稲松文具店 最終話 去る者と残る者(2)

  • 2014.09.12 Friday
  • 19:33
サッと大人の本を隠し、誰かと思いながらドアを見つめる。すると「こんにちわ」と微笑みながら、課長が顔をのぞかせた。
「ああ、課長!どうぞどうぞ!」
思わずテンションが上がってしまい、意味もなくそわそわする。
「どう、背中の具合は?」
「ははは、みんな同じことを聞きますね?」
「みんな?他にも誰か来てたの?」
課長はベッドの横の椅子に座り、買い物袋を置いた。
「さっきまでたくさん来てたんですよ。箕輪さんに溝端さん。それに子供たちと祐希さんも。」
「そうなんだ。じゃあ入れ違いになっちゃったんだね。」
「ええ。でも課長一人の方が、千人のお見舞いより嬉しいですよ。」
「そんなこと言っちゃダメよ。せっかくお見舞いに来てくれてるんだから。はい、これ。退屈してるかなと思って。」
そう言って買い物袋を俺に差し出す。
「ああ、ありがとうございます。」
俺は笑顔で受け取り、中を覗き込んだ。
《果物にジュース・・・それに何か雑誌が入ってるな・・・。まさか課長も大人の本を!・・・いやいや、そんなはずはない。課長がそんな物を差し入れるはずが・・・。》
緊張しながら袋の中を漁ると、毎週呼んでいるマンガ雑誌が出て来た。
「ああ・・・マンガか・・・よかった・・・。」
「それ、いつも読んでるやつでしょ?仕事場に同じ雑誌が積み上がってたから。」
「そ、そうです!いやあ嬉しいなあ・・・あははは!」
ああ・・・よかった!大人の雑誌が出て来たらどうしようかと思った・・・。
「それで、背中の具合はどう?この前に来た時はまだ痛むって言ってたけど?」
「今は大丈夫ですよ。それより課長の方こそ大丈夫なんですか?あの騒動の後始末で忙しいんじゃ・・・・。」
「うん・・・まだ全部終わったわけじゃないけど、一応のカタはついたから。そのせいで段田さんが全てを背負い込むことになったけど・・・。」
「あのおっさんが?どうしてですか?」
そう尋ねると、課長は膝の上に視線を落としながら答えた。
「今回は色々と大変なことがあったでしょ?中には警察沙汰になるようなことまで・・・。」
「ええ・・・なんたって隼人は人質まで取ったんですからね。刑務所に入れられたっておかしくありませんよ。」
「そうだね・・・。でも今回の事に、警察は一切関与していないの。なんでか分かる?」
「それは・・・稲松文具が事を外に漏らさないようにしたからでしょ?」
「それもあるけど、完全に情報が漏れるのを防ぐなんて無理よ。だって冴木君を刺したあの女将さんが捕まってるでしょ?
彼女・・・自分の知っていることは全て話したみたいなの。」
「ああ!そういやそうだった・・・。あの人がベラベラ喋ったら、全てがバレるわけだ・・・。」
自分を刺した張本人なのに、その事がすっかり抜け落ちていた。すると課長は可笑しそうに笑いながら、「忘れてた?」と首を傾げる。
「頭からすっぽり抜け落ちてましたよ。でも・・・そうなると隼人は逮捕されるってことじゃ・・・。」
「ううん。兄さんは何も背負わないわ。全てを背負うのは・・・段田さん一人だけ。」
「どうしてですか!あのおっさんだって隼人に利用されてただけなんですよ?黒幕が野放しじゃ意味ないじゃないですか。」
「そうだね・・・。でも現実はそうなってるの。捕まったあの女将さんは、全ての真相を知っているわけじゃないのよ。
あの日あの旅館で起きたことだけを話しているだけだから、今回の騒動の核心は分かっていない。兄さんに指示されて旅館を任されていただけだからね。」
「任されるっていうか、ただの留守番でしたけどね。」
「あの女将さんも過去に罪を犯しているから、身を隠す場所が欲しかったのよ。それが奪われたから、逆恨みで冴木君を刺したわけだけど・・・。」
「いいとばっちりですよ、まったく・・・。」
そう言ってから、しまったと思って口を噤んだ。
「ごめんね。守ってあげられなくて・・・。」
「い、いえいえ!そういう意味で言ったんじゃないですよ!課長が落ち込まないで下さい。」
イカンイカン・・・今はこの話はタブーだった。なぜなら、課長は毎回こんなふうに申し訳なさそうにするから・・・。
「ええっと、俺のことはどうでもいいんですよ。それで・・・なぜ段田さんが一人で全てを背負うことになったんですか?」
「彼は今回の騒動を丸く収める為に、自分を犠牲にしたのよ。あの女将さんが色々と喋っちゃったから、このままだと稲松文具にも警察の捜査が入るでしょ?
なんたって主犯が社長なんだから。」
「そりゃそうですね。そうなれば今回の騒動の核心だって外に漏れます。みんなが必死に守ろうとしていた、北川家の秘密のことが・・・・。」
課長は大きく頷き、膝の上で組んだ手をじっと見つめていた。
「そうなればうちの会社は終わりだから、会長は何としても警察の介入を阻止しようとしたわ。
そこで段田さんに全ての責任を押し付けて、会社を守ったっていうわけよ。」
「それ酷いですよ!あの人だってある意味じゃ被害者なのに!」
段田は確かに腹の立つ男であったが、根っからの悪人というわけではない。ただ弱みを握られて利用されていただけなのだ。
それなのに・・・・どうして彼が全てを背負い込まないといけないのか。だんだんと腹が立ってきて、思わず舌打ちをしてしまう。
すると課長は顔を上げて俺を見つめた。
「実はね・・・この事は段田さんが自分から進んでやった事なの。」
「あのおっさんが自分から・・・?」
「段田さんはあの旅館の騒動が終わってから、真っすぐに会長の元に向かったのよ。そして・・・全ての責任を自分に押し付けてくれって言ったそうよ。」
「あのおっさんが、そんなことを・・・・・。」
確かにあのおっさんは悪人ではないが、普通はそこまでするものだろうか?やっぱり会長から指示されたとかじゃないのか?隼人と同じように、昔の罪をネタにされて・・・。
「段田さんがどういうつもりでああいう行動に出たのかは分からない。でも・・・最悪の事態は予想してたみたいよ。」
「最悪の事態?」
「もし今回の騒動が外に漏れるような事態になれば、自分が全ての罪を背負う覚悟をしていたらしいの。そして・・・まさに予想していた最悪の事態になった。
女将さんがあの旅館での出来事を喋っちゃったから、、今回の騒動がバレそうになってる。それに兄さんは人質まで取ってるし、明君や優香ちゃんまで監禁してたでしょ?
だからいくら会長がコネを使ったとしても、完全には誤魔化せない。そこで段田さんが・・・・・、」
「スケープゴートになることを選んだと?」
「うん・・・。自分が全部やったことにして、それで収めるつもりなのよ。
幸い女将さんは今回の騒動の核心を知らない。だからあの旅館の一件だけで事を止められれば、稲松文具に捜査が入ることはないわ。」
「なるほど・・・。それで、段田さんは今どうしてるんですか?」
「留置所にいるわ。」
「そうですか・・・。でも段田さんと女将さんとじゃ、証言に食い違いが出てくるじゃないですか?警察はそのことをどう思うんですかね?」
そう尋ねると、課長は「それは心配ないと思う」と呟いた。
「会長のコネっていうのが、元検察の国会議員なのよ。多分、名前を出したら冴木君も知ってる人よ。」
「そんなすごい人のコネですか・・・?」
「その人に口を利いてもらえば、ある程度は丸く収まると思う。でも女将さんの証言もあるから、一から十まで何も無かったことには出来ないのよ。だから段田さんが犠牲になったわけ。」
課長は瞳を揺らしながら切ない顔をみせる。全てをの責任を一人の人間に押し付けて終わらせることが、釈然としないんだろう。
でもだからといって本当の事を話せば、自分だけの問題では済まなくなる。疲れの見えるその目は、激しい葛藤を抱えているように思えた。
「なるほど・・・・。でも、それでもやっぱり納得出来ないな。あのおっさんは指示されて動いていただけなのに、どうして一人で全てを背負い込む必要があるんです?
ちょっとカッコつけ過ぎじゃないですかね?」
「・・・そればっかりは分からない。自分が犠牲になることを選んだ理由は語っていないから。でも・・・これは私の勝手な考えだけど、きっとみんなを守る為だったんじゃないかな?」
「みんなを守る為・・・ですか?」
「もし全ての真相がバレてしまったら、捕まるのは兄さんだけじゃない。冴木君だって・・・・タダでは済まなくなる。」
そう言って、課長は強い目で俺を見つめる。
「いくら法的に裁くのが難しいとはいえ、冴木君はその超人的な記憶力で他社の情報を盗み出したのよ。それが世間にバレたら・・・きっと厳しく責められると思うわ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「もちろん冴木君だけが悪いんじゃない。黒幕は兄さんだし、私や祐希さんだって関わってる。スパイに関わった人たちは、私も含めて社会的な制裁を受けることになるはずよ。
だから・・・段田さんは自分一人で背負うことにしたんじゃないかな?あの人も・・・出口を探しているように思えたから・・・。」
「出口・・・?」
「今の自分から抜け出す出口よ。いくら兄さんに脅されているとはいえ、悪事の代わりに見返りをもらっていたんだから。
正直なところ・・・そんなに仕事が出来る人じゃないのに、専務の椅子に座っているのを不思議に感じてたから。」
「・・・・・・・・・・・。」
「段田さんは、今の自分のあり方に疑問を持っていたんだと思う。でもキッカケがないからズルズルとそのまま行っちゃって・・・あんなふうになっちゃったのよ。
溝端さんだって自分の出口を探していたから・・・きっと段田さんも同じだったんじゃないかな?まあ私の勝手な想像でしかないけどね。」
そう言って、課長は肩を竦めてニコリと笑う。
課長は相変わらずのお人好しだった。でも・・・それこそがこの人の最大の魅力なんだ。
「・・・俺もそう思います。いや、そう思うことにします。だって・・・段田さんのおかげで、俺たちは助かったんだから。」
一通りの話を終え、課長はふうっと息を吐く。
「やっぱり疲れてますね。今日はもう家に帰って休んだ方がいいんじゃないですか?」
「そうしたいけど、まだまだ忙しいから。」
疲れた目でニコリと笑い、ポンと俺の手を叩いて立ち上がる。
「今日はこの事を伝えに来ただけ。冴木君もまだ怪我人なんだから、ゆっくり休んだほうがいいよ。」
「はい、そうします。早く怪我を治して・・・・課長とデートしないといけないから。」
目を逸らして照れながら言うと、課長は「そうだね」と笑った。
「冴木君の怪我が治って、私の方も一段落ついたらデートしよう。楽しみにしてるね。」
「ええ!それはもう楽しみにしてますよ、ええ!」
「ふふふ、それじゃ・・・また来るから。ゆっくり休んでね。」
課長は眩しい微笑みを向け、ベッドに手をついて立ち上がる。すると「あれ?」と首を傾げ、じっと手元を見つめた。
「枕の下から何か出てるよ?」
「え?枕の下から・・・・・って、ぬああああああ!」
課長の指さした先には、大人の本が半分くらい顔を出していた。
《・・・しまった・・・慌てて隠したもんだから・・・はみ出てたのか・・・。》
慌てて枕を被せると、今度は反対側から別の大人の本が出て来た。
「ぬああああああああ!」
俺は枕の上に覆いかぶさり、課長の目から大人の本を隠す。そして・・・恐る恐る後ろを見上げた。
「・・・・・・・・。」
課長は顔をしかめ、ブルブルと拳を震わせていた。
《や・・・やばい・・・。最悪の失態だ・・・。》
「あ・・・あの・・・これはですね・・・先ほどの見舞客が勝手に置いていったもので・・・。」
嫌な汗がダラダラと背中を流れていく・・・。ああ・・・ここで嫌われたら・・・デートどころではなくなる・・・。もう二度と口をきいてもらえないかもしれない・・・。
課長の顔はどんどん険しくなり、やがて顔を逸らして俯いてしまった。
「・・・・・・・・・。」
「・・・あ・・こ・・・これは・・・その・・・。」
「・・・ぶッ・・・ぶふ!・・・・あはははははは!」
課長は腹を抱えて大笑いし、涙をためて天井を見上げていた。
「あはははは!冴木君・・・・ごめん・・・でも・・・あははははは!」
《なんだ?どうして笑っているんだ?てっきり怒られるか嫌われるかと思っていたのに・・・なぜ?》
課長は苦しそうに顔をゆがめ、ひたすら笑っている。そして息を切らして俺を見つめ、「ごめん・・・」と涙を拭った。
「だって・・・いきなりそんな物が出て来るとは思わなかったから・・・。」
「・・・す・・・すいません・・・・。」
「謝らなくてもいいよ。でも・・・ちょっと驚いたかな。冴木君ってそういうのに興味が無い人だと思ってたから。でもやっぱり男なんだね。なんだか安心しちゃった。」
「あ・・・安心・・・ですか?」
顔を真っ赤にしながら尋ねると、課長は笑いを堪えながら口を開いた。
「だって、冴木君ってあまり異性に興味がないのかと思ってたから。」
「そ、そんなことないですよ!それはもう・・・・ビンビンにありますよ、ええ!」
「ふふふ・・・前に箕輪さんと付き合ってるって勘違いしたけど、あの時はそうじゃないって知ってショックだったの。
冴木君てどこかふわふわしてるところがあるから、ずっと心配だったんだ。でもそうやってちゃんと女の人に興味があるんだって知って、ちょっと安心した。」
「そ・・・、それはどういう意味ですか・・・?」
「私ね、冴木君ってなんだか手のかかる弟みたいに感じてたの。だからずっと気にかけてたんだ。この子はこの先ちゃんとやっていけるのかなって?
でも今回の騒動で、やっぱり男の子なんだなって見直したわ。だってあんなに堂々と兄さんと戦ったんだもの。
それに・・・そんな本もちゃんと読むんだって知ったら、なんだか安心しちゃって。ごめんね、大笑いしちゃって。」
「あ・・・ああ・・・いえ・・・。」
課長は微笑ましそうな目で俺を見つめ、「それじゃ、ゆっくり休んで」と肩を叩いた。
「あ・・・あの・・・課長!」
「何?」
「いや・・・・実は・・・・。」
実は・・・・俺、課長の事が好きなんです!・・・とは言えないよな・・・。
今までずっと優しくしてくれたから、もしかしたら課長も俺に気があるんじゃないかと思っていたけど・・・どうやら誤解だったようだ。
なるほど、俺のことを弟として見ていたのなら、あれだけ優しくしてくれたのも頷ける。
だって・・・異性として見ていないってことなんだから・・・。
なんかデートをする前にあっさり撃沈された気がするんだけど・・・これはただの卑屈かな?
「どうしたの?じっと考え込んで?」
「・・・・・・・・・。」
「冴木君?」
「え?ああ!いや・・・その・・・あ、そうそう!アレを聞きたいと思っていたんですよ、オウムのことを。」
「オウム?」
「ええ、課長言ってたじゃないですか。オウムで情報を集めたわけじゃないって。だから・・・実際はどうやって隼人や溝端さんの情報を集めたのかなと思って・・・。」
「ああ、あのことね。」
課長は腰を下ろし、小さく微笑みながら答えた。
「あれはね、私の友達に協力してもらったの。」
「課長の友達ですか?」
「うん、実はこの人もすごく変わった人で、ある意味じゃ北川家の女性よりすごい能力を持っているの。」
「北川家の女性よりすごい能力?ってことは、また現実離れした能力ってことですか?」
「そうね・・・すごく現実離れしてる。けど・・・すごく面白い能力よ。私は北川家の能力なんて欲しいと思わないけど、彼の能力ならほしいもん。
だって・・・・大好きな動物と喋れるんだから。」
「動物と・・・喋れる?」
「まるで人間と会話をするように動物と話せるんだって。私も何度か彼に助けてもらったことがあって、それから仲良くさせてもらってるの。
だから・・・私のすごく大切な友達。それにちょっと憧れてるところもあるんだ。動物に対して親身になれるところとか、誰かの為に頑張ろうとする優しさとか。」
課長はいつもの表情とは違い、一人の女性らしい顔をみせる。
「それでね、その彼に相談したら、オウムを使ったらいいって言ってくれたの。兄にオウムをプレゼントして、後で自分に渡してくれれば、オウムの得た情報を聞き出すからって。
そしてそれをオウムに教え込んで、会長の前で披露してやればいいって提案してくれたの。
そして作戦は大成功。みんなオウムの言葉を信じ切っちゃって、あたふたしてたからね。」
「そりゃすごいですね・・・。動物と話せる力か・・・そんな力だったら、欲しがる人はいっぱいいるでしょうね。」
「うん!私だってほしいもん。でね、溝端さんの情報は、彼の飼っているインコに協力してもらったの。
彼女の情報に関しては、別に誰かの前で喋らせる必要はないから、わざわざオウムを使わなくてよかったってわけ。
彼のインコ、チュウベエっていうんだけど・・・この子も中々のスパイの腕前なのよ。
普通の鳥に混じって近くに寄って来て、気づかれないように情報を集めるの。
でもインコだから・・・けっこう目立っちゃってるんだけどね。でもこのチュウベエのおかげで、溝端さんの情報を集められたわけよ。
そしてチュウベエの見聞きしたものを、動物と喋れる彼から教えてもらったの。」
課長は面白そうに喋り、普段とはまったく違う顔で笑っていた。その笑顔を見ていると、なんだか心の中がモヤモヤとしてきた・・・。
「・・・なんか・・・ほとんど反則級のやり方ですね。」
そう呟くと、課長は「そんなことないよ」と首を振った。
「私はそうは思わないな。あの時は本当にマズイ状況だったし、すぐにでも手を打たないとどうなるか分からなかったから。
だから彼に相談したんだけど・・・やっぱりそうして正解だった。動物と話せる力はもちろんだけど、普通の人じゃ考えつかないやり方を思いつく人だからね。
オウムを使って情報を集めて、それを人前で喋らせるなんて・・・普通はそんなアイデア出て来ないでしょ?」
課長は実に嬉しそうに喋る。いつもの張り詰めた表情とは違い、柔らかくて可愛らしい笑顔だった。
《きっと・・・きっとこれが課長の本当の姿なんだ。仕事の時には見せない、北川翔子っていう人間の姿なんだな・・・。》
そう思うと、課長の友達とやらに軽く嫉妬を覚えてきた。
《いつか・・・いつか俺だって課長にこんな笑顔で笑ってほしい。今は難しくても、いつかきっと・・・・。》
そう思いながら黙っていると、課長は「この話・・・信じられない?」と首を傾げた。
「いやいや、そんなことはないですよ。ただ・・・ちょっと驚いちゃって・・・。」
「そうよね・・・。でも世の中には変わった人がたくさんいるわ。冴木君だってその一人でしょ?」
そう・・・俺だって普通の人にはない力を持っている。未来が見えるとか、動物と話せるとか現実離れした力じゃなくて・・・もっと人間らしい力だけど。
でも、普通の人には絶対にマネの出来ない力でもあるんだ。
「課長、実は見せたいものがあるんです。」
「見せたいもの?何?」
俺はベッドの横にある引き出しを開け、中から一枚の絵を取り出した。
「これ・・・描いてみたんです。よかったら持って行って下さい。」
「これは・・・・兄さんの絵・・・。」
俺が手渡したのは、隼人が放心している時の横顔だった。俺との戦いに負け、自分の秘密を握られ、全てを失った時の横顔。
でも・・・余計なものが削ぎ落された、本来の隼人の顔。課長はじっとその絵を見つめ、ジワリと目を潤ませていた。
「これ・・・昔の兄さんの顔だ・・・。今みたいに歪んだ野心じゃなくて、本物の向上心を持っていた時の顔だ・・・。」
絵を持つ課長の手が震え、ポロリと涙が落ちる。こぼれた雫が絵に染み込み、指で目尻を拭っていた。
「課長、前に言ってたでしょ?もし俺が勝ったら、隼人の絵を描いてくれって。そして、それを見せて昔の兄さんを思い出してもらうんだって。
だから・・・よかったら持って行って下さい。役に立つかどうかは分からないけど、きっとあの男も何か感じるものがあるでしょうから。」
「・・・うん、ありがとう・・・。絶対に兄さんに見せるわ。今は死人みたいな顔したままだけど、これを見せたら・・・きっと何かが変わると思う。」
課長は再び目尻を拭い、その絵を大切そうにバッグにしまった。
「・・・それじゃ、もう行くね。まだやらなきゃいけない仕事が残ってるから。」
「はい。俺もしっかり休んで早く怪我を治しますよ。課長とのデートの為に。」
「うん、楽しみにしてる。」
課長は立ち上がり、笑いながら俺を見つめる。
「私ね・・・騒動の後始末が終わったら、この街を出ようと思うの。稲松文具からも北川家からも離れて、自分の力だけで自由に生きてみたい。
今までは家族や会社の為に生きてきたから・・・今度は自分の為に生きてみたいの。」
真剣にそう呟く課長は、旅立ちを願って空を見上げる鳥のように思えた。
「・・・そうですか。でもいいと思いますよ。課長は今まで散々苦労してきたんだから。ここらで自由にならないと、ね?」
「そう言ってもらえると嬉しい。冴木君も、ゆっくりと自分の人生を考えてみるといいよ。
すぐには答えが出なくても、いずれは出口が見つかると思うから。その時・・・私に協力出来ることがあったら何でも言って。必ず力になるから。」
「はい。」
しばらく課長と見つめ合い、照れ臭くなって顔を逸らした。
「それじゃ・・・また来るから。ゆっくり休んで、じっくり自分と向き合って。じゃあね。」
課長は笑いながら手を振り、カツカツと靴を鳴らして病室を出て行った。また部屋に静けさが戻り、途端に寂しさが押し寄せて来る。
「・・・なんか・・・落ち込むな・・・。色々とさ。」
身体から力を抜いてベッドに横たわり、窓の外を見つめる。
「課長はこの街を去ることを選んだのか。だったら・・・俺の恋は叶いそうにないな。」
家も会社も捨てて街を離れるということは、今は何にも縛られたくないということだ。
だったら・・・それを邪魔するようなことはしたくない。きっと、今はまだ俺の気持ちを伝える時じゃないんだ。
だって俺が俺自身のことを分かっていないんだから、そんなんで課長と付き合えることになっても、きっと長続きしないに決まってる。
それどころか、課長の足を引っ張ることになかねない。
「いいさ・・・今は人のことより自分の事だ。時間はたっぷりあるんだから、じっくり考えよう。」
退屈な入院生活は、自分と向き合うにはもってこいの時間だ。色んな事が渦を巻いて頭を悩ませるけど、それでも一つだけ決めていることがある。
「俺は・・・また稲松文具に戻る。退院したらもう一度面接を受けてみよう。正社員が無理なら、アルバイトでもいいし。」
窓の外に見える葉は、眩しいくらに青く染まっている。でも・・・これからもっともっと青く染まるだろう。暑い季節がやって来て、降り注ぐ光をたくさん取り込む為に・・・。
冴木晴香、二十三歳。未だ自分の道は見つからず。
けど、とりあえずこの街で生きていくことだけは決めた。いつまでいるか分からないけど、何かが見つかるまでは・・・ここで生きていく。
枕の下の本を掴み、そっと引き出しに隠す。そして顔まで布団を被り、暗闇に覆われて目を瞑った。


                     
                    -完-

 

稲松文具店 最終話 去る者と残る者(1)

