海の向こう側 最終話 海の向こうへ(2)

  • 2018.05.28 Monday
  • 13:43

JUGEMテーマ:自作小説

旅立ちの日というのはいつだって新鮮な気分になるものだ。
一年前、地元を離れて新たな地で生活することに、不安以上の期待とワクワクを感じていた。
結果としてはただ一年という時間が流れた一年でしかなかったが、今振り返ってみると悪いチャレンジだと思えないのは、思い出を美化する脳の補正機能のせいかもしれない。
ただもしそうだとしても、自分で決めた行いを後悔しないのは良い事だ。
過去を振り返り、単に嫌な時間を過ごしただけだとしか思えないのなら、私はいつだってあの小さなプールの中にいる羽目になるだろう。
小さな頃は広くて楽しいと感じたあの世界は、外から見れば水溜り程度の大きさしかない、幼児向けの玩具であるというのが真実だ。
あれを必要とするのは、まだ自分と外の世界の区別が上手くつかない年頃の子供だけであり、自分と外界の間に隔たりがあると気づいたのなら、もうどこにも必要ないのだ。
本当ならとっくに地元を離れて、新しい街で生活しているはずだったのだが、美知留のせいでそうもいかなくなった。
内定をもらっている会社に事情を話すと、それなら落ち着いてからでいいから連絡をくれと言われ、ありがたく就職日を引き延ばしてもらったのだ。
荷物はとりあえず新居に送ってあるので、手荷物だけリュックに詰め、家族と気恥ずかしいさよならの挨拶だけ交わしてから駅に向かっていた。
しかしそこへ向かう前に一つだけ寄り道をしなければならない場所がある。
駅へ向かう交差点を左へ曲がり、海岸沿いの道へと足を進めていくと、砂浜にやっくんが立っていた。
相変わらずゴツイ肉体だなと、盛り上がった肩と背中の筋肉に目を細めながら、「やっくん」と手を挙げる。
「こんな朝早くに呼び出してごめん。」
時刻は午前七時、振り向いたやっくんは微塵の眠気も見せずに「おう」と微笑んだのだが、私の姿を見てその微笑みを消してしまった。
予想していた反応ではあるが、生のリアクションというのは面白く、無言のまま傍まで行って、向こうから何を言ってくるのを待った。
ジロジロと私を見るその目には疑問符が浮かんでいて、眉間の皺はどんどん深くなっていき、やがては阿修羅のごとき形相に変わってしまうほどだった。
言いたいことは分かるし、考えていることも分かるし、それでもこちらから何も言わないでいるとようやく口を開いた。
「どうしたん?なんかあったん?」
まったく想定していた通りの質問に可笑しくなってしまい、「まあ」と頷いてみせた。
「ちょっとした心境の変化というか。」
「めっちゃ女の子らしい格好しとるやん。髪もちょっと伸びてへん?」
「これからまた伸ばそうと思って。」
「服もボーイッシュな感じのやつはやめたんか?」
「これも昔に戻そうかと思って。」
「何があったんや?」
「大したことじゃないよ。気持ちの問題だから。」
肩まで届きそうな髪、制服以外で穿く10年ぶりのスカート。
シャツもずっと男物のSサイズを着ていたのだが、それもやめて全ての服を女物で買い揃えた。
ちなみにリュックもちょっとばかしオシャレなものを買い、靴だって久しぶりに女物のブーツなんてものを履いてみた。
こいつを買いに行ったのは一週間ほど前で、こういう服を選ぶなんて久しぶりだったものだから、姉について来てもらったのだ。
私が選んだ物はダサいと即却下され、こっちの方がいいとあれこれコーディネートされた結果、今は文化系女子みたいな格好をしている。
背が低くて童顔なので子供っぽく見えないか?と尋ねたら、そういう格好が似合うんだからいいじゃんと言われ、迷った挙句に決めたのだ。
買い物を終えて店を出る時、姉はとても嬉しそうな顔をしながら、「ついでにご飯でも行こうか」とこっちの返事を聞く前に車を走らせた。
「あんたと一緒に出かけるなんて久しぶりだわ。」
笑顔を絶やさずに話し続ける姉を見るのは、いったいいつ以来だろうかと記憶を探るほど、遠い昔のことに思えた。
この数日、姉だけでなく両親ともよく話をした。
数少ない地元の友達にも会って、この姿を見て誰もが驚いた顔をしていたが、数分後には互いに笑いながら喋っていた。
友達とこんな風に喋ったのもいつ以来だろうと思い出すほどで、なるほど・・・今になれば昔に姉が言っていた意味が分かる気がした。
私はいつまでもあの小さなプールにいたいと思っていて、そのせいでいつしか周りとズレが生じて、心のどこかで人を突き放すようになっていたのかもしれないと。
その行き着く先がお姉ちゃんの真似をして生きるという人生だったわけだけど、これも今振り返れば無駄ではなかったかもしれない。
360度回って同じ場所に戻って来るにしても、一歩も動かないのと一周してきたのとでは経験値が違う。
過去の10年が意味のある事だったのだと信じたい。
そうでなければ、私は今でも小さなプールに入ろうとしていただろうから。
どうして海に来るともう一人の自分が見えたのか?
これも今ならちょっと分かる気がした。
だが言葉にはすまいと、もう誰も見えなくなった水平線を見つめながら、ぼんやりと佇んでからやっくんを振り返った。
「みっちゃんなんでそないに変わったんや?まさかまた美知留がなんかしてきたんか?それやったら俺許さへんで。
刑務所の塀越えてでもドツきに行ったるわ。」
太い腕を力ませると筋が浮かび上がり、「ほんと逞しいな」とその腕を叩いてやった。
「美知留は関係ないよ。それに今は拘置所だから。まだ刑務所には行ってない。」
「刑務所と拘置所って違うんか?」
「拘置所は裁判中の被告が行くところ。その後に刑務所に行くのか釈放されるのかが決まる。」
「絶対に刑務所行きやろアイツ。もし無罪放免で出て来たってみっちゃんには合わせへんで。」
「ボディガードを買って出てくれるのはありがたいけど、私この街出るんだ。だからもう美知留とは合わない。」
「出て行く?・・・ああ、そういやそうやったな。美知留の事があったから延期になったんか。」
「そういうこと。今日出発するんだ。」
「今日?えらいいきなりやな。なんでもっと早よう教えてくれへんねん。なんかお別れの挨拶とか、ご飯をご馳走したりとかしたかったのに。」
「いいよいいよ気を遣わなくて。それよりさ、やっくんに・・・・・、」
言いかけて口を止める。
今日ここへ彼を呼び出したのは、幼い頃の記憶の誤りを訂正する為であった。
私と美桜里君を混同し、なおかつ四歳の頃の約束を今でも覚えている彼の人生は、ある意味で私の10年と同じである。
正しい道筋を生きていなくて、それに加えて生来の思い込みの強さと激しさが、どんどんおかしな方向へ彼を導いているのだ。
それを正さない限り、いつかまた私を追いかけ、下手をすれば美知留と同じような運命を辿る可能性がある。
私は美知留とやっくんとの二人に振り回されてきたけど、視点を変えれば私自身がその元凶だった。
私が偽りの人生なんて歩いていなかったら、この二人はもっとまっとうな道を歩いていたはずだと思っている。
ここでケジメを着けなければ、お互いにとって良い未来はやって来ないだろう。
だから彼の記憶を正さないといけない。
その為に昨日からどう説明しようかと何度も練習したのだが、いざ本人を前にすると、それをする事に意味がないような気がした。
きっとどう説明してもやっくんは納得しないだろう。
もしかしたら今だけは記憶を正せるかもしれないが、いつまた別の事と絡めてしまうか分からない。
正直なところそっちの方が恐ろしく、であれば余計なことは伝えずに、私の素直な気持ちだけ伝えることにした。
その後に彼がどう行動するかは分からないけど、そうなったらそうなった時のことであると、腹を括るしかあるまい。
私へのストーキングをやめてくれるのならそれでOKだし、しつこく付きまとうなら容赦しないだけだ。
いくら高校以来の友達であろうとも、美知留と同じく塀の向こうへ行ってもらうことになる。
そしてそんな事にはならないはずだと、彼を信じて告げてみることにした。
「やっくんとはもう会わない。」
もう少しオブラートに包んで告げるつもりだったのに、恐ろしいほどストレートに言葉が出てきてしまった。
あまりにハッキリ言ったもんだから、理解が追いつかないのか、やっくんの表情は先ほどと何も変わらなかった。
ならば今度はもう少しマイルドに言おうかと表現を考えていると、彼は表情を変えないまま「そうなん?」と答えた。
「もう縁切るってこと?」
「そうなるね。私がいるとやっくんも美知留も迷惑するよ、きっと。
本当はこんなこと言っちゃいけないんだろうけど、私たちって出会わない方がよかったのかもしれない。
だって私、ずっと自分に嘘ついて生きてきて、やっくんたちが知ってる私は嘘の私なんだ。
でもってもう嘘の自分は終わりにすることに決めたんだ。だからもう友達じゃいられない。
二人が知ってる私は幻みたいなもんだから。」
口にしてみて恐ろしく自分勝手なことを言っていると再確認する。
要は過去を捨てたいから、その時の人間関係を解消しましょうって押し付けてるだけなのだ。
もっともらしい理屈を並べたところで、ワガママで自己中な奴であることに変わりはない。
けど変わらなきゃいけない時は誰にでもあるはずで、そういう時はあらゆるものを清算しないと、前に進めないはずでもある。
例え親しかった人を傷つけたとしても。
「言い訳はしない。全部自分の都合で決めたことだから。私はもう偽物の人生を歩くのが嫌になって、その時のことはもう引きずりたくないんだ。
自分勝手だって分かってる。分かってるけど・・・・分かってほしい。」
相変わらず表情を変えないやっくんの目は、悲しまれたり威圧されたりするよりよっぽど堪える。
目を逸らし、海の向こうに横たわる水平線に意識を向けて、もう二度ともう一人の自分があそこに現れないことに安心する。
もしもまだあそこに自分が見えるなら、私は自分の気持ちにも言葉にも自信を持つことは出来ない。
あそこにもう一人の私が見えないということは、つまりあそこにいたもう一人の私が、今の自分であるという証だ。
「やっくんさ、ほんとに一方的で悪いと思ってるよ。でももう決めたんだ。その方が私にとってもやっくんにとっても良い事だと思う。
だから本当にごめん。もう私は美知留にもやっくんにも合わない。そう決めたから。」
やはり自分勝手だと思いつつ彼を振り返ると、まったく顔色を変えないままだったので、少し不気味に感じた。
いったい頭の中では何を考えているのか探ってみたが、皆目見当も付かない。
もしこのまま何も返して来ないなら、私の用はここで終わりとなって、やっくんも過去の人となるだけだ。
しばらく待ってみたが何のリアクションもなかったので、もうこれで全て終わったと、少しだけ笑顔を見せた。
「言いたかったのはそれだけ。こんな朝早くに呼び出してごめんね。
でも電話とかメールとかじゃなくて直接言わなきゃいけないことだと思ったから。」
リュックを背負い直し、踵を返しながら「じゃあ」と手を挙げた。
「やっくんも元気でね。」
案山子のように棒立ちのままの彼の脇を通り抜け、海岸沿いの道へと上がっていく。
振り向けばこの前と同じように足跡が伸びていて、その先にはじっと佇んだままのやっくんがいて、後ろめたさと開放感が同時に押し寄せてきた。
彼まで続くこの足跡は遠からず消えて、過去への道を断ち切るものとなることを望む私は、やはり自分勝手で酷い奴なのだ。
けどそれでいい、今はそれで。
偽りの人生は狭いプールと同じく、どう足掻いても小さな世界の中しか回ることが出来ない。
その昔、海の向こう側には魔法使いになれる世界があると信じて、遠い彼方を臨もうとしていた。
あの時、その願いをやっくんに託そうとしたのは本気ではなく、いつかは自分でやらなければならないのだということは、心のどこかで分かっていた気がする。
幼い子供心に、ずっと子供のままではなく、いつか大人になって、今とは違う自分になるんだろうと分かっていたのだ。
ゆっくりと海岸線の道を歩き、ふと振り返るとやっくんはまだそのまま佇んでいた。
いったい彼が何を考えているのか探るのは意味のないことなんだろう。
けど少しばかり目を止めていると、突然にこちらを振り返ったので、思わず手を振った。
ここからでは聴こえないだろうけど、ぼそりと呟いてみた。
「いつかまた。」
さっき会わないと言ったばかりなのに、どうしてこんな言葉が出てくるんだろうと、少し悩んでしまう。
小さく手を振ってから踵を返し、背中を向けて歩きながら、まだ過去への迷いがあるのかもしれないと、悶々と空を仰いでしまった。
いつかたま・・・というのは、その通りいつかまたってことだ。
美知留もやっくんも、私にとってはとても印象的な人物だった。
美桜里君だってそうだし、何よりお姉ちゃんも。
おそらくだけど、いつかまたはみんなに言った言葉なんだろう。
それはつまり、人真似をしていた過去の私に対しての言葉であるのかもしれない。
過去は断ち切っても、思い出まで捨てることは出来ないのだ。
これから10年か20年か分からないけど・・・いや、もっと早い段階で昔を振り返るかもしれない。
人生を変えるには三つの方法しかないのだと、いつかどこかで目にしたことがある。
一つ、時間の使い方を変える。
二つ、住む場所を変える。
三つ、人間関係を変える。
この三つでしか人生は変わることがなく、そして最も意味のないことが「決意を新たにする」だそうだ。
気持ちだけでは何一つ変化は起きず、気持ちを元に実際に行動を起こした時にこそ、初めて変化がもたらされるって意味なんだろう。
私は変わりたいと思う。
その為に強い気持ちを持つことはできたし、実際に変化を起こす為にこうして行動も始めた。
住む場所を変え、人間関係を変えることで。
そうなれば自ずと時間の使い方だって変わるだろう。
けどまだ結果は出ていない。
もう夢見る幼い子供でもなければ、無意味に可能性を信じる思春期の学生でもない。
踏み出したその一歩の為に、ともすれば過去の方が良かったと後悔した人も大勢いるだろうし、取り返しのつかない傷を背負った人だっているだろう。
だからこそ変わるっていうのは怖いことで、踏み出すには勇気が必要なのだ。
私は明るい未来が待ち受けているなんて信じていなくて、それでも幻の自分を捨てて新しい人生を歩こうと思ったのは、単に気持ちの問題だ。
もう嘘をつくのは嫌で、偽りは時間と共に苦しみしかもたらさないのだなと知ってしまったから、そこから抜け出そうと望んだだけである。
ずっと短いままにしていた髪が少し伸びたせいで、柔らかい潮風にも反応して、先端がふわふわと揺れている。
それはまるで、喜んで踊っているように感じてしまい、また昔みたいにメルヘンな性格に戻ってしまったのだろうかと、青臭さに恥ずかしくなる。
服も靴も新しくして、歩くたびに足元に感じるブーツの感触も新鮮で、それをもう少し長く感じていたくて、駅へ曲がるはずの交差点を過ぎてしまう。
曲がるべき道を無視したことがなぜか気持いい。
そして次なる交差点まで来ると、今度は100メートル先に陸橋が見えた。
近くに小学校と中学校があるもんだから、子供達の通学路にと、何年か前に建てられたものなんだけど、子供が優先なのは登下校の時間帯だけ。
今はまだそれより少しばかり早いので、私が一番乗りとばかりに、またしても曲がるべき道を無視して進んだ。
陸橋へと差し掛かり、一歩一歩確かめるように階段を登って、地上よりも少しだけ高い位置から海を眺めてみる。
地平から眺める水平線は、まるで目に見えない外界との境界線に思えるものだが、こうして高い位置に登ってもそれほど差は感じられない。
高い位置に来れば水平線がより向こうへ伸びるだけで、結局のところ外界をこの目で確認することなど無理だと分かる。
もしその向こうまで船で渡っていったとしても、やはり何も変わらないだろう。
島が見えたなら、大陸が見えたなら、それはもう外界ではなくて、ただ足を踏み入れたことのない地上の土地があるだけだ。
今なら分かる。
どうして私が偽物の人生を歩んできたのかが。
それはイジメが怖かったからでも、お姉ちゃんに憧れたからでもなく、孤独が怖かったからでもない。
そういうものとは違う、実に純粋で、幼稚で、真っ白で、脆くて、楽しくて、儚いことが理由だったのだ。
けどやっぱりそれは言葉にはすまい。
言葉にしてしまったなら最後、私は再び魔法使いになることを夢想し、見ることも触れることも出来ない外界の世界へ心を飛ばしてしまうかもしれない。
水平線にはもう幻の自分は見えない。
海の向こう側へ飛ばしていた魂が、ようやく私の中に戻ってきてくれた。

 

 

       海の向こう側 -終-

海の向こう側 第十五話 海の向こうへ(1)

  • 2018.05.27 Sunday
  • 11:27

JUGEMテーマ:自作小説

いつも穏やかな海が荒れていると、いつも温厚な人が怒っているかのような怖さがある。
普段は平らな海面と真っ直ぐな水平線を見せてくれる瀬戸内の海が、台風に近いほどの風に煽られて感情的になっていた。
いつもなら決して水に濡れない場所まで波が押し寄せて、靴底からじんわりと海水が染み上げてくる。
濡れた靴下はとても気持ち悪く、歩く度に不快な音と感触を伝えてきて、いっそのこと脱いでしまえと裸足になった。
少しながら砂浜が広がるこの海岸なら裸足でも問題あるまい。
足型に沈んでいく濡れた砂は、振り向けば数秒間の俺の歴史を刻んでいる。
大した距離は歩いていないのに、ほんの少しでも時間が経てば、前の一歩は過去のものとなる。
今日は波が激しいので、すぐにこの軌跡は消えるだろうけど、ここを歩いていたという事実は頭の中に残るだろう。
・・・・怖いと思った。
理由は分からない。
不快でも嫌な気分でもなく、むしろ波の力で埋まっていく足跡は面白いとさえ感じた。
マイナス気分になる要素は一切ないはずなのに、どうして恐怖を感じてしまうのか理由が分からず、その事に対して不快感が込み上げた。
昨日、夜遅くにお姉ちゃんとたくさん話をして、それはとても有意義で幸せな時間だった。
駅で話した分だけじゃ全然足りなかったので、向こうから電話を掛けてきてくれて本当に嬉しかったのだ。
それなのに今日は沈んだ気持ちで朝を迎えたのはなぜか?
『怖がる必要はないんだよ。』
電話を切る直前のたった一言が、翌日にまで胸の中に錐を突き立て、嵐が来ているというのに海辺へ足を運んでしまったのだ。
強い風が雲を運び、空の青を嫌味に覆い隠しているし、荒れる海面は見ているだけで心がざわつく。
そして何よりも水平線が滲んでしまっているのがいけない。
いつ雨が降ってもおかしくない空模様のせいで、空気はこれでもかと湿り気を含み、強い風がそいつを拡散させるものだから、遠景が水墨画のごとく霞んでしまっているのだ。
無論、水平線も墨の中である。
あそこがはっきりと見えたならば、もう一人の俺に会うことが出来るかもしれないのに。
少し前から抱いている悩みは、お姉ちゃんと会ったことでより強くなってしまった。
俺は今のままでいいのか?
人真似をして生きてきたこの10年にピリオドを打ち、まだお姉ちゃんに会う前の自分に戻ることが、今の俺が本当に望んでいることじゃないのか?
それを探る為にはもう一人の自分と会う必要があった。
そもそもどうして俺は他人になろうとしたのか?
イジメから逃れたかったのか?お姉ちゃんになりたかったのか?
今となっては分からなくなってしまい、過去の10年を振り返っても、まるで空白であるかのような虚しさが漂うばかりだ。
波に消される足跡のように、俺の生きてきた過去も、時間と共にかき消されてしまって、ただ死なずに生きてきたという事実だけが残っているようで怖くなる。
そんなのは死んでいるのと同じじゃないかと、足元の砂を強く踏みしめて、これでもかと形を残してやった。
だがそうしている間にも波が押し寄せて、じょじょにではあるが形が崩れていく。
顔を上げれば遠景はさらに霞んでいて、海の向こう側では雨が降っているのだなと、滲んだ景色が伝えてくれた。
風が強いせいか、遠い雨の雫が頬に一滴落ちてきて、嫌な気分でそいつを拭う。
そういえばずっと昔、まだ俺が小学生の頃、家族でキャンプに行ったことを思い出す。
友達の家族と一緒に山へ行ったのだ。
山の天気はとても変わりやすく、青かった空へ早送りのように雲が流れてきた。
あの時も頬に一滴だけ落ちてきて、嫌だなと思いながら拭った。
ちょうど川遊びをしている最中で、友達と仲良く盛り上がっていたのに、親からもう川から出るようにと促された。
雨が降れば水遊びは危険で、渋る俺の手を「さっさとしろ」と姉が引っ張った。
本格的に降り始めた雨は、一息に辺りを煙らせてしまって、慌てる大人たちを尻目に友達とはしゃいでいた。
バケツをひっくり返したかのような豪雨は瞬く間に川を増水させて、「もっとこっちまで来い」と姉に怒鳴られた。
降り注ぐ雨に顔を拭い、なぜか腹を抱えるほど可笑しかったのは、俺が子供だったからだろう。
豪雨はものの10分ほどで去っていったけど、おかげで地面はびしょ濡れになってしまい、テントを張る予定だった草地も湿原のように水を蓄えていた。
父が慌てて麓のコテージへと走っていき、数分後に浮かない顔で手でバツ印を作りながら戻ってきた。
それを見た母が荷物を纏め始め、友人のお父さんが車を回してきた。
いったい何をしているんだろうと眺める俺に向かって、姉が「予定変更」と教えてくれた。
そこらじゅう水浸しなのでテントは張れない。
ならばと近くのコテージに予約を取りに行ったのだが、あいにくどこも一杯で、仕方なしに帰ることになってしまったのだ。
さっきまではあれほど楽しかったのに、その全てを取り上げられたショックを受けて、帰りの車の中ではずっと拗ねていたのを覚えている。
不機嫌なせいで髪さえもちゃんと拭かなくて、母から頭くらいちゃんと拭きなさいと怒られた。
Tシャツの前に垂れた長い髪はじっとりと湿っていて、冷房がかかっているせいもあってか、胸からお腹にかけてとても冷たかった。
見かねた姉がタオルを掴み、粘土でも捏ねるように俺の頭を撫で回した。
家に着く頃には後ろで髪を結んで・・・とうより、結ばされていた。
友人とはいえ人様の親の車なので、濡らすのは良くないからと、母が束ねなさいと言ったのだ。
思えば物心ついた時からずっと髪の毛は長かった。
クラスメートには短い子もいたし、そういう髪型が良いなと思うこともあったが、断然長い方が好きだったので、腰に届くほど伸ばしていた。
それは中学に上がってからも同じで、お姉ちゃんの真似を始めるまでの間はずっとそうだった。
今は結ぶことすら出来ないほど短く切っている。
無理すれば出来ないこともないが、おそらくじゃりん子チエのような感じになってしまうだろう。
楽しみにしていたキャンプが中止になり、俺はどうしてもその事が納得出来なくて、埋め合わせとしてどこかへ連れて行ってくれと頼んだ。
渋る父を説得し、どうにか海へ連れて行ってもらえる約束を取りつけた。
しかし姉は面倒くさいからと拒否し、母は夏バテ気味なのでやめとくわと言った。
落ち込む俺に向かって、二人だけで行っても楽しくないぞと父が肩を叩き、ホッとした様子でゴルフクラブの手入れをしていた。
ますます納得がいかず、どうして楽しみにしていたイベントをお預けにされたまま我慢しなければいけないのかと、夏休み中はずっとふてくされていた。
そして8月30日、あと少しでせっかくの夏休みも終わるのだなと悲しみを抑えつつ、特にすることもなくて、家でゴロゴロしていた。
寝返りを打つと目の前に庭がある。
そう大きな庭ではないが、玄関への通路として機能しているだけの狭いものでもない。
車が二台は停められるほどのスペースであり、ならば充分にアレを使えると思って、押入れの中から懐かしい道具を取り出した。
幼い子が庭で水遊びを楽しむ為の、あの丸いプールである。
以前に父が使っていたスポーツバッグの中に、クシャクシャになったまま詰め込まれていて、その隣には足で踏んで空気を入れるあの道具もあった。
庭で何度も足踏みをして空気を送り込み、ホースを引っ張ってきて、少しずつ水面が高くなっていくのを見てウキウキしていた。
限界ギリギリまでたっぷり水を溜めてから、水着にも着替えずにそのままで飛び込んだ。
大きな波紋が弾けて水滴をバラ撒き、プールの外へと逃げ出していったり、俺の顔に降り注いだりと大忙しだった。
確か最後にこれを使ったのは幼稚園の頃で、姉にプールごとひっくり返されて泣いた記憶がある。
可笑しそうにゲラゲラ笑う姉を見て、大泣きしながら空っぽになったプールを蹴飛ばしたのだった。
プールの縁に頭を乗せながら、うんと体を広げると、手足がはみ出てしまった。
あの頃はそこそこ大きく感じたのに、今は俺の方が大きくなってしまったんだなと、ちょっとばかしここに入っていることが恥ずかしくなった。
父は仕事で、母は婦人会の寄り合いで、姉はどこかへ遊びに行っている。
しばらくは誰にも邪魔されることはなかろうと、懐かしい気持ちに浸りながら青空を仰ぎ見ていた。
視界の中には空と雲だけで、頭の全てをぼんやりさせていると、プールごと宙に浮かんでいるかのような錯覚に陥った。
それはとても心地の良い錯覚で、このまま水に溶けてしまって、空の中に染み込んでいたけたらなんてメルヘンな気分に酔いしれた。
だが気持ちいい時間というのはいつでも突然に打ち切られる。
いきなり視界の中に姉の顔が入ってきて、「あんた何してんの?」と怪訝な目で見つめられた。
一瞬だけなんと答えようか迷った。
プールに入っているというのは見たまんまだし、暑いから涼んでいるというのは最もらしくて嫌だ。
「空に溶けてる。」
はあ?という姉の顔を想像していた。
ほぼ間違いなく馬鹿にされて、期待を裏切ることなくゲラゲラと笑って、またあの時みたいにプールごとひっくり返されるんじゃないかと身構えていた。
「気持ちいい?」
興味津々に尋ねてこられて、なんで?と肩透かしを食らってしまった。
「気持ちいい」と素直に答えると、姉は家の中にバッグを放り投げて、そのままプールの中に飛び込んできた。
俺より大きな姉が飛び込んだせいで、さっきよりもたくさんの水滴が宙へ逃げていく。
姉は俺とは反対側の縁に頭を乗せながら、まるで温泉に浸かったおじさんみたいに「うい〜」と息を漏らしていた。
面白いもので、このプールに入ると誰もが同じ行動をするようだ。
ダラリと手足を投げ出し、完全に脱力しきったまま、じっと空を仰ぎ見るのである。
「気持いいい?」
「気持ちいい。」
俺の質問に即答して、「懐かしいなあ」と足をバタバタさせるもんだから、「狭いからじっとしてよ」と足を掴んで水に浸けた。
今度は手をバタバタさせて水を弾くもんだから、足でがっしりと押さえつけてやった。
俺たち二人がここから出たら、水嵩はうんと低くなっていることだろう。
できれば一人で入りたかったが、姉が俺の馬鹿に付き合うなんて珍しいので、新鮮な気持ちで空を見上げるその顔を睨んでいた。
嫌なことでもあったのか?
友達と喧嘩したとか、仕事でミスをしたとか、彼氏と上手くいっていないとか。
けど友達と喧嘩くらいで拗ねるような人じゃないし、仕事でミスしたくらいで落ち込む人でもないし、彼氏と上手くいかないからって悩むほど細かい人でもない。
じゃあなんで?
答えの出ない姉の行動に、つい口から言葉が出てしまう。
「なんかあったの?」
「なんも。」
即答してから「ただなんとなく」と手足をバタつかせるので、なるほど大人でもそういう時があるんだなと、「水がなくなるって」と忙しない手足を押さえつけてやった。
「じゃあ水足して。」
「ヤダ。」
「なんで?」
「一人で入りたかったのに邪魔されたから。」
パシャっと水を掛けると突然立ち上がったので、怒られると思って身構えたのだが、姉は何もせずにプールから出て行った。
しかも「悪かったね」などと謝る始末で、もしかして本当に嫌なことがあって落ち込んでいるのかなと、「別に出ていけとは言わないけど」とフォローした。
「入りたいなら入ればいいじゃん。」
「だって悪いから、あんたの世界を邪魔しちゃ。」
怒るでもなく馬鹿にするでもなく、嘲笑するでもなく説教するでもなく、どこか哀れんだ口調に眉を潜めた。
俺の世界とはなんのことだろうと、「なにが?」と聞き返すと、「そのプール」と指をさされた。
「一人で気持ちよく違う世界に行ってたんでしょ?」
「だから違う世界ってどういう意味?」
「その幼児向けプールみたいに狭いあんたの頭の中。」
やっと人を馬鹿にするようないつもの笑顔を見せてくれたので、ちょっとばかりホッとした。
姉は自分の頭を指差し、ドリルで穴を開けるみたいにグリグリしながら、「あんたの将来が心配だわ」と嫌味な笑みのまま嘆いた。
「きっとこれからもそういう狭い世界の中で生きてくんだろうね。孤独なまんまで。」
「孤独?」
「あんた人に心開かないじゃない。いつだって自分の世界に没頭して、友達どころか家族さえその中に入ってくるのを嫌がるでしょ?
こっちは散々スキンシップ取ろうとしてんのにさ。」
嫌味な笑みは呆れたため息を変わり、だけど俺を馬鹿にしたような表情だけは変わらない。
こんなのいつものことなので今さら腹も立たなかったが、狭い世界だの孤独だのと、意味の分からないことには少々戸惑いを覚えた。
それが顔に出ていたのだろう。頼んでもないのに、これでもかと丁寧に説明をしてくれた。
「私はこれでもあんたの姉貴だよ?可愛い妹だと思って仲良くしようとしてきたのにさ。いっつも突っぱねるよね。」
「突っぱねたことなんかないじゃん。お姉ちゃんがぶっきらぼうっていうか、愛想悪いから仲良く出来ないだけで。」
「あのね、人はみんなそれぞれ違うの。愛想良い人もいればそうじゃない人もいんのよ。
確かに私は無愛想だけど、別に人嫌いってわけじゃないからね。
いきなり人を突き放したり、こういう人間だって決めつけたりしないから。
ある程度付き合ってみて、その上で仲良くできるかどうか判断してるわけ。
でもあんたは違うよね?頭の中の狭い世界が基準で、そこに合わない人は最初から突っぱねてる。」
「そんなことない。」
せっかく良い気分でまったりとしていたのに、姉のせいでぶち壊しにされてしまって、不機嫌の極みみたいな表情で睨んでやった。
このプールは俺が用意したもので、一人で楽しむ為に入っていたのだ。
キャンプは中止になり、海にも行けず、明後日には学校が始まるかと思うと、ついこういう遊びもしたくなってしまうではないか。
もう姉と話すことなどないと、口を噤み、目も逸らし、大の字に手足を広げて、先ほどと同じように空だけを仰いだ。
「それよそれ。」
腰に手を当てながらうんざりしたように、これみよがしに首を振って、「そんなんだから」と実に不機嫌そうに言った。
「せっかく仲良くしようと思って一緒に入ったのにさ、いっつもそう。
テストとかで頑張った時にお父さんが褒めてくれてもつっけんどんだし、お母さんが服とか靴を買って来てくれた時だっておんなじ。
私だって誕生日の度にプレゼントをあげてるのに、次の日には居間のゴミ箱に入ってた時があるよね?
別に要らないなら要らないでいいけどさ、普通本人の目の届く場所に捨てる?」
こっちへ歩いて来て、鬼みたいな目で見下ろしてくるので、ぶたれるんじゃないかと身を竦めた。
「でも何が一番タチが悪いかっていうと、そういうことに全然何も感じてないことなんだよ。
悪気があるなら叱れるけど、そうじゃないからどう怒っていいのかも分からない。
友達が誘い来た時だってそうじゃん?あんた約束してたはずなのに、今忙しいからとか平気で追い返したりするよね?
自分から家に来てって言っときながらふざけんなって話よ。いっつも私かお母さんが謝ってるの、あんた知ってる?」
俺の頭の傍に膝をつき、突き刺すように指を向けてくる。
その顔は哀れな子羊を見るみたいに、怒りよりも哀れみの方が強くて、なんでそんなに悲しい顔をしているのか分からなかった。
確かに俺だって悪いところはある。
けどそういうのは誰だって同じで、いちいち人の悪いところに文句を言っていたらどうにもならないじゃないかと、口を尖らせながら睨み返したのだ。
「そうやってすぐにふてくされる。あんたずっと自分の頭の中の世界だけで生きてるから、人の気持ちが分からないのよ。
きっとこれからもそう。今はまだ子供だからいいけど、ほんとこの先心配だわ。
来年もう中学なんだよ?そのまんまでいたら絶対にイジメられるって。」
言うべきことは全て言い切ったとばかりに、興味を無くしたように立ち去っていく。
「このまんまじゃ誰も仲良くしてくれなくなって、一人ぼっちになるよ。
あんたそれでいいの?甘えたの寂しがり屋のくせにさ。」
一瞬だけ足を止め、プールを睨みながら「もうとっくにはみ出てる」と冷たい目をした。
「それ小さな子供が入るもんだよ。あんたもう手足がはみ出てるじゃない。いつまでも幼稚園児みたいな狭い世界の中にいられないんだから、今のうちに卒業しないと。」
ガラガラと玄関の音がして、窓の向こうから階段を上がっていく足音がした。
少ししてからまた降りてきたようで、風呂場の方からシャワーの音が響いた。
どうしてあそこまで怒るのか理解出来ず、また空を仰ぎ見ながら、空に溶けていく夢心地に浸る。
この年の誕生日以来、姉からプレゼントを貰うことはなかった。
・・・・そう、俺はわがままで自己中で、人の気持ちなど顧みない子供だったのだ。
そして姉の予言通り、中学に上がってからイジメに遭い、そこで初めて自分の頭に描く世界と、現実の世界には隔たりがあることを思い知った。
今にして思えば、美桜里君の彼女が俺をイジメにかかったのは、単に彼と仲良くしていたせいだけではないように思う。
おそらくだけど、俺の言動そものが気に食わず、もし美桜里君のことがなかったとしても、遠からずイジメに遭っていたかもしれない。
美桜里君の彼女に限らず、クラスメートや上級生から目を付けられて。
そもそも中学時代はほとんど友達がおらず、だからこそお姉ちゃんとの出会いが救いだった。
友達になろうよと言ってくれて、いったいどれほど嬉しかったか
過去を思い出している間に、いつの間にやら雲は薄くなり、滲んでいた景色もハッキリと輪郭を浮かばせていた。
風はまだ強いが、空が照るだけで海の印象は変わるもので、真っ直ぐに形を保っていく水平線を見ていると、なぜか目眩のようなフラつきを感じた。
やがて頭も痛くなってきて、この前みたいに風邪を引いても御免だと、せっかく晴れた海に背を向けた。
踵を返す時、思いっきり体重をかけて、これでもかと砂浜に足跡を残してやった。
濡れた靴下はポケットにしまい、水が染み込んだ靴を履いて、不快感を我慢しながら海を後にする。
一度だけ振り返ると、さっきよりもハッキリと浮かぶ水平線に目を奪われ、立ち止まったまま睨みつけてやった。
もう幻は見えない。
もう一人の俺は空へ昇ったのか海へ沈んだのか分からないが、もう俺の目の前に現れる気はないようだ。
少し濡れた髪を撫でながら、昔みたいにもう一度伸ばしてみようかなと、誰もいなくなった水平線に向かって語りかけた。

