海の向こう側 最終話 海の向こうへ(2)
- 2018.05.28 Monday
- 13:43
JUGEMテーマ:自作小説
旅立ちの日というのはいつだって新鮮な気分になるものだ。
一年前、地元を離れて新たな地で生活することに、不安以上の期待とワクワクを感じていた。
結果としてはただ一年という時間が流れた一年でしかなかったが、今振り返ってみると悪いチャレンジだと思えないのは、思い出を美化する脳の補正機能のせいかもしれない。
ただもしそうだとしても、自分で決めた行いを後悔しないのは良い事だ。
過去を振り返り、単に嫌な時間を過ごしただけだとしか思えないのなら、私はいつだってあの小さなプールの中にいる羽目になるだろう。
小さな頃は広くて楽しいと感じたあの世界は、外から見れば水溜り程度の大きさしかない、幼児向けの玩具であるというのが真実だ。
あれを必要とするのは、まだ自分と外の世界の区別が上手くつかない年頃の子供だけであり、自分と外界の間に隔たりがあると気づいたのなら、もうどこにも必要ないのだ。
本当ならとっくに地元を離れて、新しい街で生活しているはずだったのだが、美知留のせいでそうもいかなくなった。
内定をもらっている会社に事情を話すと、それなら落ち着いてからでいいから連絡をくれと言われ、ありがたく就職日を引き延ばしてもらったのだ。
荷物はとりあえず新居に送ってあるので、手荷物だけリュックに詰め、家族と気恥ずかしいさよならの挨拶だけ交わしてから駅に向かっていた。
しかしそこへ向かう前に一つだけ寄り道をしなければならない場所がある。
駅へ向かう交差点を左へ曲がり、海岸沿いの道へと足を進めていくと、砂浜にやっくんが立っていた。
相変わらずゴツイ肉体だなと、盛り上がった肩と背中の筋肉に目を細めながら、「やっくん」と手を挙げる。
「こんな朝早くに呼び出してごめん。」
時刻は午前七時、振り向いたやっくんは微塵の眠気も見せずに「おう」と微笑んだのだが、私の姿を見てその微笑みを消してしまった。
予想していた反応ではあるが、生のリアクションというのは面白く、無言のまま傍まで行って、向こうから何を言ってくるのを待った。
ジロジロと私を見るその目には疑問符が浮かんでいて、眉間の皺はどんどん深くなっていき、やがては阿修羅のごとき形相に変わってしまうほどだった。
言いたいことは分かるし、考えていることも分かるし、それでもこちらから何も言わないでいるとようやく口を開いた。
「どうしたん?なんかあったん?」
まったく想定していた通りの質問に可笑しくなってしまい、「まあ」と頷いてみせた。
「ちょっとした心境の変化というか。」
「めっちゃ女の子らしい格好しとるやん。髪もちょっと伸びてへん?」
「これからまた伸ばそうと思って。」
「服もボーイッシュな感じのやつはやめたんか?」
「これも昔に戻そうかと思って。」
「何があったんや?」
「大したことじゃないよ。気持ちの問題だから。」
肩まで届きそうな髪、制服以外で穿く10年ぶりのスカート。
シャツもずっと男物のSサイズを着ていたのだが、それもやめて全ての服を女物で買い揃えた。
ちなみにリュックもちょっとばかしオシャレなものを買い、靴だって久しぶりに女物のブーツなんてものを履いてみた。
こいつを買いに行ったのは一週間ほど前で、こういう服を選ぶなんて久しぶりだったものだから、姉について来てもらったのだ。
私が選んだ物はダサいと即却下され、こっちの方がいいとあれこれコーディネートされた結果、今は文化系女子みたいな格好をしている。
背が低くて童顔なので子供っぽく見えないか?と尋ねたら、そういう格好が似合うんだからいいじゃんと言われ、迷った挙句に決めたのだ。
買い物を終えて店を出る時、姉はとても嬉しそうな顔をしながら、「ついでにご飯でも行こうか」とこっちの返事を聞く前に車を走らせた。
「あんたと一緒に出かけるなんて久しぶりだわ。」
笑顔を絶やさずに話し続ける姉を見るのは、いったいいつ以来だろうかと記憶を探るほど、遠い昔のことに思えた。
この数日、姉だけでなく両親ともよく話をした。
数少ない地元の友達にも会って、この姿を見て誰もが驚いた顔をしていたが、数分後には互いに笑いながら喋っていた。
友達とこんな風に喋ったのもいつ以来だろうと思い出すほどで、なるほど・・・今になれば昔に姉が言っていた意味が分かる気がした。
私はいつまでもあの小さなプールにいたいと思っていて、そのせいでいつしか周りとズレが生じて、心のどこかで人を突き放すようになっていたのかもしれないと。
その行き着く先がお姉ちゃんの真似をして生きるという人生だったわけだけど、これも今振り返れば無駄ではなかったかもしれない。
360度回って同じ場所に戻って来るにしても、一歩も動かないのと一周してきたのとでは経験値が違う。
過去の10年が意味のある事だったのだと信じたい。
そうでなければ、私は今でも小さなプールに入ろうとしていただろうから。
どうして海に来るともう一人の自分が見えたのか?
