水面の白影 最終話 忌まわしき夏は蘇る

  • 2014.10.15 Wednesday
  • 14:52
JUGEMテーマ:自作小説
夏がやって来る度に、毎年思うことがある。水面に浮かぶ白い影と、濁った池の仄暗さだ。
あの日から四年・・・大学を卒業して社会人になり、ようやく仕事にも慣れてきた。
人生とは分からないもので、なぜか俺の隣には加奈子がいない。しかしその代わりに、地味な化粧をした美人が座っていた。
「ねえ、そろそろ同棲したいなって思うんだけど・・・・。」
「そうやな。もう付き合って一年やし、お互いのこともよく知ってるしな。ええんとちゃうか?」
「だよね。私も一人で生活するより、二人の方が楽かなって。最近仕事も変えたし、巫女のバイトも辞めたもんだから収入が減っちゃって。」
「なんや、結局は金の為かい。」
そう言うと、朋子は「そうだよ」と笑った。
「ずっとお金の無い生活をしてたからね。あんたの弟のおかげでさ。」
「ああ、信也な。アイツいつまで経っても成長せえへんからな。来年で大学を卒業やいうのに、あれで大丈夫かいな。」
ネクタイを締めながら、甘ったれた弟の顔を思い浮かべた。就職して今の住まいへ来てから、随分と会う機会が減ってしまった。
時々連絡はしているけど、あまり俺たちのことを快くは思っていないようだ。
《まあ・・・それも当然か。自分を振った女が兄貴と付き合ってるんやから。立場が逆やったら、俺だって避けるわな。》
あの池の騒動からすぐ後、信也と朋子は付き合い始めた。最初はうまくいっていたみたいだが、やがて二人の間に亀裂が入り始めた。
朋子は本当に信也のことを大事にしていた。いつか立派な大人になると信じて、どんなことでも手を貸してやっていた。
しかし・・・・それがいけなかった。甘ったれの信也は、いつまで経っても成長しようとはしなかった。
ただただ朋子に甘え、好きな時にセックスを求め、金が無くなれば借りていた。
そしてこともあろうに、バイト先で別の女を作ったのだ。それも金のことしか頭にない、実に下らない女と。
頭の良い朋子はすぐに浮気を見抜いた。そして本気で信也に怒り、別れを切り出したのだ。
信也は反省して謝ったが、また同じことを繰り返した。とうとう堪忍袋の緒が切れた朋子は、信也に本気でビンタをかましてこう言った。
『信也君は変わった!昔はそんな子じゃなかったのに、まるで別人みたいになった!これ以上あんたの子守りをするのはゴメンよ!』
あの時の修羅場は、なぜか俺の部屋で行われた。加奈子と二人きりの時間を楽しんでいたのに、朋子が信也を掴まえて押しかけてきたのだ。
兄貴の部屋で彼女に振られた信也。あの時の顔は、まさに別人のように思えた。なんの自信もなくし、明るささえも失われていた。
するとそれを見ていた加奈子が、信也に同情を抱き始めた。昔から信也をよく知る加奈子は、ある意味朋子以上に信也を気に掛けている。もちろん変な意味じゃなくて。
しかし・・・・ある時を境に、加奈子にも心情の変化が表れ始めた。
俺が就職して引っ越したものだから、会える時間が限られてきたのだ。気が強いように見えて、実は寂しがり屋の加奈子は、いつでも傍にいてくれる男を見つめるようになった。
そしてその男とは、信也だった・・・・・。
元々お気楽で、しかも明るさが売りの二人は、恋仲になるのにそう時間は掛らなかった。
ある時俺が実家に帰ると、信也と加奈子の浮気現場を目撃してしまったのだ。
《ああ・・・やっぱりか・・・・。》
あの時の俺は、ずいぶんと冷静な目で二人を見ていた。なぜなら、俺に対する加奈子の気持ちが薄れていることは知っていたからだ。
ほとんど連絡も寄こさず、こっちから電話を掛けてもなかなか出ない。それにたまにデートに誘っても、うにゃうにゃと言い訳をして断っていたからだ。
それに信也は信也で、朋子を失った悲しみがある。だから仲の良い加奈子に手を出すのは簡単に予想が出来た。
俺は『邪魔して悪いな』と言い残し、すぐに実家をあとにした。あの日以来、信也との関係はギクシャクしている。そして加奈子とは二度と会っていない・・・・。
そしてこの俺自身はというと、始めたばかりの仕事が忙しくて、恋愛にかまけている余裕はなかった。
そのおかげで加奈子を失った悲しみに暮れずに済んだんだけど、一ついいことがあった。それは朋子と再会したことだ。
朋子は信也と別れたあと、俺たちとは会わなくなってしまった。それもそのはずで、朋子にとっては俺たちが心を許せる唯一の存在だったからだ。
だから信也と別れたあと、何かに裏切られた気持ちになって、姿を消してしまったのだ。
だからもう二度と会うことはないと思っていたのに、なぜか今の職場でばったり再会してしまった。
『久しぶり。また会えて嬉しい。』
俺の顔を見るなり、朋子ははにかんだ笑顔を見せた。どうやらしばらく前から派遣社員として来ていたらしく、俺の存在には気づいていたようだ。
部署がいくつにも分かれる大きな会社だから、俺の方はまったく気づかなかったけど・・・・・。
それから俺たちは、仕事以外でもちょくちょく会うようになった。ご飯を食べに行ったり、近くの行楽地へ遊びに行ったり。そして何度目かのデートの時に、初めて寝た。
これはちょっと下世話な話かもしれないが、俺と朋子はセックスの相性がとてもよかった。
デートの流れで酒を飲み、またその流れでセックスをしただけなのに、気がつけば夜が明けるまで抱いていた。
セックスが終わったあと、朋子は疲れた顔でこう言った。
『隆志君て、ほんとうに絶倫なんだね。信也君とは正反対。』
あの時の俺は、きっとみっともない顔で笑っていただろう。正面から絶倫と言われる悲しさ、そして信也との性事情など知りたくないという気持ち悪さ。
朋子はそんな俺を見て、クスクスと笑っていた。
『振られた者同士、勢いで付き合っちゃおうか。セックスの相性もいいし。』
朋子はサラリとそう言った。彼女の口からそんな言葉が出てくることに驚きだったけど、特に異論はないので付き合うことにした。
幸い俺たちの相性がいいのはセックスだけじゃなかった。付き合えば付き合うほど、どうして四年前の夏から付き合わなかったのだろうと思うくらいに、相性がよかった。
はっきり言って、俺と朋子の性格は正反対だ。俺は大人しそうに見えても、かなり情熱的なところがある。
対する朋子はいつでも冷静沈着で、まるで氷のような女に思えることもあった。
でもまあ・・・正反対の者ほど惹かれるというし、今の俺たちはかなり上手くいっている。
この関係がどこまで続かは分からないけど、同棲を始めるのは悪いことじゃないかもしれない。
鏡を見ながらネクタイを締め、時計を填めて振り返った。
「同棲してもええけど、お前もきちんと金入れてや。こっちはまだそんなに稼げる身分じゃないんやから。」
そう釘を刺すと、朋子は「まさかあ」と笑った。
「大きな企業の社員なのに、そんなに稼ぎが少ないはずはないでしょ?」
「それは出世してからの話や。今の時代、若手社員なんてどこも同じくらいの給料やで。」
「そうなの?」
「そうそう。時間給に換算すれば、派遣のお前の方が稼いでるはずや。」
「ふう〜ん・・・じゃあやっぱり同棲はやめとこうかな。」
「おい!やっぱり結局は金かい。」
朋子は「冗談」と笑い、後ろから抱きついてきた。
「・・・やっぱり、付き合うなら大人の男がいいわ。」
「お前は信也が初めての男やったっけ?」
「うん・・・。あの池の騒動が終わるまでは、男を嫌ってたからね。だからついしょうもない男に引っ掛かちゃった。」
「人の弟をしょうもないとか言うな。」
「・・・・ごめん。でも勘違いしてたのよね、恋愛と母性ってやつをさ。私は信也君の彼女であって、お母さんじゃないから。なんでも甘えられたら疲れちゃう・・・・。」
朋子は背中に頭をくっつけてくる。そして頬にキスをしてきた。
「今日は遅い?」
「いや、どうやろな・・・・。あのアホの係長がいらんことさえ言わんかったら、案外早く終わるんとちゃうか?」
「ああ・・・あの人ね・・・。やる気はあるけど、ちょっと中身がついてきてないのが残念っていうか・・・。」
「やる気と意地を勘違いしてるだけのアホや。まあ近いうちにどっかへ飛ばされるらしいけどな。」
俺は後ろを振り向き、正面から朋子を抱き寄せた。
「まあそんなことはともかく、お前も今日は仕事やろ?お互い早く終わったら、どっか飯でも食いに行くか?」
「そうしたいのは山々だけど、今日はちょっと無理かな?」
「なんでや?ここんところあんまり会えへんかったやないか。行きたくないんか?」
そう尋ねると、朋子は目を伏せて黙り込んだ。
「どうした?・・・・もしかして信也と復縁したとかじゃないよな?」
半分冗談で尋ねると、「有り得ないから」と本気で怒られてしまった。
「そうじゃなくて、今日はちょっと別の仕事が入っちゃって・・・・。」
「別の仕事?なんや?俺に言いにくいような仕事か?」
「・・・・言いにくいと言えば言いにくいかな。・・・あ、でも水商売とかじゃないからね。」
「分かっとるわ。そんな仕事が出来る性格と違うやろ。」
朋子から身体を離し、鏡を見て髪を整えた。そしてベッドの横に置いてある鞄を掴み、ドアへ向かった。
「別に言いたくなかったら言わんでええで。」
靴を履きながらそう言うと、朋子は慌てて駆けよってきた。
「ごめん・・・怒ってる?」
「アホ。お前を信用してるだけや。」
トントンと靴を鳴らし、立ち上がって朋子の頭を撫でた。
「いくら彼氏でも、言いたくないことは言わんでええ。そこまでお前を束縛する気はないよ。」
そう言うと、朋子はなんとも言えない顔で困っていた。我ながらいいセリフを言ったつもりだが、朋子にとってはそうではなかったのか?
《束縛をする気がないってことは、そこまで気に掛けてないって取られたんかな?別にそういうつもりで言うたんと違うんやけど・・・・・。》
朋子は俯いたまま顔を上げない。いったい何をそんなに悩んでいるのか分からないが、時計を確認するともう時間がなかった。
「ごめん、帰ってから話そう。」
朋子の頭をワシャワシャと撫で、ドアを開けて出て行こうとした。すると「隆志」と呼び止められた。
「ん?なんや?」
「・・・・隆志は・・・もう加奈子ちゃんに未練はない?」
「どうしたんや急に?」
「いや・・・・なんとなく・・・・。」
朋子は顔を上げて俺の目を見つめた。しかしすぐに俯いてしまい、申し訳なさそうな表情をしていた。
《ああ・・・・これは・・・・。》
この時俺は、ハッキリと朋子の気持ちを悟った。彼女はまだ信也に心を惹かれている。
今のような下らない男になる前の、純粋な信也が忘れられないのだ。
「あのな朋子。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
部屋に引き返し、俯いた朋子の顔を見ちめる。
「加奈子と別れた時、俺はすごい辛かった。なんたってアイツとは小学生の時からの付き合いやからな。
男女の関係になってからだって、昔と変わらず付き合ってた。アイツは家族みたいなもんやねん。だから・・・・別れた時はショックやった。」
朋子は顔を上げ、ゴクリと息を飲んでいた。真剣に俺の言葉を聞き、頭の中でよく噛みしめるように・・・・。
「大事な人と別れるっちゅうことは、誰でも辛いもんや。それが家族であれ、恋人であれ、やっぱり別れは寂しい。でもその寂しさを埋めるのは、新しい出会いなんや。」
「新しい出会い・・・・。」
「そうや。俺は加奈子と別れて沈んでる時に、必死に仕事で誤魔化そうとしてた。でもそこでお前と再会して、今の関係になった。
もしそれがなかったら、今でも加奈子を引きずってたかもしれへん。それが・・・・俺の正直な気持ちや。」
「・・・・・・・・・。」
今言ったことは、何の偽りもない正直な気持ちだ。だからきっと、朋子なら正直な気持ちを返してくれるはずだ。
だって・・・・以前は人の色が見える力を持っていたんだから。
それなら今だって、ある程度は人の内面を見抜けるはずだ。もうあんな力がなくたって、きっと朋子は俺の心を見抜くはずだ。
「・・・そう。じゃあ私と再会しなかったら、まだ加奈子ちゃんのことが好きだったってことね・・・?」
「そういうことになるな。でも俺とお前は出会った。だからそれが大事やと思ってる。昔のことなんてどうでもええねん。今の真剣な気持ちを大事にせんとな。」
そう言って朋子の頭を撫で、腕時計を確認した。
「あ、こらヤバイ!マジで遅刻してまうわ。」
慌てて駆け出し、マンションの廊下を走っていく。
「朋子!今の自分の気持ちを大事にしろ。せっかくしょうもない能力から解放されたんや。俺のことなんか気にせんと、自由にしたらええねん。」
「・・・隆志・・・・。」
朋子は一瞬だけ泣きそうな顔になり、すぐにこう言った。
「やっぱり今日は一緒にご飯に行こう!さっさと仕事を終わらして帰って来るから。」
「・・・・分かった!ほなまた夜にな。」
俺は手を振り、慌てて階段を下りていく。ほんとうはエレベーターの方が早いんだろうけど、なんだか気持が焦ってしまったのだ。
それは会社に遅刻するからではなく、心の整理がつかなかったからだ。
「なんか・・・・長くないような気がするな、この先・・・・・。」
あの下らない能力は消えても、破局を察知する感覚は磨かれているらしい。どうやら俺は、自分で思っている以上に加奈子のことがトラウマになっているようだ。
《朋子・・・・ごめん。さっきの言葉やけど、ちょっとだけ嘘ついてもたわ。俺もお前と一緒で、まだ加奈子のことが・・・・・・。》
その先は頭から振り払い、ひたすら階段を駆け降りた。人通りの多い道を駆け抜け、バス停へと向かう。しかし間一髪のところでバスを逃してしまった。
《あかん・・・あのアホ係長にグチグチ言われてまう・・・。》
この瞬間、俺の遅刻が確定した。それは何とも言えない嫌な気分で、モヤモヤとした暗い気持ちになってしまった。
《タイミングを逃したら、取り返しのつかんこともあるわな。それが遅刻程度やったらええけど、もっと大事なことやったら・・・・・。》
忘れようとしていた加奈子のことが、不意に蘇る。加奈子の笑う顔、加奈子の温もり、そして加奈子のアホな言動・・・・。
どうやら俺は、今でもしっかりとあのアホのことが好きらしい・・・・。
バスの去ったバス停には誰もいなくなる。青いベンチがポツンと佇み、次に訪れる人を待っていた。
俺はゆっくりと腰を下ろし、ポケットからスマホを取り出した。そして弟の番号を呼び出し、少し迷ってから電話を掛けた。
「・・・・ああ、もしもし?俺やけど。ちょっと聞きたいことがあんねんけど、今大丈夫か?いや、大したことじゃないねんけど、お前って最近加奈子とどうなんかなと思ってさ。」
きっと・・・・・今が過去へ引き返すギリギリのタイミングだと思った。これ以上時間が経てば、もう昔には戻れない。久しぶりに話す弟の声は、まるで別人のように思えた。


            *


二度あることは三度あるという。ならば一度あることは二度あるということだ。
どうやら俺は、その二度目の中に足を踏み入れてしまったらしい。
ここは破魔木神社。もう決して訪れることはないと思っていた場所に、またしても助けを求めることになっていた。
神主の星野さんが、御神木の前で祈りを捧げている。その横には信也が座っていて、虚ろな目で放心していた。
「・・・・・・・よし。これでいいでしょう。」
神主さんは目を開けて振り向き、信也の肩を叩いた。
「信也君・・・・どうですか?まだ別の声が聞こえますか?」
そう尋ねられた信也は、ゆっくりと首を振った。
「そうですか。これで悪い霊はいなくなりました。もう大丈夫ですよ。」
神主さんはニコリと笑い、巫女装束を着た朋子と頷き合っていた。
「五年前・・・・あなたのお兄さんと朋子さんの能力を封じました。あの時に君の能力も一緒に封じておくべきでした。
そうすれば、こんな悪い霊に取りつかれることはなかったのに・・・・。」
そう言って御神木を見つめ、そっと手を触れていた。
「あの時の信也君は、まだ能力を開花させていませんでした。だからそのまま放置したのですが、それは間違いだったようです。
そのせいであなたはずいぶんと苦しむことになった。この四年間、さぞ辛かったでしょうね・・・・。」
神主さんに肩を叩かれると、信也は泣きそうな顔になった。そして隣に立つ加奈子が、心配そうに手を握った。
「信ちゃん・・・ずっと前から様子がおかしかった・・・。まるで別人みたいになってしもて、たまに叫んだり暴れたり・・・・。
もしかしたら病気に罹ってるんかなって疑ったけど、そうじゃなかった。だから何も出来へんまま見てるしかなかったんやけど・・・。」
加奈子は辛そうな顔で言い、チラリと俺の方を見た。
「でも・・・もうこれ以上我慢出来へんようになったんや・・・。だから隆志に相談しようとしたんやけど、信ちゃんからそれは絶対にやめてくれって言われた。
でもこのままじゃどうしようもないから、仕方なしに朋子さんに・・・・・。」
そう言って視線を向けられた朋子は、「ごめん・・・・」と呟いた。
「隆志には内緒にしておく約束だったのに、つい口を滑らせちゃった・・・・。」
「ううん、こっちこそゴメン。昨日隆志から信ちゃんに電話があって、つい私が代わってしもたんや。だから・・・・このことを最初に言うたのは私や。ごめん・・・。」
俺は俯く三人を見つめ、バスを見逃した昨日のことを思い出していた。
あの時信也に電話を掛けると、すぐに加奈子が代わった。そして信也の様子がおかしいと相談されたのだ。俺はすぐにマンションに引き返し、朋子にこの事を話した。
《きっと朋子やったら何か知ってるはずや。》
何の根拠もないけど、なぜかそう思った。いや・・・根拠がないわけじゃないか。
俺はあの時点で、朋子を少しだけ疑っていたのだ。もしかしたらまだ信也と連絡を取っているのではないかと。
別にそれならそれでいいのだが、、朋子にさっきの電話の事を話すと驚きの言葉が返ってきた。
『信也君は、悪い霊に取り憑かれているかもしれない。』
巫女の経験がある朋子は、少なからずそういったものに敏感になっていたらしい。だから少し前に加奈子から相談を受けた時、すぐに神主さんに相談した。
そしてもし悪い霊に取り憑かれているのなら、この神社で除霊しようということになった。
昨日朋子が言っていた別の仕事とは、巫女として除霊の手伝いをすることだったのだ。
「信也・・・・調子はどうや?」
信也の傍に立ち、安心させるように笑いかける。
「・・・なんか変な気分。でも・・・スッキリしたわ。もう悪い霊の声が聞こえへんから。」
「そらよかった。でもお前・・・・大学に入る直前からこういう状態やったんやろ?なんで誰にも相談せえへんかってん?」
そう尋ねると、信也は子供のように唇を尖らせた。
「だって・・・霊に取り憑かれたなんて、認めたくなかったから・・・・。」
「お前・・・・それで四年間も苦しんでたんか?」
「いや・・・それだけじゃないけど・・・。」
信也はごにょごにょと口ごもり、朋子の方を見た。
「ああ・・・朋子のことがあったからか?」
「うん・・・。お兄が朋子さんと付き合ってるから、ますます相談出来へんようになってしもた・・・。でも・・・こうして元に戻れてよかった・・・。」
信也はポロリと涙をこぼし、鼻水をすすった。
「なあお兄・・・・。」
「なんや?」
「お兄・・・・朋子さんのこと愛してるんか?」
唐突な質問に、思わず「は?」と答えてしまう。
「だから・・・朋子さんのこと好きなんかって聞いてるんや。」
「そら好きやで。だから付き合ってるんやないか。」
「じゃあ・・・・加奈ちゃんとどっちが好きやねん・・・・?」
「どっちがって・・・・質問の意味が分からんわ。」
「ウソつけよ。お兄は怒ってるんやろ?俺が加奈ちゃんを奪ったこと・・・。」
信也は顔を上げ、俺の目を睨んだ。その目は怒りとも悲しみともつかない色をしていた。
「確かに俺は、加奈ちゃんといらんことしてもた・・・・。でもそれは最初だけで、あとはただの友達や。」
「・・・・そうなんか?でも前に実家に帰った時、お前と加奈子はキスしとったやないか。」
「だから・・・それはあの時だけやねん!あれ以上のことはしてないし、あれからすぐに友達に戻った。
でもお兄は言い訳する暇もなく帰ってまうし、加奈ちゃんのことに触れるのはタブーみたいな雰囲気出してたやないか!だから何も言われへんかったんや・・・。」
「・・・そう・・・なんか・・・・?」
チラリと加奈子の方を見ると、「ごめんな・・・」と俯いた。
「隆志が引っ越して、今までみたいに会えへようになって寂しかったから、つい・・・。
それに信ちゃんは信ちゃんで、朋子さんに振られて落ち込んでた。だからちょっと、お互いの傷を舐め合う感じであんなことに・・・・。」
「・・・なんやそれ?そんなんやったら早く言うてくれよ!」
顔をしかめて言うと、加奈子は「言えるわけないやん!」と叫んだ。
「私は隆志のことが好きやってん!なのに・・・その弟とキスしてるところを見られて、なんて言い訳したらええの?」
「・・・・加奈子・・・・。」
「私は自分が寂しいからって、隆志を傷つけた。だからこっちから言い訳なんて出来へんやんか!」
久しぶりに見る加奈子の泣き顔は、妙に心を落ち着かせた。
《相変わらずヒステリックやな・・・。でも懐かしい・・・・。》
加奈子はキンキンする声でまくしたて、「アホ!」だの「ボケ!」だのを連呼していた。
「私はずっと隆志から連絡が来るのを待ってた!こっちから出来へんから、あんたから行動を起こすのを待ってたんや!
それを四年も待たせて・・・挙句に別の女と付き合って・・・ほんまアホとちゃうか!この四年間を返せ!」
「知らんがな!四年も待つお前がアホやろ!そこまで待つくらいやったら、さっさと誤解を解けよ!」
「だからそれが出来へんかったって言うてるやろ!」
「なんでやねん!電話一本ですむやんけ!」
「そんな簡単なもんと違うねん!女心は蜘蛛の巣より複雑やの!あんたこの四年間で腑抜けになって・・・・死ね!」
「なんで死ななあかんねん!言うてること滅茶苦茶やないか。」
四年ぶりに会ったというのに、加奈子はまったく変わっていなかった。この支離滅裂な言動、すぐに感情的になる性格、それに何より、昔よりも綺麗になっていた。
《懐かしい・・・ほんま懐かしいわ。やっぱり俺はコイツを失いたくない・・・。》
加奈子はまだ怒っている。鼓膜が破れるかと思うほど、キンキンと喚きながら・・・。
そして最後に、「今でも隆志のことが好きなんや!」と叫んだ。それを聞いた俺は迷わずにこう答えた。
「俺も好きや。まだ加奈子のことが好きや。」
そう返すと、加奈子はキツネにつままれたような顔で固まっていた。
「なんでよ?あんた今は朋子さんと付き合って・・・・・、」
「いいや、俺が好きなのはお前だけや。それに・・・・それは向こうも一緒や。」
そう言って朋子の方を見ると、心配そうに信也の手を握っていた。
「大丈夫?」
「うん、朋子さんが助けてくれたから。」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?あれが悪霊の仕業だって分かってたら、信也君と別れたりしなかったのに・・・・。」
「だって・・・・朋子さんにフラれてショックやってんもん・・・。それにお兄と付き合うし・・・・。」
「違う!あれは信也君を忘れる為に・・・仕方なく勢いで・・・・・。」
「でも付き合ったことに変わりはないやん・・・。だからてっきり嫌われたんやと思って・・・・・・。」
「・・・そうだね、ごめん。私もてっきり信也君が加奈子ちゃんと付き合ってると思ってたから・・・・。」
朋子さんはギュッと信也の手を握り、必死に弁明していた。そして信也は信也で何度も謝っていた。
「ごめんな朋子さん・・・。」
「ううん、もういいの。悪い霊は封じ込めたし、お互いの誤解は解けたんだし。だから信也君さえよかったら、また昔に戻れたらいいなって・・・・、」
「・・・・うん。俺も朋子さんに傍におってほしい。まだまだガキやけど、いつかちゃんとした大人になって、朋子さんを守るから。」
一件落着とは、まさにこういうことを言うのだろう。四年という年月が掛ってしまったが、みんなが納まるべき鞘に納まった。
俺には加奈子、信也には朋子。・・・・うん、やっぱりこっちの方がシックリくる。
別れを告げないまま、俺と朋子は終わりを迎え、そしてすぐに新しい恋人が見つかった。ギリギリのところで引き返したおかげで、こうしてみんなが幸せになることが出来た。
「なあ隆志。」
加奈子に呼ばれて振り向くと、目の前にタコみたいな口があった。
「なんやねんいきなり。怖いわ・・・・。」
「ええやん。仲直りのチューしよ。」
「・・・ならせめてその口をやめい。普通でええねん、普通で。」
加奈子は唇を戻し、サッと顔を近づけてきた。俺もサッと顔を近づけ、ほんの軽く唇を合わせた。四年ぶりのキスは、妙に恥ずかしく感じた。
皆がハッピーエンド。もう悪い霊もいないし、愛する人と仲直りをすることが出来た。
時には昔に引き返すことで、大事なものを取り戻せることだってあるんだ。
「ほな帰ろか。」
「そやな。久しぶりにみんなでご飯でも行こうよ。」
「あ、俺流しそうめん食べたい。この辺にあるかな?」
「私知ってるよ。ちょっと遠いけど、けっこう美味しいんだ。」
「よっしゃ!じゃあそこへ行こう。朋子・・・いや、弟の彼女を呼び捨ては悪いな。朋子さんはその格好のままでな。」
そう言って冗談を飛ばすと、朋子さんは「それは勘弁して・・・」と赤くなっていた。
四年前ここへ来た時みたいに、俺たちはセミより大きな声で喚き合った。
すると黙って見ていた神主さんが、「ちょっといいですか?」と尋ねた。
「お帰りになる前に、一つだけお願いがあるんですが。」
「ええ、いいですよ。神主さんには散々お世話になったから。」
ビシッと背筋を伸ばし、神主さんに向き合う。すると向こうも背筋を伸ばし、よく通る声で言った。
「実はですね・・・・まだ全ての御神体が戻ってきたわけじゃないんです。」
「え?どういうことですか・・・・?」
「残念ながら、あと三体ほど行方不明の御神体があるんです。そしてその内の一つの居場所が分かったんですよ。
ここからそう遠くない所にある、小さなダムに沈んでいるようなんです。ただあの池と同じように悪霊がうろついているので、もう一度手を貸して頂けないかと思いまして。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
全員の顔が引きつる。もう終わったと思ったのに、また幽霊退治をしろというのか?
はっきり言って二度とゴメンだ!誰があんなことに関わるものか!
「封じた力は一時的に解放します。だからどうか・・・・もう一度お力添えを。」
神主さんは直角に腰を曲げ、深く頭を下げる。その雰囲気は真剣そのもので、決して冗談で言っているわけではなさそうだった。
「・・・・・・・・・・・・・・。」
俺は信也に目配せをして、車が停めてある方を睨んだ。するとコクリと頷き、朋子さんの手を引いて下がり出した。
神主さんはまだ頭を下げていて、俺たちの方は見えていない。俺は加奈子の手を握り、低い声で言った。
「・・・・すいませんけど、これからみんなで飯を食いに行くので・・・・。」
神主さんは僅かに顔を上げ、俺を睨む。
「・・・・引き受けてもらえないと・・・・?」
「はい。お世話になった恩は忘れないけど、幽霊退治は二度とゴメンです。希恵門の力を受け継ぐ者は他にもいるんでしょう?だったらその人たちにお願いします。」
きっぱりそう言って頭を下げた。
「加奈子、行こう。」
「・・・うん。」
俺たちは手を繋ぎ、車の停めてある空き地まで向かった。信也と朋子さんは「早く早く!」と手招きをして、今すぐに逃げ出そうとしていた。
「待って下さい!どうかもう一度力を!」
神主さんが慌てて走って来る。俺たちは車に乗り込み、一目散に逃げ出した。
「やってられるか!そんなに幽霊退治がしたいなら、自分でやったらええねん!」
「ほんまやで!これ以上度私らを巻きこまんといてほしいわ!」
「ホンマにな・・・。悪霊を祓ってくれたのは感謝するけど、でも前の時の件でチャラやんな?」
「確かにそうだけど、巫女の衣装のままで来ちゃった・・・。これ郵送で返しても大丈夫かな・・・・?」
狭い車内に、みんなの不安と不満が募る。ルームミラーにはまだ追いかけて来る神主さんが映っていて、何かを必死に唱えていた。
「何してんねんあの人・・・・。」
じっとミラーを見つめていると、神主さんは塩のようなものをばら撒いた。するとその瞬間、朋子さんが「ああ!」と絶叫した。
「色が・・・・また色が見えるようになってる・・・・。」
「ホンマか?」
「消えたはずなのにどうして・・・・。」
朋子さんは青い顔をして震えていた。そして俺の方にも異変があって、またしても幽霊の声が聞こえるようになっていた。そこら辺を漂う霊魂から、いつくもの声が聞こえてくる。
それはあの池の時のように、頭の中に直接響いてくる声だった。ずっと聞いていると、脳ミソが破壊されるような恐ろしい声・・・・。
それは信也も同じようで、頭を押さえてうずくまっていた。
《あの神主・・・さっき何かを唱えてたんはこの為やったんか。俺らが頼みを聞かへんもんやから、また能力を復活させようと・・・・。》
あまりに強引なやり方に、頭がカッと熱くなった。するとよく知る声が頭に響いてきて、背筋がゾクリとした。
《どうか私の頼みを聞いて下さい・・・。もし断るなら、いつまでもその能力は消えませんよ・・・・。だから戻って来て下さい・・・・。》
全身に鳥肌が立った・・・。それはこの能力が復活したからではなく、神主さんの声が直接頭に響いてくるからだった・・・。
《なんであの人の声が頭の中に聞こえんねん・・・・・。これじゃあまるで・・・・・・。》
頭の中に響く声は、幽霊の声だけである。そう思うとまた背筋がゾクリとした。
《あかん、あかん!この先を考えるのはやめとこう・・・・・。》
アクセルを踏み、猛スピードで逃げて行く。ルームミラーには神主さんの代わりに白い影が映っていた。それもクレイアニメのような、気持ちの悪い動きをする影が・・・・・。
《冗談じゃないで・・・・もう幽霊なんて二度とゴメンや!》
白い影は、気持ちの悪い動きで追いかけて来る。俺はギアを上げ、アクセルを踏み込んでスピードを上げた。
「お兄!前ヤバイ!」
突然信也が叫ぶ。すると目の前に赤信号の交差点が迫っていた。
「ヤバイッ!」
咄嗟にブレーキを掛けるが、勢いのついた車は止まらない。そして交差点で横転してしまった。
車はオモチャの転がり、床と天井がグルグルと回ってから、腕に激痛が走った。
「・・・・・・・ッ!」
あまりの痛みに息が出来なくなる。しかし自分のことより信也たちの無事が気になった。俺は逆さまの状態になりながらみんなを見渡した。
「大丈夫か!」
そう叫んだ時、大きなクラクションが響いた。大型トラックがブレーキの音を響かせながら突っ込んで来たのだ。
《あかん・・・これ死んだ・・・・。》
トラックが迫り、目の前にナンバープレートが映る。そして凄まじい音を響かせて、俺たちの車を吹き飛ばした。
車はオモチャのように転がっていき、グシャグシャになりながら電柱にぶつかる。俺は開いたドアから投げ出され、歩道の段差に乗り上げた。
「・・・・・・・ッ!」
呼吸が苦しい・・・・。腕に激痛が走る・・・。いや、そんなことよりあいつらはどうなった?加奈子は?信也は?朋子さんは?
なんとか顔を上げると、大破した車から全員が投げ出されていた。加奈子は泣きながら怯え、信也は身体を抱いてうずくまり、朋子さんは虚ろな目で宙を睨んでいた。
《・・・・信じられへん・・・あれだけの事故やのに、みんな生きてるなんて・・・・。》
加奈子も信也も、そして朋子さんも、幸い大きな怪我はなさそうだった。しかし何かに目を奪われ、ブルブルと震えていた。
《なんや・・・さっきの事故より怖いものでもあるんか・・・・?》
そう思って顔を上げると、目の前に白い影がいた。そしてすぐに神主さんの姿に変わり、満面の笑みで微笑んだ。
「よかったですね、みんな助かって。その悪運の強さなら、全ての御神体を回収できるでしょう。だから・・・・どうかお力添えを。」
そう言って腰を直角に曲げる神主さん。今の俺には、もう断る気力は残っていなかった。
四年の年月を超え、あの時の夏が再び追いかけてくる。恋人はそれぞれの鞘に戻り、そして再び悪霊退治に踏み出そうとしている。
二度あることは三度あるというが、どうやら三度くらいでは終わりそうにない。
この日を境に、ここにいる誰もが夏を嫌いになるだろう。
先ほど事故を起こしたトラックは民家に突っ込んでいた。そしてその中から白い影が現れ、頭の中に声を響かせてきた。
『まだ死にたくなかった・・・・助けてくれ・・・・』
俺は立ち上がり、目を閉じてセミの声を聞いた。うるさい合唱が、少しだけ頭の中を楽にしてくれた。



