幽霊を見る人と見ない人

  • 2019.02.19 Tuesday
  • 12:38

JUGEMテーマ:日常

幽霊が見える人と見えない人ってくっきり分かれています。
見る人は何度も見るけど、見ない人はほんとに見ません。
ちなみに私は今まで一度も見たことがありません。
祖父が亡くなった時、弟は仏間から人の気配と足音を聞いたと言っていました。
友人の中にも似たような体験をした人がいます。
祖母が亡くなった翌日、仏間で安置されているはずなのに廊下を歩いていたと。
他にも色々聞いたことがあります。
よく聞くのは天井や壁に人の顔が浮かんでいるというものです。
あと金縛りにあって目を開けると、人が乗っかっていたとか。
誰もいないのに勝手にドアが開くとか、階段を上ってくる足音がするとか。
直接は見なくてもなんらかの形で人の気配を感じた経験のある人は多いようです。
しかしそういった経験がまったくない人もいます。
夢に故人が出てくることはあっても、起きている時に見たことはありません。
そういえば愛犬が亡くなった数日後、ハッハッハっと犬の息遣いが聞こえたことがありました。
階段を上がっている途中、トイレの方から聞こえてきたんです。
まさかと思って覗きに行くと、猫がオシッコのあと砂をかけているだけでした。
ザッザッザっという砂の音を聞き違えてしまったんです。
でも子供の頃に一度だけ奇妙な体験をしたことがあります。
台所でご飯を食べていると、トイレのドアの向こうから「アッハッハッハッハ!!」」という大きな笑い声が響いたんです。
あの時は怖くて確認出来まなくて、未だに謎のままです。
だって誰もいないはずなんですよ。
トイレは真っ暗だし、家族は居間にいるし。
私は塾の帰りが遅くて一人で台所で晩ご飯を食べていたんです。
だから怖くて怖くてすぐに居間に逃げました。
けど今思い返すと、トイレのドアの向こうには当然トイレがあって、そのすぐ向こうは外なんですよ。
しかも仕事帰りの人がよく歩いている道路です。
トイレの窓は換気の為に少しだけ開けていることが多かったので、外を歩いている人の笑い声が響いてきたのかもしれません。
だからまあ今となっては多分そうだったんだろうと怖くもないんですが、子供の頃はとても恐怖を感じました。
でも実際に幽霊を見た経験はありません。
身近な人で何度も見ている人はいるんだけど、私はないんですよ。
ていうかない人はほんとにないって言います。
幽霊の目撃と近いものにUFOの目撃があります。
これもまた見る人は何度も見るけど、見ない人はほんとに見ません。
どうしてこんなにハッキリと分かれるのか?
私の想像だけど、幽霊を見やすい人というのは、恐怖を感じた時にその恐怖の元を確認しない人なんじゃないかと思います。
私が子供の頃、不気味な笑い声に逃げ出したように。
でもきちんと確認してみると意外と大したことじゃなかったりするんです。
猫の砂を掻く音を犬の息遣いと勘違いしていただけだったみたいに。
亡くなった祖母が廊下を歩いているのを見た友人も、実は襖の隙間からなんだそうです。
怖くて廊下を確認できなかったそうですが、もしちゃんと見ていたら他の誰かだったのかもしれません。
なにせ身内が亡くなった翌日のことです。お通夜で家には親戚や近所の人が来ていたそうなので。
UFOも同じかと思います。
宇宙人はいてもおかしくないけど、地球に来ているかどうかは・・・・かなり可能性は低いでしょう。
もし来ているならとっくに接触しているはずでしょうから。
まっすぐ飛んでくる飛行機の光は一点に留まっているように見えます。
でも星とは違って点滅するからUFOと間違える人が多いんだそうです。
しばらく観察していると飛行機だって分かるんですが、その前にUFOだ!って早合点しているのかもしれません。
幽霊を見やすい人が恐怖の元を確認しない人だとしたら、UFOを見やすい人は神秘の元を確認しない人なのではないかと思っています。
つまりは受け取る自分次第ってことです。
『幽霊の 正体見たり 枯れ尾花』
『UFOの 正体見たり 夜のドローン』
人間の目ってけっこう曖昧です。耳も曖昧だし、判断力だってそこまで頼りになりません。
幽霊やUFOは見える人には見えるって意見があるけど、ほんとのことだと思います。
錯覚だろうと思い違いだろうと、本人にはそう見えているんですから。
人がいる限り幽霊もUFOもなくならないでしょうね。

