日曜日の街の通りには、賑やかなほど人が溢れていた。
ニコニコとした親子連れ、大きな声ではしゃぐ中学生くらいの集団、手を繋いで顔を見合わせながら歩くカップル。
映画館を出ると、通りを行く大勢の人達が目に入り、みんなそれぞれ目的があって動いているんだよなあと思うとちょっと不思議な気持ちになった。
「まだ暑いねえ。」
化粧直しを終えた藤井が、映画館から出てきて俺の隣に走ってくる。
オレンジの可愛らしいブラウスに、白いヒラヒラした膝より少し長いスカートを穿いた藤井は、ハンカチで汗を拭きながらそう言った。
髪は後ろでお洒落な感じに結ってあり、白いうなじが見えて少しドキっとした。
「映画、面白かったね。」
俺は頷き、笑顔の藤井を見た。
今日はいわゆるデートである。
最近仲が良くなり、同盟以外のことでも会ったり、電話したりということが増えた。
しかしこうやって一日遊ぶ為だけに二人で会うのは初めてだった。
ココの騒動があってから一週間後、藤井から電話があった。
「もしもし、今話しても大丈夫?」
そう言ってかかってきた電話を俺は喜々として受け取り、「もちろん大丈夫」と答えて部屋の外に出た。
きっと俺の顔はにやにやしている。
こんなのを見られたら、また動物達にからかわれるに違いない。
ドアの外で、俺は外の景色を眺めながら話した。
「ココの足の怪我はもう大分よくなったよ。
今はモモとじゃれ合ってる。」
「それはよかったな。」
二日前にも藤井から電話があった。
あの日、ココを連れて帰った藤井は足の怪我を心配していた。
両足共に血が滲んでおり、藤井は消毒液で応急手当をすると、翌日仕事を休んですぐにココを病院に連れていったそうだ。
幸い怪我は軽傷で、お医者さんからは「すぐに治りますよ」と言われ、塗り薬をもらって帰ってきたそうだ。
穴にはまっていたせいで、ココは帰ったその日と翌日はショックからか、元気が無かったそうだが、3日も経つとだんだんと元気を取り戻してきたという。
「真奈ちゃんごめんね。
もう二度と勝手に外に出たりしないから。」
ココは申し訳なさそうに藤井に謝ったそうで、藤井は「約束ね」と言ってココの尻尾に指切りげんまんをしたらしい。
その話しを聞いた俺は、藤井らしいなと笑ってしまった。
そして今、ココが元気になったと電話があった。
俺は一安心し、「もうトイレの窓は閉め忘れるなよ」と笑いながら藤井に言った。
「うん、気を付ける。」
藤井は明るい声で言った。
「それで有川君、来週の日曜日なんだけど、何か予定ある?」
俺はまた同盟の活動かなと思い、特に予定も無いので「その日は空いてるよ」と伝えた。
まあいつでも空いてるようなものだが。
すると藤井は「ほんと?」と小さく尋ねてきてから、一呼吸置いて続けた。
「あのさ、じゃあその日何処かに遊びに行かない?
映画でもいいし、ご飯でもいいし。」
てっきり同盟の活動の誘いかと思っていた俺は、意外な言葉に面食らった。
これはデートのお誘いなのではないか。
俺は嬉しくなり、「うん!行こう。」とすぐに返事をした。
「じゃあ来週の日曜日に駅前の喫茶店で待ち合わせってことでいいかな?」
「うん!いいよ。」
またすぐに返事をした。
「ふふふ、なんか有川君声が上ずってる。」
藤井に言われ、俺は喜びでテンションが上がっている自分に気付いた。
「ははは、そうかな?」
曖昧な返事をすると、藤井はまた笑った。
「じゃあ詳しい時間はまた連絡するね。」
「ああ、待ってる。」
そして電話を切る前藤井は言った。
「楽しみにしてる。
お洒落していくからね。」
俺は努めて冷静に「うん、分かった」と答えたが、心の中は躍っていた。
そして今日、藤井と待ち合わせをし、さっきまで映画を見ていた。
正直映画の中身なんてほとんど頭に入ってこなかった。
「お洒落をしてくるね」と言った今日の藤井は本当に可愛く、俺は映画中もチラチラとそんな藤井を見てドキドキしていたのだ。
「有川君、どうかした?」
ぼーっと藤井を見ていた俺に、不思議そうに尋ねてくる。
「い、いや。何でもないよ。」
俺は焦りながら答え、「ご、ご飯でも食べに行こうか」と言った。
「うん、いいね。
私もちょうどお腹が減ってた所なんだ。」
そう言って藤井はお腹を擦った。
「何処でもいいかな?」
「うん、任せる。」
そして俺が選んだのはファミレスだった。
クソ!
