小説が終わってのご挨拶

  • 2010.06.26 Saturday
  • 10:49
 昨日で勇気のボタンが完結致しました。
稚拙なストーリーに拙い文章だったと思いますが、読んで下さった方々には感謝しています。
初めてのオリジナルストーリーだったので、四苦八苦した場面はたくさんありますが、それでも何とか書き終えることが出来てよかったと思っています。
お付き合い頂いた方々、本当にありがとうございました。
またしばらくしたら新しい小説を書こうと思います。
今度はコメディでいこうかなと考えています。
もし新しい小説を書き始めたら、その時はまた是非読んでやって下さい。
今まで読んで下さった方々にもう一度お礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。
それでは失礼致します。

勇気のボタン 最終話 勇気を出して(7)

  • 2010.06.25 Friday
  • 10:54

日曜日の街の通りには、賑やかなほど人が溢れていた。
ニコニコとした親子連れ、大きな声ではしゃぐ中学生くらいの集団、手を繋いで顔を見合わせながら歩くカップル。
映画館を出ると、通りを行く大勢の人達が目に入り、みんなそれぞれ目的があって動いているんだよなあと思うとちょっと不思議な気持ちになった。
「まだ暑いねえ。」
化粧直しを終えた藤井が、映画館から出てきて俺の隣に走ってくる。
オレンジの可愛らしいブラウスに、白いヒラヒラした膝より少し長いスカートを穿いた藤井は、ハンカチで汗を拭きながらそう言った。
髪は後ろでお洒落な感じに結ってあり、白いうなじが見えて少しドキっとした。
「映画、面白かったね。」
俺は頷き、笑顔の藤井を見た。
今日はいわゆるデートである。
最近仲が良くなり、同盟以外のことでも会ったり、電話したりということが増えた。
しかしこうやって一日遊ぶ為だけに二人で会うのは初めてだった。
ココの騒動があってから一週間後、藤井から電話があった。
「もしもし、今話しても大丈夫?」
そう言ってかかってきた電話を俺は喜々として受け取り、「もちろん大丈夫」と答えて部屋の外に出た。
きっと俺の顔はにやにやしている。
こんなのを見られたら、また動物達にからかわれるに違いない。
ドアの外で、俺は外の景色を眺めながら話した。
「ココの足の怪我はもう大分よくなったよ。
今はモモとじゃれ合ってる。」
「それはよかったな。」
二日前にも藤井から電話があった。
あの日、ココを連れて帰った藤井は足の怪我を心配していた。
両足共に血が滲んでおり、藤井は消毒液で応急手当をすると、翌日仕事を休んですぐにココを病院に連れていったそうだ。
幸い怪我は軽傷で、お医者さんからは「すぐに治りますよ」と言われ、塗り薬をもらって帰ってきたそうだ。
穴にはまっていたせいで、ココは帰ったその日と翌日はショックからか、元気が無かったそうだが、3日も経つとだんだんと元気を取り戻してきたという。
「真奈ちゃんごめんね。
もう二度と勝手に外に出たりしないから。」
ココは申し訳なさそうに藤井に謝ったそうで、藤井は「約束ね」と言ってココの尻尾に指切りげんまんをしたらしい。
その話しを聞いた俺は、藤井らしいなと笑ってしまった。
そして今、ココが元気になったと電話があった。
俺は一安心し、「もうトイレの窓は閉め忘れるなよ」と笑いながら藤井に言った。
「うん、気を付ける。」
藤井は明るい声で言った。
「それで有川君、来週の日曜日なんだけど、何か予定ある?」
俺はまた同盟の活動かなと思い、特に予定も無いので「その日は空いてるよ」と伝えた。
まあいつでも空いてるようなものだが。
すると藤井は「ほんと?」と小さく尋ねてきてから、一呼吸置いて続けた。
「あのさ、じゃあその日何処かに遊びに行かない?
映画でもいいし、ご飯でもいいし。」
てっきり同盟の活動の誘いかと思っていた俺は、意外な言葉に面食らった。
これはデートのお誘いなのではないか。
俺は嬉しくなり、「うん!行こう。」とすぐに返事をした。
「じゃあ来週の日曜日に駅前の喫茶店で待ち合わせってことでいいかな?」
「うん!いいよ。」
またすぐに返事をした。
「ふふふ、なんか有川君声が上ずってる。」
藤井に言われ、俺は喜びでテンションが上がっている自分に気付いた。
「ははは、そうかな?」
曖昧な返事をすると、藤井はまた笑った。
「じゃあ詳しい時間はまた連絡するね。」
「ああ、待ってる。」
そして電話を切る前藤井は言った。
「楽しみにしてる。
お洒落していくからね。」
俺は努めて冷静に「うん、分かった」と答えたが、心の中は躍っていた。
そして今日、藤井と待ち合わせをし、さっきまで映画を見ていた。
正直映画の中身なんてほとんど頭に入ってこなかった。
「お洒落をしてくるね」と言った今日の藤井は本当に可愛く、俺は映画中もチラチラとそんな藤井を見てドキドキしていたのだ。
「有川君、どうかした?」
ぼーっと藤井を見ていた俺に、不思議そうに尋ねてくる。
「い、いや。何でもないよ。」
俺は焦りながら答え、「ご、ご飯でも食べに行こうか」と言った。
「うん、いいね。
私もちょうどお腹が減ってた所なんだ。」
そう言って藤井はお腹を擦った。
「何処でもいいかな?」
「うん、任せる。」
そして俺が選んだのはファミレスだった。
クソ!
もっと気の利いた店を選んだ方がよかったか。
店に入ってから後悔したが、藤井は気にする様子もなく、席に座ってメニューを選んでいた。
「私は海老フライ定食。
有川君は?」
「あ、じゃあ俺も同じやつで。」
藤井は呼び鈴を押し、店員に海老フライ定食二つとドリンクバーも二つ頼んだ。
「有川君も飲むでしょ?」
「もちろん。」
店員が去り、立ちあがってドリンクバーに向かおうとする藤井を俺は手で制した。
「俺が淹れてくるよ。
何がいい?」
藤井はニッコリ笑い、そして「じゃあアイスコーヒーで」と答えた。
俺は自分の分と藤井の分のアイスコーヒーを持って席に戻った。
「もう9月なのにまだ暑いね。」
藤井が窓から通りを眺めながら言う。
その横顔をぼーっと見ていたら、「有川君?」と声をかけられた。
いかんいかん、またずっと藤井を見ていた。
「なんか今日の有川君変だよ。
映画の時もちょくちょくこっちを見てたし。」
何てこった。
気付かれていたのか。
俺は赤面して「ははは」と曖昧な笑いを返した。
そして店員が海老フライ定食を運んで来て、俺達は「頂きます」と声を合わせて言った。
「こうして有川君と遊ぶのなんて初めてだね。」
藤井は言った。
「そうだな。
ほとんどは同盟の活動ばっかりだったもんな。」
俺は味噌汁をすすりなが言う。
「有川君と同盟を組んで、私本当によかったと思う。」
藤井も味噌汁をすすって言った。
「私一人じゃきっとこんなに活動出来なかった。
ありがとうね。」
改まってそう言われ、俺は何と言っていいかわからずに海老フライに箸をつけた。
「今私すごく充実してる。
この力が動物達の役に立てるなんて、私それだけで幸せなんだ。」
藤井は箸を置き、ぼんやりと手元を見ている。
小さく、柔らかい藤井の手。
俺は握った時の感触と温もりを思い出していた。
「色んな動物とお話出来たし、マサカリ達とも仲良くなれたし。
有川君に出会ってなかったら、もしかしたらココも家には来てなかったかもしれない。
同盟を組んでから、今までに無い体験ばかりでとっても楽しいことばかりだった。」
俺は齧っていた海老フライを置き、藤井の手元を見ながら答えた。
「それは俺も同じだよ。
暇が欲しいからなんて理由で会社を辞めて、ただぼーっとして日々を過ごすつもりだった。
けど藤井に出会って、それが変わった。
俺も同盟の活動は充実してたと思う。
それに・・・。」
「それに?」
藤井が俺の顔を覗き込むようにして尋ねてくる。
俺はふうっと息を吐いて言った。
「それに、俺自身少し変わったと思う。」
自分に言い聞かせるように言った。
「前は何かに深く関わろうなんて人間じゃなかった。
面倒くさいことはごめんだし、ただ淡々と毎日をやり過ごせれないいと思ってた。
けど今は、何ていうか、上手く言葉に出来ないけど・・・。」
藤井は黙って俺の言葉を聞いている。
俺は窓の外に目をやって言った。
「前はさ、一人でいるのが気楽でよかったんだよ。
誰にも気を遣わないでいいし、自分のペースで物事を進められるし。
だけど、今は違う。
俺は一人でいるより、藤井や動物達といる方が楽しいって思ってる。
それに、人間に関わるのも、そんなに嫌じゃないかなあって。」
窓の外から顔を戻し、藤井の顔を見ると笑っていた。
俺は何だか恥ずかしくなって俯き、齧りかけの海老フライを一気に頬張った。
「うん。私から見ても有川君は変わったと思うよ。」
藤井はアイスコーヒーに口をつけてから言った。
「でもね、今の有川君が、本当の有川君なんじゃないかなって私は思う。」
「どういうこと?」
俺は顔を上げて尋ねた。
藤井は少し眉を動かし、「ふふ」と笑ってから答えた。
「有川君はすごく優しい人なんだよ。
けどきっかけがなくて、その優しさがうまく出て来なかっただけなんだと思う。
でも同盟の活動をしているうちに、色んなことに関わって、その優しさが出てきたんだよ。
だから、今の有川君が、本当の有川君の姿なんじゃないかって私は思ってる。」
「今の俺が本当の俺・・・。」
それだけ言うと、藤井はニッコリと笑って食事にとりかかった。
俺はしばらく藤井の言葉の意味を考え、それから残ったご飯をかきあげた。
「ありがとうございましたー。」
ファミレスを出た俺は大きく背伸びをした。
冷房の効いた店内から、暑い外へ出たことで汗が吹き出してきた。
「ありがとう、奢ってもらって。」
藤井が背伸びをする俺を見つめて言った。
「いいよ、あれくらい。」
俺はケータイで時間を確認した。
まだ1時過ぎ。
これからどうしようか?
「ねえ、有川君。
今日は暗くなるまで一緒に遊ぼうよ。」
俺のシャツの裾を引っ張って藤井が言う。
俺も出来れば長く藤井と一緒にいたいので、その意見には賛成だった。
「そうだな、そうするか。」
それから俺達はゲームセンターに行き、ペットショップに行き、買い物に行き、喫茶店に入ってたくさんお喋りをした。
今日という日を、藤井と心から楽しんだ。
気がつくと、陽が傾いていて、街をオレンジ色に染めていた。
それからも俺達は遊び続け、陽が落ちる頃に帰りの電車に乗った。
電車の中でも他愛無いことで笑い合い、俺も藤井もずっと笑顔を浮かべていた。
駅に到着し、一駅先のはずの藤井が何故か俺と一緒に降りた。
でも長く藤井といられるのは嬉しいので、その理由なんて聞かなかった。
俺のアパートに着くまで、俺達は笑顔で話し合っていた。
ずっとこの時間が続けばいいのに。
俺は、自分のアパートの前に着くと、そう思って足を止めた。
藤井も同じように足を止める。
さっきまであんなに楽しくお喋りしていたのに、急に沈黙が訪れた。
街灯が俺達を照らす。
伸びた影を見ながら、俺は今日という日をまだ終わりにしたくないと思っていた。
まだ藤井といたい。
何も言葉が無くても、ただ一緒にいたい。
藤井は俺に視線を合わせず、ぼんやりと宙を眺めていた。
藤井も俺と同じ気持ちなんだろうか?
何か言いたいが、言葉が出て来なかった。
そうやってしばらく二人で立ち尽くしたあと、「それじゃあ」と言って藤井が歩き始めた。
