芸術はお金じゃない だからお金にはならない

  • 2018.09.05 Wednesday
  • 13:13

JUGEMテーマ:アート・デザイン

JUGEMテーマ:芸術

今は体験を売る時代と言われています。
CDは売れなくてもライヴのお客さんは増えているそうです。
アイドルの握手会も盛況のようだし、人気のスポットがあればインスタ映えを求めて若い人が殺到します。
ネット全盛の今、あらゆる創作物は簡単にコピーされ、それを取り締まる法律も追いついていません。
漫画村なる漫画家にとっては一円にもならないどころか、時間と労力をかけて作り上げた漫画を無料で閲覧されてしまうようなサイトもありました。
サーバーが海外となれば簡単に規制することも出来ません。
多くの人が手軽にネットができる今、違法コピーや違法アップロードが容易いものはお金になりにくくなっています。
だけどたった一つだけネットでは手に入らないものがあります。
それが体験です。
CDはコピーできてもライブを体験することはコピーできません。
アイドルとの握手も人気スポットで写真を撮ることも、インターネットの中には転がっていないからです。
その場に足を運んで体験を得る。
実は一番アナログなものこそが違法コピーや違法アップロードを免れているんだと思います。
どう技術が発達しようが、その場に行かなければ得られないものが生の体験です。
バイクの映像を見てもバイクには乗れないし、登山の映像を見ても山には登れません。
良いカメラを見ても自分の物にはならないし、良い写真を見ても自分が同じクオリティで撮れるわけではありません。
行ってみる、やってみる、五感の全てで感じてみる。
そういった手触りのある体験は、自分自身の生の肉体を駆使してこそ得られます。
分かりやすいのは花火です。
もう花火大会の時期は過ぎてしまいましたが、昔から続くこの伝統行事は今でも人気です。
若い人からお年寄りまで、花火大会の日はたくさんの人が集まってきます。
まだ陽が高いうちから集まって、まだかまだかと待ちつつも、それまでの時間を楽しんでいます。
出店で焼きイカを買う、偶然会った友達としゃべる、景色を見ながらぶらぶらと歩く。
そして夜になって花火が打ち上げられると、面倒臭がりな出不精の人であっても、家から見える範囲なら窓から顔を出すでしょう。
今日は花火大会で、ネット中継があるからそれでいいやと満足する人がいったいどれだけいるのか?
そう思う人が多いのなら、各地の花火大会で交通整理をしたり、出店が並ぶことはないでしょう。
外でドンドン花火が上がっているのに、窓から顔を出さずにネットで見ている人はまずいないんじゃないかと思います。
ネットの普及に伴い、儲からない商売がたくさん出てきました。
反面、ライヴや握手会が盛況になったりと、生でしか体験できないことが人気を得ています。
ユーチューバーが人気なのは馬鹿なことにやってみる人がいるからだけど、あれは見ている人たちに疑似体験を売っているんだと思います。
テレビの中はプロが集まった完成された世界です。
見ている側には手の届かない別世界です。
だけど自分と距離を近く感じるユーチューバーたちが、〇〇をたくさん買ってみたとか、〇〇へ行ってみたという企画をやると人気が出ます。
自分でもやろうと思えばできるけど、そこまでしてやりたくないことを、ユーチューバーが代わりにやってくれることで、疑似体験を得ることができるからです。
ああ、こういう風になるんだなと、まるで自分が体験しているかのような錯覚を売っている商売です。
ほんとに上手い所に目を付けたなと感心します。
そういえば元都知事の石原慎太郎さんは、若い頃に先輩の作家からこんなことを言われたことがあるそうです。
若くして顔が広く、売れっ子だった石原さんに向かって、「こんなに若いうちから良い思いをしちまって、これからどうするつもりなんだ?」と。
続けて「作家なんて本来はそう儲かる商売じゃないんだよ」と。
音楽、小説、漫画やアニメに映画、写真だって芸術です。
けど歴史を振り返ってみると、たしかに芸術系が儲かった時代なんてつい最近の70年代から90年代くらいじゃないでしょうか。
よくて00年代の前半。
だからこそ昔の芸術家はパトロンを求めたんだと思います。
本来は芸術というのはお金にならないものです。
どんなに名曲や名作を作ろうが、億万長者になるなんてありえないことです。
でもそれが可能になったのは、芸術で儲ける仕組みが出来たからです。
CD、カラオケ、コミック本、VHSやDVD。
ライヴや映画館の上映だけでは決して届かない億万長者への道は、芸術家自身の力だけでは無理です。
作品で儲かる仕組みがあって、上手く時代とマッチしていたからこそ。
でもどんなに嫌でも時代は変わるものだから、それに伴ってお金を生むシステムも変わっていきます。
たんにネットの違法コピーやアップロードを批判しても、削除してはアップしてのイタチごっこです。
なぜならお金が絡むと、常識や道徳というのは後回しになってしまうからです。
重犯罪にでも手を染めないレベルなら、お金になるならいいやってリスクを背負う人たちはいつの時代もいるでしょう。
今は芸術作品を作って儲けられる時代じゃありません。
時代は体験です。それも生の。
もしくはユーチューバーのように見ている人に疑似体験を売るか。
よく芸術はお金じゃないと言うけれど、まさにその通りです。
評価されない時だけ芸術を盾にして、いざ周りから認められるとお金にうるさくなる人はたくさんいるでしょう。
でも芸術はお金じゃないからその理屈は通らないんです。
お金を生んでいるのは芸術そのものじゃなく、それをお金に換えるシステムがあるからです。
でもそんなシステムはいつでも変わってしまうから、結局は芸術そのものにお金を生み出すほどの力はありません。
芸術作品が儲からない今の時代、ネットのせいでというのは的外れです。
ただ単に70年代から90年代が恵まれていただけに過ぎません。
未だにバブルを夢見る人がいるけど、創作の世界で大金を得たいという人がいたら、それは全くバブルを夢見る人と同じです。
儲かったのは芸術そのものの力だけじゃなく、儲かる仕組みと環境があっただけのことなんですから。
芸術はお金にならない。
なぜならお金じゃないのが芸術だから。
何の役にも立たなくて、でもお金だけで計れない価値があって、説明も定義も難しいんだけど、優れた芸術にはたしかに人の心を打つ力が宿っているんです。
そんな曖昧で計算もできないものがお金になるはずがありません。
でも優れた芸術は何百年や何千年も前のものでも残っています。
お金じゃない価値があるからです。
お金に換わるってことは消耗品になるってことです。
生きているうちに儲けたいのなら、芸術の世界から足を洗って、今の時代に儲かりそうな世界に飛び込めばいいだけです。
芸術はお金じゃない、だからお金にはなりません。

