引潮

  • 2023.02.09 Thursday
  • 12:06

JUGEMテーマ:

引潮に現れる道

 

ゴツゴツした岩の道

 

イソギンチャク カメの手

 

カニとヤドカリと名前の知らない貝

 

通り過ぎた先には沖がよく見える展望台

 

沈む太陽が手を振る

 

赤く染まっていく海に

 

明日への微かな情熱が灯る

日本の芸術は良くも悪くも花鳥風月 

  • 2019.02.10 Sunday
  • 15:02

JUGEMテーマ:アート・デザイン

日本の芸術の特徴。
それは自然に対する造詣が深いところだと思います。
よく言われることだけど、西洋は自然の主になることを目指し、東洋は自然との調和を望みました。
文面だけ見ると東洋の方がいいように思えますが、西洋的な自然への克服がなければ科学や医学の発達もありえませんでした。
けど行き過ぎた自然への対抗心は、多くの動植物を絶滅に追い込んだ暗い面もあります。
だから少なくとも人間目線ではどちらがいいかは言えません。
芸術にもこういった差は現れていて、写実を目指した西洋画、風情や情緒を描こうとした日本画とではまったく異なります。
日本の芸術って一言でいうなら花鳥風月です。
花の美しさに惹かれることから始まり、鳥へ想いを重ねたり、景色に情緒を見出したり、最後は月に風情を描くというわけです。
自然というものがます最初にあって、人間はその中を生きていて、じゃあどうやってそれを表現するのか?
写実画だと綺麗ではありますが、風情や情緒を重ねにくいという面があります。
実は日本でもちゃんと写実画はあるし、目指そうとした人たちはいるんです。
ただそういった絵はあまり受け入れられなかったそうです。
自然の中にテーマを見出し、作者個人の感性を練りこむ。
花鳥風月という感性は日本独自の素晴らしい芸術を生み出しました。
けど同時にそこから外れたものは中々受け入れらなかったという事実もあります。
上に書いた写実画もそうだし、どんなに素晴らしくても妖怪や物の怪を描いた絵は、一流とは認められにくかったんです。
歌川国芳は従来の日本画に反発するかのように、妖怪や物の怪を鮮烈なカラーで描き、たくさんのインパクトのある絵を残しました。
伊藤若冲はたんに花鳥風月で終わらせるんじゃなくて、まるで工芸品のような緻密で繊細なタッチで、凄まじいリアリティと豊かな風情を両立させました。
ただし二人とも当時は異端児扱いだったそうです。
理由は従来の日本画の型から外れているから。
すなわち花鳥風月ではなかったからです。
花鳥風月に徹底したリアリティはいらないし、妖怪や物の怪などの空想の産物もいらない。
そういった姿勢は幕末の頃まで続きました。
明治になって時代が変わるまで、日本の芸術って大きな進歩はなかったのです。
なぜなら新しい物が出てきても認めたがらないからです。
そういうことってどの国でもあるとは思います。
印象派の巨匠であるモネだって、写実主義の人たちからは相手にされず、だったらと独自のサロンを立ち上げて、優れた印象派の画家をたくさん生み出しまたから。
でも逆に言えば、写実一辺倒だった西洋画はモネやルノワールらの活躍によって、印象派へと時代を変えていったということです。
日本の場合だと浮世絵が人気でしたが、これって今でこそ優れた芸術として認められているけど、当時はコミック的なイラスト扱いだったそうです。
だから花鳥風月に取って代わることは出来ませんでした。
日本って明治維新のように時代そのものが変わらないと、なかなか他のものも変わりません。
それは芸術も然り。
一つのテーマを大事にするのはいいことだし、そのテーマの深味を追究するのもいいことです。
だけど新しいものを認めるという感性も大事にしたいですね。

