくさんの脚で水を掻くホウネンエビ。さらにはミジンコに似た形をしたカイエビ。こいつは身体を二枚貝のような殻でおおっていて、その隙間から脚を出して水を掻いでいる。とても小さいので、よく探さないと分からないのだ。
じっくり観察していると、オタマジャクシやゲンゴロウまでいた。
「・・・こいつらには、外の世界がどう見えてるんやろなあ・・・。」
いつだったか、ある哲学者が書いたおかしな文章を読んだことがある。人間は自然から生まれているのだから、自分自身が自然である。だから、わざわざどこかへ出かけて自然を見なくても、いつだって自然はそこにあると。
いかにも言葉に縛られた哲学者が言いそうな屁理屈だと思った。
「そこへ行かな分からへんことがある。この目で見て、肌で感じへんと分からへんことがあるんや。言葉を越えたものが・・・・確かにそこに在るのに・・・・。」
ちなみにその哲学者は、大の犬好きだった。
人間は自分自身が自然なのだから、わざわざ風景など見に行かなくても、自然を感じ取れるはずである。そう書いてあったけど、じゃあなんで犬を飼うんだろう?あれだって自然の産物なのに・・・・・・。
人間は自然から生まれているのだから、遠い場所に出かけて自然風景を見る必要が無いっていうのなら、犬だって飼う必要はないんじゃないか?犬だって自然から生まれているんだし、人間だって自然から生まれているんだ。自分自身に自然を感じられるなら、同じように自然から生まれた犬を飼う必要だってないと思うが・・・・・。
遠い場所へ出かけて自然風景を見るのと、犬を飼う違いっていったい何なんだろう?同じ自然の産物なのに・・・・その違いはどこから来るんだ?
「・・・・好き、やから。理屈どうのこうのじゃなくて、好きやからそうするとしか言われへんよなあ・・・。遠くへ自然を見に行くのも、犬を飼うのも、好きやから以外に理由なんかないやん・・・・。」
始まりは好きだからだったとしても、それを始めることで分かることがある。遠い自然を見にいくことも、犬を飼うことも、自分がそれをやってみることで、初めて分かることだってあるのだ。決して言葉では語れない、それをやった者だけが分かることが・・・。
「この田んぼだって、見に来おへんと分からへんもんなあ。こうしてじっと見つめてると、この田んぼにも一つの世界が広がってるってことが分かる。」
ここで泳ぐ生き物たちは、おそらく外の世界を知らない。いくら水の中から空を見上げても、外に広がる世界は想像するより他にないのだ。
もし言葉が通じたとしても、外の世界や人間の社会のことなど、とてもではないが言葉だけでは伝えきれない・・・・。
そう考えた時、胸にチクリと痛みが走った。強烈な違和感が疼きだし、また涙が溢れそうになる。
「俺は・・・この田んぼの生き物たちを見下してるんや・・・。外に広がる世界を知らんやろ?って。でも・・・それは俺だって同じやん。もしかしたら、俺のおるこの世界だって、一つの田んぼなんかもしれん。今ここで俺が田んぼを覗いてるように、俺の立つ世界だって、外から覗いてる奴がおるかもしれへん。」
・・・・井の中の蛙・・・・。
俺は現実の世界が嫌だと言いながら、自分の立つ足元のことさえ分かっていない。そんな奴が、ここじゃない世界へ行きたいなどと、思い上がりもいいとろこだった。
「・・・ここは、俺のおる世界じゃない。その違和感は消えへんけど、俺はこの世界のことすら知らんのや。・・・いっぺん、挑戦してみよかな・・・。みんながやってるのと同じように、この現実の世界でしっかり生きてみよ。もしそれが無理やったら・・・・また考えなしゃあないけど・・・・。」
今日、ここへ田んぼを見に来たおかげで、一つの答えが出た。
『世界は一つではない』
この田んぼに一つの世界・・・いや、宇宙があるように、俺の立つ足元以外にも、必ず宇宙がある。もしかしたら、それこそが俺の行きたがっている世界なのかもしれない。
「まずは足元からや。就職なり、恋人を見つけるなり・・・まあ夢でもええか。そういう確かなもんを、どうにか手に入れられへんか頑張ってみよか。」
その夜、澤井と風呂に行った。大きなお椀の形をした風呂に入りながら、からかい半分で意地悪な質問をぶつける。
「なあ、やきそばってほんまに人生変わるの?」
半笑いで尋ねると、澤井は身ぶりを交えて力説を始めた。
「だから違うって。やきそばじゃなくて、やきそばを作ることによって、人生に対しての色々なことが・・・・、」
やはり気の置けない友達といる時ほど、心が安らぐ瞬間はない。
胸に疼いていた違和感は、やきそばのおかげで、ひと時だけなりを潜めてくれた。

手の平の裏側 第二話 消えゆく感覚

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:44
冬の冷たい風が、穴の空いた手袋から入りこむ。
遥か遠くまで続く直線道路を、自転車を漕いで進んでいった。
「8時20分か・・・ちょっとやばいな。」
通学前に自慰行為をしたせいで、家を出るのが遅くなってしまった。一番重たいギアに切り替え、足に力を入れて漕いでいく。
俺が通う高校は隣町にあって、自転車を飛ばして30分ほど。ホームルームの開始が8時40分だから、今いる場所からならギリギリ間に合う計算だった。
「やっぱ学校行く前にオナニーするのはやめなあかんな。毎回遅刻になってしまう。」
中学を卒業して高校に上がったものの、やはり今までの違和感は残ったままだった。いや、それどころか、より強力に心を疼かせることがある。
学業にも身が入らず、部活もすぐに辞めてしまった。毎日学校へ行き、ただ机に座って退屈な授業を受けるだけ。
幸い偏差値の高くない学校なので、学業に専念しなくても落第の危険はない。テストでは中間をキープしているし、友達だってまったくいないわけじゃない。
でも・・・やはり今の学校は好きになれなかった。辺鄙な地方都市に立つ学校は、何の面白味もない。
いや、面白味がどうとかではなく、ほとんど自然が無いのだ。校舎の裏側には小さな山がそびえているが、あの山からは何も魅力を感じなかった。
「頂上にエロ本が置かれてる山なんて嫌やからな。それにあの山には・・・なんか魅力を感じへん。きっと神様がおらんのや。」
長い直線道路を抜け、短い橋を渡って坂道を下って行く。雑多な建物に囲まれた路地を抜け、また大きな直線道路が現れる。
ここでとにかく時間を稼がないと、学校に遅れてしまう。ペダルに体重を乗せ、立ち漕ぎでスピードを出していく。
・・・・しばらく走った頃だろうか。急にペダルが重く感じられた。いくら漕いでもスピードが出ず、それどころかどんどん失速していく。
「あれ?これってもしかして・・・・・。」
自転車を降りてタイヤを確認すると、前輪がパンクしていた。
「なんでいきなりパンク?この前空気入れたのに・・・・・。」
スタンドを上げ、じっくりと前輪を確認する。どこに穴が空いているのか分からないが、パンクしてしまったものはしょうがない。
「これは確実に遅刻やな・・・。どうしよ・・・。」
どうしよと呟いたものの、別にどうこうするつもりもなかった。そのままボーっと立ち尽くし、ただ時が過ぎるのを待つ。
「家に帰ろうか・・・。いや、ここからやったら学校に行った方が近いかな。」
しばらく考え込み、学校に向かうことを決めて自転車を押した。パンクした前輪は妙な音を立てながら回転し、腕が疲れてきて立ち止まった。
「しんど・・・・。自転車重いわ。」
スタンドを立てて路肩に駐輪し、歩道に腰掛けて項垂れる。
「やっぱ・・・ギリギリに家を出たらあかんよな。もっと余裕をもって行動せんと。」
余裕をもって行動する。よく親や教師から言われるが、どうにもピンとこなかった。
「余裕ってなんやねん。そんな時間を作ろう思ったら、計画的に行動せなあかんっちゅうことやんか。そんなんまっぴらごめんやな。」
ポケットを漁り、砂糖が解けて歪な形になった飴を舐める。なんだかもう学校にも行きたくなくなってきて、このままどこかへ散策に出かけようかと思い始めていた。