海の向こう側 第十四話 孤独と孤高(2)

  • 2018.05.26 Saturday
  • 11:57

JUGEMテーマ:自作小説

夫婦喧嘩は犬も食わないそうだが、その理由は不味いからとか食べにくいからとかではなく、食えば腹を下すかもしれない毒であるからだろう。
夫婦は家族であり、そこに口を出すことは人様の家庭に口を挟む事となんら変わりがない。
下手に関わったが最後、第三者である自分のせいで、夫婦仲はより険悪になり、結局辛い目に遭うのは当事者の夫婦だったりする。
最後まで関わるつもりがないのなら、人様の家庭に口出しなどしてはいけないのだ。
そして家庭は何も夫婦関係だけではない。
家庭を身内という意味で捉えるならば、離れて暮らす兄弟姉妹もこの範疇に入る。
さらに身内という言葉を拡大解釈すれば、同僚や友人も含まれるだろう。
ゆえに兄弟間の問題、友人関係の問題も、夫婦喧嘩と同様に犬も食わないと言えるはずだ。
犬も食べないような物を、万物の霊長類たる人間様が口にするわけにはいかない。
下手をすれば腹を下すどころか、怪我をしたり命を落としたりという可能性すらあるのだから。
今、俺は実に質素なビジネスホテルに泊まっている。
昨今はこういうホテルでも内装やサービスに気を遣っているそうだが、あいにく値段を優先した宿選びをしたので、そのような高望みは出来ない。
そもそも観光旅行をしに来たわけではなく、日帰りするのが大変だから宿を必要としただけなので、質素なホテルで充分である。
五階の部屋からは数キロ先にある日本海が見える。
と言っても夜なので、見えるのは灯台の光と船の曳航線だけだ。
簡素なベッドに腰を下ろし、今日一日のことを振り返ると、目眩がするほどの疲労を感じた。
お姉ちゃんに会い、美桜里君に会い、たくさんの話をして、驚きやショックに翻弄された一日だった。
このまま目を閉じれば苦もなく眠りに落ちることが出来るだろうけど、そうする前に今日のことを少しだけ振り返ってみることにした。
総括するならば、過去が追いかけてきた一日と言えよう。
やっくんと出会った四歳の頃、お姉ちゃんと出会った中学生の頃、美知留と出会った成人してからのこと。
そして現在。
今までの記憶を辿り、そのせいで疲労が倍増しして、目を開けているのが辛いほど瞼が重くなる。
今日、俺は美桜里君の家を逃げ出すように抜けてきた。
「ごめん、気分が悪いから帰る。」
たったそれだけ言い残して。
玄関を出る時、「こっちこそごめん、なんか気分を悪くさせちゃったみたいで」と美桜里君の声が追いかけてきたが、振り返ることもせずに駆け出した。
美桜里君とお姉ちゃん、奥さんと美知留。
それぞれ繋がりがあって、心配事もあって、これからどうすればいいのか悩んでいて、そこへ首を突っ込むのは夫婦喧嘩を食べようとする犬のごとき有り様だ。
俺は毒など喰らいたくないし、これ以上自分以外のことで重荷を背負いたくなかった。
美桜里君と奥さんがどんな判断を下し、どんな行動に出るかは、あの二人がそれぞれ大事な人に抱く愛情の裁量によるだろう。
その時、きっとあの二人は喧嘩になるのではないだろうか?
互いを気遣いあう優しさがあってこその幸せな家庭であって、もしその優しさが一時的にでも他人へ向いたら、上手くいかなくなるのではと考えてしまう。
無論、結婚生活を営んだことのない俺が予想を立てるなど思い上がりではあるが、同棲の経験ならばある。
通じ合っていた愛情が少しでもズレ始めた時、時間と共に歪みが大きくなって、いつの間にやらギスギスした関係になるものである。
俺と美知留がそうであったように。
そして俺は今、また他人のことばかり考えている。
美桜里君と奥さんが仲良くやろうが喧嘩をしようが、俺には無関係であると理解しているはずなのに、無駄なことに時間と思考を使っている。
とは言っても頭の切り替えは難しく、こういう時は別のことで気を紛らわすのに限る。
眠ってしまいそうな瞼を押し上げ、寝返りを打つだけで安いラップ音を響かせるベッドから起き上がり、着替えを片手にバスルームに向かった。
始めは熱いお湯を被り、温まってきた所で冷水に切り替える。
こいつは昔からの習慣で、学生時代ずっとバレーをやっていた姉が、「この方が疲れが取れる」と教えてくれたのだ。
さすがに冬にやるのはキツいけど、春が過ぎた暖かい今なら心地よく感じる。
昔の人は滝に打たれて修行したらしいけど、なるほどその気持ちはよく分かる。
頭からお湯でも水でもいいから打たれるのは、例えその瞬間だけでも余計な悩みや不安が消し飛ぶものだ。
ほんの一瞬でもいいから頭が空っぽになれば、それだけで思考を切り替えることが出来るのだから。
すっきりした頭でベッドに戻り、寝落ちしてしまう前にスマホのアラームをセットする。
LINEにメッセージが入っていたので開いてみると、美桜里君からのものだった。
「今日はわざわざ来てくれてありがとう。美緒ちゃんのおかげで姉ちゃんが元気だって分かってホッとした。」
こういう優しい気遣いは相変わらずだなと微笑んでしまう。
「こっちも久しぶりに会えて楽しかったよ。帰る時なんだか不機嫌な感じになっちゃって本当にごめん」と返すと、すぐに「全然気にしてないよ」と答えてくれた。
「尚美とも相談したんだけど、しばらくは姉ちゃんのことはそっとしておこうって決めたんだ。
今はまだ家族に会いたくないんだろうなって思うから。もう少し時間を置いてから連絡してみるよ。」
こういう時、焦ってコンタクトを取ろうとしないのも彼なりの優しさであろう。
自分ではなく相手を想うことが本当の優しさだと知っているのだ。
「時間が経てばお姉ちゃんも心を開いてくれるよ。今はまだ色々悩んだり迷ったりしてるだけだと思うから。」
そう返事をしてスマホを置く。
枕に頭を預け、もうこのまま夢に落ちてしまおうと決めた時、突然電話が掛かってきた。
のっそりとスマホを掴み、美桜里君かなと画面を睨んだのが、まったく違う相手からの着信であった。
予想もしていなかった相手の名前に、一気に睡魔が退散していく。
「もしもし?」
通話ボタンを押すと同時に話しかけると、『美緒ちゃん?』と返事があった。
「うん、お姉ちゃんだよね?」
『ごめんね、いきなり電話して。』
「全然。それよりどうしたの?」
据え置きの時計を見ると午後11時半、ずいぶん遅い時間に電話が掛かってくると、少々鼓動が跳ね上がってしまうものだ。
夜遅くの電話なんてだいたい良い事はなくて、俺の経験した限りでは、怒った美知留からの怒鳴り声、そして父が倒れて病院へ運ばれた時だけだ。
どうか嫌な知らせでありませんようにと願いながら、相手の返事を待つ。
『今さ、どこにいるの?美桜里の家?』
「ううん、ビジネスホテル。」
『ビジネスホテル?』
「日帰りで来るには遠い場所だったから宿を取っといたんだ。けっこう質素な所だけど。」
『なんて名前の所?』
「ええっと・・・ローマ字でMURASAWAってとこ。美桜里君の家から駅二つ分の所にあるんだけど。」
『・・・ああハイハイ!めちゃくちゃ安くてシンプルなとこでしょ?私も一回だけ泊まったことある。
美桜里がまだ新婚の時に遊びに行ってさ、さすがに新婚夫婦の家に泊まるのは悪いと思ってそこに泊まったんだ。』
なぜか声が明るくなっていく。それは余計に不安を掻き立てた。
こんな夜遅くに電話を掛けてきて、目的も分からないままハイトーンな声色になられると、沈んだ声で話しかけられるよりよほど怖い。
俺が泊まっているホテルの場所を知りたがっているようだけど、緊急に会いたい用事でも出来たのだろうか?
「お姉ちゃんどうしたの?なんかあった?」
心配になって尋ねてみると、『ちょっと聞きたいことがあって』と返してきた。
『今日美桜里に会ったんでしょ?』
「うん、久しぶり会って色々話をして楽しかったよ。」
『じゃあさ、やっぱり私と会ったことも話したよね。性転換した事とかさ。』
声に緊張が宿っている。俺はなんと答えようか迷ったけど、誤魔化したところで意味がないことだと思い、正直に伝えた。
「その・・・・美桜里君はすごく心配してて、だからお姉ちゃんと会った時のことも話したんだけど。」
『なんか言ってた?』
「・・・・美桜里君がってこと?」
『連絡とかずっと無視してたからさ。けっこう怒ってるんじゃないかなって。』
「怒ってるより心配してた。でも元気にやってるって知って安心してたよ。」
『じゃあ奥さんの方は?』
「尚美さんもホっとしてた。二人共怒ったりなんてしてないから大丈夫だよ。」
『ならよかった。』
声に明るさが戻ってきて、お姉ちゃん自身もホっとしているようだった。
「ごめんね、勝手に色々お姉ちゃんのこと話しちゃって。」
今度はこっちが緊張する番であった。
勝手にあれこれベラベラ喋ってしまって、今思えばなんて勝手なことをと反省してしまう。
人には誰だって他人の口から伝えられたくないことがあるはずなのに。
『いいよいいよ、いつかは私から話さなきゃいけないことだったから。なんか美緒ちゃんに押し付ける形になっちゃってごめんね。』
軽い口調がかえって罪悪感を煽られる。
もう一度謝ろうとしたのだが、それ以上に大事なことを思い出し、しかし口にするのを躊躇いながらも、これは言わなければならないと覚悟を決めた。
「ごめんお姉ちゃん。」
搾り出すように言うと、『なにいきなり?』と笑われた。
『なんで謝るの?』
「駅でお姉ちゃんと会った時、俺のことも色々話したよね。」
『お互いに色んなこと話し合ったよね。美緒ちゃんの10年分の人生の話、すごい新鮮で楽しかったよ。あの時ほんとに会えてよかった。ありがとね。』
「いや、うん・・・・俺も楽しかったよ。それでさ・・・その・・・美知留のことなんだけど・・・。」
気が重くなってきて、テーブルに置いていたお茶を掴む。一口飲み込んでいると、お姉ちゃんは『うん』と頷き返した。
『美知留がどうかした?』
平穏を装っているけど、努めて冷静でいようとしているのが分かる声だった。
緊張が俺にまで伝わってきて、もう一度口の中を湿らせた。
「美桜里君と会って、お姉ちゃんの話になってさ、それで色々聞いたんだ。音信不通になってる事とか。
それでその原因がその・・・・美知留だってことも。
お姉ちゃんと話してる時、そのこと知らなくて普通に美知留の話なんてしちゃって・・・・傷つけたんじゃないかと思って。」
『傷つく?なんで?』
「だって俺のせいだから。アイツお姉ちゃんのこと振ったんだろ?格闘技まで辞めさせて一緒にいようって言ったのに・・・俺を追いかける為に。」
『それも美桜里から聞いたの?』
「いや、俺がしつこく聞いたんだ。美桜里君は最初は喋る気なんて全然なくて、でも俺がしつこくお姉ちゃんのこと聞いから・・・・。
だから美桜里君は悪くない。俺が強引に聞き出しただけだから。」
また余計なことを口走ってしまったと後悔する。
どうしてこう物を考えないで喋って、後から反省するんだろうと、学習能力の無さに嫌になる。
だがお姉ちゃんは『心配しなくても美桜里を怒ったりしないよ』と笑いながら返してきた。
『こっちだって散々心配掛けてたんだからね、お相子でしょ。』
「ほんとごめん・・・・。お姉ちゃんの気持ちも考えないで美知留のことなんか話しちゃって。」
『ほんと気にしなくていいから。だって美緒ちゃんと美知留が付き合ってたなんて元々知ってるし。』
そうなの?と聞き返そうとしたが、よくよく考えれば当たり前のことだった。
美知留は忘れられない人がいるからとお姉ちゃんを振ったんだから、当然お姉ちゃんはその忘れられない人とやらを追求したはずだ。
ならばそこで俺と美知留が付き合っていたことを知ってもおかしくはない。
ということは、俺が美知留の話をしていた時、お姉ちゃんは全部分かっていたということになる。
自分を深く傷つける元凶になった相手が目に前にいて、なのに怒りもせずに普通に会話をしてくれて・・・・。
こんな事に今まで気づかないなんて、鈍いというより無頓着といった方が正しくて、いったいどれだけお姉ちゃんの気持ちを考えずにいたのか情けなくなってくる。
謝りたいけど大した言葉が見つからず、ベッドに爪先を立てながら、もどかしい感情を押し殺すしかなかった。
『美知留と私のことは美緒ちゃんには関係ないから。謝る必要もないし、心配する必要もないよ。』
それは俺を慰めるようにも聞こえたし、余計なことに足を踏み込むなという牽制にも聞こえた。
もしこれ以上美知留の話を望まないのであれば、それこそ美知留の話題を出すのはお姉ちゃんにとって申し訳ないということになるだろう。
最後に「ごめんなさい」とだけ呟き、アイツの話題は打ち切ることにした。
「俺からお姉ちゃんに言いたかったのはそれだけ。」
『いいっていいって。なんにも美緒ちゃんが気にすることじゃないから。』
電話の向こうにお姉ちゃんの顔が浮かぶ。
きっとあっけらかんとした表情で言っているんだろうけど、美桜里君の言う通り実は繊細な性格ならば、それは無理をしていることになる。
美知留の話はもう二度とすまいと決めて、「お姉ちゃんの方は?なにか用事があるんでしょ?」と話題を切り替えた。
『ううん、特に用ってわけじゃないんだけど。どうしてるかなと思って電話しただけ。』
「そうなんだ。一人退屈しながらベッドに寝転んでたところ。」
『もしかしてもう寝るとこだった?』
「ちょっとウトウトしてたけど全然平気だから。気にしないで。」
『なんかごめんね、起こしちゃって。』
「平気平気。俺も話し相手が欲しかったからさ。ちなみにお姉ちゃんはまだ仕事中?」
『さっき終わったばっか。もうじきウチの選手の試合があるんだけど、準備とか相手方のジムとの話し合いとかけっこうやることあってさ。
私トレーナーのはずなのに事務的な仕事の方が多くなってきてさ。それこそサラリーマンと変わんないよ。』
「でもスーツすっごい似合ってたよ。あれお世辞じゃないからね。」
『そう言ってくれて嬉しい。』
それから30分ほど他愛の無い話を続けた。
中身のない会話ほど楽しいもので、あっという間に過ぎていく時間に物足りなさを覚えるほどだった。
やがてお姉ちゃんの方から『電話出てくれてありがとね』と言い、『あんまり夜更かしさせちゃ悪いから』と切り上げた。
俺も「こっちこそ楽しかったよ」と返し、おやすみなさいと電話を切ろうとした。
しかし終わりの終わりになって、お姉ちゃんの方からまた美知留の話題を振ってきた。
『美知留のことなんだけどさ・・・・、』
突然に言われて、上ずった声で「うん」と答えてしまう。
『あの子捕まってるんだね。』
なんで知ってるの!?と尋ねようとする前に、なんで知っているのか自分から話しだした。
『実は昨日さ、家に弁護士がやって来たんだよね。』
「弁護士?」
『私もなんで弁護士が?って思った。でね、いきなり美知留さんのことでお話がとか言い出すわけよ。
こっちも身構えちゃって、寝巻きでいるのも忘れて詰め寄ちゃったもん。あの子ってエキセントリックなとこあるじゃん?だからなんかしでかしたのかなって。』
なるほど、お姉ちゃんにもそういう奴だと思われていたらしい。
アイツの頭のリミッターが外れた時は、暴走しか選択肢がないことをよく知っているのだ。
『案の定心配した通りだったよ。弁護士さんから逮捕されたって聞かされて、とうとうやっちまったかって、そこまで驚きもしなかったからね。
けど被害者の話を聞いて青ざめた。だって元カノを線路から突き落としたって言うからさ。それって美緒ちゃんしかいないじゃんって。
あの子美緒ちゃんが初めての彼女だって言ってたし、私はこうして無事なわけだし。』
少し感情が昂ぶっているようで、若干ではあるが声が強くなっている。
「でもどうしてアイツの弁護士がお姉ちゃんのとこに来たの?」
『ええっとね・・・証言をしてくれないかって言われて。』
「証言?」
『美知留はとっても良い子で、人を殺そうとするような子じゃありませんって。』
「それってつまり・・・・。」
『裁判の時、美知留に有利な判決が出るようにする為だろうね。
弁護士さんから聞いたんだけど、今更になって私を頼ろうとしてるみたい。
結婚も考えてた大事な人だから、私の力になってくれるかもとか吹き込んでたみたいでね。
だからそれは違いますって説明してあげたら、弁護士さんも呆れた感じで帰ってったよ。』
なるほど、美知留ならさもありなんと、電話に向かって何度も頷いてしまった。
『まあそういうことがあったからさ、あの子も可哀想だなと思って。』
「可哀想?」
『もちろん悪いことしたんだから自業自得だよ。けどなんて言うかな、あの子ってしっかりし過ぎてるっていうか、人の力なんて借りなくても生きていけるタイプじゃない?
でもそれって実は寂しいことなんじゃないかなと思うんだよね。
人間って生きてれば誰かに迷惑かけたり、傷つけたりとかあるけどさ、逆に助けてもらったり、感謝されたりとか、持ちつ持たれつで繋がってるわけじゃない。
けどあの子にはそれがないんだよね。だからいつだって一人っていうか、孤独っていうか。』
しばらくお姉ちゃんの言っている意味が分からず、「孤独」と呟き返してしまう。
美知留は孤高なのであって孤独とは違う気がする。
アイツ自身が人と交わることを望んでいないのだ。自分が認めた相手以外とは。
でもそれはつまり、認めるべき相手がいなければずっと一人ということなのかもしれない。
仮にそういう相手と出会っても、自分に振り向いてくれなければ意味がないだろう。
俺は美知留に好かれていて、ということはアイツに認められてたってことだろう。
だけど心の底ではやはり孤高なんだろうと感じる。
もしどうしても俺が必要ならば、線路から突き落とそうとはしなかったはずだ。
やはりアイツは自分のことしか考えておらず、それは自分自身でも自覚しているはずだ。
そうでなければもっと人と仲良く生きていけるはずだから。
コミュニケーションが苦手ならいざ知らず、美知留は実に人の心を掴むのが上手い。
上手すぎて、アイツと付き合っている時はずっと手玉に取られていた。
それが嫌で別れたようなものだ。
『あの子はずっと寂しかったんだと思うんだよね。もちろん美緒ちゃんにしたことは許されないけど、初めて出会った理想の相手なんだよきっと。
私はそうじゃなかったから振られちゃったけど。』
最後は笑って言葉を濁したが、これは俺への皮肉というか、美知留への未練ともいうべき愚痴なんじゃないだろうか。
「お姉ちゃんはまだ美知留のことが好きなの?」
もしそうならお姉ちゃんは傷ついたままってことになる。どうかNOと答えて欲しかった。
『分からない。未練があるっちゃあるし、でも今はもう付き合ってる彼女がいるし。格闘技だって選手は引退しちゃったけど、それだって前から考えてたことでもあるしね。
今は指導者として関わることが出来て幸せなんだ。だから今更ヨリを戻したいなんて思わない。
私が家族と連絡を経ってたのは傷ついてたせいだけじゃないよ。性転換の事とかこれからの人生とか、色んな事に向き合う為でもあった。
ああやって傷ついた時って本音が見えるもんだからさ。自分を見つめ直すには良い機会だと思って。
だから美桜里が思ってるほど落ち込んでたわけでもないんだよね。
落ち着いたら連絡しようと思ってただけで。近いうちにあの子にも会いに行くよ。』
静かな声でそう語って、『だから美知留とはもう関わる気はない』と言い切った。
『あの子は可哀想だよ。多分これからもずっと一人のままなんだと思う。心のどこかでそれでいいと思ってるはずだよ。
だから可哀想なんだよ。すごく能力も高くて、プライドも高くて、自信だって持ってる。
そういう人ってきっと幸せになりくいんだろうね。』
ああ、なるほどと相槌を打ってしまった。
孤独だから可哀想なのではなく、優れた能力を持つからこそ幸せが遠ざかるって言いたいのだろう。
なぜなら周りが全て自分よりも下に見えて、普通の人なら喜んだり感動したりする事でもそう出来なくて、最後は結局は一人でいいやって結論になってしまうから。
おそらく美知留はもう俺には関わってこない気がする。
あの時、俺を殺しに来たのは感情を爆発させたせいじゃなく、自分のプライドに傷を付けた相手を粛清しに来ただけなのだろう。
もし美知留を置いてあの街から出て行こうとしなくても、いつかは同じことをしでかしたかもしれない。
アイツが俺を殺しにかかってきたのは、自分の愛が届かすに傷ついたからじゃない。
お姉ちゃんの言う通り、可哀想な奴だからだ。
結局自分のことしか考えてなくて、自分にとってプラスかナイナスかしかなくて、美桜里君の奥さんと友達でいたのも、彼女がすごく理解のある優しい人だったからではないだろうか。
もし少しでも批判的なことを言ったり、敵に回る素振りを見せたら、おそらく友達ではいられなくなるだろう。
そういう意味ではやっくんとなんら変わりがない。
自分の頭の中だけの世界で生きていて、自分の都合しか考えていないのだ。
『じゃあもう切るね。』
「うん、話せてよかった。ありがとう。」
『こっちこそ。あ、でも電話を切る前に一つだけ。』
「また美知留のこと?」
『違う違う、美緒ちゃんのこと。』
「俺?」
固く身構えてしまって、電話を握る手に汗がにじんだ。
美知留のこと以外で不愉快にさせるような事をしでかしてしまったのかなと、動悸が速くなる。
『もう私の真似はやめた方がいいよ。』
唐突なことを言われて、「真似?」と聞き返してしまう。
『美緒ちゃんを見てて思ったんだけど、それって昔の私の真似でしょ?』
「・・・やっぱり分かるもんなの?」
『なんとなくだけどね。似合ってるならいいんだけど、なんか無理してる感じがしてさ。
だって美緒ちゃんと私は全然違うタイプじゃない。私の知ってる美緒ちゃんはもっとホワっとしてるっていうか、丸い雰囲気の印象っていうか。
その男っぽい服装も似合ってるっちゃ似合ってるけど、どこか違う気がするなあって。』
「自分なりにちゃんと選んでるつもりなんだけど・・・やっぱり似合わない?」
『ファッションとしてって問題じゃないよ。オシャレなのはすごくオシャレだと思う。
けどそうじゃなくて・・・なんて言うんだろう?キャラと違うっていうかさ。例えば美桜里がパンクロックみたいな格好しても柄じゃないじゃん?』
「まあ・・・・。」
『あとね、美緒ちゃんってどう考えても同性愛者じゃないよ。私を真似して女の子を好きになったりしてるんだろうけど、これもなんか違うんだよね。
多分だけど、美知留があそこまで美緒ちゃんに執着したのはそれが理由かもって思ってる。』
「どういうこと?」
『だって同性愛者じゃないなら、恋人として同性を好きになったりしないでしょ?
どんなに演じたところで相手にはそれが分かるもんよ。どう頑張ってもほんとの意味で振り向いてくれない美緒ちゃんに、美知留は悔しさを感じてたかもね。』
「悔しさ?」
『異性が好きならそれでいいのに、自分を偽って同性愛に走っても意味ないよってこと。これずっと前にも言ったけど、同性の恋人を見つけるって大変なんだ。
特に日本ではまだまだ理解が進んでないから、表に出さない人だってけっこういるし。
美知留はやっとの思いで理想の相手に出会えたのに、実はその子は同性愛を演じてるだけでしたってことに我慢ならなかったのかも。
どうあっても振り向かせてやるぞって、そういう悔しさもあったんじゃないかな。』
「それってつまり・・・・美知留がああいう事したのは俺が悪いってこと?」
『そうは言ってない。線路から突き落とすなんてやり過ぎだからね。ただ自分を偽る生き方はやめた方がいいってことを言いたいだけ。
だって私、美緒ちゃんに真似されるほど立派な人間じゃないし。それに他人の真似ばっかしてたら自分の人生台無しになっちゃうよ。』
ここ最近俺が気にしていることを言われて、錐で胸を突かれたみたいに、一瞬呼吸が止まってしまった。
お姉ちゃんから見れば、今の俺の悩みなんてあっさり分かるものらしい。
『私は外見は昔と変わっちゃったけど、中身は今でも変わらないよ。これでもちゃんと自分の人生歩いてるつもりだから。まあ胸が張れるほど立派でもないけどさ。
でも美緒ちゃんは外見も中身も偽ってる気がする。だから次に会う時はさ、また昔のほんわかした美緒ちゃんに会いたいな。』
胸に刺さった錐はそのままで、どうにか呼吸はできるものの、何も言葉を返せない。
偽りの自分、偽りの人生と言われて、途端に涙が出てきそうで、今は声を発したくなかった。
相手がお姉ちゃんだから余計に。
『美緒ちゃんは美緒ちゃんのままでいいんだよ。もうイジメっ子もいないんだし、またこうして仲良く出来るんだから。怖がることないよ。』
怖がる?と頭の中で反芻する。
いったい何を?
お姉ちゃんの言う通りもうイジメっ子はいないし、これからまたお姉ちゃんと仲良く出来るのだ。
じゃあ何を指して怖がるなんて言っているのか理解出来なかった。
『じゃあもう夜遅いから。いつか二人で飲みに行こうよ。』
ぼんやりする頭で「絶対行こう!」と返したが、心ここにあらずのまま電話を切っていた。
そしてすぐに馬鹿なことをしたと気づいた。
俺がいったい何を怖がっているように見えるのか、どうしてそれを尋ねなかったのかと。
今まで俺は人真似をして生きてきたけど、その理由はイジメっ子が原因でもなければ、お姉ちゃんに憧れたからでもないということなんだろうか?
何も分からないまま、窓から見える船の光芒だけを追いかけていた。