もっと気の利いた店を選んだ方がよかったか。
店に入ってから後悔したが、藤井は気にする様子もなく、席に座ってメニューを選んでいた。
「私は海老フライ定食。
有川君は?」
「あ、じゃあ俺も同じやつで。」
藤井は呼び鈴を押し、店員に海老フライ定食二つとドリンクバーも二つ頼んだ。
「有川君も飲むでしょ?」
「もちろん。」
店員が去り、立ちあがってドリンクバーに向かおうとする藤井を俺は手で制した。
「俺が淹れてくるよ。
何がいい?」
藤井はニッコリ笑い、そして「じゃあアイスコーヒーで」と答えた。
俺は自分の分と藤井の分のアイスコーヒーを持って席に戻った。
「もう9月なのにまだ暑いね。」
藤井が窓から通りを眺めながら言う。
その横顔をぼーっと見ていたら、「有川君?」と声をかけられた。
いかんいかん、またずっと藤井を見ていた。
「なんか今日の有川君変だよ。
映画の時もちょくちょくこっちを見てたし。」
何てこった。
気付かれていたのか。
俺は赤面して「ははは」と曖昧な笑いを返した。
そして店員が海老フライ定食を運んで来て、俺達は「頂きます」と声を合わせて言った。
「こうして有川君と遊ぶのなんて初めてだね。」
藤井は言った。
「そうだな。
ほとんどは同盟の活動ばっかりだったもんな。」
俺は味噌汁をすすりなが言う。
「有川君と同盟を組んで、私本当によかったと思う。」
藤井も味噌汁をすすって言った。
「私一人じゃきっとこんなに活動出来なかった。
ありがとうね。」
改まってそう言われ、俺は何と言っていいかわからずに海老フライに箸をつけた。
「今私すごく充実してる。
この力が動物達の役に立てるなんて、私それだけで幸せなんだ。」
藤井は箸を置き、ぼんやりと手元を見ている。
小さく、柔らかい藤井の手。
俺は握った時の感触と温もりを思い出していた。
「色んな動物とお話出来たし、マサカリ達とも仲良くなれたし。
有川君に出会ってなかったら、もしかしたらココも家には来てなかったかもしれない。
同盟を組んでから、今までに無い体験ばかりでとっても楽しいことばかりだった。」
俺は齧っていた海老フライを置き、藤井の手元を見ながら答えた。
「それは俺も同じだよ。
暇が欲しいからなんて理由で会社を辞めて、ただぼーっとして日々を過ごすつもりだった。
けど藤井に出会って、それが変わった。
俺も同盟の活動は充実してたと思う。
それに・・・。」
「それに?」
藤井が俺の顔を覗き込むようにして尋ねてくる。
俺はふうっと息を吐いて言った。
「それに、俺自身少し変わったと思う。」
自分に言い聞かせるように言った。
「前は何かに深く関わろうなんて人間じゃなかった。
面倒くさいことはごめんだし、ただ淡々と毎日をやり過ごせれないいと思ってた。
けど今は、何ていうか、上手く言葉に出来ないけど・・・。」
藤井は黙って俺の言葉を聞いている。
俺は窓の外に目をやって言った。
「前はさ、一人でいるのが気楽でよかったんだよ。
誰にも気を遣わないでいいし、自分のペースで物事を進められるし。
だけど、今は違う。