  • 2014.09.11 Thursday
  • 15:11
病室の窓の外に、葉を茂らせた木が立っている。
もしあの葉っぱが全て落ちたら・・・俺は死ぬのかな。
「死ぬわけないでしょ、この馬鹿。」
稲松文具の制服を着た箕輪さんが、ペシリと俺の頭を叩く。
「また顔に出てましたか?」
「うん、思いっきりね。」
箕輪さんは切り分けたリンゴを俺に差し出す。
「はい、あ〜ん。」
「え?い、いや・・・自分で食べますよ!」
「あ〜んして。」
ギロリと睨まれ、素直に口を開けてリンゴを頬張った。
「・・・すっぱ!なんですかこのリンゴ?めっちゃくちゃすっぱいじゃないですか!」
「だって一個十円の安物だもん。あんたにはちょうどいいかと思って。」
そう言ってケタケタと可笑しそうに笑う。
「悪戯する為にお見舞いに来たんですか?」
「そうよ。ロッテンマイヤーさんの代わりに雇った子が、それはもう仕事の出来る人でね。
あんたみたいにミスもしないし、ロッテンマイヤーさんみたいに嫌味も言わないし。おかげで私はサボり放題ってわけ。」
憎たらしい顔で笑いながら、リンゴを頬張って「すっぱ!」と叫ぶ箕輪さん。するとそこへ明君と優香ちゃんが戻って来た。
「お姉ちゃん!ちょっと聞いてよ!」
優香ちゃんが箕輪さんの腕を掴み、ニヤニヤ笑いながら明君を指さす。
「お兄ちゃんね、売店でエッチな本見てたんだよ。」
「あら、そう?でも明君もそういう年頃だから仕方ないわよ。」
二人がケラケラと笑うと、明君は顔を真っ赤にしながら「ウソ吐くな!」と怒鳴った。
「エッチな本なんか見てないだろ!」
「見てたじゃん。週刊誌のいやらしい水着の写真を。」
「あ、あれは・・・ちょっとどんなもんかと開いただけで・・・。」
「あははは!いいじゃない。別に悪いことしたわけじゃないんだから、ねえ?」
「ねえ?」
箕輪さんと優香ちゃんは目を合わせて頷く。明君はブツブツ愚痴りながら、耳まで真っ赤にしていた。そして買い物袋を俺に差し出した。
「髭剃りってこれでいいですか?」
「おお、ありがとう。」
「あと優香が勝手にお菓子を買っちゃって・・・。ほとんどお釣りがないんですけど・・・。」
「いいよそんなの。お釣りはとっといて。」
差し出されたお釣りに手を振ると、優香ちゃんは「やったね」と手を叩く。明君は妹に説教を始め、箕輪さんも混じってワイワイと騒ぎ出した。
《これじゃ見舞いどころか、いい迷惑だよまったく・・・。でも一人で退屈するよりマシか。》
俺はまた窓の外を眺め、違和感の残る背中を撫でた。
今から十日前・・・・俺は人生で二度目の不運に見舞われた。
あの旅館の女将さんから、ブスリと背中を刺されてしまったのだ。
幸いすぐに病院に運ばれたおかげで大事には至らなかったけど、あの時は本気で死を覚悟した。
女将さんは俺を刺してからどこかへ逃亡していたが、翌日に警察に捕まった。
『やっと安心出来る場所を手に入れたのに、それを壊されたのが許せなかった。』
それが動機らしいが、これを逆恨みと言わずしてなんという?
あの人は前にいた旅館の金を横領していて、そこから逃れる為にあの旅館に身を隠していた。元はといえば自分が悪いクセに、よくもまあ人の背中を刺してくれたものだ・・・。
しかし・・・それ以上に印象的だったのが課長だ。救急車を呼んだ後、ずっと俺の手を握って呼びかけてくれていた。
いつもの冷静な課長とは違い、完全に取り乱していたな・・・。でも・・・そのおかげで俺は生きている。あの時、俺はきっと死ぬはずだったんだと思う。
身体から力が抜けて、意識が薄れていき、走馬灯さえ見えたのだから・・・。
人間っていうのは自分の死期が分かるもので、あの時は本当にここで死ぬのだと思った。
ここで俺の人生は終わる・・・・素直にそう感じたのだから・・・。
しかし課長はずっと俺の名前を呼んでくれていた。手を握り、頬に触れてずっと呼んでいてくれたんだ。だから・・・完全に闇に落ちる一歩手前で踏みとどまることが出来た。
もしあの時課長がいなかったら・・・・俺は確実に三途の川を渡っていただろう。
俺が今こうして生きていられるのは、間違いなく課長のおかげだ。
「ねえ、食べる?」
いきなり声を掛けられて振り向くと、優香ちゃんがスナック菓子を差し出していた。
「ああ、ありがとう。でも今は食事制限があるから、そういうお菓子は無理なんだ。」
「何でも食べられないってこと?」
「うん・・・もっとマシになるまではね。」
ナイフで刺された傷は、かなり深くまで達していた。腸の一部が傷つけられていたから、好きな物を食べることも出来やしない。
それにもう少しマシになったらリハビリも始まる。普通に物を食べて、普通に歩けるって幸せなことなんだと、思わず感慨深くなってしまう。
するとそこへもう一人の見舞客がやって来た。
「あら?みんなお揃い?」
そう言って病室に入って来たのは溝端さんだった。ジーパンにグレーのシャツ、そして薄いブラウンのジャケットを羽織り、買い物袋を手にしていた。
「これ差し入れね。あとで楽しんで。」
「ああ、ありがとうございます。ええっと・・・・・って、これエロ本じゃないですか!」
「そうよ。夜を独りで過ごすのは寂しいかと思って。ありがたいでしょ?」
「ええ、まあそりゃ・・・て、いやいや!ありがたくないですよ!子供の前で何を言わせるんですか!」
「あははは!素直に喜びなさいよ。でもまあ・・・あんたは入院してなくても夜は独りか?」
「からかいに来たなら帰って下さいよ・・・まったく・・・。」
俺はエロ本の入った袋を、そっと枕の下に隠した。ま、まあ・・・これはこれで貰っておいて損はないしな・・・うん・・・。
「ふふふ・・・傷の具合はどう?まだ痛む?」
溝端さんはベッドの端に座り、少し首を傾げて尋ねてきた。
「痛みはないですね。でも違和感は残ってるかな・・・。そのうちリハビリも始まるし、食いたい物も食えないし・・・けっこう辛いですよ。」
「ほんとに災難だったわね。あそこで刺されるべきは、隼人の方だったのにさ。」
そう言って険しい顔でベッドを見つめる溝端さん。
「冴木。」
「はい?」
「感謝してるわ、あんたと翔子には。ほんとに・・・ありがとう。」
溝端さんは真剣な表情になって、深く頭を下げた。そしてジャケットの内ポケットから、白い封筒を取り出した。
「一昨日ね、あの馬鹿ときっちり話をつけたのよ。もう一度謝罪してもらって、誠意も見せてもらった。これはその誠意の一部よ。あんたには受け取る権利があるわ・・・・貰って。」
溝端さんは俺の手を取り、白い封筒を握らせた。
「これは・・・お金ですか?」
「当たり前でしょ。それ以外に何があると思ってんのよ?」
「いや・・・けっこう凄い厚みだから・・・。」
「それでも足りないくらいよ。あんたは二度もあいつのせいで刺されたのよ。それに比べりゃそんなもんはした金でしょ?
でもまあ、お金はもらっておいて損はないわよ。怪我が治って退院したら、その金でどっか旅行にでも行きなさいよ。翔子を誘ってね。」
そう言って溝端さんはベッドから立ち上がり、明君と優香ちゃんの頭を撫でた。
「ねえ冴木・・・。私、もう二度とこの街に戻って来ないと思う・・・。」
「どこかへ引っ越すんですか?」
「うん・・・。隼人からふんだくったお金で、私の兄妹はしばらくまともな生活が出来ると思う。その後をどう生きていくかはあの子たち次第だから。」
「そうですね・・・いくら家族でも、守られてばかりじゃ一人立ち出来ないですから。」
「・・・全てのカタはついたし、しばらく何も考えずにのんびり暮らしたい・・・。もう・・・お金だの恨みだのから解放されて、自由に生きたいから。」
「それ、俺も同感ですよ。」
溝端さんはまた明君と優香ちゃんの頭を撫で、「じゃあね」と手を振って病室を出て行く。
そして一度だけ振り返り、微笑みを残して去って行った。
「あの人も・・・色々背負ってたんだよな。俺とは比べ物にならないくらいに。」
しんみりとして呟くと、溝端さんと入れ違いに祐希さんがやって来た。
「こんにちわ。どう、背中の具合は?」
「まあまあですよ。さっきまで溝端さんが来ていたんです。」
「知ってるわ。廊下ですれ違ったもの。ずいぶんスッキリした顔をしてたわ。」
そう言いながら買い物袋を掲げ、俺の方に差し出した。
「これ、よかったら。」
「ああ、ありがとうございます。」
中にはお菓子や飲み物が入っていて、一番奥にまた大人の本が入っていた。
「それ、必要でしょ?夜は困ると思って。」
「い、いや・・・だからこういう物はですね・・・。」
「あら、いらない?だったら持って帰るけど?」
「いえ、貰っておきます。」
せっかく頂いたご厚意を無駄にするわけにはいかない。そっと枕の下に隠しておいた。
「明君も来てたんだ。部活に来ないからおかしいと思ってたのよ。」
「今日はお見舞いに行く予定だったから。また明日からちゃんと稽古します。」
「うん、練習しないと強くならないからね。」
祐希さんは俺の横に立ち、神妙な顔でじっと見下ろしてきた。
「人生で二度も刺されるなんて・・・・災難だったわよねえ。」
「ええ、まったくですよ。」
「でも考えようによっては、二度も助かってるってことだから、運がいい方かもしれないわよ?」
「ああ・・・言われてみれば確かに・・・。」
「何事も視点を変えれば、見えてくるものも変わるわ。まだまだ若いんだから、いい経験だったと思いなさいよ。」
「それ・・・生きてるから言えることですよね?」
「そうよ。でも君は生きてるじゃない。翔子ちゃんが助けてくれたおかげでね。」
祐希さんはニコリと微笑み、肩を竦めてみせた。
「君はこれからどうするの?なんだか迷いのある顔をしてるけど?」
「・・・今は分かりません。まだ悩んでることがいっぱいあって・・・。」
「そう。でも考える時間はタップリあるんだから、焦ることはないわ。私でよかったらいつでも相談に乗るから。」
「はい、ありがとうございます。」
祐希さん・・・なんだか俺が最初に思っていた人と違うな・・・。もっと冷徹な仕事人間かと思っていたけど、意外と人情味があるというか・・・。
「そうよ、私はこれでもかなりの人情家なの。だからいつでも相談に来なさい。遠慮せずにね。」
どうやらまた顔に出ていたらしい・・・。祐希さんは可笑しそうに笑って俺の肩を叩き、病室を出て行こうとした。
「明君、明日はサボっちゃだめよ?」
「はい!」
う〜ん・・・怯えてるねえ明君。やはり鬼コーチのことは怖いらしいな。すると箕輪さんも立ち上がり、優香ちゃんの背中を押した。
「それじゃ私たちもそろそろ帰るわ。」
「はい。わざわざお見舞いに来てくれてありがとうね。」
明君と優香ちゃんに笑いかけると、「また来てあげる!」とピースをした。
「それじゃ、また来るから。」
箕輪さんは手を振って背中を向ける。俺は「待って下さい!」と呼び止め、溝端さんからもらった封筒を開いた。
「これ、みんなで分けましょう。俺だけ貰うなんて悪いから。」
そう言うと、優香ちゃんがダダっと飛びついて来た。
「やった!お兄ちゃん、お小遣くれるって!」
「だからあ・・・お前はもうちょっと品を持てよ・・・。」
呆れて注意する明君だったが、その顔は嬉しそうにニヤけていた。すると箕輪さんが二人の肩を叩き、「それはダメ」と首を振った。
「なんで?お小遣いくれるって言ってるんだよ。お姉ちゃんはほしくないの?」
「全然。私は自分で稼いだ以外のお金は欲しくないの。それに冴木は二回も刺されてるし、すごく大変な思いをして戦ったのよ。
だからそれは冴木のお金なの。私たちがもらっちゃダメ、分かった?」
「え〜・・・せっかくくれるって言ってるのに・・・。」
「・・・・・分かった?」
箕輪さんはジロリと睨む。すると優香ちゃんはシュンと萎れて「・・・はい」と呟いた。
この人、意外と子供の扱いが上手いよなあ。
しかしあげると言った物を引っ込めるのは野暮というもの。俺は封筒のお金を半分抜き取り、箕輪さんに差し出した。
「じゃあこれで美味しいものでも食べればいいじゃないですか。余ったお金は募金でもすればいいし。」
「あんた・・・・ほんとにいいの?これは溝端さんがあんたの為にくれたお金だよ?」
「いいんですよ。俺にも金が必要な理由はあったけど、そっちは何とかなりそうだから。
今回はここにいるみんなが大変な思いをしたわけだし、これで美味しいもんでも食ってパッと忘れて下さい。」
俺はグイっと箕輪さんの手に押し付ける。すると「そこまで言うなら・・・」と躊躇いながら受け取った。
「よし!それじゃこれからみんなでご飯に行こうか?いい店を知ってるから私の車で行きましょ。」
帰ったはずの祐希さんがいつの間にか戻って来て、ご機嫌にみんなの肩を叩く。どうやらこの人はどんなお金でも受け取るみたいだ・・・。
「それじゃ冴木、またね。」
「ああ、はい・・・。」
みんなは病室から去って行き、俺一人だけが残される。
「いきなり寂しくなっちゃったな・・・。かといって枕の下の本を読むのもアレだし・・・。」
入院中に見舞い客が来てくれるというのはありがたいけど、去ってしまった後の寂しさはどうにかならないものだろうか・・・。
「まあいいか。また来てくれるわけだし。」
特にやることもないので、枕の下に手を伸ばす。こういう時、個室はありがたい。
誰にも気兼ねせず、自分の妄想の中に浸れるというものだ。
「でも普通こんなもん買って来るかね?まあ、ありがたいからいいんだけど・・・。」
パラパラと本を捲って妄想を膨らませていくが、イマイチ気が乗らない。
「なんか・・・そういう気分じゃないな今は・・・。」
ため息をつきながら本を閉じ、脇に投げ出す。そしてボンヤリと窓の外を見つめた。
「箕輪さんは・・・稲松文具に戻ったんだな・・・。マンネリしてた彼氏とも別れたって言ってたし、あの人も意外と自分の人生を考えてるんだなあ。」
俺は自分の人生というものを、今まで真剣に考えたことはほとんどなかった。絵の道を断念してから、ただ何となく生きていたような気がする。
「溝端さんはこの街を去って、自分の為に生きようとしている・・・。祐希さんはきっと今まで通りだろうな。じゃあ課長はどうするんだろう?
何度か見舞いに来てくれたけど、あの騒動の後始末の話ばかりで、お互いのことは何も話せていないもんなあ・・・。」
入院してから三日後、俺は人と喋れるくらいまでには回復していた。
そして最初にお見舞いに来てくれたのが課長だった。心配そうに俺を見つめ、何度も謝っていたっけ。
『私が気づいていれば、冴木君が刺されずにすんだかもしれないのに・・・。』
あの時の課長・・・まるで自分が刺された方がマシだったみたいな顔をしていた。
けど・・・もし立場が逆なら、俺も同じ事を思っただろうな。
隼人は相変わらず放心状態らしいし、会社も事を大げさにしない為に、今回の騒動は無かったことにするらしい。
厄介な後始末は会長と重役連中が当たっているそうだから、近いうちに事は丸く治まるだろう。
それより俺は課長のことが心配だった。今までに三回ほど見舞いに来てくれたけど、いつも疲れたような顔をしていた。
俺の前ではずっと笑顔だけど・・・きっと自分を責めているに違いない。隼人を止められなかったことや、俺を守れなかったことに・・・。
それに会長を説得して、今までにスパイ活動を行って迷惑をかけた会社に、救済措置を取ってくれと頼んだそうだ。
多大な損害を受けた会社もあれば、倒産までしてしまった会社もある。課長はそれらの事にも大きな責任を感じているから、寝る間も惜しんで対応に当たっていると言っていた。
まあ稲松文具の力なら、経済的に救済することは難しくないかもしれない。
潰れた会社の社員は自分の所で雇うと言っていたっけ。もちろん真実は伏せるらしいけど。
でも・・・経済的には救えても、心に残った傷は消えないだろう。俺を刺した赤桐栄治のように、深い傷を抱えてしまった人間も大勢いるはずだ。
俺が心配なのは、課長がそれらを一人で背負い込んで、潰れてしまわないかということだ。
元はといえば隼人のせいなんだから、全部あいつに背負わせたって構わないのに・・・。
あの騒動の後始末の話は、なんだか俺の気を滅入らせた。
けど、朗報も一つあった。なんと・・・課長にダイスケの話をすると、稲松文具が引き取ってくれるというのだ。
会長は大の馬好きであり、趣味で牧場まで持っている。週末はそこへ赴き、仕事や雑事の疲れを癒しているそうだ。
だから課長はダイスケをどうにか出来ないかと掛けあってくれた。
冴木君は今回の騒動で一番頑張ってくれたのだから、彼の望みを叶えてあげてほしいと。
そして・・・ありがたいことに、会長は快諾してくれた。まあその程度で俺が納得するなら、安いものだと踏んだのかもしれないが。
しかし理由はどうあれ、ダイスケを助けることが出来てよかった。元気になったら、一度会いに行ってやらないとな。
窓から手元に視線を戻し、脇に置いた大人の本を掴む。
「なんか色々なことがあって・・・まだ自分がどうしたいのか分からないな。でも祐希さんの言うとおり、焦る必要はないのかもしれない。
退院出来たら、溝端さんからもらったお金でも旅行でも行こうかな。」
白い封筒を掴み、ベッドの横にある金庫に入れる。そしてパラパラと大人の本を眺めていると、コンコンとドアがノックされた。
「はい。」
サッと大人の本を隠し、誰かと思いながらドアを見つめる。すると「こんにちわ」と微笑みながら、課長が顔をのぞかせた。

稲松文具店 第二十一話 冴木対隼人(2)

  • 2014.09.10 Wednesday
  • 15:03
隼人の身体は見事に宙を舞い、綺麗な孤を描いて畳に落ちていった。
「一本!」
張りのある大きな声が響き、隼人は茫然と天井を見つめていた。
「ああ・・・・やった・・・・。」
ホッと安堵が押し寄せ、身体じゅうから力が抜けていく。すると祐希さんが俺の肩を叩き、「よくやったわ!えらい!」と言ってガクガクと揺さぶった。
「祐希さん・・・俺、やりましたよ。あなたから教わった技で、あいつをブン投げてやりました。」
「うん、最高の内股だったわ。文句なしの一本よ!」
祐希さんは嬉しそうに拳を握り、俺の胸を突いた。
「ぐッ・・・・くそ!俺を怒らせたのは罠だったか・・・・。」
隼人は大してダメージを受けていない様子で立ち上がる。あまりに綺麗に投げ過ぎた為に、しっかりと受け身をとられてしまったようだ。
未だに怒りの収まらない表情で俺を睨み、まだ襲いかかって来ようとする。
「冴木!一回投げたくらいでいい気になるなよ!まだ終わってないぞ!」
向こうはやる気満々らしいけど・・・こっちに力は残っていない。もう手の内もバレてしまったし、次にやったら確実に負ける・・・。
「どうした!あれほど挑発しておいて、今さら逃げることは許さんぞ!」
「・・・・ほんと面倒くさいな、コイツ・・・・。」
「面倒臭くて結構。負けるよりマシだ!祐希の後ろに隠れていないでさっさと立ち上がれ!それとも何か?いい歳こいて女に守ってもらわなきゃ戦えないか?
お前こそとんだヘタレだな。人をロリコン呼ばわりするなら、お前はただのマザコンかじゃないか!」
「んだとお・・・。いいよ、やってやる!」
残った力を振り絞り、隼人に向かって行く。しかし祐希さんに「やめなさい!」と腕を掴まれた。
「相手の挑発に乗るな!冷静さを欠いたら負けるって言ったでしょ?」
「・・・そ、そうですけど・・・。」
「隼人は君がやったのと同じように、相手を怒らせて叩きのめそうとしているのよ。君は意外とプライドが高いから、マザコンなんて言われたら怒るでしょ?
隼人はそれを狙ってやってるのよ。頭を冷やしなさい。」
「は、はい・・・・・。」
なんだ・・・俺もちゃっかり罠に嵌るところだったのか・・・。一回勝ったくらいで思いあがると、逆転負けするとこだった。
「隼人・・・もう終わりよ。あなたの秘密の部屋、しっかりカメラに収めさせてもらったわ。」
そう言って祐希さんは隼人の後ろを指す。するとそこには課長と溝端さんが立っていた。
「・・・・・・・・・・。」
溝端さんはカメラを手にしていて、何やらポチポチといじり出した。そして無表情のまま隼人に歩み寄り、カメラの液晶を見せつけた。
「これ、よく撮れてるでしょ?」
「・・・・・あ・・・・。」
隼人は言葉を失って固まる。さっきまでの威勢はどこかへ消え去り、顔から血の気が引いていた。
「よくもまあこれだけ集めたもんだわ。十二畳の広さの部屋に、少女マンガがギッシリ。
それにぬいぐるみのせいで足の踏み場も無いわ。」
「・・・うう・・・・・・。」
「唯一くつろげる場所はこのベッドね。でも・・・これってピンクの布団に可愛いウサギのキャラクターが描かれてるわね?
もしかしてこのベッドに寝転びながら少女マンガを読んでるの?ぬいぐるみを抱えたりしながらさ?」
「・・・い・・・いや・・・・。」
溝端さんの表情は、だんだんと嫌味ったらしく変化していく。カメラの画像を次々と送っていき、「ほらほら」と楽しそうに笑っていた。
隼人は堪らず目を逸らすが、サッとカメラを前に出されて強制的に見せつけられる。それはまるで、拷問を受けている囚人のようだった。
「ねえ?よく撮れてるでしょ?ああ、それと部屋に一つだけ机があったから、中を調べさせてもらったの。そ・し・た・ら!もう顔が真っ赤になるくらい恥ずかしい物が出て来たわ!」
「つ・・・机の中を見たのか・・・・。」
「うん。あれも鳥肌が立つくらいメルヘンな机だったわね。白地に赤い模様が入っていて、色んな所に可愛い動物のキャラクターが描かれててさ。
しかも『何とか魔法少女』とかいう幼児向けのアニメの絵も描かれてたじゃない。もうね、恥ずかし過ぎて顔から火が出るかと思った。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「でもね、机の中にはもっと恥ずかしい物が入ってたのよねえ。ほらほら、見てよ冴木。これ傑作でしょ!」
溝端さんは笑いを堪えながらカメラの液晶を向けてくる。するとそこには、確かに赤面したくなるような物が写っていた。
「これ・・・アニメのキャラクターと一緒に・・・自分が映ってるんですか・・・?」
「そうよ!ほら、このゲーム機で撮ったみたいなの。」
溝端さんはポケットからマンテンドーDDSを取り出し、そこに挿さしてあるゲームソフトを取り出した。
「見てこれ!『ピュアラブ☆』に載ってる人気マンガ、『ルリちゃんは魔法少女』のゲームソフトよ。
これってさ、ゲームのカメラで写真を撮れば、魔法少女ルリちゃんと一緒に写れるみたいなの。私も記念に一枚撮ったわ、ほら。」
ゲーム機に保存された画像の中に、ピースサインで魔法少女と写る溝端さんがいた。
そして次々とコマを送っていくと、はにかみながらルリちゃんと写る隼人の姿があった。
「だははははは!傑作でしょこれ〜!もう少女マンガどころの恥ずかしさじゃないわよ〜!これ見つけた時、笑い死ぬかと思ったもん!だははははは!」
溝端さんは腹を抱えてケタケタ笑い、涙まで流している。
そしてその横では、隼人が別の意味で泣きそうな顔をしていた。プルプルと唇を震わせ、耳まで真っ赤にしながら俯いている。
「ねえ隼人。これをネットに流したらどうなるかな?こうやってしっかりあんたの顔まで写ってるのよ。し・か・も!魔法少女ルリちゃんと一緒にさ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「それにあんたってマニアックよねえ。しっかりゲームをやり込んで、色んな衣装を集めてるんだもん。
ほら、これなんか最高!ルリちゃん新体操のコスプレしてるし。しかもあんたはニコニコとピースをして写ってる。
いやあ〜!世界に名だたる稲松文具の社長が、こんな恥ずかしい写真をネットでばら撒かれた日には・・・ねえ?
もう色んな所でネタにされて広まるわよ〜。色んな風に加工されてあちこちで張られるわ。
馬鹿がスレッドを立ち上げる度に、あんたのバカな写真が毎回登場するわけよ。『あの画像早よ』とかいって、赤字で要求されるわよ?だははははは!」
「・・・・や・・・やめてくれ・・・・。」
「え?なんて?何か言った?」
「・・た・・・頼むから・・・やめてくれ・・・。」
「ええ〜!聞こえな〜い!いつもの威勢はどうしたのよ?もっと胸張って言えば〜?僕とルリちゃんの愛の写真をばら撒くのはやめてくれってさ。んん?」
溝端さんは勝ち誇ったように隼人の顔を覗き込む。
きっと・・・鬼の首をとった状態ってこういうことを言うんだろうな・・・。
隼人は完全に意気消沈していて、戦意の欠片も残っていなかった。そして溝端さんに向かって土下座し、「悪かった!」と叫んだ。
「俺が・・・俺が悪かった・・・。だからネットでばら撒くのだけはやめてくれ・・・。」
「ふふふ、まさかあんたの土下座が見られるとは思わなかったわ。もっともっといたぶってやりたいけど、まあかなりスッキリしたからもういいわ。」
「じゃ、じゃあ・・・・許してくれるのか?」
隼人の顔がパッと明るくなる。溝端さんはそれにつられるように、ニコリと顔を近づけた。そして急に表情を変え、目をつり上げて隼人の胸ぐらを掴んだ。
「はあ?許す?ふざけたこと言ってんじゃねえぞテメエ!」
「・・あ・・ああ・・・・。」
「こっちは大事な兄妹を人質に取られてんだよ!まずはそれをどうにかするのが先だろうが、ええ!」
「わ、分かった!すぐに連絡を入れて解放する!」
隼人は大慌てでケータイを取り出し、部下に連絡して人質を解放するように伝えた。
「あんた、あの子たちに何もしてないでしょうね・・・?」
胸ぐらを引きよせ、鬼のような顔で睨む溝端さん。隼人はぶるぶると首を振り、「な・・・何もしてない・・・。」と呟いた。
「俺の持っている部屋に軟禁していただけだ・・・・・。食い物も飲み物もあるし・・・ただ部屋から出られないようにしていただけだ。」
「・・・・ほんとでしょうね?」
「ほ、ほんとほんと!天地天明に誓って約束するよ!」
「大げさな言葉を使ってんじゃないわよ、この馬鹿!テメエには反吐が出るほど腹わた煮えくり返ってんだ!き〜っちり謝罪と誠意を見せてもらうわよ、分かったか!」
「は、はいいいいいいい!」
隼人は何度も頭を下げて謝る。そして最後に強烈なビンタを食らって鼻血を出していた。
「とりあえず今はこんなもんで勘弁してやるわ。また後日・・・・じ〜っくりと話をして、謝罪と誠意をみせてもらうから・・・首洗って待っとけ!」
「・・う・・・うう・・・・・。」
溝端さん・・・完勝だな。見ているこっちが気持ちいいくらいだ。
「ねえ祐希。車の鍵かして。あの子たちを迎えに行くから。」
「いいわ、私が送ってく。隼人の弱みは握ったんだし、もう暴れることはないでしょ。」
そう言って課長の前まで歩み寄り、「後は任せる」と笑いかけた。
「それじゃ隼人、また今度・・・。」
溝端さんは隼人の頭を叩いて睨みつける。そして俺の方を見つめて小さく笑った。
「冴木のクセにやるじゃない。見直したわ。」
「いや・・・とにかく夢中だったから・・・。でも溝端さんの兄妹が無事でよかったです。早く迎えに行ってあげて下さい。」
「うん・・・。それじゃここは任せる。しっかしその馬鹿と話をつけなさい。」
祐希さんと溝端さんは手を振って部屋から出て行く。
「あ!外で箕輪さん達が待ってるはずだから、一緒に送って行ってあげて下さい!」
「りょ〜かい!」
祐希さんと溝端さんが去り、さっきまでの騒々しさが嘘のように静寂がおりる。隼人は完全に放心していて、虚ろな目で窓の外を見つめていた。
「兄さん・・・。」
課長が隼人の横に腰を下ろし、そっと手を重ねた。
「溝端さんに・・・かなりキツイこと言われたね。」
「・・・・・・・・・。」
「でも仕方ないよ。兄さんはそれだけのことをしたんだから。」
課長の顔から憂いが消え、いつもの優しい表情に戻っていく。それを知ってから知らずか、隼人はわずかに耳を傾けているようだった。
「私もね、兄さんに言いたいことはいっぱいあった。でも・・・あれだけ言われた後じゃ、兄さん傷つけるだけだからやめておく。」
「・・・・・・・・・・。」
「でもね、一つだけ言わせて。これだけは私の口から兄さんに聞いてほしい。」
課長は両手で隼人の手を握り、真っすぐに向かい合った。隼人は視線を戻し、妹の顔を見つめ返す。
「兄さん、お願いだから昔に戻って。何にでも一生懸命で・・・真っすぐ上を向いていたあの頃の兄さんに。私が伝えたいのは・・・・それだけ。」
課長はギュッと手を握りしめ、小さく微笑んでから立ち上がった。
「冴木君、行こう。」
「ああ・・・はい。でもいいんですか。その人をほったらかして・・・。」
「うん。今の兄さんに必要なのは、自分と向き合うことだから。きっと・・・・正しく自分を見つめてくれるって信じてる。」
課長は一度だけ兄を振り返り、何も言わずに部屋から出て行った。俺は放心した隼人に目をやり、全てを失った男の末路を目に焼き付けた。
《・・・いや、違うな。全てを失ったわけじゃないか。きっと余計なものが削ぎ落されたんだろう。》
放心しているけど、どこかスッキリした顔をしている・・・・・ように見えるのは買いかぶりか?まあいい。全ては終わったんだ。
俺も早く厄介事から解放されて、自分の人生と向き合う時間がほしい。首にはまだ締められた痛みが残っているけど、まあ大したことはないだろう。誰も怪我をしなくて良かった。
膝に手をついてゆっくりと立ち上がると、段田が目を覚ました。
「おお、なんだ?ボンボンが放心してる・・・。」
「もう全部終わったんだよ。今は一人にしといてやろう。」
段田は眉を寄せて隼人を睨んでいたが、フッと表情を緩めて立ち上がった。
そして二人で部屋を出ようとした時、ある人物がいないことに気づいた。
「あれ?ロッテンマイヤーさんは?」
「ああ、いねえな。じゃあ家に帰ったんだろう。あいつは面倒事があるとすぐに逃げるからな。ほっといても余計な事は喋らんだろうぜ。」
「確かに。」
段田はつまらなさそうにあくびをし、スタスタと出て行く。
俺は引き戸の前で立ち止まり、隼人の背中を見つめてから部屋を後にした。