                   -完-

水面の白影 第十五話 水面の白影

  • 2014.10.14 Tuesday
  • 12:17
JUGEMテーマ:自作小説
おじさんが二人いる・・・・。叔父さんの後ろに、もう一人の叔父さんが重なっている。
《なんで叔父さんが二人も・・・・?》
疑問に思いながら底まで辿り着くと、叔父さんは狛犬の牙を握っていた。
《あれは俺が投げた奴か?・・・・・いや、違うな。よく見ると形が違う。きっともう一本の牙なんや。》
叔父さんは野暮用があって破魔木神社まで行ったと言っていた。きっとそれは、もう一つの狛犬の牙をもらいに行く為だったんだろう。
でもそれならそう時間は掛らないはずだ。ならば他にも用事があったってことなのか・・・・?
池の底に立ちながら叔父さんを見つめていると、幸子が手を伸ばした。
《広明・・・・一緒に行こう・・・・。お母さんと二人だけで、誰もいない場所へ・・・・。》
《・・・・お母さん・・・。ええよ、俺はお母さんと一緒に行ったる。でもな、その代わり約束してくれ。もうここにおる若い奴らに手を出さへんて。》
叔父さんは優しい目でそう言った。しかし俺はふと疑問を感じ、叔父さんをじっと睨んだ。
《なんで叔父さんの声が聞こえるんや?叔父さんは生きてる人間やから、こんな水の底で声なんか聞こえるわけがないのに・・・・・。》
叔父さんの声は、幸子と同じように頭に響いてくる。
《・・・・叔父さん、もしかして死人やとか・・・・?いやいや、それは有り得へん。この人はさっき俺を助けてくれたやないか。死んだ人間があんなこと出来るはずがない。》
叔父さんは生きている人間なのに、まるで霊魂と話すように頭に声が響いてくる。不思議に思って首を捻っていると、幸子が叔父さんに抱きついた。
《広明が二人いる・・・・。一人は死んでるけど、もう一人は生きてる・・・・。私は双子を産んだ覚えなんてないのに、どうして・・・・・・。》
それを聞いた時、パッと疑が解けた。
《そうか・・・・。叔父さんに重なって見えるもう一つの霊魂は、生まれてくる前に死んだ兄弟か・・・・。》
これで叔父さんが破魔木神社に行った理由が分かった。きっと叔父さんは、御神木に封じた自分の兄弟を迎えに行っていたのだ。
そして・・・・今喋っているのは、もう一人の叔父さんの方だ。だから頭に声が響いてくるんだ・・・・。
《お母さん・・・・俺は広明の兄弟や。生まれて来る前に死んでしもたけど、間違いなくお母さんの子供や。》
《・・・・ほんとに?私のお腹の中に、もう一人子供がいたの・・・・?》
《そうや。本来やったら、俺はあのまま消えるはずやった。でも広明のおかげで、こうして現世にとどまってる・・・。
でもあまりに悪さをしたもんやから、とうとう見限られてしもたけどな。》
もう一人の叔父さんは悲しそうな目で笑い、自分の罪を悔やんでいた。
《お姉ちゃんには悪いことをした・・・・。広明の大事な人やのに、俺が殺してしもたんや・・・。あれはお母さんが広明を乗っ取ったせいと違うで。
俺が広明を乗っ取ってやらしたことなんや。だから俺はとうとう広明の怒りを買って、神社の御神木に閉じ込められてしもた・・・。
きっと永遠にこのままなんやろなと思ってたけど、広明はこうしてまた迎えに来てくれた・・・。》
もう一人の叔父さんは、広明叔父さんの魂を振り返る。その顔は後悔の色に満ちていて、《悪かった・・・・》と頭を下げた。
《俺は生まれて来る前に死んでしもた。せっかくこの世に生を受けたのに、陽の目を見ることなく消えてもたんや・・・。
でもそれが納得出来へんかったから、ずっと広明の中に留まってた。》
もう一人の叔父さんの声は、誰に向けているものでもなかった。きっと・・・・自分自身に対して向けられたものなんだろう。
《俺は自分が生まれてきた意味が欲しかった・・・・。
陽の目を見いへん短い人生やったけど、せめてこの世に生を受けた意味があれば、あの世へ旅立つのも納得出来ると思ったんや・・・。
だからずっと自分が生まれた意味を探して来た。そしてやっと・・・・・その答えが見つかったわ。》
もう一人の叔父さんは顔を上げ、何かを決意したように頷いた。
《お母さん、俺と一緒に逝こうや・・・。もうここにおったって、なんにもならへん。ただ生きている人間を苦しめるだけや。
だから俺が一緒に逝ったるから、もうこんな悪さはやめよ?俺はきっと・・・・お母さんをこの世の呪縛から解放する為に生まれてきたんや・・・。
だから一緒に逝こう・・・・。》
もう一人の叔父さんは、広明叔父さんに身体を返した。そして霊魂となって幸子に近づき、その手を握って微笑んだ。
《大丈夫・・・・一人やないで・・・。もし地獄に行くとしても、一緒に苦しんだる。だからもう終わりにしよ・・・・な?》
《・・・・・・・・・・・・。》
幸子は何も答えない。ただ黙ってもう一人の叔父さんを見つめている。
《ほな・・・・・逝こう。ここじゃない、別の世界へ・・・・。》
もう一人の叔父さんは、とても柔らかい眼差しをしていた。そして幸子を抱きしめ、スッとその中へ入っていった・・・・。
《もう一人の広明・・・・私の息子・・・・・。》
幸子の顔から、憑き物が落ちたように歪みが消えていく。ボロボロだった身体も綺麗になり、額に刺さった爪も消えていく。その姿は、娘の浅子さんによく似ていた。
《ありがとう・・・・私の子供・・・。向こうに行ったら、ちゃんと名前を付けてあげるからね・・・・。》
幸子は涙を流し、ふわっと池の底から浮き上がる。それはとても感動的な光景で、しばらくこのまま見ていたいと思った。
《例え悪霊でも、話せば分かるんやな・・・・。もう幸子にトドメを刺す必要はないわ。》
ここまで来れば安心だと思い、水面に向かって泳ぎ出した。さすがに息が限界に近づいていて、呼吸をしないと俺まで昇天する羽目になってしまう。
それは広明叔父さんも同じようで、水面に向かって泳ぎ出した。
幸子はその身に息子を宿したまま、水面の近くまで浮き上がる。するとどこからか光が射してきて、その姿を美しく照らした。
《これは・・・まるで月の光や・・・・。でも今日は新月やのになんで・・・・?》
不思議に思って見つめていると、射し込む光の中に小さな影が見えた。
《あれは・・・・俺が投げた狛犬の牙か?》
小さな影は、ユラユラと揺れながらこちらに近づいてくる。俺はその牙を手に取り、しっかりと握った。
《こいつが光を放ってたんか・・・・。》
狛犬の牙を握りしめ、水面まで向かう。そして池から顔を出した時、みんなが心配そうに見つめていた。
「隆志!」
「加奈子・・・・心配かけて悪かったな。俺は大丈夫や。あの悪霊も改心してくれたみたいやぞ。」
手を振りながらそう言って、みんなの元まで泳いでいく。すると朋子さんが急に立ち上がり、「そうじゃない!」と叫んだ。
「早くこっちまで逃げて!じゃないと隆志君まで・・・・・、」
「ん?俺までなんや?」
朋子さんは青い顔で震えながら、俺の後ろを指差した。
「・・・・広明さんが・・・・・、」
「え?叔父さんがどうかしたんか?」
そう言って朋子さんの指差す方を振り返ると、幸子が叔父さんを羽交い絞めにしていた。
《広明・・・・あんたも一緒に逝こう・・・。あんたも私の子供なんだから・・・・。》
幸子は青い光に包まれながら、今にも叔父さんを連れて行こうとしている。そして叔父さんもまた、それに抵抗しようとはしなかった。
「・・・・しゃあないな・・・。いくらアイツに乗っ取られてたとはいえ、俺は姉ちゃんを殺したんや・・・。その報いは受けなあかんか。」
幸子は叔父さんを抱いたまま水面に立ち、白い影をまとった。そしてクレイアニメのような不気味な動きで、スタスタと水面を走り出した。
「こっちに来る・・・・・。」
幸子は鬼の形相で俺を睨み、《どいて!》と叫んだ。
「や、やばい・・・・。」
慌てて逃げようとしたが、幸子の走るスピードの方が速い。このままでは追いつかれると思い、力を振り絞って叫んだ。
「叔父さん!お母さんは言うてたで!もう叔父さんのことは恨んでないって!あれは叔父さんじゃなくて、別の誰かがやったことやって!
だから死なんでええねん!お母さんは、とっくに叔父さんのことを許してるんやから!」
渾身の声でそう叫ぶと、叔父さんは「ほんまか・・・?」と顔を上げた。
「ホンマや!だからもう何も気に病む必要はないんや!叔父さんまで一緒に死ぬことはないんやで!」
「・・・・姉ちゃんが・・・許してくれた・・・・。」
叔父さんは震える瞳で涙を浮かべ、「姉ちゃん・・・・」と囁いた。しかし相変わらず抵抗する様子はなさそうで、このままでは幸子に連れて行かれてしまう。
《このまま無事に終わると思ったのに、なんでこんなことに・・・・。》
大人しく成仏してくれると思った幸子は、より狂った悪霊になってしまった。
《こいつはただの自己中女や・・・。ほんまに自分の子供が大事なんやったら、一緒に連れて行くわけがあらへん。》
俺は少なからず幸子に同情を覚えていた。こんな暗い池でずっと苦しみ、霊魂となっても子供のことを求めていた。
それは息子への愛から来るものだと思っていたけど、どうもそうじゃなかったらしい。
《コイツはきっと、自分のことしか考えてないんや。息子や周りのもんがどうなろうが、自分さよければそれでええって奴なんや・・・・・。》
幸子に対するわずかな同情は消え、激しい怒りが湧いてくる。やはりここでコイツを仕留めないと、この池の悲劇は終わらないのだ。
「隆志!早く逃げて!」
「お兄!」
加奈子と信也が叫んでいる。朋子さんも「隆志君!」と身を乗り出し、池に飛び込もうとしていた。
《もう迷ってられへん・・・・。こいつはキッチリ痛い目に遭わして、この世から消えてもらわなあかん!》
幸子は叔父さんを抱えたまま走って来る。真っ直ぐに俺を睨みながら・・・・。
しかし逃げてはいけない。向こうから来てくれるのなら、ここで迎え撃つだけだ。
「この自己中の馬鹿女!ええ加減に叔父さんを離さんかい!」
《邪魔するなあああああああ!殺すぞガキいいいいいいい!》
「ボケ!それはこっちのセリフじゃあああああ!」
俺は右手に牙を構え、そして左手を前に出した。その左手に幸子が迫り、ほんの軽く触れた。
「俺は素人とちゃうぞ!水面に叩きつけたるわ!」
左手で幸子の腕を掴み、力いっぱい引き寄せた。相手は勢い余って水面に倒れこみ、叔父さんを放した。
「叔父さんはもう関係ない。向こうに逝きたいんやったら、お前だけで逝ってこい!」
左腕で幸子の首を絞め、その頭に思い切り牙を突き刺した。
《ぎゃああああああああああ!》
幸子は俺の腕を振り払い、痛みのあまり暴れ回っている。
《死んだ息子が一緒に逝ってくれるって言うてるんや!これ以上ワガママぬかすな!》
暴れ狂う幸子の胸に、牙を握った拳を振り下ろす。鉤状になった牙が幸子の胸を貫き、深く食い込んでいった。
《いだあああああああああいいいい!》
幸子は狂ったように胸を掻き毟り、刺さった牙を抜いた。そして俺に襲いかかって来ようとした時、急にその動きを止めた。
《お母さん・・・もうええやろ。広明は生きてるんや。一緒には逝かれへん・・・・。》
もう一人の叔父さんの声が響き、青い光が強くなる。幸子は見る見るうちに白い影に変わり、ノイズのかかったテレビのように荒れ狂った。
《逝きたくない!まだこっちにいたいよおおおおお!》
「それがお前の本音やないか・・・・結局自分のことしか考えてへんのじゃ!グダグダ言うとらんと、さっさと逝ってこんかい!」
幸子は必死に暴れる。白い影となったまま、水面の上を駆けまわって叫んでいた。
すると池の中から何かが浮かび上がり、水面の上を流れていった。そして幸子の前まで来ると、大きな人の顔が現れた・・・・。
《なんやあれ・・・・・?》
大きな顔は、皺の刻まれた彫りの深い顔立ちをしていた。そして鋭い目で幸子を睨み、一言だけ呟いた。
《・・・・許せ・・・・。》
そう呟いた途端、幸子は大人しくなった・・・。そしてさっきまでの怒りが嘘のように、人の姿に戻って穏やかな表情を見せた。
水面に現れた人の顔は、そんな幸子を見て目を閉じた。そしてふっと息を吹きかけ、夜の暗闇の中へと吹き飛ばしていった。
幸子はそのまま宙に舞い上げられ、死んだ息子と一緒に霧となって消えてしまった。
《・・・・なんや?どうなってんねん・・・・。》
呆然としながら、幸子が消えた夜空を見上げる。そして大きな顔を振り返ると、ゆっくりと池に沈んでいった。
「あの顔は・・・・まさか・・・・・。」
一瞬の出来事に、その場にいた誰もが呆気に取られていた。そして大きな顔の消えた水面では、蛇を象った白い像が浮かんでいた。
「あれはもしかして・・・・。」
黒い水を掻きわけ、蛇の像へ近づいていく。そっと手を伸ばし、それを掴み取った。
「・・・これが御神体か・・・・?ほなさっきの大きな顔は、希恵門ってことなんか?」
白い蛇の御神体は、汚れた池に浸かっているにも関わらず、汚れが一つなかった。
そしていつか誰かに見つけてもらえるのを待っていたかのように、静かに喜んでいるように感じた。
「・・・・希恵門、俺らのご先祖様か・・・・。まったくもってはた迷惑な神様やで。余計な力は残すわ、池に霊魂を集めるわ・・・・。
でもこうして引き上げられてよかった。またあの神社に祭ってあげるから、もうこんな事は勘弁してくれよ。」
俺は御神体を持ったまま、加奈子たちの方へ泳いで行った。すると叔父さんに手を掴まれ、深く頭を下げられた。
「ありがとう・・・・。これでようやく終わった・・・・・・。」
「そやな。でもまだ仕事が残ってるで。コイツを神社に返さなあかん。叔父さんも一緒に行くか?」
「・・・いや、もうええわ。死ぬの覚悟してここへ来たのに、まだこうして生きとる・・・。そしたら急に死ぬのが怖くなってしもてなあ・・・。
もこんな事には二度と関わりたくないわ・・・・。」
「そうか・・・・・。ほなこれは俺らだけで返してくるわ。叔父さんはゆっくり休んで。」
叔父さんは何度も頷き、「ありがとう」と呟いた。そして岸に戻ると、加奈子が抱きついてきて「このドアホ!」と殴られた。
「どんだけ心配したと思ってんねん!しばらくセックスさせへんからな!」
そう言ってわんわんと泣き、手に持った御神体を見て叫んだ。
「ヘビ嫌いやねん!近づけんといて!」
「痛ッ・・・・・殴るなや・・・・。」
抱きついたり殴ったり、相変わらずコロコロと態度の変わるやつだ。でもそれが加奈子の魅力だから、笑いながら御神体を近づけてやった。
「きゃあ!やめて!」
「神様に対して失礼なやっちゃな。もっと近くで見てみいな。」
二人でふざけ合っていると、信也と朋子さんが吹き出した。
「お兄、それバチ当たるで?」
「そうそう、また希恵門に呪われるかもよ?」
「ちょっとくらいええやんか。どんだけコイツに迷惑掛けられたと思ってんねん。」
「まあ・・・確かにそうやなあ。ほなもう一回池に戻しとくか?」
「アホ言え!冗談でもお断りや!」
コツンと信也の頭を叩くと、「痛いよお・・・」と朋子さんに抱きついていた。
「はいはい、痛い痛いの飛んでいけ。」
朋子さんは完全に信也を飼いならしたようで、すでに尻に敷かれている気がしないでもない。でもお似合いのカップルだから、きっとこの先もうまくいくだろう。
「さて・・・ほんなら帰ろか。もうこんな所には用はないし。」
みんなはコクコクと頷き、足早に池から離れて行った。
「叔父さん、帰ろうよ。みんな行ってまうで?」
「ああ・・・分かってる・・・・。」
叔父さんは暗い水面を睨みつけている。そしてゆっくりと目を閉じ、死者を弔うように手を合わせていた。
その時、山から温い風が吹き下ろしてきた。それは水面を波立たせ、濁った池に波紋が広がっていった。まるでこの池を浄化していくように・・・・・。
・・・・出来るなら、もう二度とこの池に関わりたくない・・・・。そしてこの御神体を返して、すぐにでも霊魂と話せる力なんて消し去ってほしい。
もう幽霊なんてゴメンだし、特殊な能力だってゴメンだ・・・・。
フェンスを潜って池を後にする時、一度だけ後ろを振り向いた。もう誰もいなくなった暗い池は、幽霊がいる時より不気味に感じられた。
「・・・・怖・・・・。」
山から吹く風に背中を押され、池から離れていく。車に揺られて家に着くまで、誰も池のある方を振り返ろうとはしなかった。