「自転車・・・・置いていくわけにはいかんよな。重いけど持っていこか。」
ハンドルを握って自転車を押し、来た道を引き返す。そのすぐ隣を大型トラックが駆けて行き、路肩に止まっていかついおっさんが降りてきた。
「兄ちゃん、大丈夫か?」
「え?」
「それ、パンクしとんとちゃうんか?学校に行く途中なんやろ?」
ベージュのツナギを着たおっさんは、ツカツカと俺の方に寄って来る。そして身を屈めて自転車を調べ始めた。
「ああ・・・前がパンクしとんやな。」
フニャフニャになった前輪を指で押し、膝に手をついて立ち上がる。
「この近くに自転車屋があったやろ?運んで行ったるわ。」
「いや、大丈夫です・・・・。」
「大丈夫って、パンクしとるやないか。学校遅れるで?」
「・・・もう時間過ぎてるんです。いっつも遅刻しとるから、このまま行きたあないなあって思って。」
顔を逸らしながら恥ずかしそうに言うと、おっさんは小さく笑った。
「気持ちは分かるけど、このままやったらあかんやろ。ええから助手席に乗れ。おっちゃんが運んで行ったるから。」
「・・・いや、ほんまに大丈夫です。」
「ほなどないすんねん?このまま自転車押して学校に行くんか?ここからどれくらい距離があるんや?」
「・・・・・七キロくらい?」
「そら遠いで。そこまでこれ押して行くつもりか?」
「体力に自信あるから大丈夫です・・・・・。」
おっさんは困ったように笑い、何も言わずに俺を見つめた。
「ケータイは持ってへんのか?家に電話かけて、親に迎えに来てもらうとか。」
「持ってません・・・。」
「ほなこのまま自転車押して行くんか?」
「・・・・・・はい。」
俺は顔を真っ赤にしながら、サッとハンドルを握る。小さく頭を下げ、そそくさとその場を後にした。
かなり歩いてから後ろを振り返ると、おっさんはトラックと一緒に消えていた。
「・・・・・・・・・・・・・。」
申し訳ないことをしたと思った。せっかく善意で助けてくれたのに、それを無碍にしてしまった。
心の中で何度も詫びながら、俯いたまま学校まで歩いて行った。
校門に着いた頃には九時半を回っていて、一時間目の授業が終わる直前だった。今から教室に入るのはためらわれ、駐輪所に自転車を置いて下駄箱に向かった。
ジャージを着た生徒たちが校舎の周りを駆けていき、ダラダラと汗を流しながら白い息を上げている。
冬になれば、体育の時間はもっぱらマラソンになる。球技は嫌いだが個人競技は好きで、特にマラソンは大のお気に入りだった。
一人で黙々と走っていると、余計な葛藤が吹き飛ばされていく。頭に渦をまく様々な考えが整理され、心地の良い疲れが身体をほぐしてくれるのだ。
「体育の授業・・・全部こういうのやったらええのに。球技なんか絶対にやりたあないわ。」
中学の時に原口から受けた傷は、まだ鮮明に残っていた。サッカーにしろソフトボールにしろ、チームで戦う球技にはとうてい慣れることは出来なかった。
青いジャージを着て走る生徒たちを眺めていると、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「今のうちや。」
二時間目までの休憩時間は五分。その隙に、何事もなかったかのように教室に入ればいい。
担任にはあとで事情を言いに行こう。パンクしたという理由なら、きっと納得してくれるはずだ。
サッと上履きに履き替え、カバンを担いで廊下を走っていく。俺の教室は三階にあるので、息を切らしながら階段を駆け上がっていった。
一旦息を整え、廊下に出て様子を窺う。何人かの生徒が廊下で談笑をしていて、その横を通り抜けながら自分の教室に入った。
その途端、中にいた生徒が一斉にこちらを見た。
「・・・・・・・・・・・。」
残念ながら、まだ授業は終わっていなかった。英語の本を持った若い女の教師が、「清水君」と小さく笑う。
「どうしたん?篠山先生から何も連絡なかったけど・・・。」
篠山とは俺の担任である。英語教師の文田は、本を閉じて「座り」と手を向けた。
生徒から向けられる冷たい視線を掻い潜り、真ん中の後ろにある席に座る。
・・・・居心地が悪い・・・・・。
何人かの生徒はまだ俺のことを見ていて、無機質な視線を飛ばしていた。
「じゃあこれでお終いです。」
文田の声が掛かると、学級委員長の岸本が号令をかけた。全員で立ち上がって授業の終わりの挨拶を済ませ、文田は俺の方に手招きをする。
「どうしたん?なんかあった?」
それは問い詰めるような口調ではなく、ただ純粋に疑問に思って尋ねた様子だった。
「自転車がパンクして・・・・。」
「そうなん?じゃあどうやってここまで来たの?」
「自転車を押して来ました・・・・。」
文田は驚いたように目を見開く。わざとらしく「はああ・・・」などと口にし、頷きながら小さく笑った。
「それ篠山先生に言うとき。今やったら職員室にいると思うから。」
「はい・・・。」
それだけ言って文田は教室を出て行く。俺は一旦自分の机に戻り、カバンの中身を机に移した。
「お前なに遅れとんどいや。」
後ろからバシンと肩を叩かれ、テニス部の藤沢が俺の机に手をつく。
「ちょっとパンクしてな。」
「パンク・・・・あかんやっちゃなあお前は。」
「そんなん俺のせいちゃうで。タイヤが悪いんや。」
「ちゃんと空気入れてたんか?」
「この前入れたから、もともとタイヤが弱ってたんとちゃうか?自転車漕いでて、急に遅くなった時は焦ったもん。」
藤沢はなかなかの気のいい奴で、「ダッサ!」と笑いながら嘘のない心で俺を馬鹿にする。
それが心地良くて、俺も「うっさい」と返した。
「今からイーグルアイの所に行って来るわ。遅刻した理由言わなあかんねん。」
「三時間目でええやん。どうせ体育なんやから。」
「早い方がええやろ。もうじき大学受験なんやし、内申書に関わるやん。」
「ウソつけ!お前そんなん気にしてへんやろ。」
「まあな。」
笑いながら立ち上がり、教室を出て職員室に向かう。確か次の授業は数学だったはずで、口うるさい教師が来るので早く戻らないといけない。
階段を下り、下級生の教室の前を通り抜けて職員室の前に立つ。ノックをして「失礼します」とドアを開けると、すぐ近くの席に篠山はいた。派手なジャージに日に焼けた肌。机にはイーグルアイと呼ばれる所以の、大きなサングラスが置いてあった。
「先生。」
声を掛けると「おお」と振り返り、書き物をしていた手を止めて俺を見上げる。
「すいません。通学途中にタイヤがパンクして。」
それを聞いた篠山は苦笑いし、「どうやって来たんや?」と不思議そうに尋ねた。
「自転車を押して来ました。」
「どの辺でパンクしたんや?」
「ええっと・・・あの緑色の壁のパン屋がある所からです。」
「あんな所から自転車押して来たんか!」
篠山は腕を組んで可笑しそうに笑い、「帰りはどうするんや?」と真顔で尋ねる。
「・・・・考えてません。」
「ほな家に電話かけろ。誰か車持ってる人おるか?」
「兄ちゃんが休みやったら・・・多分。」
「ほな今から電話せえ。これ使ってええから。」
篠山は自分の机の電話を引っ張り、受話器を寄こしてくる。「すいません」と頭を下げながら受け取り、家の番号をプッシュして誰かが出るのを待った。
「・・・・・・・ああ、おじいちゃん?修輔やけど、今兄ちゃんおる?」
『浩哉か?ちょっと待って。』
受話器の向こうから『浩哉!』と呼びかける声が聞こえる。何度か呼んでいたが、どうやら兄はいないようだった。
『もしもし?今おらんみたいや。』
「分かった。ほなまた後でかける。」
電話を切り、「いないみいたいです」と受話器を返す。
「また昼休みにでもかけてみい。あいつも仕事しとんやろ?」
「はい。それじゃ失礼します。」
俺の兄もこの高校に通っていて、三年の時は篠山が受け持っていた。身内を知られているというのは、なかなか恥ずかしく、そしてやりにくい・・・。
頭を下げて篠山の机を後にし、職員室を出る前に時計を確認した。
「やばい。エッキスが来てまう。」