これも今ならちょっと分かる気がした。
だが言葉にはすまいと、もう誰も見えなくなった水平線を見つめながら、ぼんやりと佇んでからやっくんを振り返った。
「みっちゃんなんでそないに変わったんや?まさかまた美知留がなんかしてきたんか?それやったら俺許さへんで。
刑務所の塀越えてでもドツきに行ったるわ。」
太い腕を力ませると筋が浮かび上がり、「ほんと逞しいな」とその腕を叩いてやった。
「美知留は関係ないよ。それに今は拘置所だから。まだ刑務所には行ってない。」
「刑務所と拘置所って違うんか?」
「拘置所は裁判中の被告が行くところ。その後に刑務所に行くのか釈放されるのかが決まる。」
「絶対に刑務所行きやろアイツ。もし無罪放免で出て来たってみっちゃんには合わせへんで。」
「ボディガードを買って出てくれるのはありがたいけど、私この街出るんだ。だからもう美知留とは合わない。」
「出て行く?・・・ああ、そういやそうやったな。美知留の事があったから延期になったんか。」
「そういうこと。今日出発するんだ。」
「今日?えらいいきなりやな。なんでもっと早よう教えてくれへんねん。なんかお別れの挨拶とか、ご飯をご馳走したりとかしたかったのに。」
「いいよいいよ気を遣わなくて。それよりさ、やっくんに・・・・・、」
言いかけて口を止める。
今日ここへ彼を呼び出したのは、幼い頃の記憶の誤りを訂正する為であった。
私と美桜里君を混同し、なおかつ四歳の頃の約束を今でも覚えている彼の人生は、ある意味で私の10年と同じである。
正しい道筋を生きていなくて、それに加えて生来の思い込みの強さと激しさが、どんどんおかしな方向へ彼を導いているのだ。
それを正さない限り、いつかまた私を追いかけ、下手をすれば美知留と同じような運命を辿る可能性がある。
私は美知留とやっくんとの二人に振り回されてきたけど、視点を変えれば私自身がその元凶だった。
私が偽りの人生なんて歩いていなかったら、この二人はもっとまっとうな道を歩いていたはずだと思っている。
ここでケジメを着けなければ、お互いにとって良い未来はやって来ないだろう。
だから彼の記憶を正さないといけない。
その為に昨日からどう説明しようかと何度も練習したのだが、いざ本人を前にすると、それをする事に意味がないような気がした。
きっとどう説明してもやっくんは納得しないだろう。
もしかしたら今だけは記憶を正せるかもしれないが、いつまた別の事と絡めてしまうか分からない。
正直なところそっちの方が恐ろしく、であれば余計なことは伝えずに、私の素直な気持ちだけ伝えることにした。
その後に彼がどう行動するかは分からないけど、そうなったらそうなった時のことであると、腹を括るしかあるまい。
私へのストーキングをやめてくれるのならそれでOKだし、しつこく付きまとうなら容赦しないだけだ。
いくら高校以来の友達であろうとも、美知留と同じく塀の向こうへ行ってもらうことになる。
そしてそんな事にはならないはずだと、彼を信じて告げてみることにした。
「やっくんとはもう会わない。」
もう少しオブラートに包んで告げるつもりだったのに、恐ろしいほどストレートに言葉が出てきてしまった。
あまりにハッキリ言ったもんだから、理解が追いつかないのか、やっくんの表情は先ほどと何も変わらなかった。
ならば今度はもう少しマイルドに言おうかと表現を考えていると、彼は表情を変えないまま「そうなん?」と答えた。
「もう縁切るってこと?」
「そうなるね。私がいるとやっくんも美知留も迷惑するよ、きっと。
本当はこんなこと言っちゃいけないんだろうけど、私たちって出会わない方がよかったのかもしれない。
だって私、ずっと自分に嘘ついて生きてきて、やっくんたちが知ってる私は嘘の私なんだ。
でもってもう嘘の自分は終わりにすることに決めたんだ。だからもう友達じゃいられない。
二人が知ってる私は幻みたいなもんだから。」
