鈴音は麻薬入りの線香を食べようとした。
咄嗟に亜希子が止めると、鈴音は思わぬ行動に出た。
亜希子の口の中に、線香を押し込んだのだ。
いきなりの出来事に、亜希子は思わず線香を飲み込んでしまう。
「ちょっと!何をして・・・・・、」
そう言いかけた途端、目の前の景色が歪んだ。
足元がおぼつかなくなり、そのまま地面に倒れ込んでしまう。
《何・・・・?これが覚醒剤の効果だっての・・・?いくらなんでもこんなに急に効くわけがない。これ・・・・何か別の薬なんじゃ・・・・・、》
そう思った時、自分の上に誰かが覆いかぶさってきた。いったい誰かと思って目を向けると、それは基喜だった。
「なん・・・・で・・・・・?」
亜希子は呟き、基喜に触れる。基喜も顔を向け、「亜希子・・・・」とその手を握った。
二人はそのまま意識を失い、暗い闇の中へと沈んで行く。
音の無い深海を漂うように、二人で手を繋いで、延々と続く闇の中を彷徨っているようだった。
そして次に目を開けた時、亜希子と基喜は、柱に鎖で繋がれていた。
服は脱がされ、全裸の状態で縛りつけられている。
「どこ・・・・・?」
亜希子はぐるりと回りを見渡す。
どうやらどこかの納屋のようで、天井にオレンジ色の電球が灯っていた。
周りには使い古されたトラクター、錆びた鍬や鎌、それに田んぼに張る鳥除けの目玉風船や、干しっぱなしになっている玉ねぎがぶら下がっていた。
「ここは・・・・どこかの納屋?」
そう呟くと、基喜が「光が射してる」と前を睨んだ。
そこにシャッターがあって、少しだけ開いた隙間から光が射しこんでいた。
するとそのシャッターがガラガラと上がって、勉と鈴音が入って来た。
「お、目え覚めてるやん。」
「ホンマや。もうちょっと眠ってるかと思ったのに。」
勉と鈴音は、鎖に繋がれた二人を見て、可笑しそうに笑う。
「ちょっと!これはどういうこと!?どこよここは?」
亜希子は身を捩って叫ぶ。すると鈴音が「ここは家の物置き」と答えた。
「それは見れば分かるわよ。どうして私たちをこんな場所に縛ってるのか聞いてるの。」
「どうしてって・・・・・解剖するから。」
「は?」
「は?じゃなくて、あんたらの霊体を解剖すんの。な?」
鈴音は笑顔で言いながら、勉に目を向けた。
「亜希子さん、基喜さん。」
二人の名前を呼びながら、勉はゆっくりと近づく。
そして「二人とも、やっぱり不合格だそうです」と言った。
「は?何?」
亜希子は顔をしかめて聞き返す。基喜も訝しい顔で勉たちを睨んだ。
「だからお二人が不合格ってことです。神社の後継ぎとして。」
「は?」
「あのね、亜希子さんのお父さんが言っていたんですよ。『あいつらじゃ駄目だ』って。でも一応は神社を継ごうと頑張ってるみたいだから、論文が出来上がるまで待っていたそうです。」
「ちょっと・・・・・何を言ってるのかさっぱり・・・・、」
「いいから聞いて下さい。」
亜希子の声を遮り、勉は続ける。
「亜希子さん達の論文を見て、お父さんはがっかりしたそうです。この程度の論文しか出来ないんじゃ、やっぱり二人に神社は任せられないって。だから僕たちを跡継ぎにしようと考えたんですよ。」
勉はそう言って、後ろを振り返った。
そして半開きになったシャッターに向かって、「入って来て」と言った。
すると僧服を着た屈強な男たちが入って来て、亜希子は「あんたたち・・・・、」と震えた。
「なんで!?あんたたちは風間の寺院にいた僧兵じゃない!どうしてこんな所にいるのよ!?」
そう叫ぶと、勉は「この人たちは、僕と鈴音の味方なんです」と答えた。
「行き場所を失くしたみたいで。だから僕たちが飼ってあげる事にしたんです。」
「はあ?ちょっとさ・・・・さっきからわけが分からないんだけど・・・・。いったい何がどうなってるわけ?」
うんざりしたように言って、「いったい何が目的なのよ?」と睨んだ。
「不合格だとか、私たちのお父さんがどうとか、それにその僧兵たち・・・・。まったく意味が分からない。詳しく教えてよ。」
亜希子は眉間に皺を寄せて睨む。
そんな亜希子を見て、鈴音はクスクスと笑った。
「ええよ、ほな教えてあげる。」
鈴音は笑顔を保ったまま、今に至るまでの状況を詳しく教えた。
事の始まりは、勉と鈴音に喜恵門の血が流れているということが分かったことだった。
二人は喜恵門の子孫でありながら、五体満足、健康そのものの身体で生まれてきた。
そのことを知った星野は、勉と鈴音に目を付けた。
『もし亜希子と基喜が使い物にならなかったら、この二人を跡目にしよう。』
そう思った星野は、喫茶店に有希と朋広が乗り込んで来たあの日、亜希子たちの力を試した。
しかし結果は散々で、星野が力を貸さなければ、確実に負けていた。
そんな状況の中、勉と鈴音は意外に冷静であり、マネキンに霊体を移してまで、朋広を罠に嵌めた。
その行動力、冷静さ、そして何より、内に秘めた大きな力に、星野は感心した。
この時点で、星野は勉と鈴音を後継者にと考えていた。
しかし亜希子と基喜は実の子供であり、もう一度だけチャンスを与えることにした。
それがあの論文だった。
有希と朋広の霊体を徹底気に調べ上げ、新たな発見をもたらす。
そこまでしてくれるのなら、亜希子たちに神社を任せようと考えていた。
しかし二人の作り上げた論文は、とても星野の眼鏡に叶うものではなかった。
だから勉と鈴音を跡目にすることに決めた。
説明を終えた鈴音は、「まあそういうことやから」と笑った。
「もう亜希子さんらは用無しってことな。」
「ちょ・・・ちょっと待ってよ!そんなの信じれない!お父さんが私たちを見捨てるなんて・・・・、」
「でも実際そうなってるねん。とりあえずあんたらを解剖して、色々と調べさせてもらうわ。」
そう言って勉を振り返り、「そっちはどう?」と尋ねた。
「もう霊体は切り離したで。」
勉は短刀を握り、ユラユラと振って見せた。
「これ便利な武器や。簡単に霊体だけ切り離せる。」
「ほなこっちに貸して。私もやるから。」
「出来るか?俺がやろか?」
「出来るってそれくらい。いっぺん私もやってみたかってん。お父さんとお母さん、それにおじいちゃんとおばあちゃんは、全部お兄ちゃんがやってもたやん。だから私にだって一回くらいやらしてえな。」
「ほな俺が教えたるからやれ。」
「いいって、一人で出来るから。」
鈴音は短刀を奪い、それを亜希子の喉元に突きつけた。
「ちょ・・・ちょっと待ってよ!あんたたち・・・・・今なんて言った?お父さんやおじいちゃんをやったってどういうこと?」
「殺したんや。」
「こ・・・ころ・・・・、」
「そのつもりはなかったんやけど、お兄ちゃんが下手クソやから死んでもた。」
「な・・・・なんてことを・・・・・、」
「だってしゃあないやん。修行しとけって神主さんが言うから、まずは家族でやっただけ。」
「な・・・・何てことするの!自分の家族を殺すだなんて・・・・・、」
「いいや、家族ちゃうで。病院で取り違えられたんや。だから血は繋がってないねん。」
「は?」
「だって私とお兄ちゃんは喜恵門の血が流れてるのに、他の家族には流れていないんや。その事を神主さんが調べたら、生まれた病院で取り違えがあったんやって。」
「そ・・・そんなこと・・・・・、」
「信じられへんやろ?でもほんまのことやねん。お父さんもお母さんも、それにおじいちゃんもおばあちゃんも、誰も知らんかったみたい。もちろん私らも知らんかった。でも血が繋がってないんやったら、家族ちゃうからな。」
「・・・・・・・・・。」
「ははは!ビックリやろ?でもそんなんどうでもええねん。私にはお兄ちゃんがおったらそれでええから。」
「・・・・・・・・・。」
亜希子は目を見開き、恐怖と驚きに固まる。
隣ではすでに基喜の霊体が切り離されていて、霊体を失った身体がグッタリと項垂れていた。
「も・・・・基喜・・・・・。いったどうしたら・・・・・、」
そう言いかけた時、喉に激痛が走った。
「がッ・・・・・・・・・。」
悲鳴を上げようにも声が出せず、呼吸すらも出来なくなる。
「ああ・・・・だから言うたやん。俺がやるって。」
「だってやってみたかったんやもん。でもこれって失敗?」
鈴音は残念そうに言って、短刀を引き抜く。亜希子の喉から血が流れ、それと同時に息も漏れる。
勉はその傷口を覗きこみ、「これあかんやろ・・・・」と言い捨てた。
「もうじき死ぬで。でもまあ・・・・ええか。死んでからでも霊体は取り出せるから。」
「そやな。ほなほっとこ。」
二人は何でもないことのように言い捨て、基喜の霊体へ近づく。
そして短刀を振りかざし、胸を切り裂いた。
基喜の悲鳴が響き、その場に倒れる。勉はさらに短刀を振り上げ、霊体を切り刻んでいった。
亜希子はその様子を見つめながら、静かに息を引き取る。
そして次に意識を取り戻した時、自分の霊体もバラバラに切り刻まれていた。
頭と胴体が切り離され、手足も切断されている。
そこへ基喜の霊体を縫いつけられて、思わず悲鳴を上げた。
《嫌あああああああああ!》
悲鳴は稲妻のようにこだまし、鼓膜を破りそうなほど空気を揺らす。
そしてまた意識を失いそうになった時、ふと誰かの影が目に入った。
それは有希と朋広だった。
二人は観音菩薩の手の平に立ち、切り刻まれる亜希子を見下ろしている。
そして有希が微笑みながらこう言った。
《だから言ったでしょ?観音様の鉄槌が下るって。》
そう言って目を閉じ、そっと手を合わせた。
《悪魔に救済はいらない。いずれあなた達の父も、観音様が鉄槌を下す。そしてそれに与する者全てにも・・・・・。》
有希はまた微笑み、勉と鈴音に目を向けた。
《可哀想な子供たち・・・・。悪魔に惑わされ、人としての道を踏み外すなんて・・・・。でもあの子たちはまだ人間。どうか悪魔に変わる前に、改心しますように・・・・・。》
勉と鈴音に向かって手を合わせ、女神のように祈りを捧げる。
朋広は険しい顔で隣に立っていて、女神を守る武神のように、勇ましい眼光を放っていた。
《じゃあね、悪魔たちよ。救われることのない暗闇の中で、自分の犯した罪に焼かれるがいいわ。いつか罪が燃え尽きて、人間に生まれ変われることを願いながら・・・・・。》
有希と朋広は、観音菩薩の手に抱かれながら、ゆっくりと消えていく。
亜希子は《待ってよ・・・・》と呟き、《助けて・・・・・》と嘆いた。
《こんな・・・・こんな終わり方は嫌・・・・。自分が解剖の材料にされるなんて・・・・そんなのは耐えられない・・・・。》
深い絶望を感じながら、有希と朋広が消えていった宙を睨む。
すると目の前に短刀の刃が伸びてきて、眼球に当てられた。
《嫌!やめて!取らないで!》
目を閉じ、あらん限りの声で叫ぶ。
《お願いだからやめて!目はやめて!光を奪うのだけは・・・・・、》
強く懇願するも、刃は眼孔に押し込まれ、そのまま目玉を抉られてしまった。
《いやあああああああああああ!!》
右目が奪われ、光の半分を失う。すると今度は左目にも刃が伸びてきて、声にならない恐怖を覚えた。
左目に刃が刺し込まれ、残った光まで奪われようとしている。
勉と鈴音は笑顔でそれを見ていて、亜希子は無意識にこう呟いた。
《・・・・・・・悪魔。》
亜希子は仏に仕える者ではない。だから輪廻転生は信じていない。
しかし己の犯した罪は、車輪のように輪廻して、いつか自分に跳ね返ってくるのかもしれないと、目玉を抉られたながら思った。
有希と朋広は、歪んだ思想の元に何人も殺し、最後は苦痛の中で消えていった。
しかしあの二人には、観音菩薩の救いがもたらされた。
それはなぜか?
有希と朋広は、歪んだ思想ながらも、常に世の中の汚れを嘆いていた。
そして世を乱す悪魔を退治する為に、人を殺していた。
それは到底許される事ではないが、私利私欲の為に殺人を犯したわけではなかった。
あくまで世の中を善くしたいという、純粋な思いの元に犯した罪だった。
そして仏に仕える者として、最後まで観音菩薩を信じていた。
それが救いに繋がったのだとしたら、果たして自分は、有希たちと同じように救いがもたらされるだろうか?
己の為だけに有希と朋広を苦しめた自分は、誰かに救われることはあるのだろうか?
亜希子は真っ暗な闇の中で、いつまでも自問自答を繰り返す。
すると暗闇の向こうに、赤い何かが揺らいだ。
・・・・・それは鳥居だった。
まるで夜の海面に浮かぶように、暗闇の中にポツンと建っている。
亜希子は不思議に思う。
自分には目がないのに、どうして赤い鳥居が見えるのだろうと。
それは幻か?それとも頭に浮かぶただのイメージか?
原因は分からないが、それでもハッキリと赤い鳥居が見える。
そして赤い鳥居の向こうに、大きな丸い物が浮かんでいた。
それは人の眼球だった。
宙に浮かび、鳥居の向こうからじっとこちらを見つめている。
その目を見た途端、亜希子は思った。
あの目は自分に似ている・・・・・。いや、自分だけではない。基喜とも似ているし、父とも、そして有希や朋広とも似ている。
それに勉と鈴音の目にもそっくりだった。
そう思った時、鳥居の向こうに浮かぶ目が、いったい誰の目なのか分かった。
《・・・・喜恵門・・・・。》
亜希子は暗闇の中を歩き出し、鳥居に近づいていく。
そこにあるのは救いか?それともまったく別の何かか?
それは分からないが、暗闇の中でうずくまっているよりはいいと思い、足を進めた。
そして大きな目の近くまで来た時、亜希子に光が戻った。
失われた目が復活し、眩いばかりの光に包まれる。
その光はじょじょに収まり、周りに景色が浮かび上がる。
緑揺らめく深い森、時の重みを感じさせる石造りの鳥居。
そして目の前には分厚い紙の束があり、見慣れた文字が並んでいた。
《あれは・・・・私の論文・・・・。》
そう呟くと、どこかから基喜の声が聞こえてきた。
《亜希子・・・・・。》
《基喜!どこ?どこにいるの!?》
《すぐ隣だよ。でも会うことは出来ない・・・・・。》
《え?隣・・・・?》
《そうだ。でも俺たちの間には分厚い壁がある。だから会えない。》
《分厚い壁って何よ?》
《木さ。観音像の木。》
《観音像・・・・?》
《ああ。風間の寺院の観音像だ。俺たちは今、あの観音像の目玉になってる。》
《・・・・ごめん、意味が分からない。いったい何を言ってるのか・・・・・、》
混乱しながら呟くと、やがて勉と鈴音が論文の前にやって来た。
そして亜希子に向かって手を合わせ、瞑想のように目を閉じた。
《この子たちは何をしてるの・・・・?》
不思議に思って呟くと、基喜は《加護を祈ってるんだ》と答えた。
《加護?誰の?》
《自分たちの。どうか守ってくれますようにって。》
《はあ?なんで私がこの子たちを守るのよ?》
亜希子は苛立った声で言う。なぜ自分が殺した相手に加護を求めるのか?なぜ殺した相手が、自分を守ってくれると思うのか?
さっぱりわけが分からず、ただため息が漏れる。
そんな亜希子のため息を聞いて、基喜はこう答えた。
《なあ亜希子。俺たちはもう人間じゃない。この観音像の一部なんだよ。》
《・・・・どういうこと?》
《そのままの意味だよ。俺たちは観音像の目になった。なぜならこの観音像は、亜希子によって目を潰されたから、力を発揮出来ないんだ。だから代わりになる目玉が必要だった。喜恵門の力を引く者の目玉が・・・・・・。》
そう言って、基喜は口を噤む。
亜希子は《それって・・・・・、》と言いかけ、基喜と同じように口を噤んだ。
目の前では勉と鈴音が手を合わせていて、強く自分たちへの加護を祈っている。
そして顔を上げ、二人とも実に涼やかな顔で微笑んだ。
亜希子は心まで凍りつくほどの悪寒が感じ、暗闇にいる時よりも強い絶望を覚えた。
ここには極楽も地獄もなく、救いも罰もない。
勉と鈴音の道具として利用されるという、終わりの無い悲しみがあるだけだった。
《・・・昔から・・・・こうして延々と続いてきた、希恵門の血筋、争い、呪い・・・。私と基喜が、その呪いの一部になるなんて・・・・・。》
亜希子は目を閉じ、どうかあの世へ送ってくれと願う。
境内に風が吹き、カサカサと落ち葉が流れていった。
-完-
長閑な田園が、黄金色に染まっている。稲は穂を垂れて、収穫の時を待っている。
そんな長閑な田園の中に、鎮守の森が立っていた。
葉は赤く、そして黄色く染まり、森の中に色とりどりの葉を落としている。
そしてその鎮守の森の中に、歴史を感じさせる、立派な神社が建っていた。
祭神は大国主命。
国引き伝説に登場する神が、本殿の奥に鎮座している。
神主の星野は本殿の中に立ち、御神体である大きなヒスイに祈りを捧げる。
祝詞をあげ、深く礼をしてから、後ろに座る自分の子供たちを振り返った。
「亜希子、基樹。」
名前を呼ぶと、亜希子が立ち上がり、手にした分厚い紙の束を渡した。
それを受け取った星野は、再び御神体のヒスイを振り返り、その紙の束を神前に捧げた。
星野、亜希子、基樹の三人は、御神体に向かって手を叩き、一礼してから本殿を出た。
砂利の敷き詰められた境内に出ると、星野はニコリと微笑んだ。
「とても良い論文だった。じっくり霊体を解剖した甲斐があったな。」
そう言って踵を返し、鎮守の森を見上げた。
「ここは歴史のある神社で、それなりの力を持った者が守っていかないといけない。お前たちが不合格なら、別の神社から跡継ぎをと考えていたが、そうならなくてよかった。」
しみじみとそう言って、「あの三体の霊体をどうするかは任せる」と笑った。
「さらに研究を続けるもよし、あの世へ送るのもよし、世に解き放って行動を観察するのもよしだ。これからは全て、自分たちで判断するといい。」
そう言い残して社務所に向かい、「あ、そうそう」と振り返った。
「勉君と鈴音ちゃんから連絡があった。今度の休みにこっちへ来るそうだから、会ってやれ。」
そう言って、星野は社務所に消える。
残された亜希子と基樹は、神前に置かれた論文に目をやった。
「あの論文さ・・・、」
亜希子が口を開き、基樹が目を向ける。
「あれ・・・・有希ちゃんと朋宏君の犠牲の上に出来た物だよ。」
沈んだ声で言い、辛そうに俯く。
「あの二人の霊体、まだ勉君の目の中にいるわ。もうだいぶ弱ってるけど、まだ消滅したわけじゃない。」
そう言って、基樹の顔を見つめた。
「あの論文を作る為に、私たちは酷いことをした。霊体を取り出し、それを切り刻んだり、別の霊体と繋げたり。それに犬や猫の身体に宿してみたり、別の誰かの記憶を植え付けてみたり・・・・。人間とは思えないことをやったよね。」
悔いるような、そして責めるような口調で、亜希子は誰にでもなく語り掛ける。
基樹は「そうだな・・・」と頷き、「でもそのおかげで神社を任された。俺たちはずっと一緒にいられるんだ」と笑った。
「有希と基樹は、俺たちのせいで苦しんだ。研究の材料にされ、あちこち切り刻まれたりしたんだ。それは許されない事だし、俺たちが背負うべき罪だよ。」
「・・・・・・・・・・。」
「だから俺は、あの二人を楽にしてやるべきだと思う。もう悪さをするほどの力は残っていないし、これ以上の研究は可哀想だ。だから楽にしてやろう。俺たちの手で。」
「そうだね。」
亜希子は頷き、基樹と共に本殿の裏に回る。
そして稲荷の社の前に立つと、手前にある賽銭箱を睨んだ。
二人でその賽銭箱を持ち、よろけながら脇にどける。
すると地面に取っ手のついた板が現れて、それを持ち上げた。
中には階段が続いていて、基樹がスマホのライトで照らす。
二人は慎重に下りて行き、階段の先にある廊下を睨んだ。
廊下の奥には一つだけ扉があって、鎖が掛けられている。その鎖は南京錠で施錠してあり、黄色いお札が貼られていた。
基樹はポケットから鍵を取り出し、南京錠を開ける。
亜希子はブツブツと祝詞を捧げ、黄色いお札を剥がした。
そして扉を覆う鎖を外して、取っ手に手を掛けた。
重い扉が左右に開き、中からぼんやりと光が漏れる。
それは松明の赤い光で、二人の顔を照らした。
部屋は12畳ほどの広さがあって、床には血の滲みが出来ている。
そして奥には鳥居があり、そ向こうに小さな社が建っていた。
その社の中には、小石ほどの小さなヒスイが祭られている。
二人は扉を閉め、鳥居の前に立つ。二礼二拍手を捧げてから、小さなヒスイを見つめた。
亜希子は「色は落ち着いてる・・・」と言い、「今なら取っても大丈夫よ」と基樹に教えた。
基樹は頷き、そっとヒスイを取る。するとそのヒスイを手に取った瞬間、中から勉の幽霊が現れた。
二人は勉の幽霊に向き合い、小さく微笑む。
「勉君、今まで協力してくれてありがとう。もう論文が完成して、神社は私と基樹が引き継ぐことになったわ。あなたはもう自由。罪滅ぼしは充分なくらい果たしたし、きっと良い所へ行けるわ。」
亜希子はそう言って、勉の頭を撫でる。基樹も「お疲れさん」と頭を撫で、「またいつかこっちに戻って来るまで、しっかり休んでおいで」と笑った。
勉の幽霊は頷き、自分の目玉を抉り出す。それを二人に差し出すと、子供らしい笑顔でニコリと笑った。
そして霧のように揺らめき、薄く透けながら消えていった。
二人は手を合わせ、勉に冥福を捧げる。
そして手にした目玉を見つめ、それぞれに宿った霊体を睨んだ。
赤い目には有希が、青い目には朋広が宿っている。
二人は目の中から、《ここから出せ!》、《身体を返せ!》と訴えていた。
亜希子は有希の宿った目玉を見つめながら、「もう自由にしてあげるから」と答えた。
手を握り、そのまま眼球を潰すと、中から有希の霊体が現れる。
口を開けて亜希子に襲いかかろうとするが、よろけながらその場にへたり込んだ。
その隣では、基樹が眼球を握り潰していた。中から朋広の霊体が現れ、有希の元に駆け寄る。
久しぶりに触れ合う二人、目は無くても、お互いに触れ合うことでその存在を確認する。
有希と朋宏は抱き合い、もう決して離れまいと、お互いの背中に指を立てる。
亜希子は辛そうに俯きながら、「利用してごめんね・・・」と謝った。
「あなたたちの身体を奪った上に、散々霊体を解剖して、研究の道具にした。全てはこの神社を引き継ぐ為に・・・・。私たちのやったことは、あなたたちのやった事と変わらないわ。いくら謝っても足りないけど、ごめんなさい・・・。」
亜希子の声は消え入りそうなほど小さく、耳を立てないと聴こえないほどだった。
しかし有希と朋宏は、その呟きをしっかりと聴いていた。
二人は抱き合ったまま、亜希子と朋宏を見上げた。
《ねえ朋広・・・・やっぱりこいつらは悪魔だったでしょ?》
《そうだな。風間と同等・・・・それ以上の悪魔かもしれない。》
《許せないし、腹が立つけど、私たちが鉄槌を下す必要はないわ。》
《分かってる。実は俺も感じるようになったんだよ、菩薩や仏の存在を。だから必ず、観音菩薩がこいつらに鉄槌を下す。この悪魔たち・・・・そしてこいつらの父親。必ず裁かれる時が来る!風間と同じように、虚無の闇へ沈むんだ。》
朋広は叫び、有希の手を取って立ちあがる。
《もう・・・・俺たちに力は残されていない・・・・。好きなように弄ばれ、消えた方がマシと思うくらいに辱めを受けた。》
《でも大丈夫・・・・私たちはこれからずっと二人だもの・・・。苦しんだ分は、贖罪として罪が打ち消される。天国とまではいなかくても、地獄へは行かないわ。次に訪れる生の時を信じて、私たちは二人で待つ。そしてあんたたち悪魔に、観音様の鉄槌が下されるのを、向こうで楽しみに見てるわ。》
二人はケラケラと笑い、手を繋いだまま霧散していく。
有希、朋広、二人の歪んだ道は終わりを告げ、ここではない世界へと旅立っていった。
亜希子と基樹はその場に立ち尽くし、二人が残していった言葉を噛みしめていた。
有希も朋広も、亜希子たちのことを悪魔と罵った。
そして全く菩薩や悪魔を信じていなかった朋広が、その存在を感じるようになった。
それはつまり、亜希子と基樹が、それだけあの二人に酷い事をしてきたという証拠だった。
・・・・自分たちは、風間以上の悪魔・・・・。
そう言われて亜希子は悔しかったが、何も言い返せなかった。
なぜならそれは事実であり、あの二人から見れば、自分たちは確かに悪魔に見えただろうと思ったからだ。
亜希子と基樹は地下室を後にして、再び本殿の前に立つ。
神前には論文の束が置かれていて、それは有希と朋宏の苦痛の上に作られたものだった。
亜希子は考える。
神社を継ぐ為、そして基樹とずっと一緒にいる為に、悪魔と罵られても仕方のないことをしてきた。
その罪を償うにはどうしたらいいか?
深く考えたが、すぐには答えは出ない。言いようのない暗い感情が渦を巻き、胸の中を駆け巡った。
「・・・・・あの二人の言う観音菩薩の鉄槌・・・・いつか本当に下るのかな?」
ぼそりと呟き、基樹の顔を見つめる。
「ねえ基樹、私たちは間違ったことをした。それは言い逃れ出来ないよね?」
「・・・・・・・・。」
「だったらやっぱり、いつか鉄槌が下ると思う?」
不安そうに言う亜希子に対し、基樹はこう答えた。
「・・・大丈夫だろ。俺たちは仏派の人間じゃないし、仏の教えの外にいるんだ。有希と朋広が悪さをしたからって、大国主命が鉄槌を下したりしなかっただろ?」
「それはそうだけど・・・・、」
「誰だって信じるものがあって、その中に敷かれた道を歩いてる。自分で選んだ道じゃない。元々そこにある道を歩いてるんだ。幸も不幸も、そして恩恵も罰も、その道の中にしかないものだよ。だから俺たちが菩薩から鉄槌を受けることはない。」
「・・・・だといいけどね。有希ちゃんと朋広君は、確かに私たちとは別の道を歩いていた。だけど目指している場所は、実は同じ所かもしれない。そうだとするなら、その先にいる誰かから、やっぱり鉄槌を喰らうかもよ?」
亜希子の不安は拭えず、暗い目で論文を見つめる。
神、菩薩、悪魔、人間・・・・・立つ場所は違えど、どこかで同じ道として繋がっているように思えて仕方なかった。
「良いも悪いも、先のことは誰にも分からないわ。今は不安に怯えるしかないみたい・・・。」
そう言って無理矢理笑顔を作り、「戻ろ」と基樹の手を引いた。
今、二人は有希と朋広の身体に入っている。
それはかつて、仏の道を歩いていた身体だ。ならば今の二人は、仏の道から完全に無縁ではないという事を意味している。
亜希子にとってはそれが不安の種であり、菩薩の鉄槌から完全に逃げられるとは思っていなかった。
社務所に入る前、一度だけ本殿を振り返る。
強い陽射しが影を作り、本殿の下に揺れている。
そしてほんの一瞬だけ、人の形になって揺れた。
よく見ると、それは御神木の影が揺れただけだと気づく。
しかし亜希子には、それがいつか鉄槌を下しにやって来る、恐ろしい化け物のように思えた。
*
論文が完成した日から二日後、勉と鈴音が神社に訪れた。
亜希子は二人を出迎え、「久しぶり」と笑った。
「勉君、今日は仕事休みなんだ?」
「はい。祖父の法事って言ったら、休みをくれました。」
「よくあるよね、そういう嘘。休みをもらう時の定番。」
亜希子は可笑しそうに笑い、「おじいちゃんは元気?」と尋ねた。
「みんな元気ですよ。でもあの時のことはタブーなんです。みんな無かったことにしたいみたいで。」
「そりゃそうでしょうよ。誰だって殺人だの幽霊だのに関わりたくなんかないわ。君たちだって、早く忘れた方がいいと思う。」
「いえ、忘れることはしません。ていうか出来ないんですよ。だって・・・・・なあ?」
勉は小さく笑い、鈴音に目を向けた。
「うん。だって今の私、人の色が見えるんやもん。」
鈴音は嬉しそうに笑い、「お兄ちゃんも幽霊が見えるようになったんやで」と言った。
それを聞いた亜希子は、口を開けて固まる。
「え?ちょっと待って・・・・。色と幽霊が・・・・?」
「はい、見えるようになったんです。」
「な、なんで・・・・・?」
「なんでって、僕らにも喜恵門の血が流れてるんでしょう?」
「そうだけど、でも力は眠ってたはずよ。誰かが開眼さないと、表に出て来ることは・・・・・、」
そう言いかけて、ハッと口を噤んだ。
「・・・・・もしかして、うちのお父さんのせい?」
恐る恐る尋ねると、勉と鈴音はニコリと頷いた。
「ああ・・・・やっぱり。じゃああのマネキンの時だ・・・・。」
亜希子は頭を押さえ、あの時の事を思い出した。
有希と朋広が喫茶店に乗り込んで来たあの時、戦う前にある作戦を立てていた。
それは亜希子と朋広が危なくなった時、勉と鈴音にも協力してもらうということだった。
勉も鈴音も最初は嫌がったが、いざ朋広たちが乗り込んでくると、途端に恐怖に怯えた。
・・・・もしかしたら、自分たちの身体が乗っ取られてしまうかもしれない・・・・。
その恐怖が現実のものとなり、勉と鈴音はすぐに協力することに決めた。
そして星野の力を借りて、朋広を抑え込むことにしたのだ。
マネキンに霊体を移し、それを罠として朋広をおびき寄せる。
その後に「鈴音は今でも二人のことを友達と思っている」と、最もらしい嘘をついて油断させた。
あの時、勉と鈴音が語った言葉は、全て演技であった。
鈴音はもう有希と朋広のことを友達だなんて思っていないし、勉は有希に恋なんてしていない。
自分の身体を乗っ取ろうとする者たちに、親しみなど感じるはずがなかった。
だから星野の力を借りて、朋広を罠に嵌めた。
亜希子は「あの時のせいで力が発現したのね」と嘆き、「なんてこと・・・」と首を振った。
そしてすぐに「力を封印しようか?」と尋ねると、二人は首を振った。
「いえ、このままでいいです。」
「うん、だって特別な力やし。」
「でも危ない力でもあるんだよ?それは分かってるでしょ?」
「じゃあ亜希子さんと基喜さんは、どうして封印しないんですか?」
「それは神社を継ぐ為よ。」
「そうすれば基喜さんと一緒にいられるから?」
「そうよ。悪い?」
「じゃあ神社を継がなくても基喜さんと一緒にいられるなら、力を封印しますか?」
「それは・・・・・どうだろう?分からない・・・。」
亜希子は口元に手を当て、深く考える。すると勉と鈴音が笑いだし、「何よ?」と睨んだ。
「だって迷ってるから。」
「うん、めっちゃ迷ってる。それってさ、結局力を封印したくないってことやんな?」
「そうとは言ってないけど、でも便利な力ではあるよね。人の色が見えると、そいつがどういう人間なのか分かるし。でもさ、それが危険な事でもあるってことは、君たちは知っておかないといけないよ?」
指をさして注意すると、二人は素直に頷いた。
「分かってます。だって有希さんと朋広君みたい人もおるし。」
「そうそう!それやねん!あの二人のこと気になってたんやけど、今はどうしてるん?まだ実験材料にしてるん・・・・?」
鈴音が不安そうに尋ね、「なあ?」と答えを急かす。
亜希子は「もう自由にしてあげたよ」と答えた。
「二人ともここじゃない世界へ旅立ったわ。勉君の幽霊も、もういない。」
有希たちのことを思い出し、亜希子はしみじみと言う。
その言葉の裏には、自分たちがしてきた、悪魔のような酷い行いを責める思いもあった。
それを感じ取ったのか、鈴音が「有希さんとい朋広君、きっと亜希子さんらのこと恨んでるやろね」と言った。
「いっぱい酷いことしたんやろ?霊体の解剖やっけ?そんなことしてもええの?」
「いいわけがないわ。こればっかりは私たちが悪いと思ってる。でも目的の為の犠牲は仕方のないことよ。許されることじゃないし、正当化するつもりもない。でも仕方のないことは仕方のないことなの。そういうことは世の中にたくさんあって、君たちも大人になれば分かるわ。」
亜希子は冷たく言い放ち、ここでこの話題を終わらせようとする。
これ以上有希たちのことについて語れば、さらに自分を責めることになる。
それは耐えがたいことだったし、出来るだけ早く忘れてしまいたかった。
「せっかく来たんだから、ゆっくりしていってよ。仕事や学校の話を聞かせて。」
そう言って二人の背中を押し、社務所へ歩く。
中に入ると、基喜と星野も出迎え、皆で談笑が始まった。
勉と鈴音が力を目覚めさせたことを知ると、基喜は口を開けて固まった。
しかし星野は「やっぱりそうなったか」と、何でもない事のようにお茶をすすっていた。
「もし封印するつもりになったら、いつでもおいで。」
そう言って笑いかけると、鈴音が「目玉を取ったりせえへんよな?」と怖がった。
「喜恵門の力は目に宿るんやろ?じゃあ力を封印するってことは、目玉を取るってことにならへんよな?」
「大丈夫、そんなことはしないよ。だから心配しなくていい。」
「よかった。ほな今はこのままでええわ。だって今好きな人がおるんやけど、その人の気持ちを探るんに、すっごい便利やねん。他に狙ってる女子もおるけど、私負けへんで。」
鈴音は得意げに語り、星野たちの笑いを誘った。
それからしばらく談笑を続け、二時間が経とうとしていた。
勉は「じゃあそろそろ・・・」と、鈴音をつついた。
「せやな。あんま長いことお邪魔したら悪いし。」
二人は立ち上がり、頭を下げてお礼を言う。
そして玄関まで向かうと、亜希子たちが見送りに来てくれた。
「勉君、鈴音ちゃん、またいつでもおいで。」
靴を履く二人の背中に向かって、亜希子が手を振る。
勉は立ち上がり、「はい」と笑った。
そして二人で出て行こうとした時、鈴音が「あのな・・・」と振り返った。
「線香のこと覚えてる?」
「線香?」
何のことか分からず、亜希子は首を傾げる。すると星野が「ああ、あの事か」と頷いた。
「君たちのおじいちゃんが言っていた線香のことだな?薬が混ぜてあるっていう。」
「そう。あれな、この前結果が出てん。」
「ほう。それで・・・・どんな薬が混ざっていたんだ?」
星野は興味を惹かれて尋ねる。鈴音は勉と顔を見合わせ、少し間を置いてから答えた。
「覚醒剤。」
「覚醒剤?あの麻薬の?」
「そう。ほんのちょっとだけやけど。」
「その事は他に誰か知ってるかい?」
「ええっと・・・・うちの家族と、調べた大学の先生くらいやと思うけど。あとそれを預かったお医者さん。」
「なるほど・・・・覚醒剤ね・・・・。」
星野は呟き、「危険な物を混ぜてたんだなあ」と唸った。
「分かってると思うけど、この事はあまり人には・・・・、」
「うん、喋らへん。でも・・・・、」
「でも?」
「調べた先生とか、預かったお医者さんは知らんよ。警察とかに言うてるかも。」
「ああ、それは問題ないよ。こっちでどうとでも出来るから。ただね・・・・やっぱりそれでも、べらべら人に喋るのは良くないから。」
「うん、だから誰にも言わへん。もう怖い思いするの嫌やもん、な?」
そう言って、鈴音は兄に微笑みかける。
「鈴音の言うとおりです。僕らはもう危ない目なんてゴメンやし、これからは普通に暮らしたいんです。ニュースだってもう僕の事件を取り上げへんし、目立つようなことは嫌やから・・・・。」
勉は暗い顔で言い、「ほな帰ろか」と妹の手を握った。
「それじゃお邪魔しました。」
「またね。」
二人は手を振り、仲良く去って行く。
繋いだ手をしっかりと握りしめて、楽しそうに喋りながら。
それを見た亜希子は「あの子たち、あんなに仲良かったっけ?」と首を傾げた。
「仲の悪い兄妹とは思わなかったけど、手を繋ぐほど仲良くはなかったよね?」
そう言って基喜に尋ねると、「さあなあ・・・」と唇を尖らせた。
すると星野が「すぐに後を追え」と言った。
「あの二人、喜恵門の力が目覚めたから、お前らのようになるかもしれない。」
「どういう意味?」
「兄妹で恋に落ちるかもという意味だ。喜恵門の血を引き継ぐものは、その血を途絶えさせない為に、近親者で結ばれようとする。あの二人にも、その兆候が出ているんだ。」
「ああ、なるほど・・・・。」
亜希子は頷き、去りゆく二人を見つめる。
「でもさ、それは仕方ないんじゃない。私と基喜だってそういう関係なんだし、力で引き裂くのは無理よ。」
「確かにな。でも仕方のない事とはいえ、良い事ではない。お前たちのことはもう諦めたけど、まだ若いあの子たちが、間違った道に進んではいけない。」
「そりゃそうだけど・・・・・、」
「それに気になることもある。いいからあの二人を追え。見つからないようにな。」
星野はそう言って背中を押し、「何かあったらすぐに知らせに来いよ」と言った。
亜希子と基喜は、戸惑いながら勉たちを追いかける。
見つからないように距離を取りながら、境内を歩いて行く。
鎮守の森へ続く階段を下り、先を行く二人の背中を見つめた。
勉と鈴音はしっかりと手を繋いでいて、時折顔を見合わせて笑っている。
それは兄妹というよりも、恋人に近い感じだった。
「やっぱりお互いに惹かれ合ってる感じね。もう恋人同然じゃない。」
亜希子は言い、「すごく幸せな色が出てる」と指をさした。
「二人の色が、物凄く鮮やかに浮き出てる。それにキラキラ輝いてるし、まさに幸せの絶頂って感じ。」
「そりゃあそうだろう。一番好きな人と一緒にいられるんだから。」
「でもこのことが家族にバレたら、即地獄よ。あっという間に幸せは消えてなくなる。」
「うん、まあ・・・・経験者は語るってところかな。」
「人ごとみたいに言わない。私たちだってそうだったんだから。」
亜希子は肘でつつきながら、唇を尖らせた。
勉と鈴音は鎮守の森を抜けて、田園の中を歩いて行く。
そしてふと立ち止まり、ほんの一瞬だけ唇を重ねた。
「あ!見た今の?」
「ああ、すいずんとマセてるな。もうヤッてるんじゃないか?」
「それはまだよ。お互いに経験はないはず。」
「そういうのも色で分かるもんなの?」
「ううん、ただの勘。」
亜希子は木陰に隠れながら、二人を追いかけていく。じっと様子を窺っていると、少しおかしな事に気がついた。
「ねえ基喜、あの二人変じゃない?」
「何が?」
「いくらなんでも、ちょっと幸せすぎる顔をしてるわ。顔の筋肉がたるみ切って、逆に表情が感じられない。」
「そうか?ずっとあんなもんじゃないか?」
「そんなことないわ。さっきキスをしてから、なんだか様子がおかしい。色も変な風に歪み出したし、これじゃまるで・・・・、」
そう言いかけて、亜希子は口を噤んだ。
「どうした?何かに気づいたのか?」
「・・・・・・・・・。」
「亜希子?」
「・・・・・覚醒剤。」
「ん?」
「今のあの子たちの色、麻薬中毒者によく似てる・・・・。仮初の快楽とでもいうのかな・・・・幸せな色なんだけど、歪に波打ってるのよ。」
「じゃあ何か?さっきあの子たちが言ってた、覚醒剤の混じった線香が関係してるってのか?」
「有り得るわ。あの子たちのおじいさんは、線香は全部捨てたって言ってた。でも・・・まだ家に残ってたら?それをあの二人が使ったとしたら?」
「・・・・まさか。あんな子供たちが覚醒剤だなんて・・・・、」
「無いなんて言い切れない。もし目の前にあるのなら、興味本位にやってもおかしくないわ。」
亜希子の不安は募り、「ちょっと声を掛けよう」と言いだした。
「まだ覚醒剤入りの線香を持ってるはずよ。早く取り上げないと。」
「おい、待て。何かあったら知らせに来いってお父さんが・・・・・、」
「じゃああんただけ行ってきなさいよ。私はあの子たちの所に行って来る。」
基喜の手を振り払い、亜希子は勉たちの元に駆け出す。
「おい!」
基喜は顔をしかめながら、足早に亜希子を追いかけた。
勉と鈴音はまだ見つめ合っていて、クスクスと笑っている。そして鈴音がポケットから何かを取り出し、それを口に含んだ。
そのまま勉に顔を近づけ、唇を重ねる。その時、舌を絡めて何かを口移しした。
「あんた達、やめなさい!」
亜希子が駆けて来て、二人の間に割って入る。
そして鈴音のポケットに手を入れ、小さく刻まれた線香を見つけた。
「やっぱり・・・・・。」
顔をしかめ、鈴音を睨む。
「鈴音ちゃん、これは何?」
細切れの線香を手に乗せ、それを目の前に突きつける。
すると鈴音はそれを手に取り、口を開けて食べようとした。
「何してるの!」
亜希子は咄嗟に手を掴み、線香を取り上げようとした。
しかしその瞬間、鈴音は亜希子の口の中に線香を押し込んだ。
完全に視力を失った朋広は、がむしゃらに短刀を振り回す。
すると誰かの手が、そっと頬に触れた。
「大丈夫・・・・ここにいるわ・・・・。」
それは有希だった。朋広の頬を包み、そのまま唇を重ねる。
「亜希子はもういない・・・・私が殺したから・・・・。」
「有希が・・・・?」
朋広は短刀を下ろし、眼球の無い目を向けた。
「お前一人で亜希子に勝ったのか・・・・・?」
そう尋ねると、有希は「一人じゃないわ」と笑った。
「勉君が手伝ってくれたの。私の目になって・・・・一緒に戦ってくれた。」
「あの子が・・・・、」
「もちろん幽霊の方の勉君だけどね。でも私に味方してくれた・・・・。だから今の私は目が見えるの。とても歪な視界だけど、何も見えないよりはマシでしょ?」
有希はクスクスと笑い、朋広を抱きしめる。
「ねえ朋広・・・・一番恐ろしいのは、真っ暗な闇にいることよ。そんな場所では、観音様の光さえ届かない。だから早く本当の目に手に入れよう。あの子たちの身体に生まれ変わって、本当の光を取り戻さないと。」
優しい声で言う有希だったが、彼女の身体は酷く傷ついていた。
顔の半分が切り裂かれ、顎の辺りまで骨が見えている。
袈裟も切り裂かれ、乳房の間に勾玉の刺さった痕が残っていた。
そして痛々しいほど全身に擦り傷を負っていて、じんわりと血が滲んでいた。
亜希子との激しい格闘が、有希を絶命寸前まで追い込んでいた。
しかしそれでも有希は倒れない。勉の幽霊を取り込み、歪な光を手に入れ、まだ観音菩薩の救いを信じて、新たな身体に生まれ変わろうとしていた。
そして朋広は目が見えない。有希がボロボロに傷ついていることなど知らず、その顔に触れようとした。
しかし有希に止められ、「今は生まれ変わる方が先」と囁いた。
「新たな身体に生まれ変わって、世を乱す悪魔を粛清すればいいの。そうでしょ?」
新たな身体さえ手に入れれば、今までと変わらず、二人で生きていける。
それは有希にとっても、そして朋広にとっても、大きな希望だった。
「有希・・・店の奥から子供たちの気配を感じるんだ・・・・。」
「分かってる。私もあの子たちの色が見えるわ・・・・。でも他にも誰かいる。」
「そうだな・・・。一人は・・・・亜希子の弟だ。基喜といったか?」
「うん。もう一人は彼の父親。きっと手強いわ・・・・。」
有希は不安そうに言う。朋広は安心させるように姉を抱きしめた。
「でも大丈夫。私たちには観音様のご加護があるから。悪魔になんか負けないわ・・・。」
二人は手を握り、店の奥へと向かう。
目の見えない朋広に代わって、有希が優しく手を引く。
厨房へ入り、朋広が転ばないように気を付けながら、有希は注意深く進んだ。
そして事務所の前まで来ると、その足を止めた。
ドアは閉まっていて、奥から異様な気配を感じ取る。
「恐ろしい悪魔の気配を感じる・・・・。」
有希は怯え、手を合わせて観音菩薩に祈る。すると朋広は彼女の前に立ち、「俺一人でいい・・・」と言った。
「二人で入ったら、多分二人とも殺される・・・。俺がどうにか鈴音の身体を奪うから、有希はすぐにあの子の中に入れ。」
「嫌よ。一人で生きても意味がないわ。朋広がいないと・・・・。」
「お前が死んだら、俺の生きてる意味がないんだ。頼むから・・・・。」
真っ暗な眼孔を向け、朋広は有希を見つめる。
「残念ながら、俺たちが子供を成すことはないだろう。ここまで来て悔しいけど・・・・仕方ないんだ。」
「・・・・・・・・・。」
朋広の声は真剣で、有希は堪らず俯く。しばらく迷っていたが、やがて握った手をそっと離した。
「どうにか・・・・・どうにかして、朋広を生き返らせてみせる。だからここは任せるわ。また会えるはずだから・・・・。」
有希はゆっくりと下がり、厨房へ引き返していく。
彼女が離れて行く気配を感じると、朋広は事務所のドアに顔を向けた。
そっと手を当て、ドアノブを探る。ひんやりとした丸い金属に触れ、息を飲んでそれを握った。
朋広は何も見えない。しかしそれでも、優れた霊感のおかげで、人や幽霊の気配は感じ取れる。
もう一度息を飲み、ドアノブを回す。その時、ホールの方から有希の悲鳴が聞こえた。
朋広はとっさに振り返り、「有希!」と叫ぶ。
すると事務所のドアが開いて、中からミミズクが現れた。
「お前は・・・・、」
口を開こうとした瞬間、ミミズクの爪が襲いかかる。
朋広の耳は千切られ、鋭い痛みが走る。
「お前えええええ!」
耳を押さえながら、短刀を振り回す。そこへまたミミズクの爪が襲いかかり、短刀を奪われてしまった。
武器を失くした朋広は、うろたえながら後ずさる。
何も見えず、武器さえもない。これでは戦いようがなく、いったいどうしたらいいのか弱ってしまった。
その時また有希の悲鳴が聞こえて、「どうした!?」と叫んだ。
「有希!どうした?何が起きてる!?」
尋ねても返事はなく、また悲鳴が響き渡る。
何が起きているのか分からないが、有希の身が危険に晒されていることだけは確かだった。
朋広は歯を食いしばり、どうすればいいかを考える。
このまま有希の元へ向かっても、ミミズクが邪魔をしてくる。
視界も奪われ、武器も奪われ、もう自分には何もない。
・・・・・それならば、自分も奪えばいい・・・・。
・・・足りないものは、他人から奪ってしまえば済む話・・・。
そう思って、朋広は事務所に駆けこんだ。
中には三つの人間の気配。一つは星野のもので、後の二つは勉と鈴音。
朋広は星野の脇を駆け抜け、勉に飛びかかった。
「お前の身体を寄こせ!それは俺のものだ!」
勉を押し倒し、馬乗りになって首を絞める。このまま勉を殺し、まずは勉の心・・・・霊体を追い出す。
その後に自分も死んで、勉の身体を乗っ取るつもりだった。
勉の首は細く、これならすぐに折れると確信した。
しかしふと違和感を覚え、眉間に皺を寄せた。
「・・・・・・・マネキン?」
そう呟いた瞬間、こめかみに衝撃が走った。
その衝撃は脳を揺らし、思わず床に倒れる。
すると二つの気配が駆け寄って来て、朋広に覆いかぶさった。
「おい!なんだ!どうなってる!?」
わけが分からず、パニックになって暴れ狂う。すると今度は後頭部に衝撃が走り、頭の中がミキサーで掻き回されたかのように、意識が揺らいだ。
「誰!?俺に乗ってる奴は誰だ!?あいつらの親父か!?」
大声で叫んでも、誰も返事をしない。そして捻じられ、両手を縛られてしまった。
「何をする!俺を捕まえてどうする気だ!?」
足をばたつかせながら、真っ暗な眼孔を仰がせる。
すると「朋広君・・・」と声が響き、小さなすすり泣きが聞こえた。
「・・・・・鈴音?」
「朋広君・・・・・なんでよ・・・・友達や思ってたのに・・・・。」
鈴音の声が響き、それと同時に朋広の身体が軽くなる。
「お・・・・お前らか・・・・?俺に襲いかかったのは・・・・・、」
「だって・・・・このままやったら、おじさんが殺すって言うから・・・・、」
「おじさん?」
「亜希子さんのお父さん・・・・。だから私とお兄ちゃんで、朋広君を捕まえようって・・・・・。」
鈴音は言葉に詰まり、ただすすり泣く。すると今度は勉が口を開いた。
「おじさんの力を借りて、僕たちも霊体を切り離したんです。」
「なんだって?」
「さっきのマネキン・・・・あれは僕たちの霊体が入っていたんです。おじさんにやってもらいまいした。」
「はあ・・・?なんでそんな事を・・・・、」
「朋広さんを助ける為です。それと・・・・有希さんも。」
勉は声に詰まり、一瞬だけ口を噤む。唾を飲み、少し間を置いてから続けた。
「有希さんと朋広さんが、僕の身体を狙ってるのは知ってました。だけどこのままだったら、二人はおじさんに殺される。だから僕と鈴音が戦おうって決めたんです。そうすれば、朋広さんを助けられるんじゃないかって・・・・。」
それを聞いた朋広は「お前は馬鹿か・・・?」と眉を寄せた。
「お前は俺たちを助けたいんじゃなくて、有希を助けたいんだろ?アイツに惚れてるから。」
「・・・・そう・・・・かもしれません。」
「言っておくけどな、お前にキスをしたのは演技だぞ。俺たちが敵じゃないと信じ込ませる為にやったことだ。」
「それも分かってます。でもやっぱり・・・・僕は有希さんのことが好きなんです。それに鈴音にも迷惑を掛けたから、その罪滅ぼしをしたいと思って・・・。」
勉は妹を振り返り、朋広の前に背中を押した。
「鈴音は二人のことを、本当の友達だと思っていたんです。僕のせいで肩身の狭い思いをして、学校にも通わなくなりました。でもそれを支えてくれたのは、有希さんと朋広さんです。だから今でも、二人には感謝しているんですよ。」
そう言って、「そうだよな?」と鈴音を振り返った。
「・・・・・・・・。」
鈴音は何も答えず、まだ泣いている。勉は手を伸ばし、幼い子をあやすように頭を撫でた。
「鈴音はまだ二人のことを友達だと思っているんです。だったら僕は、鈴音の友達を守ろうと思いました・・・。それくらいしか、罪滅ぼしとして出来ることがないから・・・。」
勉は自分を責めるように言い、己の犯した罪を悔いた。
「僕は人の目玉を取るなんて、とんでもない事をしました。目を奪うってことは、何も見えなくなるってことです。そんな酷い事を、僕は平気でしました。だけどあの時の僕は、全然酷い事をしたって思いませんでした。欲しいから手に入れて、何が悪いんだろうって思ってたんです・・・。でもそれは悪いことだって、風間さんが教えてくれたんです。僕にしっかりと、教えてくれたんです・・・・。」
噛みしめるように言って、勉は項垂れる。朋広は顔を上げ、「それで改心したってのか?」と尋ねた。
「そうです・・・。きっと風間さんは、僕のこの先の人生を考えてくれていたんだと思います。悪い心は切り離したけど、でもそれで終わりじゃないから・・・・。罪を犯したのは僕自身だし、あの悪い心だって、僕の一部だったから。だからいくら悪い心を切り離し立って、何も無かった事にはならないよって言ってくれたんです。自分の罪を受け止めて、真っ直ぐ歩けって・・・・。」
言葉を絞り出すように勉は言った。しかしそれを聞いた途端、朋広は笑い出した。
部屋中に笑い声が響き、「綺麗事だな!」と叫んだ。
「風間は散々間違った道を歩いて来た。アイツはお前を救おうとすることで、自分に懺悔していただけだ!恩に感じているなら、それは大きな間違いだぞ!」
「そうかもしれないけど、でも最後は僕を助けてくれました!僕の知ってる風間さんは良い人です!」
「お前の知ってる風間はな。でも俺の知ってる風間は違う。有希を騙し、利用し、俺たちを間違った道へ引きずり込んだ張本人だ。しかも今までの悪事を償うこともなく、全てを俺たちに丸投げしやがった。それに最後の最後で、僅かな光まで奪っていきやがった。説教まで垂れてな。俺は悪魔なんて信じないが、最もそれに近い人間がいるとするなら、それは間違いなく風間だ!」
朋広は大声で叫ぶ。勉が今までに放った全ての言葉を掻き消すように、強く言い放つ。
勉は「でも・・・、」と言い返そうとしたが、鈴音が「もうええよ・・・・、」と止めた。
「何言うても無駄やと思う・・・・。朋広君、今はおかしいなってる。何か言うたって、意地になるだけやから・・・・。」
鈴音は疲れたように言い、椅子に座りこむ。それと同時に、「私もそう思うわ」と事務所の入り口から声がした。
「もうそいつに何言ったって無駄よ。だってそいつにとって重要なのは、有希ちゃんだけだから。」
そう言って中に入って来たのは有希だった。
朋広はその声に反応して「有希か!」と叫ぶが、途端に顔をしかめた。
「いや、違うな・・・。声は有希だが、中身が違う。お前は亜希子だな!」
そう言ってから、「有希はどうした!?」と叫んだ。
すると有希はニコリと笑い、「その通りよ」と答えた。そして「有希ちゃんは死んだわ」と続けた。
「有希ちゃんは私と基喜が殺した。私と基喜もアンタ達に殺されたから、これでおあいこよね。」
そう言いながらゆっくり歩き、朋広の前に膝をついた。
「有希ちゃんは死んだ。でも彼女の霊体はまだここにいるわ。」
「・・・・・お前、有希の身体を奪ったのか?」
「そうよ。私の身体は包丁でめった刺しにされて、もう使い物にならない。だからこの子の身体を頂いた。そしてアンタの身体も貰う。基喜の為にね。」
そう言った瞬間、ドアの向こうからミミズクが現れた。
そして朋広に飛びかかり、鋭い爪で喉元を掴んだ。
《有希は・・・・・死んだ・・・・。》
基喜はそう言って、朋広の首を締め上げる。
しかし朋広は身を捩り、足を蹴りあげてミミズクを追い払った。
「ふ・・・・・ふざけるな!有希を返せ!許さんぞ!有希を返せえええええ!!」
腕を縛られたまま、朋広は膝をつく。壁に身体を預け、ゆっくりと立ち上がった。
そして気配で亜希子の位置を察知すると、口を開けて噛みつこうとした。
しかしミミズクに邪魔をされ、鋭い爪で頬を切られてしまった。
「嫌だ!有希は・・・・・有希が死ぬなんて・・・・。そんな事はあってはいけない!誰が死んでも、あいつだけは生きてなきゃいけないんだ!だって俺が生まれてきたのは、あいつの為なんだ!あいつがいないと、俺は生まれてきた意味が無くなってしまう!それは死ぬより辛いことなんだよおおおお!!」
朋広は天に向かって吠える。真っ暗な眼孔を向けて、空高く遠吠えをする狼のように。
朋広にとっての光とは、目を通って入ってくる光のことではない。
・・・有希がいる。有希の役に立つ。有希を支える・・・。
そうやって自分の存在理由を確認することこそが、いつの間にか自分にとっての光となっていた。
・・・・本当は気づいていた・・・・有希を支えるのは、有希の為ではないと・・・・。
・・・・有希を支えることによって、自分を支えていたのだと・・・・・。
・・・・なぜなら有希は、一分の隙もない菩薩のような人間で、誰かの助けがなくても、一人でやっていける人間だったから・・・・。
・・・・自分は双子の弟として生まれてきたのに、光は常に有希の方に当たる。その度に、どうして自分が生まれてきたのだろうかと、疑問と苦しみを感じていたから・・・。
・・・・だから有希の支えになることで、自分も光に当たりたかった。自分は有希の残りカスから出来た、いてもいなくてもいいような人間ではないと、そう言い聞かせたかったから・・・。
しかし有希は死んだ。それはすなわち、朋広にとって自分の支えを失うことであり、存在理由を否定されることに他ならない。
だから叫んだ。獣のように鋭く、そして大きな声で、喉が潰れるほど叫んだ。
いつまでもこうして叫び続けられると思うほど、胸の中には怒りと悲しみが溢れていた。
しかしその叫びは、あっけなく終わった。ミミズクの爪が、朋広の喉を切り裂いたのだ。
切られた喉から声が漏れ、息も漏れ、やがては血も漏れて、朋広の咆哮は終わりを迎える。
崩れ落ちるように膝をつき、そのまま仰向けに倒れる。
切られた喉から血が垂れて、床に流れて落ちる。
開けっぱなしの口から、ヨダレと血、そして泡が滲んで顔を汚していった。
「ゆ・・・・・き・・・・・。」
朋広は掠れる声で呟き、すぐに息絶えた。
身体から霊体が抜け出し、ゆっくりと立ち上がる。
すると誰かが頬に触れて、《朋広》と呼んだ。
《・・・・・有希?》
《・・・・残念だけど、私たちの負けみたい。》
《・・・・ああ、そうだな。本当に残念だ。本当に・・・・・。》
朋広は静かに言う。怒りも悲しみも通り越し、感情さえも消えた、深い闇のような声だった。
《そんなに嘆かないで。観音様は、ちゃんと私たちに救いを与えて下さった。私たちが『一つ』になれるという救いを。》
有希は微笑み、朋広の手を取る。そして自分の隣に立つ、勉の幽霊に触れさせた。
《この子ね、私たちの役に立ちたいんだって。風間さんがいなくなって、もう自分には何も残されていないから、せめて何かの役に立ちたいって。》
そう言って小さく微笑み、朋広を抱きしめた。
《私も朋広も、そして勉君も、みんな一つになって観音様の所に行くのよ。救いをもたらしてくれる、偉大な観音様の元へ・・・・・。》
有希は菩薩のように、とても柔らかな顔で笑った。
朋広は納得がいかないという風に立ち尽くしていたが、そこへ勉の幽霊が手を伸ばした。
朋広の手を握り、そして有希の手も握る。
それを強く引っ張ると、自分の眼孔に押し込んだ。
眼球のない、真っ暗な眼孔。それに触れた途端、二人は霧のように拡散した。
そしてブラックホールに飲み込まれるように、勉の眼孔に吸い込まれていった。
勉の幽霊は目を閉じ、何かに祈るように手を合わせる。
その姿はまるで、菩薩の前で瞑想する僧侶のようであった。
やがて閉じた瞼から黒い涙が流れ、床に落ちる前に霧散する。
その瞬間、勉の幽霊は瞼を開けた。
真っ暗だった眼孔の中には、眼球が復活していた。
右の眼は赤く、左の眼は青い。それぞれの瞳の奥には、有希と朋広がいた。
二人とも目の奥で何かを叫んでいて、まるで牢屋に閉じ込められた囚人のように、絶望の表情をしていた。
そして朋広だけでなく、有希までもが眼球を失っていた。
二人は勉の幽霊の目玉の奥で叫ぶ。ここから出してくれ・・・・・と。
赤い瞳に宿る有希は、灼熱の猛火に苦しみ、青い瞳に宿る朋広は、切り裂くような冷気に苦しんでいた。
そして二人は感じていた。この先、永遠にここから出ることは出来ないと・・・・。
だから必死に口を開けて、出してくれ・・・・助けてくれ・・・と喚いていた。
勉の幽霊という、一つの霊体に宿りながらも、二人が顔を合わせることはない。
灼熱と冷気、それぞれが犯した罪の報いを受けるように、ただ苦しめられるばかりであった。
そして目の中に閉じ込められている限り、二度とお互いが会うことはない。
亜希子、基喜、勉、鈴音、誰もが言いようの無い辛い表情を見せる中、一人だけ笑っている者がいた。
「亜希子、基喜、あの二人を徹底的に研究し、霊体に関して新しい論文を出しなさい。そうすれば、神社の跡を継がせてあげよう。」
星野は涼やかな笑みで言い、事務所を後にする。
有希と朋広は、勉の幽霊の眼球となることで、霊体の一部として結合していた。
そこには救いも滅びもなく、地獄へも極楽へも行くことは出来ない。
何をどう足掻いても、二人の前に光が射すことはなかった。
- 2015.07.04 Saturday
- 08:57
細い田舎道の先に、看板を下ろしたした喫茶店が建っていた。
周りにはほとんど何もなく、ポツポツと点在する民家も、空き家になっている所が多い。
近くには大きな国道が通っていて、大型トラックが何台も駆け抜けていく。
その国道から、一台のタクシーが入って来た。
そのまま喫茶店の駐車場に向かい、中から亜希子が下りて来る。
お金を払い、「お釣りはいらないから」と、すぐにタクシーを追い払った。
そしてタオルに包んだ基樹の頭蓋骨を抱きながら、閉店の札がかかったドアを開けた。
カランと音が鳴り、「お父さん!」と叫ぶ。
奥から星野が現れ、「おう」と手を挙げた。
「大変だったみたいだな。無事か?」
「まあね。基樹も戻って来たよ。」
そう言ってタオルを外すと、星野は「ああ、よかった」と顔をほころばせた。
大切そうに息子の頭を抱き、「すぐ身体を用意してやるからな」と言った。
「お父さん、再会を喜ぶのもいいけど、今は朋広君を捜す方が先よ。どこへ行ったか分かる?」
亜希子は焦った顔で尋ねる。星野は「有希ちゃんに光を取り戻すと言っていたんだろう?」と聞き返した。
「そう。あの子、私たちが有希ちゃんの光を奪ったと思ってる。強い憎しみを抱いてるから、放っとくと危険よ。」
「すでに二人殺したんだっけ?」
「若いカップルが犠牲になった。たまたま通りかかっただけのなに、可哀想に・・・・。」
殺された若いカップルを思い出し、このままでは更に犠牲者が出るだろうと不安になる。
星野はそんな娘を見て、「とにかくコーヒーでも飲め」と、奥へ連れて行った。
厨房を通り過ぎ、ドアを開けて事務所に入る。
そこには勉と鈴音が座っていて、「亜希子さん」と勉が立ち上がった。
つられて鈴音も立ち上がり、「有希ちゃんと朋広君は?」と心配そうに尋ねた。
亜希子は鈴音の頭を撫で、「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「嘘や。電話でおじさんが話してるの聞いてたもん。ヤバイことになってるんやろ?」
「まあ・・・・ねえ。全くの無事ってわけじゃないわ。」
「・・・・・・・・・・。」
「鈴音ちゃん、とりあえず座ろ。あの二人を見つけて、希恵門の力を封印しないといけない。そうすれば、また家族みんなで過ごせるから。」
そう言って鈴音の背中を押し、椅子に座らせる。
「ほら、勉君も。」
鈴音の隣に勉を座らせ、自分は向いに腰を下ろした。
「あの二人なんかよりも、君たちはどう?参ってない?」
亜希子は努めて優しい声で尋ねる。鈴音は俯き、何も答えない。
しかし勉は真っ直ぐに顔を上げて、「僕は平気です」と答えた。
「ほんとに?」
「本当です。怖いと思うけど、でも平気なんです。」
そう答えて、亜希子からもらった勾玉に触れた。
まるでミサンガのように右手に巻かれていて、それを撫でるだけで、勉の心は落ち着いた。
「風間さんが傍にいるのが分かるんです。僕の幽霊も。」
「うん、色が出てるから、近くに立ってるのが分かる。」
「あの日、僕が神社から逃げ出して、すぐに幽霊に捕まりました・・・。」
「あっさりだったよね、アレ。私たちが追いかけなきゃ、そのまま目玉を抉られてたかも。」
「そうだけど・・・・でも風間さんも助けてくれました。」
「彼も死ぬ間際に改心したみたいだから、君のことを放っておけなかったんだろうね。でもビックリしたでしょ?彼が現れた時。」
そう問われて、勉は「まあ・・・・」と頷いた。
「そりゃ驚くわよね、死体が出て来たんだから。」
「いきなり神社の森から出て来て、僕の幽霊から守ってくれました。でも・・・・ちょっと怖かったです。」
「水に浸かってた死体だからね。腐ってたもんね、すごく。」
「風間さんが、僕の中から悪い心を追い払ったあの日、ずっと僕の事を守っててくれたんです。風間さんだって幽霊になっちゃったのに、家に先回りしておじいちゃんとおばあちゃんを守ってくれました。すごく良い人だと思います・・・・。」
「元々世の中の救済を考えてた人だからね。根っからの悪人じゃないわよ。」
「すいません・・・・たくさん人を殺してるって聞いても、そんな風に思えないから・・・・。」
勉は言葉を濁し、亜希子から目を逸らした。
「気にしなくていいよ。君が出会った風間は、間違いなく善人だった。今までの行いを悔いてたから、どうにか君を助けたかったんだろうね。」
「あの・・・・風間さんには、有希さんと朋広さん以外にも、仲間がいるんですよね?」
「そうよ。」
「その・・・・そういう人達は、これから僕たちや亜希子さんたちのことを襲ったりしないんですか?」
勉は怯えながら尋ねる。亜希子はケラケラと笑い、「それは平気」と答えた。
「奴らの宗派なんて、烏合の集みたいなもんだからね。はみ出し者がくっついた、何も出来ない連中ばかりよ。もしこれ以上暴れるなら、別の宗派の人間が黙ってないわ。すでに何人かの仲間が、元いた宗派から制裁を受けてるみたいだし。」
「はあ・・・・・・。」
「私たちはね、派手な喧嘩は出来ないのよ。国の偉い人達が怒っちゃうから。だから大事になりそうになったら、自分たちでカタをつけるの。まあこんな大人の事情は、勉君が心配することじゃないわ。有希ちゃんと朋広君さえどうにか出来れば、もう君たちに危害が及ぶことはないから。」
そう言って、安心させるように微笑みかけた。
そして勉の後ろに視線をやり、死者が放つ黒い色を睨んだ。
「風間さんと君の幽霊、きっと力を貸してくれると思う。」
「はい・・・。」
「君の幽霊が君を襲ったあの時、私たちはただ退治することしか考えていなかった。でも風間さんは違ったわ。彼は君の悪い心までも、救おうとしていた。」
「・・・・・・・・・・・。」
「あの棚田まで、わざわざ自分の身体を取りに戻り、ずっと神社の森に身を潜めていたのよ。霊体だけで戦っても、君を守れないと思ったから。」
「なんか・・・すごいですよね。自分の死体を隠して、武器として使おうとするなんて・・・・。」
「それもあるけど、事件が発覚して、騒ぎが大きくなることを避けたかったのね。でも彼は肉体を得て、君を守りに来た。おかげで君は、自分の幽霊から逃れることが出来た。」
「はい・・・・。亜希子さんと基樹さんのおかげでもあるけど・・・・。」
「君のおじいちゃんと約束したからね。お孫さんは絶対に守りますって。」
亜希子はまた微笑みを投げる。勉はその笑顔に、大きな安心を覚えた。
「風間さんは、君の幽霊を改心させることに成功したわ。今までの自分の行いを、包み隠さず話してね。そうすることで、君の幽霊の歪んだ考えを直そうとした。思想にしろ性癖にしろ、歪んだ道の先に何が待っているか、風間さんはよく知ってるからね。」
亜希子はまた微笑みを投げ、鈴音の方に目を向けた。
「鈴音ちゃん、平気?」
優しく問いかけると、鈴音は「家に帰りたい・・・」と呟いた。
「もうこんなん嫌や・・・・。お父さんとお母さんに会いたい・・・・。」
「そうよね。でももうじき終わるわ。あと少しだけ辛抱して。」
亜希子は鈴音の頭を撫で、「お父さんもお母さんも、それにおじいちゃんもおばあちゃんも無事だから、心配ないよ」と語りかけた。
「お父さんの知り合いの神主さんの所にいるから、危害が及ぶことはないわ。破魔木神社って所なんだけど、神仏習合の名残が強い神社なの。神道系と仏教系の両方と付き合いがあるから、誰も手が出せない。ちゃんと守られてるから。」
「・・・・・・・・・・・。」
「ごめんね、小難しいこと言っても分かんないよね。まあとにかく心配はいらないってことだから。」
「ほな私もそこに行きたい・・・・。こんなとこ嫌や・・・・。」
鈴音は堪らず泣き出し、勉が肩を撫でてやる。
亜希子は「ごめんね」と謝り、「でも今はここにいてほしいの」と言った。
「なんで!?お父さんとお母さんのいる神社の方が安全なんやろ?じゃあそこに連れて行ってよ!」
「出来ないのよ、ごめんね。」
「残るのお兄ちゃんだけでええやろ!お兄ちゃんの幽霊がおるから、お兄ちゃんもここにおるんやろ!?私はいらんやん!」
「いるのよ、鈴音ちゃんも。それに怖い怖いって言うけど、有希ちゃんと朋広君のことが心配なんでしょ?」
「心配やけど、でも幽霊とか人が死ぬとか、もう怖い・・・・・。そんなもう嫌や・・・・・普通の生活がしたい・・・。」
鈴音は顔を覆って泣く。それを可哀想だと思う亜希子だったが、この二人には、ここにいてもらわなければならない事情があった。
「君たちには、私たちの目の届く所にいてもらわないと困るのよ。何かあった時に対処出来ないし、それに有希ちゃんと朋広君は二人を狙ってる。最悪あの二人を見つけられなかったとしても、君たちを求めてここへ来る可能性があるから。」
「そんなん囮ってことやんか!それが怖いって言うてるんや!」
「だから守るって言ってるじゃない。」
「でも負けそうになったんやろ!だから戻って来たんやろ!?」
「不意をつかれて捕まったからね。そうじゃなければ、あの二人には負けなかった。それにここにはお父さんがいるから、若いあの二人じゃ勝てないわ。」
「ほな最初からおじさんが行けばよかったやん!それで終わったんと違うの!?」
「それは・・・・、」
もっともな意見に、亜希子は口を噤む。
しかしその質問に答えることは出来なかった。
なぜなら朋広と有希を改心させることは、亜希子と基喜にとって、父が与えた試練だったからだ。
ここで力を証明し、それを論文として父に提出する。合格点がもらえれば、あの神社を自分たちに任せてもらえる。
勉と鈴音を守る本当の理由は、二人を助ける為というより、自分と基喜の為だった。
亜希子は口を噤み、「もう少し我慢して・・・・」と答えることしか出来なかった。
すると星野がコーヒーを運んで来て、三人の前に置いた。
亜希子は「ありがとう」と受け取り、勉と鈴音にも飲むようにすすめる。
勉は頭を下げながらカップを手に取ったが、鈴音は飲もうとしない。
俯いたまま、「ここ嫌や・・・・」と繰り返していた。
「お父さん。鈴音ちゃん、これ以上もたないわ。早く朋広を見つけないと・・・・・。」
小声でそう言うと、星野は「力を貸してもいいが・・・・、」と前置きしてから、こう耳打ちした。
「これはお前たちの試練だぞ?お父さんが出しゃばったら、それは落第を意味することになるが、それでもいいのか・・・・・?」
「よくないけどさ・・・・・。でも相手の居場所が分からないんじゃ、どうしようもないわ。いずれここを嗅ぎつけるだろうけど、悠長に待ってるのは性に合わないし・・・・。」
「・・・・じゃあこうするか?とりあえず基喜に朋広君を捜させて、ここまで誘導しよう。勉君と鈴音ちゃんはお父さんが守るから、朋広君と有希ちゃんは、お前たちでカタをつけろ。」
「ほんとに?いいの?」
「その代わり、査定は厳しくなるぞ?次に負けたりしたら、落第どころか二度と神社を任せる機会は与えない。その覚悟はあるか・・・?」
「・・・・・いいわ、それでいい。きっと基喜だって納得するでしょう。すぐやってよ。」
二人はヒソヒソと話し合い、そして勉の後ろに視線をやった。
星野には風間と勉の幽霊が見えていて、チョイチョイと手招きをした。
事務所を出て厨房まで行き、そこで「朋広君を殺さないといけないかもしれない」と伝えた。
「亜希子の話を聞く限りじゃ、朋広君は暴走してる。ここで確実に止めないと、何をしでかすか分からない。風間さんにとっては辛いだろうが、どうか理解してほしい。」
そう言ってから、今度は勉の幽霊に話しかける。
「君はしばらくあの二人に利用されていたね?霊体の研究だなんてもんに付き合わされて、さぞ迷惑しただろう?」
同意を求めるように尋ねると、勉の幽霊は「はい」とも「いいえ」とも答えなかった。
「君は風間さんの手によって改心した。だから協力してあげてほしいんだよ、亜希子と基喜に。朋広君はたくさん幽霊を吸いこんで、きっと今じゃ亜希子と基喜よりも上だ。だから君と風間さんの協力がいる。一緒に戦ってあげてくれるね?」
念を押すように言うと、勉の幽霊は風間を見上げた。
眼球はないが、空洞になった眼孔を向けて、じっと見つめる。
風間は無言で頷き、勉の肩を叩いた。
「僕は今から、基喜に新しい身体を用意する。きっとすぐに朋広君を見つけて、ここへ誘導して来てくれるだろう。その時は亜希子達と一緒に、彼を迎え撃ってほしい。勉君と鈴音ちゃんは僕が守るから。」
そう言って「風間さん、お弟子さんはあなたの救いを必要としています」と見つめた。
「多くの事を知らず、多くの経験をせず、あの子たちはいきなりあなたの跡を継がされ、道に迷っているようです。仏に仕えた者として、あの子たちに救済を与える義務がありますよ。」
その言葉に、風間は強く頷く。星野は「では基喜の身体を用意してきますので、しばらく待っていて下さい」と喫茶店を出て行った。
それから30分後、星野は基喜に新しい身体を用意した。
だがそれは、人間の身体ではなかった。
大きな丸い目を持つ、ミミズクの剥製だった。
基喜は、父の力でミミズクの剥製という仮初の身体を手に入れ、朋広を捜しに飛び立った。
そして朋広を連れて来るまでの間に、テレビでニュースが流れた。
それはあの寺院の近くで、若いカップルが殺されたというニュースだった。
男に車から引きずり出され、刃物で切りつけられて死亡。
男は車を奪い、そのまま逃走した。そしてその男は、虫の複眼のように、とても不気味な目をしていた。
そんなニュースが流れ、亜希子は「ああ・・・」と嘆いた。
「お父さん、これ大事になってるよ。」
「そうだな。しかし事件の背後に、僕たちが関わっていることがバレなければいいんだよ。世間にさえ知られなければ、どうということはないから。」
星野は楽観的に言い、それを聞いた亜希子は「人が死んでるのに・・・・」と眉間に皺を寄せた。
ニュースは再放送のドラマを中断して、大きく事件を報じる。
どうかこれ以上騒ぎが起きないでくれと願いながら、亜希子は基喜の帰りを待った。
それからさらに一時間後、また通行人が刃物で襲われるといたというニュースが流れた。
幸い命に別条はないが、顔を切られて大きな怪我を負っているという。
場所はここから近く、車で二十分ほど。
亜希子は「朋広だ・・・・」と呟き、居ても立ってもいられなくなって、喫茶店の外に出た。
「こっちに近づいてるってことは、基喜が上手く誘導してるってことね。」
そう呟きながら、ぐるりと空を眺める。
緩い風が吹き、ゆっくりと雲が流れていく。一つの雲が山の向こうに隠れ、それと同時に一羽の鳥が飛んできた。
亜希子は目を凝らし、その鳥を見つめる。
鋭く曲がったクチバシに、大きな丸い目。そして死者特有の黒い色が浮かんでいる。亜希子は「基喜!」と手を振った。
山の向こうから現れたミミズクは、そのまま真っ直ぐ飛んで来て、亜希子の腕にとまる。
《来た・・・・・追いかけて来たぞ・・・・・。》
どこからともなく基喜の声が響き、ミミズクはひらりと地面に落ちてしまう。
「基喜!」
亜希子はすぐに抱き上げ、弟の名前を叫ぶ。
ミミズクは剥製に戻っていて、ピクリとも動かなかった。
《早く・・・・・準備を・・・・・。もうじき・・・・襲って来る・・・・。》
背後から基喜の声が聞こえ、亜希子は振り返る。そこには黒い色が浮かんでいて、弟が傍にいることに安心した。
するとその時、山の向こうへ伸びる国道から、一台の車が走って来た。
その車は黄色いコンパクトなスポーツカーで、他の車を追い越しながらこちらに迫っていた。
亜希子はその車に見覚えがあり、すぐに喫茶店の中に戻った。
「お父さん!来たよ!」
事務所まで駆け込むと、星野は手を挙げて応えた。
「警察に少しだけ時間をもらったから、その間にカタを付けるんだ。」
そう言って手にしたケータイを振った。
「朋広君がこれ以上人を殺せば、本格的に警察が動き出す。捕まえるのが困難な場合、機動隊やSATの出動もあり得ると言われた。それに他の宗派からも応援を呼ぶそうだから、短時間でカタを付けなきゃ大事になる。」
星野はケータイを閉じ、腕時計を確認した。
「もらった時間は30分。午後四時半までにカタを付けるんだ。もしそれが無理だった場合、お父さんがカタを付ける。そうなればお前たちが神社を継ぐチャンスは二度と・・・・、」
「ああ、もう!それはさっき聞いた。とにかく30分でどうにかすりゃいいんでしょ?」
亜希子は苛立ったように言い、ミミズクの剥製を差し出した。
「基喜が分離した。もう一回入れてあげて。」
「駄目だ。もう手は貸しただろう?」
「論文の査定が厳しくなってもいいから。お願い!」
そう言ってミミズクを父の手に押し付ける。星野は「仕方なないな・・・」とため息を漏らしながら、懐から濁った勾玉を取り出す。
それをミミズクの口に押し込み、手を叩いて祈りを捧げた。
目を閉じ、少ししゃがれた声を響かせながら、祝詞を捧げる。
するとその瞬間、店の入り口の方から、ガラスの割れる音が響いた。
「来た!」
亜希子は事務所を出て、厨房を駆け抜ける。
そしてホールまで来ると、粉々に砕かれた入り口のドアを見つめた。
そこには有希を抱えた朋広が立っていて、数珠の詰まった目玉をこちらに向けた。
「・・・・・いる・・・・子供たちがここにいるな・・・・。」
店の奥から勉と鈴音の気配を感じ取り、朋広はゆっくりと進んでくる。
亜希子は息を飲み、「お父さん早く!」と叫んだ。
しかし返事は無く、代わりに黒い色が二つ出て来た。
それは風間と勉の幽霊で、亜希子は「一緒に戦って!」と叫んだ。
二人の幽霊は朋広の方へ歩き、風間が正面から掴みかかった。
朋広は床に押し倒され、目の中に指を入れられる。
そして左目の数珠をほじくり出されてしまった。
血で濡れた黒い珠が、コロコロと床を転がっていく。
朋広は「風間・・・・・」と呟き、短刀を抜いて突き刺した。
短刀は風間の腹を貫き、背中まで突き出る。
大きな悲鳴が響き、店の中の空気がビリビリと震えた。
朋広は短刀を突き刺したまま、ぐりぐりと動かす。そして横に薙ぎ払い、風間の脇腹を抉った。
また大きな悲鳴が響き、風間は堪らず後ずさる。
朋広はゆっくり立ちあがって、床に転がった珠を拾おうとした。
すると今度は勉が覆いかぶさってきて、また床に倒れた。
その衝撃で、気を失っていた有希が目を覚まし、あたりをキョロキョロと見渡した。
「・・・・見えない・・・・朋広!どこ!?」
光を失った有希は、手を伸ばして弟を捜す。その時、勉の背中に触れて、「勉君・・・・?」と首を捻った。
「これ・・・・勉君でしょ?あの子の幽霊でしょ?・・・・だったらあの子もここにいるのね!」
有希は笑顔になり、「案内して!」と叫んだ。
「私と朋広には、あの子たちの身体がいるの!だから案内して!」
有希に抱きつかれ、勉の幽霊は混乱する。
「お願いよ、私と朋広を助けて。勉君しかいないの!キスでもセックスでもしてあげるから、私たちを救ってよ!」
そう言って勉の手を握り、自分の胸に触らせた。
「女の子のことを知らないまま、あなたは死んだ。でもまだ遅くないわ。私がチャンスをあげる。だから私たちに味方して。」
有希は勉の手を強く胸に押し当て、その柔らかさを伝える。
勉はますます困惑し、初めて触る女性の胸に、大きな興奮を覚え始めた。
しかし亜希子が割って入り、「幽霊を誘惑してんじゃない!」と、勾玉の先端を振り下ろした。
それは有希の手に刺さり、鋭い悲鳴が響いた。
「いつまでも勉君を利用するな!」
勾玉を抜き、今度は拳を握って殴りつける。
有希は床に倒れ、殴られた口元を押さえた。たらりと鼻血が垂れ、指の間を伝う。
「朋広おおおおお!この悪魔を殺せえええええ!!」
風間と格闘していた朋広は、すぐに有希の元に走って来る。
そして床に転がった珠を拾い、左目に押し込んだ。
「有希・・・・大丈夫だ・・・・。また光を取り戻せるからな・・・・。」
最愛の姉を守る為、朋広は再び短刀を振りかざす。
・・・有希こそ自分の全て・・・・有希の幸せが自分の幸せ・・・・。
朋広は己の全てを懸けて、有希を守るつもりだった。その覚悟は凄まじく、ここで果てても構わないとさえ思っていた。
「有希には指一本触れさせない!俺がお前ら全員を殺す。何があってもだ!死んでも悪霊になって殺す!俺を止めることは出来ない!何やっても無駄なんだ!」
朋広の怒りは、魂まで燃やし尽くすほど熱くなっていた。
「誰も逃がさない!有希以外の全員が死ぬんだ!」
短刀を振り上げ、まずは風間に斬りかかる。吸いこんだ幽霊のせいで力が増し、人間とは思えないスピードで刃を振る。
命を懸けた朋広の凶刃が、風間の脳天に振り下ろされ、眉間まで食い込んだ。
風間は絶叫したが、歯を食いしばって倒れない。それどころか、《朋広!》と叫んで、彼の両手を掴んだ。
《不幸になるぞ!お前も有希も、永遠に光を見ることはなくなるぞ!例え目を取り戻してもだ!》
「黙れ!お前と関わった時点で、有希は不幸になってる!お前さえ会いに来なければ・・・・、」
朋広は目を血走らせ、鬼のような形相で吠える。
そして短刀に力を込め、そのまま斬り下ろした。
食い込んだ刃が、眉間を割って喉まで達する。風間は目を見開いて絶叫し、朋広の顔を掴んだ。
《僕は間違いを犯した!どれも許し難い間違いだ!観音様に救われることはない!》
そう叫びながら、朋広の両目に指を入れる。そして中に詰まった数珠を取り除こうとした。
《こんな物を押し込んだって、光は取り戻せない!お前が見ているのは、憎しみに歪んだ恐ろしい世界だ。》
「そんなことは分かってる!でもそれは有希の為だ。有希には正しい光を取り戻す!」
《無駄だ。こうしてここまで襲いかかって来た時点で、お前たちは改心の機会を失った。
僕はお前たちを殺し、これ以上世の中が汚れるのを防ぐ義務がある。》
風間は目を閉じ、経を唱える。その声は腹に響くほど重く、辺りの空気が強く揺れた。
すると朋広の目に詰め込まれた数珠から、大勢の幽霊が現れた。
風間の経に反応して、次から次へと表に出て来る。
「おい!ちゃんと働け!身体が欲しくないのか!?」
出て行く幽霊を引き止めようとするが、誰も朋広の言葉など聞かない。
風間の経に誘われるように、彼の周りに群がった。
《この幽霊たちは、僕の歪んだ思想の元に殺された、哀れな被害者だ。本来なら法の裁きにかけられ、犯した罪に見合う罰を与えられるはずだった。しかし僕は、その機会を奪ってしまった。だから罪滅ぼしをしないといけない。》
風間は幽霊たちに手を伸ばし、まるで観音菩薩のように、柔らかく微笑んだ。
幽霊たちは我先にと風間に抱きつき、救いを求めて指を立てる。
《僕もこの幽霊たちと同じで、生前はただの悪人だった。僕たちには僕たちの行くべき場所がある。
それは天国でも極楽でもなく、ましてや地獄でもない。一切の光が射さない、虚無の世界だ。》
そう言って力を抜き、天を仰ぐ。
するとその瞬間、床に黒い滲みが現れて、底なし沼のように風間と幽霊を飲み込んだ。
黒い滲みに沈んでいく途中、風間は朋広を見上げる。何もしてやれなかった無念、間違った道へ導いてしまったことへの後悔。
だから心から彼が救われることを願った。
現世で救いがもたらされることはなくても、せめて自分と同じ虚無の世界へは来てほしくないと、強く祈った。
《歪んだ光は悪と同じだ。お前はもう・・・・何も見ることは無くなるだろう。残された僅かな時間は、有希の為に使え。そうすれば救いがもたらされ、地獄に落ちる程度で済むだろう。》
風間の言葉は、朋広の耳に刺さる。
怒り狂った朋広は、短刀を振り上げて風間を刺そうとした。
しかしそれより先に、風間は黒い滲みの中へ沈んでいった。
自分が理不尽に殺した、多くの魂を連れて・・・・。
それと同時に黒い滲みは消え、短刀は床に突き刺さる。
朋広は悔しそうに叫び、「おおああああああ!」と吠えた。
「禍々しい奴め!最後の最後で、僅かな光まで奪っていきやがった!もう・・・・何も見えない!」
幽霊が消えた数珠の目は、もはや何も映さない。
辺りの景色も、憎き敵の顔も、そして愛する有希の姿さえも。
朋広は目をほじくり、珠を投げ捨てる。そして怒りに任せて刃を振り回した。
「有希には触れさせないぞ!俺の前に来い亜希子!首を落としやる!」
所構わず短刀を振り回し、テーブルや椅子を斬りつける。
すると誰かが頬に触れて来て、「朋広・・・」と呟いた。
本堂に向かって、異様な足音が迫ってくる。
亜希子以外の誰もが息を飲み、身を固くする。
足音はじょじょに近づき、やがてゆっくりと本堂の中に入って来て、その恐ろしい姿を露わにした。
「・・・・・・・・・。」
有希、朋広、僧兵たち、本堂に入ってきたその異様な物体を見て、誰もが言葉を失う。
いったい何事かと目を疑ったが、すぐに恐怖が押し寄せ、僧兵たちは後ずさった。
「・・・・・・・亜希子?」
本堂に入って来た異様な物体は、観音像の隣に亜希子を見つける。
そしてゆっくりと足を進め、「亜希子・・・・・」と繰り返した。
「来たぞ・・・・・亜希子・・・・・・来たぞ・・・・・。」
一歩一歩足を進めるその物体に、誰もが道を開ける。
朋広も有希を抱えて、すぐに後ろへ下がった。
「亜希子・・・・・・。」
本堂に入って来た異様な物体は、亜希子の前で足を止める。
二人はしばらく見つめ合い、亜希子が小さく呟いた。
「基喜・・・・・。」
そう言って手を伸ばし、異様な物体の『顔』に触れた。
「・・・・亜希子さん・・・・・そいつは・・・・・、」
朋広が唇を震わせながら尋ねる。亜希子はニコリと笑い、「基喜よ」と微笑んだ。
「・・・・・あんたの弟・・・・?そいつが・・・・・?」
「そうよ。私の頼りになる弟。朋広君と違って、本当の意味で私を支えてくれる、頼りになる弟よ。ねえ?」
亜希子は笑いながら目を向ける。その視線の先に立っているのは、あの千手観音像だった。
幾つもの手が四方に伸びていて、風間に暗殺された者たちの頭蓋骨がぶら下がっている。
しかしそれ以上に、もっと不気味な部分があった。
それは千手観音像の顔が、人間の頭蓋骨に変わっていることだった。
慈しみ溢れる菩薩の顔の代わりに、真っ白な頭蓋骨が乗っている。
亜希子はその頭蓋骨を撫で、「基喜」と呼びかけた。
「ありがとね、来てくれて・・・・。」
そう言って愛おしそうに頭蓋骨を撫で、「その仏像の目玉は?」と尋ねた。
「・・・・潰した・・・・。」
「それでいい。私もこっちの仏像の目を潰したから、もうこの寺院に希恵門の力はない。後はそこの二人だけよ。」
亜希子は朋広と有希を指差し、「あいつらの力を封じれば、この寺院はただの箱」と言った。
「・・・・・なら・・・・眼球を・・・・・。」
「そうね。でも殺しちゃダメよ。」
亜希子はそう言って釘を刺し、怯えきった僧兵たちを振り返った。
「ああ、まだいたのアンタたち。もうこの寺院は終わりだから。早く出て行った方がいいわよ。」
僧兵たちは誰もが震え、その場から動けないでいる。
亜希子は千手観音の手にぶら下がった頭蓋骨を指差し、「アンタたちもこうなりたい?」と尋ねた。
顔は笑っているが、目は笑っていない。その声には明らかな殺意が籠っていた。
僧兵たちは我先にと逃げ出し、そのまま寺院を飛び出して行った。
残された朋広と有希は、迫り来る千手観音に怯える。
有希はブツブツと経を唱え、朋広は短刀を鞘から抜いた。
「痛いでしょうけど、アンタらのやって来たことを考えたら、我慢して当然の痛みだからね。耐えてちょうだい。」
亜希子は冷たく言い放ち、腕を組んで様子を見守る。
千手観音は二人の前に立ち、まずは朋広の方に手を伸ばした。
そして首を掴んで、凄まじい力で持ち上げた。
「すぐ・・・・・済ませるから・・・・・。」
千手観音像から基喜の声が響き、朋広は失禁しそうになる。
しかし咄嗟に短刀を振りかざし、それを逆手に持ち替えた。
亜希子は「無駄な抵抗は・・・・、」と止めようとしたが、すぐに口を噤んだ。
なぜなら、朋広は自分で自分の目を切り裂いたからだ。
白刃が両目を抉り、赤い血が飛ぶ。
千手観音にもその血が飛び、赤い染みが付いた。
「これで許してくれ!」
堂内に響き渡るほどの声で、朋広は叫んだ。
「これで許してくれ!頼む!これで許してくれ!」
短刀を落とし、切り裂いた目に指を突っ込む。
焼けるような痛みが遅い、目玉ではなく、頭の後ろが痛んだ。
「もう俺に光はない!喜恵門の力は死んだんだ!だからこれで許してくれ!この目を取り出すから!」
そう言ってさらに指を食い込ませ、「俺の目はやるから!有希の分は取らないでくれえええええ!」と吠えた。
基喜は躊躇い、亜希子の方を向く。しかし亜希子も躊躇っていた。
まさか自分から目を切り裂くとは思わず、有希を守りたいという覚悟は、これほどのものかと息を飲んでいた。
「有希の分は取らないで!耳もやるから!鼻だってくれてやる!だから有希の目は残してやってくれえええええ!」
叫びは鋭く、そして重くなる。その叫びは、朋広の絶対なる覚悟だった。それを感じとった亜希子は、困ったように頭を掻いた。
「・・・・・・どうしよ。」
慌てふためいて命乞いをすると思ったのに、まったく違う展開になってしまった。
朋広は自己犠牲の果てに、有希を守ろうとしている。
それはすなわち、朋広の心がまだまだ良心を残しているということだった。そしてそれこそが、改心した証そのものではないかと、有希は思った。
いったいどうしようかと悩んでいると、怯えっぱなしだった有希が動いた。
床に落ちた短刀を拾い、血が滲んだその刃を睨みつけた。
そして一呼吸置いてから、自分の目を切り裂いた。
「ああああ!」
短い悲鳴が響き、有希の世界から光が消える。
その叫びを聞いた朋広は、「有希!」と叫んだ。
「どうした有希!?やられたのか?目を取られたのか!?」
「な・・・・・何も見えない・・・・・。どこにも光がないわ・・・・・。」
「あ・・・・おお・・・・なんてことを・・・・・、」
朋広は歯を食いしばり、光を失った目から涙を流した。
それは血と混ざり合い、頬を伝って床に落ちていく。
「・・・・酷いじゃないか!あれほど有希の目は取らないでくれって頼んだのに!」
朋広は獣のように吠え、「許さない!」と雄叫びを上げた。
「酷い!お前らは酷過ぎる!」
朋広は、基喜が有希の目を取ったのだと勘違いしていた。
自分で目を切り裂き、あれほど有希を傷つけないでくれと頼んだのに、それを無視されたのだと誤解していた。
亜希子はすかさず「違うわ!彼女は自分で・・・・、」と弁明したが、朋広の叫びに遮られた。
「お前らは悪魔だ!有希の言うとおり悪魔だ!」
「だから違うって!それは彼女自身が・・・・・、」
「俺はな、有希の為なら何だってするぞ!俺が光を失うのはいいが、有希は駄目だ!有希はいつだって光を見ていないと駄目なんだ!暗闇にいては駄目なんだ!」
朋広は右手の数珠を外し、力任せに引き千切った。
大粒の珠が床に転がり、基喜の足元に当たる。
しかし全ての珠が床に落ちたわけではない。朋広の手の中には、数個の珠が握られていた。
そして珠を握ったまま人差し指を伸ばし、それを眼球に突っ込んだ。
指の第一関節を曲げ、眼球の裏側にしっかりと指し込む。その指を一気に引き抜くと、目玉が落ちて眼孔が露わになった。
そこへ手の中に握った、数珠の珠を詰め込んだ。
黒光りする珠が眼孔に押し込まれ、まるで虫の複眼のようになる。
それはえも言えぬ不気味な姿で、入りきらなかった珠が、ぽろりと床に落ちた。
「有希には光がいる。俺がその光を取り戻す。」
朋広は経を唱え、堂内に蠢く幽霊たちを呼び寄せた。
どの幽霊も目玉がないが、朋広の経に引かれて群がって来る。
そして目の中に詰め込まれた数珠に向かって、その手を伸ばした。
「お前らに俺の身体をくれてやる!その代わり、俺に光を与えろ!仮初の光でもいいから与えるんだ!一番良く働いた奴に、この身体をくれてやる!」
その言葉を聞いて、幽霊たちは我先にと眼孔の数珠に入り込む。
朋広は幽霊たちの力を得て、どうにか光を取り戻した。
しかしその光は、とても歪んだものだった。
まるで熱探知センサーのように、命ある者、そして幽霊だけが光って見えるような視界だった。
それ以外の物は、ぼんやりと輪郭だけ浮かび、黒く霞んでいた。
「いいぞ。誰がどこにいるか分かれば、それでいい。お前ら・・・・よく働けよ。」
そう言ってサッと身を捩り、千手観音の腕に足を絡めた。
すかさず腕ひしぎ十字固めを極めて、木造の腕をへし折ってしまう。
「まずい!基喜、もうそいつを殺して!それはもう人間とは呼べない!」
亜希子に言われて、基喜は無数の手で掴みかかる。
しかし朋広は素早く短刀を拾い上げ、基喜の頭蓋骨に投げつけた。
鋭い先端が眉間を貫き、頭蓋骨にヒビが入る。
基喜の悲鳴がこだまして、そのまま後ろに倒れていった。
「基喜!」
亜希子が駆け寄ると、朋広は頭蓋骨から短刀を抜いた。
そして有希を抱えて、そのまま寺院を逃げ出した。
「あんた!どこ行くつもり!?」
「光だ!有希に光を取り戻す!」
朋広は常人離れしたスピードで走り、そのまま道路まで出て行く。
そして通りかかった車を止めて、乗っていた若いカップルを引きずり出した。
カップルは朋広の異様な目を見て、大きな悲鳴を上げる。
女が「警察を・・・・、」と叫ぼうとした瞬間、首を刺して殺してしまった。
その勢いで男まで手に掛け、短刀で霊体を切り離す。
それを数珠の目の中に吸い込むと、車に乗って走り去った。
周りで見ていた通行人は、悲鳴を上げるのも忘れて、唖然としていた。
しかし弾かれたようにケータイを取り出し、警察へ通報したり、救急車を呼び始めた。
亜希子は「やばい・・・・」と漏らし、基喜の頭蓋骨を抱き上げた。
眉間には短刀の痕が残っていて、地割れのようなヒビが走っている。
「基喜!」と呼びかけると、短く返事があり、弟の心がまだ現世に留まっていることに安心した。
「もう私たちだけじゃ無理だわ。お父さんにも手伝ってもらわないと。」
亜希子は電話を掛けようとして、自分が裸のままなことに気づく。
寺院の中を漁り、有希の服を見つけて袖を通した。
「あの子スタイルいいのね。私も自信がある方だけど、お腹がちょっとキツイわ。」
全裸から解放されると、今度は自分の持ち物を探した。
最初に連れて来られた蔵に戻ると、自分が犯されていた部屋の隣に、スマホと財布が置いてあった。
「スマホは散々調べられただろうなあ。まあ見られて不味い情報は入れてないけど。でもバッテリーが切れてる。充電くらいしとけってのよ。」
独り言を漏らしつつ、寺院まで戻る。そして廊下にある電話を見つけ、父の番号に掛けた。
「ああ、もしもし、お父さん?あのね、ちょっとヤバイことに・・・・・、」
思いもしない展開になってしまったことを告げ、いったいどうしたらいいのか指示を仰ぐ。
星野は娘の説明を聞いて、とりあえず一旦戻って来いと言った。
そして電話を切る前、『ちゃんとデータは取ってあるんだろうな?』と尋ねた。
「もちろん。奴らも目玉の奥までは調べなかったからね。余さず映像は撮ってる。」
『そうか。なら論文がよく出来ていたら、あの神社はお前と基喜に任せるよ。』
「うん、期待しといて。」
電話を切り、ふうと息をつく。そして右目に指を突っ込み、そのまま眼球を取り出した。
それを手に乗せ、クルリと裏側を向ける。
そこには小さな黒い物体が挿さっていて、指で押した。
すると中からマイクロSDカードが出て来て、亜希子はニヤリと笑った。
「誰も目玉がカメラになってるなんて思わないわよね。文明って、とうに喜恵門の力なんか超えてるかも。」
進歩する科学に舌を巻きながら、眼球を戻す。
そして基喜の頭蓋骨を、タンスから拝借したタオルに包んだ。
「一緒に戻りましょ。身体ならまた用意してあげるから。」
タオルに包んだ弟の頭を撫で、裏口から外に出る。
運よく通りかかったタクシーを捕まえ、素早く乗り込んで、行き先を告げた。
寺院から離れていく途中、救急車のサイレンが聞こえて来て、事態が大事になるであろうと予想した。
「早く治めないと、どんどん派手になっていく。国のお偉いさん達を怒らせる前に、カタを付けないとね。」
窓の外に流れる景色を睨みながら、朋広はどこへ行ったのだろうと考える。
スマホを弄びながら、朋広が向かいそうな場所を予想する。
その時、手の中からスマホが落ちて、足元に当たる。そしてふとある事を思い出した。
「やば・・・・これバッテリーが・・・・、」
そう言って再び眼球を取り出す。
あの寺院に監禁されて、丸一日。小型のバッテリーは、一度も交換していない。
「ああ・・・・これ半分くらいまでしか映ってないわ。最悪・・・。」
苛立ったように言い、手の中で眼球を回す。
ミラー越しにそれを見ていた運転手が、口を開けて震えていた。
- 2015.07.02 Thursday
- 12:32
寺の鐘が鳴らされ、重い音が長く伸びていく。
それは寺院を越えて、街の遠くにまで響き渡った。
二度、三度と鐘が鳴らされ、有希は手を合わせて祈りを捧げる。
そして本堂に向かうと、そこには全裸の亜希子が寝かされていた。
身体は清水で清められ、床には紫の布が敷いてある。
そのすぐ傍には観音像が立っていて、慈愛の眼差しで亜希子を見下ろしていた。
有希はゆっくりと歩き、亜希子の前に正座する。
「朋広、私たちの研究は上手くいくわ、きっと・・・・。」
そう言って弟の肩を叩き、ニコリと微笑んだ。
「霊体のコントロールが上手く出来るようになったら、私たちは勉君と鈴音ちゃんの身体を手に入れられる。この亜希子って女が・・・・きっと最後の研究になるわ。そう思うでしょ?」
有希はもう一度微笑み、朋広に同意を求める。
しかし朋広は答えない。沈んだ表情で亜希子を見つめているだけだった。
「どうしたの?まだこの悪魔の言葉に迷ってるの?」
有希は亜希子を睨み、「ダメよ、惑わされちゃ」と言った。
「勉君たちと関わった時から、この計画は始まってるんだから。風間先生を殺したのは、それが理由でもあるでしょ?」
「ああ・・・・そうだな。あの子たち・・・・いや、正確には勉君だけど、彼は貴重な研究材料だった。喜恵門の血を引き、なおかつ五体満足の健康な身体を持ってる。これは本当に貴重だよ。」
「でしょ?おまけに鈴音ちゃんっていう、これまた健康そのものの妹までいるわ。彼女も喜恵門の血を引いてるし、これは観音様が与えて下さった、ありがたいご縁に違いないわ。」
有希は勉と鈴音の顔を思い浮かべ、「あの二人の身体になったら、私が妹になっちゃうのね」と笑った。
「もしそうなったら、朋広のことをお兄ちゃんって呼んであげようか?」
冗談交じりに言うと、「今まで通りでいいよ」と朋広は答えた。
「身体がどうあっても、俺たちの関係は変わらない。そうだろ?」
「もちろんよ。私たちはこれからも一心同体。けど身体を交わらせることは出来ないわ。だからあの子たちが必要。」
「ああ。あの二人に出会えた偶然を、感謝しないといけないな。」
「違うわ、偶然なんかじゃない。観音様が与えて下さった、ありがたいご縁よ。もういい加減、朋広も信心を持たないと。」
そう言って朋広の胸に触れ、「大事なのは心なんだから」と諭した。
「あの日、たまたま鈴音ちゃんが転校してきて、廊下ですれ違った。そして彼女の色を見て、一瞬で分かったわ。この子は喜恵門の血を引いてると。」
「ああ・・・・・。」
「しかもお兄さんの勉君は、異常な性癖の持ち主で、残忍な罪を犯していた。だから風間さんに同行して、児童福祉施設にまで会いに行った。」
「そうだな。でも予定外の事が起きた。」
「そうね。まさか朋広が先生を殺すなんて思わなかったわ。殺意を感じる色は出ていなかったし。」
「いや、そうじゃないよ。風間さんが、勉君を殺さずに悪の心を追い払った事がさ。まさかあんな事が可能だなんて・・・・。」
「ああ、そのこと・・・・。でもよかったじゃない。アレのおかげで、具体的な計画が決まったようなものだから。風間さんの心は身体から抜け出して、勉君に切りかかった。そして勉君の身体を傷つけられることなく、悪い心だけを追う払うことが出来た。一歩間違えば命を落とすやり方だけど、風間さんは成功させた。」
「ああ、あれには言葉もなかったよ。俗に言うところの、幽体離脱ってやつだ。生きたまま心だけを切り離すなんて、常人業とは思えない。だけどアレを見せることで、俺たちに道を示そうとしたんだろうな。わざわざ殺さなくても、悪人を裁けるんだと。」
「そうね。でもそれは、勉君が根っからの悪人ではなかったからよ。彼はちゃんと善き心も持っていた。そうでなければ、殺す以外に止める手段はなかったわ。」
「確かに。でも逆に言えば、少しでも善の心があるなら、殺さずに済むってことを証明したんだ。俺はあの人のことは嫌いだったけど、悪魔退治の腕は一流だ。それは認めざるを得ない。」
「先生は凄い人よ。身を張って私たちに道を示そうとしてくれた。でも最後は弱ってたわね。」
「弱ってた?」
「覚悟よ。何を犠牲にしてでも、この世の汚れを祓うんだって覚悟。それが弱ってたわ。どの道あれが最後だって本人が言ってたし。だけど先生が道を示してくれたおかげで、私たちは新たな身体に生まれ変われるはずよ。」
有希は亜希子の喉に触れ、まだ息があることを確認する。
そして懐から短刀を取り出し、ゆっくりと鞘を引いた。
よく磨かれた白刃が露わになに、燃えるような刃紋が輝いた。
それを朋広の前に差し出し、「これが最後の研究、悪魔を解剖しましょ」と言った。
「この悪魔の心を、身体から分離させるの。そして解剖して、詳しく調べる。心が・・・・霊体の秘密が分かれば、身体なんていくらでも入れ替えられる。」
そう言って朋広の手を取り、短刀を握らせた。
「朋広、やって。」
有希は真剣な眼差しで見つめる。朋広は短刀を握りしめ、その刃に自分の瞳を映した。
「なあ有希。霊体を解剖した後、亜希子さんをどうするつもりなんだ?」
「殺すわ。悪魔なんだから。」
「それは・・・・もちろん俺がやるんだよな?」
「いつもはそうしてるじゃない。でもやりたくないって言うのなら、私がやってもいいけど?」
「いや・・・・・お前の手を汚させるわけにはいかない。俺がやるよ。コイツを処分する。」
朋広は短刀を睨み、短く息を飲む。もう何度も霊体の分離は行っているし、風間を殺して以降、人を殺めることも数度あった。
しかし何度やっても、慣れるものではなかった。
それどころか、霊体の分離や殺人を重ねる度に、胸の中にどす黒い灰が溜まっていくような感じがした。
日に日に重く、そして暗く積もって行くその灰に、朋広は大きな負担を感じていた。
すると有希が「貸して」と短刀に触れた。
「私がやる。ここまで来て迷いは許されないから。」
「いや・・・・俺が・・・・、」
「出来るの?色が激しく波打ってるわ。迷ってるんでしょう?」
「そうだけど・・・・お前を殺人者にするわけには・・・・、」
「もう何度も手伝ってるわ、先生の仕事を。」
「だとしても、お前が直接手を下したわけじゃない。自分を菩薩の化身と思うなら、人殺しはいけない。汚れるだけだ。」
「人殺しじゃないわ。悪魔の粛清。そうでしょ?」
「・・・・・・仏も菩薩も、それに悪魔もいない。俺はそんなものは信じてない。良い事も悪い事も、全ては人間のやることだ。」
朋広は有希の手を払い、短刀を握り直す。
「お前の言う通り、俺は迷ってる。でもそれは、ほんの些細な迷いに過ぎない。俺の決意を揺るがすほどのものじゃないんだ。」
「そう。だったらすぐにやって。」
有希は亜希子を見つめ、手を合わせて経を上げる。
朋広は大きく息をつき、短刀を逆手に構えた。
それを亜希子の胸に押し当てると、瞑想のように目を閉じた。
右手に巻いた数珠が、やがて熱を持ち始める。
その熱は堂内にも伝わっていき、それと同時に無数の幽霊が姿を現す。
朋広はさらに精神を集中させ、有希と同じように経を唱える。
すると亜希子の身体からも熱が放たれ、小さく震えだした。
堂内は真夏の灼熱のように熱気がこもり、幽霊たちはそわそわと落ち着かなくなる。
有希は激しい汗を掻き、朋広も滝のような汗を流した。
そして辺りがサウナのように熱くなる頃、亜希子が目を見開き、獣のように鋭く吠えた。
その瞬間、朋広は目を見開き、短刀を突き刺した。
白銀の刃が亜希子の胸に刺さり、悲鳴が響き渡る。
朋広は根本までしっかりと突き刺し、そこでグルリと一回転させた。
耳をつんざく悲鳴が聞こえ、幽霊たちは怯えたように騒ぎ出す。
朋広はもう一度短刀を回転させ、そのまま引き抜いた。
すると短刀には何かが突き刺さっていて、亜希子の身体から分離していった。
それは亜希子とまったく同じ姿をした、彼女の心だった。
朋広は慎重に短刀を引き上げ、数珠を巻いた手で、亜希子の心を掴む。
そして完全に亜希子の身体から引き離すと、短刀を刺したまま床に寝かせた。
「・・・・・・・・・・。」
朋広の額に、一際大きな汗の粒が流れる。
有希も経を唱えるのをやめ、「どう?」と尋ねた。
「上手くいった・・・・。幽体離脱に成功だ。」
「よかった・・・・。」
有希はホッと息をつき、亜希子の身体に目をやった。
短刀が刺さったはずの胸には、傷一つ付いておらず、血も流れていない。
それを見て、「どんどん上達してるわね」と喜んだ。
「前は穴を開けて死なせたりしてたのに、今は完璧に霊体だけを刺せるじゃない。これなら勉君と鈴音ちゃんの身体も、傷つけずに手に入れられる。」
有希は弾んだ声で言い、亜希子の霊体を見つめた。
「早く起こして。」
「ああ。」
朋広は短刀を抜き、数珠を握った手で頬を叩く。
すると亜希子の霊体は目を開け、驚いたように自分を見つめた。
『私・・・・・・、』
「ああ、今は心・・・・霊体だ。悪いんだけど、あんたの霊体を解剖させてもらう。」
『解剖・・・・?』
「そうだ。霊体を切り刻み、詳しく調べる。そうすることで、霊体の仕組みが分かるんだ。」
そう答えると、亜希子はすぐに納得した。
『なるほど。そうやって霊体を詳しく調べて、勉君たちを乗っ取ろうとしてたと。』
「俺たちの事を嗅ぎまわってたアンタなら、説明しなくても分かってるだろ?」
『まあね。でも・・・・本当にそれでいいの?改心する最後のチャンスが失われるわよ?』
「かもな。でもここまで来たら引き返せない。もう霊体の研究は進んでいて、あと少しで完全にコントロール出来るかもしれないんだ。風間さんは無理だったけど、俺たちなら出来る。霊体を自由に操り、新しい身体に生まれ変わるんだ。」
朋広は力説する。まるで自分の迷いを振り払うかのように。
しかし亜希子はケラケラと笑い、『無理よ』と言った。
『霊体を完全に操るなんて、無理もいいところ。ある程度は思い通りに動かせても、完璧には無理があるわ。』
「そんなことはない。なぜなら俺たちは、何度も解剖を繰り返し、実験までしたんだ。
その結果、他人の身体を乗っ取ることが可能だと分かった。もう実績はあるんだよ。」
『じゃあどれくらいの時間乗っ取ったわけ?一時間、二時間?それともせいぜい30分くらいじゃないの?』
亜希子は馬鹿にしたように言う。朋広は「そう長い時間ではなかったけど・・・・、」と濁しながら、「その為のアンタの解剖だ」と答えた。
「ある部分を切って繋げれば、長く他人の身体に入れることが分かっている。それをしっかりと確かめる為に、アンタを解剖するんだ。」
『ある部分ねえ・・・。それって『眼球』のことじゃないの?』
亜希子が答えると、朋広は「知ってるのか?」と驚いた。
『もちろん。言っとくけど、私の家は代々喜恵門の力を守り続けてきたの。分裂や融合を繰り返すアンタら仏派の人間とは、今までの蓄積が違うのよ。それに風間の興したこの宗派は、とても歴史が浅い。アンタらが必死こいて研究してることなんて、私たちはとうの昔に知ってるのよ。』
「そ、そうなのか・・・・・?」
『驚くことじゃないでしょ?歴史を考えれば分かる事じゃない。異端児として元いた宗派から追い出された、風間慎平。彼は歪んだ思想の元に、随分と強引なやり方で世の中を救おうとしていた。でもね、そんなやり方は、とうの昔に間違いだって証明されてるのよ。どんな時代にも異端児はいて、平気で掟を破ってたみたいだからね。だからその長い歴史の中に、すでに霊体の研究はあるわけ。そして完全なコントロールは無理だって証明されてる。』
「・・・・それは・・・・、」
『喜恵門の力はそこまで万能じゃないのよ。いい?霊体を完全にコントロール出来るってことは、心を完全にコントロール出来るってことに等しいわ。もしそんな便利な力があったら、国が私たちを放っておくはずないじゃない。とうの昔に政府の管理下に置かれて、戦争の道具にでもされてるわ。』
「・・・・・・・・・・・。」
『だからアンタらがやってる研究なんて、喜恵門の歴史から見れば子供のお遊戯。でもその歪んだ思想のせいで、多くの人が傷つくのは見過ごせない。勉君と鈴音ちゃんには決して手出しはさせないし、これ以上アンタらにも勝手なことはさせない。』
亜希子はそう言って、朋広の目を見つめた。
『もう一度言うわ。ここで改心して。これ以上下らない思想にまみれたら、最後は本当に風間みたいになっちゃう。死ぬ間際になって、過ちに気づいても遅いのよ。』
亜希子は凛と見つめながら言う。
朋広は言葉を失い、手にした短刀を重く感じていた。
すると有希が「良いことを聞いたわ」と喜んだ。
「ねえ朋広。この悪魔は色々と知ってるみたい。解剖すれば、たくさんの知識が手に入る。そう思わない?」
そう言って短刀を奪い取り、「私がやるわね」と言った。
「朋広はちょっと疲れてる。それに優しいから、悪魔に対しても同情を覚えるのよ。だからもうアンタは黙って。」
握った短刀を構え、それを亜希子の腹に突き刺そうとする。
しかし朋広が「待て」と止め、短刀を取り上げた。
「有希・・・・少し考えないか?」
「考える?」
「俺は・・・・亜希子さんの言葉を、真剣に受け止めるべきだと思う。今までの行いが間違いだったのは、俺も感じてるよ。それでも続けてきたのは、全て有希の為だ。だから改心することで、俺たちが本当に救われるんだとしたら、それは考えてみる価値があるんじゃないか?」
朋広は鞘を拾い、短刀を納める。
ここで引き返さなければ、間違いなく風間と同じ運命を辿る・・・・・そう思えて仕方なかった。
しかし有希は納得しない。
朋広の手から短刀を奪おうと、怒りの形相で掴みかかってくる。
「朋広、それを貸して。」
「駄目だ。少し考えよう。」
「いいえ、それこそ駄目。お願いだからそれを貸して。」
有希は必死に短刀を奪おうとするが、朋広の腕力には敵わない。
どんなに引っ張っても、朋広の手は開かなかった。
有希は奪うのを諦め、「それでいいの?」と尋ねた。
「私を支えてくれるんでしょ?それでいいの?」
「いいかどうかは分からない・・・・。でも考える時間は必要だろ?風間さんを殺したのは俺だけど、あれが正しかったかどうかは、今でも分からない。人を殺すってのは、怖いことだ。でももっと怖いのは、殺人に慣れ始めてる自分なんだよ。」
「目的の為の犠牲は、仕方のないことよ。それに手に掛けたのは悪魔ばかりだし。気に病むことはないのよ?」
「悪魔じゃない。俺たちが勝手に悪魔と断じた、人間のことだ。この世に悪魔なんていないのは、有希も知ってるだろ?神も仏も、悪魔もいない。何もかも、全部人間のやることなんだよ。だから少し考えよう。俺たちにとって、一番良い選択は何なのか?二人で・・・・、」
そう言いかけた時、朋広の背後から手が伸びてきた。そしてサッと短刀を奪い取ると、朋広を突き飛ばした。
「亜希子さん!あんた身体に戻って・・・・・、」
短刀を奪ったのは、身体に戻った亜希子だった。
奪った短刀を二人に向け、「動くな」と命令する。
「アンタ、余計なことはしない方が・・・・・、」
朋広は亜希子に掴みかかろうとする。しかし「お姉さんを刺すわよ?」と有希に刃を向けられ、大人しくせざるを得なかった。
しかし有希は大人しくしていなかった。外に向かって助けを呼んだ。
本堂の扉が開き、屈強な僧兵が何人も現れる。
亜希子はサッと踵を返し、菩薩像の横に立った。
「近づいたらコレを刺すよ?」
そう言って菩薩像の目玉に刃を向けた。
僧兵たちは飛びかかろうとしたが、有希が「待って!」と止めた。
「菩薩様が傷つく。動かないで。」
「その通り。目玉を切り裂いて、この像を台無しにするわよ。」
亜希子は閉じた瞼の部分に刃を当て、目玉をほじくり出すように、グリグリと動かした。
「ちょっと・・・・、」
有希が止めに入るが、「動くんじゃない!」と亜希子は怒鳴った。
「目玉を抉り出すよ?そうなったらこの菩薩はただの木像。そうなってもいいの?」
「・・・・・・・・・。」
「うん、大人しくしといてね。」
亜希子は菩薩像の目に刃を押し当てたまま、「目は喜恵門の力において、最も大事な場所だからね」と笑った。
「例えば霊体を取り出して、その目玉をくり出したとしようよ。その目玉を自分の霊体に埋め込むと、ある程度長い時間、他人の身体を乗っ取れる。それがアンタのやってきた実験であり、研究結果でしょ?」
有希を見据えながら、突き刺すような口調で尋ねる。
「そうよ。目は霊体で最も大切な場所。喜恵門の力だって、その部分に集約されてるわ。」
「その通り。だから・・・・・仏像や御神体においても、それは変わらない。この菩薩の中には、目玉が埋め込まれてる。大昔の物だから、もうとっくに腐ってるだろうけど、でも力は残してるわ。」
そう言って刃を動かし、仏像の片目を抉った。
有希は「やめて!」と叫ぶが、亜希子は手を止めない。
そして目の部分をほじくり返して、とうとう目玉を取り出してしまった。
「ほら、これ。これが力の核になる部分。よく見て。」
そう言って刃に突き刺した目玉を、二人の前に掲げた。
「もう干乾びてパサパサになってる。色も濁ってるし、まるで乾燥した貝柱みたい。」
「ちょっとあんた・・・・・、」
「有希ちゃん、これのどこが菩薩様かしら?これがアンタの拝んでる、菩薩様の正体じゃない。」
「見た目なんか問題じゃないわ。大事なのは、菩薩様を信じる心よ。」
「そうね、それが信心ってものだわ。でも本物の信心があるなら、こんな腐った目玉はいらないはずよ!」
亜希子は刃に刺した目玉を、床に叩きつける。そして思い切り踏み潰してしまった。
有希は発狂したように叫び、「アンタああああ!」と飛びかかろうとする。
しかし朋広に止められ、「離して!」と叫んだ。
「有希。いいんだよ、これで・・・・、」
「なんでよ!?悪魔に菩薩様が汚されるわ!」
「ありゃただの木像だ。菩薩じゃない。」
「でもあの中には、菩薩様の力が宿ってる!あの悪魔はそれを壊そうとしてるわ!」
「違う。あれは人間の目玉で、喜恵門の力が宿ってるんだ。菩薩なんか関係ありゃしないんだ。」
「でもあれは・・・・・、」
有希は叫ぶ。身を捩って抜け出そうとするが、朋広はしっかりと抱えて離さない。
僧兵たちは困惑し、いったいどうしたらいいのか慌てていた。
「アンタ達!ボケっとしてないであの悪魔を殺しなさい!今すぐ!」
「駄目だ!動いたら俺がお前らを殺すぞ!いいから動くな。」
二人から同時に命令されて、僧兵はますます混乱する。
亜希子は「誰かの指示がないと動けないんなんて・・・・哀れよね」と嘲笑った。
「さて、目玉はもう一つあるわ。」
そう言ってもう片方の瞼も抉り、腐った目玉を取り出した。
それを刃に突き刺し、有希の前で振って見せる。
「こんな物にすがりついたって、アンタらに未来なんかありゃしないわ。菩薩様はここにはいない。殺人鬼なんかに手を貸すはずないでしょ。」
「殺人じゃない!悪魔の粛清よ!世の中で何が起きてるか、何も知らないクセに!」
「知ってるわよ、人間がどういう生き物かなんて。でもだからって、軽々しく人を殺していいわけがないわ。少なくとも、アンタらにそんなことする資格はない!」
亜希子は強く切り捨て、もう一つの目玉も踏み潰す。
有希は悲鳴を上げ、朋広の手の中で崩れ落ちた。
「・・・・・・・・・・。」
言葉を失くし、声にならない声で口を動かす。朋広はそんな姉をしっかりと抱きとめ、背中を撫でて慰めた。
「有希、これでいいよ。とにかく今は、考える時間がいるんだ。だから少し休んで・・・・・、」
そう言いかけた朋広の声を遮り、「殺せええええええええ!」と叫んだ。
「あの悪魔を殺せ!早く!やって!やっつけてよ!」
僧兵たちを睨み、腕を振って叫ぶ。朋広は「じっとしてろ」とその命令を掻き消すが、僧兵たちは有希の剣幕に圧された。
お互いに顔を見合わせ、弾かれたように亜希子に飛びかかる。
しかしその時、本堂の外から足音が聞こえた。
木と木がぶつかるような音を響かせながら、だんだんと近づいて来る。
何か異様な物が迫っている気配を感じて、亜希子以外の全員が振り返った。
- 2015.07.01 Wednesday
- 10:59
凌辱を受けようが、身内を殺されようが、亜希子の心は折れない。
それどころか、見下すような目で朋宏を睨んだ。
「あんたは・・・・喜恵門がどうとか、宗派や宗教かどうとか・・・・・消えちまえばいいって言ったけど、そんなんじゃお姉さんは救えないわ・・・。だって・・・・そもそもの原因は・・・・喜恵門の力や、対立する宗派の中で生まれたんだから・・・・。自分がどういう運命の中に生まれて・・・・・どういう人生を歩んでるのか・・・・・まったく分かってない・・・・。
あんたの末路はきっと・・・・・あの風間って男と一緒ね・・・・・・。
死ぬ時になって後悔して・・・・・何も出来ないまま消えていく・・・・。愛するお姉さんも守れずに・・・・。」
亜希子は笑い、ゆっくりと身体を起こした。
そして朋広の前に立ち、「情けない弟・・・・」となじった。
「あんたのお姉さんは不幸者だわ・・・・・。こんな頼りなくて情けない男じゃ・・・・今まで苦労してきたでしょうに・・・・。それに比べて・・・・基喜は出来た弟よ・・・・・。あんたの言う通り、あいつは私に惚れてたけど、あんたみたいに大事な部分を理解してない馬鹿じゃなかった。だからいつだって・・・・私を本気で支えてくれた・・・・。そして私も・・・・あの子のことは好きだった・・・・。弟としても、男としてもね・・・・。もし血が繋がっていなかったら、きっと結ばれていたと思う・・・・。」
そう言って目を閉じ、汚れた自分の身体を抱いた。
「出来れば・・・・・基喜に最初に抱かせてあげたかったけど・・・・それは出来なかった・・・・。私たちがそういう関係にならないように・・・・・親が引き離したからね・・・・・。」
死んだ弟を想いながら、亜希子は強く自分を抱きしめる。
そして目を開け、「一つ質問するわ」と睨んだ。
「喜恵門の血を引く人間はね、多くの場合、一組の男女の兄弟として生まれるわ。そしてお互いに惹かれ合うことがほとんど。なんでか分かる?」
そう言って顔を寄せ、朋広の言葉を待つ。
朋広は目を逸らし、壁に灯るロウソクに視線を逃がした。
「・・・・・知ってる。風間に教えてもらったから。」
「じゃあ自分の口で言ってよ。その答えを・・・・・。」
亜希子は顔を覗きこみ、「ほら」と促した。
しばらく沈黙が流れ、二人の視線がぶつかる。
やがて朋広の方が目を逸らし、「血が薄くならないようにする為だ・・・」と答えた。
「そうよ・・・。兄弟で子を成せば、血は薄くならない。喜恵門の力が途絶えることはないわ。でもね、何世代にも渡ってそんな事をしたらどうなるか。分かるでしょ?」
その問いに朋広は答えない。亜希子は小さく笑い、「答える必要もないか」と言った。
「長い間、近親相姦を繰り返したらどうなるか?お互いによく分かってるもんね。」
そう言って足を上げ、三本しかない指を見せつけた。
どの指もやたらと大きく、少し右に曲がっている。
「私はこんな指してるし、基喜は生まれつき声帯がないから喋れない。」
「・・・・・・・・。」
「そしてあんた自身も、どう足掻いたってお姉さんとセックスすることは出来ない。なぜならあんたにはペニスが無いから。逆にお姉さんには短いペニスが付いてる。両性具有ってやつね。それに子宮がないから、子供は産めないわ。長い間繰り返された忌まわしい性交のせいで、喜恵門の子孫は歪な姿で生まれてくるの。」
「・・・・・・・・。」
「きっとこれから、もっと酷くなるわ。そしてやがては子孫を残せなくなって、喜恵門の血は途絶える。いくら御神体や仏像があろうとも、弱りきった血じゃ、その力を目覚めさせることは出来ない。」
「・・・・・・・・。」
「いい?私たちはね、生まれながらにして、呪われた血筋を生きていくのよ。いつかこの血脈が途絶えて、喜恵門の力が消えうせるまでは・・・・。でもそれは、まだ少し未来の話。」
亜希子はそう言って、朋広の股間を撫でた。ペニスがないその股間は、クリトリスよりも少しだけ大きな性器が付いているだけで、睾丸さえもない。
つるりとしたその股間を撫でながら、「これじゃ僧兵に私を犯させるしかないわね。惨め・・・・」と笑った。
朋広は唇を噛み、殺意の目で睨む。そして手を伸ばし、その首を強く掴んだ。
強靭な握力で締め上げるが、亜希子は全く動じない。
「動揺してるわね。色がすごく揺らいでる・・・・・。殺意に満ちた、激しい波のような・・・・。」
「もういい・・・・喋るな。」
「お断り。嫌なら殺せば?」
「・・・・・・・・・・。」
「それとも自分で犯す?・・・・・ああ、ごめん。ペニスがないから無理か?それに私を殺したら、勉君たちの居場所が分からないもんね。」
「・・・・・・もういい。いいから。」
朋広は首を締め上げ、今にも頸椎を折ろうとしている。しかし亜希子の言う通り、殺せば勉達の居場所は分からなくなってしまう。
だから必死に堪え、どうにか腕を離した。
亜希子は短く咳き込み、また朋広を見据える。
「あんた・・・・・本当にお姉さんを助けたいなら、改心したら?」
「改心・・・?」
「いくら信心がなくても、あんたは仏派の人間でしょ?それに観音像を通して、力を開眼させたんでしょう?」
「それがどうした?俺は一度だって、菩薩や仏なんて信じたことはない。全ては人間のやることじゃないか。」
「そうよ。でもあんたも人間じゃない。あんたはお姉さんのことを心配してるみたいだけど、お姉さんだってあんたのことを心配してるかも。あんたが風間を殺したりしたから、その事で胸を痛めて、菩薩様に許しを乞うてるかもよ?」
「はあ?何を言って・・・・・。」
朋広は呆れたように首を振る。しかし亜希子はやめない。
「あんたはお姉さんのことを支えてるつもりかもしれないけど、実は支えられてるのはあんたの方かもってことよ。私と基喜もそうだった・・・。あの子は私の支えになることで、自分を支えていた。あんただって、本当はお姉さんの為じゃなくて、自分の為にお姉さんを支えてるんでしょう?そうやって自分に役割を持たせることで、自分はこの世に必要な人間だって言い聞かせてる。」
「・・・・・・・・・・。」
「あんたは演じてるだけよ。お姉さんの支えになるという、麗しい弟を。でも本当は、自分の方が支えられてる。必死になってお姉さんを助けようとするのは、自分の為でしょ?だから・・・・あんたが勉君や鈴音ちゃんを狙うのは、全て自分の為。」
「・・・・・うるさい・・・・。」
「あの子たちもまた、喜恵門の力を持ってる。それでいて、五体満足の身体を持ってる。だからあの子たちを利用して、お姉さんを守ろうとしてる。そして・・・・・あの子たちの身体まで乗っ取ろうとしてるわ。お姉さんの心を鈴音ちゃんの身体に入れ、自分の心を勉君の身体に入れようとしている。そうやって身体だけ別人に生まれ変わることで、二つのメリットがある。一つは、お姉さんを風間の呪縛から解放出来ること。そしてもう一つは、お姉さんとセックスする為でしょ?」
亜希子はニヤけた顔で挑発する。ペニスのない股間を撫で、「あんたのここにはアレがないから」と笑った。
「あんたはこう言ったわよね?事が終われば、煮るなり焼きなり、好きにしたらいいって。あれは嘘ね。あんたは身体だけ勉君に生まれ変わって、心ゆくまでお姉さんを犯すつもりなのよ。そして抜け殻になった元の身体を差し出して、煮るなり焼くなり、好きにしろって言うつもりだったんでしょ?あんた自身は勉君の振りをしてさ?」
「・・・・・・違う。」
「違うことないわ。あんたはきっと、最初は純粋な気持ちだった。ただお姉さんが好きで、だから守りたいって、素直な気持ちだった。でも風間を殺して、変わってしまった。人を手に掛けることを覚えて、目的の為なら手段を選ばないというやり方が、とても便利だと気づいてしまった。」
「・・・・・・・・・・・。」
「だから基喜だって殺したし、私だって殺そうとしてる。口を割ったら、その瞬間に殺すつもりなんでしょ?」
「・・・・・・違う。」
「いい?風間に呪われてるのは、お姉さんじゃない。あんたの方よ。平気で人を殺して、平気で女を犯して、そして平気で勉君たちまで殺そうとしてる。あの風間って男も、子供までは手にかけなかったはずよ。だから・・・あんたが一番呪われてるわ。完全に自分を見失う前に、改心しなさいよ。必要だったら手を貸してあげるし、なんなら喜恵門の力を封印だってしてあげる。」
「嘘を言うな。出来るかそんなこと。」
「出来るわ。だって喜恵門の力は、元々は神道系のものだもの。仏派の連中は、優れた理論や学問の体系で力を使ってるけど、でも完璧には無理よ。あれは本来、仏や菩薩がどうとかいう力じゃないからね。風間に教わってないの?」
「いいや・・・・聞いていない・・・。」
「そう。なら・・・・改心するって約束してよ。そうしたら、その力を封印してあげるわ。もちろんお姉さんの力も。」
そう言うと、朋広は「有希も・・・?」と眼の色を変えた。
「ええ、彼女の力も封じ込める。そして、もう二度と目覚めないようにしてあげる。私とお父さんなら、それが出来る。だから約束して、改心するって。お姉さんの為に、そして自分の為に。」
「・・・・それは・・・・、」
「何度も言うけど、支えてもらってるのはあんたの方よ。お姉さんは、きっとあんたの事を心配してる。無理をしてるって分かってるから、きっと心を痛めてる。だからお願い・・・・勉君や鈴音ちゃんを巻きこんだりしないで。これ以上道を踏み外せば、あんたは風間と同じ末路を・・・・・、」
そう言いかけた時、亜希子は白目を剥いて倒れた。
そして彼女の後ろには、袈裟を着た有希が立っていた。
その手には注射器を持っていて、針の先から透明な液が垂れていた。
「朋広・・・・・。」
有希は注射器を落とし、ゆっくりと近づく。そして朋広に抱きついて、「悪魔に惑わされちゃダメよ・・・」と呟いた。
「こいつは私たちの邪魔をする悪魔・・・・・菩薩様の敵なのよ・・・。だから耳を傾けちゃダメ・・・・。」
弟を抱きしめながら、有希は逞しい弟の胸に顔を埋める。
「前に言ったでしょ・・・・・私を支えてって・・・・。」
漏れるようなその呟きが、朋広の耳をくすぐる。亜希子の言葉で揺らいでいた心が、一瞬にして有希の方へと引き戻された。
「全ては・・・・観音様のお導きの先に・・・・答えがあるの・・・・。だから・・・・誰の言葉も聞いちゃダメ・・・・。」
そう言って顔を上げ、朋広の頬を両手で包む。そしてそっと唇を重ねて、潤んだ瞳で見つめた。
朋広は固まり、「有希・・・・」と囁く。
二人はしばらく唇を重ねた。そして有希は朋広の手を取り、本来なら女性にあるはずのない性器を、そっと握らせた。
それは固く勃起していて、熱を持って脈打っていた。
「これは本当の私の身体じゃない・・・・・。だからあの子たちの身体が必要なのよ・・・・・。
そして私たちで子供を産んで、子孫を残す。その子もまた、血の繋がった兄弟と愛し合い、純粋な血が守られていくの。」
「・・・・・・・・・。」
「そうやって血を守り続けることで、いつか観音様の救いがもたらされる。この世の汚れが祓われて、悪魔はいなくなるわ・・・・。だから・・・・惑わされないで、悪魔の言葉に・・・・。いつだって観音様が見ていらっしゃるんだから。」
有希は裾をたくし上げ、直に自分のペニスを握らせる。
激しく唇を絡ませ、腰まで振り始める。
気がつけば、朋広も手を動かしていた。有希と舌を絡め会い、袈裟を剥いで胸をまさぐった。
やがて有希が小さく喘ぎ、ペニスが波打った。
しかし睾丸が無い為、射精は起こらない。なんとも言えない後味の悪いまま、二人の愛撫は終わった。
「ねえ朋広・・・・こんなの寂しいでしょう?愛し合うなら、最後までいきたいじゃない。」
「・・・・・・・・ああ。」
「だから・・・・早くあの子たちを見つけましょ。この悪魔を殺して、霊体を取り出して、直接聞いてやればいいのよ。・・・・ね?」
有希は穏やかな表情で微笑み、部屋を出て行く。
朋広はしばらく立ち尽くし、有希のペニスの感触を思い出していた。
自分にアレがあれば・・・・・。アレを有希の中に入れることが出来れば・・・・・。
そう思った途端、自分に嫌気が指した。
自分は有希を愛し、有希を支える為に生きているのに、その有希を抱きたいなんて・・・・・どうかしている。
倒れた亜希子を睨み、膝をついて、そっと抱き上げる。
「あんたの言うことは・・・・・・当たってるかもしれない・・・・。俺はもう・・・・有希の支えでいるだけでは、満足出来ないようだよ。あいつを自分のものにしたいと思ってる・・・・。これじゃ目的が変わってる!こんな・・・・こんなんじゃ・・・・。」
亜希子を抱えて立ち上がり、僧兵に毛布か大きめのタオルを持って来るように言った。
僧兵の一人が慌てて外に駆けて行き、薄い毛布を抱えて来る。
朋広はそれを受け取ると、亜希子の身体を包んだ。
「臭うし、汚い。部屋を綺麗にしといてくれ。」
そう言い残し、亜希子を抱えて出て行く。
階段を上がり、蔵の外までやって来ると、有希が本堂に向かって手を合わせていた。
そして背中を向けたまま、「ちょっと早いけど、研究に取りかかろうか?」と言った。
有希は本堂を通り過ぎ、その奥にある大きな鐘に歩いて行く。
なびく黒髪、美しい佇まい、そして唇と胸の感触に、波打っていたペニス・・・・。
朋広は有希の後ろ姿を見つめながら、また欲情を覚えた。
「亜希子さん・・・・・。俺の中にも悪魔が芽生えてるみたいだ。改心すると約束したら、俺たち姉弟を救ってくれるか?」
気絶する亜希子を見つめ、汚れた顔を拭ってやる。
亜希子の言った通り、朋広は風間に呪われていた。
しかしそれは、悪霊や悪魔の仕業ではない。
自分が最も愛する、姉の魅惑に負けての呪いだった。
朋広は自嘲気味に笑う。
悪霊や悪魔の呪いなら、追い払えば済む。
しかしこの手の呪いとなると、そう簡単にはいかない。
自分が死ぬか、有希が死ぬか。もしくは勉と鈴音の身体を手に入れて、姉と結ばれるかしなければ、決して解けない呪いだろうと思った。
朋広は葛藤を抱えながら、境内の清水で、亜希子の身体を洗ってやった。
観音菩薩の立つ本堂に、線香の煙が漂っている。
その匂いは心を落ち着かせ、それと同時に頭を冴させた。
野々村有希は外に目をやり、美しい庭を眺めた。
桜は花弁を落とし、代わりに若い緑が彩っている。
地面には萎れた花弁が散らばり、朽ちていく美しさを表現していた。
有希は観音像に向き直り、読経を再開する。
違法な薬が混ざった線香の煙が、有希の頭の一部を刺激して、極楽のような快楽へ誘った。
しばらくして読経を終えると、すぐに線香の火を消した。
そして朋広の部屋に向かい、虚ろな目で服を脱ぎ始めた。
有希は裸になる。そして背中を向けて、ゆっくりと座った。
「前より大きくなってる・・・・。このままじゃ私、悪魔になっちゃう・・・。」
有希は辛そうに、そして悲しそうに呟く。
朋広は数珠を握りしめ、姉の背中に触れた。
そこには観音菩薩の刺青が彫ってあり、凛とした表情で手を広げている。
しかしこの刺青には、一カ所だけ不気味な部分があった。
本来は閉じているはずの目が、誰かに引っ張られるように、瞼を開けようとしているのだ。
そして瞼の奥には、赤く染まった瞳があった。
激しい怒りに燃えるようなその瞳は、見ているだけで不安になるものだった。
朋広はその瞳に触れ、黒光りする数珠を掲げた。
「日に日に開いていくな。これ・・・完全に開いたら・・・・・、」
そう言いかけて、朋広は口を噤む。
「風間さん・・・・まだ生きてるんだよ。幽霊になってさ。お前の中に宿ってる以上、簡単には追い払えない。」
「分かってるわ。だけどどうにかしなきゃいけないじゃない。」
有希はそう言って「いいからいつもと同じようにして」と頼んだ。
朋広は頷き、数珠を握って手を合わせる。そしてじゃりじゃりと数珠を鳴らした。
目を閉じ、瞑想するように身体から力を抜く。
するとその途端に、わらわらと幽霊が集まってきた。
まるで朋広に呼ばれたかのように、彼の周りに群がる。
朋広は目を開け、有希の背中の観音菩薩に触れる。
そして開きかけている瞼に、そっと指を置いた。その指をゆっくりと下に動かすと、ほんの一瞬だけ瞼が閉じる。
不気味な瞳はなりを潜め、菩薩の顔に穏やかさが戻る。
その瞬間、朋広の周りに群がった幽霊が、観音菩薩の方を振り返った。
そして我先にと有希に飛びかかり、救いを求めるかのように、背中の観音菩薩にすがりついた。
朋広はまた手をすり合わせ、数珠の音を鳴らす。
すると群がった幽霊たちは、そのまま観音菩薩の中に吸い込まれていった。
・・・・・この先には、菩薩の救いが待っている・・・・・。
幽霊たちはそう信じて、次から次へと有希に群がる。
そして全ての幽霊が吸い込まれると、有希はビクンと反り返った。
朋広はすかさず有希の背中に触れ、観音菩薩の瞼を開いた。
それと同時に、有希に吸い込まれた幽霊たちの絶叫が響く。
なぜなら救いの菩薩だと信じて飛び込んだその先には、悪魔が待っていたからだ。
風間慎平という、二人の師匠だった悪魔が。
幽霊と悪魔。二つの存在が有希の中で暴れ始め、菩薩の瞼は重くなる。
そして眠るように閉じていった。
「・・・・終わったぞ。」
朋広が言うと、有希はぐったりと倒れ込んだ。
身体じゅうに汗を掻き、三日三晩徹夜でもしたかのように、疲れた顔をしている。
朋広は有希を抱きとめ、布団に寝かせた。
そして手を握りながら、「こんな事を続けてると、いつか死ぬな」と心配した。
「風間さんは、何としてもお前を殺すつもりらしい。」
そう話しかけると、「違うわ・・・・」と笑った。
「殺すんじゃなくて、悪魔にするつもりなのよ。私たちが裏切ったから、復讐するつもりなんだわ・・・。」
「違う。裏切ったのは俺だけだ。いや・・・・そもそも俺は、最初からアイツの事は信用してなかったけど。」
朋広は口元を歪め、握った有希の手を見つめた。
「風間さんは・・・最後の瞬間抵抗しなかった。殺そうと思えば俺を殺せたのに、そうはしなかった。あの人はすんなり俺の手にかかって死んだ。しかも・・・・笑ってやがったんだ・・・・。」
握る手に力を込め、有希の手の感触を確かめる。そうすることで、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いたが、それでも怒りは治まらなかった。
「あの人は、何もかも俺たちに丸投げしやがった。散々自分勝手に人を殺し、俺やお前を利用した。全ては自分の為だ。自分の思想が正しいのだと、満足する為だけの、クソみたいオナニーだ。」
声に熱が籠り、眉間に皺が寄る。有希は朋広の手を握り返し、黙って聞いていた。
「そうやって呆れるほど自分勝手なことをしてきたのに、最後の最後で迷いやがった。あいつは死ぬ間際になって、ようやく自分のやってきたことが間違いだって気づいたんだ。だから笑った。死ねば全てが終わる。自分のやって来た悪行から解放されて、楽になれると。何の責任も取らず、何の尻拭いもせず、俺たちに全てを押しつけて。お前の背中に宿ってるのは、あの人の魂じゃないよ。あの人が楽に逝く為に、わざと自分から切り離した、悪魔の心だ。アイツは自分の醜い心までも、俺たちに押しつけた。そうだろ?」
朋広は姉を見つめ、その胸にそっと顔を近づける。
乳房の間に顔を埋め、そっと胸に触れて、その柔らかさを確かめた。
「有希、俺を抱きしめてくれ。俺だって弱い人間だ。でもお前を支える為に、こうして無理をしてきた。だから俺にも、少しだけ救いを与えてくれよ・・・。」
姉の胸に顔を埋めながら、朋広も彼女の救済を求めた。
有希はそっと弟を抱きしめ、子供をあやすように、ゆっくりと頭を撫でた。
しかし身体の中で暴れる、幽霊と悪魔に力を奪われ、その手を止めた。
そして目を閉じ、「夕方になったら起こして・・・・・研究を始めるの・・・・」と眠った。
朋広はしばらく抱きついていたが、顔を上げて有希の寝顔を見た。
「・・・・唯一の救いは、あの男にお前の身体が汚されていない事だけだよ・・・・。もしお前に手を出していたら、俺はもっと早くアイツを殺していた。」
そう言って有希の唇に触れ、そのまま乳房までなぞる。
姉弟でなければ、そしてお互いの身体に”ある障害”が無ければ、今すぐにでも抱きたかった・・・・。
しかしどんなに願っても、それは無理なことであった。二人はあらゆる意味で、セックスをすることを許されないのだから。
しかし姉弟であるからこそ、離れることなく共に歩んで来た。
だがそれも長くはない・・・・・。近いうちに、今までのように共に歩くことは出来ないだろうと感じていた。
喜恵門という不思議な人間の血を引き、それを以て悪行を重ねてきた風間の行為は、誰にも言い訳できない。
観音菩薩の名前を借りて、気に食わない人間を殺してきた。誰の為でもない、世の中の為でもない・・・・・ただ自己満足の為に。
風間という男の歪んだ思想は、色濃く有希に刷り込まれていた。
もはや純粋な心は歪められ、このまま放っておけば、愛する姉は凶悪な殺人鬼に成り下がる。
朋広はもう一度唇に触れ、その寝息を感じた。
そして部屋を後にして、本堂から離れた所にある、白壁の蔵に向かった。
蔵の傍には二人の僧侶が立っていて、朋広に小さく頭を下げた。
その眼光は鋭く、僧服の上からでも鍛えられた身体をしているのが分かる。
しかし今の広明は、彼らよりも強い。
それは肉体的にも、精神的にも、そして組織内の立場という意味でもだった。
かつて自分を組み伏せた僧侶たちを、今は弟子として従えている。
朋広は僧侶たちに一瞥をくれ、心の中でこう思った。
《・・・この勘違いした連中も、近いうちに居場所を失い、世を彷徨うことになる・・・・。そしてはぐれ者同士で集まり、また徒党を組んで、風間と似たようなことを繰り返すだろうな・・・。》
そう思うと、この僧侶たちをどう処分するか、しっかりと考える必要があった。
僧侶たちはそんな朋広の考えなど知るよしもなく、強者に従う事に喜びを感じていた。
力を求める者ほど、自分より強い者に支配されたがっている。
やたらと肉体や拳を鍛える僧侶の心理を、朋広はよく知っていたし、それを上手く利用している。時が来るまでは、良いように従わせておくつもりだった。
僧侶たちは蔵の鍵を開け、重い木造の扉を引いた。
朋広は足を踏み入れ、埃を被った美術品や、仏像を睨みつけた。
そして床に膝をつき、小さな金属の出っ張りを引いた。
すると床板の一部が外れて、地下へ続く階段が現れた。
中は蛍光灯の明るい光が灯っていて、階段の先まで照らしている。
朋広は手摺りに触れながら、その階段を下りていった。
すると長い廊下が現れ、その奥には千手観音像が立っていた。
かなり大きな像で、人の倍くらいの高さがある。身体から無数の手が生えていて、悩める者たちを救済するように、四方八方に伸びていた。
この千手観音像もまた、本堂の観音菩薩像と同様に、喜恵門の力を宿した仏像だった。
しかも本来なら人を救うはずのその手には、いくつもの頭蓋骨がぶら下がっていた。
朋広はその頭蓋骨を睨み、小さく舌打ちをした。
なぜならその頭蓋骨は、風間が今までに殺してきた、喜恵門の力を受け継ぐ者たちの頭だったからだ。
異なる宗派、異なる宗教と対立していた風間は、何度もそういう者たちを暗殺してきた。
しかし喜恵門の力を受け継ぐ人間は、殺しただけでは終わらないこともある。
風間の怨念が有希に宿っているように、死後も消えない憎悪を抱え、生きた人間を襲うことがある。
それを防ぐ為に、殺した者の頭蓋骨を千手観音の手に預けていた。
そしてこの千手観音に、僧侶たちが朝晩欠かさず経を捧げる。
そうすることで、仏像に宿った喜恵門の力が、死者の力を打ち消していた。
朋広は悔しそうな顔で、千手観音像を睨む。
この千手観音の手には、本当なら風間の頭蓋骨も無いといけない。
風間を殺したあの日、朋広はその頭を切り落として、千手観音の手に預けようと思った。
死した風間が、悪霊化することを恐れたからだ。
しかしそうはいかなかった。
なぜなら途中で邪魔が入ったからだ。
あの日、風間が勉の中から追い払った、悪魔の心。そいつが有希に襲いかかろうとした。
朋広は咄嗟に有希を突き飛ばし、悪魔の勉の前に立った。
そして風間の握っていた短刀を手に取り、悪魔の勉の目を突き刺した。
勉は絶叫し、慌てて逃げようとした。
しかし後を追いかけ、もう一つの目も潰した。
勉は光を失い、発狂したように拳を振り回す。朋広は素早く離れ、有希を抱えて退散した。
そしてしばらくしてから戻ってみると、もう勉はいなかった。
それとなぜか風間の死体も消えていて、近くには銃の模型を構えた老人、そして悪魔の心を取り除かれた、人間の勉が倒れているだけだった。
老人は手を合わせ、戦争がどうたらと呟いているだけで、話しかけても振り向こうとしない。
朋広は倒れた勉をおぶり、有希と共にその場を後にした。
あの時、風間の頭さえ持ち帰っていれば、有希にとり憑くこともなかった。
今さら悔やんでも仕方ないが、それでも後悔は消えなかった。
朋広は千手観音像を睨みながら、廊下の奥へと足を進める。
左右の壁には、それぞれ五つずつ扉があって、右側の三番目の扉の前で足を止めた。
中からは女の喘ぎ声、そして数人の男の罵る声が聞こえる。
朋広は一つ深呼吸をしてから、扉の取っ手を引いた。
その途端、女の喘ぎ声が耳に響き、見たくないものが目に飛び込んで来た。
「・・・・・・・・・。」
無言のまま中に入る。そして壁にもたれかかり、腕を組んで険しい顔をした。
扉の中には、一人の若い女。そして四人の屈強な僧兵がいた。
壁には何本もロウソクが灯っていて、暖色の光を照らしている。
部屋の中央にはテーブルが一つ置かれ、床には女性物の服と下着が散乱していた。
それ以外に物はなく、天井に不動明王の顔が描かれているだけだった。
そんな部屋の中で、女はテーブルの上に寝かされ、男たちから凌辱を受けていた。
屈強な僧兵に押さえつけられ、一糸纏わぬ姿で、ただ辱しめを受けている。
乳房や臀部を撫で回され、髪を掴んで罵られ、口、膣、肛門をペニスで埋められ、どろりとした白い液が、顔や陰部の周りに垂れている。
部屋の中には嫌な臭いがむせ返り、朋広は思わず顔をしかめた。
すると朋広のその表情に、僧兵たちは怯え、動きを止めた。
朋広は何も言わず、手を向けて続けろと合図した。
凌辱が再会され、女は声にならない声で悲鳴を上げる。
涙が頬を伝っていき、いっそのこと殺してくれと言うような目で、朋広を睨んだ。
朋広は彼女の目を睨み返し、何も言わずに凌辱を眺める。
僧兵たちは喜ぶでもなく、興奮するでもなく、ルーチンワークでもこなすような感覚で、ひたすら腰を振っている。
無表情で女を見つめ、凌辱の果てに死のうと、どうでもいいというような目つきだった。
女はそんな僧兵に弄ばれ、やがてビクンと背中をのけ反らした。
朋広は手を上げ、僧兵たちにやめるように合図する。
四人の僧兵はピタリと動きを止め、女から離れていった。
女は肩で息をしながら、短くえづく。口から白い液体が垂れ、虚ろな目で朋広を睨んだ。
「・・・・・・・・・。」
女は口を動かすが、何を言っているのか分からない。
朋広は顔を近づけ、その声を聞き取ろうとした。
その瞬間、女は口を開けて噛みつこうとした。朋広はそれを予想していたかのように、サッと顔を離した。
「まだまだ元気だな。昨日からずっと犯され続けてるってのに。」
そう言って女を見つめ、「勉君と鈴音ちゃんの居場所、そろそろ教えてくれないか?」と尋ねた。
「あんたらが匿ってることは分かってる。家にもあの神社にもいないってことは、別の場所に逃がしたんだろう?」
「・・・・・・・・・・。」
「意地張って黙ってると、あんたの頭も千手観音の手にぶら下がることになる。いい加減喋ってくれよ、星野亜希子さん。」
朋広は再び顔を近づけ、涙と精液で汚れた亜希子の顔を睨んだ。
「俺だって、本当はこんなことはしたくない。でも有希を助ける為だから、仕方なしにやってるんだ。これ以上あんたを苦しめたくないんだよ。」
そう言って亜希子の頭を撫で、「もう意地を張るのはよそうよ」と諭した。
「別にさ、俺は喜恵門の力がどうとか、宗派や宗教の違いがどうとか、そんな事はどうでもいいんだよ。あんたが憎くてやってるわけじゃないし、神道派が嫌いだから責めてるわけでもない。もっといえば、そんな下らないもんは、全部消えちまえばいいと思ってる。」
朋広は亜希子の頭を撫でながら、テーブルの端に腰かけた。
汚れた身体は異臭を放ち、精液に混じって便や尿の臭いが鼻をついて、眉間に皺を寄せた。
「俺にとって大切なのは、有希だけなんだ。でもって、アイツは風間のせいで苦しんでる。死んだ後でも、まだ有希を苦しめようとしているんだ。それをどうにかするには、勉君と鈴音ちゃんの力が必要なんだよ。だから事が終われば、全ての責任は俺が取る。焼くなり煮るなり好きにしてくれて構わない。有希が・・・・また純粋な心を取り戻すなら、俺はどうなったって構わない。」
朋広の声は沈んでいて、それと同時にひどく疲れていた。
目頭を押さえ、「もう終わりにしないと・・・・、」と、誰にでもなく呟いた。
「亜希子さん、昨日神社であんたを捕えた時、あんたの弟は目の色変えて襲いかかってきたよな?彼の目を見た時、俺はピンと来るもんがあった。ああ、こいつも俺と同じで、自分の姉貴にゾッコンなんだなって。自分が生きているのは、愛する姉の為だけで、その姉を守る為なら、自分の命だって惜しくはないんだ。だから彼を殺す時、俺に躊躇いはなかったよ。彼は姉を守ろうとして死に、それはある意味じゃすごく幸せなことだったのかもしれない。そう思うと、ちょっと羨ましくもある。」
そう言って、観音像にぶら下がった頭蓋骨を思い出した。
「彼は今、千手観音の手の中にいるよ。悪霊化されて、俺の邪魔をされちゃ困るからね。でも大丈夫、あんたが勉君と鈴音ちゃんの居場所を教えてくれれば、ちゃんと骨は返してあげるから。身体は燃やしてしまったけど、頭は綺麗なままなんだ。」
疲れた声のまま、朋広は淡々と語る。すると指に激痛を感じて、思わず顔をしかめた。
見ると亜希子が噛みついていて、指を食い千切る勢いで歯を立てていた。
僧兵たちが咄嗟に動いたが、朋広は手を上げて止めた。
「俺の指が欲しけりゃくれてやるよ。一本でも二本でも、なんなら全部でもいい。」
そう言って自分の人差し指を噛み、ごりごりと歯音を立てて、食い千切ってしまった。
それを亜希子の前に吐き出すと、「もう一本いるかい?」と笑った。
「望むものがあるならくれてやる。だけどその代わりに、勉君と鈴音ちゃんの居場所を教えるんだ。そうでなければ、あんたのお父さんも死ぬことになる。どこに隠れていようとも、必ず見つけ出して殺す。そして弟の隣に並べてやるよ。千手観音の手の中で、家族そろってぶら下がってりゃいい。」
鋭い眼光を飛ばしながら、鼻が付くほど顔を近づける。
すると今まで無表情だった亜希子が、ゲラゲラと笑いだした。
「どうした?」
そう尋ねると、亜希子は汚れた顔をニヤけさせて言った。
「・・・・バカ。」
「何?」
「うちの・・・・お父さんを・・・・必ず見つけ出して殺すだって・・・・・?」
「ああ、そうだ。どこに隠れていても無駄だ。」
「だったら・・・・・自分で勉君と鈴音ちゃんを見つけろよ・・・・・。どこにいたって・・・・必ず見つけ出せばいいだろ・・・・・このバカ。」
亜希子は唾液と共に、口の中の精液を吐き飛ばす。
それは朋広の顔にかかり、たらりと垂れていった。
「いくらこんなことしたって・・・・・絶対に口は割らない・・・・・。こんなの・・・・・どうってことないわ・・・・・・。アホな男は・・・・・・レイプすりゃ女が言うことを聞くと思ってる・・・・・。いくらザーメンかけられたって、私は平気・・・・・。」
亜希子は馬鹿にしたように言い捨て、また精液混じりの唾を吐き出す。
それは朋広の手を汚し、蜘蛛の糸のように、たらりと床に落ちていった。
「一番怖いのは・・・・・自分が自分でなくなることよ・・・・。あんただって・・・・お姉さんが変わっていくのが辛かったんでしょ・・・・?このままいけば・・・・・あんた自身も、自分でなくなる・・・・・。」
亜希子は朋広を見据えながら、鬼のような顔で語る。
弟を殺されようとも、凌辱を受けようとも、亜希子の心は死なない。
微塵の怯えも見せずに、見下すような視線を向けていた。
翌日、風間はまた有希と朋広に会いに来た。
二人は寺院に連れて行かれ、観音像の前で瞑想をさせれた。
『修行を積めば、思い通りに力を操れる。これから毎日、観音様の前で瞑想に励むように。』
二人は薄暗い堂内で、二時間も瞑想をさせられた。
これを一ヶ月ほど続けていると、やがて二人の身に変化が起きた。
有希は人の色がより鮮明に見えるようになり、揺らめきや濃度で、心理状態まで把握出来るようになった。
朋広は幽霊が見えるだけでなく、直接手で触れたり、会話まで出来るようになった。
風間の言う通り、一ヶ月間の瞑想は、二人の力を引き上げた。
それからさらに二ヶ月の修行を積み、二人は完全に力をコントロール出来るようになった。
人の色を見たくない場合は、その力をオフにすることも出来るし、特定の人間の色だけを見ることも可能になった。
それは朋広も同じで、幽霊を見たくない場合は、視界から消すことが出来る。
それに深いコミュニケーションが出来るようになり、幽霊の心を内を探ることも可能になった。
風間はそんな二人の成長を喜び、『君たちこそ後継者に相応しい』と褒めちぎった。
『さて、修行も大事だが、実践の空気を感じるのも大事だ。今日は僕に同行し、実際に悪魔を祓うところを見てほしい。』
そう言って二人を連れ出し、住宅街の細い路地に向かった。
下校する小学生たちが、有希と朋広の目の前を通り過ぎて行く。
しばらくすると、下校の集団からポツンとはぐれた、一人の少女が歩いて来た。
まだランドセルが大きく感じられるほどの年頃で、俯きながら石を蹴っている。
そしてそのすぐ後ろには、キャップを深く被った男が歩いていた。
チェックのシャツに、薄汚れたスラックス。靴は安物のスニーカーで、無表情のまま目の前の少女を見つめている。
風間は住宅の陰に隠れながら、『あの男、もう三人もの少女に暴行を働いている』と言った。
『この辺りで下校中の小学生が襲われる事件が相次いでいてね、警察から僕たちに捜査協力の依頼が来たのさ。しばらく調べた結果、あの男が怪しいと分かった。そしてさらに調べていくと、あの男の自宅から少女への暴行を撮影したビデオが見つかった。』
それを聞いた有希と朋広は、顔をしかめて男を見つめた。
男はこちらに気づいておらず、目の前の少女に目を向けている。
『あの・・・・証拠があるなら、警察に任せればいいのでは・・・・、』
有希が問いかけると、風間は首を振った。
『いいや、駄目だ。どうせ警察に捕まったところで、出所したらまたやるよ。性犯罪者ってのは、何度でも同じ事を繰り返すんだ。』
『でもそういう犯罪者を裁く為に、法律があるはずです。それに出所した人全員が、再び罪を犯すとは限らないと思います。』
有希は毅然と言い返す。どんな人間でも、罪を悔いて改心する可能性があるはずだと。
しかし風間は首を振った。『悪魔に改心の可能性などないよ』と。
『僕だって、最初は悪魔を諭そうとしたさ。でもね、その度に裏切られるんだ。奴らは平気で嘘をつき、僕たちを欺いた。そしてまた犯罪に走る。あの男だって、今僕たちが裁かなければ、また犠牲になる子供が出てくるんだよ。』
『でも・・・・、』
『いいかい?あの男が捕まった所で、せいぜい数年でシャバに戻って来られるんだ。だけど乱暴された子供は、一生傷ついたままだ。心に深い傷を負い、それは大人になっても消えることはないだろう。』
『そうだとしても、やはりここは警察に・・・・・・、』
『何の罪もない子供が、一生消えることのない傷を抱えてしまう。ずっと苦しむんだよ。だけどあの男はそうじゃない。塀の向こうで何年か大人しくしていれば、それで済んでしまう。そして出てきたらまたやる。強姦で死刑は有り得ないから、欲望に負けて罪を重ねるのさ。』
『だからといって、ここであの人を殺すつもりじゃ・・・・・、』
『ああ、殺す。なぜなら僕たちは、特例で殺人を認められているんだからね。』
『でもそれは、極悪人に限ってのはずです。法律で死刑に出来ないような人間でも、特例の殺人は認められるんですか?』
有希は負けじと言い返す。どんな人間でも、絶対に更生の余地はあるはずだと。その可能性を探ってからでも、裁きを下すのは遅くないと。
風間は唇をすぼめ、有希の顔を見つめた。
理屈で言い返すことは簡単だし、言葉巧みに丸め込むことも出来る。
しかしそれをやったところで、根本的に有希の考えを変えることは出来ないだろうと思った。
風間がじっと考え込んでいると、有希は『やはり警察に任せるべきです』と言った。
『私は先生に出会えて、とても感謝しています。観音様から力を頂き、先生は私たちを鍛えて下さった。でもやっぱり、殺人なんて間違っていると思います。悪人だから殺してもいいだなんて、きっと観音様は望んでおられないはずです。』
有希の凛とした態度は変わらない。例え相手が自分の師匠であっても、正面から言い返す。
朋広は腕を組んで険しい顔をしていて、『俺も同感だな』と呟いた。
そんな二人の態度を見て、風間は困ったように頭を掻いた。そして苦笑いを見せながら、『いいよ、そこまで言うのなら』と肩を竦めた。
『君たちの言うとおり、今回はあの男を見逃そう。』
その言葉を聞いて、有希はホッと笑顔を見せる。しかし風間はすかさずこう言った。
『有希、朋広。君たちはまだ何も知らない。そして何も分かっていない。今日あの男を見逃したことで、この先いったい何が起こるか?自分の目で確かめることになるだろう。』
そう言い残し、風間は引き返す。『後は君たちの好きにしたらいい。警察に行くなりなんなり、思うようにしてみることさ』と手を振りながら。
風間は去り、有希は男を振り返る。
『ねえ朋広、あの人、私たちで自首を促しましょ。』
有希は男に向かって歩いて行くが、朋広はそれを止めた。
『危険だよ。』
『大丈夫よ、こっちには証拠があるんだから。暴行のビデオを押さえてるって言えば、言い逃れは出来ないでしょ?』
『そのビデオはここにはないよ。後で風間さんからビデオを借りて、警察に渡そう。好きにしていいって言ってくれたんだから。』
『駄目よ。あの人は今も子供を狙ってる。すぐ警察に連れて行かないと、また酷いことをするわ。』
『アイツは犯罪者だぞ?正面から話しかけるなんて危険だよ。とにかく警察を呼んで、事情を説明しよう。そもそも捜査協力の依頼をしてきたのは警察なんだから、事情を話せばすぐに捕まえてくれるよ。』
『いいえ、それじゃ駄目。法律で罪は裁けても、あの人の心まで裁くことは出来ない。改心を促さなかったら、きっとまた罪に走るわ。』
『だから・・・・それは俺たちがどうこう出来ることじゃ・・・・、』
『何言ってるのよ、その為に私たちの力があるんじゃない。観音様から授かった御力が。』
有希は朋広の手を払い、男の方へ歩いて行く。
朋広は苦い顔をしながら、渋々姉について行った。
有希は『すみません』と話しかける。男はビクリと振り返り、警戒する目で有希を睨んだ。
『ちょっといいですか?お話しがあるんですが・・・・・、』
そう切り出し、言葉を選びながら、男の罪について言及していく。
子供が暴行されていること、あなたが怪しいということ、そして暴行を撮影したビデオのこと。
有希は丁寧に、そして柔らかい口調で話していった。そして最後に自首を促し、『警察に行きましょう。私たちも付き添ってあげますから』と微笑んだ。
有希は男の色を見る。黄色に少しだけ青が混ざった色が、ひどく揺れていた。
『怖いのは分かります。でもあなたは・・・・少し幼かっただけ。強い黄色が、それを物語ってる。だから更生して大人になれば、罪を重ねることはありません。罪を悔やんで改心すれば、もう子供を狙うだなんて悪さは・・・・・、』
そう言いながら、有希は手を伸ばす。菩薩のような慈愛でもって、男の心を救おうと。
しかしその瞬間、朋広が二人の間に割って入った。
有希の前に立ち、彼女を守るように拳を構える。
『・・・・・・・・。』
男はポケットから、小さなナイフを取り出していた。
それを向けながら、ゆっくりと後ずさる。その顔はひどくうろたえていて、明らかに目が泳いでいた。
朋広はじっと男の目を見据え、自分からは動かない。
刃物を持った相手に対して、下手な刺激を与えたくなかったからだ。
気を抜かず、男のほんの些細な動きにまで気を配る。ナイフに対しての戦いを、頭の中でシュミレーションしていた。
しばらく二人は睨み合い、やがて男の方が朋広の迫力に負けた。
踵を返し、『来るなよ・・・』と釘を刺して、一目散に逃げ去って行く。
有希は『待って!』と追いかけようとしたが、朋広が止めた。
『だから危ないって言ったろ!』
『でも・・・・・、』
『いいから警察に行こう。アイツが今日子供を襲うことはないよ。その間に捕まえてもらうんだ。』
有希は納得していなかったが、朋広はそのまま警察に行った。
事情を話すと、すぐに署長室に通された。
署長と数人の刑事が出て来て、詳しく話を求める。
署長は風間に連絡を取り、二人の話が事実であることを確認した。
有希と朋広は家に帰され、警察は男の自宅に向かった。
しかし男はすでに逃亡していて、家のパソコンから暴行を撮影した映像が見つかった。
警察はすぐに男の追跡を開始し、二日後に拘束した。
その連絡を受けた風間は、有希と朋広を連れて署に向かった。
そして有希と朋広は、そこで目を覆いたくなるような物を見せつけられた。
それは男が子供を暴行する映像だった。
男が逃亡している際、また新たな犠牲者が出たのだ。
『どうせ自分は警察に捕まる。それなら心いくまで好きなことをして、その後に自殺するつもりだった。』
捕まった男は、こう語った。
そしてその言葉通り、男は罪を重ねた。どうせ自殺するのだから、好きなだけ欲望を満たそうと、二日の間に三人もの子供が犠牲になった。
男はその際の犯行を、小型のビデオカメラで撮影していた。
暴行の様子が、順番に画面に映し出される。
おぞましい光景が、署長室のテレビ画面で再生され、有希は口元を覆って涙を流した。
何の力もない幼い子供が、歪んだ心の持ち主に乱暴される。
悲鳴・・・・絶叫・・・・親の名前を叫び、助けを求める・・・・。
血を流し・・・・顔を歪め・・・・地獄を見るよな顔をしながら、だんだんと弱っていく・・・・・。
有希は声を漏らして泣き、画面から顔を逸らした。
朋広は姉の肩を抱きながら、唇を噛みしめてその映像を睨んでいた。
・・・あの時・・・・自分が逃がさなければ・・・・・。
あの場で男を捕まえておけば、こんな事態にはならなかったはずだと、酷く悔やんだ。
映像は終わり、室内に重い空気が流れる。
有希はしばらく泣き続け、朋広は苦い顔で足元を見つめていた。
その静寂を破るように、ポツリと風間が言った。
『一番最後に乱暴された女の子だが、発見されて数時間後に亡くなった。お腹の中が、ひどく傷ついていたそうだ・・・。』
有希は顔を上げ、風間を見る。涙の筋をなぞるように、また滴が流れた。
『それに最初に犠牲になった子は、子供が産める身体じゃなくなったそうだ。二番目に暴行に遭った子も、酷いショックで口が利けなくなってる。』
『・・・・・・・・・。』
『心も身体も、まだまだそんなことが出来る年齢じゃないんだ。しかも見知らぬ大人に、力で押さえつけられ、痛みと恐怖を味あわされる。いったいどれほど怖かったか・・・・・。女性の君の方が、僕なんかよりもこの子たちの気持ちが分かるんじゃないか?』
風間は淡々とした口調で語り、ゆっくりと立ち上がった。
『犯人は捕まった。これから裁判にかけられ、しばらくは塀の向こうにいるだろう。でも必ず出て来る。そしてその時、また罪に走るだろう。性犯罪は病気と一緒だ。更生の余地などないんだ。生かしておいたら、この映像と同じことが、また繰り返されるだけさ。』
風間の言葉は、有希の胸を抉る。しかしこれだけでは終わらなかった。
刑事がビデオデッキをいじり、別の映像を再生させたのだ。
そこにはいくつも犯罪の様子が詰まっていて、さらに有希の心を抉った。
傷つく子供、それを楽しむ男。しかもこの映像は、その男が撮影したものであり、後に自分の欲望を満たす為に使う物であった。
『いいかい有希。今回捕まったあの男は、犯行後に自殺するつもりだと語った。しかしそれは嘘だ。もし自殺するつもりなら、暴行の様子をビデオに撮ったりはしないだろう。こうやって映像を残すということは、また後で楽しむつもりだったのさ。アイツは最初から死ぬ気などなかった。ただ自分の欲望を満たしたかっただけなのさ。』
風間の声は相変わらず冷静で、『もういいですよ』とビデオを止めさせた。
有希は酷く傷つき、顔を覆って項垂れている。
その隣では、朋広が激しい怒りを抱いていた。
子供を傷つける凶悪な人間。それはとても許せないものだったが、怒りの源はそれではない。
一番の怒りは、こんな映像を見せつけた、風間に対してだった。
朋広は気づいていた。
風間はあえてこういう映像を見せつけることで、有希の心を乱そうとしていると。
有希はとても芯の強い人間だが、誰かが傷つくことには耐えられない。特に弱者がいたぶられるのは、自分のことのように辛くなる。
有希はとにかく純粋で、この世に本物の悪人などいないと信じているのだ。
そのことを知っている朋広は、風間の意図を見抜いていた。
・・・この男は、有希を洗脳しようとしている・・・・。有希の心を乱し、その後に優しい言葉を投げかけるつもりだ・・・・。
・・・・でもそれは、ただの優しい言葉じゃない。自分の歪んだ思想が織り混ざられた、有希の価値観を書き変える言葉・・・。
朋広は立ち上がり、「出よう」と姉の腕を掴んだ。
有希は身体に力が入らず、椅子から立ち上がろうとしない。
朋広はサッと抱き上げ、会釈を残して部屋から去ろうとした。
すると風間もついて来るので、『あんたは来なくていい』と睨んだ。
『これ以上俺たちに関わらないでくれ。有希が苦しむ。』
『すまない。でもこれは必要な事だったから・・・・・、』
『いいよ、話すことなんてない。もう二度と会わない。』
朋広はそう言い残し、警察を後にした。
有希は自分が守る。あんな男の好きにさせるものか。
そう決意し、家路につくが、翌日にはもう風間に会う羽目になってしまった。
昨日の映像を見せられた有希が、朋広の制止を振り切って風間に会いに行ったのだ。
朋広は仕方なくついて行き、風間に会った。
風間は本堂の中で座っていて、『きっと君たちの方から来てくれると思ったよ』と微笑んだ。
朋広にとって、その笑顔は憎かった。しかし有希はホッとしたように微笑み返し、風間の前に座った。
『昨日・・・・あんなに酷いものを見せられて、私は思いました。観音様から頂いた御力を使って、一人でも多くの弱い者を救えないかと。でも今の私には、それだけの力はありません。だから・・・・もっと鍛えて頂きたいんです。お願いします。』
そう言って手をつき、頭を下げた。それを見た瞬間、朋広は諦めた。
こうなってしまったら、有希はどんな説得も聞かない。
風間に師事し、何が何でも自分の意志を貫こうとする。
有希が頭を下げる姿を見て、朋広は悲しみ、そして風間は喜んだ。
『大丈夫、もっと鍛えてあげるさ。共に世の汚れを祓おう。』
有希の肩をポンと叩き、『君たちに見てほしい物があるんだ』と言った。
『昨日は酷い映像を見せてしまったけど、世の中で起こる惨事は、あれだけじゃない。もっと多くの現実を、君たちに知ってほしいんだ。』
そう言ってニコリと笑い、『別の部屋に行く、ついて来なさい』と本堂を出て行った。
有希は立ち上がり、風間の後を追う。そして朋広とすれ違う瞬間、射抜くような視線を向けた。
『朋広、私を支えて。』
そう言って、有希は本堂を出て行く。
朋広は姉の背中を見つめながら、その言葉を繰り返し頭に浮かべた。
『私を支えて』
朋広にとって、これほど自分を奮い立たせる言葉は無い。
自分が生まれて来たのは、姉を支える為であり、その為だけに生きていると信じていた。
だから何があっても、有希を支える。今も昔も、そしてこれからもそれは変わらないのだと、胸に刻み込んだ。
しかし、有希の想いと朋広の思いは、かなりズレていた。
有希は風間と同じようになりたかった。世の汚れを祓い、弱い者や困っている者を救いたかった。その信念を、朋広に支えてほしかったのだ。
しかし朋広の思いは違った。このまま風間の元にいると、有希の純粋な心が歪められてしまう。そうなる前に、風間の元から引き離す。
必要であれば、風間を殺してでも・・・・・。
朋広にとって有希を支えるということは、その純粋な心を守り抜いてみせるという、そういう意味だった。
この日、二人はそれぞれの決意を胸に、風間から多くの資料を見せられた。
それは世の中で起きる凶悪犯罪の資料で、写真や映像も数多くあった。
そしてその凶悪犯たちがどういう人間であるか、出所後はどういう人生を歩んでいるのか。
そんな資料も、大量に読まされた。
ほとんどの凶悪犯は、家庭に問題があったり、酷い虐待を受けていたり、また幼い頃に事故や事件に巻き込まれ、トラウマを抱えていた。
そういうトラウマが心を歪め、犯罪に走らせる。
こういう者たちを、『反社会的な者』と呼ぶのだと、風間は言った。
そして『反社会的な者』は、悪魔ではないと語った。
彼ら、そして彼女らは、不幸な境遇の中で歪んでしまっただけであり、更生の余地は充分にある。そして救済が可能な者たちであると。
それに対して、『非社会的な者』がいると続けた。
家庭に問題もなく、虐待も受けておらず、これといったトラウマを抱えているわけでもない。
それにも関わらず、幼いころから常軌を逸した考えを持ち、平気で誰かを傷つける。
それは快楽の為であったり、好奇心の為であったり、ただなんとなくであったりと、およそ許すことの出来ない理由であると。
こういう者たちは、生まれながらにして『悪の芽』を抱えており、それが開花した瞬間、『悪魔』になってしまうと。
こういった『非社会的な者』は、母の腹の中にいる時から、すでに悪魔の素養が宿っている。
だから更生の余地などないし、救済する必要もない。
強く、そして熱を振るって、風間はそう語った。
『反社会的な者』の救済は、風間の目的とするところではなかった。
こういう者たちの救済は、別の宗派が行っており、自分たちの仕事は別の所にあると教えた。
それは『非社会的な者』の抹殺。風間の言うところの悪魔退治である。
有希は熱心に話を聞き、真剣な眼差しで資料を読む。
寺院に溜めこまれた多くの資料。それは確実に有希の心に変化を与えた。
悪は悪であり、裁かれても仕方のない存在であると。
風間が長年溜めこんだ多くの資料。ここはいわば、悪魔の記録を集めた図鑑である。
有希は知らず知らずのうちに、『非社会的な者』に憎悪を抱えていた。
弱者をいたぶる悪魔、罪もない人を傷つける悪魔、そういった悪魔は、観音様から授かった力で、粛清していかねばならないと。
有希の純粋な心は、風間の思惑通りに歪められていく。
そんな姉の様子を、朋広は心を痛めながら見つめていた。
あれから十年が経ち、有希も朋広も、風間の跡を継ぐに相応しい力を手に入れた。
そして・・・・・二人の師匠である風間はもういない。
自分の弟子の手によって、その命を消されてしまった。
風間は後悔していた。このままでは有希と朋広が、悪魔の道へ進んでしまうと。
風間は命を失い、肉体を失い、しかしそれでもこの世に留まり続けている。
なぜなら歪んで行く二人の弟子を、どうしても止めたかったから。
そしてあの二人を間違った道へ引きずり込んでしまったことへの、罪滅ぼしをしたかったから。
風間は祈る。観音菩薩に祈る・・・・。
どうかあの二人に、救いがもたらされるようにと・・・・・。
- 2015.06.27 Saturday
- 09:48
野々村有希は、幼い頃から神童と呼ばれた。
成績優秀、スポーツ万能、絵や音楽も得意とし、何気なく書いた詩が、県のコンクールで金賞を取るほどだった。
それに加えて容姿端麗で、誰にでも分け隔てなく接する、仏のように優しい心を持っていた。
誰が見ても、仏や菩薩の化身ではないかと思うほど、隙のない出来た人間だった。
有希自身、自分が非常に能力の高い人間であることを自覚していた。
自分の美貌もよく知っていたし、どんな分野に進んでも活躍出来る自信があった。
しかし有希の良い所は、それを鼻にかけなかったことである。
自分と対等の者はほとんどいないと思っていたが、だからといって、誰かを見下すようなことはしなかった。
どちらかと言えば、弱い者や困っている者、それに何も出来ない不器用な人間を見ると、放ってはおけない性質だった。
有希に手を差し伸べられた人間は、彼女を救いの女神のように感じた。
同性ならば、有希をマリアのように崇め、異性ならば、すぐに恋に落ちてしまった。
中には同性でも想いを寄せてくる者もいたが、有希は決して嫌な顔を見せなかった。
自分が救った者と恋仲になることはなかったが、そうやって慕ってくれるのは、とても嬉しいことだった。
自分の力で、誰かが救われ、そして幸せになる。
弱い者、救いを求める者、そういう人たちの力になる為に、自分は生まれて来たのだと思っていた。
また双子の弟の朋広も、そんな姉を誇らしく思っていた。
いつだって姉の手伝いをして、彼女の善意を支えた。
常に姉の傍に立って、彼女の右腕となる役目を務めた。
中には姉の美貌や能力に嫉妬したり、勘違いをしてストーカーになるような連中もいたので、そんな奴らから姉を守るのも、朋広の役目だった。
朋広は細身ながらも、格闘技や武道の才能があった。
だから本気でやってみないかと、何度もその道の人間から誘われた。しかし全ての誘いを断った。
自分が腕を磨くのは、姉を為だったからだ。
姉は特別な人間で、多くの人がその救いの手を必要としている。
仏のような、そして女神のような慈愛に溢れる心で、姉が手を差し伸べてくれるのを待っている。
それを分かっていたから、自分は姉の為だけに生きようと決めていた。
姉が人を救う為に生まれてきたのなら、自分は姉を支える為に生まれてきた。
二人の姉弟は、いつ、どんな時でも共に歩み、弱い者や困っている者に手を差し伸べた。
二人は同じ高校へ行き、同じ大学へ進み、社会に出てからも、己の信条を信じて、多くの人を助けてきた。
しかしある時、そんな二人に転機が訪れた。
風間慎平と名乗る男が、二人の前に現れたのだ。
有希の噂を聞きつけた風間は、是非とも自分に力を貸してほしいと頼んだ。
いきなり現れた人間に、力を貸してほしいと頼まれ、二人は首を捻った。すると風間は屈託のない顔で微笑み、場所を変えて話そうと言った。
朋広は断ろうと思ったが、有希は『ついて行こう』と言い出した。
『この人からは、普通の人とは違う何かを感じるわ』
朋広の制止も無視して、有希は風間の車に乗り込んだ。
姉を守る為、仕方なしに朋広もついて行くことになった。
二人が連れて行かれた先は、大きな寺院だった。
門の前には仁王像が立っており、侵入者を見張るように目を光らせている。
中に入ると、砂利の敷き詰められた立派な庭があり、数人の僧侶が出迎えた。
二人は立派な本堂に通され、奥に立つ荘厳な観音像に目を奪われた。
『なんてすごい・・・・。ねえ朋広、神聖な空気を感じない?』
有希は目を輝かせ、朋広もその観音像に漂う、不思議な空気に息を飲んでいた。
やがて袈裟に着替えた風間が現れ、二人の前に座った。
『改めて自己紹介をしよう。僕は風間慎平、観音菩薩から力を授かった、現世の汚れを祓う者だ』
何の恥ずかしげもなく、堂々と言い切るその姿に、朋広は警戒を抱いた。
きっと有希の噂を聞きつけたどこぞの新興宗教が、自分たちの看板にしてやろうとやって来たに違いない。
そう思って早々に退散しようとしたが、そうはいかなかった。
姉を連れて逃げようとした朋広の前に、先ほど出迎えてくれた僧侶たちが立ちはだかったのだ。
僧侶たちの目は険しく、朋広は危険を感じた。
・・・早くここから逃げなければ・・・・・。
朋広は僧侶を殴り倒してでも、ここから逃げるつもりだった。だったのだが・・・・・やられたのは朋広の方だった。
僧侶はとても強く、朋広の拳を軽く捌くと、すぐに組み伏せてしまった。
うつ伏せに倒され、腕を極められて激痛が走る。有希が悲鳴を上げたが、それと同時に風間がやめるように言った。
風間に言われて、僧侶たちは朋広を解放する。そして本堂から逃げられないように、鋭い目で見張った。
有希は朋広に駆け寄り、心配そうに肩を抱く。
風間は『手荒な真似をして申し訳ない』と謝りながらも、その目は僧侶と同じように鋭かった。
そして二人の前に膝をつき、とても穏やかな口調で切り出した。
『君たちにも、僕の使命を手伝ってほしい』
口元は笑っているが、目は決して笑っていない。
これ以上抵抗すればさらに痛い目に遭うと思い、二人は大人しくせざるを得なかった。
風間はもう一度『悪かったね』と謝り、二人を観音菩薩の前に座らせた。
そして自分が何者なのか、どういう使命を帯びて、どういう活動をしているのか。
それを詳しく語った。
話を聞き終えた二人は、ただ黙るしかなかった。
なぜなら、風間の話はとても現実的とは思えなかったからだ。
朋広は顔をしかめ、有希は困ったように唇を噛んでいた。
そんな二人の顔を見て、『そうなるだろうね』と風間は笑った。
そして『論より証拠、君たちにも見てもらおう』と言うと、菩薩像に向かって経文を唱えた。
黒光りする数珠をじゃらじゃら鳴らし、擦り合わせるように手を動かす。
堂内には重い空気が漂い、熱を帯びて息苦しくなっていく。
有希は頭痛を感じて目を瞑り、朋広はそんな姉を心配して、肩を抱いていた。
堂内はさらに熱を帯び、冬だというのに、汗が流れだすほどだった。
そして風間が経文を唱え終えると、有希はビクンと仰け反った。
心配した朋広が『有希!』と呼びかけると、すぐに目を開けた。
有希は真夏の灼熱に焼かれたように汗を流していて、『喉が・・・・』と水を欲しそうにした。
しかしすぐに目を見開いて、『朋広・・・・色が・・・・』と呟いた。
有希は朋広の頭上を指差し、『緑色のもやもやしたのが出てる・・・・』と声を震わせた。
『色が・・・・見える・・・人の色が・・・・。』
そう言い残し、有希は気を失った。
朋広は何度も呼びかけるが、有希は目を覚まさない。
『お前!有希に何した!?』
怒りに駆られた朋広は、風間に殴りかかる。しかしまた僧侶たちに押さえられ、『離せ!』と暴れた。
風間は朋広の前に膝をつき、『本当はお姉さんだけでよかったんだけど・・・』と前置きして、こう続けた。
『双子の弟ということなら、君にも同じ血が流れているはずだ。内に眠る力を開眼させて、お姉さんの力になってあげてほしい。』
そう言って、再び観音像に向き合い、経文を唱えた。
堂内はまた熱を帯び、激しい頭痛が朋広を襲った。
そしてあまりの痛みに頭が割れそうになり、悲鳴を上げて仰け反った。
意識が遠のき、そのまま気絶しそうになる。
ぼやける視界で辺りを見渡すと、堂内にはいつの間にか人が増えていた。
若い男や中年の女、それに年老いた者もいて、うろうろとその辺を歩き回っている。
朋広は不思議に思い、喉を鳴らして唾を飲んだ。
すると風間は、『開眼したようだね』と嬉しそうに笑った。
『ほら、見てごらん。以前の君なら見えなかった者たちが、今ならしっかりとその目に映っているはずだ。』
風間は周りに手を向け、辺りをうろつく人々を見つめた。
朋広はまた喉を鳴らし、『信じられない・・・』と漏らした。
『これ・・・・全部死んだ人間か・・・・?』
堂内を歩き回る者たちは、間違いなく人間だった。姿形、服装、動きや仕草、どれをとっても人間だった。
しかしたった一つだけ違いがあって、どの人間も目玉が無いのだ。
眼孔からすっぽりと抜け落ちたように、暗い闇を湛えた空洞になっている。
朋広は戦慄し、失禁しそうなほど震えた。
『ね?論より証拠、僕の話が本当だと信じてくれたろう?』
そう言って、また屈託のない笑顔を見せた。
『朋広君、僕は観音様から力を授かり、世の汚れを祓う使命を帯びている。ここにいる目の無い人間たちは、元々は目玉を持つ、生きた人間だった。しかし僕は、ここにいる人たちを殺す必要があった。なぜならここの人間たちは、人の皮を被った悪魔だからだ。』
風間は目玉のない人間に手を向け、『悪魔に光は必要ない。観音様の目の届く場所で、罪の汚れを祓うまでは』と叫んだ。
『ここにいるのは、世間で言うところの幽霊さ。でもその正体は、肉体から抜け出した人間の心なんだよ。』
『・・・・・・・・・。』
『心はね、人の姿をしているのさ。そして僕も朋広君も、観音様から加護を受け、人の心を見る力、そして話せる力を開眼させた。そして特別な武器を使うと、こうやって殺すことも出来る。』
風間は黒い数珠を握りしめ、懐から白木の短刀を取り出した。
そして辺りを歩き回る幽霊に目を向け、その中の一人に目を付けた。
『よく見ててごらん。』
そう言ってゆっくりと歩き出し、小柄な女の霊の前に立った。
『彼女はね、七人も人を殺した殺人鬼なんだ。しかもその中には、生まれて間もない赤ん坊もいた。他にも自分の恋人や、友人まで手にかけている。そうやって人を殺して、金に代わるものを奪い取る。そんな残酷なことをしておいて、平気でパチンコやホストクラブを楽しむような奴さ。これを悪魔と言わずして何と言う?』
風間は怒りを含んだ声で言い、白木の短刀を抜いた。
『ここへ来て随分たつが、罪を祓おうとする意識はまったくない。それどころか、未だに男と遊ぼうとしている。』
小柄な女の霊は、うろうろと堂内を歩き回っている。しかし動きを観察していると、デタラメに歩いているわけではなかった。
ヒクヒクと鼻を動かし、何かの臭いを探っている。
そして派手なスーツを着た、髪の毛の尖がった男の方に鼻を向け、真っ直ぐに歩き出した。それも嬉しそうに。
女はスーツの男の腕を取り、自分から抱きついて、唇を貪り始める。
しかし男の霊はそれを殴り飛ばし、何度も蹴りつけた。
そこへ他の霊も加わって、リンチでもするかのように、女の霊をいたぶった。
『ね?彼女は悪魔の集まる場所でさえ嫌われる、一番の厄介者なのさ。観音様も、あんな奴には愛想を尽かすだろう。だから僕が代わりに・・・・・こうする。』
風間は短刀を振り上げ、女の脳天に突き刺した。
その途端、耳を塞ぎたくなるような絶叫が響いた。
女は倒れ、頭を押さえてもがいている。風間はトドメとばかりに、数珠を握った手で殴りつけた。
重い音が響き、女の頭が潰れる。身体がピクピクと痙攣していたが、やがて動かなくなってしまった。
『これは処分ね。綺麗な水にしっかり浸けておいて。』
風間に言われて、二人の僧侶が女を運び出す。
堂内は静まり返り、朋広はただ唖然とするしかなかった。
『さて、今日はこんなところかな。とんでもない事ばかり目にして、君もさすがに参ってるだろう。家の近くまで送るから、ゆっくり休んでくれ。』
有希と朋広は僧侶におぶられて、車に乗せられる。そして家の近くまで来ると、『また明日迎えに来るよ』と言われた。
『しばらくは大変だろうけど、すぐに慣れる。君達には、僕の後継者になってもらいたいと思ってるんだ。そのうち仲間も紹介するからさ。』
そう言って朋広の肩を叩き、『お姉さんを頼んだよ』と、まだ気を失っている有希を預けた。
そして帰り際、車の窓を開けてこう言った。
『僕が君たちを鍛える。そして神道派の奴ら、別の仏派の奴ら、そういう邪魔な者たちを、僕たちで打ち負かそうじゃないか。なあに、数では負けてるけど、質ならこっちの方が上だ。僕たちこそが、喜恵門の力を正しく使っているんだと、周りに知らしめてやろうよ。』
そう言い残し、風間は去って行った。
その日の夜、有希と朋広はこれからのことを話し合った。
今日体験した、現実とは思えない出来事。それをどう受け止めたらいいのか、二人で悩んだ。
それに風間の話も、そう簡単に受け入れらない内容だった。
大昔に星野喜恵門なる人物がいて、幽霊や人の色が見える力を持っていた。
喜恵門の死後、それは代々子孫に受け継がれて、現代にまで残っている。
しかし世代を経るごとに、喜恵門の力は薄くなり、やがては消えてしまう。
そうならない為に、多くの仏像や御神体が造られた。
喜恵門の力を色濃く受け継ぐ、過去の者たちが、仏像や御神体に力を宿し、世代を経ても、その力を失わないようにしたのだ。
そして喜恵門の血を引く子孫ならば、仏像や御神体を依り物として、内に眠る力を開眼させることが出来る。
全ての仏像と御神体は、ある神社に祭られていた。しかし明治政府の神仏分離令により、この国の宗教は、一時混乱状態となった。
その際の混乱で、多くの仏像や御神体が行方不明になってしまった。
中には焼却されたり、粉々に壊れてしまった物もある。
しかし数体の仏像と御神体は、未だに残っている。
風間の寺院に立っていた、あの観音菩薩もそのうちの一つだった。
有希と朋広は、その観音菩薩を依り物とし、風間の手で力を開眼させた。
そして風間がなぜそんな事をしたかというと、ある目的の為だった。
『全ての御神体と仏像を、この寺院に集める。喜恵門の力を、僕たちで管理するのさ。それがきっと、世の中にとって一番良いことなんだ。』
風間は全ての仏像と御神体を我が物とし、その力を使って、世の汚れを祓いたいのだと言った。
しかし異なるは宗派や、別の宗教の者が邪魔をしてくるので、とても困っていた。
風間は喜恵門の力を受け継ぐ人間の中でも、仏教系の組織に属していた。
しかし思想や理念が合わず、元いた宗派を追い出されてしまったのだ。
風間は数人の仲間と共に、新たな宗派を立ち上げた。観音菩薩を戴く、この世の救済を目的とした宗派だ。
そのやり方は過激で、世を汚す者がいれば、容赦なく殺してしまう。
悪さを働く人間というのは、心根まで悪に染まっている。そんな人間は、悪魔以外の何物でもないという思想だ。
もちろん改心を促す努力もしてきたが、心根が悪に染まっている者には、馬の耳に念仏であると諦めた。
しかし過激なそのやり方ゆえに、元いた宗派から厳しく糾弾されたり、また神道系の者たちからも、危険人物として敵視されていた。
時には衝突し、酷い時には殺し合いに発展することさえあった。
数で劣る風間の宗派は、戦いとなれば不利になる。だからその過激な活動は、じょじょに成りを潜めていった。
しかし風間は諦めたわけではない。
幽霊と話せるという力を利用して、政界や財界に、細いながらもコネクションを築いた。
そして司法関係の人間にもコネクションを伸ばした。捜査や事件解決に協力するという約束の元に、複数の人間を殺した殺人鬼ならば、その手に掛けてもいいと認めてもらった。
官僚や政治家、それに財界人を味方に付けることで、風間は自分の宗派を維持した。
しかし敵対する宗派や神道系の者たちもまた、国に通ずるコネクションが無いわけではない。
このまま風間と別の宗派が争えば、事は大きくなり、喜恵門の力が明るみに出る可能性がある。
それはすなわち、政治家や官僚、それに司法関係者や財界人が、喜恵門の力を利用していたと、世間に漏れてしまうことを意味する。
そう判断したそれぞれのコネクションの政治家や財界人は、派手な争いは慎むようにと釘を刺した。
喧嘩をしたければしてもいいが、決して大事にしてはいけない。
そう約束するなら、極悪人に限って殺人を許容する。
しかし、もしこの約束を違えたならば、大量殺人、及び国家転覆を狙ったテロとして、国を上げて制裁を加える。
以後は喜恵門の力は国が管理し、一切の宗教人の手には触れさせない。
それぞれのコネクションの政治家や官僚は、喜恵門の力を受け継ぐ者たちに、そう約束させた。
この約束は、喜恵門の力を受け継ぐ、ほとんどの組織が受け入れた。
もちろん風間の宗派のそのうちの一つで、せっかく立ち上げた自分の宗派を、国になど潰させたくなかった。
派手は喧嘩は国を敵に回すが、”節度を守った大人の喧嘩”ならば、国は見逃してくれる。
そして極悪人に限っての条件付きで、殺人まで許容してくれた。
風間は上手く立ち回り、敵対する宗派や宗教の者を、不意をついて殺していった。
それと同時に、世を乱す極悪人を、その手で裁いていった。
しかし長くそんな事を続けていく中で、自分でも気づかないうちに、大きな疲れが溜まっていった。
人を殺すことを日常とする。果たしてそんなことを、観音様は望んでおられるだろうか・・・・・?
世の為とやってきたことだが、今までの自分の歩みを振り返って、それは観音様のご意志に叶っていることだろうか?
その思いは日に日に膨らみ、時間と共に、風間の過激さは成りを潜めた。
風間について来た仲間たちは、彼が勢いを失くしたことに落胆し、袂を別つ者も現れ始めた。
今まで散々人を殺してきたクセに、今さら何を弱気になっているのかと。
元々少なかった仲間は、さらに数を減らし、風間の宗派は力を削がれていった。
そして風間自身も、宗派の頂点から退くことを決意した。
自分が戦えるのは、もって後十年ほど。きっとその頃には、心身共に疲れ果てている。いかに世の汚れを祓う為とはいえ、人を殺すなど出来ないだろうと思った。
自分は近いうちに退く・・・・それならば、後継者を探さなければ・・・・。
この時、風間はある噂を耳にしていた。
『ここから三つ離れた街に、菩薩や女神と呼ばれる女性がいる。彼女は容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、それに加えて芸術にも秀で、さらには慈愛に溢れる心の持ち主である。そしてその慈愛でもって、弱者や悩める者に手を差し伸べている。一部では、彼女を観音菩薩の化身と崇拝する者たちもいるという。その女性の名前は、野々村有希。幼い頃から神童と呼ばれ、弱者を救う為に生まれて来たような人間だ。』
仲間内からそんな噂を聞き、風間は有希に会ってみたいと思った。
そして自分の眼鏡に叶う者ならば、後継者に育て上げようと考えた。
風間は有希の噂が本当かどうか確かめる為に、しばらく彼女を観察した。
そして数日の観察の後、噂に違わぬどころか、噂以上に聡明で心優しき人物であると分かった。
しかも調べを進めていく内に、有希もまた喜恵門の子孫であることが分かった。
それを知った風間は、飛び上がるほど喜んだ。
有希の人柄、能力、そして喜恵門の血を引いているという事実。
これ以上自分の後継者として相応しい人物はいない。
そして今日、有希に接触してきた。
寺院へ連れて行き、自分の目的や活動内容を話し、そして内に眠る力を開眼させた。
朋広はおまけであったが、しかし彼も力を開眼させることになった。
二人は今日の出来事を、真剣に話し合った。
朋広は、これ以上風間に関わるのはやめるべきだと言った。
奴のやっている事は、ただの犯罪であり、しかも話の内容が事実とするならば、頭のイカれた殺人鬼であると。
しかし有希は違った。
これは観音様が与えて下さった、運命の出会いであると言った。
その証拠に、自分たちは超人的な力を身に着けた。
それは観音様のおかげであるし、風間は私たちを導く使者であると。
朋広はその意見に反対し、考え直すように説得した。
しかし有希は引かない。
今日の出来事は、きっと私たちの人生を変えてくれる。
私は弱い人や、困っている人を助ける為に生まれて来た。だから今日の出来事は、観音様が与えて下さった転機に違いない。
自分の中に眠っていたこの力も、きっと観音様が与えて下さったものだ。それはすなわち、汚れた世の中を救えという意味だ。
そう言って、風間との出会いを運命的なものであるように語った。
有希はとても頑固で、自分がこうだと決めたら、どんな説得も受け入れない。
そんな有希の性格をよく知る朋広は、これ以上説得するのは無理だと諦めた。
それならば、やはり自分が有希を守るしかない。
風間の手から、有希を利用しようとする人間の手から、命に代えても守らなければいけない。
なぜなら自分は、その為に生まれてきたのだから・・・。
朋広は、胸の中にそう覚悟を刻み込んだ。
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