海の向こう側 第十三話 孤独と孤高(1)

  • 2018.05.25 Friday
  • 13:55

JUGEMテーマ:自作小説

他人の卒業アルバムを見るというのは、中々新鮮な感覚である。
知らない人間しか写っていないのに、つまらない写真だと思わないのは、例え他人であっても人生の流れを見るのが面白いせいかもしれない。
童顔の俺は昔っから顔立ちが変わらないので、アルバムを見てもほぼ同じ顔である。
羨ましいなんて友達に言われることもあるが、下手をすると中高生に間違われることもあるので、お酒を買う時などはよく困るのだ。
姉からは「童顔はある時期までは変わらないけど、それを過ぎると一気に老ける」なんて脅されたもんだから、肌には気を遣っている。
そういうこともあって、濃い顔立ちや大人びた顔立ちの人が羨ましかったりする。
そういう人ほど成長と共に顔つきが変わるので、アルバムを眺める楽しさは倍増するはずだ。
今俺が見ているのは、奥さんの高校時代の卒業アルバムである。
ここにはかつて俺が付き合っていた彼女が写っていた。
昔から派手な顔立ちをしていて、目元から鼻筋がきっちりと通っている。
気の強そうな目はこの頃から変わらないようで、凛々しいと思う反面、どこか見る者を不安にさせる眼力が宿っている。
高校時代の写真だから、当然今よりは幼い顔立ちをしているものの、同年代の中では一番大人っぽいのではないかと思うほど、甘えを感じさせない独立心の強い表情だ。
正面から写した生徒の紹介写真でもそうだし、所々に写る体育祭や修学旅行の写真も同じである。
アイツがやたらと人に世話を焼きたがるのは、自分のことなんてなんでも簡単にやってのけてしまうものだから、持て余した力を誰かの為に使いたいのだろう。
ただしその相手は誰でもいいというわけではなく、自分の認めた相手でなければならない。
俺は奥さんに尋ねた。
高校時代の彼女はどんな生徒だったのかと。
すると俺の予想通り、高校生とは思えないほどのしっかり者だったそうだ。
常に隙がなく、かといって無理しているようにも思えず、困っているクラスメートに手を貸すこともしばしばだったとか。
ただし自分が嫌っている相手に対しては辛辣であったそうだ。
男子に対しては基本的に冷たい態度であったらしく、生理的に嫌いだからというのが理由らしい。
その辺は俺も知っている。付き合っていた時も同じような事を言っていた。
中性的で大人しい男子には優しさを見せることもあったそうだが、決して必要以上に仲良くすることはなかったという。
どこにも属さず、誰かに同調したり媚びを売ったりも絶対になく、完全に我が道を歩く戦士のごとき逞しさだったとのことだ。
ある時など、同学年のボス的な女子から目を付けられて、イジメの標的にされかけたという。
理由はとにかくモテたから。
美人でしっかり者であるが故に、冷たい態度ながらも多数の男子から好意を寄せられて、その度に一蹴していたという。
また女子の中にも恋愛感情を抱く生徒がいたそうで、何度か告白されているのを見たこともあるそうだ。
男女問わず人気があって、どんな派閥にも属さずに我を通そうとする。
なるほど、スクールカーストの上位に位置する同性から確かに狙われそうだ。
いかに美人でいかに優秀であろうとも、どんな派閥にも属していないのなら、その生徒の立ち位置はカーストの外になる。
封建制度著しい日本の学校では、どうぞターゲットにして下さいと言っているようなものであろう。
だが実際にイジメが行われることはなかったそうだ。
なぜなら簡単に返り討ちにしてしまったからである。
嫌がらせが始まった初日のこと、すぐに自分がターゲットにされているのだと気づいた美知留は、ある行動に出た。
イジメの主犯格であるボスにはイケメンの彼氏がいたのだが、これを奪ってしまったのである。
ボスと彼氏が仲良く下校している所へ堂々と突撃し、強引に彼氏の手を引いて連れ去ってしまったのだそうだ。
相手はいきなりのことで呆気に取られ、追いかけることすら出来なかったという。
そして翌日、その彼はすっかり美知留に心酔していた。
奴は自分の美貌が武器になることは重々知っていた。
それに人の嫌がることもよく分かっていれば、喜ぶこともよく理解している。
美貌に加え、人を転がすのも上手いとなれば、高校生の男子を手玉に取ることなど造作もなかっただろう。
その男子にしてみれば女神が舞い降りたように錯覚したはずだ。
とびきりの美人がいきなり現れて、溢れんばかりの愛情というか、母性というか、そういうもので包み込んでくれたと騙されても仕方ない。
優しい優しいお姉さんのように甘えされえてくれる美女は、やはり女神に感じてしまうんではないだろうか。
まあとにかく、奴はイジメっ子の彼氏を奪い取った。
そして翌日には捨てた。
次はボスの取り巻きの女子の彼氏を狙い、これもまたアッサリと奪ってしまった。
その男子も翌日には捨てて、次なるターゲットも容易に仕留めた。
これを五回ほど繰り返すと、敵は完全に沈黙してしまったという。
カーストの外にいる者にあっさりと男を奪われ、その翌日にはもういらないとばかりに捨てられるなんて、これでは上位に君臨する者のプライドも何もあったものじゃないだろう。
更には捨てられたはずの男子は未だ美知留にご執心で、親衛隊を気取って取り巻きに変わる始末。
下手に手を出そうものなら、取り巻きの男子たちがボディガード気取りで美知留を守り、他の女子も噂話によって盛り上がっていたそうだ。
これほど屈辱的なことはそうそうないだろう。
ボスのグループは力も威厳も失い、対して美知留は畏怖と羨望の眼差しを向けられるようになったという。
だがそんなものにはまったく興味のない美知留は、今までとなんら変わりのない態度だったそうだ。
孤高というか一匹狼というか、本人が望めばいつでも友達も恋人も手に入る立場なのに、偉ぶる素振りも媚びる素振りも見せずに高校生活を終えた。
そして美桜里君の奥さんだけが唯一、孤高の女王と親しい友人であったそうだ。
自分でも分からないけど、なぜか向こうから話しかけてきてくれて、気がつけば仲良くなっていたという。
美知留の行動には眉を潜めることもあったが、二人でいる時は気兼ねなしに話せる大事な友人だと語った。
高校を出てからもちょくちょく食事をしたり遊びに行ったりと、大人になってからも仲は続いていた。
ちなみに同性愛者だと知ったのは、高校を卒業する間近になってのことらしい。
あれだけモテるのにどうして彼氏を作らないのか尋ねたところ、そう打ち明けられたのだという。
自分の恋愛対象は女の子で、いつでも自分を必要をしてくれるような子がいい。
ただし依存してくるような子は嫌で、頑張ってるんだけど空回りしているような子を見ると、胸が疼くのだという。
それを聞いた時、じゃあ自分と仲良くしてくれるのはそういう気持ちがあってのことなのかと尋ねたそうだ。
美知留は真剣な顔で首を振った。
尚美は友人として好きなんだと。
今までそんな風に思える相手はいなかったから、これからも仲良くしてほしいとはにかんでいたという。
美桜里君の奥さん、尚美さんにとっては美知留はかけがえないのない友人であり、だからこそ心配もしていたそうだ。
美知留はしっかり者だし、大抵の事は一人でこなせるけど、それゆえにずっと孤独なままなんじゃないかと。
だから初めて彼女が出来たと聞いた時は嬉しかったそうだ。
高校を出て6年後、23になってようやく理想の相手と出会えたと、興奮した声で電話越しに喜びを表していたという。
あんなに楽しそうに惚気話を披露する美知留は初めてで、ようやく良い人が見つかったんだなと、友人としてホっとしていたらしい。
しかしその彼女は美知留を振った。自らの人生を追求する為に、自分探しの旅という青臭い冒険に出かけてしまったからだ。
『絶対に諦めない。あの子は私と一緒に生きるの。その為に生まれてきたに決まってる。』
そう聞いた時、少し背筋が寒くなったと言った。
このままでは美知留の為にならない。
どうしようか悩んでいたところ、お姉ちゃんのことを思い出したのだ。
そこで美桜里君に相談してみたという。
お義姉さんも恋人を欲しそうに漏らすことがあるので、私の友達を紹介してもいいかと。
すると彼は、美知留がどういう人物かを聞いて少し迷ったと言った。
姉ちゃんは見た目とは裏腹に繊細で傷つきやすく、そういう子を紹介しても大丈夫だろうかと。
尚美さんは「根は悪い子じゃないから平気だと思うけど」とフォローを入れつつ、最終的な判断は本人に任せようということで、お姉ちゃんに話を持ちかけたのだった。
その後の流れはすでに聞いた通りで、最初こそ上手くいっていたものの、お姉ちゃんにとってはショックな終わり方を迎えてしまった。
深い傷心のせいで身内とさえも連絡を絶ち、今どこで何をしているのか分からない状況が続いていたという。
いったいどうすればお姉ちゃんと連絡を取ることができるのか?
散々悩んだ末、ある人物のことを思い出した。
実は俺をここへ呼んだのは、お姉ちゃんと連絡を取ってもらおうとしてのことだったのだ。
俺と縁を切ってから10年、俺がお姉ちゃんを忘れなかったように、お姉ちゃんも俺のことを忘れることはなかったらしい。
「今ごろ美緒ちゃんどうしてるんだろうな。」
そう呟くことがよくあったという。
だったら俺が電話なりメールなりをすれば返事を寄越してくれるんじゃないか?
どうか協力してくれないかと相談する為に呼び寄せたのだが、俺はここへ来る途中にお姉ちゃんに会ってしまった。
だから美桜里君も奥さんも驚いていたのだ。
事情を知った俺は、お姉ちゃんと会った時のこと、お姉ちゃんと話した内容を全て伝えた。
その中で最も驚かれたのが性転換をしたことだった。
二人共しばらく氷像のごとく動きを止めていて、酸素を求めて水面に顔を出す魚を一時停止したかのような、驚き以上の驚いた様子をしていた。
美桜里君曰く、昔から性転換のことは考えていたそうだが、そんな大事なことを家族に黙ったまま行うなんてと、怒りと悲しみが混じった嘆きを漏らした。
「別に反対なんかしないのに・・・・なんで一人でそこまで。」
高ぶる感情を誤魔化すように頭を掻き、奥さんが「きっと悩みに悩んでの決断だったのよ」とフォローを入れた。
「けど元気そうでよかった。ほんとに心配してたから。」
胸を撫で下ろすように息を吐くのは、お姉ちゃんを心配してのこともあるだろうけど、美知留を紹介してしまった自分への責任を感じてもいたからだろう。
別に奥さんが悪いわけじゃないし、もちろん美桜里君もお姉ちゃんも悪くない。
みんなそれぞれ事情や思う所があっての行動で、誰も責任を感じる必要などないのだ。
ただ一人を除いて・・・・。
お姉ちゃんと別れたあとの美知留がどうなったのか、二人は予想もしていないだろう。
殺人未遂で逮捕されて留置所暮らしをしているなんて事実を知れば、奥さんは更に悲しんでしまうはずだ。
これは俺の胸にしまっておこうと決めた。
だがその決断はあっさりと崩壊することになってしまった。
「お姉さんが元気だってことは分かったけど、美知留の方とも連絡がつかないのよね。あの後どうしてるんだろう。」
さっきから奥さんの話しぶりを聞いていて思ったのだが、どうやら俺と美知留が付き合っていたことは知らないようである。
奴は彼女が出来たことは報告したけど、どんな相手なのかは詳しく伝えなかったのだろう。
いまや俺にとって美知留は恐怖の存在でしかないけど、奥さんにとっては大事な友人だ。
残念ながら美知留は無事ではなく、殺人未遂で刑務所に行く可能性がある。
もしそれを知ったら・・・・奥さんはじっとしていないだろう。
留置場の面会は友人でも可能なので、必ず会いに行こうとするはずだ。
その時、美知留は誰にこの事実を聞いたか尋ねるだろう。
それを知った時のことが恐ろしい・・・・。
もうわけの分からない恨みを買うのはゴメンで、今後一切アイツとは関わりたくないのである。
だが友人を心配する奥さんの気持ちは本物で、お姉ちゃんの無事が確認できた分だけ、今度は美知留への心配が増しているようだった。
かつて美知留自身に言われたことを思い出す。
美緒はお人好しだと。
こういう時、もっとドライに、もっと冷酷になれればいいんだろう。
でも胸に疼く偽善だか正義感だか分からないけど、そういうものに支配されてついつい無視できなくなってしまう。
「あの、美知留は今・・・・・、」
アイツが何をして、今どこにいるのか全てを語る。
美桜里君も奥さんも、お姉ちゃんが男になったと聞いた時と同じくらいに、氷像のごとく無表情になってしまった。
さあ、これで奥さんは美知留に会いに行くだろう。
アイツは俺への恨みを増大させて、いつの日か俺の前に・・・・いや、この前みたいに後ろに現れて、俺を殺しにかかってくるかもしれない。
覆水盆に返らず、タイムスリップが不可能な現代では、やっちまったなと飲み込むしか術がない。
「美知留のいる警察署の場所を教えて。」
そら来たと、険しい顔で睨んでくる奥さんから目を逸らす。
横を向いていても視線の圧力を感じて、無言でいるのが難しくなってくる。
俺はよほど引きつった顔をしていたのだろう、美桜里君が「そんなに睨まないで」と止めてくれた。
「その美知留ちゃんって子、美緒ちゃんの彼女だったんだろ?てことはその子が姉ちゃんを振った理由って・・・・。」
「俺のせいだと思う。ごめん。」
「謝ることないよ。美緒ちゃんが悪いんじゃないんだから。」
ショックだったのだろう。美桜里君の表情も奥さんに負けじと険しい。
自分の姉と付き合っていた者が警察に捕まるなんて、安易に受け止められることじゃないだろうから。
美桜里君はお姉ちゃんのことを、奥さんは美知留のことを心配し、苦虫を噛み潰した顔のまま場の空気が悪くなっていく。
互いが気に掛ける相手は違っていて、その真ん中にいる俺はとても居心地が悪く、できればこの場から立ち去りたかった。
しかし爆弾と燃料を投下したのは俺自身であり、今すぐに逃げ出すわけにはいかない。
どちらに話を合わせてもどんどん空気が悪くなりそうなので、ここは俺自身のことを話すことにした。
「俺はずっとお姉ちゃんに憧れてて、ずっと真似をして生きてきたけど、それは幻だったんだって今日ハッキリしたんだ。
美知留とは恋人の関係だったけど今は違う。アイツは俺を殺そうとした犯罪者だ。
やっくんっていう高校ん時の友達がいて、そいつは俺のことストーカーしてる。」
美桜里君が一瞬だけ表情を変えたのを見逃さなかった。
さっきお姉ちゃんと会った時のことを説明する際、流れでやっくんのことも話してしまった。
俺と美桜里君を混同していて、大きな勘違いの元に俺に付きまとっていると。
「世間は狭いんだな」と呟いた美桜里君の言葉が印象的だった。
「俺、周りに振り回されてばっかりでさ。でもそれって自分が悪いんだ。みんな好かれ悪かれ自分なりの芯みたいなのがあるのに、俺だけそうじゃない。
まるで骨のない生き物みたいにフニャフニャ生きて来てさ。でもそれって良くないことなんだと思う。
今日ここに来たのは自分と向き合う為だった。美桜里君に合えばお姉ちゃんのことだって鮮明に思い出せる。
そうすればお姉ちゃんを真似して生きてきた今までの人生がどんなものだったのか、ハッキリするかもって思ったから。
けど偶然にお姉ちゃん本人に会って、それでも答えなんて出ないままなんだ。
最近じゃ自分の幻まで見えるようになって、これっていよいよ頭がおかしいのかなって不安になったり。」
二人は黙って俺を見つめていて、目の奥には不思議そうな光が宿っていた。
いきなり自分語りかよって呆れかもしれないし、何を場違いな話を繰り出してるんだって罵りかもしれない。
自分の為に自分の話をしているのは、今日ここへ来たことが自分の為だからこそである。
俺はもうお姉ちゃんの人生には関われないし、美知留にも関わる気はない。
やっくんだって近いうちに関わりを絶つだろう。
そのうち俺は一人になって、でもその時こそ自分が見えてくるような気がしていた。
無言の圧力に耐えかねて目を閉じる。
瞼の裏に水平線が浮かんで、もう一人の俺が手を振った。

海の向こう側 第十二話 憧れの人(2)