天才は死んでからが本領発揮

  • 2018.08.09 Thursday
  • 13:39

JUGEMテーマ:芸術

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芸術家は誰だって自分の作品を評価されたいと思うものでしょう。
ヘンリー・ダーガーみたいに特殊な人は別だけど、きっとそうだと思います。
作った以上は認められたいし褒められたいし、感動したとか良かったって言ってほしいものです。
そしてそれだけで終わらない人がプロを目指します。
名誉がほしい、地位がほしい、モテたい、なによりお金がほしい。
好きなことだけやって全てを手に入れたい!
実は芸術家ってワガママな人種です。
才能と運に恵まれた人ならそれも可能でしょう。
しかしほとんどの芸術家は才能にも運にも恵まれず、捨てきれない情熱と夢を抱えて消えていきます。
芸術の道を諦め、普通に働いて暮らせるなだまだいい方です。
それが出来ない人が大半で、そうなれば目も当てられないほど落ちぶれた人生を送ることになります。
だけどごく稀に、その落ちこぼれの中からとんでもない天才が現れることがあります。
運はともかくとして、才能がないから成功しなかったわけではなく、周りに理解されないから日の目を見なかった人たちです。
あまりに才能がありすぎて、あまりに独特すぎて、あまりに新しすぎるがゆえに、孤独を抱えて生きていかねばなりません。
いくら一人が辛くない人でも、自分の作品まで無視されるというのは、耐え難い孤独でしょうね。
評価されなくても、人から褒められなくても、まるで何かに取り憑かれたように作品を作り続ける人がいます。
でもそれは幽霊のせいでも精神病のせいでもなく、捨てきれない夢や惰性のせいでもありません。
心のどこかで、自分はこれをやる為に生まれてきたんだって自覚があるからだと思います。
作品の評価は世間に任せるしかありませんが、なんで自分が生まれてきたのかって意味だけは、自分でないと決められません。
その意味を芸術に見出したなら、これはもう地獄でしょう。
なぜなら成功する可能性なんて、宝くじよりの一等を当てるより低いからです。
いったいどれだけの芸術家がいて、どれだけの作品が名前も知られずに消えていったことか。
まだ宝くじを買って一等を狙う方が確率が高そうです。
それでも作品を作り続けることをやめられない、だから地獄です。
どこかへ遊びに行ったり、恋愛をしたり、結婚して家庭を築いて、休日には楽しい時間を過ごしたい。
人間誰でも持つ欲求は当然芸術家にだってあると思います。
でも無理です。
やめるにやめられない道に入ってしまったら最後、99パーセントの芸術家は何も手に入れられないまま野垂れ死にです。
葬式もなく、ただ燃やされて、誰が誰だか分からないほど骨が埋まった共同墓地に放り込まれ、手を合わせにくる人もいないでしょうね。
芸術家は変わり者ですが、誰もが持つ人間らしい欲求を持っていないわけではありません。
ただそれを上回るほどに、これこそが自分の人生だ!って思うものを、芸術の中に生まれてきた意味を見出している人種です。
そういう意味では、ハナっから幸せなんて求めていないとも言えます。
上手くいくわけがないって分かりきってる世界に、自ら足を踏み入れているんですから。
途中に何度か引き返せる道があっても、それを無視して歩き続けて来たんですから。
だけどもしその人が天才ならば、死後に賞賛を得られます。
自分は死んでも作品は生き続けるし、自分の懐には入らなくてもお金を生むし、後世の人たちに影響を与えることが出来るし。
そう考えると、天才の才能っていうのは、自分の為じゃなくて、世の中全体の為にあるのかもしれません。
秀才は本人が死ねば終わりだけど、天才は死んでからが本領発揮です。
肉体も魂も失ってなお、天才の残した功績と作品は不滅です。
少なくとも芸術に関しては。
稀に生きてるうちから評価される天才もいるけど、そんなものはラッキーマンを超えたラッキーマンです。
上にも書いたように、宝くじの一等を狙う方が簡単でしょう。
凡人は「明日から本気出す」、秀才は「今本気を出す」、天才は「死んでから本気出す」
凡人や秀才では決して乗り越えられない死という壁、それを乗り越えてしまうのが天才の証ですね。