エッキスとは口うるさい数学教師のことで、Xのことをエッキスと発音するのでつけられたあだ名だ。いつも短い竹の棒を持っていて、数学の教師でありながら歴史を引き合いに出して説教をする。
俺は一目散に廊下を駆け、全力で教室まで戻った。
「・・・・・・・・・・。」
教室の手前に、ちょうどエッキスが来ていた。やばいと思いながら、頭を下げて脇を通り抜ける。
「こら、何しとんじゃ。授業始まる前に教室入っとかんかい。」
「すいません・・・・。」
慌てて教室に入り、息を整えて自分の席に座る。窓際の離れた席から、藤沢がニヤニヤと意味不明な笑いを飛ばしてくる。
俺も笑いを返し、数学の教科書を出して勉強をしているフリをした。
エッキスの話は退屈で、まったく内容が頭に入ってこない。いかにも真剣に授業を受けている様子を装い、窓の外に目をやった。
校庭に立ち並ぶ木々は、冬の寒さに葉を落としていた。空は晴れているのか曇っているのか分からない状態で、薄い光が膜のように覆っていた。
・・・・冬か・・・これもええ季節や・・・・・。
景色は色をなくし、命は過酷な冷気に晒される。強く生きる者、そして生き残ろうとする執念を持つ者だけが乗り越えられる季節。
人間のように文明を持たない生物にとっては、毎年訪れる試練の時だった。
それはまるで、受験のようにふるいに掛けられることを意味する。怠惰な者や、生命力の無い者は、次なる春を迎えることが許されない。過酷な試練を耐え抜いた者だけが、暖かい春の陽射しに祝福される。
大きな動物も小さな動物も、いや、植物だって、この季節を乗り越える為に、自分なりの戦い方で奮闘している。
土の中で眠る者もいれば、木の皮を齧って飢えをしのぐ者もいる。校庭の木々は光合成を放棄し、ただ夜明けの時が来るのを待っていた。
生き残る為の戦いは様々。眠りについてもいいし、食えるものは何でも食べるという方法でもいい。どちらにせよ、生き抜く為の戦いに変わりはないのだから。
もし自分がそういう世界の中に放り出されたら、いったいどうなるのだろう?三日ともたずに死ぬか、それとも執念で長生きしてみせるか。
そればっかりは、そういう状況になってみないと分からない。しかし・・・生き抜く自信はほとんどなかった。
自然が好きなくせに、その過酷さに耐えうる強さは、きっと俺にはない。
美しいだけが自然ではなく、時に鬼のような厳しい顔もみせる。ならば野生の生き物たちは何故、この過酷な環境を生き抜こうとしているのか?
今年の冬を越えても、また新たな冬がやって来る。延々と続く決まりごとの中で、人間以外の生物たちは、いったい何を思って生きているのだろう?
それが本能だというのはたやすいが、ではなぜそんな本能を持ったのか?それに対する答えなんて、きっとどんな学者でも持っていない。
生き抜こうとする本能や、死に抗おうとする本能は、科学的にいえばDNAに書き込まれているからだろう。
じゃあなんで、そういう情報がDNAに書き込まれているんだろう?死を恐れるのは、種の繁栄を成功させる為かもしれない。それならば、なぜ生き物は繁栄しようとするんだろうか?いったい、いつ、どこで死を恐れるようになり、種族の繁栄を願うようになったのだろう?何が目的で、そういう情報がDNAに書き込まれているのだろう?
・・・・・・・・分からない。まったく分からなくなってきた。
頭の中は激しい渦を巻き、全ての思考がとっ散らかったように拡散していく。
「おい清水、何ボケっとしとんや?」
エッキスが竹の棒で教卓を叩き、切れ長の目で睨んでくる。
「お前ちゃんと聞いとったか?」
「・・・・はい。」
「ほな前へ出てこの公式解いてみい。」
そう言って黒板に書かれた、わけの分からない数式を叩きつける。
「・・・・・・・・・・・・・。」
言われるままに前へ出て、白いチョークを渡される。公式を見つめたまま立ち尽くし、何も出来ずに時間が流れる。
「どうした?早よ解かんかい。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
嫌味な奴だ。解けないことを分かっていながら、じっと俺のことを睨んでいる。このままではラチがあかないので、素直に謝ることにした。
「・・・すいません。聞いてませんでした。」
「そうやろ?なんで授業聞かへんねん?数学嫌いか?」
「・・・・ボーっとしてました。」
「だから何でボーっとしとったんか聞いとんや。数学が嫌いなんか?」
エッキスは数学というものに、異常なこだわりを持つ。そのクセに説教をする時は歴史を引き合いに出すのだから、わけの分からない性格をしている。
案の定、エッキスは歴史を引き合いに出して説教をしてきた。豊臣秀吉がどうのとか、徳川家康の苦労だとか・・・・。果ては息子がやっている歴史ゲームの話にまで及び、いったい何を伝えたいのか分からなくなってきた。
クドクドとした説教を聞き流し、神妙な顔をつくって頷いてみせる。藤沢は笑いを堪えながら見つめていて、なんだか俺も笑いそうになってしまった。
「なにをニヤニヤしとんじゃ!話を聞かんかい!」
竹の棒を教卓に叩きつけ、般若のような形相で唾を飛ばす。・・・・分かったから、いい加減終われよ・・・。お前の脇、汗でべちょべちょなんだよ・・・。
下手に怒らせてしまったせいで、クドクドと説教は続く。どうでもいい話を延々と聞かされ、そろそろしんどくなってきた・・・。
「なんやその態度?誰が休め言うた?」
「・・・はあ。」
「はあって何や?ちゃんと人の話を聞かんかい!」
「・・・うっさいんじゃエッキス。」
「なんやて?」
エッキスは耳を向けて顔をしかめる。どうやら本当に聞き取れなかったらしい。しかし俺の呟きを聞いた生徒は、クスクスと笑い出す。
「何をわろとんじゃあ!」
激しい怒号を飛ばし、思い切り竹の棒を叩きつけるエッキス。教室はシンと静まりかえり、重い空気が降りる。
「もうええ・・・座っとけ。」
エッキスは棒でしっしっと俺を追い払い、教科書を睨みつけて、淡々と授業を進める。
はっきり言って、エッキスは悪い教師じゃない。少々気難しいところはあるが、授業は熱心だし、数学を愛する気持ちも伝わって来る。
だから・・・悪いのは俺なのだ。ちゃんと授業を聞いていないのだから、怒られるのは当たり前で、不遜な態度は失礼というものだ。
しかし・・・・それすらどうでもいい。ちゃんとしているとか、していないとか、人の話を聞くとか聞かないとか、その全てがどうでもいい。
幼い頃から人に興味がなく、自分の感じていること、自分の考えていることにしか興味がなかった。エッキスには申し訳ないと思うが、俺にとって数学なんてどうでもいいのだ。
その後のマラソンだけは頑張ったが、それ以降の授業はやはり退屈していた。昼休みに兄に電話を取り、学校まで迎えに来てくれるという。
午後の授業を何とか乗り切り、掃除を終えて校門まで出る。藤沢が「じゃあな」と手を振り、ジャージ姿でテニスコートに駆けて行った。
「元気やな。よう部活やる気力なんかあるわ。」
テニスコートでは数人の部員がラケットを振っていた。藤沢もそれに混じり、仲間とラリーを始めていた。
それをボケっと眺めていると、「修輔」と声を掛けられた。後ろを振り向くと、ボンボンと音のうるさい黒い車が止まっていた。いかにもヤンキーが好みそうな車高の低い車で、その中から茶髪で背の低い男が出て来る。
「パンクしたんやって?」
兄は可笑しそうに笑い、タバコを片手に煙を吹かしている。
「緑のパン屋のとこでパンクしてもた。」
「緑のパン屋?・・・ああ、あそこか。」
「だからずっと手で押して来たわ。」
「そらすごいな。」
大して興味もなさそうに言い、「帰ろか」と車の中に戻って行く。
「パンクした自転車はどうしたらええ?」
「ああ・・・俺の車に積まれへんからなあ。今度の土曜に軽トラでも借りて持って帰ろか。」
「分かった。ほな置いとくわ。」
助手席に乗り込み、タバコの煙を逃がす為に窓を開けた。車内には洋楽のロックが大音量でかかっていて、思わずリズムを刻んでしまう。
兄は灰皿にタバコを押し付け、アクセルを踏み込んで急発進させる。
「あ、でも・・・明日はどうやって来たらええんやろ?」