  • 2018.05.24 Thursday
  • 10:16

JUGEMテーマ:自作小説

思わぬ人との再会は嬉しくもあり、驚きもあり、そして悲しみでもあった。
鈍行の電車に揺られながら、代わり映えのしない山と田んぼばかりの景色にあくびを噛み殺し、ほんの一時間ほど前のことを思い出していた。
駅のベンチで二人、お姉ちゃんと語り合った時間は有意義で、思いもしなかったご褒美を頂いたかのような時間だった。
俺たちは多くのことを話した。
お姉ちゃんは去年に男に性転換していたこと、格闘家は引退して今は大阪でトレーナーをやっていること。
今日はたまたま他のジムに用事があったので、スーツを着て出かけていたこと。
けどそれだけじゃ食えないので、工事現場や交通整理のアルバイトをしていること。
チャンピオンになるのは無理だったけど、いつかは自分のジムを開いて、チャンピオンを育てるのが夢であること。
今年の初めくらいから付き合っている彼女がいて、先月から同棲していること。
美緒ちゃんのことを忘れたことはなくて、また会いたいと思っていたこと。
しかしあの頃は美緒ちゃんに恋愛感情を抱いていたんだとも語った。
でもさすがに中学生に手を出すのはマズいし、俺を困らせるのは避けたかったから、もう会わないようにするしかなかった。
そうしないと自分が辛かったからと。
こっちから友達になろうって言ったクセに、一方的に縁を切ってごめんなさいと謝っていた。
俺は首を振り、なんにも気にしてないよと答え、それよりもイジメから救ってくれたことに感謝を返した。
あとやっくんを追い払ってくれたことにも。
あの時、奴が現れたことに怒りと不快感を覚えたけど、今となってはそれでよかったと思っている。
なぜならやっくんにまつわる話をお姉ちゃんから聞くことで、今まで忘れていたことを思い出し、今までの自分にない視点で人生を見ることが出来るようになったからだ。
やっくんは美桜里君に惚れ、人生初のストーカー行為に及んだ。
その十数年後、俺を美知留君と勘違いして恋心を抱き、今もなお熱い衝動に突き動かされている。
やっくんが美桜里君と俺が別人だと知るチャンスは二度あった。
一つはお姉ちゃんとの再会だ。
やっくんから恋の悩みを聞いたお姉ちゃんは、その記憶は間違いであることを訂正しようとした。
しかし奴は応じなかった。
なぜならお姉ちゃんの説得だけでは、こんがらがった記憶を解くのには充分ではなかったからだ。
やっくんは言った。
ミオちゃんは海の向こう側へ行きたがっていて、だから俺が連れて行ってやると約束したんだと。
ではそのミオちゃんなる人物は俺か?それとも美桜里君か?
・・・・答えは俺である。
今の今まで綺麗さっぱり記憶から抜け落ちていたのだが、よくよく思い出すと俺は高校以前に奴と会っているのだ。
とんでもない偶然の話ではあるが、美桜里君とやっくんが子供の頃に行った海に、実は俺も行っていたのだ。
しかもまったく同じ時期に。
美桜里君は変態さんに「お菓子をあげるから」と連れ出された後、結果的にとはいえやっくんに助けられた。
奴の図々しさは尋常ではないから、きっと大声で「僕にもお菓子!」などと喚いたに違いない。
番犬がギャンギャン吠えると空き巣が撤退するように、小さな猛獣に迫られた変態さんはさぞかし狼狽えただろう。
うるさい子供から逃げ切った変態さんは、水色の屋根をした海の家へ入った。
そこでビールを注文し、一気に流し込み、大きなため息と共に落ち着きを取り戻してから、ぐるりと店内を見渡した。
周りには家族連れや中学生くらいのグループ、それにカップルが大勢いた。
変態さんが物色するのは水着の美女ではなく、海の家の可愛い店員さんでもなく、年端もいかない小さな子供であった。
家族連れが多いということは、比例して子供も多いということであるから、その視線は忙しなく動いていた。
何食わぬ顔で物色をしているものの、よからぬことを企む人間というのは、挙動に不審さが表れるものだ。
もし街中であんなイヤらしい視線を撒き散らしていたら、すぐさま通報されただろう。
だがここは海の家、冴えない風貌の男を気に留める者は少ない。
あの時、俺は冴えない風貌の男に目を留めた数少ない人間だった。
家族と一緒に焼きそばを頬張っていたのだが、人生初の海の家が珍しく、周りをキョロキョロと見渡していた。
そこでふと気づいてしまったのだ、妙に怖い顔で、妙に固い表情で店内を見渡している男に。
ソナーのごとく周囲に振りまかれるその視線は、グルリと旋回して俺の方にも向いた。
ほんの数秒だけ目が合って、しかしまたすぐに別の場所へと視線を逸らしていた。
飯を終えた俺たち家族は店を出て、砂浜でダラダラと過ごしていた。
俺はカキ氷が食べたくなり、親に小遣いをせびって、すぐ近くにあるお店に小銭を握り締めて走った。
一人だと危ないので、親が姉も一緒に行かせようとしたんだけど、面倒くさかったのか立ち上がることすらしなかった。
ちょっとは妹の面倒くらい見ろと説教される姉を残して、カキ氷を買いに走っていく。
メロン味を頼み、カップ一杯に降り注がれた粉雪のようなカキ氷と、それを彩る緑色のシロップに目を爛々とさせていた。
口に入れるとふわりと溶けて、頭がキーンと痛くなってもスプーンが止まらなかった。
だが家族の元へ戻る途中、さっき目が合った男に声を掛けられ、もっと美味しいアイスを買ってやるから向こうのお店へ行こうよと誘われた。
人見知りだった俺は恐怖を感じながら背中を向けたのだが、真後ろには俺と同い年くらいの男の子がいた。
危うくぶつかりそうになり、少し脇へ避けると、その子は「僕にもアイス!」と叫んで男に突撃していった。
お父さんなのかな?と思いながら見ていたが、男は鬱蒼しそうに手を振り、そのまま海から離れて行ってしまった。
しょんぼりとする男の子は、カキ氷を買っていく客を羨ましそうに見つめている。
その姿が妙に可哀想に思えてしまって、気がつけば手に持っていたカキ氷を差し出していた。
男の子はとても喜んだ。
まるで犬みたいにかき込んで、絶対に頭が痛くなってるだろうに、そんなの気にせずに頬張り続けていた。
あっという間に空っぽになり、ポイとカップを捨てるので、俺はそいつを拾ってこう注意した。
ちゃんとゴミ箱に捨てないとダメなんだよと。
周りを見渡せばすぐ近くにゴミ箱があったけど、溢れるほど一杯なので、少し遠くに見えるゴミ箱まで捨てに行った。
男の子はトコトコ後ろをついて来て、俺が捨てる様子を見つめながら、不思議そうな顔をしていた。
ゴミはこうやってちゃんと捨てるんだよと教えると、口を開けたまま分かっているのかいないのか分からない顔で頷いていた。
残念ながらカキ氷は食べられなかったけど、そう嫌な気分じゃなかったのは、その子が喜んでいたからだ。
きっとお小遣いもくれない貧乏な家なんだと勝手に可哀想に思ってしまって、だったら一緒に遊んであげようと、手を引っ張って海辺を歩いたことを覚えている。
水を掛け合ったり、追いかけっこをしたり、他愛ない子供らしい遊びをした。
この時もその子はとても喜んでいた。
そして突然にこんなことを言ってきたのだ。
大人になったら僕のお嫁さんになってと。
お嫁さんという言葉は知っていたし、なんとなくの意味もぼんやりと理解していた。
男の人と女の人が一緒に住むんだって、その程度の知識だけど。
けど人見知りだった俺は、今日初めて会ったばかりの子とずっと一緒に住むなんて考えられなかった。
だから断った。お嫁さんなんて嫌だと。
しかしその子は引かなかった。大人になったらお嫁さんになっての一点張りで、いい加減にしつこいなと嫌になり、俺はこんな言葉を返した。
外国に連れて行ってくれるならいいよと。
当時、俺はとある有名な児童文学にハマっていた。男の子の魔法使いが活躍する物語だ。
まだこの世が御伽噺のような世界だと信じていたあの頃、外国へ行けば魔法の世界への入口があって、いつか自分も魔法使いになれるのだと信じていた。
そして外国なるものが、海の向こうにあるのだと親から聞かされていた。
行きたい行きたいと駄々をこねる俺に、大人になったら自分で行けると言われ、早く大人にならないものかとモヤモヤしていた。
姉はそんな俺をゲラゲラと笑い、確かに大人になったら外国へ行けるけど、魔法使いなんて無理だと馬鹿にされて、悔しい思いをした。
またそんな事を言うと怒る両親、早いうちから現実を教えておくべくだと反発する姉。
毎度のように喧嘩が始まって、少々うんざりしながらも、大人になったら絶対に行くのだと誓ったのだ。
そういうことがあって、外国への憧れが強く、海の向こう側には魔法の世界があるのだと思い込むようになっていた。
空と海とが隔てられたあの水平線の向こうには、自分の望むものがある。
だから俺はお嫁さんになる条件として、外国へ連れて行ってくれと頼んだのだ。
しかしやっくんは不思議そうな顔をしていた。
というのも外国というのがよく理解出来なかったらしい。
海はずっとどこまでも続いていると思っていたらしく、そもそもが国だとか海外だとかいう概念がなかったようだ。
まあ俺もそう詳しいわけではなかったが、こことは違う世界があることは知っていたので、拙い言葉でそれを説明した。
そしてこの時に誤解が生じてしまったのだ。
まだ四歳の俺に、上手く外国だとか海外だとか説明するのは困難で、なかなか理解を示してくれないその子にこう言ったのだ。
魔法の世界に行きたいのだと。
しかしこれもまたピンと来なかったようだ。
男の子の彼にとっては、魔法使いよりもなんとか戦隊とか合体ロボの方が良かったらしく、いくら俺が魔法使いについて説明しても、まったく要領を得ることが出来ないでいた。
しかしここじゃない別の世界へ行きたいということだけは理解したらしく、お嫁さんになってくれるなら、僕が海の向こうへ連れて行ってあげると約束した。
それならいいよと俺も頷き、その後は二人で遊んでいたのだが、いつまで経っても帰って来ない俺を心配して、姉が取れ戻しに来た。
あんた何やってんの!と頭を叩かれ、腕を掴まれてズルズルと引きずられた。
するとその子も後をついて来て、お嫁さんお嫁さんと連呼しながら、俺の腕を引っ張った。
姉は誰この子?と尋ねてきて、俺は知らない子とだけ答えた。
シッシと手を払って追い払おうとする姉だったが、奴はその程度で引くようなタマじゃない。
結局家族のいる所までついて来て、母が「僕一人?」とか「親はどこにいるの?」などと尋ねて、父が親の所のまで連れていった。
その翌日である、その子が美桜里君と出会ったのは。
もちろんその男の子とはやっくんのことだ。
やっくんは時間と共に俺と美桜里君の記憶を結びつけて、同一人物としてしまった。
そしてお嫁さんというワードと、海の向こう側へ連れていくという約束だけが残ってしまったのだ・・・・きっと。
ということは、元を辿れば全て俺のせいである。
美桜里君が追い回されたのも、今になって俺を追い掛け回しているのも、あの日の海での出来事が原因である。
高校時代、奴の家庭事情を聞いたことがある。
あまり家のことは話したがらなかったが、たまにポツリと漏らすことがあったのだ。
やっくんには兄貴がいて、それはもう昔っから出来の良い子供だったらしい。
親は常に兄貴の方を可愛がり、自分はそこまで構ってもらった覚えがないと言っていた。
兄貴と比べれば確かに出来の悪い子で、いつだって親の言うことなんて聞かなかったし、大学も行きたければ自分の金で行けと釘を刺されていたそうだ。
そもそも高校に上がった時点で、本来ならば一人暮らしをする予定だったという。
とにかく親との折り合いが悪く、中学を出たら家を出ていくつもりだったし、親の方も家賃くらいは払ってやるからとっとと出ていけといったスタンスだったそうだ。
しかし唯一やっくんに理解を示してくれていたお婆ちゃんが、それはあまりに可哀想だからと止めてくれたらしい。
そのお婆ちゃんもやっくんが高校を出る前に亡くなった。
共に暮らすのは折り合いの悪い両親と、昔っから花よ蝶よと過保護にされて、優秀ながら自己愛の塊みたいになってしまった他人に無関心な兄貴だけ。
家族というものに対してまったくと言っていいほど良い思い出がない彼は、心のどこかで自分だけの家庭を欲しがっていたのかもしれない。
四歳の頃の約束をまだ覚えていたのは、そういうことも関係しているんだろうと、少しばかり同情的に考えるようになった。
あの日の海での出来事は、俺にとってはそう大したものではなかった。
しかしやっくんにとってはそうではなかった。
育ってきた環境が違えば、思い出に残りやすい出来事も違うわけで、そこに考えが及ばずにやっくんの行動を否定しても意味がないのだ。
忘れていた過去を思い出したからといって、もちろん奴と付き合う気などない。
四歳の頃に起きた出来事を正しく思い出してくれることが出来たならば、ストーカー行為は止まるかもしれないのだ。
とりあえずやっくんに向き合うのは美桜里君に会ってからでいいだろう。
せっかくこうして電車に乗って、代わり映えのしない退屈な景色に耐えているのだから、今日は美桜里君に会って昔を懐かしもう。
もっとも彼に会う一番の理由はもうない。
お姉ちゃんを鮮明に思い出すことで、今の自分と向き合えるんじゃないかと期待していたが、当のお姉ちゃん本人に会うことが出来たのだから、その意味では目的を果たしたといえる。
今日たまたま同じ電車に乗り合わせ、俺が居眠りに落ちていく途中、偶然お姉ちゃんが隣に座ってきた。
あの瞬間、向こうもこちらに気づいていなかったらしい。
ただなんとなく窓の外を眺めた時、頬杖をしながら惰眠を貪る俺を見て、もしや?と思ったのだそうだ。
最後に会ったのは俺が中学生の時以来だが、童顔であるせいか面影がそのまま残っていたのだろう。
すぐにピンときたそうだ。
俺がどう変化してしまったのか美桜里君から聞いていたので、髪型も服装もボーイッシュなことに違和感はなかったと言っていた。
声を掛けようか迷ったそうだが、自分から縁を切った手前、都合よく話しかけることが出来なかったらしい。
このまま隣にいれば誘惑に負けて声を掛けてしまいそうなので、すぐに席を立ったのだそうだ。
なるべく俺から離れようと、最後尾の車両まで移動して、イヤホンで音楽を聴きながら気を誤魔化していたというわけだ。
ちなみにやっくんがいつ頃から乗っていたのかは知らないという。
あの時の奴の態度から考えて、おそらく最初から尾行していたのだろう。
電車から降り、何かに怯えるように逃げて行く俺を見て、思わず声を掛けたのだとお姉ちゃんは言っていた。
そしてやっくんにはストーカーの気があることを知っていたから、彼が近づいて来るのを見て「まさか美緒ちゃんがターゲットに?」と思って男気を見せてくれたのだった。
あの後、お姉ちゃんとしばらく話をしてから、「それじゃまたね」と手を振って別の電車に乗っていった。
別れる前に連絡先を聞かれたので、LINEの交換をすると「またご飯でも行こ」とメッセージが入っていた。
再会は偶然だとしても、こうしてまた繋がれるのは嬉しい反面、なんだか気が抜けるほど軽い感じで縁が復活したことに戸惑いを覚えている。
俺はずっとお姉ちゃんに会いたいと思っていて、それは向こうも同じだった。
縁を切っていた10年の間、お互いに色んな部分が変わってしまったけど、その理由については正反対だった。
お姉ちゃんは自分の為に自分を変え、俺はお姉ちゃんに会えない寂しさから自分を変えた。
片や己の人生を生き、片や他人の人生を追いかけた10年間・・・・この差はとても大きい。
お姉ちゃんは新たな夢に邁進中で、自分の望む道を歩いている。
なのに俺はどうだろう?
お姉ちゃんに憧れ、会えない寂しさから自分自身がお姉ちゃんの真似をし、しかし俺が知っているお姉ちゃんはもうどこにもいない。
あの頃のお姉ちゃんは過去のもので、俺は今でもそれをなぞっているだけだった。
ということはこの10年の間、俺の人生は止まっていたのだろうか?
電車に揺られながら、自分がとても滑稽に思えてきて、笑いたいような切ないような感情が溢れる。
俺が、俺の周りの誰よりも遅れている。
お姉ちゃんより、やっくんより、美知留より、俺だけがどうしようもなく同じ場所で足踏みをしていたのだ。
真っ直ぐだったり、思い込みが激しかったり、愛憎にまみれていたり。
みんなそれぞれ違っていて、良い悪いはあるにせよ己の人生を歩いている。
この中の誰一人として、己の為以外に生きてはいないのだ。
それは自分勝手な事であるかもしれない。
けどある意味では自分のことを誰よりも可愛がり、自分の人生とか命だとかに責任を持っているとも言える。
・・・・やめよう。
こんな事をいくら考えたところでどうにもならないし、明日になればどうでもよくなるほど思い出せなくなるだろう。
人は変わっていくし、過ぎた時間の中に立つことは出来ない。
今、俺は美桜里君の所へ向かっていて、今日という日の予定をこなせばいいだけなのだ。
難しいことなど知ったことか。
思い出せなかった記憶を思い出し、上手くいけばやっくんの思い込みを解除して、ストーカー行為が止まるかもしれないのだ。
それだけでお姉ちゃんと会った意味はあったし、心なしか心が軽い。
電車の中、現実とうたた寝を繰り返し、美桜里君のいる町までやってきた。
10年ぶりに再会した彼は24には見えないほど大人っぽくなっていて、腕に抱いた子供を笑顔で向けた。
可愛いだろ?と尋ねるので、可愛いと答えると、とても嬉しそうにはにかんでいた。
奥さんもこれまた綺麗な人で、軽く挨拶を交わしてから、家にお邪魔になった。
テーブルを囲んだ美桜里君の家族は、今時こういう家庭があるのかと思うほど、アットホームという言葉が似合った。
このまま何かの広告に使えるんじゃないかってくらいに絵になっていて、あまりの現実感のなさに別世界を訪れた気分になる。
それと同時にどこか儚さを感じるのはなぜだろう?と自問してみたが、ハッキリした答えは出なかった。
幸せ一杯の彼に嫉妬しているのか?
それとも現実感が無さすぎて、これは演技なんじゃないかと思えてしまうからか?
アンバランスな感覚が時間と共に加速して、だんだんと口数が少なくなって、そんな俺を見て「何かあった?」と心配してくれる美桜里君に、意識する間もなくこう言ってしまった。
「お姉ちゃんに会ったよ。」
ほんとに!?と驚くので、ほんとだと返すと、彼も彼の奥さんも途端に表情が曇ってしまった。
何をそんなに不安そうな顔をしているのかってほどにトーンダウンして、しばらくの間沈黙に耐えることになった。
「どうしてた?」
突然そう尋ねられて、小さく首を傾げる。
もちろんお姉ちゃんのことを言っているのは分かるが、どうしてた?の意味する主語が分からない。
どうしたもこうしたも駅で一時間ほど話しただけで、特別に美桜里君に伝えるような内容なんてない。
やっくんのことなんて話しても仕方ないし、「普通だったけど」としか答えられなかった。
「普通?どんな風に?」
「どんなって・・・・。仕事で遠くに出かけてたって言ってたけど。」
「仕事?仕事してるの?」
「え?」
「他に何か変わったことない?なんでもいいから。」
彼が身を乗り出すなんて珍しい。
なんでもいいというのならなんでも答えるけど、その前にどうしてそう焦っているのか知りたかった。
「お姉ちゃんなんかあったの?」
遠慮がちに尋ねると、小声で返事をしたのが聞こえて、今度はこっちは身を乗り出してしまった。
「何があったの?」
「身内のことだからそれは・・・・。」
「誰にも言わないから。」
聞きたいという気持ちが止められず、他人の家庭の事情に入ってはいけないなんて常識はあっさりと吹き飛んでいく。
知らない仲ではないし、こういう状況で引き下がれるほど大人でもない。
「教えてよ。」
念を押すように問いかけると、彼は奥さんを振り返った。
彼女は「信用できる友達なんでしょ?」と尋ね返し、彼に決断を委ねる。
「そうだな」と小さな呟きで答えてから、身を乗り出すのをやめて、椅子に身体の全てを預けるかのように深く座り込んだ。
「実はちょっと前から連絡が取れなくなってたんだ。」
「ちょっと前って・・・どれくらい?」
「半年・・・・もっとかな。電話してもメールしても返事がなくて、SNSも全部やめてるみたいなんだ。」
「それっていきなり?なんの前触れもなしに突然?」
「いや、彼女にフラれてからだよ。」
「え?だって今は彼女と同棲してるって言ってたけど・・・・。」
「そうなの!?」
また奥さんと目を合わせる。
いったい何をそんなに気にしているんだろうか?
もしかして彼の奥さんにも関係することなのだろうか。
「お姉ちゃんが言ってた。今年の春くらいに付き合いだして、今は同棲してるって。」
「春から?」
オウム返しに呟いて、「じゃあ新しい彼女なのかな?」と夫に視線を投げた。
「だろうな。」
「てことは立ち直ったってことだよね?」
「だと思うけど・・・・それならなんで連絡を寄越してくれないんだろう?」
しかめっ面をしながら二人で悩んでいるが、俺だけ置いてけぼりは嫌だ。
蚊帳の外っていうのは何より居心地が悪いのだから。
「お姉ちゃん・・・彼女と何かあったの?」
「まあ・・・・。」
言葉を濁そうとするが、ここまで気を持たせておいて何も喋らないってのは我慢できない。
もう一度「教えてよ」と促すと、渋々ながらといった感じで答えてくれた。
「前に付き合ってた彼女のことすごい好きだったんだよ。この先もずっと一緒にいたいって言ってたほどだから。
日本ではまだ同性婚は認められてないから、外国籍を取ってでも結婚したいって。」
「結婚を考えてたほどなのか・・・・。それって相手も同じ?自分もいつか結婚したいって?」
「最初はそう言ってたらしいんだけど、途中からそうじゃなくなったって。
というのも実は他に好きな人がいて、それって前の彼女らしいんだよ。
別れてからもずっと忘れられなくて、それが辛いから姉ちゃんと付き合ってたみたいで・・・・。」
「ひどいなそれ。自分の傷を癒す為にお姉ちゃんを利用したってこと?」
「だと思う。姉ちゃんがフラれたあと言ってたんだ。
あんな奴だなんて思わなかったって。私は利用されて捨てられただけだって。
彼女が嫌がるから格闘技の道も諦めたってのに。」
「ええ!自分からやめたわけじゃないの?」
思わず叫んでしまって、口の横にヨダレが付いてしまった。
手でサっと拭いながら、「でもあのお姉ちゃんが自分から夢を諦めるなんて・・・」と信じられなかった。
「あんなに一生懸命だったのに。海外にまで行ってやってたんだろ?」
「まあ・・・・・。」
「まあ・・・なに?」
「もちろん格闘技は大好きだったと思うよ。いつだって真剣だったし、チャンピオンになりたいってのも本気だったと思う。
けど一番の理由は違うんだよ。本当は好きな人がいたからなんだ。」
「好きな人?誰・・・?」
「自分を格闘技の世界に引っ張ってくれた先輩。レディース時代にもお世話になってた人で、その頃から好意を抱いてたんだ。
けどあの頃は同性愛者だってことはカミングアウトしてなかったから、ずっと気持ちを抑えたままだった。
それでね、その先輩が選手を引退してトレーナーになったんだって。
ゆくゆくは自分のジムを持ちたいって言ってて、だったら私がそのジムで活躍すれば喜んでくれるんじゃないかって思ってたんだよ。
それが格闘技をやってた一番の理由。」
「今は・・・・その先輩は?」
「格闘技から離れて普通の生活送ってるってさ。今は結婚して家庭を持ってる。
姉ちゃん・・・あの時はかなりショック受けてたよ。
好きだった人が先にその世界から抜けちゃって、しかも結婚しちゃって。姉ちゃんに残されたのは格闘技だけで、ショックを誤魔化す為に前以上に打ち込んでたよ。」
「そうだったんだ・・・。それってちなみにいつ頃のこと?」
「美緒ちゃんに出会う前だね。その人と美緒ちゃん、ちょっと似てたんだよ。それが理由で姉ちゃんはその・・・・ねえ。」
「なるほど・・・・だから俺なんかを好きになったんだ。あんな頼りない子供だったのに。」
ふっと心が軽くなる。
お姉ちゃんほどの人がどうして俺なんかに・・・って不思議だったけど、好きだった人と重ねて見ていたんだったら納得がいく。
俺への好意を抑え込んでいたのは、真面目な性格ゆえに、そんな理由で気持ちを伝えるなんて失礼だと思っていからかもしれない。
もちろん俺がまだ中学生だったからというのもあるだろうけど。
「自分にはこれしかないって、鬼気迫るくらいの感じで打ち込んでたよ。だからチャンピオンにこそなれなかったけど、かなりいい線まで行ってたんだ。
けどだんだんと年齢を重ねて、体力的な問題が出てくるだろ?このまま続けようか迷ってる時に、前に付き合ってた彼女と出会ったんだ。
その子はすごく献身的な性格でさ、格闘技に打ち込む姉ちゃんを支えてくれた。
けどその分寂しがり屋というか、束縛が強い面もあったみたい。
最初は支えてくれてたんだけど、そのうち格闘技なんてやめてって言われたみたいでさ。
危ないし怖いし、もし何かあったらって思うと辛いって。私だってずっと一緒にいたいから、もう格闘技はやめてほしいって。
そう泣きつかれてキッパリ辞めた。でもそれから一ヶ月も経たないくらいに別れを切り出されたんだ。
他に好きな人がいるからって。姉ちゃんはもちろん納得しなかったけど、相手は取り付く島も与えてくれなかったらしい。
一方的に別れを告げられて、連絡しても返事はない。
業を煮やして家まで会いに行ったんだけど、逆に罵られたって言ってたよ。
これ以上付きまとうならストーカーだから、警察に言うよって。」
「なんだよそれ!だって相手だってずっと一緒にいたいって言って、格闘技まで辞めさせたんだろ?
なのに勝手に別れを告げて、その上そんなこと言うなんて・・・・、」
「そういう奴だったってことだよ。姉ちゃんはすごい傷ついてた。
ああ見えてけっこう繊細でさ、周りからは強いとか逞しいって言われるけど、本当はそうじゃないんだ。
ものすごいナイーブだし、けっこう悩むタイプだし。」
美桜里君から話を聞く度、自分の中のお姉ちゃん像が壊れていく。
夢は自分の為じゃなく好きな人の為にやっていて、中身は繊細な人だったなんて思いもしなかった。
俺が抱いていたイメージはその真逆だ。
10年ぶりに会ったお姉ちゃんは変わったと思っていたけど、そうじゃなかったのかもしれない。
俺が勝手なイメージを膨らませ、勝手にこういう人だと決めつけて、偶像崇拝のごとく崇めていただけなのではと迷い始める。
「それからだよ、連絡しても返事が来なくなったのは。」
消え入りそうなトーンの声は、お姉ちゃんへの心配の表れだろう。
身内と連絡が付かないなんて、そりゃあ心配に決まっている。
テーブルに肘をつき、祈るように手を合わせて額に当てている。
奥さんが「実はね・・・」と続きを引き取るように口を開いた。
「その彼女を紹介したの私なんです。」
「そうなんですか・・・?」
「友達に同性愛者の子がいたから紹介してあげたんです。お義姉さん、口には出さなかったけど、恋人が欲しいんだろうなって感じることが多々あったから。
だから私の友達にこういう子がいて、今はフリーなんですって言ったんです。その子も彼女と別れてからずっと寂しがってたから。
よかったらどうかなと思って・・・・。」
なるほど、それで夫婦互いにバツの悪い顔をしていたのだ。
何か喋ろうとする度に目を合わせていたのは、お互いを気遣ってのことなのだろう。
そういう優しさが幸せな家庭を築いているんだろうと思う反面、もしもどちらかの気遣いが無くなってしまったら、途端に崩壊しそうに感じるのは、俺の考え過ぎだろうか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
お姉ちゃんがそんなに苦しんでいたなんて想像もしていなかった分、やはりショックは大きい。
目の前に置かれたコーヒーを飲む気にもなれず、角砂糖を指でつつきながら、このどうしようもない気分をどうすればいいのか考えていた。
俺はずっとお姉ちゃんの真似をして生きてきたわけだが、それは全て幻のお姉ちゃんを真似てのことであり、中身がないにもほどがある人生だ。
やっくん、美知留、お姉ちゃん。
常に誰かに振り回され、でもそれは俺自身が不甲斐ないせいであり、いったい俺という人間はどこに芯があるのだろうと情けなくなってくる。
戯れに角砂糖を入れてかき回し、舐める程度に口をつける。
甘い香りと風味はややベタっとしていて、そういえばいつからブラックを好むようになったのだろうと、どうでもいいことを振り返る。
「なんでミチルを紹介しちゃったんだろ・・・・。」
奥さんの言葉にカップを持つ手が止まり、口につけたまま動けなくなった。
ミチル・・・・?今ミチルと言った。
「あの・・・・・、」
「ん?」と目を向ける奥さんに「そのミチルって人・・・・」と躊躇いながら言葉を押し出す。
「同性愛者なんですよね?」
「そうだよ。だから紹介したんだもん。」
「ちなみにどういう字を書くんですか?」
よっぽど俺の顔が歪んでいたのだろう?「どうしたの?」と不安そうに顎を引く。
「字を教えてくれませんか?漢字でどう書くんです?」
カップを置き、いいから早く答えろと目を鋭くする。
怪訝な表情で夫を見上げる奥さんに代わり、美桜里君が答えてくれた。
「美しいって字に、知性の知。それと留めるって字で美知留・・・・・だったよな?」
奥さんに採点を求めると、無言のまま頷いた。
なんの反応も出来ずに、誰かに押し付けられるかのように頭を垂れてしまう。
何も理解できないまま「美知留」と呪文のように口ずさむしかなかった。

海の向こう側 第十一話 憧れの人(1)