満たされないから創り続ける

  • 2019.01.25 Friday
  • 14:01

JUGEMテーマ:アート・デザイン

JUGEMテーマ:芸術

歴史に名を残す芸術家を振り返ってみると、幸福な人生を歩んだ人は少ないです。
ダヴィンチのように芸術以外にも秀でた万能は別ですが、多くの場合は苦しみの中を生きているように思います。
これは私の持論ですが、幸福の中からは優れた芸術家や作品は生まれてきません。
もし満たされた人生を送っているのなら、そもそも芸術に手を出そうとは思わないでしょう。
趣味として続けることはあっても、その道に人生を懸けることはまずないでしょう。
小説家の星新一さんは借金に苦しんでいたそうです。
元々は裕福な家庭だったそうですが、後に借金に苦しむことになり、その時の唯一の楽しみが小説を書くことだったそうです。
今のようにネットのない時代、書いた作品を読んでもらう為に、SFの同人誌に寄稿していたそうです。
宮沢賢治は小説にしろ詩にしろ、絵本とか童話のような暖かさがありますが、本人はけっこう苦しんでいたんじゃないかと思います。
家は裕福だったそうですが、本人の純粋すぎる性格の為に、世の中に馴染みにくい葛藤があったはずです。
もし彼がすんなりと社会に溶け込める人間だったなら、後世に名を残す作家にはなっていなかったでしょう。
満たされない中を生きているから創作を続けられます。
例えば夜中にポエムを書いた人は多いはずです。
でも翌朝になって読み返すと、自分で書いたくせに自分で恥ずかしくなってしまうものです。
次の朝、目が覚めれば芸術を必要としない生活を送っているからでしょう。
仕事とか恋愛とか夢とか、なんでもいいんです。
なにか自分を支えられるもの、満たしてくれるものがあるから、昨晩のポエムが必要ではなくなり、恥ずかしくなってしまうんです。
でも芸術家っていうのは、昨晩のポエムを人に見せられるような人種です。
なぜなら恥をかいて失うようなモノは持っていないからです。
人に自慢できるものなんて最初からなくて、創作における恥などかきすててしまえるんです。
幸福になると守るモノが出来てしまいます。
守るモノは失いたくないモノであり、それによって強くなれる人もいるでしょう。
人として大きく成長したりとか。
でも強くなること、成長することが、芸術家にとって良いこととは限りません。
なぜなら満たされることに繋がるかもしれないからです。
足りない、持ってない、幸福じゃない。
無い無いだらけの中で、なおかつ創作に飢えている。
そういった人の中で、運に恵まれた者だけが後世に名を残せるような作品を生み出すんだと思っています。

どんなに高名だろうと芸術家は決して偉い人種ではない

  • 2018.11.11 Sunday
  • 11:31

JUGEMテーマ:アート・デザイン

ある有名な日本の写真家が女性のモデルからセクハラを訴えられて問題になっていました。
その流れで水原希子さんも自身の似たような経験を語り、そのモデルの方に同情を抱いていました。
モデル撮影、特にヌードや色っぽい写真になると、撮影はほぼスタジオの中で行われます。
となると中の様子って知りようがないんですよね。
篠山紀信さんは外で裸のモデルを撮影したりします。
夜に人気のない場所で撮影されていますが、もしも昼間に人気の多い場所でやったら即通報ものでしょう。
外でやられると困るから、そういう写真はスタジオでってことになるんだけど、そうなると中の様子はまったく分からなくなります。
裸を求められ、過激なポーズを求められ、それでも構わないというモデルさんもいるでしょう。
高名な写真家に撮ってもらえるのは仕事に繋がるかもしれないし、好きな写真家に撮ってもらえることは名誉です。
でも過激な写真を嫌がるモデルさんもいるわけで、一概にアリかナシかは言えません。
どんなに過激な写真であれ、撮ってもらって良かったと思うかどうかはそのモデルさんにしか分からないからです。
となると問題なのは強要があったのかどうかということでしょう。
本人が嫌がっているのに過激な姿やポーズを要求することは許されません。
どんなに高名な写真家だろうとそんな権限はないからです。
写真家とそのモデルさんの間になにがあったのか?
スタジオの中の出来事なので真相は分かりません。
だから写真家を責められないし、モデルさんの言葉をどこまで信用していいのかも分かりません。
閉じられた空間の出来事は当人同士にか理解できないものです。
だからこの件に関しては、誰が間違っていて、誰が正しいとかは言えません。
そう断言できるだけの証拠や根拠が少ないからです。
ただ一つ言えるのは、写真家ってのはそう大層な存在じゃないってことです。
ていうか芸術家そのものがそこまで大層なものじゃありません。
いなくなっても人類は困らない。
医者やエンジニアと違って、必ずしも生活に必要とされる人種ではないからです。
もし明日この世から全滅したとしても、とりあえず社会は回るし、生きていく上で困ることはないでしょう。
その程度のものですよ、芸術なんて。
高名な芸術家はたくさんいるし、世界に名だたる日本の写真家だっています。
ただ彼らや彼女らの存在は、やっぱりそこまで大したものではないんです。
なぜなら芸術をやる人種に共通しているのが、誰もが我の塊で、恐ろしく自分のことしか考えていないからです。
人がどうなろうと知ったことではなく、求めるのは自分の作品と、その作品に対する自己満足、そして世間からの喝采です。
あとお金と。できれば大金です。
写真家とモデルの件の真相は分かりません。
けど芸術に関することで大きな問題が起こった時、優先すべきは芸術でも芸術家でもありません。
そんなものは全て後回しでいいんですよ。
平穏な人生があって、世の中平和で、だから芸術なんてやってられるし、芸術を楽しむことが出来るんです。
戦争があったり、大災害が起こったりしたら、とてもじゃないけど芸術どうこうなんて言っていられないでしょう。
芸術の道に命を懸けるとか、芸術の道で死んでもいいとか、そんなのは芸術家本人の自由です。
でも他人からしたら知ったこっちゃないでしょう。
「ああ、そうなんだ。頑張ってね。」で終わる話です。
だってみんなそこまで暇じゃないし、他人に構ってられるほど自分の人生適当に生きていられません。
空いた時間にちょっと楽しんでやるかってなもんですよ。
何度も言うけど、写真家とモデルの件の真相は分かりません。
けど相手がいかに高名な芸術家であろうと、芸術そのものが世の中の優先順位からいえば下の下なんだから、問題が起きた時は気を遣う必要なんてないんですよ。
元々がワガママで自分勝手でエゴの塊みたいな人種なんだから、下手に持ち上げれば天狗もビックリの高い鼻をするだけです。
芸術家には名誉も金も必要ありません。
自分がどこまでやるかっていう、本人の好き嫌いとか、覚悟の問題の話だけです。
ただし決して偉い人種ではないことだけは間違いないです。