            *


外に出ると潮風が吹いていて、心が洗われるような心地良さだった。
「なんかここ最近はドロドロしたことばかりだったから、やっとホッと出来た。ああ・・・心配事がないって素晴らしい。」
海を眺めながらそう言うと、隣に立つ課長が眩しい笑顔で頷いた。
「そうだね。心配事がないって素晴らしいと思う。けど・・・またいつか、何かを抱え込むんだろうね。」
「そうですね・・・。でも今はそんなこと考えるのはやめましょうよ。やっと全てが終わったばかりなんだから。」
「うん。でもいいよね、何も気にせずに海を眺めていられるって。すごく幸せなことだって感じる・・・。」
課長は潮風に身を任せるように目を閉じる。海の光を全身で受けながら、胸いっぱいに潮の香りを嗅いでいた。
《いい、いいなあ・・・課長・・・。やっぱり俺は・・・本気で課長のことを・・・・。》
「何ニヤニヤしてんだよ。」
じっと課長に見惚れていると、段田に背中を突かれた。
「いや・・・別にニヤニヤなんてしてないだろ・・・。」
「お前・・・北川課長に惚れてんだろ?」
「なッ!・・・いきなり何を・・・・。」
「顔見りゃ一発で分かるって。まああれだ、若いうちの恋は若いうちしか出来ねえ。お前にとっちゃ高嶺の花だろうが、いっちょアタックしてみろよ。万が一ってことだってあるぜ?」
「そ・・・そうかな・・・?」
「おお!馬鹿が真に受けてらあ。お前女と付き合ったことないだろ?」
「うるさいな!せっかく課長の美しい横顔を見てるんだから邪魔すんなよ。」
「ははは!でも本気で好きなら気持ちは伝えてみな。黙ったままじゃ恋は実らねえぜ。それじゃ、俺はやる事があるからこれで。」
段田はくるりと背を向け、手を振って去って行った。
「あいつ・・・あのまま逃げる気じゃないだろうな?」
段田の背中を見送り、また課長の横顔に視線を戻す。
《この人は・・・俺より色んなものを背負っていたんだよな。これまでも・・・そしてこれからも。》
いくら全てが終わったとはいえ、課長は北川家の血を引いている。ならばそれを背負う覚悟が必要なわけで・・・・・って、いや、そうでもないか。
背負うかどうかは自分で決めればいいんだし、いくら北川家の血を引いていても、課長だって一人の人間なんだから、自分の人生を選択する自由はあるはずだ。
何より、今の課長の顔は自由を求めている気がする。俺はしばらく課長の横に立ち、一緒に海を見つめていた。
空から降る光を煌めかせ、瀬戸内の海は穏やかに揺らいでいる。
「・・・・・ねえ、冴木君。」
課長は海の風を感じながら、前を向いたまま尋ねてくる。
「はい。」
「君はこれからどうするの?やっぱり実家に帰る?」
「・・・分かりません。俺も・・・自分の人生を見つめる時間がほしいから。もしかしたらまた稲松文具にお世話になるかも。」
「・・・そっか。でも焦ることはないよ。じっくり考えればいいと思う。そして・・・もし稲松文具に戻る気があるなら、私に言って。
君にはたくさん迷惑をかけたから、それくらいはさせてほしいの。」
「・・・ありがとうございます。」
「ああ、それと・・・。ちゃんと約束は守らなきゃね。」
「約束?」
「うん。もしこの騒動が終わったら、一度デートしようって言ったでしょ?」
「あああ!そうです!言ってました!ええ、それは言ってましたとも!」
「ふふふ、私でよかったらいつでも言って。予定を空けておくから。」
「わ、分かりました!この冴木晴香!課長の為なら、火の中、水の中ですよ!」
課長は可笑しそうに笑い、海を眺めながら小さく頷いた。
「それじゃ私たちも帰ろうか。家まで送って行くよ。」
「ああ、はい!喜んで!」
ああ・・・今日はなんて良い日なんだ・・・。隼人を倒して全ては解決したし、課長とデートの約束をしたし・・・なんか生まれて初めて人生バラ色って感じだ。
「冴木君?どうしたの、ボーっとして?」
「いえいえ、なんでも!さ、さ、行きましょう!」
俺と課長は並んで海沿いの道を歩き出す。時折課長は俺の方を向いて微笑み、柔らかい笑顔で前を見つめていた。
《きっと・・・俺は本気で好きになってしまったんだな・・・この人のことを・・・。
だから今度のデートの時に・・・自分の気持ちを伝えよう。最高のデートを用意して、課長に対する気持ちを・・・・。》
胸に言いようのない熱さがこみ上げ、これ以上課長を見ることが出来なかった。だって・・・このままずっと見ていたら、今この場所で気持ちを伝えてしまいそうだから・・・。
何も言葉を交わさず、ただ並んで歩いていく。すると後ろから誰かの足音が聞こえ、ゆっくりと振り返った。
「あれは・・・・女将さん?」
桃色の着物を着た女将さんが、何かを手にして走って来る。
「そういや旅館を出る時にはいなかったけど・・・いったいどこにいたんだ?」
旅館に続く道から、女将さんは必死にこちらに走って来る。何かを手に持ち、追い詰められた形相で俺たちを睨んでいる。
「・・・もしかして、隼人がまた暴れてるとかじゃ・・・。ねえ課長。ちょっと旅館に戻った方が・・・。」
そう言って後ろを振り向くと、課長は海を見つめながら先へ行っていた。どうやら女将さんがこちらに向かっていることに気づいていないらしい。
「課長!女将さんがこっちに走って来てますよ!ちょっと旅館に戻った方が・・・・、」
その時、ドンと背中に衝撃が走った。
「な・・・なんだ?」
ゆっくりと後ろを振り向くと、女将さんが狂ったような目で俺を睨みつけていた。
「・・あ・・・ああ・・・・・。」
女将さんはブルブルと唇を震わせ、よろめきながら後ずさっていく。そして踵を返して素早く逃げて行った。
「・・・・・・・・・・。」
俺は・・・知ってるぞ・・・。背中に走るこの感触を・・・。鋭く、そして焼けつくようなこの痛みを・・・。それもつい最近に経験している。
背中に手を回し、痛みが走る場所に触れてみる。すると案の定、硬くて冷たい物が手に触れた。
「これ・・・・また・・・ナイフじゃねえか・・・。」
手にはべっとりと血が付いていて、焼けつくような痛みが襲ってくる。足元から地面を踏んでいる感覚が消え、膝から力が抜けて崩れ落ちた。
《なんだよ・・・また刺されたのかよ・・・。しかも・・・前よりヤバイ感じがするんだけど・・・大丈夫かれ・・・・・?》
痛みとショックで意識が朦朧としていき、身体から力が抜けていく。すると誰かの叫び声が聞こえて、こちらに走って来る気配を感じた。
「冴木君ッ!」
それは課長だった。必死に俺の名前を叫び、引きつった顔で見下ろしている。
《・・・課長・・・泣いてるんですか・・・?》
課長の目には涙が溜まっていて、狂ったように俺の名前を叫んでいる。
そしてケータイを取り出し、どこかへ電話を掛けていた。
《・・・課長の・・・手が・・・頬に触れてる・・・暖かい・・・・。》
俺はその手を握り返し、ゆっくりと目を閉じる。闇に落ちていく直前、一瞬だけ走馬灯が走った。

稲松文具店 第二十話 冴木対隼人(1)

  • 2014.09.09 Tuesday
  • 12:09
風情のある上品な旅館の部屋に、肌のひりつく殺気がみなぎっている。
俺と隼人・・・二人の視線と殺気がぶつかり、重く淀んだ空気が漂っていた。
「兄さん・・・・。」
重い沈黙を破ったのは課長だった。
「兄さん、話があってここまで来たの。」
「翔子・・・お前も完全に俺の敵に回ったんだな。残念だよ。」
「違うよ、敵とか味方とか、そういう事じゃない。私はただ、兄さんに話を・・・・、」
「ははは、何の話だ?どうせ俺を止める為の説得だろう?そんなものを聞く気はない。」
隼人は俺から目を逸らし、課長の前に立った。
「翔子・・・俺はこれでもお前の事は大切に想ってるんだぞ。だから・・ここらで手を引いてくれ。冴木や他の馬鹿どもには鉄槌が必要だが、お前には拳を振り上げたくない。」
「それは私も同じよ。兄さんを追い詰めるようなマネはしたくない。でも・・・あなたは祐希さんや箕輪さんまで巻き込んだ。それにまったく関係のない子供たちまで・・・。」
「関係なくはないさ。あのガキどもがこの旅館を見つけたんだ。ガキのクセに大人の事情に首を突っ込むとどうなるか・・・しっかり分からせる必要があるだろ?」
隼人は諭すような口調で笑いかける。課長は反論しようと口を開きかけたが、諦めたように首を振った。
「やっぱり・・・もう何を言っても無駄ね・・・。だったらやる事は一つ。みんなと力を会わせて兄さんを倒すわ!」
課長は隼人に詰め寄り、その目を睨み返した。
「段田専務、祐希さん達をお願い。私と冴木君は・・・兄を止めるから。」
課長の視線を受けた段田は、小さく頷いて部屋を出ようとした。しかし隼人に腕を掴まれ、逆手に捻じり上げられた。
「段田・・・俺を裏切ったらどうなるか分かってるんだろうな?」
「・・・・・・・・・・・。」
「俺はお前の罪を知ってるんだぞ?家に火を点けて父親を殺した罪を。」
「・・・・・・・・・・・・。」
隼人は薄ら笑いを浮かべながら段田に顔を近づける。
「親父から虐待を受けていて、それが憎くて殺したんだろう?幸い自分がやったとバレてはいないようだが、その罪を知る人物はいる。だから・・・分かってるよな?」
段田は目を逸らして足元を見つめ、悔しそうに唾を飲み込んだ。
「兄さん・・・どういうこと?」
課長が二人の間に割って入る。すると隼人は肩を竦めて段田を指さした。
「コイツはな、高校を出るまでは父親に虐待を受けていたんだよ。そして大学に進学してから一人暮らしを始め、ようやく父親から解放された。
しかし・・・・今度は弟が酷い虐待を受けるようになった。だから弟と共謀して、家に火を放って父親を殺したんだ。」
「・・・段田さん、それは本当なの?」
「・・・・・・・・・・・・。」
段田は答えない。固く口を閉じ、意地でも喋るまいとしているようだった。それはまるで・・・自分の兄妹を守る時の溝端さんと同じ目だった。
「お前が家に火を点けた時、隣の家の住人がそれを目撃していた・・・。面倒に関わるのが嫌だから警察には言わなかったようだが、金をチラつかせたらすぐに喋ったよ。
主犯はお前、実行犯は弟だったと。まあとっくに時効ではあるが、これが世間にバレたら困るよなあ?法律では裁かれなくても、社会的な制裁は受けることになる。
お前はともかく、教師をやっている弟は・・・どうなるかな?だから・・・この事実をバラされたくなければ、俺を裏切るのは止めた方がいい。」
隼人は腕を捩じったまま、脅すように睨みつける。
なるほど・・・やっぱりこの男は正真正銘のクズらしい・・・。課長には悪いけど、この男は同じ人間とは思えなかった。俺は北川隼人の手を握り、グッと力を込めた。
「おいクズ、この手離せよ。」
「冴木・・・・無理をするな。そんなキャラじゃないだろう?」
「それはお前も一緒だろ?課長から聞いたぞ。本当は気が弱くて繊細な人間だって。」
「ははは!それは昔のことだ。人は経験を積むことによって変わっていく生き物だ。
弱い者が強くなることもあれば、その逆もある。」
「ゴタクは聞きたくねえよ。いい歳こいて少女マンガとぬいぐるみを集めてるおっさんがよ。」
そう罵ると、隼人の眉間に皺が寄った。
「・・・・なんだって?もういっぺん言ってみろ?」
「だから、いい歳した大人のクセに、少女趣味に走ってんじゃねえって言ってんだよ。もしかしてロリコンかおっさん?
それともその歳で少女マンガみたいな恋愛をしたいって思ってんのか?なんていうかまあ・・・・人に知られたら恥ずかしい趣味だよな?」
「・・・お前・・・誰にもの言ってんのか分かってるのか?」
隼人のこめかみに血管が浮かぶ。握った手はあっさり払われ、恐ろしいほどの力の差を感じさせられた。
《やばい・・・・ちょっと挑発しすぎたか・・・。》
かなり辛辣な言葉を並べたが、これは祐希さんから指示された作戦だった。
『いい、冴木君。普通に戦っても絶対に勝ち目はないわ。だから相手を挑発するような言葉を並べて、とにかく逆上させるの。
そうすれば、向こうは怒りに任せて突っかかってくるから、その隙を狙うしかないわ。絶対に慎重な態度を取らせてはダメよ。組み合ってもダメ。いいわね。』
祐希さんにそう強く念を押された。確かにまともに戦っても勝ち目はない。それはさっきの腕力の差から考えても明らかだ・・・。
だから・・・突っかかって来い!隙を狙って内股をかけて・・・とにかく転がすんだ。
そうしたら・・・あとは祐希さん直伝の締め技でねじ伏せるしかない。
隼人は寝技が苦手らしいから、そこにしかチャンスは無いんだ・・・。
「オラ、どうしたよロリコン野郎?秘密の部屋にはいっぱい変態の趣味が詰まってるんだろ?いくらカッコつけたって、ただのロリコンじゃあ・・・・気持ち悪いよなあ。」
なるべく馬鹿にするような口調で挑発し、極めつけにとペチペチと頬を叩いてやった。
隼人は怒りを通り越して震えだし、猛獣のように歯を剥き出している。
《・・・怖ええ・・・・。マジで目え逸らしたい・・・。》
でも負けるわけにはいかない。一瞬のチャンスを逃せば、勝ち目は一ミリもなくなるんだから・・・。
俺と隼人の睨み合いは続く。激しい殺気がビリビリと伝わってきて、背中に冷や汗が流れてきた。そして・・・・隼人が動いた。段田の手を離し・・・・サッと手を伸ばして来る。
《・・・来い!触れた瞬間に内股をかけてやる!》
息を飲んでタイミングを窺う。鼓動が速くなって、口の中がカラカラだ。
「・・・・・・・・・・・。」
来ない・・・・。隼人は伸ばした手を引っ込め、じっと俺を睨みつけるだけだった。
そして腰に手を当てて「ははははは!」と笑い、ポンポンと俺の肩を叩いた。
《・・・な、なんだ・・・?挑発が効かなかったのか?》
「なあ冴木・・・。」
「なんだよ・・・・?」
「内股を狙ってるのがバレバレだ。重心の位置・・・相手に悟られないように気をつけないとな。」
「・・・・ッ!」
まずい!・・・・と思った次の瞬間、俺の身体は宙を舞っていた。そして綺麗に一回転し、凄まじい勢いで畳に叩きつけられた。
「げはッ・・・・・。」
何とか受け身は間にあったものの、背中を強打して息が出来ないほど苦しい。
「俺を挑発して隙を作るつもりだったんだろ?考えが甘過ぎだ。」
隼人は俺の襟に手を回し、両手で絞るように締めあげた。
「ぐげッ・・・・・。」
「どうせ寝技なら俺に勝てると踏んでいたんだろう?それも甘い。いくら寝技が苦手だといっても、昨日今日に柔道を始めた奴には負けんよ。」
「ぎッ・・・・・。」
隼人の締めは強烈だった。抜け出そうとしてもビクともせず、確実に俺の意識を奪っていく。
「簡単には落とさない・・・。じっくり苦しませてから落としてやる。その後は腕の一本でももらうか・・・。
言っておくが、関節技の苦しみは締め技の比じゃないぞ。意識を保ったまま激痛に耐えなければいけないんだからな。」
「ぐごごッ・・・・・。」
襟が首に食い込み、俺の意識を断ち切ろうとしてくる。言いようのない苦痛と恐怖に襲われ、思わずタップした。
「はははは!もうギブアップか?まだそんなに力を入れてないのに。」
「ぎゅうッ・・・・・。」
ああ・・・こりゃ負ける・・・。いくら特訓を積もうが、長年武道をやってきた人間に勝てるはずがなかったんだ・・・。
隼人の言うとおり、俺の考えが甘かった・・・。潔く負けを認めるしかない。・・・・そう思った時、ガシャン!と何かが割れる音が響いた。
「やめて兄さん!」
「ぐッ・・・・翔子・・・お前・・・・。」
隼人の腕が離れ、首が楽になる。目を開けて見てみると、課長が割れた壺を抱えていた。どうやらアレで隼人の頭を殴ったらしい・・・。
「冴木君!大丈夫?」
課長は俺を抱え起こし、心配そうに背中を撫でてくれる。
「た・・・助かりました・・・・もう少しで落とされるところだったから・・・。」
「無理して立たなくていいよ。顔が真っ青だから・・・。」
課長は俺の頭に腕を回し、ギュッと抱きかかえる。ああ・・・課長の胸が・・・また俺の頬に・・・・・。
「くそッ・・・・いくら妹とはいえ・・・俺にこんな事をしてタダで済むと思うなよ。」
隼人は頭を押さえて立ち上がり、課長の髪を掴んだ。
「きゃあ!痛い!」
「おい!やめろ!」
「やかましい!どいつもこいつも俺に歯向かいやがって!お前ら全員まとめて・・・・、」
その時、またガツン!と音が響いた。
「ぐあッ・・・・。今度は何だ・・・?」
「おいボンボン・・・いい加減にしとけよ・・・。」
段田はガラスの灰皿で隼人の頭を殴りつけていた。
「段田・・・お前・・・死にたいのか・・・?」
「俺は・・・お前と同じクズだ・・・。だからもう終わらせようや・・・。仲良く刑務所に行こうぜ。」
そう言って灰皿を振り上げ、再び殴りかかろうとする。しかし隼人は咄嗟にそれを受け止め、段田の腕を引っ張って投げ飛ばした。
「ぐごおッ・・・・。」
「刑務所に行くのはお前だけだ。この騒動の全ての責任を背負わせてやる!」
隼人は段田の襟を取り、後ろから襟締めをかけた。
「・・・・・・・ッ!」
段田は声を出す間もなく、一瞬で締め落とされた。苦しそうに白目を剥き、じわりと股間が濡れていく。
「ははは、失禁してやがる!」
「・・・・・・・・・・・。」
立ち上がった隼人は頭を押さえ、フラフラとよろけて壁にもたれかかった。
「ぐッ・・・思い切り殴ってくれやがって・・・・。」
段田の灰皿の攻撃が効いている・・・・。これはチャンスだ!
「課長!今のうちに祐希さん達を助けに行って下さい!それとこの鍵を使って、あいつの秘密を暴いてやるんです!」
俺は課長に鍵を押し付け、隼人の前に立ちはだかった。
「冴木君!一人で兄さんと戦うのは無理よ!」
「いいから早く行って!祐希さんなら勝てるかもしれないでしょ?」
「ああ・・・なるほど!」
「それに秘密の部屋の証拠を押さえないと、コイツはこっちの言う事を聞かないでしょう?そうしないと溝端さんの兄妹も助けられない!」
「わ、分かった・・・・。すぐに戻って来るから、絶対に無事でいてね!」
課長は鍵を握って部屋から駆け出して行く。それを見た隼人は、後を追いかけようと走り出した。
「させるか!」
咄嗟に飛びかかり、思わずひざ蹴りが出る。それは上手い具合に隼人の顔面に入り、顎を押さえて倒れ込んだ。
「ぐッ・・・・冴木いいい!」
「チャンス!」
俺は隼人の足を取り、アキレス腱を抱え込んだ。そして体重をかけてギリギリと締め上げていく。
「ぐああ!おい、足関節は反則だぞ!」
「黙れ!これは柔道の試合じゃないんだよ!だいたい人質を取るような人間が偉そうに言うな!」
「くッ・・・・。お前ら・・・・絶対に後悔させてやる!」
隼人はもう一本の足でガンガンと蹴りつけてくる。そして身体を捻り、俺の技から抜け出そうとした。
「この馬鹿力が・・・・。おいロッテンマイヤーさん!手伝ってくれ!隼人の頭を押さえるんだ!」
「え?わ、私が・・・・?」
「そうだよ!」
「無理無理!そんなの出来ないわよ!」
ロッテンマイヤーさんは慌てて立ち上がり、窓から逃げ出そうとする。
「ちょっと待て!もし隼人を止める事が出来たら、会長から報奨金が出るかもしれないぞ!」
そう言うと、「ほんと・・・?」とこちらを振り返った。
「俺が会長に進言してやる!ロッテン・・、佐々木さんのおかげで社長を倒せたってな!だからこいつを倒すのを手伝ってくれ!」
「ほ、報奨金・・・・。」
金の話となると、ロッテンマイヤーさんの顔色が変わった。さっきまでビビっていたクセに、急にやる気になって隼人の上に飛び乗った。
「ぐはあッ!」
たっぷり肉のついたロッテンマイヤーさんのフライングボディプレスが炸裂し、さすがの隼人も堪らず叫ぶ。
「佐々木いいいいいい!お前もタダじゃおかんぞ!分かってるんだろうなあ!」
「あーあー!聞こえない!何にも聞こえない〜!」
金に目が眩んだロッテンマイヤーさんは無敵と化す。「あわわわわ!」と首を振り、隼人の声を遮っていた。
「ぐうう・・・おのれえッ・・・。どいつもこいつも・・・・。」
「もう観念しろ!それとも足の腱を切られたいか?」
俺は渾身の力で技をかける。隼人のアキレス腱は限界まで引っ張られ、「ぎゃああああ!」と苦しんだ。
「オラ!もう降参しろ!」
「い、嫌だ!誰がお前なんかに・・・・。」
「腱が切れてもいいのか?歩けなくなるかもしれないぞ?」
「構わん!俺は・・・もう負ける事は許されないんだ!必死こいて上を見つめて・・・・周りに劣等感を抱いていたあの頃には戻りたくない!」
「いいじゃないか、戻っても。俺なんか今でも劣等感だらけだぞ?」
「お前と一緒にするな!北川家の人間はな・・・女にしか価値がないんだよ!特殊な力を持つ母も、才色兼備の翔子も・・・・全部北川家の血から来るものだ!
男は常に・・・北川家の女に頭が上がらない・・・。だから・・・俺は・・・・死ぬ気で・・・死ぬ気で努力して来たんだぞおおおお!」
隼人は両手をついて身体を起こし、片手でロッテンマイヤーさんを投げ飛ばした。
「うお!まだこんな力が残ってんのかよ・・・・。」
「冴木!お前に分かるか!裕福な家に生まれるってことは、それなりのもんを背負うってことだ!いつも周りと比べられ、チヤホヤされるのは母と翔子だけ!
そこから抜け出すべく、俺は自分を鍛えてきた!お前みたいに安穏と暮らして人間に、俺の劣等感が分かるのか!答えろコラああああ!」
隼人は血が出るほど唇を噛み、ついに俺の技を振りほどいてしまった。
「くそッ・・・しまった・・・。」
慌てて体勢を立て直すが、隼人の動きの方が早かった。ガッシリと俺に組みつき、ガクガクと揺さぶって壁に叩きつけられる。
「ほら・・・どうした?投げてみろ!」
「このッ・・・・。」
押しても引いてもビクともしない・・・。俺はただただ翻弄されるばかりで、また綺麗に投げ飛ばされてしまった。
「冴木いい・・・お前は許さない・・・・。」
隼人の目は血走っていて、もはや冷静さは失われていた。もしこのまま技をかけられたら、最悪は死ぬかもしれない・・・。
俺は畳に散らばった壺の破片を掴み、隼人に切りかかった。しかしあっさりと防がれ、首に腕を回されてチョークスリーパーを決められた。
「なあ冴木・・・・俺はただ自分に自信が欲しかっただけだ。分かるか?」
「うう・・・・・。」
「俺はな、別に誰にも劣っちゃいない・・・。ただ北川家という特殊な環境に生まれただけだ。
この家系の女は、隔世遺伝で特殊な能力が引き継がれる。そして能力を持たない女であっても、翔子のように才色兼備であることがほとんどだ。」
「ぐうう・・・・・・。」
「男はごく平凡な能力で生まれて来る・・・。だからいつだって北川家の男は女に頭が上がらない。
そしてあの家を引き継ぐのは女と決まっているから、俺はいつまで経っても王様にはなれない。もし母が死んだら、翔子が北川家の頂点に立つことになるんだ。
そしてアイツの生んだ娘に能力が引き継がれ、延々と北川家の血脈が続いていく。その間・・・・男はただ女を支えるだけだ。」
「ぐぐうううう・・・・。」
「いいか冴木!俺はどんなに努力しても頂点には立てない!いつだって北川家の女と比較され、ただ裏方に甘んじるだけだ!
社長?会長?そんなものはただの肩書だ!俺の父だって、母にはまったく頭が上がらない!翔子は母のことを可哀想だと言っているが、それは逆だ!
いつだって母の顔色を窺ってきたのは、俺たち男の方なんだからな!」
「・・・・なんだよ・・・・ここまで来てただの愚痴か・・・?」
「黙れ!俺は誰にも劣っていない!北川家の女が異常なだけだ!なのに・・・どうしてここまで劣等感を感じなければならない・・・・。
どんなにあがいても頂点に立てない悔しさ・・・お前のような野心の無い男には分かるまい!」
「ぐおおおおお・・・・・。」
隼人の怒りがヒシヒシと伝わって来る。確かにこの男の言うとおり、俺は野心など持ったことはない。絵描きになりたいという夢はあったが、あれは野心とは異なるものだ。
そう思うと、この男にはこの男なりの矜持があるのかもしれない。だが・・・どう考えてもやっている事は間違っている!
「あんた・・・・俺より劣等感にまみれてるな・・・・。課長はずっとあんたの事を心配してたのに、あんたは課長にコンプレックスを持ってるだけじゃないか!」
「やかましい!お前に翔子のような妹がいるのか?特殊な力を持った母がいるのか?
俺の気持ちは・・・そういう特殊な環境で育った奴にしか分からない!」
「知らねえよ・・・お前の気持ちなんて・・・。いちいちコンプレックスを振りかざされたら、世の中回るかってんだ・・・。」
「説教じみた事を言うな!大した経験もしていない若僧のクセに・・・。」
隼人の腕に力が入り、俺の首が悲鳴を上げる。しかし・・・諦めるわけにはいかない!
「面倒臭いんだよ、お前は!いつまで思春期やってんだって感じだぜ?
俺はな・・・自己中な正義感を押し付ける奴は嫌いだけど・・・お前みたいに卑屈なコンプレックスを押し付ける奴はもっと嫌いだ。反吐が出るぜ!
てめえに腹が立ってんなら、てめえの中だけで処理しとけってんだ!お前の事なんざ俺の知ったことじゃねえよ、この少女趣味の変態野郎!」
「お前・・・・殺す!」
「ぐごッ・・・・。」
隼人の筋肉が膨らみ、腕に力が入っていく。しかし・・・そのぶん技は雑になっていった。
締め技は完全に決まれば逃げられないが、隙のある技なら抜け出しようがある。
相手を怒らせて隙を作る・・・・祐希さんの指示した戦法は間違っていない。俺がやられたのは、相手を本気で怒らせることが出来なかったからだ。
『柔道は冷静さを欠いたら負ける。』
激しい稽古の中で、祐希さんはよくそう言っていた。
『卑屈な馬鹿は怒らせて隙を作ればいいの。簡単よ。』
祐希さん・・・あなたから教わった技と戦術・・・無駄にはしませんよ!
「オラ!ロリコン趣味のコンプレックス丸出し変態野郎!なに初心者に手こずってんだよ!お前は経験者なんだろ?一瞬で締め落としてみろよ!」
「ほざけ!段田に灰皿で頭を叩かれてなければ、お前ごとき瞬殺だったんだ!」
「でも段田にやられたのはお前が裏切られたからだろ?誰もロリコン趣味の卑屈野郎に従いたくねえよ、この馬鹿!」
「お前えええええ!殺す!手足の骨を全部折ってから殺す!」
「出来もしねえこと言うな!オラ!とにかく締め落としてみろ、妹に負けっぱなしのヘタレ社長!」
「お前はああああああ!殺す!絶対に殺す!」
隼人の力はさらに強くなる。馬鹿みたいな腕力で大蛇のように締め上げてくる。だが・・・それはもう技とは呼べなかった。
ただ力任せに締め上げるだけで、意識を遮断するような力はない。
俺は弓なりに身体を反らし、頭を押し付けてブリッジの体勢を取った。そして一気に身体を回転させ、隼人の技から抜け出した。
「冴木いいいいいい!」
俺は素早く立ち上がり、足を開いて腰を落とした。しかし隼人は怒りで我を忘れ、無防備に突っ込んでくる。腰も浮いているし、不用意に手を伸ばして来る。
そして俺と隼人が組み合った瞬間、後ろから「引きよせて内股あ!」と叫び声が響いた。
それは厳しい稽古の中で何度も聞いた声で、俺の身体は即座に反応した。
隼人の腰の下に自分の腰を入れ、突っ込んでくる勢いを利用しながら相手の股に右足を入れる。そして・・・・相手を引き寄せながら足を振り上げた。
隼人の身体は見事に宙を舞い、綺麗な孤を描いて畳に落ちていった。
「一本ッ!」
祐希さんの声が、突き刺さるように部屋じゅうに響いた。