水面の白影 第十四話 水底の怨霊

  • 2014.10.13 Monday
  • 11:41
JUGEMテーマ:自作小説
月の光には、人を狂わせる不思議な力があるという。それは霊魂に対しても同じようで、新月の夜にはこの世ならざる者は大人しくなるらしい。
『ええか隆志、水神様を引き上げるにはタイミングが重要や。月の出てない晩に、全ての霊魂を鎮めてから引き上げるんや。』
叔父さんはいつになく真剣な顔でそう言っていた。
そこまでアドバイスをくれるなら、一緒について来てくれればいいじゃないかと思ったが、「俺はもう無理や・・・・」と項垂れていた。
『この十年・・・・ずっとあの池に通い続けて、ちょっと疲れたわ。危ない時は連絡してくれたら行くさかい、とりあえずは勘弁してくれへんか・・・・。』
いつもの自信に満ちた顔はどこへやら、そこには昔の気弱な叔父さんがいた。さすがにそんな顔を見せられると、無理に連れて行くことは出来ない。
危ない時だけ助けると約束してもらって、俺と信也、そして朋子さんと加奈子だけで亀池に来ていた。
新月には月の光がない。そのせいで辺りは真っ暗で、懐中電灯の明かりだけが頼りだった。
信也は電灯を使って自分の顔を照らし、「いよいよ幽霊とのご対面や・・・・」と悪ふざけをしていた。
それを見た加奈子はギュッと俺の腕を掴み、「ちょっとやめてえや・・・」と怯えた。
「こんな暗い場所でそんなことせんといて。」
「でもホンマのことやん。これからお化けを退治して、水神様の御神体を引き上げるんやから・・・・。」
「それは分かってるけど、そういうイタズラはいらんて言うてんねん。だいたいこの池の中には、信ちゃんのお母さんだっておるんやで?そんなイタズラしてたらバチが当たるで。」
加奈子は信也の懐中電灯を奪い取り、プリプリ怒りながら池を照らした。
「信ちゃんはほんま子供やなあ・・・そんなんじゃいつまで経っても朋子さんに振り向いてもらえへんよ?」
「ちょっとイタズラしただけやん。それに俺はお母さんに会えることを喜んでんねん。例え幽霊でも、もう一度お母さんに会いたいんや。」
信也は真剣な表情で池を睨み、ちゃっかりと朋子さんの手を握っていた。
「そうだね。いくら幽霊でも、お母さんに会えるのは嬉しいよね。でもね信也君、今日はその為だけに来たんじゃないよ?」
「分かってるって。この狛犬の骨を使って、浮かばれへんお化けを鎮めるんやろ?でも俺にはお化けと話す力なんてないから、お兄の横で拝んどくしかないけどな。」
そう言って俺の肩を叩き、「任せたで」と親指を立てた。
「言われんでも分かっとるわ。ほなちょっと池の前まで行って来るから、お前らはここにおれ。骨はここから投げたらええから、フェンスの中には入るなよ。」
危険な仕事をするのは俺だけでいい。信也にも加奈子にも、そして朋子さんにも無事でいてもらいたいのだから。
念を押すように睨みつけると、信也と加奈子はコクコクと頷いた。しかし朋子さんは俺の後をついて来て、「手伝わせて」と微笑んだ。
「ここまで来て隆志君一人に任せるわけにはいかないから。」
「ええんか?危ない目に遭うかもしれんで?」
「分かってる。でも私にだって力はあるよ。それがどういう形で役に立つかは分からないけど、何もしないよりはマシだと思う。」
朋子さんの目は本気だった。手にした狛犬の目を握りしめ、強い意志を示すように唇を結んでいた。
「もうそろそろ終わらせたい・・・・。この池から水神様の御神体を引き上げたら、私はこうお願いするつもりでいるの。
もう人の色が見える力なんていりません。どうか私の中から消し去って下さいって。その時、初めて自分の人生を歩けるような気がするから。」
「・・・・そうやな。朋子さんは今まで苦労してきたんや。これが終わったら、もう何にも縛られんと自由に生きたらええと思う。そんで俺だって同じことをお願いするわ。
霊魂と話せる力なんていりませんってな。まだ一回も話したことはないけど、でもやっぱりそんな力は気持ち悪いやん?
だからこれが終わったら、星野家がどうとかじゃなくて、ただの友達としてみんなと付き合おうや。」
朋子さんは小さく頷き、「ありがとう・・・」と呟いた。
「さて、ほんじゃやりますか。」
俺は池を睨み、ポケットから神主さんの書いた祝詞を取り出した。それをたどたどしく読み上げ、朋子さんと並んで手を叩いた。
《さて・・・・誰が出て来るか?お母さんか?それとも別の奴か・・・・・?どっちにしたって、逃げんと正面から話し合うぞ。》
しばらく手を合わせたまま池を拝み、それから狛犬の牙を投げ入れた。水面に波紋が広がり、濁った池が揺らいでいる。
・・・・・・それからほんの数秒後、ゆっくりと白い影が立ち昇った。とても気持ちの悪い動きをしながら、逃げ場を失ったガスのように揺らいでいる。
「・・・・強い赤色・・・。それも燃え上がるような、太陽みない赤色だわ。」
朋子さんは白い影の色を見抜く。そして小さく口を動かして、「隆志君の赤色と似てる」と呟いた。
《俺と同じ赤色・・・・ということは、この白い影は・・・・・。》
ゴクリと唾を飲み、乾いた喉に流し込む。白い影は激しく動き回り、やがてゆっくりと俺の方に近づいてきた。
そして見る見るうちに人の形に変わり、とても懐かしい人が姿を現した。
「・・・お母さん・・・・。」
十年前に失踪した母が、霊魂となって目の前にいた。昔と変わらず綺麗な顔をしていて、思わず涙が出そうになる。
「・・・お母さん・・・・やっと会えた・・・・。」
手を伸ばして母に触れると、向こうも手を握り返してきた。そして背中に腕を回して俺を抱きしめ、《隆志・・・・》と囁いた。
するとその瞬間、背後から誰かが迫ってきた。
母は俺の後ろを見つめ、《信也・・・・》と手を伸ばした。
「お母さん!」
池に近づくなと言ったのに、我慢出来ずに駆けよって来たらしい。そして俺の横から母に抱きつき、子供のように泣いていた。
「お母さん・・・また会えた・・・。もう二度と会えへんと思ってた・・・。よかった!」
《・・・大きくなったな、二人とも・・・。ちょくちょくこの池に来てたのは知ってるけど、こうして抱き合えるなんて思ってなかった。
十年間・・・・寂しい思いをさせてごめんね・・・・。》
「ほんまや!幽霊でもええから何で会いに来てくれへんかったん!俺とお兄がどれだけ心配したと思ってんねん!」
《・・・出来ることならすぐにでも会いに行きたかった・・・。でもこの池から出られへんから仕方なかったんや・・・・許してな。》
母はポンポンと信也の背中を撫で、俺にも《ごめんね・・・・》と謝った。
「ええよ今さら。こうしてまた会うことが出来たし。でも再会を喜ぶ前に、お母さんの誤解を解かなあかんねん。」
《誤解・・・・?》
「そや。お母さんは広明叔父さんに恨みを抱いてるやろ?でもそれは誤解で、実はあれは別の魂が・・・・、」
《知ってる・・・・。》
「え?知ってんの?なんで?」
意外な思いで尋ねると、母は悲しそうに目を伏せた。
《この池にしょっちゅう広明が来てたんや。最初のうちは今すぐにでも殺したいって思ってたけど、それは誤解やった。私をこんな目に遭わせたのは、広明じゃないんや。
ここへ来る広明は、私を殺した時の広明とはまったくの別人やって思った。根拠はないけど、絶対にこの子じゃないって思ったんや・・・・。だからもう広明を恨んではないよ。》
「そうか・・・そうなんや・・・・。それなら後は、お母さんの霊魂を鎮めるだけやな。」
俺はニコリと笑いかけ、狛犬の牙を思い浮かべた。すると水面から大きな牙が伸びてきて、見えない糸を切るように母の後ろを一閃した。
「これでもう池の呪縛から解けたはずやで。」
《・・・・ありがとう・・・・。これでようやくゆっくり眠れる・・・・。》
母は心底ホッとしたように笑い、《十年は長かった・・・・》と疲れた声で言った。
「あかんて!まだ逝かんといて!」
信也は意地でも離すまいと、力いっぱい抱きしめている。母は苦笑いしながら、信也の頭を撫でた。
《あんたは身体だけ大きくなって、中身は昔と変わってへんなあ・・・・。》
そう言って可笑しそうに笑い、何度も信也の頭を撫でていた。
《そんなんじゃいつまで経っても隆志が安心出来へんやんか。それにお母さんだって、安心して向こうに逝かれへん。》
「・・・・そうや・・・俺はまだまだガキや・・・。だから逝かんといてえな・・・・。このまま一緒に帰ろ・・・・。」
信也はさらに強く抱きつき、母の胸に顔を埋めている。しかし母はその腕をほどき、真剣な目で信也を見つめた。
《ええか信也・・・・。お母さんが恋しいのは分かるけど、あんたはもう十七や。それやったら、もう少し大人にならなあかんで。》
「歳なんて関係ないねん!せっかく十年ぶりに会えたんやで。お母さんは俺やお兄と一緒にいたくないんか?」
《いたいに決まってるやろ。でも無理なもんは無理なんや。分かってよ・・・・。》
「イヤや!絶対にどこにも行かせへんからな!幽霊でもええから一緒に住むんや!」
信也は小さな子供のように駄々をこねる。その気持ちはよく分かるが、これ以上母を困らせることは出来ない。
可哀想だが引き離すしかないと思い、信也を抱えようとした。しかし母は俺を止め、キツイ目で信也を睨みつけた。
《信也・・・・ええ加減にしとき。アカンもんはアカンねん。いくら駄々こねたって、お母さんはうんとは言わへんよ!》
「・・・・・・・・・・・・。」
信也は母を見つめたまま黙り込む。そしてまたすぐに泣きだして、その場に座りこんでしまった。
《懐かしいな、この光景・・・・。》
かつて俺たちが悪さをした時、母はこんな風に叱っていた。特に甘ったれの信也は、週に五回はこうして怒られていた。
《ごめんな・・・。でも死んだ人間は、いつまでもこの世におられへんのや。あんたらと別れるのは辛いけど・・・・ずっと見守ってるから・・・・。》
母は俺たち二人を抱きしめ、《《元気でな・・・》と頬を寄せた。そして白い煙に変わり、ユラユラと揺らめいて消え去っていった。
「待ってえな!逝かんといてよ!なんで自分の子供をほったらかすん?ここにおってよ!」
信也は池に向かって走り出す。そして誤って足を滑らせ、勾配のついた護岸を転げそうになった。
「信也!」
慌てて手を伸ばし、信也の腕を掴む。すると朋子さんも駆けよって来て、信也の腕を掴んだ。
「信也君!気持ちは分かるけど、今は落ち着いて!」
「イヤや!せっかくお母さんに会えたのに、なんでまた離れ離れにならなあかんの?こんなんおかしいやん!家族やのに一緒におりたいやんか!」
信也はバタバタと足を動かし、俺たちを振り払おうとする。これ以上暴れられたら本当に池に落ちてしまう。
ここは殴ってでも大人しくさせるしかないと思い、拳を握って振り上げた。しかしその時、隣から大きな怒鳴り声が響いた。
「甘ったれるんじゃないわよ!いつまでも駄々こねるな!」
朋子さんは顔を真っ赤にして、信也の頭をひっぱたいた。
「小さな子供ならいざ知らず、高校生にもなって癇癪起こすなんて・・・・ガキもいことじゃない!」
信也も俺も、キツネにつままれた顔で朋子さんを見つめた。彼女は顔を真っ赤にしたまま、火事場の馬鹿力で信也を引き上げた。
そしてサッと手を上げ、信也の頬を思い切りビンタした。
乾いた音が響き、信也の頬が赤くなる。叩かれた信也は泣きそうな顔になり、ブルブルと震えていた。
「そりゃあ母さんと離れるのが寂しいのは分かる・・・。でもね、辛かったのは信也君だけじゃないんだよ?
君のお母さんだって、この池でずっと苦しんでた。それがようやく楽になれる時が来たんだから、どうしてその気持ちを理解してあげないの?」
「・・・・・・う・・・・。」
「泣いたってダメ!本当にお母さんのことが好きなら、お母さんにとって何が一番いいことかは分かるはずよ?
もしそれが分からないって言うんなら・・・・私はそんな男はゴメンだわ。」
「・・・う・・・うう・・・・・。」
信也は完全に打ちのめされ、俺の方を見て助けを求めてくる。
「いちいちお兄ちゃんに助けを求めない!」
「うう!・・・・ひぐ・・・・。」
朋子さんは信也を立たせ、服の汚れを払ってやった。そして肩に手を置き、正面から真っ直ぐに見つめた。
「・・・・私のことが好きなんでしょ?」
「・・・・はい・・・・。」
「だったらもっとしっかりして。いきなり大人になれなんて言わないから、せめて歳相当にはしっかりしてよ。
そうでないと・・・・いつまで経っても信也君のことを男として見てあげられないよ?それでもいいの?」
「・・・・ヤダ・・・・。」
「だったらもう泣かないで。まだやるべきことは残ってるんだから、しっかりしなきゃ。」
「・・・ふぁい・・・。」
「ふぁいじゃなくて、はい。」
「はい!」
信也は必死に涙を拭い、真っ赤な目で朋子さんを見つめていた。そして朋子さんの方はというと、何を思ったのか急に顔を近づけた。
そして・・・・ほんの、ほ〜んの軽くだけ、唇を重ねた。それは瞬きよりも短い時間だったけど、信也の涙はピタリと止まった。
「・・・いつかちゃんとしたキスができる日を待ってる。だから・・・もう少し逞しくなってよ、ね?」
信也はじっと固まって動かない。しかし何かに弾かれたように、コクコクと頷いていた。
《信也・・・・めっちゃええ人見つけたな・・・。せめてこの十の分の一でも加奈子に女らしさがあれば・・・。》
そう思って二人を見つめていると、何かが背中に飛びついて来た。
「うお!何やねん・・・・?」
「あんたらだけでマッタリせんといてよ!私も青春ゴッコにまぜて!」
「加奈子・・・・このドアホ!池に落ちるとこやったやろが!」
「ええやん落ちても!私が助けたる!」
「アホ!お前も一緒に溺れるだけや!」
加奈子はギュッと腕にしがみつき、タコみたいな口をして顔を近づけてきた。
「きしょいからやめい!」
「ちょっと!彼女にきしょいって何よ!」
「顔が怖いねん・・・・。お前はもうちょっと朋子さんを見習ってやなあ・・・・、」
「あ!あ!また朋子さんや!あんたやっぱり朋子さんのことが好きなんやろ!」
「違うわドアホ!誰が弟の女を好きになるか!」
とても真剣な場面だったのに、アホの加奈子のせいで台無しになってしまう。しかし信也はいつの間にか笑顔になっていて、また朋子さんの手を握っていた。
「お兄・・・・朋子さんのこと好きなん?」
「だから違う言うてるやろ!」
「言うとくけど朋子さんは俺が狙ってるんやで。いくらお兄でも渡さへんからな。」
「だから誰も盗らんわ!だいたいもう彼氏気どりかい!」
「そうや。キスしたんやからもう彼氏や。」
「そやそや!だからウチらもキスしよ。」
「どうでもええからそのタコみたいな口やめい!金もろてもキスする気失せるわ!」
大声で馬鹿なやり取りを続けていると、朋子さんまでもが笑いだした。
「彼女なんだからキスくらいしたらいいじゃない。どうせ絶倫なんだし。」
「朋子さんまで・・・・。」
「ああ、それと信也君。まだ彼女じゃないからね。今はただの弟君。そこのところはしっかりとわきまえておくように。」
「・・・・はい。」
この前の神社の時のように、セミより大きな声で喚き合う。とても馬鹿馬鹿しい時間だけど、とても幸せな時間だった。
しかしこの時の俺たちは、あまりに浮かれすぎて気が抜けていた。
そして・・・・突然朋子さんの足に何かがまとわりついて、池の中に引きずりこまれていった。
「朋子さん!」
信也は慌てて朋子さんの手を掴む。しかし信也までもが引きずられ、池に落ちそうになった。俺と加奈子は顔を見合わせ、すぐに二人を助けた。
「加奈子!そっちの腕持て!」
「もう持ってるって!でもすごい力で引きずられるんや・・・・。」
加奈子は腰を落として信也を引っ張っている。しかし力が及ばす、信也と共に池に落ちてしまった。
「加奈子!」
俺は信也の腕を掴んだまま大声で叫んだ。
「信也!狛犬の爪があるやろ!あれを渡せ!」
「そんなん無理や!両手がふさがってるんやから!」
信也は片手で朋子さんを引っ張り、片手で俺の手を掴んでいる。
「ほんなら・・・・加奈子!信也のポケットから狛犬の爪を・・・・、」
しかし言い終える前に、加奈子は「ムリ!」と叫んだ。
「私泳げへんねん!早く助けて!」
そういえば加奈子はカナヅチだった・・・。このままでは全員池に溺れてしまうし、いったいどうしたらいい?
困り果てて唇を噛んでいると、池に沈んだ朋子さんが必死に顔を出した。そして信也のポケットを探り、狛犬の爪を投げて寄こした。
「さすが朋子さん!ナイス!」
地面に落ちた爪を拾い、それを指の間に挟み込んだ。
《朋子さんが引きずられる瞬間・・・・ちょっとだけ人の手が見えた。きっとソイツがこの池で一番厄介な霊や。》
俺は信也の手を握ったまま、濁った水面を睨んだ。
「朋子さん!あんたの足を引きずった奴がおるはずや!ソイツをこの爪で切り裂くから、どの辺におるか教えてくれ!」
そう叫ぶと、朋子さんはブルブルと首を振った。
「分からない・・・もう足は掴まれていないから・・・。でもすごく怖い気配を感じるの・・・早く助けて!」
「分かってる!その為にはこの爪を食らわしたらなアカン!どの辺におるか分かるか?」
「どの辺って言われても・・・・。」
朋子さんは困ったように目を動かし、濁った池の中を睨んでいた。
「・・・ごめん、分からない!」
「こんだけ濁ってたら無理か・・・・。ほな色はどうや?あれは物理的なもんと違うんやろ?濁ってても見えるんと違うか?」
「・・・・・そうだけど・・・・。」
「早くせんとまた襲って来るで!」
「じゃ・・・じゃあ今のうちに上がろう!わたし泳ぎは得意だから、この薄着だったらみんなを連れて岸まで・・・・・、」
そう言いかけた時、信也が「ぎゃッ!」と叫んだ。
「どうした!」
「何かが足を掴んで・・・・・、」
信也は青い顔で叫ぶ。そして俺の手から離れ、何かに引きずられるように沈んでしまった。
「信也!」
水面にゴボゴボと泡が立ち、信也の姿が消える。もう迷っている暇はないと思い、慌てて池に飛び込もうとした。しかし朋子さんは「待って!」と叫んだ。
「やってみる・・・。私たちを引きずり込んだアイツを探してみるわ・・・。」
「もうそんな時間ないねん!早くせんと信也が・・・・、」
「分かってる!でも闇雲に飛び込んだって意味ないでしょ!」
朋子さんは加奈子を抱えてこちらまで泳ぎ、「お願い!」と言って俺の方に押し上げた。
「加奈子!」
「隆志!早く引き上げて・・・・。」
加奈子は鼻を真っ赤にして泣いていて、恐怖と溺れたせいで咳き込んでいた。俺はすぐに彼女を引き上げ、「大丈夫か?」と肩をさすった。
「・・・・大丈夫じゃない・・・・。死ぬかと思った・・・・。」
「そうやな・・・。でももう大丈夫や。俺がこの爪で悪い霊をやっつけたるからな。」
そう言って池の方を振り向くと、朋子さんの姿も消えていた。
「朋子さん!どこにおんねん!」
立ち上がって池に近づくと、水面がわずかに揺らいだ。そして朋子さんが顔を出して、「ダメだ・・・・」と首を振った。
「やっぱり何も見えない・・・・。このままじゃ信也君が・・・・・。」
「・・・・クソ!どうしたらええねん!」
思わず舌打ちをして、辺りの草を蹴り飛ばした。
《このままやったら信也は死んでしまう・・・・。もしそうなったら、天国におるお母さんに何て言うたらええねん・・・・。》
池は黒く握っていて、きっと水中では何も見えないだろう。もしこのまま信也を助けられなければ、俺は母と会わせる顔がなくなる・・・・・。
《どうしたらええ?どうやったら信也を助けられる・・・・?》
握った拳を揺らしながら、必死に頭をひねる。これ以上時間が経てば、たとえ悪い霊を倒したとしても信也は死んでしまうだろう。
もうここは無茶を承知で、池に飛び込むしかないかもしれない・・・・。そう思って狛犬の爪を見た時、ふと閃いた。
「朋子さん!アレ持ってるやろ!」
「アレ・・・・?」
「だからコレやん!この爪と同じように、朋子さんも狛犬の目をもらったやろ!」
「狛犬の目・・・・。ああああ!もしかして・・・・。」
朋子さんは慌ててポケットを探り、神主さんからもらった狛犬の目を取り出した。
「それや!もしかしたら、その目って朋子さんの力に合うんと違うか?」
そう叫ぶと、頭のいい朋子さんはすぐに理解してくれた。
「これを使ったら、色が見える力が強くなるかもしれないってことね?」
「そうや!それを握って、もう一回池の中を探してくれ!」
「分かった!やってみる!」
朋子さんは狛犬の目を握りしめ、息を吸い込んで池に潜った。濁った水面に波紋がたち、不気味な黒い水が揺らぐ。
・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・一秒一秒が長く感じられる。それほど時間は経っていないと思うが、焦りのせいで五分にも十分にも感じられた。
「朋子さん・・・・まだか?」
腕組みをして足を鳴らしていると、後ろから「もしもし?」と声が聞こえた。何かと思って振り向くと、加奈子が誰かに電話を掛けていた。
《こんな時に誰と喋ってんねん・・・・。警察か救急車でも呼ぶつもりか?》
相変わらず加奈子はアホだと思った。相手は幽霊なのだから、警察や救急車が来たところでどうにも出来ない。
しかし今は怒る時間すら無駄に感じられて、朋子さんが上がってくるのをひたすら待っていた。
「・・・まだか?まだなんか・・・・?」
焦りのせいで、爪を噛むという幼い頃のクセが蘇る。そしてイライラしながら爪を齧っていると、水面から朋子さんが顔を出した。
「いた!いたよ!」
「ホンマか!」
「底の方にちょっとだけだけど二つの色が見える。一つは信也君のものだけど、もう一つは知らない色だった。でも黒が混ざってるから、きっと死者だと思う!」
「ほなソイツが信也を引きずり込んだ奴や!すぐにこの爪で引き裂いたる!」
拳に挟んだ爪を見つめ、息を吸い込んで飛び込んだ。そして朋子さんのところまで泳いでいくと、手を掴まれて「こっち!」と引っ張られた。
どうやら泳ぎが得意なのは本当のようで、男一人を掴んだままグングンと潜っていく。
《待っとれよ信也・・・すぐ助けたるからな!》
朋子さんに引っ張られ、暗い水底まで辿り着いた。するとグニャリと柔らかいものが足に当たった。
《・・・・信也や、間違いない!》
例え目で見えなくても、それが弟であることが分かった。兄弟の絆だかなんだか分からないけど、触れた瞬間にそう確信した。
そして信也を抱き上げた時・・・・背後に身も凍るような気配を感じて、恐る恐る振り返った。
《・・・・・・・・・ッ!》
・・・・俺の目の前には、目が空洞になった女がいた。顔はぶよぶよに爛れ、所々に骨が剥き出しになっている。
《コイツが最後の幽霊か・・・・。神主さんが言うてた、最初に沈んだ奴や・・・・・。》
野々村幸子・・・・。叔父さんのお母さんで、最初にこの池に沈んだ人間。この池にまつわる不幸は、コイツから始まったといっても過言ではない。
野々村幸子は白い影のように揺らめいていた。光の無い水底なのに、クッキリと白く浮かんで見えた。
その姿はあまり長く見られるものじゃなかった・・・・。怖いし気持ち悪いし、それに何より良くないものを感じる。
俺は手を伸ばして朋子さんに触れ、信也を預けた。
《早く信也を!》
暗くて何も見えないが、そこにいるであろう朋子さんを見つめる。すると幸子は俺の首を掴みかかってきて、空洞の目を近づけてきた。
《・・・・広明・・・・?》
頭の中に直接声が響いてくる。それは波のように全身を駆け廻り、ぞわりと鳥肌がたった・・・・。
《なるほど、こういうことか・・・・。これが霊魂の声を聞くっちゅうことなんか・・・。》
幸子の声は、まるで魂の叫びそのもののように感じられた。その叫びは耳から入ってくるのではなく、直接頭を揺らしているような感覚だった。
そして・・・・腕に力を入れて首を絞めてきた。それは到底人の力では抗えないほどのパワーで、ミシミシと骨の鳴る音が聞こえた。
《こらアカン・・・・早よコイツを倒さんと・・・・。》
俺は朋子さんを掴み、早く池から出るように押し上げた。そして拳に挟んだ狛犬の爪で、幸子の顔を思い切り斬りつけた。
《いだああああああああいいいい!》
身も震わすような叫びが、また頭を揺らしてくる。こんな声を長く聞いていたら、きっと俺の頭は狂ってしまうだろう・・・・。
ここはさっさとケリをつけるべきだと思い、もう一度斬りつけた。今度は喉を切り裂き、細かい肉片が飛び散っていく。
《いだああああいいい!いだいよおおおお!》
幸子は俺の首を離し、喉を押さえて苦しんでいた。
《広明・・・・広明はどこ・・・・?私の息子はどこ・・・・・・。》
《コイツ・・・・まだ叔父さんを諦めてへんのか・・・・。》
幸子の叫びはとても悲痛で、ナイフで抉られたように胸が痛んだ。しかし・・・・その同情がいけなかった。幸子は一瞬の隙をついて、狛犬の爪を奪おうとしてきた。
《コイツ・・・・武器を奪う気か!絶対に渡さへんぞ!》
爪を握った手を引き、幸子から遠ざける。そして爪を奪おうと手を伸ばしたところに、思い斬りつけてやった。
《ああああ!いだあああああいいいいい!》
《あかん・・・・この声ヤバイわ。意識が飛びそうになる・・・・。》
霊魂の声を聞くというのは、こんなに負担がかかるものなのか・・・・・。十年も一人でこいつらと向き合ってきた叔父さんは、そりゃあさすがに疲れるだろう。
《このままトドメを刺したいけど、もう息が限界や・・・・。いったん池から出んと死んでまう・・・・。》
苦しむ幸子を蹴り飛ばし、急いで水面へ向かう。しかし足を掴まれてしまい、強引に引き戻された。
《このボケ・・・・調子に乗んなよ!》
もう一度爪を振り下ろし、幸子の肩を斬りつける。しかし決して俺を離そうとはしなかった。
《これヤバイ・・・・。このままやったら俺が死んでまう。》
息はもう限界に達していた。早くここから逃げ出さないと、俺まで幽霊になってしまう。
《離さんかいコラ!》
幸子は両手で俺の足を掴み、水面に出ようとするのを邪魔してくる。俺は何度も何度も爪で斬りつけたが、なかなか足を離してくれなかった。
《ああ・・・・あかんわ・・・・。こら逃げられへん・・・・・。》
もうさすがに息が続かない。死が頭を過り、抵抗する力も衰えていった・・・・。
《このまま死ぬんか・・・・。でもまあ・・・・それもええか。信也は助けられたし、朋子さんがおるんやったら大丈夫やろ。
それにお母さんにも会えるしな。ただ・・・加奈子には申し訳ないな・・・・。もうあいつのアホな言葉を聞かれへんかと思うと、ちょっとだけ寂しいな・・・・。》
加奈子の笑顔、加奈子の泣く顔、そして加奈子の怒る顔が浮かび、思わず涙が出て来そうになる。
《・・・・あかん!やっぱりまだ死にたあない!こんな悪霊に殺されてたまるか!》
そう思うと身体に力が戻ってきた。俺は幸子の顔を思い切り蹴り飛ばし、額に爪を突き立ててやった。
《あぎゃあああああああ!いだいっでえええええ!》
《うるさいわこのドアホ!一人で死んどけ!》
突き刺さった爪は、幸子の額を割って深く食い込んだ。そのおかげで足が離れ、慌てて水面まで泳いでいった。
すると誰かがこちらに近づいて来る気配を感じ、思わず手を伸ばした。
《誰でもええ・・・誰でもええから引き上げてくれ!もう・・・息が続かへん・・・・。》
伸ばした手に最後の力を込め、心の叫びを響かせる。するとこちらに近づいて来た誰かは、しっかりとその手を握ってくれた。
そして水面まで俺を引き上げ、力任せに岸まで引き上げてくれた。
「大丈夫か隆志!」
「・・・・・・・・・・・・・。」
それは広明叔父さんだった。びしょびしょに服を濡らし、濡れた髪から水が滴っている。
「叔父さん・・・・なんでここに・・・・?」
そう尋ねると、叔父さんは加奈子の方を振り向いた。
「加奈子ちゃんが電話をくれたんや。だから急いでここまで来た。なんとかギリギリ間に合ってよかったわ。」
そう言って俺の肩を叩き、加奈子の方へ押しやった。
「隆志!」
加奈子は顔をくしゃくしゃに歪めながら泣いていた。
「よかったあ・・・・死んだかと思ってた・・・・。」
泣き喚くとはまさにこういうことを言うのだろう。加奈子の声はキンキンと耳に突き刺さった。
「あんたはアホや!いくら信ちゃんを助ける為でも、死んでどうすんねん!」
「いや、死んでないよ。それよりさっきの電話は叔父さんに掛けてくれてたんやな?」
「うん・・・・。他に頼れる人がおらんと思って・・・・。」
「そうか・・・お前のおかげで助かったわ。ありがとうな。」
加奈子を引き寄せ、グシャグシャと頭を撫でてやる。すると顔を上げてタコの口をするので、サッと唇を重ねてやった。
「あかんで・・・・どこにも行かんといてよ・・・・。」
加奈子は潤んだ瞳で見つめる。それは今までに見た中で一番真剣な目で、頷かずにいられなかった。
「どっこも行かへんよ。でもまだ終わってないねん。あの化け物を倒さん限り、御神体は引き上げられへんからな。」
「もうええやん、御神体なんて・・・・。」
「そうはいかへん。アレのせいでたくさんの人が苦しんだんや。これ以上ほっとくことは出来へん。」
そう、あの御神体を放っておくことは出来ない。またいつか不幸が始まって、この中の誰かが死んでしまうかもしれないから・・・・・。
俺は加奈子を引き離し、立ち上がって周りを見た。
「・・・お兄・・・・。」
「信也・・・よかった、無事やったんやな。」
信也は地面に座り込み、後ろから朋子さんに抱かれていた。
「さっき意識を取り戻したの・・・。それまでは呼吸が止まってて、もうダメかと思ってた・・・・。」
そう言ってギュッと信也を抱きしめ、「よかった・・・・」と頬を寄せていた。
「あのな、朋子さん心臓マッサージと人工呼吸をしてくれたんや・・・。もう何回もキスしてもたから、これで正式な彼氏やな。」
信也は嬉しそうに手を伸ばし、朋子さんの手を握っていた。
「お前は相変わらずええ身分やな。俺も一回でええから、誰かにそこまで心配されてみたいわ。」
「何言うてんねん。お兄が上がって来るまで、みんな心配してたんやで。特に加奈ちゃんは。」
加奈子はまだ泣いていて、立ち上がって抱きついてきた。
「ごめんな加奈子、心配かけて。でももうすぐ終わるから。」
優しく頭を撫で、そっと抱きしめてやる。すると加奈子は首を振り、「イヤや・・・・もう行かんといて・・・・。」と手を握ってきた。
「俺だって行きたくないよ。でもそういうわけにはいかへん。すぐに戻って来るからここで待っててくれ。」
「だからイヤやって!もう隆志が危ない目に遭うのはイヤやねん!お願いやからここにおって・・・・。」
「加奈子・・・・・。気持ちは分かるけど、でもケリをつけんと・・・・・、」
そう言いかけた時、叔父さんが肩を叩いた。
「・・・・いや、隆志はここにおれ。」
「なんでや?幸子・・・・、叔父さんのお母さんをこのまま放っといてええんか?」
「いいや、ええわけないやろ。」
「ほなやっぱり行かなあかんやん。アイツは狛犬の爪が刺さって弱ってるから、今がチャンスやねん。」
俺は泣きじゃくる加奈子を引き離し、池に向かった。すると叔父さんが横に並んできて、「もうええねん・・・・」と重い声をで言った。
「もうええ・・・・。ここから先は俺がやるわ。」
「なんでや?もう戦うのがしんどいから、俺らにバトンタッチしたんやろ?」
「そうや・・・・。でもそれはアカンねん。いくら疲れたからいうたって、若いもんを危険に晒すなんて、やったらアカンことやったんや。
だからこれは俺のミスや。責任を取ってお母さんを鎮めんとな。」
叔父さんは疲れた顔でニコリと笑う。その目には、何かを決意した色が浮かんでいた。
「叔父さん、ちょっと待ちいな。別に加奈子に呼ばれたからって気にせんでええんやで?」
「いや、そういう事と違うねん。加奈子ちゃんに呼ばれようと呼ばれまいと、ここへ来るつもりやったからな。」
「・・・・そうなん?ほななんで最初からついて来てくれへんかったん?」
素朴な疑問をぶつけると、叔父さんはドンと自分の胸を叩いた。
「ちょっとな・・・破魔木神社に行ってたんや。」
「破魔木神社に・・・・?なんであそこに・・・・。」
「野暮用や。でもちょっと時間がかかってもて、来るのが遅れた。勘弁してや。」
そう言ってまたニコリと笑い、何の迷いもなく池に飛び込んでいった。
「叔父さん!」
慌てて後を追おうとしたが、加奈子に止められてしまった。
「アカンて!もう行ったらアカン!」
「でも叔父さんが・・・・。」
すると朋子さんからも、「行かなくていいと思う・・・」と言われた。
「なんでや?あんな危ない奴を一人で相手にするのは危険やろ?最悪死んでまうで?」
「・・・・死ぬ気・・・なんだと思う?」
「なんやて?死ぬ気・・・・?」
「ここに眠る最後の霊魂って、広明さんのお母さんでしょ?彼女はとにかく広明さんを求めてる。
だから・・・・一緒に逝ってあげるつもりなのよ。それが一番確実な方法だから・・・・。」
「そんな・・・・それこそ止めなアカンやん!あんな悪霊の為に死ぬなんて、そんなん絶対にアカンよ!」
俺は加奈子の手を振り払い、叔父さんの後を追って池に飛び込んだ。
「隆志!」
加奈子の声が聞こえるが、それでも迷いはない。もうこれ以上、誰かの魂を見送るのは御免だった。
死んだ人間は死んだ人間で、大人しくあの世でも何でも行けばいい。どんな理由があるにせよ、生きている人間の邪魔をするなんて許されないのだから。
・・・・・暗い池に潜って行く。明かりはないけど、それでもハッキリと見えた。
水底に浮かぶ、白い悪霊の姿が・・・・・。そしてその悪霊と対峙する叔父さんの姿が・・・。
叔父さんは手を広げ、何かを語りかけている。その後ろには、叔父さんとよく似た別の霊魂が重なっていた・・・・・。

水面の白影 第十三話 忘れ去られた御神体

  • 2014.10.12 Sunday
  • 12:12
JUGEMテーマ:自作小説
あの池に行ってから十日後、俺は破魔木神社というところに来ていた。
『隆志、この神社に行って、神主さんに話を聞いて来い。その方がお前も納得するやろ。』
叔父さんにそう言われ、地図を片手にここまでやって来た。
「知らんかったな・・・・こんな神社があるなんて・・・・。」
ここは俺の家から車で三十分ほどの場所にある神社で、美しくも歴史を感じさせる外観をしていた。
周りには大きな木立が並び、まるで神社と外の世界を隔てているようだった。
入り口から伸びる参道は綺麗に整備されていて、遠くに見える階段に光が射している。
そして目の前の鳥居には『八幡神』と書かれた石札が掛けられていて、そこから小さなツタが伸びていた。俺は後ろを振り返り、空き地に停めた車を見つめた。
「信也のやつ・・・・ここまでついて来たクセに、土壇場でビビりよってからに。」
未だに真実を知ることを恐れる信也は、車の中からこちらの様子を窺っていた。
「ほんまに甘ったれな奴やで。でもまあ、無理に連れて行ってもしゃあないか。」
信也の乗る車に手を振り、鳥居を見上げて中へ入った。参道は木立の壁に囲まれていて、射し込んだ光が強い陰影を作っている。
俺はその影を踏みしめながら、一歩一歩足元を見つめながら歩いていった。
「そういや朋子さん、何の連絡も返してくれへんなあ。大丈夫なんやろか。」
あの日から十日、朋子さんに何度も連絡を取ろうとしたのだが、まったく返事がなかった。心配なので家まで押し掛けようとかと思ったが、なぜか叔父さんに止められたのだ。
『朋子ちゃんは朋子ちゃんで、色々と事情があるんや。そのうち会えるから、今はほっといたれ。』
まるで全ての事情を見透かしたような顔で、叔父さんは笑っていた。
「いったい何やっちゅうねん。分からんことばかりでイライラするわ。」
ブツブツ言いながら参道を抜け、階段を上がって境内の見える場所に立った。
「なかなか立派な社やな。」
破魔木神社の社は、地方の神社にしてはなかなか大きかった。
「綺麗やし、どこにも汚れがない。きっとここの管理者が丁寧に掃除してるんやろなあ。」
一人で納得しながら歩いて行くと、左手に続く歩道があった。何かと思って覗いてみると、歩道の先には小さな社があった。
「こっちにも社があるんか。」
一つの神社に複数の社があるのは珍しくない。しかし妙にその社が気になり、気がつけば足を向けていた。
大きな御神木の陰を抜け、社の前に立つ。するとなぜか線香の香が漂い、思わず首を傾げた。
「なんで線香の匂いがするんやろ?」
線香を焚くのはお寺であって、神社ではない。不思議に思いながら社に近づくと、おかしなことに気づいた。
「あれ・・・・?この鐘って神社の鐘と違うぞ・・・・。」
社から垂れさがる鐘は、明らかに神社のものとは違っていた。この鐘は確かお寺で使うものだ。
「なんでお寺の鐘が・・・・?」
不思議に思い、一歩下がって社を睨んだ。すると隣に白い立て札があることに気づき、そこに書かれた文字を読んでみた。
「ええっと・・・ここはかつて神仏習合の時代に、神と仏を共に祭っていた・・・・。しかし明治政府の神仏分離令のせいで、観音像を別の場所に移さなくてはならなくなった。
その時に建てられたのが、このお堂である・・・・。しかし残念ながら、当時の仏像や御神体のいくつかは、神仏分離令の混乱の際に失われてしまった。
幸い信心のある有志のおかげで、仏像は復元することが出来た。しかし御神体のいくつかは、まだ失われたままである・・・・。」
・・・・なるほど、ここはかつて神様と仏様を共に祭っていたのか。神仏習合というのは、大学の歴史科で聞いたことがある。
神道の神様と、仏教の仏様を一緒に祭ってしまうことだ。だからお寺の中にお稲荷さんがあったり、神社の中にお堂があったりした。
でも明治政府がそれを許さなかったから、神道と仏教は切り離されてしまったのだ。
「ということは、ここには神仏習合の名残があるってことやな。確か鳥居に書かれてた八幡様かて、神道から仏教に帰依した神様や。
ふう〜ん・・・・なんか意外な知識が手に入ってもたな。どうでもええけど。」
立て札から顔を上げ、とりあえず観音様を拝んでおく。
「ええっと・・・観音様やったら手は叩かん方がええんやったっけ・・・・?」
お賽銭を入れて鐘を鳴らし、手を合わせて頭を下げた。お堂の中からは線香の香が漂っていて、妙に心が落ち着いた。
「線香っちゅうのは、なんか気持ちが落ち着くな。そういう成分でも入ってんのかな?」
しばらくお堂の前に立ちつくし、線香の匂いを嗅いでいた。すると後ろからポンと肩を叩かれ、思わず飛びのいてしまった。
「な、なんやッ・・・・・。」
まだ昼間だというのに、背筋に冷たい汗が流れる。そして恐る恐る振り向くと、そこにはよく知る人物が立っていた。
「こんにちは。久しぶりだね。」
「と・・・・朋子さん!」
思いがけない人物の登場に、一瞬思考が停止する。どうして朋子さんがここにいるんだ?何の連絡も寄こさなかったクセに、なんでこんな時に、こんな所で・・・・。
「あはは、固まってるね。この恰好にビックリした?」
朋子さんは恥ずかしそうに笑いながら、実に特徴的な衣装を見せつけた。
「・・・・・・・・・・・・・。」
朋子さんは、白と赤の二つのカラーが眩しい、清楚な巫女さんの衣装を着ていた。それに今日は薄く化粧をしていて、短い髪を後ろで束ねていた。
《この人・・・・こうして見るとめっちゃ美人やな・・・・。巫女さんの恰好も様になってるし、もしかしてこれが仕事なんか?》
その美しい巫女姿に目を奪われていると、また照れくさそうに笑った。
「こんな恰好してるなんて意外だったでしょ?」
「・・・・・いや、めっちゃ似合ってるよ、それ・・・・。」
別に妙な下心はない。加奈子を裏切るつもりもない。しかし美しいものは美しいので、ここは素直な気持ちを述べた。
すると朋子さんは「ありがとう」と頷き、サッと踵を返した。
「今日ここへ隆志君が来ることは知ってたよ。」
「知ってた・・・?もしかして叔父さんから聞いたん?」
「まあね。でも信也君は一緒じゃないの?」
「いや、車におるよ。」
「そっか・・・また怖がっちゃったんだね。でもいつかは知ることだから、この機会に聞いておいた方がいいと思う。悪いけど呼んで来てくれるかな?」
朋子さんは真剣な顔で振り返る。俺は「分かった」と頷き、一目散に信也のところまで走った。
「おい信也。車から降りろ。」
「なんで?俺ここでええよ。」
「・・・・ほんまに降りんでええんか?」
「ええって言ってるやん。中で待ってるから、早よ用事済まして来てよ。」
信也は背中を向け、座席を倒してスマホをいじり始めた。
「そうか・・・・そら残念やな。今やったら朋子さんの巫女姿を見られるのに。」
「・・・・え?なんて?」
さっきまでの態度が嘘のように、信也の目が輝きだす。
「だから、今やったら巫女さんの格好をした朋子さんが見られるねん。」
「・・・・ウソや。こんな所に朋子さんがおるわけないやん。」
「それがおるんやなあ〜。俺も理由は知らんけど、でも確かにこの神社におるんや。それも巫女さんの恰好をしてな、巫女さんの。」
「・・・・・巫女さんの・・・・朋子さん・・・・。」
きっと入れ食いとはこういうことを言うのだろう。糸を垂らして一分もしないうちに、信也は餌に食いついた。
「なあ信也、どんなに誤魔化しても、お兄ちゃんの目えだけは誤魔化せへんで。」
そう言いながら車に乗ると、信也は「何がや・・・?」と目を泳がせた。
「お前・・・・朋子さんに惚れてるやろ?」
「・・・・いいや、全然。」
「嘘つけ。お前の態度を見てたらバレバレや。」
「違うもん。あれは弟的な意味で仲良くしてるだけや。」
「そうやな。弟的な雰囲気を演出することで、朋子さんに近づいてるんやもんな。それも手えまで握って。」
ニヤニヤしながら指でつつくと、「アホなこと言うな!」と怒られてしまった。
「俺が朋子さんのこと好きになるわけないやろ!」
「なんでや?」
「なんでって・・・・まず歳が違うやん!俺は十七で、向こうは二十五や。それに朋子さんは男に興味ないねん。だから好きになるはずがないやん。」
「でもそれは最近知ったことやろ?」
「そ、そうやけど・・・・・。」
「それに朋子さん美人やし、無愛想に見えて実は優しいやん。マザコンのお前が惚れる条件は備えてるやろ?」
「誰がマザコンやねん!」
「お前に決まっとるやろ。」
ペシっと信也のおでこを叩き、車から降りて振り返った。
「まあ来たくないんやったら来んでええで。朋子さんの巫女姿を見逃すだけやから。」
そう言い捨てて神社に戻ると、パタパタと足音が聞こえてきた。
「待ってえや!誰も行かへんなんて言うてないやん!」
「思いっきり言うてたわ、このドアホ!」
泣きそうな顔の信也を叩き、頭を掴んで参道の奥を向かせた。
「ほれ、お前の大好きな朋子さんが境内の前に立っとるぞ。」
「・・・・・ホンマや。ほんまに朋子さんや・・・。しかも巫女さんの恰好してる!」
信也は嬉しそうに震えだし、少女マンガのように目を輝かせていた。
「十日も連絡取れへんかったんや。寂しいて仕方なかったんやろ?早く行って来い。」
そう言ってバシっと背中を叩くと、「朋子さ〜ん!」と駆け出していった。
「分かりやすいやっちゃで。」
おそらく朋子さんとの恋が成就する可能性は低いだろう。でもこうして元気が出るのはいいことだ。俺は笑いを噛み殺しながら、二人の待つ境内へと歩いて行った。


            *


「初めまして、神主の星野と申します。」
朋子さんに案内されて、境内の横にある家に入った。すると白髪混じりのおじさんに出迎えられて、丁寧に頭を下げられた。
「・・・・お邪魔します。」
俺も丁寧に頭を下げ、まだ朋子さんとイチャイチャする信也の頭も下げさせた。少し緊張しながら中に入ると、エアコンの効いた居間に通された。
「麦茶くらいしかないんですが、よろしいですか?」
「ああ、いえ・・・お構いなく。」
星野と名乗った神主さんは、奥へと引っ込んでいく。俺は部屋の中を見渡し、「普通の家やな・・・」と呟いた。
タンスにテーブル、座布団にテレビ。それに本棚には洋画のDVDが詰まっていて、綺麗に整頓されていた。
しかしその中で、一つだけ目を引くものがあった。それはテレビの横の棚に置かれた、狛犬の像だった。
「すごいリアルやな・・・。何で出来てるんやろ?」
その狛犬は、まるで命を持った生き物のように見えた。そして所々が禿げていて、中から骨らしきものが覗いていた。
もう少し詳しく見てみようと近づいた時、神主さんがお茶を持って来た。
「それ、あまり触らない方がいいですよ。」
「え?ああ・・・・すいません。」
慌てて手を引っ込め、背筋を伸ばして座る。神主さんはニコリと笑い、お茶を置いて向かいに座った。
「めっちゃ喉乾いててん。」
信也はロクに挨拶もせずにお茶を飲む。しかも右手を朋子さんと繋いでいるもんだから、慣れない左手でゴクゴクと飲んでいた。
「あ、もうないわ。お代わりってもらえるんかな?」
すると朋子さんは、「これ飲んで」と自分の分を差し出した。
「サンキュー。」
「何がサンキューや。朋子さんに浮かれて調子に乗るな。それとええ加減手を離せ。」
ちょっと強めに頭を叩くと、不満そうな顔で手を離した。
「すいません、まだガキなもんで・・・・。」
神主さんに頭を下げると、「いえいえ、いいんですよ」と笑われた。
「仲の良いご兄弟ですね。」
「いや、手が掛るだけですよ。」
「でもしっかりと弟さんのことを見てらっしゃる。まだ若いのに立派なものです。」
そう言ってちびりとお茶を舐め、先ほどの狛犬の方に振り向いた。
「これ・・・なんだか分かりますか?」
「はい、狛犬でしょう?」
「そうです、狛犬です。でもただの置き物じゃありませんよ。悪い物を退治する力を持っているんです。」
「はあ・・・・。でもそれが狛犬の役目なんじゃ・・・・・?」
「そうです。だからこいつの骨をどこかの池に投げると、報われない魂も浄化されるんですよ。あなたはそれを目の当たりにしたはずですよ?」
「・・・・・・・・・・・。」
神主さんの目に、優しさとは違う色が浮き上がる。そしてすぐに柔らかい表情に戻り、またお茶を飲んでいた。
「きっと今のあなたの頭の中は、ごちゃごちゃに混乱しているでしょうね・・・・・。」
まるで俺の心を見透かしたように言い、ズズッとお茶をすすった。
「実は・・・・最近よく分からないことばかりで・・・・・、」
「分かっています。だからここへ来られたんでしょう?全てを知る為に。」
「・・・はい。叔父さんにここへ行けと言われたんです。自分が説明するより、ここの神主さんに話を聞いた方が早いからって・・・。」
水滴のついたコップを掴みながら言うと、神主さんは少しだけ笑った。
「広明さんらしいですね。口ベタな彼のことだから、上手く説明する自信がなかったんでしょう。」
神主さんはお茶を飲み干し、ゆっくりとテーブルに置いた。部屋には時計の音だけが響き、いつの間にか信也も真剣な表情になっていた。
「隆志君。それと信也君。」
急に名前を呼ばれて、俺たちはビクリと顔を上げた。
「私は無駄口というのが嫌いなので、要点だけを説明します。そしてその話を信じるかどうかは・・・あなた達次第です。」
神主さんの目に、また優しさ以外の色が浮かぶ。それは時計の音と相まって、小さな居間に緊張が張り詰めていった。