背中を見せる藤井。
去って行く藤井。
このままでいいのか?
何か、言うべきことがあるんじゃないのか?
「藤井!」
気が付くと、その名前を呼んでいた。
藤井は振り返り、俺を見た。
鼓動が速くなる。
緊張している。
でも何故か、冷静な部分もあった。
ゆっくりと息を吐き出したあと、俺は言った。
「もう少し一緒にいないか。」
口から出た言葉は、願いとなって藤井に届いたようだった。
「うん。」
短く返事をする藤井。
その言葉を聞いた途端、俺は歩き始めていた。
「近くに公園があるから、一緒に散歩でもしよう。」
藤井の返事を待たず、俺は歩いた。
後ろから藤井がついてくる。
俺達は無言のまま、公園へ向かった。
くすぐったいような、嬉しいような、不思議な時間だった。
公園は月明かりが照らしていて、歩けるほどの明るさはあった。
相変わらず無言のまま公園を歩くと、突然藤井が口を開いた。
「ねえ、覚えてる?
私達、この公園で会ったんだよ。」
もちろんおぼえている。
モンブランの帰りが遅く、捜しにきた時に藤井と会ったのだ。
「まあ会ったって言っても、私が有川君に会いに来たんだけどね。」
そう、藤井は俺の忘れ物を届けに来てくれたのだ。
でもそれはついでで、本当は俺に会うのが目的だと言っていた。
「なんか、すごく懐かしい気がする。」
振りかえって藤井を見ると、顔を上げて空を見ていた。
俺はそんな藤井の顔をじっと見つめていた。
「私ね、あの日有川君とどうしても会いたくてここまでやって来た。
きっとこの人は自分と同じ力を持ってる。
私の理解者になってくれるかもしれない。
本当の友達になってくれるかもしれないって思って。」
月明かりが、藤井の顔を美しく照らしていた。
「あの日、すごくドキドキした。
もし会いに来たのを嫌な顔をされたらどうしよう。
そもそも、会って何を話そうかって。」
藤井は空から俺の顔へと視線を移した。
その顔は柔らかく微笑んでいた。
「でも、あの時勇気を出して会いに来て本当によかったって思ってる。
とっても緊張してたけど、ありったけの勇気を振り絞って有川君に会いにきたの。
そして有川君は私の友達になってくれて、同盟の約束までしてくれた。
本当に嬉しかった。」
俺は自分の心が波打つのを感じた。
藤井は勇気を出して俺に会いに来てくれた。
あの時、考えもしなかったけど、藤井はきっとすごく緊張していたんだ。
俺は自分の胸に手を当てた。
鼓動が手の平を通して伝わってくる。
「有川君。」
藤井が真剣な顔になって俺の名前を呼ぶ。
真っすぐに俺を見ている。
俺はその視線を受け止めて、胸に当てた手を握り締めた。
「ありがとう。
あなたに出会えたこと、すごく感謝してる。」
そう言って、藤井は微笑んだ。
俺の心の波は激しくなっていた。
勇気を出して俺に会いに来てくれた藤井。
きっとどうしようかと迷っただろう。
緊張もしただろう。
でも、ありったけの勇気を振り絞ったと言っていた。
じゃあ、俺にもその勇気はあるのかな。
今まで勇気なんてこれっぽっちも出そうなんて思わなかった。
そんなものは自分にあるとすら思ってもいなかった。
でも、もしかしたら誰にでもあるのかもしれない。
俺にだって、たとえちっぽけでも勇気があるのかもしれない。
だったら言うんだ。
今心に思っていること。
波打つ心の元になっていること。
勇気を出して。
俺は大きく深呼吸をした。
夜の匂いが胸いっぱいに入ってきて、それが心の波と相まって大きく俺を揺さぶる。
誰にだってある勇気。
俺にもきっとある。
だから言え。
勇気のボタンを押して、一番大切な人に。
「藤井。」
俺は胸に当てた手を降ろし、真っすぐ藤井の顔を見た。
藤井はその視線を受け止めている。
「俺、今まで一人でいるのが一番好きだった。
それが楽しかった。
俺は一人でいい。
ずっとそう思っていた。」
風が吹いて藤井の髪を揺らす。
しかし、俺の心は揺れることなく真っすぐに藤井の方を向いていた。
「俺、お前と出会って変わったんだ。
お前が俺を変えてくれたんだ。
お前が言っていた、優しい本当の俺っていうのは、お前が引き出してくれたんだ。」
口の中が渇く。
俺はぐっと唇を噛みしめ、目をつむって心の中にある、勇気のボタンを押した。
そして目を開け、心の思いを打ち明けた。
「俺は今、お前といる時が一番楽しい。
何をしている時より、お前といる時が一番充実している。
もっと一緒にいたい。
その手に触れたいって思う。
俺・・・。」
ふうっと息を吐き、藤井を見る視線に力を込めた。
「俺、お前のことが好きだ。
友達としてじゃない。
一人の女性としてお前のことが好きだ。
だから・・・、だからこれからも一緒にいれくれ。
俺の、一番大切な人になってくれ。」
全てを言葉にした時、心がすうっと晴れ渡っていくような気がした。
俺にも勇気はあった。
自分が今思っている、一番大事なことをちゃんと伝えられた。
俺は藤井が好きだ。
そう言葉にして、その気持ちがより一層強くなっていくようだった。
藤井。
お前はこの気持ちを受け取ってくれるか?
俺はしっかりと藤井の顔を見た。
藤井は少し俯き、風で流れた髪を手で直した。
「私、ずっとその言葉を待ってた。」
藤井は俯いたまま言う。
「きっとね、有川君が私を好きになってくれたのって最近だと思う。」
そんなことが分かるのか。
俺は心を覗かれていたようか気がして恥ずかしくなった。
「でもね、私はもっと前からだよ。
ずっと前から有川君のことが好きだった。
いつ言葉にしていいのか分からないこの気持ち、どうしようかってずっと悩んでた。
でも、それを有川君から言ってくれるなんて・・・。」
藤井は顔を上げた。
目にはいっぱい涙を溜めていた。
月明かりが、綺麗に藤井の瞳を照らしていた。
「私も有川君のことが好き。
私もずっと一緒にいたい。
私も有川君に触れたい。
ずっとずっと、好きだった。」
気が付くと、俺の頬を涙が流れていた。
心に言葉には出来ない感情が溢れてきて、涙はどんどん流れてきた。
藤井も泣いている。
唇を噛み、その頬を涙で濡らしている。
そして体が勝手に動いた。
脳の命令を待つまでもなく、俺達はどちらからでもなく抱きしめ合っていた。
暖かい。
藤井の鼓動が伝わってくる。
藤井にも、俺の鼓動が伝わっているのだろうか。
俺の首筋に藤井の涙が触れ、藤井の頭に俺の涙が落ちた。
俺達は、互いの温もりを感じながら、強く抱きしめ合っていた。
今、生きてきた中で一番幸せかもしれない。
心に吹く柔らかい風は、まるで俺達を包むように大きくなっていった。
それから俺達は手を繋いで駅まで向かった。
夏の終わりの暑さを感じながら、星が輝く空を見上げた。
握った藤井の手はとても柔らかく、俺は優しくそれを包むようにして握っていた。
黙って歩いた。
言葉はもう出尽くした。
今は、繋いだこの手と一緒に、心も繋がっているようだった。
時折顔を見合わせ、ニッコリと微笑み合った。
そして何度目か顔を見合わせた時、俺達はキスをした。
ほんの一瞬、唇が触れるような軽いキスだった。
そのあと、俺達はまた顔を見合わせて微笑んだ。
駅に着き、俺達は手を繋いだまま藤井の切符を買った。
藤井はこれから電車に乗って帰る。
改札の前まで来て、俺達は握っていた手を離した。
ずっと握っていたいと思い、惜しみながら離した。
「じゃあね、今日は本当に楽しかった。」
藤井がはにかんだ笑顔で言う。
「うん、俺も楽しかった。」
しばらく無言で向かい合い、別れるのを惜しんだ。
それから藤井は「ふふふ」と笑ってもう一度キスをしてきた。
「じゃあ、またね。」
そう言って改札を抜け、ホームへと消えていった。
俺は唇にキスの余韻を感じながら駅を出た。
家に帰る途中、藤井からメールが入った。
「今日はとっても幸せな日でした。
私達、これからもずっと一緒だよ。
また同盟の活動をしようね。
じゃあ、また。」
俺は笑顔でそれを読み、すぐに返信を送った。
「俺も今日は幸せな一日だった。
次の同盟に活動、楽しみにしてるよ。
気を付けて帰れよ。
じゃあ。」
そう送って俺はケータイをしまい、家までの道のりを一人喜びを噛みしめながら歩いた。
手の平と唇に残った藤井の感触をずっと思いながら、月の照らす道を幸せな気持ちのまま家路についた。
それから一週間後、俺はテーブルの上に仕事情報誌を広げていた。
まだ貯金があるが、なんだか働きたい気分になっていたのだ。
「おい、散歩に連れて行ってくれよ。」
マサカリが紐を咥えてそう言う。
「さっき行っただろ。」
俺は仕事情報誌に目を落としたままそう言う。
「ねえ、悠一。
最近良いことでもあったの?
何かとても幸せそうよ。」
モンブランが俺の顔を見ながら尋ねてくる。
「うん、まあちょっとな。」
いずれこいつらにも藤井と付き合い始めたことを言わねばなるまい。
俺は情報誌のページをめくった。
「なんか最近ニヤニヤしてるよな。
まあどうせスケベなことでも考えてんだろ。」
カモンがブランコに乗りながら毒を吐いてくる。
「違うよ。俺はそんなスケベなことなんて考えていないぞ。」
カモンは「ほんとかよ」なんて言いながらブランコで遊んでいる。
「悠一、最近ずっと笑顔。
それ、とてもいいこと。」
チュウベエがカモンのカゴの上で羽をパタパタさせながら言った。
「そうかな?
自分じゃ気付かないけどずっと笑顔なんだな。」
俺は自分の顔に手を当ててみた。
「ずっと笑顔だとみんなが和むわよね。
なんたって悠一は私達の飼い主なんだから。」
マリナが窓際で俺の方を見て言った。
俺はニコッと笑顔を返してやった。
そうやって動物達と話していると、ケータイが鳴った。
藤井からのメールだった。
「まだ暑いよねえ。
早く涼しくならないかな。
実は仕事が終わって駅前の喫茶店まで来てるの。
同盟の活動第6弾を思いついちゃった。
今から会える?」
俺はすぐに返信した。
「そうか。
どんな内容か楽しみだな。
すぐにそっちに向かうよ。」
俺は情報誌を閉じて立ちあがり、一つ欠伸をしてからドアに向かった。
「なんだ、出掛けるのか?」
マサカリがドアの近くまで来て尋ねる。
「ああ、ちょっとな。
藤井と会ってくる。」
靴を履いてドアを出る時、マサカリが言った。
「楽しんでこいよー。」
俺はドアを閉めた。
実はあいつら俺が藤井と付き合い始めたことに気付いているんじゃないのか?
気を遣って俺の口から言うのを待ってるとか。
俺は何だかおかしくなり、口元を笑わせた。
藤井の言う通り、まだ残暑が厳しい。
外に出て歩いていると、額から汗が流れてくる。
でもまあもう少ししたら涼しくなるかな。
俺は額の汗を拭い、傾いた陽を眺めた。
オレンジ色の光が降り注ぎ、仕事や学校帰りの人達を照らしている。
藤井が待っている。
そのことだけで俺の心は弾んでいた。
同盟の活動の内容はどんなだろう。
あったら何を話そう。
今日も手を繋げるかな。
出来たらキスもしたいな。
あの柔らかな手の平の温もりと、唇の感触を思い出し、俺は幸せな気分になっていた。
早く藤井に会いたい。
俺ははやる気持ちを抑えられず、走って行くことにした。
きっとこの暑さで汗まみれになるかもしれないけど、そんなこは気にもならなかった。
一瞬吹いた涼やかな風を受け、俺は藤井の待つ喫茶店へと駆け出した。
頭と心の中は、藤井のことでいっぱいだった。
夕陽で紅く染まる道を、俺は駆けて行った。

