蘇生の術は不完全に終わった。
カミカゼが命を賭して協力してくれたのに、タカシは完全な状態では生き返らなかった。
蘇生自体は成功したものの、視力と聴力を失っていたのだ。
ムクゲはこれ以上何もしないでと言う。
下手なことをして蘇生の術が解けると、命を懸けたカミカゼが報われないからと・・・。
しかし俺は納得出来なかった。
タカシに孤独の呪いをかけたのは俺だ。その呪いを解く為にここまでやったというのに、不完全な術で終わらせるわけにはいかなかった。
だから走った。どうにかしてタカシの目と耳を取り戻す為、最年長の猫又の元まで走った。
遠くに彼の後ろ姿が見える。トコトコと歩き、公園を出ようとしていた。
「チョンマゲ!!」
大声で呼ぶと、チョンマゲは足を止めた。公園の入り口で尻尾を振り、「どうした?」と訝しそうな顔をする。
「術が不完全なんだ!タカシの目と耳が力を失ってる。」
そう答叫ぶと、チョンマゲはすぐにこちらに走って来た。
「不完全ってどういうことだ?」
「一分を過ぎてしまったから、完全に蘇生出来なかったんだ。」
「ああ・・・・。」
「嘆いてる場合じゃない。どうにかして目と耳を治せないか?」
「そう言われても・・・・・・。」
「頼む!どんな手でもいいんだ!俺の命が必要なら使っていい!」
「命を使う術なんて、蘇生の術くらいのもんだ。それに目と耳を治す術なんてもんもないし・・・・。」
「・・・・・・ダメか?」
「・・・・・いや、もしかしたらという方法ならあるけど・・・・、」
「どんな方法だ!教えてくれ!」
必死に頼みこむと、チョンマゲはぽつりと呟いた。
「変異の術だ。」
「変異の術・・・?あのムクゲが使おうとしていたやつか?」
チョンマゲはコクリと頷き、「とにかく戻ろう」と言った。
俺たちはあの川原まで走り、堤防の下までやって来た。
タカシはまだ俺の名前を叫んでいて、何度も転んだせいで擦り傷だらけになっていた。
「・・・・切ないな、こりゃ見てられない。」
転んでは泣き、泣いては叫ぶタカシを見て、チョンマゲも辛そうにする。
「なあ、その方法とやらを教えてくれ。変異の術を使うって、いったいどうしたらいいんだ?」
「・・・・・なあ八兵衛、お前は光と音を失っても平気か?」
「・・・・・どういうことだ?」
「目と耳を失っても平気かって聞いてるんだ。」
唐突な質問に、思わず答えに窮してしまう。チョンマゲは強い目で睨み、「早く答えるんだ」と言った。
「・・・・それでタカシが助かるなら安いもんだ。」
「じゃあついて来い。」
チョンマゲはタカシの元まで行き、その憐れな姿に「可哀想に・・・」と嘆いた。
「悪かったな、ちゃんと術をかけてやれなくて。」
するとカミカゼの傍に座っていたムクゲが、「私のせいよ」と答えた。
「チョンマゲはただ付き合ってくれただけだから。」
「いやあ、俺の方が年上だから、もっとちゃんと調べておくべきだった。」
二匹はどちらに責任があるかで譲らない。俺は「そんなことよりタカシを」と急かした。
「俺の目と耳を犠牲にすれば治るんだな?」
「多分な。」
「じゃあやってくれ。」
そう言って詰め寄ると、ムクゲが「なんの話?」と首を傾げた。
「八兵衛の目と耳をタカシにやるんだ。ムクゲも手伝ってくれ。」
「何それ?どうやってそんなことするの?」
「変異の術を連携させるんだ。」
「連携?そんなこと出来るの?」
「さあ?でも可能性はある。」
「詳しく説明して。」
ムクゲは真剣な顔で詰め寄る。チョンマゲはコクリと頷いてから説明した。
「まず俺が八兵衛の目と耳に変異の術をかける。それと同時に、ムクゲがタカシの目と耳に変異の術をかけるんだ。そうすればお互いの術が影響し合って、タカシと八兵衛の目と耳が入れ換わるかもしれない。」
それを聞いたムクゲは、難しい顔で唸った。
「よく分からない。どうして入れ換わるの?」
「変異の術は、変化の術の上位版のようなものなんだ。その姿形を全く別のものに変えて、完全にその形に固定してしまう。中身まで変わるから、種族や機能だって変わってしまう。これはかなり高等な術で、なおかつ難しい。」
「知ってるわ。その術を使って、私は人間になろうとしたんだから。」
「そうだったな。だからまず八兵衛の目と耳に変異の術をかけて、タカシのものに作り変える。」
「うん。」
「でもってそれと同時に、ムクゲがタカシの目と耳を八兵衛のものに作り変える。」
「うん。」
「するとどうなるか?二つの術が影響し合って、お互いの目と耳が入れ換わるかもしれないんだ。」
「だからなんで?」
「・・・・・変異の術には元になるモノが必要だ。何も無い所から変異は起こらない。」
「それは分かる。」
「ならば八兵衛の目と耳をタカシのモノに、そしてタカシの目と耳を八兵衛のモノに、こういう具合に連携して術をかけるとだな、お互いに影響し合って入れ換わりが起こるかもしれないんだ。
なぜなら目の前に変異する対象があるんだから、わざわざ自分のモノを作り変える必要がないだろ?」
「ああ!確かに。でもそれって変異と呼べるの?」
「さあね。でもさっきも言ったけど、変異の術は高等技術なんだ。そういう術って、なるべくシンプルな過程で結果を出そうとする。電気が金属を伝うように、水が低い所へ流れるように、猫又の術も一番シンプルな道を選ぼうとするんだ。だからお互いが目の前の対象に変異しようとしているのなら、入れ換わる可能性は大いにある。」
「なるほど・・・・。その方が簡単に術の結果を得られるからってことね。」
「そういうこと。シンプルイズベスト。高度な術ほど簡単な過程を求めるんだ。そうすることで成功率が高くなるから。」
「それは分かったど、でも変異の術には協力者が要るんじゃ・・・。」
「お互いが協力者だ。」
「お互い・・・?」
「八兵衛とタカシ、それぞれがお互いのことを思いやってる。だから目と耳の交換に異論はないはずだ。八兵衛はタカシの為なら命を懸けるし、タカシだってそんな八兵衛の気持ちを嬉しく思うだろう。なぜならお互いがお互いの気持ちを思いやり、ちゃんと心を通わせているからだ。そういう明確な理由があれば、お互いが協力者になれる。」
「けど他者に変異の術をかけることは可能なの?」
「部分的になら・・・・多分いける。でも保証はない。ないけど・・・やってみる価値はあるだろう。」
二匹は難しい話をしていて、俺を置いてけぼりにしている。
しかし話の大筋は理解できる。要するに俺の目と耳をタカシにくれてやるということだ。そしてタカシの目と耳を俺が引き受ける。
「チョンマゲ、小難しい話はもういい。これ以上タカシを苦しませないでやってくれ・・・。」
タカシはまだ俺の名前を呼んでいる。チョンマゲはそんなあの子の姿を見て「分かった」と頷いた。
「ムクゲ、やるぞ。」
「うん。八兵衛は・・・・、」
「いいさ、覚悟なら出来てる。元々死ぬつもりだったんだからな。」
「分かった。じゃあ・・・・やろうか。」
俺たちはタカシに近づき、チョンマゲが再び眠りの術をかけた。
「一日に何度もかけるとよくないんだけど・・・・まあ仕方ない。我慢してくれよ。」
そう言って尻尾を振ると、タカシは草むらの中に寝転んだ。「八兵衛・・・・八兵衛・・・」と呟きながら、眠りに落ちていく。
「それじゃあ八兵衛、タカシの傍に。」
「ああ。」
俺は眠ったタカシと向かい合った。あどけないその顔に、涙の筋が滲んでいる。
「タカシ・・・・俺の目と耳をくれてやる。だからこの先も絵を描け。俺なんか必要としないくらに、もっと絵を・・・・。」
タカシの顔を目に焼き付ける。この子の顔を見るのは、きっとこれが最後だろうから。
じっとタカシを見つめていると、目の前に尻尾が伸びてきた。ベテランの猫又たちが、俺たちに変異の術を施す。
チョンマゲは俺の目と耳を、ムクゲはタカシの目と耳に触れる。
二匹の尻尾が太くなり、一瞬だけ熱が走る。すると次の瞬間、俺は光と音を失った。
《これじゃ何も分からない。術は成功したのか?》
無音の暗闇の中で不安になっていると、頬に何かが触れた。
《これは・・・・猫の尻尾か?チョンマゲの臭いだな。》
チョンマゲは頬をくすぐり、何かを伝えようとしている。
《なんなんだ?顔の横をずっと撫でているけど・・・・・、》
そう思った時、ふと閃くものがあった。
《ああ、読心の術を使えってことか!》
顔の横には見えない針がある。俺は尻尾でチョンマゲの位置を探り、彼に針を飛ばした。
心の壁に開いた小さな穴から、チョンマゲの声が伝わってくる。
《・・・・もう一度術をかけるから、そのままでいろだって?どうして?》
疑問に思っていると、チョンマゲの声が返ってきた。
《八兵衛、聞こえるか?》
《ああ、聞こえるよ。》
《お互いに読心の術を使えば、こうやって会話出来るんだ。便利だろ?》
《そんなことはどうでもいい。それよりもう一度術をかけるってどういうことだ?まさか失敗したのか?》
《違うよ。術は成功。俺の読み通り、お前らの目と耳は入れ換わった。》
《そうか。そりゃよかった・・・・。》
《でもアレだぞ、今のお前らはかなり不気味だぞ。》
《どうして?》
《だってお前・・・・猫の顔に人間の目と耳をしてるんだからな。タカシはその逆だ。》
《ああ・・・そのまま入れ換わったから。》
《もう一度変異の術をかけて形を変える。なんならそのままでいるか?》
《バカ言え、さっさとやってくれ。》
チョンマゲは《冗談だよ》と笑い、尻尾で俺の顔に触れた。また熱が走り、《終わったぞ》と頭を叩いてきた。
《タカシはどんな具合だ?》
《まだ寝てるよ。でも上手くいったから問題ない。》
《・・・・よかった。ほんとに・・・・よかった・・・・。》
《ムクゲとも話してやれよ。俺のすぐ隣にいるから。》
《そうだな。》
俺は尻尾でムクゲの位置を確認し、見えない針を飛ばした。
するとその途端に激しい悲しみが流れ込んできて、危うく心を塞ぎそうになった。
《八兵衛。》
《ムクゲ・・・・。手伝ってくれてありがとう。》
《ううん、上手くいってよかった。それより私に同情してるでしょ?》
《いいや。ただあまりに強い悲しみを感じたもんだから、ちょっと怯んだ。》
《やっぱりそう簡単には割り切れない。40年も一緒にいたんだもん・・・・。まさかこういう形で最後を迎えるとは思わなかった。》
ムクゲの心が揺れている。心と心で話し合うということは、相手の深い部分まで覗いてしまうことになる。
そこには一種の恥ずかしさ、そして背徳感があった。
《嫌なもんだな、直接心を覗き合うというのは・・・。》
《そうね。でも本心は誤魔化せないから仕方ない。悲しみから解放されるのは時間がかかるだろうけど、でもカミカゼのことは忘れないわ・・・。》
《アイツは立派な猫又だった。本当に尊敬すべき奴さ。》
《その分苦労もしたけどね。だから・・・余計に辛い・・・・。》
ムクゲが泣いている。きっと顔には出していないだろうが、心の中では涙を流していた。
それを感じるのが辛くて、何も言葉を返せなかった。
《同情はしないで。》
《ああ、すまん・・・。》
《タカシ君、まだぐっすり寝てる。運ぶなら今のうちじゃないと。今度目を覚ましたら本当に終わりだから。》
《そうだな。じゃあチョンマゲに運んでもらうか。お前はどうする?》
《カミカゼを弔ってあげる。それが終わったら、またこの町を離れるわ。》
《そうか・・・。元々は人間になる為に町を離れたんだもんな。いつかその願いが叶うことを祈ってるよ。》
《うん、ありがとう。じゃあ・・・・私はこれで。またね八兵衛、元気で。》
そう言い残して、ムクゲの気配が去って行く。途中で《バイバイ、タカシ君》と声がして、完全に気配が消え去った。
《別れは済ませたか?》
《ああ。悪いけどチョンマゲ、タカシを家に送ってやってくれるか?》
《もちろんさ。ついでにお前も家に送ってやるよ。》
《助かるよ。でもその前にタカシに触れさせてくれ。これが最後になるから。》
タカシの匂いはさっきから感じている。この半年の間に何度も嗅いだ、胸に馴染んだ匂いが。
その匂いを頼りに傍まで歩き、そっと手を触れた。
《タカシ・・・・この半年間、お前と一緒にいられて楽しかった。お前を一人にさせない為に始めたことなのに、途中からお前に会うこと自体が楽しみになっていた。たった一つだけ心を残りがあるとすれば、お前が描いていた絵が見られなかったことだ。》
タカシの胸は命の鼓動を刻んでいて、確かに生きているのだと分かる。これから先、一人ではない道を歩く為に。
《お前は俺を描くスペースに困っていたな。右下のちょろっとの部分しか空いていなかった。けど・・・・それでもいいから、俺を描いてほしい。もう会うことは出来ないけど、どうかお前の絵の中に・・・・・。》
タカシの胸からそっと手を離し、あの絵を思い浮かべる。
この半年の間に出会った者たちが、所狭しと描かれていた。
もしあの中に俺が描かれるのなら、タカシの記憶の中に生きられる。
もう会うことはなくても、どうか俺のことは覚えていてほしかった。
《チョンマゲ。》
《ああ、じゃあ帰ろうか。》
人間に化けたチョンマゲに抱えられ、俺たちは家路につく。
呪いから解放されたタカシは、これからきっと幸せな人生を歩くだろう。時には傷つくこともあるだろうけど、もう孤独の中に苦しむことはないと思う。
・・・・いや、思うじゃなくて、そうあってほしい。いつか本当に恋愛出来る人と会えるような、そんな道を歩んでほしい。
チョンマゲの背中から、タカシの穏やかな寝息が聞こえていた。
*
季節の足は早い。
この前まで夏だったのに、今じゃすっかり冷え込んでいる。
明日からは今年最後の寒波が来るらしく、下手をすると正月まで続くらしい。
俺はクッションに寝そべりながらあくびをし、寒さから逃れるように丸まった。
あと三日で今年が終わる。新年を迎える為に、町は随分と忙しくなっているようだ。
今、俺は目が見えない。耳も聞こえない。
しかしだからといって、そこまで不自由しているわけではなかった。
まず猫というのは、人間に比べて遥かに感覚が鋭い。
光と音を失っても、ヒゲを通して空気の振動が伝わるし、鼻を通して臭いが伝わる。
それに加えて、俺には読心の術がある。
コイツを使えば、誰がどこにいるかが手に取るように分かる。
光と音だけが情報を伝えるのではない。むしろ光と音を失うからこそ、他の感覚が磨かれることだってあるのだ。
このヒゲも、鼻も、そして読心の術でさえ、以前とは比べものにならないくらいに鋭くなっている。
だからこの家に誰かが近づこうものなら、すぐに気配を察知することが出来る。
今、ベランダに一匹の猫が来たようだ。
俺はクッションから飛び降り、ベランダまで向かう。
馴染んだ家の中は、目などなくても問題なく歩ける。
トコトコとベランダの出窓までやって来ると、頭の中に《ほ!》と声が響いた。
《よう八兵衛。》
《おうゴンベエ。》
《明日からバカみたいに寒くなるらしいぜ。》
《それは昨日聞いたよ。雪が降るんだって?》
《けっこう積もるらしいぜ。でも雪の中をデートってのもロマンチックだよなあ。》
ゴンベエは嬉しそうに語る。彼の心からハルへの想いが伝わり、その惚気にうんざりした。
《お前らはいつまで経ってもバカップルのままだな。》
《勝手に心を覗くな。》
《仕方ないだろ、そうしないと話せないんだから。》
《はああ・・・・嫌なもんだねえ、心が丸裸って。》
ゴンベエの心から少々嫌味が伝わってくる。確かに彼の言うとおりで、心を覗き合うというは気持ちのいいものじゃない。
しかし今の俺には、これしかコミュニケーションの手段がないのだ。
見えない針でゴンベエの心の壁に穴を空け、ついでに俺の心の壁にも穴を空ける。
そうすることで、心と心で会話をすることが出来る。
目と耳を失った俺は、徹底的に読心の術に磨きをかけ、こうして独自のコミュニケーション能力を手に入れた。
しかしまあ・・・・やっぱり気持ちの良いものではない。
相手が十年来の親友でなければ、こんなふうに心をさらけ出して会話は出来ないだろう。
ゴンベエの惚気はまだ続いていて、幸せの絶頂にいることが窺える。いつか転落しなければいいが・・・・。
《ハルとは上手くいってるのか?》
《もちろんさ!この前のクリスマスなんか、チキンの残りを持って行ってやったんだ。
そうしたら目を潤ませながら喜んでさ。ほとんど骨だけど、気持ちは嬉しい!って。》
《相変わらずバカップルよろしくやってるようだな。でも助かるよ。こうしてたまに話を聞かせてくれて。》
《いやいや、これくらい。》
ゴンベエは嬉しそうに笑う。心の奥から《もっと褒めてくれ》と聞こえるが、それは口には出さないでおこう。
《いくら読心の術が使えても、日々の変化は分からない。ヒゲと鼻を集中させても、今日どんな出来事があったかまでは分からない。だからこうして話しに来てくれて、本当に助かるよ。持つべきものは友だな。》
《いやいやいやいや、まあまあ・・・・そういうこともあるけどさ、うん。》
《で?今日の集会はどうだった?何か変わったことはあったか?》
そう尋ねると、ゴンベエは《ほ!》と唸った。
《あったよ!あったあった!ていうかそれを伝えに来たんだよ。》
《ほう、いったいどんな事があったんだ?》
《タカシのことだよ。》
《タカシの・・・・・、》
それを聞いて、思わず胸が弾んだ。あの夏から今日に至るまで、タカシとは一度も会っていない。いや、会いたくても会えない。
だからいつもこの胸にタカシの顔を思い描いていた。記憶の中に生きるタカシを、何度も何度も掘り起こしていたのだ。
《おお、興奮してるな。》
《勝手に心を覗くな。》
《心を覗かないと話せないじゃないか。》
《まあ・・・・そうだな。で、タカシがどうかしたのか?もちろん良いニュースなんだろうな?》
期待を込めて問いかけると、《喜んで鼻血が出るかもだ》と笑った。
《アイツがずっと描いていた絵があるだろう?ゴリラとか孔雀とか、ムクゲとかチョンマゲが出て来るやつ。》
《ああ、知ってるよ。でもまだ俺が描かれていなかった。》
《完成したんだ。》
《あの絵がか?》
《お前を描いて完成したんだ。しかも一番大きく描いてたぞ。》
《それはウソだな。俺を描くスペースはほんのちょっとしかなかったはずだ。》
少しだけ拗ねてそう言うと、《バカだなあ》と笑われた。
《描くスペースなんていくらでも足せるだろ。》
《どういうことだ?》
《もう一枚画用紙を用意して、それを横にくっ付けたんだよ。》
《・・・・・ああ!その手があったか。》
《絵はキャンバスをはみ出せ!ゴッホの名言だぜ。》
《それは岡本太郎だ。それより・・・・アイツはどう俺を描いた?》
《だから大きくだよ。しかも自分と一緒に。》
《タカシと・・・・・。》
《お前は人間の姿で昼寝をしていて、その隣でタカシが絵を描いてる。なんか広い庭みたいな所でな。》
《・・・・・・・・・・・・。》
《その絵が元々の絵に繋がるような感じになってる。最初に描いていた絵は、絵の中の絵ってことなんだろう。メインは八兵衛とタカシ。あれはそんな風に感じたよ。》
《・・・・・タカシが直接持って来たのか?》
《そうだよ。アイツはしょっちゅう集会所に来てる。》
《そんなのは初めて聞いたぞ。》
《あえて言わなかったんだよ。お前が辛くなるかと思ってな。でも今日はその絵を持って来てた。完成したからお前に見てほしかったんだろうな。》
《・・・・・・・・・・・・。》
《あれは良い絵だった。だから市の子供絵画コンクールに出したら、入賞したんだとよ。今度は金賞だって。》
《・・・・・・・・・・・・。》
《学校でも表彰されたってよ。全校集会で褒められたらしい。》
《・・・・・・・・・・・・。》
《タカシは本当に絵の才能があるのかもな。孤独の呪いも解けて、今じゃ家族と幸せに暮らしてるし、学校もそれなりに楽しんでるみたいだ。》
《・・・・・・・・・・・・。》
《でもまだお前に会いたがってるよ。集会所に来る度に捜してる。見てるこっちが切ないぜ。》
《・・・・・・・・・・・・。》
《でもまあ、そこまで辛そうな顔はしてないから、やっぱり幸せなんだろうな。家族の所に戻って、学校で友達と遊んで、やっぱ一人じゃないってのがいいんだろうな。》
《・・・・・・・・・・・・。》
《でもさ、きっとお前と過ごした時間のことは忘れないと思うぜ。だからまあ・・・それでいいんだよな?》
《・・・・・・・・・・・・。》
《八兵衛。》
《・・・・・・・・・・・・。》
《泣くな。》
《・・・・・・・・・・黙れ。》
ベランダに背中を向け、意味もなく尻尾を振って誤魔化す。
ゴンベエは何も言わず、しばらくそっとしておいてくれた。
《その絵を見たいか?》
《ああ・・・・。》
《この目にちゃんと焼き付けたんだ。心の中に描くから、ちゃんと読み取れよ。》
そう言ってゴンベエは神経を集中させた。その目に焼き付けた絵を、鮮やかに心の中に描いていく。
俺は必死にその絵を読み取った。頭の中にタカシの描いた世界が広がり、あの半年の出来事が映画のようにフラッシュバックしていく。
《な?良い絵だろ?》
《・・・・ああ、良い絵だ。相変わらず背景が雑だがな。でも・・・・良い絵だ。》
《素直に褒めてやれよ。》
タカシの絵は、ゴンベエの心を通して俺に伝わった。
そこには大きく俺とタカシが描かれていて、何度も一緒に過ごしたあの庭をバックにしていた。
《大事にするよ、この絵は。決して忘れない。》
《ほ!伝えに来た甲斐があったってもんだ。》
そう言ってゴンベエは去ろうとする。《またな》と言い残し、気配が遠ざかっていく。
《ゴンベエ。》
《なんだ?》
《・・・いや、孤独じゃないって、ありがたいなと思ってさ。これからも良い友達でいてくれ。》
《ほ!水臭い。またハルと喧嘩したら仲裁を頼むぜ。》
《もちろんだ。ああ!それと・・・・お前資質があるようだぞ。》
《ん?》
《だから猫又になる資質だよ。今年で十三歳だろう?あと七年生きれば、もしかしたら猫又になれるかもな。》
そう伝えると、《ほ・・・ほほ・・・・・》と固まっていた。
《お・・・・俺が猫又に・・・・・?》
《あくまで可能性だ。》
《・・・・・・ほほ!》
《猫又になると長く生きる。それが決していいことだとは限らない。ハルが寿命を迎えた後も、お前は生き続けるんだ。そして下手をすると、何の為に生きているのか分からなくなる。俺がかつて会った柿の木のばあさんは、そのことについて悩んでいたからな。》
《・・・・・・ほほほ!》
《聞いてるか?》
《俺が猫又かあ・・・・・。そうかそうか、いい事を聞いた。こりゃ何がなんでもあと七年生きないとなあ。》
《だから・・・・決していい事ばかりとは限らな・・・・・・、》
《じゃあな八兵衛!これからハルに自慢してくる。恋猫が未来の猫又だなんて、きっと喜ぶに決まってる!》
《おい、だから決して良い事ばかりじゃ・・・・・・・って、行っちまった。話を聞かない奴だ。》
ゴンベエは喜びの感情を振りまき、嬉しそうに去って行く。その心にはハルの顔だけが浮かんでいた。
《お前らしいな。》
親友のおかげで、タカシの絵を見ることが出来た。それは俺が想像していたよりも遥かに良い出来で、思わず見入ってしまう。
青い海の中をドルドルが泳いでいて、海底には柿の木が生えている。その枝には孔雀がとまっていて、和佳子がシャッターを切っていた。
その反対側では黒いドレスを着たムクゲが歌っていて、チョンマゲとあのじいさん、そして若い男が手を叩いて喜んでいた。
背景の塗りは雑だが、それでも色合いは素晴らしい。それに何より、どの登場人物も活き活きとしていた。
そして・・・・継ぎ足された画用紙には、でかでかと俺とタカシが描かれていた。
俺は人間に化け、いつものように昼寝をしている。タカシは庭の石に座り、ペンを動かして絵を描いている。
この半年の間、共に過ごした時間と空間が、色鮮やかにそこに描かれていた。
《本当に良い絵だ。これは家宝に値する。》
心に絵を浮かべながら、踵を返してベランダから離れる。
そして机の上に飛び乗り、再びクッションに丸まった。
明日から寒波が来るらしい。炬燵の中に避難するか、それともストーブの前を陣取るか?