稲松文具店 第十九話 秘密の旅館(2)

  • 2014.09.07 Sunday
  • 19:59
課長は女将の脇を通り抜け、廊下の奥へ向かう。
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
慌てて課長を引きとめ、女将は廊下の奥に向かって大声で叫んだ。
「支配人!ちょっと助けて〜!」
課長は目をつり上げて廊下の奥を睨む。すると先ほどロッテンマイヤーさんと話していたおっさんが、「なんだ?」と顔をしかめながら現れた。
「あ、あの・・・・こちらの方が・・・・。」
「んん?今日は誰も入れるなって言っただろうが。使えん女だな。」
そう言いながら女将を睨みつけ、課長を見つけて固まった。
「き・・・北川課長・・・。なんでここに・・・?」
「あなたこそこんな所で何をしているんですか、段田専務?」
課長は段田という男の前に立ち、ギロリと睨みつける。
「な、何って・・・・ここは旅館だよ?泊まりに来ているに決まっているじゃないか。」
「段田専務お住まいは、ここから車で十分のくらいの所ですよね?ならこんな近くの旅館に泊まりに来たりしますか?」
「そ、それは私の自由だろう・・・。とやかく言われる筋合いはないよ。」
「そうですね・・・。なら佐々木さんはどこにいらっしゃるんですか?さっきこの旅館の前で話し込んでいましたよね?」
「な、なんで知っているんだ・・・・。」
段田の顔が一気に青ざめる。血の気が引くというのはこういう事を言うのだろうと、分かりやすいほど青くなっていた。
「段田専務、率直にお尋ねします。ここに兄が来ていますね?」
「い、いや・・・・それは・・・・。」
「私の目を見て答えて下さい!」
「・・・う・・・ううう・・・・・。」
中年のおっさんが、若い女性に威圧されている。課長って・・・いつもこんな感じで会議をやっているのかな?
「兄さんが・・・ここへ来ていますね?」
「・・・・ええ・・・まあ・・・・。」
「ならもう一つお聞きします。この旅館に、女性のライターが訪れませんでしたか?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・いるんですね、ここに?」
段田の顔はますます青ざめ、ゴクリと唾を飲む音が聞こえた。
「段田専務、私を兄の所まで案内して下さい。彼を説得しないといけないんです。そして・・・・捕まった祐希さん達を助けないと・・・。」
課長は射抜くような視線で段田を見据える。二人の間に重い空気が流れ、ピリピリと緊張感がみなぎっていた。
すると段田はいきなり笑い出し、課長をドンと突き飛ばした。
「きゃあ!」
「課長!」
課長は柱にぶつかり、頭を押さえてうずくまった。
「大丈夫ですか!・・・おいてめえ!いきなり何をする・・・・、ぐあ!」
段田は鬼の形相で俺の胸ぐらをつかみ、力任せに壁に叩きつけた。
「お前は知ってるぞ・・・。確かハリマ販売所の社員だな。社長とつるんでコソコソと人の会社の情報を盗み出していた小僧だろう?」
「・・・し、知ってるのか・・・あんた?」
「当たり前だ。俺もお前と同じで、社長とつるんで色々とやってるからな。」
「い・・・色々と・・・?」
「ああ、邪魔な奴を罠にかけたり、脅しをかけて黙らせたり・・・。最近だと溝端の兄妹も誘拐したな。」
「お、お前が・・・・溝端さんの兄妹を・・・・。」
「命令したのはあのボンボンだぞ。俺は実行しただけだ。ていうかそんな事はどうでもいいんだよ。お前・・・確かうちの会社を辞めたはずだろ?
何をコソコソと動き回ってんだよ、ええ?」
段田は俺の首を締めあげ、腹にひざ蹴りを入れてきた。
「がはッ!」
「冴木君!」
課長が俺を助けようと段田に飛びかかる。しかしまた突き飛ばされてガラス戸にぶつかった。課長はガラスを突き破って庭に落ち、頭を押さえて血を流していた。
「ふん・・・コネ使って出世したガキが・・・・。俺が今の地位を手に入れるのにどれだけ苦労したかも知らずによ。」
吐き捨てるように言って、「ぺッ!」と唾を吐きかける。汚い唾が課長の頬にかかり、段田は嫌味ったらしく笑う。
「社長の妹じゃなかったら、お前もとっくに潰してるところだ。とりあえずそこで大人しくしとけ。」
そう言ってまた唾を吐きかけようとした時、俺の中で何かがキレた。
「このクソデブ親父がああああ!」
「ああ?誰にもの言ってんだてめえ?殺すぞコラ!」
段田は思い切り俺を殴りつけ、グワグワと揺さぶってガラス戸に叩きつけようとした。
しかし次の瞬間・・・段田の身体は宙を舞っていた。そして固い廊下に背中から落ちて、「げふうッ!」と目玉をひん剥いた。
「き・・・決まった・・・。祐希さん直伝の内股が・・・。」
自分でも驚くくらいに綺麗に決まり、思わず立ちすくんでしまう。
「ごほッ・・・おま・・・なんてことを・・・・げふッ・・・・。」
段田は口からヨダレを流し、苦しそうに胸を押さえていた。
「・・・なんだよ・・・ロクに受け身も取れないんじゃんか・・・。あんた・・・迫力はあるけど弱いだろ?」
段田はギクリとして俺を見上げる。
「よくも課長にひどい事してくれたな・・・。もちろんそれなりの覚悟は出来てるんだよな?」俺はニヤリと笑い、段田の襟を締め上げた。
「はがッ・・・。ちょ、ちょっと待て・・・・。」
「嫌だね。課長に暴力ふるって唾を吐いた罰だ!ちょっとくらい苦しめよ!」
段田の胴体に足を絡ませ、握った襟を絞るように締め上げる。
「ごはッ!・・・・や・・・やめ・・・・。」
祐希さん直伝の締め技が、段田の頸動脈を締め上げる。スーツの襟が首に食い込み、彼の意識を断とうとしていた。
「心配するな、落とすだけだから。うりゃ!」
「ぐふッ!」
段田は海から引き揚げられた深海魚みたいに目を見開き、ヨダレと涙を流してタップする。
「ギブアップは断る!課長を傷つけた罪は万死に値する!でも殺すわけにはいかないから、締め落とすだけで勘弁してやる。」
「ぐ・・・ぐべッ・・・た・・・たひゅけて・・・・。」
段田は必死にもがくが、完全に決まった締め技は外せない。このまま締め落としてやろうとした時、課長が「やめて!」と腕を掴んだ。
「冴木君!手を離して!」
「で、でも・・・こいつは課長を・・・・。」
「いいから。もうやめてあげて。」
「・・・・分かりました。おいおっさん、よかったな。課長に感謝しろよ。」
「・・・はあ・・・はあ・・・てめえ・・・この若僧があ・・・。」
「え?なんて?また技をかけてほしいって?」
「・・・ぐッ・・・くそったれ・・・。」
段田は諦めたように力を抜き、首を押さえて柱にもたれかかった。
「段田さん・・・大丈夫ですか・・・?」
課長は心配そうに段田の顔を覗き込む。
「・・・ぜんぜん大丈夫じゃねえよ・・・死ぬかと思ったぞ・・・。」
そう言って俺を睨みつけ、わざとらしく舌打ちをしていた。こいつ・・・本当に締め落としてやろうか・・・。
「冴木君・・・ちょっと乱暴すぎよ。暴力をふるう為に柔道をやったんじゃないでしょ?」
「・・・すいません・・・。でも課長があんなことされたから、思わず頭に血が昇っちゃって・・・。」
課長はやれやれという風に首をを振り、段田の背中を撫でていた。
「段田さん・・・お願いだから兄と会わせて。じゃないと・・・あの人は何をしでかすか分からない。このまま放っておけば、本当に犯罪者になっちゃうわ。」
「ふん・・・。もうとっくに犯罪者だよ。誘拐に監禁、それに数々の脅迫をしてんだから。
横領や癒着だってある。俺は・・・そういう仕事の尻拭いをさせられてきたんだ・・・。」
「なにを被害者ぶってんだよ。その見返りとして専務の椅子でももらったんだろ?」
俺が嫌味ったらしく言うと、「そうだよ・・・」と項垂れた。
「・・・もういいや。どうせここまで来たら先は見えてる。俺もあのボンボンも刑務所行きだ。あいつの言いなりはもうお終いだ・・・。」
段田はネクタイを緩め、「ふう・・・」と息を吐き出して課長を見据えた。
「あんたの言うとおり、ここに女のライターが来たよ。御神祐希っていう名前のな。それに溝端恵子も一緒だった。」
「やっぱり・・・・。それで、二人はどこにいるの?」
「社長の部屋で眠らされてるよ。睡眠薬を盛られてな。動けないように手足も縛ってある。」
「ひどい・・・。」
「それだけじゃねえ。箕輪って女も捕まってるぜ。一緒にいたガキ共もな。」
「箕輪さんと・・・子供が?いったいどういうこと!」
「俺も詳しいことは知らねえよ。箕輪と一緒にいたもんだから、ついでに捕まえといただけだ。」
「箕輪さんとその子たちはどこにいるの?」
「佐々木と一緒に一階の客室にいるよ。箕輪は手足を縛ってるけど、ガキどもには何もしてないから安心しろ。」
段田は吐き捨てるように言い、袖でヨダレを拭った。
「あのボンボンは・・・もう抑制が効かなくなってる。会長でさえ止められやしねえ。だから・・・もしあいつを倒せる可能性があるとしたら・・・あんただけだ。」
そう言って課長を見つめる段田。その視線を受け取った課長は、小さく頷いてハンカチを差し出した。
「ヨダレと鼻水・・・拭いた方がいいですよ。」
「・・・・いいよ、大したことはねえ・・・。」
強がりを言いながら立ち上がり、腰を叩いて痛そうにしていた。
「ボンボンは三階の社長室にいる。エレベーターで上がって、廊下の一番奥にある部屋だ。」
「・・・ありがとう。それともう一つ教えてくれない?」
「何だ?」
「あなたなら、兄さんの秘密の部屋の場所を知っているはずでしょ?それを教えてほしいの。」
「秘密の・・・・?ああ、あの少女マンガやぬいぐるみがギッシリ詰まった部屋か。それなら社長室の隣にあるぞ。佐々木が合い鍵を持ってるから、それで開けられる。」
「やっぱりあれはその部屋の鍵だったのね・・・。段田さん、佐々木さんの所に案内して。」
「別にいいけど・・・一つ頼みがある。」
「何?」
「・・・何が何でも・・・あのボンボンをぶっ倒してくれ。あいつのやり方には、さすがに我慢の限界を感じてたんだ・・・。
俺の・・・俺の過去をネタにゆすりをかけて、いいように使ってくれやがったからな。」
段田は悔しそうに唇を噛む。
「でもあんただって散々悪さをして、その見返りを受け取ってるんだろ?なら同罪じゃねえか。」
「・・・そうだな。事が全て終わったら、刑務所に叩きこまれても仕方ねえ・・・。でも・・・これ以上あいつにコキ使われるのはご免だ。」
その言葉を聞いた課長は、「分かった、約束する」と頷いた。
「だから佐々木さんの所へ案内して。そして・・・できれば私達に手を貸してほしいの。
私と冴木君は兄を何とかするから、段田さんは祐希さん達を助けてあげて。」
「・・・分かった。」
段田は俺達の目を見て頷き、「ついて来い」と奥の部屋へ向かった。
「行こう冴木君。兄さんを止めて、みんなを助けなきゃ。」
課長は段田の後をついて行く。しかし俺はあることに気づいて、「段田さん!」と叫んだ。
「何だよ?」
「あの・・・女将さんが腰を抜かして座り込んでるけど・・・。」
「ああ、さっきの喧嘩を見てビビっちまったんだろ。そいつは前にいた旅館の金を横領して逃げてきたんだ。事が終われば、俺と一緒に刑務所行きだ。」
「・・・・そうですか。」
女将は真っ白な顔で放心していて、ブツブツと独り言を呟いていた。
「冴木君、早く。」
「は、はい!」
女将を残し、俺たちはロッテンマイヤーさんのいる部屋に向かった。段田が『梅の間』と書かれた部屋に「入るぞ。」とノックした。
「ああ、段田ちゃん。さっき怒鳴り声が聞こえたど大丈夫?何かあったの?」
「おう、あったあった、大アリだ。今からあのボンボンをぶちのめしに行くことになったんだよ。」
「ボンをぶちのめすって・・・いったいどういう・・・・、」
そう言いかけて、ロッテンマイヤーさんは俺達の姿に気づいた。
「あああああああ!なんで冴木と翔子ちゃんがここにいるの!」
ロッテンマイヤーさんは頬に手を当てて絶叫する。しかし俺たちは彼女を無視して、部屋の隅で震える人質に駆け寄った。
「箕輪さん!それに明君じゃないか!」
箕輪さんと一緒にいた子供って、明君のことだったのか。それともう一人女の子がいるけど、もしかして彼の妹か?
「冴木いいいい・・・・・。」
箕輪さんはロープで手足を縛られていて、二人の子供をかばうように座っていた。
「おい、何か切る物を寄こせ!」
段田はタンスの引き出しを開け、裁縫用のハサミを寄こした。
「今助けますからね。動かないで下さいよ。」
手足を傷つけないように慎重にロープを切断すると、縛られていた部分が痣になっていた。
「ひどいな・・・どんだけキツく縛ってたんだよ・・・。」
思わず痣の部分に手を当てると、突然箕輪さんが抱きついてきた。
「冴木いいいい・・・遅いのよあんたあ・・・。ちゃんとメールを送ったのに・・・・。」
「箕輪さん・・・。」
箕輪さんは痛いくらいにしがみつき、ボロボロと涙をこぼしていた。
「・・・旅館の前で待ってたら・・・・いきなりそこのおっさんに襲われたの・・・。私と優香ちゃんを捕まえて・・・・助けようとした明君を殴って・・・。」
「殴った?」
明君は口の端に青痣を作っていて、少女を守るように抱きかかえていた。
「明君・・・・大丈夫か?」
「僕は・・・平気です。でも優香が・・・・。」
明君は心配そうに少女の顔を覗き込んだ。
「ずいぶん怯えてるな・・・。明君の妹か?」
「はい・・・。」
優香ちゃんはガシっと兄にしがみついていて、今にも泣きそうな顔をしていた。そして俺の顔を見るなり、サッと目を逸らした。
「大丈夫だよ、私たちはみんなを助けに来たんだから。もう怖くないよ。」
課長がよしよしと優香ちゃんの頭を撫で、明君にも「怖かったね」と肩を撫でた。箕輪さんは鼻をすすりながら身体を離し、赤い目で俺を睨んだ。
「もっと早く助けに来てよ!せっかく隙を見て優香ちゃんがメールを打ってくれたんだから!」
そう言ってバシバシと叩いてくる。なんだよ・・・・さっきまで抱きついてたクセに・・・・。
「すいません。場所を聞いても返信が無かったから・・・。」
「そいつらがずっと見張ってたから、あれ以上送れなかったのよ。もし見つかったら何をされるか分かんないでしょ!」
「す、すいません・・・・。」
なんで俺が謝ってるんだ・・・。でもこれだけ怒れるなら元気のある証拠だろう。あのまま抱きつかれていたら、そっちの方が心配だ・・・。
「だから顔に全部出てんのよ!怖い目に遭ってたんだから、抱きつくくらいいいでしょ!」
「す、すいません・・・。」
また叩かれてしまった。俺は苦笑いを見せながら、ゆっくりと段田とロッテンマイヤーさんを振り返った。
「あんたら・・・この騒動が終わったら覚悟しとけよ。」
自分でもこんな声が出せるのかと思うくらい、威圧的な声が出た。するとロッテンマイヤーさんは「私は知らないわよ!」と手を振った。
「ボンにマンガを届けに来たら、その子たちがいただけよ!私は何もしてないわよ!」
「でもこの状況を見たら、どう考えても異常だって分かるだろ?なんで何も行動を起こさなかったんだよ?」
「そんなこと言ったって・・・こっちの男が見張ってろって言うから・・・。」
段田は小さく舌打ちをして、ロッテンマイヤーさんを睨み返す。
「てめえ・・・やっぱクズだな・・・。なに舌打ちしてんだよ。反省くらいしろや。」
「・・・・・悪かったよ、すまん・・・。」
ぶっきら棒な態度で謝る段田。こいつ・・・もういっぺん投げ飛ばしてやろうか。
「冴木君、とにかくこの子たちを助けないと。優香ちゃんすごく怯えてるから・・・。」
課長は二人の子供の肩に手を置き、心配そうに見つめていた。すると箕輪さんは優香ちゃんのポケットに手を突っ込み、ケータイを取り出して立ち上がった。
「もう警察を呼ぼう。こんなのただの犯罪だもん。」
「いやいや!まだダメですよ!祐希さん達が捕まってるんですから。それに溝端さんの兄妹だって人質に取られてるんですよ?」
「だったらどうしろって言うのよ!この子たちはこんなに怖い目に遭ってるのに、何もするなって言う気?」
「違いますよ!これから社長の所に行くんです。そして祐希さん達を助け出して、社長の暴走を止めるんです。」
「社長を止めるって・・・あんたにそんな事が出来るの?冴木のクセに。」
「やります。やってみせますよ!だから警察はもう少し待って下さい。きっと・・・俺と課長が社長を倒しますから。」
「・・・・・・・・・・・。」
箕輪さんは何も言わずに俺を睨みつける。すると明君が「冴木さんの言うとおりにしましょう」と呟いた。
「僕たちはとりあえず助かったからいいけど、他にも捕まってる人がいるんだから・・・。
警察に知らせるのは、みんなを助けてからでも遅くはないでしょ?」
「そりゃそうだけど・・・・・。」
「それに、僕は冴木さんの事を信じてますから。あんなに一生懸命柔道の練習をして、祐希さんの鬼の稽古にも弱音を吐かなかったんです。
だから・・・・箕輪さんが思ってるより、ずっと強い人だと思います。」
明君は優香ちゃんを抱きよせながらニコリと笑う。
「優香・・・あの人が一番悪い奴をやっつけてくれるよ。だから心配ない。兄ちゃんと箕輪さんだってついてるし。」
優香ちゃんは戸惑いを隠せない目で俺を見つめた。そして兄の方に振り向き、コクリと頷いた。
「・・・はあ、分かったわよ。事が終わるまで警察には連絡しない。」
箕輪さんはケータイをしまい、バシっと俺の肩を叩いた。
「その代わり、絶対にあのクソ社長をやっつけるのよ!どんな方法でもいい。柔道で懲らしめるのもいいし、少女マンガの趣味を暴露してやるのでもいい。
とにかくアイツをギャフンと言わせて!」
「ええ、もちろんそのつもりです。」
俺と課長は顔を見合わせ、小さく頷いた。
段田はロッテンマイヤーのポケットに手を入れて、秘密の部屋の鍵を取り出す。そして俺の方に向かって投げ寄こした。
「これが・・・社長の弱点を暴く鍵・・・。」
「それじゃボンボンの所に行くか。あいつは武道の手練れだから気をつけろよ。」
「分かってるよ。それじゃ箕輪さん、この子たちのことをお願いします。」
「うん、任せて。ああ、それとロッテンマイヤーさんはどうする?さっきからずっと青ざめてるけど。」
「ほっといていいんじゃないですか?自分の為にも余計な事は喋らないだろうし。」
「それもそうね。それじゃ・・・気をつけて行ってくるのよ。私たちは外で待ってるから。」
「はい。」
ここへ来て初めて箕輪さんが笑った。この人・・・・素直に笑うと意外と可愛いんだな。
「意外は余計よ!さっさと行ってこい!」
「は、はい!すいません!」
お尻を蹴られ、慌てながら部屋を出て行く。そして引き戸に手を掛けた時、誰かが近づいて来る足音が聞こえた。
「どうしたの?」
課長は不思議そうに首を傾げる。
「・・・誰かこっちに来てます。宿泊客かな?」
そう言うと、段田が「客はいない」と首を振った。
「じゃあ仲居さん?」
「仲居もいない。というより、この旅館はただのダミーだ。ボンボンの秘密を隠す為だけのな。たま〜に俺や佐々木が客のフリをして来るだけだ。」
「なら・・・・この足音は・・・・?」
足音はだんだんと近づいてくる。あの女将かとも思ったが、これは女の足音じゃない。
もっと力強く、怒りに満ちているような・・・・。そう思った時、咄嗟に「ヤバイ!」と叫んでいた。
「箕輪さん!子供たちをつれて窓から逃げて!早く!」
箕輪さんはキョトンとしながら「なんで?」と問い返す。
「いいから!早く逃げて!」
俺は出窓を開け、箕輪さんと子供たちを庭へ押しやった。
「どっかに隠れてて下さい!絶対に出て来ちゃダメですよ!」
「わ・・・分かった・・・・。」
箕輪さんは子供たちの背中を押しながら、庭を横切って門の方へと走って行った。そしてそれと入れ換わるように、部屋の引き戸がガラッと開けられた。
「おい段田。さっき大きな物音がして・・・・・、」
そう言いかけて、部屋に入って来た男は固まった。
「なんだ・・・?どうしてお前達がここに・・・。」
全ての元凶である男、北川隼人が、俺と課長を睨んで固まっていた。しかしすぐに事態を飲み込んだようで、自信たっぷりに笑いだした。
「ははは、お前達もここへ辿り着いたってわけか。なるほど・・・捕えていた人質もいないし、段田は敵意を剥き出しで俺を睨んでいるし・・・。
ずいぶんと状況が変わってしまったみたいだな。」
隼人はまったく慌てる様子をみぜず、ニコニコと俺の前に近づいた。
「冴木・・・まさか本当に俺の前に立つとは思ってなかったよ。」
隼人の顔から笑顔が消え、鋭い眼光で睨みつける。身体じゅうからピリピリと殺気を放ち、人でも殺しそうな目で俺を見下ろしている。
部屋の中は一気に緊張が高まり、誰も動くことさえ出来なかった。
しかし・・・・負けるわけにはいかない。ここまでやって来て、尻尾を巻いて逃げられるものか!
顎を引き、目に力を込めて睨み返す。
俺と隼人・・・二人の視線が静かな殺気でぶつかっていた。