            *


『かつてこの神社には、多くの神と仏が祭られていました。しかし明治時代の神仏分離令のせいで、数体の仏像と御神体が失われてしまったのです。
幸い仏像は修復され、いくつかの御神体も取り戻すことが出来ました。しかし手元に返ってこなかった物もあります。
そのうちの一つに、水神様の御神体があります。これはその名の通り、水を司る神様です。
水神様は、過去に存在した星野希恵門という人物を神格化したもので、この神社に丁寧に祭られていていました。
ちなみにこの星野希恵門は、不思議な力を持っていたそうです。人の持つ色が見えたり、霊魂と対話出来たりしたといいます。
そしてそういう不思議な力を使う時、決まって目が青く染まっていたそうです。その時は鋭く眼光を放ち、まるで人とは思えない気配を放っていました。
そういう力があったから、彼は周りの人々から畏敬の念で見られ、神の使いではないかと囁かれていたそうです。
しかしその噂を聞きつけたある豪商が、彼の力を金に代えようと企みました。希恵門は断固として拒否しましたが、豪商の方も簡単には諦めません。
そしてあまりに希恵門が抵抗するので、とうとう業を煮やして殺してしまったのです。
それ以来、その豪商は不幸に見舞われることになりました。積み上げた財は賊に奪われ、立派な屋敷は雷を受けて燃え上がりました。
そして本人は病に倒れ、最後には見るも無残な姿になって死んでしまったそうです。
これを知った周りの人々は、希恵門の魂が呪いを掛けたのだと恐れました。そして彼の家の近くの池に、祠を建てて魂を鎮めようとしたのです。
するとその年から、希恵門のいた町ではとんと水害が起こらなくなりました。
毎年のように大雨で作物が被害を受け、台風で川が溢れていたのに、希恵門を祭ってからピタリと無くなったのです。
それ以来、希恵門は水神として祭られるようになりました。そして時代が移って町が姿を変えた後も、町の人々から信仰され、この神社を建てて祭ったのです。
ちなみにこの希恵門には、二人の子供がいました。一人は男の子で、もう一人は女の子です。そしてこの二人の子供もまた、希恵門の力を受け継いでいました。
男の子の方は霊魂と話せる力を、女の子の方は人の色が見える力を。それぞれの姉弟が、分割して力を受け継いだのです。
そして困ったことに、この二人は姉弟でありながら恋に落ちてしまいました。若い二人はその想いを抑え切れずに、禁忌であると知りながら子を成してしまいます。
しかしその事実を町人に知られ、冷めた目で見られるようになりました。それはやがて嫌悪の目に変わり、迫害を受けて村から追い出されてしまったのです。
二人の姉弟は、まだ小さな子供をお寺に預け、自分たちは川に身を投げて自害しました。
それから月日が経ち、その子供は立派な大人に成長します。そしてやはり希恵門の力を受け継いでいて、男の子に現れるという霊魂と話す力を持っていました。
お寺の僧侶は大層その子を可愛がり、きっと仏の化身であると信じて、敬愛の念を持って育てていったのです。
やがてその子は亡くなりますが、その前に子供を遺していました。僧侶の目を掻い潜って、町の女と結ばれていたのです。
そしてその子もまた、希恵門の力を受け継いでいました。今度は女の子だったので、人の色が見える力を持っていたそうです。
こんなことが幾度も繰り返され、希恵門の力を受け継いだ子は増えていきました。それは現代に及ぶまで続き、今でも希恵門の力は残っているのです。
そしてその子孫のうちには、私や朋子さん、それと隆志君や信也君も含まれています。
要するに、星野希恵門の血を受け継ぐ者は、誰でも少なからず希恵門の力を受け継いでいることになるのです。
もちろん個人によって力の差はあります。まったく自覚のない人もいますし、死ぬまで力を開花させられない者もいるようです。
しかし中には強烈にその力を発現させる者もいて、人ならざる能力を発揮することがあります。
この中で言うなら、隆志君と朋子さんがそうですし、あとは広明さんと浅子さんも同じです。
そしてかつてあの池に沈んでいた、浅斗君もそうでしょう。
人ならざる力を持つということは、良い面だけでなく悪い面もあります。いらぬ不幸に巻き込まれ、背負わなくてもいい重荷を背負うことだってあります。
朋子さんは強力にその力を発現させたが故に、人の色からその者の人格を見抜いてしまいます。それはやがて人を信じる心を奪い、他人と距離を取ろうとしてしまったのです。
そして何とかそこから脱する為に、傷つき彷徨った挙句、ここへと辿り着きました。
私には大した力はありませんが、巫女としてここで修業させることで、前よりは落ち着きを取り戻したようです。
そしてそれは広明さんも同じで、彼は死した家族の霊に苦しめられることになりました。
霊魂と対話出来るなどという力の為に、いつでも死人の声を聞く羽目になってしまったのです。
だから家族の眠る池に身を投げようとしたのですが、偶然居合わせた三和という刑事に助けられました。
しかし自分の中に眠るもう一つの魂に支配され、その刑事さえも殺してしまいました。彼は朋子さんと同じように苦しんだ挙句、何かに引き寄せられるようにここへ辿り着きました。
そしてその苦しみから逃れる為に、お堂に祭られている観音様に必死に祈りを捧げていました。
私は彼に声を掛け、しばらくここに住まわせてやりました。そして次第に心の落ち着きを取り戻した頃に、あの狛犬の骨を渡してやったのです。
あれはかつて希恵門の祠に祭られていた狛犬で、邪を退ける力を持っています。だからその骨を池に投げ入れることで、死した魂を鎮めようとさせたのです。
彼には霊魂と話せる力がありますから、狛犬の力を借りれば、きっと上手くやれると信じていました。そしてこの十年間、たった一人であの池の霊を鎮めてきたのです。
これには二つの目的があって、一つは死した霊魂の声から、彼を解放させる為。彼はいつでも死者の声に苦しんでいましたから、それをどうにかしてやりたかったのです。
そしてもう一つの目的は、池の底で眠っているであろう水神様の御神体を引き上げる為です。
失われた御神体の一つが、なぜあんな場所にあるのかは分かりません。しかしあの池に沈んでいることは確かなのです。
水神様はあのような池に沈められたことを、大層怒っておられるようです。
そして再びこの神社に祭られることを願って、自分の力を引き継ぐものを池に呼び寄せ、何とかあの場所から引き上げてもらおうとしていました。
だからあの池に沈んだ霊魂のほとんどは、希恵門の血を引く人間なのです。
あなたのお母さんとおじいさん、そして浅斗君と、彼の母親の幸子さん・・・・。この人たちは水神様の呪縛により、あの池から逃れることが出来なくなっています。
しかし広明さんの除霊のおかげで、今や二体の霊魂を残すのみとなりました。
この二つの霊魂を取り除いた時、ようやく水神様を引き上げることが出来るのです。
ここまで来るのにずいぶん時間が掛りましたが、それは仕方のないことでした。全ての霊魂を取り除かなければ、周りの霊に取りつかれて殺されかねないからです。
広明さんはこの十年、ほんとうによく頑張ってくれました。
彼の中に宿っていたもう一つの魂をここの御神木に封印させ、出来るだけ霊を鎮める作業に集中出来るようにしてあげました。
しかし・・・それももう限界です。いくら狛犬の助けを借りようが、霊を鎮めるのは危険な作業です。だからそろそろ、他の者にバトンタッチをしようと考えたわけです。
さて・・・・ここまで言えば、なぜ広明さんがあなたをここへ寄こしたか分かるでしょう?
彼は最後の大仕事を、あなた達に引き継いでもらいたいと考えているのです。
隆志君、信也君、そして朋子さん・・・。この三人で、あの池に沈む水神様をここへ戻してもらいたい。
これは広明さんだけの願いではなく、私からのお願いでもあります。だからどうか力を貸して下さい。私も出来る限りのことはさせて頂きます。
・・・・・・ああ、それと、ここまで話したのなら、広明さんの出生のことについてもお話をさせて下さい。
彼の仕事を引き継ぐあなた達なら、充分に知る権利があるでしょうから・・・・・。』


            *


世の中には、聞かなきゃよかったと思うことだってある。見ざる聞かざる言わざるとはよく言ったもので、先人の教えは守るべきだと、今日ほど痛感させられたことはない。
今・・・俺の手には狛犬の牙が握られている。綺麗な布目のお守りに入っていて、何やらお経のようなものまで書かれていた。
それを握ったまま境内の前に立ち、ここに祭られている八幡様に言った。
「八幡様・・・・ここの神主はどうかしてるで・・・・。こっちの答えもロクに聞かずに、一方的にこんなことを押しつけられてしもた。
もし俺らに何かあったら、あいつに天罰を食らわしたってくれ・・・・。」
社を見上げながらそう言うと、隣に立つ朋子さんが「ごめんね・・・・」と呟いた。
「こうなることを知っていながら、ずっと言わなかった・・・・。ほんとうにごめん。」
「ええよ、朋子さんは何も悪くないから。」
「そうそう、悪いのはあの神主やから。」
信也は明るい声でそう言って、また朋子さんの手を握った。
「それにいざとなったら俺が守ったるから、心配せんといて。」
いっちょ前にカッコをつけ、ポケットから狛犬の爪を出して見せた。
「ありがとね、信也君・・・。でも無理しないでいいから、もし嫌なら断ってくれてもいいんだよ?」
「まさか。朋子さんを置いて俺だけ逃げるわけないやん。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
朋子さんはとても辛そうな目をして、右手に握った狛犬の目を見つめた。
「この十日間、ずっと迷ってたの・・・・。私はこうなることを最初から知っていたから、今日ここへ来るのが怖かった・・・・・。」
その声は細く、消えるように弱々しかった。
「ずっとみんなが連絡をくれていたのに、ここへ来るのが怖くて無視してた・・・。出来ることなら、このままみんなの前から消えちゃおうかなとまで思ってたから・・・・。」
「でもこうして来てくれたやんか。」
俺は朋子さんの前に立ち、信也と握り合わせたその手に触れた。
「俺だって、もしこんなことになると分かってたら来てなかったかもしれへん。いや、今からでもこんなことは断りたいわ・・・・。
でもな、これは誰かがやらんと終わらへんことやろ?それにあそこにはお母さんも眠ってるから、それだけは何としても助けてあげたいんや・・・・。」
「そうだね・・・・隆志君にはお母さんを助けるって理由があるもんね。でも私はどうなんだろう?こうして来てみたはいいけど、まだ迷ってる・・・・。
だって死んだ霊魂と向き合うなんて、怖くて怖くて震えそうだから・・・・。」
信也と繋いだ朋子さんの手が、微かに震えている。それを見た時、俺は彼女に手を差し出した。
「狛犬の目・・・・ちょうだい。」
「え?」
「朋子さんは行かんでええと思う。これは元々俺の身内から始まった話やし、後は俺一人だけでやるわ。だから事が終わるまで、信也のことだけ頼むわ。」
「駄目だよそんなの・・・・。隆志君だけ危険な目に遭うじゃない。」
「分かってる、でもええねん。俺はもう大事な人は失いたくないから・・・。信也も朋子さんも、危険な目には晒したくないんや。」
「でも私は・・・隆志君の家族でも彼女でもないよ?信也君はともかく、どうして私にそこまで・・・・、」
「それは・・・・朋子さんには無事でいてもらわんと困るからや。」
そう言って信也の方を見ると、ビクリと肩を震わせた。
「なあ信也?お前、朋子さんのことを・・・・・、」
「あ〜!あ〜!言わんといて!」
「何でやねん?」
「何でって・・・・そんなんお兄から言うことと違うやろ!」
「まあそうやな。でもみんなとっくに気づいてるで。特に朋子さんは誰よりも早く気づいてると思うけど・・・・。」
「は?なんで朋子さんが・・・・・、」
そう言いかけた時、信也は何かに気づいて「ああ!」と叫んだ。
「・・・色・・・か?朋子さんは人の色が見えるから・・・・。」
「そうや。朋子さんは人の色から何でも見抜いてまう。お前の想いなんて、とうの昔に気づいてるはずや、なあ?」
そう言って朋子さんに笑いかけると、小さくはにかみながら信也を見つめていた。
「信也君。」
「え・・・ああ・・・・はい・・・・。」
「ありがとうね、私も信也君のことは嫌いじゃないよ。」
「ああ・・・うん・・・。俺も・・・・嫌いじゃないで・・・。ていうか、どっちかっていうと好きなんやけど・・・・。」
信也は顔を真っ赤にして、握った手を離してしまった。
「ねえ信也君、ちょっと時間をくれないかな?」
「時間・・・・?」
「うん・・・私ね、ずっと人を避けてきたの。特に男の人はね・・・。今は信也君のことを弟のようにしか見てないから大丈夫。
でももし男として迫られたら、今まで通りに出来るかどうかは分からない・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
傍目にも分かるほど信也のテンションが下がっていく。しかしこの流れはそう悪くない。俺が思っていたよりも、この恋には可能性があるように思う。
だから頑張れ信也!ここは逃げずに、正面から朋子さんと向かい合う時だ。
「信也君・・・私は初めて心を許せる人たちに出会った気がする。君と隆志君と、それに加奈子ちゃんも。だからね、今はこの関係を崩したくないんだ・・・。」
「・・・・うん・・・・。」
「でもね、もしかしたら、いつか信也君を男として受け入れられるようになるかもしれない。その為には時間が必要だと思う。私にも、信也君にも・・・・。」
「俺にも・・・・?」
「だって今の信也君、まだまだ子供だから。それは歳のせいだけじゃなくて、こっちの方もね。」
そう言って朋子さんは、信也の胸に触れた。
「いつか信也君が、もっと大人になって隆志君を安心させられるようになったら、その時は真剣に君と向き合ってみる。
だからそれまでは、今のままでいようよ。大丈夫、私は逃げたりしないから、ね?」
「・・・・・うん・・・・。」
信也は泣きそうな顔で頷く。これはまだまだ朋子さんと付き合うには時間がかかりそうだけど、でもとりあえずは逃げなかった。
それだけでも成長したもんだと思い、ぐしゃぐしゃと頭を撫でてやった。
「信也よ、頑張れ。兄貴として応援してやるから。」
「・・・・うるさいな・・・子供扱いすんな・・・・。」
とうとう泣きだした信也を見て、朋子さんと目を合わせて笑ってしまった。
「さて、そんじゃ帰るか。とりあえず叔父さんの所に行こう。ちっとは文句言ったらな気が済まへん。」
「そうだね・・・・・。ほら、いつまでも泣いてないで行くよ。」
「・・・・ふぁい・・・・。」
うん、これはもし付き合ったとしても、完全に尻に敷かれるな。でもまあ、気弱な信也には、これくらいしっかりした女性の方がいいかもしれない。
三人で並んで参道を歩き、途中で朋子さんが足を止めた。
「ごめん、今気づいたけど巫女装束のままだった・・・・。」
「ええやん、それ似合ってるで。」
「いや、そういう問題じゃないから・・・。ごめん、ちょっと着替えて来るから待ってて。」
朋子さんは慌てて神社に引き返していく。
「朋子さん!」
「なに?」
「ちょっと一枚撮らせて。」
俺はスマホを構え、射光に浮かぶ巫女装束の朋子さんを写した。
「オッケー!これ友達に自慢したろ。」
「いや、それはやめて!恥ずかしいから・・・・・。」
「なんで?めっちゃ似合ってるからええやん。ほな次は横顔をもう一枚・・・、」
すると信也が手を広げて立ちふさがり、いっちょ前に睨んできた。
「俺の許可なしに朋子さんを撮影すんな!」
「何言うてんねん。もう彼氏気どりか?」
「違うわ!朋子さんに対して失礼やろって言うてんねん!」
「ほなお前この写真いらんのか?」
そう言って撮ったばかりの写真を見せつけると、言葉を失くして見入っていた。
「これ後で送ったるから、もう一枚撮らせてや、な?」
「・・・・・いやいや、あかんて!・・・でも、ちょっとくらいやったらええかも。」
そんなやり取りをしているうちに、朋子さんはサッと逃げて行ってしまった。
「ああ!ごめん朋子さん!この兄貴アホやから許したって!」
信也は慌てて後を追いかけ、参道の向こうへ消えてしまった。
「アホはお前やろ。まあええわ、ちょっとの間壁紙にしとこ。」
現役の、それも生の巫女さんを写せる機会なんてそうはない。さっそく壁紙に設定し、大学の奴らに自慢してやろうと思った。
しかしその瞬間、後頭部にとてつもない衝撃が走った。あまりの痛みに座りこむと、今度は背中に衝撃が走った。
「痛いな!誰やねん!」
「誰やねんちゃうやろ!なんでまた私だけのけ者よ!」
「か、加奈子・・・・・。」
いらぬトラブルメーカーがまたやって来て、思わず顔をしかめてしまった。
「私も仲間やろ!なんでのけ者にすんの!」
「してへんがな・・・。ていうか何でここにおること知ってんねん・・・。」
「広明さんを問い詰めたんや!もし教えへんかったら、一生呪いの手紙出したるってな!」
「子供かお前は・・・・。」
「そんなんどうでもええねん!それより・・・・この壁紙は何よ?」
加奈子は俺の手からスマホを奪い取り、プルプルと震えていた。
「あ、いや・・・それは・・・・。」
「これ・・・・朋子さんやん・・・。あんたやっぱりあの人のことを・・・・。」
加奈子の目に涙が溜まっていく。そして今にもスマホを破壊しようとしていた。
「待て待て!これはちょっとした手違いやから!」
「うるさい!人をのけ者にするわ、あまつさえ浮気まで・・・・。」
「だから違うって!人の話を聞けよ。」
「・・・・巫女さんがええの?」
「は?」
「だからそんなに巫女さんがええのって聞いてるんや。」
「いや・・・そら嫌いな男はあんまりおらんやろ・・・・。」
「ふう〜ん・・・・ほな私も巫女さんになるわ。」
「は?」
「私ここでバイトするから。そしたら巫女さんになれるやろ?」
加奈子はポイっとスマホを投げ捨て、一目散に神社へ走って行った。
「おいコラ!いらんことすんな!」
「なんでよ?私に巫女さんのカッコウしてほしくないの?それやったら撮り放題やで?」
「・・・・・それは・・・アリやな・・・・。いやいや、でもそんな理由でやるもんと違うやろ!とりあえず俺の話を聞いてからやな・・・・・、」
加奈子は俺の制止を振り切り、何がなんでも巫女さんになると喚いている。信也は必死に朋子さんに謝っていて、「もういいから着替えさせて!」と怒られていた。
どうやら女の尻に敷かれるのは兄弟揃って一緒のようだ。境内の前で騒ぐ俺たちの声は、セミの声よりうるさく響いていた。

水面の白影 第十二話 魂の眠る場所(2)

  • 2014.10.11 Saturday
  • 14:55
「着いたで。暗いから足元気いつけや。」
広明・・・・いや、叔父さんは、小さな溜め池の近くに車を止めた。月明かりが辺りを照らしているが、足元は草が茂っていてよく見えない。
俺はスマホのライトを点け、不気味な夜の池に向けた。
「やっぱりここか・・・・・。」
予想はしていた。きっと叔父さんはここへ連れて来るのだろうと。飛んでくる虫を払いながら、濁った池を睨みつける。
月明かりを受けた池は青く浮かび上がり、より一層不気味に感じられた。
「ここに・・・・みんな眠ってるんですね・・・。お母さんも、そしておじいちゃんとおばあちゃんも・・・・。」
「いや、他にもおるで。俺がお世話になった三和っていう刑事さんがおる。それに今はもうおらんけど、かつては子供の魂も眠ってた。」
「子供の魂・・・・?」
「浅斗っちゅう少年の魂でな。実の母親に殺された可哀想な子や。青い瞳をした可愛らしい子やったのに、短い人生を終えてしもたんや・・・・。」
叔父さんは辛そうな顔を見せ、池の方に足を進めて行く。
「フェンスの破れたところから中に入れるから。ちょっと照らしてくれんか?」
俺はスマホの明かりを向け、破れたフェンスを照らした。そして叔父さんに続いて中に入り、不気味な池に歩み寄った。
「あんまり近づきなや。落ちてまうから。」
「はい・・・・。」
池の周りは急勾配のコンクリートになっていて、足を滑らせたら一気に池の中だろう。それは分かっているが、ここに母がいるかと思うとじっとはしていられなかった。
「叔父さん・・・・さっき車で言うてたこと、ホンマなんですよね?」
俺は叔父さんを振り返り、額に汗を滲ませながら尋ねた。
「ここへ来る途中、叔父さんはこう言いましたよね?自分は本来、双子として生まれるはずやったって・・・・。」
「ああ、その通りや。俺には双子の兄弟が生まれるはずやった。」
「でも・・・・そうならなかった。それはお母さんのお腹の中で、生まれて来る前に死んでしまったから・・・・・。」
「そうや。それもまだ人の形になる前や。まだまだ米粒ほどの大きさもない、ただの細胞の固まりの時にな・・・・。」
「じゃあ・・・・俺と信也が知ってる叔父さんは、そのもう一人の叔父さんの方なんでね?」
「・・・・そうや、生まれて来おへんかった、もう一人の広明や。」
俺は池に視線を戻し、車の中での会話を思い出していた。ここへ来るまでの途中、俺は叔父さんに質問をぶつけた。
それは俺の知っている叔父さんと、今ここにいる叔父さんとでは別人のように感じるというものだった。
そしてそれに対する叔父さんの答えは、先ほどやり取りした通りのものだ。
叔父さんは本来、母親のお腹の中にもう一人兄弟がいた。一つの細胞から別れた、一卵性双生児というやつだ。
でもこの世界に生まれて来る前に、その兄弟は死んでしまった。その事実は誰も知らず、実の母親や医者でさえ知らなかった。ただ一人、広明叔父さんを除いて・・・・。
俺は叔父さんの方に目をやった。月明かりに照らされたその顔は、とても深い悲しみに沈んでいた。
「俺と一緒に生まれてくるはずやった兄弟は、この世界の光を見ることなく消えていった。でも俺は、そのことをずっと知らんままやった・・・・。
心や頭に異常を感じる時はあったけど、それはうつ病のせいやと思ってた・・・。
でもよくよく考えたら、そんなわけないねんな。俺が病気になったのは成人してからや。
でも子供の時にだって、同じようなことはあったんや。心が不安定になったり、時々記憶が途切れたり・・・・。今思い出すと、妙なことはようさんあったんや。」
叔父さんは池の傍まで歩み寄り、まるでそこに誰かがいるように見つめていた。
「当時の俺はまったく気づかへんかった。全ては病気のせいやと思いこんで、アイツの声に気づこうとせへんかった。
だからアイツは、とうとう業を煮やして表に出てきたんや。自分の存在を知ってもらう為に。」
叔父さんはこちらを振り返り、とても疲れた顔を見せた。暗い中でも白髪が目立ち、多くの苦労を重ねてきたことが分かる。
「さっき言うた浅斗という少年はな、人生に意味なんて無いって信じてた。なんでか分かるか?」
唐突な質問をされ、すぐには答えられなかった。しかし叔父さんは、俺の答えは期待していなかったようで、自分の口でそれを語った。
「浅斗は・・・・理不尽な死に方をした子や。これからまだまだ人生があったのに、それを無理矢理終わらされてしもた。
だから人生には意味が無いって信じることで、自分の死を納得しようとしてたんや。でも結局は・・・・あの子も人生の意味を欲しがってた。
短い人生やったけど、それでも自分が生まれてきた意味はあると、誰かに言うてほしかったんや・・・。でも幸い、その願いは叶ったみたいやけど。」
叔父さんは少しだけ笑い、また池に視線を戻した。いったい何を話しているのかまったく見えないが、今は黙って聞くべきだろう。
飛んできた羽虫を払い、叔父さんの話に耳を澄ませた。
「浅斗は最後の最後で、自分が生まれてきた意味があることを知った。自分を殺した母親から、一番欲しがってた言葉をもらえたんや。
だからあの子は、悪い霊にならずに逝くことが出来た。でもアイツはそうやなかった・・・・。人生どころか、外の世界に出て来る前に死んでしもたんや。
それも誰にも知られることなくや・・・・。だから俺は、アイツの声に気づいた時に、何とかしてやりたいと思った。でもそれが間違いやったんやなあ・・・・・。」
叔父さんの横顔に後悔の色が浮かぶ。辛そうに目を細め、濁った池に視線を落としていた。
「アイツは苦しんでた。浅斗と同じように、ごっつう苦しんでたんや。なぜ自分はこの世に生を受けたんか?なぜ生まれてくる前に死んでしもたんか?
神様はなんで、こんな無意味な命を創りはったんか?・・・・てな。」
池の後ろにそびえる山から、温い風が吹き下ろしてくる。それは妙に胸を掻きたてる不安な風で、夏だというのに肌寒くなった。
「だから俺は、アイツを助けてやりたいと思った。ようやくアイツの声に気づいたんやから、何とかしてやりたいと思った。
それで悩んだ挙句、浅斗に言うたことと同じ言葉を掛けてやった。人生にはちゃんと意味があって、無駄な命なんて無いってな。
生まれて来る前に死んだ短い命でも、きっと意味があるはずやって。でもそれがあかんかった・・・。
アイツは俺の言葉を勘違いしよって、無理矢理身体を乗っ取ろうとしてきたんや。」
「身体を乗っ取る・・・・?」
思わず顔をしかめて聞き返すと、叔父は「怖いやろ?」と笑った。
「アイツは昔から俺の中におって、向こうへ逝くことを拒否してた。だからチョイチョイ俺を乗っ取っては悪さをしとったんや。
小さい生き物を虐めたり、ひどい時には姉ちゃんに夜這いまでかけよった。」
「夜這い?自分のお姉ちゃんに?」
「そうや。あれはてっきり俺がやったと思ってたんやけど、どうもそうじゃなかったらしい。アイツが表に出てきて、俺の心を支配しとったんや。
でも記憶は残ってたから、てっきり俺がやったと思い込んでた。まあこれが分かったのは嬉しい事実やったけどな。」
叔父さんはホッとしたような顔で笑い、タバコに火を点けた。
「お前はさっきこう言うたやろ?俺の目が不気味に感じたり、青くなったりするって。」
「うん・・・・。なんかこの世のもんじゃないような眼やった。」
「それはアイツが表に出て来てる時や。それでも当時は、まだ俺に対して遠慮があったみたいでな。
たまに表に出て来てイタズラをするくらいで、完全に乗っ取ろうとまでは思ってなかったらしい。
でも俺がアイツの存在に気づいた時、甘い顔を見せてもた。だから勘違いして、この身体を乗っ取られた。それで・・・・・姉ちゃんと両親を殺してしもたんや。」
聞き捨てならない言葉が飛び出し、俺の胸がカッと熱くなった。
「ちょ、ちょっと待って!ほんなら何か?お母さんは叔父さんが殺したっていうことか?」
「・・・・そうなるな。正確に言えば、アイツに乗っ取られたこの身体がやったことや。」
「いやいや、ちょっと待ってえな。急にキナ臭くなってきたで。」
今まで真面目に聞いていたが、途端に疑惑がわいてきた。
「叔父さんさ・・・・もしかして、お母さんを殺した言い逃れの為にそんなこと言うてるんと違うの?」
「・・・いや、俺は姉ちゃんを守ろうとしてた。それだけはほんまや。」
「そんなん信じられへんわ。だって犯罪者って絶対に嘘をつくらしいやん。そんで罪を逃れる為に、奇人変人のフリをすんねやろ?
そうしたら精神がおかしいってことになって無罪になるから。」
俺は叔父さんに詰め寄り、正面から目を見据えた。
「なあ叔父さん、もうここまで来たんや・・・ほんまのこと話してえや。さもないと・・・・俺は何をするか分からへんで?」
頭に血が昇り、無意識に叔父さんの胸倉を掴む。もしこれ以上戯言をぬかすなら、このまま池に投げ落とすか、腕を極めて折ってやるつもりだった。
でも叔父さんは顔色一つ変えずに、「全部ほんまのことや」と言い切った。
「今のは正真正銘、ほんまのことしか喋ってへん。」
「信じられるかいな。幽霊やとか、生まれて来おへんかった双子とか、全部都合のええ言い訳やん。もしほんまにお母さんを殺したんやったら、それなりの報いは受けてもらうで?」
叔父さんの胸倉を掴んで分かることがあった。この人は何の格闘技の経験もない素人だと。
なら柔道二段の俺が本気で投げれば、大怪我をすることは免れない。いや、それどころか最悪は死ぬことだってある。
「叔父さん、もうほんまのこと話そうや。正直に言うんやったら、何もせんと警察に連れて行くだけやから、な?」
最後の忠告のつもりで問いかけると、叔父さんは急に俺の後ろを指差した。
「来たで。」
「来たって・・・何がや?」
「俺のもう一人の姉がや。この前出所して、ようやく自由の身になったんや。」
叔父さんは暗い道に向かって手を振り、「こっちや、こっち!」と叫んだ。すると道の奥から人影が現れて、ゆっくりとこちらに近づいて来た。
《叔父さんのもう一人のお姉さん・・・・?どういうことや?》
じっと立ちつくして見ていると、その人影が手を上げた。そして暗がりの中から顔を見せ、小さく笑って「こんばんは」と手を振った。
「悪いな姉ちゃん、出所したばっかりやのに。」
「ええよ、気にせんといて。」
暗がりの中から現れた女性は、少しだけ皺のある顔を笑わせた。そして後ろでくくった髪を揺らし、俺のことを見つめた。
「この子が隆志君?」
「そや、説明した通りのイケメンやろ?」
叔父さんは嬉しそうに笑い、バシバシと俺の肩を叩いた。
「ほんまやね、えらい男前やわ。さすが優子ちゃんの子供さんや。お母さんがべっぴんなら、息子もカッコよくなるんやねえ。」
そう言ってじっくりと俺の顔を見つめる。そして小さく頭を下げた。
「野々村浅子といいます。この前まで刑務所に入っててね、つい最近出てきたばっかりなんよ。よろしくね。」
そう言って痩せた顔を笑わせ、池の方を振り向いた。
《なんやこの人・・・・刑務所に入ってたやって?それに優子ちゃんて、もしかしてお母さんのこと知ってんのか?》
野々村浅子と名乗った女は、とても地味な格好をしていた。グレーの長袖のシャツに、これまた濃いグレーのロングスカート。
顔はなんの化粧っ気もないけど、それでも綺麗な人だと分かる。
「あれ?来てるのは隆志君だけ?」
そう言って周りを見渡し、叔父さんに向かって首を傾げていた。
「ああ、信也はちょっと無理やったんや。今は焼き肉屋でべっぴんさん二人に面倒見てもらってるはずや。」
「あらあ、そらええ身分やね。」
浅子さんは可笑しそうに笑い、また俺の方を見つめた。
「・・・・隆志君、いい色持ってるね。」
「へ?」
「だから君の持ってる色や。優子ちゃん譲りの燃えるような赤に、他人を思いやる淡い緑も持ってる。赤と緑って相性がええから、きっと心の強い優しい子なんやろねえ。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
・・・・固まるしかなかった。どうしてこの人は俺の色を知ってるんだ?確かに俺は、強い赤と淡い緑を持っている・・・・・らしい。
らしいというのは、自分で見たわけじゃないからだ。初めて朋子さんに会った時に、彼女からそう教えてもらったのだ。
《・・・・・ということは、この人も色が見えるってことか?・・・・いやいや、いくら何でも、そんな変わり者が二人もおるか?それもこんなに身近に・・・・。》
「色が乱れとる。混乱してるね?」
「ああ・・・・いえ・・・・。」
「人の感情は全部に色に出るからね。隆志君が混乱してるのがよう分かるわ。」
浅子さんは口元に手を当てて笑う。。
「隆志君、広明叔父さんからどこまで聞いてるの?」
「どこまでって・・・・何がですか?」
いったい何のことか分からず、怪訝な顔をしてしまった。すると浅子さんは何かを納得したように頷いた。
「そういう言葉が出て来るってことは、まだほとんど何も知らんのやね?」
「いや・・・・だから何のことか分からないです。」
「・・・・君の知り合いに、川合さんっておるやろ?」
「川合・・・・?ああ!朋子さんのことですか?」
名字で言われたので、一瞬誰のことか分からなかった。でもどうして朋子さんのことを知っているんだろう?叔父さんに聞いたのか?
「また混乱してるな。」
「ええ、まあ・・・・。」
混乱するのは当たり前だった。だってこの池へ来てから、予想もしないことばかり聞かされたんだから・・・。
未だに頭が整理出来ずにいると、浅子さんは柔らかい口調で言った。
「朋子ちゃんはな、隆志君のおじいちゃんの孫なんや。」
「え?俺のおじいしゃんの孫・・・・?」
「そう。君のおじいちゃんは、それはもう女癖の悪い人でなあ。しょっちゅう愛人を作っては、浮気ばっかりしてた。それでその愛人の一人を妊娠させてもてなあ・・・・。」
「それ、ほんまですか?ほんならその愛人の娘が朋子さんっていうこと?」
「違うがな。さっき孫やって言うたやろ。それやと娘になるやん。」
「あ、ああ・・・・そうか・・・・。」
「愛人に子供を産ませて、その子供が産んだ子が、朋子さんっていうことや。だからあの子は男のことを嫌ってる。
愛人に子供を産ませたクセに、あとは金も渡さんとほったらかしやったんやから。どれだけあの子のお母さんが苦労したか・・・・・。」
「なるほど・・・・そういう理由があったんか・・・・・。」
ここへ来てだんだんと朋子さんのことが分かってきた。あの一見すると無愛想な性格も、きっと苦労してきた人生の裏返しなのだろう。
「まだまだ君に教えてあげたいことはあるけど、今はそれどころじゃないからな。」
浅子さんはそう言って叔父さんの方を見つめた。
「広明・・・・今日もアレやるんやろ?」
「そうや。上手くいったら、姉ちゃんを隆志に会わせてやることが出来るかもしれへんからな。」
「お母さんに会わせる?どういうことですか?」
死んだ人間に会わせるなんて意味が分からない。眉をしかめて困っていると、急に辺りが暗くなった。
「月に雲がかかったんか・・・。真っ暗になってもた。」
こうして何の明かりも無くなると、いかに月明かりというのが明るいかが分かる。街灯さえないこんな場所では、月の光だけが頼りなのだ。
しかし叔父さんと浅子さんは、なぜか喜んでいた。そして池に向かって手を合わせ、まるで神社にお参りするようにパンパンと叩いた。
「あの・・・・何をしてるんですか・・・・?」
「この池に眠る霊を鎮めるんや。ここには不幸な死に方をした魂が眠ってるから、それをどうにかせんかぎり、池の主は消えてくれへん。」
「池の主・・・・?」
「水神様や。」
「水神様・・・・・?それはどういう・・・・・、」
「今は黙って見てて。私も参加するのは初めてなんやから。」
「・・・・・・・・・・・。」
叔父さんと浅子さんは、揃って目を瞑る。そして祝詞のようなものを呟き、ポケットから何かを取り出した。
《なんやアレ・・・・。何かの骨に見えるけど・・・・・。》
二人は祝詞を唱えた後、骨のような細長い物を池に投げた。ポチャンと小さな音が響き、濁った池に波紋が広がっていく。
《なんやねん、このオカルトな儀式は・・・・。こう言うたら悪いけど、こいつら頭がおかしいんか?》
なんだか急に白けてきて、このまま家に帰ってやろうかと思った。しかし・・・・すぐに気が変わった。なぜなら真っ暗な池の水面に、白い影が現れたからだ。
《あれは・・・・叔父さんを尾けてこの池に来た時に見たやつや!得体の知れん気持ちの悪い動きをする影やないか。》
帰ろうと思っていた気持ちは一気に吹き飛び、意識を集中させて池を睨んだ。白い影はぎこちない動きを繰り返し、やがて人の姿に変わっていった。
《なんやアレは・・・・?白い影が人間に変わった・・・。それもくたびれたおっさんに。》
二人は手を合わせるのをやめ、目を開いてその人物を見つめた。
「三和さん・・・・お久しぶりです。」
叔父さんはペコリと頭を下げ、申し訳なさそうな顔をした。三和と呼ばれた人物は、まるで親の仇のように叔父さんを睨んでいる。
しかしすぐに表情を崩し、何かを納得したように頷いていた。
「三和さん・・・・申し訳ない・・・。アイツは今、破魔木神社に預けとる。もう外には出させへんから、どうか安心して逝って下さい。」
叔父さんは深く頭を下げる。三和はもう一度頷き、白い煙に戻って消えていった・・・。
《なんやこれ・・・何がどうなっとんや・・・・。》
呆然として見つめていると、月明かりが戻ってきた。どうやら雲が去ったようで、少しだけ欠けた月が顔を覗かせている。
「・・・・上手いこといったな。これであと二人や。」
叔父さんは心底安心したように言い、額の汗を拭っていた。そして浅子さんも、同じようにホッとした顔を見せていた。
「初めてやってみたけど、緊張するもんやな。」
「そらそうやで。幽霊と直に向き合うんやからな。それに失敗したら取り殺されてまうし。」
「あんた・・・・ようこんなん一人で続けてきたな。辛かったやろ?」
浅子さんは労わるように言い、叔父さんの肩を叩いていた。
「そうやな・・・・ここに眠ってるのは、てっきり俺の家族だけやと思ってたからな。でも蓋を開けてみたら、まあようさんおること。
きっと姉ちゃんが沈んだ辺りから増えていったんやろうなあ。」
「・・・お母さん、ここまで仲間を増やしてでも、広明を守りたかったんやな・・・。」
叔父さんと浅子さんは、二人にしか分からない会話を続ける。
《なんなんや、さっきから・・・・。ちっとは説明せえよ・・・・。》
少しイライラしながら足踏みをしていると、手に持ったスマホが鳴った。
「ん?加奈子からか。」
もしかして信也に何かあったのかと思い、すぐに電話に出た。
「もしもし?どうした?」
『ああ、隆志?今どこにおるん?』
「亀池や。」
『亀池・・・ほなやっぱり朋子さんの言うた通りやな。あのな、ちょっと戻って来てほしいねんけど。信ちゃんがえらいことになってもてん。』
「やっぱり信也に何かあったんか?」
『うん、まあ・・・・そう大したことじゃないねんけど、あんまりにも泣き過ぎて、店でゲロ吐いてもたんよ。だから今は私の家におるんやけど・・・・・。』
「店でゲロか・・・・分かった。すぐに行くわ。」
『うん、お願い。ああ、それと朋子さんなんやけど・・・私の家に信ちゃんを運んでから、急にどこかに行ってしもたんよ。そっちに行ってない?』
「いや、こっちには来てないよ。」
『そうか・・・ほなどこ行ったんやろ・・・・?』
「さあなあ・・・・家にでも帰ったんと違う?」
『いやいや、それは無いやろ。だってあの人の家って島根やで?もう夜の十一時半やのに、わざわざ家に帰るかな?』
「でもそれしか考えられへんやないか。神戸からここまでは朋子さんの車で来たんやから、そのまま帰ってもおかしくないやろ。」
『ああ、そうか・・・それやったらええねんけど・・・・。』
「電話は?掛けてみた?」
『うん。番号教えてもらったから、すぐに掛けてみた。でも全然出えへんのや。いっぺん隆志から掛けてみてくれる?』
「分かった。ほなすぐにそっち行くから待っといてくれ。」
『了解、なるべく早よ帰って来てな。』
電話を切って叔父さんたちの所へ戻ると、いきなり「すまんな・・・」と謝られた。
「え?何がですか?」
「もし出来たらお母さんに会わせてやりたかったんやけど、今日は無理やった。でもこの池に残る霊はあと二人やから、近いうちに会えると思う。」
「・・・・・お母さんの幽霊にってことですか?」
「そうや。お前は俺の言うたことを信じてないやろ?でもここには確かにお前のお母さんが眠ってるんや。
だからお母さんに会えば、きっと俺の言うてることを信じてもらえると思う。」
・・・・信じるも何も、さっきこの目で幽霊を見たばかりだ。それにとりあえず今は加奈子の家に行かなければいけない。
「あの・・・さっき加奈子から電話があって、信也が店でゲロ吐いてもたらしいんです。だからすぐに戻りたいんですけど・・・・。」
「ああ、そらえらいこっちゃ。店の方には俺から謝っとくから、今は信也のところに行こう。」
叔父さんは俺の背中を押して、車を停めてある空き地まで向かう。浅子さんも後からついて来て、一度だけ池を振り返っていた。
「優子ちゃん、お母さん・・・・もうじき呪縛から解き放ってあげるからね。」
そう呟いて、じっと手を合わせていた。そしてその手には、さきほど池に投げた骨のような物が握られていた・・・・・。