今日は木曜日。明日一日は、学校へ来る足がなくなってしまう。
「俺の昔の自転車使えや。ギアは付いてへんけど、まだ動くはずやから。」
「あのボロい自転車動くん?」
「いけるやろ。」
適当な受け答えで会話は終了し、爆音のロックを聞きながら家に帰った。
その日の夕方、犬を散歩に連れていった。柴だか雑種だかよく分からない犬で、俺が小学生の頃に拾ってきた。
犬を飼うのは禁止のはずだったのに、なぜか許可が下りて飼うことになった。そして俺とこの犬とは馬が合った。
「リン、河原の下で放したろ。」
赤いリードを引っ張って公園を横切り、土手を越えて河原に向かう。堤防の下にはどこの国の植物か分からないものがたくさん生えていて、すぐ目の前さえ見えないほど高く伸びていた。
「あんま遠く行ったらあかんで。」
リードを外すと、リンは嬉しそうに茂みの中へ消えていった。俺も後を追うが、さすがに犬の足には適わない。もうもうと生える高い草木を押しのけ、なんとか河原の傍まで辿り着いた。
「水が多いな、雨も降ってないのに。ダムの水流したんやろか?」
川の上流には大きなダムがあり、その近くに母方の実家がある。毎年正月になればよく行っていたが、三年ほど前から一度も行っていない。
「小さい頃は、おばあちゃんの家に行くのが楽しみやったけどなあ。カニとか虫とかようさんおって、見てるだけでも楽しかったわ。」
祖母の家を思い出し、その周りに広がる田園風景を思い描く。山間に立っている祖母の家は、それは美しい自然に囲まれている。
山から流れる水が家の庭を通り、夏でもひんやりと冷たい。
あの田園の光・・・・あの水の輝き・・・・そして山の木々の匂い・・・・・。目を閉じるだけで、鮮明に思い浮かぶ。自然に抱かれているいような心地良さを感じ、身体から力が抜けていく。その時、ふと思った・・・・・。
自分の中にある違和感が、突然消失し始めたのだ。あれほど俺を振り回し、痛いほど胸が疼いた違和感が、何かで中和されたように弱くなっていく。
「これは何やろ・・・。なんか胸の中がスッとする感じがするな。」
モヤモヤとした違和感はなりを潜め、代わりに硬い何かが心に置かれているように感じた。
「・・・・まあええわ。俺もそろそろ普通になって来たってことかもしれんな。」
自分は明らかに周りから遅れている。常にそう思っていた。中学を卒業し、高校に入って大学受験を目の前にしているのに、未だに成長しない自分に焦りを覚えていた。
それもこれも、全てはあの違和感のせいだと思っていた。もしそれが無くなってくれるなら、止まっていた自分の時間が動き出すかもしれないと、密かに期待していた。
「変わるかもしれん・・・・。周りは夢やら彼女やら持ってるのに、俺だけ何も無いままやったから・・・これから変われるかもしれへん。」
なんだか嬉しくなってきて、河原の石をステップしていった。遠くにいるリンが鼻をヒクヒクさせ、何かの臭いを嗅いでいる。
「リン!変なもん食うなよ。また腹壊すぞ。」
軽快に石の上を飛び越え、リンの元に向かう。何を食べているのかと覗きこんだら、鳥の死骸を舐めていた。
「アホ!病気になるぞお前!」
リードを掴んで引き離し、河原を出て土手に上る。離れた場所から見る川はとても綺麗で、艶やかな黒い塊がゆるゆると滑っている。。
「消えていくんや・・・違和感が・・・。嬉しいのに、寂しいと感じるのはなんでやろう。」
心にぽっかり穴が空いているように感じた。その穴の中に、何か硬い物が置かれている。
この硬い物さえなければ完璧なのに・・・・。
そう思っても在るものは仕方なく、自分の力では動かしようがなかった。またいつか、あの違和感が蘇るかもしれない。そうなる前に、俺も人並みにならなければ、きっとこの先行き詰ってしまう。
ぼんやりと自分の未来を想像し、リードを引っ張って帰っていった。
その夜、二階でテレビを見ていた。毎週見ている海外ドラマで、くたびれた感じの刑事と、知的な雰囲気の女性刑事がコンビを組んだ、SF仕立てのミステリーだった。
オープニングに好きなミュージシャンの主題歌が使われているので、どんなもんかと興味を惹かれて見てみたが、これがなかなか面白い。
ある時は人間の犯罪、しかしある時は謎の現象が引き起こす惨劇。その正体は未知の生物であったり、宇宙人であったりするのだが、俺は未知の存在が引き起こす、異常現象の話が好きだった。現実には有り得ない怪物が、人間の常識を上回って怪奇現象を引き起こす。
きっと、この世には科学で説明のつかないことはたくさんある。地底に宇宙人のUFOが眠っているとは言わないが、それでも理屈で説明のつかないことは、確かにある。
エッキスの授業中に考えていたことだって、科学では説明がつかないのだ。
繁殖を促す遺伝子、死を回避しようとする遺伝子。どうしてそんなものを持ったのか、いくら科学が進もうが説明できやしない。
死を恐れるのは、死を怖がる遺伝子があるからだなんて、何の説明にもなっていないのだ。
死を怖がり、それを避ける遺伝子を持とうとするということは、それ以前に死を恐れる何かがあるということだ。そうでなければ、死を怖がる遺伝子なんて持つはずがないのだから。では、その何かの正体とは・・・・・?
「分からへん・・・。いくら考えても堂々めぐりや。」
答えの出ない思考を、一旦脇にどかす。画面に映し出される不思議な生物を見つめ、膝を抱えて顔をうずめた。
「現実は、すぐそこにある。でも、そうじゃない世界があるとすれば、それはいったい何何やろな。」
ドラマの中では、主人公の刑事が化け物に襲われている。下水道に住むゾンビのような化け物に、危うく殺されそうになっていた。
もし犬の散歩中に、川からこんな化け物が出て来たらどうするか?頭の中ならいくらでも戦えるが、いざ現実に遭遇したとなれば、何も出来ずに逃げ出すだろう。
この現実の世界に興味がないクセに、もし架空の化け物が現れたら・・・きっと消えてくれと願うに違いない。
「こんなこと本気で考えたってしゃあないな。おらんもんはおらんのやから、出会うことなんかないんや。戦うも逃げ出すもあらへんやん。」
そうは思っても、やはり化け物のことを考えてしまう。それを振り払う為に机に向かい、やりたくもない受験勉強と向き合った。
もう試験まで時間がない。いくらやりたくないことでも、一応は試験を受けるのだから、やれるだけのことはやっておきたかった。
「ちょっとレベルの高いところやから、受かるかどうかは分からへんけど・・・。何もせずに落ちた方が悔しいもんな。」
苦手の英語を克服するため、ひたすら問題集を解いていく。同じ言語でも、国語は得意だが英語は苦手だ。文法の違い、順序の違い、そもそも言葉の違いからして辟易とする。
そのせいで悪い点数ばかり取っていた。これを克服しなければ、きっと大学には受からない。なぜ大学に行かなければならないのかは分からないが、とりあえず行かないといけないらしいから、勉強せざるをえない。
「・・・・・めんどくさ。めんどくさいわ、勉強。」
集中出来ないながらもペンを走らせ、なんとか問題集を解いていく。一通り終わって答え合わせをするが、結果は散々なものだった。
「あかんな、全然出来へん。」
同じ問題を繰り返し解き、とにかく頭に叩き込んでいく。数をこなせば質になる。そのことは高校受験の時に経験済みなので、勉強を繰り返すことに迷いはない。
だが・・・・めんどくさい・・・・。
何とか英単語を頭に叩き入れようとするが、先ほどの化け物が蘇ってきて手を止めた。
「あれは空想のもんや。現実には絶対におらん・・・。でも、そんなこと言うたらドラゴンとか妖怪はどうなるんやろ?そういうのだって絶対におらんけど、みんなが知ってるのはなんでや?誰も会ったことないのに、その存在は知ってるんやもんなあ。」
不思議だった・・・。いないはずのものを、どうして誰もが知っているのか?本や映画で見たからなのか?誰かから聞いたからなのか?いや、きっとそうに違いないんだろうけど、誰しもの頭の中に浮かぶということは、この世に存在していることにはならいないのか?