稲松文具店 第十八話 秘密の旅館(1)

  • 2014.09.06 Saturday
  • 19:44
五月の葉桜が、俺達の不安を掻き立てるように揺れている。
助手席から葉を茂らせた街路樹を眺め、ワシャワシャと頭を掻いた。
「課長、なんか嫌な予感がするんです。誰も電話に出ないし、折り返しもない。なんか・・・事態は悪い方向に向かっているんじゃないかと・・・・。」
そう呟くと、課長は真剣な顔でハンドルを切った。目の前を行くバスを睨みながら、信号で足止めを食らって顔をしかめる。
「もう!なんでこういう時に赤信号になるかな!」
バスは信号を抜けて去っていき、遠くへ消えようとしていた。
課長が珍しく怒っている・・・。ということは、それだけ焦っているということなんだ。
きっと課長も俺と同じ気持ちなんだろうな。でも口に出さないのは、言葉にした途端にそれが現実になりそうだから黙っているんだ・・・。
「冴木君、もう一回電話を掛けてみて。」
「で、でも・・・さっきから何回も掛けてるけど、まったく繋がりませんよ。いくら掛けても無駄なんじゃ・・・、」
「それでもいいから掛けて!今度は出るかもしれないでしょ!」
課長は目をつり上げ、キッと俺を睨みつけた。
そしてすぐに顔を逸らし、「ごめん・・・」と呟く。
「・・・・私も冴木君と同じよ。よくない事ばかり考えてる。でも今は弱音を吐いている時じゃないでしょ?」
「・・・分かってますよ。それじゃもう一度掛けてみます。」
手に握ったケータイのフラップを開け、祐希さんのメモリーをプッシュする。少し間をおいてからコール音が流れ、やがて留守番電話に切り替わった。
「・・・・ダメですね。やっぱり出ない・・・。」
フラップを閉じ、ポケットにケータイをしまう。車の中に重い沈黙が流れ、イライラだけが募っていった。
やがて信号が青に変わり、課長はアクセルを踏み込んで車を飛ばす。猛スピードでバスを追いかけ、その姿を捉えて目を細めた。
「もうすぐ終点の図書館に着く。きっとその近くに兄さんの秘密の部屋があるんだわ。」
どうやらロッテンマイヤーさんは終点まで向かうようだ。バスの車内には彼女一人だけとなっていて、肘をついて外を見つめていた。
「あんまり近づくと気づかれちゃいますよ?」
「分かってる・・・。でも気持ちが抑えられないのよ。ここまで動揺するなんて・・・生まれて初めてかもしれない・・・。」
課長はいつもの冷静さを欠いていた。眉間にシワを寄せ、ずっと唇を噛んでいる。
あの課長がこんな顔を見せるなんて・・・よほど悪い予感を抱いているんだろう。
そして、それは俺も同じだ。この先に良くない展開が待ち受けていることを、覚悟しておかないといけないな。
窓枠に肘を乗せ、じっと目の前のバスを見つめる。するとポケットのケータイがブルブルと震えだし、慌てて取り出した。
「どうしたの!」
課長は上ずった声で尋ねてくる。
「・・・メールです・・・。ただの迷惑メール・・・。」
「・・・・・・・・・。」
車内の沈黙はさらに重くなり、気まずい空気が漂う。俺は課長から目を逸らし、ゆくりとケータイのフラップを閉じようとした。しかしその時、またメールを受信した。
そして差出人の名前を見て、思わず「おお!」と叫んでいた。
「ど、どうしたの!」
課長は目を見開いて睨んでくる。
「き・・・来たんです・・・。箕輪さんからのメールが・・・。」
「ほ、ほんと!早く読んで!」今にも飛びかかりそうな目で睨む課長。ちょっと怖いな・・・。
俺は唾を飲んで気持ちを落ち着かせ、ボタンを押してメールを開いた。
「え、ええっと・・・・お姉ちゃんとお兄ちゃんを助けて・・・・って、なんだこりゃ?」
メールはその一行だけだった。『助けて』の部分から危機的な状況なのは分かるが、『お姉ちゃんとお兄ちゃん』ってなんだ?
箕輪さんのお姉ちゃんとお兄ちゃんってことなのか?確かあの人は一人っ子だったはずじゃ・・・・。
不思議に思って首を捻っていると、「貸して!」とケータイを奪われてしまった。課長はじっとケータイを睨み、ゴクリと息を飲んだ。
「ちょ、ちょっと!危ないですよ!前見ないと。」
「え?ああ!ごめん・・・・。」
慌ててハンドルを握り、またゴクリと息を飲む。
「これって・・・どういう意味だろうね?お姉ちゃんとお兄ちゃんって・・・。」
「課長もそう思います?」
「だって・・・誰のことを指してるのか分からないもの。でも助けてって言うくらいだから、きっと危ない目に遭ってるのは間違いないと思う。
すぐに返信を送って、どこにいるのか場所を聞いてみて。」
「は、はい!」
すぐに返信の文章を作り、箕輪さんに送った。
『いったい何があったんですか?すぐに向かうから場所を教えて下さい。』
ケータイから放たれた電波は、箕輪さんの元へ飛んでいく。しかしいくら待っても返事はなく、もう一度同じ内容のメールを送った。
「・・・返ってこない?」
「ええ・・・。心配ですね・・・場所分かればすぐに行けるのに・・・。」
「・・・場所なら分かるかもしれないわ。だって・・・佐々木さんはきっと兄の秘密の部屋に向かっているはずだから。
きっとそこに祐希さん達もいるはずよ。おそらく兄さんに見つかって捕えられているんだと思う。」
「だったらなおのこと早く助けに行かないと。」
「もうすぐバスは終点に着くわ。絶対に佐々木さんを見失わないようにしないと。」
ロッテンマイヤーさんを乗せたバスは、国道を道なりに進んでいく。そして大きな交差点を左に曲がり、公民館と併設する図書館に向かって行った。
俺たちは交差点の近くのホームセンターに車を止め、街路樹に身を隠しながら図書館へと近づいていった。
停車したバスからロッテンマイヤーさんが降りて、キョロキョロと辺りを見回している。
「・・・警戒してるわね。きっと尾行に注意するように言われているんだわ・・・。」
ロッテンマイヤーさんは一しきり辺りを見回し、こちらに向かってスタスタと歩いて来た。
「やべ!見つかったのか?」
「違う・・・。きっとこっちに兄さんの秘密の部屋があるのよ。冴木君、見つからないように気をつけるのよ。」
課長はじっと息を殺して街路樹に身を隠す。俺も課長の後ろに隠れ、首を伸ばしてロッテンマイヤーさんを見つめた。
「・・・交差点を渡って行きますね。・・・そのまま真っすぐ歩いて行きました。」
「あの方向だと海に出るわね。後をつけるわよ。」
ロッテンマイヤーさんは海へ向かう大きな通りを歩いて行く。この道には身を隠す場所が少ないので、かなり距離をとって尾行しないといけない。
「見失わないようにしないとね・・・・。」
遥か遠くに歩いて行くロッテンマイヤーさんは、民家の並ぶ角を左に曲がっていった。
「追いかけるわよ!」
課長はダッと駆け出し、長い直線道路を一気に走り抜けて行く。
「か、課長・・・足速いな・・・・・。」
学生時代は陸上をやっていたと聞いたが、その健脚は今でも健在のようだ。俺も負けじと全力で走り、ロッテンマイヤーさんが曲がった角までやって来た。
「・・はあ・・・はあ・・・どうです?いましたか・・・?」
「うん。でもかなり遠くまで行ってる。あのまま歩いて行くと、干潟に出るはずだけど・・・。」
ロッテンマイヤーさんは、民家の並ぶ細い路地を抜けていく。幸いこの道は身を隠せる場所が多く、尾行はかなり楽だった。
そしてロッテンマイヤーさんを尾行すること十分・・・俺たちは遠浅の干潟に出た。
「ここって・・・確か旅館や民宿が並ぶ場所ですよね?」
「そうよ。もしかしたら、兄さんの秘密の部屋はこのどこかにあるのかもしれない。」
干潟沿いには細い歩道が続いていて、旅館の立ち並ぶ方へと伸びている。ロッテンマイヤーさんはポケットに手を突っ込み、何かを取り出してクルクル回していた。
「あ!あれってマンションから出て来た時に持てった鍵じゃないですか?」
「ほんとね・・・。だとしたら、あれが秘密の部屋を開ける鍵なんだわ。」
俺達は細心の注意を払いながら後を追う。そして廃墟となった民宿のガレージに身を隠し、じっと様子を窺った。
「・・・大きな旅館の方に歩いて行きますね。もしかしてあそこに社長のアレが・・・?」
「まだ分からないわ。もうちょっと様子を見ましょう。」
俺は課長の後ろから様子を窺った。すると柔らかい潮風が課長の髪を揺らし、俺の顔にかかった。
ああ・・・課長の髪・・・良い匂いがする・・・・。なんだか今日は良い事ずくめだな。
「大丈夫?また顔が赤くなってるわよ?」
「・・・・え?いやいや、全然平気ですよ、ええ!」
「ならボーっとしてないでちゃんと見てないないと。佐々木さんが旅館の前で立ち止まったわ。」
ロッテンマイヤーさんが立ち止まったのは、いかにも和風の情緒を強調したような旅館だった。
「立派な旅館ですね・・・。金持ちしか泊れなさそうな感じの・・・。」
「そうね。だったら余計にあの場所が怪しいわ。お金持ちしか相手にしない旅館なら、秘密を隠すにはうってつけだもの。」
「どうしてですか?」
「兄さんはそれなりの身分のある人しか信用しないからよ。誰でも泊まれるような旅館なら、きっと秘密を隠したりしないと思うわ。」
「なるほど・・・やっぱり社長は警戒心が強いですね。」
「小心者なのよ。本当はすごく繊細で気が弱い人なの。だから・・・下手に成功して思いあがるとロクな事にならない。
なんとか昔の心を思い出してくれれば、私の言葉に耳を傾けてくれるかもしれないのに・・・。」
課長は切ない目でロッテンマイヤーさんを見つめていた。すると旅館から誰かが出て来て、ロッテンマイヤーさんと親しげに話し込んでいた。
「なんだ・・・?旅館からでっぷりしたおっさんが出て来たぞ?ロッテンマイヤーさんの知り合いなのか?」
二人は笑顔で喋っていて、旅館の中へと消えていった。
「誰なんだあのおっさんは・・・・。」
俺はガレージから出て旅館の方に向かう。すると課長がボソリと呟いた。
「・・・段田専務・・・。」
「え?何か言いました?」
「あのおじさん・・・段田専務だわ。うちの会社の重役よ。」
「えええ!あのでっぷりしたおっさんが?」
「間違いないわ。でも・・・どうして段田専務がここに・・・?」
課長は険しい顔で旅館を睨みつけ、スタスタと歩いていく。そして途中から小走りに変わり、やがて全力で駆け出した。
「あ!ちょっと課長!」
慌てて後をおいかけるが、課長は俺を置いてどんどん先へ走って行く。そして途中で角を曲がり、左手の方へ消えていった。
「ちょっと!旅館はこっちですよ!」
課長は何も答えずに角を曲がって走って行く。そして・・・サッカー場くらいある大きな駐車場で足を止めた。
「・・・はあ・・・はあ・・・どうしたんですか?こんな場所に来て・・・。」
「ここは旅館へやって来た人が車を止める場所よ。だから・・・もし祐希さんがここへ来ているなら、彼女の車があるはず。」
「ああ、なるほど・・・。」
課長は俺を置いてスタスタと駐車場を見て回る。真剣な目で車を見渡し、「あ!」と叫んで走り出した。
「ねえ冴木君!これ見て!」
そう言って課長が指さしたのは、真っ赤なスポーツカーだった。
「こ・・・これは祐希さんの車じゃないですか!」
「これがあるってことは、彼女はこの近くにいるってことよ。それにほら、向こうに大きなセダンが止まってるでしょ?あれは段田専務の車だし・・・・それにこっちも見て。」
課長は祐希さんの車を回り込み、その隣に止まっている車を見つめた。
「この黒のBMW、間違いなく兄さんのものだわ。ほら、車の中に小さなぬいぐるみがあるでしょ?」
「ああ・・・ほんとだ。ウサギのぬいぐるみですね。」
それは本当に小さなぬいぐるみだった。手のひらの三分の一くらいの大きさで、可愛くウィンクを飛ばしていた。
「兄さんは少女マンガだけじゃなくて、こういう可愛らしいものを集める趣味もあるの。」
「へえ・・・なんか・・・メルヘンですね。」
「メルヘンか・・・それは当たってるかもしれないな・・・。この車は自分しか乗らないから、こうやってぬいぐるみを置いているのよ。
本当はもっとたくさん持ってると思う。よもしかしたら秘密の部屋にぎっしり詰まってるかも。」
少女趣味を持つ大企業の社長か・・・・。それはそれで面白いけど、やはり人には知られたくないのだろう。
だからこそ、その秘密に近づこうとした祐希さん達は捕まったのかもしれない。
「さあ、早くさっきの旅館に行こう!ある意味今がチャンスだから。」
「どうしてですか?みんなが捕まっているかもしれないのに・・・。」
「あの旅館には、きっと兄さんの秘密の部屋がある。だったら・・・ここへは一人で来ているはずよ。」
「ああ、なるほど。社長の部下がいないってことですね。」
「そういうこと。段田専務と佐々木さんだけが一緒にいるんじゃないかな?とにかく早く行かないと、祐希さん達が心配だわ。」
課長はクルリと踵を返し、旅館に向かって走り出した。俺は置いて行かれないように全力で後を追い、息を切らして旅館の前まで駆けた。
課長とならんで大きな門を見上げ、その立派な佇まいに「ほええ・・・」と声が漏れた。
「すんごい金のかかってそうな建物ですね。」
「感心してないで中に入りましょう。きっと祐希さん達が捕まっているはずだから。」
課長はまったく怯えるそぶりを見せずに、ズカズカと中に入って行く。
「ちょ、ちょっと課長・・・。そんなに正面から堂々と・・・・、」
「堂々と入って行かないでどうするの?裏でコソコソやる方が危ないと思うけど?」
「い、いや・・・相手はあの社長ですよ。いったいどんな罠が待っているか・・・。」
「じゃあ冴木君はここに残る?」
「い・・・いえいえ!もちろんお供しますよ、ええ。」
「ふふふ、期待してるわ。もし何かあったら、祐希さん仕込みの柔道で守ってね。」
課長は眩しい笑顔で微笑み、旅館の扉を開いた。
ああ・・・あなたの為なら、たとえ火の中、水の中・・・この身に代えても守ってみせますよ!
俺はトコトコと課長の後ろをついて行き、いざという時の為に腕まくりをした。
「すみません。誰かいらっしゃいませんか?」
課長の声が旅館の中に響く。
「すみませ〜ん!どなたかいらっしゃいませんか?」
・・・・誰も出て来ない。これは明らかに変だ。普通の旅館ならすぐに誰かが出て来るはず・・・っていうか、受付に誰もいないこと自体がおかしい。
課長は何度も大声で呼びかけ、グルリと館内を見渡した。
「誰も出て来ないね。さっきは佐々木さんと段田専務が入って行ったのに・・・・。」
「居留守を使うつもりじゃないですか?俺たちに入られたくないんでしょうね。」
「・・・・・じゃあ勝手に上がろう。」
そう言って靴を脱ぎ、脇にあったスリッパを履いて勝手に上がる課長。すると廊下の奥からトタトタと足音が聞こえてきて、桃色の着物を着た女将が現れた。
「ちょ、ちょっと・・・勝手に上がらないで下さい。」
「さっきからずっとお呼びしているのに、誰も出て来ないから上がったんです。失礼ですが、あなたがこちらの女将さんですか?」
「ええ・・・そうですけど・・・・・。」
「では率直にお聞きします。この旅館へ女性のライターが来ませんでしかた?もしかしたら、他に一人か二人女性がいたかもしれません。」
「さ、さあ・・・・存じ上げませんが・・・・。」
「では年配の男女がここへ来ませんでしたか?一人は事務員のような恰好をした女性で、もう一人はスーツを着た恰幅の良い男性です。」
「さあ・・・来られていないと思いますが・・・・。」
「そんなはずはありません!私はさっき見たんです。中年の男女がこの宿へ入る所を。女将のあなたが知らないはずないでしょう?」
「・・・・そ、そう仰られても・・・・。」
女将は明らかにうろたえていた。いや、うろたえているというより、何かに怯えているといった方が正しいかもしれない。
課長はズイっと女将に詰め寄り、顔を近づけて言った。
「回りくどいことは嫌なので、正直にお尋ねしますね。北川隼人を出して下さい。私は彼の妹です。」
「お、オーナーの妹さん・・・・?」
そう口にしてから、女将はしまったというふうに顔を逸らした。
「今なんて言いました?オーナー?」
「い、いえ・・・・なんでも・・・・。」
「北川隼人はこの旅館のオーナーなんですか?だったらここへ連れて来て下さい。翔子が会いに来たと伝えてくれれば、きっと出て来るはずです。」
「そ、それは・・・・・。」
女将はまったく目を合わせようとしない。そわそわと手を動かし、誰かに助けを求めるようにチラチラと奥を見ていた。
「女将さん、すぐに北川隼人を呼んで来て下さい。無理だというのなら、このまま旅館の中を捜すだけです。」
課長は女将の脇を通り抜け、廊下の奥へ向かう。
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
女将は慌てて課長を引きとめ、廊下の奥に向かって叫んだ。
「支配人!ちょっと助けて〜!」
課長は目をつり上げて廊下の奥を睨む。すると先ほどロッテンマイヤーさんと話していたおっさんが、「なんだ?」と顔をしかめながら現れた。
そして課長の姿に気づき、口を開けて固まっていた。