口にしてみて恐ろしく自分勝手なことを言っていると再確認する。
要は過去を捨てたいから、その時の人間関係を解消しましょうって押し付けてるだけなのだ。
もっともらしい理屈を並べたところで、ワガママで自己中な奴であることに変わりはない。
けど変わらなきゃいけない時は誰にでもあるはずで、そういう時はあらゆるものを清算しないと、前に進めないはずでもある。
例え親しかった人を傷つけたとしても。
「言い訳はしない。全部自分の都合で決めたことだから。私はもう偽物の人生を歩くのが嫌になって、その時のことはもう引きずりたくないんだ。
自分勝手だって分かってる。分かってるけど・・・・分かってほしい。」
相変わらず表情を変えないやっくんの目は、悲しまれたり威圧されたりするよりよっぽど堪える。
目を逸らし、海の向こうに横たわる水平線に意識を向けて、もう二度ともう一人の自分があそこに現れないことに安心する。
もしもまだあそこに自分が見えるなら、私は自分の気持ちにも言葉にも自信を持つことは出来ない。
あそこにもう一人の私が見えないということは、つまりあそこにいたもう一人の私が、今の自分であるという証だ。
「やっくんさ、ほんとに一方的で悪いと思ってるよ。でももう決めたんだ。その方が私にとってもやっくんにとっても良い事だと思う。
だから本当にごめん。もう私は美知留にもやっくんにも合わない。そう決めたから。」
やはり自分勝手だと思いつつ彼を振り返ると、まったく顔色を変えないままだったので、少し不気味に感じた。
いったい頭の中では何を考えているのか探ってみたが、皆目見当も付かない。
もしこのまま何も返して来ないなら、私の用はここで終わりとなって、やっくんも過去の人となるだけだ。
しばらく待ってみたが何のリアクションもなかったので、もうこれで全て終わったと、少しだけ笑顔を見せた。
「言いたかったのはそれだけ。こんな朝早くに呼び出してごめんね。
でも電話とかメールとかじゃなくて直接言わなきゃいけないことだと思ったから。」
リュックを背負い直し、踵を返しながら「じゃあ」と手を挙げた。
「やっくんも元気でね。」
案山子のように棒立ちのままの彼の脇を通り抜け、海岸沿いの道へと上がっていく。
振り向けばこの前と同じように足跡が伸びていて、その先にはじっと佇んだままのやっくんがいて、後ろめたさと開放感が同時に押し寄せてきた。
彼まで続くこの足跡は遠からず消えて、過去への道を断ち切るものとなることを望む私は、やはり自分勝手で酷い奴なのだ。
けどそれでいい、今はそれで。
偽りの人生は狭いプールと同じく、どう足掻いても小さな世界の中しか回ることが出来ない。
その昔、海の向こう側には魔法使いになれる世界があると信じて、遠い彼方を臨もうとしていた。
あの時、その願いをやっくんに託そうとしたのは本気ではなく、いつかは自分でやらなければならないのだということは、心のどこかで分かっていた気がする。
幼い子供心に、ずっと子供のままではなく、いつか大人になって、今とは違う自分になるんだろうと分かっていたのだ。
ゆっくりと海岸線の道を歩き、ふと振り返るとやっくんはまだそのまま佇んでいた。
いったい彼が何を考えているのか探るのは意味のないことなんだろう。
けど少しばかり目を止めていると、突然にこちらを振り返ったので、思わず手を振った。
ここからでは聴こえないだろうけど、ぼそりと呟いてみた。
「いつかまた。」
さっき会わないと言ったばかりなのに、どうしてこんな言葉が出てくるんだろうと、少し悩んでしまう。
小さく手を振ってから踵を返し、背中を向けて歩きながら、まだ過去への迷いがあるのかもしれないと、悶々と空を仰いでしまった。
いつかたま・・・というのは、その通りいつかまたってことだ。
美知留もやっくんも、私にとってはとても印象的な人物だった。
美桜里君だってそうだし、何よりお姉ちゃんも。
おそらくだけど、いつかまたはみんなに言った言葉なんだろう。