「人の頭の中は、この世と違うってことはないはずや。だって、人間がこの世の・・・、いや、現実のもんなんやから。」
人間は現実の世界に生きる、確かな存在。なら人間の頭の中だって、現実のものであるはずだ。それなのに、その頭の中にあるドラゴンや妖怪は、空想の存在だ。
これは・・・・矛盾ではないのか?それとも本当は、人間なんてものが空想のものなのか?
実は・・・・俺たち自身が、形を持たない幻のような存在なのか?
取りとめのない考えが暴走し、胸の中の硬いものが動き出す。
「・・・今動いたな・・・。確かにコトコト動いたで・・・。この硬いやつ、大人しいしてないやんか・・・。ただの置物ちゃうでこれ・・・。」
胸に手を当て、じっと触覚を研ぎ澄ます。感じるのは胸の鼓動だけで、それ以外の感触はまったくない。
確かに感じた、あの硬いものの動きは、手の平では捉えられなかった。
「あかんな。普通に触っても無駄や。予想はしとったけど・・・・。」
確かに感じた硬いものの動きは、どんなに神経を集中させても感じ取れない。いや、正確には触覚では触れられないといった方が正しい。
「分かっとった。これは五感では感じ取られへんもんなんや。でも・・・確かにある。俺が・・・俺自身が感じとるんやから、絶対にあるんや。」
モヤモヤとした違和感は消え去った。その代わり、しっかりと形を持った何かが生まれた。
いや、生まれたというより、形を変えただけかもしれない。
消え去ったモヤモヤとした感覚。生まれた確かな感覚。それはしっかりと心の底に根を張り、重量を持った陽炎のように佇んでいた。
 

手の平の裏側 第一話 違和感

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:41
生まれた時から、常にある種の違和感があった。
それは言葉で語るには難しく、かといって感覚的に悟るのも無理があるようなものだった。
誰だって大人になるにつれて、子供の頃に抱いていた不思議な感覚は消えてゆくのだろう。
不思議なことを不思議なことと感じなくなり、未知なる存在に対する興味が失せていく。
もしそうでなければ、およそ人の世で生きて行くのは難しいように思う。
社会に溶け込むには自分を殺す必要があり、あらゆる疑念に目を逸らす必要がある。
いや、目を逸らすというより、そういう感性を消し去る能力がいるのかもしれない。
ならば・・・もしその能力に欠陥があったとすれば、現代の社会では一人前の大人と認められないことになる。
目に映る当たり前の不思議、言葉では語れない感覚的な現象。己の内側に広がる、果てしない宇宙・・・・。
そういうものに対して盲目的になることが、普通に働き、普通の人間として暮らして行く必須条件なのだろう。
ならば・・・・俺は間違いなく社会不適合者ということになる。
真面目に生きねばという葛藤・・・、しかし消えてくれないある種の違和感・・・。
己の外に広がる世界と、己の内に広がる世界は、絶え間ない衝突を続けているのだ。
自立し、自己の生活を確立している人間から見れば、俺はさぞぐうたらな人間だろう。
しかし・・・・考えれば考えるほど、己の外に広がる世界のことはどうでもよくなる。
ただ海を見ている時、ただ無限の宇宙を見上げている時、そういう時だけが、自分が自分であるという、一種の確信がある。
・・・・・全てはただの言葉であるが、それ以外に今の自分を言い表す術が無い。
まるで重荷を背負わされているように息苦しく、しかし海や宇宙を見つめている時は、その重荷が翼に変わる。
そう・・・この肉体が無ければ、今すぐにでも自分の望む世界へ飛んでいける。それは死を望むわけではなく、この現実の世界と隣り合わせに存在する、空想の世界へと旅立つことが出来ることとを意味する。
俺が望むのはただ一つ・・・・この世界を飛び出し、隣り合わせに存在する空想の世界へ行くこと。
今年で三十二歳。俺はこの歳になって、本気で妖精を信じている・・・・・。


            *


校舎の端に位置する音楽室から、青く茂る山が見えている。
先生が指導するリコーダーの音階も忘れ、ただその山に見入っていた。もうすぐ高校受験だが、出来ればあの山の麓にある高校に行きたい。地元では有名な進学校で、何よりいつでも山が見えるのがいい。
しかし残念ながら、俺の学力では遠く及ばない学校である。受験の申し込みはすでに済ませてあり、それは隣町にある辺鄙な地方都市の、何の面白味も無い場所に立っている高校であった。
教師から、ここならばお前の学力でも充分に受かると勧められた。幸い県立高校であるから学費の負担は少ないが、俺はそんな学校に行きたくなかった。だって・・・全然あの山が見えないじゃないか。
生まれた時から、常に傍にあった、あの原生林の覆い茂る美しい山が・・・・・。
ボケっとしたまま授業は終わり、教室に戻って体操着に着替える。次の授業は体育で、俺の苦手なサッカーをするのだ。
「おい清水。お前向こうのチームにいけや。俺んとこいらんから。」
「うん・・・。」
サッカー部でゴールキーパーを務める原口が、陰険な目で睨みつける。その取り巻きの連中も、俺を馬鹿にしたように冷たい視線を向けていた。
原口は取り巻きを連れて下駄箱に向かい、何が楽しいのかニヤニヤしながら運動場へ駆けて行く。
「・・・俺だってお前のチームなんか行きたあないわ・・・・。」
顔を真っ赤にして、泣きそうになるのを我慢しながら着替えていく。すると後ろからポンと肩を叩かれ、「シミっちゃん。気にすんなや。」と笑いかけてくれる友がいた。
「別に気にしてないよ。」
「あんまり肩に力入れんと、適当にボール蹴っとったらええんや。困ったら俺にパス回し。」
原口と同じサッカー部の浅野は、しまりのない顔でニコニコと笑う。
「そうそう、みんな原ちゃんのこと嫌ってるから、シミっちゃんだけ嫌ってんちゃうで。」
そう言って陸上部の伊原も声を掛けてくれる。
その言葉のせいで、俺はかえって泣きそうになる。でも涙が見られるのが嫌なので、あくびをするフリをして誤魔化した。
「ほな行こか。今日は掃除ないから、これ終わったらすぐ帰れるで。」
浅野が先頭を歩き、伊原に「早よ」と促されて後をついていく。運動場では体育教師の長部が待ち構えていて、恰好を付けたサングラスをかけて屈伸をしていた。
「ほな整列。今日の委員長、前へ出て掛け声。」
柔道部の顧問でもある長部は、ドスの利いた声で言う。本日の委員長である山口が前に出て、声を出すのを恥ずかしそうに準備運動の号令を掛けていく。
この時の俺は、心臓が口から飛び出しそうになるほど緊張していた。いや、毎回体育の時間になると、鉄の塊を背負わされたように身体が重くなるのだ。
でも・・・本当に重りが乗りかかっているのは、身体ではなく心の方だと知っている。
浅野も伊原も良い奴だが、やはり原口には逆らえない。サッカーの授業が始まれば、原口の独壇場と化し、俺はいつも攻撃の的にされる。