俺は一人でいるより、藤井や動物達といる方が楽しいって思ってる。
それに、人間に関わるのも、そんなに嫌じゃないかなあって。」
窓の外から顔を戻し、藤井の顔を見ると笑っていた。
俺は何だか恥ずかしくなって俯き、齧りかけの海老フライを一気に頬張った。
「うん。私から見ても有川君は変わったと思うよ。」
藤井はアイスコーヒーに口をつけてから言った。
「でもね、今の有川君が、本当の有川君なんじゃないかなって私は思う。」
「どういうこと?」
俺は顔を上げて尋ねた。
藤井は少し眉を動かし、「ふふ」と笑ってから答えた。
「有川君はすごく優しい人なんだよ。
けどきっかけがなくて、その優しさがうまく出て来なかっただけなんだと思う。
でも同盟の活動をしているうちに、色んなことに関わって、その優しさが出てきたんだよ。
だから、今の有川君が、本当の有川君の姿なんじゃないかって私は思ってる。」
「今の俺が本当の俺・・・。」
それだけ言うと、藤井はニッコリと笑って食事にとりかかった。
俺はしばらく藤井の言葉の意味を考え、それから残ったご飯をかきあげた。
「ありがとうございましたー。」
ファミレスを出た俺は大きく背伸びをした。
冷房の効いた店内から、暑い外へ出たことで汗が吹き出してきた。
「ありがとう、奢ってもらって。」
藤井が背伸びをする俺を見つめて言った。
「いいよ、あれくらい。」
俺はケータイで時間を確認した。
まだ1時過ぎ。
これからどうしようか?
「ねえ、有川君。
今日は暗くなるまで一緒に遊ぼうよ。」
俺のシャツの裾を引っ張って藤井が言う。
俺も出来れば長く藤井と一緒にいたいので、その意見には賛成だった。
「そうだな、そうするか。」
それから俺達はゲームセンターに行き、ペットショップに行き、買い物に行き、喫茶店に入ってたくさんお喋りをした。
今日という日を、藤井と心から楽しんだ。
気がつくと、陽が傾いていて、街をオレンジ色に染めていた。
それからも俺達は遊び続け、陽が落ちる頃に帰りの電車に乗った。
電車の中でも他愛無いことで笑い合い、俺も藤井もずっと笑顔を浮かべていた。
駅に到着し、一駅先のはずの藤井が何故か俺と一緒に降りた。
でも長く藤井といられるのは嬉しいので、その理由なんて聞かなかった。
俺のアパートに着くまで、俺達は笑顔で話し合っていた。
ずっとこの時間が続けばいいのに。
俺は、自分のアパートの前に着くと、そう思って足を止めた。
藤井も同じように足を止める。
さっきまであんなに楽しくお喋りしていたのに、急に沈黙が訪れた。
街灯が俺達を照らす。
伸びた影を見ながら、俺は今日という日をまだ終わりにしたくないと思っていた。
まだ藤井といたい。
何も言葉が無くても、ただ一緒にいたい。
藤井は俺に視線を合わせず、ぼんやりと宙を眺めていた。
藤井も俺と同じ気持ちなんだろうか?
何か言いたいが、言葉が出て来なかった。
そうやってしばらく二人で立ち尽くしたあと、「それじゃあ」と言って藤井が歩き始めた。
背中を見せる藤井。
去って行く藤井。
このままでいいのか?
何か、言うべきことがあるんじゃないのか?