  • 2018.05.23 Wednesday
  • 11:39

JUGEMテーマ:自作小説

ずっと会いたかった人に会えるというのはとても嬉しいもので、長年溜め込んでいた様々な感情が言葉となって喉元に押し寄せる。
だが大量の水も小さな穴からだと少しずつしか流れ出ない。
溢れるほど喉元にせり上がる言葉の渦は、たった一つの口から吐き出すには無理がある。
嬉しいとか腹が立つとか、過剰なほど感情的になった時、かえって寡黙になるのはその為だろう。
ホームのベンチに座りながら、かつてのお姉ちゃんとはまったく違う姿になってしまったお姉ちゃんを眺めていた。
当たり前だけどお姉ちゃんは女だった。そうでないのならお兄ちゃんと呼んでいる。
それにどうしてサラリーマンをやっているのかも不思議だった。
いや、スーツを着ているからってサラリーマンとは限らないけど、確か格闘技のチャンピオンを目指して頑張っていたはずだ。
それに顔も変わっている。
昔の面影はあるものの、かつての顔立ちよりもグンと男に近づいて、もし自分から名乗らなければ俺はずっと気付かなかっただろう。
容姿も性別も仕事も、俺が知っているかつてのお姉ちゃんとはかけ離れていて、それらのことは触れない方がいいのかなと、聞きたい気持ちを堪えていた。
対してお姉ちゃんはよく喋った。
中身はどうでもいいことばかりで、あの芸能人が結婚したとか、好きだったサイトが閉鎖になったとか。
そんなの誰相手に話してもいいような内容で、だったらどうして俺を呼び止めたんだろうかと、真意を測りかねていた。
こうして再会できたことは嬉しい。
だけど深い部分に踏み込めない上っ面だけの会話に、居心地の悪さともどかしさを感じてしまう。
次から次へと飛び出してくる世間話に、ただ笑顔で相槌を打つだけの時間が過ぎていく。
偶然とはいえせっかく再会したのに、こんな風に無駄に時間が過ぎていくなんて勿体なさすぎるではないか。
この流れを断ち切りたいのなら、ここから立ち去るか、勇気を出して踏み込んだ質問をするしかない。
当然選ぶのは後者に決まっている。
背筋を伸ばして畏まり、緊張が高まっていくのを感じながら、まずは見た目が男に変わっていることについて尋ねようとした。
だがその質問を口にする前に嫌なものを見つけてしまった。
俺たちが座っているホームのベンチから離れた場所に自動販売機があるのだが、その影からこちらの様子を窺う人物がいたのだ。
ゾワっと背筋が波打つのと同時に、激しい怒りが沸いてくる。
本人は上手く身を隠しているつもりなのだろうが、まるでモグラ叩きのようにチラチラと覗かせる顔は、自分がここにいますよとアピールしているように目立っている。
今はホームに人も少なく、あのような行動はより怪しさを醸し出すだけだ。
いったいどうしてここまで追いかけられなければならないのか?
膝の上に置いていた手に力が入り、皺が出来るほどジーンズを握り締めた。
やっくん・・・・もうお前を友達とは思えない。
こんな卑怯にコソコソとつけ回し、人に不快感と恐怖を与えて何が楽しいのか?
俺に想いを寄せていたのはまあいい。
誰を好きになるかなんて自由だし、どんな法律でも人の心までは縛れない。
ただ問題なのはその行動で、ここまでするほど俺に執着しているなら、とっとと学生の時に告白でもなんでもしておけばよかったはずだ。
学生時代にずっと我慢して、卒業後も24になるまで我慢してきた気持ちなら、そのまま我慢していればいいのだ。
好きなら好きと潔く伝え、それが無理なら胸の中に気持ちを閉じ込めておく。
こんなにあちこち追い掛け回して、好きな相手を困らせて・・・・その愚かさは相手からただ嫌われるだけということを理解できないとはなんとも情けない。
せっかくこうしてお姉ちゃんに会えた今日、もうやっくんのせいで貴重な時間を潰されたくなかった。
俺が逃げ回る限り、奴はまた追い掛け回してくるだろう。
こんな因果、10億でも100億でも貰ったって断る。
お姉ちゃんに尋ねようとしていた言葉を飲み下し、ベンチから立ち上がる。
まっすぐに奴の方を睨みつけてやると、ようやく俺が気づいていることに気づいたようだった。
もはや隠れるのは不要と判断したのか、ややバツの悪そうな顔しながら、小さく手を挙げて自販機から出てくる。
笑顔を見せながら、まるで小用でも伝えに来るかのように軽快な足取りだ。
いったいなぜ笑っているのか?なぜそんなに軽い足取りなのか?
尾行がバレてしまったことの照れ隠しか?
それとも単に開き直っているだけか?
意気揚々と近づいてくるその姿を見ていると、不快感や恐怖よりも怒りの方がウェイトを占めてきた。
もう迎え撃つのはやめて、こちらから攻め入ってやるしかない。
何が嬉しいのか嬉々としている友人だった奴に向かって、一歩足を進めた。
「待って。」
後ろから手が伸びてきて上着を引っ張れる。
振り返るとお姉ちゃんも立ち上がっていて、グイと俺を引き戻してベンチに座らせた。
「あの子知り合い?」
やっくんを睨みながら背中を向けて尋ねる。
これはなんと答えるべきか?
かつての友人か?それともストーカーか?
というよりなぜかやっくんのことを知っていそうな目をしているお姉ちゃんを不思議に思い、「お姉ちゃんも知り合い?」と尋ね返してしまった。
「知ってるよ。昔から。」
一ミリも予想していない答えが返ってきて、「昔から?」とオウム返しに尋ねてしまう。
いったいこの二人のどこに接点があるんだろうか?
とても聞きたいけれど、考えている間にもやっくんは迫ってくる。
「ここにいて」とお姉ちゃんも歩き出す。
二人の距離が縮まるにつれて、俺の方が緊張に息を飲んでしまった。
先に足を止めたのはやっくんだった。
なぜか幽霊にでも出くわしたかのように顔を引きつらせ、一瞬後ろを振り向いて撤退する素振りを見せた。
何を迷っているのか知らないが、さっきまでの意気揚々とした表情は消え失せ、普段着のまま葬式に来てしまったかのような落ち着かない様子に変わる。
お姉ちゃんはただじっと見据えているだけだ。
罵倒したりする素振りは一切見せない。
ポケットに手を突っ込み、地面に張り付いているかのように仁王立ちしている。
その背中越しに見えるやっくんは実にそわそわと落ち着かない様子で、チラリと俺を見て子犬のような目をした。
そして何も言わぬまま踵を返し、戦に負けた落ち武者のように、背中を丸めて遠ざかっていった。
いったい何が起きたのか俺には分からない。
分かっていることはやっくんが去ったということ、そしてお姉ちゃんが追い払ってくれたということだ。
気がつけばベンチから立ち上がり、羨望の眼差しを向けていた。
またあの時と同じだ・・・・イジメっ子から助けてくれた時の、あの逞しいお姉ちゃん。
一気に記憶がフラッシュバックして、泣きそうな気持ちを堪えるのに必死だった。
俯き、目尻を拭い、ホームの向こうへ視線を泳がせていると、ポンと頭を撫でられた。
「座ろう。」
手を引かれながらベンチに腰を下ろすと、お姉ちゃんも隣に座り、やっくんが去った方を睨みながらこう呟いた。
「あの子私のことビビってんだ。ずっと昔に思いっきり蹴飛ばしたことがあるから。」
思わず「え?」と顔を上げると、「ほんっと昔のことだからね」と、今はそんなことするような人間じゃないぞとフォローを加えた。
「まだ弟が四歳くらいの時だったかな。海に遊びに行った時に一人の男の子と出会ったんだって。
そん時の弟はまあ姉貴の私から見てもすんごい可愛い子でさ、下手すりゃ危ない大人に連れてかれるんじゃないかってくらいだったよ。」
なるほどと頷く。
彼のイケメンぶりは俺もよく知っている。
中学時代もかなりの美形だったのだから、四歳の頃なんて天使のようだったに違いない。
「だからさ、よく女装させたりなんかしてたんだよね。あの頃は髪も長めだったから、リボンで結んだりなんかしてね。
本人は嫌がってたけど。ほんと天使みたいだったから。」
昔の彼を思い浮かべているのか、懐かしそうに上目遣いになる。
「そんでさ、あの子が四歳の時に、私と一緒に親戚に海に連れてってもらったんだよね。
初日は海で泳いでさ、夜はお祭りにも行ったよ。そん時私は中一だったから、楽しいっちゃ楽しいんだけど、やっぱ友達とかと一緒にいたい年頃でしょ?
だからちょっと退屈でもあったんだよね。ぶっちゃけ私は弟の子守役で行かされたようなもんだし。」
ポケットからタバコを取り出し、辺りを見渡しながら、小さなため息をついて懐にしまっている。
今やどこもかしこも禁煙だから、タバコを吸う者にとっては肩身が狭いのだろう。
というよりお姉ちゃんがタバコを吸うことに驚いた。
やはりもう格闘家は引退し、サラリーマンへ転職したってことなんだろうか。
「そんで祭りに行った次の日にさ、ちょっと退屈しちゃった私は弟から目を離しちゃったんだよね。
あの日は海辺にある自然公園みたいな所に行く予定だったんだけど、こちとら思春期真っ只中じゃん?
んな場所行ってられっかって思うわけよ。
だから私は行かないって断って、コンビニで雑誌でも買って暇つぶししようと思ったわけ。
そしたら弟もついて来るって言ってさ、しょうがなしに連れてったのね。
まだ小さいからちゃんと手え繋いで。
けどお店に入ってから手え離しちゃったんだよね。雑誌を立ち読みしてたから。
時間にして二分くらいだったと思うけど、振り返ったらどこにもいなくなっててさ。」
大げさに肩を竦めておどけているけど、すぐに真顔に戻って「あの時は焦った」と髪をかき上げていた。
「だってどこを探しても見つからないんだもん。まだ四歳だからそう遠くに行ってないはずだって思ったんだけど、ほんと見つかんないもんなんだよね、ああいう時って。
しかもさ、その日も弟に女装をさせてたわけよ。親戚のおっちゃんおばちゃんは可愛い可愛いって喜んで、しばらくそのままでいてって盛り上がって。
んでその格好のまま一緒にコンビニに行っちゃったんだよね。だから余計に焦っちゃって。
だって変態に見つかったら何されるか分かんないでしょ?」
「確かにすごく心配だね。結局どうなったの?ちゃんと見つかったんでしょ?」
「まあね、じゃなきゃ今頃いないから。」
笑いながらそう言われて、確かにと赤面する。
「あちこち探し回ってようやく見つけた。コンビニからけっこう離れた浜辺にいてさ。トボトボとこっちに歩いて来んのよ。
それで私に気づくなり泣きながら『お姉ちゃ〜ん』って。」
「迷子になってたんだ。」
「と思うでしょ?実際はそうじゃないんだよね。」
言いながらまた周囲を見渡し、何かに気づいたように立ち上がって、「あっちで話そう」と歩いていく。
その先にはガラス張りの小さな部屋があって、中に入ると二つの灰皿が設置されていた。
すぐさまタバコに火を点けるお姉ちゃんに、「タバコ吸うんだね」と見たまんまの質問を投げかけてしまった。
「もう格闘家は引退したからね。」
「やっぱりそうなんだ。なら今はサラリーマンってこと?」
「私にそんな堅い仕事出来ると思う?今日はたまたま用事があってこれ着てるだけ。似合わないでしょ。」
上着を広げながら自嘲気味に笑うので、「そんなことないよ」と返した。
「すごい似合ってる。エリート商社マンみたい。」
「マジで?そんなこと言ってくれるの美緒ちゃんだけだよ。周りからはスーツ着る度に似合わないって言われるんだから。」
微笑みながら煙を吹かしているその顔は満更でもなさそうだった。
サラリーマンじゃないならいったいどんな仕事をしているのか想像したけど、皆目見当もつかなかった。
「あの子は迷子になてったわけじゃなくて、知らないおじさんに誘われて店から出てったんだって。」
「知らないおじさんって・・・、」
一気に嫌な方向へ話が転がって、喉が鳴るほど息を飲んだ。
そんな俺の顔を見てお姉ちゃんはクスっと肩を竦める。
「あの子ほんとに可愛かったからね。やっぱそういう大人に目を付けられたみたいで。
けどね、幸いなことに変なことはされなかったの。なんでかっていうと別の子供が割って入ってきたから。」
「別の子が割って入る?全然違う子が来たってこと?」
「その変態さんはお菓子で弟を釣ったみたいでね、それを見てた別の子が自分も欲しがって寄って来たみたい。
しかもくれくれって大声で喚くもんだから、変態さんが狼狽えちゃったんだろうね。
あんまり目立ってもマズいから、弟を残してどっかに逃げてったんだってさ。」
「ならその子のおかげで間一髪だったってこと?」
「そういう意味では恩人だよね。けどここからが問題でさ、その子が弟に惚れちゃったの。」
「惚れる?四歳で?」
少々驚きながら目を剥くと「ませてるよね」と笑みを返してきた。
「ちなみに弟の方はなんのことだか分からなかったみたい。ミオちゃんが好きだって言われても全然ピンと来なかったってさ。
だから僕も好きだって適当に返したら、相手が本気にしちゃってね。将来はこの子をお嫁さんにするって息巻いてたらしいよ。」
タバコの灰を落としながら「どんだけませてるんだか」と笑うお姉ちゃんであったが、俺はまったく笑えなかった。
もしや?・・・と思う疑問が膨らみ、自然とこんな言葉が飛び出してしまった。
「あのさ、その恩人の子って・・・まさかやっくん?」
「そうだよ。ていうか元々彼の話をしてんじゃない。」
「そうだけど・・・・。」
自分でもどんどん表情が曇っていくのが分かる。
なぜ曇るのかは分からないが、いい気分でないのは確かであって、「どうしたの?」と心配されてしまった。
「気分でも悪い?」
「お姉ちゃんの弟ってさ、名前はミオリだったよね?」
「そ、美しいに桜の里って字で美桜里。女の子みたいな名前だけど、それが似合うくらい美形ってのがなんともね。
本人は嫌がってたみたいだけど。もっとカッコイイ名前がよかったって。
あんなアイドルみたいな見た目のくせに、中身はけっこう男っぽいんだよね。そういうのもあってまあ昔っからよくモテてたわ。」
弟の自慢をするお姉ちゃんは嬉しそうで、「バレンタインなんかしばらくチョコはいらないってほど貰ってたなあ」と懐かしんでいる。
だが俺はその笑顔について行くことは出来ない。
やっくんは言っていたのだ、まだ四歳の頃、海でミオって女の子に出会ったと。
しかしこうも言っていた。
その子は女の子なのに男っぽい格好をして、女の子が恋愛対象なんだと。
これはいったいどういうことだろう?
美桜里君は男だけど女の子の格好をしていて、恋愛が何かすら分かっていなかったはずだ。
これではまったく筋が通らないではないか。
やっくんが嘘をついているのか?
それとも奴が言っていたミオちゃんなる子は別の子なんだろうか?
曇りに曇っていく俺を不安に思ってか、お姉ちゃんは「ほんとに大丈夫?」と顔を覗き込んできた。
「なんか悩んでることでもある?」
そう問われて胸の内を語ろうか迷った。
これ以上やっくんについて掘り下げると何が飛び出してくるか分からず、ともすれば知らない方がよかったと落ち込む羽目になる可能性もある。
しかし残念ながら、疑念は好奇心へと姿を変えて、形ある答えを求めようとしてくる。
その力は自分でも止めることが出来ず、やっくんに抱いている疑問をぶつけてみた。
同時に奴にストーカーされていることも付け加えて。
お姉ちゃんは「なるほどね」と頷き、タバコを灰皿の中に落とした。
「そのミオちゃんって子、多分ウチの弟のことだね。」
「やっぱり?」
「薬師丸君はさ、なんでも自分の都合のいいように思い込むタイプだから。そのせいで平気で記憶も書き換えちゃうんだよね。おかげで弟も苦労したもん。」
「苦労?」
いったい何を?と考える前に、「美緒ちゃんと同じ」と答えた。
「実はウチの弟もあの子に追い回されたことあるんだよね?」
おどけるように語るお姉ちゃんに、俺は眉間に皺を寄せてしまった。
男が男にストーカーってことだろうか?
「追い回されるっていったいどういう・・・・、」
「だからお嫁さんになってって。」
「四歳の頃の約束なのに?」
「ていうか四歳の頃に追い回されたの。私たちは五日くらい向こうにいたんだけど、その間ずっとだから。
弟は次の日には女装をやめて普通の格好をしてたんだけど、そん時にまた会いに来たんだよね。
ちょうど私たちが海にいる時に。
あっちは家族で来てたみたいで、弟を見つけるなり薬師丸君が駆け寄って来たの。
その日は一日中弟の後ろをついてって、次の日も、また次の日も私たちの泊まってる民宿まで来る始末だったから。
でもって弟を無理矢理どっかに連れて行こうとしたり、チューしようとしたりさ。
それが帰る日まで続いたもんだから、いい加減に弟も怖がっちゃって。」
新しいタバコを咥えながら、シュっとライターを擦っている。
俺に気を遣ってか明後日の方向へ煙を飛ばしていた。
「とうとう民宿から出るのも怖がるほどになっちゃって、それで私がキレたってわけ。
テメエどこのガキだ!親呼んで来やがれ!って、思わず蹴飛ばしちゃってさ。今思うと四歳の子相手にやり過ぎだって反省してるけど。
でもあの時はほんっとしつこかったから。親戚が追い払ってもお構いなしで、こりゃもう本気でビビらせるしかないと思ったわけよ。」
タバコを挟んだ手を向けてきて、私は悪者じゃないから誤解しないようにと、暗に圧力を掛けてくるので「お姉ちゃんは間違ってない」と頷きを返した。
「で、その後はどうなったの?」
「泣きながら帰ってって、親を連れて来たよ。なんか放任主義というか、無責任そうな親でさ。思わず怒鳴りつけちゃったよ。
テメエのガキくらいちゃんと見れねえのか!って。まるで氷みたいに固まってたね。
こっちだって中一のガキだってのに、あん時はほんとに偉そうだったよ。」
情けなさそうに言うその顔は本気で後悔しているようで、過去の行いを戒めるかのように「馬鹿だったからね私」と呟く。
「んでその時はそれで終わったんだけど、それから十五年くらい経ってからまた薬師丸君に会うことがあってさ。」
もしやまたストーカーしたのかと身構えるが、お姉ちゃんはそんな俺の気配を察してか小さく首を振った。
「薬師丸君とまた会ったのは東京のジムなんだよね。」
「格闘技のってこと?」
「あの子も仕事で東京に住んでたみたいで、私の行ってたジムに入門してきたんだよ。
別に選手になろうとかそんなんじゃなくて、ただ身体を鍛えるのが目的だったみたいだけど。
入門してきた時からすごいガタイしててさ、こんなの鍛える必要ないだろって思ってたんだけど、どっかで見覚えがあるなあって。
それであの子が入ってきて三ヶ月目くらいだったかな、向こうから『覚えてますか?』って声掛けてきたの。
ああ、やっぱ昔の知り合いかなんかだったんだって思ってたら、『子供の頃に海で・・・』とか言うわけよ。
思わず叫んじゃったね、『あん時のストーカー!』って。」
そんな昔からストーカー呼ばわりされていたとは、ある意味恐れ入ってしまう。
これはもう天性の変態性の持ち主で、いくら頑張ろうとも奴からの執着を断ち切るのは困難であろう。
当然嫌な気分になり、若干の吐き気まで催してきた。
「いま幾つ?って聞いたら二十歳ですって言ってさ。なんとなく面影はあったんだけど、まさかこんなゴツイ男に成長してるなんて思わなくてさ。
あの時は蹴飛ばして悪かったねって謝ったら、いえいえこっちこそとか謙遜しちゃって。
まあそん時はそれだけだったんだけど、それからまた二ヶ月くらい経ってからだったかなあ。
仕事の帰りに偶然出くわしちゃってさ、『あ、どうも』って挨拶してくるから、『こんな所で何してんの?』ってしばらく話し込んじゃって。
その日はジムも休みだったから、『立ち話もなんだから一杯行かない?』って誘って。
最初は他愛ない話してたんだけど、そのうち向こうから悩みを語りだしてさ。
ずっと昔から好きな人がいるんだけど、気持ちを胸に閉まったままだっていうんだよね。
伝えたいんだけど嫌われたらどうしようって悩んでるみたいで。」
聞かなきゃよかったと後悔し始める。その悩みとやらはもちろん俺のことであり、そこから今現在へのストーカーに繋がっているのだろう。
耳を塞ぎたい気持ちはあれど、せっかく話してくれているお姉ちゃんの手前、平静を装って耳を傾けた。
「けっこう真剣に悩んでたからさ、こっちも本気で相談に乗ってあげようと思ったわけよ。そしたらさ・・・・、」
今度はお姉ちゃんの表情が曇っていく。苦虫を噛み潰したみたいな顔をしながら、どんどん眉間の皺が深く刻まれていった。
「ミオちゃんって答えるわけさ。」
そら来た!やはり俺のことを相談していたのだ。
予想はしていたものの、俺もお姉ちゃんと同じように苦虫を噛み潰した顔になる。
しかし次の瞬間には別の意味で顔をしかめる事になってしまった。
「ミオって答えた瞬間、しょうじき大丈夫かコイツ?って思っちゃったんだよね。まだ弟のこと好きなのか?って。」
「え?弟って・・・・、」
「だからミオって美桜里のことかなと思ったわけ。四歳の頃に惚れた相手をまだ追いかけてるんだって思ってさ、ちょっと引いちゃったわけ。
しかも未だに弟のことを女の子だって思い込んでたみたいでさ。私はちゃんと説明したんだよ、弟に会いに来る度にこの子は男だって。
でもよくよく話を聞いてみるとそうじゃないんだよね。実は高校の頃に好きな相手がいて、同じサークルだったミオって女の子が好きだって言うわけよ。」
「それってやっぱり俺の・・・・、」
「その通り。私もすぐにピンと来ちゃってさ。それってあの美緒ちゃんのことだって。
弟から美緒ちゃんが変わったってことは聞いてたからね。男みたいな格好して、恋愛対象も同性だって。
だからすごい迷った、その子は私の友達だって言おうかどうしようか。
けどこっからがすごいんだ。薬師丸君ね、どうも美桜里と美緒ちゃんのことをごっちゃにしてるみたいで。」
「ごっちゃ?」
どういう意味か分からずにまたオウム返しになってしまう。
こっちへ流れてきた煙に咳き込むと、「ごめんごめん」とタバコを遠ざけてくれた。
「美緒ちゃんのことをさ、どうもウチの弟と同一人物だと思ってるみたいでね。
美桜里イコール美緒ちゃんってなってたみたいなの。
女の子なんだけど男の子みたいな格好してて、恋愛対象は女の子だって。
けどそれって美緒ちゃんのことじゃんね。どうしてか分からないけど、美桜里と美緒ちゃんが一緒になっちゃってんのよ。」
なんと呆れるほど都合の良い考え方をするのだろうと、開いた口が塞がらなかった。
幼い頃に成就しなかった恋を引きずり、その相手に俺を重ねて見たいたことは知っている。
だがその相手がまさか美桜里君で、しかも都合よく記憶の書き換えを行っているなんて・・・・いったいどだれけ自分の中の妄想を生きているんだか。
「子供の頃に恋をした相手がいて、高校で偶然に再会できたんだって興奮気味に語るわけよ。
でもその記憶は間違ってるわけじゃん?だから訂正してあげようと思ったんだけど、ちょっと気になることを言い始めたんだよね。」
「気になること?」
気になることなんて言われたら、俺の方が気になってしまうではないか。
でもおそらく聞かない方がいい類の話な気がして、気になってしまうこの気持ちをどうにか出来ないものかと格闘したが、残念ながら無理だった。
興味津々に目を向ける俺に向かって、お姉ちゃんは「ねえ美緒ちゃん」と声色を変えた。
「薬師丸君に何か言ったことない?」
唐突な質問に「何かって?」と尋ね返す。
俺は記憶力は悪い方ではないので、やっくんに対して気になるようなことを言ったのなら覚えているはずだ。
「海の向こう側へ行きたいって言ったことない?」
「海の向こう側・・・・?」
ふと気にかかる。なぜならそれはやっくんが言っていた言葉だからだ。
奴は昔に会ったミオちゃんという女の子に「海の向こう側へ連れて行ってやる」と約束した。
なぜならその女の子が「海の向こう側へ行きたい」と願っていたからだ。
「薬師丸君はミオちゃんがそう言ったって話してた。すごく深刻そうな顔しながら、ここじゃないどこかへ行きたいって。
でもまだ四歳だった美桜里がそんなこと言うとは考えにくいじゃない?だとしたら美緒ちゃんが言ったんじゃないのかなって。」
お姉ちゃんはそう言うが、俺の記憶の中にそんな思い出はない。
膝の上に肘をつき、手の上に顎を乗せ、前屈みの体勢になりながら、じっと前を睨んで考える。
俺はやっくんにそんなことを言ったことがあるだろうか?
海の向こう側へ行きたいだなんて・・・・・。
記憶力は悪い方じゃないんだけど、どうしても思い出せないのは、やっくんにとっては特別なことであっても、俺にとってはそうじゃないせいかもしれない。
「海の向こう側・・・・・。」
呟きは空振のように全身に響いていく感じがして、目を閉じるのと同時にふと何かが思い浮かぶ。
・・・・白波がうねる海の景色、青空なのに強い風が吹いている。
遠くに見える水平線はクッキリと海と空を隔てていて、そこに蜃気楼か何かが浮かんで見えた。
ぼんやりと人の形をしていて、こっちに向かって何かを話しかけている。
姿は男の子だけど声は女の子だ。
これはただのイメージか?
それとも俺自身の記憶だろうか?
水平線に浮かぶ人物は、やがて青海のようにハッキリと姿を現す。
それはまるで今の自分にそっくりで、女でありながら男の格好をして、恋人らしき女の子と手を繋いでいる。
あの日水平線に見たもう一人の俺の幻、それとは逆の俺が、蜃気楼のごとくイメージの中に浮かんでいた。

海の向こう側 第十話 別れと再会(2)