森山大道さん曰く、アートはコピーである

  • 2018.11.10 Saturday
  • 13:27

JUGEMテーマ:アート・デザイン

JUGEMテーマ:写真

日本を代表する写真家、森山大道。
森山さんの芸術に対する考はこうです。
アートはコピーである。
森山さんはアンディ・ウォーホールが大好きだそうですが、その理由は彼の芸術には複写性があるからだそうです。
何もない所から何かを生み出すんじゃなくて、目の前にあるものを複写する。
よく考えれば、いやよく考えなくても写真ってそういうものです。
何もない所に写真は生まれようがありません。
すでに存在している何かを複写することでしか写真は生まれません。
でも森山さんはアートそのものが複写であると言っています。
ということは絵画や彫刻、音楽も何かのコピーということになります。
絵画の歴史は文字よりもずっと古く、大昔の壁画には動物や人々の暮らしが描かれています。
当時の人たちがその目で見た光景を描いたんだから当然ですが、これも複写と言えるかもしれません。
もし目の前になんの光景も存在しないんだったら、壁画も存在しなかったでしょう。
無論、彫刻も。
音楽も同じかもしれません。
元々は人の声や自然の中の様々な音があって、それを表現しようと石を叩いたり歌を歌ったり。
アートには必ず元になる何かが存在しています。
何もない所から何かを生み出すのは錬金術ですが、アートは無から有へと変わる錬金術ではないのでしょう。
最初に光や音や、生き物や自然現象や、とにかく人の五感を刺激するものがあって、それを感じる心や考える頭があって、そこからしかアートは生まれてきません。
全てのアートがコピーだとするなら、写真がもっともそれが顕著でしょう。
絵も音楽も小説も、一度人の頭を通して出てきますが、写真はその前にレンズとカメラを通ります。
それを見た写真家が頭の中でこう写したいと考え、またカメラとレンズがそれに応えて目の前の景色を写します。
他の芸術よりも一過程多く、より複写性の強い芸術です。
その人が世界をどう見ているかは写真を見れば分かります。
明るい写真、暗い写真、楽しい写真や悲しい写真。
同じ物を撮っても同じにはならないのが写真だからです。
アートがコピーだとするなら、芸術は人を映す鏡です。
素の状態で物を見るより、一度カメラを通した方が、自分がどう世界を見ているのかがよく分かるかもしれませんね。