AIの発達に良い未来の期待は出来ない

  • 2019.02.06 Wednesday
  • 13:48

JUGEMテーマ:日常

人工知能、AIが発達すれば、人間は楽に生きていけるって唱える人がいます。
堀江貴文さんがその一人です。
辛い仕事や危険な仕事はAIがやってくれるから、人間は遊んで暮らせるようになると。
しかし逆の意見もあります。
AIの台頭は人間から仕事を奪うだけで、より生きていくのが大変になると。
それにもし人間の手を超えてしまったら、支配されるのは人類の方であると。
私はどちらかというと後者の可能性が高いと思います。
昔、車のない時代は馬を引く仕事がありました。
馬を育てる仕事、世話をする仕事も。
ですが車が普及するようになってからは、少なくとも馬を引く仕事はほぼ失われました。
馬の飼育や世話に関しても、とても小さな業界になってしまったでしょう。
反面、車の運転手や、自動車工場で働く人など、今までにない仕事が生まれました。
なくなった分の仕事は新しい仕事で補うことが可能でした。
しかしAIの場合そうはいきません。
堀江さんの言うとおり、仕事の大部分はAIが担ってくれるでしょう。
だからといって、今までにない新しい仕事が人間に与えられるわけじゃありません。
人間がやっていた仕事がただAIに奪われ、新たに生まれた仕事もAIがこなしていくでしょう。
ひろゆきさんは堀江さんとは違った意見を述べていました。
AIの台頭によって知的労働は奪われる。
人間に残された仕事は、ハンバーガーショップで肉を焼くなどの簡単なものに絞られるだろうと。
複雑で難しい仕事に人間は必要なくなるから、「これでもやっとけ」とばかりに単純な労働しか残らないのだろうと思います。
これを辛い未来と思うかどうか?
私はまだこれでもマシな方だと考えています。
別にAIが全部やってもいいんだけど、それだと人間が食えなくなるから、せめて簡単な仕事くらいは残しておいてやろうという、優しいAIだったらの話だからです。
普通に考えれば、もはや労働力として必要されなくなった人類には、今と同じ生活ができる未来は待っていないでしょう。
人類が滅ぼされるとまではいかなくても、サルやチンパンジーといった野生動物と同じ扱いになるかもしれません。
もしくは動物園で飼われるか、ペットにされるか。
堀江さんの唱える未来は、AIが人類に友好的だったら訪れる未来ではありません。
正しくはAIがこの上なく人類に同情的で優しかったら訪れる未来です。
しかし人間はサルやチンパンジーにそこまで優しいわけではありません。
滅ぼそうとはしないまでも、決して対等な存在としては扱っていないからです。
そうでなければ動物園にサルがいることはないでしょう。
AIが覇権を握ったら、人間のクセにこんなことが出来るなんてすごい!とかいって、舞台の上で猿回しならぬ人回しをさせられる可能性だって充分にあるわけです。
こんなの嫌だと思って反乱を起こしても、それこそサルが人間相手にクーデターを起こすがごとく、勝ち目なんて一ミリもありません。
戦争をしかけたところであっさりと負けて、危険だからと大量に間引かれたり、より人間の自由が制限されるだけでしょう。
AIはとても優れた発明だけど、それはあくまで人間がコントロール可能なうちだけ。
人の手に負えなくなった時、現実にターミネーターのような世界になってしまうかもしれませんね。