水面の白影 第十一話 魂の眠る場所

  • 2014.10.10 Friday
  • 12:26
夜を迎えた地方都市に、鈍い月の光が射している。時刻は午後九時、繁華街の人通りは賑やかで、明日は土曜ということもあって若者が多かった。
「焼き肉、焼き肉!」
信也は嬉しそうに鼻歌を歌い、なぜか朋子さんと手を繋いでいた。そして朋子さんも嫌な顔一つ見せずに、信也の鼻歌に合わせてハミングを刻んでいる。
《この二人・・・・いつの間にこんなに仲良くなったんや?》
疑わしい目つきで見つめていると、加奈子に肘をつつかれた。
「朋子さんに妬いてる?」
「アホか。全然妬いてへんっちゅうねん。」
「ホンマ?」
「ホンマや。」
「じゃああたしとも手え繋ご、ほら。」
加奈子は強引に俺の手を握り、「焼き肉、焼き肉!」と口ずさんだ。俺はうんざりした顔で三人を睨み、窘めるように言った。
「お前らなあ・・・・焼き肉焼き肉ってうるさいぞ。今から誰に会うか分かってんのか?」
加奈子と手を離し、腕を組んで睨みつける。すると信也は「分かってるよ」と生意気に反論し、朋子さんにむかって「な?」と首を傾げた。
「・・・・広明さんに会いに来たことは分かってる・・・・。でも焼き肉なんて久しぶりだから、ちょっと嬉しくなって・・・・。」
朋子さんは申し訳なさそうに言うが、その顔は焼き肉の誘惑に負けていた。
「・・・ヤブサメの焼き肉・・・・一度でいいから食べてみたかった・・・・。一つ夢が叶う・・・・。」
「朋子さん・・・・見かけによらず食い意地が張ってるんやな・・・・。」
「・・・女は誰でも美味しいものが好き・・・・。それに比べたら、男なんて刺身に乗っかったタンポポ以下の価値しかない・・・・・。」
「なかなか辛辣な言い方やな・・・。過去になんかあったんか?」
「・・・・余計な詮索はしない・・・。それが協力する約束でしょ?」
朋子さんは唇を上げて、いかにも不機嫌そうな顔をした。
「分かってるって、ちょっと聞いただけやん。それにいつの間にか信也と仲良うなってるし・・・。手え繋いで歩くなんて、ちょっと二人の仲を疑ってしまうわ。」
そう言うとまたしても加奈子が肘をつつき、「やっぱり妬いてるやん」と睨んできた。
「だからあ・・・・もうその話はええやろ。いつまで引っ張るねん。」
加奈子はまた手を繋ごうとしてきたが、俺はそれを無視して歩いていった。
《こいつら全然あかんわ・・・。このまま広明に会ったら、絶対にアイツに取り込まれてしまう。ここは俺がしっかりせんと。》
一ヶ月ぶりの地元の街は、なんだか新鮮に見えた。建築中だった大きなデパートも完成し、改装中だった駅も綺麗になっている。
それに夜に来るのなんて久しぶりだから、少なからずテンションが上がってしまった。
しかし俺まで焼き肉に呆けたら、いったい誰が広明を問い詰めるというのか?
奴からの誘いにのってせっかくここまで来たんだから、それなりの収穫は持って帰らなければならない。
俺は深呼吸して気持ちを落ち着かせ、繁華街の奥にある焼き肉屋を目指した。
《ヤブサメか・・・・超がつくほどの高級店やな。ブランドもんの肉しか扱わへんし、牛タンなんか暑さが二センチもあるらしいからな。
そう考えると、こいつらがはしゃぐのも無理ないか・・・・・。》
焼き肉を連呼する三人を引き連れ、繁華街の奥へと向かう。すると煌々と照らす繁華街の通りに、こじんまりとした品のある店が見えてきた。
「ここがヤブサメか・・・・なんか絶対に金持ちしか入られへん雰囲気やな・・・。」
ヤブサメはややベージュな外観に、モダンな造形をした店だった。入り口には会員制と書いてあり、値段は全て時価となっている。
《怖いな・・・・奢りじゃなかったら絶対に入られへん店やわ。》
店の前で息を飲んでいると、入り口のドアが開いてスーツ姿の男が出て来た。そして俺たちに向かってニコリと笑い、丁寧に頭を下げた。
「斉藤様でいらっしゃいますね?」
「え?ああ・・・・そうですけど・・・・・。」
「星野様より承っております。中でお待ちなので、どうぞお入り下さい。」
そう言って機敏な動作で入り口の前に立ち、中に手を向けた。
「・・・・ほな行くか。」
「うんうん!」
「・・・・早く行って喰い倒しましょう・・・・。」
「この際広明はどうでもええわ。食べるだけ食べたら帰ろ。ついでにお土産ももらって。」
どいつもこいつもヤブサメの焼き肉に魅了され、本来の目的を忘れている。美味い食い物というのは、人の心を飲みこんでしまうらしい。
《俺一人で来た方がよかったかな・・・・・。》
チラリとそう考えるが、今さら後悔しても遅い。俺たちはスーツの男に案内され、立派な内装の店に上がった。
そして暖色のかかった照明に照らされながら、二階の大きな部屋へと案内された。
「こちらです。」
スーツの男はそっと襖を開け、中に向かって頭を下げた。
「星野様、お連れ様がご到着です。」
するとやや間を置いてから、「おお、来たか」と懐かしい声が響いた。その声を聞いた瞬間、カッと胸が熱くなった。
《広明・・・・この奥におるんやな・・・・。あかん、喉が渇いてきた・・・・。》
ゴクリと唾を飲み、動機の早くなった胸を押さえる。さっきまで浮かれていた三人も、少しばかり緊張しているようだった。
俺はみんなの先頭に立ち、畳の匂いのする部屋に足を踏み入れた。
「・・・・・・・・・・・。」
大きなテーブルの端っこに、広明がポツンと座っている。そしてなぜか服装は学生時代のジャージを着ていて、その隣に高そうなスーツが放り出されていた。
「おお、よう来たな!まあまあ座ってくれ。」
広明はパッと明るい笑顔になり、純粋に俺たちとの再会を喜んでいるようだった。誰もが困惑した顔で見つめ合い、小さく会釈をしながら広明の向かいに座った。
「ははは、そんな対面にばっかり座らんでええやん。ほら信也、俺の隣に座れ。」
そう言って手招きをし、隣の座布団を叩いた。信也は困ったように愛想笑いを見せるが、叔父の迫力に負けて隣へと移動していった。なぜか朋子さんを連れて・・・・・。
それを見た広明は、「なんや?信也の彼女か?」と冗談まじりに笑った。
「いや・・・・彼女とちゃうけど・・・・。」
「ははは、冗談や。お前とその人じゃ歳が離れ過ぎとるからな。」
広明はタバコに火をつけ、じっと二人を見比べていた。
「信也は今年で十八やろ?」
「・・・・うん。」
「そんでそっちのぺっびんさんは・・・・・若くて三十、妥当なところで三十六いうくらいかな、どうや?」
広明は自信満々で朋子さんを見る。すると朋子さんの唇が大きく上がり、「二十五です」と答えていた。
俺は今日、初めて朋子さんの歳を知った。名前と連絡先、あとは住所くらいしか知らないから、歳を知ってちょっと驚きだった。だって実際より大人っぽく見えるから・・・。
「ははは、悪いな。間違えてもたうたわ。これでも人の年齢を当てるのは得意なんやけどなあ・・・・歳がいくと衰えるもんや。」
「いえ・・・・別に怒ってませんから・・・・。」
朋子さんは唇を上げたまま、ムスっとした表情で目を逸らしていた。その時・・・俺はふと気付いた。
《広明のやつ・・・・わざと年齢を間違えよったな・・・・。ああいう言い方をしたら、相手は怒ってほんまの歳を言うはずや。》
きっと広明の奴は、初めて会う人間の情報を知りたかったのだろう。ではなぜそんなことをするのかというと、俺たちのことを警戒しているからだ。
《ずっと疎遠やった甥っ子が、いきなり連絡を取ってきたんや。何事かと警戒するのも無理ないわな。特に広明みたいな神経質な性格ならなおさらや。》
俺は冷めた目で広明を睨み、いまにでも母のことを問い詰めたい気持ちになった。するとそんな俺の心を見透かしてか、広明は「お母さんのことやろ?」と鋭い質問をしてきた。
「あのな、今やから言うけど、お前らコソコソと俺のこと嗅ぎまわってたやろ?」
広明は笑顔のままでそう言った。俺と信也は顔を見合わせ、心臓の縮こまる思いでいた。
「そんなに緊張せんでええよ、別に怒ってるんと違うからな。」
「・・・・・ああ、いや・・・・・。」
何も答えることが出来ずに黙っていると、ゆっくりと襖が開いて店員が入ってきた。
「お、肉が来たみたいやな。とりあえずは食べようや。ここの肉ごっつう美味いんやで。」
黒い服に白い頭巾を被った店員が、丁寧な動作で肉を並べていった。どれも高そうな皿に乗っていて、テレビでしか見たことのないような綺麗な肉だった。
「とりあえず一通り頼んどいたんや。カルビに牛タンに、ロースとホルモンやな。後で野菜も来るけど、女の子らはどうする?野菜は先の方がええか?」
広明はそう言って、加奈子と朋子さんに視線を飛ばした。二人は遠慮がちに首を振り、さっきまでのテンションはどこへやらという感じで黙っていた。
「ほな野菜は後でええか。とりあえず飲み物でも頼も。俺はウーロン茶、黒ウーロンの方な。お前らはどうする?」
広明に問いかけられ、俺たちは顔を見合わせる。
「俺は・・・・・とりあえず水でええわ。」
「ほな俺もお兄と一緒で。・・・・あ、でも・・・・やっぱりソフトドリンクで。ジンジャーエールとかにする・・・・。」
「・・・・私はお酒がいい・・・・。ビールで。」
「じゃあ私もお酒。チューハイで。」
加奈子がそう言うと、広明は声を出して笑った。
「ここにはそんな安い酒はないで。確かええワインがあったやろ、肉に合うやつ。あれ持って来たって。」
店員は畏まった態度で頷き、サッと部屋から去っていった。
「ほらほら、遠慮せんと肉焼きよ。なんぼでも追加してええから。」
広明は腕まくりをして、率先して肉を焼き始めた。そして焼き上がった肉を俺たちの皿へと配っていった。
「焼き立て食わな美味しいないで。話は後でも出来るから、とにかく食え。」
広明にせっつかれ、みんなは戸惑いながら肉に手をつける。しかし肉を口に入れた途端、誰もが表情を崩した。
「美味ッ!」
「・・・・柔らかいし肉汁が下品じゃない・・・・。いくらでも食べられそうな気がする。」
「これヤバイな!今まで食べてきた肉が、まるで肉じゃないみたいや!」
たった一口食べただけで、一瞬でその美味さの虜にされていた。それは俺だって同じで、箸を握ったまま黙っていた。
「どや隆志、美味いやろ?」
「あ、ええ・・・・めっちゃ美味しいです。」
「ははは、その言葉が聞きたくて連れて来たんや。ほら、どんどん食べ。」
広明は完全に世話係に徹して、みんなの肉を焼いていく。それはまるで、面倒見のいいお父さんのようであった。
肉を食べている間、誰もが本来の目的を忘れていた。女性陣はお酒も入って饒舌になり、普段は大人しい朋子さんまで楽しそうに喋っていた。
「あのな、隆志ってマジで絶倫やねん。このままやと結婚した時に困りそうやわ。」
「断るのも女のたしなみですよ?いくらでも抱かせてたら、男はすぐに調子に乗るから。」
「ほんまやな。今度いっぺん断ったろ。それか『愛してる』って言わなセックスさせへんようにするねん。」
「ああ、それいいですね。私も男が出来たら、美味い物を食べさせないとやらせないようにしよう。」
さりげなくおっかない事を言う女たちを尻目に、俺と信也はひたすら肉を頬張っていた。
広明はそんな俺たちを見つめながら、実に嬉しそうにしていた。
「怖いな、女っちゅうのは。」
「ええ・・・ほんまに・・・・。」
「隆志の彼女、お気楽そうに見えてしっかり者やで。結婚したらええ嫁さんになるよ。」
「いや、お互いまだ学生やから、そこまでは考えてないですけど・・・・。」
「そんなん言うてたら、あっさり他の男に取られるで、なあ信也?」
「え?俺?」
「信也も好きな人くらいおるやろ?」
「ええっと・・・まあそれなりには・・・・。」
信也は顔を真っ赤にして、それを誤魔化すようにジュースを飲んでいた。
「信也はちょっと俺に似てるな。女には奥手過ぎて、なかなか彼女が出来へんタイプや。」
「でもその割に朋子さんと手を繋いでましたけどね。」
からかいながらそう言うと、広明は「ああ、あれは違うな」と笑った。
「あれはお互いを異性として見てないから出来ることやねん。そこの人、ええっと・・・・朋子さんやったっけ?」
「はい。」
「朋子さんは信也のことを可愛い弟くらいにしか見てへんよ。異性としてはまったく意識してないな。
それに信也は信也で、歳の割に子供っぽいとこがあるやろ?だから年上の女性に甘えたがるところがあるんやろな。」
「ああ、それは確かに・・・・・。」
箸を止めて頷くと、広明は真剣な顔で呟いた。
「・・・・お母さん、いきなりおらんようになってしもたからな・・・・・。寂しかったやろなあ・・・・。」
広明は心の底から切ない目をして、信也の頭を撫でた。そして思いもかけない事を口走り、俺と信也は肉を吹き出しそうになった。
「・・・・俺もな、いきなり姉ちゃんがおらんようになって寂しかったわ・・・・。なんであの時、姉ちゃんを守ることが出来へんかったんやろうって、今でも悔やんでる。」
楽しかった空気が、一瞬にして凍りつく。隣の女性陣は今の言葉に気づいていないようで、相変わらずキャッキャとはしゃいでいた。
でも俺と信也だけは、まるで時が止まったように固まってしまった・・・・。
「お前らがコソコソと俺を嗅ぎまわってる理由は知ってるで。お母さんがおらへんようになったことは、俺が関係しとると疑ってるんやろ?」
広明の目が鋭く光る。テーブルに肘をつき、射抜くような視線で睨んできた。
どう答えていいのか分からずに黙っていると、「隠さんでええよ」と笑われてしまった。
「もし立場が逆やったら、きっと俺も同じことをしてると思う。でもな、これだけは信じてほしいねん。
俺は・・・・ずっと姉ちゃんを守ろうとしてた。俺にとっては一番大切な人やったから、この命に代えても守ろうと思ってたんや。
でも・・・・何も出来へんかったなあ・・・・。姉ちゃんが苦しんでたのに、何も出来へんかった・・・・・。」
広明の目に、少しだけ光るものが滲んでいた。それを悟られまいと、すぐにタバコを吹かして誤魔化していた。
「・・・・・あの、さっきから言ってる意味が分からないです。」
思い切って口を開くと、広明は目を動かして言葉の先を促した。
「・・・もう正直に言いますけど、俺と信也は叔父さんを疑ってます。お母さんがおらんようになったあの日、絶対に叔父さんの家に行ったはずなんです。
証拠はないけど、でも絶対にそうやと確信があるんです。」
そう、あの日母は実家に行ったはずなのだ。家に引きこもっている叔父を心配して、しょっちゅう出かけていたから・・・・。だからあの日、叔父と母は顔を合わせているはずだ。
そして何があったのかは分からないけど、母は帰って来なくなってしまった。そこには想像したくない最悪の考えもあるけど、口には出来なかった。
すると広明は、テーブルに肘をついたまま呟いた。
「お前ら・・・・幽霊って信じるか?」
唐突な質問に、「幽霊?」と聞き返してしまう。広明は「幽霊や」と繰り返し、初めて肉に手を付けた。
「・・・・美味いな、何回食べても飽きへんわ。」
「叔父さん、質問に答えて下さい。幽霊って何ですか?・・・・いや、そんなことはどうでもええ。お母さんのことについて何か知ってるんやったら、今すぐ教えて下さい。」
箸を置いて真っすぐ見つめると、広明は肉を頬張りながら答えた。
「・・・・俺はな、幽霊を見たことがある。それどころか喋ったことだってあるねん。」
「そんな話はどうでもいいです。お母さんのことを聞かせて下さい。」
広明は目を動かして眼光を飛ばす。それは身も凍るような迫力だったけど、なぜか違和感を覚えた。
《広明ってこんな目えやったっけ・・・・?俺が知ってる広明の目はこんなんと違うぞ。もっと不気味で怖くて、しかも時々青く見える時があった・・・・。》
違和感を覚えたのは信也も同じらしく、肉を口に入れたままに固まっていた。
「・・・・叔父さん、一つ聞かせてもらっていいですか?」
「ええよ、何でも聞き。」
「叔父さんて、もしかして双子とかじゃないですよね?」
そんなことあるわけがないと思いつつ尋ねていた。すると広明はすぐに吹き出し、箸を向けて「お前面白いこと言うな」と笑った。
「なんで双子やなんて思うねん?」
「いや、だって・・・・なんか俺の知ってる叔父さんの目と違うから・・・。」
「ほう、どんな風に違うんや?」
「・・・・俺の知ってる叔父さんの目は、もっと不気味で怖かった・・・。いっつもどこ見てるんか分からへんし、時々青く見えたから。」
「そうか・・・・そらまた面白い話やな。」
「いや、面白くないですよ。これは冗談で言ってるんじゃなくて、実際にそうやったから。信也だって覚えてますよ。」
そう言って信也の方に目を向けると、コクコクと頷いていた。
「俺も信也も、ずっと叔父さんのことを怖がってました。それは全部あの不気味な瞳のせいなんです。
あの目はなんというか・・・・人間の目とは思えませんでした。だから叔父さんが怖くなって、そっちの実家には行かへんようにしてたんです・・・・。」
「・・・・なるほどな。だから双子やと思うたわけか?」
「はい・・・。もしかしたら、もう一人叔父さんがいるのかなって・・・・。」
網の上では肉が焦げていて、無意識に視線を落としていた。焦げた臭いが鼻を刺激し、思わずクシャミをしてしまった。
《今日広明に会ってからずっと思ってたけど、どうも違う感じがするんやなあ・・・。姿形は一緒やけど、中身が別人というか・・・・。
俺の知ってる広明は、絶対にこんな奴じゃなかった。見た目は優しそうでも、中身は得体の知れへん不気味さがあったからな。》
疑問に感じているのは信也も同じで、あれだけ勢いのよかった箸が止まっている。さすがに肉をバクバク頬張る気分じゃないらしく、遠慮がちにジュースをすすっていた。
広明は何も答えず、黙々と肉を食べていた。時折何かを考える表情を見せながら、ボタンを押して店員を呼んでいた。
「そっちのお嬢さん方、何か追加するか?」
そう言いながらメニューを渡すと、サッと奪い取って二人で眺めていた。
「ようさん食べてくれ、今日は全部俺の奢りやから。」
「・・・・ありがとうございます。」
「おっちゃんええ人やなあ。私もこんな親戚ほしいわ。」
「そうか、そら嬉しいこと言うてくれるな。」
広明は肩を揺らして笑い、隣に置いたスーツから財布を取り出した。
「ほなここにお金置いとくから、好きなだけ食べえ。」
そう言って大勢の諭吉さんをテーブルに置き、「よっこらしょっと」と立ち上がった。
「おっちゃん帰るん?」
加奈子が肉を摘まみながら尋ねる。
「いや、ちょっと出かける。そこの二人を連れてな。」
立ち上がった広明は、ニコリと笑って俺たちを見つめた。
「隆志と信也を?ほな私も行く。」
加奈子は何の迷いもなく札束を掴み、入るだけの肉を口に詰め込んだ。
「わはひはははひほはのじょやはら、ほんなほひへもひっひょにいふねん。」
「ははは、何言うてるか分からんけど、今日は勘弁してくれへんか?可愛い甥っ子と久しぶりの再会やねん。今日は身内同士で、積もる話でもしたいがな。」
「ああ・・・ほへはっはらひゃあないな。まはほんほ、やひひくほごっへな?」
「おう、いつでも肉くらい食わしたる。隆志の嫁さんになってくれたらな。」
そう言って加奈子の肩を叩き、それから朋子さんを見つめた。
「あんたももしよかったら、これからもこいつらと仲良うしたってくれ。特に信也とな。そうしたらええ男を紹介したる。」
「信也君ならいいですよ。でも男はいりません。出来れば食べ物にして下さい。」
「ははは、相当男を嫌ってるな。」
「当たり前です。あんなもんは猿より身勝手な下等動物です。」
「でも信也も男やで?」
「まだ男じゃありません、男の子です。子供は嫌いじゃないですから。」
「そうか。でも余計なお世話かもしれんけど、あんたは男を欲しがってるように思うな。せやけど過去のトラウマがそれを邪魔しとる。
だから・・・・俺がアイツの代わりに謝るわ。すまんかった、この通り・・・・。」
広明は深く頭を下げる。腰を直角に曲げ、前髪を垂らして朋子さんに謝罪していた。
「・・・・やめて下さい。あなたに謝られたって、私はあの男を許せませんから。」
「そうやな・・・・気持ちは分かるわ。俺から見ても、アイツはどうしようもない男や。でもな、世の中みんなあんな男ばっかりとちゃうで。
いっぺんでええから、ほんまに好きな人と真面目に付き合ってみ。人の持つ色が見えるあんたなら、きっとええ男を選べるやろ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
朋子さんは何も答えず、焦げた肉をがっついていた。そんな彼女の姿を見ながら、俺と信也は首を傾げていた。
《なんで広明が朋子さんの秘密を知ってんねん・・・・?それになんか二人にしか分からんような会話をしとるし・・・・。この二人、もしかして顔見知りなんか?》
そんな俺の考えもよそに、広明は素早くスーツに着替えた。そして俺と信也の肩を叩き、「ちょっとドライブでも行こうや」と笑いかけた。
「ドライブって・・・・どこ行くんですか?」
「行ったらわかる。そこにお前らの欲しがってる答えもある。」
「俺らの欲しがってる答えって・・・・もしかしてお母さんのことですか?」
「そうや。だから叔父さんと一緒に行こう。もうそろそろ・・・・お前らにも教えとかなあかんからな。」
広明はスタスタと歩いて部屋を出て行く。その背中はまるで、戦場に赴く戦士のように思えた。
《やっぱりこの人は、俺の知ってる広明と違う。だってあの人は、こんなに逞しい背中をしてる人ちゃうかったもん。
もっとこう・・・・自分のことしか考えてないような、そんな雰囲気の人間やった。》
俺と信也はしばらく迷っていた。本当に広明について行っていいのか?この人について行って、無事に帰って来られるのか?
頭の中でグルグルと葛藤が芽生えるが、気がつけば立ち上がっていた。
「加奈子、朋子さん・・・・俺ちょっと行って来るわ。」
「ほうよふだはら、ひをふへてね。」
「ええ加減口の中のもんどうにかせえ。」
加奈子の頭をグリグリと撫で回し、広明の後を追って行く。
「隆志君。」
不意に朋子さんに呼び止められ、足を止めて振り返った。
「・・・・その・・・・傷つかないでね・・・・。」
「ん?何が?」
「・・・・・行けば分かる・・・。」
朋子さんは申し訳なさそうに目を伏せる。いったい彼女が何を言おうとしているのか、それが分からないほど俺は子供じゃない。
「まあちょっと行ってくるわ。でも後で迷惑掛けるかも。」
「・・・・迷惑?」
「信也のことや。俺は覚悟してるけど、こいつはまだまだガキやからな。もし真実を知って傷ついたら、慰めたってくれへんか?」
「・・・・いいよ。ずっと黙ってた私にも責任があるから・・・・。」
「そうか・・・ほな知ってるんやな、お母さんのこと。」
もしやと思って尋ねると、朋子さんは「ごめん・・・・」と俯いた。
「別に謝らんでええよ。朋子さんのおかげで、信也は精神的に安定しとったからな。だから仲良くしたってくれて感謝しとる。
例えそれが・・・・・・叔父さんの意図したことやったとしても。」
「・・・・隆志君・・・・もう全部分かって・・・・・。」
朋子さんは泣きそうな顔で酒を呷った。そして青い顔をしている信也の傍に行き、ポンポンと背中を叩いた。
「信也君・・・・お兄ちゃんと一緒に行っといで・・・・。」
「・・・・嫌や・・・・。」
信也はイヤイヤというふうに首を振る。膝を抱えて座り込み、その中に顔を埋めていた。
「怖い気持ちは分かるけど、でも信也君だっていつかは知ることになるよ?今ならみんながついてるから、傷ついても大丈夫・・・・。だからお母さんに会って来ないと、ね?」
「嫌や言うてるやん!俺は行きたあない!」
信也の肩が細かく震えだす。小さな泣き声が部屋に響いていった。
「ここまで聞いたら、いくら俺かて分かるよ・・・・。お母さんがどうなったんか・・・。だから行きたくない!俺はここで待ってる!お兄だけ行って来たらええねん!」
「信也・・・気持ちは分かるけど、俺がついてるから大丈夫や。だから一緒に・・・・、」
「嫌や言うてるやん!俺は絶対に行かへんからな!」
癇癪を起した信也の声が、鼓膜を揺らして痛みを感じさせる。すると黙って見ていた加奈子が、「もうええやん・・・・」と呟いた。
「いったい何のことかさサッパリやけど、信ちゃんここまで嫌がってるんや。無理に連れて行ったら可哀想やで?」
信也は朋子さんに背中を撫でられ、加奈子から「大丈夫?」と心配されていた。俺はこの不甲斐なくも憎めない弟に、若干の羨ましさを覚えていた。
《信也・・・・お前は羨ましいやっちゃで。もう十八やいうのに、美人が二人も慰めてくれるなんて・・・・。俺が絶倫やったら、お前は間違いなく女たらしや。》
加奈子と朋子さんに免じて、信也を連れて行くことはやめにした。
どんなに泣こうが、いつかは真実を目の当たりにするわけで、それまではもう少し甘えさせてやってもいいかもしれない。
「ほな俺だけで行ってくるわ。悪いけど信也のことは頼むな。」
「うん、こっちは大丈夫だから、心配しないで行ってきて・・・・。」
俺は朋子さんに手を振り、いつまでも泣き虫な弟を残して部屋を出た。そして店の入り口まで行くと、広明が壁にもたれて待っていた。
「やっぱり信也は無理やったか?」
「うん、絶対に行かへんって泣き喚くから。」
「そうか・・・。まあ無理に連れて行ってもしゃあないからな。俺らだけで行こう。」
広明は店の外に出て、近くにあるコインパーキングに向かった。そして黒のBMWに乗り込み、俺も助手席へと乗り込んだ。
「ほな行くか。」
「うん、お願い。」
広明は器用にハンドルをさばき、狭いパーキングを抜けていく。そして大通りに出て信号に捕まった時、疲れを感じさせる声で言った。
「お母さんの所に行くまでに、さっきの質問に答えたろ。」
「さっきの質問?」
一瞬なんのことか分からずにいると、広明は「双子のことや」と笑った。
「あれな、はっきり言うて当たってるんや。」
広明は一瞬だけ笑い、すぐに真剣な表情に戻った。
《当たってる?どういうことや?さっきは否定してたのに・・・・。》
信号が変わり、車はゆっくりと滑り出す。答えの得られないまま、俺は母の眠る場所へと運ばれていった。