芸術はお金じゃない だからお金にはならない

  • 2018.09.05 Wednesday
  • 13:13

JUGEMテーマ:アート・デザイン

JUGEMテーマ:芸術

今は体験を売る時代と言われています。
CDは売れなくてもライヴのお客さんは増えているそうです。
アイドルの握手会も盛況のようだし、人気のスポットがあればインスタ映えを求めて若い人が殺到します。
ネット全盛の今、あらゆる創作物は簡単にコピーされ、それを取り締まる法律も追いついていません。
漫画村なる漫画家にとっては一円にもならないどころか、時間と労力をかけて作り上げた漫画を無料で閲覧されてしまうようなサイトもありました。
サーバーが海外となれば簡単に規制することも出来ません。
多くの人が手軽にネットができる今、違法コピーや違法アップロードが容易いものはお金になりにくくなっています。
だけどたった一つだけネットでは手に入らないものがあります。
それが体験です。
CDはコピーできてもライブを体験することはコピーできません。
アイドルとの握手も人気スポットで写真を撮ることも、インターネットの中には転がっていないからです。
その場に足を運んで体験を得る。
実は一番アナログなものこそが違法コピーや違法アップロードを免れているんだと思います。
どう技術が発達しようが、その場に行かなければ得られないものが生の体験です。
バイクの映像を見てもバイクには乗れないし、登山の映像を見ても山には登れません。
良いカメラを見ても自分の物にはならないし、良い写真を見ても自分が同じクオリティで撮れるわけではありません。
行ってみる、やってみる、五感の全てで感じてみる。
そういった手触りのある体験は、自分自身の生の肉体を駆使してこそ得られます。
分かりやすいのは花火です。
もう花火大会の時期は過ぎてしまいましたが、昔から続くこの伝統行事は今でも人気です。
若い人からお年寄りまで、花火大会の日はたくさんの人が集まってきます。
まだ陽が高いうちから集まって、まだかまだかと待ちつつも、それまでの時間を楽しんでいます。
出店で焼きイカを買う、偶然会った友達としゃべる、景色を見ながらぶらぶらと歩く。
そして夜になって花火が打ち上げられると、面倒臭がりな出不精の人であっても、家から見える範囲なら窓から顔を出すでしょう。
今日は花火大会で、ネット中継があるからそれでいいやと満足する人がいったいどれだけいるのか?
そう思う人が多いのなら、各地の花火大会で交通整理をしたり、出店が並ぶことはないでしょう。
外でドンドン花火が上がっているのに、窓から顔を出さずにネットで見ている人はまずいないんじゃないかと思います。
ネットの普及に伴い、儲からない商売がたくさん出てきました。
反面、ライヴや握手会が盛況になったりと、生でしか体験できないことが人気を得ています。
ユーチューバーが人気なのは馬鹿なことにやってみる人がいるからだけど、あれは見ている人たちに疑似体験を売っているんだと思います。
テレビの中はプロが集まった完成された世界です。
見ている側には手の届かない別世界です。
だけど自分と距離を近く感じるユーチューバーたちが、〇〇をたくさん買ってみたとか、〇〇へ行ってみたという企画をやると人気が出ます。
自分でもやろうと思えばできるけど、そこまでしてやりたくないことを、ユーチューバーが代わりにやってくれることで、疑似体験を得ることができるからです。
ああ、こういう風になるんだなと、まるで自分が体験しているかのような錯覚を売っている商売です。
ほんとに上手い所に目を付けたなと感心します。
そういえば元都知事の石原慎太郎さんは、若い頃に先輩の作家からこんなことを言われたことがあるそうです。
若くして顔が広く、売れっ子だった石原さんに向かって、「こんなに若いうちから良い思いをしちまって、これからどうするつもりなんだ?」と。
続けて「作家なんて本来はそう儲かる商売じゃないんだよ」と。
音楽、小説、漫画やアニメに映画、写真だって芸術です。
けど歴史を振り返ってみると、たしかに芸術系が儲かった時代なんてつい最近の70年代から90年代くらいじゃないでしょうか。
よくて00年代の前半。
だからこそ昔の芸術家はパトロンを求めたんだと思います。
本来は芸術というのはお金にならないものです。
どんなに名曲や名作を作ろうが、億万長者になるなんてありえないことです。
でもそれが可能になったのは、芸術で儲ける仕組みが出来たからです。
CD、カラオケ、コミック本、VHSやDVD。
ライヴや映画館の上映だけでは決して届かない億万長者への道は、芸術家自身の力だけでは無理です。
作品で儲かる仕組みがあって、上手く時代とマッチしていたからこそ。
でもどんなに嫌でも時代は変わるものだから、それに伴ってお金を生むシステムも変わっていきます。
たんにネットの違法コピーやアップロードを批判しても、削除してはアップしてのイタチごっこです。
なぜならお金が絡むと、常識や道徳というのは後回しになってしまうからです。
重犯罪にでも手を染めないレベルなら、お金になるならいいやってリスクを背負う人たちはいつの時代もいるでしょう。
今は芸術作品を作って儲けられる時代じゃありません。
時代は体験です。それも生の。
もしくはユーチューバーのように見ている人に疑似体験を売るか。
よく芸術はお金じゃないと言うけれど、まさにその通りです。
評価されない時だけ芸術を盾にして、いざ周りから認められるとお金にうるさくなる人はたくさんいるでしょう。
でも芸術はお金じゃないからその理屈は通らないんです。
お金を生んでいるのは芸術そのものじゃなく、それをお金に換えるシステムがあるからです。
でもそんなシステムはいつでも変わってしまうから、結局は芸術そのものにお金を生み出すほどの力はありません。
芸術作品が儲からない今の時代、ネットのせいでというのは的外れです。
ただ単に70年代から90年代が恵まれていただけに過ぎません。
未だにバブルを夢見る人がいるけど、創作の世界で大金を得たいという人がいたら、それは全くバブルを夢見る人と同じです。
儲かったのは芸術そのものの力だけじゃなく、儲かる仕組みと環境があっただけのことなんですから。
芸術はお金にならない。
なぜならお金じゃないのが芸術だから。
何の役にも立たなくて、でもお金だけで計れない価値があって、説明も定義も難しいんだけど、優れた芸術にはたしかに人の心を打つ力が宿っているんです。
そんな曖昧で計算もできないものがお金になるはずがありません。
でも優れた芸術は何百年や何千年も前のものでも残っています。
お金じゃない価値があるからです。
お金に換わるってことは消耗品になるってことです。
生きているうちに儲けたいのなら、芸術の世界から足を洗って、今の時代に儲かりそうな世界に飛び込めばいいだけです。
芸術はお金じゃない、だからお金にはなりません。