どちらにせよ、寒さから逃れる方法はいくらでもある。なぜなら俺は、一匹で生きているわけではないのだから。
暖を取るなら飼い主に甘えればいいし、寂しくなったら親友が話を聞かせに来てくれる。
それにこの胸には、消えることのない素晴らしい絵が宿っている。
その絵を思い浮かべれば、いつでもタカシに会えるのだから。
さて、明日は炬燵で丸くなるか、ストーブの前を陣取るか。クッションの中で真剣に考える。
寒波を運ぶ風が、机の上の窓を叩いていた。
猫又 八兵衛 -終-
タカシは死んだ・・・・。
孤独の呪いを解く為に、永眠の術をかけて死なせた。
本来ならこの後、蘇生の術で生き返るはずだった、しかしなぜか失敗した。
その原因は、蘇生の術を使う為の条件を満たしていないから。
突然現れたカミカゼは、混乱する俺たちに向かってそう言った。
「・・・・カミカゼ。まったく状況が飲み込めないんだ。蘇生の術は失敗するし、お前の言っている意味も分からない。それに・・・・タカシはどうなってる?死んでからもう一分が過ぎてしまったが・・・・、」
そう言ってタカシの方を見ると、カミカゼの尻尾に包まれていた。
その尻尾は白髪のように色が落ち、パラパラと毛が抜け始めていた。
「タカシはどうなってる・・・・?もう蘇生の術は間に合わないのか?」
そう尋ねると、「まだ間に合う」と答えた。
「俺の尻尾をくれてやってる。時間は延びる。」
「尻尾を・・・・?」
「変化の術だ。尻尾だけ変化させて、このガキの肉の一部にしてやってる。だから多少は時間がもつ。」
「そんなこと出来るのか・・・・?」
「出来る何も、やってなきゃもう手遅れだ。しかしあまり長い時間は持たない。変化の術は所詮まやかしだ。だから早く蘇生の術を使え。」
そう言ってチョンマゲとムクゲを睨み、「さあ」と促した。
ムクゲは複雑な表情で「カミカゼ・・・」と呟き、すぐに首を振った。
「再会の感傷に浸ってる場合じゃないね。すぐに術を施さないと・・・・。でもさ、さっきこう言ってたよね?私たちの術は条件を満たしてないって。それっていったいどういうこと?このままだと何度やっても失敗するってことなの?」
「ああ。蘇生の術には猫又の命が必要だが、誰でもいいってわけじゃない。あまりに蘇生者に近しい者だと失敗するんだ。」
「どうして?」
「考えてもみろ。誰だって自分の大切な者を生き返らせたいと願うだろ?子供を亡くした者、愛しい飼い主を亡くした者、それに唯一無二の親友を亡くした者。そんな奴らは、自分の命と引き換えにでも術を使いたがる。しかしそれを許せば、ポンポンと死者が復活してしまうだろう?そうなれば、自然界の掟を根底から覆すような事態になってしまう。だから蘇生者に近しい者は、自分の命をくれてやることが出来ないのさ。」
「・・・・そうなんだ・・・・。知らなかった・・・・。」
ムクゲは情けなさそうに俯く。するとカミカゼは「仕方ないさ」と呟いた。
「滅多に使う術じゃないからな。意外とこのルールを知らない者は多いんだ。この俺だって、過去に一度だけ目の当たりにしたことがあるから知っていただけだ。」
そう言ってチョンマゲの方を見て、「そっちの猫又が知らないのは問題だがな」とぼやいた。
「300年も生きてんだ。無知は罪だぜ?」
「・・・・面目ない。」
チョンマゲはがっくりと項垂れる。しかしすぐに顔を上げ、「いいのか?」と尋ねた。
「お前は・・・・タカシに命をくれてやると言ったな?」
「ああ。」
「何の関係もない子供なのに、どうしてそこまでする?」
「ただの気紛れだ。だから気が変わらないうちにやれよ。」
「・・・・いや、はいそうですかってわけにはいかない。お前とは古い付き合いだ。せめて理由を聞かせてほしい。」
「早くしないとこのガキは手遅れになるぞ?」
「いよいよとなったら術を掛けさせてもらうよ。でもどうか理由を聞かせてほしい。だって・・・そうじゃないとムクゲが・・・・・、」
そう言ってムクゲの方を見ると、俯いたまま固まっていた。
突然カミカゼと再会して混乱しているだろうに、急に俺の命を使えと言われても、すぐには答えを出せないだろう。
いくら別れた相手とはいえ、40年も連れ添った仲である。ムクゲの心には激しい葛藤が渦巻いているに違いなかった。
だから俺は言った。「どうしても俺の命じゃ無理なのか?」と。カミカゼは「無理だ」と答え、「早くしろ」と二匹を睨んだ。
「そう長い時間はもたないんだ。迷っている暇はない。」
その眼光は鋭く、有無を言わさぬ迫力があった。チョンマゲは「分かったよ・・・」と頷き、ムクゲの肩を叩いた。
「なあムクゲ・・・・納得出来ないかもしれないけど、タカシの命が懸ってるんだ。ここはもう腹を決めよう。」
「・・・・・・・・・・。」
「ムクゲ。」
「・・・・・・一言でいい。」
ムクゲはカミカゼを見据え、「一言だけでいいから、理由を聞かせて」と言った。
「このままじゃ・・・・私は一生モヤモヤを抱えたまま生きることになる。だから・・・これは私の為だと思って聞かせて。」
そう頼みこむと、カミカゼの表情がわずかに変化した。「私の為だと思って」、どうやらその部分に反応したらしく、ムクゲの目を見返して答えた。
「お前を悲しませたくないからだ。」
「・・・・・・・・・・。」
「納得しないか?」
「・・・・うん。でも一言でいいって言ったから、それでい・・・・、」
「俺は散々好き勝手に生きてきた。」
「カミカゼ・・・・?」
「お前と出会う前は、自分のことだけを考えて生きていた。それで満足していたし、これからもそうやって生きるんだろうと思っていた。でもお前と会って、俺は変わった。一人で好き勝手に生きること・・・・それが如何に虚しいものかを知ったんだ。」
「・・・・・・・・・。」
「お前と出会うまで、俺には自分しかなかった。でもお前と出会ってから、お前と過ごす時間が最も大切なものになった。俺はお前と出会う為に生まれて来た。本気でそう思えるくらいに、幸せな時間だった・・・・・。」
カミカゼは淡々と語る。軽い用事でも言い渡すように、抑揚のない口調だった。
しかしその顔は後悔の色が滲んでいて、胸の内で暗い感情を堪えているように感じられた。
「俺は孤独だった・・・・。長くそうやって生きてきたから、そういう生き方が身に付いてしまったんだ。だから・・・・最後の最後まで不器用なままだった。意地を張り、素直になれず、お前が去るのを見送ってしまった・・・・。俺は・・・また孤独に戻ってしまった。もうボスの座を守ることくらいしか、やる事が残されていない。そう思って無為に過ごしていた時に、お前がこの町に戻って来たことを知った。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「ヨリを戻そうなんて都合の良いことを言うつもりはない。しかし出来ることなら、もう一回くらいお前の喜ぶ顔が見たかった。だから・・・・それだけさ。お前の前でカッコをつけたいっていう、最後の意地だ。」
そう言ってカミカゼは微笑んだ。彼が笑う姿を見るなんて初めてで、嬉しいような切ないような気持ちになった。
ムクゲは何も答えず、チョンマゲの方を睨んだ。
「・・・・やろう、蘇生の術。」
「ああ、もうこれ以上引き延ばせない。カミカゼ・・・・・いいな?」
「最初からやれと言っている。早くしろ。」
カミカゼは尻尾をほどき、タカシの傍に寄りそう。そして俺を睨み、「陰から支えてやれ」と言った。
「お前はもうこの術に関わってしまった。だからガキが復活しても会うことは出来ない。」
「分かっている。元々死ぬつもりだったんだ。問題ないよ。」
「いいや、生きている以上は責任がある。このガキが本当に幸せになるまで、陰から見守ってやれ。」
そう言ってまた笑う。俺は「そうするよ」と答えてから、深く頭を下げた。
「ありがとう。タカシの為に・・・・ありがとう・・・・。」
「このガキの為じゃない。」
「分かってる。でも・・・・ありがとう・・・・。」
いくら礼を言っても足りないというのは、まさにこういう事を言うのだろう。
まさかカミカゼのおかげでタカシの命が救われるとは思わなかった。感謝の念だけが胸を満たし、しばらく顔を上げることが出来なかった。
「では・・・・・。」
チョンマゲが合図を出し、ムクゲと共に再度術に取りかかる。
膨らんだ尻尾がタカシとカミカゼを包み、命の移動が始まる。
蘇生の術はあっという間に終わり、二匹の尻尾がほどかれる。
そこには横たわるタカシとカミカゼがいて、命の移動が完了していた。
タカシはまだ寝ているが、その胸は穏やかに上下しており、小さな寝息を立てている。
対してカミカゼの方は、魂が抜けたように脱力し、半目を開けて息絶えていた。
気がつけば俺はタカシに、そしてムクゲはカミカゼの方に駆け寄っていた。
「タカシ!」
そう叫んで頬を叩くと、チョンマゲに「起こすな!」と怒鳴られた。
「目が覚めたらお前と会ってしまう。術をかけた意味がなくなる。」
「あ・・・・ああ・・・・そうだったな・・・・。」
「心配しなくても、もう呪いは解けてるよ。その子は・・・・一人じゃなくなる。」
その言葉に、俺は大きく頷いた。寝息を立てるタカシの顔を見つめながら、「よかったな・・・・」と呟いた。
「もう大丈夫だ。お前は何も背負わなくていい。俺なんかいなくても、一人じゃないんだ。」
孤独の呪いが解けたこと。それはすなわちタカシとの別れを意味する。
しかしそこにあったのは、予想していた感情とは違った。
もう二度と会えない寂しさに襲われると思っていたのに、それを上回る喜びがあったのだ。
タカシは一人じゃない。これから親元に戻り、学校に通い、いつか本当の恋愛が出来る可能性がある。
自閉症を抱えながらの人生は、人より大変かもしれない。それでも孤独の中で死ぬより遥かにいい。
生きていれば、そこには可能性がある。出会い、幸福、夢、全ては生きてこその可能性だ。
だからやっぱり、喜びの方が強い。大声を上げて飛び上がりたいほどに。
しかしそうもいかなかった。俺の隣では、言葉を失くして悲しむ者がいる。
最愛だったはずのパートナーを失い、痛みを押し殺したような顔で佇むムクゲがいる。
かける言葉が見つからず、何も言えずに見つめるしかなかった。
「・・・・・・意地っ張り・・・・・。」
ムクゲは一言だけそう呟き、カミカゼに寄り添った。頬をすり寄せ、目を閉じて匂いをかいでいる。
そして一筋だけ涙を流し、目を閉じたまま天を仰いだ。
「・・・・タカシ君は・・・・?」
「助かったよ。カミカゼのおかげだ。」
「・・・・・よかった。もし失敗したらって・・・・怖くて逃げ出しそうだった・・・・。よかった・・・・。」
ムクゲの感じた恐怖は、きっと俺より何倍も強烈だっただろう。
タカシの蘇生、カミカゼの死、失敗した時の痛みを考えると、最後まで付き合ってくれたことに感謝せざるをえなかった。
「ムクゲ・・・・・ありがとう。」
「いいよ・・・・タカシ君が助かったなら、それでいい・・・・。」
ムクゲはまだ天を仰いでいて、チラリとタカシの方を見た。寝息を立てるその姿に、「よかった・・・」と繰り返す。
「・・・犠牲はあったけど、目的は果たせた。これでタカシは自由だ。」
チョンマゲはそう言って踵を返した。
「八兵衛、お前はタカシを運んでやれ。もう呪いは解けたんだ。家に連れて帰っても問題ないよ。」
「でもムクゲは・・・・・、」
「そっとしておいてやれよ。」
「・・・・分かった。色々と手を貸してくれて助かったよ。ありがとう。」
チョンマゲは尻尾を振り、「またな」と言って去って行った。
俺は後ろを振り返り、タカシの顔を見つめる。そして頬に触れようとした時、急に目を覚ました。
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
タカシの視界に俺が入る。背筋の毛がぞわりと波打ち、思わず後ずさった。
・・・・術が解ける・・・・。せっかくかけた術が・・・・カミカゼの命を犠牲にしてまでかけた術が・・・・解けてしまう。
俺は震えながら後ずさり、草むらの中に座りこんでしまった。
今さら隠れても遅いと分かっているが、それでもタカシの視界から逃れる。
その時ふと気づいた。
《ムクゲ!そこにいたらダメだ!》
ムクゲはまだカミカゼの傍に座っていて、辛そうに見つめている。
タカシはキョロキョロと辺りを見渡し、小さく首を捻っていた。
「八兵衛。」
俺の名前を呼び、辺りを見渡す。するとその声に気づいたムクゲが、ギョッとした顔で引きつった。
「タカシ君・・・・・。」
タカシの視界に自分が入ってしまったことに気づき、俺と同じように後ずさる。
しかし途中で足を止め、じっと睨んでいた。
「ムクゲ!何してる!?」
彼女は何かを見定めるようにタカシを睨んでいる。そしてトコトコと近づき、「タカシ君?」と呼んだ。
しかしタカシは反応しない。「八兵衛!」と叫んで、手をついて立ち上がろうとした。
「八兵衛!八兵衛!」
叫び声は、だんだんと泣き声に変わる。何度も俺の名前を叫び、立ち上がって歩こうとした。
しかしすぐに転んでしまい、また手をついて立ち上がろうとする。その度によろめき、まるで酔っぱらいのように足元がおぼつかない。
「タカシ・・・・どうしたんだ?」
不思議に思って見つめていると、ムクゲが「まずい・・・・」と漏らした。
「タカシ君・・・・目が見えてない・・・・。」
「なんだって?」
「それに耳も聞こえてないわ・・・・。」
「はあ?」
「だって死なないもの!普通なら私たちの姿を見ただけで術が解ける。でもこうして生きてるわ。きっと視力を失ってるのよ。だから私たちに気づかない。それに呼んでも返事をしないから、聴力も失くしてるんだわ・・・・。」
「そんな・・・まさか。」
「だって見てよ!まるで酔っぱらいみたいにフラフラしてる。視力と聴力を失って、周りの状況が掴めないのよ。」
ムクゲの言うとおり、タカシは周りの状況を把握出来ていなかった。
草に足を取られて何度も転び、すぐ近くにいる俺たちにさえ気づかない。
それに「タカシ!」と呼びかけても、まるでこちらを見ようとしなかった。
「なんで・・・・・術は成功したんだろう!?どうして目と耳を失う!」
「・・・・・完璧じゃなかったのかも・・・・。」
「何が!?」
「だから蘇生の術よ!一分以上経ってから術をかけてしまった。カミカゼがなんとか時間を延ばしてくれたけど、でも完璧にはいかなかった。だからこんな事に・・・・。」
「術は不完全にかかってしまった。だから後遺症みたいなものが出てしまったということか・・・・?」
「それしか考えられない。蘇生自体は上手くいったけど、完全には復活出来なかった。一分を越えてしまった皺寄せが、視力と聴力に出てしまったんだわ・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
俺は何も言えずに黙り込んだ。そんなことはないと言いたかったかが、今のタカシを見る限りでは認めざるをえない。
必死に俺の名前を叫び、何度も転んでいる。しかし諦めずに立ち上がり、なんとか俺を捜そうとしていた。
「タカシ!」
見るのが辛くなって走り出す。すると「触れちゃダメ!」と止められた。
「触れたらバレる可能性がある!そうなったら術が解けちゃう!」
「ならどうしたらいい!?このまま放っておくのか?」
「・・・・・辛いけど、もうどうしようもないわ・・・・。私たちが未完全な術をかけてしまったせいで、タカシ君は目と耳を失った。なんとかしてあげたいけど、これ以上関わったら術が解ける可能性がある。」
「そうだけど・・・・、」
「もしタカシ君が死んじゃったら、全てが無駄になってしまう。だから・・・もう何もしないで・・・・・。」
ムクゲはそう言ってカミカゼの亡骸を見つめた。最愛の者を犠牲にしてまで得た結果を、どうしても無駄にしたくないとその目が言っている。
「全ては私の責任よ・・・・・。八兵衛は悪くない。チョンマゲだって、ただ私に付き合ってくれただけ。それにカミカゼまで犠牲にした・・・。何もかも私が悪いの・・・・。全部、全部私が背負うから、これ以上は何もしないで・・・・。」
そう言って項垂れ、俺に頭を寄せてくる。気丈なムクゲがこんなふうにんるなんて、いったいどれほど辛いかが伝わってくる。
でも俺は納得出来なかった。いくら蘇生したとはいえ、こんな結果で満足出来るわけがなかった。
「タカシはようやく孤独の呪いから解放された。だからこれ以上、何も背負わせたくないんだ・・・・・。」
俺はムクゲを置いて走った。
「八兵衛!」
ムクゲの声が追いかけて来るが、それを無視して走った。堤防を駆け上がり、遠くに見える猫又の元まで。
「チョンマゲ!!」
大声で呼ぶと、不思議そうな顔でこちらを振り返った。
- 2015.01.03 Saturday
- 09:22
釣りをした翌日、俺たちは三人で海に向かった。
ほんの近い場所なのに、タカシの要望で車に乗って行った。
「八兵衛も車くらい運転出来ないとね。」
ムクゲはそう言って笑い、ビーチに座って砂浜を眺めた。
「なんかさ・・・・水着ってどんどん派手になっていくねえ。ほんの50年くらい前までは、女の人が太ももを見せただけでも大騒ぎだったのに。」
「時代ってやつさ。ムクゲは泳がないのか?水着に変化してないけど?」
「あ、見たい?」
「違う。せっかく海へ来たんだから、泳がないのかと聞いているだけだ。」
「もう海なんて腐るほど泳いだもん。眺めてるだけで充分。それに露出の多い恰好って好きじゃないし。」
「可笑しなもんだよな。猫の時は何とも思わないのに、人間に化けると裸が恥ずかしくなる。」
「人間社会の通念が身に付くからね。そういう八兵衛は、最近まで裸に化けてたじゃない?」
「そうだな・・・・。服を再現出来ないってのもあったけど、なんだか考え方が変わっちまった。今じゃ裸で歩くなんて無理だよ。」
「そういうもんよ、社会の通念って。みんな裸で暮らし始めたら、誰も恥ずかしいと思わなくなるわ。」
ムクゲはまた砂浜を眺め、「昨日の釣りはどうだった?」と尋ねた。
「帰って来てから何にも答えてくれなたっけど、何かあった?」
そう言って意地悪そうに笑い、近くで遊ぶタカシを見つめた。
「男同士の会話でもしてきた?」
「まあそんなところだ。」
「そう。で・・・・・決心は固まった?」
「ああ、タカシは俺とれんあいするそうだ。」
「それ前から言ってるじゃない。」
「お前ともれんあいするそうだ。」
「ほんとに?」
「そう言っていた。どうやらかなり好かれているらしい。」
それを聞いたムクゲは嬉しそうに微笑み、「タカシ君」と呼んだ。
「私ともれんあいしてくれるの?」
「問題ないです。」
「ああ・・・・そういうのはちゃんと言ってよ!後でかき氷買ってあげる!んん〜!」
ムクゲはニコニコと笑いながら、タカシの頬を撫で回した。そしてこちらを振り返って、「決心したってことでいいのね?」と睨んだ。
「もうそれしかないだろう。迷っている間にも、孤独の呪いはどんどん進んでいくんだ。現に・・・・お前は帰ろうとしていただろう?」
「・・・・そうだね。なんか急に心が冷めて来て、このまま帰っちゃってもいいかなあって・・・・。」
「宿に戻るのがもう少し遅かったら、きっとお前は帰っていた。危ないところだった。」
「うん・・・・。ならモタモタしていられないね。早くチョンマゲに知らせないと。」
「そうだな・・・。あんまり待たせたら悪い。」
チョンマゲはずっと俺の決心が固まるのを待ってくれている。
優柔不断に決めかねている俺を見かねて、「少しこの町から離れたらどうだ?」と言ってくれたのだ。
いつもと違う場所に行って考えれば、頭がすっきりして答えが出やすくなるだろうと。
チョンマゲの言うとおり、ここへ来てよかった。
あのまま町にいたら、まだ決心は固まっていなかったかもしれない。
「さすがは最年長の猫又、良いアドバイスだった。」
その日はうんと海で遊び、タカシは満足していた。
ムクゲにかき氷を買ってもらい、焼きそばも一緒に平らげて腹が大きくなっていた。
そして海から上がってすぐに寝てしまった。
「今日は楽しい一日だったな、タカシ。」
眠るタカシの頬をつつき、青い海を後にする。
宿に戻ってチェックアウトを済ませ、ムクゲの運転で町まで戻って来た。
そしてコンサートの喫茶店のマスターに車を返し、すぐに集会所へ向かった。
電車に揺られ、窓の外に流れるカシミヤ町を睨む。
「一緒にプラネタリウムを見ることは、もう二度とないんだな。」
ぽつりと呟くと、タカシを負ぶったムクゲが肩を叩いてきた。
「本当なら代わってあげたい。でも・・・・・、」
「いいさ、悲しまないでくれ。猫又になって10年、色々と楽しかった。」
「ウソ言うんじゃないわよ。大した経験してないクセに・・・・・。」
「そんなことないさ。本来の寿命より長く生きたんだ。その分楽しかったよ。」
「私はアンタの10倍は生きてる。なのに先に死んじゃうことになるなんて・・・・。」
「うん、まあ・・・・そういうこともある。」
電車は駅に着き、乗客に揉まれながらホームへ降りる。
そのせいでタカシが目を覚まし、「ん」とあくびをした。
「なあタカシ。海は楽しかったか?」
「八兵衛とれんあいします。」
「ムクゲは?」
「れんあいします。」
「だとさ。直接聞けてよかったな。」
そう言って笑いかけると、ムクゲは首を振った。
「やめてよ・・・・そういうの・・・・。」
「どうして?」
「だって・・・・辛いじゃない・・・。」
「・・・・そうだな。術が終われば、もうタカシとは・・・・・、」
蘇生の術には多くの制約がある。そのうちの一つは、術に関わった猫又は蘇生者に会えなくなるということだ。
俺は死ぬからどっちにしろ会えない。しかしムクゲも会えなくなる。
タカシに会ったら最後、蘇生の術が解けて死んでしまうから。
だから今日が最後になる。三人でこうして歩く日は、二度と訪れない。
寂しいのは誰もが同じ。だから俺もムクゲも口を開かなかった。
タカシだけが「れんあいします」と繰り返し、何かに怯えるように震えていた。
集会所に来ると、チョンマゲがぽつりと座っていた。
俺たちに気づくなり「よう!」と尻尾を上げ、「決心はついたか?」と尋ねてきた。
「ああ、おかげさんでね。」
「ほら、俺のアドバイス通りにしてよかっただろう?ちょっと見直したろう?」
「見直すも何も、お前のことはすごい奴だと思ってるよ。」
「そりゃありがたいね。」
チョンマゲは満足そうに頷き、「で、戻って来たってことはやるんだな?」と睨んだ。
「ああ、決心したよ。・・・・やってくれ。」
そう言ってムクゲに目配せすると、ためらいがちに頷いた。
「タカシ君、ちょっと下りようか。」
「嫌です。」
「どうして?」
「・・・・・・・・。」
「八兵衛、この子何かを感じ取ってるよ・・・・。」
「分かってる。」
俺はタカシを抱き上げ、そっと下ろした。
「れんあいします。」
「そうだな。」
「れんあいします。」
「うん。」
「八兵衛とムクゲとれんあいします。」
「・・・・いいや、俺もムクゲも、お前とはれんあい出来ないんだ。だってお前は人間だからな。」
「猫です。」
「違う。お前は人間だ。だからちゃんと人間に育ててもらわないといけない。それがお前の幸せなんだ。」
「問題ないです。」
「あるよ。このままじゃダメなんだ。」
タカシはブルブルと震え、今にも泣き出しそうになっている。
俺のズボンを必死に掴み、潤んだ瞳で見上げてくる。
「八兵衛とれんあいします。」
「・・・・タカシ、気持ちは分かるが、困らせないでくれ。」
「れんあいします。」
「チョンマゲ、気にせずにやってくれ。」
タカシから離れ、「そこでじっとしてろ」と睨んだ。
チョンマゲがタカシに近づき、尻尾を振って眠りの術を掛けようとしている。
強烈な睡魔がタカシを遅い、目を閉じてその場に座る。そしてこのまま眠るだろうと思った時、突然大声で叫んだ。
「れんあいするうううううう!!」
そう叫んで立ち上がり、俺の足にしがみ付いた。
「八兵衛とれんあいするうううう!!」
「タカシ・・・・。」
「れんあいするうううう!れんあいするううううう!!」
とても子供とは思えない力で抱きつき、何度も何度も叫ぶ。
強烈な睡魔が襲っているだろうに、必死に目を開けて俺を睨んでいる。
「八兵衛ええええええええ!!あああああああああ!!」
あまりに大声で泣くので、牛乳屋から人が出て来る。
訝しそうな目で、「あんたら何やってるの・・・・」と睨まれた。
「八兵衛えええええええ!!!」
「・・・・・・・・。」
俺はタカシを抱き上げ、そのまま走り出した。
「ムクゲ、チョンマゲ!」
そう叫んで「ついて来い」と言うと、後を追って来た。
このままあの場所にいたら警察を呼ばれるだろう。というより、もう呼んでいるかもしれない。
だから走った。泣き喚くタカシを抱いて、誰もいない場所へと走った。
そして公園の向こうにある河原まで来て、堤防の下の草むらへと下りた。
「タカシ・・・・・ごめん・・・・ごめんな・・・。」
草むらの中に膝をつき、泣きじゃくるタカシを抱きしめる。
「俺だって離れたくない!でも仕方ないんだよ!このままだとお前は死ぬから!だから仕方ないんだよ!」
「ああああああああ!!」
「悲しいのはお前だけじゃない!俺も一緒なんだ!でもお前には生きていてほしいから!仕方ないんだよ!!」
「れんあいするうううううう!ああああああああん!!」
タカシは泣き止まない。俺の背中に手を回し、痛いほど指を立ててくる。
そんな姿を見たムクゲは、辛そうに顔を逸らした。
「タカシ!一人じゃないから!お前を一人にさせない為にやるんだ!」
「ああああああああ!!」
「俺がいなくなっても寂しくないから!ムクゲやチョンマゲと会えなくなっても寂しくないから!」
「八兵衛ええええええああああああああ!!」
「大丈夫・・・寂しくない・・・・一人じゃないから。お前の家族も戻って来てくれる。お父さんもお母さんも、じいさんとばあさんも、お前を大事にしてくれる。それにいつかきっと、本当に恋愛したい人にだって出会える。ハルとゴンベエみたいに、バカみたいにイチャつく人に出会える。」
「八兵衛がいいいいいいいい!八兵衛がいいいいいいい!!」
タカシは泣き止まない。喉が潰れそうなほど叫び、見るに耐えかねたムクゲが抱きしめた。
「大丈夫・・・・八兵衛の言うとおり、一人になんかならないから・・・・。ねえタカシ君、大丈夫だよ・・・・。」
俺とムクゲに抱かれても、タカシは一向に泣き止まない。
嫌々という風に首を振り、あらん限りの声で泣き喚いた。
するとチョンマゲが「見ちゃいられない・・・」と呟き、また尻尾を振った。
その瞬間、タカシの声が弱くなった。
「八兵衛・・・・・・八兵衛・・・・・・。」
そう囁きながら目を閉じ、ゆっくりと眠っていった。
「これ以上泣かれたら決心が揺らぐだろ?早いところやろう。」
チョンマゲは静かに、しかし力強い口調で言った。眠ったタカシの傍に立ち、「やるぞ?」と睨んでくる。
「・・・・・・・・・・。」
「八兵衛。」
「・・・・・ああ、分かってる。」
正直なところ、まだ迷いがある。タカシが泣き喚いたせいで、余計に迷いが強くなってきた。
しかしもう迷っている時ではない。俺は「頼む」と頷き、タカシから離れた。
「では・・・・・。」
チョンマゲは目を閉じ、ユラユラと尻尾を振る。そしてその尻尾を何倍にも大きく膨らませ、タカシに巻きつけた。
永眠の術・・・・。眠った人間を死へと誘う、呪われた術。
その術が、今まさにタカシの命を奪った。
尻尾からほどかれたタカシは、まったく息をせずに横たわっていた。
「ムクゲ。」
「うん・・・・。」
ムクゲは猫に戻り、タカシを挟んでチョンマゲと向かい合った。
二匹のベテランの猫又が、すぐに蘇生の術に取りかかる。
先ほどと同じように尻尾を膨らませ、タカシを取り囲んだ。
「八兵衛、中へ。」
「ああ。」
俺も猫に戻り、タカシの傍に立つ。この術が終わった後、俺はもう生きてはいない。
こうしてタカシに触れるのも、これが最後だ。
「タカシ・・・・一人じゃない。俺の命が、いつだってお前の傍にいるからな。」
タカシの頬を舐め、寄りそうように横たわる。
二つの尻尾が俺たちを包み、蘇生の術が開始された。
蘇生の術とは、死者に猫又の命を与えることである。俺のこの命が、タカシの亡骸へと移されることなのだ。
尻尾で包まれた暗闇の中で、命の移動が始まる。
眠るように力が抜けていき、俺の肉体から命が奪われていく・・・・・・はずだった。
「・・・・・・なんだ?」
俺たちを包んでいた尻尾が突然ほどかれる。何事かと思って立ち上がると、二匹は「え?」と呟いた。
「どうした?早くやってくれ。でないと一分が過ぎてしまう。」
焦りながらそう言うと、チョンマゲは首を捻った。
「いや、術は施したぞ。」
「なんだって?でも俺は生きてるぞ。」
「・・・・・・失敗・・・・かもしれない。」
「はあ?」
「条件は整えた。でも上手くいかない・・・・。なぜか分からないけど、命が移動してないんだ。」
「そんな馬鹿な・・・・。じゃあタカシはどうなる!?」
俺は後ろに横たわるタカシを見つめた。
「タカシ・・・・。」
近づいてみると、タカシは死んだままだった。呼吸が止まり、瞼を開いても瞳孔が反応しない。
タカシが死んでから、もう三十秒は経っている。俺は「もう一度!!」と叫んだ。
「早くするんだ!手遅れになる!」
チョンマゲは慌てて尻尾で包み、ムクゲは青ざめたまま固まっている。
「おいムクゲ!」
「・・・・・え?ああ・・・・。」
「もう一度だ!早くしてくれ!」
予想外の出来事に、誰もがパニックになっている。しかし混乱している場合ではなかった。
もう術を使うのに残された時間は少ない。
二匹は再度尻尾で包み、蘇生の術を施す。しかし結果は同じで、命の移動は始まらなかった。
「そんな・・・・どうして!?」
ムクゲが青ざめたまま叫ぶ。「もう一度!」と言って尻尾で包むが、チョンマゲは「無理だ・・・」と止めた。
「なんで!?早くしないと・・・・、」
「ダメなんだ。二度もやって上手くいかないってことは、条件を満たしていないってことなんだ。」
「そんなことない!ちゃんと条件は整えて・・・・・、」
「喧嘩してる場合か!!もう時間がない!」
俺がそう叫んだ時、背後の草むらでガサガサと音がした。
何かと思って振り向くと、草の陰から大きな黒い猫が現れた。
「か・・・カミカゼ・・・・、」
「どけ。」
そう言って俺を押しのけ、尻尾を太くしてタカシを包む。
すると尻尾の毛が見る見るうちに白くなり、白髪のように抜け落ちていった。
「これで多少は時間が稼げる。」
「・・・・え?」
「え?じゃない。早くしないとこのガキは死ぬ。」
カミカゼはドスの利いた声で言い、俺たちを見渡した。
「お前らの術は条件を満たしていない。だから俺が命をくれてやる。もう一度蘇生の術を使え。」
「・・・・・・・・・。」
「早くしろ。気が変わっても知らんぞ。」
術の失敗、突然のカミカゼの登場。予想もしないことが立て続けに起こり、混乱はますます強まる。
誰もが状況を理解出来ない中、カミカゼだけが冷静な目で睨んでいた。
七月の下旬、俺とタカシは遠く離れた山間の町に来ていた。
田んぼに水が張られ、その中をオタマジャクシが泳いでいる。
他にもカブエトビやホウネンエビが泳ぎ、タカシは興味津々に手を伸ばした。
「汚れるぞ。」
「ん。」
「おお、オタマジャクシを捕まえたか。何かに入れて持って帰るか?」
「んん。」
「戻してやるのか?」
「カエルになります。」
「よく知ってるな。」
「理科の先生が言っていました。図鑑にも載っていました。」
「そうだ。オタマジャクシはカエルになるんだ。そして大人になったら、また卵を産みにくる。」
タカシは田んぼの水で手を洗い、ズボンでゴシゴシと拭く。
するとコンビニから戻って来たムクゲが、「ああ、ダメダメ」と注意した。
「ほら、ハンカチ。ズボン汚れちゃうから。」
そういってハンカチで手を拭わせ、「はい」とお茶を差し出した。
「暑いからちゃんと水分を補給しないとね。」
「ジュースがいいです。」
「それはまた後で。」
ムクゲは子供の扱いに慣れていた。渋るタカシにあっさりとお茶を飲ませている。
そして俺の方にも「飲む?」と尋ねた。
「いや、今はいい。」
「喉乾くよ?」
「ずっと乾きっぱなしさ。この前のコンサート以来な。」
「どういう意味?」
「・・・・あの歌の後、お前の言う事情とやらを聞いてからだよ。食欲さえない。」
「だから言ったじゃない。聞かない方がいいって思うかもって。」
「でも聞かないわけにはいかなかった。」
「そうよ。だってこれはタカシ君と八兵衛に関することだもん。見て見ぬふりは出来ないわ。」
ムクゲは被っていた大きな帽子を取り、タカシに「えい!」と被せた。
「楽しい?」
「ん!」
「いいもんだよね、田舎って。まあ私たちの町も田舎だけどさ。ここはレベルが違うよね。」
そう言ってムクゲは周りを見渡す。
辺り一面田んぼだらけで、遠くに山々が並んでいる。
畦道はどこまでも続き、少し離れた所にはポツポツと民家が並んでいた。
「タカシ君はこういう場所好き?」
「都会がいいです。」
「そっかあ。都会って行ったことある?」
「ないです。行ってみたいです。」
「うんうん、じゃあ今度は大阪か東京へ遊びに行こう。今回はここで我慢ね。」
「問題ないです。」
タカシとムクゲは手を繋ぎ、草の茂った畦道を歩いて行く。
ここはタカシの街から遠く離れた場所にある田舎町。
車で三時間も掛かる場所で、四日前からここへ来ている。
今のタカシに帰る家はない。なぜなら、じいさんとばあさんがタカシを捨てたからだ。
あの二人はゆっくりと余生を送りたいらしく、自分の息子にタカシを引き取れと言った。
もうこれ以上面倒は見れない。元はと言えばアンタが離婚したのが悪いんだから、自分でどうにかしろと言って。
じいさんとばあさんがそんなことを言い出すのには理由があった。
それはタカシにかかった孤独の呪いのせいである。
じいさんもばあさんも、今まではそれなりにタカシを可愛がっていた。
世間で言われるような、目に入れても痛くないというような可愛がり方ではなかったが、それでも大切にしていたのだ。
それなのに突然態度が一変。タカシに対して何の愛情も見せなくなった。
引き取れと言われた息子・・・、すなわちタカシの父もそれを拒否した。
母の方は行方をくらましているので、連絡を取ることさえ出来ない。
呪いはタカシの周りから人間を遠ざけ、確実に孤独へ向かわせようとしている。
俺が傍にいる限りは、完全な孤独にはならない。しかし呪いを解かなければ、タカシはまともな生活を送れなくなる。
家族を失くし、住む家も失くし、学校へも行けなくなって、やがて生きる気力を失うだろう。
そうならない為にも、どうにかして孤独の呪いを解かなければいけない。
その為の強い味方が、今目の前にいる。そう・・・ムクゲだ。
彼女が戻って来た事情というのは、タカシの呪いを解く為である。
俺は二人の後ろを歩きながら、あのコンサートの夜のことを思い出していた。
*
ムクゲの歌は素晴らしかった。
アンダー・ザ・ブリッジという曲に始まり、それから4曲も歌ってくれた。
客からアンコールの合唱が起き、最後になぜか『津軽海峡冬景色』を歌い上げた。
どの歌も素晴らしく、客たちは満足していた。
あの若い男はしきりに連絡先を聞こうとしていたが、キッパリと断られて撃沈。
歌には感動したものの、男としては落ち込んで帰って行った。
じいさんは感動したまま震えっぱなしで、「ありがとう!ありがとう!」の連発。
もはや誰に感謝しているのか分からない状態になり、最後にムクゲと握手をして泣いていた。
「今日は良い日、ほんと良い日。音楽好きでよかった・・・・・。」
ムクゲは「また歌う機会があったら聴きに来て下さいね」と言い、じいさんは「行く行く!」と頷き、タダでベルトをあげていた。
そして俺にも「これ・・・」とベルトを渡し、「大人用だからサイズは合うよ」と笑った。
「じいさん、良い夜になってよかったな。」
「ほんとに。ありがとう、ありがとう。」
そう言って手を合わせ、俺とムクゲに手を振って帰って行った。
マスターは「今日はお代はいいです」と気前よく言った。
「危うくライブの中止で皆さんに迷惑をかけるところでした。それがこんなにお客さんに満足してもらったんだから、こっちがギャラを払いたいくらいです。」
するとチョンマゲが「貰えるなら貰っとこうかな」と手を出し、ムクゲにピシャリと叩かれていた。
「素人の歌でお金なんか貰えないわよ。」
「でもくれるって言ってるんだぞ?」
「チョンマ・・・、荒川さんに言ったんじゃなくて、私に言ったのよ。」
ムクゲは「ギャラなんていいです。みんなの前で歌わせてくれただけで大満足」と笑い、俺たちと共に喫茶店を後にした。
店を出て行く途中、明らかに客が増えていた。
きっとムクゲの歌声を聴きつけて、ホールにいた他の客がやって来たのだろう。
音楽に興味はないが、音楽に人を惹きつける力があることは分かった。
それに何よりタカシが喜んでいて、ずっとムクゲの手を握りっぱなしだった。
《タカシが喜ぶならそれでいい。》
ホールを出た俺たちは、薄暗くなり始めた駐車場を歩いた。
以前に比べると随分陽が高くなっていて、もうじき夏なのだなと実感する。
「なあムクゲ。そろそろ聞かせてもらうぞ。お前が戻って来た事情とやらを。」
「もちろん。ここじゃなんだから、どっか他の場所で。」
ムクゲは歩き出し、道路を渡って「早く」と手招きした。
俺たちは彼女の後をついて行き、星と光の館の前までやって来た。
「ここの庭でいい?」
そう言って暗くなった庭を指さす。入口にはポールに鎖が掛かっていたが、「いいんじゃないか。」と答えた。
暗い庭に足を踏み入れると、ムクゲは「ドレスのままだった」と裾を掴んだ。そして変化の術を使い、普通の服に戻ってから自販機に向かった。
「どうした?」
「タカシ君にジュース。みんなも何か飲む?」
「いや、俺はいい。」
「チョンマゲは?」
「お汁粉ある?」
「ええっと・・・・ない。コーンポタージュならあるよ。」
「じゃあそれでいい。」
ムクゲは飲み物を買い、みんなに手渡してからベンチに座った。
タカシはさっそくジュースを飲み、いつものように「ぷはあ!」と唸る。
「タカシ君はこっち。」
そう言って膝にタカシを座らせ、「八兵衛も」と隣を叩いた。
俺は腰を下ろしながら、「さっそく事情とやらを聞かせてくれ」と尋ねた。
ムクゲは小さく頷き、タカシのつむじを見つめながら語った。
彼女の語る事情とやらは、聞き終えるまでに時間を要した。
それは慎重に言葉を選んだせいであり、タカシを不安にさせまいとする配慮だった。
また俺の方も何度か驚かされ、度々話を遮って質問を繰り返した。
話を聞き終える頃には、庭の時計が九時前を指していた。
タカシはウトウトとし始め、ムクゲに抱かれたまま眠ってしまった。
俺は暗い庭を見つめ、ムクゲの話を整理していた。
ムクゲの話は大きくまとめると三つになる。
一つ、このままではもうじきタカシが死ぬこと。
二つ、それを阻止する為に自分が戻ってきたこと。
三つ、タカシの死を防ぐ方法。
まず一つ目だが、これはタカシに孤独の呪いがかかっているからである。
タカシの呪いは日増しに強くなり、これから本格的に孤独に追いやられるだろうとのことだった。
引き取ってくれた祖父母からも見放され、学校ではひどいイジメに遭い、実の両親も彼を引き取ることを拒否する未来が待っている。
もちろん俺は傍にいてやるつもりだが、しかし俺だけでは限界がある。
タカシは人間の子供であり、この子が生きていく為には、やはり人間の協力が必要なのだ。
そして二つ目。ムクゲは完全な人間になる為にこの町を離れたのだが、ある者との出会いでこの町に戻って来ることに決めた。
それはモミアゲとヘチョコである。
この町を去ったあの二匹は、連れ立って新しい住処を探していたらしい。
そこでたまたまムクゲと出会い、この町を離れた理由を話した。それを聞いたムクゲは、ある疑惑を抱いた。
何十年も同じ町に住んでいた猫又が、たった半年の間に三匹も去ってしまった。
これは通常では考えにくい出来事で、何かしらの力が働いているのではないか?