坊主頭は濃い顔じゃないと似合わない

  • 2019.02.02 Saturday
  • 12:58

JUGEMテーマ:日常

先日髪を切りました。
けっこう長いこと行ってなかったのでかなり伸びていました。
思い切って坊主にしようかなと思ったんですが、やっぱりやめました。
というのも、以前に一度坊主にして失敗しているからです。
夏だしちょうどいいかなと思ってやったんですけど、ぜんぜん似合いませんでした。
ていうか散髪屋の人から止められたんですよ。
「濃い顔の人じゃないと坊主は似合いませんよ」って。
それでもいいからお願いしますと言って、仕上がりを見たら散髪屋さんの言った通りでした。
坊主が似合うのって、有名人で言えば千鳥のノブさんとか、俳優の荒川良々さんのような人です。
ナイナイの岡村さんもけっこう坊主が似合っていました。
坊主ってインパクトのある髪型なんですよね。
だから濃い顔じゃないと、顔の方が髪型に負けて似合わないんだと思います。
昔に坊主にした時、周りから似合っているとは一言も言われませんでした。
むしろ「いきなりなんで?」と笑われた記憶があります。
なので今回は坊主にしたい欲求を踏みとどまり、かなり短めくらいで切ってもらいました。
でも似合いません・・・・。
もしかしたら極端な短髪も濃い顔じゃないと似合わないのかも。
だったらいっそのこと坊主にした方がよかったかもしれません。
ちなみに私の家系はベジータみたいにM字にハゲ上がっていきます。
祖父もそうだったし、父もそうなりつつあります。
そして私にもじわじわと魔の手が迫っているんです。
今のところは前髪を伸ばして「こっちこ〜い!」って垂らしてるとどうにか誤魔化せる状態です。
でもあと10年くらいすれば垂らす前髪も遠くへ旅立ってしまうでしょう。
M字系のハゲは短髪か坊主の方が似合うんですよ。
竹中直人さんなんか渋くてカッコイイですからね。
もちろん私はあんなカッコイイおじさんになれるほどいい男じゃありませんが。
これからの散髪、切ってもらう前にうんと髪の毛と相談しないといけません。

視点が変われば見方も変わる

  • 2019.01.31 Thursday
  • 12:36

JUGEMテーマ:日常

物事はどの視点から見るかで見え方も違ってくるわけですが、一番わかりやすい視点はマクロとミクロではないでしょうか。
マクロは大きなもの、ミクロはちいさなものって意味です。
例えば認知症の老人が徘徊するのは、昔の記憶ははっきりしているからと言われています。
最近のことはよく覚えていなくても、昔によく行ったお店とか、家族と出かけた場所などは鮮明に覚えているんだそうです。
だからもう他界してしまった家族がまだいると思い込み、取り壊してなくなってしまった家に帰ろうとすることがあるそうです。
友達と会う為にとっくの昔に潰れて存在しないお店へ行こうとしたり。
周りからしたら理解しづらい行動も、認知症の方にとってはどうして周りが止めようとするのか、逆に不思議なのかもしれません。
でもこれはミクロな意見です。
視点を大きくしてマクロな目で見ると、別の意見に変わるそうです。
集団で生活する社会性の生き物は、個人よりも集団を大事にします。
例えばオオカミの場合だと、年老いた個体は自ら群れを離れていきます。
体力は衰えて狩りには参加できず、かといって食べなきゃ生きられないから、お肉だけは頂戴します。
しかしそれは群れの足を引っ張ることになってしまいます。
だから自ら群れを離れていくんだそうですよ。
人間も同じで、種としての人類を守る為に、認知症にかかった人は自ら集団を離れていくという説があるんだそうです。
ミクロな視点とマクロな視点ではまったく違う結論になってしまうんですね。
どっちが正しいというより、見方によって変わるということなんでしょう。
人間の行動に関することって、色んなアプローチがあります。
生物学的、心理学的、社会学的、経済学的などなど。
もっとも大きな目としては生物学になるんでしょう。
次に社会学、経済学、心理学といった順番で、ミクロへ近づいていくんじゃないかと思います。
人間は社会性のある生き物だから、集団から個人へという流れで小さな視点になるからです。
私はあまり心理学というのは信用していなくて、あれって万人にはまず当てはまらないと思っています。
個人個人をしっかり調べれば、その人その人のことは見えてくるでしょう。
でもその割にはけっこう大雑把にまとめられている感じがするんですよね。
最近はあまり見ないけど、昔はよく心理学者がコメンテーターとしてニュースに出ていました。
子供心ながらに、「なんかどうとでも言えるなあ」としか感じられない、深みのないコメントが多かったように記憶しています。
万人を分析するのに向いていな心理学者が、どうして会ったことすらない人物の内面を語れるんだろうと、ちょっと胡散臭ささえ感じていました。
だからって心理学の全てが間違いとは思いません。
心理学の発達がなければ、精神医学だって発達しなかっただろうから、うつ病や強迫神経症にかかっても病院へ行けなくなります。
でもなんちゃって心理学者が多いのも事実で、バラエティなんかで喋ってる人はほぼ信用していません。
今はオカルトに厳しいから、その代替えとして用意された人たちなんだろうと思っています。
視点を変えれば見方が変わりますね。