天才は死んでからが本領発揮

  • 2018.08.09 Thursday
  • 13:39

JUGEMテーマ:芸術

JUGEMテーマ:アート・デザイン

芸術家は誰だって自分の作品を評価されたいと思うものでしょう。
ヘンリー・ダーガーみたいに特殊な人は別だけど、きっとそうだと思います。
作った以上は認められたいし褒められたいし、感動したとか良かったって言ってほしいものです。
そしてそれだけで終わらない人がプロを目指します。
名誉がほしい、地位がほしい、モテたい、なによりお金がほしい。
好きなことだけやって全てを手に入れたい!
実は芸術家ってワガママな人種です。
才能と運に恵まれた人ならそれも可能でしょう。
しかしほとんどの芸術家は才能にも運にも恵まれず、捨てきれない情熱と夢を抱えて消えていきます。
芸術の道を諦め、普通に働いて暮らせるなだまだいい方です。
それが出来ない人が大半で、そうなれば目も当てられないほど落ちぶれた人生を送ることになります。
だけどごく稀に、その落ちこぼれの中からとんでもない天才が現れることがあります。
運はともかくとして、才能がないから成功しなかったわけではなく、周りに理解されないから日の目を見なかった人たちです。
あまりに才能がありすぎて、あまりに独特すぎて、あまりに新しすぎるがゆえに、孤独を抱えて生きていかねばなりません。
いくら一人が辛くない人でも、自分の作品まで無視されるというのは、耐え難い孤独でしょうね。
評価されなくても、人から褒められなくても、まるで何かに取り憑かれたように作品を作り続ける人がいます。
でもそれは幽霊のせいでも精神病のせいでもなく、捨てきれない夢や惰性のせいでもありません。
心のどこかで、自分はこれをやる為に生まれてきたんだって自覚があるからだと思います。
作品の評価は世間に任せるしかありませんが、なんで自分が生まれてきたのかって意味だけは、自分でないと決められません。
その意味を芸術に見出したなら、これはもう地獄でしょう。
なぜなら成功する可能性なんて、宝くじよりの一等を当てるより低いからです。
いったいどれだけの芸術家がいて、どれだけの作品が名前も知られずに消えていったことか。
まだ宝くじを買って一等を狙う方が確率が高そうです。
それでも作品を作り続けることをやめられない、だから地獄です。
どこかへ遊びに行ったり、恋愛をしたり、結婚して家庭を築いて、休日には楽しい時間を過ごしたい。
人間誰でも持つ欲求は当然芸術家にだってあると思います。
でも無理です。
やめるにやめられない道に入ってしまったら最後、99パーセントの芸術家は何も手に入れられないまま野垂れ死にです。
葬式もなく、ただ燃やされて、誰が誰だか分からないほど骨が埋まった共同墓地に放り込まれ、手を合わせにくる人もいないでしょうね。
芸術家は変わり者ですが、誰もが持つ人間らしい欲求を持っていないわけではありません。
ただそれを上回るほどに、これこそが自分の人生だ!って思うものを、芸術の中に生まれてきた意味を見出している人種です。
そういう意味では、ハナっから幸せなんて求めていないとも言えます。
上手くいくわけがないって分かりきってる世界に、自ら足を踏み入れているんですから。
途中に何度か引き返せる道があっても、それを無視して歩き続けて来たんですから。
だけどもしその人が天才ならば、死後に賞賛を得られます。
自分は死んでも作品は生き続けるし、自分の懐には入らなくてもお金を生むし、後世の人たちに影響を与えることが出来るし。
そう考えると、天才の才能っていうのは、自分の為じゃなくて、世の中全体の為にあるのかもしれません。
秀才は本人が死ねば終わりだけど、天才は死んでからが本領発揮です。
肉体も魂も失ってなお、天才の残した功績と作品は不滅です。
少なくとも芸術に関しては。
稀に生きてるうちから評価される天才もいるけど、そんなものはラッキーマンを超えたラッキーマンです。
上にも書いたように、宝くじの一等を狙う方が簡単でしょう。
凡人は「明日から本気出す」、秀才は「今本気を出す」、天才は「死んでから本気出す」
凡人や秀才では決して乗り越えられない死という壁、それを乗り越えてしまうのが天才の証ですね。