「ほな偶数と奇数に分かれてチーム組め。ゴールを決めた者には2ポイント。アシストを決めた奴には1ポイントや。」
いったい何のポイントか分からないが、これは長部の口癖だ。そしてこの意味不明なポイントを稼ぐために、無駄にやっきになる者がいる。それが原口だった。
頭が悪いクセに、今さら内申点を稼いだところに何になる?お前なんかいくら頑張っても、高校進学すら危ういのに・・・・・。
心の中ならいくらでも悪態がつける。しかし面と向かって言う勇気など持ち合わせていない。そして長部の適当なチーム分けのせいで、毎回原口のチームに組み込まれるのだ。
偶数と奇数で決めるチーム分けとは、出席番号のことである。俺の番号は16番。原口の番号は10番。必然的に原口と同じチームになってしまう。
口の中が渇き、何を言われるのかと気が気でなくなる。すると案の定、原口は俺を睨みつけて舌打ちをした。
「またお前入ってるし・・・・いらん言うんたやん・・・。」
これ以上ないくらいに不機嫌そうに言い、取り巻き連中と愚痴を言い合う。
《文句があるなら長部に言えや・・・。俺だってお前見たいなアホと組みたあないんじゃボケ・・・。》
この時点で、俺の目には涙が溜まっている。我ながらなんと弱いのだろうと嫌になるが、やはり原口に逆らう勇気は湧いてこない。
サッカーの授業が始まり、センターラインからボールが動く。俺は邪魔にならないように端に寄り、なるべく目立たないように気配を消していた。
この時注意しなければならないのは、浅野に見つからないことだ。あいつは優しさとおせっかいを勘違いしていて、無理矢理ボールを回して来る。
そうなれば地獄というもので、すぐに原口の罵声が飛んでくる。今日こそは何も罵倒されずに終わりたい。そんな儚い望みもむなしく、アホの浅野は「シミっちゃん!」と叫んでパスを寄こして来る。
「・・・・・・・・・・・・・・。」
パニックになる・・・。こちらへ転がって来るボールがスローモーションに見え、いったい何をどうしていいのか分からなくなる。咄嗟に蹴り出した足がボールを払い、サイドラインを越えて、敵のフリースローとなった。
「ああ、もう!だからお前はボールに触んなや!」
「・・・・・・・・・。」
いったい何がそこまで悔しいのか、原口は顔を真っ赤にして怒る。「ほんまお前いらんわあ」と罵られ、何度も舌打ちをされてしまった。
「浅野も清水にパス回すなや。ロクなこと出来んのやから・・・。」
「ごめんごめん。」
浅野はヘラヘラと笑い、俺の肩を叩いて「もっとリラックス」なんて抜かしやがる。
・・・・帰りたい・・・。今すぐここから消えてしまいたい・・・・。
俺は長部の元ヘ走り、「トイレに行かせて下さい」と頭を下げて運動場を抜けだした。
涙を堪えてトイレに駆け込み、悔しさと惨めさで壁を叩いた。
「ボケが!うっさいんじゃ原口!浅野もパス回すなや!」
何度も何度も壁を叩きつけ、拳が赤くなってくる。堪えていた涙があふれ出し、そこへ別の生徒が入って来て個室に隠れた。
「・・・・・・・・・・・・。」
気配を悟られないようにじっと息を殺す。もしここで気づかれたら・・・もしここで泣いていることがバレたら・・・それは死ぬほど恥ずかしい・・・・・。
守る必要すらないプライドを守り、ただただ時間が過ぎるのを待つ。そして誰もいなくなったところでトイレを出て、一目散に校門へ走った。
「・・・アホちゃうか・・・たかがサッカーの授業で・・・。あんな球ころ蹴って何がおもろいねん・・・。十五にもなってアホとちゃうか・・・・。」
悔しさを誤魔化す為に相手を罵り、自分のサッカーが下手くそなことを棚に上げる。
学校を出て壁にもたれ、遠くにみえる青い山を見つめた。
「・・・あそこ行きたい・・・。ずっとあそこにおれたらなあ・・・・。」
そんなことは無理だと分かっていても、どうしても抗えない想いが強くなる。人が集まる場所、人が競う場所・・・・どうしても昔から馴染めなかった。
いったいどうして競う必要があるのか?どうしてあんな球蹴り遊びで馬鹿にされなければいけないのか?考えれば考えるほどどうでもよくなって、フラフラと山の方に向かって歩いていた。
住宅の並ぶ細い路地を通り抜け、川沿いの大通りに抜け出る。そこを右に曲がり、真っ赤に塗られた長い橋を渡って行く。
俺の住むこの街は、川を挟んで大きく様相が異なる。中学校のある川東は、住宅地と低いビルが密集する地方都市。そして橋を渡った川西は、城下町の面影を残す、情緒と自然が溢れる観光地だった。
俺は自分の住む川東より、下町の情緒と自然が残る川西の方が好きだった。
橋を渡って階段を下り、城下町の細い路地を散策していく。突き当りの塀に沿って流れる小川には、放流された鯉が泳いでいた。
「まだおるんやなあ。この前の大雨で流されたと思ってたけど・・・・。」
幼い鯉が生きながらえていることに、ホッと胸をなで下ろす。
「ほなな。死んだらアカンで。」
鯉に手を振り、細い路地を進んで長い坂道に出る。かなり勾配がキツイ坂道だが、これを上ればお気に入りの場所に出る。
サッカーの授業などいくら元気があってもやりたくないが、好きな場所へ続く坂道なら、何の苦もなく上れる。
若干息を切らしながら上までのぼりきると、二手に道が分かれていた。
「右行くか・・・真っすぐ行くか・・・・どうしよ・・・・。」
右に行けば、あの美しい山へ辿り着く。真っすぐ行けば、小さな動物園と見晴らしのいい遊歩道に出る。
「迷うな・・・・・どうしよ・・・・。」
しばし立ち止まって考える。同じ場所でグルグルと回り、優柔不断に決めかねていた。
「まあええわ。先に動物園に行こ。クマ見てからでも山は上れるわ。」
二手に分かれた道を真っすぐ行くことに決め、小さな動物園の入り口に入る。門のすぐ近くには猿の入った檻があり、俺に気づいて木の枝から下りて来る。
「ごめんな。今日はおやつ持ってないねん。また土曜日に持って来るから。」
檻に手を掛けてじっとこちらを見つめる猿に手を振り、左手にある階段を下りてクマの檻に向かう。
そして柵で区切られたギリギリのラインまで近寄り、その逞しい身体に見惚れた。
「ええなあ・・・クマは・・・。ずっと見てても飽きへんで。」
まん丸な身体に、艶やかな黒い毛。そして大きな顔の割に、つぶらで可愛い瞳。頑丈な四肢には小ぶりな鉈のような爪が生えていて、それがこの動物を猛獣であることを印象づける。
「お前もな・・・ほんまなに山におりたいんやろ?こんな狭い場所グルグル回ってさ。いくら回ったって、どこにも行けへんねんぞ?」
大きなツキノワグマは俺を一瞥し、興味もなさそうにそっぽを向く。そして「ふんふん」と鼻息を荒くしながら、糞の散らばった狭い獣舎を歩き回っていた。
「可哀想になあ・・・。お前、どこの山から連れて来られたんや?ここで生まれたわけと違うよな?」
クマは何も答えず、ただ獣舎の中を歩き回っている。それを繰り返せば、いつかどこかへ行けると思っているのか?それともただのストレスからくるものなのか?