芸術の力は作品の力で伝承されていく

  • 2018.02.09 Friday
  • 11:26

JUGEMテーマ:芸術

JUGEMテーマ:アート・デザイン

スポーツの場合、優秀なコーチが付くと選手は伸びます。
もちろんその選手に才能があるという前提ですが。
でも芸術ってこの限りじゃありません。
いかに優秀な人が指導をしても、才能のある弟子が大成する例は稀なように思います。
要するに芸術の力は遺伝もしなければ、指導によって伝承も行われないということです。
けど昔から今に至るまで、脈々と芸術の道筋は続いています。
昔の偉人が残した作品を参考にしたりしながら、技術や方法論も発展しました。
にもかかわらず、親子や師弟という間柄ではなかなか誕生しにくいのが一流の芸術家です。
海外のある音楽学校の校長がこんな言葉を残しています。
「音大というのは、自分に音楽の才能が無いと分からせる為にある。」
アカデミックな中からでは、真の芸術家は生まれないと捉えることができます。
そういえばひろゆきさんも(元2ちゃんの)似たようなことを言っていました。
芸術ってのは洗練された場所じゃなくて、アバンギャルドな場所から生まれると。
誕生は混沌とした中からってことなんでしょう。
それらが集まるのがオシャレで洗練された街というだけで、そういう街は芸術を楽しむ場所にはなっても、芸術発祥の地には成りえないってことです。
実際に絵画の歴史を振り返っても、偉大な画家って色んな国から出ています。
芸術の都パリは、絵画が生まれる中心ではないのです。
じゃあどうやって芸術家を育てるのか?
これって無理だと思います。
もっと言うなら発掘してくるのも無理でしょう。
原石はもちろんあるはずなんですが、それを探すのは砂浜の中から一粒の砂金を見つけろというのに等しいと思います。
青田買いも無理、育成も無理。
芸術の天才ってのは、彗星のごとく突然現れ、多大なインパクトだけ残して去っていく印象があります。
「あそこに光が走ってる!」って夜空を見上げた時にはもう遅いんですね。
その人はとうにこの世を去っていたりします。
けど辿った軌跡は光り輝いて、死後も真っ暗な空を照らす人たちです。
ちょっと臭い言い方だけど、芸術って死をもって完成するんだと思います。
生きているうちにどんなに評価されようが、死後に忘れ去られるならその芸術家の遺した作品は無価値です。
生きているうちに成功しないなら意味ないじゃんって思う人がいるかもしれませんが、そんな事はありません。
偉大な芸術家の遺した作品って、後世に多大な影響を与えるんです。
それは親子だとか師弟だとか、そういった繋がりなんて関係なしに伝播していきます。
そしていつの時代か、どこかの国でそれを受け取る人がいて、しかも普通の人より鋭敏に感じ取る人がいるんです。
手探りだと探すのが難しい砂浜の砂金さえ、力を持った作品ならその砂金を見つけ出して、新しい天才を生み出すんですよ。
ヒカルの碁って漫画で、神の一手を目指す藤原作為という最強の棋士が出てきます。
彼は比類なき大天才で(幽霊だけど)、そんな彼の力をもってしても神の一手に一歩近づくだけなんです。
次の一歩は主人公のヒカルが受け継ぎ、また誰かに受け継がれ、果てしない先にある神の一手に少しずつ近づいていきます。
芸術にも神の領域があるとしたら、同じように歩むしかないでしょう。
作為やヒカルがそうしたように、ほんとに地道な道のりです。
芸術の伝承は直接的な人の力では無理で、あくまで偉大な作品のみによって行われるってことなんだと思います。
私たちはそれをただ待つしかないですね。