芸術の力は作品の力で伝承されていく

  • 2018.02.09 Friday
  • 11:26

JUGEMテーマ:芸術

JUGEMテーマ:アート・デザイン

スポーツの場合、優秀なコーチが付くと選手は伸びます。
もちろんその選手に才能があるという前提ですが。
でも芸術ってこの限りじゃありません。
いかに優秀な人が指導をしても、才能のある弟子が大成する例は稀なように思います。
要するに芸術の力は遺伝もしなければ、指導によって伝承も行われないということです。
けど昔から今に至るまで、脈々と芸術の道筋は続いています。
昔の偉人が残した作品を参考にしたりしながら、技術や方法論も発展しました。
にもかかわらず、親子や師弟という間柄ではなかなか誕生しにくいのが一流の芸術家です。
海外のある音楽学校の校長がこんな言葉を残しています。
「音大というのは、自分に音楽の才能が無いと分からせる為にある。」
アカデミックな中からでは、真の芸術家は生まれないと捉えることができます。
そういえばひろゆきさんも(元2ちゃんの)似たようなことを言っていました。
芸術ってのは洗練された場所じゃなくて、アバンギャルドな場所から生まれると。
誕生は混沌とした中からってことなんでしょう。
それらが集まるのがオシャレで洗練された街というだけで、そういう街は芸術を楽しむ場所にはなっても、芸術発祥の地には成りえないってことです。
実際に絵画の歴史を振り返っても、偉大な画家って色んな国から出ています。
芸術の都パリは、絵画が生まれる中心ではないのです。
じゃあどうやって芸術家を育てるのか?
これって無理だと思います。
もっと言うなら発掘してくるのも無理でしょう。
原石はもちろんあるはずなんですが、それを探すのは砂浜の中から一粒の砂金を見つけろというのに等しいと思います。
青田買いも無理、育成も無理。
芸術の天才ってのは、彗星のごとく突然現れ、多大なインパクトだけ残して去っていく印象があります。
「あそこに光が走ってる!」って夜空を見上げた時にはもう遅いんですね。
その人はとうにこの世を去っていたりします。
けど辿った軌跡は光り輝いて、死後も真っ暗な空を照らす人たちです。
ちょっと臭い言い方だけど、芸術って死をもって完成するんだと思います。
生きているうちにどんなに評価されようが、死後に忘れ去られるならその芸術家の遺した作品は無価値です。
生きているうちに成功しないなら意味ないじゃんって思う人がいるかもしれませんが、そんな事はありません。
偉大な芸術家の遺した作品って、後世に多大な影響を与えるんです。
それは親子だとか師弟だとか、そういった繋がりなんて関係なしに伝播していきます。
そしていつの時代か、どこかの国でそれを受け取る人がいて、しかも普通の人より鋭敏に感じ取る人がいるんです。
手探りだと探すのが難しい砂浜の砂金さえ、力を持った作品ならその砂金を見つけ出して、新しい天才を生み出すんですよ。
ヒカルの碁って漫画で、神の一手を目指す藤原作為という最強の棋士が出てきます。
彼は比類なき大天才で(幽霊だけど)、そんな彼の力をもってしても神の一手に一歩近づくだけなんです。
次の一歩は主人公のヒカルが受け継ぎ、また誰かに受け継がれ、果てしない先にある神の一手に少しずつ近づいていきます。
芸術にも神の領域があるとしたら、同じように歩むしかないでしょう。
作為やヒカルがそうしたように、ほんとに地道な道のりです。
芸術の伝承は直接的な人の力では無理で、あくまで偉大な作品のみによって行われるってことなんだと思います。
私たちはそれをただ待つしかないですね。