クマでない俺には、このクマの気持ちは計りかねた。
「しゃあないよな。こうやって檻に閉じ込められてしもたんや。もしここから脱走したらえらいことになってしまう。銃持ったおっさんとか、警察とかが出て来てズドンや。」
不自由な檻の中で、確実な生を取るか?それとも危険を冒してでも、自分の行くべき道を取るか?やはり・・・この時の俺には計りかねた。
「分からんわ・・・。俺な、ずっと昔からこうやねん・・・。なんかな、周りに上手く合わせられへんから、友達が出来ても家に誘ってもらえへんねん。教室では仲良う喋ってくれるのに、学校が終わったらみんな知らんぷりやねん。これって俺が悪いんかな?声掛けたら、みんな遊んでくれるんやろか?」
返って来るはずのない言葉を投げかけ、ひたすらクマの動きを眺めていた。黒い獣は下を見つめながら延々と歩き、時折クルリと方向を変えていた。
「逆に回ったって無駄やで。いくら歩いても出られへんわ。」
切ない気持が胸を満たし、これ以上見ているのが辛くなってその場を去った。
「・・・なんや、嫌な気分になってしもた。先に山の方に行っといたらよかったな。」
自販機がある休憩所で腰を下ろし、じっと空を見上げる。
「あの空の中に何かあると思うんは俺だけやろか?なんか・・・あの中には手を伸ばしても届かん何かがあるような気がするんやけどなあ・・・。」
さすがに十五にもなれば、これが曖昧なイメージの錯覚だと自覚するようになる。
しかし・・・・それでもこの奇妙な感覚は消えない。今この目に見えている向こう側に、決して手の届かない別の世界があるような気がしてならなかった。
「すぐそこに感じるんやけど・・・・妙な気分や。無いけど在る。そんな気がしてしゃあないわ。」
自分でも何を言っているのか分からず、独り言も馬鹿らしくなって口を噤む。しばらく休憩所のベンチで佇み、「よっしゃ!」と膝を叩いて立ち上がった。
「山登ったろ。今日は晴れてるから、川の向こうまでよう見えるはずや。」
二手に分かれていた道まで戻り、山へと続く細い道を上っていく。途中にある神社に頭を下げ、大昔に作られた茶室を後にして山道の入り口に向かった。
「今日はちょっと風が強いな。崖を登る時は気いつけんとな。」
山道は大きな木立に囲まれていて、中腹までは石造りの階段になっている。そこから上は険しい獣道で、途中は切り立った崖になっていた。
右足を一歩・・・階段に乗せる。トントンとスニーカーで踏みしめ、跳ね返って来る石の感触を確かめる。
「硬いな・・・当たり前やけど。」
何度も登っている山であるが、ここに来るとたまに不気味な感覚に襲われる。言うなれば、夜の神社の鳥居をくぐるような、ある種の覚悟が必要になる。
「入ったらあかん場所ってあるからな・・・。今日は大丈夫やろか?」
しばらく階段を登り、じっと佇んで山の気配を感じる。不気味な時は足が前に進まないが、今日はすんなりと階段を登っていけそうな気がした。
「うん、大丈夫や。山の神様は怒ってはらへん。」
山道の入り口で頭を下げるの忘れていたので、頂上に向かってサッと会釈する。
「お邪魔します。」
パンパンと手を叩き、じっと目を瞑って挨拶をする。
「・・・・・・・・・・・・・・。」
山には神様がいる。ずっと小さい頃からそう感じていた。それは決して見ることも出来ないし、触れることも出来ない。そもそも、特に人間に関わろうとしない。だけど・・・きっと神様がいる。それは確信に近かった。
「山でええ加減なことしとったらバチが当たる。なんとなく・・・そういう気がするな。」
緑のジャージの腕をまくり、深呼吸をしてから山道を登り始める。途中にある湧水で手を洗い、ついでに顔も洗った。
「ああ・・・ベチョベチョや・・・。ハンカチもないし。」
濡れた手をブラブラとさせ、ジャージで顔を拭う。石の階段は遥か先まで続いていて、このまま登って行けば、どこか別の世界に出られそうな気がした。
「そんなわけないって分かってるけど、期待してしまうよなあ・・・。」
・・・・違和感・・・・・。
ここは俺のいる場所じゃない。確かに俺はこの世界に立っているけど、それでも決して拭えない違和感がある。
「これって病気なんかな?俺だけ周りから置いて行かれてるような気がするんやけど。」
中三にもなれば、彼女のいる奴もいるし、初体験を済ませている奴もいる。遊び方だって変わっていくし、自分だけが時間の渦に取り残されているように感じた。
現実の世界は目まぐるしく変化していて、留まることなく流れていく。その波に乗れないのなら、周りから置いて行かれても仕方のないことかもしれない。
「どっかおかしいんや、俺は。きっと・・・おかしいんや・・・・。」
なぜかは分からないが、急にボロボロと涙が溢れて来た。大好きな山を登っているはずなのに、ズクズクと心が痛み出して泣いていた。
自分でも意味が分からない涙。何が悲しいのか、なぜ心が痛むのか・・・・まったく分からずに泣いていた。
涙を拭きながらひたすら山を登り、険しい獣道を歩いて行く。切り立った崖を注意深く進み、かつて城が立っていた頂上までやって来た。
本丸はとっくの昔に無くなっているが、石畳はそのままに残っている。青い苔が覆い、ツルツルと滑って転びそうになる。気をつけながら先へ進み、木立の開けた場所まで歩いた。
「・・・ええ景色や・・・。川が流れてて、遠くまで山が広がってる。その合間に小さい町があって、たくさんの人間がおるんや・・・。」
石畳に腰を下ろし、じっと頂上からの景色を眺める。こういうふうに遠い景色を眺めていると、どう頑張っても言葉に出来ない何かが流れ込んでくる。
それは柔らかく身体を包み、心に疼く傷に染みていく。零れていた涙が止まり、代わりに別の涙が溢れてくる。
それは悲しみの涙とは違い、身体の奥底から湧き出る熱い感情だった。膝を抱えてうずくまり、目を閉じて項垂れる。
人間は・・・・嫌いだった。友も嫌いだし、親なんかもっと嫌いだ。
こちらの話を聞きもせず、ただ自分のことだけをベラベラ喋る親が嫌いだった。だから小学六年生の時から、ほとんど口をきいていない。
向こうは・・・俺のことをどう思っているのだろう?厄介な手のかかる子供だと思っているのだろうか?それとも・・・・。
いくら考えてもキリがなく、またどうでもよくなって顔を上げる。ゆっくりと立ち上がってお尻を払い、険しい山道を下りていく。
この山に来ればスッキリ出来るはずだと思ったのに、心の渦はさらに加速していく。言いようのないギリギリとした痛みが、万華鏡のように胸を砕いていく感触があった。
「・・・怒られるな・・・学校戻ったら・・・。このまま、どこか遠くへ旅に出よか。」
山道を下りて城下町まで戻り、川沿いの通りに出て車を眺める。
赤く塗られた大きな橋を歩き、途中で足を止めて対岸の景色を見つめた。
「昔の蔵がある・・・。あそこにはほとんど行ったことないけど、何があるんやろな。」
橋を渡って階段を下り、通り沿いに続く蔵の壁を眺める。ずいぶん朽ちた風情だが、それは歴史の重みを感じさせる重厚な朽ち方だった。
「ツタが巻いているし、あちこちヒビも入ってる・・・。」
ペタペタと白い壁を触り、ひんやりとした感触を確かめた。
「不思議やな・・・。こんだけ陽が照ってるのに、冬みたいに冷たい。中に何かあるんやろか?」
高い壁を見上げ、ヒビの入った瓦に手を伸ばしてみる。指の先端がわずかに触れて、壁と同じようにひんやりとした感触があった。
「これ・・・登れへんかな・・・。ちょっと中に入ってみたい。」
回りを見渡すと、すぐ近くに大きな木が生えていた。川沿いの道路に根を張っているその巨木は、何百年も昔から生えている、地元では有名な木だった。
根の周りは車が進入しないように舗装されていて、中に土が敷かれている。巨木は道路からはみ出し、川に向かって大きな枝を投げ出している。その身には青々とした葉を茂らせていて、蔵の壁より高く伸びていた。
どう見ても車の通行の邪魔なのだが、歴史ある遺産として市が保護している大木だった。
「あの木・・・・上に登ったらいけるかな?」
巨木に近づき、そっと手を触れてみる。その樹皮は硬く割れていて、長年の月日を感じさせる皺が刻まれていた。
「まるで木の中に血が通ってるみたいやな・・・。この木はなんか温いな。生きてる者の温度っていうか・・・鼓動みたいなもんを感じるわ・・・。」
その温もり、その鼓動、きっと自分の錯覚だろうと思った。木に血は流れていないし、鼓動も刻まない。それなのに、温度と鼓動を感じるのはどういうことか?