芸術とエンターテイメント

  • 2017.11.12 Sunday
  • 11:39

JUGEMテーマ:アート・デザイン

JUGEMテーマ:エンターテイメント

芸術とエンターテイメント。
似たようで非なるものです。
あらゆる創作物の中、名作と呼ばれるものほど、意外と売上は少なかったりします。
時代を超えて残る力はあるし、そのおかげでたくさんの人に影響を与え、新しいクリエイターが誕生することもあるでしょう。
けど売れるかどうかって聞かれると、また違うような気がします。
作る側は「こんなに名作なのになんで売れないんだ!」って嘆いているかもしれません。
完成度も高くて、クオリティも高くて、もはや芸術の域に達したような作品ほど、クオリティの劣る作品に負けてしまったり。
頭の固い評論家ならば、「受け取る側のレベルが低いから」なんて、都合の良い責任転嫁を叫ぶでしょう。
だけどそうじゃありません。
芸術性の高いものが売れにくいのは、決して受け取る側のレベルのせいではないはずです。
もしそうだとしたら、どうして優れた芸術品が、時代を超えて生き残ることが出来るのか?
受け取る側はちゃんと理解しています、それが素晴らしい作品だってことを。
だけどそういった物が売れにくいのは、まさに芸術的だから。
芸術って美の追求です。
人は美しいものには敬意を払います。
そして美への敬意というのは、お金には換算できない価値があります。
だから売り上げに結び付きにくいんです。
例えば美しい自然の景色を見た時、それを守りたいとは思っても、自分の物にしたいとは思わないでしょう。
敬意を抱くものに対しては、お金を払って自分の物にするなんておこがましいと思うからです。
そういうものは守るべきものであって、お金でどうこうするものではありません。
芸術もこれと同じで、人は敬意をもって接するから、作品との間に一線を置きます。
名作と呼ばれる作品ほど、繰り返し見ると価値が下がります。
手元に持っていたとしても、しょっちゅう見るなんてことはないでしょう。
芸術は決して消耗品ではないからです。
芸術的な作品で大金を稼ぎたいなら、金の使い道に困っているほどの大金持ちを相手に、道楽心をくするぐしかないでしょう。
ああいった人たちは、普通では手に入らないものを欲しがりますから。
虎の皮とか象牙とか。
絶滅危惧種だって叫んでも、金を持て余す人間にとってはいい娯楽品でしかありません。
芸術もそこに食い込めば、一攫千金が望めるんじゃないでしょうか。
かつての画家や音楽家たちがパトロンを持っていたように。
それに対してエンターテイメントというのは、「面白い」かどうかの一点に尽きると思います。
ぶっちゃけクオリティや完成度って二の次です。
面白いと思わせることが出来るなら、穴があっても売れるのがエンターテイメントです。
絵が下手でも内容が良ければ漫画は売れます。
バグが多くても人気のあるゲームはあります。
面白いと思わせることが出来るなら、そういった欠点さえも楽しみの一つになりえるのが、芸術との違いだと思います。
ある芸人さんが、とあるゲームメーカーが不遇な評価を得ていることに不満を抱いていました。
完成度なら絶対にこっちのゲーム機の方が上だと。
だけどゲームってエンターテイメントです。
無駄なく隙なく完成度を高めてしまうと、その時点でもう芸術になってしまいます。
これってゲームの本懐からは外れています。
アニメでいえば、「かぐや姫の物語」は芸術レベルです。
だけどやっぱり売上が芳しくないのは、それが理由だと思います。
海外で賞も獲ったみたいですが、アニメとしての評価ではなく、アートとして評価された賞です。
あのアニメは文学であり、絵画であり、立派な芸術過ぎました。
後進に大きな影響を与え、新しいクリエイターを育てる力はあるかもしれませんが、あのアニメそのものは、アニメとしては評価しづらいと思います。
かといってエンタメだけになってしまったら、商業主義一辺倒に傾いて、クリエイターが育たなくなったり、ないがしろにされる危険もあります。
その時は儲かっても、長い目で見ればマイナスなように思います。
芸術とエンターテイメント。
あちらを立てればこちらが立たず。
とてもバランスが難しいですね。