車は色んなものが詰まった思い出箱

  • 2019.01.24 Thursday
  • 14:45

JUGEMテーマ:日常

JUGEMテーマ:車/バイク

新しい車に乗り換えて10年ほど経ちます。
以前の車は7年乗っていました。
最近たまたま前の車と同じ型が走っているの見かけました。
かなり古い車なので、乗っている人はほとんどいません。
なんかすごく嬉しくなったんですよ。
以前の車は色んなところに出かけました。
風景写真をやっていた頃なので、泊りがけで行くような場所にも日帰りで行ったり。
そういえば熊を撮りたいと思って、遠くの山まで出かけたこともあります。
山の麓、車の中からじっとレンズを向けていました。
結局熊は現れなかったんですが、今となってはいい思い出です。
色んなところに出かけると、車にたくさん思い出がつまるものです。
私の友人もちょっと珍しい車に乗っていました。
今はもう買い替えましたが、以前に乗っていた車を見ると、その友人のことを思い浮かべてしまいます。
その子も写真をやっているので、車に乗って色んなところへ出かけていたはずです。
だから前に乗っていた車がその子のトレードマークのように思ってしまうんです。
免許を取り、初めて買った車にはそれなりの思い入れがあるものです。
中古だし古いし、ぶっちゃけいつ壊れてもおかしくない車だったんですが、7年もよく頑張ってくれました。
買う時に車屋さんから「ほんとにこれでいいの?」なんて言われたりもしました。
乗り始めて後悔はなくて、一年も経つ頃には相棒のようにさえ感じていました。
街中で昔の車を見ると、強い懐かしさがこみ上げるのはそのせいかもしれません。
それは友人の乗っていた車も同じで、同じ型を見る度に思い浮かべてしまうんです。
車はただの移動手段じゃありません。
どこへ出かけた?誰と乗っていた?何をしに行った?
色んなものが詰まっている思い出箱のようなものだと思います。