その答えとして浮かんだのが、タカシにかかった孤独の呪いである。
ムクゲ曰く、孤独の呪いというのは伝播するらしい。
つまり孤独の呪いがかかったタカシの傍にいると、俺にまでその影響が出てしまうのだ。
そしてその影響のせいで、短い期間の間に三匹の猫又が去ってしまった。
このままではいずれ、ゴンベエとハル、それにチョンマゲまで去ってしまうという。
そして最終的には、俺とタカシまで離れ離れになってしまうそうだ。
そうなった時、タカシは死ぬ。だからそれを阻止する為に戻って来たという。
そして最後に三つめだが、これを聞いた時、俺はとてもではないが冷静ではいられなかった。
タカシの呪いを解くことは可能だが、その為には猫又の命が必要だというのだ。
孤独の呪いは、猫又の正体を知った人間がかかる。
それは死ぬまで続き、途中で解除することは出来ない。
だからどうやって呪いを解くかというと、タカシが一度死ぬしかないのだ。
そしてタカシが死んだその瞬間に、『蘇生の術』というのを使う。
これはその名の通り、死者を生き返らせる術である。
『蘇生の術』は猫又の術の中でも最上位の術であり、なおかつ使用するにはいくつかの条件がある。
まず一つ、死んでから一分以内に術を使うこと。二つ、二匹以上の猫又の力を必要とすること。
三つ、術は100年を超えた猫又だけが使えること。四つ、猫又の命を一つ必要とすること。
そして最後の五つ目、『蘇生の術』に関わった全ての猫又は、決して蘇生者に会ってはならないということ。
もし会ってしまうと、その途端に『蘇生の術』は解除され、蘇生者は死ぬ。
かなり厄介な条件だが、『蘇生の術』の効果を考えれば当たり前である。
死者を復活させるなど、自然界の掟に楯突くことであり、ましてやポンポン使えば世の中の道理が崩壊してしまう。
孤独の呪いは、かかった者が死んだ時点で解ける。ならばその瞬間を狙って、『蘇生の術』を施すしかないのだ。
これでは呪いを解いたとは言えないと思うのだが、ムクゲ曰く、死んだ後も続く呪いがあるので、これはこれで解除に成功ということらしい。
俺は暗い庭を睨んだまま、「これしか方法がないのか?」と尋ねた。
「そのやり方だと、タカシは一度死なないといけない。そんなのは危険すぎる。もし術が失敗したらどうするつもりだ?」
「危険は承知の上よ。でもこれしか方法がないの。」
「しかし・・・・、」
「このままだとタカシ君は確実に死ぬ。それを放っておくつもり?」
「・・・・・・いや。」
「なら蘇生の術を使うしかない。その為にチョンマゲと会ってたんだから。」
そう言ってニコリとウィンクを飛ばすと、チョンマゲは「まあね」と肩を竦めた。
「蘇生の術には二匹以上の猫又の力がいる。それでもって100歳を超えてないといけない。だったらその条件を満たすのは、僕とムクゲだけなんだ。」
「そういうこと。だからチョンマゲに相談してたのよ。蘇生の術を手伝ってくれないかって。」
二人は顔を見合わせ、また肩を竦める。
「話は分かったが、どうして俺を避けていた。そんなに大事な話なら、真っ先に俺に言うべきじゃないのか?」
「そうよね・・・・タカシ君に関することなんだから、本来なら八兵衛に最初に言うべきだった。
でも・・・・勇気が要ることだったのよ。アンタに話すまでに、私は決断をしなきゃいけなかったから。」
「決断?」
「ええ。さっきも言ったでしょ、蘇生の術には猫又の命が必要だって。だからね・・・・その・・・・・、」
「気を使わなくていい。ここまで来たならハッキリ言ってくれ。」
ムクゲが何を言おうとしているのか、俺には分かった。だから真っ直ぐに目を見つめ、その言葉を受け止めるつもりだった。
「・・・・あのさ、八兵衛。悪いんだけど、アンタの命をタカシ君にあげてくれない?」
「そう言うと思っていた。」
「ごめんね・・・・。本当なら私の命をあげたいんだけど、そうもいかない。術を使う者は命をあげることが出来ないから。」
「そりゃあそうだろう。死んだら術が使えない。」
「・・・・だから私とチョンマゲは無理。それにヘチョコとモミアゲはもういないし、残るのはカミカゼとアンタだけ。」
「なら俺で決まりじゃないか。タカシは俺のせいで呪いにかかったんだ。他の奴らを犠牲にするわけにはいかない。」
「そうだね・・・・。だからまあ・・・・その・・・・・、」
「いいさ。」
「いや、そんな即答しなくても・・・・、」
「迷う必要なんてない。元々俺のせいでかかった呪いだ。拒否することは許されない。」
「・・・・・いいの?死ぬのに・・・・。」
「いい。これは呪いをかけた責任だけじゃなくて、俺の願望でもある。
タカシには生きていてもらいたい。ずっと一緒に過ごすうちに、その子の幸せを願うようになってしまったから。」
俺は眠ったタカシの顔を見つめ、そっと指でつついた。
柔らかな肌がへこみ、すぐに元に戻る。何度も指でつつきながら、「生かしてやるからな」と呟いた。
「お前は死なせない。俺の命一つで助かるなら安いもんさ。」
何も知らないタカシはスヤスヤと眠っている。
俺はムクゲの腕からこの子を抱き上げ、「今日は帰ろう」と言った。
暗い庭を抜け、入口のポールを越えて外に出る。
ムクゲとチョンマゲは何も言わずについて来て、気まずそうに俺を見つめていた。
「そんな目で見るな。」
「じゃあどんな目をしたらいいの?・・・・仲間が死ぬのに・・・・。」
「タカシの為だ、仕方ない。」
「けど・・・・、」
「その為に戻って来たんだろう?」
「・・・そうね。」
「これからのことはじっくり考えよう。タカシはもう疲れてる。また明日集会所で。」
俺は真っ直ぐにタカシの家まで向かった。後ろを振り向くと二人はいなくなっていて、嫌な余韻だけが胸に残される。
「・・・・・・・・・・。」
しばらく佇み、また歩き出す。タカシを抱いたまま、湿った空気の中を帰って行った。
*
あの日のことを思い出しながら歩いていると、山間にある国民宿舎に着いた。
こんな田舎でもパラパラと客がいて、宿舎に続く道から降りて来る。
子供が浮き輪を抱えて楽しそうに走り、その後ろを親がついて行く。
タカシは「ん!ん!」と浮き輪を指し、遠くに見える海を仰いだ。
「んん!」
「海は明日行こうね。今日は宿でゆっくりしてよう。」
「釣りがしたいです。」
「釣りかあ・・・・道具がないと無理だからなあ。」
「あります。」
「どこに?」
「隣の部屋の人が持っています。」
「それは人のやつだから。」
「釣りがしたいです。」
タカシはどうしても釣りがしたいようで、竿を持つマネをしている。
それを見た俺は、少しばかりホッとしていた。
《少しだけ明るくなったな。じいさんとばあさんに嫌われた時は、かなり傷ついていたから・・・・。》
まったくタカシに愛情を見せなくなったじいさんとばあさんは、「俺が預かります」と言うとあっさりと頷いた。
もうあの家には戻れない。それどころか、このままでは居場所そのものが無くなる。
タカシは子供ながらにそれを感じ取り、ここへ来た初日は深く沈んでいた。
しかし今日みたいにのんびりと過ごすことで、少しだけ元気が出てきたようだ。
何よりムクゲが傍にいてくれるおかげで、ずいぶんと心の支えになっている。
「なあタカシ。海の近くに釣具屋があったはずだ。レンタル出来ないか聞いてみるか?」
「?」
「借りるってことだよ。一緒に釣りをしよう。」
そう言って竿を振るマネをすると、「んん!」と喜んだ。
部屋に戻ると、すぐに下のレストランで昼食を取った。
その後は売店で菓子を買い、しばらく散歩をしてからまた部屋に戻った。
タカシはアニメの再放送に夢中になり、釣りに行くことなど忘れている。
時折「ん!」と声を出し、座った足を揺らしている。
そんな姿を見つめていると、ムクゲが口を開いた。
「これからどんどん孤独の呪いが強くなる。早く手を打たないと私たちまで・・・・・、」
「分かってる。でももう少し待ってくれ。俺が死ぬのはいいが、タカシが死ぬのは・・・・。」
「それは私も同じだよ。いくら苦しまないとはいえ、猫又の術を使って・・・・・、」
ムクゲは口を噤む。その先にあることを言葉にしたくないようで、お茶を飲んで流し込んでいた。
「チョンマゲなら使えるんだろ?その・・・・『永眠の術』ってやつを。」
「うん。あれは200年以上生きた猫又が使える術だからね。眠っている人間にかければ、そのまま二度と目を覚まさなくなる。これなら苦しまないで・・・・、」
「死ねるというわけだ。」
「・・・・はっきり言わないでよ。」
ムクゲは不機嫌そうにお茶をすすり、タカシの横に座った。
「何見てるの?・・・・ああ、ドラゴンボール?面白いよね、これ。かめかめ破って!」
「かめはめ破です。」
即座に訂正されたムクゲは、肩を竦めて笑っていた。
《あの日から今日に至るまで、散々話し合ってきた。ムクゲもチョンマゲも協力は惜しまないと言っているけど、しかし・・・・。》
孤独の呪いを解く為には、タカシは一度死ぬ必要がある。猫又の術で、眠ったままその命を絶つ必要がある。
それは俺にとって許しがたいことであり、胸に重い楔を打ち込まれるような気分だった。
しかし呪いのせいで死ぬのを待つわけにはいかない。
なぜならその時、タカシの周りには誰もいなくなっているのだから・・・・。
《ムクゲの言うとおり、もうこの方法しかないのは分かる。永眠の術とやらを使えば、眠るように死ねるわけだから、苦しまないですむのも分かる。しかしそれでも・・・・踏ん切りがつかない。タカシが死ぬ姿を見るなんて。》
方っておけばタカシは死ぬ。そのことは分かっているが、決断を下すまでには覚悟がいる。
俺は「タカシ!」と言って立ち上がり、釣りのマネをした。
「行くか?」
そう尋ねると、壁の時計を見て「あと10分です」と答えた。
「じゃあそのアニメが終わってからにしよう。」
俺はタカシの隣に腰を下ろし、悟空がかめはめ破を溜める瞬間まで一緒に見ていた。
「さあ、今日はもうお終いだ。こうやって溜めだしたら、きっと来週になるまでは撃たない。」
「明日撃ちます。」
「そうか、再放送だもんな。」
「最後まで見ます。」
「分かった。じゃあその後釣りに行こう。」
「問題ないです。」
タカシはエンディングまでしっかりと目に焼き付け、CMに変わったところで立ち上がった。
「ん!」
「ああ、デカいのを釣ろう。」
「サメがいいです。」
「それは無理だ。食われちまう。」
「マンタはいますか?」
「それも無理だと思う。まあぼちぼち釣ればいいさ。」
俺はタカシの背中を押して部屋を出る。
「ムクゲも行くか?」
「いや、私はいい。二人で行っといで。」
「分かった。じゃあ夕方くらいには戻って来るよ。」
ムクゲを残し、部屋を出てから階段を下りる。
そして受付で釣り道具のレンタルをやっている店を尋ねると、海辺の近くにたくさんあるとのことだった。
「じゃあ海まで歩いて行くか。ちょっとかかるけど。」
「んん。」
「車は無理だ。ムクゲじゃないと運転出来ない。」
「・・・・・・・・。」
「しょんぼりするな。明日海に行く時に乗れるさ。」
宿舎から伸びる緩やかな道を下り、海の見える道路に出る。
そこから湾曲した道路をぐるりと回り、長い階段の前までやって来た。
階段はとても急で、子供の足にはちょっと危ない。
「転ぶなよ。」
しっかりと手を繋ぎ、青い葉に彩られた木々に見下ろされながら、ゆくりと階段を下りた。
そして海へと続く大きな道路を歩くこと数分、いくつかの釣具屋が見えて来た。
そのうちの一つの店に入り、釣り道具を一式借りる。
そして海岸沿いを歩き、長く伸びた堤防の先までやって来た。
「ちょっと荒れてるな。日本海は瀬戸内と違って、海の表情が変わりやすい。」
詩的な表現をしてみるが、案の定タカシは聞いちゃいない。
箱に入ったイソメを睨み、恐る恐る手を伸ばしていた。
「咬むから気をつけろよ。」
俺は竿を伸ばし、糸を通して針を付ける。
この竿では大物は狙えない。小魚用の小さな針をつけ、ついでに重りをつける。
「ほらタカシ、このまま下に落とすんだ。」
用意した竿を握らせ、リールの扱いを教えてやる。
「ここのレバーを立てると、糸が固定される。それまではずっと糸を垂らして、底についたら固定するんだ。」
タカシは悪戦苦闘しながらリールをいじり、なんとか糸を垂らしていく。
俺は自分の竿を用意し、同じように糸を垂らした。
「釣りってのは、同じ場所でじっとしてても意味がないんだ。五分経っても釣れなかったら、場所を移動してみろ。」
「・・・・・・・・。」
「また聞いちゃいないな。」
タカシは真剣に竿を握りしめ、じっと海面を睨んでいる。
俺は海の方を眺めながら、「なあタカシ」と尋ねた。
「お前には呪いがかかってるんだ。孤独の呪いという、恐ろしい呪いだ。」
「・・・・・・・・。」
「そんな呪いにかかってしまったのは、俺のせいだ。あの日、夜中の公園でお前に正体を見せてしまった。そのせいで呪いがかかり、お前は・・・・死んでしまうかもしれない。」
「ん。」
「まだ釣れてない。魚が食いついたらピクピク動くはずだ。」
「・・・・・・・・・。」
「釣れなかったら場所を変えろよ。」
タカシは真剣に海を睨む。その目には、いったいどれほど大きな魚が映っているのか?キラキラと輝くその瞳が、大物がかかることを期待していた。
「俺はお前を助けたい。それはお前に呪いをかけてしまった責任があるからで、このまま死なせるわけにはいかないんだ。
でも・・・・それだけじゃない。俺はお前に生きていてほしいんだ。血の繋がりもないし、種族さえ違う。でも心の底からそう思うんだ。」
「・・・・・・・・・・。」
「もう場所を変えろ。それと餌もな。」
俺は立ち上がり、タカシの針にイソメをつけてやる。そして少し場所を移動した。
「テトラポットの隙間なんか狙い目だぞ。でも針が引っかかりやすいから気をつけろ。」
「・・・・・・・・。」
「そうそう。上手く間を狙って落とすんだ。」
タカシはそっと針を落とし込み、また真剣に待つ。
「お前と長く一緒にいたせいで、妙な親心が芽生えてしまった。でもそれはきっと、俺の過去に原因がある。俺はお前と一緒で、あの町に来るまでは一人だった。まだ猫又になる前、クソみたいな人間に飼われていた。そいつは平気で差別をする奴で、他の猫は可愛がるクセに、なぜか俺だけ嫌っていた。あの家の人間は、どいつもクズだったよ。大人もガキも、吐き気がするほど嫌いだった。もちろん他の猫とも反りが合わない。本当に・・・・嫌な家だったよ。」
「・・・・・・・・・。」
「俺とお前は似ている。ちゃんと住む家がありながら、家族と呼べるものがありながら、どこにも居場所がない。帰る場所はあるのに、そこに自分の居場所がないんだ。こういうのを孤独という。俺もお前も、ずっと孤独の中で生きてきた。」
相変わらずタカシは聞いていない。しかし耳には届いているようで、時折表情を変えていた。
「俺がお前と一緒にいるのは、同情なのかもしれない。生きてほしいと願うのも、同情かもしれない。同情ってのは、本当はすごく嫌味なことなんだ。上から相手を見下し、傷を舐め合っているだけだ。いや、違うな・・・・・一方的に傷を舐めさせているだけかもしれない。」
「・・・・・・・・。」
「俺はお前といることで、なんだか生きていることが楽しくなった。猫又なんてのは、なんともふざけた生き物さ。本来の寿命を無視して、妙な力まで得て生きている。だから俺は・・・・いつ死んでも構わないと思っていた。俺の生は、猫の時代で終わってる。猫又になったその瞬間から、ずっと時間が止まってるんだ。あの柿の木のばあさんみたいに・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「でもお前と出会って変わった。俺はお前が喜ぶ顔を見たくて、毎日会いに行った。でもそれは、お前に俺の傷を舐めさせていただけなのかもしれない。なぜなら・・・俺はお前に孤独の呪いを与え、お前は俺に生きる喜びを与えてくれたからだ。お前だけが重い荷物を背負い、俺だけがその荷物の上で昼寝をしていた。だから・・・・ここらで恩返しをさせてくれ。」
そう言ってタカシを見つめると、クイクイと竿が動いていた。
「何か掛かったみたいだな。ゆっくりリールを巻いてみろ。」
「・・・・・・ん!」
「そう急ぐな。ゆっくりでいい。」
タカシはリールを巻き、垂れた糸の先を睨む。しばらくすると、海面に小さな魚の影が浮かんだ。
「・・・・小鯵だな。南蛮漬けにすると美味いぞ。」
「んん!」
「ああ、よく釣ったな。まだまだ釣れるさ。ほら、自分で餌を付けてみろ。」
俺はイソメを渡し、「咬まれないようにな」と注意した。
タカシはビクビクしながらイソメに触り、案の定咬まれていた。
「んん!」
「けっこう痛いだろ?でもそうやって失敗して覚えるんだよ。」
俺は落ちたイソメを拾い、「頭の後ろを持つんだ」と教えた。
「ここに黒い牙があるだろ?これで咬むんだよ。そしてこの部分に針を通す。そうすれば抜けない。」
「・・・・・・・・・・・。」
「そうそう、そうやって針を食い込ませる。」
タカシは慣れないながらも、なんとかイソメを付ける。再びテトラポットに向かい、そっと針を垂らした。
「なあタカシ・・・・。俺がいなくなったら寂しいか?」
ぽつりとそう尋ねる。こんなことを聞こうと思っていたんじゃないのに、気がつけば漏らしていた。
「・・・・・・・・・。」
「聞いてないか?」
「・・・・・・・・・。」
「いや、それでいい。お前は人間だから、たかが猫一匹いなくなったくらいで、悲しむ必要はないさ。
いつかきっと、お前と同じ人間が、お前のことを大切に想ってくれるようになる。そういう人に出会えるさ。」
「れんあいします。」
「ん?」
「八兵衛とれんあいします。ずっと一緒にいます。」
「・・・・・・・・・。」
「八兵衛とれんあいします。」
「・・・・・れんあいは出来ない。でも・・・・そう言ってくれて嬉しいよ。」
タカシに手を伸ばし、頭をクシャクシャと撫でる。
タカシは「れんあいします」と繰り返し、じっと海面を睨んでいた。
「もう少ししたら帰ろうか?」
「れんあいします。」
「ああ、俺はどこにも行かない。でも・・・少しだけ離れることになるかもしれない。」
「れんあいします。」
「お前が大きくなった時、『ああ、そういえばあんな変わった猫もいたなあ』って思い出してくれればそれでいいさ。」
「れんあいします。」
「心配しなくても、お前は一人にはならない。俺がさせない。」
「れんあいします。」
「本当に恋愛したい相手が、いつかきっと見つかる。だから生きていてほしい。じいさんになるまで、生きていてほしいんだ・・・。」
タカシの肩を抱き寄せ、その小さな背中を撫でる。
これから良くない事が起きることを、この子も感じているようだった。
その証拠に、さっきからずっと震えている。子供の感覚は鋭い。いくら言葉で誤魔化したところで、これから起こることを感じ取っているのだろう。
「明日はムクゲと三人で海に行こうな?」
「八兵衛とれんあいします。」
「ムクゲは?」
「ムクゲもれんあいします。」
「それを聞いたらきっと喜ぶ。さあ、釣りを再開しよう。」
俺は重りを変え、浮きを付けて遠くまで飛ばした。
それをタカシの手に持たせ、投げ釣りの仕方を教えてやる。
今日釣れたのは小鯵が一匹だけ。かぎりなく坊主に近いが、最後の最後でキスが上がった。
小魚が二匹入ったボックスを睨み、タカシは何とも言えない顔をしていた。
サメもマンタも釣れず、その落胆はいかばかりか?
本日の成果を肩にぶら下げ、二人で手を繋いで海を後にした。
- 2015.01.01 Thursday
- 08:38
菓子を買ってタカシに会いに行くと、いつものように絵を描いていた。
庭の石に腰掛け、筆を握って色を塗っている。
「タカシ。」
買ってきた菓子を見せると、タカシはすぐに手を伸ばした。
筆を置き、袋を開けて貪る。
「犬じゃないんだ。もうちょっと落ち着いて食べろ。」
「ん!」
「ああ、早く絵を描きたいのか。でも食べてる時は筆を置け。行儀が悪いから。」
俺は筆を受け取り、水入れの中に浸した。じわりと絵具が広がり、水を赤く染めていく。
「これは一昨日の続きだな。どれ?」
塗りかけの絵を見てみると、以前より登場人物が増えていた。
「これはチョンマゲとムクゲだな。どっちもよく似てる。」
美人の女と温水似の男が、海底でバンザイをしている。
どちらもよく特徴を捉えていて、絵の中が賑やかになる。
「俺と出会ってからのことを描いてるのか?」
「んん。」
「俺が見当たらないが・・・・・ちゃんと描いてくれるんだろうな?」
「問題ないです。」
「そうか。ならカッコよく描いてくれよ。チョンマゲよりカッコ悪かったら拗ねるぞ。」
「問題ないです。」
タカシはあっという間に袋を開け、ジュースを飲んで「ぷはあ!」と言った。
そして絵筆を取り、パレットの絵具をかき混ぜて、また絵に取り掛かった。
「真面目だな、お前は。その努力はいつか実を結ぶよ。」
そう言いながら寝転ぶと、尻に硬い物が当たった。
何かと思って探ってみると、それはじいさんから買ったベルトだった。
「これ、買ったはいいけど邪魔だな。」
ポケットからベルトを取り出し、横に置いて寝転がる。
するとそれを見つけたタカシが、「ん!ん!」と指さした。
「どうした?このベルトが欲しいのか?」
「1000円です。」
「・・・・もしかして、お前もベルトを売りつけられそうになったのか?」
「1000円です。要りませんでした。」
「そうか。ちゃんと断ったんだな。それでいいぞ。要らないものを買う必要はないからな。」
タカシはベルトを手に取り、いそいそとズボンに巻き始めた。
「要らないんじゃなかったのか・・・。」
ベルトを巻いたタカシは、嬉しそうにそれを撫でる。そして再び絵に取り掛かった。
《あのじいさん・・・・子供にまで売ろうとしてまでコンサートに行きたかったのか。俺には理解できない情熱だな。》
ライアーズとやらがどれほど腕の良いバンドかは知らないが、少なくともあのじいさんの心を惹きつけているのは間違いない。
ロックなんてのは若い奴が聞くものだと思っていたが、そうではないことに驚かされた。
「・・・・いや、そうでもないか。ビートルズなんて随分昔のバンドだ。その頃にロックが流行ったのなら、むしろ歳のいった連中の方が好むのかもな。」
今日コンサートに行ったら、またあのじいさんに会うかもしれない。
今度はベルトは買わないぞと思いながら、ウトウトと微睡んでいった。
次に目を覚ましたのは、コンサートの開演真近だった。
時刻は午後四時四十五分。あと十五分で始まってしまう。
「こりゃマズイ。早く行かないと。」
そう言って起き上がると、タカシはまだ絵を描いていた。
「タカシ、とりあえず絵はストップだ。コンサートに行こう。」
「・・・・・・・・。」
「タカシ?」
タカシはじっと絵を睨んでいる。もう完成まで九割という所だが、隅の一角だけ空白だった。
「右下が真っ白じゃないか。どうして何も描かない?」
「浮かびません。」
「ん?ああ、いい絵が浮かばないってことか?」
「迷っています。」
「何を?」
「八兵衛をどこに描いたらいいですか?」
「どこって・・・・この右下しかないじゃないか。ほんのちょっとのスペースだけど。」
「それだと小さくなります。」
「そうだな・・・・。このままだとチョンマゲより小さくなってしまう。それは許しがたい。」
「浮かびません。」
「うん、この問題はじっくり考えよう。でも今はコンサートだ。タダでジュースが飲めるぞ。」
そう言って急かすと、タカシはいそいそと画材を片付け始めた。
「絵具を洗うのは帰ってからにしよう。遅れるぞ。」
「絵具は早く洗わないといけません。」
「いいや、お前の絵具なら大丈夫だ。それは透明水彩だろ?だったら後からでも水に溶ける。一緒に洗ってやるから。」
そう言うと、タカシは「ん」と言って家に消えた。そしてすぐに出て来て俺の手を握る。
《中古屋で買った本が役に立ったな。》
一昨日買った本で勉強したおかげで、画材についてのにわか知識が手に入った。
タカシの絵具は透明水彩という種類で、その名の通り透明度が高い絵具だ。
そしてこの絵具は、乾いた後でも水に溶ける。そのことを知っていたおかげで、すんなりとタカシを納得させることが出来た。
《タカシは一度やると言い出したら、下手な理屈では納得しない。でもちゃんと説明すれば理解してくれる。勉強しておいてよかった。》
俺はタカシの手を引き、とりあえず駅まで向かう。
ここからカシミヤ町までは一駅分。ホームに降りると、タカシの手を引いて足早に急いだ。
踏み切りを越え、細い道を抜け、以前のタカシの家を通り過ぎる。そして星と光の館の前までやって来た。
《そこから薬屋の方に向かって、信号を左に曲がるんだったな。》
じいさんが教えてくれた道を思い出し、小走りに向かって行く。
近くにあったコンビニから、ガラス越しに時計が見える。時刻は五時十分を指していた。
「こりゃダメだ・・・・・。」
不思議なもので、遅れると分かった途端に急ぐ気がなくなってしまう。
しかしタカシは早く行きたいようで、俺の手を引いて走った。
「ここがじいさんの言ってた薬屋だな。」
館を越えた右手に、小さな薬局がある。そのすぐ先には信号が見えていて、ちょうど青になっていた。
「タカシ、走るぞ!」
信号まで一気に駆け抜け、左に曲がる。
するとこじんまりとしたホールが見えてきて、「あれか?」と睨んだ。
ホールは不思議な形をしていて、湾曲した屋根の先端がとがっている。
「きっと月をイメージしているんだろうな。」
「三日月です。」
「俺もそう思う。さあ行こう。」
ホールは道の向こうにある。車に注意しながらタカシの手を引き、手前までやってきた。
「小さいけど立派な作りだな。綺麗なガラス張りの壁に、庭と噴水まである。駐車場も大きいじゃないか。」
これを税金の無駄遣いと捉えるかどうかは、まあ人間次第だろう。
俺たちはガラス張りの自動ドアを潜り、中へと入った。
正面には受付、右手には子供が描いた絵が展示されている。
受付の奥には通路があり、トイレのマークが掛かっていた。
「喫茶店はどこだ?」
目を動かしてキョロキョロしていると、受付の男性から「何かお困りですか?」と尋ねられた。
「ええ、ライアーズのコンサートを見に来たんですが。」
「ライアーズ?」
「ここの喫茶店でコンサートをしているはずなんです。」
そう伝えると、男は「ああ・・・・」と何とも言えない顔をした。
「なんか中止になってそうですよ。」
「中止?」
「ええ。ホールがやってるイベントじゃないから、詳しくは分からないんですが・・・・。」
「すみません。その喫茶店はどこに?」
「すぐそこの通路を右に入ったところです。ビビっていう看板が出ていますよ。」
「ありがとうございます。」
俺は頭を下げ、受付の左手にある通路に向かった。するとすぐに緑色の看板が出てきて「ビビ」と大きく書いてあった。
ドアを開けて中に入ると、喫茶店にしてはかなり広かった。しかしそれ以外はどうということはない造りで、奥には音響機材らしきものが置かれていた。
その前には椅子が綺麗に並べられていて、数人の客がガヤガヤと騒いでいた。
入って左手にはカウンターがあり、そこでマスターとおぼしき男が客と喋っている。
その客とは、ベルトを売りつけてきたあのじいさんだった。
「なんか騒がしいな。中止になったってのは本当か?」
俺はマスターの方に向かい「すいません」と声を掛けた。
「ライアーズのコンサートを見に来たんですが・・・・。」
そう尋ねると、「ああ、ごめんなさい・・・」と申し訳なさそうに頭を下げた。
「中止になってしまったんですよ。ちょっとボーカルの人が来られなくなって。」
まだ若いマスターは、困り果てたようにそう言った。
「来られないって・・・何かあったんですか?」
「連絡がつかないそうなんです。他のメンバーがいくら電話を掛けても出ないらしくて、どこにいるかも分からないと・・・・。」
「ドタキャンってやつですか?」
「分かりません。今日の朝はこの店で打ち合わせをしていたんですが・・・・。いつもと同じ様子だったし、どうして連絡がつかないのか・・・・。」
マスターは別の客にも声を掛けられ、対応に追われていた。
タカシは俺の腕を引き、「ん?」と漏らした。
「中止だそうだ。ヴォーカルが来ないらしい。」
「?」
「歌う人のことだ。メインがいないんじゃ、そりゃコンサートは無理だな。今から代役を探すわけにもいかないだろうし・・・・。」
俺は店内を見渡し、近くの椅子に腰かけた。
「・・・・ジュースだけもらうか?」
「ん。」
「もうちょっと待とう。マスターは今忙しいから。」
マスターの元には、代わる代わる客が詰め寄る。
中止の理由を尋ねる者、怒りをあらわにする者、連絡のつかないヴォーカルを心配する者。
口々に尋ねる客の中で、あのじいさんがポツンと取り残されていた。
「じいさん。」
声を掛けると、じいさんは悲しそうな顔でこちらを振り向いた。
「こっちへ来て一緒に座らないか?」
「・・・・・・・・・・。」
じいさんは黙ったままこちらに歩き、タカシの隣に腰を下ろした。
その顔は実に残念そうで、絵に描いたような分かりやすい落ち込み方をしている。
ガックリと肩を落とし、「ライアーズ・・・」と呟いた。
「残念だったな、中止になって。あんなに楽しみにしていたのに。」
「いや、別に珍しくないんよ。こういうのが中止になるって・・・。」
「無理をするな。残念ですって顔に書いてある。」
「でも音楽やる人ってたまにこういうことがあるから。途中で帰ったりとかもあるし・・・・。」
「そりゃ大変な世界だな。でもじいさんは今日を楽しみにしていたんだろ?」
「・・・・お金ないもん。」
「深くを聞くつもりはないが、金に困ってるのは見ていれば分かる。」
「次・・・・いつやるんかな?」
「さあな。でも次にコンサートがある時、お金が無かったら困るよな?」
「あの家じゃ肩身が狭いんよ・・・。一応血の繋がりはあるけど、でも居候だから。飯食わしてもらってるだけでもありがたいし・・・。」
「誰にだって事情はある。じいさんは金に困っていて、次にコンサートがあっても見られない。」
「・・・・・・・・・・。」
じいさんは心底悲しそうに俯く。俺はタカシを見つめ、腰に巻いた物を指さした。
「タカシ、悪いんだけどそれを返してくれないか?」
「ん!」
「気に入ってるのは分かる。でもじいさんに返してやりたいんだ。そうでなきゃ、じいさんは次のコンサートを見れない。」
そう言ってじっとタカシを見つめると、素直にベルトを返した。
《やっぱり賢いダ子だ。ちゃんと理由を説明すれば納得する。》
ベルトを受け取った俺は、それをじいさんに差し出した。
「じいさん、悪いがこのベルトは返品する。」
「・・・・・・・・・。」
「サイズが合わないんだ、だから返すよ。ああ、ちなみに一度使ってるから返品代はいらない。」
俺はじいさんの手を取り、ベルトを握らせた。
「次にコンサートがあったら、またベルトを売りに来てくれ。その時はサイズの合うやつをな。」
そう言って笑いかけると、じいさんはじっとベルトを睨んでいた。
そしてそれを握りしめ、なぜか急に泣き出した。
「おいおい・・・・どうして泣く?そんなに中止になったのが辛いのか?」
「違う・・・・違うんよ・・・・・。だって情けないから・・・・。」
「情けない?何が?」
じいさんは人目もはばからず、声を出して泣いた。マスターに詰め寄っていた客が、何事かと目を向ける。
「僕・・・・今年で七二なんよ・・・・。」
「うん、年相応の見た目だと思うぞ。」
「この歳まで・・・・女の人と付き合ったことがないんよ・・・・。まともに働いたことだってない・・・・。」
「まあ色んな人間がいるさ。」
「今じゃ兄貴の息子に世話になっとる・・・・。甥っ子に飯食わしてもらっとるんよ・・・・。」
「甥っ子だって家族みたいなもんだ。」
「でも僕の子供じゃない・・・・。子供の時にツェッぺリンを聴いて、ロックが好きになって・・・・ずっと夢中だった・・・・。僕・・・・ずっと音楽しかなかったから・・・・。自分で演奏出来んから、人のを聴くしかなくて・・・・。」
「誰だって得手不得手がある。悲しむことはない。」
「でも夢見てた・・・。いつかプロになって、大きな世界で演奏できるって・・・・。
そうやって夢見たまま、こんな歳になってしたっまんよ・・・・。七二年生きてきて、何もない・・・・。
若い人に気い使われて・・・・同情までされて・・・・情けない・・・・。」
「別に同情なんかじゃないさ。ただベルトを返しただけだ。」
じいさんはまだ泣いていて、ごそごそとポケットを漁り始めた。
そして小銭入れを取り出し、中から千円を抜き出す。
「これ・・・・。」
「いいよ、それは要らない。」
「だって情けないから・・・・。」
「さっきも言っただろ。使用済の物を返品したんだ。金はいらない。」
「・・・・・・・・・・・。」
「もう泣くなよ。みんな見てるぞ。」
周りの客はじっとこちらを見つめていて、マスターがゆっくりと歩いて来た。
「すいません・・・・。こんなに楽しみにしてもらってたのに・・・。」
じいさんは俯いたまま首を振る。ギュッとベルトを握りしめ、「情けない・・・」と繰り返していた。
「そんなことないですよ。今日ここに集まった人は、みんな音楽が好きなんです。それはおじいさんも一緒でしょう?」
マスターがそう言うと、詰め寄っていた客たちは静かになった。
そして客の中から若い男が歩いて来て、「俺も童貞っすよ」と笑った。
「あんたまだ若いじゃない・・・・・。」
「いやいや、こう見えても今年で二六っす。」
「三十までなら大丈夫だよ・・・・。」
「ああ、魔法使いになれるっていうアレ?」
「・・・・・何それ?」
じいさんは顔を上げ、その若い男を見つめた。
「俺もバイトしながらバンドやってるんす。今さらプロになるのは難しいけど、でもやめらんなくって。」
「ダメだよ・・・・こんなジジイになっちゃうよ・・・・。」
「それでもいいっす。俺ってせっかく入った会社をソッコーやめて、やっぱ音楽しかねえだろって感じで今まで来てるんすよ。まあ親にはシバかれましたけど。」
そう言って可笑しそうに笑い、「また次があるっすよ」とじいさんの肩を叩いた。
「ねえ、アンタもそう思うでしょ?」
いきなりこっちに振られ、一瞬だけドキリとしてしまう。俺は「そうだな」と答え、「コーヒーでも飲むか?」とじいさんに尋ねた。
「マスター、コンサートは中止になっても店は営業中でしょう?」
そう尋ねると「え?・・・ああ!もちろん」と頷いた。
「ならコーヒー二つ。あとオレンジジュースを一つ。サンドイッチも貰おうかな。」
「あ、じゃあ俺も。カレーいいっすか?」
マスターは「分かりました」と笑い、カウンターの奥へと引っ込んでいく。
他の客も席につき、口々に注文をしていた。
マスターは忙しなく動き回り、バイトらしき二人の若者に指示を出していた。
「じいさん凄いっすね。その歳まで音楽一本なんて。」
男は真剣な顔でそう言い、「ここ奢りますよ」と肩を叩いた。
「いいよ・・・・余計情けなくなる・・・・。」
「いやいや、奢るのはそこの人で。」
そう言って俺を見つめ、「いいっすよね?」と笑った。
「元々そのつもりだ。でもアンタは自分で払え。」
「いいじゃないっすか、俺も分の頼みますよ。ていうかこの子アンタの子供?」
「いいや、知り合いの子だ。」
「へええ。なあ僕、音楽好きか?」
「・・・・・・・・・。」
「人見知り?俺って悪い奴じゃないから警戒すんなよ。」
そう言ってタカシの肩を叩き、スマホを取り出して何かの動画の見せていた。
漏れる音から、それがロックの動画だと分かる。静かなギターが響き、やがて激しく鳴りだした。
「これ、ライアーズっす。見ます?」
「いや、いい。」
俺は断ったが、じいさんは真剣に見入っていた。タカシもまんざらではなさそうで、「ん!ん!」と動画に指をさしていた。
俺としては、コンサートが中止になろうがどうでもいい。
しかしこうしてタカシが喜んでいるのなら、ここへ来た甲斐はあったというものだ。
じいさんは真剣に動画を見つめ、「いいなあ・・・」と呟いた。
「僕、自分が情けないと思うけど、ロックを好きになったことは後悔してないんよ。」
「俺もっすよ。いい加減真面目に働けとかよく言われますけど、知ったことかって思いますもん。最近ロックって下火になってるけど、やっぱカッコいいっすよ、ロック。この先も人気は衰えるかもしれないけど、絶対に死にませんよ、ロックは。」
男はしりきにロックという言葉を口にし、じいさんと熱く語り合っている。
タカシは動画に食いつき、ただじっとライアーズに見入っていた。
この男やじいさんのように、ここまで音楽にのめり込む人間の感覚を、正直俺は理解できない。
しかし何かを好きだという気持ちは理解できる。なぜならこの俺も、センスがないと罵られながらも、詩的な言葉を追及することはやめられないからだ。
今日のことを、タカシは絵に描くだろうか?そう思った時、俺にはすでに詩より大切なものがあることに気づいた。
《今の俺は、なにかにつけてタカシを基準に考えている。コイツが喜べば俺も嬉しいし、コイツが落ち込めば俺も落ち込む。
もう孤独の呪いがどうとかではなくて、俺はタカシの傍にいたいんだな・・・・。》
嬉しそうに動画を見つめるタカシ。それを眺めていると、マスターが足早に駆け寄ってきた。
「あの・・・もしかしたらライブが出来るかもしれません!」
その一言に、沈んでいた客たちが色めきだった。
「ライアーズではないですが、歌の上手い人がいるんです。その人でよければ歌ってくれるって。」
マスターは興奮気味に説明した。客は「?」と感じで首を捻っていたが、男は「いいっすね!」と立ち上がった。
「このまま終わったら、ちょっと寂しいっすもん。で、誰が歌うんすか?」
「いや、それは知らない。でも僕の知り合いが、すごく歌の上手い女性がいるからって。」
「なんか微妙っすね・・・。カラオケが上手いレベルとかじゃないんすか?」
「まあ・・・僕も本人は会ったことはないけどさ。でも知り合い・・・・荒川さんっていうんだけど、その人にライブの中止のことを電話で話したら、すぐに来てくれるって。」
「・・・・女って言ってましたよね?」
「そうらしいよ。音楽が好きで、しかもとびきり美人らしい。」
「来てもらいましょう!」
男は強く頷き、「代役が来るらしいっすよ」とじいさんに詰め寄った。
「ライアーズじゃないけど、でもせっかくだから歌ってもらいましょうよ。」
「・・・・・ロック?」
「さあ?でもこのまま終わるよりいいじゃないすか。もし演歌だったとしても、中止になるよりいいっすよ。」
「・・・・じゃあ、僕も聴きたいな。」
じいさんは素直に頷く。男は俺の方を見つめ、「アンタも聴きたいでしょ?」と同意を求めた。
「どっちでもいい。というより、君が喜んでいるのはその女性が美人だからだろう?」
「いやいや、まさか。音楽に顔は関係ないっすよ。」
そう答える男の顔は緩んでいた。
猫にしろ人間にしろ、美しい異性には弱いもの。それは遺伝子にそう刻まれているのだから抗いようがない。
だから俺はこの男を馬鹿にはしない。しないが・・・・・タカシはどうだろうか?
「なあタカシ。歌の上手い美人さんが来るらしい。聴きたいか?」
「・・・・・・・・・。」
「まだ動画に釘づけだな。」
タカシは周りの声など聴いちゃいない。ただひたすらライアーズに見入っている。
男は他の客にも「聴きたいっしょ?」と触れ回り、誰もが苦笑いで頷いていた。
マスターは「せっかくなので来てもらいます」と言い、奥へと引っ込んで行った。
流れたと思ったコンサートが復活する。見知らぬ歌手が来るとはいえ、誰もが喜んでいた。
じいさんと男はまた音楽話に華を咲かせ、タカシは勝手にスマホをいじって動画を見ている。
俺はコーヒーとサンドイッチで時間を潰しながら、代打の歌手の到着を待っていた。
壁の時計が六時前を指す頃、入口のドアが開いた。
カランと音が鳴り、くたびれた一人の男が入って来る。
「マスター、お待たせ。代役を連れて来たよ。」
そう言って店に入って来た男を見て、俺はコーヒーを吹き出しそうになった。
「チョンマゲ!」
「おお、八兵衛。」
「おお、じゃないだろ。まさかマスターの知り合いってお前だったのか?」
「そうだよ。電話をもらってここへ来たんだ。」
「・・・お前も音楽好きとは知らなかった・・・。というよりデートはどうしたんだ?」
「だからそのデートの彼女を連れて来たんだよ。」
そう言って後ろを振り向くと、そこには一人の女が立っていた。
「久しぶり。元気にしてた?」
「・・・・・・・・・・。」
女は笑って手を振り、タカシの方へと近づいて行く。
「タカシ君〜!」
そう言って抱き付くと、タカシは動画から目を話した。
「んん!」
「お〜お〜、喜んじゃって。」
タカシは椅子から飛び降り、「んん!」を連発して飛び回った。
女の手を取り、全身で喜びを表している。
「三日くらい会えなかったもねえ。んん〜!」
女はタカシを抱き上げ、愛おしそうに頬ずりをしている。俺は立ち上がり、女の方に歩み寄った。
「ムクゲ・・・・帰って来てたんだな。」
そう尋ねると、ムクゲはバツが悪そうに笑った。
「うん。ちょっと前にね。」
「どうして俺には顔を見せなかった。周りには口止めさえしていたな?」
「怒らないで。ちょっと事情があるのよ。」
「ほう、そりゃ是非聞きたいな。」
そう言って肩を竦めると、ムクゲはタカシを下ろした。
「タカシ君、私はちょっと歌ってくるから、ここで見ててね。」
「ん!」
「大丈夫、また後で戻って来るから。」
ムクゲは俺の方にタカシを押し、「八兵衛と一緒に見てて」と頭を撫でた。
「ごめんね八兵衛。事情は後で説明するから。」
「ああ、納得のいく説明を期待している。」
「聞かない方がよかったって思うかも。」
「そんなに深刻な事情か?」
「かなりね。でもアンタは聞かなきゃいけない。それがアンタが背負った責任だから。」
ムクゲはそう言い残し、タカシに手を振って奥へと消えていく。
男は「めっちゃ美人じゃん!彼女すか?」と尋ね、じいさんは嬉しそうに歌が始まるのを待っている。
俺は椅子に座り、「チョンマゲ」と呟いた。
「どういうことか聞かせてもらおうか?」
「俺の口から言うことはないよ。後でムクゲが教えてくれる。」
そう答えて俺の隣に座り、ズルズルとオレンジジュースをすすった。
「そりゃタカシのだぞ。」
「じゃあ新しいのを頼むよ。マスター、これもう一個。」
「いや、ちょっと準備があるから・・・・、」
「ああ、ごめん。じゃあ後でいいや。」
マスターは奥へ引っ込み、客は期待を込めた目で待っている。
俺は何度かチョンマゲをつついたが、何も答えようとはしなかった。
《何がどうなってる?知らなきゃいいほど深刻な事情ってなんだ?》
俺はムクゲが消えたカウンターの奥を睨みながら、歌が始まるのを待った。
それから数分後、黒いドレスに着替えた・・・・もとい変化したムクゲが現れた。
その後ろではマスターがギターを持って立っている。
「ええっと・・・ライアーズの代打で呼ばれた立川といいます。こんな素人が代打って申し訳ないんですけど、一生懸命歌うので聴いて下さい。」
そう挨拶をした後、マスターがギターを鳴らす。
「洋楽の曲なんですけど、レッチリのアンダー・ザ・ブリッジという曲を歌います。」
ムクゲは目を閉じ、歌に向けて精神を集中させる。マスターのギターがシンプルなメロディを刻み、ゆっくりと歌が始まった。
高く、そして力強い声が響く。たったワンフレーズで、客たちは心を奪われてしまったようだ。
それはこの俺も同じで、予想していたよりも遥かに上手い歌に驚いていた。
じいさんも、タカシも、そして若い男も、何かに取りつかれたかのように聴き入っている。
ムクゲの声はとても伸びやかで、しかも感情を込めるのが上手かった。
アンダー・ザ・ブリッジ。英語の曲なので歌詞は分からないが、でも気持ちは伝わってくる。
橋の下で一人・・・・。そんな感情が歌声に乗って響き、寂しくも美しい音色が店を包んでいた。
- 2014.12.31 Wednesday
- 13:34
猫又だって、たまには買い物をする。
人間ほど物欲はないが、それでも欲しい物はあったりするのだ。
梅雨が過ぎて夏の匂いが迫る頃、俺は大きな中古書店に来ていた。
ここには高尚な芸術書からエロ本まで、多種多様な本が並んでいる。
しかも中古なので値段も安く、いくら立ち読みしても構わないときている。
ならば暇つぶしにこれほど便利な場所はなく、欲しい本があれば安く手に入るというわけだ。
俺は芸術書の棚でじっと本を読んでいた。
『誰でも分かる水彩画』
最近タカシが水彩にハマったものだから、俺もちょっと勉強してみようと思ったのだ。
「下手なアドバイスをしたら、また機嫌を損ねてしまう。少しは知識を入れておかないと・・・・。」
真剣に本を読み、付け焼刃の知識を叩き込んでいく。
「水彩にも色々種類があるんだなあ・・・。タカシが買ったのはどれだ?」
絵具の種類は幾つもあり、覚えるだけでも大変だった。
しっかりと勉強するつもりが、だんだんと飽きてきて本を閉じた。
「まあいい。家に帰ってゆっくり読もう。」
中古300円のその本を買い、店を出ようとする。しかし書店の向こうに別の店があることに気づき、足を止めた。
「そういえばリサイクルショップも入ってるんだったな。ちょっと覗いていくか。」
本屋のスペースを抜け、リサイクルショップの方に足を踏み入れる。
同じ店舗内に複数の店があるのは便利で、さらに暇つぶしが加速してしまう。
時計にカメラ、貴金属にスマホ、それにフィギュアや帽子など、たくさんの中古品が置かれている。
それらを流し見しながら、奥へと向かって歩いて行った。
すると幾つもギターが並んだスペースがあって、少し興味を惹かれた。
「音楽か・・・・。これもまた芸術、しかしどうやって弾くんだろうな?」
壁にはエレキギター、エレキベースが掛かっていて、その下にはクラシックギターとアコースティックギターが並べられていた。
「値札があるから分かるけど、見た目だけじゃクラシックギターとアコースティックギターの違いも分からない・・・。いったい何が違うんだ?音か?値段か?」
手近にあった一本を取り、ポロロンと鳴らしてみる。そうして何度も鳴らしていると、店員からジロリと睨まれた。
「店の中で鳴らしちゃ迷惑だよな。」
ギターを戻し、店員の視線を避けるように背中を向ける。
もうそろそろ帰ろうかと思い、出口に向かって歩き出した時だった。
「ライアーズ。」
「ん?」
突然誰かに話しかけられ、後ろ振り向く。
「ライアーズ、知ってる?」
「・・・いや、申し訳ないが知らない。」
そこに立っていたのは、くたびれたTシャツに汚れたジャージを穿いた、白髪の男だった。
顔にはいくつも皺が刻まれ、少し背が曲がっている。右手には丸く膨らんだビニール袋を提げ、愛想の良い笑みを浮かべていた。
「ライアーズ、知らない?」
知らないと答えははずなのに、なぜか同じ質問をしてくる。俺はニコリと笑い、「申し訳ないが知りません」と答えた。
「カシミヤ文化ホールって知ってる?」
「いえ。」
「じゃあ星と光の館は?」
「それなら知っています。」
「そこから薬屋の方に歩いて、信号を左に曲がったらあるんよ。」
「ほう。」
「それで文化ホールの中に喫茶店があるんだけど知ってる?」
「・・・・・・・・・・。」
俺は何も答えなかった。そもそも文化ホール自体を知らないのに、中に入っている喫茶店をどうやって知るというのか?
《下手に相手をしていると、無駄に時間を食いそうだ。もうそろそろタカシの所へ行かないといけないし、適当に切り上げるか。》
白髪の男は「知ってる?」と繰り返す。俺は強めに「知りません」と答え、「連れが待っていますので」とその場を後にした。
「明後日にね、そこの喫茶店でライアーズがコンサートやるから。五時からだよ。一人1000円、ワンドリンク付き。子供は無料だから。」
俺は何も答えず、ただ頭を下げて去って行く。そして店から出て、「なんだあのじいさんは・・・」と振り返った。
「いきなりコンサートの勧誘をされても行くわけないだろう。」
そう思いながら店を睨んでいると、さっきのじいさんが出て来た。
そして小走りに駆け寄って来て、手にしたビニール袋を見せつけた。
「ベルト要らない?」
「は?」
「これ、ベルト。買わない?」
「要りません。」
「どうして?」
「理由などないです。そこにリサイクルショップがあるんだから、売って来たらどうですか?」
「買ってくれなかったんよ。」
「そうですか。ではこれで。」
もはや笑顔を見せる気にもなれず、一瞥をくれてから立ち去る。
大きな駐車場を出てから振り返ると、じいさんはいなくなっていた。
「なんなんだアレは・・・・。非常識というか、無礼というか・・・・。」
俺はあの手のタイプが苦手である。
相手の話を聞かず、ただ自分の言いたいことを一方的に言う。これでは会話が成り立たず、意志の疎通など不可能だ。
「この世の中、色んな奴がいるのは分かるが、合う合わないはあるもんだ。どうか二度とあのじいさんと遭遇しませんように。」
水彩画の本を脇に抱え、足早に店を後にした。
*
その日の夕方、タカシにあの変なじいさんの話をしてやった。
すると「ん」と言って、あのじいさんの似顔絵を描いてみせた。
お世辞にも出来がいいとは言えなかったが、特徴はよく捉えている。
俺はその絵を見つめながら、「知ってるのか?」と尋ねた。
「ライアーズ。」
「お前も誘われたのか?」
「七月十日、カシミヤ文化ホールの喫茶店で、五時からやるんよ。ジュースも飲めるし、子供は無料なんよ。」
「よく似てるな。」
「子供は無料なんよ。」
「うん、似てる。」
「子供は無料なんよ。」
「タカシ?」
「子供は・・・・、」
「分かった、行きたいんだな。」
「ジュースが飲めます。」
「それが目的か・・・・。まあいい、コンサートなんて滅多に行く機会がないからな。明後日に行ってみるか?」
「子供は無料なんよ。」
「後でじいさんとばあさんに話してみよう。そう遠くはないし、ダメだとは言わないだろう。」
俺はごろりと寝転がり、大きなあくびをした。
「八兵衛はいつも寝てます。」
「猫だからな。」
「猫じゃありません。猫又です。」
「猫の延長みたいなもんだ。よく寝るのは仕方ない。」
「ムクゲもよく寝ます。」
「そうだったかな?アイツが寝てるところはあまり見たことがないような・・・・。」
「昨日も寝ました。」
「ん?」
「一昨日も寝ました。」
「・・・・・タカシ、ちょっと待て。」
俺は身体を起こし、ためらいがちに尋ねた。
「もしかして・・・・ムクゲがここに来たのか?」
「一昨日の前も寝ました。」
「・・・・その前は?」
「その前も寝ました。」
「いつからここへ来ている?」
「七月二日からです。」
「一週間くらい前からか・・・・。タカシ、それは本当にムクゲなんだな?」
「今日も来ます。」
「今日も・・・・。どうして今まで黙っていた?」
「言ってはダメだと言われました。」
「そうか。でも言っちゃったぞ、お前。」
そう言うと、タカシはピタリとペンを止めた。
「・・・・・・・・・・・・。」
「心配するな。お前から聞いたって言わないよ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「大丈夫だ。もしバレてもムクゲは怒ったりしない。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「泣くな。聞いた俺が悪いんだ。お前は何も悪くない。」
タカシはペンを握りしめ、じっと固まったまま動かない。
「分かってる。怒られるのが怖いんじゃないんだよな。言ってはダメだと言われたのに、言ってしまった自分が情けないんだよな。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「さっきも言ったけど、聞いた俺が悪いんだ。泣かなくていい。それより絵を描け。海を泳ぐゴリラなんて面白いじゃないか。」
画用紙にはいつものようにゴリラが描かれていて、海の中を泳いでいた。
海底にはなぜか柿の木が生え、その枝に孔雀が止まっている。
そしていくつかの遊具が並んでいて、裸の男と少年が遊んでいた。
「この裸の男は俺か・・・・。こうして見ると、変態以外の何者でもないな。」
客観的に見る自分の姿に、思っていたより愕然とする。
しかし・・・・この絵は面白い。タカシと出会ってから今までに起きたことが、一枚の画用紙に凝縮されている。
しかもまだまだ完成ではなさそうなので、これからもっと色んなものが描かれるだろう。
「この絵の続きが早く見たい。ほら、泣いてないで描かないと。」
タカシはしばらくぐずっていたが、やがてペンを動かし始めた。
以前に比べると遥かに速く、そして正確に描いていく。
《随分慣れたもんだな。まあずっと描いているから、その分上達も早いんだろう。》
何事も練習次第で上手くなる。物事の上達は、練習なくしてはあり得ない。
タカシの絵はそう教えてくれた気がした。
《しかしそうは言っても、やはり向き不向きはあるもんだ。俺が絵を始めたところで、一年後には猫も描けるかどうか怪しいな。》
真剣にペンを振るうタカシを横目に、再び寝転がる。そしてムクゲのことを思い浮かべた。
《まさか戻って来ていたなんて・・・。ということは、もう完全な人間になったってことか?》
俺はもう一度身を起こし、「なあタカシ?」と尋ねた。
「ムクゲは人間の姿をしていたか?」
「猫です。」
「猫・・・・。じゃあまだ人間になっていないんだな。ならどうして戻って来て・・・・・。」
カミカゼは言っていた。ムクゲは完全な人間になるまでは戻って来ないと。
《あのムクゲが、自分で言い出したことを途中で曲げるとは思えない。何か事情があるのか?》
ムクゲの顔を思い浮かべながら、じっと考える。
しかしいくら考えたところで答えが出るはずもなく、「ここで待つか」と寝転んだ。
「今日もここへ来るんだ。その時に話を聞いてみよう。それに何より、またムクゲに会いたいしな。」
ムクゲが去ってから三ヶ月。大した時間は経っていないが、毎日のように会っていた者がいなくなると寂しい。
だから再び会えるかと思うと、正直嬉しかった。
その日、俺は夜遅くまでタカシの家にいた。
しかしいくら待ってもムクゲは現れず、タカシは眠ってしまった。
時計を見ると午後10時。空には半分欠けた月が浮かんでいて、流れゆく雲を照らしている。
俺は窓を開け、暗くなった庭を見渡してみた。
「・・・・・来ないな。もしかして俺がいるからか?」
ムクゲは鋭い奴だ。だから俺がいるのに気づいて、今日は来ないつもりなのかもしれない。
「もしそうだとしたら、顔を合わせたくない事情があるってことだ。やっぱり気になるな。いったいどうして戻って来た?」
暗い夜空を見上げながら、そっと窓を閉める。
その日はじいさんに許可をもらい、タカシの家に泊まった。
途中で何度か目を覚ましたが、やはりムクゲは来なかった。
次の日も遅くまで居候したが、どんなに待っても来ない。
「やっぱり俺がいるせいか?・・・・・まあいい。無理に会おうと思っても、向こうにその気がないなら仕方がない。いつか会いに来てくれると信じて待つか。」
その日はタカシの家には泊まらず、夜道を一人で帰って行った。
「明日はコンサートか。タカシの奴、意外と楽しみにしていたな。」
俺はタカシの家を振り返り、「また明日」と呟く。
ほのかな夏の香りを感じながら、湿気の漂う夜道を歩いて行った。
*
次の日の朝、俺はタカシの家に行く前に集会所に寄っていた。
ハルとゴンベエは相変わらずイチャついていて、その隣でチョンマゲが毛づくろいをしていた。
「なあチョンマゲ、ちょっといいか?」
そう尋ねると、「ダメだ」と言われた。
「今忙しい。見て分かるだろ?」
「たかが毛づくろいじゃないか。後でも出来る。」
「いいや、そういうわけにはいかない。」
「どうして?」
「どうしてもだ。これはゼントルマンの身だしなみなんだ。」
「・・・・?何を言ってるか分からないぞ。」
そう言って顔をしかめると、ハルが「デートなのよ」と笑った。
「チョンマゲはこれからデートをするの。」
「デート?誰と?」
「それは教えてくれないのよ。でもデートをすることだけは確かなのよねえ?」
ハルは茶化すように笑いかける。チョンマゲは「まあな」と答え、熱心に毛づくろいを続けていた。
「そうやって毛づくろいをするってことは、相手はメス猫だな。」
「いや、そうでもない。」
「じゃあ人間の女か?」
「まあそんなところだ。」
「だったら毛づくろいに意味はない。どうせ人間に化けるんだから。」
そう言ってやると、チョンマゲはピタリと固まった。
「本当だ・・・・・これ意味ないや。」
「気づいてよかったな。なら俺の話を聞いてくれ。」
俺はタカシの家にムクゲが来ていることを耳打ちした。するとチョンマゲは特に驚く様子もなく、「そうか」と答えた。
「驚かないのか?」
「別に。」
「どうして?」
「前から知ってるからだ。アイツはちょくちょくこの町に戻って来ていた。」
「そうなのか?いつ頃からだ?」
「この前のボスの座を巡る戦いの後からだ。」
「・・・・どうして教えてくれなかった?」
「口止めされてたから。」
「でも喋ってるじゃないか。」
「俺が教える前に、お前が知ってたからだ。なら口止めもクソもないだろ。」
「まあ・・・そうだけど・・・・。」
なんだか釈然としなかった。タカシもチョンマゲもムクゲが戻って来ていることを知っていたのに、どうして俺だけが知らないのか?
そう思うと疎外感を感じ、なんとなく拗ねてみた。
「俺だけのけ者か。」
「その通りだ。ハルもゴンベエも知っているからな。」
「なんだって?コイツらもか?」
驚きながらハルとゴンベエを睨むと、二匹して肩を竦めた。
「ムクゲから言わないでって口止めされてたから。」
「そうそう。別にお前をのけ者にしたわけじゃないんだぜ。」
「そう言われると余計に疎外感を感じるよ。どうして俺だけ教えてくれないんだ・・・・。」
そう呟いて項垂れると、はっと気づいたことがあった。
「カミカゼも知ってるのか?」
チョンマゲは「ああ」と答え、「でも会ってないけどな」と言った。
「カミカゼの耳には入ってるはずだ。でもまだ顔を合わせていない。」
「そうか・・・。カミカゼは会いたいだろうに。」
「ムクゲの方に会う気がないんだろ。それにカミカゼも別れたメスを追いかけるような奴じゃない。未練には思っていても、自分から会いに行こうとはしないだろう。」
「そうだな・・・・。でもさ、どうして俺だけ教えてもらえなかったんだろう?たまたまタカシから聞いたからよかったものの、そうじゃなきゃ知らないままだった。何か理由があるのか?」
そう尋ねると、チョンマゲは「ある」と答えた。
「でもまだ言えない。」
「またそれか・・・・。ならゴンベエ、お前が教えてくれよ。どうしてムクゲは口止めをしていたんだ?」
「さあ?」
「さあって・・・・何も知らないのか?」
「理由は聞いてない。なあハル?」
「うん。私たちはたまたまムクゲに会っただけだから。その時に口止めされたの。八兵衛には言わないでって。」
「・・・・・・・・・・。」
「拗ねた?」
「ああ、かなりな。ムクゲとは良い友達だと思っていたのに、こうして俺だけ仲間外れにされた。」
なんだか沈んだ気分になってしまい、晴れた空さえ淀んで見える。
気がつけばトボトボと歩き出していて、「どこ行くの?」と尋ねられた。
「タカシのところだ。今日はコンサートを見に行くんだよ・・・・。」
「へえ、コンサート!で、で、誰の?」
「ライアーズだそうだ。」
「ライアーズ?聞いたことないわね・・・・。」
「俺も聞いたことがないさ。」
「きっとインディーズってやつよ。デビュー前のバンド。」
「ああ、要するに素人か。」
「そんなことないわよ。インディーズでも上手いバンドはたくさんあるんだから。あえてプロにならない人たちだっているのよ。」
「よく知ってるな。誰に聞いた?」
「ムクゲ。彼女って音楽が好きだったから。人間に化けて、よくライブに行ってたみたいよ。」
「へえ、アイツは音楽が好きだったのか。・・・・いや、でも分かる気がするな。アイツも音楽だの絵だのは嫌いじゃなさそうだから。」
「洋楽とかもたくさん知ってたのよ。何とかいうアレとか・・・・何とかいうソレとか・・・・。」
「お前が音楽に興味のないことは分かった。まあとにかく今日は帰る。じゃあな。」
俺は尻尾を振って集会所を後にする。するとゴンベエが「チョンマゲも帰るのか?」と尋ねていた。
「デートだからな。」
「でもそれって夕方からなんじゃ?」
「ゼントルメンは早めに行くもんだ。じゃあな。」
チョンマゲは尻尾を振り、足早に去って行った。
ハルとゴンベエは顔を見合わせ、「ゼントルメンだって」と吹き出していた。
《チョンマゲはデートか。俺以外の猫又は本当に女好きだな。》
チョンマゲの消えた方に尻尾を振り、俺もタカシの元へと向かう。
人間に変化し、電車に乗り、駅を降りてゆっくりと歩いて行く。
すると踏切を越えた辺りで、例のじいさんと出くわした。
「・・・・・・・・・・。」
思わず目が合ってしまう。出来れば引き返したいが、向こうはニコニコとこちらに近づいて来た。
「ライアーズ?」
「・・・・ええ。行きますよ。」
「子供は無料だから。」
「子供も連れて行きます。ちなみに私は興味はありません。あくまで子供が行きたがっているんです。」
「いいよ、ロックは。心が弾けるから。」
じいさんはニコニコと笑い、今日もビニール袋を持っていた。
そして案の定それを売りつけてきた。
「ベルト、要らない?」
「要りません。」
「1000円。」
「要らないと言っている。」
「どうして?」
「・・・・・・悪いけど先を急ぐので。」
もう目を合わせる気にもなれず、じいさんを避けて先を行く。
すると「ライアーズ見たいんよ!」と叫んだ。
俺は足を止め、じいさんを振り返る。その恰好は一昨日とまったく一緒で、くたびれたジャンバーに汚れたジャージだった。
「行きたいなら行けばいいでしょう。」
「お金がないんよ。ベルト買ってくれん?」
「・・・・失礼ですが、ご家族は?」
「おらん。」
「では・・・・家は?」
「ない。」
「・・・・・気を悪くされたらすみません。その・・・・ホームレスということですか?」
「いや。住む場所はあるんよ。でも自分の家じゃないから。」
「居候ということですか?」
「まあ・・・・そんなもん。」
「そうですか。申し訳ありませんが、ベルトは買えません。コンサートに行きたい気持ちは分かるが・・・・、」
「ライアーズ行かせてくれん?」
「・・・・・・・・・・・。」
「お願い。お願いします。」
じいさんはビニール袋を提げたまま、深く頭を下げる。
「やめて下さい。」
俺は慌てて駆け寄り、じいさんの頭を上げさせた。
彼の顔は真剣そのもので、「ベルト買って」と俺の手を握った。
「ロックはいいよ。心が弾けるから。」
「好きなんですか?」
「うん。たくさん聴いた。ツェッぺリンもストーンズも、イーグルスも聴いた。どれもええよ。」
「そうですか・・・・。申し訳ないが、私は音楽に疎いもので・・・・、」
「ツェッぺリンはね、ドラムが凄いから。ジョン・ボーナム、知ってる?」
「いえ、だから音楽には疎くて・・・・、」
「でも死んじゃったんよ、ボーナム。それでツェッぺリンは解散。ロバート・プラントは喉やられたし。移民の歌、聴いたことあるでしょ?」
「移民の歌?聞いたことないです。」
「それはないよ。よくテレビとかでも流れるから。聴いたら絶対に分かるって。ギターはね、ジミー・ペイジ。世界三大ギタリストの一人。後二人はジェフ・ベックとエリック・クラプトン。その後にジミ・ヘンドリックスが出て来て・・・・、」
じいさんの音楽話はとどまるところを知らない。
ジミーなんとかから始まり、ジョンなんとかやリッチーなんとかやらが出て来る。
このままではいつ終わるか分からないので、「ちょっと落ち着いて」と止めた。
「じいさん、急に砕けた口調になって悪いが、俺は人と会う約束がある。」
「いいよ、砕けても。敬語じゃなくていいよ。」
「分かった。なら尋ねるけど、じいさんはどうしてもライアーズのコンサートに行きたいんだな?」
「うん。」
「だからベルトを買ってほしいと?」
「そう。要らん?」
「ベルトは要らないが、じいさんの情熱は伝わった。だから一本買おう。1000円でいいんだな?」
そう言って財布を取り出すと、じいさんはまた手を握ってきた。
「ありがとう!ありがとう!」
「そこまで感謝しなくてもいい。それに頭を上げてくれ。」
「あんた神様。ほんと神様。」
「1000円で神様か・・・・。ずいぶんと安くなったもんだな、神様も。」
じいさんはゴソゴソとビニール袋を漁る。どうやら一番綺麗なやつを選んでいるようだ。
「これ、短いけど。」
「本当に短いな・・・・・。子供用じゃないのか?」
「そう。だって子供の時に買ってもらったやつだから。」
「おいおい・・・・それじゃ思い出の品じゃないのか?」
「いいの、ライアーズ見たいから。はい。」
「・・・・・分かった。じゃあ1000円な。」
ベルトと交換に1000円を渡す。じいさんは嬉しそうにそれを見つめ。ポケットから小銭入れを取り出した。
そして丁寧に折って中に押し込み、「ありがとう!ありがとう!」と何度も頭を下げた。
「いい加減やめてくれ。ただベルトを買っただけだ。」
「じゃあね。今日の五時からだから。子供は無料だから。」
「ああ。じいさんもコンサートを楽しめよ。」
じいさんはニコニコと笑顔を振りまき、嬉しそうに去って行く。
「しつこくベルトを売りたがっていたのはこの為か。よっぽどコンサートに行きたかったんだな。」
俺は買ったベルトをクルクルと丸め、ポケットに押し込んだ。
コンサートが始まるまでまだ時間がある。
タカシに何か買っていってやろうと思い、途中にあるコンビニに寄っていく。
スナック菓子とジュースを買い、じんわりと暑い空気の中を歩いて行った。
チョンマゲは言った。ボスの座を巡って争うのは普通のことだと。
この町を仕切るカミカゼは、今その座を脅かされようとしていた。
いや・・・彼が負けるとは考えにくいから、危険が迫っているのはヘチョコとモミアゲの方かもしれない。
俺は魚獲りに奮闘するゴンベエたちの元を後にして、しばらく一匹で考えていた。
ボスの座を巡って、猫又同士が喧嘩をする。
それは正しいことなのかもしれないが、良い事なのかどうかは計りかねていた。
しかしじっと考えに耽っていても仕方がない。
時計の針が午後三時を差す頃、電車に揺られてタカシに会いに行った。
じいさんとばあさんに挨拶をして家に上がる。そして部屋の前まで来て、「タカシ」とノックをした。
いつもなら喜んで出て来るのに、今日は部屋に引きこもっている。
襖に耳を立ててみると、中からペンを動かす音が聞こえる。きっと絵を描いているのだろう。
「タカシ、まだ昨日のことを怒っているのか?」
「八兵衛は来なくていいです。」
「昨日は悪かったよ。どう描こうとお前の自由だ。出しゃばった俺が悪かった。」
「八兵衛は来なくていいです。」
「なあタカシ、今日は星と光の館に行かないか?久しぶりにプラネタリウムを見よう。」
「・・・・八兵衛は来なくていいです。」
「絵を描くには広い見聞・・・・、色んなものを見るのが必要だ。一緒にプラネタリウムを見よう。」
「・・・・八兵衛は来なくていいです。」
「どうしてそこまで怒る?いつもは一日あれば機嫌を直してくれるじゃないか。そんなに俺の言ったことが気に障ったのか?」
「・・・・来なくていいです。」
「タカシ、入ってもいいか?」
「来なくていいです。」
「・・・・学校で何かあったか?」
「・・・・・・・・・・・。」
「あったんだな?俺にグチグチ言われたくらいじゃ、お前はここまで怒らない。だから学校で何か言われたんだろう?」
「問題ありません。」
「いいや、ある。もしお前を傷つけた奴がいるのなら、俺はソイツを許さない。何があったのか教えてくれ。」
「問題ありません。」
「・・・・・入るぞ。」
俺は襖に手をかけ、ゆっくりと開けた。タカシは「問題ありません」と続けていたが、俺を見て黙り込んだ。
「タカシ・・・・何があったのか聞かせてくれ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「絵はちゃんと描いてるんだな・・・。どれ。」
「ん!」
「大丈夫だ、もう偉そうにアレコレ言ったりしない。隠さないで見せてくれ。」
そう言いながら近づくと、タカシは絵を捨ててしまった。
グシャグシャに丸め、ゴミ箱に押し込もうとしている。
「おいおい、せっかく描いたのに・・・・・、」
絵に手を伸ばすと、「これはダメです・・・・」と泣き出してしまった。
「分かった、この絵は見ない。でも・・・・そこまで嫌がる理由はなんだ?どうして泣く?」
「下手糞です。」
「ん?何が?」
「ソーセージと言われました・・・・。」
「ソーセージ?何のことだ?」
「タカシ君の絵はソーセージと言われました。」
「・・・・意味が分からない。タカシ、ちゃんと聞いてやるから、ゆっくり話せ。」
俺はタカシの頭を撫で、椅子に座らせた。そして膝ついて目線を合わせ、そっと手を握った。
「学校で・・・・何か傷つくことがあったんだな?」
「ソーセージと言われました・・・・。」
「それはお前の絵を見て、そう言われたんだな?」
「先生に見せました。ソーセージと言われました・・・。下手糞と言われました。」
「先生がそう言ったんだな?お前の絵は下手糞だと。」
「ソーセージと言われました。下手糞と言われました・・・・。」
「いいや、そんなことはない。お前の絵は立派だよ。・・・・・・それで、どの先生がそんな酷いことを言ったんだ?担任か?それとも図画の先生か?」
そう尋ねると、タカシはゆっくりと首を振った。一瞬だけ俺の目を見つめ、すぐに俯いてしまう。
ズズッと鼻すすり上げ、紅潮した頬に涙が伝っていく。
「タカシ、これは大事なことなんだ。いったどの先生がそんな酷いことを言ったんだ?」
「隣の先生・・・・・・。」
「隣?隣のクラスってことか?」
「四年二組です・・・・・。」
「名前は?」
「樋笠先生です・・・・。」
「じゃあ四年二組の樋笠っていう先生が、お前の絵に酷いことを言ったんだな?」
「ソーセージと言われました・・・・。」
「そこが分からない。その樋笠という先生は、いったい何を見てソーセージと言ったんだ?」
「ドルドル・・・・。」
「ドルドル?」
「ドルドルがソーセージと言われました・・・・。下手糞と言われました・・・・・。」
タカシは傷ついていた・・・・。小さな手が震え、頬がどんどん紅潮していく。
大好きなドルドルをソーセージだと揶揄されたこと、そして一生懸命描いた絵を下手糞と言われたこと。
そのせいでタカシは大きく傷つき、せっかく描いた絵をゴミ箱に捨ててしまった。
俺はそっとその絵を取り上げ、丁寧に広げた。
そこには昨日描いていた、孔雀に乗るドルドルが描かれていた。
背景は相変わらずで、逆さまのドリンクバー、壁についた椅子、そして首の長い店員がいる。
「・・・・タカシ、それはいつ言われたんだ?」
「昨日です・・・・。」
「そうか・・・・・。なら俺は、お前が傷ついているとも知らずに、アレやコレやと余計なことを言っていたわけだ。」
絵を見つめながら、昨日言ったことを思い出す。
その樋笠という教師を、俺は許せない。しかしその教師と似たようなことを、この俺自身がしていたのだと気づかされた。
「どう描こうと本人の自由だ。その道で飯を食ってるならともなく、好きでやってることなら、他人からアレやコレやと文句を付けられる筋合いはないよな。」
俺は丁寧に絵を引き伸ばし、机の上に置いた。
「もうくしゃくしゃになってしまったが、まだ完成じゃないんだろ?」
「・・・・・・・・・・・。」
「捨てちまうほど感情的になるってことは、それだけ真剣に描いていたってことだ。ほら、もう一度ペンを握って、最後まで描けばいい。」
そう言ってタカシの背中を撫でると、じっと絵を睨んでいた。
「ソーセージじゃありません・・・・。」
「ああ、これはソーセージじゃない。立派なゴリラだ。」
「下手糞かもしれません・・・・。」
「そこは認めるんだな・・・・。まあどんなことでも練習だよ。俺だって猫又になって10年、まだまだ失敗だらけだ。だから色々と周りに助けてもらってる。タカシだって、もし辛いことがあったら何でも言えばいい。」
一人で悩みを抱えるのは辛いことである。今俺に出来ることは、タカシの傍にいて支えてやることだ。
だからどんな悩みでも相談してほしかったし、思っていることがあるなら話してほしかった。
しかし・・・・それは無理強いできない。タカシが自分から口を開くまで、待つ必要があるのだ。
「タカシ、この絵が完成したら美術写真家に見てもらおう。」
「?」
「ほら、この前一緒に行っただろ、孔雀焼の写真店に。あの時にいたお姉さんだ。」
「綺麗な写真でした。」
「そうだな。彼女ならきっとお前の絵を真剣に見てくれるはずさ。だからその先生の言ったことは忘れろ。」
「・・・・ん。」
「よし!でも・・・もしまた酷いことを言ってきたら、その時は俺に相談しろよ。・・・・タダじゃおかない。」
思わず感情が高ぶり、目だけが猫に戻ってしまう。タカシはビクリと怯え、俺は「すまん」と謝った。
その日、タカシは頑張って絵を完成させた。夕食を食い、風呂に入った後も、真剣に色鉛筆を動かしていた。
絵は見る見るうちに完成していき、画用紙の中にタカシの世界が刻まれる。
そして夜の九時を回った頃、ようやく絵は完成した。
タカシは大きなあくびをし、布団に入って「問題ないそうです」と呟いた。
「何が問題ないんだ?」
「八兵衛が泊まっても、問題ないそうです。」
「じいさんがとばあさんがそう言ってたのか?」
「・・・・・・・・・。」
「独断か・・・・。悪いがさすがにお前の独断じゃ泊まれない。今日はもう遅いから、また明日会いに来る。」
「問題ないそうです。」
「・・・・いつか泊りがけで遠くへ遊びに行こう。」
「ムクゲも来ますか?」
「・・・・さあな。でももしこの町に戻って来たら誘ってみよう。三人でデカイ動物園にでも行かないかってな。」
「ん。」
「じゃあなタカシ、今日はぐっすり寝ろ。そして次の日曜日にでも、美術写真家に絵を見てもらおう。」
「んん!」
タカシは口元だけ笑わせ、嬉しそうに目を閉じる。そして布団から手を伸ばしてきた。
「分かったよ、寝るまで傍にいてやる。」
俺は小さなその手を握り返し、「おやすみ」とゆすった。
タカシはすぐに眠りに落ち、小さな寝息を立て始めた。
・・・・起こさないようにそっと手を離し、机に置かれた絵を見つめる。
孔雀に乗ったゴリラが、色鮮やかでちぐはぐなファミレスの中を飛んでいる。
「・・・・面白い絵だ。センスのない俺の詩より、遥かに良い出来だ。」
しばらく絵を見つめてから、部屋の電気を消す。居間にいたじいさんとばあさんに頭を下げ、「また明日来ます」と家を後にした。
今日、タカシに会って本当に良かったと思う。
一つはタカシと仲直り出来たこと、もう一つは彼の素晴らしい絵を見れたこと、そして最後に・・・・俺自身の悩みに答えが出たことだ。
「タカシは酷いことを言われても絵を完成させた。ちゃんと自分のやるべきことをやったんだ。ならば俺も・・・・自分に素直になるか。」
チョンマゲの話を聞いてから、ずっと悩んでいた。ヘチョコとモミアゲを放っておくべきか?それとも止めるべきか?
「散々考えたけど、やっぱり放っておくことは出来ない。しかしボスの座を巡って争うのも、また道理だ。ならば俺も、その戦いに参加するしかない。カミカゼの味方となって。」
夜道を歩きながら、遮断機の下りた踏切の前に立つ。
おそらく俺の力ではヘチョコに敵わないだろう。しかしモミアゲの方なら何とか戦えるかもしれない。
もし奴らがカミカゼに戦いを挑んだら、俺はすぐに加勢する。
その為にはカミカゼの傍にいないといけない。
「今日の夜中・・・・カミカゼは集会に来るだろうか?もしやって来たら、ヘチョコたちの企みを伝えないとな。」
踏切のランプが光り、赤く点滅しながら音を鳴らす。
電車が迫り、闇を切り裂いて走って行った。
*
喧嘩が強い・・・・・というのは、オスとして憧れるものだ。
その日の夜中、俺はオスとしてカミカゼに尊敬の念を抱いていた。
夜中の集会にやって来ると、カミカゼが先に来ていた。
そして彼の前には、ボロボロに傷ついた二匹の猫が横たわっていた。
「カミカゼ・・・・・。」
俺は息を飲みながら近づき、哀れに横たわる猫たちを見つめた。
「ヘチョコ、モミアゲ・・・・・。生きてるか?」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・息はしているな。でも当分立てそうにないな・・・・。」
二匹は辛うじて生きている。しかしこれでもかというくらいに叩きのめされていて、見るのも痛々しいほどだった。
どうしてこんなことになったのか、理解は一瞬で済んだ。
なぜなら俺のすぐ横に、堂々たる風格のボスが座っていたからだ。
「・・・・返り討ちにしたのか?」
そう尋ねると、カミカゼは怖い目で睨んできた。
「八兵衛、お前もコイツらの仲間か?」
「いいや、逆だ。お前に加勢しようと思ってやって来た。でも・・・・その必要はなかったみたいだな。」
「コイツらが俺を狙っていることを知っていたんだな?」
「ああ、昨日その二匹がコソコソ何かを話してたんだよ。それをチョンマゲに相談したら、カミカゼを倒してボスになるつもりなんだろうと。」
「そうか。・・・・で、チョンマゲはなんと?」
「ほっとけって言われたよ。」
「良い答えだ。なのにお前はここへやって来た。どうしてだ?」
「だから加勢する為さ。お前にこの事を伝えようと思って。でもとっくに事は終わってた。だからビックリしてるよ。」
「・・・そうじゃない。」
「ん?」
「どうして俺に加勢しに来たのか聞いてるんだ。」
そう言ってカミカゼは二匹を蹴飛ばした。
「おい!もうそれ以上は・・・・、」
「二度と反抗する気が起きないようにしてやる。」
「もう勝負はついてる。」
「いや、コイツらはきっとまた襲ってくる。特にこっちの若いのはな。」
カミカゼは牙を剥き出し、モミアゲの首に噛みついた。そして足で頭を押さえつけ、そのまま牙を食い込ませていく。
「よせ!死ぬぞ!」
俺は慌てて飛びかかったが、あっさりと振り払われた。モミアゲは今にも死にそうな声で、「助けて・・・・」と呟いた。
「カミカゼ!もうやめてやれ!苦しんでる!」
いくら叫んでもカミカゼは止まらない、そしてモミアゲを持ち上げ、そのまま地面に叩きつけた。
モミアゲの身体がバウンドし、ピクピクと痙攣して動かなくなる。
カミカゼはノシノシと近づいて行き、頭を踏みつけてこう言った。
「おい若僧・・・・・二つ選択肢をやる。好きな方を選べ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「一つ、ここで死ぬ。もう一つ、この町を去る。今すぐどっちか選べ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「聞こえん。はっきり言え。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「そうか。なら傷が癒えたらすぐに消えろ。次に見かけたら殺すぞ。」
そう言って踵を返し、今度はヘチョコの方に向かって行く。
そして同じように頭を踏みつけ、「お前がそそのかしたんだろ?」と睨んだ。
「モミアゲ一匹で俺と戦おうなんて思うわけがない。だからお前があの若僧をそそのかしたんだろう?」
「・・・・・・知るか。」
「そうかい。それはYESと受け取らせてもうらぞ。」
カミカゼはまた牙を剥き出し、ヘチョコに噛みつこうとした。その目は強い殺気がこもっていて、俺の背中がブルリと震えた。
「カミカゼ!」
咄嗟に割って入り、ヘチョコを引き離した。
「もういいだろう。ここまでやれば二度と反抗なんてしないさ。」
「何の保証もない言葉だな。次に襲ってきたら、お前が身代わりにでもなるってのか?」
「いいや、そんなのはゴメンだ。」
「ならどけ。お前ごと殺してもいいんだぞ?」
「無理だな。カミカゼはそんなことをするような奴じゃない。」
「以前ならそうだったかもしれない。でも今は違うぞ。」
そう言った瞬間、本当に飛びかかって来た。俺は力いっぱい抵抗したが、あっさりと組み伏せられてしまう。
そして首に牙を当てられ、グッと刺し込まれそうになった。
《マズイ!これは死ぬ!》
逃げようとしたが、俺の力ではビクともしない。変化の術を使おうにも、尻尾を踏まれているのでそれも無理だった。
《まさか本当に殺そうとするなんて・・・・俺の考えが甘かったか・・・・・。》
カミカゼなら絶対にこんな事をするはずがない。そうタカを括っていた自分の甘さに腹が立つ。
このまま牙を打ち込まれたら死ぬのは確実。しかし逃げる術もないので、もう・・・・どうしようもなかった。
「待て待て。落ち着けお前ら。」
・・・・突然よく知る声が響く。その瞬間に身体が軽くなり、自由に動けるようになった。
「だからほっとけって言っただろ。せっかくの忠告を無視するからこんなことに・・・・。」
そう言って俺の危機を救ったのはチョンマゲだった。いつもの温水洋一似の男に化け、その手にカミカゼを抱いている。
「チョンマゲ・・・・下ろせ。」
「八兵衛に手を出さないか?」
「・・・・邪魔をしないのならな。」
「だそうだ。八兵衛、もうこれ以上関わるな。」
そう言ってカミカゼを下ろし、俺の前に膝をついた。
「危うく死ぬところだったな。スリル満点だったか?」
「笑うところか・・・。それよりヘチョコを助けてやってくれ!このままでは殺される。」
「ああ、そうだな。でも仕方ない。失敗すれば殺されるなんて、それを覚悟の上でやったんだろうから。」
「頼むよ!お前だけが頼りなんだ!アイツを止めてくれ!」
「無理だよ。俺じゃカミカゼに勝てない。下手すりゃこっちまで殺されるからな。」
チョンマゲは俺を抱いたまま、植え込みの近くに腰を下ろした。しかも変化できないように、しっかりと尻尾を掴んでいる。
俺は「止めてくれ」と頼もうとしたが、やめた。いくら頼んだところで、チョンマゲはこのまま見ているだけだろう。
《いいさ。変化が出来ないならもう一つの術がある。》
俺は顔の横に浮かぶ見えない針を動かした。そしてしっかりとカミカゼに狙いを定める。
《ヘチョコは言っていた。読心の術は悟られたら無効化されると。しかし油断している相手なら通用するとも言っていた。》
今のカミカゼは普通じゃない。以前の彼と違って、何かが切れているように感じる。
その心を探る為に針を飛ばしたのだが、アッサリと防がれてしまった。
「俺の心を探ってどうするつもりだ?」
カミカゼがこちらに殺気を向ける。チョンマゲは咄嗟に身構えたが、俺は「下ろしてくれないか?」と頼んだ。
「危ないぞ。殺されるかもしれない。」
「じゃあその時は守ってくれ。」
「自信はないぞ?」
「いいよ。早く下ろしてくれ。」
チョンマゲはためらいがちに俺を下ろし、腕を組んで見下ろした。
カミカゼはまだ俺を睨んでいて、「どうして心を読もうとした?」と威圧してくる。
「どうしてって・・・いつものお前と違う感じがしたからさ。だから心を探ってその原因を掴めば、どうにか止められるんじゃないかと。」
「誰も変わってなんかいない。」
「いいや、さっき自分で言ったじゃないか。以前の俺とは違うって。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「チョンマゲが言っていたぞ。お前は優しい奴だって。だったら勝負のついた相手にトドメを刺すことはないだろう?」
「また襲って来るかもしれない。」
「でもモミアゲにはトドメを刺さなかった。」
「アイツには選択肢をやっただけだ。」
「じゃあヘチョコにも選択肢をくれてやれよ。」
「いや、コイツはそれなりの覚悟をもって挑んできたんだ。きっと死ぬ方を選ぶに決まってる。」
「・・・・じゃあチョンマゲは?コイツだって勝負に負けたのに、こうして生きている。それどころか町に留まることも認めてるじゃないか。」
「ソイツにはもう野心はない。放っておいても問題ないからそうしただけだ。」
「そうか。いくら言っても聞く耳を持たないんだな。ムクゲがいたらこんな事は許さないだろうに・・・・。」
何気なくそう呟くと、カミカゼはポロリとこぼした。
「・・・・アイツがいりゃ・・・・こんなことはしてねえよ。」
それはとても小さな呟きだったが、今までのどんな言葉よりも強い感情がこもっていた。
だから俺は尋ねた。「お前が変わった原因というのは、ムクゲと別れたからか?」・・・と。
カミカゼはすぐには答えなかった。しかしさっきまでの殺気はどこへやら、その目は「そうだ」と認めるように揺れていた。
「カミカゼ・・・・。これは俺の勘だけど、お前がボスになったのはムクゲと関係があるんじゃないのか?」
そう尋ねると、カミカゼは背中を向けた。太い尻尾をブンブンと振り回し、いかにも不機嫌そうにしていた。
「お前がボスになったのが40年前、そしてムクゲと付き合い始めたのも40年前。この二つに何か関係があるのか?」
「・・・・ない。」
「疑わしいな。この数字の一致が偶然とは思えな・・・・・、」
「そうじゃない。俺には何も無いと言ったんだ。」
そう言ってこちらを振り向き、また殺気の宿った目で睨んだ。
「お前の言うとおり、ボスになったことと、ムクゲと付き合い始めたことには関係がある。でもそれは、そんなに勘ぐるようなデカイ問題じゃないんだ。」
「じゃあ聞かせてくれないか?そのデカイ問題じゃないやつとやらを。」
「・・・・カッコをつけたかっただけだ。」
「カッコ・・・・?」
「ムクゲの前で、いい所を見せたかっただけだ。それ以外に理由はない。」
「・・・・それは・・・確かにデカイ問題じゃないな。」
「笑いたきゃ笑え。」
「まさか。実にカミカゼらしい理由だと思うよ。」
そう返すと、苛立たしそうに「チ!」と舌打ちをした。
「俺はな、ムクゲに出会うまで、メスなんざ遊び相手くらいにしか考えてなかった。散々相手を振り回して、飽きたらポイだ。」
「最低だな。」
「自覚はある。でもやめられなかった。しかし・・・・それを本気でやめようと思った瞬間がある。それがムクゲと出会った時だ。アイツは何度俺が言い寄っても落ちなかった。でも俺だって諦めたくなかった。だから何度も気持ちを伝えているうちに、こう言われたんだ。『あなたがボスになって、この町を立派に治めてくれたら付き合ってあげる』ってな。俺がボスになった理由はそれだけだ。そしてアイツに傍にいてもらう為に、常に良いボスでいようと決めた。」
「じゃあムクゲがいなくなったから、もう良いボスを演じるのはやめようと?」
「さっきも言っただろ。俺はただアイツの前でカッコをつけたかっただけだ。でも・・・・もういない。そして二度と俺の元には戻って来ない。だから今の俺には何も無い。ただボスの椅子があるだけで、これだけは失うわけにはいかないんだ。」
それを聞いて、ようやくカミカゼの本心が理解できた。
ここまで徹底的にヘチョコとモミアゲを痛めつけたのは、とにかくボスの椅子を守りたかったから。ただそれだけだった。
ならば確かに今までのカミカゼとは違う。今まではムクゲの為に良いボスを努めていた。
しかし今のカミカゼは、ボスであり続けることだけが目的だった。
この違いは大きく、カミカゼにとっても、この町の猫にとっても重要な問題だった。
「カミカゼ。」
今まで黙っていたチョンマゲが口を開いた。
「今日のところはこの辺で勘弁してやってくれないか?」
「お前も八兵衛と同じことを言うのか。」
「いいや、八兵衛より責任を持って言っている。もしそいつらがまた襲って来たら、俺が身代わりになってやる。」
「信用できない。」
「お前は俺をこの町に留まらせてくれた。負けたら殺されてもおかしくないのに、ちゃんとこの町で生きている。だからこれは恩返しみたいなもんだよ。」
そう答えると、カミカゼはじっと黙り込んだ。太い尻尾を振り回し、チョンマゲを睨んでいる。
「・・・・もういい。白けた。」
そう言って殺気を引っ込め、「その言葉に責任を持てよ」と釘を刺した。
「約束するさ。何かあったら俺が身代わりになる。お前に危害は及ばない。」
「最年長の猫又の言葉・・・・・信用しよう。」
カミカゼは踵を返し、ヘチョコに一瞥をくれてから去って行く。
黒い身体は夜の中へ溶け込み、すぐに姿が見えなくなってしまった。
俺とチョンマゲは顔を見合わせ、ホッとため息をつく。
どうなることかと思ったが、とりあえず誰も殺されなくてよかった。
俺は人間に変化し、傷ついた二匹を抱き上げた。そしてチョンマゲと共に集会所を後にする時、ふと後ろを振り返った。
誰もいなくなった集会所には、月明かりに照らされた血の跡が残っていた。
*
あれから十日が過ぎ、二つのニュースが舞い込んできた。
一つは喜ばしいニュース。しかしもう一つは残念なニュースだ。
まず嬉しいニュースの方から行くと、タカシの絵がある写真雑誌に掲載されたのだ。
美術写真家こと香川和佳子に絵を見せると、喜んで写真を撮り始めた。
和佳子の下した評価は、「私には分からない」だった。
タカシの絵を見て面白いとはしゃぎ、散々悩んで出て来た答えがこれである。
ハッキリ言おう。最高の答えだ!
分からないものを分かったように語る奴より、分からないものを分からないと言ってくれる人間の方が、よっぽど信用出来る。
和佳子は分からないながらもタカシの絵を気に入ってくれて、何枚も写真を撮った。
そしてタカシが絵を抱えた一枚が、写真雑誌のコンテストで一位となった。
別にこれはタカシの絵が評価されたわけではないが、タカシはとても喜んでいた。
そして賞を与えた審査員曰く、「くちゃくちゃになった絵を嬉しそうに持っているのが印象的」らしい。
まったくもって絵の評価とは関係ないが、タカシが喜ぶならそれでいい。
嫌味を言ってきた教師のことだけが心配だったが、あれからは特に何もないようである。
タカシはさらに絵に邁進し、今では風景も描くようになっていた。
自閉症を抱えた少年は、一歩一歩地道に未来の画家へと近づいている。
いつか本当の画家になるその時まで、俺はタカシを支えてやろうと決めた。
次に悪いニュースの方であるが、これはかなり寂しい出来事だ。
ヘチョコとモミアゲ、この二匹が町から去ってしまった。
モミアゲはこの町を去るしかなかった。死か追放かの二択を迫られ、この町からの追放を選んだのから。
アイツとはそこまで親しかったわけじゃないが、やはり仲間が去るのは悲しい。
そしてヘチョコの方であるが、彼もまたこの町を去ってしまった。
カミカゼに傷つけられたあの夜、すぐに夜間診療をやっている動物病院に連れて行った。
ヘチョコもモミアゲも命に別状はなかったが、心に刻まれた傷は大きかった。
モミアゲは傷が治るとすぐに町から出て行ったが、ヘチョコはしばらく悩んでいた。
チョンマゲのおかげで一命を取り留め、とりあえずはその事に感謝していた。
しかし時間が経つにつれて、俺たちとは話さなくなってしまった。
特に夜中の集会所にはまったく顔を見せなかった。カミカゼと鉢合わせする可能性があるから、当たり前といえば当たり前だが・・・。
しかしだんだんと朝と夕方にも顔を見せなくなり、どうしているのだろうかと心配になっていた。
すると昨日、「ヘチョコならもう来ないわよ」とハルが言った。
「他の猫が噂してたの。ヘチョコはこの町を出たって。いったい何があったんだろ?八兵衛は何か知ってる?」
俺は「知らない」とだけ答え、今に至るまで沈んだ気持ちでいた。
「あんな大喧嘩があった後じゃ、町にいづらいのは分かる。でも・・・・やはり寂しいな。」
ムクゲ、ヘチョコ、モミアゲ、この半年の間に、三匹も猫又がいなくなってしまった。
俺が生まれる前からこの町にいた猫たちが、たった半年でも三匹も去っていくなんて・・・・。
「異常といえば異常だが、誰かが去る時なんてそんなものかもしれないな。」
そう言って自分を納得させ、植え込みの中で昼寝を続けた。
今は集会の時間ではない。だから誰もいないし、誰の声も聞こえない。
でも去って行った仲間のことを思うと、みんなの声が聞こえてきそうだった。
誰もいない静寂の中、陽射しが降り注いで植え込みに影を作る。
俺はその影を見つめながら、消えた猫又たちのことを思い続けていた。
桜の季節が終わり、木々は青い葉を茂らせている。
これはこれで綺麗なもんだと思い、腕枕をしながら見上げていた。
「なあタカシ。たまには風景も描いてみたらどうだ?」
隣で絵を描くタカシに問いかけると、「風景は描きません」と答えた。
「どうして?お前は背景を描くのは苦手だろ?良い練習になるじゃないか。」
「必要ありません。」
「そんなことだと未来の巨匠になれないぞ。もう四年生になったんだ。苦手なことにも挑戦しないと。」
タカシは不満そうに黙り込み、黙々とペンを走らせる。
未来の画家は実に気難しい性格をしていて、俺の意見など聞いちゃいない。
画用紙には孔雀に乗るゴリラが描かれていて、背景はなぜかファミレスの中。
これはこれで面白い絵だが、やはり背景が雑すぎる。
いくらなんでもドリンクバーが上を向いているのはあり得ないだろう。
「なあタカシ、ドリンクバーは下を向いているんだ。じゃないとジュースがこぼれるだろ?」
「問題ありません。」
「それと椅子の並びもおかしいぞ。さすがに壁には椅子はない。誰も座れないからな。」
「問題ありません。」
「それと入口は七つものない。一つあれば充分だ。」
「問題ありません。」
「他にもおかしな所がある。まず窓の形だが、どうして人の顔をしているんだ?
それに店員の首が長すぎる。これじゃ六ろ首みたいだ。あとフォークとナイフの形だが・・・・・、」
細かく説明していくと、タカシは急に絵を描くのをやめた。そして画材を抱えて玄関に向かって行く。
「タカシ?」
呼んでも返事をせず、そのまま中へ消えようとする。俺は慌てて追いかけ、「待て待て」と手を掴んだ。
「そう不機嫌になるな。」
「・・・・・・・・・。」
「別に嫌味で言ったんじゃない。ただお前ならもっと上手く描けると思ったから・・・・、」
「家の中で描きます。」
「タカシ・・・・。俺はただ・・・・、」
「八兵衛は来なくていいです。」
「機嫌を治してくれ。ちょっと言い過ぎた、悪かったよ。」
「家の中で描きます。八兵衛は来なくていいです。」
タカシは俺の目を見ようとしない。下を向いたまま、むっつりと怒っている。
こうなったらしばらくは機嫌が直らず、ここは潔く退散するしかなかった。
「分かった、今日はもう帰るよ。明日また来る。」
「八兵衛は来なくていいです。」
「じゃあな。夜更かしするなよ。風呂と歯磨きも忘れるな。」
「・・・・・・・・・。」
タカシは家の中へ引っ込んでいく。ピシャリと引き戸が閉められ、擦りガラスの向こうにシルエットが消えていった。
「・・・・ちょっと言い過ぎだったか。まあ一日経てば機嫌も治るだろう。」
俺は踵を返し、庭の外へ出て行く。そして家を見上げて「また明日な」と呟いた。
タカシと出会ってから半年が経った。最初の頃は感情を読むのに苦労したけど、今では手に取るように分かるようになっていた。
もちろん読心の術など使っていない。俺とタカシにそんなものは必要ないし、何よりアイツの心を覗くなんて、それは俺たちの友情に対する裏切りになる。
半年という時間を共にすることで、俺たちは通じ合えるようになった。
多くの言葉を交わさなくても、確かに気持ちの交換が出来るようになった。
しかし・・・そこには一抹の不安もあった。
理解し合うということは、喜びだけでなく痛みや傷も分け合うということだ。
さっきタカシの絵に指摘したことは、明らかに余計なお世話だった。
タカシはただ自分の世界を描いているだけ。それは分かっているのだが、妙な親心が芽生えたせいで、アレやコレやと口を出したくなってしまう。
そしてタカシもまた、度々俺に反発するようになった。以前ならグッと我慢していたことも、今ではハッキリと口に出して表現する。
俺たちは理解を深め、さらに良い友達になった。しかしそれと同時に、ぶつかることも多くなったような気がする。
猫との付き合い方なら熟知しているが、人間の子供となるとそうはいかない。
この先もタカシと良い友達であり続ける為に、俺は努力を続けなければならない。
白紙の画用紙に、二人の未来を描いていくように・・・・・。
「まあ・・・・また明日だ。今度はちゃんと絵を褒めてやろう。」
鼻歌を歌いながら、錆びた踏切を越えて行った。
*
その日の夜中、俺はいつものように夜中の集会に来ていた。
ムクゲがいなくなったのは寂しいが、それでも徐々に慣れてきた。
そのおかげで寂しさは少なくなったが、このまま慣れ過ぎると、いつか忘れてしまうんじゃないかと怖くなる。
そのことをヘチョコに話すと、「考えすぎだよ」と笑われた。
「お前が本当にムクゲのことを想ってるなら、いつまで経っても忘れないはずだ。」
「そいうもんか?」
「そういうもんだ。俺なんかこんなに禿げ禿げだけど、抜けていった体毛のことは忘れない。一本たりともな。」
「なるほど・・・・本当に大事なもんは、いつまで経っても覚えてるってことだな?」
「そういうことだ。でもその分失った時の痛みは辛い。今じゃ朝起きる度に、毛が抜けてないか怯えてるんだ。」
「もう毛なんてないじゃないか。残ってるのはヒゲだけだ。」
「いいや、産毛がある。よく見るんだ。」
じっと目を凝らして見てみると、確かに薄い体毛があった。
「な?ちゃんと生えてるだろ。」
「そうだな。だったら大切にしないと。」
ムクゲのことを相談していたはずなのに、いつの間にか産毛に話がすり替わっている。
中身のない会話はいつものことだが、それでもちょっとだけ話を戻した。
「大事なものは絶対に守らなきゃいけない。でも失う時がやってきたら、どういう心構えをしたらいい?」
「なんだ?何かを失いそうなのか?」
「分からない。今はまだ大丈夫だろうけど・・・・・。でもいつかタカシが大人になったら、俺には見向きもしなくなるんじゃないかと・・・・、」
「なんだよお前、人間のガキに親心が芽生えたのか?」
「どうもそうらしい。最近ぶつかることも増えてな。」
「そりゃ大変だな。それを解決する答えはたった一つだけ、さっさとそのガキから離れることだ。」
「それは出来ない。俺のせいで孤独の呪いがかかってるからな。一人にしたら死んでしまうかもしれないんだ。」
「だったらずっと一緒にいてやることだ。例えどんなに嫌われてもな。」
「嫌われてもか・・・・。辛いな。」
「どうして?」
「いや、どうしてと聞かれても・・・・・、」
「お前がタカシとやらと一緒にいるのは、孤独から守ってやる為だろ?ならお前を必要としない時が来たら、それは孤独から解放されたってことだ。むしろ喜べ。」
「分かってるさ。分かってるが・・・・・・。」
ヘチョコの言うことは正しい。そんなことは俺も分かっている。しかしタカシと一緒にいたいという気持ちは誤魔化せない。
妙な親心を抱えてしまったが為に、この先色々と悩むことになりそうだった。
「なあヘチョコ。その・・・・タカシが孤独から解放される日は来るのかな?」
「ん?」
「いや、いいんだ・・・・。呪いを解く方法を聞きたいわけじゃない。」
「聞いても教えないからな。それもまた・・・・、」
「猫又のルール。それはもう知ってるよ。ただ・・・・・知りたいんだ。この先タカシの呪いが解ける可能性はあるのかと?」
「それはお前次第さ。呪いを解く方法さえ見つけられれば、タカシは救われる。しかしそれと同時に、お前を必要としなくなる時でもあるけどな。」
「またそこに戻って来るのか・・・・・。」
俺はがっくりと項垂れ、タカシとの未来を憂う気持ちに潰されそうだった。親ってのは、いつでもこんなストレスに晒されるものなのか・・・・。
「悩め悩め、若いうちはたくさん悩んで、ストレスを抱えて禿げりゃいいんだ。」
ヘチョコはそう言ってあくびをし、「今日はもう帰るか」と踵を返した。
そしてトコトコと去って行く途中、遠くの方からモミアゲがやって来た。
二匹はお互いの姿に気づき、尻尾を上げて挨拶をする。
「ヘチョコ、捜してたんだ。」
モミアゲはタタッと駆け寄り、「ちょっと聞いてほしいことがある」と言った。
「ああ、この前の嬢のことか?ありゃあちょっと態度が悪かったよなあ。いくら新人でも、もう少し教育してもらわないと・・・・、」
「違うよ、ナナコちゃんのことじゃない。ていうかあの子は良い子だ。」
「ほほう、あんなのが好みか?」
「嬢の好みを話しに来たんじゃない。カミカゼのことで相談があるんだ。」
それを聞いたヘチョコは、急に真顔になった。そして俺の方を振り返り、モミアゲにヒソヒソと耳打ちをした。
二匹は背中を向け、何やら頷き合っている。そしてそのままどこかへ去ろうとした。
「おい、二匹してなんだよ?何をヒソヒソ話してた?」
「いいや、別に。」
モミアゲは俺を睨み、なぜか目を逸らす。そしてヘチョコの方も目を合わせようとはしなかった。
「俺に聞かれたらマズイことでもあるのか?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「答えないつもりか・・・・。いいさ、それなら最近覚えた術で心を覗いてやる。」
俺は見えない針を飛ばし、心の壁に刺そうとした。
「・・・・・・ん?なんだ?針が刺さらない。」
不思議に思って首を捻ると、二匹から笑われた。
「八兵衛よ、お前は未熟だな。」
ヘチョコがケラケラ笑いながら近づいて来る。俺は「何がだ?」と睨み返した。
「いいか、猫又の術は万能じゃないんだ。いつでも力を発揮できると思うなよ。」
「・・・・どういう意味だ?」
「猫又の術は、どれも世の中の常識を超えている。だから悪用されないように、色々と制約が設けられているんだ。」
「知ってるよ。」
「そしてその制約の中には、術が無効化されるってことも含まれてる。」
「無効・・・・?」
「ああ。例えば読心の術の場合だと、相手に術を悟られると無効化される。こちらの心を読まれないように、心の壁を厚くすればいいだけだからな。」
「なんだそりゃ?防ぎ方があるってことか?」
「そういうことだ。俺たち猫又は、お互いが読心の術を使えると知っている。だからよほど油断している時じゃないと、その術は効かないってことだ。残念だったな。」
「・・・・・また俺の知らない事実が・・・・。」
「だから未熟だと言ったんだ。お前がもうちょっとベテランの猫又だったら、俺たちの仲間に加わってもらうんだがなあ・・・・。」
そう言ってヘチョコは笑い、後ろのモミアゲを振り返った。
「さて、どこか別の場所へ行って相談しよう。」
「そうだな。じゃあな、八兵衛。」
二匹は俺を残して去って行く。なんだか強い疎外感を感じ、それと同時に猜疑心が湧いてきた。
「あの二匹・・・・何かを企んでるのか?」
猫又同士が手を組み、何やら企みを練っている。これは・・・・・・ちょっと放っとけない。
もし良からぬことを企んでいるのなら、事を起こす前に阻止しないといけない。
「こういう時に一番頼りになるのがムクゲだった。でももうアイツはいない。となると・・・・・相談できるのはカミカゼかチョンマゲだが・・・・。」
そう呟いて、先ほどの二匹の会話を思い出した。
「カミカゼがどうとか言っていたな。ということはカミカゼもあの二匹の仲間という可能性が・・・・・・。」
しばらく悩み、目を閉じて尻尾を振る。
「・・・・チョンマゲだな。ここは奴に相談するしかない。最年長の猫又だし、良い意見を聞かせてくれるだろう。」
俺はうんと背伸びをし、二匹が去った闇を睨みつける。
「ヘチョコはともかく、モミアゲはちょっと野心的なところがあるからな。余計な事を起こさなきゃいいが・・・。」
米粒ほどの不安が胸の中に落ち、べっとりとへばりついて離れない。
無視してもいいほどの小さな不安だが、やはり・・・・・気になる。
誰もいなくなった集会所を見渡し、良くない事が起こらないように願った。
*
次の日の朝、俺は近所の小川に来ていた。
草が高々と茂り、猫の大きさならすっぽり隠れてしまうほどだ。
その草むらを抜け、小川の傍に立つ。
そこではゴンベエとハル、そしてチョンマゲが川を睨んでいた。
三匹とも真剣な顔で目を寄せていて、チョンマゲが「今だ!」と叫んだ。
ゴンベエは「ほ!」と川に飛び込み、手足をもがいて溺れていた。
「なんで飛び込むのよ!手を入れるだけでいいのに!」
ハルが慌てて助けに行き、ゴンベエの首根っこを咥えて引き上げる。
「・・・・死ぬかと思った。」
そう言って本当に死にそうな顔で震えていて、俺に気づいて「ほほ!」と叫んだ。
「八兵衛じゃないか!なんでこんな所に?」
「他の猫から聞いたんだよ。」
「そうか・・・・。お前も俺の為に駆けつけて・・・・、」
「違う。俺はチョンマゲに会いに来たんだ。お前の魚獲りを応援しに来たわけじゃない。」
「なんだ、冷たい奴め。」
ゴンベエはブルブルと水を飛ばし、再び川を睨んだ。
「ゴンベエ、もう落ちちゃダメよ。」
「いいや、俺は魚獲りを極めるんだ。そうしたらいつでもハルに魚を食べさせてやれるだろ?」
「ゴンベエ・・・・・。その身の丈に合わない頑張りが素敵・・・・。」
二匹はじっと川を見つめ、獲れそうな魚を探している。俺は「まあ頑張れ」とエールを送り、チョンマゲを振り返った。
「お前がゴンベエを手伝うとはな。あまり他の猫に興味のない奴だと思っていたが?」
そう尋ねると、「そりゃ誤解だよ」と笑った。
「自分で言うのもなんだけど、俺は元々面倒見のいい性格なんだ。」
「初耳だな。」
「そう言われるのも無理はないよ。ここ10年くらい、俺はかなり冷たい猫だったかもしれん。でも最近昔の自分を取り戻したんだよ。お前のおかげさ。」
「俺の?」
「ああ、だって和佳子さんの誤解を解いてくれただろ?」
「あれは誤解じゃなくて、チョンマゲが誤解だと思い込んでいただけだ。」
「そうだな・・・。でも八兵衛が手を貸してくれなかったら、きっと今でも悩んでいたと思う。俺は誰からも恨まれていない。そう思うと心が軽くなって、昔の自分が戻って来たんだ。」
チョンマゲは嬉しそうに言い、魚を獲る二匹に目を向けた。
「もし・・・・もしまた誰かから恨みを買ったら?俺が手を貸したせいで、また誤解されたら?そう思うと、困っている者がいても手を出せなかった・・・・。」
「ドルドルは助けたじゃないか?」
「あれは・・・・そうだな。ちょっとだけ昔の自分が疼いたのかもしれない。ほんの気紛れさ。」
そう言って肩を竦め、「それで?」と問いかけてきた。
「さっき俺に会いに来たって言ってたけど、何か用か?」
「ああ。実はヘチョコとモミアゲのことなんだが・・・・・、」
俺は昨夜の集会のことを話した。二匹がコソコソと何かを企んでいたこと。どうも良からぬ雰囲気を感じたこと。
そのことを話すと、チョンマゲは「ほっとけ」と言った。
「どうして?もし悪いことを企んでるなら・・・・、」
「その心配はない。」
「楽観的だな。何かあってからじゃ遅いぞ?」
「大丈夫だよ。猫又の術を使って悪さを働いたら、それこそルールを犯すことになる。まあ死ぬ覚悟があるなら別だけど、アイツらにそんな度胸はない。」
「ルール・・・またルールか。なあ、いったいそのルールは誰が作ってるんだ?」
「まだ知らなくていい。」
「案の定の答えだな。まあいい、アイツらは放っておいても大丈夫なんだな?」
「ああ、悪さは出来ない。でもその代わり・・・・ボスが交代するかもな。」
「ボス?何のボスだ?」
「この辺り一帯を仕切ってる猫又のボスだ。」
「へえ、そんな奴がいるのか。いったい誰だ?」
「カミカゼ。」
「アイツが・・・・・?」
顔をしかめて驚いていると、「お前・・・・無知が過ぎるだろ・・・」と呆れられた。
「カミカゼはこの町からカシミヤ町までを仕切ってるボスなんだ。アイツは喧嘩も強いし、見た目とは裏腹に意外と優しいところがある。だから20年ほど前からボスをやってるんだ。」
「へええ・・・・そうなのか。でも納得だよ、カミカゼならボスの器を持ってる。多少理不尽はところはあるけど。」
「猫なんて元々そんな性格だよ。俺がボスの座を譲って40年、アイツは上手くやってる。」
「ん?聞き間違えかな・・・・?なんか理解しがたい言葉が聞こえたけど・・・・。」
「ああ、いいよ。そういう反応をされるのは慣れっこだ。でも俺は40年前までこの町を仕切ってたんだ。でもカミカゼにその座を追われた。本当なら行き場を失くして彷徨う予定だったけど、カミカゼは俺がこの町に留まることを許してくれたんだ。アイツは・・・・・優しい奴だよ。」
そう言って川に目を向け、「今だ!」と叫んだ。ゴンベエはまた川に飛び込み、そのまま流されていく。
それをハルが助け、「もう・・・・」と苦笑いを見せていた。
「カミカゼがボスになったのはいい事だ。ゴンベエみたいなドジな猫でも、ちゃんと仲間として認めてくれる。
それに身内が襲われていたら助けてやるし、弱い者イジメなんて絶対にしない。
アイツがボスの座についてから、どれだけこの町の猫たちが平和に暮らしてることか・・・・。」
「お前がボスの時代はそうじゃなかったのか?」
そう尋ねると、「さっきも説明しただろ」と怒られた。
「俺は和佳子さんのことがあったから、なるべく他の奴らに関わらないようにしていたんだ。」
「じゃあ今ほど平和じゃなかったと?」
「・・・・そうだな。外敵には目を光らせていたけど、身内のことはほったらかしだった。だから猫同士の喧嘩は絶えなかったよ。まあそれを見かねたカミカゼが、俺を倒してボスになったんだけどな。」
「へええ、アイツは昔っから喧嘩が強かったんだな。」
「まだ猫又になって20年ちょっとだったよ。なのに200年以上もキャリアのある俺が負けた。しかもその後は上手く町を治めてる。アイツがどれだけ凄い奴か分かるだろ?」
「ああ、アイツのことを見直したよ。正直ムクゲのことがあってから、ちょっと酷い奴だなと思っていたんだ。」
「アイツは不器用なだけなんだ。心の底では、今でもムクゲのことを想ってるはずさ。」
「そうか・・・・。いや、いい話が聞けてよかったよ。不安も解消されたし、これでゆっくり昼寝が出来るってもんだ。」
そう言って草むらに寝転がると、チョンマゲは難しい顔で空を見上げた。
「どうした?そんな顔して?」
「いや・・・・もしかしたらとも思ってな。」
「何が?」
「カミカゼだよ。もしかしたら・・・・アイツはボスの座を追われるかもしれない。」
急に不吉なことを言うので、昼寝どころではなくなった。
「どうして?」と尋ねようとした時、またゴンベエが川に落っこちた。
「おいバカップル!ちょっと静かにしてくれ。」
「まあ酷い!親友が川に落ちたのよ?」
「これで三度目だ。学習しない方が悪い。」
ハルは「酷い友達」と怒り、ゴンベエを助けに行く。
俺はチョンマゲを睨み、「ボスの座を追われるってどういうことだ?」と尋ねた。
「ヘチョコとモミアゲだよ。アイツらは何かを企んでいたんだろ?」
「ああ。・・・・・もしかして、アイツらはカミカゼからボスの座を奪うつもりなのか?」
「だろうな。ヘチョコは顔には出さないが、あまりカミカゼのことは良く思っていない。それにモミアゲは野心的なところがある。だから結託してカミカゼを倒すつもりなんだろう。」
「そりゃ大変じゃないか。すぐにやめさせないと!」
「ほっとけ。」
「なんで!?無駄な争いが起きるかもしれないんだぞ?」
「無駄じゃない。ボスは常にその椅子を狙われるもんだ。寝首を掻く奴が出て来てもおかしくない。」
「そんな・・・・じゃあお前は奴らを止めないのか?」
「ああ。」
「冷たいな・・・。ムクゲがいたらきっと手を貸してくれただろうに・・・・。」
そう皮肉を飛ばすと、「俺がボスのままでよかったか?」と呟いた。
「今この町の猫が平和に暮らせるのは、カミカゼが俺を倒してボスになったからだ。」
「カミカゼはいい奴だ。でもヘチョコとモミアゲは・・・・・、」
「そんなことを今言ったって意味がない。誰だって頂点に立つ時は手段を選ばないもんだ。それは人間も同じで、長いキャリアの中でたくさんそういう奴を見てきた。野心のある奴は、アレやコレやと手を使って上の者を引きずり下ろす。そしていざ頂点に立つと、意外と良い政治をする殿様だっていたんだ。だから猫だって同じかもしれないだろ?」
「ならヘチョコとモミアゲなら良いボスになれると?」
「さあな。そればっかりはなってみないと分からない。けどボスの座を巡って喧嘩をするのは、別に特別な話じゃないんだよ。
だからアイツらのことはほっとけ。どうせ返り討ちに遭うのが落ちだろうしな。」
そう言ってゴンベエの元に行き、「お前は下手クソ過ぎる。よく見とけ」と狩りの手ほどきをしていた。
俺は魚を獲る三匹を見つめながら、カミカゼのことを思っていた。
《カミカゼ、お前はボスの座を狙われているぞ。そのことに気づいているのか?俺はお前に味方して一緒に戦った方がいいか?それとも・・・・チョンマゲの意見に従って、大人しくしていた方がいいのか?・・・・・こうやって困った時、やっぱりムクゲが必要だよな。アイツならきっと良い意見をくれるだろうに。》
チョンマゲの意見は、実に筋が通っていたと思う。ボスの座を巡って争うのは、きっとどこの世界でも一緒だろう。
それはその通りだと分かっているのだが、どうしてもカミカゼにはボスでいたもらいたかった。
「お前が負けるところは見たくないな・・・・・。」
どうやら俺は、カミカゼを応援しているらしい。もし・・・・もしヘチョコとモミアゲが奴に襲いかかったら、俺は黙って見てはいないだろう。
ボスの座を巡る戦いが特別なものじゃないとしたら、気に入ったボスに手を貸すのも特別なことじゃないはずだ。
流れる小川を見つめながら、これからどうするべきかを考える。
川面が滑るように流れていき、ゴンベエが溺れて波紋を立たせていた。
目の前を多くの若者が歩いて行く。
ほとんどの若者が茶色い髪をしていて、色とりどりの服装も、よくよく見れば皆同じように感じる。
それを見つめながら、俺は「個性とは何だろうか?」とぼんやり考えていた。
チョンマゲの頼みを聞いた翌日の昼、俺は電車で一時間も離れた大学に来ていた。
キャンパスはとても広く、サッカー場が三つくらい入りそうな大きさだった。
レンガ模様の校舎がいくつも並んでいて、随分と金の掛った学校であることが窺える。
「大学か・・・・。ガキか大人か分からん奴らが大勢いるな。」
俺はタカシと共に校門の前に立ち、出入りする学生を眺めていた。
「真面目そうな奴もいれば、遊んでそうな奴もいる。大学ってのは色んな奴がいるな。」
「ん。」
「お前もいつかこういう所へ通うのか。入学式には出てやるからな。」
そう言って校門の前で待っていると、温水洋一に似た男が走って来た。
「チョンマゲ、遅いぞ。もう二時前だ。」
「す・・・すまん。ちょっと緊張してしまって・・・。朝からお腹の調子が・・・・。」
「そりゃ大変だ。ここでやめとくか?」
「そうしたいけど、そうもいかない。和佳子さんは俺の教え子なんだから、なんとしても誤解を解きたいんだ。」
「冗談だよ。あ、そうそう、タカシもついて来ちゃったんだけど・・・問題ないよな?」
そう言って握った手を揺らすと、「コブ付きかよ・・・」と不満そうにした。
「学校はどうしたんだよ?サボったのか?」
「今日は日曜日です。」
「ああ、そうだったな・・・・。猫ってあんまり曜日の感覚がないもんだから・・・・。」
「明日は月曜日です。」
「親切にどうも。」
チョンマゲは苦笑いを返し、真顔になって俺を睨んだ。
「・・・・で?読心の術は使いこなせるようになったか?」
「努力はしたよ。でもたった一晩じゃ無理がある。」
「まあ・・・・仕方ないよな。でも多少は上達したんだろ?」
「さあな。結果はその目で確かめてくれ。」
俺はキャンパスの中に顎をしゃくり、「早く写真部へ行こう」と促した。
「彼女は来てるんだろ?」
「ああ。きっと昨日の孔雀焼の写真を見てるはずだ。」
「じゃあ案内してくれ。」
チョンマゲは無言で頷き、腹をさすりながら中へ入って行く。「腹が・・・・」と顔をしかめながら。
「漏らすなよ。」
「保証は出来ない・・・・。」
恐ろしいことを言いながら、慣れた足取りで大学の中を進んで行くチョンマゲ。
グラウンドを越え、五階建ての校舎を越え、そして学生が集まる広場を越えて、階段を下りて行った。
それからグルリとキャンパスを沿うように、木立の茂る細い道を歩いて行った。
桜が空を彩り、散った花弁が道に華を添えている。
カメラを持った学生が何人かいて、桜に向けてシャッターを切っていた。
「もうすぐ写真部だ。あのボロい校舎の二階に入ってる。」
「辺鄙な場所にあるんだな。立派な大学なんだから、もっといい場所を使わせてもらえばいいのに。」
「ここは体育系の部活が優先なんだ。文化部は隅に追いやられてる。」
「どうして?ここは美大だろ?なんでスポーツが優先になる?」
「意外とスポーツが強いんだよ。あと何年かしたら、美大の看板を外して普通の大学になるかもって噂だ。」
「なんだよそりゃ・・・・。なら最初から体育系の大学にしとけよ。」
「スポーツが強くなったのは後からだ。特にバスケとボクシングがな。芸術の方はまったく評価されていない。学生も授業より部活の方を真面目にやってるって話さ。まあ文化部の方は遊んでるようなもんだけど。」
「それでいいのさ。文化にしろスポーツにしろ、肩の力を抜いて楽しくやるもんだ。」
俺はタカシの手を引き、「な?」と笑いかけた。
「絵は本気です。遊んでません。」
「・・・そうだったな。こりゃ失敬。」
写真を撮る学生たちを尻目に、ボロい建物へと向かう。
それは薄いグレーの雑居ビルのようで、所々にヒビが入っていた。
チョンマゲは建物の前まで来ると足を止め、じっと二階を見つめた。
「和佳子さんはきっとあの部屋にいる・・・・。バレないように侵入しないと。」
「じゃあ猫に戻るよ。タカシのことを頼んでいいか?」
「ああ、しっかりやってくれよ。お前だけが頼りなんだから。」
チョンマゲはまた腹をさすり、辛そうに顔を歪める。俺はタカシを預け、「ちょっと待っててくれ」と頭を撫でた。
「ん!」
「大丈夫だ、すぐ戻って来る。後でこのおじさんがパフェを奢ってくれるから、良い子にしてるんだ。」
タカシは素直に頷き、チョンマゲの手を握った。
《コイツが懐くなんて珍しいな。チョンマゲの奴、案外子供に好かれやすいのかもしれないな。》
俺はもう一度タカシの頭を撫で、変化の術を解いた。そして猫の姿に戻ると、近くの木に跳び上った。
「・・・・二階までなら行けそうだな。じゃあチョンマゲ、ちょっと行って来る。」
「おう、気をつけてな。」
「ん!」
二人に手を振られながら、俺は木を駆け上った。
そして細い枝の先を歩き、二階の角ばった出窓に飛び乗った。
「・・・・ここが写真部か?」
出窓の向こうには二人の学生がいて、机に置かれたパソコンを睨んでいた。
その横にはカメラが置いてあり、ケーブルでパソコンと繋がれていた。
「昨日撮った写真を見てるのか?」
首を伸ばし、パソコンの画面を覗いてみる。するとそこには見事な孔雀焼が写っていた。
「ほお、こりゃ上手く撮ってる。さすが美術写真家を目指すだけあるな。」
しばらくパソコンの画面に見入っていたが、今日は写真を見に来たのではないことを思い出す。
俺は「にゃお」と鳴き、ガラス窓を叩いた。
すると和佳子は「?」と振り向き、こちらへ歩いて来た。一緒にいた若い男も、その後ろをついて来る。
「猫・・・・?」
「にゃお。」
「よくこんな所まで上って来たね。危ないよ。」
そう言って窓を開け、俺を抱き上げた。
「可愛い猫。毛並みが綺麗だから野良じゃないね。」
「なお〜。」
「よく懐くねえ。やっぱり飼い猫?」
和佳子は「よしよし」と俺を撫で、慣れた手つきで喉を掻く。
俺はゴロゴロと鳴いてみせ、さらに甘えた。
「香川、猫なんかほっとけよ。早く写真を選ばないと。」
「いいよ、写真なんか。」
「なんで?これめっちゃ上手く撮れてるぞ。展示すりゃ受けるって。」
「どうせマニアしか見に来ないよ。」
「元々そういうもんだから仕方ないだろ。だいたい中に動物を入れるのは禁止だぞ。」
男はイラついたように言い、パソコンの方へと戻って行った。
「これ、赤い壺の方が絶対にいいって。深みもあるし、品がいい。こっちの孔雀模様は好みが分かれると思うぞ?」
「あ、そ。」
「ちゃんと選べよ。猫なんかほっとけって。」
「うるさいな。勝手に手伝ってるクセに文句言わないで。」
和佳子はそう言って椅子に腰かけ、膝の上に俺を乗せた。そして仰向けに寝かせて、緩やかに腹を撫でた。
「男の子ね。立派なもんが付いてる。」
「にゃお。」
「去勢してないってことは、やっぱり野良猫?」
もはや俺の虜となった和佳子は、写真をほったらかして撫でていた。
そしてパソコンからカメラを取り外し、レンズを向けてシャッターを切った。
「いいねえ、そのまま大人しく。」
大きなレンズが俺を捉え、湾曲して姿を反射させている。すると男は「もういいだろ」と立ち上がり、俺を抱き上げた。
「ちょっと!撮ってるんだから!」
「いつから動物カメラマンになったんだよ?そういうの嫌ってるだろ。」
「だからうるさいって。あんたこそいつから彼氏になったつもり。誰も頼んでないのに勝手に入って来て・・・・。早くバスケに戻りなよ。」
「この前試合が終わったから暇なんだよ。」
「私は暇じゃない。ていうか猫を返して。」
そう言って強引に俺を奪い取り、「ほらほら、もういいから帰って」と男を押した。
「ミスキャンパスの彼女が待ってるんでしょ。さっさと行ってあげなよ。」
「俺はああいう女は嫌いなんだ。」
「私はあんたみたいな強引な男が嫌いなの。知ってるでしょ?」
「小四の時の先生だろ?あの人いい人だったじゃん。まあお前の猫を死なせたのはアレだけど・・・・。」
「もういいから!早く出てけ!」
和佳子は男の尻を蹴り上げ、そのまま外に押しやった。そして「もう勝手に来ないでよ」と釘を差し、バタンとドアを閉めた。
「うざいわ・・・・まったく。何度もフッてるのに彼氏面するなよ。」
そう言いながらパソコンの前に座り、「はあ・・・」と息をついた。
「私も猫になりたい・・・・。」
「な〜お。」
「・・・・・もし野良だったら、君を飼ってあげたいんだけどねえ・・・。でも・・・・、」
和佳子は悲しそうに口を噤み、パソコンを睨んだ。
「聡史め・・・・陶芸のことなんか分からないクセに偉そうに・・・・。まあ私も分からないけど。」
不機嫌そうに言い、マウスをクリックして写真を送っていく。見事な孔雀模様の焼き物が映し出され、「綺麗だねえ」と笑った。
「陶芸のことは分からないけど、この孔雀模様はすごく素敵。本当に孔雀が羽ばたいてるみたいだもん。今まで色んなものを撮って来たけど、これが一番綺麗。ほら、見てみ。孔雀の羽みたいでしょ?」
そう言って画面を見せ、「動物・・・・撮りたいな・・・」と漏らした。
「私ね、本当は動物カメラマンになりたかったんだ。星野道夫さんとか、岩合光昭さんとか、あんな凄い動物写真家になることを夢見てた。でも・・・・・もうその夢は捨てちゃったんだ・・・・。」
悲しそうにそう言い、俺を見て微笑んだ。
「君って不思議な猫だね。どうしてこんなことを喋ってるんだろ?もしかして実は人間とか?」
「にゃお。」
「なんか人間臭い感じがするんだよね。もしかして化け猫だったりして。」
そう言って可笑しそうに俺を揺らし、再びパソコンに目をやった。
「私も昔に猫飼ってたんだよ。小さいカメラで毎日撮ってた。
でもね・・・・・ある日死んじゃったんだ。ううん、あれは私が殺したっていう方が正しいかもしれない・・・・。」
辛そうに言葉を吐き出し、グっと喉を詰まらせている。じんわりと目尻が濡れ始め、誤魔化すようにマウスを動かした。
「・・・・・・・・・・・・・。」
さっきまでペラペラ喋っていたクセに、急に何も言わなくなってしまう。
術を使うならこのタイミングだなと思い、見えない針を動かした。
《・・・動くけど・・・・扱いが難しい。ちゃんと刺さってくれよ。》
そう願って、ヘソの下を狙って針を飛ばす。なんとか上手く刺さってくれたようで、頭の中に声が流れ込んできた。
「・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・む?」
彼女の本音を知り、思わず声が漏れてしまう。するとその途端にギョッと驚かれ、訝しそうな目で睨まれた。
「・・・・今、む?って言ったよね?」
「にゃお。」
「いやいや、確かに言ったでしょ?もういっぺん言ってみて。」
そう言って目の前に俺を持ち上げ、熱い視線を送られた。
「私はオカルトなんて信じないけど、でも・・・・世の中には普通じゃ説明出来ないことがあるのも知ってる。だから・・・・君も普通じゃないんでしょ?」
「・・・・なお。」
「なんかわざとらしい・・・・。ねえ、もう一回なんか喋ってよ。」
・・・・緊急事態である。まさかこんな形で正体を見破られそうになるなんて・・・・。
彼女の心から漏れる声は、明らかに俺を疑っていた。絶対に普通の猫じゃないと、心の底から確信している。
《こりゃマズイ!早々に退散しないと・・・・・。》
もし正体がバレたら、新たな被害者が出てしまう。俺のせいで、これ以上不幸に巻き込まれる者を出したくなかった。
《疑惑は疑惑。俺が認めなければいいだけだ。ここで退散すれば問題ないが、しかし・・・・・、》
しかし、ここで逃げるわけにはいかなかった。俺は彼女の腕から飛び出し、パソコンに映る孔雀焼を叩いて見せた。
「何?それがどうかしたの?」
「にゃお。」
「君もそれが気に入ったの?」
「・・・・・・・・・・。」
「何その変な動き。誰のマネ?」
「・・・・・・・・・・。」
「分かんない。いったい何を伝えようとしてるの?」
和佳子は首を捻り、困った顔を見せている。俺は《ダメか・・・・》と項垂れ、がっくりと手を付いた。
その時に誤ってキーボードを押してしまい、パソコンの写真がコマ送りされた。
スライドショーのように次々と写真が入れ換わり、その中にアイツが写っていた。
「な!な!」
思わず言葉を喋りそうになるのを我慢し、端っこに写ったアイツを叩く。
和佳子は「この人は・・・」と目を向け、コマ送りを停止させた。
「これ・・・・荒川さんじゃない。あの下手クソな陶芸家の。」
和佳子が止めた写真は、孔雀庵の中を写したものだった。真ん中に大きな皿があり、その端っこでチョンマゲが見切れている。
「にゃお!」
「この人がどうしたの?」
「・・・・・・・・・・。」
「また変な動き・・・・。分かんないよ。」
「・・・・にゃお。」
「あ、どこ行くの!?」
俺は机から飛び降り、窓際にジャンプした。そしてサッと木に飛び移り、和佳子を振り返った。
「危ないよ!戻っておいで!」
和佳子は手を伸ばし、「ほら」と呼び寄せる。俺は一回だけ尻尾を振り、「なお」と鳴いてから木を下りた。
そしてチョンマゲの所まで戻ると、「早く逃げるぞ!」と走り出した。
「おい!俺の誤解は解けたのか!?」
チョンマゲはタカシを抱えながら追いかけて来る。
俺は「その必要はない」と答え、一目散に門に向かった。
「八兵衛!こっちから出られる!」
チョンマゲは細い道を左に曲がり、その先にある裏口まで駆けて行った。
そして駐輪所を通り抜け、大きな道路に出てから立ち止まった。
「なんなんだよ・・・・いきなり走り出して・・・・。何があったんだ?」
そう言いながらタカシを下ろし、ボロい建物を振り返った。
「お前・・・・もしかして正体がバレんじゃないだろうな?」
「まさか。でも危うかった。」
「おいおい・・・・頼むぜ。下手したら孤独の呪いがかかって死んじまうだろ。」
「もしそうなったらお前が傍にいてやればいい。俺とタカシみたいに。」
そう言ってタカシに目を向けると、「ん!」と駆け寄って来た。
「まあとにかく、和佳子の心は分かった。」
「おお、そうか!で・・・・俺のことをどんな風に思ってた?まだ誤解してたのか?」
「いいや、その逆だ。」
「逆?」
「彼女は誤解なんかしてない。それどころか、お前に謝りたがっていたぞ。」
「なんで?彼女は俺が猫を死なせたと思ってるんだぞ?」
チョンマゲは訝しげに顔をしかめる。
俺は「歩きながら話すよ」と答え、タカシの手に尻尾を巻いた。
「とりあえず喫茶店に行こう。タカシ、約束のパフェを奢ってもらおうな。」
「ん!」
俺はタカシの手を引いて歩いて行く。
チョンマゲは後ろをついて来ながら、「誰も奢るなんて言ってないぞ・・・」とぼやいていた。
*
翌日、俺は夕方の集会に来ていた。
いつものように猫たちが集まり、その中で一匹だけ浮かない顔をした奴がいた。
「はああ・・・・緊張するなあ・・・。」
「大丈夫だ。この前言った通り、和佳子はお前を恨んじゃいない。彼女はただ・・・自分を責めていただけなんだ。」
「・・・・そうだな。俺は恨まれてもいなし、誤解もされてないんだよな?」
「そうだ。だから緊張する必要なんてないよ。彼女に会いに行こう。」
俺は集会所から歩き出し、「ほら」と尻尾を振った。
チョンマゲはコクリと頷き、まるで切腹でもしに行くかのように、悲壮な表情をしていた。
俺たちは途中で人間に化け、電車に乗ってタカシの街に向かう。
そして駅を出て、真っ直ぐに孔雀庵まで歩いた。
店の前まで来ると、チョンマゲは足を止めた。電柱の陰から首を伸ばし、「来てるかな・・・」と不安そうに呟く。
「八兵衛、ちょっと見て来てくれないか?」
「ここまで来てビビるな。行くぞ。」
チョンマゲの腕を掴み、店の前に立つ。そしてドアを開けて中に入ると、和佳子が写真を撮っていた。
「あ!」
チョンマゲを見て顔を上げる和佳子。カメラを持ったままこちらに歩き、「どうも」と微笑んだ。
「ええっと・・・・どうも・・・。」
固くなりながら頭を下げるチョンマゲ。そわそわと慌て始め、俺の後ろに隠れようとした。
「荒川さん。」
名前を呼ばれ、チョンマゲは「はい・・・」と前に出て来る。和佳子は彼の前に立ち、「昨日変な猫が来たんです」と言った。
「部室にいたら猫が迷い込んで来て、荒川さんの写真を見て何かを伝えようとしていました。」
「は、はあ・・・・。」
「いったい何を伝えたかったのか分からないけど、でも・・・・きっと大事なことなんだと思います。
だから今日ここへ来ました。荒川さんに会う為に。」
「・・・・そう・・・ですか・・・・。」
「これは私の勝手な想像ですけど、あの猫って化け猫なんじゃないかと思ってるんです。なんか人間みたいに『む?』とか言ってたし、とても猫とは思えない雰囲気を出してたし・・・・。その猫が、荒川さんのことで何かを伝えようとしてました。だから・・・・知り合いなんですか?あの猫?」
そう尋ねられて、チョンマゲは俺を振り返った。
「僕の猫なんです。そして彼とは友達で。」
前に出てそう答えると、和佳子はじっと俺を睨んだ。その目は獲物を狙う獣のように鋭く、そして深く澄んでいた。
《マズイな・・・・・。これ疑ってるぞ。》
人間というのは、稀に恐ろしいほど感覚の鋭い奴がいる。和佳子の目はそういった人間特有の、ある種の怖さを備えていた。
「・・・・・・猫っぽい。」
「は?」
「昨日の猫は、人間っぽい目をしていました。でも・・・・あなたは猫っぽい目をしてる。だからもしかして・・・・、」
そう言いかけた時、チョンマゲが「和佳子さん!」と叫んだ。
いきなり呼ばれた和佳子は、「はい?」と髪を揺らした。
「唐突ですが、阿川という教師を知っていますか?あなたの小学生の時の担任なんですが・・・・。」
遠慮がちにそう尋ねてから、「この店であなたを見た時から・・・・ずっと尋ねたかったことがある」と言った。
「ええ、知ってますよ。でもどうして荒川さんがあの人のことを?」
「・・・・知り合いなんです。その・・・・彼はずっとあなたのことを気にしていたんです。ほら、あなたが学校に猫を連れて来た時に、写真を撮ろうと言ったでしょう?」
「・・・・ええ。ちょうど図画工作の時間だったから、先生はそう言いました。カメラを持ってるから、今日は動物でも撮ってみようって。」
「あの時・・・・あなたの猫をモデルにしました。窓際に座らせ、生徒たちに交代で撮影させたんです。」
「覚えてますよ・・・・。窓際だと逆光になるから、反対側の窓に移そうとしたんです。」
和佳子は当時のことを思い出すように、伏し目がちに語った。そしてチョンマゲも同じように目を伏せていた。
しかしすぐに顔を上げ、真っ直ぐに和佳子を見つめた。
「猫を移動させる時、あなたが抱こうとした。でも何人かの男子が、ふざけて猫をからかったんです。
そうしたら猫はビックリして、あなたの手から飛び出して・・・・・、」
「はい・・・・。」
「男子は猫を追いかけ、女子はやめなよと言って止めようとしていました。クラスはちょっとした騒ぎになり、猫はますますパニックになった。そして廊下まで駆け出し、そのまま窓際に飛び乗った。」
「・・・・・・・・・・。」
「男子たちは女子を押しのけ、猫に手を伸ばそうとしました・・・・。このままでは猫は追い詰められ、外に落ちてしまうかもしれない。阿川はそう思ったから、咄嗟に猫を抱えようとしたんです。でも・・・・・、」
チョンマゲはそこで口を噤み、言葉を溜めた。和佳子は顔を上げ、じっと言葉の続きを待つ。
二人の間に静かな空気が流れる。まるでテレパシーのように、お互いの考えていることを理解しているような顔をしていた。
「阿川が手を伸ばしたその瞬間、猫は外へと落ちてしまいました。・・・・いや、あれは・・・自分で飛んだんです。逃げ場を失くしてパニックになり、窓の外へ飛び出してしまった。そしてそのまま落下して、硬い地面に叩きつけられてしまった・・・。窓は三階、しかも下は固いアスファルトです。あなたの猫は・・・・一瞬で絶命した・・・・。」
チョンマゲは辛そうに言い、また言葉を溜める。緊張がぶり返したのか、腹をさすっていた。
「あの瞬間・・・・和佳子さんは阿川に飛びかかった・・・。とても子供とは思えないような鬼の形相を見せて・・・。泣き、喚き、怒り、拳を握って殴りつけ、他の教師に止められても、まだ暴れていた。『ミントを殺した!コイツが私の猫を殺したああああああ!!死ね!お前なんか死ねええええ!!』そう言って・・・・・ずっと暴れていた・・・・。普段の大人しいあなたからは考えられないほどの、見事ともいうべき怒りっぷりだった。」
「・・・・・全部覚えてます・・・・。」
「あなたは亡くなった猫の元に駆け寄り、まるで自分まで死にそうに泣いていた。その日はお母さんが迎えに来られて、そのまま早退しましたね・・・・。そして私はこってりと絞られた。勝手に授業の内容を変更して、猫を撮影しようとしたこと。そもそも、どうして生徒がペットを持って来たことを咎めなかったのか?それどころかその猫を死なせてしまい、もし訴えられたらどうするつもりだと・・・・・。校長は顔を真っ赤にして怒り、教頭はあなたの家に電話を入れていました。
私は・・・・自分が情けなくて、その場から消えてしまいたかった・・・・・。
猫を助けられなかったこと、教え子を傷つけてしまったこと・・・・・。そしてあんなに悲しむあなたを見て、もう会わせる顔がないと思った・・・・。だからその日に教師を辞めたんです。周りからは『たかが猫くらいで』と止められたが、それは私には受け入れられない意見だった。なぜなら私も・・・・・、」
そう言いかけた時、俺は「待て」と止めた。
「荒川さん、冷静にならないと。その先を言ってしまったら彼女は・・・・、」
小声で耳打ちすると、チョンマゲは我に返って「ああ!」と叫んだ。
「それとな・・・・途中から一人称が変わってたぞ・・・・。阿川から私になってた。」
「・・・・・・・マジで?」
「マジだ。彼女を見てみろ。」
そう言って指を差すと、和佳子は泣きそうな顔で瞳を揺らしていた。そして目の前までやって来て、深く頭を下げた。
「・・・・・ごめんなさい!」
「え?や・・・あの・・・・・、」
「あの時・・・・私のいた位置からだと、先生がミントを突き落としたように見えたんです。だから頭に血が昇っちゃって・・・・本当にごめんなさい!」
「い、いや・・・・別に謝る必要は・・・・、」
「後から知ったんです・・・・先生が突き落としたんじゃないってこと・・・・。でもその時には、もう先生はいなくなっていたから・・・・。ミントが死んだのは私のせいです。勝手に学校に連れて来て・・・・私がそんなことをしなければ・・・・。」
和佳子は項垂れ、グイッと目尻を拭った。そしてゆっくりと顔を上げ、「ごめんなさい・・・」と呟いた。
「ずっと先生に謝りたいと思っていたんです・・・・。あれは私のせいなのに、先生に酷いことを言って・・・・。でも先生・・・・。私気づいてましたよ、あの後ちょくちょく私に会いに来ていたこと・・・・。」
そう言われて、チョンマゲはギョッとしていた。
「いや、私は一度も・・・・・、」
「猫・・・・。」
「へ?」
「頭にチョンマゲ模様のある猫がね・・・・よく庭に来ていたんです。それでじっと私のことを見ているんですよ。私はカメラを向けたけど・・・・でも撮れなかった・・・。ミントのことを思い出すと、もう動物を撮る気にはなれなかったから・・・・。」
「ああ、いや・・・・、」
「いいんです。これは私の勝手な妄想ですから。あなたは先生じゃない。だって私の知ってる先生は、福山雅治似のカッコいい人だから。」
「あ・・・・あの!和佳子さん!私は決して・・・・、」
「分かってます。あなたは荒川さん。阿川先生じゃない。ただ・・・・先生とそっくりの目をしてる。だから懺悔のつもりで謝っただけです。阿川先生に会ったら、私が謝っていたと伝えておいて下さい。」
和佳子はそう言ってカメラをしまい、「それじゃ」と頭を下げた。
そして店を出て行く途中、ふと俺の方を見た。
「よかったらまた部室に遊びに来て。」
「・・・・なんのことかな。」
「ふふふ、どうしても正体を認めるつもりはないのね。」
「意味が分からないな。」
「いいよ、これも私の妄想だから。」
そう言って俺の腕を叩き、ドアを開けて出て行く。しかしふと足を止め、バッグの中から何かを取り出した。
「これ、よかったら来て。」
「ん?孔雀の写真展?」
「そう。ここの焼き物の写真を展示するの。まあ合同展示だから私の写真だけじゃないけどね。他の人は本物の孔雀を撮ってる。」
「そうか。是非行かせてもらうよ、友達と一緒に。」
そう言って案内ハガキを振り、「な?」とチョンマゲに笑いかけた。
「・・・ああ、絶対に行くよ。」
和佳子はニコリと頷き、手を振って出て行った。
「ああ、ちょっと!」
「何?」
「あのさ、どうしてここの焼き物に拘るんだ?」
「ん?」
「動物を撮りたくないのは分かる。でもどうしてそんなに孔雀焼に拘るんだ?他にも美術品はあるだろうに。」
そう尋ねると、和佳子はカメラを構えて答えた。
「一つは美しいから。でももう一つは・・・・・やっぱり動物を撮りたいから。陶器の中に孔雀の羽を見せるなんて最高じゃない。」
「ああ、俺もそう思う。あの孔雀模様は実に美しい。」
「本物の動物を撮るには・・・・・まだ抵抗がある。でも器の中の動物なら大丈夫。それに本物の動物とは違った美しさがあるからね。」
そう言ってカメラを掲げ、軽快な足取りで去って行く。俺は彼女の背中を見送り、じっとハガキを見つめる猫又に「帰るか?」と言った。
チョンマゲは何も言わずに頷き、俺たちは家路についた。
そして次の日の夕方、チョンマゲは集会に顔を見せた。和佳子の写真展は来月だそうで、タカシと三人で行こうと誘われた。
俺は「もちろん行くよ」と答え、タカシの喜ぶ顔を想像した。
しかしその時、おかしなものが目に入った。それはハルとゴンベエが並んで歩く姿で、いつものようにイチャイチャとしているのだ。
「おいチョンマゲ。あれを見ろ。」
惚気るバカップルを見て、チョンマゲは「喧嘩してないな・・・」と首を捻った。
「心の不満はダダ漏れのはずなのに・・・・どうしてだ?」
そう言ってまた首を捻り、実に不思議そうな顔をしていた。
「・・・・和佳子の言葉を借りるなら、これはただの妄想だけど・・・・、」
そう前置きして、俺はバカップルを見つめながら答えた。
「心から漏れるのは、不満や愚痴だけじゃないってことだろう。愛とか友情とか、それに後悔とか謝罪の念とか、色んなものが相手に伝わるんだ。あの二匹は不満よりも愛情の方が勝っていた。それがお互いに伝わって、仲直りしたんじゃないかな?」
そう答えると、チョンマゲは「いい妄想だ」と笑った。
「和佳子の心からも、お前に対して謝罪の念が漏れていた。読心の術はリスクもあるけど、使いようによっては悪いものじゃない。人でも猫でも、心に描くのは嫌な想いばかりじゃないからな。」
そう言って笑うと、「それもいい妄想だ」と笑い返された。
俺より10倍も長く生きているチョンマゲは、こんなことなど百も承知だろう。
でも長く生きているからこそ、見失うものもあるのかもしれない。
チョンマゲは憑きものが落ちたようなスッキリした顔で、バカップルがイチャつくのを眺めていた。
- 2014.12.27 Saturday
- 15:06
人間とは不思議なものだ。
何の変哲もない土から、目を見張るほど美しい皿を作り出す。
いや、皿だけではない。湯飲み、箸置き、茶碗、ありとあらゆる造形を土から生み出す。
しかもそこに色までつけて、まるで宝石のような美しさに仕上げるのだ。
ドロドロとした土が、名人や職人と呼ばれる人間の手にかかると、元が土だとは信じられない芸術品が出来る。
そう・・・・陶芸である。
梅が終わって桜が咲く頃、俺とタカシは『孔雀庵』という店に来ていた。
ここは孔雀焼という珍しい陶器を焼く店で、タカシの要望に応えてやって来たのだ。
「ん!ん!」
「おお、どれも綺麗だな。」
店は狭いが、その中に惚れ惚れするような陶器が並んでいる。
茶碗、湯飲み、箸置き、それに大きな皿に、真っ赤な壺。
タカシは目をキラキラと輝かせ、そっと手を伸ばした。
「コラ!触るな。」
そう言って手を引っ込めさせると、店の女主人が「いいんですよ」と笑った。
「どうぞ手に取って見て下さい。」
「すみません・・・・。」
俺は頭を下げながら、「そっとだぞ」と注意した。
タカシは嬉しそうに湯飲みを触り、その形容しがたい美しさに見入っていた。
「ん!」
「ああ、本当に綺麗だ。まさに孔雀の名に相応しい。」
孔雀焼とは、その名の通り孔雀から取っている。
あの鮮やかで派手な模様、そして色彩。それが陶器の表面にぴったりと滲んでいる。
「基本は赤なんだな。でも緑が混ざっていたり、金色に見える部分もある。青が混ざっている物もあるな。」
地は赤が基調。しかし水彩絵具を滲ませたように、様々な色が混ざっている。
かき混ぜたようにうねる物もあれば、点々と滲んでいる物もある。
それに赤が絶対の基調というわけではなくて、青味がかった器もあった。
「・・・・銀河系・・・だな。孔雀以外に例えるとしたら、銀河の煌めきを見ているようだ。」
やや大げさな表現だが、でも的は得ていると思う。
俺はしばらく陶器を眺め、奥の棚にある赤い壺を指差した。
「あれは真っ赤ですね。あれも孔雀焼ですか?」
そう尋ねると、女主人は「ええ」と笑った。
「他の物と同じ釉薬を使っています。」
「うわぐすり?」
「陶器に塗る色のことですよ。例え同じ釉薬を使ったとしても、窯で焼くと変化するんです。
あの赤い壺は孔雀模様になっていないけど、でも綺麗だから置いているんです。」
「確かにあれはあれで美しい。鮮やかなの紅葉のような・・・・それでいて紅葉よりもずっと深い赤色だ。」
そう例えると、「詩人ですね」と笑われた。
「言葉にこだわりを持っているんです。まあセンスはないですが。それよりも同じ釉薬とやらを使って、こうも仕上がりが異なるとは・・・・。」
「陶器の色は火の加減で決まるんです。窯の火が最後の仕上げをするんですよ。」
「仕上がるまで色が分からないわけだ?」
「そうです。ほら、お椀の底に色が溜まっているでしょう?」
「・・・・ああ、本当だ。」
「これは焼いている時に釉薬が垂れているんです。こうやって自然の動きに任せることで、様々な色合いが出るんですよ。」
「なるほど・・・・こりゃ面白い。」
俺はお椀の一つを手に取り、じっくりと眺めてみた。どれとして同じ模様のものはなく、全てが窯の火に任せられている。
自然と職人技の融合・・・・・素直に感心させられた。
「いや、いい物を見せて頂きました。ちなみにこの陶器を焼かれているのは?」
「私です。」
「え?ご主人が?」
「意外でしたか?」
そう言って笑う女主人。俺は「てっきり作務衣を着た気難しいじいさんだと思ってました」と答えた。
すると主人は口を押さえて大笑いし、「私が三代目です」と答えた。
「先代は父、二代目は母、今は私が継いでいるんです。」
「へええ・・・・そりゃ凄い。まさか作った本人から説明を受けていたなんて。」
「いえいえ。」
主人・・・・もとい、この優れた芸術家は、ニコニコと笑顔を絶やさず説明を続けてくれた。
そしてしばらく陶器を楽しんでから、一番安い箸置き手に取った。
「タカシ、これ買ってやる。」
「ん。」
「いやいや、さすがにその壺を買うのは無理だ・・・・。こっちで我慢してくれ。」
「・・・・・・・。」
「あからさまに落ち込むなよ。もし俺が宝くじを当てたら、あの壺を買ってやるから。」
「そんな日は来ません・・・・。」
「冷静な意見を返すんじゃない。いつかきっと買ってやるから。」
俺は箸置きを差し出し、「これを」と言った。
主人は「ちょっとお待ち下さい」と奥へ引っ込み、丁寧に包装してから渡してくれた。
「ありがとうございます。ほら、タカシ。」
「んん!」
「嬉しいか?来た甲斐があったな。」
タカシは袋の入った孔雀焼を抱きしめ、口元を笑わせていた。
《喜んでるな。もう少し表情が出ればいいが、まあ焦ることはない。顔では分かりにくても、確かに喜んでいるんだから。》
長く一緒にいるせいで、乏しい表情からでも感情が読み取れるようになった。
タカシは俺の手を取り、「ん」と揺すった。
「ああ、家に帰って絵を描くか。今日は孔雀を描いてみたらどうだ?」
そう言いながら主人に頭を下げ、店を出て行く。
細い道を歩きながら、「まさか通学路にこんな店があったなんてなあ」と呟いた。
「タカシ、お前よく見つけたな。」
「ガラスで見えました。」
「そうだったな。ガラス越しに見える孔雀焼に目を惹かれたんだもんな。」
店はガラス張りになっていて、外からでも陶器が見えるようになっている。
タカシは一瞬で目を奪われ、「孔雀がいます」と俺を誘ったのだ。
「やっぱり将来は画家だな。もっと練習しろよ。」
そう言って帰ろうとした時、ふと足を止めた。
「ちょっと待て。今のは・・・・。」
さっき・・・店に向かって一人の男が入って行った。人間で例えるなら温水洋一みたいな顔をしていて、くたびれたジャンバーを着ていた。
「あれは・・・・チョンマゲか?」
人間に変化しているが、俺の目は誤魔化せない。同じ猫又同士、感覚でその正体を見破ってしまうからだ。
「アイツ何してるんだろう?」
気になったので、店の前まで戻ってみる。そしてガラス越しに中を覗くと、チョンマゲが作務衣に着替えていた。
「何だ?どうしてあんな格好を・・・・・。」
「ん。」
「どうした?」
タカシは道の先を指差す。すると一人の若い女がやって来て、俺たちをチラリと見てから店に入って行った。
女は真剣な目で陶器を見つめ、熱い視線を送っている。
そしてカメラを取り出し、パシャパシャと撮影し始めた。
チョンマゲはその後ろでそわそわとしていて、息を飲みながら固まっていた。
「何を緊張してんだ?」
じっと様子を窺っていると、チョンマゲは女に話しかけた。固い表情で愛想を振りまき、ふとこちらを見て驚いていた。
「よう。」
そう言って手を挙げると、チョンマゲは慌てて出てきた。
「八兵衛!ここで何やってる!?」
「何って・・・・これだよ。」
そう言ってタカシの持つ袋を指差すと、「買い物か?」と顔をしかめた。
「ああ。タカシがどうしても来たいっていうもんだからな。で?お前は何をやってるんだ?作務衣なんか着てるけど。」
「決まってるだろ。陶芸家だよ。」
「はあ?」
「前にも言っただろ。俺は芸術に興味があるって。」
「もしかして・・・・ここに弟子入りしたのか?」
「いいや、ここは弟子は取らない。だから俺一人でやっている。」
「なんだ、自称陶芸家か。」
「芸術家なんてみんな自称だ。資格があるわけじゃない。」
「そりゃそうだな。で?ここで何をしている?」
「だから・・・・陶芸家だよ。」
「それじゃ意味が通らない。ここは弟子は取らないんだろ?じゃあなんで来てるんだ?」
そう尋ねた時、タカシが「ん」と店を指差した。するとさっきの若い女が出て来て、主人に頭を下げていた。
そしてチョンマゲに向かって「陶芸、頑張って下さい」と言い残し、カメラをいじりながら去って行った。
「ああ・・・和佳子さん・・・・、」
チョンマゲは手を伸ばして呼び止める。しかし女は聞こえていないようで、角を曲がって消えてしまった。
「知り合いか?」
そう尋ねると、「ああ」と答えた。
「美大生なんだ。美術写真家を目指しているらしい。」
「美術写真家?」
「美術品を専門に撮影する写真家だよ。」
「へえ、そんなジャンルがあるのか?」
「いや、自称だ。」
「そうか。まあ資格はいらないもんな。自ら名乗れば、今すぐにでも美術写真家だ。」
興味もなくそう言うと、チョンマゲは「分かってないな」と呟いた。
「美術品の撮影は難しいんだ。本物より汚く写ってはダメだし、かといって綺麗過ぎてもダメ。
その美術品の、ありのままの姿を撮影する技術が要求されるんだ。」
「・・・・と、彼女が言っていたのか?」
「まあな。」
「そりゃご立派。さあタカシ、そろそろ帰ろうか。」
「ん。」
「待て待て。その態度は癪に障る。」
チョンマゲは俺たちの前に回り込み、「茶でも飲みに行こう」と言った。
「なあ僕、パフェ食べたくないか?」
「・・・・・・・・・。」
「じゃあプリンだ。ケーキがいいか?」
「特に必要ありません。」
「・・・・じゃあ何がいい?ハンバーグか?海老フライか?」
「特に必要ありません。」
「頑固なガキめ。じゃあハンバーグとケーキを両方・・・・・、」
「いい加減にしろ。タカシは物で釣られるほど馬鹿じゃない。」
「色鉛筆は必要です。」
「おお、なら買ってやろう。八兵衛は何が欲しい?」
「・・・・・タカシ。こんな怪しいおじさんを相手にしちゃダメだ。帰るぞ。」
今日のチョンマゲはいつもと違う。コイツが子供に愛想を振りまくなんて有り得ない。
嫌な予感を感じた時は、早々に退散するに限る。
「じゃあなチョンマゲ。また集会所で。」
そう言ってタカシの手を引き、チョンマゲの横を通り過ぎる。すると腕を掴まれて、「このことは誰にも言わないでくれ・・・」と呟いた。
「どうして?お前が芸術好きってことくらいみんな知ってるだろ。」
「そうじゃない。和佳子さんに会ってることだ。」
「ああ、美術写真家か。別に言わないよ。お前が誰に熱を上げようと自由だ。いちいち言いふらしたりしない。」
そう言って腕を振り払うと、「ほら、それだよ!」と指をさされた。
「そうやって誤解するだろ。だから嫌なんだよ。」
「誤解?違うだろ。どう見たってあの美術写真家に想いを寄せてるじゃないか。」
「いやいや・・・想いを寄せてなんかいないよ。これでも300年近く生きてるんだ。あんな若い子に本気になったりはしない。」
「じゃあ遊びか?」
「それも違う。というより、男女の関係を頭から外してくれ。」
チョンマゲは困った顔で言い、薄くなった頭を掻いた。
どうやら事情がありそうだが、それを尋ねようかどうしようか迷った。
《コイツは檻の中のゴリラの頼みを叶えてやったんだ。だったら今の悩みはそれより重いということになる。
下手に関わると、余計な面倒事に巻き込まれる可能性が・・・・。》
チョンマゲはまだ困った顔をしていて、腕を組んで視線を泳がせていた。
《・・・・・いや、こんな考え方は冷たいか。ここまで困ってるんだ。同じ猫又として、悩みを聞いてやるくらいはしてやるか。》
俺は「お茶、行ってもいいぞ」と言い、「ただし奢りだ」と付け加えた。
「おお!本当か!持つべきものは友だな。」
「何か悩みがあるんだろう?力になれるかどうかは分からないが、聞くだけなら聞いてやるさ。」
そう言ってからタカシを見つめ、「このおじさんがパフェ奢ってくれるぞ」と言った。
「色鉛筆が必要です。」
「うんうん、それも買ってもらおう。」
「パフェはやぶさかではありません。」
「難しい言葉を知っているな。じゃあ両方奢ってもらうか。」
「ん!」
「ということだ。早速お茶に行こう。」
そう言って歩き始めると、チョンマゲのぼやきが聞こえてきた。
「どっちも奢るなんて言ってないぞ・・・・。いったいどういう躾をして・・・・・、」
愚痴を聞き流し、近所の喫茶店に歩いていく。
タカシは「鉛筆!パフェです!」と喜び、孔雀焼が入った袋を揺らしていた。
*
次の日の朝、集会所に行くとチョンマゲが来ていた。
「ようチョンマゲ。昨日は色々と奢ってもらって悪かったな。」
そう挨拶すると、「とんだ散財だよ」とぼやいた。
「あのガキ・・・・やたらと高い色鉛筆を選びやがって・・・。なんだよ、72色で二万の色鉛筆って。ガキが使うようなもんじゃないだろ。」
「まあまあ、アイツは値段のことなんか分かってない。ただ良い物が欲しかったんだ。」
「ちゃんと経済感覚を教えとけ。おかげでキャバクラに行くのも控えなきゃいけない。」
そう言って頭のチョンマゲ模様をヒクヒク動かし、不機嫌そうにしていた。
「いや、確かにあれは悪かった。でも・・・・その代わりと言っちゃなんだが、昨日の頼みは引き受けることにしたよ。」
「ホントか!やってくれるか!?」
「ああ。でも上手くいくかどうかは知らないぞ。俺はまだ読心の術は使いこなせないんだから。」
「構わない。俺だけでやるよりマシだ。ああ、それとな・・・読心の術の注意点だが、あれは使い過ぎると・・・・・、」
チョンマゲがそう言いかけた時、ハルが「何の話をしてんの?」と入って来た。
「私も混ぜてよ。」
「今日はお前だけか?ゴンベエはどうした?」
「ん?まあ・・・・ちょっとね。」
「喧嘩でもしたか?」
「そんなとこ。で、何の話をしてんの?」
そう言ってニコニコ笑いながら尋ねて来るハル。するとそれを見たチョンマゲが「ちょっと来い・・・」と俺のケツを叩いた。
そして植え込みの陰まで連れて行き、「お前さ、もしかして・・・・、」と口を開いた。
「読心の術を何度も使ったんじゃないのか?」
「ん?使った覚えはない。ただ不可抗力で発動したことは何度もある。」
「誰に対してだ?」
「ハルとゴンベエ。」
そう答えると、「あちゃ〜・・・・」と嘆かれた。
「そりゃマズイよお前。」
「どうして?」
「どうしてって・・・・。いいか、読心の術にが制約があってだな、使い過ぎると相手の心が剥き出しになるんだよ。」
「・・・・?どういうことだ?」
「読心の術ってのは、呼んで字のごとく相手の心を読む術のことだ。」
「そんなことは知っている。」
「じゃあどうやって相手の心を読むかっていうと、心の壁に穴を空けるんだ。」
「穴?」
「ああ。誰だって心に壁を持っている。そこに見えない針で小さな小さな穴を空けて、心の声を聞くのが読心の術なんだ。」
「ふむ。」
「ふむ、じゃないよ。いいか?特定の相手に対して何度も術を使っていると、心の壁は穴らだけになる。するとどうなるか・・・・・、」
「どうなるんだ?」
「心の声が、勝手に相手に伝わっちゃうんだよ。怒りや憎しみ、それに不満や愚痴なんかダダ漏れになるんだぞ。」
「ホントに?」
「ホントだ。だからきっと・・・・・ゴンベエとハルの心の壁には、無数の穴が空いているはずだ。
そこから心の声が漏れて、相手に伝わってしまったんだ。」
「ええ!なんだよそれ!知らないぞそんなこと!」
「それは知らないお前が悪い。猫又の術は、どれもルールなり制約なりがあるんだ。それを知らずに使っていると、取り返しのつかないことになる場合もある。」
「・・・・なんてこった。じゃあ俺のせいでハルとゴンベエは喧嘩をしたってのか?」
「間違いない。いくら恋猫同士といえど、まったく不満がないなんて有り得ないからな。ていうか恋猫だから不満を感じる部分もあるはずだ。きっとお互いの不満や愚痴が、心の壁から漏れて伝わったんだろう。」
「・・・・・そんな・・・・・。」
「今さら後悔したって遅い。きっとあの二匹は別れる。顔を合わせる度にお互いの不満が伝わって、喧嘩が絶えなくなるだろうからな。」
「今から穴を塞げないのか?」
「無理だ。自然に塞がるのを待つしかない。しかも閉じるまでに時間がかかるし、無数に空いてりゃ尚更だ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
俺は言葉を失くし、ゆっくりとハルを振り返った。彼女は眠そうにあくびをしていて、足で喉を掻いている。
「見ろ、ゴンベエが来たぞ・・・・。」
チョンマゲが尻尾で遠くを差す。するとトコトコとゴンベエが歩いて来て、俺を見つけて「ほ!」と駆け寄って来た。
だがその瞬間、ハルに気づいて「ほ・・・・・」とうろたえた。ハルの方もゴンベエに気づき、「あ!」と固まった。
「ゴンベエ・・・・。」
「ハル・・・・・昨日は・・・・悪かった。いきなり喧嘩になってしまって・・・。」
そう言ってハルに近づき、申し訳なさそうに項垂れるゴンベエ。ハルの方も「いいの、私も悪かったから」と笑った。
それを見た俺は、「なんだ、仲直り出来そうだぞ」と呟いた。
「甘いな八兵衛。よく見てろ。」
チョンマゲは厳しい顔で言い、注意深く二匹を見つめた。
ゴンベエはもう一度「すまん・・・」と謝り、「昨日のデートの続きをしないか?」と尋ねた。
ハルは「喜んで!」と笑ったが、ふと笑顔を消した。
「・・・・ゴンベエ、今何か言った?」
「え?何かって?」
「今・・・・私のことを面倒くさいメスだとか言わなかった?」
「いやいや!言ってないよ!」
「ウソ!確かに聞こえたもん!」
「言ってないって!ていうか、そっちこそ酷いこと呟いただろ。」
「はあ?酷いことって何よ?」
「器の小さいオスだとか、あの程度で怒るなんて最低とか。」
「言ってないわよそんなこと!」
「いいや、確かに聞こえた。」
「言ってないって言ってるでしょ!酷いこと言ったのはそっちじゃない!」
「だから・・・・俺は何も言ってな・・・・・って、また酷いこと言ったな!口だけで情けないオスだとか!」
「何を言ってんのよ!そっちこそ傲慢ちきなメスだって言ったじゃない!」
「言ってない!」
「いいえ、言った!」
「もういいよ!せっかく仲直りしようと思ったのに・・・・これじゃ無理だ!」
「それはこっちのセリフ!ゴンベエってこんなに口の悪いオスだとは思わなかったわ。しばらく会わない方がよさそうね!」
「ほ!俺だって会いたくねえや!じゃあな!」
「何よその態度!ムカツク・・・・・・・。」
ゴンベエは不機嫌そうに帰って行き、ハルもプリプリ怒りながらどこかへ去って行った。
「・・・・・な?こういうことだ。」
チョンマゲは俺の肩を叩き、去りゆく二匹を見つめた。
「心がダダ漏れになるってことは、こういうことなんだよ。聞きたくない声まで聞こえるし、伝わらなくてもいいことまで伝わってしまう。それを防ぐ為に心の壁があるんだ。それに穴を空けるのがそれほどリスクのあることか、これでよ〜く分かっただろ?」
「・・・・・ああ。」
俺は落ち込んでいた。なぜならまたもや俺のせいで、いらぬ不幸の被害者が生まれたからだ。
「俺は・・・・タカシだけじゃなくて、ゴンベエとハルまで巻き込んでしまった・・・・。情けないよ。」
「うんうん、気持ちは分かるぞ。でも失敗は上達の近道だ。次から気をつければいいんだよ。」
そう言って俺を慰め、「練習すれば上手くやれる」と笑った。
「さっきも言ったように、読心の術は見えない針を心の壁に刺すんだよ。よくよく意識を集中させてみれば、その気配を感じるはずだぜ。」
「意識を・・・・?」
そう言われて、俺は目を閉じて感覚を研ぎ澄ませてみた。すると顔の横に蠅でも飛んでいるような感じがあって、目を開けて睨んだ。
「・・・・何も見えない。」
「当たり前だろ。目には見えないんだよ。でも確かにそこにあるんだ。練習すれば、自由に動かせるようになる。」
「どうやって動かすんだ?」
「イメージすりゃいいだけだ。ちょっとコツがいるけどな。」
「・・・・・難しいな。蠅みたいに動いて、思うように操作出来ない。」
「それも練習次第さ。でもって、なるべく早く使いこなせるようになってくれ。じゃないと・・・・和佳子さんの心が探れない。」
「昨日言っていた頼み事の件だな。でも自分でやればいいじゃないか。チョンマゲなら上手く出来るだろ?」
そう尋ねると、「ダメなんだよ・・・・」と俯いた。
「俺は彼女の心は探れない。だって・・・・・怖いから・・・・。」
「それはアレか?チョンマゲのことを恨んでいるかもしれないからか?」
「そうだよ・・・・。和佳子さんは大きな誤解をしているんだ。俺のせいで、自分の猫が死んだと思ってる。でも実はその逆なんだよ。俺は彼女の猫を助けようとした。でも力及ばず・・・・・・、」
「分かってる。でもそれは不慮の事故だ。助けられなくても無理はない。」
「・・・・それを彼女に分かってほしいんだよ。俺はこれでも、昔は人間の世界で働いていたんだ。教師をやってた。」
「昨日聞いたよ。和佳子さんはその時の教え子なんだろ?」
「ああ、小学生の時のな。彼女の本当の夢は、美術写真家じゃない。動物写真家だったんだ。でも俺への誤解のせいで、その夢は捨てた。今や彼女にとって、動物を撮る人間は悪者になっちまってるからな。それも含めて誤解を解いてほしい・・・・・。」
「まあ俺に出来る範囲でなら力になるよ。でも意外だな。お前がいちいち相手にどう思われてるかを気にするなんて。和佳子さんに恨まれるのがそんなに怖いか?」
そう尋ねると、「お前にはまだ分からないよ・・・・」と答えた。
「誰かから恨みを買うってのは、一生つきまとうものなんだ。俺はそんなのを背負うのはゴメンだ・・・・。」
「いや、気持ちは分かるよ。相手は教え子なんだし、恨みなんてない方がいいよな。」
「その通りだ・・・・。だから協力してくれて助かる。実行は明日の昼だから、彼女の大学まで来てくれ。じゃあ・・・・。」
チョンマゲはそう言い残し、トボトボと去って行く。
その背中は深い悲しみが漂い、まるで重い石でも引きずっているかのようだった。
「長く生きてると、色々と厄介事を抱えるもんなんだな。願わくば、どうかこれ以上俺に厄介事が降りかかりませんように。」
そう願うも、今抱えている厄介事は俺自身のせいだと気づく。
先ほどの願いを取り消し、「俺のせいで迷惑を被った者が救われますように・・・」と願い直した。
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