  • 2018.05.22 Tuesday
  • 14:40

JUGEMテーマ:自作小説

嬉しいニュースというのは突如として舞い込んでくるものだ。
それが二つも同時となれば尚更で、最近の嫌な気分など一気に吹き飛ぶほど、胸の底から力が沸いてくるのを感じた。
あまりに嬉しいので、雨だというのに外へ走り、傘も差さずに海を眺めている最中である。
まず一つは、美知留が落ち着きを取り戻し、素直に取り調べに応じているらしいということだ。
あいつが逮捕されてから五日が経つが、昨日に刑事が教えてくれた。
今ではすっかり大人しくなり、随分と反省しているという。
ただしそれが心の底からの反省かどうかは分からないと言われた。
というのも美知留の親が弁護士を雇ったのだが、その弁護士と面会してから態度を急変させたからだそうだ。
あの刑事は言った。
ここから先は個人的な推察だが、あの錯乱は演技だったのではないかと。
そうすれば心神喪失状態と判断され、無罪放免になる可能性があるから。
しかし弁護士と話したことで、そっちの方面で攻めるより、しおらしく反省の色を見せていた方がいいと判断したのだろうと。
本気で病んでいるのなら素直に取り調べに応じるはずがなく、弁護士と話したからといって治るわけでもない。
おそらくは自分の身を案じての作戦であって、その作戦の成功率が低いということを弁護士に指摘され、であれば罪を軽くしてもらう方を選んだのであろうと。
なのでしおらしく反省はしているものの、殺意は明確に否定しているそうだ。
それどころか突き飛ばすつもりなんてまったくなくて、勢い余って押し倒す形になってしまっただけだと釈明しているらしい。
なるほど・・・・刑事の言う通り、無罪ではなく罪を軽くしてもらう作戦に打って出たのだろうと、俺は確信した。
殺すつもりなら殺人未遂、たまたま押し倒してしまっただけなら過失による事故。
罪は重さはまったく違うだろう。
しかしあいつは倒れる俺に向かって何度も石を投げつけた。
これはたまたまでは言い逃れ出来まい。
殺人未遂は立証できなくても、傷害罪は間違いなく成立するはずだ。
それに過失という主張が通っても、俺を突き落として危険に晒したのは間違いないわけだ。
となれば無罪放免の可能性は低いわけで、そう長くはなかったとしても、刑務所へ務める可能性はある。
俺はその間にこの街を離れればすむわけだ。
念の為に連絡先も変えて、不用意に居場所を特定されるような発信も避ければいい。
上手くいけば二度と美知留に会わずに済みそうだ。
これを喜ばすしてなんとするか。
ホッと安心したという気持ちと同時に、ざまあ見ろといった爽快感があった。
しかしこれはもう一つの嬉しい出来事に比べたら前菜のようなもの。
俺が雨も気にせずに海を眺めるほど気分が高揚しているのは、美知留なんかどうでもいいほどの喜ばしいニュースがあったからだ。
実は今朝、懐かしい友人から連絡があった。
あのお姉ちゃんの弟である。
俺は中学卒業と同時にこの街へ引っ越して来たので、卒業以来一度も会っていなかった。
何度か連絡を取ったことはあるけど、一緒に遊ぼうなんて話にはならなかった。
それがなんと彼の方から「会えないか?」と誘ってきた。
今は山陰地方のとある県に住んでいるらしく、なんと俺が前にいた街から車で一時間ほどの場所だった。
しかも結婚して子供もいるらしく、24なのに早いなと感心してしまった。
懐かしい友からの誘いは嬉しい・・・・しかしいいよと即答することが出来なかった。
というより、以前の俺なら迷わず断っていただろう。
彼に会えば鮮明にお姉ちゃんのことを思い出すに違いなく、それは俺にとって辛いことだからだ。
けど最終的には会う約束をした。
鮮明にお姉ちゃんを思い出せば、ハッキリと今の自分に向き合えるんじゃないかという気がしていた。
今こうして海を眺めているのも、嬉しいからであるのと同時に、またもう一人の俺が会いに来てくれないかなと期待しているからだ。
今日は雨で、あいにく水平線は泥のように滲んでいる。
多分・・・・いや、間違いなく今日は現れない気がした。
あの子はクッキリと水平線が見える海じゃないと現れてくれないという、根拠のない確信があったのだ。
服の隅々まで雨に濡れる頃、指先まで冷えてきて、それでもまだ海を眺めていた。
その日の夜から体調を崩し、翌日は一日中布団の中で熱と格闘していた。
ウィルスと戦ってくれる免疫はありがたいが、もう少し穏便に駆逐してくれないものかと、体温計を睨みながら思った。
だが次の日にはとんと熱が下がり、少し鼻水が出る程度に治まっていた。
彼に会いに行くのは明日、なんとしても体調を整えて行きたいと、この日も一日布団の中で過ごした。
翌日、まだ陽が昇りきらない頃に目を覚まし、二日ぶりのシャワーを浴びた。
簡単に朝食を済ませ、風邪薬を飲み、念の為に熱を計って常温に下がっていることに安心しつつ、今日は帰らないからと母に言い残して家を出た。
彼のいる街までちと遠い。電車で往復7時間はさすがに辛いので、ビジネスホテルを予約してある。
徒歩で駅まで向かい、ホームに立ちながらこの前美知留に突き落とされたことを思い出す。
やっくんの時もそうだけど、怖い思い出というのは胸に暗い影を落とすものだ。
恐怖心こそ治まったものの、足はホームの最前列に立つことを拒絶する。
せっかく朝一番に来たにも関わらず、あえて人が増えるのを待ってから、列の後ろへと張り付いた。
まったく・・・美知留は余計なことをしてくれたものだ。
おそらくこれから先、いつでもホームの最前列に立つのを躊躇ってしまうだろう。
始発にでも乗らない限りは、席に座れる可能性が低くなってしまうではないか。
かつての恋人に恨みを抱きつつ、ツートンカラーのワンマン列車に乗り込んだ。
20分ほど揺られ、俺の家がある所よりちょっとばかし都会な街に着く。
目的地へ向かう電車の六番ホームへ向かい、ここでもまた列の後ろに張り付いた。
今日は土曜日ということもあって、そこそこ人が多い。
座れるかどうか微妙なところだなと唇を尖らせながら、ポケットのスマホが震えるのを感じた。
見ると彼からのLINEで「おはよう」という挨拶の後に、「道分かるか?」とメッセージが。
「調べたから平気平気」と返すと、「もし迷ったら電話してくれ」と気遣ってくれた。
「ありがとう」と返信を打つと「気をつけて来いよ」と返ってきて、嬉しいような安心するような気分に満たされる。
彼は昔から優しく、さりげない気遣いの出来る人物だった。
そこに相手を思いやること以外の思惑はなく、やっくんや美知留のように優しさの裏に己の利益を求めようとする他意はない。
素直に相手の優しさを受け取ることが出来るというのは、こんなにも心地良いものなんだなと、まだ世界が童話に見えていた頃の感覚がふと蘇った。
やがて鮮やかなブルーの特急がやって来て、客の出し入れを完了させてから、猛スピードで駆け出していった。
俺はホームからそれを眺める。
ケチらずに特急の切符を買えばよかったかなと。
なにぶん今は無職なものだから、出来る限り出費を抑えたいと快速を選んでしまったのだ。
しかも目的地までの三分の一すらいかない間に鈍行に乗り換えないといけない始末。
少々自分のケチっぷりに後悔しながら、遅れてやって来た快速電車に乗り込んだ。
北へ向かう電車の外は、ビルが消えて田舎に変わっていく。
山と田んぼと川、最初は美しいと思いながら眺めていても、代わり映えのしない光景というのはあくびを誘う。
向こうへ着くまでかなり時間が掛かる。
暇つぶしにと持ってきた雑誌や本も、生来の速読のせいでアッサリとやっつけてしまって、うつらうつらと頭が揺れ始めた。
窓際に肘を置き、枕代わり惰眠を貪ろうとした。
しかしふと隣に人の気配を感じ、眠たい横目でチラリと眺めた。
さっきまでは空席だったはずの隣に、スーツを着た男が座っている。
ほんの少し横目で確認しただけなので顔はハッキリと見えなかったが、なんとなく若そうな印象を受けた。
以前の俺ならばこんな状況でもなんの躊躇いもなしに眠っただろう。
しかし美知留とやっくんという厄介者のせいで、無防備な姿を晒すことに抵抗を感じ始めていた。
眠気と警戒心の狭間で揺れながら、規則的な電車の揺れは眠気の方へと意識を引っ張っていく。
こんな土曜の朝っぱら、満員電車でもない中で何かされることはないだろうと思い、顔を隠すように俯きながら微睡んでいった。
・・・次に目を開けた時、隣に座っていた男性はいなくなっていた。
代わりに薄紫のカーディガンを羽織った年配の女が座っていて、瞑想でもしているかのように背筋を伸ばしたまま目を閉じていた。
眠っているのか起きているのか分からないが、この隣人なら警戒する必要もないだろう。
時計を見れば駅を出て一時間半が過ぎていて、まだまだ掛かるなともう一眠りを決め込むことにした。
しかし目を閉じた瞬間、電気でも流されたかのように顔を上げて、もう一度時計を確認した。
・・・・最悪である。乗り換えする駅を寝過ごしてしまった。
次の駅で降りるしかないと、ゆっくりと席を立ち上がり、ドア付近の手すりにつかまった。
スマホを取り出し、少し遅れるということを伝える。
彼は「焦らないでゆっくりおいで」と、またしても優しさを見せてくれた。
本当に他意のない優しさというのは嬉しい。
とにかく早く乗り換えの駅まで戻らなければと、そわそわした心が落ち着かない。
大雑把なくせに時間だけは几帳面なもんだから、遅刻とか人を待たせることには強い抵抗を感じてしまうのだ。
外を流れる景色は相変わらず山と田んぼばかりで、これを眺めているとまた眠くなる。
窓から視線を外し、車内に目を向けて気を誤魔化した。
そこそこ人はいるが、満員というわけでもない。
まあ都市部へ向かう電車ではないから当然なのかもしれないが。
若い人はほとんどおらず、年配の客が多い。
なんとなしに車内を眺めていると、ある一点で目が止まった。
車両の前の方、最前列から二番目の左側の席に、やたらとガタイの良い男が座っていた。
まさか・・・とは思いつつ、しばらく凝視していると、ふと窓の方を向いて横顔が見えた。
やっくんだった・・・・。
思わず背筋が波打ち、手すりを握る手に力が入り、じとっと汗ばんでくる。
同じ日に、同じ時間に、同じ電車に乗っているのは、果たして偶然だろうか?
頭を満たす嫌な考えを打ち払う為、奴が再びストーカーに走ろうとしているわけではないという考えを裏付ける理屈を探った。
この前、俺はやっくんにこう言った。
俺に構う暇があるならミオちゃんを探せばいいだろと。
今日、たまたまそれを実行しているだけかもしれない。
どうにかしてミオちゃんの居場所を見つけ、連絡を取り、彼女に会いに行く途中でたまたま乗り合わせただけなのかもと。
でもそうなると不自然なことがある。
同じ車両に乗っているのに、今まで気づかないということがあるだろうか?
俺の方は寝ていたからともかく、向こうは必ず気づいたはずじゃないのか?
すし詰め状態の満員ならともかく、乗客の少ないこの状況なら車内は充分見渡せるはずだ。
それとも俺がいることには気づいていたけど、寝ているから声を掛けるのを遠慮したとか?
・・・・分からない。何をどう考えても想像でしかなく、こうして同じ車両にいるという事実があるだけだ。
となるとやはり嫌な考えが首をもたげてくる。
奴はこっそりと俺の後をつけてきて、俺に気づかれないように同じ車両に乗り込んだ。
理由は一つ、再び俺へのストーカー行為を再発させから。
考えるだけでもおぞましく、美知留の時とは違った意味で恐怖がこみ上げる。
とにかく同じ空間にいることが嫌で、どうかこちらを振り向きませんようにと願いながら、奴への注意を怠らずに別の車両へと逃げ込んだ。
次の駅までどれだけ時間が掛かるのか分からないが、とにかく早く着いてくれと祈りつつ避難していった。
最後尾の車両の隅で吊り革に掴まり、警戒をしつつもスマホをいじって気を紛らわした。
しかもそれも長く続かず、もし奴が近づいて来たらどうしようと、不安と格闘するので精一杯だった。
今日は楽しい日になるはずだった。
懐かしい友達と会い、思い出話に花を咲かせ、そしてなにより自分の中に宿るお姉ちゃんの影にどう向き合えばいいのか、答えが出るチャンスなのだ。
にもかかわらず、そいつを一瞬でぶっ壊してくれたやっくんには灼熱の怒りしか沸いてこない。
どうして奴がこの電車に乗っているのかは知らないが、どんな理由にせよ今は姿さえ見たくなかった。
まさか俺を追いかけてこっちへ来たりはしないだろうなと、連結部分のドアを睨みつけた。
最後尾の車両は元いた車両よりも人が少なくて、ぐるりと乗客を見渡した。
やはりこっちも年配客が多い。だがその中で一人だけ若い男がいた。
俺から近い距離の席に座って、イヤホンを差して音楽だかラジオだかを聴いている。
細身のスーツを纏い、爽やさを感じさせる短い黒髪に、充分に男前といえる整った顔立ちをしていた。
やっくんとは対照的に中性的な顔立ちをしていて、もう少し整っていればアイドルでもいけるんじゃないかと思うほどだ。
だがその顔はなんとなしに見覚えがあり、過去に会ったことがあるかなと記憶を検索してしまった。
するとすぐさま一件だけ当てはまる人物がいた。
あの整った顔立ちは、いま俺が会いに行こうとしている旧友に若干ではあるが似ているのだ。
そっくりというわけではないが、どこか通じる面影のようなものがあって、兄弟ですと言われれば納得してしまうかもしれない。
ただ彼には男兄弟はおらず、俺が憧れたあのお姉ちゃんしかいないはずだ。
この程度の似た顔なら偶然にいてもおかしくないし、世の中似た人間が三人いると言われるほどなので、探せばあと一人くらい似た顔をした人物がいるのだろう。
この男がどこの誰だか知らないが、やっくんのことから気を紛らわすにはもってこいである。
あんな奴のことを考えるよりも、もしこの男が彼の兄弟だったらと妄想する方が何千倍も有意義だ。
この彼が兄だったら?弟だったら?
どんな会話をして、兄弟仲はどうなんだろう?
休日には兄弟揃って遊びに行ったりするんだろうか?
しばし妄想を楽しんでいると、ようやく次の停車駅が近づいてきた。
電車はスピードを落とし、ゆっくりとホームに滑り込んでからドアを開けた。
俺は誰よりも早く駆け出し、素早くホームを降りる階段へ避難し、トイレの中へと駆け込んだ。
スマホで調べると、乗り換えの駅へ向かう電車が来るのは12分後。
万が一ということもあるので、ギリギリまでここに隠れていることにした。
用もないのにトイレの個室で一人というのは中々に寂しいものである。
狭い空間をただひたすらウロウロし続け、時計を見ては秒針の遅さに苛立ち、籠城を続けてから10分後に脱出した。
奴がいないか確認する為、顔だけ出して外の様子を窺う。
どうやら視界の範囲内には潜んでいないようで、恐る恐る駅の中を横切り、ホームへと駆け上がった。
ここでも注意を払うが、奴の姿は見当たらない。
しかし油断は禁物と、常に周囲への警戒は怠らなかった。
もしこれ以上ついて来るなら、彼に会いに行くのも取りやめなければならない。
代わりに近くの交番へ駆け込んだ方がいいだろう。
身を竦めながら電車が来るのを待っていると、突然ポンと肩を叩かれた。
瞬間、電気が走ったように跳び上がり、短い悲鳴を上げながら振り返った。
追いかけてきたのだ・・・・そう思った。
これはもう彼に会いに行くどころではないと、ホームを降りて逃げ出そうとした。
駅の近くには多くの場合交番がある。
とにかくそこへ駆け込めば安全なわけで、逆に言えばそれまでに捕まれば何をされるか分からない。
美知留の時のように俺を殺そうとするのか?
それとも別の方向で暴力を働こうとするのか?
あんな奴に何かされるくらいなら死んだ方がマシである。
もちろんその前に思いっきり抵抗して一糸報いてやるけど。
後ろを振り返らず、足の筋肉が千切れても構わないほど本気で走った。
しかし奴は追いかけてきた。
後ろから迫る足音は力強く、しかも俺より速い。
瞬く間に距離を詰められているのが伝わってきて、「来るなよ!」と手持ちカバンを振り回した。
大して重い物は入っていないが、思いっきりぶつけてやればそれなりに怯むだろう。
振り返り様、身体が浮きあがるほど勢いをつけてカバンをぶつけてやった・・・・・つもりだった。
しかしそれは空を切った。
振返り様に視界に入ったターゲットは、間一髪のところで身をかがめ、実にあっさりと渾身の一撃をかわしてみせた。
外した!という焦りと共に、次こそはと振りかぶる。
だが二発目もまた不発に終わってしまった。
どういうわけか分からないが、ぶつけようとしたカバンが俺の手から消えていたのだ。
代わりに人の足らしき物が目の前を駆け抜けて、ビュンと風を切る音が響いた。
何が起きたのか分からず、凍りつくように呆気に取られる。
少し遅れてから後ろで何かが落ちる音がした。
振り向くと俺のカバンがそこにあった。
なぜ?・・・・と疑問が渦巻き、と同時に武器を失った焦りからまた逃げ出そうとした。
「待って!」
叫びが飛んできて、俺の肩をガッチリと掴む。
そのまま力任せに振り向かされて、真正面に男の顔が飛び込んできた。
思いっきり悲鳴を上げて助けを呼ぼうとしたのだが、ふとそれを思いとどまる。
やっくんに違いないと思っていたその男はやっくんではなかった。
この中性的な顔立ち、彼にどことなく似ている面影のある表情。
それはさっきまで同じ車両にいたあの若いサラリーマンだった。
追いかけてきたのはやっくんではなかった。その事については心底ホッとしている。
しかしこの男がどこの誰で、どうして俺を追いかけてきたのか理由が分からず、根っから恐怖が消えることはなかった。
きっと俺の顔が酷く引きつっていたのだろう。
「そんな怖がらないで」と掴んでいた手を離し、「大丈夫大丈夫」とホールドアップしながら悪意はないということをアピールした。
「久しぶり。」
笑顔を見せながら意味不明なことを言う。
俺の顔はさらに引きつったのだろう、また「そんな怖がらないで」と警戒を解こうとしてきた。
だがそんなことで警戒が解けるはずがない。
見知らぬ男に追いかけられて、いきなり「久しぶり」だのと意味不明なことを言われたら、余計に警戒してしまうではないか。
逃げるべきなんだろうけど、足が竦んで動くことが出来ずにいると、若いサラリーマンは俺の横を通り過ぎ、落っこちたカバンを拾い上げた。
そいつをポンポンと手で払い、目の前に差し出してくる。
「とっさで蹴飛ばしちゃった。ごめんね。」
申し訳なさそうなその顔は本気で謝っているようで、「昔のクセが抜けなくて」と苦笑いした。
「怖いよね、条件反射って。攻撃が飛んでくると思わず反撃しちゃうんだもん。美緒ちゃんに当たらなくてよかった。」
そっと俺の手を取り、「ほんとにごめんね」とカバンを握らせる。
手にしたカバンにはクッキリと靴の跡がついていて、なるほど蹴り飛ばしたんだなと納得した。
いや、そんなことは重要じゃない。
もっと大事なことをこの人はさっき・・・・。
「美緒ちゃんでしょ?」
「はい・・・。」
怖いながらも返事をする。
なんで俺の名前を?・・・と顔に書いてあったのだろう。
すかさすこう返してきた。
「中一の時にいじめられてて、友達のお姉ちゃんに助けられた子。」
淡々と語るその言葉に、さっき肩を叩かれた時よりも跳び上がりそうになる。
なんでそんな事まで?と尋ねようとしたけど、同時にまさか?という疑念が沸いてきて、何を口にしていいのか分からなくなる。
困る俺を見て、サラリーマンはまた笑顔に戻った。
「弟から聞いてたけど、ほんとに雰囲気変わったね。でも顔立ちはそのままだからすぐ分かったよ。まあこっちも人のこと言えないけど。」
やっぱり・・・と疑念が解ける。
道理で彼に似ているはずだと。
しかし頭では理解できても感情まではついて行かない。
驚きのあまり表情が凍ってしまう。
「久しぶり。」
差し出された手を反射的に握ってしまう。
俺も「久しぶり」と返した。

海の向こう側 第九話 別れと再会(1)

  • 2018.05.21 Monday
  • 13:33

JUGEMテーマ:自作小説

人と縁を切るというのは大変なものである。
一度深い繋がりを持った人間なら尚更で、それが恋愛関係だったとしたらもっと大変である。
愛は一瞬にして憎悪に変わり、優しさは殺意へと変貌することさえある。
ここは病院、医者が擦り傷らだけの俺に消毒液を塗っていて、その痛さときたら拷問かと泣きそうなほどだ。
最も大きな怪我をした右腕は12針も縫った。
幸い傷そのものは深くないのだが、長く伸びた切り傷は、縫合された糸によって余計に痛々しく見える。
この傷の治療も消毒が一番辛かった。
傷口に指を突っ込まれて、ガシガシと洗られたのだ。
こういう大きな傷は感染症の恐れがあるらしく、実に丁寧に丁寧に傷口の清掃を行ってくれた。
その痛さたるや思わず悲鳴を上げてしまったほどである。
その後に傷口を縫合してもらったのだが、麻酔なんて一ミリも必要なかった。
激痛の余韻のせいで、針を通す痛みなど屁でもなかったからだ。
まあそれはいい。命に関わる怪我じゃないのは幸いだ。
しかし問題はこの傷がちゃんと消えてくれるのかということだ。
医者曰くこの程度の深さなら痕は残らないそうだが、それでも気になる。
包帯の上から傷をなぞり、早く元通りになってくれるようにと願いを掛けた。
頭にも切り傷がかるからと包帯を巻かれ、姿だけ見ればかなりの重症のように思われるだろう。
とりあえずの処置を終え、今日はもういいよと処置室を出た。
外には家族と刑事が立っていて、神妙な顔で言葉を交わしたり、相槌を打ったりしていた。
それから30分ほどの間、今度は俺も刑事に話を聞かれた。
そして刑事が席を立つ時、明日警察署へ来るようにと言われた。
今日は怪我もしているし、気が動転しているだろうから、とにかく帰って落ち着くようにと。
その日、家に帰ったら帰ったで、家族からも尋問のような質問攻めにあった。
どうしてこんな事になったのかと。
実は今朝、俺は家を出て新しい街へ引っ越す予定だった。
こっちへ帰ってから一ヶ月が過ぎ、そろそろ動き出そうと旅立つことにしたのだ。
仕事も見つけ、住処も決めて、一人でここを出て行くつもりだった。
スマホには美知留から『お昼過ぎに行くからね。今日こそいい物件が見つかるといいね』と可愛らしいスタンプつきでLINEが入っていた。
俺は既読にしたままそいつを無視し、家族に『もし美知留が来ても行き先を教えないように』と念を押していた。
姉に駅まで送ってもらい、もう自分探しの度は終わったんだから、新しい街ではちゃんと仕事に励むようにと説教をされ、そのつもりだと返してやった。
それと次は美知留ちゃんみたいな子に引っかからないようにとも言われて、もちろんだと頷き返した。
切符を買い、自動改札すらないワンマン駅のホームに立つ。
振り返れば田園が広がっていて、その向こうには海が霞んでいた。
この街へ帰ってきた日、俺は幻を見た。
水平線の向こうに立つもう一人の自分を。
それは今の俺とはまったく異なるもう一人の俺で、こっちへおいでよと手招きをしていた。
幻はすぐに消え去ったけど、あの日以来胸の中に疼くものがあった。
俺はずっとお姉ちゃんの真似をしてきて、いつしかお姉ちゃんそのものみたいになってしまった。
お姉ちゃんほど強くも逞しくもないけど、それ以外の所は全て合わせてきた。
服装も恋愛対象も何もかも。
けどもう一人の俺は、今の俺を間違いだと言わんばかりに、女らしい恰好をしていた。
美緒は美緒であって、お姉ちゃんじゃないでしょ?
あの幻は何も喋らなかったけど、言葉が届くならそう言いたかったんじゃないのかなと、勝手に想像していた。
あの日から特別大きな変化があったわけじゃない。
なんだか胸の中がモヤモヤすることはあっても、悩みというほどじゃないし、生活に支障をきたしたわけでもない。
でももしかすると、こういうのが一番危ないんじゃないかなという心配をしていた。
大きな歯車は、それを支える小さな歯車によって成り立っていて、気にもとめない小さな傷から、全てが破綻してしまうんじゃないかと。
もしそうなったら、お姉ちゃんに成りすまして生きてきた自分は消えてしまうことになる。
この世界が童話のように美しいものだと思い込んでいた頃の感覚に戻ってしまい、今に至るまでの10年の人生をやり直す羽目になるかもしれない。
・・・まあそうなったらそうなったで、面白いことなのかもしれない。
そんな風に考えながら、景色に背中を向けて、電車が到着するのを待っていた。
チラホラと人が増えてきて、自然と列が出来る。
100メートルほど先にある遮断機の信号が灯り、カンカンカンと音が響いて、ディーゼル音全開のローカル列車が近づいてきた。
朝早くに来ていた俺は、列の先頭からそれを眺めていた。
大きな荷物は引越し業者が運んでくれる。
僅かな手持ちの荷物が入ったリュックを背負い直し、足元の黄色い線ギリギリに立って、ガタゴトと迫ってくる音に耳を立てていた。
電車がホームへ迫って来る。
スピードを落とし、甲高いブレーキの音が響く。
その時、列の後ろから悲鳴が上がった。
何かと思って振り向いた瞬間、目の前に美知留の顔があった。
ほんの一瞬目が会っただけだった・・・・なのにその形相ときたら、鬼と悪魔を足して二を掛けたほどおぞましいものだった。
人というのはすごいもので、一秒にも満たない時間の中で、瞬時に相手の意図を悟ることが出来る。
身に危険が迫っている時は尚更に。
美知留の目には明確な殺意が宿っていた。
こんな目をしているということは、ここへ来た理由は一つ。
俺を殺しに来たのだ。
自分を置いて遠くへ逃げる恋人に鉄槌を下す為に。
そしてここは駅のホーム、殺害方法は簡単で、迫り来る電車の前に突き飛ばせばいいだけだ。
これらの思考を一秒も経たずに処理し終えて、我が身を守る為に咄嗟に横へ飛び退いた。
しかし残念ながら気づくのが遅く、完全に美知留の突撃を回避することは無理だった。
俺を突き飛ばそうとした手が肩にぶつかって、そのまま後ろへ倒れそうになった。
しかも勢い余って美知留自身も止まることができず、俺を押し倒す形で覆いかぶさってきた。
電車はすぐそこまで迫っている。
振り向けば鮮やかなツートンカラーの車体が見えたから。
このまま線路に落ちたら確実にあの世行きだ。
美知留から逃げるはずが、美知留と心中だなんて笑えない。
死にたいなら一人でやればいいものをと、思いっきり蹴り飛ばしてやりたくなった。
そして・・・・その願いは叶った。
美知留は蹴飛ばされたのだ、俺以外の人間に。
俺たちのすぐ後ろにいた若いサラリーマンが、咄嗟に美知留の背中を蹴り飛ばしてくれたおかげで、電車の進行方向とは反対側へと落ちていった。
この時幸いだったのは、俺は先頭車両の前のドアの列に並んでいたことだろう。
急ブレーキをかけた電車は、本来止まるはずだったラインよりも少しだけ手前に止まった。
そこはちょうど俺がさっきまで立っていた場所で、サラリーマンの蹴りがなければあそこに落ちていただろう。
とはいっても車体はすぐ目の前まで迫っていて、倒れた状態から見上げると、とても大きく感じた。
恐怖はすぐに全身に伝わって、横たわったまま動くことが出来ない。
対して美知留はすぐに立ち上がり、わけの分からない奇声を放ちながら、線路の石を投げてきた。
咄嗟に腕でかばったものの、茶色く錆びたような石ころは、ゴツンとこめかみにぶつかった。
痛いというより熱い感じがして、未だ衰えない美知留の殺意に対し、恐怖を超えておぞましさを感じた。
目を向けるとまた石を投げようとしている。
そこへさっき俺たちを蹴飛ばしたサラリーマンが降りてきて、美知留を羽交い締めにした。
後ろからガッチリと抱え上げて、俺から引き離そうとしているのだが、美知留のあまりの暴れっぷりに手を焼いていた。
『誰か見てへんとて手伝えや!』
怒号のごとき救援の叫びは、ホームから次々に人を呼び寄せた。
すぐに駅員も駆けつけて、俺たち二人はようやく線路から脱出することが出来たのだった。
それから数分後に救急車が駆けつけ、病院へ運ばれ、地獄のような痛みを伴う消毒に耐えていたというわけだ。
ちなみに美知留はホームに上がった後も暴れていた。
そのせいで救急車ではなく、パトカーに乗せられて病院へ運ばれたと、さっきの刑事が教えてくれた。
ただし大人しく救急車に乗ってとしても、結局は警察のお世話になることに変わりはない。
俺と違って大した怪我もなかったので、今は警察署にいることも教えてくれた。
・・・いったいなぜこんな事になったのか?
大まかな事情は家族も知っている。
美知留のことについてはこっちへ帰って来てから相談していたので、奴がどういう人間かは理解しているからだ。
だから駅でなにがあったのかと質問攻めにされても、こっちの方が困ってしまうと答えた。
とにかく今は落ち着いて物事を考えられない。
自分で思っていた以上に気が動転していて、時間が経つにつれてそれを実感することになった。
晩飯は喉を通らず、風呂にも入らず、なんと姉の部屋で一緒に寝たのだから。
・・・そう、俺は殺されかけた。
しつこい女から逃れようとして、しかし間一髪で嗅ぎつかれ、危うく死にそうな目に・・・・。
まさかやっくんよりも美知留の方が大きな危害を加えてくるとは思わなかった。
今さらになって恐怖がこみ上げ、姉に「一緒に寝ていい?」と尋ねると、渋々ながらも頷いてくれた。
しかし結局眠ることができず、徹夜ながらもまったく眠気も感じない精神状態のまま警察へと向かった。
昨日と同じ刑事が対応してくれて、怖かったなとか、昨日は眠れたか?など、慰めの言葉をかけてくれた。
この日は間に休憩を取りつつ、一時間半ほど話を聞かれた。
俺の方からも美知留はどうなっているのか?と尋ねると、険しい顔をしながら「まともに話が聞ける状態じゃない」と返された。
かなり錯乱しているらしく、激しく俺のことを罵っているらしい。
というより目に入る全てに怒りをぶつける感じで、このままでは取り調べもままならず、医者に診てもらうことも考えていると言った。
それを聞いた俺はこう尋ねた。
もしも医者が精神疾患を抱えているとか、心神喪失状態だと診断したら、美知留は無罪になるのかと。
刑事はその可能性は有りうると答えた。
今の状態を見る限り、罪を逃れたくて気が触れた演技をしているとは考えにくく、本当に錯乱状態にある。
ただそれが事件後にそうなったのか、それとも以前から疾患を抱えていたのかで、話が違ってくるだろうとのことだった。
じゃあもし美知留が無罪になったら、刑務所に行くこともなく、すぐに自由の身になるのかと尋ねた。
刑事は渋い顔をしながら、今の時点ではなんとも言えないと答えた。
とにかく今は拘束されている身なので、あなたに危害を加えるのは無理だから安心して下さいとのことだった。
俺は大きな不安を抱えたまま警察署を後にした。
もし・・・もし美知留が無罪になってしまったら、釈放と同時にまた襲いかかってくるのではないか?
そして次は本当に殺されてしまったり・・・・。
今、美知留に対して恐怖しか抱くことが出来ないでいた。
俺が安易にヨリなんか戻してしまったせいでこんな事になっている。
時間を巻き戻すことが出来るなら、美知留なんかに頼らずに自力でやっくんから逃げるのに。
そうすれば恩を売られることもなく、命を狙われることもなく・・・・。
父の運転する車の中で、不安をかき消すために景色を眺めた。
見慣れた田園、見慣れた街並、その向こうには穏やかな瀬戸内海が広がっていて、思わず「海が見たい」と呟いた。
父はハンドルを切り、海岸線へと車を向かわせてくれた。
ゆっくりと海を眺めたかったので、ここから一人で歩いて帰ると言うと、大丈夫か?と心配された。
今は美知留に襲われる心配はないので平気だと答えると、なんかあったらすぐに呼ぶようにと、車は遠ざかっていった。
さて・・・海を見たいと思ったはいいけれど、ここへ来たところで何をするわけでもない。
いや・・・もしかしたら期待していたのかもしれない。
この前のように、海の向こう側にもう一人の自分が見えることを。
今日は若干曇っていて、海面はダイヤのような光で覆われていない。
グレーに霞んだ遠い空の下には、境界線が曖昧になった水平線が伸びている。
波音は規則的で、今日も遠くに船が見える。
たったこれだけで心が落ち着くのだから、海が人の心に与える影響はすごいと感動する。
家の方角へ向かって海岸線をなぞっていると、後ろからクラクションが響いた。
少しばかり白線からはみ出していたので、内側へと避難したのだが、それでもクラクションはやまない。
挑発でもされているのかと、苛立ちながら振り返る。
黒色の大きなSUV車が傍へ寄ってきて、ウィンドウの奥から「みっちゃん!」と男が手を挙げた。
やっくんだ。
思わず足を止めると、向こうも車を止めた。
降りてくるなり「大丈夫か!」と駆け寄ってくる。
「美知留に突き飛ばされたって聞いたんやけど。」
不安そうな顔で尋ねてくるので、小さな頷きだけ返した。
やっくんは俺の頭と腕に巻かれた包帯、あちこちのずり傷を見て、「重症やないか」と顔をしかめた。
「オカンからみっちゃんのこと聞いてな。美知留に殺されかけたってほんまなんか?」
怒りと不安が混じった目を向けてくるので、また小さく頷いた。
なぜか分からないけど、今は誰とも言葉を交わしたくなかった。
心配しに来てくれるのはありがたいが、こういう時は一人にしてほしいというもので、背中を向けて歩き出した。
「ちょっと待ってえや!」と追いかけてくるが、振り返るつもりはない。
そもそもこいつが会いになんて来なければ、美知留が会いに来ることもなかったのだ。
そういう意味では元凶はやっくんにあると言っても過言じゃない気がするが、さすがに言葉に出してそれを責めるのは筋違いな気もする。
背中を向けて無視を続けていると、「ほんまあの女だけは・・・」と美知留への不満を語りだした。
「好きなんやったらなんでそんな事するかな。相手苦しめてどないすんねん。」
不満は怒りを伴い、声色が荒くなっている。
俺は間髪入れずに、お前も一緒だろうと言い返したかった。
ケロっと美知留を罵っているが、果たしてこいつにそんな資格があるのかと問われれば、間違いなくNOだろう。
美知留のやったことを許すことは出来ないが、自分の行いを忘れて他者を非難するやっくんの根性にも辟易とする。
止まらない美知留への不満は嫌でも俺の耳をくすぐり、気分を落ち着けようと海を振り返ると、なぜか隣に並んで歩いてきた。
俺が見たいのはお前の横顔なんかじゃない。
デカイ図体は完全に視界を遮って、肝心の海がこの目に飛び込んでこないことに激しい苛立ちを感じた。
「どけよ。」
目を合わせずに、静かに怒鳴る。
思いのほか威圧的な声が出て自分で驚く。
しかしそれ以上に驚いていたのがやっくんで、「なんて?」と聞き返してきた。
「海が見えないだろ。邪魔だからどけって言ったんだよ。」
「すまん」と一歩を下がるが、どうしてか不満そうな顔をしているのは、俺の怒りが気に食わいからだろうか。
自分は心配して尋ねてきてやったのに、なぜ辛辣な言葉を投げかけるのかと。
「心配やねん。俺で役に立つことがあったらなんでも言うてえや。」
急に笑顔を見せるが、それはご機嫌取りか?それとも不満を押し殺す為か?
どちらにせよ今はとにかく一人になりたい。
だから振り向きざまにこう言ってやった。
「俺なんかに構う暇があるなら、ミオちゃんを探しに行けばいいだろ。」
また威圧的になってしまうが、別段気にする必要もないだろう。
これ以上ついて来るなら本気で怒鳴ってやろうかと、正面から目を睨んでやった。
やっくんは足を止め、「俺、来おへん方がよかったか?」と笑顔を消して尋ねた。
どうかそんなことは言わないでほしいと顔に書いてあったので、その期待を裏切る意味でこう言ってやった。
「しばらくお前とは会いたくない。絶交するとは言わないけど、いきなり何もなかったみたいに来られても正直困るんだよ。
美知留は美知留であんなことするしさ。」
「ほんまあいつは最低の女やで。まさか線路に突き落とそうとするなんて。」
「もうあいつとは会わないよ。出来るならしばらく刑務所へ行ってほしい。
けどやっくんとも距離を置きたいんだ。お前と美知留が会いに来てからロクなことがないから。」
言いたいことだけを言い、返事も聞かずに背中を向けて歩き出す。
やっくんの足音が追いかけてきたので、背中越しに「警察呼ぶぞ」と脅してやった。
ポケットのスマホを取り出し、これみよがしに振って見せる。
これ以上しつこいなら脅しじゃなくなるぞと。
そのまま歩き続けていると、後ろをついて来る足音はいつの間にか消えていた。
代わりに黒塗りのSUVが目の前を通り過ぎ、荒い運転で交差点を曲がっていった。
ようやく厄介者が去ってくれて、ホっと胸をなで下ろす。
「会いたくないんだよ、お前にも美知留にも・・・・。」
どうして俺の周りにはこうも厄介な奴が多いんだろうと、人の縁の悪さに嫌気が差してくる。
水平線を振り向き、あの時のようにもう一人の自分が何かを語りかけてくれないかと、祈りにも似た現実逃避がこみ上げた。

海の向こう側 第八話 見えない境界線(2)

  • 2018.05.20 Sunday
  • 11:23

JUGEMテーマ:自作小説

散りかけの桜に混じった眩しい新緑が、駅から降りた俺を出迎えてくれる。
一年ぶりに帰ってきた故郷はなかなか新鮮に見えた。
駅は相変わらず自動改札もない旧式だし、線路の向こうに見える田園も変わっていない。
なのにこうも新しく感じるのは、一年という時間が俺を変えたからか?
知らない間に成長し、大人になっていたのか?
そんな風に思いたいけれど、おそらく違うだろう。
多分俺は成長なんかしていない。
もしも垢抜けた大人になっていれば、やっくんにも美知留にも振り回されることはなかっただろう。
「どう?懐かしいでしょ?」
隣に立つ美知留がバスガイドのように手を向ける。
あそこにコンビニが建ったとか、誰それさんの家の犬が亡くなったとか。
いくら新鮮に感じたとはいっても、高校の頃から住んでいる街である。
観光案内は必要なく、適当に相槌を打ちながらロータリーを横切り、細い路地へと入っていった。
駅前の景色にも大きな変化はなく、駄菓子屋やスナックも健在である。
オンボロの駐輪場もそのままだし、突き当たりのブロック塀の上が欠けているのも変わりない。
懐かしさとは、新しさを感じることでもあるんだなと、ちょっとばかし哲学的な気分に浸ってみる。
景色を楽しみながらしばらく歩くと、遠くに大きなスーパーマーケットが見えてきた。
全国展開している大手のチェーンだけど、俺がいる頃にはあんなのはなかった。
変わらない場所もあれば、変わっていく場所もある。
交差点で赤信号を上目に立ち止まっていると、「じゃあ私はここで」と美知留が手を振った。
「今日はゆっくり休んで。」
「引越しの手伝いありがとう。」
「うん、またね。」
交差点の手前を左に曲がり、パチンコ屋や個人の書店が並ぶ細い道を去っていく。
地元に帰るのにあれだけ反対していたのに、こうもあっさりついて来たってことは、やっぱり俺と一緒にこの街を出て暮らすつもりなのだろう。
それはもちろんお断り願いたいけど、でもどうしてここへ帰って来ることを嫌がっていたのか?
若干気になることではあるが、下手な詮索は秘密の共有につながって、かえって俺たちの仲を深めてしまうかもしれない。
このまま聞かないでおくのがベストだろうと、青に変わった信号を渡った。
家に向かう途中、なんとなく海が見たくなって、少しばかり寄り道をした。
開けた海岸線に近づいていくと、穏やかな瀬戸内海が横たわっていた。
波は小さく、海面は滑らかで、晴天の陽射しをダイアモンドのように反射している。
波音も穏やかで、仏か菩薩かと思うほど、優しさと包容力に富んだ海である。
同じ海でも日本海とはまったく異なるその表情、水平線までとろけそうなほど穏やかで、しばらく海岸沿いの道から眺めていた。
少し西側には港があり、小さなクルーザーが幾つも繋がれている。
お金を払えば沖まで乗せていってくれるのだ。
まだ俺が子供の頃、家族で釣りに出かけたことがある。
俺は坊主だったが、姉は次々に大物を釣り上げていた。
それがなんとも羨ましくて、本当は楽しいと感じていた釣りを自らやめてしまった。
クルーザーの中でいじけていたのは良い思い出である。
沖の方に目を細めると、幾つかの船が見えた。
遠く霞んでいるそのシルエットは、クルーザーではなく漁船のようであった。
ポンポンポンポンと小さなの船のエンジン音が頭の中で再生される。
今日は大漁だったんだろうかとか、あの船は家族でやっているんだろうかとか、色々なことを想像してしまう。
そして漁船の向こうに佇む水平線に、やっくんが語っていた思い出が蘇った。
『いつか海の向こう側へ連れていったる。』
ミオちゃんに約束したその言葉が叶うかどうかは、神のみぞ知るところだ。
ただ・・・俺も想像してしまう。
海の向こう側にはいったい何があるんだろうと。
地理的なという意味ではない。
ここは瀬戸内海、海を隔てた向こうには幾つもの島があって、そのさらに向こうには四国の影が浮かんでいる。
まるで水墨画のように霞んでいるその様は、自然が描く芸術である。
それはそれで美しいんだけど、そういった地理的なことや情緒的なことではなく、もっとこう・・・観念的な話だ。
空と海とが交わる水平線は、ここではない遠い世界への入口のようにも夢想できるし、あそこで全てが終わっているんじゃないかと哲学的な感傷にも浸れる。
何も無いようで全てが詰まっている場所。
目に見えないその向こう側には、その場所まで行ってしまえば消えてしまう何かが潜んでいる。
遠い遠い向こう側には、鏡写しのようにこっちの世界が映っていて、そこにはもう一人の自分が立って俺を見ているのかもしれない。
そのもう一人の自分はきっと、ここに立つ俺とは何もかもが違うはずだ。
おそらくだけど、もっと女らしい服装をして、男に恋をして、美知留と付き合うこともなければ、やっくんに人違いされることもなかっただろう。
中学の上がるまでは、俺は実に女の子らしい女の子だったと思うし、クラスの男子に片思いしていた時期もあった。
友達も大勢いたし、誰とでもよく喋る明るい子だった。
そう、中学に上がる頃までは、俺は今のような俺ではなかった。
悩みはあれど子供特有の可愛らしいレベルのものだったし、泣くことはあっても次の日には忘れていた。
あの頃、大きな不安なんて一つもなくて、純粋に毎日が楽しいと思えていた。
世界は美しく、いつでも輝いているものだと、それが当然だと信じて疑わなかった。
そう信じたまま俺は小学校を卒業し、春休みの間に、父の仕事の関係で引っ越すことになった。
それまで住んでいた街はそこそこの都会だった。
いわゆる中核都市ってやつで、大都会ってわけじゃないけど田舎でもない。
物珍しい何かがあるわけじゃないけど、生活にはまったく不便のない良い街だった。
しかし引っ越した街はそうではなかった。
日本有数の大都市で、元いた街が田舎に思えるほどのレベルだ。
新しい環境の中で、俺は中学へと上がった。
そこで待ち受けていたのはイジメだった。
あれは入学式を終え、その翌日に登校した下駄箱でのことだった。
背の高いイケメンから『おはよう』と声を掛けられたのだ。
その子は入学式の日にたまたま隣に立っていた子で、しかも帰り道も同じだった。
俺たちはほんの少しばかり話をして、ほんの少しばかり仲良くなった。
越して来たばかりで、中学に上がったばかりで、俺には友達なんて一人もいなかった。
そんな中で出会ったその子とは、こっちへ越してきて始めての友達になれるんじゃないかと嬉しく思ったものだ。
だからその翌日、下駄箱で声を掛けてくれたのも嬉しかった。
俺も『おはよう』と笑顔で返し、教室まで並んで歩いた。
俺は一組、向こうは三組、『じゃあ』と手を振って教室に入ったのだが、入口付近にたむろしていた女子のグループから威圧的な視線を向けられた。
俺を敵視している・・・・一目でそう分かる視線だった。
それからである。そのグループからちょくちょく嫌がらせを受けるようになったのは。
わざとらしく聴こえるような陰口、わざとらしくこっちを見てから爆笑。
一ヶ月も立つ頃にはトイレで水を掛けられるようになっていた。
上履きや持ち物を隠されるなんてしゅっちゅうで、俺が給食当番だった時は、皿に盛ったおかずを目の前でゴミ箱に捨てられたこともあった。
見かねた教師が注意したこともあったけど、そんなものは焼け石に水。
教師が、いや学校が大した事を出来ないってことを、彼女たちは知っていたからだ。
一学期も終わりを迎えようとする頃、俺は学校へ行ったり行かなくなったりと、不登校のボーダーラインをウロウロしていた。
家族は力になってくれたけど、学校の問題は家族の力だけでは解決しない。
親は無理して行かなくてもいいと言ってくれたけど、完全なる不登校になるのは負けを認めるようで嫌だった。
だからどうしても今日は無理だ・・・と思う時以外は、なるべく学校へ行くようにしていたのだ。
どうして自分がイジメに遭うのか?
始めは分からなかった。
俺が地方から越してきた田舎者だから?
それとも遊びのノリで楽しんでいるだけ?
その答えは夏休みに入ってから解けた。
八月の頭、少し離れた場所で祭りがあった。
不登校気味な俺に気を遣って、姉が一緒に行こうと誘い出してくれたのだ。
大きな神社の参道に並ぶ屋台、ゴミゴミしいほど行き交う人々。
そして夏特有の開放的な空気。
力強い活気に当てられて、久しぶりに少しだけ楽しい時間を過ごした。
あちこちに浴衣を着た女の子がいて、自分も着てくればよかったなあと羨ましく思った。
淡いながらも鮮やかな浴衣が祭りを行き交う中、俺は見つけてしまったのだ。
俺をイジメているグループの主犯格の女子が、あのイケメンと手を繋いで歩いているところを。
イケメンは俺に気づき、笑顔で手を振ってくれた。
その瞬間、イジメっ子のそいつは実に・・・・実に不満そうな顔で、グイっと彼氏の手を引いた。
あんな汚物に関わるなとでも言いたげな表情で。
祭りから帰り、姉にその出来事を相談すると、その子はクラスを仕切っているボス的な子なんじゃないの?と言われた。
だとしたら何なんだろうと首をひねる俺に、姉はこう説明してくれた。
その子が付き合うのはスクールカーストで上位に位置している男子だけ。
そして友達は自分に近いレベルの女子だけ。
それ以外の者に対しては、男子だろうが女子だろうが冷たい態度を取る。
そういったボス的な女子は耳が速いから、あんたが地方から越して来た田舎もんだってことも知っていた。
だから昼ドラにあるような、どこの馬の骨とも分からん女に○○さんは渡さないわ!的な心理が働いたんじゃないか・・・と。
言われて納得、姉の指摘は当たっていた。
と同時に、あんたは女の子にしては色々と鈍い、この先心配だと言われた。
でもそんな事を言われたって、当時の俺には分からなかった。
姉の言っていることは理解できるが、胸の中ではピンと来なかったのだ。
どうして女の子は鈍いと苦労するんだろう?
どうしてあの子はその程度のことでイジメに走るんだろう?
別に俺があのイケメンと仲良くしたからって、付き合うなんてことにはならないはずなのに。
入学式とその次の日、ちょっと仲良く話をしていて、それが気に食わないからってイジメにまで走る心理が理解できなかった。
そして理解できないまま、夏休みは終わりを迎えた。
また過酷な日々が始まる・・・・けと不登校にはなりたくない。
二つの悩みに挟まれながら、言いようのないほど憂鬱な気持ちで登校したのを覚えている。
朝、校門をくぐる前に、今日も一日どうにか乗り切るんだぞと自分に言い聞かせた。
下駄箱に群がる生徒の多くが日に焼けていた。
きっと楽しい時間を過ごしたんだろう。
対して自分は姉に気遣われて祭りに行っただけ。
もちろん姉には感謝しているけど、楽しい時間を過ごしたであろう同級生たちを眺めていると、余計にみじめな気分になった。
鉛のように重い憂鬱を抱えながら教室へ踏み込む。
さあ、今日も一日奴らが攻めてくるぞと、痛みに耐える覚悟をした。
しかし意外なことに、その日は何も起こらなかった。
悪口を言われることもなければ、トイレで水を掛けられることもない。
持ち物も隠されなかったし、素っ頓狂なほど平穏に終わった。
それは翌日も続き、そのまた翌日も同じだった。
理由は分からないけど、どうやらイジメのターゲットから外されたらしい。
それどころか、俺が傍を通ると目を逸らし、そわそわと道を開けた。
以前とは打って変わって、イジメどころか俺から距離を置くようになった。
ある時、例のイケメンが俺のクラスに来ていて、親しく声を掛けてきた。
これはマズいんじゃないか?・・・と思いながら、元イジメっ子を振り返る。
案の定不満そうにこちらを睨んでいたが、目が合うなり教室から出て行ってしまった。
そのさらに数日後、いつものように一人で下駄箱に向かい、一人で校門を出て、未だ友達ができなことを悩みながら下校していた。
イジメがとまったのは嬉しいが、友達がいなんじゃ楽しくない。
周りのクラスメートは次なるターゲットになることを恐れてか、なかなか俺には近寄って来なかった。
話しかけると笑顔で返してくれるのだが、それ以上は距離を縮めてくれない。
いったいどうすればいいのか困り果てていると、後ろからポンと肩を叩かれた。
振り返れば例のイケメンが立っていて、一緒に帰ろうと誘われた。
俺は少々迷った。あまり親しくしていると、またイジメが再発するんじゃないかと。
けどいつまでもあんな奴のことを気にしてビクビクしているのも馬鹿らしい。
そうなったらそうなったで構うもんかと、中学生活の初めての友達を得る為に、一緒に帰ることにした。
最初は他愛ない話をした。
俺が前に住んでいた街の話とか、好きなミュージシャンの話とか。
久しぶりの家族以外との会話は楽しくて楽しくて仕方なかった。
俺はこれでもかと饒舌になり、彼もまた楽しそうに相槌を打ってくれた。
そして家の手前の交差点まで来た時、じゃあねと手を振った。
これからも仲良くしてほしかったので、また明日と。
するとちょっと待ってと呼び止められて、なぜか頭を下げられた。
ごめん・・・・と。
いったい何を謝っているのか分からなかったけど、彼はすぐに理由を口にした。
どうやら彼女が俺をイジメていることを知っていたらしく、何度もやめるように注意したのだという。
しかしその度に機嫌を悪くして、その度に俺へのイジメが増していったらしい。
何度も助けようと思ったらしいが、下手をすればもっとイジメが過激になるかもしれない。
それに彼女のことは好きだったので、あまり怒らせて別れを切り出されるのが怖かったという。
どうしたものかと悩んでいたけど、一人じゃ解決できそうにないので、お姉ちゃんに相談してみたのだそうだ。
実は彼のお姉ちゃん、地元ではちょっと名の知れた人物なのだという。
というのもかつてはレディースの総長をやっていたらしく、当時はヤンチャな生徒も道を避けるほどおっかない人だったそうだ。
しかし高校を卒業するのと同時に、ピタリとそういった道からも卒業し、真面目に働き出した。
理由は夢が出来たからだ。
持て余すほどの情熱がくすぶっていたレディース時代、OBの一人が格闘家として海外で活躍しているのを知った。
なんでもフランスにはサバットという格闘技があるそうで、曰くフランス式のキックボクシングみたいなものらしい。
向こうではかなり盛んなのだという。
日本にも教えてくれる所があるらしく、OBに連れられてそこへ行った時、すっかりハマってしまったのだそうだ。
自分の道はこれしかない!
持て余していた情熱をぶつける場所を見つけて、高校卒業と同時に習い始めたのだそうだ。
そしていつかはチャンピオンになることを目標に、上京して仕事をしつつ、サバットに精を出しているのだという。
そのお姉ちゃんがお盆に帰郷してきた。
彼女がイジメに走っていることを伝えると、私に任せとき!と彼女の家まで案内させられたという。
今は丸くなっているとはいえ、かつてはヤンキーも道を避けて通るほどだった人物。
しかも今は格闘家浸けの毎日で鍛え上げられた肉体をしている。
家から呼び出された彼女は、最初のうちは少々狼狽えたものの、すぐに生意気な態度に変わったという。
対してお姉ちゃんは優しく丁寧に語りかけ、弟の話は本当なのかと問い正していった。
だったらなに?といきり立つ彼女であったが、それでもお姉ちゃんの物腰は柔らかかった。
しかしあまりに生意気すぎるその態度に、遂に堪忍袋の緒が切れる瞬間がやってきた。
テメエこのガキ!と胸ぐらを掴み上げ、お前みたいな女にウチの弟はもったいない!と、凄まじい剣幕で怒鳴り始めた。
怯えた彼女は家の中に逃げ込み、籠城を決め込んだ。
そしてその日の夜に彼に電話を掛けた。
私をこんな目に遭わせるなんて酷いとか、もうアンタなんか別れてやるとか、かなりの怒りっぷりだったという。
そしてこのままで終わると思うなよと、脅し言葉を浴びせた。
私にもヤンキーのお姉ちゃんがいて、彼氏は暴走族で、だから明日にでもアンタのお姉ちゃんに復讐してやる!と喚いた。
だがそんな日がやって来ることはなかった。
なぜならその彼女のお姉ちゃん、彼のお姉ちゃんが総長をやっていた時代のことを知っていたからだ。
彼女は青くなっただろう。
彼のお姉ちゃんが昔どういう人物だったのかを知り、人脈も暴走族どころではないことも知り、復讐を断念せざるを得なかった。
後日、彼のお姉ちゃんが彼女のお姉ちゃんに、もうイジメはやめるように教育しとけと怒ったらしく、それが理由でピタリとやんだのだった。
彼は言った。
大好きな彼女にイジメなんてしてほしくなかったと。
これはつまり、俺の為というより彼女の為であった。
しかし悲しいかな、彼はフラれてしまった。
メールで一言、「もう別れる」とだけ告げられて終わったそうだ。
となればもう隠しておくこともないかなと、俺に事の顛末を打ち明けてくれたのだった。
イジメがやんだ理由を知った俺は、是非とも彼のお姉ちゃんにお礼を言いたかった。
連絡先を教えてもらい、電話で何度もありがとうと伝えた。
お姉ちゃんはとても優しい声で、気にしなくてもいいよと笑ってくれた。
そしてその年の終わり頃、こっちへ帰って来ていたお姉ちゃんに会うこが出来た。
向こうからご飯でも行かないかと誘ってくれたのだ。
弟と一緒に迎えに来てくれた俺のヒーローは、想像していた人物像とはまったく違う人だった。
レディースの総長をやっていたんだから、すごくおっかない見た目の人かと思っていたんだけど、全然そんなことはなかった。
格闘技をやっているせいか肉体はガッチリしているものの、表情や雰囲気はとても優しい人だった。
髪はとても短く、ジーンズに無地のTシャツといった服装をしていて、鍛えられた肉体と相まって男っぽくも見えた。
挨拶はとても丁寧で、礼儀正しくて、出迎えた俺の母も感心していた。
今時の若い子でこんなにしっかりした子がいるなんてと。
その日、俺は中学へ上がってから初めて友達が出来た。
一緒にご飯を食べ、色んな話を聞いてもらい、色んな話を聞かせてもらった。
昔は荒れに荒れまくっていて、冗談抜きでナイフみたいに尖んがっていたこと。
道端でヤンチャそうな子と目が合う度に喧嘩をしていたこと。
授業なんてサボりまくりで、服装を注意してきた教師の脛を蹴飛ばしたこともあるという。
大勢の仲間を引き連れては夜な夜な爆音で街を走り、追いかけてくるパトカーにバットで応戦し、ウィンドウを割ったこと。
しつこく説教をしてくる警官にグーで殴りかかったこと。
とにかく世の中全てが腐ったように見えていて、全て敵だと思っていたこと。
そして今はそれらの行いを全てを恥じていると語った。
道端で出くわしたら土下座しなきゃいけない人が何人もいて、本当に馬鹿なことをしていたと後悔を滲ませた。
夢が見つかり、その道で一生懸命頑張っていると、過去の自分はただ甘ったれていただけなんだと気づいたそうだ。
いったいどれほどの人を傷つけ、どれほどの人に迷惑を掛けたのか、考えただけでも情けなくなってくると。
昔がそんな状態だったからこそ、自分より若い子が間違った道に進んでいるのが我慢ならないらしい。
身をもって荒んだ時代を知っているから、弟の彼女のことも他人事とは思えず、どうにかしてやれないかと思っての、テメエざけんじゃねえ!という怒号だったという。
と同時に、イジメの的になっていた俺のことを、自分が傷つけてきた人たちと重ねてしまったらしい。
自分はイジメはしなかったけど、身勝手な行いで人を傷つけてきた。
そういう人たちとイメージが被ってしまって、罪滅ぼしのような気持ちがあったのだという。
俺は色んな話を聞かせてもらって楽しかった。自分とは無縁の世界の話はとても新鮮だったのだ。
そして次は美緒ちゃんの話を聞かせてよと言われて、時間も忘れるほどたくさん話をした。
お姉ちゃんはうんうんと笑顔で頷いてくれたり、時々冗談を言って笑わせてくれた。
その中で、俺は友達ができないことの悩みを相談した。
イジメがやんだのは嬉しいけど、一人ぼっちじゃ寂しいと。
するとお姉ちゃんは、じゃあ私と友達になろうよと言ってくれた。
辛い時はいつでも連絡をくれたらいいし、こっちに帰って来てる時は一緒に遊ぼうと。
こっちへ越してきて初めて出来た友達に、思わず涙してしまったことをよく覚えている。
それからお姉ちゃんはとても仲良くしてくれた。
相変わらず学校ではなかなか友達が出来なかったけど、お姉ちゃんがいるだけですごく救われた。
そして中学二年の夏休み、お姉ちゃんから東京へ遊びに来ないかと誘われた。
俺は即行きます!と返事をして、一人で東京になんてと反対する両親を説得し、夏休みを迎えた七月の終わり頃に上京した。
お姉ちゃんは東京の色んな場所へ案内してくれて、丸一日二人で楽しんだ。
夜、お姉ちゃんのアパートでご飯をご馳走になり、なんて楽しい日なんだろうと、すさまじい満足感に満たされていた。
お姉ちゃんはお酒が入って、いつもより饒舌になっていた。
美緒ちゃんもちょっと飲む?と誘われて、どうしようかなと迷う俺に、真面目だなあと笑っていた。
コップ半分に注いでもらったワインはとても美味しくて、お代わりをもらってすぐに酔っ払ってしまった。
これ親には内緒にしといてよと言われ、うんうんと頷きながら、ふんわりと気持ちのいい感覚に浸っていた。
そんな気持ちのいい感覚の中、どんどんお酒がすすむお姉ちゃんは、ふとこんなことを漏らした。
『実はさ、私同性愛者なんだよね。』
いきなりのことでピンと来なかった俺は、狐につままれたみたいな顔をしていたと思う。
それを引いていると勘違いしたのか、お姉ちゃんは慌ててこう言った。
別に美緒ちゃんを襲おうとか思ってないからねと。
ただ周りに同じ人がいなくて、いや・・・・いるのかもしれないけど、この国じゃ表に出す人は少ないから、出会うことは難しいんだと嘆いていた。
未だに恋人がいたことはないし、ちょっと切なさそうな笑顔を見せた。
俺はどう返していいのかまったく分からず、ただゴクゴクとワインを飲んでいて、もうやめときなと取り上げられた。
お酒の時間は終わり、酔ってるからお風呂はやめといた方がいいと言われ、寝袋を広げて布団のように敷いてくれた。
こんなのしかなくてごめんねと、タオルケットを渡されながら。
部屋の電気が消え、うつうつと眠りに落ちていく。
今日は本当に楽しい日で、明日もう一日一緒に遊べるなんてと考えていると、すごく幸せな気分で堪らなかった。
そうやって極上の気分で微睡んでいると、ベッドの上からお姉ちゃんがこう呟いた。
『さっきのは聞かなかったことにして。』
俺はすぐに理解した、同性愛のことを言っているんだと。
そしていったい何を思ったのか、こんなことを口走ってしまった。
『お姉ちゃんみたいな人が恋人だったらいいなあ。』
酔っていたせいか、微睡んでいたせいか、それともその両方か?
なんでか分からないけど、自分でも何を言っているのかよく理解しないまま口走っていた。
それから一分も立たないうちに眠ってしまった。
翌日、お姉ちゃんは元気な笑顔でおはようと言ってくれた。
そして昨日と同じように色んな場所へ連れて行ってもらった。
お姉ちゃんが昨日言っていたことは気になるけど、覚えていないフリをした。
きっと人に聞かれたくなかった話だろうし、お姉ちゃん自身が聞かなかったことにしてと言っていたから。
余計なことさえ詮索しなければ、今日も一日楽しい時間を過ごせる。
そう信じて浮かれていたんだけど、お昼ご飯を食べてからすぐのこと、お姉ちゃんはこう言った。
悪いんだけど、急な用事が入ったから今日は泊めてあげられないと。
一緒に遊ぶ時間はもうおしまいで、申し訳ないけど今から帰ってくれないかと。
・・・帰ってくれないかと言われても、今日も泊まる予定だったから、明日帰る予定で新幹線の切符を購入していた。
それに何より、まだ続くはずだった楽しい時間を打ち切られて、悲しいやらショックやらで何も答えられなかった。
悲しむ俺を見つめながら、大人は忙しいから我慢してと頭を撫でられた。
それから駅まで送ってもらい、こっちの都合で早めに帰ることになったんだからと、新幹線の切符を買ってくれた。
お姉ちゃんは改札の手前で立ち止まり、またねと笑いかけてくれた。
俺はただただ残念で、小さな声でまたねと返すことしか出来なかった。
切符を片手に背中を向ける。
改札を通ろうとした時、お姉ちゃんの小さな呟きが降ってきた。
『美緒ちゃんが大人だったらよかったのにね。』
振り返ると、お姉ちゃんは俺よりも悲しそうな目をしていた。
あの気丈で強気なお姉ちゃんがこんな顔をするなんて・・・・。
自分の中のイメージが崩れていくのを感じて、一度も振り返らないままホームを駆け抜けていった。
そしてその日以来、お姉ちゃんは会ってくれなくなった。
連絡も疎遠になり、一緒に遊ぶことも、一緒に話す機会も、二度と訪れなかった。
しかし俺の胸にはずっとお姉ちゃんのことが残っていた。
イジメっ子を追い払ってくれた強さ、レディース時代のぶっ飛んだ話、友達になってくれた優しさ、同性愛者だと教えてくれたあの夜のこと。
そして「美緒ちゃんが大人だったらよかったのにね」と悲しそうな目をしていたこと。
時間が立つほどにそれらが胸の内で混ざっていって、一つの結晶のように実を結び始めた。
そして受験を控えた中学三年に上がる頃、俺はいつの間にか同性を恋愛対象として見るようになっていた。
同時に服装も男っぽくなり、長かった髪も短く切ってしまった。
別に男になりたかったわけじゃない。
なのにこういう具合になってしまったのは、お姉ちゃんという存在があったからだ。
中学三年の夏休み、彼の家を訪ねて、お姉ちゃんに会えないかと頼んだことがある。
しかし今は日本にいないと言われて断られた。
姉貴はサバットの本場であるフランスに行っていて、しばらく日本には帰ってこないだろうと。
俺はしょんぼりと肩を落とし、いきなり尋ねてごめんと言い残して、たった一人の夏休みを過ごした。
そして高校へ上がる頃、ようやく気づいたのだ。
どうして同性を好きになり、男っぽい格好をするのかということを。
それは胸の内にある結晶が、お姉ちゃんそのものだったからだ。
あの日呟いた「お姉ちゃんみたいな人が恋人だったら」という言葉。
あれは正確には「私自身がお姉ちゃんみたいな人になれたら」という、信仰とか崇拝に近いほどの憧れだったのだ。
イジメを受けるまでは、この世界が童話のように素晴らしいものと信じていたけど、実はそうじゃないということを体験した。
俺はただ耐えるばかりで何もできず、そこへヒーローのように颯爽と現れたお姉ちゃんに対して、自分が持っていない物全てを持った超人のような眼差して見つめていたのだ。
そしてそのお姉ちゃんにはもう会えない。
寂しいし切ないし悲しいし、おかげで友達もいなくなってしまったし。
そんな辛い状況を抜け出す方法はただ一つ、俺自身がお姉ちゃんになるしかなかった。
同性を恋愛対象として見るのも、男っぽい格好でいるのも、全てはお姉ちゃんを真似てのこと。
もう会えない最大の憧れの人になることで、もう会えないことへの寂しさと不満を打ち消そうとしていたのだ。
それはいつしかただの真似ではなくなり、本当にそういう人間に変わってしまった。
高校時代の三年間、俺はある意味俺ではなくなり、生まれ変わりかと思うほど、以前とは似ても似つかない人間になっていた。
その状態が今でもずっと続いているのである。
・・・・一年ぶりに帰ってきた故郷の海はあまりに懐かしく、感傷を伴って思い出を再生させて、感情的に消耗するほど観念を加速させた。
もしもお姉ちゃんと出会わなかったらどうなっていたんだろう?
イジメに耐えかねて引きこもりになっていただろうか?
それともどうにか過酷な日々を耐え抜いて、不名誉だった中学時代の日々を、高校生活で挽回しただろうか?
どちらの道を歩むにせよ、お姉ちゃんと出会っていない未来の先に、今の俺はいない。
お姉ちゃんになる必要がないのだから、同性を好きになることもなければ、男っぽい格好をすることもなかっただろう。
となればやっぱり美知留と付き合うこともなかったし、やっくんにミオちゃんと勘違いされることもなかったはずだ。
遠い水平線の向こうには、決して届かない別の世界があるような気がする。
そこには今の俺とは違った俺が住んでいて、向こうは向こうで不思議な目でこっちを見つめているかもしれない。
どうして俺は今でもお姉ちゃんの真似をしているんだろう?
どうして俺は今でもお姉ちゃんになりたがっているんだろう?
もう一人じゃないし、イジメられてもいないし、あの頃みたいに鈍感すぎる子供でもないのに。
じっと海を眺めていると、ふと何かが見えた気がした。
横たわる水平線の向こう、もう一人の俺が立っている。
長い髪をして、女らしい服装をして、俺に手招きをしている。
もう帰っておいでよと、お姉ちゃんになろうとするのはやめなよと、そんな風に言っている気がした。