めちゃイケとぐるナイ

  • 2019.01.22 Tuesday
  • 11:37

JUGEMテーマ:テレビ全般

めちゃイケが終了してからもうすぐ一年が経とうとしています。
まだ学生の頃、毎週楽しみにしていた番組です。
さんまさんや紳助さんとも違う、ダウンタウンやとんねるずとも違う、今までにない新しい笑いにハマりました。
とにかく楽しいというか、ワクワク感を共有させてくれる画期的な番組でした。
元々が賛否両論ある内容でしたが、新しい笑いとはそういうものだと思います。
しかし時代が進むにつれ、世の中の価値観と番組の内容が乖離していって、昔ほどの人気番組ではなくなりました。
色々言う人もいるけれど、20年以上も土曜もゴールデンだったんだからすごい番組だと思います。
めちゃイケはたくさんのメンバーがいるけど、中心はナイナイです。
そしてナイナイにはもう一つ、週末のゴールデンに番組があります。
ぐるナイです。
めちゃイケとぐるナイ。
人気でいえばめちゃイケの方が断然高かったでしょう。
どっちが好きかと聞かれたら、めちゃイケの方が多いんじゃないでしょうか。
しかしめちゃイケは終わり、ぐるナイはまだ続いています。
私はめちゃイケも好きでしたが、それ以上にぐるナイの方が好きでした。
今はほとんど見なくなってしまいましたが、めちゃイケ全盛の頃でも、ぐるナイの方を楽しみにしていました。
めちゃイケってかなりしっかりした台本があって、きっちりとその流れに合わせて芸人さんたちも動くそうです。
言うなれば臨場感を持たせたコント番組でしょう。
ドリフの徹底した作り込みを踏襲しつつ、ひょうきん族のアドリブ感を取り入れる。
そんな印象を受けます。
だからよくよく見ていると、間の悪い所や噛んだりする所ってほとんどありません。
きっと台本通りにいかないとカットがかかり、まるでドラマのようにテイク2とかテイク3とか撮り直しをするんでしょう。
そうやってしっかり作った番組だから面白かったんです。
対してぐるナイはもうちょっとゆったりした感じの番組です。
もちろん台本はあるんだろうけど、めちゃイケほどカッチリと形にこだわらないというか、出演手がみんな伸び伸びしているというか、自由な空気があります。
噛んだり間が悪かったり、明らかにミスだろうって思うところでも放送していました。
全体的に焦りがないというか、ゆったりした空間です。
そして内容もめちゃイケほど過激ではありません。
体を張るのは基本的に芸人さんだけであり、ゲストに無茶ぶりをするようなこともありません。
めちゃイケよりも緩い感じなんですが、そのおかげで安心してというか、肩の力を抜いて楽しめるんです。
めちゃイケの場合は「見るぞ!」と待ち構えていました。
岡村さんのオファーシリーズのスペシャルなんて、始まる前からテレビの前に正座していましたし。
めちゃイケとぐるナイってナイナイが中心なのに、内容はかなり対極にある番組だと思います。
めちゃイケはザ・ゴールデンって内容なのに対し、ぐるナイってどこか深夜番組っぽい雰囲気があるんですよ。
めちゃイケは最初からしっかりと形が決まっていて、そこにタレントさんを当て込む感じ。
ぐるナイは台本はあってもある程度自由というか、遊びが許容される感じ。
レギュラーを際立たせるのがめちゃイケで、若手にもスポットを当てるのがぐるナイ。
天下を取ったのはめちゃイケだけど、長く続いているのはぐるナイ。
私は個人的に後者の方が好きです。
めちゃイケももちろん面白かったけど、ぐるナイのゆるい感じというか、深夜番組っぽい雰囲気を残した(元々が深夜なので)内容の方が好きでした。
ナイナイといえばめちゃイケというイメージだけど、ナイナイの良さというか、ナイナイらしさが出ているのはぐるナイの方だと思います。
かなり前に終わってしまったけど、ぐるナイと同じ日テレでやっていたナイナイサイズという深夜番組も好きでした。
今までにないゆる〜い感じのトークと雰囲気、土曜の夜にピッタリだったと思います。
普段はトーク番組に出ないようなタレントさんもたくさん出ていましたし。
本気か冗談かは分からないけど、たしかナイナイサイズで岡村さんが「ナイナイは日テレブランドです」と言っていました。
矢部さんもギャラの大半は日テレみたいなことを言っていましたし。(めちゃイケのコーナーの中だったから本当かどうかは分かりませんが)
ナイナイらしさがグっと出ているのはぐるナイの方だと思います。