稲松文具店 第十七話 捕らわれた仲間(2)

  • 2014.09.05 Friday
  • 17:06
穏やかな瀬戸内の海が、潮風を運んで髪を揺らす。
私は翔子達と別れたあと、祐希の指定した場所に向かっていた。場所は海辺に立っている高級旅館の前で、そこで落ち合うことになっていた。
隼人に見つからないように細心の注意を払い、タクシーに乗ってそこまで辿り着いた。
「久しぶりね、溝端さん。会うのはこれで二回目かしら?」
旅館の前で待っていた祐希は、いかにもフリーライターという動きやすそうな恰好で手を振った。翔子ほどではなくても、なかなかの美人だと思いつつ、私も手を振り返して近づいた。
「隼人の動きを探るんでしょ?私も手を貸すから、あいつの弱みを掴みましょう。」
強気な口調でそう言うと、祐希はニコリと笑って頷いた。
「さっきまではずっと隼人の動きを追いかけていたんだけど、ちょっと事情が変わったのよ。心強い援軍のおかげでね。」
「心強い援軍?」
「ふふふ、実はね、もうほとんどあいつのアレの隠し場所は分かってるのよ。」
祐希は肩に掛けていたカメラを持ち上げ、肩を竦めて笑った。
「隼人が必死に隠している少女マンガのコレクション・・・この近くの建物にあるわ。
だから後はそこに潜入して、このカメラに現場を収めるだけ。」
勝ち誇った表情でカメラを構え、自信満々に胸を張る祐希。
「そう。ならとっととやっちゃいましょ。こっちは兄妹を人質に取られてるんだから、モタモタしてられないのよ。」
「分かってるわ。でもちょっと待って。箕輪さんがトイレに行ってるから。」
「箕輪?・・・ああ、いいじゃない、あんな地味な奴は放っとけば。どうせいてもいなくても変わらないでしょ?
ていうか、一緒に連れて行くと足手まといになりそうなんだけど?」
髪を掻き上げながらそう言うと、後ろから「誰が足手まといだって?」と声が掛かった。
「ああ、いたの?ゴメンね。私って気を使わない性格だから。」
「あ、そ。でも全然気にしてないからいいよ。自分でも地味な奴だって自覚してるし、特別役に立つわけでもないから。」
箕輪は生意気にガンを飛ばし、私を無視するように祐希の傍へ歩いて行く。
「へえ〜、自分でも自覚してるんだ。だったらさ、何でここにいるわけ?足手まといになるって分かってるなら、余計な事しなくていいのに。」
「私は役に立たなくても、私の友達が役に立つのよ。ねえ、優香ちゃん?」
箕輪は私の後ろに向かって、ニコリと微笑む。すると二人の少年と少女が旅館の角から現れ、じっと私を見つめた。
「・・・誰?この子たち?」
「明君と優香ちゃんよ。社長のアレの隠し場所を見つけてくれた功労者。ね?」
《この少年と少女が・・・・?》
私はじっと二人を見つめ返す。明と呼ばれた中学生くらいの少年が、恥ずかしそうに目を逸らす。そして優香と呼ばれた小学生くらいの少女は、ニコリと笑みを返して来た。
「二人とも、こっちおいで。」
箕輪が手招きをすると、少女の方がタタっとこちらに駆けて来た。そして後ろを振り返り、「お兄ちゃん」と手招きをしている。
旅館の角に隠れていた少年は、ペコリと頭を下げながらゆっくりと歩み寄って来た。
「で?この子たちは誰?隼人のアレの隠し場所を見つけたってどういうこと?」
私は腕を組んで尋ねる。さっきまでは辛辣な口調だったのに、今は穏やかな口調に変わってしまった。どうやら私は、こういう幼い兄妹に弱いらしい。
どうもあの子たちと重なって見えてしまうから。
「・・・お姉さん、怒ってる?」
優香という少女が、顔色を窺うように覗きこんでくる。
「なんで?怒ってないわよ。」
「ならよかった。あのね、うちのお兄ちゃんビビりなんだ。柔道の黒帯のくせに、ちょっとしたことでビビるの。
さっきお姉さんと箕輪さんが喧嘩してたから、緊張しまくってるの、ねえ?」
優香ちゃんは笑いながら少年を見上げる。
「・・・うるさいな。余計なこと言うなよ・・・。」
「だってビビってたじゃん。コソコソ陰に隠れてさ。」
「黙れ・・・。」
明君はピンと妹のおでこを叩き、ムスっとむくれる。
なるほど・・・この子たちは私の兄妹に似ている。人見知りで気の弱い兄と、物怖じしないやんちゃな妹。微笑ましく思いながら見つめていると、祐希が声を掛けてきた。
「どうしたの?頬が緩んでるけど。」
「・・・何でもないわ。それより私の質問に答えてよ。この子たちは誰?それに隼人のアレを見つけたって・・・どういうこと?」
「実はね、私は明君が通っている学校で、柔道部のコーチをしてるのよ。それにこの二人は箕輪さんの友達でもあるから、ちょっと協力してもらったわけ。」
祐希がそう言うと、明君が恥ずかしそうに口を開いた。
「優香と一緒に近所のコンビニに行くと、偶然コーチに会ったんです。なんだか探偵みたいにコソコソしてたから、何してるんですかって聞いたら、事情を話してくれたんですよ。」
「ふふふ、明君には冴木君の組み手相手にもなってもらったからね。おおよその事情は教えてたのよ。そして今は隼人の秘密を探してるって言ったら、とんでもない事を言いだしたの。」
「とんでもないこと・・・?」
「この子たち・・・隼人の秘密を知っていたのよ。」
「それほんと?」
眉を寄せて尋ねると、優香ちゃんが前に出てきて説明した。
「あのね、まだお兄ちゃんが小学生の頃に、一緒にここへ潮干狩りに来たの。」
「潮干狩り?」
「うん、私達の小学校は、毎年春になるとここへ潮干狩りに来るの。それでね、その時にたくさん少女マンガを抱えてるおじさんを見たんだ。」
「それマジ?」
「マジだよ。お兄ちゃんがオシッコを漏らして泣いてたから、私が一緒にトイレへ連れて行った時のこと。」
そう言うと、明君が「嘘つくな!」と怒鳴った。
「オシッコ漏らしたのはお前だろ!あの時お前はまだ小三だったから、我慢できずに泣いてたじゃないか。俺がたまたま近くにいたからトイレに連れて行ったんだ!」
「やめてよ!そういうのはこの場面では重要じゃないの!なんで女の子に恥をかかせるような事を言うかなあ・・・。」
優香ちゃんは腕を組んでプクリとむくれ、明君は顔を真っ赤にして怒っている。私は笑いそうになるのを堪え、咳払いをして「それで?」と促した。
「でね、オシッコをもらしたお兄ちゃんをトイレに連れていく途中に、そのオジサンとぶつかったの。そしたら抱えてたマンガを全部落としたから、拾ってあげたんだ。」
「・・・それ、死ぬほど恥ずかしかったでしょうね、アイツ。」
また笑いがこみ上げてきて、思わず吹き出した。
「オジサンは真っ赤な顔して『ありがとう・・・』って言ってた。それで逃げるように向こうの旅館に入って行ったんだよ。」
優香ちゃんは高級旅館の二つ隣にある、小さな旅館を指さした。
「それで・・・その後はどうなったの?」
「分かんない。その後はトイレに行って、潮干狩りに戻ったから。」
「そう・・・・。」
私は優香ちゃんの指さした旅館を見つめた。建物の大きさ自体は大したことはないが、外観はかなり立派だった。和風の粋を集めて造ったような、風情溢れる旅館だ。
「けっこう値段の張りそうな旅館ね。でも普通あんな所に隠すかしら?」
絶対に人に見られたくないものを、旅館に隠すとは思えない。不思議に思って首を捻っていると、祐希が口を開いた。
「あの旅館はね、隼人がオーナーなのよ。」
「そうなの?」
「私もついさっき知ったばかりなんだけどね。優香ちゃんの話を聞いてから、すぐにライター仲間に調べてもらったのよ。
そしたらなんと、あれは隼人が建てた旅館だってことが分かったわけ。自分の所有する建物なら、秘密を隠すにはうってつけよね。」
「なるほど・・・それじゃやっぱりあそこに隼人の大好きな少女マンガが隠されているわけね。」
場所が分かれば勝ったも同然。これでいよいよ隼人にトドメが刺せるというわけだ。
「じゃあ早く行こうよ。モタモタしてると、いつ隼人に見つかるか分かんないからさ。」
私は拳を握って隼人の旅館に向かう。すると優香ちゃんがトタトタと走って横に並んで来た。
「私も一緒に行く。」
そう言ってギュッと手を握って来る。
・・・・懐かしい感触だった。
まだあの子たちが幼かったころ、よくこうして手を繋いで歩いたものだった。思わず涙ぐみそうになり、顔を背けて咳払いをした。
「優香ちゃん、ここから先はお姉さんに任しておきなさい。」
「なんで?」
「危ないからよ。」
「危なくないよ。ただの旅館なのに。」
「・・・そうね。でもあの旅館のオーナーが危ない奴なの。だからここで大人しく待ってようね。」
微笑みながら優香ちゃんの肩を叩き、明君の方を見つめる。
「お兄ちゃん、ちゃんと妹のこと見ててやんなさい。ほら。」
私は優香ちゃんの背中を押し、明君の手に押し付ける。
「ええ〜、私も行く〜!」
「ダメだって!大人を困らすなよ。」
イヤイヤと駄々をこねる優香ちゃんを、明君は必死に宥めている。すると箕輪が二人の肩を叩いて、諭すように言った。
「君たちは私と一緒にここで待ってるって約束でしょ?それが条件で連れて来たんだから。」
「でもここを見つけたのは私だよ?だったら一緒に行ってもいいじゃん。」
「ダ〜メ。子供に危ないことはさせられないの。もし君たちに何かあったら、お父さんとお母さんが心配するよ?」
「でも・・・・・、」
「優香ちゃん。」
「・・・・はい。」
箕輪に睨まれ、優香ちゃんはシュンと萎れる。
「この子たちは私が見てるから、あんた達だけで行って来てよ。私も危ないのはゴメンだし。」
「分かってるわ。最初からあんたを連れて行く気なんかないし。ちゃんとその子達を見ててあげて。」
私は祐希と顔を見合わせ、コクリと頷き合った。
「それじゃすぐ終わると思うから、ちょっと待っててね。ああ、それと翔子ちゃんに連絡を入れておいて。隼人のアレを見つけたって。」
祐希は手を振り、私と並んで隼人の旅館に向かった。
「気をつけてね。」
箕輪が心配そうに言い、私は手を振ってこたえる。そして・・・・旅館の前までやって来て、門を見上げて立ち止まった。
「趣き深いっていう言葉がピッタリの旅館ね。まるで貧乏人は入るなって言ってるみたい。」
「実際に入るなって意味があるんでしょうね。ここには隼人の秘密が隠されているんだから。さあ、仕事はスピードが命。早く終わらせちゃいましょ。」
「それ同感。早くこんな厄介事とオサラバしたいわ。」
吐き捨てるように呟き、私と祐希は並んで門をくぐった。そして日本庭園風の中庭を抜け、旅館の入り口を開けて中に入る。
「中もこれまた金がかかってそうね。高そうな屏風に高そうな水墨画。貧乏のびの字も感じさせないって内装よね。」
嫌味ったらしく中を見渡していると、着物を着た女が廊下を通りかかった。
「あの、ちょっといいですか?」
祐希が嘘くさい笑顔で話しかける。
「はい・・・何でしょう?」
綺麗な桃色の着物を着た女が、怪訝そうに眉を寄せる。どうやらコイツが女将のようだが、とても接客業の人間の態度とは思えない。
普通は旅館にやって来た相手にこんな顔はしないはずだ。
「私、ライターをしております、御神祐希と申します。実はある雑誌の取材でこちらを訪れていたんですが、宿がなくて困っていたんです。
ですから、もし空き部屋があるならこちらで泊らせて頂きたいのですが。」
営業スマイルでニコニコと言う祐希に対し、女将の返事は素っ気ないものだった。
「申し訳ありませんが、事前にご予約の無い方はお泊り頂くことが出来ないんです。
もし宿をお探しなら、二つ隣に旅館がありますから、そちらへ行かれたらいかがですか?」
事務的な口調で淡々と伝え、頭を下げて去って行く女将。
「ちょ、ちょっと待って下さい!向こうの旅館は満室だと言って断られてしまったんです。」
女将は足を止め、さらに怪訝そうな顔で振り返る。
「はあ・・・満室ですか・・・?そんなはずはないと思いますけど・・・。行楽シーズンならともかく、この時期に宿が埋まることは無いはずですけどねえ。」
「・・・そうですね、正直、ちょっと嘘をついてしまいました。すみません。」
祐希は営業スマイルを引っ込め、急に砕けた態度になった。
「実はこの辺りを取材しているうちに、この旅館のことをお聞きしたんですよ。美しい日本庭園を持った、風情のある旅館が建っていると。
ですからどうしてもここに泊まりたいと思ってやって来たんです。」
「はあ・・・そう言われましても・・・ここは予約の無い方は・・・、」
「分かっています。でも無理を承知でお願いしているんです。」
祐希はペコリと頭を下げ、私に目配せをしてくる。
「お願いします。」
私も同じように頭を下げるが、女将はまだ納得しない。
「お気持ちは分かりますが・・・・今日はちょっと・・・・。」
「今日はちょっと・・・?」
「ああ、いえ!なんでもありません。こちらの事情ですから。それより、やはり予約の無い方は無理なんです。すみませんが・・・・・。」
「・・・そうですか。ではこの旅館は、客がやって来ても門前払いを食らわせるわけですね?旅館といえばサービス業なのに、客にこの扱いは有り得ない。」
祐希の態度が豹変し、笑顔が消えて冷徹な表情になる。
「こんなに立派な旅館なのに、そこで働いている人間はまったくなってないわ。取材で色んな所に行ったけど、ここまで融通の利かない宿は初めて。それに愛想も悪いし。
見たところ、あなたがここの女将よね?」
「ええ・・・そうですが・・・・。」
祐希の態度の豹変ぶりに、女将はうろたえ始める。
「下っ端の従業員ならともかく、それらを指導する立場にある女将がこれじゃあねえ・・・・。この旅館のレベルも知れてるわ。
こんな所はこっちから願い下げよ。溝端さん、他をあたりましょう。」
祐希は吐き捨てるように言い、女将に一瞥をくれてから踵を返す。
「あ、そうそう。今度の記事に、この旅館のことを書いてあげるわ。客を追い返すとっても酷い旅館だって。
外観だけが立派で、中身は最悪。サービス業の基本的な心得もなっていない。おもてなしの精神が重要なはずの旅館なのに、その欠片も見受けられないってね。」
そう言いながらカメラを構え、女将に向かってシャッターを切る。ストロボの閃光が走り、女将の顔がギョッと引きつった。
「あなたの顔の写真入りで雑誌に掲載しておくわ。楽しみにしててね。」
嫌らしいほどニコリと笑い、手を振りながら出て行く祐希。すると女将は慌てて駆け寄って来て、「お待ちください!」と回り込んだ。
「しょ、少々お待ち下さい。支配人に相談して参りますので。」
「でも予約が無いとダメなんでしょ?」
「いえ・・・一応はそうなっているんですが・・・少々お待ちを。」
女将は深々と頭を下げ、足早に奥へと消えて行った。
「・・・・・予想通りね。」
祐希はカメラを掲げてニコリと笑う。
「何が予想通りなの?」
「簡単な話よ。ここは隼人の信用のある人物しか泊れないの。なんたってあいつの秘密が隠されているんだから。予約がどうのってのは、信用の無い客を追い払う為の建前よ。」
「なるほど・・・。じゃあこの旅館を雑誌で叩くなんて言ったら、そりゃあ慌てるわよね。そんな事になったら悪い意味で注目されるわけだから。」
「そういうこと。きっとあの女将は、何も知らずに隼人の言い付けを守っているだけよ。
俺の許可した者以外は泊めるなってね。だから可哀想といえば可哀想なんだけど、今は緊急事態ということで仕方ないわね。」
「ふふふ、あんたいい性格してるわ。私と馬が合うかも。」
「あんまり嬉しくないわね。元スパイに言われても。」
「そりゃそうね。」
私は肩を竦めて笑い、壁にもたれかかって女将が戻って来るのを待った。そして二十分後・・・・私たちをたっぷり待たせてから、女将は満面の接客スマイルで三つ指をついた。
「支配人と相談いたしましたところ、是非お泊り下さいとのことです。」
「それはよかった。なんだかごめんなさいね、無理言っちゃって。」
「いえいえ、とんでもございません。それでは部屋まで御案内致します。」
女将はスリッパを揃え、「どうぞ」と中へ手を向ける。
「じゃあ溝端さん、行きましょうか。」
「・・・・・・・・・・。」
私は笑いを堪えながらスリッパに履き替え、女将に案内されて廊下を歩いた。
「どうぞ、こちらの部屋です。」
美しい木造の引き戸を開け、女将は中に手を向ける。
「へええ・・・これは立派な部屋ですね。和風の趣があって、とても落ち着きます。」
祐希の言うとおり、部屋は立派なものだった。
綺麗な畳に、渋い木目のテーブル。それに壁には美しい水墨画が掛かっていて、窓の外には日本庭園が見える。
その向こうには海が広がっていて、見ているだけでも心が癒される風景だった。
「お茶をお持ちいたしますので、どうぞ御寛ぎ下さい。」
女将は頭を下げ、足音を立てずに部屋を出て行った。
「さて、中へ入れたはいいけど、どこにアレが隠してあるかが問題ね。溝端さん、あの女将は私が引きつけておくから、あなたが探って来てちょうだい。」
祐希はそう言ってカメラを差し出す。
「了解。バッチリこのカメラに収めてやるわ。」
これで・・・これでついに隼人にトドメが刺せる。
あいつが隠している少女マンガのコレクションを暴露すれば、いったいどんな顔をするだろう?想像しただけでも笑いが止まらず、俄然やる気になってきた。
「失礼致します。」
女将が高そうなお茶を運んできた。
「取材でお疲れでしょう?どうぞお茶を飲んで御寛ぎ下さい。」
「へえ、これは玉露ね。しかも相当いいお茶だわ。」
湯呑みから立ち昇る香りにそそられ、思わずそれを手に取った。
「・・・うん、美味しい。でもちょっと苦味が強いかな?」
お茶を楽しんでいると、祐希に肘を突かれて咳払いされた。
「これはとてもいいお茶ですね?どこの葉っぱを?」
「ああ、それは・・・・、」
祐希は女将の向かいに腰を下ろし、ズズっと玉露をすする。あれやこれやとお茶の話が飛び交い、女将は饒舌に説明していく。
よし・・・今の隙に・・・・。
私は足音を殺しながら部屋を抜け出し、廊下を歩いて周りを見渡した。
「まさか客室に隠しているなんてことはないわよね。だったら・・・あとはどこだろ?やっぱりオーナーの部屋・・・とか?でもそんなもんがあるのかな?」
館内は外から見た時よりもかなり広く、お目当てのものを探し当てるにはちょっと苦労しそうだった。しかしここまで来れば勝ったも同然で、ニヤニヤ笑いが止まらなくなる。
「さあて・・・隼人君はアレをどこに隠してるのかなあ〜・・・。」
カメラを片手に館内を歩きまわり、エレベーターの前に辿り着いてボタンを押した。
「多分一階じゃなさそうね。ここは最上階から探してみるか。」
エレベーターのドアが開き、中に乗り込んで三階のボタンを押す。そして扉が閉じていく時に、ふと違和感を覚えた。
「そういえば・・・・なんでこんなに静かなんだろ?普通は仲居さんとかがいて、宿泊客だって・・・・・、」
そう呟きかけた時、突然目の前が揺らいだ。
「あれ・・・?今・・・なんか目眩が・・・・。」
思わず壁に手をつき、倒れそうになるのを堪える。
そして次の瞬間、立っていあれないほど頭がクラクラしてきた。
「なに・・・・これ・・・。意識が・・・・。」
それは強烈な眠気だった。抗えないほどの睡魔が襲いかかり、私の意識を奪おうとしてくる。
「これって・・・・まさか・・・・。」
こんなに強烈な眠気が、いきなり襲ってくるわけがない。となると、これは・・・睡眠薬しか考えられない。
「ああ!・・・きっと・・・さっき飲んだ玉露に・・・・。」
あのお茶を飲んだ時、かすかに違和感を覚えた。ほのかなお茶の風味の中に、妙な雑味が混じっていたのだ。
「あのお茶・・・・絶対に睡眠薬が・・・・。でも・・・あれは・・・確か・・・祐希も・・・飲んで・・・・・。」
ついに身体を支えられなくなり、エレベーターの床に倒れる。三階についたエレベーターの扉が開き、私は手を伸ばした。
「ダメ・・・・ここで寝たら・・・。きっと・・・・祐希も・・・・・寝てる・・から・・・・。
私まで・・・・寝ちゃったら・・・隼人を・・・倒せ・・・な・・・・。」
なんとか意識を保とうとするが、睡魔は容赦なく襲いかかってくる。すると誰かの気配を感じて、力を振り絞って見上げてみた。
「やあ、溝端さん。こんな所までご苦労さん。捜す手間が省けたよ。」
「は・・・・隼人・・・・。」
憎き敵、北川隼人がニコニコと笑いながら見下ろしている。その手には『ピュアラブ☆』という、甘ったるさ満載の少女マンガ雑誌が握られていた。
「残念だったね、あと一歩の所まで来ていたのに・・・。でもまあ、クズにしちゃよく頑張った方だよ。はははは!」
「・・・・く・・・あ・・・あんたあ・・・・・。」
私は鬼の形相で隼人を睨みつけた。
ここまで来て・・・・ここまで来て負けたくない・・・。せっかくトドメを刺せるチャンスなのに・・・ここまで来て・・・。
歯を食いしばって眠気に耐えるが、睡魔はそれをあざ笑うかのように力を奪っていく。
そして・・・・・私の意識は完全に闇に落ちた。

稲松文具店 第十六話 捕らわれた仲間(1)