「これは木が出してるもんとちゃう。俺が感じとんや。俺が勝手に・・・・。」
知っていた。木は何も伝えない。人間に対して、何かを伝えようとすることはない。ならば・・・この温もりと鼓動は、俺の内側から出て来ているものだ。
その時・・・ふと妙な感覚を覚えた。上手く言葉に出来なかった違和感が、少しだけ形を持ったように感じた。
しかしすぐに砂のように崩れ去り、またいつもの違和感に戻っていく。
「なんやったんや、今のは・・・・・。」
若干の気味悪さを覚えながら、躊躇いがちに木に登った。太い幹から枝が伸び、蔵の屋根まで続いている。
落ちないように慎重に進み、何とか蔵の壁の屋根まで辿り着いた。
「瓦がグラグラしてるな・・・。ちょっと怖いけど・・・。」
四つん這いで瓦にしがみつき、壁の向こうを見下ろす。大きな蔵は壮年の威厳を感じさせる佇まいで、まるでその中に財宝でも蓄えているようだった。その周りには狭い庭が広がっていて、高い草を茂らせていた。
「こっから飛び降りても大丈夫やろか・・・。」
迷いながら足を伸ばし、ずるずると滑り落ちるように庭に降り立った。高い草が行く手を阻むように立ちふさがり、冒険心をくすぐられながら蔵の扉へ近づいていった。
「なんかドキドキするな・・・。もしかしてすごい財宝とかあったりして。名刀とか小判とか・・・・・。」
ムクムクと妄想を膨らませながら、息を飲みつつ扉に手を掛ける。丸い取っ手は茶色に錆びていて、触れただけでもボロボロと表面が崩れ落ちた。
「ボロイなあ・・・。でも鍵はかかってないみたいや。ちょっとドキドキするけど・・・。」
扉は重かった。しかし開かないことはない。足を踏ん張り、体重を掛けて引っ張る。
古い木で出来た扉は左右に開かれ、蔵の中に光が射しこんだ。
「・・・・・・・・・・・。」
好奇心と恐怖感を持って中を見つめ、ゆっくりと一歩を踏み出す。蔵の中には小さな窓があり、檻のように鉄格子が嵌っていた。そこから光線状に光が射し、土の床を白く照らしている。
「・・・・・・・・・・・。」
誰もいるはずがないのに、息を殺して中の様子を窺った。蔵は外から見たよりも狭く、一目で中に何も無いことが分かった。
「なんや・・・絶対に何かあると思ったのに。つまらんわ。」
期待していた分、落胆は大きかった。ため息を吐くほど拍子抜けして、熱が冷めるように興味が引いていく。
「刀とか小判とか・・・絶対にあると思ったのに・・・。しょうもな。」
吐き捨てるように言い、周りに一瞥をくれてから外に出る。
しかしふと思いついたことがあり、再び中に戻った。
「この中に閉じ込められたらどうなるんやろ?扉を閉めたら雰囲気が変わりそうやな。」
開いた扉に手を掛け、ギチギチと軋む音を鳴らしながら閉めていく。外から差し込む光が細くなり、扉が閉められるのと同時に暗闇が押し寄せて来た。
「怖・・・・。ごっつい不気味や・・・・。」
鉄格子の小さな窓から光が射し、それがかえって不気味だった。光が照らす地面を睨みつけ、そっとその場所に立ってみる。
「・・・なんか、足元だけ温くなってきたな。」
白いスニーカーが光を反射し、まるで輝いているように見える。そっと膝をついて靴に触れ、驚くほど暖かいことに気づいた。
「なんやこれ・・・まるでコタツに入ったみたいに温くなってる。なんでや?」
指でスニーカーをなで、その暖かさを確かめる。そして光の射す小さな窓を見上げてみた。
「・・・・・・・・・・・・。」
何かと目が合った・・・。大きな丸い目が二つ、じっとこちらを見つめている。一瞬悪寒が走るが、その丸い目の正体が分かって安堵に変わった。
「猫か・・・・びっくりした・・・・・。」
ホッと胸をなで下ろし、立ち上がって窓に近づく。
「首輪してないな。野良猫か?」
そっと指を差し出すと、キジトラの大きな猫はササッと逃げていった。
「怖がりやな。何もせえへんよ。」
窓から顔を覗かせると、猫は立ち止まってこちらを睨んでいた。尻尾をピンと立てて警戒し、じっと俺の様子を窺っている。
「そんな怖がらんでええよ。こっちおいで。」
笑いながら語りかけると、猫は尻尾を立てたまま悠々と歩いて消えていった。
「行ってもた・・・。首輪してなかったけど、毛艶がええから飼い猫なんかな?」
しばらく猫が去った方を見つめ、窓から離れて蔵の中を見渡す。
「扉を閉めても、ただ暗くなっただけや。」
扉を閉めれば、この中が別の空間に変わるのではないかと密かに期待していた。しかしその期待はあっさりと裏切られ、強力な力で現実に引き戻される。
「もう出よか。何もおもろいことなんかなかったわ。」
扉を開け、中に入ったことがバレないようにきっちりと閉める。そしてその時、とても重大な問題に気づいた。
外から入る時は木を伝って来られたが、中から出るにはどうしたらいいのか分からない。蔵の壁はかなり高く、その上にはボロい瓦が乗っかっている。下手に手を掛けてよじ登ると、瓦が落ちて怪我をしそうだった。
「どっかに出口とかないんかな?猫が逃げた方に行ってみるか。」
蔵を回って庭の裏手に出てみる。高い草が邪魔をするが、足で踏みつけて折っていった。
「これだけ草が高いってことは、長いこと誰も入ってないんやろな。ここって元々は何があったんやろ?」
刀もない。小判もない。それどころか、ゴミ一つない蔵だった。せっかく頑張って中に入ったのに、なんだか肩透かしをくらったような気持ちになって落ち込んだ。
「もうとっくにサッカーは終わってるな。今頃学校では騒ぎになっとんちゃうやろか。」
勢いで学校を抜けだしたものの、冷静になってみると怖くなってきた。学校から生徒が姿を消したのだから、きっと大騒ぎになっているに違いない。そう思うと、ここから出たくないという気持ちに駆られた。
「出て行ったら怒られるだけや。こんな所におってもしゃあないけど、やっぱり外には出たあないなあ・・・。」
憂鬱な気分を抱えたまま、再び蔵の前に戻る。腰を下ろして膝を抱え、伝って来た大木をそっと見上げた。
「あの木・・・こうして見てても不思議な感じがする。この蔵と何か関係があるんかな?」
あの木に触れた時に感じた、暖かい温もりと、脈打つような鼓動。その感触は、この手の平が確かに記憶していた。
あれは木から発せられたものではない。あの木に触れて、自分の中から出て来たものだ。
きっとそれは、超能力や霊能力といったいかがわしいものではなく、常に自分の中にあった違和感から生まれたものだった。
「この正体・・・突き止めなあかんな。これをどうにかせん限り、俺はダメな奴のままな気がする。」
蔵の前にもたれかかり、じっと目を瞑る。どれだけそうしていたのかは分からないが、やがて夜がやって来た。星がまたたく夜空を見上げ、ふと違和感が揺れ始める。
それがとても心地良くて、ギュッと手の平を胸に当てた。
この温もりは・・・自分の体温。この鼓動は自分の心臓。でも・・・あの大木から感じた温もりと鼓動は・・・もっと脆いものだった。
手を伸ばせば消えてなくなるような、儚いものだった気がする。
夢心地の気分は、全身を包むように暖かくなっていく。もしここで生きることを放棄すれば、星のまたたく夜空に昇れるんじゃないかと思った。いや・・・そうであってほしいと願った。
「いつか・・・あの宇宙に吸い込まれて、ここじゃないどこかへ行きたい。外国とかそんなんじゃなくて、こことは違う世界へ・・・・・。」
自分の肩を抱き、膝に顔をうずめて丸くなる。全てをここじゃない世界に委ねるように、何もかも崩れて溶けてしまいたい気分だった・・・・・。
その翌日・・・俺は学年主任の教師に発見され、思い切りビンタされた。学校に戻ってからは長部にも殴られ、家では両親から叱責を受けた。
全ての大人が俺に言った言葉・・・・『どれだけ心配したと思っているんだ?』
その時、俺の頭に浮かんだ返し文句は一つだけだった。
・・・・・知るか。

新しい小説を書きます

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:39
新しい小説を書きます。手の平の裏側という小説です。
ちょっと変わった小説ですが、よかったら読んで下さい。

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