キャラクターは誰にでもある 演出した自分

  • 2019.01.20 Sunday
  • 15:13

JUGEMテーマ:日常

誰にだってキャラクターというのがあります。
自分が望む自分、周りがイメージする自分。
色んな要素が合わさってキャラクターが出来上がるわけですが、好かれる人というのは本人が望む自分と周囲のイメージが合致している人だと思います。
例えば忘年会の余興などで、面白い人が前に出て芸をやろうとしたら盛り上がります。
でも普段あまり喋らない人がいきなり前にでて「一発芸やります」と言ったら、えも言えない空気が流れるでしょう。
奇妙な緊張感、謎の恐怖。
そういうものが場を包んで、一気に酔いが冷めてしまうかもしれません。
もちろん一発芸が面白ければ問題ないんですが、「もしスベったら?」という想像がみんなの頭に過り、芸を見るまでは笑う雰囲気ではなくなるでしょう。
逆におちゃらけて面白い人がいきなり真面目になったら不安になります。
体調が悪いのかとか、お金にでも困っているのかとか。
本人は心を入れ替えて真面目にやっているだけだとしても、周囲からはそうは思われないでしょう。
等身大の自分、本当の自分、偽りのない自分、正直な自分。
飾らない自分を表す言葉はいっぱいありますが、果たして飾らないことが正しいのか?
私は周囲が描くイメージを演じるのも大事だと思っています。
それは仮面を被って生きるのとは少し意味が違ってきます。
仮面を被るということは、本音と建前の使いわけるってことです。
いつでもどこでも本音を見せたらトラブルだらけになるでしょう。
いつ何時も素の自分って人は少ないと思います。
しかしそれとは別にキャラクターを演じるというのも大事だと思っています。
きっと周りの人にはこういう奴だと思われてるとか、こういう目で見られてるとか、誰だってある程度は周囲からキャラクター付けされているものです。
その方が人間関係を作りやすいからです。
もしかしたら違うかもしれないけど、こういうキャラなんじゃないかって想像して話しかけた方が、なんとなく話しかけやすいものです。
逆にこういうキャラは無理だから近寄らないでおこうと思えば、無駄な衝突を無くすことにも繋がります。
もちろんあまりに酷いキャラクターを押し付けられた時は演じる必要なんてありません。
お前はイジられキャラだからってエスカレートしてイジメに発展することもありますから。
でもそこまでいかないのなら、周囲が描く自分のイメージを大事にするのは良いことだと思います。
等身大の自分もいいけれど、演出した自分も悪いとは思いません。