  • 2014.09.04 Thursday
  • 19:05
下町の風情を残す情緒溢れる街に、場違いな高級マンションが建っている。
地上十階建てのそのマンションは、どの建物より高く、田舎の街並みを見下ろしていた。
「凄いですね・・・。これが社長のマンション・・・。」
俺はバベルの塔を見上げるような気持ちで、ゴクリと息を飲んだ。
「この最上階が兄の部屋なんだけど、それ以外にも二つ部屋を持っているのよ。
溝端さんの兄妹は、きっとそのどちらかの部屋に軟禁されているはず。」
課長も緊張した面持ちでマンションを見上げ、植え込みの陰に隠れながらケータイを取り出した。
「まだ祐希さんから連絡はないわね。上手くやってくれるといいんだけど・・・。」
心配そうな顔で呟く課長を見て、俺もなんだか不安になってきた。
もし祐希さん達が社長のアレを見つけ出せなければ、俺達が溝端さんの兄妹を救出しないといけない。
あの社長のことだから、きっと厳重に警備をしいているはずだろう。
だから会長も手を貸してくれている。
マンションの周りにはゴツイ男たちが身を隠していて、いざという時は戦ってくれるはずだ。でも人質の救出となれば、力だけでどうにかなるもんじゃない。
無理に突入すれば、それこそ溝端さんの兄妹を危険に晒すことになるわけで、今はとにかく祐希さんからの朗報を待つしかなかった。
「辛いもんですね、ただ待つっていうのは・・・。」
「そうね・・・。じっとしていると余計に焦ってくるから。
でもここは我慢よ。祐希さん達なら、きっと兄のアレを見つけ出してくれるはずだから。信じて待ちましょう。」
俺と課長は目を合わせて頷き、マンションの最上階を見つめた。
社長は今頃、溝端さんを捜して街を走り回っているだろう。もちろん一人ではなく、大勢の部下を連れて血眼になっているはずだ。
祐希さん達は上手く隠れながらそれを追っているわけだけど、もし見つかったら一貫の終わりだ。
「大丈夫ですよすかね、あの人達は・・・。祐希さんと溝端さんはともかく、箕輪さんには荷が重い仕事なんじゃ・・・。」
「そんなことないよ。箕輪さんはすごくしっかりした人だから、きっと上手くやってくれるはず。」
「そうですかねえ・・・。あの人、けっこう抜けてる所がありますよ?仕事だってちょくちょくミスってるし。」
「でも冴木君ほどじゃないでしょ?」
「ま、まあ・・・そりゃそうですけど・・・・。」
「大丈夫よ。ちゃんと仲間を信じないと、上手くいくものもいかないわ。」
「そういうもんですか?」
「私はそう思ってる。信頼出来る仲間や友達ほど、頼りになるものはないもの。兄や溝端さんの情報を集められたのだって、私の友達のおかげなんだから。」
「え?あれってオウムのおかげじゃないんですか?」
「まさか。いくらオウムが人の言葉を覚えるっていったって、そこまで上手くいくわけないでしょ?これにはちょっと秘密があるのよ。」
「秘密・・・ですか?それってどんな・・・・、」
そう言いかけた時、課長に口を塞がれた。
「し!静かに!誰か出て来た・・・・・。」
課長は俺の手を引っ張ってサッと身を隠す。
ああ・・・柔らかいなあ・・・・課長の手は・・・・。
しかし今はそんなことで惚気ている場合じゃない。俺は植え込みの陰から首を伸ばし、マンションの入り口を見つめた。
「あれは・・・・ロッテンマイヤーさん!」
「だから声が大きいって!」
また課長に口を塞がれ、植え込みに引き戻された。
「・・・なんでロッテンマイヤーさんがこんな所に・・・・・。」
あまりにも場違いな人物の登場に、一瞬思考が停止する。
あんな事務のおばちゃんが高級マンションに住んでいるわけはないし、かといって社長の愛人なわけがない。
きっと・・・きっとどこかで社長と繋がりがあるんだ。
植え込みに隠れながら注意深く観察していると、右手に何かを持っているのに気がついた。
「あれは・・・何ですかね?指に引っかけてクルクル回してるけど・・・。」
「多分・・・鍵じゃないかな?遠くてよく見えないけど、多分鍵だと思う。」
「鍵・・・・か。でもロッテンマイヤーさんは免許を持っていないはずだから、車じゃないですね。家の鍵・・・・ってわけでもなさそうだし・・・いったい何の鍵なんだ?」
ロッテンマイヤーさんは陽気に鍵を回し、軽快な足取りで歩いていく。
「・・・あの鍵は気になるわね。後をつけよう。」
課長は気配を殺しながらゆっくりと後を追う。そして俺の方に振り返り、チョイチョイと手招きをした。
「で、でも・・・溝端さんの兄妹は・・・・。」
「分かってる。けどロッテン・・・、佐々木さんはきっとこの騒動と無関係じゃないと思うわ。ただの勘だけど・・・・そう思うの。」
「・・・分かりました。課長がそこまで言うなら尾行しましょう。ここは会長の部下が見張ってますから、ちょっとくらい抜けても問題ないだろうし。」
溝端さんの兄妹のことは会長の部下に任せ、俺達はロッテンマイヤーさんの後をつけていく。
住宅地を抜け、信号を曲がり、最近出来たばかりのコンビニに入って行くロッテマイヤーさん。見つからないように駐車場の壁に身を隠し、じっと様子を窺った。
「何してるのかしら?」
課長は首を伸ばして店の中の様子を見つめる。俺も課長の下から顔を出し、目を細めて様子を窺った。
「・・・雑誌かなんかを読んでますね・・・。店で肉まん食いながら・・・。」
「・・・ただ買い物に寄っただけなのかな?」
課長はさらに首を伸ばして覗きこむ。すると俺の頭に胸が当たった。
「ちょ、ちょっと・・・課長・・・・。」
「まだ雑誌を読んでる・・・。ただの立ち読みかな・・・。」
「い、いや・・・・あのですね・・・課長の胸が俺の頭に・・・・・。」
「じっとしてて。あんまり動くとバレちゃうから。」
「は・・・はい・・・。」
ああ・・・なんと幸せな時間か・・・。
課長の胸が頭に上に乗ってるなんて・・・しばらくこのままの体勢でいてほしいな。
「あ!出て来た・・・隠れて!」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・ちょっと冴木君!ボーっとしてないで早く!」
課長は俺の腕を引っ張って壁に隠れる。そしてチラチラと顔を出して様子を窺い、ゴクリと息を飲んだ。
「レジ袋を持ってるけど、何を買ったのか分からないわね・・・。この騒動と関係のあるものかな?ねえ、冴木君はどう思う?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「冴木君・・・?どうしたの、顔が真っ赤だけど・・・。もしかして風邪でも引いてる?」
課長は心配そうに顔を覗き込み、おでこに手を当ててくる。
「ちょっと熱いかな・・・。もし体調が悪いなら、後は私一人で・・・・、」
「・・・いえいえ!滅相もない!この通り元気ピンピンですよ、ええ!さあ、気合を入れて尾行を続けましょう、ええ!」
「気合は入れても、気配は消してね。バレたら尾行の意味がないんだから。」
諭すように注意され、課長は手招きをしながら尾行を再会する。
・・・課長・・・俺は風邪なんか引いていません・・・。
ただ・・・恋の病にかかっているだけです・・・・それもあたなに対して・・・。
「・・・冴木君!早く!・・・。」
「す、すいません・・・・・。」
そそくさと立ち上がり、電柱に隠れる課長の元へ走った。
「ねえ、佐々木さんの家ってこの辺だっけ?」
課長は考えこむように口元に手を当てた。
「いや・・・この辺じゃないと思いますよ。いつもは駅の方から出勤して来ますから。」
「じゃあ家に帰るつもりじゃないみたいね。駅とは反対の方に向かってるから。
それにハリマ販売所とも違う方向だし・・・いったいどこへ向かってるんだろう?」
ロッテンマイヤーさんはデカイお尻を振りながら歩いて行く。片手に買い物袋を下げ、河原沿いの大通りをひたすら進んでいく。
そしてバス停のベンチに座り、ケータイを取り出して電話を掛けていた。
「誰と話してるんだろう?」
俺達は蓋の開いた側溝に身を隠し、じっと様子を窺った。
通りがかりのおばちゃんが怪訝そうにこちらを見つめるが、愛想笑いを返して誤魔化した。
「・・・なんだか神妙な顔をして話してるわね・・・。それにレジ袋の中から何かを取り出してるわ・・・。あれは・・・・雑誌?いや、もっと分厚いわね・・・もしかして・・・。」
課長は息を飲んでロッテンマイヤーさんを見つめる。拳を握り、眉を寄せて、興奮気味に頬を紅潮させていた。
「・・・間違いない・・・。やっぱりアレだわ・・・。ということは・・・まさか!」
課長の目がクワっと見開かれる。側溝から身を乗り出し、不用意に姿を晒してロッテンマイヤーさんを凝視する。
「課長!見つかっちゃいますよ!」
「分かってる!けど・・・落ち着いてなんかいられないわ!」
俺は課長の腕を引っ張り、側溝の中に引き戻した。
「ここは落ち着いて下さい。さっきそう言って俺を宥めたのは課長でしょう?」
「でも・・・佐々木さんは兄さんのマンションから出てきて、アレを持ってるのよ。
これって、どう考えてもおかしいじゃない。」
「いや、たまたまってこともあるわけだし・・・。」
「じゃあ冴木君は、佐々木さんがアレを読むと思う?年配の女性が、子供向けの、しかも女の子向けのマンガを。」
課長は、ロッテンマイヤーさんが買い物袋から取り出したアレを指さした。それは小学生くらいの女の子が読みそうな、『ピュアラブ☆』という少女漫画雑誌だった。
「まあ・・・どう考えてもロッテンマイヤーさんが読む雑誌じゃないですね。」
「でしょ?」
「でも子供さんの為かもしれませんよ?」
「いいえ、佐々木さんは子供はいないはずよ。旦那さんと二人暮らしだから。」
「じゃあ・・・旦那さんが読むとか?」
真剣にそう答えると、課長は「はあ・・・」とため息を吐いた。
「冴木君・・・・私達の周りで、ああいうマンガを好きな人が一人だけいるでしょ?」
「俺達の周りに・・・・・?」
「・・・・私達は誰のマンションを見張ってたんだっけ?」
「誰って・・・社長のマンションに決まって、・・・・・・あああああ!」
「そうよ。私達の周りでああいう雑誌を読む人は、兄さんしかいないわ。」
そうなのだ、社長は少女マンガが大好きなのだ。それも大人が読むようなものではなくて、小さな女の子が読むようなマンガを好む。
現実には有り得ないような、甘ったるい恋愛を描いたマンガを。
「兄さんは・・・このことだけは絶対に人に知られたくないのよ。
あの人は完璧主義なところがあって、しかも凄く自分のイメージを気にするから。」
「ていうか、あんな大企業の社長なら、絶対に知られたくないでしょうね。俺が同じ立場でも隠すかも・・・。」
「冴木君もああいうのを読むの?」
「ち、違いますよ!もし社長の立場だったらの話です。でも・・・どうしてロッテンマイヤーさんがあんな物を・・・・・。」
そう呟くと、課長はじっとロッテンマイヤーさんを見つめながら答えた。
「これは私の推測だけど、佐々木さんは兄さんに雇われてるんじゃないかな?」
「雇われてる・・・?」
「うん。だっていい歳した男の人が、自分で少女マンガを買いに行くのは抵抗があるでしょ?だから佐々木さんに頼んで買って来てもらってるのよ。」
「でも自分で買いに行かなくても、ネットを使えば済むじゃないですか。」
「それはないわ。ネットで買えば履歴が残るでしょ?兄さんは完璧主義者だから、いかなる痕跡も残したくないのよ。だから佐々木さんに頼んで買って来てもらってるのんだわ。
きっとそれなりのお金で雇ってるんじゃないかな?口止め料も含めて。」
「ははあ・・・・それは有り得ますねえ・・・。でもそうなると、これからロッテンマイヤーさんが向かう先は・・・・。」
「うん、きっと兄さんの秘密がぎっしり詰まってる場所だわ。溝端さんが言っていたように、多分どこかで部屋を借りているのよ。
きっとそこに大量の少女マンガを隠しているはず。それを押さえれば、兄さんの暴走を止められるかもしれない・・・。」
課長はグッと目に力を込めて言う。
なんだか思いもよらない方向に事態が転がり始めたけど、俺は慌てなかった。なぜなら、ここ最近はそんな事ばかりで、いちいち驚いていたら身がもたないからだ。
「このまま後をつければ、きっと兄さんの秘密の部屋に辿り着く。冴木君、バレないようにしっかり尾行しましょう。」
「それは分かってますけど、祐希さん達はどうします?この事を連絡しといた方がいいんじゃないですかね?」
「そうね。じゃあちょっと電話を入れておいてくれる?」
「分かりました。」
俺はケータイを取り出し、祐希さんの番号に掛ける。コール音が鳴りだし、息を飲んで電話に出るのを待った。
「・・・・・・・・・・。」
・・・・繋がらない。ずっとコール音が鳴りっぱなしだ。
「どうしたの?電話に出ない?」
「ええ・・・。車を運転してる最中なのかな?ちょっと箕輪さんの方に掛けてみます。」
最近登録したばかりの箕輪さんの番号を呼び出し、ボタンを押す。コール音が鳴り、じっと耳を澄ます。しかし途中で留守番電話サービスに切り替わり、思わずケータイを見つめた。
「箕輪さんも出ない・・・。どうなってんだ?」
「もしかしたら、兄さんが近くにいて出られないのかもしれないわ。溝端さんに掛けてみて。」
「はい。・・・ああ、でも俺あの人の番号を知らないんです。」
「じゃあ私が掛けるわ。ちゃんと佐々木さんのことを見ててね。」
課長はケータイを取り出し、神妙な顔で電話を掛ける。
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・どうですか?」
「・・・ダメだ・・・。こっちも出ない。」
「どうなってんだ・・・。誰も電話に出ないなんて・・・。もしかして何かあったんじゃ・・・、」
そう言いかけた時、ロッテンマイヤーさんに動きがあった。俺達の後ろからバスがやって来て、こちらを振り向いたのだ。
「マズイ!しゃがんで!」
課長は俺の頭を押し付け、側溝に身を屈める。
ああ・・・また・・・また課長の胸が・・・・・。しかも今度は顔に当たってる・・・それもさっきより強く・・・。
あと一分このままだと、きっと俺は昇天してしまうだろう。頬に押し付けられる課長の胸は、それほどの至福を与えてくれた。
「バスに乗ったわね・・・。私達も追いかけないと・・・。」
課長は側溝から飛び出し、キョロキョロと周りを見渡した。
「でもどうやって追いかけよう・・・?こんな場所にタクシーなんて来ないし・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「ねえ冴木君、いったん車まで戻って・・・・って、冴木君?また顔が真っ赤になってるけど大丈夫?やっぱり風邪を引いてるんじゃ・・・。」
「・・・いえ、ぜんぜん平気です。・・・多分・・・。」
「ならいいけど・・・。調子が悪かったら無理しなくていいからね。」
調子は悪くないけど、心はざわついている。二度も課長の胸が・・・・・。ああ!今日はなんていい日なんだ!いやいや、全然良くない日なんだけど・・・・それでもいい日だ!
「それじゃ車まで戻ろう。あのバスは海沿いの図書館まで向かうはずだから、後を追いかけないと。」
課長は「行こう!」と言って走り出し、車を止めてある空き地まで戻る。
「俺の恋の病・・・・本当に火が点きそうだ・・・・。」
火照った顔を押さえながら、課長の後を追いかけて行った。

稲松文具店 第十五話 溝端恵子(2)

  • 2014.09.03 Wednesday
  • 19:30
「溝端さん、こんにちわ。」
店にいたのはギネス・ヨシムラではなく、北川翔子だった。そしてその隣にいるのは・・・・冴木。
冴木は相変わらず冴えない顔をしていて、眉を寄せてケータイを見つめていた。
翔子は椅子から立ちあがって私に近づいて来る。いつものように細身のスーツに身を包み、じっと見つめて笑いかけてきた。
「なんであんたがここにいるの?」
動揺を隠せず、威圧的な声が出てしまう。翔子は一瞬だけ目を伏せ、またニコリと笑って口を開いた。
「ギネス・ヨシムラさんなら、ここへは来ないわ。」
「・・・・・・・・ッ!」
なんで・・・・どうしてこの女がそのことを知ってるの?どこから漏れた?まさか・・・・盗聴器でも仕掛けられて・・・・。
「溝端さん。」
「な、何よ・・・・。」
「ちょっと話したいことがあるの。そこへ座って。」
翔子は自分の座っていたテーブルに手を向ける。私と目が合った冴木が、「どうも・・・」と呟いて頭を下げた。
「ビックリしてるよね・・・。まさか私達がいるなんて思わなかったでしょ?」
「・・・・当たり前じゃない。ていうか、なんであんた達がここにいるのよ?柔道の対決はどうしたの?もう終わったの?」
「いいえ、対決はしていないわ。それよりも、もっと大事な用が出来たから。」
「何よ・・・大事な用って・・・・。」
分かっている。翔子がなぜここにいるのか、尋ねなくても分かっている。
彼女はどうにかして私の思惑を知り、それを阻止する為にやって来たのだ。おそらくギネス・ヨシムラの方にも、稲松文具の人間が会いに行っているのだろう。
ならば・・・・ここにいてはいけない。翔子は私の企みを阻止するつもりなのだから、こんな所で話なんかしていられるわけがない。
「悪いけどあんたと話すことなんかないわ。じゃあね。」
クルリと背を向け、ドアに向かって足早に歩き出す。するとギュッと腕を掴まれて、「待って!」と引き止められた。
「逃げないで!お願いだから私達の話を聞いてほしいの。」
「嫌よ!何を考えてるか知らないけど、あんたと話すことなんかないわ!」
店の客が何事かと目を向けてくるが、私はお構いなしに翔子を睨みつけた。
「どうせ私の邪魔をするのが目的なんでしょ?だったら何も話すことなんかない!」
腕を振り払い、スタスタと店から出る。そして駆け足で逃げようとした時、また腕を掴まれて引き戻された。
「お願い待って!大事な話があるの!」
「こっちは話なんてないわよ!これ以上引き止めるなら、警察を呼ぶわよ!」
握っていたスマホを見せつけるが、それでも翔子は動じない。
「ええ、いくらでも呼んで。その代わり私の話を聞いてほしいの。じゃないと、溝端さんだけじゃなくて・・・あなたの兄妹まで不幸な目に遭うかもしれない。」
「あんた・・・あの子たちのことを知ってるの・・・?」
「父さんから聞いたわ。両親の借金を背負わされて、辛い思いをしていたんでしょ?あなたはそれを助ける為に、父さんに雇われた。」
「じゃ、じゃあ・・・・あの子たちのした事も・・・・。」
「知ってるわ。でも私は、絶対にそれを誰かに喋ったりはしない。やったことは許される事じゃないけど・・・でもあなたの兄妹だって、勝手な親の被害者なんだから。」
「当たり前よ!もし誰かに喋ったら、私はあんたを殺してやるわ!これ以上・・・あの子たちを不幸な目に遭わせるわけにはいかないんだから!」
「だから話をしようって言ってるの。このままだと、いずれ兄さんがあなたに復讐を始めるから。そうなったら、きっとあの人は手段を選ばない。
あなただけじゃなくて、兄妹だって的にされるわ。だからお願い・・・・私の話を聞いて。」
翔子は腕を引き寄せて睨みつける。細い腕のクセになかなか力があるもんだと、妙な感心をしていた。
すると店から出て来た冴木が、冴えない顔で翔子の隣に並んだ。
「溝端さん。お願いですから、ちょっとだけ時間を下さい。」
「何よ、冴木のクセに私に頼み事をしようっての?」
「もう時間が無いんですよ。社長はギネス・ヨシムラを脅しにかかったんです。もう向こうの話は決着してるから、モタモタしてるとこっちに乗り込んで来ますよ?」
「それが何よ・・・。もし私を脅そうっていうのなら、こっちだって黙ってないわ。北川一族のことを、洗いざらい世間にぶちまけてやるだけだから。」
「・・・自分の兄妹が人質に取られていても、そんな事が出来ますか?」
「・・・・・・ッ!」
何の事か分からず、一瞬固まってしまった。それと同時に一気に心拍数が跳ね上がり、顔から血の気が引いていくのを感じた。
「なんて・・・・今なんて言ったの?あの子たちが・・・・人質?」
「そうです。社長は溝端さんの兄妹を人質に取っているんですよ。だからもし変な行動を見せれば、あの子たちは・・・・・。」
「・・・そんな・・・・あいつ・・・・そこまでするなんて・・・・。」
クズだった・・・。北川隼人は正真正銘のクズだった。
もうこれ以上、あの子たちに辛い思いはさせたくないのに・・・あの外道め!
「はっきり言って、これはやり過ぎです。でも・・・あの人に逆らえる人はもういないんです。会長だって・・・もう止められない。」
「なによそれ・・・そんなの・・・どうしたら・・・。」
頭がクラクラしてきて、足元の感覚が覚束なくなる。
「大丈夫・・・?」
倒れそうになったところを翔子に支えられ、思わず顔を覆って泣いてしまった。
「・・・なんでよ・・・。なんで私達ばっかりがこんな目に遭うの・・・?嫌だよ・・・こんなの不公平じゃん・・・。」
「溝端さん・・・・・。」
神様は酷いと思った。私達は、ただ貧乏から抜け出したかっただけだ。それなのに、どうして次から次へと不幸を投げかけるのか?
頑張って・・・辛い生活から抜け出したいと思っているだけなのに・・・もう嫌だ・・・。
「ねえ溝端さん。まだ全てが終わったわけじゃない。兄さ・・・いえ、あの人を倒すまでは泣いていられないわよ。
私達も協力するから、一緒に戦おう。その為には、とにかく話を聞いてほしいの。もう時間が無いから・・・・お願い。」
翔子の目は真剣だった。労るような、そして励ますような力強さを感じた。気がつけば、私は答えていた。
「分かった・・・。だから・・・助けて・・・・。」
情けないと思いながら、涙を堪えられなかった。翔子が背中を撫でてくれるが、その手の温もりに安堵を感じるのが、余計に情けなかった。
「さっきの店には入りづらいだろうから、別の場所へ行こう。」
「じゃあ俺、祐希さんに連絡しますね。溝端さんと今から話をするって。」
「うん、お願い。」
翔子は私の肩を抱きながら、繁華街の奥にある公共施設に連れていった。ここは大きな美術展示室がたくさん入っている場所で、一階には喫茶店があった。
私達はその店に入り、隅のテーブルに腰を下ろした。
「ちょっと落ち着いた?」
涙のやんだ私の顔を見て、翔子が安心させるように微笑みかけてくる。
「落ち着くわけないじゃない。あんたの前で泣くのが癪だから我慢してるだけよ・・・。」
そう答えると可笑しそうに笑い、店員を呼んでコーヒーを注文していた。
「何か飲む?」
「いらない。それより話ってのを聞かせてよ。こっちは兄妹の命がかかってるんだから。」
そう言うと、翔子は「ごめんね・・・」と疲れた顔をみせた。
「話っていうのは、溝端さんにも協力してもらいたいことがあるからなの。あの男・・・北川隼人を倒す為に。」
「じゃあさっさと話を進めてよ。こっちは断れるわけがないんだから。」
「そうね・・・。実は昨日兄と・・、いや、あの男と・・・・、」
「無理して辛辣な言い方しなくていいわよ。兄さんって呼べばいいじゃない。」
「そうだね・・・。昨日兄さんと会って話をしたんだ。あなたとエーカクデーを止める為に。
兄さんと父さんはエーカクデーを、私と冴木君はあなたを説得するはずだったんだけど・・・なんだか予想もしない方向に事態が転んじゃって・・・。
今日の朝兄さんからメールが入ってね。空港に着いたギネス・ヨシムラを確保したって。
そして・・・散々脅しをかけてヨシムラさんを黙らせたっていうの。今は青い顔をしてブルブル震えているらしくて・・・。」
「ふん!あの男のやりそうなことね。自分にとって都合の悪い奴は、どんな手を使っても黙らせる。やっぱ正真正銘のクズだわ。」
「・・・私も同感よ。それでね、このまま溝端さんも黙らせるっていうから、必死に止めたのよ。昨日、溝端さんのことは私に任せるって約束したじゃないって反論してね。
兄さんは一応承諾してくれたけど、もうあまり待てないってこっちにも脅しをかけてきたわ。そして絶対に私達が裏切らないように、あなたの兄妹を人質に取ったのよ。
今は兄さんのマンションで、見張りを付けて軟禁されている状態だと思う。」
「・・・警察・・・には行けないか。あの男のことだから、何をしでかすか分からないし。」
「私もそう思う。もし警察が介入すれば、全ての秘密が世間にバレて、元も子もなくなっちゃうから。」
「それは私だって一緒よ。あの子たちが麻薬の売買をしたことがバレちゃうもの。だから・・・なんとか穏便に事を運ばないといけない。
それだったら、私は何をすればいいか言ってよ。こんな所でダラダラ時間を潰してる間にも、あの子たちは怖がってるんだから。」
あの子たちのことを考えると、また涙が溢れそうになる。
しかし今は泣いている場合じゃない。憎き隼人を倒さないと、何も解決しないのだから。
「溝端さん、調子が出てきましたね。いつもの顔に戻ってますよ。」
店に入って来た冴木が、冴えない顔で笑ってみせる。それが癪にさわって、おしぼりをポンと投げつけた。
「あんたに慰められたくないわよ。記憶力以外に取り得が無いクセに。」
「知ってるんですか?俺の記憶力のこと・・・・。」
「当たり前でしょ。あんたの情報を探るくらい素人でも出来るっての。どんだけ隙が多いと思ってんのよ・・・・・。」
「ははは、やっぱキツイですね・・・。」
余計なチャチャが入ったせいで話の腰が折れてしまった。水を飲んで気持ちを落ち着かせ、もう一度尋ね直した。
「それで・・・私は何をすればいい?私に出来ることなら何でも言って。」
「溝端さんには、祐希さんと一緒に兄の動向を探ってほしいの。」
「隼人の動向を・・・・?」
「祐希さんは、箕輪さんと連絡を取り合って兄の動向を監視してるわ。あ・・・箕輪さんって知ってるよね?」
「冴木のいる販売所の女でしょ?どこにでもいそうな個性のない奴だから、顔も忘れちゃったけど。」
翔子は私の毒舌に苦笑いし、困ったように先を続けた。
「それで・・・溝端さんにも祐希さんの元についてほしいの。あなたなら相手の動向を探るのは得意でしょ?」
「得意っていうか、つい最近までやってたからね。まさにあんたの兄貴をさ。」
「だからこの役目は溝端さんにピッタリだと思うの。そして・・・兄の決定的な弱点を掴んでほしいのよ。」
「決定的な弱点?あの男にそんなもんが存在するの?」
「これだけはやるまいと思ってたんだけど・・・兄にはちょっとした秘密があってね。
他人には大した事じゃないんだけど、本人は物凄く気にしているの。だから・・・それを隠している場所を探ってほしいのよ。」
「ほほう・・・それは私も気になるわね。そんで、あのクズはいったい何を隠してるの?」
そう尋ねると、翔子は顔を近づけてヒソヒソと耳打ちをした。
「・・・・・ね?他人からしたら、すごく下らない事でしょ?」
「・・・・・・・・・・・・・。」
私は黙ってしまった。あまりに衝撃的・・・・もとい笑撃的な秘密に・・・。
「溝端さん・・・・・?」
「・・・ふふ・・・ぐふ!・・・だははははは!だっさあ〜!あははははは!何それ!カッコ悪うううううう!そんな・・・そんな秘密?しょうもなあ〜!」
コンプレックスは誰にでもある。自分の顔が嫌いとか、人と話すのが苦手だとか。
北川隼人の秘密とは、そういう誰にでもあるコンプレックスの類だった。
しかしあまりに幼稚な内容に、あの男に対するイメージが百八十度変わってしまった。
「その程度の秘密なら隠すまでもないじゃん!なのになんでそんなにこだわってんの?」
「きっと・・・兄さんは完璧主義だからだと思う。私がそれを知ったのも、ある日たまたま家で見かけたからで・・・。
でもあの時の兄さんの表情は、この世の終わりみたいな顔をしてたわ。あれ以来一度も『それ』を見ていないから、きっとどこかに隠しているんだと思う。
一度だけ話題に出した時があったんだけど、やっぱり冷や汗を流して青くなってた。頼むから、あの時のことは忘れてくれって・・・・。
だから溝端さんにはそれを探ってほしいのよ。兄がアレをいったいどこに隠しているのかを。それを写真に撮って証拠を押さえれば、こっちの言う事を聞いてくれるかもしれないでしょ。」
「あははは!ああいう男って、意外とそういう所を気にするのもんなのねえ。きょう日そんなのは珍しくないと思うんだけど?」
「でも絶対に他人には知られたくないみたい。そういうのを逆手に取って言う事を聞かせるなんて・・・本当は絶対にやっちゃいけないんだけど・・・。」
「何言ってんのよ、今は緊急事態なのよ。だったら手段なんか選んでられないでしょ?こっちは兄妹まで人質に取られてるんだから。」
「そうね・・・。兄さんの心を抉ることになるかもしれないけど、もうこれしか方法がないから・・・。」
私はまだ可笑しくて笑っていた。男とは、やっぱり周りのイメージを気にするらしい。
それも完璧主義な男ほど、自分のイメージが傷つくことを恐れるようだ。
「よし!何としてもソレの隠し場所を暴いてやるわ。ああいうのって、好きな奴は大量に持ってるからねえ。
隼人くらいの金持ちなら、きっとどこかに部屋を借りて保管してるのよ。だったらその現場を押さえれば、もうこっちのものね。」
ここへ来てようやく勝算が見えてきた。あの子たちが人質になったと聞いた時は、目の前が真っ暗になったけど、今は俄然やる気が湧いてきた。
あいつが必死に隠そうとしているものを明るみに出して、今度はこっちが追い詰めてやる。
私は水を飲み干し、ガン!とテーブルに叩きつけた。
「それじゃすぐに行動開始ね。とりあえずその祐希って奴に連絡を取ればいいんでしょ?」
「うん、祐希さんにはもう伝えてあるから。必ず溝端さんを味方につけるって。あ、でも祐希さんの電話番号は・・・・、」
「それくらい知ってるわよ。これでも一応スパイをやってたんだから。じゃあ私はすぐに隼人のアレを探しに行くけど、あんた達はこれからどうすんの?」
そう尋ねると、翔子と冴木は顔を見合わせて頷いた。
「私は冴木君と一緒に、兄のマンションへ向かう。あなたの兄妹を助ける為に。」
「・・・出来るの?」
「分からない・・・でも父にも協力してもらうから。」
「で、でも・・・もし万が一の事があったら・・・。」
「分かってる。だからこれはあくまで最終手段よ。あなたが兄のアレを見つけてくれれば、全ては解決する。もし上手くいかなかった時は・・・・・私達が必ず助けるわ。」
翔子は胸を張って言うけど・・・私はそれを聞いて胸が重くなった・・・。
あの隼人のことだ。きっとあの子たちの周りは厳重に守りを固めているはずだ。ならそれを救出するなんて、あまりにも危険過ぎる。ここは何としても私が頑張らないと。
「ごめんね、プレッシャーをかけるようなことを言って・・・。」
「いいわよ。何がなんでも隼人の秘密を暴き出してやるわ。この私の手で・・・あいつに引導を渡してやる!」
柄にもなく熱くなり、テーブルを叩いて店を出た。そしてスマホを取り出し、祐希に電話をかけた。
「・・・・ああ、もしもし?祐希さん?溝端だけど分かるよね?実はさっき翔子に会って・・・、」
祐希と連絡を取り、行く場所を指定される。もし隼人に見つかったらアウトなので、よく注意するように言われた。
《誰があんなクズに捕まるもんか。逆にこっちがあいつの弱みを捕まえてやる。笑い出したくなるくらいしょうもないアイツの秘密を・・・・。》
心だけじゃなく、身体も熱くなってきて口調が荒くなる。電話を切り、ポケットにねじ込んで悪態を吐いた。
「隼人・・・あんたの大好きなもの・・・みんなの前にさらけ出してやるわ!」
鬼のような顔をした私を、通行人たちが避けていった。