水面の白影 第十話 巡る季節(2)

  • 2014.10.09 Thursday
  • 12:23
時として、恋人の笑顔というのは恐ろしいものだ。いっそ怒ってくれた方がマシなのに、ニコニコと見つめられるほど怖いものはない。
「ええっと、あの・・・・・今日は学校来おへんかったな?やっぱり夜更かししてしんどかったんかな?」
「うん、隆志が昨日九回もやるから。」
「いやいや、そんなにやってへんやん。ていうか家に来るならメールの一つくらい寄こすとかやな・・・・、」
「なんで?」
「いや・・・なんでって・・・・。」
「彼女が来たら困ることでもあるの?」
「・・・・・全然。いつでも来てええんやで、なあ?」
そう言って加奈子の隣に座る信也に目を向けると、笑いを噛み殺していた。
《こいつ・・・こうなることを予想して加奈子を呼んだな・・・・。》
思い切りガンを飛ばすと、加奈子は「こっち見いな」とドスの利いた声で言った。
「はい・・・・。」
「なあ・・・一つ聞きたいんやけど、その人誰なん?」
加奈子は笑顔のまま、俺の横に座る朋子さんを見つめた。
「なんかこの人ずっと黙ってるけど、いったい誰なん?なんで隆志の部屋に来てんの?」
顔は笑顔でも、声に殺気がこもっている。別に朋子さんとはやましい関係じゃないけど、正直に話すことは出来ない。
《絶対に広明のことをバレるわけにはいかんからなあ・・・・。でもこのままやったら完全に浮気と勘違いされるし・・・・。》
俺は周りに座る三人を見渡し、引きつった笑顔で立ち上がった。
「お茶・・・・淹れよか?」
「いらん。」
加奈子がピシャリと言う。
「でも暑いやん?喉乾いてるやろ?」
「いや、エアコン効いてるし。」
「ああ、エアコンなあ・・・・文明の力ってすごいよな。夏でも涼しい風が出せるんやから。」
「そうやな。・・・・・で?」
「・・・・・・・・で?」
思わず聞き返してしまう。加奈子の笑顔がだんだんと限界に達していて、これ以上誤魔化せばキレてしまうだろう。
そうなればさらに機嫌が悪くなるわけで、しばらくは会ってすらもらえなくなる。
《どうしよ・・・・どうするのが正解や・・・・?広明のことを話すわけにはいかん。でも加奈子に嫌われるのも勘弁や・・・・。いったいどうしたら・・・・・。》
立ち上がったままオロオロとして、せわしなく手を動かした。するとこの修羅場を作った張本人の信也が、堪え切れずに吹き出した。
「はははははは!めっちゃ困ってる!なはははははは!」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
いったい何がそんなにおかしいというのか?兄貴が困っているのがそんなに楽しいのか?だんだんと腹が立ってきて、真剣な目で信也を睨んだ。
どうやら俺が本気で怒っていることに気づいたらしく、ビクッとした様子で加奈子の後ろに隠れた。
「おい信也。何を笑ろとんねん?」
「いや、別に・・・・。」
「お前な、今日の朝から調子に乗り過ぎやぞ。いくら弟やいうたって、ここまでされたら本気で怒るぞ、ええ?」
腕まくりをして柔道で鍛えた筋肉を見せると、信也はサッと目を逸らした。
「お前あれやろ?最近ボクシングかじって調子に乗ってんねやろ?言うとくけどな、俺はまだまだお前には負けへんで?なんやったら喧嘩してみるか、おお?」
「・・・・・・・・・・・・・。」
信也は完全に加奈子の後ろに隠れ、俺の視界から消えようとする。
「隠れても無駄や。一発くらい拳骨落とさな気がすまへん。ほれ、顔出せ。」
ズンズンと近づいて頭を掴むと、加奈子が「やめてや」と叩いてきた。
「冗談でなに本気で怒ってんの?」
「冗談?なんの冗談や?」
「あのな・・・・今日全部信ちゃんから聞いたんや。隆志と信ちゃんが、広明って叔父さんのことを調べてるって。」
「なんやて?全部聞いたってどういうことや?おい信也、答えんかい。」
加奈子を押しのけて信也の胸倉を掴む。すると怯えた様子で「ごめん・・・・」と呟いた。
「ごめんってんなんやねん?お前もしかして、加奈子に全部あのこと喋ったんか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
「黙ってへんと答えんかい!」
大声で拳を振りあげると、加奈子が慌てて止めに入ってきた。
「だからやめてって!」
「うるさい!お前はちょっと引っ込んどれ!」
「引っ込むわけないやん!ええから話聞いてよ!」
加奈子は本気で俺を突き飛ばし、信也をかばうように手を広げた。
「信ちゃんは悪くないで。私が無理矢理押しかけて、全部喋らせただけやから。」
「・・・・・どういうことや?詳しく説明せえ。」
さっきとは別の意味で怒りが湧いてくる。無理矢理押しかけた?信也に全部喋らせた?
状況がまったく掴めないが、それでも確かなことがある。それはまたしても加奈子がトラブルを引き起こそうとしていることだ。
「あのな・・・・前々からずっと疑ってたんや・・・・。」
「疑う?何をや?」
「だから・・・・あんたが浮気してるんとちゃうかって・・・・。」
加奈子は上目づかいに俺を見る。
「隆志って、たまに電話を持ったまま私の前から消えるやん?ほんでトイレとか風呂場にこもって、コソコソと誰かと喋ってるやろ?だからこれは怪しいと思ったわけ。」
加奈子の声に少しだけ怒りが含まれている。俺は腰を下ろし、正面に向かい合った。
「・・・だからな、いっぺんだけ隆志のこと尾けたんや。」
「尾けた?」
「うん・・・・。悪いとは思ったけど、でも気になって仕方なかったから・・・・。あんたが学校に行ったあと、こっそりと後を尾けたんや。
そしたら・・・・そこの女の人と喋ってるの見たから・・・・。」
そう言って朋子さんを睨む。
「それいつや?」
「・・・・三カ月くらい前かな?あんたは学校に行かんと、島根まで行ってたやろ?」
「てことは・・・・島根まで追いかけて来たんか?」
「うん・・・・。バイクに乗ってな。」
「・・・・呆れるわ・・・なんちゅう執念や。」
「彼氏の浮気を突きとめる為やったら、女はそれくらいするで?」
加奈子はさも当然のように言う。俺は「そこまでするのはお前くらいや!」と言いたかったが、とりあえず我慢しておいた。
「その女の人を見た時、これは絶対に浮気やと思った。でも二人は全然イチャイチャせえへんし、ファミレスで話してるだけやった。
ほんでそれが終わると、あんたはすぐにこっちに帰って来たから、浮気と断定出来へんかったんや。」
「・・・・ほんで、それからどうした?」
呆れた顔で尋ねると、加奈子は泣きそうな顔になった。
「・・・・今日だって、あんたはまたコソコソと電話してたやんか?」
「コソコソしてないがな。あれは信也からの電話や。」
「ウソや!きっと風呂場に入ってから、そこの女に電話を掛けてたんや!だから私はもう我慢出来へんようになって信ちゃんに電話を掛けた。
そしたらこの部屋に来てる言うから、押しかけてきたわけ。そこで信ちゃんに問い詰めたんや。隆志は浮気してるんと違うかって・・・・。」
加奈子は泣きべそをかき、信也がティッシュで拭ってやっていた。
「・・・・私があんまりしつこく問い詰めるもんやから、信ちゃんはとうとう観念して喋ったんや・・・・。だから信ちゃんは悪くない!悪いのは私なんや!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
なんなんだろう、この展開は・・・・・。俺は必死に広明のことを隠し通そうとしていたのに、加奈子はそれを知っていたというのか。
いや、それよりもだ・・・・信也の馬鹿はなぜそのことを俺に言わない?こんなに大事なことを喋ったのに、なにをヘラヘラ笑っていたのだろう?
「おい信也。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
信也は少しだけ顔を出し、目を伏せたまま俺に向き合った。
「お前・・・・・どこまで喋ったんや?」
「・・・・全部・・・・。」
「全部?一から十まで全部か?」
「うん・・・・・。」
「広明のことも、奴を調べてることも、そんで朋子さんのこともか?」
「・・・・うん。」
「このアホ!加奈子に問い詰められたくらいで、何をペラペラ喋っとんねん!」
思わず手が出て、信也の頭を叩いてしまう。
「やめて!信ちゃんは悪くないから!」
「ドアホ!誰が信也を殴らせたと思ってんねん!お前が余計なことに首を突っ込むからこないな事になっとんやろ!」
「だって気になったんやから仕方ないやん!」
「誰でも人に知られたくないことはあるやろ!お前はな、そうやって子供の頃からいらんトラブルを引き起こすねん!ちっとは成長せえ!」
「そんなん隆志に言われたくないわ!だいたい私をのけ者にするのが悪いんや!最初から私にも言うといてくれたら、こんなことにはならんかった!」
「ほな何か?俺が悪いっちゅうんか?」
「そんなん言うてへん!あんたが黙ってたのが悪いって言うてるんや!」
「おんなじ意味やないか!」
「違うわ!あんたは悪くない!私も悪くない!信ちゃんも悪くない!」
「ほな誰が悪いんや?」
「それは・・・・そこの女に決まってるやろ!」
加奈子は親の敵でも睨むように朋子さんを指差した。
「全部そこの女が悪いんや!」
「なんでやねん・・・・。信也から話を聞いたんやったら、俺と朋子さんが何にもやましいことは無いって知ってるやろ?」
「私に黙って会ってる時点でやましいの!だいたい何やねん・・・人の色が見えるって。
隆志ってそういうオカルトみたいなんめっちゃ嫌うやん?デートの時に占い行こうって言うただけで嫌な顔するクセに。」
「朋子さんの力はほんまもんや。だから広明を追い詰めるのに協力してもらってんねん。」
「ほな私も混ぜてよ!」
「なんでやねん!どういう理屈でそうなるか意味が分からんわ・・・・。」
呆れてものも言えないとはこういうことだ。俺は憮然と顔をしかめ、コンビニで買ったオニギリを頬張った。
すると黙って見ていた朋子さんが、「あの・・・・」と手を挙げた。
「加奈子さん・・・・でしたよね?」
「そうや。ていうか気安く人の名前呼ばんといてくれる?」
「ああ・・・すいません・・・・。でも誤解のないように一応言っておこうと思って・・・。」
朋子さんはチラチラと俺の方を見つめ、そして目に力をこめて言った。
「・・・・私と隆志君は、ほんとうに何もありませんから・・・。そこだけは分かって下さい。」
「当たり前や!もし隆志にちょっかい出してたら、死ぬまで呪いの手紙出したるからな!」
「それは・・・嫌ですね・・・・。」
朋子さんは少しだけ困った顔で笑った。この人の笑顔を見るなんて初めてなので、少し意外だった。
「隆志・・・・何をニヤニヤしてんの?」
「してへんがな。」
「いいや、思いっきりニヤニヤしてた。やっぱり浮気してるんと違うの?」
「だからあ・・・・やってないって言うてるやん。ほんっまに話の分からん奴やな。」
もう相手をするのが面倒くさくなってきて、加奈子から顔を逸らした。すると朋子さんはまた笑い、加奈子の顔を真っ直ぐに見つめた。
「私はアリだと思います・・・・。加奈子さんが仲間に加わること。」
そう言うと、加奈子は表情を変えて目を輝かせた。
「それホンマ?」
「はい・・・。だって今のメンバーだけじゃ、広明さんを追い詰めるのは無理があると思うから・・・・。」
それを聞いた加奈子はますます目を輝かせた。そしてさっきまでの怒りはどこへやら、俺の袖をクイクイと引っ張った。
「なあ聞いた?あんたらだけやったら無理やって。」
「うるさいな、横におるんやから聞こえとるわ。」
素っ気なく言い返すと、加奈子はバシバシと俺の腕を叩いた。そしてまた朋子さんに向き合い、子供のように目を輝かせたまま言った。
「それってさ、私が仲間として必要ってことやんな?」
「そうです。はっきり言って、私たちだけじゃあまりにも行動力が無さ過ぎるんです。これじゃいつまでたっても広明さんを追い詰めることは出来ません。」
「ああ・・・・あんた良い人やなあ・・・・。呪いの手紙は許してあげるわ。」
「・・・・ふふ、ありがとうございます。」
おお、今声を出して笑ったぞ・・・・。思わず信也の方を見ると、向こうも意外そうな顔をしていた。
「広明さんを調べて半年以上になりますが、これといって目ぼしい成果はありませんでした。
それはきっと、私たちがコソコソとしか動き回っていないからです。隆志君は頭はいいけど、ちょっと慎重すぎる。信也君も一生懸命頑張ってるけど、ちょっと空回りが多い。
それに私は人の色が見えるという力があるけど、人前に出るのは苦手です。だからここは、加奈子さんのようにグイグイ前に出る行動力が必要だと思うんです。」
「ああ・・・・あんた分かってるわあ・・・・。人を見る目があるよ!」
加奈子はとろけそうな声で言って、朋子さんに近寄る。しかし俺はその間に割って入り、加奈子を牽制した。
「ちょっと待て。」
「なによ?」
不機嫌そうな加奈子を無視して、朋子さんの方を見つめた。
「朋子さん、こいつはな、昔っから余計なトラブルばっかり起こすねん。
小一の時には便所に靴下入れて溢れさせたし、小六の時には盗まれた給食費を探して、探偵気取りで関係ない奴を犯人に仕立て上げた。
それに中二の時には、教育実習の先生のズボンを引きちぎって泣かせたことがあるし、極めつけは高三の時に、お巡りさんを痴漢と勘違いして殴り倒したことがある。
他にも小さいトラブルを挙げたらキリがないほど、ようさんの揉め事を起こしてんねん。だからこんな奴を仲間に入れたら、この半年の努力が一瞬でパアやで。」
そう言うと加奈子は不機嫌そうに唇を尖らせたが、全て事実なので言い返せない。
しかし朋子さんはまた声を出して笑い、「逞しいじゃないですか」と褒めた。
「そういう行動力が、今の私たちには必要なんですよ。だから是非加奈子さんにも仲間に加わってもらいましょう。」
「な?な?ほらな?朋子さんはよう分かってはるわあ・・・。やっぱり人の色が見えるってホンマなんやね?だから私のことを正しく評価してくれんねん。」
何が正しく評価だ・・・・。さっきまではオカルトがどうとか言ってたクセに・・・・。
俺は渾身の嫌味を込めて「お世辞に決まってるやろ」と言ったが、加奈子はまったく気にしていない。そして横に置いていたバッグを掴み、中からスマホを取り出した。
「あのな、今日さっそく行動を起こしたんや。」
「ん?行動を起こした?」
いきなりキナ臭いことを言いだすので、辺りに不穏な空気が漂う。この中で信也だけが事情を知っているようで、何とも言えない顔で黙っていた。
「私な、ちょっと電話を掛けたんや。」
「電話?誰にや・・・・・?」
「誰っていうか、会社に?」
「だから何の会社やねん?」
「広明さんの会社。社長に聞きたいことがるから、代わってもらえますかって。」
食べていたオニギリを吹き出しそうになる。これにはさすがの朋子さんも唖然としていて、引きつった笑顔を見せていた。
「こういうのは直接本人に聞くのが一番やから。でも残念なことに代わってもらえへんかったんやなあ・・・。
社長は今忙しいですとか何とか言って・・・・。これって絶対に何かを隠してる証拠やで。明日は直接会社に乗り込んで・・・・・、」
加奈子が言い終わる前に、俺はその頭を叩いていた。
「痛ッ・・・・。ちょっと!女の子を殴るなんて最低やで!」
「やかましい!お前が彼女じゃなかったら、ガムテープで縛ってアリの巣の近くに捨ててるところや!」
「なんでよ!こっちから動かな何も変わらへんやろ!コソコソしても意味ないやん!」
「そういう問題と違うやろ!お前の行動は無防備過ぎんねん!なんで敵のおる城にノコノコと電話を掛けるんや!
ましてやそこへ直接乗り込むなんて・・・・アホのすることやないか!」
「アホってなによ!学校の成績はあんたよりええねんで!」
「だからあ・・・・そういうこととちゃうやろ!ほんっまに話の分からん女やなあ。」
しばらく加奈子と言い争いを続けていると、信也のスマホが鳴った。
「はいもしもし?・・・・ああ、おばあちゃん?うん、いまお兄のところ。え?今日は帰って来るんかって?
ああ・・・・どうやろなあ・・・もしかしたら泊まるかも。うんうん、ちゃんと勉強はするから大丈夫やで、ほな。」
信也は面倒くさそうに電話を切り、「しつこいねん」とぼやいていた。
「おばあちゃんさっきからチョイチョイ掛けてくんねん。もう電源切っとこ。」
そう言ってスマホをいじっていると、また電話が鳴った。
「またおばあちゃんか?」
「いや、俺のじゃないで。これ加奈ちゃんやろ?」
加奈子はスマホを握り、難しい顔で唇を尖らせていた。
「うん。でも知らん番号なんよなあ・・・・どうしよ?」
困った顔でスマホを見つめているので、「ほっとけ」と言ってやった。
「どうせロクな電話と違うで。無視しとけ。」
「そやな。ほんなら・・・・・。」
そう言って電話を切るのかと思ったら、「もしもし?」と出ていた。
「だからなんでやねん・・・・。言葉と行動が一致してないやんけ。」
もういい加減ツッコむのも面倒くさくなり、残りのオニギリを頬張った。すると朋子さんが髪をいじりながら、首を傾げて言った。
「・・・・いい彼女ね、加奈子さん。」
「全然、見た通りのアホやで。」
「そうかな・・・・。私にはそうは思えないけど・・・・。」
「今に分かるよ。こいつがどれだけアホかってことが。油断してると朋子さんも痛い目に遭うから気いつけよ。」
一気にオニギリを頬張り、お茶で流し込む。するとバシバシと背中を叩かれて、加奈子の方を振り返った。
「なにすんねん!せっかく食うたのに吐きだすとこやったやないか!」
咳き込みながらそう言うと、加奈子はスマホを押しつけてきた。
「なんで俺に向けるねん?」
「いいから出て。」
「だからなんでやねん。どこの誰かも分からへんのに・・・・・、」
そう言いかけた時、朋子さんが加奈子のスマホを指差した。
「・・・・それ、色が出てる・・・・。」
「色・・・・?スマホから?」
「たまに見えるの、電話から色が見えることが・・・・。それにこの色は、間違いなくあの人の色だと思う・・・・。」
「あの人?」
「紫に赤い色が混ざってる・・・。それにすごく強く輝いてるから、これはもう間違いなくあの人の色・・・・・。」
朋子さんは口元に手を当てながらスマホを睨んでいる。彼女がここまで不安そうな顔をするのは珍しいので、いったい誰のことかと考えた。
「紫に赤色・・・・誰のことや?」
首を傾げてそう呟くと、信也が「あいつやん!」と叫んだ。
「お兄!早く出ろ!」
「なんやねんな、急に・・・・。」
「ええから出ろって!」
信也は加奈子からスマホを奪い取り、俺の手に押し付けた。どうやらここにいる全員が電話の主を分かっているらしい。
俺はなんだか仲間はずれな気分になって、唇を尖らせて電話に出た。
「もしもし?」
顔をしかめて尋ねると、すぐに返事があった。
『もしもし?隆志か?』
その声を聞いた途端、背筋が震え上がった。
『久しぶりやな、元気にしてたか?』
「・・・・ああ、うん・・・・まあまあかな・・・・。」
『さっきお前の彼女いう子から会社に電話があってな。ちょっと忙しいから出られへんかったんやけど、堪忍してくれ。』
電話の主は、あの広明だった。
《向こうから電話を掛けてきよった・・・・。長いこと疎遠やったのに、なんで掛け直してくるんや・・・・・。》
さっきの修羅場とは違った意味で、背中に冷たい汗が流れる。お茶を飲んだばかりなのに喉が渇き、上手く言葉が出てこない。
『可愛い甥っ子やのに、ずっと連絡取らんですまんかったな。どうや?今日は信也と一緒に飯でも行かへんか?』
「え?ああ・・・・どうやろ、今は彼女と一緒やから・・・・・。」
『ほな彼女も連れて来たらええがな。どうせ学生の身分で美味いもん食うてないんやろ?今日はヤブサメの焼き肉食わしたろ。知ってるやろ?ヤブサメ?』
十数年ぶりに聞く広明の声は、まったく変わっていなかった。いや・・・・一度だけラジオに出た時に声を聞いているが、こうして話すのはほんとうに久しぶりだ。
スマホを持つ手が震え、何も言葉が出て来なくなる。
『今日の夜はたまたま空いてんねん。遠慮せんでええから、飯でも食いに行こうや。』
広明の声はどこまでも優しい。それは決して演技の優しさではなく、内面から滲み出るような優しさだった。この男がどういう人物なのか、やはり今でも計りかねる。
何も答えられずにいると、電話の向こうからボチャンと音がした。それはまるで、水面に何かを投げ入れたような音だった・・・・・。