芸術とエンターテイメント

  • 2017.11.12 Sunday
  • 11:39

JUGEMテーマ:アート・デザイン

JUGEMテーマ:エンターテイメント

芸術とエンターテイメント。
似たようで非なるものです。
あらゆる創作物の中、名作と呼ばれるものほど、意外と売上は少なかったりします。
時代を超えて残る力はあるし、そのおかげでたくさんの人に影響を与え、新しいクリエイターが誕生することもあるでしょう。
けど売れるかどうかって聞かれると、また違うような気がします。
作る側は「こんなに名作なのになんで売れないんだ!」って嘆いているかもしれません。
完成度も高くて、クオリティも高くて、もはや芸術の域に達したような作品ほど、クオリティの劣る作品に負けてしまったり。
頭の固い評論家ならば、「受け取る側のレベルが低いから」なんて、都合の良い責任転嫁を叫ぶでしょう。
だけどそうじゃありません。
芸術性の高いものが売れにくいのは、決して受け取る側のレベルのせいではないはずです。
もしそうだとしたら、どうして優れた芸術品が、時代を超えて生き残ることが出来るのか?
受け取る側はちゃんと理解しています、それが素晴らしい作品だってことを。
だけどそういった物が売れにくいのは、まさに芸術的だから。
芸術って美の追求です。
人は美しいものには敬意を払います。
そして美への敬意というのは、お金には換算できない価値があります。
だから売り上げに結び付きにくいんです。
例えば美しい自然の景色を見た時、それを守りたいとは思っても、自分の物にしたいとは思わないでしょう。
敬意を抱くものに対しては、お金を払って自分の物にするなんておこがましいと思うからです。
そういうものは守るべきものであって、お金でどうこうするものではありません。
芸術もこれと同じで、人は敬意をもって接するから、作品との間に一線を置きます。
名作と呼ばれる作品ほど、繰り返し見ると価値が下がります。
手元に持っていたとしても、しょっちゅう見るなんてことはないでしょう。
芸術は決して消耗品ではないからです。
芸術的な作品で大金を稼ぎたいなら、金の使い道に困っているほどの大金持ちを相手に、道楽心をくするぐしかないでしょう。
ああいった人たちは、普通では手に入らないものを欲しがりますから。
虎の皮とか象牙とか。
絶滅危惧種だって叫んでも、金を持て余す人間にとってはいい娯楽品でしかありません。
芸術もそこに食い込めば、一攫千金が望めるんじゃないでしょうか。
かつての画家や音楽家たちがパトロンを持っていたように。
それに対してエンターテイメントというのは、「面白い」かどうかの一点に尽きると思います。
ぶっちゃけクオリティや完成度って二の次です。
面白いと思わせることが出来るなら、穴があっても売れるのがエンターテイメントです。
絵が下手でも内容が良ければ漫画は売れます。
バグが多くても人気のあるゲームはあります。
面白いと思わせることが出来るなら、そういった欠点さえも楽しみの一つになりえるのが、芸術との違いだと思います。
ある芸人さんが、とあるゲームメーカーが不遇な評価を得ていることに不満を抱いていました。
完成度なら絶対にこっちのゲーム機の方が上だと。
だけどゲームってエンターテイメントです。
無駄なく隙なく完成度を高めてしまうと、その時点でもう芸術になってしまいます。
これってゲームの本懐からは外れています。
アニメでいえば、「かぐや姫の物語」は芸術レベルです。
だけどやっぱり売上が芳しくないのは、それが理由だと思います。
海外で賞も獲ったみたいですが、アニメとしての評価ではなく、アートとして評価された賞です。
あのアニメは文学であり、絵画であり、立派な芸術過ぎました。
後進に大きな影響を与え、新しいクリエイターを育てる力はあるかもしれませんが、あのアニメそのものは、アニメとしては評価しづらいと思います。
かといってエンタメだけになってしまったら、商業主義一辺倒に傾いて、クリエイターが育たなくなったり、ないがしろにされる危険もあります。
その時は儲かっても、長い目で見ればマイナスなように思います。
芸術とエンターテイメント。
あちらを立てればこちらが立たず。
とてもバランスが難しいですね。