平面だけど立体的 大和絵の魅力

  • 2017.11.05 Sunday
  • 09:49

JUGEMテーマ:アート・デザイン

図書館に行ったら大和絵の展示をしていました。
源氏物語の絵巻物です。
絵そのものは源氏物語が書かれた100年後くらいに描かれたものだそうですが、いかんせん古いもなので、傷みが酷いそうです。
なので展示してあったのは復元画です。
パッと見は切り絵かなって思うほど、それぞれの色がハッキリ浮き出ていました。
それに平安時代の雅な衣装の、とても繊細な模様まで、すべて手描きでなされていて、じっと見入ってしまいました。
日本画って言葉は西洋画が入ってきてから出来たものであり、それまでは日本の絵は大和絵と呼ばれていたそうです。
しかし残念ながら、大和絵って近年に入るまで、そこまで大事にされなかったそうです。
理由は西洋画の到来です。
圧倒的な立体感や質感、時には写真さえも超えるほどのリアリティを持った西洋画は、当時の日本人にとっては大きな衝撃だったはずです。
きっと多くの絵師が、西洋画の技法を学ぼうとしたでしょう。
北斎もその一人です。
ただその反面、従来の大和絵は大事にされたくなったそうです。
写真がない時代、西洋画の圧倒的なリアリティは、他の国のどんな絵も及ばなかったでしょう。
もちろんそれぞれの国や文化で、面白い絵はたくさんあります。美しい絵もあります。
でもやっぱり当時の人の気持ちになると、「これからは西洋画だ!」ってなる気持ちは分かります。
だけどその頃、ヨーロッパでは浮世絵旋風が巻き起こっていたわけですが・・・・。
異文化の優れたものを目の当たりにした時、北斎やゴッホのような天才ですら、「なんちゅうこっちゃ・・・」と衝撃を受けるようです。
それはさておき、とにかく大和絵は不遇の時代を迎えたそうです。
しかし時代が進むにつれて、自国の文化が見直されます。
なんでも西洋化していいのかと。
かの夏目漱石の画期的な文体や当て字も、日本が西洋の文化に飲み込まれないようにと、そういった気持ちからきていたそうですよ。
例えば日本の小説って、心情描写をセリフで語ったりします。
これって海外の小説ではなかなか見られない表現だそうです。
日本だと小説でも漫画でも当然の技法になっていますが、そういった在り来たりなものほど、外から見ると特別だったりするようです。
大和絵だって同じです。
あんな面白い絵ってそうそうないですよ。
あくまで目で見た景色しか描けなかった西洋画(宗教画を除いて)と違って、大和絵は人の目を超えた視線から描いています。
山々を見下ろす俯瞰の景色、動物が擬人化して戯れる光景。
イメージの世界がそのまま画面に現れています。
ゴッホが始めた「見たままの景色じゃなくていい」という絵は、西洋では画期的だったでしょう。
だけど日本では昔からなされていたことです。
だからこそ浮世絵はヨーロッパに衝撃を与えたわけです。
絵は決してリアルだけが全てじゃありません。
絵に出来て写真に出来ないこと、それはイメージをそのまま表現できるということです。
写真かと見紛うほどの絵はそりゃすごいですが、絵の一番の醍醐味って、やっぱり目では見ることの出来ない景色の描写だと思います。
写実画を否定はしません。
綺麗だと思うし、多くのすぐれた技術や方法論は、いかにリアルを描くってところからきているからです。
遠近法なんかその代表です。
でもリアルだけじゃ寂しいじゃないですか。
大和絵には大和絵の良さがあって、遠い昔の、それも源氏物語の中へと連れていってくれます。
それがイメージの力です。
日本ならではの絵、大和絵には、他の絵にはない力があります。
平面的ながら、なぜか立体的に見える面白さがあるんです。
これもイメージのなせる業でしょう。
絵は平面だけど、内容まで平面とは限りませんから。
深い深いイメージの世界へ没頭させてくれる・・・そんな絵こそ、一番優れた絵だと思います。
大和絵にはそんな力を感じました。

 