水面の白影 第九話 巡る季節

  • 2014.10.08 Wednesday
  • 14:37
〜後章〜


セミの鳴く暑い季節になると、必ず母のことを思い出す。いや、毎日のように思い出しているんだけど、夏になると特に強く思い出すのだ。
十年前のあの日、俺は母に見送られて家を出た。無口な弟と並んで歩き、傷だらけのランドセルをいじっていた。
そして一緒に登校する班に合流し、二キロもある学校まで歩いて行ったのだ。学校での生活はいつもと変わらない。
授業が退屈なこともいつも通りだし、想いを寄せていた加奈子ちゃんと上手く話せないのもいつも通りだ。
そしてこのまま何もかもがいつも通りに終わるのだと思っていた。
しかし家に帰った時、いつも通りではないことが起こっていた。朝に出かけた母が、まだ帰って来ないのだ。
別にそれ自体は珍しいことではないけど、何の連絡も寄こさないというのがおかしかった。母は帰りが遅れる時は、必ず連絡を入れるからだ。
祖母が掛けた電話にも出ず、会社にいる父が掛けた電話にも出なかった。みんなは母のことを心配し、先に帰っていた弟は泣きそうになっていた。
この時の俺は、なんだかとても嫌な予感がしていた・・・・。
虫の知らせ?それとも未来予知?まあなんでもいいけど、とにかく暗い未来しか見えなかったのだ。
やがて夜になり、父が帰って来た。そしてまだ母が戻って来ないことを伝えると、すぐに母の実家に向かった。
しかし家から出て来た広明叔父さんは、今日は母は来ていないと言った。てっきりここへ来ていると思った父は、かなり動揺した。
そして片っ端から母の知り合いや友達を当たり、そっちに行っていないかと尋ねていた。
しかし誰も母は来ていないと答え、いったいどこに行ってしまったのだろうかと不安になった。警察に言うべきか言わざるべきか・・・・・父と祖母が長いこと話し合っていた。
父はすぐにでも警察に行くべきだと言っていたけど、祖母は反対した。
『警察のお世話になんかなったら、世間様への体裁が悪い。いずれ帰って来るだろうから、もう少し様子を見よう。』
そう言って一歩も引かなかった。気の弱い父は、祖母の意見に逆らうことが出来ずに頷いていた。
でも次の日になっても、そのまた次の日になっても、母は帰って来なかった。
痺れを切らした父は、とうとう祖母の反対を押し切って警察に行った。
しかし・・・・警察は真面目には捜してくれなかった。これは後から知ったんだけど、警察には民事不介入という大原則があるらしい。
だから大人の人が家に帰って来なくても、事件性がないと調べてくれないそうだ。
警察に頼れなかった父は、探偵を雇って捜してもらおうとしたんだけど、これには祖母が猛反対した。
いつもより百倍くらいグチグチ言って、そこまでするもんじゃないと怒っていた。そしてその後に、とんでもないことを言ったのだ。
『もうあの女のことは忘れなさい。家族を放ってどこかへ行くなんて、神経がどうかしてる証拠。きっと他に男でも作って逃げたんでしょう。』
それを聞いた時、なんて酷いことを言うんだろうと腹を立てた。母は絶対に家族を置いてどこかへ行くような人じゃない。
でもあまりに祖母がまくしたてるもんだから、もしかしたらそうなのかなと思い始めていた。
母と祖母は仲が悪かったから、いい加減我慢が出来なくなって逃げ出したのかもしれない。
子供でもそう思うくらいに、母に対する祖母の態度は酷かったから・・・・・。
父は納得いかない様子で食い下がっていたけど、遂には祖母の説得に折れた。そして探偵を雇うことを諦めて、自分だけで捜し始めた。
でもそうこうしてるうちに会社での昇進が決まって、仕事が忙しくなった。だからいつしか母を捜すことを止め、我が家ではこの話はタブーになっている。
そして今から二年前、父は再婚した。祖母から勧められたお見合いで、ちょっとお金持ちの女性と結婚したのだ。
見た目はあまり美人とは言えないけど、中身はまあまあ良い人だ。それに何より祖母の受けがいいから、今のところは家庭円満にいっている。
弟は新しい母を気に入っているみたいだけど、俺はそこまで素直になれない。
別に今の母が嫌いなわけじゃないが、どこかへ消えてしまった実の母が、どうしても気になって仕方ないのだ。
そしてそれは、セミの鳴く暑い季節になると思い出す。母がいなくなったのは十月の終わりだけど、あの年の夏は異常に暑かったから、まだセミが鳴いていたのだ。
俺は下着とTシャツを着ながら、ぼんやりと母の顔を思い出していた。息子の俺から見ても綺麗な人で、とても三十七には見えなかった。
芯が強くて優しくて、ちょっと口が悪いことを除けば、すごく良い母親だったと思う。
窓の外を見ながらそんなことを考えていると、隣で寝ている彼女が起きた。眠たそうに俺を見つめ、ハスキーな声で尋ねてくる。
「おはよう、今何時・・・・?」
「ええっと・・・・五時半やな。」
「早ッ・・・・まだまだ学校まで時間あるやん・・・・。」
「いや、なんか目が覚めてもてな。」
そう言うと、彼女の加奈子はだるそうに身を起こした。
「もしかして、またお母さんのこと考えてたん?」
「うん、まあこの季節になるとどうしてもな・・・・。」
「そっか・・・・おばちゃん良い人やったもんね。すごい綺麗やし、大人になったら私もあんな風になりたいって思ってたわ。」
加奈子は俺に気を使い、眠い目をこすって話に付き合ってくれた。恋人として一緒に過ごすのは今年で二年目だが、友達としての付き合いは小学生の頃からだ。
だから我が家の事情をよく知っていて、こうして話に付き合ってくれることがある。
「あんまり気い使わんでええで。今日一時限目から授業入ってんねやろ?」
「うん、哲学な。授業は退屈やけど、あの教授やと単位は取りやすいから。」
「そうか。でも昨日寝るの遅かったやん。俺が代返しといたろか?」
「あ、マジで?ほなお願い。」
加奈子はニコリと笑い、艶めかしい太ももを見せつけてベッドに転んだ。
まったくもって男とは悲しい生き物で、昨日は三回もやったのに、太ももを見せつけられるだけで性欲が湧き上がってくる。
「なあ、寝起きセックスせえへん?」
指でツンツンとつつくと、「イヤ」と言われた。
「昨日散々やったやん。私あの後レポートやってたんやで?もう疲れてるわ。」
「いや・・・そんな時間かけへんから。」
「イヤや、絶対に一回じゃ終わらへんもん。」
「いいや、一回で終わらせる。それも五分以内に!」
「それカッコつけて言うとこ?」
加奈子は可笑しそうに笑い、「しゃあないな・・・・」と面倒くさそうに仰向けになった。そして両手を広げて「ん?」と微笑んだ。
俺は待ってましたとばかりに、不二子を襲うルパンばりに飛びついた。そして形の良い胸に顔を埋めた時、ブルブルとスマホが震えた。
「ケータイ鳴ってんで?」
「後でええよ。」
「出たらええやん。そんなに急がんでも私は逃げへんで?」
「・・・・そうやな、ほな・・・・・。」
心の中で大きく舌打ちをして、加奈子とのセックスを邪魔されたことを怒る。
《誰やねん、こんな時間に・・・・・。まあだいたい見当はつくけど。》
時刻は午前五時半。こんな時間に電話を掛けてくる輩は一人しか考えられない。スマホを取って液晶を見ると、それは案の定弟からだった。
「もしもし?こちら緊急の仕事で時間がありません。手短にどうぞ。」
抑揚のない声でそう言うと、弟の信也はケラケラと笑った。
『また加奈ちゃんの所におるん?』
「そうや。それがどうした?」
『どうせまたセックスしてたんやろ?』
「彼女やったらセックスくらいするやろ。」
『そらそうやけど、でもこの前加奈ちゃん言うてたで。お兄は絶倫やって。』
「絶倫って・・・・子供のクセにしょうもない言葉使うな!」
『何言うてんねん。二つしか違わへんやん。』
信也はまたケラケラと笑い、絶倫を連呼してくる。朝の五時半に電話を掛けてきて、兄に向かって絶倫を連呼するとは・・・・。いったいこいつの頭はどうなってる?
顔をしかめて電話を睨んでいると、加奈子が可笑しそうに笑っていた。
「ちょっと貸して。」
そう言って手を動かすので、ポイっとスマホを放り投げてやった。
「もしもし?信ちゃん?」
『ああ、加奈ちゃん?ごめんな、セックスの邪魔してもて。』
「ううん、全然いいよ。ていうか助かった。隆志って、昨日三回もやったクセに寝起きセックスしようとか言うてくるから。」
『マジ?正真正銘の絶倫やん。』
「そうやねん。だからそろそろ信ちゃんに乗り換えようかと思って。今フリーやんな?」
『恥ずかしながら、生まれてこのかたフリーやわ。でも加奈ちゃんやったら全然OKやで。俺オナニーとか三日に一回くらいしかせえへんから、絶倫とは程遠いし。』
「ああ、それは少ないな。まだ高校生なんやから、もっとしてもええと思うよ?」
加奈子と信也は、恥じらいもない会話をケラケラと笑いながら楽しんでいる。俺は馬鹿馬鹿しくなってベッドから降りた。
「あ、隆志が妬きもちやいてもた。もう代わるね。」
加奈子はまだケラケラ笑いながら、俺にスマホを差し出した。
「なに弟に妬いてんの?お兄ちゃんのクセに。」
「違うわ、アホらしくなって聞いてられへんだけや。」
「ホンマ?セックスがお預けになって怒ってるだけちゃうの?」
「・・・・まあ、それもあるかな。」
「あはは、やっぱり絶倫やん。」
加奈子は「絶倫、絶倫!」と指を差し、電話の向こうの信也まで絶倫を連呼し始めた。
「お前らええ加減にせえ。俺は絶倫とちゃう。加奈子を愛してるだけや。」
そう言いながらスマホを奪い取ると、『うわあ〜臭あ〜』と信也の声が聞こえてきた。
《こいつ、ほんまに電話切ったろかな・・・・・。》
本気でそう考えるが、加奈子を見て気が変わった。彼女は目を見開いて嬉しそうにしていて、俺のTシャツをクイクイと引っ張った。
「なあ・・・今のもう一回言うて。」
「ん?絶倫。」
「ちがうって!さっき私のこと愛してるって言うたやん。あれ・・・もう一回言うて。」
「イヤや。」
「なんでよ?」
「あれは勢いで言うただけや。そんなもんポンポンと言うもんとちゃうねん。」
「え〜、別にええやんか。隆志ってたまに武士みたいなとこあるよな?」
「そうや、俺は日本に生きる最後の侍やねん。カッコええやろ?」
「あはは、それどっかのお笑い芸人が言うてたやつやん。」
加奈子はまた可笑しそうに笑い、「今日もう一回言うてな。ていうか言わせるから」と言って、タオルケットを被ってしまった。
「誰が言うかっちゅうねん。」
捨てゼリフを残しながら部屋を横切り、小さなバスルームに入った。そして顔だけ覗かせて、「愛してんで」と呟いた。
「言うの早ッ!でも嬉しいからええわ。」
「ええから寝ろ。でないと絶倫モードになんで?」
「それは勘弁。」
加奈子はササッとタオルケットを巻きつけ、亀のように包まってしまった。昔からこいつのことは知っているが、この憎めない性格は今でも変わらない。
そもそも俺は、加奈子の底なしの明るさに惚れたのだ。だから昔のまま変わらないのは嬉しいことだった。
「お母さんはおらんようになったけど、加奈子だけは・・・・ずっと傍におってほしいな。」
思わず本音がこぼれ、もしかしたら聞かれてないかと加奈子を睨んだ。
「・・・もう寝てるっぽいな。のび太君か。」
小さく笑いながらバスルームに入り、スマホを耳に当てて信也に話しかけた。
「もしもし?」
『・・・・・・・・・・・・・・。』
「おい、聞こえてるか?」
『・・・あのなお兄・・・・・。』
「ん?」
『・・・・・・キモッ!そんで臭ッ!』
「うるさいわ!ええから早よ用事を言え。でないとマジで切るぞ?」
だんだん腹が立ってきて、次に実家に帰ったら一発どついてやろうと思った。信也はしばらく笑っていたが、やがて真面目に声になって切り出した。
『まあこんな時間に電話を掛けるくらいやから、もう要件は分かってると思うけど・・・・。』
「ああ、やっぱりアレのことか?」
『うん、アレのこと。』
俺はスマホを持ちかえ、壁に背中を預けながら耳を澄ませた。
「広明の奴、また妙なことしてんのか?」
『この前からずっと監視してるんやけど、またあの池に行ってたわ。そんで・・・例のヤツも見えた。』
「白い煙やな。ほんでどうやった?朋子さん・・・・何か言うてたか?」
『前とは違う色が見えるって言うてたで。なんか緑っぽい色やったかな・・・・。』
「緑なあ・・・・。それって確か穏やかな性格の色やんな?」
『らしいな。俺もよう分からんけど・・・・。でもこの前見た色は激しい赤色やって言うてたから、今回の奴とは違うみたい。』
「そうか・・・・。他になんかあるか?」
『いや、今回はそれだけ。』
「分かった。わざわざ電話してくれて悪いな。」
電話を切り、眉をしかめてあの男の顔を思い出した。
《広明・・・・・お前は絶対に何かを隠してるはずや・・・。いつか絶対に化けの皮を剥いだるからな。》
叔父はいま洋菓子屋の社長をやっている。趣味で始めた菓子作りが、いつの間にか商売として成功してしまったのだ。
元々手先の器用な人で、それに芸術家気質な人だった。だから素人にもかかわらず、ほんの一年ほどでプロに並ぶ菓子を作るようになってしまった。
それはいつしかネットで評判を呼び、テレビで紹介されてから大盛況となった。そして次々に支店を増やし、地元では名士として尊敬されているほどだ。
見た目は四十二には見えない童顔で、しかも抜群に礼儀正しい。そのせいで女性にもよくモテているし、昔からは考えられないほどの自信家になっていた。
今の叔父にとっては、うつ病で引きこもっていたことさえプラスになる。
例えうつ病でも、例えニートでも、こうやって成功出来る可能性があるのだと、周りに知らしめたからだ。
だから誰もが叔父の味方をして、心の底から信用しきっている。
でも・・・・俺は騙されない。俺と信也だけは、何があってもあの男を信用することはない。それは明確な根拠があってそう思うわけじゃなく、幼い頃の記憶からくるものだった。
子供の頃、両親に連れられて何度か母の実家に行ったことがある。広明という男は仕事をしていないものだから、いつも家にいた。
そして愛想よく俺たちの相手をしてくれるのだが、どこか得体の知れない不気味さがあった。
見た目は普通、喋り方も普通、しかし身体から発せられる雰囲気が、まるでこの世のものではないように思えた。
それに何より印象的だったのが、あの目だ。いつもどこを見ているのか分からない目をしていて、しかも独特の眼光があった。
だから俺も信也も、叔父と目を合わせることをとても怖がっていたんだ・・・。
それに・・・・ただの光の加減だとは思うけど、時々叔父の目が青く見えることがあった。
混じりっ気なしの純粋な日本人のはずなのに、なぜか透き通るような青い目をしている時があった。
そのせいで余計に怖くなって、やがては実家に寄りつかなくなった。幸い母も無理に俺たちを連れて行こうとはせず、ほとんどの場合は一人で実家に行っていた。
だから・・・・母がいなくなったあの日だって、絶対に実家に行っていたはずなのだ。そしてその時、家には必ずあの叔父がいたはずだ。
仕事もせずに、あの不気味な雰囲気を漂わせながら・・・・・
《絶対に・・・・絶対にあの日、お母さんは実家に行ったはずなんや。でも広明は嘘をついて誤魔化した。そんなことする理由はただ一つ。何か後ろめたいことがあるからや。》
母がいなくなったあの日、同時に祖父と祖母もいなくなった。一気に三人の人間が行方をくらましたっていうのに、警察は広明を追及しなかった。
いや・・・俺が知らないだけで、もしかしたら捜査の対象になっていたのかもしれない。
でも結局広明は何事もなく今まで生きている。きっと上手い具合に警察を誤魔化して、後ろめたい何かを隠し通したに決まっているんだ。
だから・・・だから俺と信也が、いつか必ずあいつの秘密を暴いてやるつもりでいた。
不登校の弟は時間を持て余しているから、しょっちゅう広明の動向を探っている。それに俺だって、時間の許す限りは広明について調べようとした。
そしてその過程で朋子という女性と会い、力を貸してもらえることになった。彼女は人の持つ色が見えるそうで、その色から様々なことを見抜いてしまう。
かなり寡黙な女性で、あまり自分のことについては喋りたがらない。でもひょんなことで出会ってから、力を貸してもらえることになったのだ。
《また朋子さんにも電話せんとな。ちょっとずつでええから、広明を追い詰めていかんと。》
出来れば今すぐにでも母のことを問い詰めたい。でも中々そうもいかなかった。
こっちは何の力もない大学生と、不登校の高校生の弟。そして不思議な力はあるけれど、びっくりするほど引っ込み思案な朋子さんだけだ。
だから経済的な成功と社会的な信用を勝ち取った叔父に喧嘩を売るのはまだ早い。正面から奴とぶつかればどうなるか?社会に出たことのない俺でも分かるというものだ。
《でも・・・いつか絶対にあいつの秘密を暴いたる。そこには知りたくない事だってあるかもしれへんけど、じっとはしてられへんからな。》
決意を固くしてスマホを握っていると、コンコンとバスルームのドアがノックされた。
「ごめん、トイレ行きたいんやけど・・・・。」
「ああ、ごめん。ていうか入ってくれてええで。」
「イヤや。あんたはよくても、私は音聞かれたくないもん。さっさと風呂場に入るか、そこから出るかにしてよ。」
「じゃあ風呂に入るわ。シャワー借りるで。」
「うん、早くして。もう漏れそうやから・・・・。」
磨りガラス越しに、我慢の限界を迎えた加奈子が映っている。あまり待たせては悪いと思い、風呂場に入ってシャワーを浴びた。
暑いシャワーというのは夏でも気持ちいい。身体の疲れだけでなく、心と頭の疲れまで流してくれるようだった。
「・・・・・・加奈子、デカイ方したな・・・・・・。」
生まれつき耳がいいせいで、聞こえなくてもいい音まで聞こえてしまう。それは時として非常に厄介なもので、知りたくない情報まで手に入れてしまうのだ。
《このことは黙っとこ。下手に口滑らせたら、しばらく機嫌が悪いやろうからな。》
加奈子の機嫌を損ねるということは、加奈子を抱けないことを意味する。奴の機嫌が治るのはとても時間が掛るのだ。
だから余計なことを知ってしまったとしても、決して口にしてはいけない。これ以上加奈子からお預けをくらったら、絶倫の俺は干乾びてしまうだろうから。


            *


大学の講義が終わり、足早に門へと向かう。途中ですれ違った友人から合コンの穴埋めに誘われたが、すぐに手を振って断った。
後ろから「付き合い悪いな」と茶化されるが、「今度誘ってや」と返してその場を切りぬけた。
「加奈子の奴、結局今日は学校に来おへんかったな。やっぱウンコのこと口滑らしたん怒ってるんやろか?」
気をつけようと思っていたのに、何気なく「ウンコしてたな?」とこぼしてしまった。加奈子は枕を掴み、思い切り俺を殴ってからタオルケットに包まってしまった。
こうなると何を言っても許してくれず、あとは時間が解決してくれるのを待つしかない。
今朝のゴタゴタを思い出しながら門の手前まで来ると、とても地味な服装をした女性が立っていた。
グレーのTシャツに薄緑のカーゴパンツ。髪は短いが幽霊のようにダラリと垂れていて、初めて見る人なら確実に避けて通るだろう。
しかし顔はそこそこ美人で、暗い雰囲気さえなければきっとモテるタイプだ。俺は小さく笑いながら手を振り、「朋子さん」と呼びかけた。
すると朋子さんは、ユラリと短い髪を動かして振り向いた。
「・・・・こんにちは・・・。」
「うん、こんにちは。相変わらずお化けみたいやな?」
「そうね・・・・。」
「ごめんな、急に電話して。実家から神戸までは遠かったやろ?」
「そうでもない、車で三時間くらい・・・・。」
「車で三時間ってめっちゃ遠いやん。まあ呼んだんは俺やけど。」
笑いながら言うと、朋子さんは「そうね・・・」と呟いた。
相変わらず感情を計りにくいところはあるけど、それでもだんだんとこの人のことが分かってきた。
「お腹すいてへん?俺まだ昼飯食うてないねん。」
「昼ご飯って・・・・もう夕方の四時よ・・・・?」
「じゃあ晩飯やな。すぐ近くに新しいマックが出来たんや。とりあえずそこで腹ごしらえしようや。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
朋子さんは無言のまま何ともいえない顔で目を閉じた。そして指で前髪をいじり、困ったように首を傾げていた。
《お、喜んでるな。》
髪をいじりながら首を傾げるのは、彼女が喜んでいる時のクセだ。俺は笑いを堪えながら、「ほな行こ」と背中を押した。
大学は山に近いところに建っていて、どこへ向かうにも急な坂道ばかりだ。神戸というのは都会でありながら、山と海に囲まれた自然の宝庫でもある。
あれはいつだったか、イノシシが信号待ちをしていたことがあった。六甲山が近くにあるから、イノシシが出て来ることは珍しくない。
でも信号待ちをするイノシシを見たのは初めてで、そのことを朋子さんに話してみた。
「この前な、イノシシが信号待ちしてたんや。あいつらって意外と賢いんやな。」
笑いながらそう言うと、朋子さんは目を細めながら自分の手をさすった。
「・・・イノシシは頭がいいわよ。」
「そうなん?」
「豚の頭が良いのは知ってるでしょ・・・・?」
「ああ、確か犬より賢いんやったっけ?」
「そう・・・。イノシシは豚の祖先だから、同じように頭がいいの・・・。」
「へええ・・・そら知らんかった。一つ勉強になったわ、ありがとう。」
感謝するように微笑みかけると、朋子さんはさらに腕をさすっていた。
《お、今度は照れてる。》
朋子さんが腕をさするのは、照れている時のクセだ。他にもいくつものクセがあって、そこから彼女の感情を読み取ることが出来る。
《朋子さんって意外と素直やな。最初は気難しい人かと思ったけど、慣れてくると全然そんなことないわ。》
コツさえつかめば、朋子さんはとても話しやすい人だ。ていうか加奈子に比べたらよっぽど扱いやすい。
「あいつは明るいクセにヘソ曲がりなとこがあるからなあ・・・。もうちょっと素直やったらええんやけど・・・・。」
ぼそりとそう呟くと、朋子さんは急に足を止めた。
「ん?どうしたん?」
「・・・マック・・・・通り過ぎた・・・。」
「ええ!ああ・・・・ほんまや。」
朋子さんが指差す方を見ると、真新しいマックの看板が立っていた。
「ごめん、ちょっと考え事してたら見過ごしてもた。」
笑いながら言うと、朋子さんは少しだけ唇の端を上げた。
《あれ・・・・怒ってる?》
少しだけ唇を上げるのは、不機嫌になっている証拠だ。俺はもう一度「ごめんな」と謝り、足早にマックの方へ向かった。
「朋子さん腹へってたんやな。早よ食べに行こ。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
・・・・まだ怒ってる。どうやら相当腹が減っているみたいだ。きっと地元から神戸まで来る為に、食事も取らずに急いで来たんだろう。
《相変わらず真面目な人やな。ここは俺が奢って機嫌直してもらうか。》
二人して坂道を上り、真新しいマックのドアを潜る。夕方時は空いていると思ったが、授業終わりの学生でごった返していた。
「あらあ・・・・こら待たなあかんなあ・・・・。」
頭を掻きながら困っていると、朋子さんは「・・・・他行こう」と出て行ってしまった。
「ごめん・・・確か人が多い場所苦手やったんやな?もうちょっと行ったところにファミレスがあるから・・・・・、」
「・・・・それまでにコンビニがあった・・・。」
「あ、ああ・・・・ほなそこ行く?」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
沈黙したまま歩き出す朋子さん。どうやら俺は、まだまだ彼女のことが分かっていなかったらしい。
《朋子さん・・・・腹減ると機嫌悪くなるんやな、覚えとこ。》
未だに機嫌の治らない朋子さんとコンビニに向かい、俺はオニギリ二つとお茶を買った。
そして朋子さんはというと、オニギリ三つにサンドイッチ二つ、それにパンを一つ買っていて、ついでに一リットルのジュースも買っていた。
「・・・・それ、全部食べるん?」
「・・・・うん。」
「そっか・・・・ほなここ奢るわ。ちょっと待ってな。」
慌てて財布を取り出そうとすると、サッと手で止められた。
「・・・・自分の分は自分で買う。」
「でも今日呼んだんは俺やし、飯くらいやったら・・・・・、」
「いい。学生に奢られるほど落ちぶれてない・・・・・。」
「いや、そういう意味じゃないんやけど・・・・。」
朋子さんの唇が、またクイクイと上がる。俺は素直に「分かりました・・・」と頷き、自分の分だけ清算した。
「ほなこれ持って俺の部屋行こか。ここじゃ落ち着いて話されへんから。」
「・・・・隆志君の部屋・・・・?いつもは店で話してるのに?」
「うん、だってこれ持ったまま店に入られへんやろ?だから今日は俺の部屋で話そ。今朝に信也から電話があったし、朋子さんからも詳しい話を聞きたいから。」
何気なくそう言うと、朋子さんはどこか安心した表情を見せた。
「・・・・よかった、そういう理由なら・・・・。」
「・・・え?いや・・・・そういう理由以外にないけど・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・ん?」
「・・・・・いえ、なんかいやらしいことするつもりなのかなと思って・・・・。」
「せえへんよ!」
慌てて否定すると、朋子さんは疑わしい目で睨んできた。
「だって・・・・隆志君って絶倫なんでしょ・・・・?」
一瞬固まってしまう。そしてすぐに真面目な顔で聞き返した。
「それ、誰から聞いたん?」
「・・・・信也君・・・・。」
「やっぱアイツか!」
「信也君言ってたわよ・・・・隆志君は彼女と九回もやったのに、寝起きでまた五回もやったって・・・。それっていくらなんでも、ちょっとやり過ぎだと思う・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
俺を見る朋子さんの目が急に冷たくなる。唇は大きく持ち上がり、不快指数が最大まで上がってしまったようだ。
「早く行こう・・・。日が暮れたら、隆志君に何をされるか分からないから・・・。」
「・・・・・信也、いつかシバく。」
弟への復讐を誓い、朋子さんと並んで坂道を下りて行く。そして五階建ての俺のマンションまで来た時、自転車置き場に見慣れたバイクが停まっているのに気づいた。
「あれ?これって加奈子のやつじゃ・・・・・。」
オレンジ色のオフロードバイクは加奈子の愛車だ。それに擦り傷の位置も一緒だし、もしやと思って冷や汗が出た。
「どうしたの?」
固まっている俺に向かって、朋子さんが首を傾げる。
「い、いや・・・・・ちょっとな。・・・・あ、今日はやっぱり部屋で話すのはやめとこか?」
「どうして?わざわざここまで来たのに?」
「いや・・・・今日は部屋が散らかってるから・・・・。」
「じゃあなんでここまで誘ったの?最初からそう言えばいいのに・・・・。」
「それはそうなんやけど・・・・今日はちょっと都合が悪いような・・・・・、」
予想外の事態に、軽くパニックになってしまう。というのも、加奈子には広明を追い詰めようとしていることは秘密にしているからだ。
何にでも首を突っ込みたがるアイツのことだから、こんなことがバレたらきっと仲間に加えろと言うに決まっている。
《まずいな・・・・。加奈子に仲間に入られたら、慎重に事を進めてるのがパアや。》
加奈子は稀代のトラブルメーカーでる。もしそんな奴に仲間に入られたら、広明にこちらの行動がバレてしまうではないか。
ここは何としても、加奈子と朋子さんが接触するのは避けねばならない。
「なあ朋子さん・・・・さっきのことやけど、やっぱりホンマやねん。」
「何が?」
「いや、だから・・・・俺が絶倫ってこと。だからな、朋子さんみたいな美人を部屋に招いたら、俺は理性が吹き飛んでしまうかもしれへん。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・いや、ほんまやで!だからな、今日のところはどっか別の場所で・・・・、」
そう言い訳をした時、朋子さんは四階にある俺の部屋を指差した。
「・・・・信也君の色が見える。」
「え?信也の色?」
「あの部屋から黄色と紫の色が見えるの。それも原色に近い強烈な色が・・・。この色は間違いなく信也君のもの・・・・。」
「へ、へええ・・・・そうか。アイツ来てたんか・・・・。」
「それと・・・・もう一つ色が見える。」
「も、もう一つ・・・・・?」
「ピンクと金色が混ざった、とても不思議な色。でも柔らかみのある色だから、きっと女の子だと思う。それも隆志君と同じくらいの、とても若い子・・・・。」
「あ、ああ・・・・そうなんや、へええ・・・・・。」
背中に嫌な汗が溢れる。朋子さん!あんたちょっと怖いよ!俺の部屋に信也と一緒にいる女っていったら、それはもう間違いなく加奈子じゃないか!
「どうしたの?すごく慌ててるけど・・・・・?」
「い、いや・・・・そんなことないよ・・・・。」
「そんなことあるよ。だって隆志君の色が揺らめいてるもの。よっぽど焦ってなきゃ、そんなことにはならない。」
「・・・うん・・・。」
素直に認めてしまった・・・・。どうやら朋子さんの前では嘘は通用しないらしい。
しかしそれでも、絶対に加奈子との接触は避けなければいけない。いったいどうしたものかと困っていると、マンションの入り口から「お兄!」と呼ばれた。
「信也・・・・来てたんか。」
わざとらしい笑顔を見せると、信也はニコリと笑った。
「昼前から来てたんや。そしたら加奈ちゃんから電話があったから、部屋においでよって誘ったわけ。」
「ほ・・・ほほう・・・・そらまた・・・なんとも・・・・。」
「あ、朋子さんもおるやん!こんにちは。」
「こんにちは。」
朋子さんは小さく頭を下げ、髪をいじりながら首を傾げていた。
「あはは、朋子さん機嫌ええやん。ほら、そんなとこおらんと早よ部屋に入りいな。」
信也は朋子さんの手を掴み、ズンズンとマンションの中へ歩いて行く。
「お兄も何してんの?早よ来いな。」
「お、おお・・・・すぐ行く。」
信也と朋子さんは並んでマンションへ入っていく。俺は怒りとも焦りともつかない感情をこらえ、二人が消えた入り口を睨んでいた。
「信也・・・・絶対にシバくからな!」
修羅場になるのを覚悟しつつ、冷や汗を抑えてマンションに入った。

水面の白影 第八話 変貌する弟(2)