「藤井!」
気が付くと、その名前を呼んでいた。
藤井は振り返り、俺を見た。
鼓動が速くなる。
緊張している。
でも何故か、冷静な部分もあった。
ゆっくりと息を吐き出したあと、俺は言った。
「もう少し一緒にいないか。」
口から出た言葉は、願いとなって藤井に届いたようだった。
「うん。」
短く返事をする藤井。
その言葉を聞いた途端、俺は歩き始めていた。
「近くに公園があるから、一緒に散歩でもしよう。」
藤井の返事を待たず、俺は歩いた。
後ろから藤井がついてくる。
俺達は無言のまま、公園へ向かった。
くすぐったいような、嬉しいような、不思議な時間だった。
公園は月明かりが照らしていて、歩けるほどの明るさはあった。
相変わらず無言のまま公園を歩くと、突然藤井が口を開いた。
「ねえ、覚えてる?
私達、この公園で会ったんだよ。」
もちろんおぼえている。
モンブランの帰りが遅く、捜しにきた時に藤井と会ったのだ。
「まあ会ったって言っても、私が有川君に会いに来たんだけどね。」
そう、藤井は俺の忘れ物を届けに来てくれたのだ。
でもそれはついでで、本当は俺に会うのが目的だと言っていた。
「なんか、すごく懐かしい気がする。」
振りかえって藤井を見ると、顔を上げて空を見ていた。
俺はそんな藤井の顔をじっと見つめていた。
「私ね、あの日有川君とどうしても会いたくてここまでやって来た。
きっとこの人は自分と同じ力を持ってる。
私の理解者になってくれるかもしれない。
本当の友達になってくれるかもしれないって思って。」
月明かりが、藤井の顔を美しく照らしていた。
「あの日、すごくドキドキした。
もし会いに来たのを嫌な顔をされたらどうしよう。
そもそも、会って何を話そうかって。」
藤井は空から俺の顔へと視線を移した。
その顔は柔らかく微笑んでいた。
「でも、あの時勇気を出して会いに来て本当によかったって思ってる。
とっても緊張してたけど、ありったけの勇気を振り絞って有川君に会いにきたの。
そして有川君は私の友達になってくれて、同盟の約束までしてくれた。
本当に嬉しかった。」
俺は自分の心が波打つのを感じた。
藤井は勇気を出して俺に会いに来てくれた。
あの時、考えもしなかったけど、藤井はきっとすごく緊張していたんだ。
俺は自分の胸に手を当てた。
鼓動が手の平を通して伝わってくる。
「有川君。」
藤井が真剣な顔になって俺の名前を呼ぶ。
真っすぐに俺を見ている。
俺はその視線を受け止めて、胸に当てた手を握り締めた。
「ありがとう。
あなたに出会えたこと、すごく感謝してる。」
そう言って、藤井は微笑んだ。
俺の心の波は激しくなっていた。
勇気を出して俺に会いに来てくれた藤井。
きっとどうしようかと迷っただろう。
緊張もしただろう。
でも、ありったけの勇気を振り絞ったと言っていた。
じゃあ、俺にもその勇気はあるのかな。
今まで勇気なんてこれっぽっちも出そうなんて思わなかった。
そんなものは自分にあるとすら思ってもいなかった。
でも、もしかしたら誰にでもあるのかもしれない。
俺にだって、たとえちっぽけでも勇気があるのかもしれない。
だったら言うんだ。
今心に思っていること。
波打つ心の元になっていること。
勇気を出して。
俺は大きく深呼吸をした。
夜の匂いが胸いっぱいに入ってきて、それが心の波と相まって大きく俺を揺さぶる。
誰にだってある勇気。
俺にもきっとある。
だから言え。
勇気のボタンを押して、一番大切な人に。
「藤井。」
俺は胸に当てた手を降ろし、真っすぐ藤井の顔を見た。
藤井はその視線を受け止めている。
「俺、今まで一人でいるのが一番好きだった。
それが楽しかった。
俺は一人でいい。
ずっとそう思っていた。」
風が吹いて藤井の髪を揺らす。
しかし、俺の心は揺れることなく真っすぐに藤井の方を向いていた。
「俺、お前と出会って変わったんだ。
お前が俺を変えてくれたんだ。
お前が言っていた、優しい本当の俺っていうのは、お前が引き出してくれたんだ。」
口の中が渇く。
俺はぐっと唇を噛みしめ、目をつむって心の中にある、勇気のボタンを押した。
そして目を開け、心の思いを打ち明けた。
「俺は今、お前といる時が一番楽しい。
何をしている時より、お前といる時が一番充実している。
もっと一緒にいたい。
その手に触れたいって思う。
俺・・・。」
ふうっと息を吐き、藤井を見る視線に力を込めた。
「俺、お前のことが好きだ。
友達としてじゃない。
一人の女性としてお前のことが好きだ。
だから・・・、だからこれからも一緒にいれくれ。
俺の、一番大切な人になってくれ。」
全てを言葉にした時、心がすうっと晴れ渡っていくような気がした。
俺にも勇気はあった。
自分が今思っている、一番大事なことをちゃんと伝えられた。
俺は藤井が好きだ。
そう言葉にして、その気持ちがより一層強くなっていくようだった。
藤井。
お前はこの気持ちを受け取ってくれるか?