才能を育む土壌

  • 2017.07.05 Wednesday
  • 08:42

JUGEMテーマ:アート・デザイン

JUGEMテーマ:漫画/アニメ

北斎は海外でも認められる大芸術家です。
同じ浮世絵師なら歌川広重や歌川国芳もいいですね。
とくに国芳は好きです。
江戸時代にあの絵は斬新すぎます。
今見てもすごくカッコいいんですよ。
現代の漫画って、浮世絵にルーツがあるんですよ。
鳥獣戯画なんかも漫画のルーツでしょうね。
狩野派のように美しく高尚なものとは対照的です。
もちろん円山応挙や伊藤若冲も好きです。
惚れ惚れするほど美しいですから。
それに面白い絵も描きます。
若冲の絵だと、緻密に描かれた鳥の絵よりも、猫がたくさんいる絵や、デフォルメされた象の絵が好きです。
水墨画もいいですね。
でもやっぱり北斎には敵わないと思います。
広重にしろ国芳にしろ、北斎ありきの絵です。
芸術って今までにない価値を創造することです。
人が出来ることを、人より上手くやることじゃありません。
それはそれでもちろんすごいんだけど、そういう人は優秀というのであって、天才とは違うように思います。
ただただクオリティを求めるよりも、下手でもいいから今までにないものを生み出そうとする気持ちの方が大事でしょう。
テレビゲームの黎明期、今では考えられないような作品がありました。
「いっき」なんかその代表でしょう。
あの時代、クオリティよりも、「思いついたらやってみる!」精神の方が重要だったんだと思います。
その中で色んなものが生まれ、淘汰され、良質なものだけが生き残りました。
でもそれって、良いも悪いもやってみた結果です。
「いっき」は斬新なゲームですが、ドラクエやマリオのようなヒット作にはなれませんでした。
だけど「いっき」や「たけしの挑戦状」のようなゲームを受け入れる土壌があればこそ、その中から名作が出てきたはずです。
黎明期は一番面白いです。
そこから時代が下がると、どうしても定番や王道というのが出来てしまって、その道から外れるのは勇気が必要になります。
それにクオリティが低いと相手にされないだろうし。
「こうすれば上手くなる」とか「こうすれば良質になる」という方法が発見されるのはいいことです。
だけど創作に求められるのって、既存の価値観の破壊です。
守りに入ったら最後、そこにはお金と安寧を求める人達が集まってきます。
今私たちが見ているのって、ただの結果です。
ドラクエもドラゴンボールも、ものすごい大ヒット作品だけど、そこに至るまでの経緯はあまり重視されません。
ドラゴンボールがすごいのは、鳥山明先生という天才が作ったから。
それはみんな知っています。
だけどもしもあの時代じゃなければ、果たしてドラゴンボールはヒットしたのか?
大きな才能や斬新なアイデア。
それらを成功に導くのは、作家だけの力では無理です。
才能を受け入れる環境も重要なんです。。
今の時代、個人が頑張ってどうこう出来る世の中ではないように思います。
景気がよかった時代のように、努力次第で成功が掴める社会ではありません。
芸術にしろ商売にしろ、才能は絶対に必要です。
だったらその才能を育んだり、受け入れたりする土壌の方が、もっと重要かもしれませんね。

 

作家性ってなんだろう?

  • 2016.12.02 Friday
  • 14:28

JUGEMテーマ:アート・デザイン

作家性って言葉があるけど、いったいどういう意味なんでしょう。
写真家の森山大道さんとアラーキーの対談があります。
内容はデジタルカメラについて。
意外なことに、お二人ともデジタルには否定的ではありません。
特に森山さんは肯定的に見ているようです。
森山さんはとにかく撮る枚数がすごいから、デジタルの方がいいんだと仰っています。
本当は撮った写真全部見せたいくらいの気持ちで撮ってるんだけど、それが出来ないから選んで展示しているそうです。
そしてたくさんの写真を撮ることで、質が上がっていくんだとも仰っています。
量のない質はあり得ないというのが信念だそうで、たくさん撮ることが大事と仰っています。
フィルムカメラの時代、写真撮影は不便でした。
シャッタースピードも絞りも自分で調整し、ピントも自分で合わせます。
フィルムだって自分でまき上げないといけないし、ズームレンズだって今ほど性能がいいわけじゃありません。
そしてフィルムごとにまったく発色が異なっていて、どんなフィルムを選ぶというのも重要だったんです。
デジカメのように、カメラが何でもやってくれるわけではありません。
写真の加工だって手間だったし、そう簡単に色を動かすことも出来なかったんですよ。
でもデジカメの時代になって、何でもできるようになりました。
後からいくらでも加工できるし、シャッターを押すだけでバッチリ撮れます。
これを良くないと考える人もいるでしょう。
加工した写真なんて写真じゃないし、何でもカメラ任せでは腕は上達しないと。
でも森山さんとアラーキーはこう仰っています。
便利なカメラの時代だからこそ、作家性が出ると。
どんなカメラを使おうが横並びならば、後は人間を売るしかないってことだそうです。
フィルムカメラの時代は、カメラにもフィルムにも特徴があり、どんな機材を選ぶかは重要でした。
でも逆にいうと、それって機材に頼ることができるってことでもあります。
作家性と言いつつも、実は機材の特徴に頼っていただけかもしれないんです。
だけどデジカメに変わった今、それは無理です。
どのカメラを使っても高性能で、技術的なことはカバーしてくれます。
それに後から簡単に加工ができるから、撮影後にどうにでも変化させられます。
そんな時代の中でも個性を発揮できる人こそが、作家性を持っているってっことなんでしょう。
どんなカメラを使おうが、「あ、これはの人の写真だ!」って分かるような写真を撮る人っているんです。
私はB'zが好きなので、松本さんのギターの音色はすぐに分かります。
ギターを変えようが、今までに聴いたことのない曲だろうが、「この音は松本さん!」って分かります。
優れたクリエイターって、道具に左右されない大きな力を持っています。
でもそれと同時に、道具を最大限まで生かそうとしている工夫も感じます。
ありきたりな言い方だけど、道具に使われるんじゃなくて、使いこなしているんですね。
自分がここにいて、何かを作る。
どんなフィルターを通しても、「あ、これあの人の作品だ!」って分かってもらえる。
それこそが作家性なのだと思います。