海の向こう側 第七話 見えない境界線(1)

  • 2018.05.19 Saturday
  • 15:19

JUGEMテーマ:自作小説

血液型占いというのはどこまでアテになるのだろう。
O型は大雑把で細かいことは気にしないというが、それは科学的検証に基づいてこのことだろうか?
どうもそうは思えない。
だって俺は細かいことを気にしてしまうタイプだからだ。
昔からよくA型と間違われ、その度に訂正するのも面倒なので、A型だと思い込んでいる友人もいる。
例えばやっくん。
あいつは俺がA型だと誤解していて、『まじか!俺B型やからなあ!』と、高校の時に悔しそうな顔をしていた。
今思えば俺に惚れていたからだろう。
あいにく血液型占いなんて信じないので、やっくんとの相性がどうであるかの判断材料にするつもりはない。
問題なのは、しこりが残ったまま奴が去ってしまったことである。
一昨日、美知留とやっくんが大喧嘩をして、警察沙汰にまでなってしまった。
そして今日、俺との約束を守ってこの街を出ていった。
SNSに『またいつか』とメッセージだけを残して。
一昨日にやっくんがどうして俺に会いに来たのか理由を聞いた時、やはりこいつはストーカー気質なんじゃないかと怯えてしまった。
けれど今になって思えば、子供の頃の約束を守ろうとした純粋な奴だっただけなのではと思い始めていた。
たとえそれが人違いだとしても。
であれば最後の最後、やっくんに対して冷たい態度を取ってしまったことになる。
俺が尋ねたから胸のうちの語っただけなのに、それを拒絶してしまうとはなんとも自分勝手だと反省した。
ミオちゃんなる子を俺だと思い込んでいた誤解を解けたことは嬉しかったが、しっくり来ない終わり方にモヤモヤしていた。
友達でいようなんて言ったくせに、この先もう二度と会わないような気がする。
あれが最後だったんだから、握手くらいしてから別れた方がよかったのかなと、高校以来の友人を失った悲しみは増すばかりだった。
いや・・・それだけじゃないな。
今こうしてモヤモヤしているのはもう一人の厄介者のせいでもあるだろう。
今日で引き払うボロい家の中、俺は少ない荷物をダンボールに詰めていた。
隣人の小言を聴きながら。
「そうやって縛るとバラけちゃうよ。私がやるから置いといて。」
美知留はなんとも上機嫌に引越しの手伝いをしてくれる。
なぜならこういった手間のかかる作業の時こそ、いかんなくそのお節介ぶりを発揮して、母親のように振舞うことが出来るからだ。
それともう一つ、やっくんが去ったことが何より嬉しいのである。
あの日、美知留は警察に連れて行かれた。
結果は書類送検、もしも検察が起訴すれば裁判となり、有罪ともなれば前科持ちになってしまう。
素直に被害者に謝れば、反省しているとみなして起訴まではしないと警察は言ったらしい。
だがその説得は美知留には逆効果だった。
あんな奴に頭を下げるくらいなら、頭を坊主にしてから素っ裸で警察署の周りを走る方がマシだと突き返したのである。
燃え始めた怒りはとどまるところを知らず、やっくんのことは当然ボロクソに貶したとして、警察まで罵倒し始めた。
本人曰く、それはもうケチョンケチョンに貶めたそうだ。
やっくんはやっくんで美知留に復讐できる良いチャンスと踏んだのだろう。
なにがなんでも起訴してくれと懇願したそうだ。
素直に謝れば何もなく帰って来られたかもしれないのに、ここまでしてやっくんに対する嫌悪を貫き通したのだから、ある意味で清々しい。
二人の戦いはお互いに痛み分けとなったわけだが、美知留にとってはそうではないらしい。
なぜなら以前と同じように俺に小言が言えるからだ。
母親的な立場にあると思い込むことで、俺を自分の物にしているつもりなんだろうか。
・・・・でもはっきり言おう。
ずっと美知留と一緒にはいられない。
やっくんの脅威があった時、確かにこいつに助けられたし、必要としている自分がいたし、感謝もしている。
でも今思い返せば、ああいう危機的な状況の中ならば、助けに来てくれる人なら誰でもヒーローに思えてしまう。
それは恋愛感情とは異なった気持ちであり、言うなれば吊り橋効果ってやつと似ているんじゃなかろうか。
危険な時間を共にすると恋愛関係に発展するというけれど、それは傍に誰かがいるという安心感を恋愛感情と錯覚したものだ。
吊り橋を渡ってしまえばどうということはなく、落ち着きを取り戻したとなれば、錯覚は自然に解ける。
美知留のことは嫌いではないけど、恋愛関係を維持するとなれば、この母親ごっこに否応なく付き合わされる羽目になる。
幸い肉体関係までは復活していないので、関係を終わりにするなら早いうちに切り出した方がいいだろう。
もちろん烈火の如き罵倒は覚悟しないといけないけれど。
「なあ美知留。」
何気ない感じで声を掛ける。
しかし女の勘というのはすごいもので、美知留は背中を向けて作業をしながらこう答えた。
「今さら別れるとか無しだからね。」
一歩踏み込んだだけでカウンターパンチを食らってしまった。
出だしから牽制されると闘志も萎えるというもので、別れ話を切り出すのが億劫になってしまう。
再び闘志を取り戻すまで気合を溜めようとしたけど、その隙を見逃すほど美知留は甘くなかった。
手際よく荷物を縛り、極上の笑顔で振り返る。
「いったん地元に帰って、それから私たちの新しい門出が始まる。そうでしょ?」
「いや、そのことなんだけど・・・・、」
「この際はっきり言うけど、美緒の気持ちは問題じゃないから。」
「・・・どういうこと?」
意味が分からずに唇をすぼめると、「だって助けてあげたじゃない」と返してきた。
「あのゴリラに襲われそうになって、間一髪のところで私が来たのよ。そうじゃなきゃ今頃どうなってたか。」
「分かってる。美知留のおかげで無事だったんだから感謝してるよ。」
「でしょ?なのにいざあのゴリラがいなくなったらお払い箱ってわけ?それズルくない?」
「ズルい・・・?」
「美緒はね、ちょっと自分勝手なところがあるよ。あのゴリラのことにしたって、甘い顔を見せずに突き放しておけばここまでしつこい事はなかったはずだもん。
でもそうしなかったのは自分勝手だから。友達を突き放すなんて可哀想って思う自分が可哀想だから、冷たい態度に出られなかったのよ。」
「そんな事ないよ。俺は本気であいつの好意には困ってたし。」
「でも去ってくれて嬉しいんでしょ?」
「嬉しいっていうか・・・・なんか嫌な終わり方しちゃったなって。高校ん時からの友達なのに。」
「じゃあこう言い換える。あいつがいなくなって今は安心してるでしょ?」
「まあな、それは否定しないよ。」
美知留の言う通り、確かに安心はしている。
もしあいつがいつでも近くに住んでるかと思うと、安心して外を出歩く自信はない。
特に夜は警戒するだろう。
すると美知留は嬉しそうな顔で「私は?」と尋ねた。
「え?」
「私が傍からいなくなったらどう思う?安心する?」
「安心っていうか・・・・、」
「いいよ、正直に答えて。」
そう言われても正直に答えて怒られたこと数知れずである。
だが今日は上唇が一ミリも上がっていないので、今現在は不愉快な気分ではないのだろう。
だったら・・・と、正直な気持ちを答えた。
「安心ていうより、ホッとすると思う。」
「それはなんで?」
「なんでって・・・・、」
「遠慮しなくていいって。絶対に怒ったりしないから。」
「ほら」と手を向けられて、「じゃあ・・・」と切り出す。
「小言が多いんだよ。それでもって俺のことを縛ろうとするだろ、まるで母親みたいにさ。正直なところうんざりしてるんだ。」
遠慮はいらないとのことなのでストレートにぶつけてみた。
「俺は美知留の子供でもないし生徒でもない。なんでもかんでも上から目線であれこれ縛られたら堪らないよ。だからずっと一緒にはいられない。」
怒るかもしれないと思ったけど、美知留の感情に火が着くことはなかった。
それどころか笑顔を絶やさないまま「他には?」と尋ねた。
「他って・・・、」
「まだ不満そうな顔してるから。言いたいことあるんでしょ?」
「あるにはあるけど・・・いきなりは出てこない。」
「じゃあ待つわ。ずっと溜めてたものがあるならこの際吐き出しちゃえばいいじゃない。」
いつになく太っ腹な美知留に警戒心を抱いてしまう。
こいつがなんの計算もなしに、果たしてここまで寛大になるだろうか?
その答えは否であると、かつて付き合っていた俺は知っている。
「なにを考えてるんだ?」
怪訝な目を向けると、「それも不満?」と笑い返してきた。
「不満っていうか怖いんだよ。だって美知留がここまで何言っても許してくれるなんて事なかったからさ。」
「ああ、そんなこと。」
なんでもないという風におどけて見せる。
まとめた荷物をポンポンと叩きながら、「だってこれからまた一緒に暮らすわけだし」と強く言い切った。
「不満を溜めたまま新しい生活を始めたって上手くいかないでしょ?こういうのは先に吐き出した方がいいのよ。」
「要するにまったく別れる気はないってことだな?」
こっちも強めに問いかけると、「私だって馬鹿じゃないからね」と真顔になった。
「前は美緒のことを理解してなさすぎた。母親みたいにあれこれうるさく言って、それが気に食わなかったんでしょ?」
「ちゃんと分かってるならもっと自由にしてくれたらよかったのに。」
「失敗を経験したからこそ学んだことだもん。こうしてまた美緒と一緒にいられる。その時間を失わない為にはもっと理解しなくちゃ。」
なるほど、確かに前より賢くなっている。
しかしその物言いはやはり上から見下ろす感じのものであり、表面上は変わっても中身はそのままなんだろうと感心できない。
今は何を言ってもこんな要領でやり返されるだけだろう。
俺がいくら頑張っても暖簾に腕押しは目に見えているので、いったん切り上げることにした。
「ちゃっちゃと作業をすませよう。」
背中を向け、食器を新聞紙に包んでいく。
すると美知留は「もういいの?」と言いながら傍へ寄ってきた。
俺の手から食器を奪い、手際よく全てをダンボールに収めてしまった。
「美緒は不器用だよね。こんなのすぐ終わる作業なのに。」
次から次へと作業をこなしていき、そのスピードは俺の仕事を早回ししているかのようだった。
ほとんどの荷物をさっさと片付けてしまい、ちょうどお昼時だったこともあって「ご飯にしよっか」と台所に立った。
冷蔵庫の中に大した物はない。
当然だろう、今日引っ越すんだから。
しかし美知留は乏しい材料の中からそれなりのおかずを用意して、さらに昨日の残りのご飯からチャーハンを作った。
あっという間に食卓が彩り、味も抜群である。
「棚の中にインスタントラーメンがあったけど、今日はあれですますつもりだったんでしょ?」
カップ麺の収まっている棚を振り返り、「あんまり身体に良くないよ」と心配そうな表情を作った。
「たまにだったらいいけど、どうせしょっちゅう食べてるんでしょ?」
「まあ・・・。」
「ちゃんと料理出来るんだから怠けちゃダメだよ。ああ、それと・・・・、」
突然立ち上がり、風呂場から空っぽの洗濯カゴを持ってくる。
「どっさり溜まってたから昨日のうちに全部洗濯しといたからね。」
「ありがとう・・・。」
「もう全部畳んで詰めてあるから。あ!あとこれ職場に持ってって。」
再び台所へ立ち、棚の下から菓子折りを取り出す。
「たった一年でもお世話になった職場でしょ?無理言って早めに辞めさせてもらえることになったんだから、お菓子くらい持ってかないと。
もう大人なんだからこういう所はちゃんとした方がいいよ。」
俺の隣にそっと置いて、「これ持ってきちんと挨拶してくること」と念を押した。
「ていうかもうあのゴリラはいないんだから最後まで働けばいいのに。」
「辞めるって決めた時はやっくんに困ってたからさ。どうせあとちょっとだしこのまま帰るのもいいかと思って。」
「無責任だなあ。」
しょうがないわねという風に肩を竦める。
「あ!それから・・・・、」
「まだあるのか・・・・?」
「朝からずっとチャック開いてる。」
「・・・・・早く言えよ。」
胡座を掻いてたもんだから思いっきり開いている。
恥ずかしくなって身体を背けた。
慌ててジッパーを上げていると、「ね?」と笑われた。
「なにが?」
「美緒のダメなところ。」
「・・・要領が悪いってか?チャックも開いてたし。」
「隙が多いよね、相変わらず。そんなんだからあんなゴリラにつけ込まれるんだよ?」
「自分でも分かってるよ、時々抜けてるって。」
「時々ねえ。」
見下ろすような目でクスっと微笑む。
なるほど・・・・言葉であれこれ言うよりも、どれだけ俺が不器用で要領が悪いかを、しっかり者の自分との比較で見せつけた方が効果的だ。
とても上手いマウンティングの仕方であると感心する。
きっと美知留は予想していたのだろう。
俺の口から「小言が多い母親気取り」という不満が出ることを。
それを理由に別れを求めることを。
だから上手くそれをねじ伏せてみせたのだ。
こっちに先手を打たせておいて、全てを上から潰す作戦である。
昔の美知留ならとにかく先手先手でまくし立てて来たはずだが、今は余裕を持って後から打ち返してくる。
その証拠に勝ち誇った顔で頬杖をついていた。
「別にね、美緒がダメっ子だって言いたいわけじゃないの。私だって感情的でカッとなりやすいところがあるから、お互いに一長一短よね。
ただ美緒と別れてから気づいたことがある。あの頃の私はあまりにも束縛し過ぎてたんだなあって。」
「しょうじき窮屈だったよ。今だから言うけど。」
「分かってる。だから私も変わらなきゃって思った。これは美緒の為だけじゃなくて私自身の為でもある。
美緒がいなくなって、冷静に自分を見つめることが出来て、いかに自分にも悪いところがあったか自覚出来たのよね。
あんなんじゃ別れを切り出されても仕方ないなって反省したもん。」
上手いこと言う。
自分にも非があった、でもそれはあなたも同じ。
お互いに悪いところは改めて、新しい形になって出発しましょう・・・・ってことだろう。
でもこういう論法の悪いところは、しょせん理屈でしかないってことだ。
恋だとか愛だとか、そういうものは理屈で割り切れるものじゃない。
むしろ感情の方が大きなウェイトを占めるはずだ。
だったらやっぱり理屈だけで割り切れない。
美知留は賢くなって、以前にはなかった武器を手に入れた。
理屈で攻めるという武器を。
もし美知留と初対面なら俺は負けていただろう。
けどこいつとはかつて付き合っていた中である。
いくら上辺を取り繕おうとも、果たして根っこまで変わるものか?
三つ子の魂百までという諺があるように、人の心は早い時期に形作られて、後々にマイナーチェンジをすることはあっても、根底にあるシステムまでは変わらないだろう。
「少しの間考えさせてくれないか?」
そう切り返すと「いいよ」と頷いた。
「ようやくあのゴリラが去ってくれてホッとしてる所だもんね。今はさっさと引越しの準備を終わらせよ。」
ササっと昼飯を平らげて、残った荷物を纏めていく。
美知留は相変わらず手際がよくて、のそのそとする俺を振り返ってはニコリと微笑みを飛ばす。
美緒には私が必要でしょ?と、暗に語りかけられているかのようだった。
今は迷っても、必ず私の所に戻ってくる。
そんな自信に満ち溢れた目だった。
なるほど・・・・小言が無言の圧力に変わっただけではないか。
やはり人は変わらない。
となれば、いずれやっくんもストーカーに逆戻りする可能性が大かもしれない。
地元に帰ったならば、誰にも黙ったままどこかへ出て行こうと決めた。

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