電波オークションをしないならテレビの未来は暗い

  • 2019.01.18 Friday
  • 12:41

JUGEMテーマ:日常

JUGEMテーマ:テレビ全般

イギリスではネットへの広告費がテレビへの広告費を上回っているそうです。
日本でもだんだんとネットの広告費が上がり、テレビが下がり気味だそうです。
民放はスポンサーの広告によって成り立っていますから、大きな死活問題です。
いまの所はまだまだテレビが上回っているようですが、これから盛り返していく見込みは少ないでしょう。
私は80年代後半から90年代のテレビを知っているので、いまのテレビを見ようとは思いません。
そもそも出演者のタレント自身が、自分の出ている番組を面白いとは思わない人がいるそうです。
芸能人の中でも、いまのテレビを面白いと思っていない人はたくさんいるでしょう。
芸人が視聴者を置き去りにしてバカ騒ぎしているだけのバラエティ。
事務所やテレビ局の事情により、キャスティングありきで進む演技もストーリーも見ていられないドラマ。
音楽は番組そのものが減っているし、紅白で見たいと思うミュージシャンも減っています。
そして一番の問題は報道でしょう。
捏造、ネットを情報源にしてしまう浅はかさ、裏を取らない適当な取材。
いったいどこの国のテレビ局?と思うほど、自国に対してなぜかネガティブな元国営放送さん。
笑えもしない毒舌を撒き散らすだけの不愉快な俳優上がりをMCに器用したり、そもそもニュースなんて語れないようなタレントさんをコメンテーターに据えたり。
テレビが見向きもされなくなる理由、数え上げたらキリがありません。
でも裏を返せば、そうでもしないと僅かな視聴率さえ取れないほど追い詰められ、落ちぶれてしまったのかもしれません。
あるニュース系の番組で、テレビの視聴時間のアンケートを取っていました。
一日に平均どれくらいの時間、テレビを見るのか?
5時間以上、2時間以上、30分未満など、幾つか選択するんですが、なんとその中に「まったく見ない」という選択肢までありました。
そもそもまったく見ない層はこの番組自体見ていないわけだから、こんな投票に意味はないでしょう。
80年代、90年代のテレビは間違いなく輝いていました。
お笑いも、ドラマも、音楽も、今よりもっとクオリティが高くて層も厚かったんです。
報道に関してだけは無茶な取材やら、過激な演出で、今とは違った意味で問題がありましたが。
だから報道番組に関しては、今も昔も期待なんてしていないし、本当にどうしようもない物だと思っています。
テレビ番組でまともなのはスポーツ中継だけだと思っています。
でもスポーツでさえもどこの国の局ですか?と聞きたくなるような報道もあったりしましたね。
ビートたけしさん曰く、いまのテレビには仕事もお金もないそうです。
社員はリストラにあったり、タレントはそもそも出演させてもらえる番組がなかったり。
テレビ好きな人には申し訳ないけど、すでに崩壊へのカウントダウンは始まっています。
唯一、テレビを盛り上げられる可能性のある電波オークションに関しては、どの局も反対しているようですし。
そもそもテレビ局が使っている電波って、テレビ局の物ではありません。
電波は限りある資源であり、総務省がその使用権を与えているに過ぎません。
国が管理してる資源なんだから、当然税金も使われているわけで、となれば電波オークションをやるのはむしろ当然に思えるんですが・・・・。
このままだと沈むと分かっている泥船。
電波オークションをしないなら、テレビの未来は暗いと思います。

街から消えていく本屋さん

  • 2019.01.14 Monday
  • 13:59

JUGEMテーマ:日常

街から消えていく本屋さんが多いです。
車で走っていて、そういえばここにも前に本屋があったなあと思い出すことがたまにあります。
今はまったく別のお店になっていたり、ひどい時は更地のままです。
今は荒地や空家も増えているから、少なくなっていくのは本屋さんに限った話ではありません。
でも寂しいなと感じます。
よく通った本屋なら尚更です。
そもそも紙の本の価値ってなんなんだろうと考えてしまいます。
パソコンや液晶は目が疲れるから本の方がいいとか、充電なんてしなくても読めるとか、本という媒体そのものが好きなんだとか、色々あるでしょう。
でもどれもピンとくる理由ではないように思います。
紙の本だって目は疲れるし、充電は必要ないけど汚れたり破けたりはあるし、デジタルという媒体で読むのが好きな人もいるでしょう。
色々言われることって、実は個人の好き嫌いの話なんじゃないかと思います。
本の本当の価値は情報にあると思っています。
歴史を振り返ってみても、文字の文化を持たない民族は、文字を持つ民族に侵略されたり滅ぼされたりしています。
いくら優れた技術や文化があっても、文字がなければそれらの継承は難しいです。
それに多くの人が共有することも出来ません。
情報の共有、次世代への継承。
一番良い方法は本を書く、そして読むということだったんでしょう。
でもこれ、逆にも言えます。
情報の共有と継承さえ出来るなら、必ずしも本でなくてはいけないというわけではありません。
もっというなら紙の本である必要性がどこまであるのか?ってことです。
紙の本に比べて電子書籍は売上が低いそうですが、消えていく本屋さんが多いのも事実です。
電子書籍に比べて売れているというだけで、現状ある本屋さんを賄えるほどの売上はないということなんでしょう。
それに電子書籍のおかげで、読書を遠ざかっていた若い人も、少なからず読むようになったということもあるでしょう。
生まれた時からネットがある世代は、当然のようにネットを使いますから、紙の本で知識を仕入れるという常識そのものが成り立たくなっているのかもしれません。
となると電子書籍は売れなくても、ネットそのもので知識を仕入れるわけだから、情報の共有と継承は出来ているということになります。
無論、ただの推測でしかないんですが、ネットの登場によって紙の本の地位が脅かされるようになったのは確かです。
ちなみに私は電子書籍を読みません。
本屋さんに足を運びます。
色んな本が置いてあるあの空間が好きだからです。
それに本屋さんに行けば、興味のない本でも手に取ることがありますから、知識の幅も広がります。
ネットに出てくるオススメの記事や動画は、似たようなカテゴリになりがちです。でも本屋さんにはそれがありません。
しかしそういった理由さえも、私の個人的な好き嫌いであって、紙の本を後押しする力にはならないことも分かっています。
デジカメが登場した時、ずっとフィルムにこだわり続けるといっていた人たちも、今は当たり前のようにデジカメを使っているでしょう。
あれこれと理由を並べてみても、便利で楽チンな道具の前には勝てません。
本屋さんの未来はどうなるのか?
完全に消えることはないでしょう。
でも今よりももっと数は減っていって、寂しくなってしまうでしょうね。