それはつまり、人真似をしていた過去の私に対しての言葉であるのかもしれない。
過去は断ち切っても、思い出まで捨てることは出来ないのだ。
これから10年か20年か分からないけど・・・いや、もっと早い段階で昔を振り返るかもしれない。
人生を変えるには三つの方法しかないのだと、いつかどこかで目にしたことがある。
一つ、時間の使い方を変える。
二つ、住む場所を変える。
三つ、人間関係を変える。
この三つでしか人生は変わることがなく、そして最も意味のないことが「決意を新たにする」だそうだ。
気持ちだけでは何一つ変化は起きず、気持ちを元に実際に行動を起こした時にこそ、初めて変化がもたらされるって意味なんだろう。
私は変わりたいと思う。
その為に強い気持ちを持つことはできたし、実際に変化を起こす為にこうして行動も始めた。
住む場所を変え、人間関係を変えることで。
そうなれば自ずと時間の使い方だって変わるだろう。
けどまだ結果は出ていない。
もう夢見る幼い子供でもなければ、無意味に可能性を信じる思春期の学生でもない。
踏み出したその一歩の為に、ともすれば過去の方が良かったと後悔した人も大勢いるだろうし、取り返しのつかない傷を背負った人だっているだろう。
だからこそ変わるっていうのは怖いことで、踏み出すには勇気が必要なのだ。
私は明るい未来が待ち受けているなんて信じていなくて、それでも幻の自分を捨てて新しい人生を歩こうと思ったのは、単に気持ちの問題だ。
もう嘘をつくのは嫌で、偽りは時間と共に苦しみしかもたらさないのだなと知ってしまったから、そこから抜け出そうと望んだだけである。
ずっと短いままにしていた髪が少し伸びたせいで、柔らかい潮風にも反応して、先端がふわふわと揺れている。
それはまるで、喜んで踊っているように感じてしまい、また昔みたいにメルヘンな性格に戻ってしまったのだろうかと、青臭さに恥ずかしくなる。
服も靴も新しくして、歩くたびに足元に感じるブーツの感触も新鮮で、それをもう少し長く感じていたくて、駅へ曲がるはずの交差点を過ぎてしまう。
曲がるべき道を無視したことがなぜか気持いい。
そして次なる交差点まで来ると、今度は100メートル先に陸橋が見えた。
近くに小学校と中学校があるもんだから、子供達の通学路にと、何年か前に建てられたものなんだけど、子供が優先なのは登下校の時間帯だけ。
今はまだそれより少しばかり早いので、私が一番乗りとばかりに、またしても曲がるべき道を無視して進んだ。
陸橋へと差し掛かり、一歩一歩確かめるように階段を登って、地上よりも少しだけ高い位置から海を眺めてみる。
地平から眺める水平線は、まるで目に見えない外界との境界線に思えるものだが、こうして高い位置に登ってもそれほど差は感じられない。
高い位置に来れば水平線がより向こうへ伸びるだけで、結局のところ外界をこの目で確認することなど無理だと分かる。
もしその向こうまで船で渡っていったとしても、やはり何も変わらないだろう。
島が見えたなら、大陸が見えたなら、それはもう外界ではなくて、ただ足を踏み入れたことのない地上の土地があるだけだ。
今なら分かる。
どうして私が偽物の人生を歩んできたのかが。
それはイジメが怖かったからでも、お姉ちゃんに憧れたからでもなく、孤独が怖かったからでもない。
そういうものとは違う、実に純粋で、幼稚で、真っ白で、脆くて、楽しくて、儚いことが理由だったのだ。
けどやっぱりそれは言葉にはすまい。
言葉にしてしまったなら最後、私は再び魔法使いになることを夢想し、見ることも触れることも出来ない外界の世界へ心を飛ばしてしまうかもしれない。
水平線にはもう幻の自分は見えない。
海の向こう側へ飛ばしていた魂が、ようやく私の中に戻ってきてくれた。
海の向こう側 -終-
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