                                    最終話 完

 

勇気のボタン 最終話 勇気を出して(6)

  • 2010.06.24 Thursday
  • 10:48

 空き地に着いた頃にはもうすっかり暗くなっていた。
街灯が明かりを投げ、部活帰りと思われる学生が道を通り過ぎて行った。
「ここにいるのね。」
藤井が小さな懐中電灯を取り出して明かりを点けた。
「なんか粗大ゴミ置き場って感じだな。」
俺は空き地を見回して言った。
傷付いたソファや、画面が割れたテレビ、サドルが無い自転車などが大量に置かれていた。
おそらくは都合のよいゴミ捨て場として利用されているのだろう。
俺は頭を掻いてふうっと息を吐き、捨てられたゴミを眺めた。
ケンゾウについてやって来た空き地は、俺が捜していた公園から1kmほど離れていた。
近くには住宅街があり、そこ少し進むと民家がちらほら立っている。
そこの一角に空き地はあった。
結構広い空き地で、道路の街灯で多少は照らされているが、奥へ入ると真っ暗だろう。
「こっちだ。」
ケンゾウが言いながら奥へと進む。
藤井が懐中電灯でケンゾウの行く先を照らし、俺は足元に気をつけながらその後をついて行った。
月明かりで多少は辺りが見えるようだ。
「あ、あそこ!」
夜目が利くモンブランが叫んだ。
ケンゾウが立ち止まり、地面をトントンと叩いた。
見ると近くに穴があった。
すぐ後ろに古びたタンスが捨ててあり、穴の周りは草で覆い茂っている。
言われなければ気付かないような場所にあった。
藤井が一目散に穴に駆け寄り、中を懐中電灯で照らして「ココ!」と呼びかける。
中から「真奈ちゃん?」と小さな返事があった。
ココは穴の中にいた。
俺も駆け寄り、中を覗いた。
電灯が照らすその先に、不安そうな顔をしているココがいた。
穴は直径30cmくらいで、深さは多分、2mくらいだろう。
結構深い穴だなあと思うと同時に、一体何の為の穴なのかと疑問が湧いてきたが、今はそんなことを考えている場合じゃない。
気が付くと、動物達も穴の中を覗き込んでいた。
「うわ、結構深いな。」
マサカリが顔をしかめる。
藤井が電灯で照らしながら、「ココ、怪我してるの?」と大きな声で聞いた。
「うん、前足が両方とも痛いんだ。
野良猫に噛まれちゃった。」
泣きそうな声で答える。
「血は出てるの?」
心配そうに藤井が尋ねる。
「出てる。痛いよ。
早く助けて。」
それを聞いた藤井は電灯を「持ってて」と俺に渡し、ビニール紐の束を取り出すと、それを穴の中に伸ばしていった。
「ココ!紐を伸ばすからこれに掴まって。」
「真奈ちゃん!」
「何?」
「ライトが眩しい。」
そう言われて俺は電灯を切った。
辺りは暗くなり、月明かりだけが頼りとなった。
「大丈夫、猫にはちゃんと見えてるから。
ココは紐が見えてるはずし、何かあったら私が教えるから。」
モンブランが穴を覗きながらそう言う。
本当に、なんてお前は頼りになるやつなんだ。
さっきのケンゾウへの啖呵といい、俺はモンブランを見直した。
「ちゃんと掴んでね。」
そう言って下ろされた紐を、モンブラン曰く、ココは必死で掴もうとしているらしい。
しかし上手くいかない。
「きっと前足の怪我が痛いんだと思う。
力が入らないんだよ。」
モンブランにそう言われ、一旦紐を穴から上げた。
何てこった。
どうすりゃいいんだ。
俺は穴には向けずに電灯を点けた。
藤井を照らすと、唇を噛んで泣きそうになっていた。
俺は電灯を点けたまま地面に置き、穴を手で触って確認してみた。
人が入れないことは無いかもしれない。
けど入ったら出てくるのに困るな。
どうしようか?
「誰か、良い案ないのかよ。」
カモンがみんなに向かって言うが、誰も答えなかった。
ココの「早く出たいよ」という声と、「うん、すぐだからもう少し待ってね」という藤井の涙声が響く。
するとチュウベエが思い付いたように言った。
「俺、飛んで中に入る。
ココを掴んで出てくる。」
俺の頭の上で勢いよく羽をパタつかせている。
「いや無理だろ。
いくら子猫でも、インコのお前が持って飛ぶには重すぎるよ。」
しかしチュウベエは反論する。
「やってみなきゃ分かんない。」
そう言ってチュウベエは穴の中を電灯で照らせと言う。
鳥目だから明かりがないと見えないのだろう。
チュウベエがパタパタと穴の中に入り、ココを掴んで飛び上がろうとした。
「痛い、痛いよ。」
ココが叫ぶ。
「やめてチュウベエ、ココが痛がってる。」
がっくりした顔をしてチュウベエは穴から出てきた。
「大丈夫か、ココ?」
俺は穴を覗き込んで言った。
ココはチュウベエに掴まれたあたりをペロペロ舐めていた。
きっとチュウベエの爪が食い込んだのだろう。
「くそ、いけるかもって思ったのに。」
マサカリが悔しがる。
そして沈黙が流れた。
みんな何かいい考えはないかと思案しているようだった。
「早く助けて。」
ココが悲痛に訴える。
「有川君、どうしよう。」
藤井は泣いている。
クソ!
やっぱり俺が直接穴に入って・・・。
そう思った時、肩に乗せていたマリナが口を開いた。
「モンブランが咥えてあげればいいんじゃないかしら。」
みんな一斉にマリナを見た。
何を言ってるんだコイツはという視線が向けられる。
言葉の意味が分からず、俺は聞き返した。
「どういうことだ?」
マリナは藤井の持っている紐を見ると、「それよ」と言った。
「その紐の先にモンブランを括りつけるの。
それを穴の中に入れて、モンブランがココを咥えて中から出すのよ。
「おお!」
俺は感心して声を上げた。
それは中々いい考えかもしれない。
隣でマサカリも頷いている。
「いいかもね、それ。」
モンブランも乗り気だった。
「藤井、紐をかしてくれ。」
俺は声を明るくして言った。
藤井は涙を拭うと、「きっと助かるよね」と潤んだ瞳を向けてくる。
「ああ、大丈夫さ。」
受け取った紐で早速モンブランの体を結び、「いいか?」と尋ねた。
コクリと頷くモンブラン。
俺は紐を持ったままモンブランを穴の中に入れて、慎重に下ろしていく。
ゆっくりと紐を下ろし、伸びきった所で「どうだ?」と聞いた。
「うん、もうちょっと。」
ココが眩しがるから電灯を照らせないので、中はどうなっているのか分からない。
俺達はただじっと待った。
するとケンゾウが近づいてきて穴の中を覗き込んだ。
「今咥えようとしている所だな。」
夜目の利くケンゾウが説明してくれる。
俺は頷き、紐を持ってじっと待った。
汗が額をたらりと流れ落ちる。
見ると藤井は祈るような格好をしていた。
「お、咥えたみたいだぞ。」
ケンゾウが穴の中を覗いたまま言った。
中から「うー、うー、」とモンブランの鳴き声が聞こえる。
おそらく引き上げてくれという合図だろう。
俺は慎重に紐を引き上げた。
全員がそれに注目する。
紐には下ろす時よりもいくらか重さがあった。
ゆっくりと、ゆっくりと紐を引き上げる。
最初にモンブランの姿が見えた。
そして紐を引き上げていくと、モンブランに咥えられたココが姿を現した。
「ココ!」
藤井が弾けたように叫んだ。
俺は二匹を地面に下ろし、モンブランが咥えていたココを離すと、藤井に手渡してやった。
「ココ、よかったー!」
ぎゅっとココを抱きしめ、頬ずりをしながら藤井が喜びの声を上げる。
みんな口々に「やった」とか「よかった」とその光景を見て言っている。
俺はモンブランの紐を解いてやりながら、「よくやった」と褒めてやった。
「えっへん。今日の私、大活躍でしょ!」
胸を張って自慢気に言う。
「ああ、お前は本当にえらいやつだ。
見直したよ。」
さらに胸を張るモンブランに、動物達が声をかける。
「やるじゃねえか、格好よかったぜ。」
嬉しそうにマサカリ。
「気が強いだけじゃなかったんだな。
子猫を助けるとは大したもんだ。」
毒を含みながらカモン。
「モンブラン、えらい。
俺、感動した。」
感心したようにチュウベエ。
「私の思い付いたことを実行してくれるなんて。
さすがモンブランね。」
そして褒めるようにマリナ。
みんなから言葉を送られて、モンブランはとても満足そうだった。
そしてみんなでわいわい喋り出すのを見ていると、ケンゾウが俺の隣にやってきた。
「子猫、助かってよかったな。」
それだけ言うと、ケンゾウは夜の街に去って行った。
俺はその背中に、ありがとうと呟いた。
「真奈ちゃん、ココ、よかったね。」
モモが泣きそうに藤井の前で笑いながら言っている。
藤井はモモも一緒に抱きかかえ、二匹を強く抱きしめながら笑顔のまま泣いていた。
助かってよかったな、ココ。
そう思い、藤井とココとモモが抱き合う光景を、いつまでも見ていたい気分だった。
やがて藤井はモンブランに顔を向け、「ありがとう」と嬉し泣きしながら言った。
「当然のことをしただけよ。
ココが助かってよかったね、藤井さん。」
「うん」と言って笑って頷き、みんなにもお礼を言った。
動物達は照れくさそうにしながら、その言葉を受け取っていた。
「有川君。」
猫達を抱いたまま、藤井が立ち上がって俺の前に寄って来る。
俺も立ちあがり、寄って来る藤井の顔を見た。
「本当にありがとう。」
涙で赤くなった目で、大きく笑顔を作りながらそう言われた。
「うん。本当にココが助かってよかった。
俺も安心したよ。」
藤井は俯き、それから顔を上げて、真剣な表情で言った。
「感謝してる。みんなにも、有川君にも。
もし有川君に助けてもらえなかったら、きっとまだ一人で泣きながらココを捜していたと思う。
私を支えてくれて、ココを助けてくれたのは有川君だよ。
有川君は、いつだって私を助けてくれる。
感謝してもしきれないよ。
ありがとうって言葉だけじゃ足りない。」
動物達がニヤニヤしながら俺を見ている。
俺は少し顔が赤くなり、それを誤魔化すように咳払いをした。
「まあ、なんだ。
お前は同盟の仲間だからな。
困った時は放っておけないさ。
その、何だ。
とにかくよかったな。」
何だかしどろもどろになってしまったが、藤井は笑ってそんな俺を見ていた。
そしてもう一度「ありがとう」と言われた。
俺は赤面したまま、藤井に背中を向け、大きく背伸びをしてから言った。
「それじゃ、帰るか。」
先に歩き出す俺にみんなついてきて、街灯で明かりがあるのに、俺は懐中電灯で前を照らしていた。
ココが見つかって本当によかった。
怪我はしているみたいだけど、命に関わるようなものじゃないだろう。
そして何より、藤井の笑顔が見れた。
ココが戻ってきたことで、藤井はまた笑っている。
そのことが一番嬉しかった。
モモは地面に下ろしたようで、ココだけを抱いた藤井が俺の隣に駆け寄ってくる。
横に並ぶと、二コリと笑顔を向けてきた。
俺も照れながら笑顔を返すと、藤井が空いている方の手で、また俺のシャツの裾を握ってきた。
俺は戸惑いながらもそれに手を重ね、しばらくそのまま歩いた。
いつか自然に、藤井と手を繋げる日がやって来るのだろうか。
俺は星が輝く空を見ながら考えた。
「有川君。」
藤井に呼ばれ、その顔を見た。
「ありがとう。」
優しく、暖かい声だった。
俺は心に涼やかな風が吹き込むのを感じて、「うん」と微笑みながら頷いた。
みんなで夜の街を歩いた。
横に藤井がいて、周りに動物達がいて、俺はなんだかとても幸せだった。
月明かりが先を行く道を照らす。
夜風が優しく俺達の間を駆け抜けて行く。
藤井に重ねた手を握ると、俺のシャツの裾を離して握り返してきた。
心に吹いた涼やかな風は、暖かい陽射しへと変わって俺の心を照らしていた。

                             最終話 もう少しつづく

 

 

 

 

 

 

 

勇気のボタン 最終話 勇気を出して(5)

  • 2010.06.23 Wednesday
  • 10:43
 みんなでドタドタとマンションの階段を駆け降りる。
途中でつまずきそうになった藤井を支え、急いでマンションの前まで出てきた。
茶トラのケンゾウが植え込みの所で座って、俺達を待っていた。
「あなたがココの居場所を知ってるのね!」
藤井はケンゾウに近づいて、声を弾ませながら聞いた。
「ああ、この先にある公園の、もっと先にある空き地にいた。」
それを聞いた藤井は胸の前で手を組んで飛び上がり、それからケンゾウの手を取って喜んた。
「あの猫がお前の言ってたやつか?」
マサカリが隣に来て尋ねてくる。
俺は頷き、喜ぶ藤井を見ていた。
ケンゾウからココを見つけたと知らせを受け、俺はすぐに藤井の部屋に駆けあがってこのことを伝えた。
みんな驚いて俺を見た。
藤井は弾かれたように立ちあがり、「本当!」と目を大きくして聞いてきた。
俺は近づいて「本当だよ、一緒に捜してくれていた猫が見つけてくれたんだ」と藤井の両肩に手を置いて言った。
藤井は俺の手を取り、興奮しながら「何処にいたの?」と食いつくように聞いてくる。
そう言えばまだ場所は聞いていなかった。
俺はケンゾウのことを簡単に説明し、場所はまだ聞いていないけど、今マンションの前にいるから詳しいことを聞こうと言った。
そして藤井も動物達も一斉に階段を下りてきたというわけだ。
部屋を出る時、「私も連れて行って」とマリナが言ったので、俺の肩にはマリナが乗っている。
ケンゾウの手を取って喜び、「ありがとう!」とお礼を言ってから、藤井は「それで、ココは何処にいるの?」と顔を近づけて尋ねた。
ケンゾウは尻尾を振り、「そこのあんたが捜してた公園の、少し離れた所にある空き地だ」と俺の方を見ながら言った。
俺も公園の周辺は捜したはずだが、場所を聞くと捜索範囲の少し外にある空き地だった。
俺は悔しくなった。
もっと範囲を広げて捜していれば。
でも今はそんなことを言っても仕方がない。
ちゃんとケンゾウが見つけてくれたので、よしとしないと。
「ココは無事だった?」
心配そうに尋ねる藤井に、ケンゾウは困ったような顔を見せた。
そこで俺はふと思った。
もしココを見つけて、そして無事でいたならば、ケンゾウが一緒に連れて帰って来てくれているはずではないのか。
見つけるだけ見つけて、連れ戻すなんてことはしないなんて薄情な猫には見えない。
困った顔のケンゾウに俺は聞いた。
「もしかして、ココに何かあったのか。」
ケンゾウはコクリと頷く。
見る見るうちに藤井の顔が青くなっていった。
さっきまで喜んでいたのが嘘のように、じっと固まってしまった。
「真奈ちゃん・・・。」
モモが心配そうに藤井に頭を擦り寄せる。
藤井は何か言いたそうにしていたが、言葉になっていない。
きっと聞くのが怖いのだろう。
青い顔のままモモを抱き上げると、ぎゅっとその腕に力を込めていた。
「ココに何があったんだ?」
代わって俺が聞いた。
ケンゾウはまた尻尾をパタっと振り、そして重々しい口調で答えた。
「穴にはまっているんだ。」
「何?」
穴にはまっているとはどういうことだ?
俺は隣にいたマサカリと顔を見合わせた。
マサカリも不思議そうな顔をしていた。
俺達の顔をぐるっと見回したあと、ケンゾウは続けた。
「その空き地はたくさんのゴミが捨ててあってな。
よく猫が隠れていたりしていて、俺も時々行くんだ。
そこに誰が掘ったのか知らないが、穴があいているんだ。
入ったことなんて無いから分からないが、結構深いと思う。」
藤井がモモを抱きしめたまま、恐る恐る尋ねた。
「その穴に、ココがはまっているの?」
ケンゾウは頷いた。
「ああ、俺がその空き地を捜していた時、もしかしたらと思って穴の中に向かってココって名前を呼んでみたんだ。
すると中から返事があった。
お前、白地に顔の真ん中に黒い模様のある、目のクリっとしたココって猫だなって俺は尋ねた。
そしたら穴の中から、そうだよ、おじさんは誰って言葉が返ってきた。
だから姿は見ていないが、あの穴にはまっているのは、あんた達が捜しているココって子猫に間違い無いと思う。」
何てこった。
それでココは自分に家に帰って来れなかったんだ。
でもその穴の中にいるのは間違いない。
だったらロープでも何でも持って行って助けてやればいいだけのことだ。
「藤井。」
固まっている藤井は、ビクッとして俺の方を振り返った。
「今からココを助けに行こう。
お前の部屋に何か長い紐かロープみたいなものはあるか?」
藤井はおどおどしながらも、「ビニールの紐がある・・・」と呟くように答えた。
俺は藤井に近づき、また両手を肩に置いて言った。
「何落ち込んでんだよ。
穴にはまっただけじゃないか。
そんなもん紐でもロープでも持っていけばすぐに助けられるよ!」
泣きそうな顔になっていた藤井は「うん」と頷くと、モモを地面に下ろし、また俺の手を取って答えた。
「そうだよね。
何かあったわけじゃないもんね。
穴にはまっただけだもん。
すぐに助けられるよね。」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言う。
「当たり前だ。
きっとココもお前を待ってる。
すぐに助けに行こう。」
藤井は強く頷き、紐を取って来る為に自分の部屋に戻ろうとした。
「そう簡単に行くといいがな。」
するといきなりケンゾウが俺達を見てそう言ってきた。
「どういうことだ?」
訝しげに尋ねる俺に向かって、ケンゾウは目を鋭くして答えた。
何を言うつもりなのだろう?
俺も藤井もじっとケンゾウを見ていた。
「そのココってやつ、怪我をしているみたいだったぞ。」
「怪我だって?」
聞き返す俺の横で藤井がさっきより青い顔になっていた。
怪我をしている。
無事じゃないのか?
俺も不安になってきた。
藤井が俺の腕を握ってくる。
「怪我って、どういう怪我よ。」
固まっている俺達に代わって、モンブランが尋ねた。
ケンゾウはじろりとモンブランを睨む。
同じ猫につっけんどんな聞き方をされて気に障ったのかもしれない。
しかしモンブランはそんなことなど気にせず、「さっさと答えなさいよ」と逆に怒りを見せていた。
「気の強いメスだことだ。」
ケンゾウはそう呟き、そして俺達の方を見て話し始めた。
「前足が痛いって言ってたんだ。
血が出てるってな。
なんでだって聞くと、野良猫にやられたらしい。
あの穴にはまったのも、野良猫から逃げる為だと言っていたな。」
藤井が俺の腕を握る手に力をこめる。
「有川君・・・。」
見ると目に涙を浮かべていた。
「どうしよう、ココが・・・。」
俺はその手を取り、強く握り返して言った。
「大丈夫だ!
きっと大した怪我じゃないさ。
こうしている間にもココは俺達を待ってるんだ。
お前は早く紐を取ってきてくれ。」
藤井は泣きながら頷き、部屋へと戻って行った。
「ケンゾウ。
悪いけど俺達をそこまで案内してくれ。」
しかしケンゾウは尻尾を振り、そっぽを向いた。
「おい、ケンゾウ!」
ケンゾウは目を怒らせるようにして俺の方に向き直った。
鋭い目をさらに鋭くして言う。
「あのな、俺はお前達の仲間でも何でもない。
何でもかんでも協力してられるかよ。
俺もこれから用事があるんだ。
ココってやつはちゃんと見つけてやったんだ。
それで十分だろうが。
俺はパシリじゃねえんだ。
あまり勘違いするなよ。
後は自分達で何とかするんだな。」
そう言って背中を向け、ケンゾウは去ろうとする。
確かにケンゾウの言う通りだ。
こいつは善意の協力者で、何でも俺達の頼みを聞く義理は無い。
場所は聞いたことだし、あとは何とかなるだろうと俺は思い、ケンゾウにお礼を言おうとした時だった。
モンブランがケンゾウに飛びかかり、その尻尾に噛みついた。
「ぎゃっ!」と声を上げてケンゾウが飛び上がる。
振り向いたケンゾウは「何しやがる!」と怒ったが、モンブランはその顔に猫パンチを浴びせた。
いきなりのことでケンゾウは驚き、目を丸くしていた。
モンブランは毛を逆立て、尻尾を太くして怒っていた。
目は吊り上がって、怒ったようにケンゾウを睨んでいる。
「あんたねえ!オスのくせに金玉の小さいこと言ってんじゃないわよ!
これ以上は協力出来ないって?
何それ?
格好をつけてプライドを見せているつもり?
だったらちゃんちゃらおかしいわね。
情けないオスだったらありゃしない。
あんた見た感じボス猫でしょう。
だったら小さいことをぐちぐち言ってないで、乗りかかった船なんだから最後まで協力したらどうなのよ!
この器の小さい薄情猫!」
モンブランは威勢の良い啖呵をきった。
ケンゾウは目を丸くしてそれを見ていたが、やがて大声で笑い出した。
「ははは、こいつは気の強いメスだ。
気に入ったぜ。」
俺も動物達も、唖然としてその光景を見ていた。
「ふん、あんたなんかに気に入られても、ちっとも嬉しくないわよ。」
モンブランは吐き捨てるように言った。
それを聞いてケンゾウはまた笑った。
「ますます気に入ったぜ。
お前、俺の女にならないか?」
モンブランはべーっとしたを出して、「お断り!」と言った。
「私のことなんかどうでもいいのよ。
要はあんたが最後まで協力してくれるかどうかってこと。
どっちなのよ?」
モンブランにそう言われ、ケンゾウは相変わらず笑ったまま答えた。
「分かったよ。あんたに免じて最後まで協力するぜ。
気の強いメス猫さん。」
「ふん、最初っからそう言えばいいのよ。」
俺も動物達もモンブランの勢いに感心していた。
隣にいたマサカリが、「やっぱ怒らすと怖いやつだ」と小さく呟いた。
俺も同感だと頷く。
「どうしたの?
何かあったの?」
ビニールの紐の束を持って来た藤井が、唖然としている俺達を見て尋ねる。
「いや、何で無いよ。
ただみんなモンブランは格好いいやつだなあと思ってただけさ。」
俺の言葉に藤井は首を傾げて、モンブランを見た。
「うふ、何でもないのよ、藤井さん。」
恐ろしいやつだけど、確かにさっきは格好よかった。
マサカリと目を見合わせ、お互いモンブランは怒らせない方がいいと小さく言って頷いた。
「じょあ行くか。」
そう言ってケンゾウが歩き出す。
藤井は紐を持ったまま俯いていた。
「きっと大丈夫さ。
みんなでココを助けよう。」
俺は優しく微笑みかけた。
藤井は「うん」と頷き、顔を引き締めた。
先を歩くケンゾウの後を、俺と藤井、そして動物達みんなでついて行った。
陽がだんだんと沈みかけている。
俺は懐中電灯がいるなあと思っていると、「これ、役に立ちそうだから持ってきた」と藤井がポケットから小さな懐中電灯を取り出した。
以外と冷静な藤井に俺は安心し、二コリと笑ってみせた。
待ってろよ、ココ。
今助けに行ってやるからな。
ココの身を案じ、暗くなっていく空を見上げた。
気の早い星達が光を放っている。
歩きながら藤井が俺のシャツの裾を握ってきた。
俺は一瞬だけそれに手を重ねた。
暖かい感触が、手の平を通して伝わってきた。
その温もりをずっと胸に感じながら、俺達はココの所へ向かった。
きっとココも、この温もりを待っているだろうなと思いながら。

                                 最終話 まだつづく



勇気のボタン 最終話 勇気を出して(4)

  • 2010.06.22 Tuesday
  • 10:48

公園ではセミが鳴いていて、子供達が虫取り網を持って駆け回っている。
遊具で遊ぶ小さな子も何人かいて、その母親らしき人達が輪を作ってお喋りに興じている。
公園の隅には植え込みがあって、その木陰で野良猫が昼寝をしていた。
どっしりと構えるように飾られている大きな機関車を見上げ、藤井とここへ来た時のことを思い出していた。
俺が今来ている公園は、以前藤井とともに機関車の下に隠れている猫の親子に、子猫の里親探しをする為に説得しに来た場所だ。
あの時は二人の意見の食い違いで喧嘩をしてしまい、その後しばらく連絡を取らなかったことがある。
ただ逆に言えば、あの喧嘩があったからこそお互いの仲が深まった気もする。
俺は機関車に近寄り、下を覗いてみたが、猫は一匹もいなかった。
一匹だけ子猫を藤井に預け、あの親子は何処かへ去ってしまった。
今頃どうしてるのかは分からないが、幸せでいてくれればいいなと願って、俺は目を細めてあの親子のことを思い出した。
俺はゆっくり腰を上げ、頭の中を猫の親子からココに切り替えると、ゆっくりと公園を見渡した。
子猫の姿を捜すが、ざっと見た限りではいないようだ。
遊具で遊ぶ子供達が声をあげて笑い、それを見た母親達も同じように笑っていた。
「どっかに隠れてるんじゃねえか。」
カモンの言う通り、ざっと見渡しただけでは分かるはずもない。
俺は植え込みで昼寝をしている猫に近づき、話しかけてみた。
「やあ、お昼寝中悪いね。」
白地に茶色のまだら模様のあるその猫は、ぎょっとして顔を上げた。
もう自分が動物と話せるということは省略してもいいだろうと思い、説明はしなかった。
いちいち面倒だ。
「実は子猫を捜しているんだ。
白地に顔の真ん中だけ黒い模様のある、目のクリっとした子猫なんだけど、見かけなかったかな?」
まだら模様の猫は面倒臭そうに鼻を鳴らし、俺とカモンを交互に見ると、「見てない」とだけ短く答えた。
「無愛想なやつだな。もうちょっと愛想良く返事をしたらどうだ。」
カモンが文句を言うと、まだら模様の猫はじっとカモンを見た。
「何だよ?」
カモンが挑発気味に言い放つ。
まだら模様の猫はゆっくり立ち上がると、「美味そうだな」と言った。
カモンはすぐさま胸ポケットに頭を引っ込めてしまった。
俺は笑いたくなるのを抑え、「昼寝を邪魔して悪かった」と言ってその猫を後にした。
胸ポケットの中で丸くなっているカモンを撫で、「もう大丈夫だぞ」と声をかける。
カモンは窺うように顔を出し、猫の姿が見えないことを確認するとホッとしたような顔をした。
俺はそれを見て吹き出し、またカモンを撫でた。
「笑いごとじゃねえ。
危うく食われる所だったぜ。」
「挑発したのはお前の方だろ。」
「いや、まあ、そうだけど。
でもあの猫は愛想ってもんがねえ。
もうちょっと気持ち良く返事してもいいだろ。
だいたいこの俺を見て美味そうだなんて。
俺は野良猫の餌じゃねえぞ。」
猫がいなくなると急に勢いを取り戻し、あれやこれやと文句を言っている。
勝てない喧嘩を自分で売ったくせに、お調子者なやつだ。
「でも猫から見たら確かにお前は餌でしかないかもな。
あんまり挑発してると、いつか野良猫の胃袋のおさまってるかもしれないぞ。」
「縁起でもないことを言うな!」
そう言ってまた頭を引っ込めてしまった。
俺は声に出して笑い、「冗談だよ」と言うと、公園の奥に向かって歩き出した。
おそらくここにはいないだろう。
隠れられそうな場所もないしな。
そう思い、公園の奥に続く道へと行ってみることにした。
機関車を通り過ぎて奥へ進むと、その先は遊歩道のようになっていた。
周りは木立で囲まれている。
所々にベンチが見えるが、座っている人はいなかった。
何人かが歩いているのが見えて、俺もその先に進むことにした。
辺りを注意して見ながら歩く。
猫の隠れられそうな場所を見つけると、近寄って捜してみた。
そんなふうにしながら遊歩道を歩いていると、近くにベンチの下から猫が一匹出てきた。
大きな茶トラの猫だった。
あれは昨日話しかけた猫に間違いない。
「やあ、昨日はどうも。」
茶トラの猫は振り返り、俺を顔を見ると、「ああ、あんたか」と言った。
覚えていてくれたようだ。
「まだ子猫を捜してんのかい?」
「ああ、この公園と、その周辺を捜そうと思ってるんだ。
君はあれから子猫は見てないか?」
俺の言葉に茶トラの猫は首を振った。
「見てないな。
昨日あんたと会ってからずっとこのここにいたんだが、子猫なんて一匹も見かけなかった。」
「そうか・・・。」
落胆する俺の声を聞いて、茶トラの猫は質問をしてきた。
「その子猫、あんたの飼い猫なのか?」
茶トラは鋭い目で尋ねてくる。
「いや、友達の猫なんだ。
昨日からいなくってるんだよ。
さっき公園を見たけどいなかった。」
「そうか・・・。」
茶トラは渋い声でそう言った。
中々どっしりとした力強い雰囲気を醸し出している。
ここら辺のボス猫なのかもしれないと俺は思った。
「俺はケンゾウっていうんだ。
ここら辺を仕切ってる。」
やっぱりか。
以前会ったゴロ助といういかにも喧嘩が強そうで、貫禄のある猫と同じ雰囲気だった。
ケンゾウはシュシュっと顔を擦ったあと、俺の目を見て聞いてきた。
「その子猫、確か白地に顔の真ん中に黒い模様のある、目のクリっとした子猫だったな。」
よく覚えている。
俺は感心して「そうだよ」と答えた。
「まだ子供だからそう遠くへは言っていないと思うんだ。
俺の他にも手分けして捜している仲間がいる。
見つかるといいんだけど・・・。」
茶トラは俺の言葉を聞いて何か考え込んでいるようだった。
何か知っていることでもあるのだろうか?
俺は期待して茶トラの言葉を待った。
「悪いがやっぱり子猫を見たなんて記憶は無いな。」
俺はがくりと首を落とした。
そして茶トラに別れを言い、その場を去ろうとした時、「ちょっと待て」と呼び止められた。
俺は振り返って茶トラを見た。
茶トラは俺の方に近づき、顔を見上げて言った。
「その子猫の名前、なんて言うんだ?」
俺は胸ポケットのカモンと顔を見合わせた。
いきなり何を質問してくるんだろうと不思議に思いながらも、ココの名前を告げた。
茶トラは「ココ」と一回呟き、そして「よし、分かった」と言って大きく尻尾を振った。
大きくて、長くて、立派な尻尾だった。
「そのココを捜すのを、俺も手伝ってやろう。」
「本当か?」
俺は声を上げて聞いていた。
茶トラは大きく頷き、もう一度尻尾を振ると言った。
「俺が仕切ってるこの辺の猫に捜させてみる。
もちろん俺も捜すがな。」
渋い声でメリハリのある口調だった。
俺は思わぬ協力者に喜び、「助かるよ!」と笑顔で答えていた。
「もし見つけたら、昨日のマンションの所まで教えに行けばいいんだよな。」
茶トラは鋭い目を、少し柔らかくして言う。
「ああ、そうだ。
夕方には他に捜してる仲間とそこに集まることになっているから、何か分かったらその時に来てくれたらいい。」
茶トラはニコっと笑い、「分かった」とだけいうと、立派な尻尾を振りながら去って行った。
やった。
俺は思った。
捜す要員は多い方がいい。
彼はボス猫だから、他の猫達も動かしてくれる。
俺は期待に胸を膨らませ、茶トラが去って行った方を見ていた。
「さっきの無愛想な猫とはえらい違いだな。」
カモンが頭を出してきて言う。
猫が怖かったのか、茶トラと話している時は、顔を少し引っ込めながら窺うように外を見ていた。
「ああ、心強い味方が出来た。
これでココを見つけられる確率が上がる。」
俺は喜々としてそう言い、それからも遊歩道を捜し続け、そして公園の周辺を捜し続けた。
ココが隠れられそうな場所はシラミ潰しに捜した。
ココの名前を呼び、狭い場所に入ったりして、もしかしたらここにいるんじゃないかと期待しながら。
途中喉が渇いたので自販機でジュースを飲み、そう言えば昼飯を食べてないやと思い出し、でも今はそんな場合じゃないと思いながらひたすらに捜し続けた。
そして気が付くと、もう陽が傾むき始めていた。
あと少し捜したら、一度マンションに戻ろう。
そう思いながら捜している時、他のみんなはどうしているだろうと思った。
誰かが見つけたなら、きっと俺を捜して報告してくるに違いない。
でもそれが無いってことは、みんなも成果が無かったということなのだろうか。
残り少ない時間の捜索も虚しく、ココは見つけられなかった。
「マンションへ戻るか。」
カモンの言葉に頷き、俺は一度マンションに戻ることにした。
戻る途中、落胆した気持ちを抱えながら空を見た。
薄く夕焼け色に染まる空を見て、どうか他の誰かがココを見つけてくれているようにと願った。
セミの声を聞きながらマンションまで戻ると、モンブランとモモ、そしてチュウベエが待っていた。
俺は駆け寄って「どうだった?」と声をかける。
しかしみんな首を横に振った。
「私達も一生懸命捜したんだけど、ダメだった。」
モンブランが俯いて、呟くように言った。
隣でモモのしゅんと項垂れている。
「俺、空から見た。
たくさん飛んだ。
でもココいなかった。」
チュウベエがパタパタっと飛んできて俺の肩にとまる。
チュウベエもダメか。
残るは藤井とマサカリのペアだけだ。
俺は祈るようにして藤井達を待った。
陽が傾いて、オレンジ色にマンションを照らしている。
みんな藤井達に期待を寄せている。
俺は植え込みに腰掛け、その隣にモンブランとモモが座った。
藤井を待つ時間がとても長く感じられる。
そして俺がケータイで時間を確認しようとした時、遠くから犬を連れた人影が現れた。
西陽に照らされ、赤くそまる人影は、俺達に気付くと駆け足で寄ってきた。
藤井とマサカリだった。
俺は立ちあがり、藤井が走って来るのを見ていた。
ココを連れている様子は無い。
俺達の元まで来ると、藤井は息を切らしながら聞いてきた。
「みんな、ココは?」
誰もが首を横に振った。
それを見た藤井はひどく落胆し、唇を噛んで俯いてしまった。
自分達が見つけてなくても、他の誰かがきっと見つけてくれているはず。
みんながそう思っていた。
そして、誰もココを見つけられなかった。
重い沈黙がその場に流れる。
藤井は力無く植え込み座ると、両手で顔を覆ってしまった。
マサカリが鼻を近づけて藤井を慰めようとしていた。
みんなダメだったか。
そう思った時、俺はふと思い出した。
「マリナは?」
みんが一斉に俺を見る。
「もしかしたら留守番しているマリナの所に帰って来ているかもしれない。
確認してみよう。」
俺の言葉に藤井は弾かれたように立ちあがり、部屋の鍵を開けた。
俺達は部屋に入り、窓際にいるマリナに聞いた。
「ココは帰って来なかったか。」
俺の問いにマリナは「いいえ」と短く答えた。
「ずっとここにいたけれど、戻って来なかったわね。」
そう言われながらも俺達は家の中を捜した。
しかしマリナの言う通り、ココの姿は無かった。
また重い沈黙が訪れる。
藤井はテーブルの前に座り込み、背中を震わせて泣き始めた。
みんなそれを黙って見ていた。
何て言葉をかけていいのか分からず、俺はただ藤井の背中を擦った。
「うう・・・、う・・・。」
藤井の泣き声が聞こえる。
俺はふうっと息を吐き出すと、藤井に向かって言った。
「まだだ。まだ終わったわけじゃない。
もっと捜せばきっと見つかる。」
しかし藤井は動く気配はなかった。
きっと見つかると信じて臨んだのに、誰もココを見つけられなかった。
そのことが、藤井に重くのしかかっているんだろう。
「みんな、まだ今日は終わってない。
もう一度捜そう。」
そう言うが、動物達も黙ったまま返事をしない。
みんな出来るだけのことはした。
今さらもう一度捜しても結果は同じなんじゃないのか。
そう思っているのだろう。
俺だって、その思いはある。
けど、このまま諦めたくない。
俺は藤井と動物達を残し、マンションの前に出た。
いいさ、俺一人でも捜してやる。
そう思って歩き出そうとしたとき、背後から「おい」と呼びかけられた。
振り向くと、あの茶トラだった。
相変わらず鋭い目に、渋い声だった。
茶トラは堂々とした足取りで俺に近づくと、顔を見上げて言った。
「見つけたぞ。」
俺は一瞬固まり、返事が出来なかった。
「お前の言っていたココってやつ、見つけたと言ってるんだ。」
もう一度そう言われ、俺は弾かれたように聞き返していた。
「本当か!?本当に見つけたのか?」
俺の言葉に茶トラは頷き、立派な尻尾を振った。
「そうか!ありがとう!
ちょっとここで待っててくれ。」
俺は喜びとも興奮ともつかない気持ちでマンションの階段を駆け上がっていた。
藤井に知らせなくては。
汗でびっしょりになった服も気にせず、藤井の部屋を目指した。
いたぞ!見つかったぞ!藤井。
俺は跳ねるようにして階段を駆け上がると、藤井の部屋に前に立った。
ドアを開ける手に力がこもる。
唇が少し震えている。
俺の心臓は、飛び跳ねんばかりの鼓動を打っていた。

                                 最終話 さらにつづく

 

勇気のボタン 最終話 勇気を出して(3)

  • 2010.06.21 Monday
  • 10:44
 通りを歩いていく俺達を見て、すれ違う人達が何事かと振り返る。
好奇の視線を感じながら、それでもそんなことは気にすることなく歩き続けた。
首にかけたタオルで汗を拭い、暑い陽射しの中を早足で目的地まで向かう。
青く晴れ渡る空を見上げ、藤井とココのことを考えていた。
「なんか俺達じろじろ見られてるなあ。」
先を歩くマサカリが、暑さで舌を出しながら言う。
「そりゃあそうよ。こんなに動物を連れて歩いているんだもん。」
俺の横をトコトコ歩いていたモンブランが、マサカリの隣に駆け寄って答えた。
「やっぱりイグアナの肩に乗せてるってのが珍しいんだろ。」
汗で濡れる俺の胸ポケットの中で、カモンが暑そうに顔を出してマリナを見る。
「そうよねえ。やっぱり私は目立つわよねえ。」
きょろきょろと目を動かしながら、マリナは落ち着かない様子で俺の肩に乗っていた。
爪が食い込んで少し痛い。
「みんなでお出かけ。初めて。」
頭の上でぴょんぴょん飛び跳ねながらチュウベエは嬉しそうにしていた。
「遊びにいくわけじゃねんんだぞ。
真奈子の大事な猫がいなくなったんだ。
気合を入れて捜さなきゃならねえ。」
はしゃぐチュウベエをたしなめるようにマサカリは言い、肉厚の顔をきりりと引き締めてチラリとこちらを振り返った。
俺はもう一度タオルで汗を拭い、動物達のやり取りを聞きながらもう少し足を速めた。
昨日家に帰ってから、ココ捜しに協力してくれと動物達に頼んだ。
みんなココのことを心配し、藤井の力になりたいと言ってくれた。
「真奈子が悲しがってんだ。
協力するに決まってんだろ。」
マサカリは胸を張って言った。
「ココって子はまだ子供なんでしょ?
藤井さん心配でしょうね。
私達で出来ることがあったら力になるわよ。」
モンブランもマサカリの言葉に同意する。
俺は頭を下げて、「ありがとう」と言った。
「俺が言っても何の役に立つか分かんねえけどよ。
でもじっととはしてられねえよな。
そのココってやつを見つけて藤井を安心させてやろうじゃねえか。」
カゴの中のブランコから降り、テーブルの上に出てきてカモンが俺の顔を見上げた。
俺はカモンを手に乗せ、「頼りにしてるぞ」と顔を見ながら言った。
「俺、きっと役に立つ。
空からココを捜す。
絶対に見つけてみせる。」
チュウベエは力を込めて言い、俺の頭の上に乗ってきた。
確かに空からの捜索は期待できそうだ。
「頼むぞ。」
そう言われたチュウベエは嬉しそうに頭の上で羽をパタパタさせた。
「みんな行くのに私だけ行かないわけにはいかないわよね。
みんなと一緒に捜すのは無理かもしれないけど、藤井さんの部屋でお留守番くらいだったら出来そうだわ。」
窓際でそう言うマリナにも「ありがとう」とお礼を言い、明日はみんなでココを捜そうということになった。
動物達はみんな藤井のことが好きである。
だからその藤井が悲しむのであれば、それを解決する為に勇んで力を貸すと言ってくれたことに、俺は心から感謝した。
「みんな、本当にありがとう。
明日はよろしく頼む。」
また頭を下げて俺は言った。
「礼を言うのはそのココってやつが見つかってからだ。
おい、みんな。
明日は気合を入れてココを捜そうぜ!」
「おー!」
そして今日、俺達は藤井のマンションに向かっている。
これだけの動物を電車に乗せるわけにはいかないので、歩いて向かうことになる。
徒歩だと一時間くらいかかるが、今日はそんなことは苦痛だとは思わなかった。
気合の入った動物達ともくもくと歩き続け、ついに藤井のマンションの前まで辿り着いた。
体から吹き出る汗を拭い、ケータイで藤井に連絡を入れた。
数回のコールの後、電話は繋がった。
「もしもし、今みんなと一緒にマンションの前まで着いたよ。」
俺がそう言うと、藤井は「分かった」と短く返事をした。
「すぐに出るからちょっと待ってて。」
そう言って電話を切り、俺は昨日と同じ植え込みに腰掛けた。
「私達は一度来たことがあるけど、カモンとマリナはここへ来るのは初めてよね?」
モンブランが俺の隣に座って二匹に言った。
「そうだな。
ここが藤井の住んでる所か。
悠一のアパートとはえらい違いなだな。」
お前達の餌代や病院代がなければ、俺だってもう少しマシな所に住めるさと思ったが、それは口に出さずにおいた。
「私、人様の家に来るなんて初めてだわ。
なんかドキドキする。」
マリナが肩でせわしなく動く。
俺は昨日街灯に照らされていた道を眺め、藤井が出てくるのを待った。
今日は見つかるだろうか。
そう自分に尋ねてみる。
いやいや、見つかるかじゃなくて絶対に見つけるんだ。
自分にそう言い聞かせた所で、藤井がモモと一緒にマンションから出てきた。
「おはよう、みんな。」
出てきた藤井はみんなに笑顔でそう言い、俺の傍に来て言った。
「今日はありがとう。
みんな協力してくれるんだね。」
「ああ、ココを捜す為にみんな気合が入ってるよ。
今日は絶対に見つけような。」
俺は立ちあがってそう言った。
藤井は昨日は寝ていないのかもしれない。
目の下にくまがあった。
もしかしたら、俺が帰ったあとも一人でココを捜していたのかもしれない。
俺は迷った挙句、昨日と同じように藤井の手を優しく握った。
「絶対にココは見つかるから。
きっと無事だから。
今日の夜にはまた一緒にいられるさ。」
藤井は手を握り返してきた。
小さく、柔らかな手の感触が伝わってくる。
「うん、ありがとう。」
藤井は俯いてそう言い、それから顔を上げて笑いかけてきた。
俺も笑い返し、ぎゅっとその手を握った。
そしたら膝のあたりにドスンと何かがぶつかってきた。
マサカリだった。
「おいおい、お前ら。
いつからそんな仲になったんだよ。」
ニヤニヤ顔で冷やかすように言ってくる。
見ると他の動物達も同じような顔つきになっていた。
「悠一も隅に置けないわねえ。
ちゃんと藤井さんとの仲を深めてたのね。」
モンブランにそう言われ、俺達は赤面して手を離した。
「なんだよ。そのままキスまでもってっちゃえばいいのに。」
胸ポケットでそう言うカモンの頭を押し込め、俺は咳払いをしてからみんなを見た。
「えーっと、じゃあ今からココの捜索を始める。
みんなまとまって動いても効率が悪いから、それぞれ別れて捜そう。」
俺の言葉にみんが頷き、それを確認してから言った。
「じゃあまずチュウベエは空から捜してくれ。
マンションの北側を頼む。」
「分かった。任せとけ。」
チュウベエが頭の上で勢い良く飛び跳ねる。
「じゃあ次、モンブラン。
マンションの西側を捜してくれ。」
「うん、了解!」
そう言った所で藤井が「ちょっと待って」と言ってきた。
「何だ?」
見るとモモを抱えて立っていた。
「この子あんまり外に出したことがないの。
だから一匹で行動させるのは不安なんだけど。」
その言葉に、「真奈ちゃん、私なら大丈夫だよ」とモモが言う。
「ダメ。もしあなたまでいなくなっちゃったらどうするのよ。」
ココがいなくなったことで、藤井は神経質になっているんだろう。
もしモモまでいなくなったらという藤井の不安はよく分かる。
「分かった。
じゃあモモはモンブランと一緒に行動させよう。
モモを頼むぞ、モンブラン。」
モンブランは「任せてよ」と言い、モモの近くに寄った。
「藤井さん。
私と一緒なら大丈夫だよ。
モモちゃん、一緒にココを捜そうね。」
モンブランの言葉に藤井も頷き、モモを地面に下ろした。
「モモをお願いね、モンブラン。」
そう言ってモンブランの頭を撫で、モモに「しっかりね」と付け足した。
「よし、じゃあ次は藤井とマサカリ、マンションの南側を頼む。」
「よっしゃ!俺が絶対見つけてやるぜ。」
意気込んで鼻息の荒いマサカリの紐を藤井に渡し、「絶対見つけような」と顔を見て言った。
紐を受け取った藤井は強く頷き、「うん、有川君もお願いね」と言葉を返してきた。
「じゃあ俺とカモンはマンションの東側だな。
公園を中心に捜そう。」
胸ポケットから顔を覗かせたカモンは鼻をひくひくさせていた。
「俺が何の役に立てるか分かんねえけど、まあやれることはやるか。」
確かにカモンが何の役に立つかは俺も分からない。
けどやる気はあるようだ。
俺はカモンの頭を撫でて笑いかけた。
「私はお留守番ってことでいいのかしら。」
肩の上からマリナが問いかける。
「そうだな。
可能性は少ないけど、もしかしたらココが家に帰ってくるかもしれないからな。
お前は藤井の家で待機していてくれ。」
それを聞いた藤井は思いだしたように言った。
「じゃあトイレの上の窓を開けとくね。
閉め切ったままじゃココも帰ってこれないだろうから。」
そう言って部屋に戻る藤井にマリナを預けた。
「モンブランとチュウベエはもしココを見つけたらすぐに家に帰るように言って、一緒に戻って来てくれ。
何かあったらすぐに俺か藤井を見つけて報告すること。」
「うん、分かった。」
「了解。」
モンブランとチュウベエの返事を聞き、俺は頷いた。
ケータイで時間を確認すると午前9時だった。
時間は十分ある。
俺はケータイをしまって空を見上げた。
そして藤井が部屋から戻ってきた所で俺は言った。
「みんな、ココは子供だからそう遠くへは行ってないはずだ。
捜せばきっと見つかる。
夕方にもう一度ここへ集まろう。
みんな力を合わせてココを捜そう!」
動物達が一斉に「おー!」と声を上げ、チュウベエは北の空へ、モンブランとモモは隣の家の塀を飛び越えて、マンションの西側へと走って行った。
「じゃあ俺達も行こうか。」
去って行った動物達を見送る藤井に声をかけた。
「うん・・・。」
藤井は俯いて、力無い声で頷いた。
マサカリの紐を両手で持ち、不安気に顔を曇らせていた。
「有川君、ココ、きっと見つかるよね。」
俺の顔を見上げ、訴えるような眼差しを向けてくる。
俺は笑顔になって藤井の背中を優しく叩いた。
「大丈夫だ。
きっと見つかるさ。
ココもきっと家に帰りたがってるに違いない。
早く見つけて安心させてあげよう。」
俺の言葉に藤井は頷き、顔を引き締めて言った。
「そうだよね。
はやく見つけてあげなくちゃ。
不安になってる場合じゃないよね。」
藤井はマサカリの頭を撫でると、「きっとココを見つけようね」と言った。
「おう!俺がついてれば大丈夫だぜ。
真奈子は安心して俺について来いよ。」
何処からくるのか分からない自信でマサカリは胸を張って言った。
それを見た藤井は笑って「頼りにしてる」と答えた。
「じゃあ行ってくるね。」
そう言い残して藤井はマサカリと共に歩いて行った。
「よっしゃ!俺らも行くか。」
カモンに促され、俺達も藤井とは反対の道を歩き始めた。
大丈夫さ、きっと見つかる。
ココを連れて帰るんだ。
そして藤井を安心させるんだ。
自分にそう言い聞かせ、暑い陽射しの中を東側の公園へと向かう。
溢れる汗をタオルで拭い、胸ポケットのカモンを撫でる。
カモンは頭を出して、前を見ていた。
ココの顔を思い浮かべ、そして藤井の顔も思い浮かべた。
ココを抱いて笑顔になる藤井を見なくてはならない。
俺は藤井には笑っていて欲しい。
そう思いながら、もう残り短い夏の道を歩いた。
胸の中では、笑顔でココを抱く藤井を思い描いていた。

                              最終話 またまたつづく



勇気のボタン 最終話 勇気を出して(2)

  • 2010.06.20 Sunday
  • 10:45
 早く駅に着いてくれと願いながら、流れる窓の外を見ていた。
暗い街に明かりが灯り、過ぎ去っていく光を眺めながら電車が揺れる音を聞いていた。
乗っている人は少なく、席に空いているのに俺は出入り口の所に立っていた。
早く藤井の所に行きたいと思う気持ちが、俺を席に座らせることなくこの場所に立たせていた。
きっと藤井は今も泣きながらココを捜しているんだろう。
あれほど可愛がっていたココ。
その姿が見当たらないという不安は、藤井にとっては相当なものだろう。
早く行って少しでも安心させてやりたい。
そして一緒にココを捜してやりたい。
家を出た時からそのことばかりを考えていた。
やがて電車がスピードを落とし、駅に到着した。
俺は空いた出入り口から飛び出すようにして駆け出し、改札を抜けると藤井のマンションを目指して走った。
流れる汗にはかまわず、全力疾走した。
藤井のマンションの近くまで来ると、俺はケータイを取り出した。
すぐに藤井を呼びだす。
「もしもし」
電話にすぐに繋がった。
俺は呼吸を整え、今マンションに着いたと知らせた。
「今近くの公園を捜してた所なの。
すぐにそっちに戻るね。」
まだ涙声で藤井はそう言う。
「分かった。
マンションの前で待ってる。
夜だから気をつけて来いよ。」
心配する俺の言葉に「うん、ありがとう」と返し、電話を切った。
マンションの前では街灯が道に明かりを投げかけている。
明かりに照らされた道を、一匹の猫がトコトコ歩いて行く。
茶トラの大きな猫だった。
俺はその猫を捕まえ、ココのことを聞いてみた。
「やあ、こんばんわ。ちょっと聞きたいことがあるんだ。」
例のごとく、自分が動物と話が出来ることを伝え、子猫をこの辺りで見なかったか聞いてみた。
「白地に顔の真ん中だけに黒い模様があって、目がクリっとした子なんだ。
そういう子、見てないかな?」
尋ねられた猫は首を振った。
「知らないなあ。
俺はさっきここに来たばかりだから。」
「そうか・・・。」
もしかしたら何か知っているかもと思って聞いてみたが、ダメだったようである。
俺は明らかに落胆した声で返事を返し、目を曇らせた。
「力になれなくてすまんね。」
茶トラの猫はそんな俺を見て申し訳なさそうに言い、またトコトコと歩いて街灯の照らす道を去って行った。
俺はマンションの植え込みに腰を下ろし、藤井が戻ってくるのを待った。
藤井も走ってこっちに向かってるのかな?
俺から公園の方に行ってやればよかったかな?
そんなことを考えながら、目の前の道を眺めていた。
ココはまだ子供。
そう遠くへは行っているはずがない。
藤井と二人で捜せばきっと見つかる。
そう自分に言い聞かせていると、誰かが走ってくる足音が聞こえた。
俺は植え込みから腰を上げ、その方向を見た。
街灯に照らされた人影がこちらへ近づいてくる。
はっきりとは見えないが、女性であることは分かった。
俺は藤井に違いないと思い、そっちに向かって走り出した。
近づくに連れて人影が姿を現わし、俺は手を上げて近寄った。
「藤井!」
向こうも俺を確認すると足を速めて「有川君!」と言った。
藤井は駆け寄って来て、手を伸ばして俺の手を掴んだ。
「有川君ー!」
俺の顔を見て声をあげて泣きながら藤井は顔を歪ませた。
街灯の明かりで見える藤井の目は、泣き腫らして真っ赤だった。
俺の手を掴む力を強め、ぎゅっと握りしめてくる。
「どうしよう、ココがいなくなっちゃったよお。」
「うえーん」と子供のように泣きだす藤井をなだめ、「とにかく一旦部屋に戻ろうと」促した。
片手は藤井の手を握ったまま、俺は空いた方の手で背中を擦りながら藤井の部屋へと行った。
藤井の手は、汗でびっしょりだった。
俺はその手を強く握り、ココの無事を願った。
「真奈ちゃん!ココはいた?」
部屋に入るなり、モモが出てきて心配そうに尋ねてきた。
藤井はぶんぶんと首を振り、モモの頭をそっと撫でると部屋の真ん中まで行って座った。
まだ握っていた手を話し、俺も藤井の前に腰を下ろした。
「有川さん、ココがいなくなっちゃったの。」
モモが俺の傍に寄ってきてそう言い、「分かってる」と優しく答えてからモモに聞いた。
「モモはココがいなくなったことに気付かなかったのか?」
モモはバツの悪そうな顔をして「うん」と答えた。
「私ちょうどお昼寝してたの。それまではココはいたんだよ。
でも目を覚ましたらココがいなくなってて。
家の中を捜し回ったけど、何処にもいなかったの。
そしたらトイレの上の小さな窓が開いてることに気が付いたの。」
「そうか。」
俺は短く答え、モモを膝の上に乗せた。
多分ココはその窓から出て行ったのだろう。
開いている小さな窓は、藤井が閉め忘れたに違いない。
けど、そこに入るにはトイレのドアを開けないといけない。
藤井はトイレのドアも閉め忘れたのだろうか?
藤井に尋ねようとすると、膝に乗ったモモが「私が悪いの」と言い出した。
「どういうことだ?」
俺が尋ねると、モモはさらにバツの悪そうな顔をして答えた。
「トイレのね、ドアの開けたのは私なの。」
「なんだって?」
俺は思わず聞き返していた。
「前にね、モンブランがマサカリと喧嘩して家に来たことがあったじゃない。
あの時にね、ドアの開け方を教えてもらったの。
それで私も試してみようと思って、たまにドアを開けたりしてたの。
いつもは開けても閉めるんだけど、今日は閉めるのを忘れてて、それで・・・。」
なんてこった。
モンブランが余計なことを教えたばかりにこうなってしまったってことじゃないか。
ココがいなくなったことは俺にも責任がある。
とても藤井に申し訳ない気持ちになってきた。
「モモは悪くないよ。」
藤井が項垂れたままぼそっと言った。
「モモは悪くない。
私が悪いの。
私がトイレの窓をちゃんと閉めていればこんなことにはならなかった。」
そう言った藤井の目から涙がポタリと落ちる。
「私が悪いの。」
一度落ち始めた涙はあとからあとから続いて落ちてくる。
藤井はテーブルに顔を伏せ、また声をあげて泣き始めた。
「誰が悪いわけでも無いよ。
たまたま偶然が重なって・・・。」
「でもそれでココはいなくなったのよ!」
藤井が顔を上げて叫んだ。
顔をくしゃくしゃに歪ませ、涙で頬を濡らしながら、赤い顔で俺を見つめている。
「私がちゃんと窓を閉めていればよかったのに、もっと気を付けていればよかったのよ!
ココは最近やんちゃになってきてた。
だから窓が開いてればそこから外に出るかもって十分考えられたのに!
私が・・・、私のせいだ。」
再びテーブルに顔を伏せて泣き始めてしまった。
ココが心配で心配で仕方ない。
麻呂の時のように、もう戻ってこなかったらどうしよう。
藤井に気持ちが痛いほど分かり、気が付くと藤井の傍に寄ってその背中を撫でていた。
華奢な肩が震えている。
いなくなってそう時間が経っているわけでもなにのに、藤井の頭はココが戻ってこなかったらどうしようということでいっぱいなのだろう。
俺は何か言おうとしたが、かける言葉が見つからず、ただ藤井の背中を撫でていた。
藤井の呼吸が、手を通して伝わってきた。
俺は唇を噛み、何か藤井を安心させてやれる言葉はないかと必死に探していた。
何とかしてらりたい。
力になってやりたい。
俺は頭をフル回転させた。
「ごめんね。」
藤井が呟いた。
「有川君まで巻き込んでごめん。
私のせいなのに、私が悪いのに。
でも一人じゃ不安で仕方無かった。
誰かに助けてもらいたかった。
そうしたら、有川君しか思う浮かばなかったの。
ごめんね、こんな夜に呼びだして。」
謝る藤井の背中を撫でながら、俺は噛みしめた唇をほどいて言った。
「何言ってんだよ。
来るって言ったのは俺じゃないか。
それにな、そんなに自分を責めるな。
誰でも窓の閉め忘れくらいするさ。
お前が悪いわけじゃない。
二人で協力して探せば、きっとココは見つかるさ。」
こんな言葉しか出てこなかった。
ありきたりな慰め言葉だと自分でも思った。
もっと気の利いたことを言えないものかと自分を恥ずかしく思った。
しかし藤井は俺の言葉を聞くと顔を上げ、「ありがとう」と言ってまた俺の手を握ってきた。
小さく、柔らかなその手を、俺は優しく握り返した。
その時、あたまにふと浮かんだことを俺は言っていた。
自分でも意識しないまま、それは言葉にしていた。
「みんなで探そう。」
「え?」
涙顔で俺を見る藤井に、笑顔を作って俺は言った。
「マサカリも、モンブランも、カモンも、チュウベエも、マリナ、そしてモモも、みんなで捜せばいい。
二人で捜すより、その方が絶対にいいに決まってる!」
じっと俺を見つめる藤井の視線を受け、俺はさらに笑って言った。
「みんなで捜すんだよ、ココを。
あいつらならきっと協力してくれる。
全員で力を合わせれば、きっとココは見つかるさ。」
藤井の手を強く握りしめ、俺は力強く言った。
そうだ。
そうだよ。
みんなで捜せばいいんだ。
あいつらなら喜んで力を貸してくれるはずだ。
俺は藤井の背中をポンポンと叩くと、「みんなで捜そう」ともう一度言った。
藤井は俺の顔を見つめたまま、「みんなで・・・」と呟いた。
「そう、みんなで。」
俺は背中を叩いた手で、空いている藤井の手を取り、その両手を握りしめた。
「明日連れてくるから。
俺達と動物達とでココを見つけよう。」
なんでだか分からないけど、それが一番の良い方法だと思った。
全員の力を合わせれば、きっとココは見つかると、俺は確信していた。
「真奈ちゃん、私も手伝うよ。
有川さんの言う通り、みんなで捜せばきっと見つかる。
ココはきっと無事だよ。
だからもう泣かないで。
そんなに泣く真奈ちゃんを見てると、私まで悲しくなっちゃう。」
「モモ・・・。」
藤井はしばらく俯いてから顔を上げ、「うん」と大きく頷いた。
「そうだよね。
泣いてなんかいる場合じゃないよね。
ココは私の家族だもん。
絶対に見つけてあげなきゃ。」
藤井は俺と握っている手に力を込め、もう一度強く頷くと言った。
「有川君、みんなにお願いしてココを捜してくれるように頼んでくれる?」
真っ赤なになった目で真剣に見つめられ、俺は笑顔で頷きながら「もちろんだ」と答えた。
そしてどちらからでもなく、握っていた両手を離すと、藤井は「有川君」と呼びかけてきた。
「いつもいつも力になってくれてありがとう。
本当に感謝してる。」
潤んだ瞳から一筋だけ涙が流れ落ちる。
藤井はそれを手で拭うと、ニッコリと笑って見せた。
「感謝されるのはココが見つかってからでいいよ。
明日、みんなでココを見つけよう。」
その言葉に藤井は笑顔で頷いた。
さて、今から家に帰ってあいつらにこの話をしなければ。
誰も嫌だなんて言わないだろう。
きっと喜んで協力してくれるはずだ。
「じゃあ、今日はもう家に帰るよ。
明日朝早く、あいつらを連れてくる。」
そう言って立ち上がる俺の手を取って、藤井は言った。
「もう少し、もう少しだけ傍にいて。」
もう涙は流れていない目で、藤井は俺を見つめてくる。
俺は「うん」と頷いて腰を下ろし、藤井と手を握ったまましばらく座っていた。
「私、もう少しココを捜してくる。
有川君も一緒に来てくれる?」
俺は「もちろん」と言って笑い、握った手を振ってみせた。
「ありがとう。」
それから俺達は夜の街でココを捜した。
けど、何処を捜しても見つからず、明日みんなで捜すことに望みをかけようと言って、その日のココ捜しは終わった。
藤井の部屋を出るとき、俺はもう一度藤井の手を握った。
「じゃあ明日。」
「うん、待ってる。」
そう言葉を交わし、繋いだ手を離すことに惜しみを感じながらも、俺は藤井の部屋を後にした。
駅に向かう途中、握った藤井の手の感触を思い出していた。
小さく、柔らかかった。
俺は自分の手をぎゅっと握りしめ、その感触を忘れないように心に刻んだ。
明日はみんなでココを見つけ出してみせる。
胸にそう誓い、街灯の照らす夜道を走った。
手の平には、握った藤井の手の感触がすっと残っていた。
俺は一旦止まって胸に手を当て、それからまた駅に向かって走り出した。
見上げた空は、星でいっぱいだった。