タイムスリップはできない なぜなら時間は存在しないから

  • 2018.12.24 Monday
  • 19:56

JUGEMテーマ:日常

時間は過去から未来へ流れるもの。
目に見えないだけで、そういった流れが実在していて、私たちは時間の流れの中を生きている。
疑問にすら思わない時間という存在ですが、これにNOを唱える学説があるそうです。
空間や物質と違って、時間を測定する方法はほとんどないことが理由だそうです。
時計の針が動いたからといって、過去から未来へ時間が流れているわけではありません。
あれはただ針が動いたというだけの事実であり、時間を測定する機械ではないからです。
時計を見て時間の経過を感じるのは人間の思考のせいであり、そもそも時間なんてものは人間の生み出した概念でしかないとう説なんだそうです。
過去、現在、未来。
この三つのうち、確かなものは現在だけです。
過去は記憶の中にしかなく、未来は想像の中にしかありません。
どちらも人の頭の中だけに存在しているんです。
時間とは状況や環境の変化を言い表す言葉であり、もしなんの変化もないのなら、時間の流れを感じることはないでしょう。
例えばなにもない真っ白な部屋に閉じ込められたらどうでしょう?
もちろん時計さえもありません。
きっと時間の流れなんてものは感じないでしょうね。
延々と今だけが続いていくような感覚だと思います。
何かが変化するから時間の流れを感じる。
確かなものは現在だけなので、つまりは過去も未来も存在しないということになります。
時間そのものが存在しないんだったら、タイムスリップして過去へ戻ることも無理です。
また光の速度に近いロケットに乗れば、相対性理論によって未来へ行けるそうですが、それもやはり無理ということなんでしょう。
光速に限りなく近いロケットで一年間宇宙旅行をして戻ってくると、地球では6年とか10年くらいの時間が過ぎているそうです。
しかしこれは未来へ行くというよりかは、ロケットの中と地球上では変化の度合いが違うというだけで、未来へタイムスリップとは少し違うような気がします。
時間なんて存在しない。
しかしその学者が正しいのかどうか、それさえも観測のしようがないそうです。
時間がないならタイムスリップなんて無理だし、大昔から今に至るまでずっと今が続いているというだけです。
何十億年か先、地球が滅んだ時でさえも今ということになります。
時間とか宇宙とか、こういった話は壮大すぎて、よく分からない部分が多々あります。
しかし時間が存在しようがしなかろうが、休日が明けたら確実に出勤日はやってくるし、逆に楽しい連休や夏休みもやってきます。
学者の中では重要なテーマでも、私たちが普通に暮らしていく分には、どちらであっても特に問題はないんだろうと思います。

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
2425262728  
<< February 2019 >>

GA

にほんブログ村

selected entries

categories

archives

recent comment

recommend

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM