取り残された夏の中へ 最終話 あの頃の夏の先へ(2)

  • 2015.07.24 Friday
  • 11:29
JUGEMテーマ:自作小説
貯水塔のあった場所まで来ると、正也は土手を見上げた。
この先は道路が通っており、さらに向こうには大きな川が流れている。
あの貯水塔はいつだって土手の向こうを見下ろし、川の向こうに広がる町も見下ろしていた。
「・・・・不思議だよ・・・・寂しい・・・・。」
正也はポツリと言う。もう一度「寂しい・・・・」と繰り返し、そこに貯水塔が建っているかのように目を細めた。
「良い思い出は無いのに・・・・・無くなると寂しい・・・・・。」
その声は悲しそうに沈んでいて、貯水塔が取り壊されたことを残念がっていた。
「仕方ないよ、かなり老朽化してたから。」
「でも・・・・壊さなくても・・・・・・。」
「だってほっといたら倒れちゃうかもよ?」
「・・・・そうだな。あの貯水塔は・・・・もう役目を終えた・・・・。だから壊された・・・・・。」
そう言って俺の方に目を向け、「アイツに感謝しろよ・・・・」と言った。
「アイツは・・・・お前が記憶を取り戻すまで待ってたんだ・・・・。本当はもっと早く壊されてもおかしくなかったのに・・・・。」
「ああ、友恵から聞いたよ。」
「・・・・去年の夏が・・・・・最後のチャンスだった・・・・。お前がここへ来て・・・・記憶を取り戻す為の・・・・。」
「うん・・・・。」
俺は去年の夏を思い出す。あの日ここへ来た時、友恵はこんな事を言っていた。
『辛いのは分かるけど、上に登ろう。だって・・・・今日しかない。今日じゃないともう・・・・。』
あれは貯水塔の取り壊しが決まっていたので、もうあの時しかチャンスがなかったのだ。
もし取り壊されてしまったら、正しい記憶を取り戻すキッカケが掴めなかったかもしれない。
だから・・・・ギリギリ間に合ったということだ。
もし何も思い出せないまま壊されていたら、あの貯水塔は偽の記憶を封じ込めたまま、永遠に姿を消してしまうことになる。
そうなる前に思い出せたのは、偶然ではないのかもしれない。
「なあ正也・・・・。」
呼びかけると「ん・・・?」と顔を向けた。
「あの時な・・・・・頭の中にお前が出て来たんだよ。」
「俺が・・・・・?」
「今だから言うけど、アレはきっとお前の魂だと思ってた。だけどこうしてお前は生きてる。だったらアレは・・・・いったい何だったんだろうな?」
別に答えを求めるでもなく尋ねる。すると正也は「貯水塔の魂じゃないか・・・・・」と返してきた。
「貯水塔?あんなもんに魂があるのか?」
「さあな・・・・。でも・・・・これで終わりだぞって言いたかったんじゃないか・・・・・?」
「どういうことだ?」
「アイツは毎年お前に付き合ってたんだ・・・・・。でも身体はボロボロになって・・・・もういい加減立っていられなくなった・・・・・。だから・・・・これ以上はお前の記憶を抱えておけないから、さっさと思い出せって協力してくれたんだろ・・・・・。」
「なんか面白い考え方だな、それ。」
俺はあの時の正也を思い出し、「そういえば・・・・」と呟いた。
「あの時のお前さ、短くならないタバコを吸ってたんだ。でも最後の方になると、そのタバコが短くなり始めてた。あれって俺が記憶を取り戻し始めたから、時間が動き出したって意味かな?」
「・・・・知らん。好きなように解釈したらいいんじゃないか・・・・。」
「なんだよ、自分から貯水塔の魂とか言ったクセに、素っ気ない態度だな。」
笑いながら言い返すと、正也は首を振った。
「・・・・俺は・・・お前の会った俺なんかどうでもいいんだ・・・。貯水塔の魂とかも、適当に言っただけだ・・・・。」
「そうか。なら言いたいことが別にあるんだな?」
「ああ・・・・。俺はお前に会いたかった。でも出来なかった・・・・。」
そう言ってまた空を向き、重たそうに息を吐いた。
「会おうと思えば会えたけど、でも出来なかった・・・・・。お前が記憶を取り戻さないうちに会ってしまったら・・・・余計に混乱させると思ってな・・・・。だから・・・・お前がこっちに帰って来る度に、遠巻きに見てるしか出来なかった・・・・。どれだけ話しかけたかったか・・・・・。」
辛そうに言葉を吐き出し、また重い息を吐く。しかしその顔は弾んでいて、「こうして話せるようになって良かったよ・・・」と笑った。
「お前は毎年みんなに協力してもらって、一昨年は記憶を取り戻す一歩手前まで来てたんだ・・・・・。でも結局思い出すことが出来なくて、夏が過ぎると全部忘れちまう・・・・。それは俺にとって、どれだけもどかしかったか・・・・・。俺は11年も耐えたんだ・・・・・。勝手に死んだことにされて、自分が生きていることも伝えられない・・・・。ずっと偽物の記憶の中にいたお前に、この苦しみは分からないだろう・・・・・?」
責めるようなその口調には、イバラのような棘があった。
苦しんでいたのはお前だけじゃないと言わんばかりに、刺さるような言葉だった。
「俺は・・・・自分だけが苦しいなんて思って・・・・・、」
「言い訳はいいよ、謝罪もいらない。その代わり、一つ約束してくれないか・・・・?」
「約束?ああ・・・・俺に出来ることなら。」
顔を上げ、正也の目を見つめ返す。すると正也は貯水塔の建っていた場所を指さして、グルグルと円を描いた。
「あそこにさ・・・・・また高い建物を建ててくれないか・・・・?」
「ん?」
「あの貯水塔が無くなったから、町が見渡せないんだ・・・・・。だから何か高い建物を建ててくれよ・・・・。」
いったい何を言っているのか分からず、首を傾げた。すると友恵が「よくあそこに登ってたんだよ」と言った。
「私が車椅子を押して、上の方まで登ってたの。そしてこの町を見渡してたわけ。」
そう説明すると、正也が車椅子を叩いた。
「こんなもんに乗ってるせいで、行きたい場所に行けないからな・・・・。だからあそこに登って、町を見渡すことだけが楽しみだった・・・・。でも貯水塔が無くなって、もうそれも出来ない・・・・・。だからお前が建ててくれよ・・・・町を見渡せるような、高い建物を・・・・。」
正也は真剣な顔で言う。俺はどこまで本気でとらえていいのか分からず、「それは・・・・マジで言ってるのか?」と尋ねた。
「当たり前だろ・・・・・。お前が記憶を取り戻したせいで、俺は唯一の楽しみを奪われたんだ・・・・・。」
「なんだよそれ?」
「・・・・さっきも言ったろ。お前が記憶を取り戻したから、アイツは成仏しちまった・・・・。そうでなけりゃ、今でもここに建ってたんだ・・・・。」
「成仏って・・・・・無茶苦茶な理屈だな・・・・。」
俺は苦笑いしながら、ボリボリと頭を掻いた。
「でもなあ・・・・・そんなもん建てるとなると、いったいいくら掛ることやら・・・・、」
「稼げばいいだろ・・・・栄転になったんだから・・・・。」
「無理だよ。もしアレと同等の高さのもんを建てようと思ったら、今の仕事じゃ絶対に無理だ。」
そう答えると、正也はニヤリと笑った。
「・・・・そうか・・・・なら稼ぐ方法を考えないとな・・・・。」
そう言って友恵を振り返ると、彼女も可笑しそうに笑った。
「おい、なんだよ?なんか企んでるような笑い方だな?」
「あ、分かる?」
「お前ら二人で結託して、俺に何を約束させるつもりだよ?」
少し警戒しながら尋ねると、二人は顔を見合わせて笑った。
「あのね・・・・実はちょっと考えてることがあって・・・・・、」
「なんだよ?もったいぶらずに言えよ。」
「実は実花ちゃんのお父さんが新しい事業を始めるんだけど、人手が足りてないんだって。」
「新しい事業・・・・?アイツの家は土地も会社も持ってる資産家だろ?なのにまた新しい商売を始めようってのか?」
「お金持ちだからこそ、色んな商売をやるのよ。それでね、靴をメインにした大きな店を出すんだけど、スタッフが足りてないんだって。だからアパレルで店長をやってる斎藤君なら、ちょうど適任じゃないかって勧めたの。」
「今時に大型のアパレル店?そんなもん競合する相手が多いから、上手くいきそうにないと思うけど・・・・、」
「ううん、アパレルだけじゃないよ。日用雑貨とか食料品も置くの。まあ言ってみれば、靴や服も取り扱うディスカウントショップみたいな感じかな?」
「・・・・・う〜ん・・・何とも言えないなあ・・・・。」
「あ・・・・やっぱり無理?」
「だって最近転勤したばっかで、ようやく店長になったからなあ・・・・。」
「そっか・・・・やっぱりいきなり頼んでも難しいよね・・・・。」
友恵は悲しそうな顔になり、シュンと項垂れる。正也は表情を変えずに俺を見つめていて、無言の圧力を掛けていた。
「・・・・・・いいよ、やっても。」
そう答えると、友恵は「ホント・・・?」と表情を輝かせた。
「まあ今の会社にいても先は見えてるし、転職するならちょうどいい歳かもしれないし。」
「ホント!ホントに引き受けてくれるの!?」
「実花の親父さんが雇ってくれるならな。」
「雇う雇う!だって来てくれるなら嬉しいって言ってたもん!」
友恵は飛び跳ねんばかりの勢いで喜び、「やったね!」と正也に笑いかけた。
「でもさ、そんな所で働いたからって、ここに大きな建物が建てられるほど稼げるとは思えないけど・・・・、」
「大丈夫だよ!コツコツ貯めていけば!」
「コツコツって・・・・いったい何年掛ると思って・・・・・、」
そう言いかけた時、俺はハッと気づいた。
「お前ら・・・・もしかしてそれが狙いか?」
「え?何が?」
友恵は笑って誤魔化すが、「バレバレだよ」と言ってやった。
「俺みたいな庶民が、どう頑張ったって貯水塔みたいにデカイもん建てられるわけがない。ということは、もしこっちに転職したら、俺はずっとこっちにいて働かなきゃいけない。それが狙いなんだろ?」
「そうだよ。」
「そうだよって・・・・、」
「だって斎藤君は、ようやく記憶を取り戻したんだよ?その間、正也は斎藤君に会いたくても会えなかった。11年も我慢してたんだから。」
「それは分かってるよ。でも俺だって苦しんで・・・・・、」
「逃げてただけでしょ?」
「何・・・・?」
顔をしかめて聞き返すと、友恵も表情を険しくして睨み返してきた。
「今だから言うけど、斎藤君はずっと逃げてただけなんだよ。嘘の記憶で誤魔化して、この場所から逃げてた。その間、私たちがどれだけ心配してたか分かる?」
「・・・・・それは・・・悪かったと思ってるけど・・・・、」
「毎年みんなで集まって、斎藤君の為に思い出巡りをした。11年もだよ?」
「・・・・だから知ってるよ・・・・、」
「なんでそこまでしたかって言うと、斎藤君が友達だから。いつかは自分と向き合ってくれると信じて、じっと待ってたの。だったら・・・・今度は斎藤君が力を貸してよ。」
友恵はそう言って、俺の手を握る。そして自分の方に引きよせ、正也の手に触れさせた。
「私は正也と結婚する。でもそれは、きっと嬉しいことばかりじゃない。」
そう言って表情を曇らせ、「今まで何度断られたか・・・・」と涙ぐんだ。
「私は傍にいたいのに、正也は付き離そうとした・・・・。自分なんかと一緒になったら、苦労するだけだって・・・・。だから一度は別れて、別の人と付き合った・・・・。でもやっぱりダメ・・・・私は正也が良かった・・・・。」
「それって・・・・去年別れたとかいう・・・・、」
「そう・・・。実はとっても良い人だったんだ・・・・。だけど別れた。やっぱり他の人と一緒になるなんて考えられなかったから、私からフッちゃった・・・・。優しい人だったのに・・・・・傷つけちゃった・・・・・。本当に悪いことしちゃった・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「それもこれも、全部斎藤君がいなかったからよ!あの時・・・・・二人で頑張ろうって言ったでしょ!正也はきっと私たちを付き離そうとするから、二人で頑張ろうって・・・・。なのに自分だけ逃げて・・・・・長い間みんなに心配掛けて・・・・・・、」
友恵の声がだんだんと掠れ、最後は聞き取れないほど小さくなった。
俺は「ごめん・・・」と謝り、ただ俯くしななかった。
「私は何度も説得した・・・・。正也の傍にいるのは苦痛じゃないって・・・・・離れる方が苦痛だって・・・・。それでようやく結婚を受け入れてくれた・・・・。でも嬉しいことばっかりじゃない。正也はこんな状態だから、きっと大変なことはたくさんあると思う。もちろんそれを覚悟した上で結婚するんだけど・・・・・でも不安がないわけじゃない。私一人で支えるなんて、無理だって分かってるから・・・・・。」
鼻をすすりながら、胸の支えを吐き出すように言う。ハンカチを取り出し、赤くなった目元を拭っていた。
「正也のおじさんとおばさんは、いくらでも協力するって言ってくれてる。涼香たちも、困ったことがあったら力を貸す言ってくれた。でも・・・・私たちに一番必要な人は斎藤君なの。だって正也の親友だし、私だって斎藤君のことはそう思ってるから・・・・・。だから傍にいてよ・・・・・。11年も逃げてたんだから、今度は私たちに力を貸して・・・・・。」
友恵は堰を切ったように泣き出し、ハンカチで顔を覆う。背中を向け、11年間溜めていたであろう不安を吐き出した。
そして正也はというと、貯水塔のあった場所を見つめていた。もう一度そこを指をさし、グルグルと回す。
「あそこに・・・・高い建物を建ててほしいんだ・・・・。いくら時間がかかってもいいから・・・・・。」
そう言って目を細め、指を回し続けた。
俺も貯水塔のあった場所を見つめ、かつてそこに建っていた巨塔を思い描く。
そしてゆっくり口を開いた。
「・・・・・いいよ。」
「本当にいいのか?一生かかっても建たないかもしれないぞ・・・・・?」
「ああ。ていうか建ったら困るのはそっちだろ?」
「・・・・そうだな・・・。実を言うと、あの貯水塔には数回しか行ってない。」
「そうなのか?」
「ああ、だって今と昔じゃ・・・・俺も変わったから・・・・。」
そう言って車椅子の車輪を握った。
「コイツの扱いが上手くなったもんでさ・・・・結構動き回れるから・・・・。だからあんな場所に行かなくても、町は眺められる・・・・・。」
車椅子をポンと叩き、「意外とどこへでも行けるもんだ・・・・」と笑った。
「でもさすがになあ・・・・・お前のいる店まで行くのは無理がある・・・・・。」
「まあそいつで行くには遠いわな。」
「だろ?だからコイツで行ける範囲にいてくれると助かるんだけど・・・・・、」
「それけっこう近いな。三軒隣くらいのレベルじゃないか?」
「馬鹿言うな。もう11年も乗ってるんだぜ・・・・・。今じゃこの腕だ。」
そう言って逞しい二の腕を見せつけ、「な?」と笑った。
「すごい腕だな。今殴られたら失神程度で済みそうにない。」
「ヘッドギアごと顔が潰れるぞ・・・・・。」
「うん。もうお前と戦うのは御免だよ。また池に落とされたら敵わんし。」
冗談を飛ばすと、「一発受けてみるか?」と拳を握った。
「・・・・・そうだな。じゃあ約束を破ったら殴ってもいいぞ。」
「なら・・・・・本当にこっちに・・・・・、」
「ああ、戻って来る。そいつで行ける範囲にいてやるよ。」
そう言って正也の後ろに回り、車椅子を押した。
「んじゃ今から実花の家に行こう。雇ってくれって伝えにな。」
ゆっくりと車椅子を押し、遊歩道を歩いて行く。すると友恵が追いかけて来て、赤く腫れた目を向けた。
「・・・・・ありがとう。」
「お前も殴っていいぞ。俺が約束破ったら。」
「・・・・じゃあ正也に殴り方を教わっとかなきゃね。」
まだ潤んでいる目で笑い、シャドーボクシングの真似をして、「こう?」と正也に尋ねる。
「違う。全然腰が入ってない・・・・。」
「ええっと・・・・こう?」
「ダメだな。」
「じゃあちゃんと教えてよ。」
「帰ったら教えるよ・・・・・。一緒にいる時間はたっぷりあるんだから。」
「お前らな・・・・俺を殴る為の講釈はやめろ。」
車椅子を押しながら、日射しの強い遊歩道を抜けて行く。
偽の記憶を押し込めていた貯水塔は、もうこの場所にはない。
俺が記憶を取り戻したのと同時に、役目を終えたように消えてしまった。
正也の言うように『成仏』したのかもしれないが、あの時現れた正也が、貯水塔の魂だったのかどうかは分からない。
しかし少なくとも、もうここに嫌な思い出はない。
偽の記憶に埋もれて、11年前の夏に閉じ込められる必要はないのだ。
友恵は言った。俺の見ている景色だけズレていると。
それはきっと、俺だけが同じ場所に踏み止まっていたからだ。
その間にみんなは先へ進み、今でも俺の先を行っている。
木根と涼香は結婚し、出来るなら来年の夏までに子供が欲しいと言っていた。あいつらならきっと、良い家族になれると思う。
佐野は実花を諦めて、飲み会だのコンパだのに積極的に参加している。最近仲良くなった女の子がいるらしいが、その後の進展はまだ聞いていない。
園田は少しずつ自分を変えようとダイエットを始め、ほんのちょびっとだけ体重が落ちた・・・・らしい。見た目はまったく変わらないけど。
実花は『今の時代は結婚より仕事よ!』と方向転換し、父の会社で営業をやっている。なかなか優秀らしく、数年後には自分の会社を持つのだと意気込んでいた。
そして正也と友恵は明日結婚する。俺が偽の記憶に埋もれている11年の間、この二人は大きな苦労をした。
俺のことはもちろんだが、それと同じくらいに自分たちの問題に直面した。
友恵が好きだから別れたい正也と、正也が好きだから傍にいたい友恵。
その決着は友恵に軍配が上がった。コイツは正也以上に強く、そして辛いことに耐える我慢強さを持っていた。
正也はきっと、ここらで折れないと本当に友恵が離れて行ってしまうと危惧したのだろう。
昔っから意地っ張りだから、素直に好意を受け取れないところがある。
でもそれは、自分の重荷を背負わせたくないという愛情でもあったはずだ。
だけど最後には友恵が勝ち、明日は夫婦になることを宣言する日だ。
この二人が良い家族になれるかどうかは、まだ分からない。友恵の心配する通り、常に介護を必要とする正也を支えるのは、並大抵のことではないだろうから。
でもだからこそ、俺に傍にいてほしいと頼んだのだ。
今まで支えたのだから、今度は私たちを支えてほしいと・・・・。
車椅子を押しながら、貯水塔のあった公園を離れて行く。土手に上り、車に気をつけながら、川沿いの方へと下って行った。
俺は足を止め、頭の中に貯水塔を思い浮かべた。
そして後ろを振り返ると、そこに何もなかった。それと同時に、あの貯水塔は本当にあったのだろうかと不安になる。
そう思うのは、俺の時間が動き出したという証拠かもしれない。
11年前の夏はもう終わり、あれから一年が経って、ようやく前に進み出した気がする。
胸を締めつける思い出はもう消え去り、二度とあの夏に苦しめられることはないだろう。
そう思った時、ふと土手の上に正也が見えた。
タバコを咥え、煙を吹かしながらこちらを見ている。
そして俺と目が合うと、小さく手を振った。
タバコの煙がポロリと落ち、それと同時にどこかへ消える。
あの正也は・・・・貯水塔の魂なんかじゃない。幻覚でもなければ、もちろん幽霊でもない。
俺が偽の記憶を保つ為に生み出した、勝手に死んだことにした正也だ。
11年間ずっと傍にいて、俺が正しい記憶を取り戻す時まで待っていてくれた、記憶の中の正也。
あいつが手を振るということは、これはやっぱり止まっていた時間が動き出したってことなんだろう。
感慨深く立ち尽くしていると、腰の辺りにドンと衝撃が走った。
何かと思って見ると、友恵が拳を構えて「どう?」と笑った。
「どうもこうも、俺はまだ約束を破ってない。」
「じゃあもっと磨いておかなきゃね、斎藤君がビビるくらいに。」
そう言ってシュッシュとシャドーを繰り返し、パンチを磨いていた。
「絶対に逃げ出せないな、こりゃ。」
車椅子の重みを感じながら、大切なものが傍にあることを実感する。
取り残された夏は、貯水塔と共にどこかへ消えていった。



            -完-

取り残された夏の中へ 第十五話 あの頃の夏の先へ(1)

  • 2015.07.23 Thursday
  • 15:30
JUGEMテーマ:自作小説
目の前に正也がいる。
車椅子に乗り、死人のようのに脱力し、表情は乏しく、頭を支える筋肉が衰えて、首を傾げたような体勢になっている。
死んだと思っていた正也は生きていて、それを見た瞬間に、全ての記憶が蘇った。
俺はあの夏、ここで溺れた。正也はそれを助けようとして、自分も溺れた。
今日みたいに青い空が広がり、休日を楽しむ人々が行き交う日だった。貯水塔の傍にある公園で、馬鹿な戦いを演じて、その挙句に死にかけた。
でも誰も死ななかった。俺も正也も、こうして生きている。
しかし俺たちの間に違いがあるとすれば、それは後遺症があるか無いかだった。
正也が助けてくれたおかげで、俺はただ溺れるだけで済んだ。
しかし正也は俺を助けた後、体力が続かなくなって沈んだのだ。
友恵が助けに入ったが、彼女は泳ぎが下手だ。正也を助けられるほどの力はない。だから最後は水に沈み、呼吸が止まった。
池から引き上げられて、そして病院へ運ばれるまで、最低でも10分は掛っていた。
幸い命は取り留めたものの、10分間も呼吸が止まっていた代償は大きかった。
そもそも10分も息が止まって生きていたこと自体が奇跡であり、後遺症を抱えるのは当然のことだったのかもしれない。
正也は脳に大きなダメージを受け、思うように身体が動かせなくなった。
どこへ行くにも車椅子を必要とし、日常生活の全てにおいて、誰かの助けを借りなくてはならなくなった。
あの日、俺が警察署で事情を聞かれていた時、正也が無事だったことを知らされた。
しかしあの時点では、正也はまだ眠っていたので、後遺症の有無は確認出来なかった。
俺は両親と共に病院へ訪れ、ベッドで眠る正也を見舞った。
ベッドの傍には正也の両親がいて、険しい顔で立っていた。
そして正也のおじさんは、俺を見るなりこう言ったのだ。
『友恵ちゃんを巡って戦ったんだってな?馬鹿なことをする・・・・・。』
そう言って眉間に皺を寄せたが、すぐに表情を和らげた。
『でもな、俺は斎藤君のことは責めない。昔っからコイツには、何かあったら戦えって教えてきたんだ。だからその通りに戦っただけだ。それでたまたまこんな事になって、危うく死にかけた。だから誰も悪くない。落ち込むことなんてないんだからな。』
おじさんは慰めるようにそう言って、『これからもこの馬鹿の友達でいてやってくれ』と笑った。
しかしその数分後、事態は急変する。
目を覚ました正也の様子がおかしかったのだ。目は虚ろで、どこにも焦点が定まっていない。
呂律も回らず、手足も思うように動かせないでいた。
おじさんはすぐに医者を呼び、正也の様子がおかしいことを伝えた。
俺は部屋から追い出され、中では何やら話声が続いていた。
そしてしばらくしてから、おじさんが出て来てこう言った。
『・・・・心配してたことが起こった。長いあいだ呼吸が止まってたから後遺症が・・・・・、』
そう言って言葉を濁し、俺を睨んだ。
『斎藤君は悪くない。でも・・・・・今日は帰ってくれないか?このまま君を見てたら、俺は・・・・・、』
掠れるような声で言うおじさんの拳は、硬く震えていた。
俺は何も答えることが出来ず、両親に押されて頭を下げた。
その後、家に帰ってから不安な時間を過ごした。
正也は命は取り留めたが、後遺症をのこした。それがどの程度のものか分からないが、間違いなく俺の責任だと思った。
木根から連絡があり、今からみんなで集まれないか?と言われた。
一人でいるのが不安だったので、みんなでいつもの練習場に集まった。正也と友恵を除いて・・・・・。
しばらくは誰も口を開かなかったが、その静寂に耐えかねたように、実花がポツリと呟いた。
『正也君・・・・どうなっちゃうのかな?』
正也に後遺症が出ている事はみんな知っていて、重い空気がさらに重くなる。みんなで集まったはいいものの、特にやることもなくて、すぐに解散となった。
家に帰る途中、後遺症のことばかりが気になった。いくら心配しても足りないし、いくら言い訳をしても不安が拭えない。
このまま家に帰るのも躊躇われ、もう一度病院へ向かう事にした。
正也に会うのは無理だが、友恵になら会えずはずだ。あいつにも迷惑を掛けてしまったし、ちゃんと謝りたかったのだ。
病院へ行くと、友恵はベッドで横になっていた。傍には両親がいて、俺を見るなり険しい顔をした。
何か言いたそうに口を開きかけたが、友恵が『いいから』と止めた。
『斎藤君と二人にさせて。』
そう言って病室からを追い出し、俺と友恵だけになった。
そして開口一番、友恵はこう言った。
『正也君、もう元に戻らないんだって・・・・。』
それが後遺症のことを指しているのはすぐに分かった。しかし問題なのは、どの程度の後遺症が出ているかということだ。
友恵は俺の不安を見透かしているように、『重いよ』と語った。
『どこにも行くにも車椅子が必要なんだって。日常生活も一人では無理だし、どんなにリハビリしたって、元の状態には戻らないって。』
『・・・・・・・・・・・。』
『正也君のおじさんがね・・・・私に教えてくれたの。アイツはそんな状態になるけど、これからも仲良くしてやってくれないかって。』
そう言って身体を起こし、ベッドの傍の椅子を指した。
俺は腰を下ろし、俯いたまま友恵の顔が見れなかった。
『おじさんは・・・・平静を装ってたけど、きっとすごく辛いんだと思う。だって自分の息子がそんな風になったんだから、当たり前だよね。』
『・・・・・・・・・・。』
『・・・・出来れば、もう斎藤君とは付き合わせたくないみたい。でもそれは、おじさんの勝手だと思う。だってあんな事になったのは、誰のせいでもないもん。いくら親だからって、親友を引き裂くなんて出来ないよ・・・・。』
友恵の声は怒りと悲しみが宿っていて、『もちろんそんな事は言えなかったけどね』と笑った。
『だけど私は、これからも二人に親友でいてもらいたい。私だってこんな事が理由で、正也君と別れるつもりはないし。』
そう語る友恵の声は力強く、高校生とは思えないほど大人の決意を感じた。
『だけど正也君の性格からしたら、きっと嫌がるんだろうなあ。俺なんかほっといて、他に良い男を見つけろとか言いそう。』
冗談ぽく言いながらも、その言葉には少しだけ不安が混じっていた。だから俺を見つめ、『二人で頑張ろうね』と言った。
『きっと斎藤君だって同じ目に遭うよ。もう俺になんか構うなって言われると思う。でも負けちゃダメだよ。私たちを遠ざけようとしたって、そうはいかないって思い知らせてやらなきゃ。』
そう語る友恵の言葉は、半分は俺に、半分は自分に言い聞かせているようだった。
それを聞いた時、こいつは本当に正也のことが好きなんだなと知った。
ほんの一時の恋愛感情ではなく、心の底から正也に惚れているんだと、強く思い知らされた。
『後で正也君に会ってあげて。きっとおじさんは嫌な顔するだろうけど、私も一緒に行ってあげるから。』
そう言って俺の手を握り、『二人なら大丈夫だよ』と励ましてくれた。
結局その日は正也に会うことが出来ず、あの事故があってから一週間後に会うことが出来た。
友恵の予想通り、おじさんはとても嫌そうな顔をした。俺の姿を見るなり、すぐに拳が硬くなっていたからだ。
しかし友恵は気にせずに俺の手を引き、『正也君』と呼びかけた。
正也は車椅子に座っていて、ゆっくりとこちらを振り返る。そして俺を見るなり、掠れた声で手を挙げた。
『・・・・・・・・・。』
何か言っているがよく聞き取れず、友恵に引かれて近くへ行く。するといきなり俺の腕を掴んで、『斎藤・・・・」と呼びかけた。
『・・・・俺・・・・こんなんなっちゃったよ・・・・・。』
泣きそうな顔でそう言って、強く俺の腕を握った。
『・・・・嫌いにならないでくれよな・・・・・これからも友達でいてくれよ・・・・・。』
予想に反して、正也はとても気弱な言葉を吐いた。
こいつの性格なら意地を張ると思っていたのに、泣きそうな顔でそう言った。
『・・・・もう・・・・戻らないんだって・・・・。リハビリやったって歩けないって・・・・・。』
目の端にじわりと涙が溜まり、滴となって頬を伝っていく。
そこにはいつもの強気な正也はなく、まるで遊園地で迷子になった子供のように、ひどく不安な表情をしていた。
『・・・・怖いんだよ・・・・なんでこんな事になっちゃったんだろうって・・・・。だから嫌いにならないでくれよな・・・・お願いだから・・・・。』
また涙が頬を伝い、俺の腕を揺さぶる。
『・・・・みんなにも言っといてくれ・・・・。これからも友達でいてくれって・・・・。俺に会いに来てくれって・・・・・・。だってもう・・・・自分で行けないし・・・・。』
恨めしそうな目で車椅子を睨み、『なんでこんなもん・・・・』と、悔しそうに叩いた。
『なんでこんなんなっちゃったんだよ・・・・・・。嫌だよ・・・・こんなん乗って生きるなんて・・・・・。どこにも行けない・・・・・。』
そう言って、顔を覆って泣き出す。それは獣の咆哮のようにけたたましい泣き声で、見ているこっちが辛くなるほどだった。
『・・・・・戻りたい・・・・・あの時に・・・・・。そうしたら・・・・絶対に飛び込まなかったのに・・・・・。』
その言葉を聞いた瞬間、ナイフで胸を刺された気分になった。
目に見えない刃が突き刺さり、電流を流して抉られるような痛みだった。
『・・・・死にたい・・・・一生こんなんだったら、もう死にたい・・・・・・。』
『・・・・・・・・・・。』
『でも怖いんだよ・・・・・・。死にたくても出来ない・・・・・あの溺れた時を思い出すから、死ぬの怖いんだよ・・・・。でも元に戻らない・・・・・うううぐうう・・・・・。』
耳を突くほどの凄まじい泣き声は、超音波のように響き渡り、俺を破壊する。俺の頭を、胸を、そしてあの時の出来事を・・・・・。
『・・・・一人にしないでくれ・・・・いっぱい会いに来てくれよ・・・・。友達でいてくれよ・・・・・。』
泣き声の合間に漏れる言葉が、さらに俺を破壊していく。
もうこの場にいるのが辛くなり、病室を後にしたかった。
しかし正也は俺の腕を掴み、『友達だよな・・・・』と繰り返す。
もうそんな言葉は聞きたくなくて、もうコイツの泣き声も聞きたくなくて、もうこの場所にもいたくなかった。
すると友恵が『友達だよ』と割って入り、正也の手を握った。
『一人にするわけないじゃん。ずっと傍にいるよ。』
『本当か?絶対に嫌いになったりしないか?』
『何があっても正也は正也だよ。昔みたいに戻れなかったとしても、そんなの関係ない。嫌いになったりしないから。』
『本当に・・・・?本当だな・・・・・。』
子供のようにむせぶ正也。その手を取って、真剣に頷く友恵。
いつか見た二人の庇い合いの光景が思い浮かび、まるで安物のドラマを見せられているような気分になる。
しかし一番の問題は、この光景をそんな風にしか捉えられない俺自身であり、それは壊れていく自分を守る為でもあった。
俺は踵を返し、病室を出て行く。正也の両親に頭を下げ、廊下を歩いてエレベーターに向かった。
友恵が追いかけて来て、『斎藤君!』と叫ぶ。
『また来てあげてね!正也君に会いに来てあげて!』
背中に声が突き刺さり、振り返るのが怖くて走り出す。
エレベーターの前を駆け抜け、階段を駆け下りて出口まで向かう。
外に出ると、一度だけ病院を振り返った。きっともう・・・・二度とここに来ることはない。そんな風に思いながら。
一人で家路に着き、病室での出来事を思い出しながら歩く。
耳には正也の気弱な言葉が張り付いていて、『嫌わないでくれ』『死にたい』の声がリフレインしていた。
あんな正也とどう向き合えばいいのか分からず、もう顔を会わせたくなくなる。
アイツは言った。もしあの時に戻れるなら、絶対に池には飛び込まない・・・・と。
これは俺を助けた事を後悔しているということであり、そして俺のせいでアイツがあんな状態になってしまったという証だった。
車椅子、呂律の回らない言葉、そして泣き虫のように気弱な顔。
どれもこれも、俺のせいでああなってしまった。しかも二度と元に戻らない。
思えば思うほど、考えれば考えるほど、より自分が壊れていくのが分かる。
砂糖が溶けるように、砂山が波にさらわれるように、自分の中の色んなものが溶けていって、このまま透明人間になってしまいそうだった。
もし透明人間になることが出来たら、それはどんなに楽だろう?
透明ということは、誰の目にも触れないということで、俺は存在しないのと一緒だ。
苦しいからといって死ぬ勇気もなく、かといって現実と向き合う勇気もない。
生きるのも死ぬのも嫌だから、透明になって消えてしまいたかった。
だけどそれは無理なことだ。だったらどうする?どうすればこの板ばさみの状況から抜け出せる?
家路に着きながら一生懸命考えていると、ふと良い事を思いついた。
『何もかも無かったことに出来たら?・・・・もしそれが無理なら、せめて俺だけでも全てを忘れることが出来たら。』
そう思った途端、あの溜池での出来事がフラッシュバックしてきた。
濁った水の中で溺れる俺。ぐったりしたまま動かない正也。そして・・・・病院での正也の言葉。
どれもが鮮明に蘇り、何度も記憶の中で再生されていく。
フラッシュバックというのは追体験だ。脳が記憶した出来事を、まるで現実のように体感し、疑似体験する。
嫌な思い出が何度も俺を責めたて、気がつけば叫びながら走っていた。
正也と同じように獣の咆哮を発し、気が狂ったように喚く。そしてしばらく走った所で意識が途切れた。
次に目が覚めた時、俺は病院にいた。
両親と木根たちが傍にいて、心配そうに見つめていた。
手首には包帯が巻かれていて、何かで斬り付けたようにジンと痛んでいた。
俺はみんなの顔を見渡し、メンバーが二人欠けていることに気づく。
『・・・・正也と友恵は?』
そう言ってから、ふと口を噤んだ。なぜなら正也はもういないと思ったから。アイツは溜池で溺れ、そして死んでしまった。
俺はその責任に耐えかねて、胸が潰されるような思いから逃げ出した。
喚きながら家路を走り、記憶が途切れた。
『正也は・・・・俺が殺した・・・・・・。』
この呟きが最後の仕上げとなって、俺の記憶は塗りかえられた。
正也はあの池で死んで、もうこの世にはいない。
それが俺にとっての真実となり、その真実を支える為に、あらゆる偽の記憶を生み出した。
そして偽の記憶をしっかりと保つ為に、あの貯水塔の中に押し込んだ。
あの中には不気味な水が溜まっていて、正也はそこで死んだ。溜池のこともスパーリングのことも、偽の記憶に都合の悪い事は、全て記憶の奥底に封じ込めた。
この日から11年間、俺はずっと偽の記憶の中を生きることになった。
目の前に正也が現れても、それは他人だと思い込むことにした。
みんなが『正也は生きている』と言っても、そんな言葉は聞かなかったことにした。
見ない、聞かない、そして疑問に思わない。そうすることで、偽の記憶は守られ、一切の真実から俺を遠ざけた。
俺は俺自身を守る為、あの夏の中で時間を止めることを選んだのだ。
偽の記憶を張り巡らせ、その記憶の中に生きることで、時間を止めていた。
・・・・・11年。それは11回の夏が過ぎたことを意味していて、俺の夏はあの時のまま止まっている。
でも今日・・・その時間が動き出した。
見ない、聞かない、考えない・・・・それを終わりにすることで、俺の夏は進み始めた。


            *****


かつて貯水塔があった場所に、気持ちの良い風がそよいでいる。
俺が正しい記憶を取り戻してから一年後、正也と友恵、そして俺の三人でここへ来ていた。
白くそびえるあの貯水塔は、もうどこにも無い。
俺が記憶を取り戻した翌日、取り壊しが始まったのだ。
今は代わりにアスレチックが建っていて、子供たちが喜声を上げながら遊んでいる。
雲が流れる青い空。辺りを行き交う家族連れやカップル。
去年と変わらない光景が広がっていて、貯水塔が無いことを除けば、11年前からこの景色は変わらない。
友恵は正也の車椅子を押しながら、ゆっくりと遊歩道を歩く。
薬指には銀色のリングが光っていて、正也の指にも同じものが填まっている。
俺は二人の指輪を見つめながら、一歩一歩足元を確かめるように歩いていた。
「斎藤君はいつまでこっちにいるの?」
友恵が振り返って尋ねる。俺は「明後日だな」と答え、「今度の店は遠いから」と笑った。
「今は関東なんだよね?」
「そう。一か月前に転勤になってさ。でも東京が近いから便利だよ。」
「向こうに転勤ってことは、栄転ってことでいいの?」
「一応はそうなるかな。」
「おめでとう。何かお祝いしなきゃね。」
友恵は弾けた笑顔を見せ、「斎藤君栄転だって」と正也に言った。
「んな自慢するようなもんじゃないよ。向こうの人がこっちに飛ばされたから、代わりに俺が行っただけ。」
「でも店長に昇格なんでしょ?」
「そうだけど、そんなに給料が上がるわけじゃないんだよ。仕事が増えるばっかりで、全体的に見ればマイナスかも。」
「今はどこもそんな感じだと思うよ。ウチの会社だって、あえて出世しない人とかいるもん。でも私は出世したいな。仕事が辛くても、給料が安いと生活がね。」
そう言って正也に顔を近づけ、「でもそうなったら、一緒にいられる時間が減っちゃうけど」と寂しそうにした。
「そんな暗い顔するなよ。明日は式なんだから。」
「分かってるよ。でも色々考えちゃうじゃない?」
「ああ、マリッジブルーってやつ?」
「そうじゃなくて、正也と一緒にいる為には、私が頑張らなきゃってこと。親は協力してくれるって言ってるけど、でも世話になりっぱなしじゃカッコ悪いじゃない。」
「そうだな・・・。高校ん時から付き合ってて、いよいよ結婚するんだもんな。色々と張り切っちゃうか。」
「まあね。」
友恵は嬉しそうに微笑みながら、車椅子を押していく。すると正也が遠くを指差し、「向こうに・・・」と言った。
「え?戻るの?」
「・・・貯水塔のあった方に・・・・・。」
「でもたくさん人がいるよ。人混みは嫌いでしょ?」
「・・・・いいから。」
正也は強く言い、どうしてもあそこに行きたいと指をさす。
友恵は車椅子を反転させ、遊歩道を引き返した。
そして貯水塔のあった場所まで来ると、再び子供の声が響いてきた。
「斎藤・・・・。」
名前を呼ばれて、「なんだ?」と尋ねる。
「あの日・・・・お前はここで記憶を取り戻したな?」
「ああ。みんなで思い出巡りをして、最後にここにやって来た。」
「あの時も、今日みたいによく晴れてた・・・・。」
「そうだな。俺はてっきり夜だと思ってたのに、実は朝だった。」
「まだ偽物の記憶の中にいたからな・・・・。」
「木根たちの思い出巡りが終わって、俺は何かを思い出しそうになっていた。その後気を失って、いったん家に帰ってたんだよな?」
そう尋ねると、友恵は小さく頷いた。
「記憶を取り戻そうとしたせいで、ストレスになっちゃったみたいでね。だから木根君のアパートに運んで、目が覚めるまで待ってた。そして朝になってからまた来たの。」
「俺だけ夜のままだったんだな。とっくに日は照ってたのに・・・・。」
そう言って空を見上げると、「自分と向き合ってた証拠だよ」と言われた。
「本当の記憶を取り戻す為に、偽物の記憶の中にいたからね。斎藤君だけ夜のままだったみたい。」
「あの時、お前はこう言ったよな?俺とお前らの見ている景色にはズレがあるって。あれはそういう意味だったんだな?」
「そうだよ。ついでに言うと、お化けだと勘違いした人影は、ここに遊びに来てた人の姿を見てたの。偽の記憶と現実の光景がごちゃ混ぜになって、混乱してたんだね。」
「なんか滑稽だよな、それって。実は朝なのに、夜だと思って怯えてたなんて。周りから見てたら笑えただろ?」
「そんな事ないよ。だって毎年見てたからね。」
友恵はニコリと微笑み、「夏が来るたびに続けた甲斐があった」と頷いた。
「この季節になると、毎年同窓会をやったのよ。斎藤君を呼んで、思い出巡りをして、正しい記憶を取り戻してもらおうと思って。」
「・・・・まさか全部演技だったとはなあ・・・・。思い出巡りが急に思いついたなんて、嘘もいいとこじゃないか。」
そう言って笑いかけると、「半分は本気でやってたんだよ」と唇を尖らせた。
「思い出巡りじたいは、みんな本気でやってたのよ。ただし斎藤君の記憶を刺激しそうな場所を選んでね。だけど去年は、いつもより色んな事があったなあ・・・・。実花ちゃんのせいで一発目からつまづいちゃって、あの時は本気で焦った。」
「ああ、あれは演技じゃなかったんだ?」
「もちろん。みんなそれぞれ自分の生活とか人生とか、そういうのが出て来る年齢だったからね。斎藤君のことをほったらかしで、ついつい自分の思い出に浸っちゃって。それは私も同じだけどね。」
「あの銭湯か?」
「そう。だけど・・・・それでよかったんだよね。演技じゃなくて、みんな真剣に思い出を巡ったから、斎藤君も刺激されたんだと思う。」
友恵はゆりかごのように車椅子を動かし、あの時のことを思い出している。
「実花ちゃんは木根君を汚い沼に突き落とした。あれは斎藤君にとって、記憶を刺激する出来事だったはず。」
「そうだな。しかも実花は自分でも溺れやがった。夜の暗い川で。」
「そうだったね。佐野君と園田君は殴り合って、あれだって記憶を刺激されたんじゃない?」
「・・・・どうだろうな。そんな気もするけど、今思うとどれもが自分の記憶に結びついていたように思う。」
「きっとそうなんだよ。去年は斎藤君にとって、人生を変える日だった。そういう運命の日だったんだよ。」
「そうだな。こうして記憶を取り戻したんだし、そういうことにしとくか。」
うんと背伸びをして、大きな欠伸を放つ。関東へ栄転になったはいいものの、やはり仕事は忙しくなった。
やり甲斐はあるものの、溜まっていく疲れはどうしようもない。
肩を回し、目を閉じて眉間に皺を寄せる。友恵が「疲れてる?」と尋ねるので、「ちょっとな」と答えた。
「ごめんね、仕事が忙しいのに来てもらって。」
「お前らの結婚式をすっぽかすわけにはいかないよ。」
「そうだよね。涼香と木根君の式には出たのに、私たちだけほったらかされたらショック。」
「だからちゃんと来たじゃないか。」
「うん、ありがとう。」
友恵は笑い、車椅子を押して行く。
かつて貯水塔が建っていた場所。そこにはもう何の面影もなく、子供が遊ぶアスレチックがあるだけだ。
その傍までやって来ると、正也は目の前の土手を見上げた。

取り残された夏の中へ 第十四話 巡る思い出(2)

  • 2015.07.22 Wednesday
  • 13:19
JUGEMテーマ:自作小説
「ここに貯水塔なんかねえよ。」
「え?いや・・・・でもそこに建ってるじゃん。」
白くそびえる貯水塔を指差すと、「あれは違う」と返された。
「ありゃ貯水塔じゃなくて、貯水塔だったもんだ。」
「貯水塔・・・・・だった?」
「昔に使われてたもんだよ。今はああいうのはほとんど使われない。」
「いや・・・・でもそこに建ってるじゃないか。」
「町のオブジェとして残してあるんだよ。この辺りじゃ一番高い建物で、まさに白い巨塔って感じだろ?」
「オブジェ・・・・・。」
「見ろよ、貯水塔の周りには遊歩道が整備されて、奥には小さな公園まである。今じゃあの貯水塔は観光用として整備されてて、中に入れるんだぜ。」
「観光用って・・・・・じゃあ中に水は・・・・・、」
「あるわけねえだろ。中はほとんど取り壊されて、最上部分だけが観光用に残されてる。」
「いや、でも・・・・・、」
「二階までは当時の螺旋階段が残ってるけど、その上はエレベーターが通ってんだぜ。」
「・・・・・・・エレベーター。そんな馬鹿な・・・・・、」
そう呟くと、正也は「だから二階から先の記憶がないんだよ」と言った。
「お前が二階から上の記憶を失ってるのは、エレベーターなんてもんが、貯水塔の不気味なイメージに合致しなかったからだ。お前は正しい記憶を覆い隠す為に、偽の記憶を作らなきゃいけなかった。でもそれには、観光用に整備されたエレベーターは、貯水塔のイメージに似合わない。だから二階より上のことは覚えてねえんだ。」
「で、でも・・・・・最上階の記憶はあるんだ。黒くて濁った水が溜まってて、生き物の死骸とか浮かんでたんだ。それに腐ったような臭いもしてて・・・・・、」
そう話すと、「お前はアホかよ?」と笑われた。
「貯水塔にそんな水が溜まってるわけねえだろ。」
「・・・・・どういうことだ?」
「貯水塔の水ってのは、家庭に供給する為の水だぞ。だったら生き物の死骸が浮いた、腐ったような水が溜まってると思うか?」
「・・・・・・・・・・。」
「そんなもん飲んだら病気になって大問題だ。だから貯水塔の水ってのは、常に清潔に保たれてる。
それに絶えず循環してるから、水が腐るなんてことも有り得ない。」
「・・・・・・・・・・。」
「だいたいな、稼働してる貯水塔の中に忍び込めるわけねえだろ。ガキが肝試しで入れるような、ずさんな管理してると思うか?」
「・・・・・・・・・・。」
「夜中にここへ侵入出来たのは、田舎の小さな観光施設だからだ。ここが本物の貯水塔なら、忍び込んだのがバレた時点で犯罪だし、ましてや死人なんか出たってんなら、もうイタズラじゃ済まされない。家庭で使う水源の中で、人が死んだなんて事になってみろ。誰もそんな水飲めねえだろ。」
「・・・・・・・・・・。」
「どれもこれも、冷静に考えりゃおかしな事だと気づくはずだ。でもお前は気づかなかった。考えりゃガキでも分かるような事を、正しい記憶と信じ込んでたんだ。なんでか分かるか?」
そう言って短くなることのないタバコを吸いながら、煙を飛ばして尋ねる。
俺は何も答えられず、正也の言うもっともな言葉の前に、ただ口を噤むしかなかった。
「お前はな、この貯水塔をスケープゴートにしたんだよ。」
「す・・・・すけー・・・・?」
「身代りってことだ。正しい記憶を封じ込める為に、偽の記憶を作ろうとしたまではいい。でも問題なのは、偽の記憶にそれなりの説得力を持たせることだった。」
「説得力って・・・・・誰に対してだよ?」
「自分自身に対してに決まってるだろ。誰に見せるもんでもない、自分自身を騙す為の記憶だ。だったらさ、何か『コレだ!』って核になるもんが要るだろ?それが貯水塔だったんだよ。」
そう言って貯水塔・・・・だった物を振り返り、吐いた煙に顔をしかめた。
「こういう建物ってさ、けっこう不気味だろ?大量の水が中に溜まってて、しかもやたらとデカイ。場違いなその佇まいに、恐怖を感じる人間っているんだよ。」
タバコを吹かしながら振り返り、「ほら、お前って大きな人工物が苦手だったろ?」と尋ねた。
「送電線とか、高速道路の中の巨大なファンとか、そういうの怖がってただろ?だからこの貯水塔にも怯えてたんだ。不気味で恐ろしくて、でもだからこそ、記憶を覆い隠す為に持ってこいだった。お前はあの貯水塔の中に、どこよりも不気味な世界を描いた。中には腐った水が溜まってて、まるでホラーに出て来るいわくつきの建物みたいに仕立て上げたんだ。そうすることで、自分の嫌な記憶を全てその中に閉じ込めた。目を背けたくなるような正しい記憶は、全部あの貯水塔の中の出来事にすることで、外に漏れないようにした。あの日起こった、俺が死ぬという出来事は、全部この貯水塔のせいってことにしようとしたんだ。」
決して短くならないタバコを向けながら、まるで名探偵さながらの長セリフを放ってみせる。
しかし俺は納得がいかず、結んでいた唇を解いた。
「ちょっと待てよ。その言い方だと、俺はあの日起きた出来事を、何もかも貯水塔に擦り付けてるみたいじゃないか。」
「そうだよ。擦り付けてんだ。自分では背負いたくないから。」
「そんな事ないよ!俺はいつだって自分を責めてたんだ。俺が煽ったからお前は飛び込んだ。俺がそんなことしなけりゃ、お前は死んだりしなかったのに・・・・・。」
そう言ってまた当時のことを思い出し、胸が締めつけられる。これが間違った記憶であったとしても、自分を責める後悔の念に変わりはない。
「俺は自分が悪いと思ってる・・・・。貯水塔に責任を擦り付けるなら、なんでこんなに自分を責めてるんだよ・・・・・。」
立っているのが辛いほど胸が痛くなり、その場に膝を着く。しかし正也にとって、俺の反論など無意味のようだった。
まったく表情を変えずに、スパスパと煙を吹かしている。
「・・・・ちょっと言い方が悪かったな。全ての責任を擦り付けたってのは間違いだ。全部の責任を背負うのが辛かったから、大半の部分を擦り付けたって言った方が正しいか。」
「そんな事ないって言ってるだろ!お前が死んだのは、俺のせいだって思ってるんだ!俺は誰にも責任を擦り付けたりしてないぞ!」
「いいや、してる。だって俺が水の中に飛び込んだのは、お前が煽ったせいじゃないからだ。」
そう言って、ゆっくりと俺の方に近づいて来る。俺はその足音に怯え、俯いて目を閉じた。
「いいか?俺たちが肝試しに来た時、この貯水塔に水なんて無かったんだ。だから俺はここで溺れてない。どんなにお前が煽っても、水の無い場所になんか飛び込めない。」
「・・・それは・・・・・、」
「お前だって、アイツらの会話を聞いてただろ?まだガキの頃の俺たちの会話を。」
正也は公園の広場に向かって顎をしゃくる。そこには高校生だった頃の俺たちがいて、先ほどの会話が思い出された。
「お前は確かに俺を煽った。そして俺も水の中に飛び込んだ。でもそれは、あの溜池の中だ。貯水塔じゃない。そして今見てるこの記憶は、肝試しに来た次の日もんだ。もし俺があの日死んでるなら、ここでお前と戦えるはずがないだろ?」
「・・・・・・・・・・・。」
「いいか斎藤。俺はあの日死んでいない。だったらいつ死んだ?どこで?どうやって死んだんだ?」
「やめろ!もういいよ・・・・。」
「ここまで来て逃げるな。お前だってじわじわと思い出してるはずだ。絡まった記憶が解けていって、正しい記憶が見え始めてるんだろう?」
「うるせえな!ちょっと黙ってくれ!」
「俺が黙っても、この記憶の映像は終わらない。これはお前自身が再生させてるからだ。封じ込めた11年前の過去と向き合おうとしてるんだ。もう目を背けるのが嫌なら、ちゃんと見ろ!」
正也は声を荒げ、嵐のように煙を吐き出す。俺はしばらく目を閉じていたが、やがて何かにつられるように顔を上げた。
「お前は・・・・・何なんだ?正也の魂か?それとも記憶の幻覚か?」
そう尋ねながら見据えると、「どっちでもいいだろ」と微笑んだ。
「大事なのは、お前が正しい記憶と向き合うことだ。そうでなきゃ、こうしてお前と顔を合わせた意味がない。」
「・・・・・・・・・・。」
「いいか斎藤。あの日俺たちはここへ来て、貯水塔だった建物に忍び込んだ。これは本当の事だ。そしてこの貯水塔で、俺たちは仲直りをした。これも本当だ。だけどその先からがおかしくなってる。だから一緒に思い出そう。あの時の事を。」
そう言って俺の肩を叩き、「続きを話してやるよ」と頷いた。
「俺たちは貯水塔へ忍び込んだはいいが、すぐに飽きた。本物の貯水塔なら見応えもあったろうけど、でも中は大したことの無い観光施設だ。夜に忍び込んだからって、特に面白くもなかった。だからすぐに抜け出して、遊歩道をブラブラしていた。ぺちゃくちゃ喋りながら歩いてると、やがてあの小さな公園までやって来た。」
「・・・・・・・覚えてる。」
「じゃあ自分で言うか?」
「・・・・いいや。」
「そうか。ええっと・・・・それからは特にやる事も無くなって、もう今日は解散しようかって事になった。でもそこで、木根が濁った溜池を見つけたんだ。あの馬鹿は冗談交じりに、誰かここへ飛び込んでみろよって言った。みんな笑ってたけど、一人だけ真に受けた奴がいた。それがお前だ。」
そう言って、突き刺すように俺を指差す。
「お前は俺を煽った。そして俺は汚ったない池に飛び込んでやった。お前のワガママを聞いてな。」
「もうそれは聞いたよ・・・・。」
「中は意外と深かった。水も臭いし、なんか虫とかネズミが死んでるし。でも泳ぎは得意だったから、すぐに上がって来れた。その日はそれで解散だ。」
「・・・・・・・・・・。」
「だけど次の日、お前は俺にこんなメールを寄こした。『やっぱり友恵のことが諦められないから、もう一回戦ってくれ』あの時お前は、もう友恵のことは諦めるって言ったのに、ぜんぜん諦め切れてなかったんだ。未練たらたらもいいとこだよ。」
正也に鬱蒼しそうに言うが、怒りはしなかった。相変わらずの無表情で見つめ、先を続ける。
「いい加減しつこいと思って、腹が立ったよ。だから三度目の戦いを受けた。いくら親友だからって、我慢の限界ってもんがあるからな。だけどまともにやり合ったら怪我させるから、ハンデをやったわけだ。その上でボコボコにされたんなら、大人しくなると思ったし。」
「・・・・それが・・・・あの戦いに繋るってわけか・・・・。」
後ろを振り向き、11年前の俺たちを睨んだ。
俺はまだ膝をついていて、とうに10カウントは過ぎていた。
しかし佐野は戦いを止めない。正也が本気で右を打ったから、反則とみなしてカウントは取っていなかった。
「もう俺が喋ることはないよ。後はあの戦いを見てればいい。」
正也はそう言って煙を飛ばす。その時、ほんの少しだけタバコが短くなっているような気がした。
しかしそんな事に気を取られている場合ではなく、俺たちの戦いを見届けなければならない。
ここまで来ると、おぼろげではあるが、当時の記憶が蘇っていた。
しかし細かい部分はまだ分からない。それに正也が死んだ部分の記憶に関しては、深い霧に包まれたように思い出せない。
だから一瞬たりとも逃さず、かつての俺たちの戦いを見届ける必要があった。
佐野は『出来るか?』と声を掛け、戦意を確認している。俺は『大丈夫だ・・・』と答え、ゆっくりと立ち上がった。
外野からは「もういいよ」と声が飛ぶが、それでも戦うつもりのようで、目の前に拳を構えた。
『次にダウンしたら止めるからな。』
そう忠告して、佐野は再開の合図を出す。
俺は前に出ようとしているが、まだ足がふらついていた。
フットワークなどあったもんじゃなく、ただ前に歩いてパンチを出している。
正也は軽くそれを払うと、身体を左に捩った。
そして体当たりをかますほどの勢いで、強烈な左フックを放った。
本気の右は禁止だが、左は特に制約はない。パワーと体重を乗せた左の拳が、トドメを刺そうと襲いかかる。
俺は咄嗟にブロックしたが、奴のパワーは半端ではなかった。
硬い拳がめり込み、簡単に俺のガードを吹き飛ばす。ハンマーでサンドバッグを叩いたような重い音が響き、弧を描くように打ち抜いた。
俺は堪らず後退し、よろよろとよろけながらも、ダウンだけは拒否しようとしていた。
そこへダメ押しの左ボディが襲いかかり、身体が九の字に曲がる。
しかしそれでもまだ立っていて、拳を構えようとしている。
見かねた佐野が止めに入ろうとした瞬間、正也の方が早く動いた。
一瞬で距離を詰めて、もう一発渾身の左フックを見舞ったのだ。
しかし力み過ぎたせいか、わずかに狙いがズレる。拳は俺の肩にぶつかり、そのまま後ろへ吹き飛ばされた。
フラフラと後退しながら、足がもつれる。そしてそのすぐ後ろには、あの汚い溜池があった。
俺は園田と実花が座る方へとよろけていく。二人は慌てて逃げ出し、俺は池の縁につまづいて転んでしまった。
そして・・・・大きな音を立てて、池の中に落ちた。
俺はグローブとヘッドギアを着けていて、しかも正也のパンチを受けてフラフラだった。
そんな状態で泳げるはずもなく、手足をもがいて溺れている。
「斎藤!」
木根が叫び、池の中に飛び込もうとする。しかし涼香に「あんたも溺れる!」と止められた。
「でもほっといたら死んじまうぞ!」
「私が行くって言ってんの!泳ぎなら私の方が・・・・・、」
そう言いかけた瞬間、正也が一目散に飛び込んだ。
グローブは外していて、上着も脱いでいる。そして素早い泳ぎで俺の元まで来て、後ろから抱えた。
「落ち着け!もう大丈夫だから!」
正也は叫び、どうにか俺を助けようとする。しかし俺は滅茶苦茶に暴れ狂い、グローブを填めた腕で正也にしがみついていた。
「離れろ!これじゃ俺まで溺れる!」
正也は俺を引き離そうとするが、なかなか離れない。
そうやって揉み合っているうちに、だんだんと正也の体力も奪われていった。
「何してんだ!誰か呼んで来い!」
そう怒鳴られて、木根と涼香が動いた。実花は二人について行き、園田はただオロオロしている。
佐野は何か助けられる道具はないかと辺りを見渡し、友恵は青い顔で震えている。
「おい暴れるなって!俺まで溺れるから!」
正也は必死に俺を支える。一人ならこんな池は余裕だろうが、暴れる人間を抱えながら泳ぐというのは、相当な体力がいるらしい。
しかもさっきまでスパーをしていたのだから、元々の体力が削られている。
正也は見る見るうちにバテていき、俺と一緒に沈みそうになっていた。
そこへ木根と涼香が、人を連れて戻って来た。
一人は浮き輪を抱えていて、おそらくここの管理人か何かだろう。
後の二人は中年の夫婦で、「早く浮き輪を!」と叫んでいた。
管理人は浮き輪を投げ、「これに掴まれ!」と言った。
正也は俺を抱えながら、手を伸ばして浮き輪を掴む。しかし俺が暴れるもんだから、浮き輪から手が離れてしまった。
濁った水が飛沫を上げて、俺たちは沈んで行く。しかしそれでも正也は諦めない。
どうにか手を伸ばし、浮き輪を掴んだ。
「斎藤!これに掴まってろ!」
そう言って浮き輪を握らせ、自分もしがみつく。しかしその浮き輪は穴が合いているようで、ブクブクと気泡が立っていた。
中へ水が入り、二人の重さに耐えきれずに沈んで行く。
このままでは二人とも本当に死んでしまう。そう思った時、なんと友恵が池の中に飛び込んだ。
カーディガンを脱ぎ捨て、穿いていたロングスカートさえも取り払い、何の迷いもなく池に飛び込んだ。
その泳ぎはとてもぎこちないが、確実に俺たちの方へ向かっている。
そして正也の後ろに回り、沈まないように腕を絡ませた。
「早く浮き輪を引いて!」
そう叫んで、俺の背中を蹴って前に押しやる。管理人と中年の夫婦は、慌てて浮き輪を引いた。
俺はどうにか引き上げられ、「大丈夫か!?」と肩を揺すられる。
「・・・・・・・・・・。」
溺れた恐怖で何も答えられず、ただ震えてばかりいる。するとそこへ涼香が走って来て、「もう一回浮き輪を!」と叫んだ。
「まだあいつらが残ってる!」
涼香は浮き輪を奪い、二人の元へ投げる。友恵はそれを掴み、「引っ張って!」と合図する。
しかし穴の空いた浮き輪は、水を吸い込んだせいで重くなっていた。二人を引っ張っている間に、どんどん沈んでいく。
それでも友恵は必死にしがみつき、正也を離そうとしない。
浮き輪は二人の重さに耐えきれず、濁った水にどんどん沈んでいく。
すると木根が我慢の限界に達し、溺れるのを覚悟で二人を助けに行った。
「今行くぞ!」
元々運動神経が良い木根は、泳ぎも上手い。しかしさすがに人を助けながら泳ぐのは無理があり、「ど・・・・どっちかしか無理!」と叫んだ。
「おいお前ら!ボケっとしてねえで誰か手伝え!無理なら人呼んで来い!」
そう言われて、佐野と涼香も飛びこむ。園田と実花はただオロオロしていて、俺は相変わらず震えていた。
やがて騒ぎを聞きつけて、溜池の周りに人が集まって来た。
そして二人の男が池に飛び込み、正也と友恵を助けに行く。
「しっかりしろ!すぐ助けるから!」
木根は正也を抱え、佐野と涼香は友恵を抱えている。そこへ後から飛び込んだ二人の男がやって来て、どうにか池の縁まで引っ張って行った。
そして二人を地面に寝かせると、木根が「救急車!」と叫んだ。
近くにいた女がケータイを取り出し、すぐに救急車を呼ぶ。
友恵は意識はあるが、水を飲んだようで酷くむせている。そして正也の方はというと・・・・・・目を開けたままぐったりしていた。
「おい正也!聴こえるか!?」
木根が頬を叩き、すぐに心臓マッサージをする。涼香も「しっかり!」と言って、人工呼吸を施した。
二人が心肺蘇生をしている間、俺は震えながら後ろを振り返る。
苦しそうにむせている友恵。目を開けたまま動かない正也。
それを目にして、まるで他人事のような顔をしていた。
《・・・・俺が溺れたから、この二人も溺れた・・・・。もし正也が死んだら、それは俺の責任か・・・・・?》
昔の俺を見つめていると、ふと頭の中に声が響いた。
それは過去の自分が思った、自分自身の声だった。
その声は腹の中から・・・・そして頭の中から湧き出すような、なんとも不快な声だった。
《・・・・・俺のせいじゃない・・・・。正也が飛び込んだのは自分の勝手で、俺のせいじゃない。そもそもコイツのせいで溺れたんだから、助けるのは当たり前だ。だからコイツが死んでも俺は悪くない。何の責任もない。全部関係ない!》
当時の自分の声と、今の自分の声が重なり、不出来な輪唱のように何重にも響く。
俺は悪くない・・・・正也が死んだのは俺のせいじゃない・・・・。俺には何の責任も無い・・・・全部正也が悪い・・・・・。
繰り返し響く声は、俺は正也の死には一切関係ないという、責任から逃れたい思いだった。
やがて救急車がやって来て、正也と友恵が運ばれる。残ったメンバーは人だかりに囲まれ、遅れてやって来た警察が、その人だかりを掻き分けながら入って来た。
俺たちは警察署へ連れて行かれ、その時の詳しい状況を尋ねられる。
あの公園でスパーリングをしていたこと、なぜスパーリングをしていたのかということ、そして俺が池に落ち、正也が助けに入った時の状況。
ありとあらゆる事を聞かれ、これが事故なのか事件なのか、警察は慎重に判断しようとしている。
すると俺と警官が話をしているところへ、別の警官がやって来た。
ヒソヒソと何かを耳打ちをして、俺に一瞥をくれて去って行く。
嫌な予感がグルグルと渦巻き、記憶の映像を食い入るように見つめた。
耳打ちをされた警官は、顔をしかめながらペンで頭を掻いた。
俺はさっきの耳打ちが何だったのか尋ねる勇気が無いようで、じっと黙り込んでいる。
するとその警官は、射抜くような視線を向けてこう言った。
「さっき溺れた君の友達だけど、命に別条は無いってさ。」
そう言って「よかったな」と肩を叩いた。
「それは・・・・・二人ともですか?」
「そうだよ。正也って子も友恵って子も無事だ。まあ汚い水を大量に飲んでるから、何かの感染症にかかる疑いはある。
だから様子を見る為に少し入院するようだけど、それ以外は問題ないそうだ。」
「誰も・・・・・死ななかった・・・・。」
「そうだよ。みんな無事だ。」
警官はニコリと微笑み、「良い友達を持ってるな」と言った。
「自分が死にそうになってまで助けてくれる友達なんて、なかなかいないよ。正也って子も友恵って子も、すごく良い友達じゃないか。ちゃんと見舞いに行けよ。」
「・・・・・・・・・・。」
誰も死ななかったという事実を聞いて、俺は急に泣き出した。
正也が死んだら、俺の責任になるんじゃないか・・・・?
そんな不安に押し潰されそうになっていたので、安堵のあまり涙を流していた。
警官はまた俺の肩を叩き、しばらく質問を続けてから、もう帰っていいよと言ってくれた。
その後両親がやって来て、同じ警官から事の経緯を説明されていた。
当時のそんな記憶を見た俺は、口を開けて固まった。
不安とも喜びともつかない感情に支配され、「なんだこれ・・・・」と漏らす。
「正也は死んでないだって?どういうことだ?」
そう言って後ろを振り返ると、そこに正也はいなかった。
「おい!どこ行った!?」
呼んでも返事はなく、近くにいる気配すら感じない。
「これはどういうことだ!?こんなの俺の記憶じゃないだろう?なんで正也が生きてるんだ!?教えてくれよ!」
あらん限りの声で叫ぶと、頭の中に声が響いてきた。
《これは間違いなくお前の記憶だよ。》
「嘘言うな!だったらなんでお前が生きてる!?」
《死んでないからに決まってるだろ。》
あっさりとそう返されて、言葉に詰まった。しかしすぐに怒りが湧き上がり、「ふざけんな!」と叫んだ。
「お前が死んでないなら、どうして俺は記憶を封じ込めたんだ!?何も悪い事が起きてないなら、正しい記憶を忘れる必要がどこにあるんだよ!!」
理屈に合わない俺の記憶、そして理屈に合わない正也の言葉。どれもが不快なほどもどかしく感じて、「答えろ!」と叫んだ。
「なんでお前が生きてるんだ!そんなはずないのに・・・・。みんなだって正也が死んだことは知ってるはずだ!こんなのおかしいだろ!」
何度もそう叫ぶと、しばらく間を置いてから声が返って来た。
《答えは簡単だ。俺は死んでないけど、元の状態じゃなくなった。》
「元の状態・・・・・?どういうことだ?」
《お前は俺の死に責任を感じているようだけど、それは違う。もっと重い責任を感じる羽目になったんだ。だから俺が死んだなんて偽の記憶を生み出した。》
「・・・・馬鹿なこと言うな・・・・。死ぬ以上に責任を感じることなんて・・・・・、」
《あるよ。あるんだよ・・・・。俺は生きてる。でもそれは、お前にとってすごく辛いことだったんだ。だから死んだことにした。》
「・・・・分からない・・・・何言ってるかさっぱり・・・・。」
《斎藤。もう記憶を見るのは終わりだ。この先はその目で現実と向き合え。そうでなければ、お前は一生俺に縛られることになる。そんなのは・・・・俺は嫌なんだ・・・・・・。》
正也の声が途切れ、それと同時に記憶の景色が歪みだす。
辺りに強烈な光が走り、粘土細工のように記憶の映像が溶けていく。
そして全ての映像が消えた瞬間、あの貯水塔に戻っていた。
周りにはみんながいて、なぜか穏やかな目で見つめている。
空は青く、周りには多くの人が行き交い、陽気な光が降り注いでいる。
「なんだ・・・・?また記憶を見てるか・・・・・?」
そう呟くと、ふと目の前に何かが近づいて来た。
顔を上げると、そこには正也がいた。
「あ・・・・・・。」
正也を見た瞬間、トクンと心臓が飛び跳ねた。
なぜならコイツは車椅子に乗っていて、虚ろな表情で首を傾げていたからだ。
しかもその後ろには友恵がいて、その車椅子を押していた。
「正也・・・・・。」
俺は立ち上がり、正也を見つめる。
その顔は表情というものがなく、口が開きっぱなしになっている。
目はどこに焦点を合わせているのか分からず、手足はだらりと脱力している。
そして小さく首を動かして、俺の顔を見据えた。
「どうだった・・・・記憶の旅は・・・・?」
そう言って、少しだけ表情を動かして笑う。
「斎藤・・・・・会いたかったよ・・・・・。11年ぶりだ・・・・・。」
掠れる声で言い、目の端から涙が零れる。俺は「正也・・・・?」と尋ね、その手に触れた。
《・・・・これは幻覚なのか?それともまた記憶を見ているのか?・・・・いや、記憶の映像は終わったはずだ。だったらやっぱり、これは正也ということに・・・・・。》
俺はじっと正也を見つめる。正也もじっと俺を見つめる。
すると友恵が、「ちゃんと向き合ってあげて」と言った。
「正也も・・・・・斎藤君に会いたがってた。だからちゃんと見てあげて・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「11年ぶりだもん。嬉しいに決まってるよね、正也・・・・・。」
そう言って顔を近づける友恵に、正也は頷いて見せる。
コイツが生きているという事実に、俺はただ混乱するしかなかった。なかったが・・・・・すでに絡まった記憶の糸は解けていた。
正しい記憶を覆うものは、もう何もなく、あの夏に起きた出来事が、11年の時を超えて蘇った。
「・・・・ごめん・・・・・。」
正也の前に膝をつき、手を握りしめて謝る。
「・・・・ごめん・・・・ごめんなさい・・・・。」
長い間隠していた記憶が蘇り、11年分の涙が頬を濡らした。

取り残された夏の中へ 第十三話 巡る思い出(1)

  • 2015.07.21 Tuesday
  • 12:39
JUGEMテーマ:自作小説
時間が経っても変わらない物がある。
それは時に嬉しく、時に恐ろしいものでもある。
貯水塔の中に侵入した俺は、11年前と何一つ変わらない光景に息を飲んでいた。
懐中電灯を並べたような、薄暗い明り。濃いグレーのコンクリートの壁。
それに黄ばんだ床に、夏だというのに寒さを感じるような不気味さ。
しかも足元には、あの時と同じようにゴキブリまで死んでいる。
そして目の前には螺旋階段があり、天井の向こうへと伸びていた。
「こうも変わらないもんなんだな・・・・・。なんかタイムスリップした気分だよ。」
そう呟くと、木根も「まったくだな」と頷いた。
「あの時と同じくらい気味悪い。」
「でもあの時のお前は、やたらとテンションが上がってただろ。怖がったりしてなかったはずだ。」
「そう見せかけてただけだ。ビビってると思われたくなくて。」
木根は辺りを見渡し、ゴキブリの死骸をポンと蹴飛ばす。
そして螺旋階段に足をかけ、「さっさと登ろうぜ」と言った。
「いつ見つかるか分からねえ。早いとこ済まさねえと。」
靴音を鳴らしながら、鉄の螺旋階段を上っていく。
涼香もそれに続き、実花はあの時と同じように腕にくっ付いていていた。
佐野も階段に足をかけ、その後ろを園田がピタリと張り付く。「離れろデブ!」と怒られて、何から何まで11年前と同じだった。
みんなは天井の向こうに消え、俺と友恵だけが残る。「早く来いよ!」と木根が叫び、みんなの足音が遠ざかって行った。
俺は天井を見上げ、螺旋階段の向こうに何があったのかを思い出そうとした。
しかし上手く記憶が蘇らず、靄がかかったように思い出が掠れていく。
《ここで正也が死んだ。それは覚えてるんだけど、それ以外のことがあやふやなんだ・・・・・。俺・・・・本当にこの上に登ったんだよな?》
自問自答をしながら、どうにか記憶を呼び覚まそうとする。
しかしここで悶々と考えるくらいなら、登った方が早いというものだ。
階段に足をかけ、上を見据える。そしてふとした疑問がよぎった。
「なあ・・・・ちょっといいか?」
後ろを振り返り、友恵に尋ねる。
「なに?」
「正也はここで死んだんだよな?」
「そうよ。」
「だったらさ、なんでこんなに簡単に入れたんだろう?人が一人死んだんなら、もっと厳重に鍵をしてあるはずだよな?」
そう言って、やはりこれはおかしいと再確認する。
今日ここへ入った方法は、あの時とまったく同じだ。
木根がフェンスを越え、中から鍵を開ける。そして貯水塔の梯子を上り、その先のドアから侵入した。
そして一階へ下りて来て、また中から鍵を開けた。
となると、梯子の先のドアには、鍵が掛かっていなかったことになる。
人が死ぬような事故があったのに、ドアに鍵を掛けないなんてことがあるだろうか?
不思議に思って考え込んでいると、友恵が「行こう」と背中を押した。
「早く行かないと木根君が怒るよ。」
「ああ・・・・・。」
生返事をして、螺旋階段を登っていく。
天井を抜けて二階へ上がると、少し先に二つのドアがあった。
右手にあるドアは、きっと外の梯子へ通じるドアだ。もう一つのドアは、上に続く階段にでも繋がっているのだろう。
俺はゆっくりと足を進め、ドアの前に立つ。大きく息を吸い、気持ちを落ち着かせた。
《もうこの辺りから記憶が無いんだよなあ・・・・。いったいこの先はどうなってるのか・・・・行くのが怖いな。》
ドアに手を掛け、ギュッと目を閉じる。すんなりと開ける勇気が無くて、手足が震えてきた。
すると友恵が「大丈夫よ」と言って、震える俺の手に触れた。
「大丈夫・・・・怖いことなんかない。」
「・・・・・・・・・・。」
「ちょっと休む?」
「・・・・・いや、平気だ。」
「でもそうは見えないよ。ちょっと落ち着いてから行こう。」
そう言って、俺の手をそっとドアノブから離した。
「ねえ斎藤君。今は何を思い出してる?」
友恵の声は優しく、まるで母親のように俺を気遣っているのが分かる。
その時ふと・・・・・ほんの一瞬だけ、何かが歪んで見えた。
それは幻か?それともただの錯覚か?
はっきりとは分からないが、何かが目の前をよぎったような気がした。
「友恵・・・・・今そこに誰かが・・・・・、」
そう言いかけると、友恵は俺の視界を塞ぐように立ちはだかった。
「・・・・・ちょっとずつ・・・・思い出してる・・・・・?」
「・・・・分からない・・・・。でもすごく変な感じだ・・・・。なんか・・・・幻を見てるような・・・・・。」
嫌な感覚が蘇り、頭が痛くなってくる。手足は鉛のように重くなり、動くことが出来ないほどだった。
するとその時、また目の前が歪んだ。
《今・・・・・はっきりと見えたぞ・・・・・。誰かが通るのを・・・・・。》
辺りを見渡し、誰かいるのか探る。すると友恵が「私を見て」と自分の方を向かせた。
「おい・・・・ここ変だぞ。幽霊でもいるんじゃないか?」
「そんなのいないよ。」
「でも今・・・・誰かが通ったんだ。目の前をふらっと・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
「なあ友恵。何なんだよここは・・・・。俺・・・・怖くなってきた・・・・。ここ変だよ・・・・なんかおかしいよ。」
頭が混乱してきて、緊張のあまり口が渇く。その時また誰かが通り過ぎる姿が見えて「ほら!また!」と指をさした。
「ここなんかいるぞ!絶対になんかいる!」
「違う、何もいないよ。」
「いやいや!いるって!何度も・・・・・ああ!また出た!」
チラチラと人影が現れ、まるで幽霊のように消えて行く。我慢出来ないほど怖くなってきて、その場から逃げ出した。
「あ!斎藤君!」
「お前も逃げろ!ここ絶対におかしいって!」
慌てて螺旋階段を下り、ドアを開けて逃げ出す。しかし外に出た瞬間に、誰かに腕を掴まれた。
きっと友恵だと思い、「離せ!」と振り払う。しかしその力はとても強く、なかなか振り払えなかった。
いったい誰かと思って振り向くと、木根が俺の腕を掴んでいた。
「斎藤!ちょっと落ち着け!」
「木根!ここ変だぞ!逃げた方がいい!」
「大丈夫だ!変なことなんか何もねえ!」
「いいや、ここは何かいる!だって幽霊を見たんだ!目の前をスッと歩いて、どこかに消えたんだ!」
こんな恐ろしい場所にはいたくないと思い、早く逃げ出したかった。
しかし木根は腕を離さない。そこへ涼香たちも駆けて来て、俺を押さえた。
「斎藤、大丈夫だから。何も怖いことはないから!」
「でも幽霊が出るんだぞ!きっとここで溺れて死んだ奴が・・・・・・、」
そう言いかけて、ふと口を噤んだ。
「斎藤君・・・・。」
友恵が傍に来て、俺の肩に手を置く。その手がやたらと暖かく感じられて、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「ここには幽霊なんていない。いるはずがないの・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
「辛いのは分かるけど、上に登ろう。だって・・・・今日しかない。今日じゃないともう・・・・。」
友恵の声は何かに焦っている。どうして焦る必要があるのか分からないが、今すぐにでも貯水塔へ戻りたそうな顔をしていた。
するとみんなが俺の周りに来て、同じように焦った顔を見せた。
木根が「なあ・・・」と声を掛け、間を置いてから尋ねた。
「お前が覚えてる事でいいから、俺たちに話せよ。」
唐突なことを言われて、「え?」と返す。
「お前はここで起きた本当の事を忘れてる。・・・・というより、あの夜に起きた本当の事を忘れてるんだ。」
「それは・・・・・分かってるよ。」
「そうなったのは、お前が自分を責めてるからだ。馬鹿みたいに責めまくって、自殺未遂で入院までした。これ・・・・覚えてるか?」
そう問われて、俺はすぐに首を振った。
「分からない・・・・。」
「お前はな、自分で自分の頭に蓋をしてんだよ。そうしなきゃ耐えられなかったからだ。」
「だって・・・・俺のせいで正也が死んだんだ・・・・。俺のせいで・・・・。」
「じゃあその時のことをよく思い出せ。間違った記憶でもいいから、お前の覚えてる限りを、俺たちに話してみろ。」
木根は真剣な目で見つめる。俺がどんな言葉を吐こうと、受け止めるつもりのように。
それは俺に安心感を与え、少しだけ落ち着きを取り戻させた。
そして気持ちが楽になった分、ぽろぽろと言葉が飛び出してきた。
「あの時・・・・ここへ来たことは覚えてる。今日みたいにして中に入って、それで正也と仲直りしたんだ。
もう二度と俺に余計な気は遣わないって約束して、それで・・・・・・分からない。その後の記憶が途切れてるんだ・・・・。」
「でも正也が死んだことは覚えてるんだろ?」
「それは覚えてる・・・・。」
「じゃあその事を話してみろよ。」
木根の目は相変わらず真剣で、怖いほど真っ直ぐだった。俺は記憶を手繰り寄せ、なるべく詳しく思い出した。
「次に覚えてるのは・・・・・一番上まで行った時だ。やたらと細い足場が伸びてて、その下に真っ暗な水が溜まってた。
明りがないから、誰かが懐中電灯を着けたんだ。それで下を照らすと、暗い水が不気味に見えた・・・・。
大きな水槽みたいなところに、すごく汚い水が溜まってたんだ・・・・・。」
「それで?その後どうした?」
「その後は・・・・誰かがこう言ったんだ。『誰かここに飛び込んでみろよ』って。誰の声だったか忘れたけど、確かにそう聞こえた。」
話せば話すほど、当時の記憶が鮮明に蘇る。不気味に濁った水、貯水塔の壁伝いに、ぐるりと伸びる細い足場。
そして・・・・その足場には、濁った水へ続く梯子があった。鉄で出来た梯子で、その先は水の中に沈んでいる。
「・・・・梯子・・・・があって、それから水には色んな物が浮いてた・・・・。藻屑とか、虫の死骸とか・・・・。それに変な臭いもしてたな。きっと水が腐ってたんだ。」
「色んな物が浮いて、水が腐ってたか・・・・・。」
木根は含みのある口調で言う。俺は「やっぱり間違ってるか?」と尋ねた。
「いや、気にするな。続けろよ。」
促されて、俺はまた記憶を掘り起こした。きっと間違っているであろう、絡み合った記憶を。
「誰かが飛び込んでみろよって言って、みんな苦笑いしてた。だってあんな暗い水の中に飛びこめるわけないから。
でもそこで俺がこう言ったんだ。『正也は泳ぎが上手いから、コイツなら行けるんじゃないか』って。」
「それで・・・・正也は飛び込んだのか?」
「いいや・・・冗談言うなって笑われた。まあ当たり前だよな、あんな場所に飛び込むなんて自殺行為だから。でも俺はしつこく言ったんだ。飛び込んでみろって。」
「なんでだ?飛び込んだら危ないって分かってたのに、どうしてそう言った?」
「それは・・・・・きっと悔しかったんだと思う。友恵のことで変な気を遣われて、それで俺は傷ついたから・・・・。」
「そうか。だったら仕返しの為にそう言ったわけだ?」
「でも冗談だったんだ!それは正也も分かってたから、飛び込むなんてしなかった!しなかったけど、でも・・・・・、」
「でも?」
「・・・・あいつは約束を破ったんだ・・・。もう二度と俺に下らない気遣いはしないって約束したのに、またやりやがった・・・・。だから俺は・・・・、」
頭を抱え、当時の記憶に苦しむ。この記憶は間違っているはずなのに、なぜか頭が痛くなる。
・・・・いや、もしかしたら、これこそが正しい記憶なのかもしれない。
俺が勝手に間違いだと思い込んでいるだけで、やはりこの記憶が正しいのかもしれない。
木根はじっと目を向け、俺の言葉を待つ。顔を上げて周りを見渡すと、みんなも同じような目で見つめていた。
《・・・・やっぱり・・・・俺は間違ってるんだ・・・。だからみんなこんな目で見てる・・・・。》
みんなの視線が突き刺さり、針のむしろに立たされるような気分になる。
出来ればこのまま家へ帰りたかったが、それは許されないだろう。
このまま黙っていても意味はないので、先を続けることにした。
「俺がしつこく飛びこめって煽ると、友恵が止めに入った・・・・・。もうやめなよって言って・・・・。でも俺はやめなかった。二人が困ってるのを、心のどこかで楽しんでたんだ。そしたら正也の奴が、友恵にこう言った。『斎藤は今傷ついてるんだから、お前は余計なこと言うな』って。俺は・・・・それがカチンと来た。だから正也に近寄って言ってやったんだ。『そういうのが嫌なんだよ』って。」
あの時のやり取りが思い浮かび、胸を強く締めつける。嫌な記憶というのは、何度思い返しても慣れることはなかった。
しかし胸が締めつけられるほどに、なぜか鮮明に記憶が浮き上がる。そして頭に浮かぶ映像を、そのまま口にした。
「俺は正也に言ったんだ・・・・。馬鹿にすんなって・・・・。だって友恵の前で、これ以上恥をかかされたくなかったから・・・・。案の定、友恵は複雑な顔で俺を見てた・・・・。同情と憐れみの目だ。あの時・・・・友恵は『大丈夫?』って言ったんだ。俺を憐れむような目で見つめながら、優しく気遣いやがった・・・・。でもそれは屈辱でしかないんだよ!だから俺は・・・・正也に顔を近づけて、耳打ちしてやった。『お前の彼女が、俺を同情の目で見やがった・・・・。だからお前が責任取れ・・・・。お前が約束を破ったも同然なんだから、罰としてここへ飛び込め・・・・』って・・・・。」
一息にそう言ってから、俺は友恵を見上げた。
友恵は優しい奴で、他人にすごく気を遣う。だからこんな理由で正也が飛び込んだのだと知ったら、深くショックを受けると思っていた。
しかし予想に反して、友恵は平気な顔をしている。まるでそんな事は初めから知っていたという風に・・・・・。
「・・・正也はまだ苦笑いしてたけど、でもだんだんと表情が曇ってきた。俺が本気で怒ってるって感じたんだ。だから『そこまで言うなら飛び込んでやるよって』って言った。それで水の中を睨んで・・・・・そのまま飛び込んだ。」
そこまで話して、俺は頭を抱えた。なぜならこの先の記憶は、正也が溺れて死ぬことになっているからだ。
頭の中では必死にもがく正也が浮かんで、今にも死にそうに叫んでいる・・・・。
俺は何も出来ずにそれを見ているしかなく、友恵と実花は悲鳴を上げていた。
しかし俺たちの騒ぎを聞きつけた貯水塔の職員が、懐中電灯を照らしながら入って来た。
そして正也が溺れているのを見つけて、すぐに救命具を取りに走った。
浮き輪を持って戻って来ると、それを正也に向かって投げる。しかし正也はすでに力尽きようとしていて、浮き輪に捕まる力すらない。
職員は自分も水の中に飛び込み、浮き輪に捕まりながら正也を助ける。
そして俺たちに向かって「救急車を!」と叫んだ。
木根がすぐにケータイを取り出し、涼香も同じようにどこかへ電話を掛けた。
その間に正也は引き上げられ、細い足場に寝かされた。
それからすぐに救急車がやって来て、正也は病院へ運ばれた。
俺たちは後からやって来た警察に、署まで連れて行かれた。
そして詳しくあの時の状況を話していると、一人の警官が正也の死を伝えた。
病院へ運ばれたが、助からなかったと・・・・・。
その後のことはよく覚えておらず、次に浮かんでくる場面は正也の葬式だった。
俺は死人のような顔で正也の写真を見つめていた。そこへ正也の親父さんがやって来て、じっと俺を睨んだ。
眉間に深い皺を刻み、今にも怒鳴り出しそうな怖い表情だった。
しかしグッと息を飲んで、『君は悪くない』と言ってくれた。
『あいつは自分から飛び込んだんだ。何も気にするな。』
そう言って俺の肩を叩き、励ましてくれた。
自分の息子が死んだというのに、その原因を作った俺を元気つけようとしてくれたのだ。
あの時、俺は堪え切れずに泣いた。何度も頭を下げ、何度も謝って、ただひたすら泣いていた。
俺が正也のことで覚えてるのは、ここまでだ。
もしこの記憶が間違いだとするならば、いったいどこがどう間違っているのか?それを知りたかった。
自分の知る限りの全ての記憶を話し、みんなの反応を窺う。
誰もが唇を固く結び、どこに焦点を合わせているのか分からないような目をしていた。
困っているようにも見えるし、憐れんでいるようにも見えるし、みんながどういう思いを抱いているのか分からない。
そんな表情に囲まれながら、俺はだんだんと不安になってきた。
木根の腕を掴み、胸を締めつける痛みを我慢しながら、「教えてくれ」と尋ねた。
「あの夜・・・・・本当はいったい何があったんだ?俺はそれを知りたい。」
絞り出すようにして言うと、木根は何も言わずに頷いた。
そして貯水塔を見上げ、「あれをよく見ろ」と指差した。
「お前がな・・・・・自分からそう言うのを待ってたんだ。あの時何があったのか・・・・それを知りたいと思えるなら、きっと見えるものが変わってくるはずだ。」
そう言われて、俺は木根の指差す先を見た。
白く大きな貯水塔が、夜の闇の中にそびえている。不気味で、恐ろしくて、妖しくて・・・・・。でもなぜか、いつもと違う風に感じた。
貯水塔は確かにそこにある。でもそれは・・・・・俺の知っている貯水塔とは違っていた。
まるでスライドショーを見せられるように、だんだんと貯水塔の様子が変わっていくのだ。
銭湯で子供が溺れる幻を見たように、目の前の貯水塔が、幻のように揺らぎ始める。
「斎藤。お前は自分の頭に蓋をして、正しい記憶を閉じ込めようとしてた。でも今なら・・・・きっと分かるはずだ。今、ここがどういう場所なのか?どういう状態なのか?ちゃんと分かるはずだ。」
木根は真剣な目をたもったまま、諭すように話しかける。
そして友恵も「大丈夫だよ」と声を重ねた。
「今の斎藤君なら、きっと正しいものが見えるはず。自分から知りたいって思えるなら、ちゃんと正しい見方を出来るはず。」
友恵も貯水塔を見上げ、「もうじき私たちの見てる景色と、斎藤君の見ている景色が同じになるはず」と言った。
「みんなの見てる景色と、斎藤君の見てる景色にはズレがある。でも・・・・それが無くなった時、正しい記憶を結べるはずだよ。だからちゃんと見て。目を逸らさずに。」
期待を込めた声で言って、じっと貯水塔を見上げる。
みんなと俺の見ている景色にはズレがある・・・・・・友恵はそう言ったが、俺にもその意味が分かるような気がした。
今、俺の目に映っている貯水塔は、グニャグニャと陽炎のように歪んでいる。
夜だというのに強い光が射し、夜空を隅の方へと追いやっていく。
暗い空は光に焼かれ、まるで絵具で塗りつぶされるように青色に染まっていく。
それと同時に、周りからたくさんの話声が聞こえてきた。
大人の声、子供の声、老人の声、男の声に女の声。
たくさんの声が入り混じり、ガヤガヤと耳に響いてくる。
そして少し遅れて、大勢の人影が浮かび上がった。
たくさんの人影が辺りを行き交い、老若男女の多種多様なシルエットが歩いている。
そのシルエットはやがてハッキリと姿を浮かび上がらせた。
子供を連れた夫婦、中学生くらいの女の子の集団、スポーツウェアを着てランニングしている人、カメラをぶら下げて歩くカップル。
まるで休日の観光地のように、たくさんの人が辺りで賑わっている。
気がつけば、いつの間にか暗い夜は消えていた。
グラデーションのかかる青い空。楽しそうに賑わう多くの人たち。そして頭上から降り注ぐ突き刺すような光。
夜は一瞬のうちに消え、辺りは昼になっている。
そして辺りを行き交うほとんどの人が、同じ場所を見上げていた。
空に何かがあるかのように、面白そうに目を向けている。
いや・・・・目を向けているだけではない。そちらへ向かって歩いているのだ。
中にはカメラを構えてシャッターを切っている人もいる。
この人たちを見上げる方向・・・・それはさっきまで俺が見上げていた方向と同じである。
正也が亡くなった、あの白い貯水塔がある方向だ。
みんな笑いながら見つめていて、何かのアトラクションへ向かうかのように、弾んだ足取りをしている。
俺はゆっくりと深呼吸をしてから、周りの人たちと同じ方向を向いた。
するとそこには、さっきと何一つ変わらない貯水塔が立っていた。
天を突くように高く、そして全ての光を反射するように白くそびえている。
「これだけさっきとは変わらない・・・・。なんでだ?」
不思議に思い、貯水塔を見つめながら立ち上がる。
すると誰かが俺の肩を叩き、「思い出したか?」と尋ねた。
振り返ると、そこには11年ぶりに見る懐かしい顔が立っていた。
「・・・・・・。」
「久しぶりだな。」
それは正也だった。
軽く手を挙げて、まるで近所のコンビニで出くわしたみたいに、恐ろしく軽い挨拶をする。
「え?・・・・・あ・・・・え?」
「混乱してんな。まあ無理もないけど。」
死んだはずの正也が、タバコを片手に目の前に立っている。
そして白い貯水塔を見上げ、「ようやく辿り着いたな、お前」と言った。
「11年ぶりの再会だ。あの夏以来の・・・・。」
しみじみとそう言って、美味そうにタバコを吹かす。
俺は「なんで?」と呟き、疑問と混乱の渦に飲み込まれそうになる。
しかしすぐにピンと来るものがあって、「ああ、そういうことか・・・・、」と頷いた。
「これは・・・・アレだな?映画のシックスセンスってやつと一緒だ。」
そう言って指を差すと、正也は無表情のまま煙を飛ばした。
「ここってアレだろ?天国かなんかだろ?実は死んだのはお前だけじゃなくて、俺も一緒だったんだ。お前を助けようと飛び込んで、それで二人とも死んでしまった。」
「・・・・・・・・・。」
「でも自分が死んだって認めたくないから、生きてるフリをしてた。だけどここに来て、当時の記憶を知りたいと思ったから、自分が死んだことを思い出したんだ。そうだろ?」
「・・・・・・・・・。」
「いや、そんな悲しい目で見つめなくていいよ。正直さ、そんなに嫌な気分じゃないんだ。ここってどう考えても地獄じゃないだろ?こうしてお前がいて、しかも周りは休日の観光地みたいに賑やかだ。空は青いし、みんな楽しそうな顔してる。こんな場所でお前と会えるなら、別に嫌じゃないよ。自分が死んだことを認めるのは。」
俺はとても晴れやかな気分だった。11年ぶりに会う親友。しかも場所は天国。
こうなると、もう現世で嫌な思い出に縛られる必要はない。というより・・・・・嘘の記憶の中で生きる必要が無いのだ。
俺は死んだ。いや、死んでいた。それを今日思い出し、こうして正也のいる天国に来られた。もう・・・・それで充分だった。
「自分が死んでたんじゃ、そりゃ記憶に蓋をしようとするわな。でもこうして天国に来られると分かってたなら、もっと早く思い出すことが出来たかもしれないのに。」
そう言って笑いかけ、「アイツらも意地悪だよな」と肩を竦めた。
「本当の記憶の先に、こんなに素晴らしい場所が待ってるなら、さっさと教えてくれれば良かったのに。お前と一緒で、アイツらも下手な気遣いをするもんだ。そういうのは優しさじゃなくて、おせっかいって言うのにな。」
ここへ来られたこと、正也と出会えたこと、そしてもう思い出に苦しむことは無いと思うと、心の底から嬉しくなった。
こんなに嬉しくなったのは、この11年の間で初めてかもしれない。
笑顔のまま正也を見つめていると、ふとおかしなものが目に入った。
「なんだ・・・・あれは・・・・・?」
俺と正也の間を、数人の学生が通り抜けていく。そして俺たちに触れると、まるで幽霊のようにすり抜けてしまった。
「あれ・・・・俺たちじゃないか・・・・。」
幽霊のようにすり抜けていったのは、高校生の頃の俺たちだった。
ボクシング同好会のメンバーが全員揃っていて、貯水塔の方へ歩いて行く。
俺は大きなバッグを担いでいて、正也はも同じように大きなバッグを担いでいる。
二人は貯水塔を抜け、その奥へと向かう。
そこには緑の茂った広場があり、誰もいないブランコと鉄棒があった。
俺たちは芝生の上に立ち、お互いに向かい合う。その向こうには小さな溜池があって、涼香と木根、そして実花と園田が池の傍に腰を下ろした。
佐野は俺たちの間に立ち、何かを喋っている。その隣では、友恵が浮かない顔で俯いていた。
いったい何をしているのだろうと見つめていると、俺は担いだバッグを下ろし、中からグローブとヘッドギアを取り出した。
そして正也もグローブを取り出し、それを拳に填めた。しかし俺と違って、ヘッドギアは着けなかった。
両者のグローブは大きさが違っていた。俺の方は・・・・・おそらく8オンス。軽・中量級の選手が付けるグローブだ。
対して正也は大きめのグローブを着けている。しかも試合用ではなく、練習用の柔らかそうなグローブだ。
俺たちはお互いに歩み寄り、鋭い視線で睨み合う。佐野がレフェリーのように立ち合い、指を向けて口を動かしている。
よく耳を澄ますと、その声が聴こえてきた。どうやらルールの説明をしているようで、『正也は本気で右を打つなよ』と忠告していた。
その言葉に正也は頷き、俺たちはグローブを合わせる。実花は『やめようよ・・・』と怯え、園田も不安そうに息を飲んでいた。
木根は無表情を気取っているが、内心では不安になっているのが分かる。涼香も同様で、硬い表情の中に不安を見せていた。
俺たちは一歩離れ、ファイティングポーズを取る。佐野が前に出て、両手を広げて開始の合図を窺う。
そして・・・・友恵は俯き加減で唇を結んでいた。
俺と正也が戦うということは、友恵が関係していることに他ならない。それが全ての原因ではないにしても、無関係というのは有り得ない。
まだ表情に幼さが残る、高校時代の俺たち。その様子を見つめながら、「これは何だ・・・・?」と後ろに立つ正也に尋ねた。
「なんかまた幻を見てるみたいだけど、これも俺も記憶なのか?」
「ああ。」
「でも・・・・俺はこんなの覚えてないぞ。」
「そりゃそうだろ。これこそがお前が蓋をしていた記憶なんだから。」
「は?これが・・・・?」
「お前はここが天国だと思ってるようだけど、それは違う。ここはあの世でもこの世でもない、お前の記憶の中だ。」
「・・・・・・・・・。」
「糸みたいに絡まった、間違った記憶の中にある、正しい記憶だ。お前はみんなに支えられ、ようやくここまで辿り着いた。でもまだ完全じゃない。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!これが俺の記憶?・・・・ってことは、俺は自分で自分の頭の中に入ってるってのか?」
「まあ・・・・そんなようなもんだ。」
「そんなようなもんだって・・・・・どう納得すればいいんだよ・・・・・。」
「思い出そうとしてるんだよ、正しい記憶を。とにかく黙って見てろ。答えはちゃんと出るから。」
正也はタバコを吹かしながら、表情を変えずに若い頃の俺たちを見ている。
《・・・・・どうでもいいけど、コイツのタバコまったく短くならないな。スパスパ吹かしてるクセに、いったいどうなってんだ・・・・?》
やはりコイツの言うとおり、ここは俺の記憶の中なのか?もしそうだとしても、どうしてここに正也が・・・・・。
疑問に思っていると、後ろから『始め!』と声が響いた。
振り返ると、俺と正也がステップを刻みながら、軽いジャブを繰り出していた。
ジャブの応酬がしばらく続き、だんだんと打ち合いが激しくなる。
正也のパワーは相変わらずで、しかも一つ一つの動きが速い。
しかし俺の方も負けてはいなかった。相手のグローブが大きい分、パンチの威力は削がれて、若干スピードも落ちている。
しかも正也はヘッドギアを着けていないから、俺のパンチが入る度に顔を歪めていた。
ヘッドギアの有無と、グローブの大きさの違い。それに加えて、正也は本気で右を打ってはいけない。
きっとこれは実力差を考慮したハンデなんだろう。
これだけ有利な条件であれば、パワーで負けていても互角に打ち合えるようで、俺は果敢に攻めている。
かわすことだけは自信があるので、正也の大振りを慎重に避けながら、懐に入って連打を見舞う。
良い感じに追い詰めて行くが、正也には一発の重さがある。要所要所でパンチを放ち、俺の連打を絶ち切っていた。
佐野は真剣な目で戦いを見つめ、俺たちの邪魔にならないように、忙しなく動き回っている。
池の傍に座っているギャラリーは、不安と怯えの混ざった顔で、戦いの成り行きを見守っていた。
そして友恵はというと、どちらを応援していいのか分からないという風に、ただ困っていた。
きっとどちらの勝利も、どちらの敗北も望んでいないのだろう。応援も声援も送ることなく、どうか早く終わってほしいと願っているようだった。
・・・・・しばらくの打ち合いの後、少しずつ戦いの均衡が崩れ始めた。
幾つも有利なハンデをもらっている分、俺が押し始めたのだ。
《こうやってハンデをもらって戦ってるってことは、これは二度目の戦いの後なんだろうな。》
そう思った時、ここへ来る前に友恵に言われたことを思い出した。
《アイツは俺と正也が三度戦ってるみたいなことを言ってたな。俺は覚えてなかったけど、それは抑え込んでた記憶の中にあったんだな。だったらこの戦いが、封印したくなるような記憶に結びついているってことだ。》
今目の前で戦っているのは、昔の俺と正也だ。
戦っているのは自分なのに、記憶を思い出せないでいるせいで、他人の戦いを眺めているような気分だった。
追い詰められた正也は、負けるのは嫌だとばかりに、本気で右フックを放った。
俺は腕を上げてガードをしたが、強烈なパワーに負けて後退してしまった。
そこへ正也の連打が襲いかかり、思わずダウンしてしまう。佐野はすぐに止めに入り、『本気で右を打つなって言ったろ!』と警告した。
しかし正也は悪びれる様子もなく、『コイツが余計な気遣いはいらないって言ったんだ』と切り捨てた。
『二度と下らない気遣いをするなって見栄張ったんだよ。』
『でも本気で右を打たないって条件だったろ。お前も納得したはずだ。』
『・・・・だったらコイツも納得してれば良かったんだ。昨日ここへ肝試しに来て、その時にコイツと仲直りをした。二度と下らない気遣いはするなって言って、それを破ったらこの汚い池で泳いでもらうって約束した。それで納得してりゃ良かったんだ。』
そう言って正也は、木根たちの傍にある溜池を指した。
『コイツが何度も飛びこめって煽るから、俺はこの池に飛び込んでやったんだ。本当ならそんなことするつもりなかったけど、コイツがしょうもないこと言うからよ・・・・。』
苛立たしそうに言って、ダウンした俺を睨む。
『友恵が下らない気遣いをしたから、俺に責任取れなんてぬかしやがった。彼女なんだから、俺にも責任はあるだろって。あの時はマジでむかついて、本気で殴ってやろうかって思った。でもコイツが傷ついてるのは分かってたから、多少はワガママ聞いてやろうと思ったんだ。だから俺は飛び込んだ。』
怒りをぶちまけるように、一息でまくしたてる。俺はダウンしたまま立ち上がろうとせず、ヘッドギアでその表情を隠していた。
俺の知らない戦い・・・・・俺の忘れた出来事・・・・・そして俺の知らない正也とのやり取り・・・・・。
目の前に見せられる光景と、この耳に入ってくる正也の言葉。そのどれもが戦慄を覚えるもので、後ろの正也に尋ねた。
「これはどういうことだ・・・・・?あの日、お前は貯水塔に飛び込んだんじゃないのか?今の会話だと、あの汚い溜池に飛び込んだってことになってるけど・・・・、」
そう尋ねると、正也は思いもしないことを言った。
「ここに貯水塔なんかねえよ。」

取り残された夏の中へ 第十二話 背中合わせの二人(2)

  • 2015.07.20 Monday
  • 12:04
JUGEMテーマ:自作小説
月空の夜に、木根がプロポーズをした。
それはとてもロマンチックな言葉で、俺までジーンと来るほどのプロポーズだった。
しかし涼香は、なぜか怒っていた。木根の脛を蹴り飛ばし、胸倉を掴んで顔を近づけた。
そして鬼のような形相で、こう喚いた。
「こっちだって色々考えてたんだよ!三年前に好きだって言われたことを絡めて、どうプロポーズしようか考えてた!なのにアンタと来たら、先に言っちまいやがる!普段はマヌケな事しか言わないクセに、どうしてこんな時だけカッコつけるわけ!?せっかく・・・・私からカッコよくプロポーズしようと思ったのに・・・・・台無しだあ・・・・・・。」
そう言って涙ぐみ、鼻をすすりながらしゃっくりをした。
「いつも通りマヌケなこと言っとけよ!皺が増えたとか、ヤラせてとか!別に減るもんじゃないし、風邪でもない限りヤラらせてやるわよ!でも・・・・こういうのは私に譲ってよ・・・・・。いつだってアンタのワガママ聞いてんだから、こういうのくらい私にカッコつけさせてよ・・・・・。」
溜まった涙がボロボロとこぼれ、「うわあああああん!」と子供のように声を上げる。
拳を握り、ぐるぐるパンチのように振り回して、木根を叩きまくる。
「私の言うはずだったセリフを返せえええええ!なんでおいしい所だけ持ってくのよおおお!あああああああん!!」
「おいやめろ!落ち着けお前!」
「くたばれ!お前なんかくたばっちまええええええ!!」
「バカ!落ちるだろうが!押すんじゃねえよ!」
「死んで蛍なれ!この馬鹿野郎おおおおおお!」
「ちょ・・・・ちょっとマジで・・・・・斎藤おおおおおお!助けて・・・・・、」
涼香は木根の胸倉を掴み、橋の手摺りに叩きつける。まるで子供のように喚きながら、顔を真っ赤にして。
涙と鼻水が溢れ、いつもの凛とした涼香とは程遠い顔だ。
こういう顔は、むしろ園田や実花の方が似合いそうだが、あいつらだってここまで酷くはならないだろう。
しかし涼香の怒りはとどまるところを知らない。両手で木根を締め上げ、今にも川に落とそうとしている。
「ちょ・・・・見てないで助けろよ!」
木根は足をばたつかせ、必死に落ちまいと抵抗している。
俺は後ろから涼香を羽交い締めにして、「落ち着け!」と叫んだ。
「木根を殺す気か!?」
「そうよ!殺してやる!」
「馬鹿かお前!ちょっとおかしいぞ・・・・・。」
「こんなん・・・・こんなんじゃ台無しじゃない!せっかく私からカッコよくプロポーズしようと思ったのに・・・・どうしてくれんのよおおおお!!」
涼香の力はとても強く、なかなか引き離すことが出来ない。
するとそこへ、もう一つ泣き声が響いてきた。
「みんな私も見てよお!せっかく川まで入ったのにい!」
そう叫んだのは実花だった。
いつの間にか川に降りていて、しかも膝まで浸かっている。
「何やってんだお前!?」
「私だってここに思い出があるんだよ?なんで涼香と木根君ばっかり贔屓するの!?」
「してないよ!涼香が暴れて困ってるだけだ!」
「そんなのいつもの事じゃない!もういいから私の思い出も見てよ!」
そう言ってさらに川の中へ進み、ワンピースの裾まで浸かった。
そして何かを捕まえる振りをして、「こうやって蛍を取って、君が好きだって言ってくれたの!」と喚いた。
「彼が私にプロポーズしてくれたのもここなのよ!」
「はあ?何の話だよ?」
「だから私の婚約者の話!彼がここでプロポーズしてくれたの!」
「婚約は破棄したんだろ!?だったら関係ないだろ!」
「だから思い出は良い事とは限らないって言ったじゃない!もういいからみんなこっち来てよ!私の思い出を見てえ〜!」
実花はさらに川の中へ進んでいき、腰の辺りまで浸かっている。そしてさらに進もうとした時、足を滑らせて転んだ。
水しぶきを上げながら、派手に沈んでいく。友恵が「実花ちゃん!」と叫び、手摺りに駆け寄った。
「実花ちゃん!実花ちゃん!」
「・・・・・・・・・。」
「大変!溺れてる!」
そう言って俺の服を引っ張り、「早く助けに行って!」と叫んだ。
「このままじゃ実花ちゃんが死んじゃう!」
「でもこのままだと木根が・・・・・、」
「木根君なんか落っこちてもいいから!」
「お前もめちゃくちゃ言うな・・・・。」
「だってそんなのただの痴話喧嘩じゃない!ほっとけばいいのよ!」
そう言って俺の服を引っ張り、「早く!」と喚いた。
「やめろ!服が破ける!」
「そんなもん弁償してあげるから!実花ちゃんを助けて!」
「こんな暗い川の中を助けに行けるか!俺まで溺れて・・・・・・、」
「また友達がいなくなってもいいの!?正也君の時みたいになってもいいの!?」
そう言われて、ビクンと身体が波打った。腹の底から熱いものが込み上げ、気がつけば涼香を離していた。
涼香はまた木根に掴みかかり、川に落とさんばかりの勢いで締め上げる。
しかし木根は、「俺はいいから実花を!」と叫んだ。
「早く助けに行ってやれ!」
「あ、ああ・・・・・・・・。」
「ボケっとするな!これは正也が与えてくれた罪滅ぼしかもしんねえぞ!」
木根はいきなり意味不明な事を言った。俺は「え?なに・・・・?」と聞き返したが、また友恵に引っ張られた。
「木根君の言う通りだよ!正也君は斎藤君を助ける為に、水の中に飛び込んだ!だから・・・・今度は斎藤君が助ける番よ!自分と向き合って!」
「な・・・・なんだって?いったい何を言って・・・・・、」
「いいから早く!」
友恵は俺の手を引っ張り、橋を戻って行く。そして川へ続く土手を駆け降りると、「実花ちゃん!」と叫んだ。
「今行くからね!待っててよ!」
そう言って俺の背中を押し、川の中に進ませた。
「私も行きたいけど、泳ぎは得意じゃないの!下手に行ったら私も溺れちゃうから、斎藤君お願い!」
友恵は真剣な目で見つめる。
しかし俺は、さっきこいつらに言われたセリフが、頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
でも今はそれどころじゃない。水面でもがく実花の悲鳴が聞こえて、今は助けに行くことだけを考えた。
友恵の言ったとおり、もう友達を失うのは御免だから・・・・・。
Tシャツを脱ぎ、靴も脱いで泳ぎやすい格好になる。そしてジーパンも脱いで、パンツ一丁になって川を進んだ。
いったいどれほどの深さがあるのか分からないが、もし俺まで溺れたら洒落にならない。
情けない格好だが、服が水を吸って溺れるよりはマシだ。
「実花!すぐ行くからな!」
しっかりと川底を踏みながら、慎重に急ぐ。足裏に小石が当たって激痛が走るが、それでも負けじと進んで行く。
そして腰まで浸かる深さまで来た時、実花に向かって手を伸ばした。
「掴まれ!」
溺れる実花に向かって手を伸ばすと、向こうも必死に手を伸ばして来た。
幸いそこまで深くはないので、足さえ踏ん張れば立っていることが出来る。
俺はどうにか実花の手を掴み、力任せに引き寄せた。
「おい!大丈夫だ!もう大丈夫だから!」
「あ・・・ああ!ああ・・あああ・・・・・。」
実花はパニックになっていて、足が着くはずなのに立つことが出来ない。
俺は両手で抱きかかえ、素早く岸の方へ戻った。
「大丈夫だ。もう大丈夫だから。」
「し・・・・死ぬ・・・・・。」
「死なないよ。死んだりしない。」
岸へ運び、草の上に寝かせる。実花は肩で息をしていて、死人のように真っ青になっていた。
目は見開き、口は鯉のようにパクパクさせて、心ここにあらずという顔だった。
「実花ちゃん!大丈夫?」
友恵が駆け寄り、心配そうに肩を抱く。実花はただ震えるばかりで、スッと涙を流した。
「し・・・・・死んじゃうところだった・・・・・。怖かったよお・・・・・。」
「なんで川の中に入るのよ!こんな暗いんだから危ないよ。」
「だ・・・・だって・・・・私の思い出が・・・・・。」
「思い出の為に死んだら意味ないじゃない。生きてるから思い出があるんだよ。無茶なことしちゃダメよ・・・・。」
友恵は背中を撫でてやり、「とにかく車に戻ろう」と言った。
「涼香に家まで送ってもらお。今日はもう帰った方がいい。」
そう言って実花を立たせ、支えながら歩いて行く。
二人は土手を上がり、車の傍に行く。実花は崩れ落ちるように膝をつき、ぽつりと呟いた。
「さ・・・・斎藤君と・・・・同じことしちゃった・・・・。溺れて死んじゃうところだった・・・・。」
そう言って俺を見上げ、「助けてくれてありがとう・・・・」と瞳を揺らした。
「怖かった・・・・・ほんとに死ぬかと思った・・・・・。」
また涙が流れ、俯いて顔を覆う。
俺は何も言わずに実花を見つめ、そして友恵に視線を移した。
「・・・・さっきから何なんだ?俺が溺れたとか、正也がそれを助けたとか・・・・。いったい何の事だよ?」
問い詰めるように尋ねると、友恵は「うん・・・・」と頷いた。
「もう話した方がいいかもね。これ以上隠しても意味がないし、それに最後はあそこへ行くつもりだったから・・・・・。」
「あそこ?どこの事だよ?」
「・・・・・貯水塔。」
「貯水塔?それって正也が亡くなった、あの貯水塔のことか?」
「そう・・・・あの白い貯水塔。」
友恵は言ってしまったという風に俯き、実花の背中を撫で続ける。
俺は意味が分からず、「それってどういう事か詳しく・・・・・、」と尋ねようとした。
その時、何かが川に落ちる音が聞こえて、まさかと思って振り返った。
「木根!落ちたのか!?」
そう言って橋に戻ると、そこには木根がいた。
「ああ・・・・無事だったか。」
ホッと息をつくと、木根は俺の胸倉を掴んだ。
「涼香が落ちた!」
「は?」
「勢い余って自分から落ちやがったんだよ!」
「・・・・・お前が落としたんだろ?」
「バカ言うな!嫁さんになる女を落とすわけねえだろ!」
木根は必死に弁明するが、服装は乱れていて、どう見ても揉み合った後だった。
「ほら、ボケっとしてないで助けに行くぞ!」
そう言って一目散に走り出す。しかし土手を下りようとした時、涼香は自力で岸に這い上がって来た。
「アンタあああああ!よくも落としたな!婚約者を殺すつもり!?」
鬼の形相で叫び、しかしすぐに子供のように泣き出す。
「ヒドイ!ヒドイよあんた!プロポーズは横取りするわ、川に落として殺そうとするわ・・・・・あんたを殺して私も死んでやるううううう!」
「おい落ち着け!さっきのは不可抗力だ!」
「うるさい!結婚式なんてすっ飛ばして、葬式開いてやる!私と一緒に棺桶に入れてやるうううう!」
再びぐるぐるパンチを炸裂させながら、「うわあああああああ!」と襲いかかる。
木根は本気で怯え、「ふざけんな!」と逃げ惑った。
どうやらこいつらは、本心をぶつけ合うと喧嘩になるらしい。
お互いに傍にいたいのに、目と目が合うと争いが起こる。
それを回避するには、背中を向けて寄り添うしかないようだ。
木根が本気になれば涼香が引き、涼香が本気になれば木根が引く。
ある意味では、とてもバランスの取れた夫婦になるかもしれない。
しかし・・・・・そんな事はどうでもいい。今の俺には、周りをどうこう考える余裕などなかった。
《正也が俺を助ける為に、貯水塔に飛び込んだ・・・・・・。そんな記憶、俺には無いぞ・・・・。》
まだブルブルと震えている実花、それを慰める友恵、そして見苦しいまでに痴話喧嘩を続ける木根と涼香。
しかしそんな事はどうでもよく、俺は一人取り残された子供のように、じっとその場に佇んだ。
《やっぱり・・・・あの貯水塔で何かあったんだ。俺だけが忘れてる何かが・・・・。》
記憶の糸は未だ絡まっていて、正しく結ぶことが出来ない。
この絡まった記憶の中に、いった何が隠されているのか?
それを思い出そうとすると、黒くてべったりした何かが、手足に絡みつく感覚が襲って来る。
正しい記憶を呼び覚ますなと、頭のどこかから警報を発しているように。
思い出してはいけない、直視してはいけない何かが、絡まった記憶の中にある・・・・・。
月に照らされる川を見つめながら、記憶を正しく結ぼうと試みる。
しかしどうしても上手くいかない。触れられそうで触れられない、痛いほどのもどかしさを感じるばかりだった。
消えてしまった蛍を掴むように、ただ虚しさだけが押し寄せていた。


            *****


ついさっきまでの出来事を思い出していると、いつの間にか心が落ち着いていた。
まるで子供の様に喚く涼香、それに怯える木根、そして相変わらず自己中な実花。
順々にあの時の三人の顔を思い出すと、なんだか可笑しくなってきた。
馬鹿な思い出ほど気持ちを落ち着かせるものはなく、今日の出来事は、この先もきっと俺を笑顔にしてくれるだろう。
しかし思い出に浸っているだけでは、前に進めない。
今は腹を括って、この貯水塔の中に入るしかない。なぜなら・・・・ここに俺の正しい記憶があるのだから。
俺以外の全員が知っている、11年前の夏に起きた本当の出来事。
正也が死んだ真実。俺の間違った記憶に埋もれた真実。
それを確かめる為に、俺は行かなければならない。
その為に、みんながこうして集まってくれた。そしてその為に、思い出巡りという企画を開いてくれた。
この俺を、11年前の夏と向き合わせる為に。
じっと貯水塔を見上げ、その姿に圧倒されて俯いてしまう。
木根がポンと肩を叩いて、「んな不安になるな」と言った。
「こうしてみんな集まったんだ。お前一人で行くわけじゃねえんだぞ。」
そう言ってポンポンと肩を叩き、「ここへ入るのは久しぶりだなあ」と見上げた。
「今来ても不気味な感じがするよな。よくこんな場所へ肝試しに行こうと思ったもんだ。」
すると涼香も頷き、「あん時は若かったよねえ」としみじみ言った。
「あれからもう11年か。長いような短いような・・・・・中途半端な時間だよね?」
そう尋ねると、実花が頷いた。
「私は短いと思うな。だってまだ30になってないもん。」
「どんな理屈よそれ?」
「だって30過ぎたら、女の人生が変わるんだよ?だからそれまでに結婚したかったの。でも婚約は破棄しちゃったし、誰か良い人いないかなあ・・・・。」
そう言って寂しそうに俯くと、佐野がチラチラと視線を送った。
「ここにお前を好きな男が一人いるぞ。」
園田が笑いながら佐野の背中を押す。
「こいつまだ諦めてないんだ。」
「お前!余計な事を・・・・・、」
佐野は怒り、慌てて実花から目を逸らす。
「・・・・いや、その・・・・なんかすぐに諦めるなんて出来なくて・・・・。」
バツが悪そうに言って、実花から離れて行く。
木根が「こんな女のどこがいいんだか・・・・」と呆れ気味に言い、園田も頷いていた。
「おうデブ。お前も涼香のことは諦めるんだぞ。もうじき俺の嫁さんになるんだからな。」
「わ・・・・分かってるよ!そんなことしたら不倫になるだろ!」
園田は顔を真っ赤にしながら言い返す。それを聞いた涼香は「不倫て・・・・あんたが不倫て・・・・」と、何とも言えない顔をしていた。
11年経っても、こいつらは相変わらずだ。まるであの頃のまま時間が止まっているように、胸を突く懐かしさがこみ上げて来る。
すると友恵が「みんな変わらないでしょ?」と笑った。
「みんなあの時のまま。良い所も悪い所も、一つも変わってない。」
「・・・・・そうだな。きっと11年なんて、大した時間じゃないんだろうな。人が変わるには、もっと時間が要るんだよ。」
そう答えると、「私はそうは思わないな」と返してきた。
「人が変わるにはキカッケが要ると思う。それが無ければ、何年経っても同じままじゃないかな?」
「・・・・・そうかもな。でもそれって、正也が亡くなってから、俺は変わってしまったって言いたいんだろ?」
「そうだよ。斎藤君は斎藤君だけど、今と昔じゃ違う人間だと思う。もちろん悪い意味でね。」
「はっきり言うな。お前こそ変わったんじゃないの?」
「そうかもね。でも正也君を亡くして辛かったのは斎藤君だけじゃない。私も一緒だよ。それに他のみんなも・・・・。」
友恵は周りに目を向け、憂いのある表情を見せる。それは演技臭くもあったが、今の友恵の本心を表している。
「思い出巡りは、斎藤君の為に企画したの。たまたま思いついたみたいに言ったけど、でも元々これが目的だった。」
そう言って一歩前に進み、白くそびえる貯水塔を見上げた。
「だから・・・・来てくれてよかった。もし断られたら、斎藤君は一生今のままで、間違った思い出の中に生きることになる。
でもそれだけは嫌だった。だからこうしてみんなで集まって、斎藤君が変われるキッカケを用意したの。」
友恵の声は低く、それでいて淀みなく澄んでいた。頭のお団子を揺らしながら、ニコリと笑って見せる。
「だけど予定通りにはいかないもんね。だって一発目からつまづいちゃって、木根君たちが帰っちゃうんだもん。」
そう言って、喧嘩を続ける木根たちを見つめた。
「佐野君と園田君は殴り合っちゃうし、私は私でおじいちゃんを弔う為に、銭湯に忍び込んじゃうし・・・・。斎藤君の為に企画したことなのに、みんな自分の思い出に浸っちゃって。」
そう言いながら俺の後ろへ周り、そっと背中を押した。
「行こう。今日の主役は斎藤君なんだから。最後にバシっと締めくくらなきゃ!」
友恵に押されながら、俺は貯水塔に近づく。あの時と同じようにフェンスが立ちはだかり、侵入者を拒むように上が反り返っていた。
「おい、俺が鍵開けてやるからな!」
木根はいつの間にか木に登っていて、あの時と同じように侵入した。
《本当に入るんだな・・・・またここに・・・・・。》
なんだか身震いがしてきて、あの嫌な感覚が襲って来る。
全身に重油をぶちまけられたような、重い液体が手足を絡める感覚が・・・・・。
鼓動が高鳴り、自然と息が荒くなる。
手足は鎖を巻き付けたように重くなり、目眩がして瞬きを繰り返した。
今日・・・・11年の時を経て、俺はあの夏に戻ることになる。
そこにあるのは後悔したくなるような記憶かもしれないが、ここまで来て足を止めたくはない。
鼓動はますます高鳴っていき、目の前のフェンスがゆっくりと開いた。
「ほら、見つからないうちに中へ入ろうぜ。」
木根は中へ向かって顎をしゃくる。それと同時に、友恵が背中を押した。
足が動き、貯水塔の敷地内へ入る。頭のどこかで止まっていた時間が、スイッチを押したように回り始めた。

取り残された夏の中へ 第十一話 背中合わせの二人(1)