写真は引き算の芸術

  • 2016.10.18 Tuesday
  • 13:34

JUGEMテーマ:アート・デザイン

JUGEMテーマ:写真

写真は引き算の芸術と言われます。
絵や文章は自分で書き足していかないと増えません。
だけど写真はシャッターを押せば、目の前の全てが写ってしまいます。
綺麗な景色を撮ったつもりでも、端っこに電線が写っているなんてしょっちゅうです。
それにあれこれと詰め込み過ぎてしまうこともあります。
「桜と空を一緒に写して、でも手前の菜の花も綺麗だから一緒に入れて、だけど奥にある川も綺麗だからそれも写して・・・・」
そうやって画面に詰め込み過ぎると、結局何を撮りたかったのか分からなくなってしまうんです。
不要なものを排除しないと、写真はただ写っているだけになってしまうものです。
だから引き算が大事なんですが、これがとっても難しい。
かの名編集長、鳥嶋和彦さんもインタビューで仰っていました。
「時間をかければ足し算は誰にでもできる」と。
難しいのは引き算なんですね。
絵の場合だって、たっぷり時間をかけて、隅々まで描き込めば、誰が描いてもそれなりに見えるでしょう。
どんなに絵が下手でも、画面に余白のないほど描き込めば、それなりに面白い絵になると思います。
だけど水墨画のように余白を活かして描くのは、とても難しいと思います。
あれって絶対にセンスや経験がなければできない芸当ですよ。
素人が真似てみても、やっぱり上手くいかないんですよね。
シンプルなものほど美しい。
写真は特に引き算が難しく、だけど他の芸術よりも引き算をしないといけないジャンルです。
押せば映る。
便利だけど、それこそが手強いところでもあります。
良い写真を撮る人って、ちゃんと周りが見えているんだと思います。
目の前にある光景の中で、上手く引き算が出来ているんでしょう。
だから余計なモノを外して、必要なモノをしっかりと見せます。
足すのは簡単で、引くのは難しい。
日常生活でもそういうことありますね。
買うばかりで増えていって、使わないのに捨てられない。
引き算が上手くできるなら、そうもならないんでしょうけど、やっぱり難しいです。
何かを引く。
それこそが一番センスを問われることかもしれないですね。

格闘技と芸術

  • 2016.09.13 Tuesday
  • 11:22

JUGEMテーマ:格闘技全般

JUGEMテーマ:アート・デザイン

格闘技と芸術。
一見正反対にあるように思えますが、実は同じものだと思っています。
格闘技ってサッカーや野球などのスポーツよりも、芸術に近いように思います。
格闘技は強いということを求めるものですが、それだって一つの自己表現です。
強さに価値を置く。
強さを磨く。
それを見せるのが格闘技。
戦うという自己表現です。
武芸という言葉がりますが、武は強さ、芸は見せるということでしょう。
強さを見せる。だから武芸。
武術や武道とはまた違います。
武術は戦う術のこと、武道は武を通じた人生の道です。
でもそこに芸が加わると、やはり自己表現ということになります。
格闘技だってこれと同じで、見せてナンボだと思います。
誰もいない所で戦っても、誰も評価してくれないし、強さを証明出来ません。
漫画などでは「自分が最強であることを自分が知っていればいい」といったようなセリフがありますが、現実にはいないんじゃないでしょうか。
自分だけが知っている強さなんて、それで満足できる人間が本当にいるのか?
漫画のキャラとしては面白いけど、実際にいない人間のように思います。
強くなったなら見てほしい、知ってほしい、それを証明してみせたい。
だからこその武芸だし、格闘技だと思います。
芸術だって同じです。
創る時は内に籠ってもいいけど、作品が生まれたなら見せたくなるものです。
評価されないかもしれないけど、でも自分だけが知っている自分の作品なんて、世の中に存在していないのと一緒です。
誰も知らないのであれば、どんな名作も無いのと同じ。
やはり人の目に触れてこそだと思います。
格闘技も芸術も、自分を表現するもの。だから同じものです。
表現方法が違うだけで、根っこに流れているものはきっと一つでしょう。
格闘家って意外と絵が上手かったり、手先が器用だったりするんです。
あの宮本武蔵も、彫刻や絵、それに書道を得意としていました。
逆に芸術系の人には格闘技が好きな人が多いように思います。
格闘技をやっているミュージシャンや、格闘技をやっていた漫画家もいますからね。
それは強さに憧れるっていうよりも、一つの表現手段だと考えているからじゃないでしょうか。
もちろん強さに対する憧れもあるでしょう。
だけどそれよりも自己表現という意味で、格闘技と芸術に通ずるところがあるから。
格闘技は絵であり、音楽であり、あらゆる芸術の一つだと思います。

過去の自分を殺して上に行く

  • 2016.09.12 Monday
  • 11:16

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JUGEMテーマ:漫画/アニメ

遊戯王の高橋和希先生の絵が好きで、画集も持っています。
その高橋和希先生がインスタグラムに絵をアップされています。
もうめちゃくちゃ上手いです!
単行本も持っているんですが、初期とはずいぶん絵柄が変わっています。
どんな漫画家さんでも絵柄は変わっていくものだと思いますが、連載を終えてなお画力が上がる漫画家さんって少ないです。
きっとずっと描いてらっしゃるんでしょうね。
ジョジョの絵も描いてらっしゃいましたが、やっぱり上手いです。
高橋先生の絵は特徴的なので、見た人の記憶に残ります。
上手いだけじゃ記憶に残らないし、特徴的というだけでは物足りません。
画力と個性。
両方ある人が本当に上手い漫画家さんだと思います。
高橋先生はどっちも持ってらっしゃるから、これからインスタグラムにアップされるイラストを楽しみにしています。
画力と絵柄って密接な関係にあると思います。
下手な頃は「こう描きたい!」と思っても、腕がついていきません。
選択肢がないんですよね。
だからその時の自分に描ける絵が表に出てきます。
だけど上達すれば、選択肢が増えてきます。
リアル志向にしたり、デフォルメを強くしてみたり。
絵柄だってコッテリさせるのか?それともアッサリさせるのか?
漫画やイラストの内容によって変更することが出来るでしょう。
高橋先生の今の絵は、明らかにイラスト向きの絵だと思います。
ご自身でそれを意識して描かれているんでしょう。
だけど漫画を描くとなれば、当然漫画の絵に変わるでしょう。
私は今の高橋先生の絵も好きですが、昔の絵も好きです。
初期のブルーアイズのカードデザインなんてめちゃくちゃカッコいいですよ。
レッドアイズもいいですね。
それにブラックマジシャンに関しては、昔の方が好きです。
遊戯王で数少ない紅、ブラックマジシャンガールも昔の方が好きだったり。
もちろん今の絵も好きですよ。
でも漫画の頃のマジシャン子弟の方が好きでした。
だけど上手いのは断然今の絵だと思います。
だからこれは私の好みでしかありません。
上達すると絵柄が変わるから、昔を懐かしんでも仕方ないでしょう。
上手くなるというのは、どこかで昔の自分を捨てるってことなのかもしれません。
漫画家でもミュージシャンでも「昔のような作品は作れない」なんて言葉をたまに聞きます。
それは上手くなったがゆえに、失われたものがあるってことなのでしょう。
「昔のように出来ない」ってことは「昔の自分は死んだ」ってことなのかもしれません。
壊さないと新しいものが作れないように、過去の自分を殺さないと新しい自分は生まれないのかも。
物事の上達は、過去からの積み重ねではなく、過去を捨て去ってこそ成しえるもの。
上達を目指して努力するのは、今いる自分を殺そうとしている証なのかもしれません。
同じ場所に留まるのがいいのか?
今の自分を殺してでも上に行くのがいいのか?
どっちがいいのか分かりませんが、受け手としては新鮮なものの方がありがたいです。
いくら高橋先生の昔の絵柄が好きだと言っても、やはり新しい絵に対する興味が勝ります。
少なくとも読者の目線としては、作家が過去の自分を殺すのは悪いことではないと思います。

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