俺はしっかりと藤井の顔を見た。
藤井は少し俯き、風で流れた髪を手で直した。
「私、ずっとその言葉を待ってた。」
藤井は俯いたまま言う。
「きっとね、有川君が私を好きになってくれたのって最近だと思う。」
そんなことが分かるのか。
俺は心を覗かれていたようか気がして恥ずかしくなった。
「でもね、私はもっと前からだよ。
ずっと前から有川君のことが好きだった。
いつ言葉にしていいのか分からないこの気持ち、どうしようかってずっと悩んでた。
でも、それを有川君から言ってくれるなんて・・・。」
藤井は顔を上げた。
目にはいっぱい涙を溜めていた。
月明かりが、綺麗に藤井の瞳を照らしていた。
「私も有川君のことが好き。
私もずっと一緒にいたい。
私も有川君に触れたい。
ずっとずっと、好きだった。」
気が付くと、俺の頬を涙が流れていた。
心に言葉には出来ない感情が溢れてきて、涙はどんどん流れてきた。
藤井も泣いている。
唇を噛み、その頬を涙で濡らしている。
そして体が勝手に動いた。
脳の命令を待つまでもなく、俺達はどちらからでもなく抱きしめ合っていた。
暖かい。
藤井の鼓動が伝わってくる。
藤井にも、俺の鼓動が伝わっているのだろうか。
俺の首筋に藤井の涙が触れ、藤井の頭に俺の涙が落ちた。
俺達は、互いの温もりを感じながら、強く抱きしめ合っていた。
今、生きてきた中で一番幸せかもしれない。
心に吹く柔らかい風は、まるで俺達を包むように大きくなっていった。
それから俺達は手を繋いで駅まで向かった。
夏の終わりの暑さを感じながら、星が輝く空を見上げた。
握った藤井の手はとても柔らかく、俺は優しくそれを包むようにして握っていた。
黙って歩いた。
言葉はもう出尽くした。
今は、繋いだこの手と一緒に、心も繋がっているようだった。
時折顔を見合わせ、ニッコリと微笑み合った。
そして何度目か顔を見合わせた時、俺達はキスをした。
ほんの一瞬、唇が触れるような軽いキスだった。
そのあと、俺達はまた顔を見合わせて微笑んだ。
駅に着き、俺達は手を繋いだまま藤井の切符を買った。
藤井はこれから電車に乗って帰る。
改札の前まで来て、俺達は握っていた手を離した。
ずっと握っていたいと思い、惜しみながら離した。
「じゃあね、今日は本当に楽しかった。」
藤井がはにかんだ笑顔で言う。
「うん、俺も楽しかった。」
しばらく無言で向かい合い、別れるのを惜しんだ。
それから藤井は「ふふふ」と笑ってもう一度キスをしてきた。
「じゃあ、またね。」
そう言って改札を抜け、ホームへと消えていった。
俺は唇にキスの余韻を感じながら駅を出た。
家に帰る途中、藤井からメールが入った。
「今日はとっても幸せな日でした。
私達、これからもずっと一緒だよ。
また同盟の活動をしようね。
じゃあ、また。」
俺は笑顔でそれを読み、すぐに返信を送った。
「俺も今日は幸せな一日だった。
次の同盟に活動、楽しみにしてるよ。
気を付けて帰れよ。
じゃあ。」
そう送って俺はケータイをしまい、家までの道のりを一人喜びを噛みしめながら歩いた。
手の平と唇に残った藤井の感触をずっと思いながら、月の照らす道を幸せな気持ちのまま家路についた。
それから一週間後、俺はテーブルの上に仕事情報誌を広げていた。
まだ貯金があるが、なんだか働きたい気分になっていたのだ。
「おい、散歩に連れて行ってくれよ。」
マサカリが紐を咥えてそう言う。
「さっき行っただろ。」
俺は仕事情報誌に目を落としたままそう言う。
「ねえ、悠一。
最近良いことでもあったの?