平面だけど立体的 大和絵の魅力

  • 2017.11.05 Sunday
  • 09:49

JUGEMテーマ:アート・デザイン

図書館に行ったら大和絵の展示をしていました。
源氏物語の絵巻物です。
絵そのものは源氏物語が書かれた100年後くらいに描かれたものだそうですが、いかんせん古いもなので、傷みが酷いそうです。
なので展示してあったのは復元画です。
パッと見は切り絵かなって思うほど、それぞれの色がハッキリ浮き出ていました。
それに平安時代の雅な衣装の、とても繊細な模様まで、すべて手描きでなされていて、じっと見入ってしまいました。
日本画って言葉は西洋画が入ってきてから出来たものであり、それまでは日本の絵は大和絵と呼ばれていたそうです。
しかし残念ながら、大和絵って近年に入るまで、そこまで大事にされなかったそうです。
理由は西洋画の到来です。
圧倒的な立体感や質感、時には写真さえも超えるほどのリアリティを持った西洋画は、当時の日本人にとっては大きな衝撃だったはずです。
きっと多くの絵師が、西洋画の技法を学ぼうとしたでしょう。
北斎もその一人です。
ただその反面、従来の大和絵は大事にされたくなったそうです。
写真がない時代、西洋画の圧倒的なリアリティは、他の国のどんな絵も及ばなかったでしょう。
もちろんそれぞれの国や文化で、面白い絵はたくさんあります。美しい絵もあります。
でもやっぱり当時の人の気持ちになると、「これからは西洋画だ!」ってなる気持ちは分かります。
だけどその頃、ヨーロッパでは浮世絵旋風が巻き起こっていたわけですが・・・・。
異文化の優れたものを目の当たりにした時、北斎やゴッホのような天才ですら、「なんちゅうこっちゃ・・・」と衝撃を受けるようです。
それはさておき、とにかく大和絵は不遇の時代を迎えたそうです。
しかし時代が進むにつれて、自国の文化が見直されます。
なんでも西洋化していいのかと。
かの夏目漱石の画期的な文体や当て字も、日本が西洋の文化に飲み込まれないようにと、そういった気持ちからきていたそうですよ。
例えば日本の小説って、心情描写をセリフで語ったりします。
これって海外の小説ではなかなか見られない表現だそうです。
日本だと小説でも漫画でも当然の技法になっていますが、そういった在り来たりなものほど、外から見ると特別だったりするようです。
大和絵だって同じです。
あんな面白い絵ってそうそうないですよ。
あくまで目で見た景色しか描けなかった西洋画(宗教画を除いて)と違って、大和絵は人の目を超えた視線から描いています。
山々を見下ろす俯瞰の景色、動物が擬人化して戯れる光景。
イメージの世界がそのまま画面に現れています。
ゴッホが始めた「見たままの景色じゃなくていい」という絵は、西洋では画期的だったでしょう。
だけど日本では昔からなされていたことです。
だからこそ浮世絵はヨーロッパに衝撃を与えたわけです。
絵は決してリアルだけが全てじゃありません。
絵に出来て写真に出来ないこと、それはイメージをそのまま表現できるということです。
写真かと見紛うほどの絵はそりゃすごいですが、絵の一番の醍醐味って、やっぱり目では見ることの出来ない景色の描写だと思います。
写実画を否定はしません。
綺麗だと思うし、多くのすぐれた技術や方法論は、いかにリアルを描くってところからきているからです。
遠近法なんかその代表です。
でもリアルだけじゃ寂しいじゃないですか。
大和絵には大和絵の良さがあって、遠い昔の、それも源氏物語の中へと連れていってくれます。
それがイメージの力です。
日本ならではの絵、大和絵には、他の絵にはない力があります。
平面的ながら、なぜか立体的に見える面白さがあるんです。
これもイメージのなせる業でしょう。
絵は平面だけど、内容まで平面とは限りませんから。
深い深いイメージの世界へ没頭させてくれる・・・そんな絵こそ、一番優れた絵だと思います。
大和絵にはそんな力を感じました。

 

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