  • 2014.10.07 Tuesday
  • 18:16
「あんたも同じ場所へ行け・・・・・。」
「は?・・・・同じ場所って何よ・・・・・。」
意味が分からず、軽くパニックになる。しかしこれから良くない事が起こるのは確かだと思い、広明を押しのけて出窓に向かった。
「あんたちょっとおかしいで・・・・。悪いけどしばらく家には来おへんわ。」
ベランダの鍵を開け、慌てて外に逃げようとした。しかしまた腕を掴まれ、「いやあ!」と叫んで振り払った。
「触るな!こっちに近づくな!」
バッグで殴りつけ、思い切り突き飛ばす。しかし広明はビクともせず、叔母の顔のまま小さく笑っていた。
「あんたもあいつらと同じ場所へ行け・・・・・・。」
「は・・・・?だから何言うてんの・・・・?あんたマジでおかしいで・・・・。」
「・・・・おかしいのはお前。せっかく広明があんただけは許してやってくれって頼んだのに、それを台無しにした・・・・。
あの子の優しい気持ちを踏みにじった・・・・。しょせんはあのクズ男の娘・・・・。広明の姉に相応しくない・・・・・。」
「・・・・分からんわ・・・・何を言うてんの・・・・・。」
まるで話が通じない・・・・。これ以上ここにいては危険だと思い、慌てて逃げることにした。しかし窓の外に出た途端に、髪を掴まれて引き戻された。
「いや!やめろ!」
「・・・・逃がさない・・・・。」
広明はそのまま私を抱え上げ、かつて私が使っていた部屋に連れ込んだ。そして床に押し倒し、服とロングスカートを脱がしにかかって来た。
「ちょっと!何すんの!」
「・・・・あんたはもうじき死ぬんだから、最後くらい広明の願いを叶えてやろうと思って・・・・・・・。どうせ浮気したかったんでしょ?」
「ちょっと待ってよ・・・・。私はあんたとなんかごめんや!姉弟でそんなこと出来るか!」
バッグの中からスマホを取り出し、思い切り角をぶつけてやった。広明の額から血が流れ、私の鼻に落ちて来る。
「・・・・姉弟じゃないでしょ?半分しか血は繋がってないでしょ?」
「半分でも血が繋がってたら立派な姉弟やろ!ええから放せや!」
何度も何度もスマホで叩いているうちに、広明の顔は血だらけになってしまった。
「お願いやからやめてよ・・・・。あんたに襲われるのも、これ以上あんたを叩くのも嫌や・・・・お願いやからもうやめて・・・・。」
目に熱いものがこみ上げてきて、声が震えだす。しかし広明は止まらなかった。有り得ない怪力で私の服と下着を引き裂き、おぞましい行為に及んだ。
「いやあ!ほんまやめて!」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
広明は何も答えない。叔母の顔のまま、ひたすら私の身体をまさぐってくる。いいように身体を弄ばれ、ただ喚くしかなかった。
「謝る!さっき言うたこと全部謝るから!だからやめて!ほんまお願いやから・・・・。」
気がつけば泣いていた・・・・。身内から身体を奪われる。それがどれほどおぞましいことか、自分で体験してみて初めて分かった。
《お父さんは・・・・きっとこんな感じで叔母さんを犯したんや・・・・。自分の妹やのに、欲情に負けて広明を孕ませたんや・・・・。》
必死の抵抗も虚しく、遂には入れられてしまった。
「嫌やってええええええ!ほんまやめろおおおおおお!」
自分でもこんな声が出るのかと驚くほど、大声で喚いた。そして次の瞬間には吐き気を催し、グッと口を押さえた。
その間にも広明は腰を振ってくる。胸を貪り、私の手をどけて唇まで重ねてきた。
「うおおげえええええええ!」
今朝食べた物を吐き出し、ツンと酸っぱい臭いがする。そのせいで呼吸が苦しくなり、口を開けて喘いだ。
「あああ!・・・あああ・・・ああああああ嫌やってええ・・・・やめてよお・・・・。」
きっと絶望というのはこういうことを言うのだろう。何気なく実家に来ただけなのに、まさか弟に犯されるとは思わなかった。
どうやらこいつは本気で頭がおかしくなっているらしく、もはや弟とは思えなかった。
今私を犯しているのは、ただの悪魔のようにしか見えない・・・・。それくらいに、身内から辱められるのは耐えがたい苦痛だった。
「もうやめて・・・・嫌やから・・・ほんま嫌やから・・・・。」
腰の動きが早くなり、広明の終わりが近づいているのを感じた。私はビクンと背中を逸らし、それだけは何としても阻止しようと思った。
「赤ちゃんおんねんで!そんなことしたら死んでまうやろ!ええ加減にせえやあああああああああ!」
拳を握って何度も叩きつけ、ありったけの声で叫びまくる。しかし叔母の顔をした広明は、逆に笑顔になって腰を振ってきた。
・・・・・いや、よく見るともう叔母の顔じゃない・・・・元の顔に戻っている。そして広明の後ろに、白い煙のようなものがユラユラと揺れていた。
《なにこれ・・・・気持ち悪い・・・・・。》
白い煙のようなものは、なんとも言えない気持ちの悪い動きをしていた。そして広明に纏わりつくように、スッとその中へ入っていった。
その途端、広明の力が増した。まるで万力のような力で胸を掴まれ、痛みのあまり叫び声を上げた。
「ぎゃあああああ!やめてええええ!」
もはや犯されるどころではない。このままでは命まで取られかねない。犯されることは女にとって最大の苦痛だと思っていたが、やはり死ぬことの恐怖の方が上だった。
私は抵抗するのを止め、ただただ震えながら広明が満足するのを待つしかなかった。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
・・・・・・いったいどれだけ時間が経っただろう・・・・。広明はまだ腰を振り続けていて、何度も何度も射精していた。
もはや痛覚は消え失せ、考えるまでもなくお腹の子が死んでいることが分かった。
しかしそれでも広明は止まらない。人間の限界を超えた体力で、まったく衰えることなく私を犯し続けた。
そして一瞬だけお腹に激痛が走り、空気を震わせるほどの叫びを上げた。
「ああああががあああああああああ!」
ビクンと背中が反り、お腹の中がカッと熱くなる。すると途端に身体が楽になり、痛みから解放された。
《ようやく・・・・ようやく終わった・・・・。》
安堵のあまり涙が出て来て、手をついて身を起こした。すると広明はまだ腰を振っていて、その視線の先には私が転がっていた。
《・・・・・・・・・ッ!》
思わずその場から離れ、口元を押さえる。状況を理解するのに数秒かかったが、すぐに何が起きたのか分かった。
《・・・ああ・・・・・私・・・死んだんや・・・・・。》
床に倒れる私の股から、大量に血が流れていた。床はびっしょりと赤く濡れ、広明の足まで血に染まっていた。
《子宮・・・・破裂したんやな・・・・。もう赤ちゃんどころじゃないわ・・・・・。》
広明は死んだ私を何度も犯し、微塵の疲れもみせずに射精を続ける。最初は吐き気を覚えて見ていたが、やがて笑いがこみ上げてきた。
《こいつ・・・・正真正銘のクズやな。やっぱりあのオトンの血を引いてるんや。こんなガキ、うちで引き取る必要なんてなかったんや・・・・・。》
私は部屋の隅に座り、やたらと冷静な目で自分が犯されるのを眺めていた。
《とうに死んでるっちゅうねん・・・。いつまでやっとんやか・・・・。》
広明の顔は、まるで理性が吹き飛んだ獣に見えた。そして時々白い影が見え隠れして、まるで何かに操られているように思えた。
《・・・・もしかしてやけど、これは広明の意志じゃないとか・・・・?》
狂ったように腰を振るう広明は、とてもではないが私の知る弟には見えなかった。
《冷静に考えたら、こいつに私を犯す度胸なんてあるはずがない。ほなやっぱりあの白い煙みたいなのが関係してるってことか・・・・?》
まだ空が明るいうちに始まった凌辱は、日が暮れるまで続いた。絶倫にもほどがあるが、なんだか見ていておかしくなってしまった。
《変な感じや、死んだ自分を見るなんて。私・・・・ずっとここに留まるんかな?》
時間が経つにつれて、生きていた頃の感覚が薄れていく。まるで自分が空気になったような、そして水になったような不思議な感覚だった。
《死んだもんはもうしゃあないけど、ずっとここにおるのは勘弁やな。私ってこれでもけっこう真面目に生きてきたんやから、最後は天国に行かせて欲しいんやけどなあ・・・。》
膝を抱えてぼんやりそう願うと、《それは無理》と声が響いた。何事かと声のした方を見てみると、あの白い煙が揺らめいていた。
《あんたは天国なんかには行けない。私たちと同じように、あの池に沈むの。》
そう言って気持ちの悪い動きをしながら、ゆっくりと私に近づいて来た。
《・・・・あんた、さっきから何なん?なんか私のことを知ってるみたいな口ぶりやけど、いったい誰やねん?》
顔をしかめて睨みつけると、白い影はより気持ちの悪い動きをした。
《・・・・野々村幸子・・・・・。》
《野々村幸子・・・・・?》
一瞬誰のことだか分からなかったが、すぐに閃くものがあった。
《ああ!あんたもしかして・・・・・叔母さん?》
《そう・・・・私は広明のお母さん・・・・。あんた達に息子を盗られた女。》
白い影はノイズのかかったテレビのようにザラザラと乱れた。
《あんたアホとちゃうか?誰がそんな変態弟を盗るかっちゅうねん。それはうちのオトンが勝手に持って帰って来たんや。誰もこっちから欲しいなんて言うてないで。》
投げやりな口調で言うと、叔母は《それは違う・・・・》と答えた。
《私は奪われた・・・・。兄に殺されて、広明を奪われたの・・・・。》
《兄って・・・・うちのオトンのこと?》
《そう・・・あんたの父親で、私の兄・・・・。あいつは一生私のことを愛するって言ったのに、さっさと他の女と結婚しやがった・・・・。》
《それがうちのお母さんってこと?》
《それ以外に誰がいるの?あの女は私と兄の仲が良いことを知りながら、割って入ってきた。そしていつの間にか兄を奪い取って、お前みたいなアバズレのクソを産ませたの。》
《あんた言いたい放題やな。誰がアバズレやねん。私はこれでも男には厳しい方やっちゅうねん。》
顔をしかめて言い返すと、いきなり首を掴まれた。
《うぐうッ・・・・やめて・・・・・。》
《死んだから痛みがないとでも思ってる?もしそう思ってるなら、むしろ逆よ。死んでからの方がよっぽど痛いんだから。
楽になれるのは、まっとうな生き方とまっとうな死に方をした人間だけ・・・・。私は・・・・そうじゃなかったから今でも苦しんでるわ。》
叔母は私の首を離し、まだ腰を振り続ける広明を抱きしめた。
《兄は私じゃない女を選んだ・・・・。だから私も別の男と結婚したわ・・・。ちょっと頼りない人だったけど、それなりに良い人だった・・・。
だからもう兄のことは忘れようって決めてたのに、あいつはまた私に迫って来た・・・・・。妻も娘もいるクセに、自分の性欲を満たす為だけに・・・・。》
叔母の声はとても切なかった。そして愛おしそうに広明を撫で、頬を寄せて見つめていた。
《よせばいいのに、私は兄と寝てしまった・・・・。そしてたった一回のセックスで、この子を宿したの・・・。》
《叔母さんは・・・・広明のことを大事に想ってるんやね・・・・?》
《当たり前でしょ。私は自分の家族はみんな大事に想ってる。死んだ夫も、そして浅子のことも・・・。それと少し前まで池にいた、浅斗のことだって・・・・・。》
《浅斗・・・・叔母さんの孫か・・・。でも浅子が殺した・・・・。》
《うん、可哀想にね・・・・。でもそれは浅子のせいじゃない。水田ってクズのせいだから。あいつがクズなせいで、浅子も浅斗も辛い思いをしていた・・・・。
だから浅斗が水田を殺そうとした時、手を貸してあげたわ。電線を切って、それを身体に巻きつけてやった。
あっさり死なれると苦しみを与えられないから、なるべく力を加減してね。》
《じゃ、じゃあ・・・・・実際に水田を殺したのは叔母さんなん?》
《・・・・仕方ないでしょ?可愛い孫を殺人者にはさせたくなかったから・・・。》
叔母は白い影からゆっくりと人の姿へ変わっていく。それは浅子ととてもよく似た顔で、そして広明ともそっくりな顔立ちだった。
《私はこの子を妊娠したことを嬉しく思ってたわ・・・・。だって家族が増えるのはいいことでしょ?いくら兄の子供でも、生まれて来る赤ん坊に罪は無いわけだし。》
《・・・・そうやね。生まれて来る赤ん坊に罪はない・・・。私だって子供が二人おるから、その気持ちはよく分かるよ。》
《そうでしょ?この子は何も悪くないの。でもあの馬鹿兄貴ときたら、この子を殺そうとした・・・・。
自分の嫁に恐れをなして、実の子供をおろさせようとしたのよ。こんなの許せる?》
叔母は強く広明を抱きしめ、そっと私の身体から離していった。
《広明、もう終わりにしようね・・・。ずっとそんなことしてると身体が汚れるから。》
まるで幼稚園児の子供に話しかけるように、ゆっくりと丁寧に諭している。広明は素直に頷き、ズボンを上げて部屋から出て行った。
《・・・・なんちゅうマザコンや。オカンの言うことやったら何でも聞くんかい。》
怒りを込めてそう言うと、また首を絞められた。
《言葉は気をつけようね・・・・。でないと・・・・・・、》
《・・・わ・・・・分かった・・・・。ごめんなさい・・・・・。》
身も凍るような・・・・いや、魂も凍るような恐ろしさを感じ、素直に頷くしかなかった。同じ死人であるはずなのに、この迫力の違いはいったいなんなんだろう?
《あんたの父親はね、広明を殺そうとした。でもそれだけじゃないわ。あの親族会議の後も、実は何度か会いに来ていたの。もし出来るなら、広明をおろしてくれないかって。》
《そ、そうなん・・・・?》
《身勝手でしょ、男なんて。自分が子供を産まないものだから、平気で他人の命を奪えるの・・・・。それが実の子供であってもね。》
叔母は再び白い煙に戻り、気持ちの悪い動きで窓の傍に立った。
《私は絶対に広明をおろすつもりはなかった。でもその代償として孤独になってしまった・・・・。
夫は娘を連れて出て行くし、親戚も実家の親も私から距離を置いていった。それに近所からはいわれのない悪口を言われて、ほとほと参ったわ・・・・。
だから広明には悪いと思いながらも、あの池に身を沈めた・・・・。》
《じゃ、じゃあ・・・・やっぱり自殺やんか。なんで私のお父さんに殺されたなんて言うんよ?》
《・・・・私はね、自殺する前に兄に会いに行ったのよ。そしたらね、あいつはまた別の女を作ってたの。》
《それほんまに・・・・?》
思わず身を乗り出すと、叔母の白い影にノイズが走った。
《・・・・最低でしょ?実の妹が自殺しようとしてるのに、あいつはまた別の女と遊んでたってわけ・・・・。しかも妊娠までさせてね・・・・。》
《・・・・・・・・・・・・・・・。》
《私が兄に会いに行ったのは、自殺する前に広明のことを頼みたかったから。だから一緒にいた女を蹴り飛ばしてやって、サッサと追い払ったわ。
そして兄に向かってこう言ってやったの。もし広明を引き取ることを拒否するなら、洗いざらい何もかもを遺書に書いて、それをばら撒いてから死んでやるって。
そしたらあいつは慌てて止めに入ってきた。急に兄貴面して、自殺なんかよせって言ってね・・・・。》
《・・・・最低やな、人間のクズや・・・・・。》
《そうよ、そしてあんたもそのクズの血を引いてるでしょ?》
叔母は嫌味に笑って振り返る。私は何も言えず、ただ黙っているしかなかった。
《確かに私は自殺した。でもその原因を作ったのはあの馬鹿兄貴なのよ。あいつがもっと自分の行為に責任を持ってくれれば、私は死なずにすんだ。
広明だって、こんなクソみたいな家でずっと苦しむこともなかった。この星野家のおかげで、私も広明も、そして浅子も浅斗もみんな不幸になったの。
だからこの家の人間は、全員殺すことに決めたのよ!》
叔母は怒りに顔をゆがませ、音割れしたビデオのように叫んだ。それは死人の私から見ても気味悪く、想像を超えた憎しみを持っていることが分かった。
《・・・・もしかしてお父さんとお母さんはもう・・・・・、》
《今朝殺したわ・・・。あの池に沈んでる・・・・。》
《・・・・・嘘や・・・・。》
《嘘じゃない。それにあんたもあの池へ行くのよ。ずっとあそこで縛りつけてやる。》
《冗談やめてや!私は何も悪くないやろ!悪いのはお父さんで、私はずっと広明の味方やった!》
《嘘言うんじゃない・・・・。あんたは外面はいいけど、中身はクズみたいに口が悪いでしょ?
そんな奴は信用出来ない・・・・。もし生かしておいたら、広明に何をするか分かったもんじゃないわ。》
叔母は白い身体をくねらせ、私の髪を掴んだ。そしてズルズルと引きずり、部屋の外へ連れて行こうとした。
《ちょっとやめて!私は悪くないって!ていうかずっと広明を支えてきたんやから!なんでこんなことされなあかんの!》
必死に抵抗するが、叔母の力には敵わない。まるで大人と子供が綱引きをするように、ズルズルと引きずられていく。
《きっと死人の力ってのは、恨みの力なんや・・・・。叔母さんはごっつうお父さんのことを恨んでるから、ここまで力が出せるんや・・・。
それやったら私じゃ到底この人には勝たれへん・・・・。》
自慢じゃないけど、私はそれなりに真面目に生きてきた。確かに口が悪いところは認めるけど、それでも性根は腐っていないつもりだ。
だから広明にだって優しくしたし、家庭だって大事にしてる。しかし叔母は急に足を止め、私を振り返った。
《そういうのを思い上がりっていうのよ・・・・。それと忘れ物だわ。あんたの身体を持って行かなきゃ・・・・。》
叔母は私の遺体を掴み、人形でも捨てに行くかのようにぞんざいに扱った。そして玄関を開けて家を出たところで、白い煙の中に閉じ込められてしまった。
私の魂も、私の身体も・・・・・。
《さあ、あの池に行こうね。あんたのお父さんとお母さんが待ってるから。》
《ちょっとほんまやめて!広明!助けてよ!》
家に向かって大声で叫ぶと、窓が開いて広明が顔を出した。
《広明!お願いやから助けて!あんた私のこと好きなんやろ?》
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
広明はじっと私を見つめ、何も言わずに窓を閉じてしまった。その目はまるで、興味を失くしたオモチャを見るような冷徹な目だった。
《あのガキ・・・・人を犯すは殺すわ・・・・しかも最後は見捨てるんかい!》
怒りが湧きあがり、広明のいる部屋を睨みつけた。
《ええか!覚えとけよ!私はお前を呪う!永遠に呪って、絶対に許さへんからな!》
外はすっかり暗くなっていて、雲のかかる月に私の声が響く。叔母は相変わらず気持ちの悪い動きをしながら、有り得ない早さで池まで走っていった。
そして私を池に投げ入れる前、鼻が触れるほど顔を近づけて言った。
《言っておくけど、あんたを殺したのは広明じゃない、この私よ。それにあんたを犯したのも、私が広明にやらせただけ。だからあの子にはなんの罪も無いわ。》
《はあ・・・・?そんな屁理屈が通ると思って・・・・・・、》
そう言いかけた瞬間、頭を押さえて池に沈められた。
《もし広明に何かしたら、あんたを許さない。あんたはただこの池で沈んでいればいいの。分かった・・・・?》
《・・・・・・・・・・・・・。》
なるほど・・・・さすが広明の母親だけあって、頭のイカレ具合が半端ではない。これはもう下手に逆らうより、いつかここを抜け出せる機会を窺った方がいいだろう。
私は何も言わず、ただ池の底に沈んでいった。するとそこには父と母の亡骸があって、その横に二人が立っていた。
《優子・・・・・。》
母が泣きそうな顔を見せる。そして父もまた申し訳なさそうに目を伏せていた。二人は叔母と同じように白い影になっていて、ユラユラと揺らいでいた。
そして私もすぐに白い影になり、見えない力で池に縛りつけられてしまった。
《お母さん、お父さん・・・・大丈夫・・・。いつか必ずここから出よう。》
二人を励まし、水面の叔母を睨む。叔母はニコリと笑い、まるで籠の中のモルモットを見るような目をしていた。
《もしかしたら、また広明を傷つける輩が出て来るかもしれない。その時は、あんた達もあの子を守るのに協力するのよ。》
そう言い残し、叔母はどこかへ去って行った。
《あのババア・・・・ただじゃすまさへん・・・・・。》
水面を睨みつけ、必ず復讐してやると誓った。そしてそれから一週間ほどして、一人の人物が池を訪れた。
叔母はその人物を池に沈める為に、私たちを働かせた。もちろん断りたかったけど、いま抵抗すると何をされるか分からない。
いつか一矢報いるその時が来るまで、大人しく奴隷を演じるしかなかった。
この日・・・・・池の底に新たな仲間が加わった。それはこの池の事件でお世話になった、あの三和という刑事だった。

水面の白影 第七話 変貌する弟

  • 2014.10.06 Monday
  • 17:41
「ああ、また晩御飯考えるの面倒くさいな。今日もカレーでええか。」
冷房の効いたスーパーを歩きながら、適当にカレーの材料を買い込んでいく。そして会計を済ませて外に出ると、ムッとする暑い空気が押し寄せてきた。
「もう十月の中旬やで?もうちょっと暑さがおさまってくれてもええやろ。」
買い物袋を下げながら、熱のこもった駐車場を歩いていく。そして赤いコンパクトカーに乗り込み、冷房を最大まで強くした。
「ああ、あかんわ・・・・やっぱり夏は苦手。これが楽しいと思えるなんて若い頃だけやな。」
学生の頃は夏を謳歌していたはずなのに、いつの間にか苦手になってしまった。きっと子供が出来た辺りからだろうけど、それでも夏を苦手と感じるのはちょっと寂しい。
「・・・・浮気、でもしよかな・・・。子供もある程度大きくなって手が掛らへんし、学校行ってる間やったら大丈夫やろ。
あのアホ亭主は絶対に気づかんやろし、問題は姑だけやな。」
冗談で考え始めただけなのに、家に着く頃には本気になっていた。別に家庭を捨てるつもりなんてサラサラないけど、遊びで恋愛をするくらいならいいじゃない。
新しい恋でもすれば、生活に張りが出来て、夏だって楽しめるかもしれない。
《決まりや。やっぱり男見つけよ。浮気やいうから聞こえが悪いけど、恋愛やって考えれば問題ないもんな。
あのアホ亭主だって外に女がおるんや。バレてないつもりやろうけど、とっくの昔に知っとるっちゅうねん。》
よく女は浮気を許さないというけど、それは家庭を持ってない青臭い女の場合だ。ずっと家に閉じこもって子供の面倒を見ている主婦は、それだけで充分疲れる。
そこへマザコン亭主にベタベタされると軽く殺意すら覚える。それなら外に女を作って、性欲はそこで処理してくれた方が助かるというものだ。
今は三人目の子供を身ごもっているんだし、もうこれ以上子供を産むつもりはない。それはすなわち、もうあのアホ亭主と寝るつもりはないということだ。
《でも妊娠中やから、あんまり無理は出来んよな。なるべく身体の関係は持たんようにせんと。》
浮気といっても、別にセックスをしたいわけじゃない。ただこのまま歳をとって、老けこんでいくのが嫌なだけだ。
外で若い男と付き合えば、老化だって遅まるかもしれない。
その日はさっさとカレーを作り、姑の愚痴を聞き流し、亭主からの求めを断り、子供の制服にアイロンを掛けてから寝た。
そして次の日、子供が学校へ行くのを見送ると、適当な理由をつけて家を出た。姑は相変わらずグチグチ言っていたけど、もうお前の小言に耳を傾けるつもりはない。
主婦としてやるべきことはしっかりやっているんだから、文句を言われる筋合いなどどこにもないのだ。
赤いコンパクトーを駆って、まずは実家に向かう。すると案の定広明だけが家にいて、途中で買ってきたシュークリームを渡してやった。
「お母さんは?買い物?」
そう尋ねると、「近所の寄り合い」と答えた。
「なんか婦人会で飯食いに行くんやって。帰るのは夕方や言うてたな。」
「そっか。ほな昼ごはん一緒に食べる?」
「そうやな。久しぶりに一緒に食べよか。」
広明は嬉しそうに頷き、シュークリームを取り出して頬張っていた。
《なんか・・・・この子ってどっかで成長が止まってるんとちゃうかな?どう見ても二十歳くらいにしか見えへんわ。
・・・・いや、場合によってはもう少し若く見える場合もあるな。》
シュークリームを頬張る広明の姿は、とてもではないが三十を超えた男には見えない。
それは若いというより、どこかで成長が止まったまま、年齢だけを重ねているような感じだった。
《見た目だけじゃなくて、中身なんかは子供そのものやからな。思春期を迎えずに大人になったって感じや。
でもそれって、成長期が来てないってことになるんかな?この子の精神は、もしかして小学生で止まってる?》
広明の顔は子供の頃からまったく変わっていない。とても幼い顔立ちで、色も白いままだ。
それに体系もほっそりしているし、成人した男ならもう少しガッチリしているものだと思う。
どこか浮世離れしたこの子の雰囲気は、そういった子供っぽいところから来ているのかもしれない。
《近親相姦で出来た子供って、何かしら障害を持ってるって聞くもんな。それがほんまかどうかは知らんけど、ちょっとはそういう影響が出てるんとちゃうかな・・・。》
シュークリームを頬張る弟を見つめながら、ソファに座ってテレビをつける。
ちょうど朝の情報バラエティ番組をやっていて、政治家の不倫だの、芸能人の結婚だのを話題にしていた。
なんとなくボンヤリしながら、どうでもいいニュースを流し見する。するとこの前あの池で起きた事件が少しだけ報じられた。
「まだそんなに時間経ってないのに、もうこんなにちっちゃく扱われるんやな。でもまあ、その方が助けるけどさ。」
あんまり長くあの事件を引っ張られると、こっちとしてはまずいことになりかねない。なぜなら長年隠してきた我が家の秘密が、世間にバレてしまうかもしれないからだ。
マスコミというのは何でもかんでもネタにするから、もし我が家に取材に来ても、決して余計なことは喋るなと三和という刑事から言われた。
《世間にバレるのは防げたけど、お母さんのせいで広明にはバレてしもたからなあ。涼しい顔してるけど、内心は悩んでるんと違うやろか?》
キッチンの椅子に座って、ムシャムシャとシュークリームを頬張る弟を見て、少しだけ心配になった。
「なあ広明。」
「なに?」
「最近は病気の方はどう?マシになってる?」
なるべく優しい口調で問いかけると、「どうやろな・・・」と返ってきた。
「その日によって違うから、自分ではよう分からへんわ。」
「そっか・・・。なんか悩みがあるんやったら、いつでも言いよ。私でよかったら聞くから。」
「ああ・・・・うん・・・・。」
広明はシュークリームを頬張ったまま、歯切れの悪い口調で頷いた。
《これはまた悩んでるな。ちょっと聞いたるか・・・。》
ソファから立ち上がり、広明の後ろに回る。
「私も一個食べよ。」
「ああ、これ美味いで。」
「そらそうやろ。一個三百円もするんやから。コーヒーは?飲む?」
「うん。」
インスタントのコーヒーを淹れながら、広明の様子を窺う。その目はまるで死んだ魚のようになっていて、いったいどこに焦点が定まっているのか分からなかった。
「なあ広明、私な、ちょっと考えてることがあるねん。」
「考えてること?」
「うん。聞きたい?」
「・・・・・姉ちゃんがそんなこと言うなんて珍しいな。ちょっと聞きたいかも。」
「ほな二つだけ約束してくれへん?」
コーヒーをテーブルに置きながら、少しだけ首を傾げてみせた。
「一つはな、今から言うことを絶対に誰にも喋らへんってこと。」
「うん。」
「もう一つは、あんたの悩みを聞かせるってこと。これを約束するんやったら、私の考えてることを聞いてもらおかな。」
私は自分の分のコーヒーを持ったまま、再びソファに戻った。そしてじっと広明を見つめ、「どうする?」と問いかけた。
「・・・そうやな、ほな約束するわ。」
「よし、じゃあこっち来て座り。」
そう言ってソファの隣を叩くと、シュークリームを置いて私の横に座った。
「食べながらでええで?」
「いや、食べながらじゃ話出来へんねん。知ってるやろ?」
「ああ、そういえばそうやったな。同時に二つ以上のことが苦手なんやったっけ?」
「うん、昔からや。だから簡単なバイトでもクビになんねん。」
広明は自嘲気味に笑い、すぐに真剣な表情に戻った。
「ほなどうしたらええ?俺の悩みを先に言う?」
「どっちでもええで、あんたの好きな方で。」
「・・・・じゃあ姉ちゃんの話から聞かせて。なんか考えてるって言うたけど、離婚でもするつもりなん?」
広明は透き通るような瞳でじっと見つめて来る。それを見た時、少しだけ背筋が冷たくなった。
《この子って・・・・たまにこんな目えするよな。それにものすごい鋭いこと言う時もあるし・・・・・。》
しばらく黙っていると、「やっぱり離婚か?」と首を傾げた。
「いや・・・・離婚ではないよ。ただちょっと恋愛をしてみようかなと思って。」
「ああ、不倫?」
「あはは、身も蓋もない言い方するな。でもまあ・・・・確かにその通りやな。なんかさ、最近しんどいことが多かったやん?
お父さんが死んだとか勘違いしたり、あんたに出生のことがバレたり。」
「うん。」
「それにな、今日買い物に行った時にふと思ったんや。私っていつから夏が嫌いになったんやろうって。
昔は好きで仕方なかったのに、今は暑くて鬱陶しいとしか思えへん。なんかそんな自分に嫌気が指してな・・・・。
このまま何でも面倒くさくなって、ただ歳を取っていくだけなんやろかって・・・・。」
「じゃあ若さを取り戻す為に、不倫するっちゅうわけやな?」
「・・・・あんたほんまに鋭いこと言う時あるよな。」
思わず弟の肩を小突き、「その通りや」と笑った。
「最近全然生活に張りがなくてさ、このままやったらアカンと思った・・・。
もう三十八になるから、もうちょっと落ち着いてもええんかもしれへんけど、でも今の三十八と昔の三十八じゃ違うやろ?
あの姑は三十八にもなってまだ大人に成りきれてないとか文句言いよるけど、今の三十八はお前の時代より若いっちゅうねん。」
「要するに、向こうのお母さんにもストレスが溜まってるわけや?」
「そうやな。長いこと我慢してきたけど、もう限界やわ。だからな、一応旦那には言うてあんねん。
もしあんたのお母さんがボケたって、私は面倒看いへんよって。だからもしそうなった時の為に、今から老人ホームでも探しといてなって。」
「うん、ええんちゃうかな。自分の実の親と違うし。」
「あ、あんたもそう思う?」
ちょっと嬉しくなって聞き返すと、「俺もオカンの面倒看いへん」と答えた。
「俺とオカンは血が繋がってないから、面倒看んでええねん。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
思わず笑顔が引きつってしまった。別にこの前のことを刺激するつもりはなかったのに、余計なことを言ってしまったと後悔した。
「いや・・・・ごめんな。別にそういうつもりで話をしたわけじゃ・・・・。」
「分かってるって。でもな、俺もオカンに対してちょっと怒ってんねん。」
広明は真顔で私を見つめ、さっきと同じように透き通るような瞳を向けてきた。一瞬その視線にたじろぐが、目を逸らすわけにはいかない。
こっちの話を聞いてもらったんだから、ちゃんとこの子の悩みも聞いてあげないといけない。それに弟から目を逸らすのは、姉としてちょっと屈辱だからだ。
「・・・・うん、いいよ。ちゃんと聞くから話してみ。」
座り直して、正面から弟と向き合う。少し緊張するが、何でもドンと来いと胸を張った。
「俺さ、オカンって酷いと思うねん。ずっと隠してきたことやったら、最後まで隠し通してほしかった。
それやのにいくら感情的になってるからって、俺の目の前であんなこと言わんでええやろ?
『妹を妊娠させた時から、あんたは何も変わってへん!広明だって勝手に持って帰って来て!猫飼うのと違うんやで!』ってさ。あれ酷くない?」
「・・・うん、あれは酷いと思った・・・・。でもお母さん、あの後ちゃんと謝ってたやん。別に広明を責めたわけじゃないよって。」
「分かってるよ。でもそれはオカンの理屈やろ?言われた方のことは考えへんのかな?」
「・・・・そうやな。まあなんて言うか・・・・あの時はお母さんも頭に血が昇ってたから・・・。
でも本当に悪いのはお父さんの方なんやで?あの人がまた浮気なんかしてたから、お母さんは怒ってしもたんや。」
広明の悩みを聞くはずなのに、気がつけば母を擁護していた。同じ女として、そして同じ主婦として、どうしてもフォローしてあげたくなったのだ。
それに頼りない旦那を持つ者同士、やはり庇わずにはいられない。
広明がショックを受けているのは分かるが、それでもこの子はずっと今の母に育てられてきた。
実の妹というとんでもない浮気相手の子供にもかかわらず、本当の息子のように大事に育ててもらったのだ。
だったら広明は、そんな母の気持ちを理解しているのだろうか?未だに親に頼って生きているクセに、母に腹を立てる資格があるのだろうか?
喉元まで出かかった言葉を堪え、なんとか飲み下す。
《今は自分の意見を言う時とちがう。この子の悩みを聞く時や。》
冷静に自分に言い聞かせ、心を落ち着かせる。そして柔らかい笑顔を作りながら、話の先を促した。
「ほなそれが広明の悩みなんやね?あんなこと言われて、それが気になってしゃあないわけや?」
「・・・・そうやな。でもまあ・・・・偉そうなこと言える立場じゃないからな。俺ってニートやから、何があっても親に逆らえる立場とちゃうし・・・。
それに実の子供でもないのに、ここまで育ててもらったんや。ほんまならもっと感謝せなあかん立場やもんな。」
「いやいや、そこまで卑屈にならんでええよ。まあニートのことはあれやけど・・・・・でも実の子供じゃないうんぬんっていうのは、あんたが気にすることと違うやろ?」
「そうかな?」
「そうやで。だって子供は親を選べへんもん。どういう状況で生まれてくるかは、生まれてみんと分からへんやろ?」
我ながら言いことを言ったと思った。でも広明は納得していない様子で、まだ透き通るような瞳で見つめて来る。
《この目・・・・正直気味が悪いな・・・・。》
さっきまでは我慢していたが、やがて耐えられなくなって目を逸らした。すると下から顔を覗かれ、ピタリと目が合った。
「姉ちゃん?」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
・・・・私は思わず叫びそうになった。ほんの一瞬だけ、この子の目が青く見えたのだ。
まるで外国人のように、吸いこまれるような青い瞳をしていた。しかしすぐに目の色は戻り、また不気味さを感じてしまった。
「・・・・ごめん広明、今日は調子が悪いからちょっと帰るわ。」
無理に笑顔を作り、テーブルのバッグを掴んで立ち上がる。これ以上この子と目を合わせていたら、良くない事が起こりそうで怖かった。
「また来るから。お母さんによろしく言うといて。」
小さく手を振り、広明の反対側からソファを回る。するといきなり腕を掴まれて、「昼ごはんは?」と尋ねられた。
「今日一緒に食べるんやろ?」
《・・・・また・・・また青い瞳になった・・・・。》
その目はまるで少年のように無垢だった。そしてこの世のものとは思えないほど不気味に透き通っていた。
「ごめん・・・今日はちょっと体調悪いから・・・・。」
「でもさっきは一緒に食べようって言うたやんか。」
「さっきはさっきや。今は調子が悪くなったんや。それに私は妊娠中やで?妊婦さんに無理させる気?」
そう言って腕を払おうとするが、まったく放してくれなかった。
「姉ちゃん、その言い訳はないわ。」
「な・・・何がよ・・・?」
「だってさっきまで浮気をするとか言うてたくせに、急に妊婦面したって説得力ないで。」
「それはそれ、これはこれやろ。ええから手え放して。」
「嫌や。」
「怒るで?」
「ええで。好きなだけ怒って。」
《このガキ・・・・。大人しいしてたら調子に乗りやがって・・・・。》
病気だからといつもより甘やかしていたら、ずいぶんとつけ上がっているらしい。
それに今までほとんど怒ったことがないから、よっぽど私のことを舐めているんだろう。ここは一つ本気で怒って、恐いところを見せておかないといけない。
「あのさ、あんた何か勘違いしてない?」
「勘違い・・・?」
「今までずっと甘やかしてきたけど、それもこれもあんたの為を思ってなんよ。あんたみいなガラスのハートじゃ、私が本気で怒ったら傷つくやろ?だから甘い顔見せてたわけ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「でもさ、あんまり調子に乗ってるならもう甘い顔は見せへんで?昔に夜這いをした時は見逃してやったけど、今度はそうはいかへん。
だからええ加減この手を放した方がええで。そうじゃないと、今後二度と口を利かへんし、あんたが昔に夜這いしたこと・・・お母さんにバラすで?それでもええの?」
目に力を入れて睨みつけると、わずかに広明の表情が揺らいだ。
《おお、明らかに怖がってるな。これでも抑えてる方なんやけど。》
私は顔を近づけ、「早よこの手放せよ」とドスの利いた声で言った。広明は途端に勢いを失くし、ゆっくりと手を放して「ごめん・・・」と呟いた。
《何がごめんや。誰がここまで怒らしたと思ってんねん。》
胸の中の怒りは、さらに酷い言葉を吐き出させようとする。しかしこの時点で、広明は相当傷ついているようだった。
《ほんま脆いなこいつ。あんなんでここまでヘコむって、ガラスのハートどころじゃないで。》
もう少しキツイ顔を見せてやろうと思ったが、あまりにヘコむ弟を見て可哀想になってきた。これ以上追撃を加えれば、また以前のように引きこもりになるかもしれない。
そうなったら一番迷惑するのは母なわけで、とりあえずこれくらいで勘弁してやることにした。
「・・・・まあええわ。私も妊娠中でイライラしてたし、あんたも病気やから感情的になってたんやろ?だからこれでおしまい。また来るから、その時は一緒に昼ご飯を食べよ。」
そう言って表情を和らげ、ポンと肩を叩いて出て行こうとした。するとまた腕を掴まれ、ソファの方に引き戻された。
《このガキ・・・・ええ加減にせいよ!》
頭に血が昇り、思わず平手で殴りつけた。しかしそれでも手を放さないので、思い切ってグーで殴った。
「ええ加減にせえよこのガキ!どんだけ甘い顔したら気が済むねん!」
私の拳がヒットしたせいで、広明の鼻から血が流れる。それを見て一瞬ギョッとしたけど、それでも怒りは治まらなかった。
「だいたいな、お前はちょっと甘え過ぎやねん!そら辛い過去があるのは分かるけど、そんなんあんただけちゃうで?
みんな何かしら抱えて生きてねん!それをいつまでもダラダラ甘えやがって・・・・。
ええか、よう聞けよ!お父さんはお前のタバコ代やお菓子代を稼ぐ為に働いてるんとちゃうで!お母さんだって、ええ加減あんたの面倒を見るのはしんどいはずや!」
自分でも耳がキンキンするほどの声で怒鳴った。しかしそれでも声のボリュームを落とすつもりはない。
この馬鹿で甘ったれな弟を、今日こそは矯正してやると決めたのだから。
「そんな甘ったれた考えで、この先どうやって生きて行く気?言うとくけど、私はあんたの面倒を見る気はないで。
もしお父さんとお母さんがそのうちおらんようになっても、私は絶対にあんたの面倒は見いへん!」
掴まれた腕を振り払い、ドンと肩を突き飛ばした。広明は力を失くしたようにソファに倒れ、俯いたまま顔を上げなかった。
「私には私の家族があって、子供だっておる。それにお父さんとお母さんだって、老後の人生があるんや。
ええか広明、あんたがこの家に住んでるだけで、あの二人は老後の貯蓄を切り崩す羽目になるんや。
いくら家族や言うたって、それぞれの人生がある。もうとっくに成人した子供をいつまでも抱えてられへんねん。それくらい分かるやろ!」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
一度啖呵を切りだすと、中々止まらないのが私の悪いクセだ。一息に言葉をまくしたて、少しだけ深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
「私はな、まだまだあんたに言いたいことがある。仕事にせよ恋愛にせよ、あんたは何にでも消極的すぎんねん。そのくせ身内の前やと、あれやこれやと偉そうに愚痴るやろ?
全部自分が悪いクセに、そういうのを棚に上げてるから上手くいかへんねん。一回くらい現実に向き合わんと、ほんまに何も手に入らへんで?
今のままやったら、親の死に目があんたの死に目や。あんたはほんまにそれでええんか?せっかくの人生やのに、こんなんでええと思ってるんか?どうなんや!」
かなり荒い口調でそう言うと、さらに項垂れてしまった。ここまで来ると、もはやただの説教でしかない。
しかし私は何一つ間違ったことは言っていない。それに今となっては、この子の将来を心配する気持ちが出て来た。
「あんたまだ三十二なんやから、まだまだ間にあうよ。今からでも遅くないから、ちょっとずつ前に進んでみいな。
あんたが真面目に自分の人生を生きるんやったら、私はなんぼでも手を貸したるから。私らは姉弟やろ?」
口調を緩めて肩を叩くと、広明はやっと顔を上げた。しかしその顔を見た瞬間、私は背筋が凍った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
絶句して固まる・・・・。なぜなら広明の顔は、この子の実の母にそっくりに見えたからだ。
・・・・いや、そっくりどころじゃない。叔母の顔そのものになっている。まるで彼女の霊が乗り移ったかのように・・・・・・・。
私は息を飲み、ゆっくりと後ずさった。
「ほな・・・・今日はこれで帰るから。今言うたこと、ちゃんと考えてしっかりせなあかんよ・・・・。」
背中を向け、足早に部屋を出て行こうとする。しかしその瞬間、なぜか急に部屋のドアが閉じてしまった。
「なんで・・・・外に誰かおるん?」
ドアノブに手を掛け、ガチャガチャと動かしてみる。しかしドアはまったく開く気配がなく、なぜか鍵まで掛っていた。
「なんやねん・・・・どうなってんの・・・・?」
そう呟いて後ろを振り向くと、そこには広明が立っていた。
「ひッ・・・・・。」
思わず声が漏れて、ドアに背中をぶつけた。
「な・・・何よ・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
叔母の顔をした広明は無言で私を見つめる。そして小さく口を動かしてこう呟いた。
「あんたも同じ場所へ行け・・・・・。」
「は?・・・・同じ場所って何よ・・・・・。」
私はパニックになり、震える目で広明を見つめていた。

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