何かとても幸せそうよ。」
モンブランが俺の顔を見ながら尋ねてくる。
「うん、まあちょっとな。」
いずれこいつらにも藤井と付き合い始めたことを言わねばなるまい。
俺は情報誌のページをめくった。
「なんか最近ニヤニヤしてるよな。
まあどうせスケベなことでも考えてんだろ。」
カモンがブランコに乗りながら毒を吐いてくる。
「違うよ。俺はそんなスケベなことなんて考えていないぞ。」
カモンは「ほんとかよ」なんて言いながらブランコで遊んでいる。
「悠一、最近ずっと笑顔。
それ、とてもいいこと。」
チュウベエがカモンのカゴの上で羽をパタパタさせながら言った。
「そうかな?
自分じゃ気付かないけどずっと笑顔なんだな。」
俺は自分の顔に手を当ててみた。
「ずっと笑顔だとみんなが和むわよね。
なんたって悠一は私達の飼い主なんだから。」
マリナが窓際で俺の方を見て言った。
俺はニコッと笑顔を返してやった。
そうやって動物達と話していると、ケータイが鳴った。
藤井からのメールだった。
「まだ暑いよねえ。
早く涼しくならないかな。
実は仕事が終わって駅前の喫茶店まで来てるの。
同盟の活動第6弾を思いついちゃった。
今から会える?」
俺はすぐに返信した。
「そうか。
どんな内容か楽しみだな。
すぐにそっちに向かうよ。」
俺は情報誌を閉じて立ちあがり、一つ欠伸をしてからドアに向かった。
「なんだ、出掛けるのか?」
マサカリがドアの近くまで来て尋ねる。
「ああ、ちょっとな。
藤井と会ってくる。」
靴を履いてドアを出る時、マサカリが言った。
「楽しんでこいよー。」
俺はドアを閉めた。
実はあいつら俺が藤井と付き合い始めたことに気付いているんじゃないのか?
気を遣って俺の口から言うのを待ってるとか。
俺は何だかおかしくなり、口元を笑わせた。
藤井の言う通り、まだ残暑が厳しい。
外に出て歩いていると、額から汗が流れてくる。
でもまあもう少ししたら涼しくなるかな。
俺は額の汗を拭い、傾いた陽を眺めた。
オレンジ色の光が降り注ぎ、仕事や学校帰りの人達を照らしている。
藤井が待っている。
そのことだけで俺の心は弾んでいた。
同盟の活動の内容はどんなだろう。
あったら何を話そう。
今日も手を繋げるかな。
出来たらキスもしたいな。
あの柔らかな手の平の温もりと、唇の感触を思い出し、俺は幸せな気分になっていた。
早く藤井に会いたい。
俺ははやる気持ちを抑えられず、走って行くことにした。
きっとこの暑さで汗まみれになるかもしれないけど、そんなこは気にもならなかった。
一瞬吹いた涼やかな風を受け、俺は藤井の待つ喫茶店へと駆け出した。
頭と心の中は、藤井のことでいっぱいだった。
夕陽で紅く染まる道を、俺は駆けて行った。
最終話 完