稲松文具店 第十四話 溝端恵子(1)

  • 2014.09.02 Tuesday
  • 19:00
人通りの多い繁華街を歩きながら、コンビニで買った肉まんを頬張る。地方都市の喧噪というのは、五月蠅すぎず静か過ぎず、妙に心地が良い。
「この肉まんウマ!コンビニの食いもんもレベルが上がってきたわよね。」
下手な店で高い金を払うより、コンビニの安い飯の方がよっぽど美味い。
「食べ物って・・・やっぱり昔のクセが抜けないわよね。いくら金を持っても、こういうのが一番美味しいと思っちゃうわ。」
『舌が肥えていないということは、真の金持ちではない。』
昔付き合った成り金の男に言われた言葉を思い出し、「ぷッ!」と吹き出した。
「あの成り金野郎、偉そうなこと言ってたわりには、陰でコソコソ安い食いもん食ってたわよね。生まれつきの金持ちでもなけりゃ、舌なんか肥えるかってんだ。」
金は人生に必要だし、あって困るものじゃない。でも、世の中には確かに金では買えないものがある。それは愛とか友情とか、そんな臭いものではなく、もっともっと現実的なものだ。
「いくら金があっても、時間だけは買えないわ。アラブの石油王だって、時間を巻き戻して人生をやり直すなんて出来ないんだし。」
そう・・・いくら金があっても時間は買えない。なぜなら、時間はだけは万人に平等なんだから。だから自分の歩んできた道は、いくらお金があっても買い戻せない。
私が家を飛び出した時、幼い兄弟がいた。再婚した義父の連れ子で、小三の男の子と、小一の女の子だった。
貧乏を背負わせた親たちは嫌いだったけど、あの兄妹のことは好きだった。金がないもんだからいつも一緒にいて、近くの公園でよく遊んだものだ。
弟の方は運動神経が悪く、ジャングルジムから下りられなくなって泣いていたことがあった。ただし頭は良かったから、いつかは宇宙飛行士になりたいと言っていた。
妹の方は活発で、男子を叩いては泣かせていた。そのせいで何度も教師から注意を受けていたけど、まったく堪えない図太さが好きだった。
あの家を出る時、この幼い兄弟のことだけが気がかりだった。だからもし自分が稼げるようになったら、この子たちに美味しい物を食べさせてあげたいと思ったのだ。
そして、その夢は叶った。
風俗で男たちから巻き上げた金を使い、あの子たちに美味しい物を御馳走してやった。
二人とも美味しい美味しいといってすごく喜んでいた。
この話を頭の固い大人に言うと、決まってこう返ってくる。汚い事をして稼いだお金で、その子たちが喜ぶはずがないと。だから私も、決まってこう返してやる。
『はあ?めちゃくちゃ喜んでるんだけど?』
そう、あの子たちはめちゃくちゃ喜ぶんだ。私がお金を持って帰る度に、喜んで抱きついてくる。なぜならあの子たちは、貧乏というものを経験しているからだ。
食う物にも着る物にも困り、風呂だって毎日入れない。ほとんどの子供が経験しているはずの楽しいイベントも、何一つ経験させてもらっていない。
学校では貧乏といじめられ、休日にはゲーム機さえ持っていないから友達の輪に入れてもらえない。かといって、家に帰っても何もない。自動販売機で、ジュース一本買う金もないのだ。
そういう環境で育ってきた人間は、金のありがたみをよく知っている。金がないということは、資本主義社会では『死ね』と言われるのと同じことなのだから。
私も、そしてあの子たちも知っているのだ。お金はありがたいものだと。
でも決してお金が全てと思っているわけじゃない。
ただ貧乏を経験した人間というのは、人よりお金のありがたみを知っているだけのことなのだ。例えるなら、大病を経験した人が、健康のありがたみを知るように。
健康だけが全てじゃないし、お金だけがすべてじゃない。でも、そういうもののありがたみは、誰よりも知っているだけなのだ。
「病気をした人じゃないと、人生の真実は分からないって誰かが言ってたっけ。
ならそこにこう付け加えてほしいわ。貧乏を経験したことがない人間に、人生の真実は分からないって・・・。」
私は病気を経験したことはないけど、貧乏は知っている。だからそれを知らない人間に偉そうなことを言われると、反吐が出るほど腹が立つ。
でも・・・・・仕方ない。世の中の人間は、そのほとんどがヌクヌクと生きているだけなのだから。そして・・・あの子たちはヌクヌクと生きてはいけなかった。
うちのアホ親どもが、闇金に手を出したせいで・・・。
成人したあの子たちを勝手に保証人に仕立て上げ、自分たちは姿をくらまして責任を押し付けた。
法外な利息による莫大な借金だけを残され、あの子たちは途方に暮れた。私の元ヘ相談に来た時は、本当に疲れた顔をしていた。
『お姉ちゃん、これからどうしたらいい?』
弟は涙交じりの声でそう呟いた。相当追い詰められている・・・・そう感じさせる声だった。
この子たちは何も悪くないのに、またこうやって苦しめられている。あのバカ親どものせいで、背負わなくてもいいものを背負わされている。
そう思うと、身体が燃え上がるくらいに熱くなった。しかし感情だけで解決出来るはずもなく、冷静になってこの子たちを助ける方法を考えた。
闇金の利息は明らかに違法なものだったから、法律に訴えるという手もある。
しかし・・・そうは上手くいかなかった。借金の返済を強要された兄妹たちは、自分たちも違法な仕事に手を染めていたのだ。麻薬の売買という・・・・完全な犯罪に。
普通の仕事より稼ぎはいいと言われ、闇金の人間に勧められてのことだった。いくら借金を返すためとはいえ、麻薬の売買は重罪である。
もし警察にばれたら、金を貸し付けた人間より、この子たちの方が罪が重くなってしまう。
そんなことがあってたまるか!
親は子供に責任を押し付けて姿を消し、闇金は借金を無効にされるだけで終わる。でも、この子たちは重い罰を受けて刑務所に行かされるかもしれない。
ダメだ!そんなことは絶対にあってはならない!
この子たちは、ただの被害者なのに。背負わなくてもいいものを背負わされただけなのに・・・。だから、法律に訴えるこは出来ない。
裁判を起こしたりなんかしたら、きっと闇金の連中はこの子たちの犯罪をバラすだろうから。
だから私は考えた。莫大な借金を返すにはどうしたらいいか?
大人になった今では、風俗で男を脅す手は使えない。かといって今は普通の仕事に就いているから、大した金は稼げない。
ない頭を振り絞って考えたが、まったく良いアイデアが出てこない。結局は私も途方に暮れてしまったのだ・・・。
でもこの子たちを見捨てるわけにはいかず、『お姉ちゃんに任せなさい』と安心させるように笑った。
そしてあの子たちから相談を受けて四日後、ある男が私のマンションを訪ねて来た。
稲松文具の会長であり、私の実の父である、北川六郎が。
いきなりやって来たものだから、さすがの私も動揺を隠せずに固まった。北川六郎はそんな私を見て笑い、久しぶりだなと笑いかけてきた。
その時、思い切りコイツを殴り飛ばしてやろうかと思った。。
『大昔に会ったきりにほったらかしだったクセに、何が久しぶりだ。こっちは一生お前となんか会いたくなかったわ!』
そう怒鳴りつけても、まるで笑顔を崩さずにニコニコとしていたのだ。そして・・・私に顔を近づけてこう言ってきた。
『兄妹を助ける為に、金がいるんだろう?』
なぜそれを知っているのかと驚いたが、聞き返す間もなくこう続けた。
『スパイをやってくれないか?危険な仕事だが、もちろんそれなりの報酬は払う。兄妹の借金を返して、たんまりお釣りがくるくらいの報酬を。』
ニコニコしながら言うこの男に、本物の殺意めが芽生えてきた。
コイツは・・・全て知っている。あの子たちの背負わされた借金も、そして犯罪に手を染めたことも・・・・。
狼狽した私の顔を見て、あの男はさらに顔を寄せてきた。そして詳しい話を打ち明け、息子の隼人の情報を探ってくれと頼まれた。
『すぐにとは言わない。じっくり考えて返事をくれればいい。ただし・・・そう長くは待てないから、そのつもりで。』
ほとんど脅しだった。もしこの頼みを断れば、コイツはあの子たちの犯罪をネタに、スパイを強要してくるに決まっている。
どんなに笑顔を作っても、私の鼻は誤魔化せない。北川六郎からは、そういう醜い人間の臭いが漂っていたから。
でも、これは私にとっても決して悪い話じゃない。稲松文具といえば、世界でも有名な文具メーカーである。
その会長が高額の報酬を約束してくれるなら、これは乗らない手はない。私はその場で返事をし、スパイを引き受けた。
報酬の半分を前払いするという約束で、この話は成立したのだ。受け取ったお金で兄妹の借金を返済し、これであの子たちは助かった。
それはよかったのだが、今度は私の方が参ってしまった。
稲松文具に社員という形で潜入した時、北川六郎の子供たちを見て、嫉妬を覚えてしまったのだ。
自信に満ちた顔で仕事をこなし、裏では家族殺しさえ計画している北川隼人。
目を見張るほどの美貌を持ち、世間知らずの甘いっちょろい女、北川翔子。
この二人を見た時、胸に言いようのない怒りが込み上げてきた。
『私たちと、こいつらとの差はいったい何?同じ父を持ち、同じ人間なのに、どうしてこんなに扱いに差が出るの?』
隼人も翔子も、生まれた時から恵まれた環境にいて、およそ苦労というのを知らないように思えた。
金もあり、服もあり、食い物も娯楽も与えられ、何不自由なく育ってきた兄妹。
かたや全てにおいて貧乏を強いられ、挙句には親の借金まで背負わされる兄妹。
この二つの兄妹の差は、いったいどこから来たのだろう?金か?いや・・・違うと思った。
単にお金だけじゃない。何か・・・・もっと別のものが・・・。
そう、これはきっと縁だ。私達は、お金に縁がなかった。だからあんなに貧しくて、惨めな思いを・・・・・。そう思うと、少しだけ気が楽になった。
《縁というものは、人の力じゃどうしようもない。でも、少しくらい意地悪したっていいじゃない。これは私の怒りじゃない。
あの子達とあんた達に与えられた、不公平の為の仕返しよ。》
私は事あるごとに翔子を罵り、馬鹿にして笑ってやった。
最初はかなり傷ついていたみたいだけど、そのうち慣れてきたようで反応は薄くなった。
でもまあ、それでいいと思った。
言いたいことは言ってスカッとしたし、あんな世間知らずのお嬢さんをいじめたところで、一文の得にもなりゃしないのだから。
でも北川隼人はそうじゃなかった。あのアホ社長のことを調べていくうちに、コイツがどういう人間、いや、クズなのかがよく分かった。
これだけ恵まれた環境にいながら、必要以上のものを掴もうと手を伸ばしている。家族まで罠に嵌め、あらゆる汚い手を使って目的を遂行しようとしていた。
《ああ・・・クズっていうのは、こういう男のことをいうんだな。》
そういうのを実感させてくれるくらい、呆れた男だった。
しかしここで仕事を放り出せば、後でどうなるか分からない。私の実父、北川六郎も相当のクズだから、きっとあの子たちの秘密をバラ撒くに決まっているのだ。
だから耐えた。吐き気がするほど嫌な男だったけど、私情を堪えてスパイの役目をこなしていった。
でも・・・・無理だった。これ以上、こんなクズな所業を追いかけるのはたくさんだ。
だから途中から仕事を放棄した。そして私の雇い主にである父に言ってやったのだ。
『私はもう降りる。これ以上下らない家族喧嘩に付き合っていられない。』
私は手に入れた情報を教えることなく、そう言い放ってやった。
もう北川隼人の計画は大詰めに来ていて、近いうちにエーカクデーに乗っ取られるだろう。
でもそんなのは私の知ったことじゃない。だから凛として、「もう辞める」と宣言してやったのだ。
すると六郎は慌てた。そして案の定、予想していた言葉を吐いた。
『お前の兄妹が、麻薬の密売に手を染めたことは知っている。ここで辞めるなら、この情報を警察に持っていく。』
やはりこの男もクズの類・・・。私はまったく動じることなく、胸ぐらを掴んで怒鳴ってやった。
『もしそんなことをしたら、私があんたの愛人の子供だってことを奥さんにバラすわよ?それでもいいならやってみろ!』
六郎は顔を真っ赤にして怒っていたが、結局は何も言わずに黙り込んだ。
やった・・・。これでこんなやっかい仕事からオサラバ出来る。
あの子たちの借金もなくなったし、これで完全に自由になったから、どこかでのんびり暮らそうか。そう思いながら会長室を出た時、入れ違いに隼人と翔子がやって来た。
私は一瞥をくれて脇を通り抜けたのだが、翔子の抱えているものを見て首を捻った。
《・・・・オウム?》
なんでこの子はオウムなんか持っているんだろう?しかもそれを持ったまま会長室に入って行った。それに隼人まで一緒だ。・・・いったい何事・・・・?
興味をそそられてドアに近づき、そっと耳を当てた。
中からゴニョゴニョと話声が聞こえ、じっと耳を澄ますとオウムの声が聞こえた。
「・・・・・・・・・・・・・。」
オウムはまるで、人間みたいに饒舌に喋っていた。私が伝えなかった隼人の情報を、ペラペラと六郎に伝えている。そして・・・その後は騒然となった。
六郎は鬼の首をとったように叫びまくり、隼人は自分の身を守るために弁明する。
汚い罵り合いは延々と続き、聞いている方が耳を塞ぎたくなるような醜いものだった。
その時、私は悟った。
ああ・・・私達が貧乏だったのは、縁なんかじゃないんだ・・・。今、このドアの向こうで罵り合っているクズどものせいなんだ。
自分だけの事を考え、悪事の責任は全て人に押し付ける。まるで・・・・自分を中心に世界が回っているように考えている男たち・・・。
だから私たちは貧乏を強いられた。あの子たちが借金を背負うことになったのも、元々はこいつらが貧乏を強いたせいだ。
沈みかけていた怒りがメラメラと燃え上がり、いてもたってもいられなくなった。
今すぐ・・・・今すぐこの手で、こいつらを殺してやりたい!
この後に及んでも、保身の為だけに醜い争いを続けるこいつらを生かしておいてはいけない!私も、あの子たちも、それに冴木だって、こいつらの被害者じゃないか。
自分の部下がナイフで刺されたというのに、その後のことは知らんぷり。ドアの向こうにいる翔子にさえ、軽く同情を覚えたほどだ。
《・・・いいわ、こんなに醜いクズどもは消してやる。》
私が得た情報の全てをエーカクデーに伝えて、この会社と北川一族を破滅させてやる。
巻き添えを食らう翔子は可哀想だけど、それでももう我慢出来ない。
しかし身を焦がす怒りが頂点に達した時、翔子がとんでもないことを言いだした。
なんと、隼人と冴木を柔道で戦わせようと提案したのだ。そしてもし冴木が勝ったら、隼人はこの会社を辞め、北川家から去る。
もし隼人が勝てば、今まで通り社長の椅子に座る。隼人は大笑いしながらこの条件を飲んだ。
『・・・・翔子、あんた見かけによらずやるじゃない・・・。でもそんなことはさせないわ・・・・。隼人も六郎も、私は絶対に許さない。
エーカクデーに全てを伝え、あんたの一族を破滅させてやるわ。』
ドアから耳を離し、足音を立てないようにゆっくりとその場を後にした。その後すぐに行動に移り、エーカクデーに全ての真相を伝えた。
エーカクデーの社長、ギネス・ヨシムラは北川家に恨みを持っていることは知っていたから、絶対に私の誘いに乗ると思っていた。
北川家と稲松文具を潰そうという誘いに・・・。
ギネス・ヨシムラは、年老いた今でも恨みを消していなかった。
復讐しようとまでは思っていなかったみたいだが、私の話を聞いて気が変わったと言っていた。
『共にあの一族を滅ぼそう。長年の業を、今こそ償わせてやるのだ』
その言葉に私も賛同した。
あの一族は放っておいてはいけない。六郎と隼人が死んだとしても、またいずれ似たような奴が出て来るに決まっているのだから。
これ以上不幸を生み出さない為にも、なるべく早いうちに叩き潰さなければいけない。
だから今日、私はギネス・ヨシムラに会う。
彼はアメリカから来日していて、私と直接会って話をしたいと言ってきた。
『君の話を疑うわけじゃないが、信用の出来る人物かどうか、この目で確かめさせてもらいたい』
その言葉を聞いた時、彼もまた北川一族の被害者なのだと感じた。
彼の心には深い猜疑心を植え付けられている。それはきっと、北川一族に対する恨みから来るものだろう。私とあの子たち、それに冴木と翔子。そしてギネス・ヨシムラ。
いや、翔子の母もあの一族の被害者といえるかもしれない。
分かっているだけでこれだけいるのだから、深く掘り下げればもっと多くの被害者がいるはずだ。
その人たちの為にも、私は戦わなければいけない。あの呪われた血筋を終わらせる為に。
肉まんを食べ終え、ペットボトルのお茶で口直しをする。繁華街を通り抜け、信号を渡って近くのカフェに入った。
時計を見ると午後一時。冴木と隼人の対決は終わってるはずだ。
どっちが勝ったのかは気になるが、それも今となってはどうでもいいことだ。私は今日ここでギネス・ヨシムラと会う。
そして北川一族を破滅させる為に、共に手を取り合って戦うのだ。
店に入った私は、ぐるりと店内を見渡した。平日の昼過ぎでも人は多く、狭い通路を歩いて奥の方に目をやった。
確かなるべく目立たない所に座ってるって言ってたはずだけど・・・・。
今日の朝に来たメールを読み返し、スマホを片手に奥へ歩いて行く。すると・・・・思いがけない人物が座っていた。
「溝端さん、こんにちわ。」
「なんであんたが・・・・・・。」
店にいたのはギネス・ヨシムラではなく、北川翔子だった。

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