  • 2015.07.19 Sunday
  • 15:08
JUGEMテーマ:自作小説
目の前に、闇を切り裂くような塔が立っている。
白く、真っ直ぐ、夜空を突き刺すようにそびえていて、不必要なまでに足元に立つ者たちを威圧している。
いや・・・違うな。これはただの思い込みだ。
なぜなら無機質なこの貯水塔は、ただここに立っているだけだからだ。コンクリートの塊は、誰も威圧したりしない。
問題なのは、威圧されていると思う俺たちの方で、もっと問題なのは、この塔に恐怖を抱いている俺自身だ。
同窓会のノリで始まった思い出巡りは、一発目からつまづき、なし崩し的にお開きになった。
しかし俺と友恵、そして佐野と園田は、思い出巡りを続けた。
佐野と園田は殴り合いを演じ、誰もいない真夜中の公園で拳を交わした。
友恵は廃館になった銭湯へ向かい、四年の時を経て祖父を弔った。
そしてこの企画の言い出しっぺのた実花は、大きな爆弾を置いて逃げ帰った。
木根は思い出巡りなど下らないと意地を張り、涼香は相変わらず木根と実花に振り回されて、一緒に帰って行った。
そうやってバラバラに去っていったみんなが、また集結している。
この白くそびえる貯水塔の元に、思い出巡りの締めくくりとして集った。
実はここへ来る前に、また面倒臭い出来事があった。
それは木根と涼香、そして実花が関係していて、この三人もまた、思い出巡りを継続する羽目になったのだ。
俺は肩を上下させ、一つ深呼吸をする。
この貯水塔へ入るには、まず心を落ち着かせる必要がある。
そして間違った記憶でもいいから、鮮明に思い出す必要がある。
その為には少し時間が必要で、さっきまでの一悶着を思い出すことにした。
木根と涼香、そして実花との思い出巡りを・・・・・。


            *****


廃館になった銭湯で、友恵の祖父を弔った。
それと同時に、俺は自分の記憶に疑問を抱くようになった。
高校の頃、みんなでここへ来て、風呂に入った。そして子供が溺れて死にかけた。
俺は完全この出来事を忘れていて、この銭湯へ来てようやく思い出した。
かなり衝撃的な出来事だったのに、どうして忘れていたのか?
それは記憶を封じ込めていたから。少なくとも、友恵が言うにはそうらしい。
俺にはあるトラウマがあって、その事とここの出来事を重ねて見ているのだと。
もしその言葉が正しいとするなら、俺は間違った記憶を信じていることになる。
あの日、正也は俺に煽られ、貯水塔へ飛び込んだ。
あいつは泳ぎが得意だったから、溺れるなんて微塵も思っていなかった。
しかしプールや海で泳ぐのと、暗い貯水塔の中へ飛び込むのとではわけが違う。
例えば足を滑らせ、溜池に落ちて亡くなる人がいる。
プールなら縁に、海なら浜に戻れば陸に上がれる。
だけど滑らかな、そして勾配のついたコンクリートの囲いは、容易に登ることは出来ない。
それに濁った水は視界を奪い、そのせいで冷静な判断力を欠く。
そして服を着ているというのが、溺れる一番の原因だろう。
水を吸った服は身体に張り付き、自由を奪う重りになる。
どんなに泳ぎの達者な人間でも、重りを付けて自在に泳ぐことは出来ないだろう。
あの日、貯水塔に飛び込んだ正也は、溜池で溺れる人間と同じだった。
薄暗い中で視界を奪われ、水は重油のように黒く纏わりつく。
服は水を吸い、その分体力が奪われる。やがて冷静な判断力も失われて、目の前に梯子があるのに気づかない。
ただ手足をばたつかせ、力尽きるの待つしかなくなる。
そしてとうとう限界を迎えて、水の中に沈んでいった。
俺の記憶では、正也はそうやって死んだことになっている。
でも・・・・もしこれが間違った記憶だとしたら?あの日、あの貯水塔で、まったく違う出来事が起きて、そのせいで正也が死んだのだとしたら?
・・・・・今の俺には分からない。ただ一つ確かなのは、きっと俺の記憶は正しくないのだろうということだ。
友恵に促され、四角い風呂を後にする。
脱衣所を抜け、ロビーを抜け、カウンターを過ぎて入り口に向かう。
友恵は俺の背中を押し、「そこで待ってて」と言った。
内側から鍵を掛け、ロビーの向こうへ消えていく。そしてしばらくすると、野天風呂のある方から走って来た。
どうやらまた壁を登ったらしく、そして着地にも失敗したらしい。
スカートの裾が汚れ、手の甲に擦り傷が出来ていた。
「また転んだのか?」
「ちょっとね。でも全然平気。」
「別にわざわざ鍵なんか掛けなくてもよかっただろ。」
「ダメだよ。中に入ったってバレちゃうじゃない。」
「でも俺たちだって分からないだろ?」
「・・・・・そうだね。」
友恵は納得したように頷き、手の甲をさすった。
大した怪我ではないが、少しだけ血が滲んでいる。
「痛いか?」
「ううん、平気。」
そう言って傷ついた手の甲を振って見せる。
俺は銭湯を振り返り、人気の無いその佇まいを見つめた。
昔は賑わっていたのに、今は誰もいない。あんなに儲かっていたのに、どうして潰れてしまったのか?
俺は「なあ?」と尋ねた。
「どうしてここは潰れたんだ?」
「ああ、それはね・・・・・、」
さっ尋ねた時は何も答えなかったのに、今はすんなりと口を開いた。
「ここって確かに良い銭湯だったんだけど、ちょっと事故が多かったのよ。」
「事故?」
「うん。ほら、四角いお風呂で子供が溺れたとか、私のおじいちゃんが水風呂で亡くなったとか。」
「なら・・・・あの子は亡くなったのか?」
「ううん、助かったよ。当時の店長さんがすぐに対応したからね。心肺蘇生して、救急車も呼んで。」
「そっか。でも助かったのに、責任を問われて潰れるもんなのか?」
「ううん、あの時は潰れなかったよ。だってあの時潰れてたら、私のおじいちゃんがここで亡くなることはないじゃない。」
「ああ・・・・そっか。」
「この二つ以外にも、色々と事故があったの。別に店がずさんだったわけじゃないよ。でも間が悪かったっていうか・・・・・店はちゃんとしてても、事故は起きる時はあるんだよ。」
「なるほどなあ・・・・事故が多かったから・・・・か。でもさ、さっき聞いた時は何で答えてくれなかったんだ?別に隠すような内容じゃないだろ?」
「だって先に喋っちゃったら、子供が溺れた事故のことも話さなきゃいけないじゃない。そうなると、斎藤君は自分で思い出すことはなかったでしょ?」
「まあ・・・確かに。」
なるほどと納得したものの、すぐにおかしな事に気づく。
「あのさ・・・・その言い方だと、わざと俺をここに連れて来て、あの事故のことを思い出させようとしたように思えるんだけど・・・・?」
そう尋ねると、「そうだよ」とあっさり答えた。
「そうだよって・・・・ここへ来たのはおじいちゃんの為じゃないのか?」
「それは理由の一つ。でももう一つ理由があるって言ったじゃない。」
「じゃあそのもう一つの理由が・・・・・俺に溺れた子供のことを思い出させる為だったと?」
「そういうこと。」
またあっさりと答え、「別に騙してここへ連れて来たわけじゃないよ」と弁明した。
「私の思い出の場所と、斎藤君のトラウマが関係してる場所が、たまたま同じだっただけ。」
「いや・・・俺のトラウマっていったい何なんだよ?だいたいどうして、俺が溺れた子供のことを忘れてるって知ってたんだ?」
顔をしかめながら尋ねると、「園田君のおかげ」と答えた。
「はあ?園田・・・・?」
「園田君がね、それとなく探りを入れてくれたの。ここへ来た時のことを覚えてるかって。」
「さ・・・・探りだって?」
「斎藤君は、大学の時にここへ来たことは覚えてた。でも高校の時にここへ来たことは忘れてた。それはきっと、溺れた子供のことを、自分のトラウマと重ねて見てるから。」
「ご・・・・ごめん・・・何言ってるかさっぱり・・・・、」
「だろうね。でもアレだよ、斎藤君が忘れてるのは溺れた子供のことだけじゃないんだよ。」
「は?」
「思い出巡りの一発目の時、木根君が沼へ落ちたでしょ?」
「ああ、実花が突き落としてな。」
「あれを見て何も思い出さない?」
「思い出さない?って・・・・・何を?」
「じゃあ佐野君と園田君が殴り合ったのを見て、これも何も思い出さない?」
「ああ、それは思い出したよ。俺だって正也と殴り合った。お前を巡ってな。」
「そこまでは覚えてるんだね。じゃあ・・・・三度目の殴り合いは?」
「へ?三度目・・・・・・?」
唐突なことを言われて、一瞬固まった。
「・・・・いや、俺と正也が殴り合ったのは二回だけだ。三度もやってないよ。」
「そっか。じゃあやっぱり忘れてるんだ。」
「なんだよそれ。思わせぶりな言い方だな。何か知ってるなら教えてくれよ。ていうか何を隠してるんだ?」
詰め寄って尋ねると、友恵は少しだけ眉をひそめた。
自分の知っていることを喋るべきか、言わないでおくべきか?とても悩んでいるようで、眉間の皺が深くなっていく。
するとそこへ一台の車がやって来た。
銭湯の駐車場の前に停まり、誰かが降りて来る。
暗くてよく見えないが、人影は全部で三人。ポールに張った鎖を越えて、こちらに歩いて来る。
そのシルエットから、一人は男、二人は女だと分かる。そして三つの人影が、真っ直ぐにこちらに歩いて来た。
俺は目を凝らし、「もしかして・・・・・、」と呟いた。
「あれ・・・・木根たちか?」
人影はだんだんこちらに近づいて来て、その姿がはっきりと浮かび上がる。
そして俺と目が合うなり、「よう」と手を挙げた。
「木根!それに涼香と実花も・・・・・、」
「んなビックリすんなよ。まだ企画の途中だろ?」
「企画?」
「思い出巡り。まだ俺たちの分が済んでねえじゃん。」
そう言って近くへ歩いて来て、俺の肩を小突いた。
「友恵から連絡があってな。まだ俺たちの分が済んでないから来いって。」
「友恵が・・・・・?」
俺は友恵を振り向き、「お前がこいつらを呼んだのか?」と尋ねた。
「うん。だって佐野君と園田君、それに私の分は終わったからね。ここまで来たなら、残りのメンバーもやりたいじゃない。」
「いや、でもわざわざ呼ばなくても・・・・。」
「だってこういうのって、タイミングを逃したら出来ないよ?きっと次にみんなで合う時は、思い出巡りをやろうなんて年じゃないと思うし。」
「えらい先の事まで考えてるんだな。次の同窓会は何年後のつもりだよ・・・・。」
「なら斎藤君は毎年帰って来てくれるの?」
「いや・・・・それは多分・・・・無いと思うけど・・・・、」
「だったらやっぱり今日しかないよ。みんなで集まれる機会なんて限られてるんだから。」
そう言ってニコリと笑い、廃館になった銭湯を振り返った。
「私はお終い。次は・・・・・誰にする?木根君?涼香?それとも実花ちゃん?」
友恵はくるりと振り返って尋ねる。すると木根が「じゃあ俺で」と手を挙げた。
「ちょっとここから離れてる場所なんだ。車出すから早く行こうぜ。」
そう言って歩き出し、ぼりぼりとケツを掻いた。
「照れてんだアイツ。こういうの苦手だから。」
涼香は小声で言い、「でも本当は嬉しいんだよ」と笑った。
「途中でうやむやになっちゃったからね。心の底では申し訳ないと思ってんのよ。」
「分かるよ。あいつはいつだって意地を張るからな。」
「まああんな態度だけど、付き合ってやってよ。友恵の言うとおり、次はいつみんなで集まれるか分かんないからさ。」
そう言って俺の肩をポンと叩き、自分も車に戻って行く。すると誰かが上着の裾を引っ張ってきて、ふと振り返った。
「・・・・・・・・・・。」
「実花。お前も行くのか、思い出巡り。」
「うん・・・・・。」
実花は泣きそうな顔で呟き、「さっきはごめん・・・」と謝った。
「なんか・・・・逃げるように帰っちゃって・・・・。」
「逃げるようにじゃなくて、逃げたんだろ?」
「でもでも!あのままあそこにいたら、もっと空気が悪くなると思って、それで・・・・・、」
「逃げたと?」
「うん・・・・・。」
実花は俯き、また「ごめんね・・・」と繰り返す。そして友恵にも「さっきはごめん」と謝った。
「私が言いだした企画なのに、ほったらしかにしちゃった。ほんとにごめん。」
「ううん、気にしてないから大丈夫だよ。」
「ほんと?」
「うん。だって私たちは私たちで、思い出巡りを続けてたから。こうやって銭湯にも来て、おじいちゃんを弔うことが出来た。だから怒ったりなんかしてないよ。」
そう言って笑ってみせると、実花はホッと安心したようだった。
「あのね、ずっと考えてたんだけど、思い出って良い事ばかりとは限らないよね?だから私は、ちょっと苦い思い出になるんだけど、そこへ行ってみようと思うの。」
実花はニコリと笑い、「場所は木根君と同じなんだ。ていうか涼香も一緒だと思う」と言った。
「なんだ?みんな同じ場所なのか?」
「場所はね。でもそこにある思い出は違うの。私のは苦い思い出で、涼香たちは良い思い出だと思う。ていうか・・・・良い思い出になると思う。」
「?」
「ふふふ、行けば分かるよ。」
思わせぶりな事を言って、実花も車に歩き出す。俺は友恵を振り返り、「?」と首を傾げて見せた。
「私・・・・なんとなく想像ついちゃったかな。」
友恵は実花の思わせぶりな言葉の意味を理解しているようで、「これは是非行かなくちゃ」と表情を引き締めた。
「斎藤君、これは見る価値あるよ。」
「ん?何が?」
「いつもと違う涼香が見られるかも。」
そう言ってニコリと笑い、俺の背中を押した。
「なんだよ?涼香のいつもと違う顔って。」
「まあまあ、見れば分かるから。かなりビックリするかもよ。」
「・・・・・なんだかよく分からん。」
友恵に押されながら、黒いワンボックスカーに歩いて行く。
中に乗り込むと、運転席には涼香が座っていた。
「なんだ?木根が運転するんじゃないのか?」
「だってこいつ酒入ってるもん。」
「お前だって飲んでたろ?」
「ん〜ん。私は飲んでないよ。コイツが飲むから、帰りは私が運転しなきゃいけないし。」
それを聞いて、もしやと思った。
「あのさ・・・・・お前らって、もしかして同棲してるの?」
「そうよ。半年ほど前からね。言わなかったっけ?」
「聞いてないよ。お前ら俺の知らないところでやれ結婚だの同棲だの・・・・・どうなってんだよ。」
「あんたがもっとこっちに帰って来てたら教えてるわよ。今度からはちゃんと同窓会に顔出しなさい。」
まるで母親のように小言を言い、ゆっくりと車を発進させる。
大きな車なのに、器用にハンドルを捌き、すいすいと細い路地を抜けて行った。
しばらく走り、夜中でも車が絶えない大きな国道に出る。それを右に曲がると、他の車を追い越しながらスピードを上げていった。
「お前もうちょっとスピード落とせよ・・・・・。」
「何ってんのよ、もう夜中の二時半よ?ちんたらしてたら夜が明けちゃう。」
「お前も木根に似てきたな。性格が短気になりつつあるぞ。」
「元々よ。」
前を行く車を追い越し、大きな川に架かる橋を越える。
そしてしばらく走って、パチンコ屋の傍の交差点を右に曲がった。
そのまま道なりに15分ほど走り、また交差点が出て来る。それを左に曲がると、小さな川を渡す橋に差し掛かった。
橋の手前には左に曲がる路地があり、その傍に『蛍の舞う川』と立て看板があった。
「蛍?これを見に来たのか?」
そう尋ねても、誰も返事をしない。涼香は運転に集中し、木根はウトウトと頭を揺らしている。
実花は窓に張り付き、じっと外を眺めていた。
すると友恵が「もう蛍の時期は過ぎたよ」と言った。
「蛍は六月の上旬から中旬くらまで。七月の終わりには見られないよ。」
「へえ、そうなんだ。詳しいな。」
「種類によるみたいだけどね。ここの蛍は今は見れない。」
「お前が虫博士とは知らなかった。」
そう言ってからかうと、友恵は何も答えずに微笑むだけだった。
細い路地は、川に沿うように伸びている。そしてしばらく走ると、また小さな橋が出て来た。
涼香は近くの空き地に車を止め、「着いたよ」と木根を揺すった。
「んん?・・・もういいよ・・・・眠い・・・・。」
「バカ。さっさと起きな。」
パチンと頭を叩かれ、「面倒くせえなあ〜・・・・」と背伸びをする。
そしてドアを開け、心底面倒臭そうに車を降りて行った。
「そんなに眠いなら寝てればいいのに。」
そう呟きながら俺も降りて、暗い夜の中に立った。
目の前には川が流れ、小さな橋が架かっている。その向こうは草木の茂った深い山が広がっていた。
辺りには街灯さえなく、月明かりがほんのりと射している。
その明りを受けて、広大な田んぼと点在する民家が浮かび上がっていた。
「真っ暗だな。」
そう呟くと、友恵が「暗くないと蛍が見れないよ」と答えた。
「こういう場所じゃないと、蛍の光は掻き消されちゃうの。」
「そうなの?」
「淡い光だからね。でもだからこそ幻想的なんだ。」
友恵は川に目をやり、「今年は見れなかったな」と寂しそうに言った。
すると木根が「俺も今年は来てねえな」と言い、橋の方へ歩いて行った。
涼香は黙ってそれに続き、二人して橋の真ん中で立ち止まった。
「ここがあいつらの思い出の場所か?」
「そうよ。だって木根君はここで涼香に告白したんだもん。」
「そうなのか?」
「蛍の舞う時期に来てね、それを眺めながら、涼香に付き合ってほしいって言ったの。」
「マジかよ・・・・。あいつがそんなロマンチックなことするなんて・・・・。」
木根の意外な一面を知り、興味を惹かれて二人を見つめた。
初夏には蛍の舞う川。その川の橋で、もうすぐ結婚する二人が佇んでいる。
木根も涼香もそこそこ美形なので、こういうシチュエーションだとそれなりに画になる。
しかし二人の性格は、その美形な顔とは裏腹に、かなり尖っている。
もちろん悪い人間ではないが、その口からは心を抉るような言葉が飛び出してくる時がある。
俺は二人の邪魔をしては悪いと思い、少し離れた場所で見つめていた。
すると涼香が「何離れてんの?こっちにおいでよ」と笑った。
「別に変な気は遣わなくていいからさ。」
「でも・・・・・なあ?」
そう言って友恵を振り返ると、「近づける雰囲気じゃないよね」と頷いた。
「なんか二人だけの世界に浸ってる感じ。邪魔しちゃ悪いかなって。」
「だったらコイツと二人だけで来てるわよ。二人の世界に浸ってちゃ、思い出巡りの意味がないじゃない。」
そう言って手招きをするので、二人の傍へ近づいた。
隣に並び、同じように橋の真ん中に佇む。しばらく誰も喋らず、月明かりを受けた川面を眺めていた。
流れる川はゆるやかに水面を揺らし、それにつられて月明かりも揺れる。
もしここに蛍が舞っていれば、それは見事と言うべき幻想的な景色になるだろう。
誰もが情緒に浸り、もしここに蛍が舞っていたらと想像する。
言葉は交わさずとも、美しい景色の前では、きっと人は同じ気持ちになるのだろう。
するとその情緒を破るように、木根が口を開いた。
「ここでさ・・・・三年前に涼香にこう言ったんだ。『俺でよかったら付き合ってやる』って。あんときゃ蛍が飛んでて、すげえ綺麗だった。」
しみじみとそう言うので、俺は尋ねた。
「それは蛍のことか?それとも涼香のことか?」
「ん?何が?」
「だから・・・すげえ綺麗だったていうのは、蛍のことか涼香のことか聞いてんの。」
「ああ、どっちも。」
木根は少々照れくさそうに言い、すぐに顔を逸らした。
「俺さ、口が悪いだろ?だからコイツに綺麗だとか好きだとか、あの時以来言ったことがねえんだよ。いっつも『皺増えたな』とか『今日ヤッていい?』とかそんなんだから。」
「最低だな。」
「でも好きなんだよ。一度フッたけど、あんときゃカッコ付けてたんだ。ほんとは嬉しかったクセに、意地張って断っちまった。それ以来、どうやって自分の気持ちを伝えようかって悩んでた。だからここを選んだんだ。」
心なしか木根の声が優しくなり、月明かりを映す川に身を乗り出す。
「昔親父に連れられてここへ来たことがある。あれはまだ中学に上がったばっかの頃で、俺と親父、それと妹の三人で来たんだ。妹は蛍を追っかけて、川に落っこちた。親父が助けに入って、二人ともびしょ濡れだったな。俺は橋の上からそれを見てて、ゲラゲラ笑ってた。」
木根が珍しく自分のことを語る。きっと景色の情緒に負けて感傷的になっているんだろう。
でも・・・・すごく新鮮だった。長い付き合いの友達なのに、コイツの昔のことはほとんど知らない。
中学に上がる前に母親を亡くした事は知ってるが、細かい話は一切しなかった。
だから誰もが耳を傾けた。俺も友恵も、そして実花も、真剣な顔で耳を傾ける。しかし涼香だけは冷静な顔をしていて、目の前の景色に目を向けていた。
「今思えば、あれが家族三人で出掛けた最後の思い出だな。俺は今ほど口が悪くなくて、妹はまだまだ可愛らしさがあるガキだった。親父は仕事と子育てを両方こなして、俺たちに辛い思いはさせまいとしてた。でもなあ・・・・男手一つで子供を育てるのって・・・・やっぱ辛かったんだろうなあ・・・・。」
そう言って息を吐き、舌で唇を湿らせた。眉間にはわずかに皺が寄り、ここではないどこかを見つめるような目をした。
「俺と妹の面倒を看なきゃいけないから、仕事の時間が削られるんだよ。もちろん俺たちだって、自分で出来ることはちゃんとやったんだぜ。でもやっぱ子供だけじゃ限界があるし、特にどっちかが風邪引いた時なんか最悪だ。親父は仕事を休んで看病して、そんで徹夜のまま仕事に行ったりしてた。そんなこと続けてるとさ、やっぱ会社から良く思われねえじゃん?だから『そんなに子供が大事なら、もう来なくていい』って言われて、とんでもねえド田舎に飛ばされそうになったわけよ。降格までされて、給料も減らされて、そんで俺たちを抱えて、ここより田舎へ飛べって言われたんだ。」
「そりゃ酷いな。家の事情だから仕方ないってのに・・・・・。」
「まあ今でいうブラック企業ってやつだったんだ。残業代出さないこともしょっちゅうだったみたいだし、酷い時なんか四カ月休みがなかった。でも辞令を拒否したらクビになる。だから・・・・すっげえ悩んでたよ。」
「親父さん・・・・結局どうしたんだ?」
「辞めた。辞令を拒否してな。そんで次の仕事を見つけなきゃいけないってんで、苦労してたな。あの時でもう50だったし、新しい仕事なんか早々見つかるわけがねえ。でも収入が無いんじゃ話にならないから、とりあえずアルバイトでもいいからってんでコンビニで雇ってもらったんだ。でも続かなかった。ブラックといえど、今までそれなりの会社でバリバリ働いてたんだ。それが急にコンビニのバイトに成り下がって、しかも学生のガキに教えを乞わなきゃいけない。今までは自分が教える立場だったのに、新入社員と大差ない年齢のガキに敬語で挨拶しなきゃならなくなった。そういうのが割り切れなかったんだろうなあ・・・・・。」
「誰だってプライドがあるよ。50にもなって学生のバイトに気い遣うなんて、多分俺だって出来ない。」
「んなこと分かってるよ。でも親父には俺と妹がいた。だから新しい仕事を見つけては辞めて、辞めては次の仕事を探して・・・・・。子供を養う責任感と、仕事に対するプライドの隙間で揺れてたんだ。そんなことを繰り返してると、いつかは働く気も失せるってもんだ。親父はずっと家に籠りっぱなしになって、うつ病みたいになっちまった。」
「じゃあ・・・・生活はどうしたんだ?収入が無いってことは、生活保護でも受けてたのか?」
「いいや、ジジイとババアが援助してくれた。親父の方の親はもう亡くなってるから、お袋の方のジジババどもだな。」
「ジジイとババアかか。辛辣な言い方だけど、もしかして仲が良くなかったとか?」
「ああ。親父とお袋が結婚する時に一悶着あってな。それ以来ほとんど連絡を取ってなかった。でも状況が状況だから、俺から頼んだんだよ。『助けてほしい』って。疎遠の孫から電話が掛ってきて、最初は驚いてたな。でも事情を話すと、そんな親父ほっといてこっちに来いって言ってくれた。俺と妹とまとめて面倒看てやるからって。」
「で・・・・向こうにお世話になったと?」
そう尋ねると、「お前はアホか?」と笑われた。
「俺はずっとこっちにいたろ?ジジババの家には行ってねえ。」
「ああ・・・・そうか。」
「俺も妹も、親父のことは慕ってたんだ。お袋を亡くして、でもちゃんと俺たちを育てようとしてくれた。辛いこともあったろうに、グッと堪えてな。だから金だけ援助してもらったんだよ。孫が二人、頭を下げて頼めば、しぶしぶ頷いてくれた。」
「なら良かったじゃないか。親父さんだってしばらく休めば、また働こうって気になるだろうし。」
「ああ、その通りだ。ジジババのおかげでちっとは生活が楽になって、親父は精神的に余裕が出来た。だけど今さら誰かにコキ使われるのも嫌だってんで、自分で会社を興したんだ。重機をレンタルする会社でさ、昔の職場のコネを使って、ちょこちょこ仕事を貰ったんだ。簡単な仕事は俺と妹も手伝ったよ。一年もすりゃどうにか飯が食えるようになってきて、ジジババに頼らなくても良くなったってわけだ。」
「ああ、なるほど。それでお前は今の仕事をやってんだな?」
「そう。社長はまだ親父だけど、70になったら引退するって言ってたからな。後は俺に任せるつもりらしい。」
「そうか。なら結婚したら、涼香は社長夫人だな。」
冗談を飛ばすと、木根も可笑しそうに笑った。
「仕事は上手くいってる。親父も元気だし、妹は去年結婚して、家を出て行った。」
「ならハッピーエンドだな。お前だってもうじき結婚するわけだし。」
そう言って肩を小突くと、木根は憂いのある顔で微笑んだ。
「ああ、確かにハッピーエンドだ。でもな、俺たち家族は、ここへ蛍を見に来て以来、三人揃って出掛けることはなかった。なんでか分かるか?」
突然真剣な顔になり、刺すような視線を向ける。俺は少し考えたが、良い答えが浮かばなかった。
「分からない。なんでだ?」
「もうちょっと考えろよ。せっかくしんみりするシチュエーション作ってんのに。」
「なんだよ?今までの悲壮な感じは演技か?」
「半分な。青臭い企画してんだから、こういう演出もいるだろ。」
そう言ってまた微笑み、川に視線を戻した。
「実はな・・・・親父が一番辛い時期に、こう言ってるのを聞いちまったんだ。『あいつらさえいなきゃ、もっと楽なのに・・・・』って。」
「あいつらって・・・・お前と妹のことか?」
「それ以外にねえだろ。あの時・・・親父は本当に参ってた。俺たちを育てる責任感と、仕事が続かない焦り。板挟みになって、にっちもさっちもいかなくなって、ほとんどうつ状態だった。その後に引きこもりみたいになっちまって、ポロっとそう呟いているのを聞いちまったんだ。」
「それは妹も?」
「ああ、横にいたからな。別に親父にとっちゃなんて事ない愚痴だったと思う。本心から俺たちが要らないって思ったわけじゃねえだろうさ。でもな、子供の時に親のそんな愚痴聞いてみろ。ああ・・・俺たちのせいで、お父さんは苦しんでるだなあって、本気で傷つくもんだ。だから俺はジジババに電話を掛けたわけだ。」
「じゃあその時の傷が、今でも残ってるのか?それで家族揃って出掛けることは無くなったと?」
「そうだよ。他人から見りゃ下らない事かもしれないけど、でもあの時の言葉は胸ん中に残ってる。もちろん妹もだ。だから親父に誘われたって、三人で出掛けることは無かった。俺たちと出掛ける暇があるなら、自分のことを優先したいんじゃないか?そんな風に考えるようになっちまったからな。」
木根は面白くなさそうに言い捨て、唇を歪めた。そして小さく舌打ちをして、橋の手摺りにもたれかかった。
「もちろん今となっちゃ、別段気にしてねえよ。だけど俺も妹も成人して、親父も仕事が忙しくなった。そうするとな、今度はそれぞれの時間が出来て、家族揃って出掛ける事なんて無くなった。今思えば・・・・・あんな愚痴聞かなきゃよかったって思うよ。そうすれば、もう一度三人でここへ来れたかもしれないのに・・・・。」
そう言って空を眺め、月に照らされる雲を目で追った。
「怖いよなあ・・・・言葉って。辛い時や意地張ってる時ってのは、本心とは違う言葉が出て来る。でも自分が言う分には良いんだよ。それが本心じゃないって分かってるから。だけど誰かに聞かれた時が怖い・・・・。本心でもない言葉を、本心だと誤解されるから・・・。」
表情は穏やかだが、その口調には重たい何かが宿っている。
この言葉は、他の誰かに言っているのではない。きっと自分自身に言っているのだろう。
自分で投げた言葉を自分で掴み、そうすることでより深く自分に言い聞かせている感じだった。
「親父は何気ない愚痴のせいで・・・・・俺はしょうもない意地のせいで、本心とは違う言葉を口にした。そのせいで親父と俺の間に溝が出来て・・・・・そのせいで俺と涼香の間にわだかまりが出来た。あの時・・・・好きだって言われて本当は嬉しかったのに、本心じゃない言葉を返しちまった。だからここへ来て、素直になろうと思った。そうすれば、今度は自分の口から本心を言えると思って・・・・。」
そう言って涼香を振り向き、「悪かったな、あの時は意地張っちまって」と謝った。
「お前も知ってる通り、俺はこんな性格だから、よっぽどのことが無い限り素直になれないんだよ。でも・・・・三年前にここで気持ちを伝えた時、お前はそれを受け取ってくれた。あの時は本当に嬉しかったよ。だから・・・・・もう一度伝えたいことがあるんだ。」
木根の顔から笑みが消え、まるで戦場に赴く兵士のように険しくなる。
二つの目は涼香だけを見つめていて、瞳には月明かりが揺らいでいた。
「俺たちは結婚する。それはもう決まってる事だけど・・・・・でもプロポーズはまだだったよな。」
少し恥ずかしそうに言いながら、それを誤魔化すように頭を掻く。涼香は表情を崩さずにそれを聞いていて、彼女の周りだけ時間が止まっているように固くなっていた。
「その・・・・お前からプロポーズに近いような言葉を貰ったけど、やっぱこれは違うよな。本当は俺から言わなきゃいけなかったんだ。ちゃんと言わなきゃと思ってたんだけど、なんか言葉にしづらくてな。」
もはや恥ずかしさを通り越し、かえって開き直っているような感じだった。しかしこの方が、木根らしいといえば木根らしい。
真っ直ぐに涼香と向き合い、必死に言葉を探しているのが分かる。普段使わない脳の回路を使っているようで、眉間の皺が谷のように深くなっていた。
「・・・・なんかカッコいい言葉が出て来なくて悪いんだけど・・・・・俺と結婚して欲しい・・・・。そんで家族が増えたら、その時はみんなでここに来たいんだ。昔・・・俺と妹と親父とで来た時みたいに、俺とお前、そんで俺たちの子供で・・・・ここで蛍を眺めたい。」
とても・・・・とても素直な言葉だった。眉間の皺は消え、心に引っ掛かった苦い思い出が、その言葉と共に外へ飛び出していくように感じた。
父への想い、家族でもう一度ここへ来られなかったことへの寂しさ、本心ではない言葉のせいで、涼香を拒否してしまったことへの後悔。
降り積もった過去への思い出が、重荷を外されたように飛び去って行く。
プロポーズの言葉は真っ直ぐに涼香に届き、一瞬だけ彼女の唇が動いた。
表情は相変わらず固く、喜んでいるのか驚いているのか分からない。しかしここまで固くなる涼香を見るのは初めてで、いったいどういう言葉を返すのか興味があった。
「・・・・・・・・・・・・。」
涼香は黙ったまま俯き、手持無沙汰に腕を掻く。おそらく・・・・今一番驚いているのは涼香だろう。
まさか木根の方からプロポーズしてくるとは思わず、しかもその言葉のロマンチックなこと・・・・。
きっと驚きを通り越してパニックになっているはずだ。
涼香がどう返すのかじっと見ていると、友恵が背中を突いて来た。
「・・・・意外だね、木根君の方からあんなこと言うなんて・・・・・。」
小声でひそひそと言い、俺と同じく興味深そうに二人を見つめる。
「これ・・・・ちょっと私の予想してた展開と違う・・・・・・。」
「ん?どういうこと・・・・?」
「私はね、てっきり涼香の方からプロポーズすると思ってたの・・・・・・。あの子って白黒はっきり付けたい性格だから、きちんとプロポーズの言葉を伝えたかったはずよ・・・・。でも先に木根君に言われちゃった・・・・・。きっと今は・・・・・・、」
「うん、分かるぞ。きっと今はパニックになってるだろうな・・・。」
「ううん、そうじゃなくて・・・・・普段見られない顔が見られるかもよ。」
「ああ・・・・それさっきも言ってたな。いつもと違う顔になるかもって。それってどういう・・・・・、」
そう尋ねようとした時、涼香が動いた。
木根に近づき、いきなり脛を蹴り飛ばしたのだ。
鈍い音が響き、木根は脛を抱えて飛び跳ねる。
「はあ!?何してんだお前!!」
当然過ぎるその反応に、皆が同じことを思う。「なんで?」・・・・と。
涼香はもう一発蹴りを入れ、木根は堪らずしゃがみこんだ。
「おいコラ!人がせっかく良い雰囲気でプロポーズしたのに・・・・・・、」
そう言い返そうとした時、涼香はガシっと木根の髪の毛を掴んだ。
そして眉間に深い皺を寄せ、喧嘩を売るかのように顔を近づけた。
「私が・・・・・私から言おうと思ってたのに・・・・・。」
震える声で言いながら、鬼のように顔を歪める。木根は呆気に取られ、口を開けたまま固まっていた。

取り残された夏の中へ 第十話 11年前の約束(2)

  • 2015.07.18 Saturday
  • 13:17
JUGEMテーマ:自作小説
正也と友恵が、お互いをかばい合っている。
「俺が悪い」「ううん、私も悪い」
俺は白けた気分になり、黙って立ち上がった。
「斎藤君・・・・・。」
部屋を出て行こうとする俺に、友恵が声を掛ける。でも俺は振り向かない。
振り向いたところで、どうせ憐れみの視線が待っているだけだ。
二人して同情の目を向けて、俺が何か言い返せば、またお互いに庇うような事を言い始めるに決まっている。
「俺が悪かった」、「ううん、私の方にも責任がある」
そんなやり取りが頭に浮かび、うんざりしてドアを開けた。
そして部屋を一歩出た時、ふと暗い感情が芽生えた。
《もうこんな奴らを友達とは思えない・・・・。俺だけみじめな気持ちで帰るなんて、納得いかない・・・・。》
暗い感情が首をもたげ、後ろの二人を振り返る。
思った通り、二人は同情と憐れみの目を向けていた。
正也はじっとこちらを見つめ、何かを言いたそうにしている。しかしその言葉を飲み込むように、喉を鳴らした。
しかし友恵は立ち上がり、こちらへ歩いて来る。そして口を開いて、「帰らないで・・・」と手を取った。
「せっかくまた仲良くなれたのに、このままじゃ二度と仲直り出来ない気がする。だから・・・・ちゃんと話をさせてよ。」
そう言って少しだけ俺の手を引き、部屋へ戻そうとした。
しかし俺はその場から動かなかった。そして友恵の目を睨みながら、ヘラヘラと笑ってこう言った。
「最初から仕組まれてたんじゃないの?」
そう言うと、友恵は何のことか分からずに首を傾げた。
「正也はわざと俺に負けて、お前をフッた。でも二回目の戦いでは俺をぶっ飛ばして、お前と付き合うことになった。それって・・・・最初から予定通りだったんだろ?」
そう言って友恵を睨み、そして正也にも視線を飛ばした。
二人とも口を開けて固まり、同時に声を発した。
「違う!」
「違うよ!」
「いいや、絶対にそうだ。正也は俺を可哀想と思って、わざと負けた。でも友恵を諦める気なんてなかったんだ。
お前は友恵をフッたって言うけど、でもそれは嘘なんだろ?本当は告白された時に、そのまま付き合ったんだろ?」
「はあ?違うよ!何勝手なこと言ってんだよ!」
「いいや、そうに決まってる。でもそれだと体裁が悪いから、どうにかしなきゃと思った。だからもう一度俺と戦い、ボコボコにぶっ飛ばしたんだ。そうすれば、自分は晴れて友恵と付き合えるから。・・・・いや、違うな。元々付き合ってるんだから、胸を張って付き合えるようになったってことだ。」
「おい・・・・ふざけんなよ!そんな事するわけないだろ!」
正也は立ち上がり、胸倉を掴む勢いで詰め寄っった。
「俺はあの時、お前との約束を守って友恵をフッた。そんでお前がそれを知ったのは、木根と涼香が話してたの聞いたからだろ?
もしあの時友恵と付き合ってたら、涼香たちがそんな話するわけないだろ!」
「お前が嘘を吐いたからじゃないの?友恵をフッたって。」
「はあ・・・・?」
「それを涼香たちが信じて、あんな話をしてたんだ。そうに決まってる。」
「・・・あのな、ちょっと落ち着け。もう一度言うけど、さっきのは俺が悪かった。別にお前を傷つけるつもりじゃなかったんだ。俺が誤解したせいで、余計なことをつい・・・・・、」
正也は必死に弁明するが、俺はその言葉を遮った。顔を近づけ、半笑いの表情で言い返した。
「どうせ狭い付き合いなんだ。いつかは俺の耳にも入るから、それを想定して嘘を流したんだろ?」
「はあ?・・・・・お前なあ・・・・いい加減にしろよ。」
「そりゃこっちのセリフだ。最初から全部予定通りだったんだ。俺だけ惨めな思いをして、お前らだけが幸せだ。ふざけんじゃねえよ、もう友達でもなんでもない。」
正也を突き飛ばし、そのまま部屋を後にしようとした。しかし「待てよコラ!」と襟首を掴まれ、壁に叩きつけられた。
「お前ふざけんなよ!何勝手に決め付けてんだよ!?」
「決めつけじゃないだろ。筋が通ってるだろ?」
「どこがだよ!?全部お前の妄想じゃねえか!」
「そうやってムキになるってことは、認めてるも同然だろ?きっと友恵も共犯なんだ。俺を騙す為に、二人で演技してたんだろ?最初から全部予定通りだったんだ!俺だけが惨めで終わって、何も知らなかった!それでいいだろうがよ!」
消えていた怒りが戻って来て、口調が荒くなる。最後の方は、家じゅうに響くような声で叫んでいた。
正也は顔を真っ赤にして、俺の襟首を捻り上げる。そして拳を振り上げて殴ろうとした。
俺は咄嗟に顔を庇い、それと同時に友恵が止めに入った。
「ちょっとやめて!落ち着いてよ!」
友恵は必死に止めようとするが、正也はそれを振り払う。
そこへ正也のおばさんがやって来て、「何してんの!」と怒鳴った。
「大声出して何喧嘩してんの!?」
おばさんは俺たちの間に割って入り、正也を引き離した。
「この馬鹿!なんで友達に手えあげようとしてんのよ!」
「関係ねえだろ!引っ込んでろ!」
「関係あるから言ってんのよ!喧嘩したいなら外でやれ!家ん中でやったら承知しないよ!!」
おばさんは拳骨を振り上げ、正也を睨む。
「・・・・・・・・・・・。」
正也はしばらく俺を睨んでいたが、舌打ちをして背中を向けた。
そして叩きつけるようにドアを閉め、「さっさと帰れ!」と言い捨てた。
おばさんは「あんた達、なに喧嘩してんのよ」と苦笑いを向ける。友恵はどうしたらいいのか分からず、ただオロオロとしていた。
俺はおばさんに頭を下げ、階段を下りて行く。そして靴を履き、「お邪魔しました」と言って家を後にした。
しばらくすると友恵が追いかけて来て、「待ってよ」と腕を掴んだ。
「ちょっと待って・・・・・。お願いだから話をしようよ・・・・。」
そう言って引き止めようとするも、俺はその手を振り払った。
「斎藤君、あんなの本気で言ったわけじゃないんでしょ?最初から予定通りだったなんて・・・・そんなこと本気で思ってないんでしょ?」
背中にそんな言葉が降って来るが、俺は無視した。友恵は何度も俺の名前を呼んだが、振り向くことはしなかった。
・・・・この日、俺と正也は友達では無くなった。
中学の時からの親友は、今日あかの他人と変わらなくなった。
それから数日の間、俺は練習にも顔を出さなかった。
友恵からは何度か連絡があったが、全部無視した。
しかし事情を知った木根と涼香が、どうにか俺たちの仲を取り持とうとした。
そのおかげで練習には顔を出すようになったが、正也と口を利くことはなかった。もちろん友恵とも・・・・・。
ちょうど梅雨が始まる頃の出来事で、夏になっても俺たちの仲が修復することはなかった。
高校最後の夏休みに入る前に、俺は最も大事な友達を失ってしまった。


            *


不気味な貯水塔の中で、あの時の出来事を思い出す。
記憶はとても鮮明で、今でも感情を伴って思い出すことが出来る。
暗い感情が溢れてきて、貯水塔の不気味な空気と混ざり合い、辺りに溶け出していくようだった。
今の俺なら、この不気味な景色と同化できるんじゃないか?
そうすれば、不気味なものを不気味と感じなくなり、嫌な思い出さえ、ここに溜まった水の中に吸い込まれていくんじゃないかと妄想した。
目の前の螺旋階段は、上へと誘うように伸びている。
気分が沈む・・・・という表現があるけど、実は嫌な気分というのは、この螺旋階段のように上に昇っていくのかもしれない。
昇るところまで昇り、たった一人になって周りを見下ろす。
手を振っても誰も気づかず、誰も声を掛けてくれない。
下へ降りる階段はあるのに、それを降りようとしないのは、自分が暗い場所を好んでいるからだ。
今日、ここへ来てよかったと思う。暗く不気味なこの貯水塔は、その仄暗さでもって、俺の心を楽にしてくれた。
しかし肝心の肝試しはここからで、本当に上まで登らないといけない。
テンションの上がった木根が先頭に立ち、天井の向こうへ消えていく。
涼香がそれに続き、実花は相変わらず腕にくっ付いている。
佐野はキョロキョロと辺りを見渡しながら、躊躇いがちに階段に足を掛ける。
園田はその背中にピタリとくっ付き、「離れろデブ!」と怒られていた。
みんなが階段の上へ消えていく。暗い場所を目指して、螺旋階段を登っていく。
俺も足を掛け、足音を響かせながら階段を登っていく。
その時、「斎藤君」と友恵が呼んだ。
俺はいつも通り無視して、天井の向こうを目指した。
しかし誰かの足音が追いかけて来て、俺を引きずり下ろした。
「お前ちょっとここに残れ。」
そう言って俺を引きずり下ろしたのは正也だった。怖い顔で睨み、物言いたそうに唇を結んでいる。
そして俺に目を向けたまま、友恵に向かって「お前は先に行ってろ」と言った。
「ちょっとコイツと話がある。」
すると友恵も「私だって斎藤君に話がある」とその場に留まろうとした。
「だってあんな誤解されたままじゃ、二度と仲直り出来ないから・・・・・・、」
「いいから先に行ってろ。まず俺が話す。話さなきゃいけないことがあるんだ。」
正也の声がイラついているのが分かる。でもその怒りは、俺に向けられたものではない。
さっさと上に行けと、友恵を促しているのだ。
友恵は「でも・・・・、」と言い返そうとしたが、正也の迫力に負けた。
今、正也は怒っている。それを感じ取って、この場を俺たちに譲ることにした。
階段に足を掛け、こちらを振り返りながら登っていく。そして天井の向こうに消える前、身を屈めて俺たちを見つめた。
「・・・・・また殴り合ったりしないでよ。」
そう言い残し、上へと消えていった。
友恵がいなくなると、正也は俺を離した。険しい目で睨み、固く結んだ唇を開いた。
「・・・・・今だから言うよ。」
そう前置きをして、一瞬だけ目を逸らす。俺はじっと正也を見つめ、何を言うのか待っていた。
「・・・・・お前が言ったこと、半分だけ当たってるよ。」
そう言って息を吐き、また視線を逸らした。
「お前は最初から予定通りだったんだろって言ったけど、それは半分だけ当たってる。一回目はわざと負けて、お前に告白させるつもりだった。だって・・・・お前がフラれるってのは目に見えてたからな。友恵は俺に惚れてるって知ってた。だから何の不安もなかったよ。」
正也の言葉が、歯切れが悪く途切れる。きっと一息で言いたかったであろうセリフを、いったん息を飲んで区切った。
「お前はフラれた。その後友恵は俺に告白してきたけど、それは断った。これだけは本当なんだ!あの時、絶対に俺たちは付き合ったりしてない!それだけは本当なんだ!」
拳を握り、声を絞り出す。不気味な空気の中に、正也の怒りが吸い込まれていく。
「俺は約束はちゃんと守った!だけど俺だって友恵のことが好きだから、あのまま終わるわけにはいかなかった。だから二回目の戦いで勝って、それで付き合うつもりだったんだ。最初から二度目の戦いは考えてた。それはお前の言うとおり、予定通りだよ。」
そう言って俺に向き直り、ゴクリと喉を鳴らした。
「でもな、約束は絶対に破ってない・・・・。最初の戦いの時、友恵をフッたのは本当のことなんだ。それだけは信じてほしい・・・・・。」
正也は力を抜き、二の腕をぼりぼりと掻く。どう言葉を続けていいのか分からず、手持無沙汰なんだろう。
蚊に刺されたわけでもないのに、ただひたすら掻いていた。
きっとまだ言いたいことはあるんだろうけど、それを飲み下して喉を鳴らす。
そして「それだけだよ・・・・。後で友恵とも話してやってくれよ・・・」と、俺の脇をすり抜けて行った。
螺旋階段を登り、カンカンと靴の音を響かせる。
その足はやたらとゆっくりで、俺から声を掛けられるのを待っているようだった。
・・・・俺だって言いたいことはある。全部予定通りだったなんて、本気で思ってるわけじゃない。
でも俺だけ惨めなまま終わるのが嫌だったから、二人を巻き添えにしただけだ。
それは申し訳ないと思っているし、謝りたい気持ちもある。
だけど素直に言葉が出て来ない。ここで謝り、仲直りすることは出来るだろう。
正也とも友恵とも、今まで通り仲良く・・・・・。
「正也。」
気がつけば言葉を発していた。頭が命令するより先に、口が動いていた。
「約束してくれないか。」
そう尋ねると、正也は足を止めて見つめた。その顔は険しく、俺の口から出て来るのが、罵り言葉か?それとも仲直りの言葉か?・・・・判断に困っているようだった。
「もう二度と・・・下らない気遣いをするのはやめてくれないか。」
懇願するように、そして誓いを求めるように、小さいけど強い口調で言った。
「お前がやったことは、優しさでも何でもないよ・・・・。あんなの・・・ただ俺を馬鹿にしただけだ。そんなつもりが無かったとしても、俺にはそうとしか感じられない。」
正也は真剣な目で俺の言葉を聞いていて、少しの間黙っていた。しかしすぐに表情を崩し、「ああ」と頷いた。
「悪かった・・・・・もう二度としないよ。」
「それなら・・・・俺も意地を張るのはやめるよ。また前みたいに、お前らと仲良くやりたい。」
「俺もだよ。友恵だってきっと喜ぶ。」
喧嘩をしたあの日から、正也は初めて俺に笑顔を向けた。俺も笑顔を返したかったが、なんだか恥ずかしくて俯いた。
「行こうぜ。ちんたらしてたら木根がキレる。」
そう言って階段を登って行き、「早く来いよ」と振り返った。
俺は正也の後を登りながら、「約束だからな」と呟いた。
「今度下らない気遣いしたら、素手で鼻面にブチ込むからな。」
「お前のパンチなら大したことないな。全然罰にならないぞ?」
そう言って可笑しそうに肩を竦めるので、俺は唇を尖らせた。
「あんま見下してると、いつか痛い目見るぞ。」
「お前が気遣いはいらないって言ったんだろ?正直に答えただけだ。」
「そ、そうだけど・・・・・・。」
困る俺を見て、正也は可笑しそうに笑う。だから俺はこう返してうやった。
「じゃ、じゃあ・・・・・この貯水塔に飛び込んでもらう。それならどうだ?」
「おう、全然いいぞ。俺はボクシングより泳ぎのが得意だからな。お前も知ってるだろ?」
「そ・・・・そうだったな・・・・。」
上手いこと言ったつもりが、簡単に返される。正也は今日三度目の笑顔を向け、「早く行こう」と駆け上って行った。
俺も軽快な足取りで後を追い、天井の向こうへ駆ける。
そして上の階へ登ると、友恵が待っていた。
「何話してたの?」
そう尋ねながら、わざとらしく首を傾げる。正也は「お前聞いてたな」とデコピンを放った。
「だってまた殴り合いするかもしれないから、見張ってなきゃと思って。」
「そんなんしねえよ。ガキじゃねえんだから。」
「そうかなあ・・・。二人とも歳の割に子供だと思うけど?」
「同い年の奴に言われたくねえよ。なあ?」
正也は同意を求めるように笑って見せる。そして嬉しそうに階段を上がって行った。
「分かりやすいなあ。すっごい喜んでる。」
友恵はクスクスと笑い、「やっぱ親友なんだね」と言った。
「私にはそういう友達はいないから羨ましい。」
本気で寂しそうにそう言うので、「じゃあこれからそうなればいいじゃん」と返した。
「俺はもうお前のことは諦めるよ。でも友達としては・・・・これからも仲良くしてほしい。」
そう言って手を差し出すと、友恵は弾けた笑顔で手を握った。
「高校を卒業しても、ずっと友達でいようね!」
握った手をブンブン揺らし、嬉しそうに笑顔を向ける。
この日、俺たちは再び友達に戻ることが出来た。
わだかまわりは溶け、今までと変わらない関係に修復した。
いや・・・二度も喧嘩をして仲直りしたのだから、きっと今まで以上に、お互いが大切な友達になると信じていた。


            *****


この日のことは、古ぼけたセピア写真のように、俺の頭に残ることになる。
・・・・これは・・・・・今から11年前の、夏の出来事・・・・・・。
高校生活最後の夏休みの、不気味な貯水塔での思い出・・・・・。
でもこの思い出は、ハッピーエンドにはならない。
この日、正也はここで死ぬ。俺のせいで・・・・・・・・。
でもそれは、間違った記憶なのかもしれない・・・・・。
もし記憶というのが紐で出来ているなら、俺の記憶は失敗した綾取りのように絡まっている。
あの日、正也は貯水塔に飛び込み、そして死んだ。
ではなぜ飛び込んだのか?それは俺が煽ったからだ。ほんの冗談のつもりだったのに、あいつはそれを真に受けて飛び込んだ。
なぜなら・・・・俺と約束したから・・・・。もう二度と、俺に下らない気遣いはしないと・・・・。
そしてそれを破ったならば、貯水塔に飛び込んでもらうと・・・・・。
しかしこの記憶は、本当に正しいのか?何か大切なことが抜けているんじゃないか?
絡まった記憶の中を探るには、俺一人の力では無理だった。
だから友達がいる。木根が、涼香が、実花が、佐野が、園田が、そして・・・・友恵が。
でもそれだけでは不十分だ。友達の他に、もう一つ必要なものがある。
それは『貯水塔』だ。
忌まわしい出来事のあったあの貯水塔。あそこへ行かなければ、記憶を正しく結べない。
なぜならあの場所にこそ、俺が置き去りにした記憶があるからだ。
絡まった記憶の中に封じ込められた、11年前の出来事が・・・・。そこで本当に起きた事が・・・・・。
11年の時を隔てて、俺は再びあの夏へ足を踏み入れる。
だけど正しい記憶を追うには、まずは絡まった記憶を解かなければならない。
まず俺がやるべき事は、間違った記憶でもいいから、当時の事をより鮮明に思い出す事である。
友恵に手を握られながら、俺は湯の無い四角い浴槽を見つめていた。

取り残された夏の中へ 第九話 11年前の約束(1)

  • 2015.07.17 Friday
  • 11:45
JUGEMテーマ:自作小説
友恵と一緒に潰れた銭湯に忍び込み、そこで幻覚を見た。
まだ俺たちが高校生だった頃、ここで起きた事件の幻覚だ。
俺はなぜかその記憶を忘れていて、ここへ来て初めて思い出した。
友恵は言う。ここでの事件は、俺のトラウマとなった出来事に似ていると。だから記憶を封じ込めて忘れたのだと。
だから俺は、必死に思い出す。
いったい俺にとって何がトラウマになっているのか?
毬藻のように絡まった記憶を辿り、自分の記憶の中を探っていった。


            *****


あれは11年前の夏だった。
俺たちは白い巨塔のような貯水塔へ、肝試しに行った。
発案者は俺。高校生活最後の夏休みだから、何か思い出に残ることがしたかったのだ。
最初のうちはみんな乗り気だったが、貯水塔が近づいて来るに連れて、顔色が変わった。
川の土手向こうに立つ白い貯水塔は、夜の暗闇の中に不気味に浮かんでいた。
もしこれが貯水塔だと知らない人間が見たら、その異様さに圧倒されるだろう。
何しろここは田舎で、周りには田んぼしかない。
そして近くには小さな神社があり、山へ続く細い道に、ポツンと街灯が灯っているだけだ。
そんな場所に、場違いな高い建物が建っている。田んぼの広がる中に、白い塔が真っ直ぐとそびえているのだから、恐怖を感じる方が当たり前だ。
実花は「やっぱりやめようよ」と言い出し、園田も「ここはヤバくないか」と声を潜めた。
この二人は気が弱く、今にも引き返したいという顔をしている。
そして他の奴らも、口には出さないが、その表情は引きつっていた。
木根は近くの神社に車を停め、窓から貯水塔を見上げる。
俺たちも同じように見上げ、誰もが息を飲んだ。
車を降りる時、実花は涼香の腕にくっ付いていた。
園田は佐野の後ろに隠れ、友恵は正也の横に並んでいる。
みんなは俺に目を向け、先に行けという目で見つめる。
発案者は俺なのだから、まず先に行って、中に入れるかどうか確かめてこいということだ。
俺は息を飲み、心を落ち着かせる。すると木根が並んで来て、「俺も行くよ」と言った。
一人より二人。木根がついて来てくれるだけで心強く、ゆっくりと貯水塔に向かった。
周りはフェンスで囲ってあり、敷地内への入り口には鍵が掛かっていた。
この事は想定済なので、フェンスをよじ登って入るつもりだった。
しかし二メートルほどの高さのフェンスは、上の方が手前に反り返っていた。
これでは登ることも出来ず、どうやって中に入ろうか困ってしまった。
実花は「もう帰ろう・・・」と言い、他の連中もそれに賛成のようだった。
しかし木根は首を振った。
「わざわざ親父の目を盗んで車を持ち出したんだ。今さら帰れるかよ。」
そう言って周りを見渡し、何かに気づいた。
フェンスの傍に生えている樹によじ登り、そこから中に入ろうとした。
器用に足を掛け、枝と枝の間を縫うように登っていく。
そしてある程度の高さまで来ると、フェンスに足を掛けた。
フェンスはグラグラと揺れるが、木根は持ち前の運動神経で、どうにかフェンスの向こうへ飛び降りた。
そして入り口まで回って来ると、中から鍵を開けた。
「まだ人がいる・・・・・。音立てるなよ。」
そう言って敷地内の奥を睨み、二階建ての小さな建物を指さした。
俺たちは恐る恐る中へ入り、身を低くして歩く。そして貯水塔の傍まで来ると、真下からその巨塔を見上げた。
・・・・・えも言えぬ恐怖が湧き上がり、夏だというのに鳥肌が立つ。
巨大な鉄塔や仏像を怖がる巨大建造物恐怖症というのがあるらしいが、俺がまさにそれだった。
夜の中に浮かぶ、白くて巨大な貯水塔。それだけで不気味なのに、この中には大量の水が溜まっているかと思うと、より不気味に感じられた。
貯水塔の周りは、これまたフェンスで囲ってある。
しかしさっきのフェンスに比べると小さく、女でも楽に上れそうなほどだった。
俺と木根、そして佐野が先に入り、辺りを注意深く見渡す。
貯水塔の傍には小さな社があって、また恐怖を覚えた。
「水の集まる場所には、こういうのが建つんだよな。」
木根が知った風に言い、女子に手招きをする。
涼香はフェンスをよじ登り、それに続いて友恵も登る。
実花は涼香の手を借りてどうにか上ったが、園田は中々登れない。
仕方ないので俺と佐野で引っ張り上げ、どうにか全員入ることが出来た。
貯水塔の周りを探ってみると、中へ入るドアがあった。しかしここも鍵が掛かっていて、さすがに開けられそうにない。
どこか別の場所から入れないかと思っていると、佐野が梯子を見つけた。
その梯子は貯水塔に直接取っ手が付いているタイプで、まっすぐに上に伸びている。
そして三メートルほど登った先に、小さな足場があった。
「あそこから入れるかも。」
木根はさっそく梯子を上り、小さな足場に立つ。どうやらそこにもドアがあるようで、しかも鍵は掛かっていないようだった。
木根は中へ入り、また内側から鍵を開けた。
「ずさんだな、ここ。」
そう言ってニヤリと笑い、中へ手招きする。
「・・・・・・・・・・・。」
中へ入った俺たちは、外とは比べものにならないくらいに不気味な雰囲気に圧倒された。
周りは全て濃いグレーのコンクリート。天井にはライトが灯っているが、隅から隅まで明るく映すほどの光ではない。
まるで夜の中に懐中電灯を並べたような、不気味な光に感じられた。
足元は所々黄ばんでいて、ゴキブリが一匹死んでいた。
そして俺のすぐ目の前には、上へと続く螺旋階段が伸びていた。
天井を貫通ししたように、暗い穴の上へと続いている。
「あそこから降りて来たんだ。上まで続いてるから、登ってみようぜ。」
木根はテンションが上がって来たらしく、声が弾んでいる。
涼香も「楽しそう」と言い、「下手なお化け屋敷よりいいかも」と笑った。
実花は相変わらず涼香にくっ付きぱなしで、園田も佐野の後ろから出ようとしない。
友恵はずっと正也の傍に立っていて、さり気なく袖を握っていた。
俺は複雑な気持ちでそれを見つめながら、二人から距離を置く。
もうこの二人とは、仲好く出来る自信がなかった・・・・。
今、正也と友恵は付き合っている。それ自体は別に嫌なことではない。
俺が許せないのは、この二人が必要以上に俺を気遣い、傷つけたことだ。
黙っていれば良い話を、酒に酔った勢いで俺に語った。
それがどうしても許せなくて、ほとんど口も利かなくなってしまった。
高校を出たら、きっともう会うことは無いだろう・・・・・。
そう思うほど、俺は二人のことを嫌っていた。
不気味な貯水塔の中に立ちながら、俺は思い出す。
正也と友恵・・・・・この二人と俺の間に、決定的な亀裂が入った日の出来事を・・・・。


            *


俺が友恵にフラれ、友恵が正也にフラれ、そして友恵は俺のことを邪魔者と愚痴った。
何気ない友恵の一言は、俺の胸に根を張り続け、以前のように仲良くすることは出来なくなった。
話しかけられても素っ気ない態度を取り、遊びに誘われても断るようになり、メールが来ても返さなくなった。
そんな事を続けていると、やがて俺たちの間に溝が出来た。
友恵はほとんど話しかけて来なくなり、目が合ってもすぐに逸らすようになった。
きっと友恵は、俺に嫌われていると思ったんだろう。
でも実はその逆で、俺が友恵に嫌われていると思い込んでいた。だからあえて冷たい態度を取り、距離を置くことで傷つかないようにしていた。
正也は以前にも増して話しかけてくるようになった。
俺が距離を置いている原因を、薄々感じていたんだろう。
友恵といる時でも、俺を見つけると笑顔で駆け寄って来た。
俺は約束を守ってる。友恵とは付き合っていない。だから怒らないでほしい。
そういう気持ちを、正也の言動から感じていた。
しかしそれでも、俺は冷たい態度を取り続けた。
まだ高校生のガキだった俺に、何もかも割り切るのは無理があった。
俺は正也に嫉妬しているだけであり、冷たくあしらうことで、正也を傷つけていた。
そして・・・・それを心のどこかで楽しんでいた。俺が友恵に邪魔者だと思われているように、俺も正也のことを邪魔者だと思うことにする。
そうすることで、傷ついた自分の心の埋め合わせをしていた。
何のことはない・・・・・俺は冷たい態度を取ることで、正也に甘えていたのだ。
そして俺のそんな態度は、正也を確かに傷つけていった。
だからある日喧嘩になった。
業を煮やした正也は、もう俺のことは友達ではないと言ったのだ。
そしてもう一度スパーリングをして、俺が勝ったら友恵と付き合うと言い出した。
付き合いたいなら勝手にしろよと返したが、正也は納得しなかった。
『俺は負けたんだから、友恵と付き合うことは出来ない。だからもう一度戦え。』
こいつはこの期に及んで、まだ俺との約束を守ろうとしていたのだ。
そしてその約束を覆す為には、それなりの手順が必要だった。
もう一度俺と戦い、そして勝つ。その上で友恵と付き合うなら、これは約束を破ったことにはならない。
なぜなら以前の約束の上に、別の新しい約束を書き足すことになるからだ。
俺は何度も断ったが、正也は引き下がらない。だからとうとう俺が折れて、もう一度戦うことになった。
今度はグローブ着用。そしてみんなが見ている前でのスパーリングだ。
安全を考慮し、ちゃんとヘッドギアも着ける。そして佐野がレフェリーとなり、試合さながらに戦うことになった。
場所はいつもの練習場である、実花の家のガレージ。
俺のセコンドには木根が付き、正也のセコンドには涼香が付いた。
判定の場合、ジャッジは実花と園田、そして佐野。
公平をきす為に、友恵はセコンドにもジャッジにも加わることは出来ない。
文句のつけようがないほどに、完全に公平なルール。
もし一つだけ不公平な事があるとすれば、若干ではあるが正也の方が重いことだ。
俺は60キロ、正也は62キロ。たった二キロの違いだが、階級的には一つ上ということになる。
何としても公平に戦いたい正也は、自分のグローブのオンス(グローブの大きさのこと。大きいほどパンチの威力は下がる)を上げると言ったが、俺はそのままでいいと返した。
これは正式な試合ではないんだから、そこまでこだわる必要はない。
それに俺は、正也になら勝つ自信があった。
正也はパワーはあるが、動きはそこまで速くない。だからパンチをかわすのは難しくないのだ。
それに防御が下手だから、簡単に相手のパンチをもらう。
以前に戦った時も、防御の隙間を縫ってパンチを当てていった。
だから今回だって、負けるはずがないと自信があった。
しかしいざ戦いが始まると、俺の思惑通りにはいかなかった。
防御が下手なのは相変わらずだが、とにかくがむしゃらに攻めて来るのだ。
こっちのパンチをもらっても怯まず、ガンガン前に出て来る。
それに遅いと思っていたパンチも、以前より速くなっていた。
どうやら俺に負けたのが悔しくて、練習に身を入れたらしい。
俺は必死に応戦し、足を使って横に回り込む。しかし正也のパワーに圧倒され、上手く回り込むことが出来なかった。
スパーリングが始まって二分ほど過ぎた頃、果敢な攻撃に耐えきれずになって、俺は膝をついた。
すぐに佐野が駆け寄り、カウントを取る。
俺は立ち上がり、ファイティングポーズを取った。
「出来るか?続けるか?」
「当たり前だ・・・。」
佐野は俺の様子を見つめ、コクリと頷く。そして「次に倒れたら負けだからな」と釘を刺した。
この時点で、佐野は俺に勝ち目がないことを見抜いていた。
後はどの時点で止めるか。そんなことを考えているような目だった。
《誰が負けるか・・・・・。》
俺は自分を奮い立たせ、落ち着いて息を整えた。そして残りの一分を乗り切ると、ヨロヨロとセコンドに戻った。
木根はサッと椅子を出し、「こっ酷くやられたな」と苦笑いする。
「あいつはやたらとパワーがあるからな。下手にくっ付くな。」
「んなこと分かってる・・・・。でも前より速いんだよ。すぐに追い込まれるんだ・・・・。」
「だったら左で引き離せ。リーチならお前の方が長いんだから、とにかく中に入れるなよ。」
「ああ・・・・・・。」
「スピードは上がっても、防御は相変わらず下手だ。だから左を掻い潜って突っ込んできた所に、右を合わせろ。正也相手ならそれくらい出来るだろ?」
「・・・・・・・・・・。」
「おい、聞いてんのか?」
「・・・・・聞いてる。シミレーションしてたんだ。」
「よし!多分次に倒れたら、佐野の奴は止めるぞ。まずは左で距離を取って、回復に専念しろ。お前が思うほど、あいつの追い足は速くないから。」
そう言って俺の背中を叩き、椅子を引っ込める。
佐野は再会の合図を出し、俺と正也は再び向かい合った。
木根に言われたとおり、とにかく左を打って距離を取る。
正也はブンブンと剛腕を振り回して来るが、俺はとにかく距離を取り、打ち合いを避けた。
足を使い、左で牽制し、右を打ち込むタイミングを計る。
正也は果敢に突っ込んで来るが、慣れればその攻撃は単調なものだった。
左右の大振りのフックを連打するだけで、足も上手く運べていない。
俺は慎重に相手の動きを見ながら、とにかく左で突き放した。
そしてようやく呼吸も整ってきた頃、大振りの左フックを掻い潜って、正也の左に回り込んだ。
正也はすぐに反応し、こちらに突っ込んで来る。俺は待ってましたとばかりに、渾身の右ストレートを放った。
確実に当たる!
・・・・・そう思った瞬間、俺の拳は空を切った。
なんと正也は、俺の攻撃を読んでいたかのように、身を屈めてかわしたのだ。
そしてその状態から右をフックを突き上げ、俺の側頭部を打ち抜いた。
俺は後ろへ吹き飛び、そのまま倒れる。
立ち上がろうともがくが、思うように力が入らなかった。
「立つな!じっとしてろ!」
佐野が駆け寄り、俺の頭を支える。そこへ涼香や木根も駆けて来て、心配そうに見つめた。
「動かすな!このまま!」
佐野がまた叫び、みんなが焦っている様子が伝わって来る。
俺はまだ立ち上がろうとしたが、その後すぐに気を失った。
次に目が覚めた時、実花の家のソファに寝かされていた。
身体を起こすと、木根が「大丈夫か?」と尋ねてきた。
俺はガンガンと耳鳴りのする左耳を押さえながら、「・・・・・負けた?」と聞き返した。
「負けも負け。盛大な負けだよ。」
そう言って「死んだかと思うくらい凄い音がしたぞ」と殴るマネをした。
みんなが次々に心配する声を掛け、俺は「平気だよ」と答えた。
「頭は痛いけど、でも大丈夫だ・・・・・。」
そう言いながらソファに座ると、正也と友恵が目に入った。
「・・・・・すまん。」
俺と目が合うなり、正也はすぐに謝った。そして「やっぱデカいグローブにしといた方がよかったな・・・・」と、後悔したように呟いた。
「あんなに綺麗に入ると思わなかった。防ぐと思ったから、本気で振ったんだけど・・・・・。」
そう言ってもう一度「すまん」と謝った。
俺は笑顔で「気にすんなよ。勝負だろ」と返した。
しかし俺を気遣うようなそのセリフは、どんな罵りよりも心を抉った。
対戦相手に気を遣う。ましてや「防ぐと思ったから本気で振った」なんて上から目線の気遣いは、敗者の心を抉るには最も強力な言葉だ。
俺は泣きそうになるのを我慢しながら、俯いているしかなかった。
友恵は何も声を掛けず、ただ正也の隣に立っている。
負けた俺を無様と思っているのか?それとも心配してくれているのか?
それは分からないが、今はこの方が良かった。
もし友恵に何か言葉を掛けられたら、みじめになって泣いてしまう。
・・・・戦いは正也の勝ち。俺は勝てるとタカを括り、そして無様に負けた・・・・。
おそらく正也は手加減していたのだろう。本気ならば、もっと早くKO出来たに違いない。
そう思うくらいに、圧倒的にぶちのめされた。
これは酷いショックで、とにかく自分が情けなく、消えてしまいたいほど恥ずかしかった。
そしてそれと同時に、ふと思ったことがある。
《もしかして・・・・コイツは前の戦いの時、わざと負けたんじゃ・・・・・。》
以前に戦った時、コイツはここまで強くなかった。
パワーはあれど、防御は下手だし、スピードもなかった。
しかしこれは、よくよく考えるとおかしいのだ。
以前に正也と戦ったのは、今から三ヶ月ほど前だ。
はっきり言って、たった三ヶ月でここまで強くなることなどあり得ない。
いや・・・・百歩譲って、正也が死ぬほど努力し、たった三ヶ月で上達したよしとう。
でもやっぱり、これはおかしい。
今回の戦い、正也は以前と同じように防御が下手だった。にも関わらず俺を圧倒したのは、とにかくスピードが段違いだったからだ。
遅いと思っていたコイツのパンチは、俺よりも遥かに速かった。
三ヶ月の練習で技術が上達することはあっても、劇的にスピードが上がるなんて考えらない。
なぜならパワーやスピードというのは、短期間の練習でどうにかなるものじゃないからだ。
こういうのは生まれ持った身体能力がものを言うのであって、短期間の練習で劇的に伸びることはほとんどない。
今回の戦い、正也の防御が上達したから負けたというのなら、納得できる。
でもそうじゃない。こいつはパワーとスピードで圧倒しやがった・・・・。短期間ではあり得ないことなのに・・・・実際に俺に勝ちやがった・・・・。
なら考えられることはたった一つ・・・・・。こいつは以前の戦いでは、手を抜いていたということだ。
あの時は素手だったから、お互いに多少は手加減していた。
でも最後の方になると、俺は決して負けるものかと、本気で殴った。
でも正也は本気じゃなかったとしたら?
『このパワーとスピードで、しかも素手で本気で殴ったら、斎藤は酷い怪我を負うんじゃないか?』
そんな風に考えて、以前はわざと負けた。でも今回はグローブもヘッドギアもあったから、本気で戦った。
・・・・・思えば、こいつと練習でスパーをする時も、本気で戦っているようには感じられなかった。
俺や木根と戦う時は、どうも本気の気迫が感じられなかったのだ。
プロのライセンスを持つ佐野と戦う時だけ、本気でやっていたように見えた・・・・。
《俺を気遣って・・・・・手え抜いてくれたのか・・・・・。》
そう思うとさらに情けなくなり、目尻に涙が溜まった。でもそれと同時に、正也に対して申し訳ないという気持ちが湧いてきた。
俺は友恵に告白することばかり考えて、本気でコイツを殴った。
それなのに、コイツは俺を気遣い、手を抜いていた・・・・。
悔しいと言えば悔しいが、実に正也らしいと思った。
コイツは友恵への恋心より、俺との友情を大事に想っていたということだ。
俺はさらに俯き、目尻に溜まった滴を、誰にも見られないようにした。
《なんて・・・・・自分勝手な・・・・・・。》
正也は友恵に告白する権利を俺に譲り、そしてその後友恵から告白されても、俺との約束を守る為に断った。
なのに俺と来たら、正也に嫉妬ばかりして・・・・・ただ冷たい態度を・・・・・。
コイツがどういう人間か、中学の時からよく知っているのに、自分の事ばかり考えていた。
情けなくて、恥ずかしくて、顔を上げたくないほど惨めで・・・・・。
この日、俺は木根に付き添われて家に帰った。
「もし何かあったら、すぐに病院行けよ。」
木根はそう言い、俺の肩を叩いた。
「お前が正也と友恵に距離を置いてたのは知ってるよ。でも今回でケリは着いたんだし、全部水に流せよ。あんないいダチ他にいねえぞ。」
木根の言うとおり、正也は最高の友達だ。恋はまた出来る。好きになれる女の子ともまた出会える。
でも正也のような友達は、二度と出来ない。昔からの親友は、後から手にれることは出来ないのだ。
俺は悔しいながらも、自分を納得させた。
それから数日後、正也は友恵に告白した。友恵はもちろんOKし、二人は付き合うことになった。
まだ悔しさは残っていたが、でもこれは勝負の結果だ。
俺は正也に嫉妬するのをやめ、友恵に冷たい態度を取るのもやめた。
俺たちはようやく仲直りをすることが出来た。、正也も友恵も喜んでいたし、俺だって仲の良い友達に戻れたのは嬉しかった。
そしてある時、俺たち三人で飯を食いに行った。
その後に正也の家に行き、親に隠れながら酒を楽しんだ。
こうやってまた仲良く出来るなら、もうわだかまりなどない。
誰もが笑い、酒も入って饒舌になる。そして正也は俺の肩を抱き、ポロリと本音をこぼした。
「今だから言うけど・・・・・実は一回目の戦いの時、わざと負けたんだ。」
そう言ってから、やや申し訳なさそうな顔をした。すぐに酒を煽り、タバコに火を点ける。
それを窓の外に向かって吐きながら、「傷ついたか?」と尋ねた。
「いいや。きっとそうじゃないかと思ってた。」
俺は笑って答えた。なぜなら今さらそんな事を聞かされても、大して驚きはしないからだ。
いや、むしろ・・・・わざと負けた正也の優しさに気づいたから、友恵と付き合っても嫉妬せずに済んでいる。
俺が笑って答えたのを見て、正也はホッとしていた。
「お前って意外とプライド高いからなあ。怒るんじゃないかと心配してた。」
「いや、さすがに気づくだろ。二回目に戦った時に、あんだけボコボコにされたんだから。前は手加減してたんだなあって、嫌でも分かるよ。」
「そっか。怒ったらどうしようかって、ちょっとヒヤヒヤしてた。」
そう言って嬉しそうにタバコを吹かし、「でもこんなんだったら、一回目から本気で戦ってたらよかったなあ」と笑った。
「結局友恵と付き合う事になったんだから、ただの負け損って感じだ。」
「バカ言うな。お前に素手で本気で殴られたら、整形が必要なくらいボコボコになってる。」
肩を竦めて言うと、正也は可笑しそうに笑った。
「それもあるけど、お前って本当に友恵に惚れてただろ?だから俺が勝っちゃうと悪いかなあって思ったんだよ。」
そう言ってから、天井に向かって煙を飛ばした。
「俺さ・・・・正直分かってたんだよな、友恵が俺に惚れてるって。だから俺が勝って付き合っちゃうと、あまりにお前が可哀想だからさ。」
「え?いや・・・・・どういうこと?」
「だからあ、お前は中学ん時からの親友だろ?なのに俺だけ良い思いしたら悪いと思ったんだよ。だからあの時はわざと負けて・・・・、」
「ちょ、ちょっと待って!え?なんだそれ・・・・?」
頭が混乱してきて、言葉を遮った。
「あ・・・あのさ・・・・?あの時わざと負けたのは、俺を怪我させない為じゃなくて、友恵に告白させる為だったのか?」
「そうだよ。それ以外に負ける理由が無えじゃん。」
「・・・・・え?いや、よく分からないよ・・・・・。だってお前は友恵が好きだったんだろ?でもって友恵が自分に惚れてるって気づいてたんだろ?」
「さっきそう言っただろ。」
「だったらさ、なんでわざと負けるんだよ?俺に勝って、そのまま付き合えば良かったじゃんか。」
「だからあ・・・さっき言っただろ。俺が勝ったら、お前は自分の想いも伝えることなく終わるじゃんか。でもそれは悪いと思ったから、わざと負けたんだよ。」
「・・・俺を・・・・怪我させない為じゃなかったのか・・・・?」
「それもあったよ。だって俺、佐野相手でもまともに打ち合えるんだぜ。しかもあいつプロなのに、ヘッドギア無しじゃ俺とやりたくないって言うくらいだからな。だったら本気でやったらお前を怪我させるだろ。手え抜いて当たり前じゃん。」
「それはそうだけど・・・・・、」
「でもわざと負けた一番の理由はそれじゃない。だって俺、手え抜いても勝とうと思えば勝てたもん。」
正也は笑いながら言い捨て、タバコを吹かす。俺は怒りとも屈辱ともつかない妙な感覚に襲われながら、頭が熱くなっていくのを感じた。
「んな怒るなよ。」
俺の顔を見て、正也は苦笑いする。ポンポンと肩を叩き、「別に馬鹿にして言ったわけじゃないんだからな」と慰めた。
「俺が友恵に告白すれば、OK貰えるのは目に見えてた。でもそれじゃお前に悪いから、告白するチャンスをあげただけじゃんか。だって親友なんだから。」
「・・・・・・・・・・・。」
「それにさ。俺はちゃんと約束を守ったろ?お前に負けたから、友恵とは付き合わなかった。」
「・・・・・・・・・・・。」
「なのにお前ときたら、急に僻み出すもんだから、どうしたもんかと困ったよ。お前は俺に勝って、そんで告白してフラれた。俺は告白されたけど、お前との約束があるからフッた。でもお前は納得がいかないみたいだから、もう一度戦ったんじゃねえか。」
「・・・・・・・・・・。」
「でも今回は勝たせてもらった。いくら親友でも、二回も負けてやる義理は無いからな。俺だって友恵のことが好きなんだから。」
そう言ってタバコを消し、口に残った煙を吐き飛ばす。
すると俺たちのやり取りを見ていた友恵が、「ちょっと・・・・、」と正也の腕を押さえた。
「そういうのって言わない方がいいよ。」
「なんで?」
「なんでって・・・・・。だってそんな理由でわざと負けたなんて知ったら、斎藤君傷つくに決まってるじゃん。」
「え?いや・・・・だって気づいてただろコイツは。俺がわざと負けたことに気づいてたって、自分で言ったんだから。」
「違うよ!わざと負けたのは、自分を怪我させないのが理由だと思ってたの。なのに斎藤君が可哀想だからわざと負けただなんて言ったら・・・・・、」
友恵は口を噤み、俺の方を見る。その目は同情と憐れみに満ちていて、「大丈夫?」と尋ねた。
「なんか・・・・・ごめんね、余計なことベラベラ喋っちゃって・・・・。」
そう言って謝ると、正也は「なんでお前が謝るんだよ?」と怒った。
「喋ったのは俺だぞ。お前が謝んなくてもいいだろ。」
「じゃあさっさと謝りなよ。」
友恵に促され、正也も俺を見つめる。その顔はとても困っていて、ボリボリと頭を掻いた。
「いや・・・・・あの・・・・ごめん。なんか勘違いしてて・・・・、」
そう言ってバツが悪そうに目を逸らした。
「だってお前が気づいてるって言うもんだから、わざと負けた理由を知ってるのかと思ってさ・・・・。そんでベラベラ喋っちまったんだわ。・・・・友恵の言うとおり、気づいてないんなら言うべきことじゃなかったな。・・・・・ほんとすまん。」
素直に謝る正也の言葉は、強く胸に突き刺さった。もちろん悪い意味でだ。
そして友恵の憐れみも、酷く惨めな気持ちにさせた。
親友だと思っていた相手から、いらぬ同情で勝ちを譲られ、好きだった相手からは、憐れみの視線を向けられる。
これほど・・・・・これほど屈辱的なことはない・・・・。
頭に昇った熱は、思考を奪うほど加熱していき、怒りを通り越して笑いが込み上げて来た。
一人でケラケラと笑う俺を見て、正也も友恵も同情の目を向ける。
「あの・・・・ほんとすまん。マジで悪かったよ。」
「斎藤君・・・・ごめんね。でも正也君は、斎藤君を傷つけようと思って言ったわけじゃなくて、こうやってまた仲良く出来るのが嬉しくて・・・・・。」
「おい、下手な言い訳すんなよ。それこそコイツが傷つくだろ。」
「でもこのままじゃまた喧嘩になっちゃうじゃない。せっかく仲直りしたのに・・・・・。」
「俺が悪いんだ。お前が気い遣う必要なんかないよ。」
「でも私だって関係してるよ。黙ってるわけにいかないじゃない。」
「俺の方がコイツと付き合いが長い。お前より斎藤の気持ちは分かる。」
「そのクセに余計なこと喋って・・・・・、」
「うるさいな。変に言い訳したら、それこそ喧嘩になるつってんの。」
「でもこのままじゃ、きっとまた喧嘩になって・・・・・・、」
二人は俺をそっちのけで言い争いを始める。
「俺が悪い」「ううん、私も悪い」
自分の方に非があると主張し合い、俺のことなど目に入っていない。
そんな様子を見つめながら、俺は白けた気分になっていた。
《なんだコイツら・・・・。最近付き合い始めたばっかなのに、なに夫婦みたいに気取ってんだ?》
正也を擁護しようとする友恵。友恵を擁護しようとする正也。それを見ていると、また笑いが込み上げてきた。
《馬鹿かコイツら・・・・。要するにただの惚気じゃねえか。アホかっての。》
怒りも悲しみも消え去り、屈辱さえも薄れていく。
なんだか出来の悪いドラマを見せられているような気分になって、黙って立ち上がった。

取り残された夏の中へ 第八話 祖父と銭湯(2)

  • 2015.07.16 Thursday
  • 10:38
JUGEMテーマ:自作小説
友恵と一緒に、潰れた銭湯に忍び込むことになった。
入り口には鍵がかかっていて、友恵は梯子を使って中に忍び込んだ。
そして入口まで回り、中から鍵を開けた。
「侵入成功!」
そう言って、ピースをしてにんまり笑う。
「えらい行動的になったお前。」
「だって今日入らなかったら、一生入ることはないと思うから。」
「でも服が汚れてるぞ?けっこう派手に転んだんだろ?」
「まあね。でも怪我はしてないから平気平気。」
そう言って俺の手を引き、「さあさあ」と中に入れた。
「一人で入れるなら、俺はいらなかったんじゃ・・・・、」
「そんなことないよ。斎藤君がいるから入れたの。一人だったら怖いから無理。」
「でも一人で入ったじゃん。」
そう言い返すと、友恵は少し思案した。
「・・・・・例えば子供の頃にね、夜中にトイレに行く時、親に付いて来てもらったことあるでしょ?」
「うん。」
「でも一緒にトイレに入るわけじゃないじゃない?親は外で待ってるだけ。」
「そりゃそうだろう。」
「でもそれだけで安心するでしょ?トイレの中では一人でも、外に誰かいるって分かってたら怖くないでしょ?」
「なるほど。上手い例え方だな。」
俺は素直に感心した。そして「だったら途中で俺がいなくなっても怖くならないよな?」と尋ねた。
「俺がいるもんだと思っておけば、お前は怖くないわけだから。」
そう言うと、「イヤ!ダメよ絶対!」と叫んだ。
「途中でいなくなったら怒るからね!」
友恵は本気で睨み、俺の手を離すまいと、しっかりと握る。
なんだか可笑しくなってきて、「例えばさ・・・・」と言い返した。
「・・・・例えば子供の頃、自転車に乗る練習の時、親に後ろを支えてもらっただろ?そうすれば倒れないから。でも気づかないうちにさ、親は手を離してるんだよなあ。でも子供は親が支えてるって思い込んでるから、安心して自転車を漕ぐ。知らないうちに一人で乗ってるんだ。」
そう言うと、友恵はギョッとして俺を睨んだ。
「だから俺だと思って掴んでるこの腕が、知らないうちにマネキンに変わってたとしても、それに気づかない限りは怖くないわけだ。お前は俺が傍にいると思い込んで、ずっとマネキンの腕を掴んでる。そして『ねえ斎藤君』とか言って振り向いた時、そこには無機質なマネキンの顔が・・・・・、」
そう言って下から顔を照らすと、「やめて!」と叫んだ。
「そういうのやめて!」
「冗談だよ。」
「次やったら本気で怒るからね。」
友恵はバシンと俺を叩き、腕を掴んで引っ張って行く。その腕が俺のものかどうか確認しながら。
また可笑しくなってきたが、これ以上は本気で怒ると思い、黙ってついて行った。
当然のことながら中は真っ暗で、スマホのライトだけが頼りだ。
誰もいないカウンター、誰もいない座敷、誰もいないマッサージの店。
どこを見ても誰もおらず、物音一つせずに静まり返っている。
昔にここへ来た時は、ワイワイと賑わう声と、忙しそうに行き来する店員がいた。
誰もがリラックスした表情で、風呂上がりの余韻を楽しんでいた。
自販機で牛乳を買ったり、気持ち良さそうにマッサージを受けたり、座敷でウトウトしていたり・・・・・。
みんなが寛いだ表情をしていて、思い思いの過ごし方をしていた。
そんな賑やかな場所が、まるでゴーストタウンのように静まり返っている。
昔の賑わいと今の静けさを比べると、不気味さよりも切なさの方が勝った。
「なんか寂しいな・・・・こうやって潰れた銭湯を見るのって。」
そう言うと、友恵は「私も寂しい。だってここで働いてたんだもん」と答えた。
「あの時はここが潰れるなんて、思いもしなかった。」
「俺も思わなかったよ。あれだけ繁盛してたのに。どうして潰れたんだ?」
不思議に思って尋ねると、友恵は何も答えずに進んで行った。
脱衣所へ続く暖簾を潜り、中へと入って行く。
「ああ、懐かしいな。」
脱衣所へ入ると、幾つも並んだロッカーが目に入った。
その裏には洗面台があり、大きな鏡が張ってある。
誰もいない脱衣所というのは、かなり不気味だった。
カウンターや座敷からは哀愁を感じたが、ここからは怖さを感じる。
友恵は無言で通り抜け、浴室へ繋がる自動ドアをこじ開けた。
「おお・・・・昔のままだけど、湯が張ってない銭湯を見るのってなんか新鮮だな。」
三つ並ぶ大きな風呂には、当然のことながら湯が張っていない。
奥に並んだカラン場には、洗面器と椅子が散乱していた。
シャワーも蛇口も、水の滴り一つなく枯れていて、薄汚れたシャンプーの入れ物が、二つほど転がっていた。
そしてカラン場のすぐ近くには、水風呂だった場所がある。
家の風呂より一回りほど大きなそのスペースには、排水溝の蓋が外れて、ぽっかりと口が開いていた。
友恵はその場所に近づき、膝を下ろす。物悲しげな目で見つめ、「ここで・・・・・、」と縁をなぞった。
「おじいちゃん・・・・水風呂が好きだったから、よく入ってた・・・・。」
また声が潤み始め、うずくまるように背中が丸くなっていく。
きっと友恵は、風呂に浸かる祖父の姿を思い浮かべているのだろう。
幼い頃、祖父と共にここへ来た時のことを思い出し、思い出に浸っている。
この銭湯には、暖かい懐かしさと、胸を突く悲しみの二つの思いが宿っている。
何度も縁をなぞり、「おじいちゃん・・・・、」と顔を覆う。
俺は横に腰を下ろし、そっと背中を撫でてやった。
しばらく友恵は泣き続け、鼻をすする音と、しゃっくりの声を響かせる。
「・・・・ありがとう。」
そう言って立ち上がり、水風呂のすぐ向かいにあるサウナへ向かった。
ドアに手を掛け、ゆっくりと引く。中には七段もある大きなサウナが広がっていて、かつては灼熱のような熱気が籠っていた。
「ここのサウナってやたらと熱かったよな?」
そう尋ねると、「男子の方はね」と答えた。
「男の人は熱いのを好むから、サウナも熱くしてたの。マットを交換する男子のバイトは、いつだって汗だくだったよ。真冬でも。」
「俺も入ったことがあるから分かるよ。本当に熱いんだよな、ここのサウナ。」
「おじいちゃん・・・・こんな場所に長い間入って・・・・・。それからいきなり水風呂に入ったもんだから、あんな事に・・・・・、」
「老人には堪えるだろうな。でもそのクセやたらとサウナや水風呂に入りたがるから、のぼせてるお客さんとかいたんじゃないか?」
「そうなのよ。いくら注意しても聞かないの。歳を取ると、どうしても感覚が鈍くなるでしょ?でも身体にはすごい負担が掛ってて、だからバイトも社員さんも、見周りは欠かさなかった。私だって、女子風呂の方はいつもチェックしてたし。」
「じゃあおじいちゃん・・・・店の人には見つけてもらえなかったのか?」
「ううん、別のお客さんが受け付けに走って、すぐに伝えたよ。でも発作が起きてから亡くなるまで、すぐだったみたい。それだけ負担が掛ってたんだろうね。心肺蘇生をしても、救急車が来る頃には・・・・・。」
「そうか・・・・・。」
「お医者さんがね、若い人なら助かってたかもって言ってた。おじいちゃん92歳だったから、いくら蘇生を施しても、やっぱり体力的に難しかったみたい・・・・・。」
「そもそも若い奴なら、発作自体を起こしてないかもな。だからそういうことはあまり振り返っても・・・・・、」
「分かってる・・・・。でもね、どうしても考えちゃう。そりゃあ今は一緒に入れないけど、でも私も一緒に来てたら、少なくとも一人ぼっちで亡くなる事なんて無かったのにって。」
「・・・・そうだな。」
俺は頷き、これ以上は何も言うまいと決めた。
友恵がここへ来たのは、きっと自分を納得させたかったのだろう。
大事なおじいちゃんが亡くなる時、自分は傍にいなかった。そして家族に看取られることのないまま、一人で向こうへ逝ってしまった。
それが心残りで、しこりのように胸を圧迫していたに違いない。
俺が正也のことをしこりに感じているように、友恵にとっては祖父のことがしこりになっていたのだ。
友恵は再び水風呂に戻り、そっと手を合わせる。膝をつき、目を閉じ、眉間に皺を寄せながら祈りを捧げた。
あの時見届けられなかった祖父の死を、四年の時を経て見届けようとしている。
友恵の祈りが辺りに溶けていくように、静粛な空気が流れる。
まだここに祖父の魂がいるかどうかは分からないが、友恵の祈りが届かないということはないだろう。
ここにいようが、天国にいようが、これだけ自分のことを想ってくれる孫娘なら、いつだって見守っているだろう。
友恵の祈りは長く、そして静寂に満ちていた。
半分は祖父の為に、そしてもう半分は、心のしこりを取る為に。
深い祈りは祖父と自分の両方に捧げられ、やがて空気に馴染んで消えていく。
友恵はそっと立ち上がり、無言のまま水の無い風呂を見つめた。
そして俺を振り返り、「ありがとう」と言った。
「無理なお願いに付き合ってくれてありがとう。斎藤君のおかげで、ようやくおじいちゃんを弔うことが出来た気がする・・・・・。」
「いや、役に立てたんならよかったよ。なんだか俺もジ〜ンと来ちゃったし。」
「ほんと?」
「うん。俺っておじいちゃんがいないからさ。だからもし俺にもおじいちゃんがいたら、こんな風に思い出とか出来てたのかなって。」
「そうなんだ・・・・。」
「だから羨ましいよ、おじいちゃんとの思い出があるなんて。ここまで自分を想ってくれる孫がいるなんて、おじいちゃんだってきっと天国で喜んでるはずだよ。」
そう言って微笑むと、友恵はグッと唇を食いしばった。
「・・・・・ありがとう・・・・。やっぱり斎藤君と一緒に来てよかった・・・・。」
鼻をすすり、目尻を拭い、そして大きく息をついてから、真剣な表情に戻った。
「おじいちゃんね・・・・昔によく言ってた言葉があるの。『後悔先に立たず』って。」
「なんだか年寄りが好きそうな言葉だな。いや、こういう言い方をしたら悪いけど・・・・。」
「ううん、いいの。」
友恵はニコリと笑い、水風呂を振り返った。
「この言葉の意味は、後から悔んだって、どうにもならないよってこと。だから今日ここへ来てよかった。もしタイミングを逃してたら、一生来ることは無かったと思うから。」
そう言って俺に向き直り、また笑顔を見せた。
「ちゃんとお祈り出来たし、自分の気持ちに整理もついたし、おじいちゃんのことでもう苦しむことはないと思う。だけど・・・・、」
「だけど?」
「・・・・だけど、もう一つ大切なことがあるの。」
友恵はグッと表情を引き締め、射抜くような視線を向けた。俺はその視線を受け、何やら良からぬものを感じて、少しだけたじろいだ。
「・・・それって・・・・ここへ来たもう一つの理由のこと?」
「うん・・・・・。これは私だけじゃなくて、斎藤君にとっても大事な話だと思う。」
「俺にとって?」
自分の顔を指差し、首を傾げる。
「ごめん・・・・俺は特にここに思い出とか、気になるようなことはないんだけど。」
そう答えると、友恵はさらに真剣な表情になり、固く唇を結んだ。
そして意を決したように、息を飲み込んでから言った。
「ここへ来たもう一つの理由は、斎藤君のことなの。」
「は?俺の・・・・・?」
「うん。斎藤君は覚えてないかな?高校の時に、みんなでここへ来たこと。」
「それさっき園田にも言われたんだけど、よく覚えてないんだよな。大学ん時に来たことは覚えてるんだけど。」
「そっか。なら・・・・・野天風呂の方へ行かない?」
そう言って浴室の外を指差し、夜空の元に広がる野天を見つめた。
そしてスタスタと歩き出し、重たそうにこじ開けていた。
「早く。」
友恵は手招きをしながら呼ぶ。俺は野天風呂を見つめたまま、なんだか嫌な感覚に襲われていた。
《なんだこの感覚・・・・・。なんか嫌なもんが身体じゅうに纏わりついてるような・・・・・。》
どろりとした液体が、手足を拘束する感触がある。足を踏み出したくても、なぜかその場から動けない。
すると友恵が戻って来て、俺の手を引いた。
「・・・・・辛い?」
労わるような目で見つめながら、そう尋ねる友恵。俺はなんの事か分からず、ただ首を傾げる。
「ごめん・・・・なんかそっちに行きたくないんだよ・・・・。なんでか分からないけど・・・・。」
「・・・・分かるよ。だって斎藤君は覚えてるはずだから。みんなでここへ来た時のことを。そしてここで何があったのか?」
「なんだよ?えらい思わせぶりな言い方だな。ここに俺のトラウマでもあるみたいじゃないか。」
「ううん、ここにはトラウマなんてないはずだよ。でもね、斎藤君にとってトラウマになってる事と、重ねて見てるんだと思う。」
「は?トラウマと重ねて・・・・・?」
「ほら、人間って辛い記憶を封じ込めるって言うじゃない?だからきっと、そのせいで・・・・・、」
そう言って友恵は口を噤み、「とにかく行こう」と手を引いた。
俺はどろりとした液体の感触を抱いたまま、野天へと連れて行かれた。
外へ出ると、夏の湿った空気が鼻をつき、気持ち悪く肌を撫でた。
野天風呂には四角い風呂と、小さな檜風呂、そして足湯がある。奥には冷却サウナがあって、火照った身体を冷やすことが出来るようになっていた。
当然ながら、ここにも湯は張っていない。しかしなぜか、俺には湯が波打つ光景が見えた。
四角い風呂の中に、バシャバシャと波が立っている。
そこには幾つかの人影があって、楽しそうにはしゃいでいた。
《あれは・・・・なんだ?幻覚・・・・・?》
風呂に湯は張っていない。しかしそれと重なるようにして、湯が波立つ光景が浮かぶ。
気がつけば、俺は四角い風呂に近づいていた。友恵は付き添うように歩き、俺の背中に手を置いた。
「斎藤君・・・・。私のおじいちゃんがよく言ってた『後悔先に立たず』って言葉、今日は斎藤君にも当てはまると思う。」
そう言って、「よく思い出して」と見つめた。
「斎藤君は正也君のことをずっと気にしてて、それで私たちとも距離を置いてた。でもそれって、絶対に良い事じゃないよ。だから今日・・・・向き合ってみたらどうかな?」
友恵は俺を見つめながら、四角い風呂へ視線を移す。その表情には陰があって、何かを押し殺しているように思えた。
「斎藤君は今日、私のお願いに付き合ってくれた。だから私も、斎藤君の嫌な思い出に付き合うことにする。だってもし今日を逃したら、二度と斎藤君と会えないような気がするから・・・・。その時に後悔したってもう遅い。でも今なら、私たちが支えになってあげられるかも・・・・。」
「私たち・・・・・?どういうことだ?」
「それは後で話すよ。今は思い出してみて。ここで何があったか。それが斎藤君の嫌な思い出に繋がるの。そしてあの時・・・・貯水塔であった本当の事を、思い出せるようになるかもしれない。」
「・・・・・ごめん、何を言ってるかさっぱり・・・・、」
顔をしかめて言い返すと、友恵は黙って首を振った。
《なんだってんだ・・・・?》
俺は顔をしかめたまま、四角い風呂に視線を移す。そこにはやはり湯が波立っていた。
誰かの影が、まるで子供のようにはしゃいでいて、湯が飛び散っている。
それと同時に、手足を絡める重い感触が強くなっていく。
・・・・思い出せ・・・・・という言葉と、思い出すな・・・・という言葉が、頭の中で激しくせめぎ合い、なんだか気分が悪くなってくる。
しかし風呂をずっと見つめていると、そこに浮かぶ幻覚は、より強くなっていった。
人影が形を持ち、その姿をハッキリと浮かび上がらせる。
人影は・・・・・全部で四人。どうやらそのうちの二つは子供のようで、湯を掛け合って遊んでいた。
そして残りの二つは・・・・・・俺と正也だった。
二人とも今より幼い顔をしていて、何かを言い争っている。
そして正也が湯に沈み、俺はそれを見ている。しばらくしてから正也が顔を上げ、今度は俺が湯に沈む。
どうやらどちらがより長く息を止めていられるか、競っているらしい。
するとそれを見ていた二人の子供が、同じように湯の中に沈んだ。
一人はすぐに顔を上げたが、もう一人はまだ沈んだままだ。
湯面にブクブクと泡が立ち、息が漏れているのが分かる。
しかしそれでも顔を上げない。もう一分は経過していると思うが、上がって来る様子はない。
俺と正也はじっとそれを見ていて、これは妙だという風に顔を見合わせる。
その瞬間、湯に浸かっていた子供が、手足をばたつかせた。
激しく湯が波立ち、俺たちの顔に飛び散っている。
この時、子供が溺れているのだとハッキリ分かった。
正也は咄嗟に子供に駆け寄り、引っ張り上げようとする。
しかしすぐに顔を上げて、何かを叫んだ。
俺は風呂から上がり、その場から去って行く。そしてすぐに二人の店員を連れて戻って来た。
俺、正也、そして二人の店員が、子供を助けようと身体を引っ張る。
しかしなかなか上がって来ない。いったいなぜ?と思っていると、店員の一人がインカムで誰かに指示を出し始めた。
それと同時に湯の高さが下がっていく。どうやら他の店員に湯を抜くように操作させたらしい。
やがて全ての湯が抜けると、溺れていた子供が現れた。
目を半開きにして、死人のような表情をしている。手足はだらりと投げ出され、もう死んでいるのではないかと思える状態だった。
そしてその子の右足は、排水溝に嵌っていた。
ふくらはぎの真ん中当たりまで吸い込まれていて、これが原因で抜け出せなかったようだ。
俺と正也、そして店員が引っ張り上げて、どうにか足が抜けた。
子供はぐったりとしたまま、店員に抱えられて運ばれて行く。
野天から浴室に入り、脱衣所の長椅子に寝かされる。
いったいどうなるのだろうと見ていると、そこで幻覚が途切れた。
「・・・・・・・・・。」
俺は言葉を失くして立ち尽くし、四角い風呂を振り返る。
背中には嫌な汗が滲んでいて、冷たく絡みつくように流れていった。
・・・嫌な・・・・・ともて嫌な感覚が蘇る・・・・・。
身体じゅうが黒い液体で満たされ、手足を拘束されるような、吐き気を催す感覚が襲ってくる。
夏だというのに寒さを感じ、プツプツと鳥肌が立つ。
裸で真冬の中に投げ出されたように、居ても立ってもういられないほど寒くなり、気がつけばブルブルと震えていた。
そこへそっと誰かが触れて、腕に暖かい感触が広がる。
目を向けると、友恵が心配そうな目で見つめていた。
「・・・・大丈夫?」
労わるような言葉、労わるような視線、そのどちらも、俺には覚えがある。
《あれは・・・・どこだった?いったいどこで・・・・・・?》
記憶・・・・というのが、もし糸が絡まって出来ているとしたら、俺の記憶は何かを複雑に巻きつけていた。
間違った巻き方、間違った結び方。
毬藻のようにこんがらがり、何かを覆い隠そうとしている。
友恵はじっと俺を見つめる。そしてもう一度「大丈夫?」と尋ねた。
その視線、その言葉が、記憶の紐をぐるぐると解いていった。

取り残された夏の中へ 第七話 祖父と銭湯(1)

  • 2015.07.15 Wednesday
  • 10:19
JUGEMテーマ:自作小説
真夜中の住宅街は、不気味なほど静まり返っている。
街灯に羽虫が集まり、遠くの方では電撃殺虫機がバチバチと音を立てている。
「じゃあなデブ。打たれた所は冷やしとけよ。」
そう言いながら、佐野が車を降りて行く。
家の門を開け、「斎藤もたまにはこっちに帰って来いよ」と手を振った。
俺も手を振り、「気が向いたらな」と返す。
佐野は背中を向けたまま手を振り、家の中へと消えて行った。
「あいつまだ酔ってるな。家に入る時までカッコつけてたぞ。」
そう言うと、「それだけ楽しかったんだよ」と友恵が笑った。
「実花ちゃんのことで落ち込んでたけど、ちょっとは元気になったみたい。」
「そうだな。園田とスパーリングしたおかげだ。さすが幼馴染。」
そう言って運転席の園田を見つめると、「まあ付き合いは長いから」と答えた。
「なんかお互いの考えてることが分かるんだよな。」
それを聞いた友恵は「いいなあ、そういう友達」と羨んだ。
「でも面倒臭いことだってあるんだぜ。昔っからの友達って、簡単に縁が切れないからな。仲が良いうちはいいけど、喧嘩したら最悪だし。」
「へえ、そういうもんなの?」
「今でこそあんまり喧嘩しないけど、昔はしょっちゅうだったな。でもいつの間にか一緒にいるんだよ。」
「そういうのが憧れるのよ。幼馴染って、どう頑張ったって後から出来ないでしょ?だからやっぱり羨ましい。」
友恵は頬を緩ませ、佐野の家を見つめる。園田は「夢見過ぎだよ」と言いながら、車を発進させた。
「お前らも送ってくよ。斎藤ん家は知ってるけど、友恵はどの辺だっけ?」
「ええ〜・・・・覚えてないの?」
「だってお前の家に集まるなんて少なかったじゃん。ショッピングモールの近くだっけ?」
「それ実花ちゃん。私の家は反対側だよ。」
「そうだっけ?まあとりあえず送ってくよ。」
園田はハンドルを切り、先の角を曲がって国道に出る。
「斎藤の家の方が近かったよな?」
「ああ。」
「じゃあお前ん家から行くわ。」
そう言って車の少ない国道を飛ばし、大きな川の手前まで差し掛かった。
川には橋が架かっていて、渡った先を左折すれば細い路地に入る。そこを真っ直ぐ行けば俺の実家なのだが、友恵は突然「止めて」と言った。
「どうした?」
「この通りの近くにさ、潰れた銭湯があったでしょ?」
「ああ、そういえばあったな。けっこう繁盛してたはずだけど、何で潰れたんだろうな?」
園田はそう言って、細い路地をゆっくり走る。そして左へと曲がり、さらの細い道へと入って行った。
そのすぐ先には潰れたスーパー銭湯があって、駐車場の入り口には鎖が掛っていた。
「こんな所に来てどうするんだ?」
園田が不思議そうに尋ねると、友恵は何も答えずに車を降りて行った。
「どうしたんだアイツ?」
怪訝な目で見つめながら、園田は俺を振り返る。
「こんなとこに何の用があるんだ?」
「さあな。でももしかしたら・・・・・、」
「もしかしたら?」
「アイツさ、昔ここでバイトしてただろ?」
「そうだっけ?」
「確か大学の時だったはずだ。一度みんなで入りに来たじゃないか。」
「大学っていうと・・・・・もう何年も前だな。そんな事あったっけ?」
「あったよ。お前は熱いからって、すぐに上がって行ったんだ。そんで男連中は、女の長風呂に待たされただろ。木根がキレかけてさ。」
当時の事を思い出し、身ぶりを交えて伝える。
園田は上目づかいに難しい顔をして、「ああ!そういえばあったな!」と手を叩いた。
「木根がキレて、女子に食ってかかったんだ。そしたら実花が泣いて、涼香は木根にキレて・・・・・、」
「そうそう!あんまり騒ぐもんだから、店員に追い出されたんだ。後から俺たちが友達だってバレて、えらい迷惑したって友恵が愚痴ってただろ?」
「あったなあ・・・・そんなこと。」
園田はしみじみと言い、俺と同じように当時の事を思い出している。
しかしすぐに「ん?」と顔をしかめ、「あれ・・・・でも・・・?」と唇をすぼめた。
「あの時ってさ・・・・確か正也もいなかったか?」
「正也が?んなわけないだろ。大学の時なんだから、正也はもう・・・・、」
「いやいや、確かにいたよ。俺の記憶に間違いがなければ、あの時・・・・・、」
園田はさらに唇をすぼめ、眉間に皺を寄せる。しばらくその表情のまま固まり、「ああ、思い出した!」と指差した。
「ここには二回来てるんだよ!みんなで!」
「二回・・・?」
「そうだよ!お前が言ってるのは大学の時の話だろ?でも俺が思い出してたのは、高校の時なんだ。あの時も一回ここへ来てるんだよ。」
「高校の時に・・・・・?みんなで来たっけ?」
「来たよ!絶対に来た!だって正也もいたからな!」
園田は興奮気味にまくしたてる。今度は俺は記憶を掘り起こす番で、「そんなことあったかな・・・・?」と腕を組んだ。
「お前が言ってるのは大学ん時の話。俺が思い出したのは高校ん時だ。あの時も木根と涼香がキレて喧嘩したんだよ。似たような状況だったから、記憶が混乱してた。」
「・・・・・ごめん、思い出せない。」
「なんだよ、記憶力の悪い奴だな。」
「でも思い出せないもんは思い出せないんだ。俺が覚えてるのは、大学ん時に来たやつだけで・・・・、」
そう言いかけた時、誰かがコンコンと窓を叩いた。
見てみると、友恵が外へ降りるように合図していた。
「なんだ?」
ぼやきながら車を降りると、急に弾けた笑顔になって「中に入ってみない?」と言い出した。
「中って・・・・この銭湯の?」
「そう。ここ思い出の場所なんだ。だからちょっと覗いてみたくて。」
「でも勝手に入っていいのか・・・・ここ?」
「ダメだと思うよ。だけど誰もいないから大丈夫でしょ。」
「そりゃそうだろうけど、でもなあ・・・・・。」
俺は廃館になった銭湯を睨み、どうしたものかと悩んだ。
《今は高校生じゃないんだし、もし見つかったらそれなりに厄介な事になりそうなんだけど・・・・・。》
高校の時なら迷わず入っていただろうが、今は躊躇う。
もうイタズラが許される歳ではなく、誰かに通報されたら、警察に捕まってこってり絞られるだろう。
この歳になって、そんなガキみたいな事は避けたい。だから断ろうと思ったのだが、友恵は廃館になった銭湯を見つめてこう言った。
「ずっと来たかったんだよね、ここ・・・・・。でも一人じゃ中に入る勇気がないから、ずっと迷ってた。」
そう言って俺の腕を掴み、「一緒に入ってくれない?」と尋ねた。
「さすがに一人で入るのは怖い。でも斎藤君が付き合ってくれれば・・・・・、」
「いや、やっぱ勝手に入るのはマズイだろう。高校ん時とは違うんだぞ?」
「そんなの分かってるよ。でもどうしても入りたいの。お願い、一緒に来てくれない?」
俺の腕を引っ張り、うんと言うまで離しそうになかった。
困った俺は後ろを振り返り、園田に助けを求めた。
「なあ・・・・お前も行くか?」
そう尋ねると、「俺はいいや」と答えた。
「さっきのスパーリング・・・・ぶっちゃけキツかったんだよな・・・・。早く帰って休みたいんだけど・・・・。」
「だよな。お前が送ってくれなきゃ、歩いて帰んなきゃなんないし・・・・。」
すると友恵がその声に被せるように、「私がタクシー呼ぶから」と言った。
「タクシー代出すから、一緒に行こ。」
「なんでそこまでして入りたいんだよ?昔ちょっとバイトしてただけだろ?」
「違うの。バイト先だったからじゃなくて、もっと別の理由が・・・・・、」
そう言いかけて、友恵は口を噤む。そして悲しそうに眉を寄せながら、「ダメ・・・?」と見つめてきた。
そんな泣き落としをされても、はいそうですかと頷けない。俺だって今日はなんだかんだと疲れてしまったので、出来れば早く帰って休みたかった。
それに万が一警察に捕まったらと思うと、情けなくて恥ずかしくなる。
どうしたものかと困っていると、「どうするか決めてくれよ」と園田が急かした。
「家に帰るんなら送るし、ここに入るんなら俺は帰るぞ。一応明日から仕事だし。」
「そうなのか?」
「夜勤なんだよ。三交替の工場だから、ちょうど明日がその日なんだ。」
園田は欠伸をかみ殺し、さっさと決めてくれという目で睨む。
すると友恵が「ごめんね、帰ってくれて大丈夫だよ」と言った。
「園田君まで付き合わせるわけにはいかないから。」
「おい、俺はいいのかよ?」
「だって仕事は明後日からでしょ?」
「そうだけど、でも俺だって帰りたいぞ。」
「一生のお願いと思って付き合ってよ。無理言ってるのは分かってるけど・・・・・お願い!」
そう言って手を合わせ、頭を下げて懇願する。どうやら意地でも中に入るつもりらしい。
「もういいじゃんか、付き合ってやれよ。」
さっさと家に帰りたい園田は、大きな欠伸をしながら言った。
「友恵がここまで頼むなんて珍しいぞ。付き合ってやればいいじゃん。」
「でもなあ・・・・もうガキじゃないんだし、こんな所に忍びこむなんて・・・・・。」
「見つかりゃしねえよ。」
「んな無責任な。」
「警察に捕まったら、俺が引き取りに行ってやるよ。酔った勢いでやっただけなんですって説明してやるから。」
「大きなお世話だよ。」
「とにかく早く決めてくれ。鼻が痛いんだよ。」
そう言って殴られた鼻を押さえ、「また鼻血が・・・・」と顔をしかめた。
「ごめんね園田君、私たちは置いて帰ってくれていいよ。」
「おい!俺は行くなんて言ってないぞ。」
「斎藤君のことは気にしなくていいから、早く帰って休んで。」
そう言ってドアを閉め、「気をつけてね」と手を振った。
「おう、じゃあ斎藤は頼むわ。」
「うん、ここまで送ってくれてありがとう。」
園田は手を振り返し、クラクションを鳴らして車を発進させる。
そして窓を開けて、「またな!」と叫んだ。
「またみんなで集まろうね!」
友恵は笑顔で手を振り、車が角の先に消えるまで見送った。
「・・・・・・・・・・・。」
急に予想もしない展開になり、俺はその場に立ち尽くす。
このまま家に帰る予定だったのに、なぜか廃館になった銭湯に忍びこむことになってしまった。
「あのさ・・・・一つ聞いていいかな?」
重い声で尋ねると、友恵は背中を向けたまま「なあに?」と言った。
「どうしてそこまでここに入りたいんだ?何か理由があるのか?」
「あるよ。」
「じゃあそれを教えてくれよ。じゃないと納得出来ない。」
「理由は二つあるの。」
そう言って振り向き、俺の前に歩いて来た。
そして鼻が触れるほどの距離で止まり、じっと見つめる。
《なんだコイツ・・・・まさか誘惑してるとかじゃないよな・・・・。》
別に恋愛感情など持たないが、それでもここまで近くで見つめられると、さすがに妙な気分になる。
もし・・・・もしこの流れでキスをしたらどうなるのか?
そしてその流れのまま、どこかでセックスに持ち込むとどうなるのか?
今さらコイツに恋心はないが、もしそういう流れになったとしたら、俺はコイツのことをどう思うんだろうか?
色々と妄想しながら見つめ合っていると、友恵はふと視線を逸らした。
「一つはね、おじいちゃんの思い出の場所なの。」
「ん?」
意味が分からず、眉をしかめて聞き返す。
「だってまだ思い出巡りは続いているんでしょ?だから私の思い出の場所に来たかったの。」
「いや、間を省き過ぎてて分かんないよ。いったいどういうこと?」
真剣な声で尋ねると、友恵は「おじいちゃん、ここで死んだんだ・・・」と言った。
「は?ここで?」
「うん。寒い冬場に来てね、長いことサウナに入ってたの。その後水風呂に浸かって、心臓発作を起こした。お店の人が必死に心肺蘇生をしてくれたけど、ダメだった・・・・。救急車が来た時には、もう息が・・・・・。」
途中で声が掠れ、唇が震えだす。目にはじんわりと涙が溜まり、それを見られないように顔を逸らした。
「おじいちゃん・・・・痴呆が入り始めて、養護施設に入れられることになってたの・・・・。でもそれをすごく嫌がってて、自分はそんな場所で死にたくないって・・・・・。」
だんだんと泣き声になっていき、ずずっと鼻のすする音が響く。
俺は黙って聞いていて、話の続きを待った。
「でもお父さんとお母さんは、もう施設に入れるって決めてたから・・・・。だからどんなにおじいちゃんが嫌がっても、施設に行かなきゃならなかった。それである日、一人でここへ来たの・・・・・。勝手に一人で出掛けちゃダメだって言われてたのに、歩いてここまで・・・・・。」
「お前の家からか?かなり遠いぞここ。」
「うん・・・・。でも施設に入ったら、きっと二度と家に帰れないって分かってたんだと思う・・・・。それが嫌でここへ逃げて来たのよ・・・・。元気な時はずっと来てたし、私が小さい頃も、一緒に連れて来てもらったことがあるから・・・・。」
「そうなのか・・・・。それで思い出の場所か。」
「ここへ来れば、友達がいると思ってたのよ・・・・。元気な頃に通ってた時は、ここにたくさん友達がいたから・・・・。でもそれって、まだ私が子供の頃の話・・・・。だからここへ来たって、その時の友達はもういない・・・・。だってその友達だって、みんなおじいちゃんだったから・・・・・。」
「それ・・・・なんか切ない話だな・・・・。」
「おじいちゃん呆けてたから、ここは当時のままだと思ってたみたい・・・・。でも周りは知らない人ばかりで、だから友達が来るのを待ってたのよ・・・・。ずっと一人でお風呂に浸かって、長い間サウナに入って・・・・・。そして水風呂に入った時に・・・・・・。」
「ああ・・・・・なるほど。」
「私、これでもけっこうおじいちゃん子だったの。だからすごいショックだった・・・・。おじいちゃんが亡くなったこともショックだったけど、それ以上に一人で死んじゃったのが可哀想・・・。あんなに施設に行きたくないって言ってて、それでここに来たら、昔の友達はもういなくて・・・・・誰も知ってる人のいない中で、たった一人で死んじゃった・・・・。」
「辛いな・・・・・。」
「私だけでも、おじいちゃんの味方をしてあげればよかった・・・・・。施設になんか入れないでって、味方してあげればよかった・・・・。せめて・・・・・亡くなる時に・・・・私だけでも傍にいてあげたかった・・・・・。」
友恵はとうとう泣き出し、顔を覆う。ハンカチを出そうとバッグを探ったが、園田にあげてしまったことを思い出す。
だから両手で顔を覆い、むせびながら泣いていた。
俺は戸惑いながら手を伸ばし、そっと背中を撫でた。
嫌がるかと思ったが、友恵はただ背中を向けたまま泣き続け、「ごめん・・・・」と俺の手を握った。
「なんか・・・・まだ小さかった頃に、おじいちゃんと一緒にここへ来たことを思い出して・・・・・。」
「うん・・・・。」
「おじいちゃんが亡くなってから、一度もここへ入ったことが無いの・・・・。いつかは来ようと思ってたんだけど、去年潰れちゃったから・・・・・。」
「そんな理由があるなら、始めから言ってくれればよかったのに。」
「だって・・・・絶対に泣くって分かってたから・・・・。」
「泣くのを見られたくなかったのか?」
「出来れば・・・・・斎藤君以外には見られたくなかった・・・・。」
「俺はいいわけ?」
「なんでだろうね?斎藤君ならいいかなって、そう思ったの・・・・。だから二人きりになるまで言えなかった・・・・・。」
必死に涙を拭い、赤くなった目で振り向く。そして無理矢理笑顔を作って、大きく息を吸い込んだ。
「おじいちゃんが亡くなったのっていつ?」
「四年前・・・・。去年三回忌で、その時もここへ来ようと思ったんだけど・・・・・、」
「すでに潰れてたと?」
「そう・・・・。だからここへ入るなら、今日しかいないと思って・・・・・。」
「そっか・・・・。そういう理由なら全然付き合うよ。」
俺は笑顔を見せ、「じゃあこそっと入っちゃおう」と言った。
しかしふと思い出し、「そういえば・・・・もう一つ理由があるって言ってなかったっけ?」と尋ねた。
「おじいちゃん以外にも、ここへ来たかった理由って何?」
「それは後で話すよ。とにかく入ろ。」
友恵は言葉を濁し、駐車場の鎖をまたいでいく。
《こいつ何か隠してるな・・・・・。》
二人きりになっても喋らないということは、そう簡単に話せる理由じゃないんだろう。
だけど一緒に入ると言ってしまったし、「やっぱやめた」とは言えない。
先を行く友恵を追いかけて、俺も鎖をまたいだ。
駐車場は広く、何十台も車が停められるスペースがある。
幾つも並ぶ街灯は、もう光を灯すことはない。
昔は駐車場いっぱいに客が来ていたのに、今では羽虫の群れが飛んでいるだけだ。
別にここに思い入れがあるわけじゃないが、なんだか少し寂しい気分になった。
駐車場を歩き、店の入り口の近くまで来ると、その不気味さに圧倒された。
かつて大勢の客で賑わっていた銭湯が、真っ暗に静まり返っている。
ガラス張りのドアから、中の不気味な様子が伝わって来た。
友恵は足を止め、少し怖そうにしている。そして俺を振り向き、「一緒に入ろ」と言った。
「ちょっと怖いけど・・・・・斎藤君が一緒なら大丈夫。」
言い聞かせるように頷き、ドアに手を掛ける。
本来なら左右に開く自動ドアだが、今では勝手に開くことはない。
友恵は力いっぱい開こうとするが、まったく開く気配はなかった。
「鍵がかかってるんだよ。まあ当たり前だけど。」
「じゃあ裏口に回ろう。」
「裏口?そんなもんあるの?」
「駐車場の奥にね。もしそこも閉まってたら・・・・・、」
「閉まってたら・・・・・?」
「壁を登るしかない。」
「壁を登るって・・・・・そんな事出来るのか?」
「野天風呂の壁があるのよ。二人で協力すれば、登れない高さじゃないと思う。」
そう言って入り口を迂回し、裏口とやらに回って行く。しかしここも鍵が掛っていて、残念そうにため息をついた。
「斎藤君、反対側に回ろ。そこから壁を登るしかない。」
「いや、でもなあ・・・・、」
「いいから早く。」
友恵はスタスタと歩いて行き、暗い駐車場を抜けて行く。そして裏口とは反対側まで回ると、高くそびえる壁を見上げた。
「この先が野天風呂なの。男子の方のね。」
そう言って壁を指差すが、それはとても登れそうな高さではなかった。
「これ無理だろ。それに登ったとしても、下りる時に困るぞ。」
「大丈夫。もし昔のままなら、あの場所にあれが・・・・、」
そう言いながら、友恵は駐車場の植え込みの裏を探る。そして何かを見つけて、重たそうに引きずり出した。
「おい、なんだよそれ?」
「梯子。ボロくて使えなくなったから、ここに捨てたままになってるの。残っててよかった・・・・。」
長い梯子をズリズリと引きずり、壁の前まで持って来る。それをどうにか立て掛けると、「ふう・・・・」と息をついた。
「よし、これで行ける。」
「いや、行けるって・・・・この梯子ボロボロじゃないか。」
「古いやつだからね。」
そう言ってニコリと笑い、梯子に足を掛ける。
木で出来た梯子は、ミシミシと音を立て、いつ折れてもおかしくない様子だった。
それに真ん中の足場が折れてるし、木そのものが腐っている。
そんないつ壊れるか分からない梯子を、臆することなく登って行った。
《こいつこんなにアグレッシブだったっけ・・・・?》
俺の記憶では、友恵はもっと大人しいお嬢様タイプだった。
それがいつの間にか、多少のことではビビらない大人の女になっていたらしい。
友恵は見る見るうちに梯子を登って行き、壁に足を掛けた。
「おい、大丈夫か?」
「ちょっと怖いけど・・・・・なんとか。」
そう言って壁にしがみつき、まるでスパイダーマンのように張り付く。そして「何か照らす物ない?」と言った。
「照らす物?・・・・ああ、ちょっと待ってろよ。」
俺はスマホを取り出し、ライトの機能をオンにした。フラッシュを焚く丸い部分が光り、友恵の足元を照らす。
「これでいいか?」
「うん、そのまま照らしといて。」
「登ったのはいいけど、下りるのは大丈夫なのか?」
「近くに物置きがあるの。そこに足を置けばなんとか・・・・・。」
そう言ってよじよじと壁を登り、どうにかその上に立った。
そして自分もスマホを取り出し、ライトを着けた。
俺はその様子を見上げながら、嬉しいような恥ずかしいような気分になっていた。
《こいつアグレッシブなのはいいけど・・・・・自分がスカートってこと忘れてるんじゃないか?》
下からライトを照らしているせいで、スカートの中が丸見えになっている。
下着と言うのは、チラッと見える分には興奮するが、こうして堂々と見てしまうと、なんだか恥ずかしいような申し訳ないような、何とも言えない気分になってくる。
しかしそれでも目を逸らすことが出来ないのは、男の悲しい性なのだろう。
友恵は身を屈め、壁の向こうに消えていく。そしてドタドタと何かを踏みつける音がして、「痛!」と叫んだ。
「おい!どうした?」
「ごめん・・・・ちょっと着地を失敗しただけ・・・・・。」
「無理するなよ。」
「入り口の鍵を開けて来るから、ちょっと待っててね。」
そう言い残し、足音が遠ざかる。俺は入り口まで戻り、ガラスのドア越しに、友恵が走って来るのを見つめた。
ガチャリと鍵が外れ、ドアが左右に開いた。

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