                                 最終話 たまつづく

勇気のボタン 最終話 勇気を出して

  • 2010.06.19 Saturday
  • 10:48
 八月ももう下旬になっているが、暑さはまだまだ続きそうだ。
セミの鳴き声がミーンミンミンの大合唱から、ツクツクホーシと間延びした歌い方に変わっている。
日が沈みかける河原沿いの道を、マサカリを連れて藤井と一緒に歩いていた。
この時間になれば、ほんの少しだけ暑さがおさまる。
川を吹き抜けていく風を心地よく感じながら、俺達は何気無いことを喋りながら笑っていた。
最近、同盟の活動以外でもよく藤井と会うようになった。
会えば動物の話しが大半を占めるのだが、以前は話さなかったようなプライベートな話も、少しづつではあるがするようになっていた。
次の同盟の活動は今の所決まっておらず、そのことも話題に上がるのだが、今藤井は家にいる猫のことを嬉しそうに語っていた。
「ココね、大人しい子だと思ってたら、結構やんちゃだったの。
自分の餌が終わるとモモの分を横取りしようとしたりしてたまに喧嘩になるのよ。」
風に振られる藤井の髪を見つめながら、俺は笑顔で頷いて答えた。
「そりゃあマサカリみたいだな。
いつかみたいに、マサカリと喧嘩してモンブランが家出したように、モモもそのうち家出しちゃうんじゃないか。」
マサカリがチラッとこちらを見て、ふんと鼻を鳴らすとまた前を向いて歩き始めた。
「あはは、そうなったら大変だね。
じゃあモモは有川君の家に家出しちゃうのかな。」
「いや、モモは俺の家を知らないから来れないだろう。
まあモモは家出なんかしないだろうけどな。
優しくて大人しい子だから。」
モンブランが聞いたら、「じゃあ私は優しくなくておてんばなのか」と怒ってくるかもしれない。
前を歩くマサカリが、「モモはモンブランより賢いから大丈夫だ」なんて分かったような口調で言っている。
「そうだね。
モモはモンブランみたいに行動的じゃないから、家出はないかな。
ココと喧嘩しても、すぐに仲直りするし。」
「そうか。
マサカリみたいに意地っ張りじゃないんだな。
うちは気の強いやつらばっかりで困るけど。」
またマサカリがこちらを振りかえり、「なんだとう」と不満そうに言ってくる。
痩せる気配は全く無く、顔の肉は相変わらずてんこ盛りのご飯のようである。
「モンブランはともかく、俺は繊細だぜ。
他の連中と一緒にするな。」
一番図々しいやつに繊細だなんて言われても困ってしまうが、俺は余計なことは言わず、「はいはい」とだけ答えておいた。
またふんと鼻を鳴らし、不機嫌そうに歩きだした。
「あらら、マサカリが機嫌を損ねちゃった。
ごめんね、マサカリ。」
藤井の言葉にマサカリは、「真奈子が謝ることはねえ」と格好をつけたように言い、「悠一は飼い主のくせに俺の繊細なハートを分かっていない」とむっつりした声で言う。
「おい、悠一。
真奈子に紐を渡せ。
俺は今日から真奈子を飼い主と認める。」
また何か言ってるよ、と思いながら、俺は言う通りに藤井に紐を渡してやった。
「よし、今から真奈子が俺の飼い主だ。
よろしく頼むぜ。」
藤井は笑顔でマサカリを見て、嬉しそうに紐を持っている。
「よし!じゃあ今日からマサカリの名前はココアに変更ね。」
「何だって?」とマサカリが声をあげる。
「だって私が飼い主なんでしょ。
名前だって自由に付けていいじゃない、ね、ココア。」
ココアと呼ばれたマサカリはムズムズした感じで体を震わせ、困った目で藤井を見た。
「俺はマサカリって名前が気に入ってるんだ。
改名されるくらいならやっぱり悠一の所へ戻る。
ほら、紐を悠一に渡せ。」
そう言われた藤井は意地悪そうに笑う。
「えー、やだよお。
もうココアは私の犬だもん。
家に帰ったらお洋服を着せてあげようね、ココア。」
藤井もだんだんとマサカリの扱いが上手になってきた。
困るマサカリを見て笑っている。
「そ、そんなの嫌だ。おい、悠一。
真奈子から紐を奪い取れ。
俺はお前が飼い主のままでいい。」
俺と藤井は目を見合わせて笑った。
最近はこういう話しばかりしていた。
下らない冗談、他愛無いお喋り。
そうやって藤井と一緒に動物達と過ごす時間が、俺にとっては何より楽しい時間になっていた。
暇が欲しいからと言って会社を辞めた時の俺からは考えられないことだった。
誰かと一緒に笑い合う。
一人でいるより、二人でいる方が楽しいと思える。
そんなふうに俺を変えたのは間違いなく藤井だった。
そして、藤井と一緒に同盟の活動をしてきたことも大きい。
困っている動物と正面から向き合う。
その動物に関係している人と話し合う。
また動物だけじゃなく、困っている人と真剣に向き合って話しをしたこともある。
今までに無かった何かが、自分の中で芽生えているのを感じていた。
少しづつではあるが、変わっていく自分。
それは、決して嫌なことでは無かった。
俺はマサカリとふざけ合う藤井を見つめながら、会社を辞めてから今までのことを思い返していた。
もし藤井とあの公園で出会わなかったら。
もし同盟の活動を断っていたら。
今までのことは全て無かっただろうし、俺も相変わらず一人で暇を持て余すのが好きな退屈な人間だっただろう。
藤井、俺は本当にお前に出会えたことを感謝している。
沈みゆく太陽の薄い光が、藤井の横顔を照らしている。
俺はしばらくそれを眺めていた。
最近聞いた藤井のプライベートな話で分かったこともある。
実家は隣の県で、三ヶ月に一回は帰っていること。
両親は穏やかで優しい人であること。
妹が一人いること。
そして俺が一番驚いたのは、藤井は会社の男性の何人かから、告白されたことがあるということだった。
俺の知る限り、会社にいる藤井は田舎娘っぽくて、動きも仕事もとろくて、合コンにも誘われないようなやつだった。
なのに男性数人から告白を受けていたとは。
聞けば中には、当時社内で女性から人気もあって、仕事も出来るイケメンのやつもいた。
なのに藤井はそれらの告白を全てふったという。
「気になる人がいるから。」
それが理由らしいが、その気になる人とやらは、内緒ということで教えてもらえなかった。
俺も自分のことを聞かれ、実家の家族のことや、幼い頃の話しなんかをした。
過去に一度だけ女性と付き合ったことがあると言うと、「へえー」と感心したような顔で答えていた。
そういうことも話し合うようになって、俺達の仲は前より深くなったと思う。
だんだんと心の中で大きくなっていく藤井に対しての感情がどういうものなのか、俺も小学生では無いのでそれに気が付くまで時間はかからなかった。
俺は藤井が好きなのだ。
友達としてもそうだが、それ以上に一人の女性として。
一緒にいたい。
話していたい。
そして触れ合いたい。
強くなるその気持ちを打ち明ける勇気の無いまま、この暑い夏の残りを過ごしていた。
いつか、この気持ちが伝えられるんだろうか。
その時藤井は何て言うんだろうか。
考えては悶え、悶えては考えているが、今の所藤井に気持ちを打ち明ける勇気は無い。
「はい、マサカリの紐を返すね。」
ぼーっと考えながら藤井を見ていた俺に、マサカリの紐を手渡してくる。
俺はそれを受け取り、相変わらずな他愛無いお喋りを続けながら、その日の散歩を終えた。
家に帰る時、ひぐらしの声が涼しく響いていた。

                       *

「今用意するから待ってろよ。」
餌を待つ動物達にそう言い、台所の下の棚を開けてごそごそしていた。
マサカリ、モンブランと並び、マサカリの頭の上にチュウベエがとまっている。
カモンはカゴの中で、マリナは窓際にいた。
「今日の散歩で危うく改名されるところだったぜ。」
餌を待ちながらマサカリが言う。
「何の話よ。」
後ろにいるモンブランが、マサカリに顔を近づけて聞いた。
「いやあ、真奈子がよお。俺の名前をココアに変えようとしたんだ。
俺に似合うと思うか、ココアって名前?」
それを聞いたモンブランとカモンは大笑いし、マサカリをからかい始めた。
「いいじゃない。可愛い名前で。
これからは私もココアって呼ぼうかしら。」
モンブランはまだ大笑いしている。
「だははは、その暑苦しい顔でココアなんて可愛らしい名前が似合うかよ。
ノコギリとかでいいんじゃねえか、だはは。」
カモンは毒舌でマサカリを挑発する。
「うるせえなあ。
俺だってそんな可愛らしい名前が似合わないことくら分かってんだよ。
真奈子のやつめ、俺をからかいやがって。」
ぷりぷり怒るマサカリの前に用意出来た餌を出すと、怒っていることなどすっかりどこかへ吹き飛んで餌をがっつき始めた。
用意出来た餌を順番に動物達にやり、俺も自分の夕飯を作ろうかと思っていると、テーブルの上のケータイが鳴り始めた。
「悠一、鳴ってるわよ。」
マリナに急かされ、「分かってるよ」と言いながらケータイを手に取る。
藤井からだった。
最近はよく電話がかかってくるのだ。
「今何してる?」
「もうご飯食べた?」
「これから一緒に何処かに食べにいかない?」
そんな電話がかかってくる度に、俺は喜々としてそれに応じた。
今日は何の用だろうと思って通話ボタンを押す。
「もしもし。」
俺は明るい声で電話に出た。
応答が無い。
俺はもう一度「もしもし」と呼びかける。
するとか細く、震えた声で藤井が喋り出した。
「うう、有川君・・・。」
泣いているとすぐに分かった。
俺は明るい声から真剣な声に切り替え、「どうしんたんだ?」と心配気味に聞いた。
しばらく藤井の泣く声が聞こえ、それからまた「有川君」と消え入りそうな声で呼ばれた。
「何だ?何かあったのか?」
心配が増してきて、呼びかける俺の声も強くなる。
「うう、ココが・・・。」
「何?」
よく聞き取れないので聞き返す。
すると藤井は大きく泣き始め、叫ぶような声で言った。
「ココが、ココが家にいないの!」
あまりに大きな声だったので、俺はケータイを耳から少し離した。
藤井は堰を切ったように大声で泣き始めた。
耳が痛いほどだ。
「とりあえず落ち着け。
ココがいないってどういうことなんだ?」
藤井の泣き声に負けないくらいの大声で俺も言った。
藤井は泣きながら説明してくる。
「家に帰ったら・・・、うう、ココって呼んでも出て来なくて・・・。
ううう・・・、それでモモに聞いたら・・・、うう、私も知らないって・・・。」
完全に動揺している。
声が少しうわずっていた。
「要するに、帰ったらココがいなかったんだな。」
また大声で聞き返すと、藤井はさらに泣き始めた。
「うう、私が悪いの・・・。」
「どういうことだ?」
ふと見ると、大声で話す俺を見て何事かと動物達が俺の周りに集まってきていた。
「藤井さんから?
何かあったの?」
心配そうにモンブランが尋ねる。
俺はコクリと頷き、藤井の先を促した。
「お前が悪いってどういうことだ?」
藤井はしばらく黙りこみ、すするような泣き声だけが聞こえてくる。
俺は「藤井」と呼びかけた。
すすり泣きのあと、藤井は小さな声で答えた。
「ココがいなくって・・・、ううう、私家の中を捜したの。
そしたら・・・、うう、トイレの上の小さな窓が空いてて・・・。」
心配そうな目を向けてくる動物達を横目に、俺は聞いた。
「じゃあココはそこから外に出ていったってことだな?」
藤井の家はマンションの二階。
まだ小さなココがそこからどうやって出て行ったのか分からないが、家にいないならその窓から出て行ったとしか考えられないだろう。
「私・・・、その窓を閉めるのを忘れてて・・・、ううう、きっとそこからココが出ていちゃったんだ。
マンションの周りも捜したけど、何処にもいないの・・・、うう、有川君、どうしよう。」
藤井は明らかにパニックになっている。
あれだけ可愛がっていたココがいなくなったのだ。
当然だろう。
まだ藤井のマンションに行く電車は出ている。
俺はすぐに言った。
「分かった。
そっちに行くから一緒に捜そう。」
藤井はぐすんとしゃくり上げたあと、「ありがとう」と言った。
「とにかく少し落ち着け。
ココはまだ子供だからそう遠くには行っていないはずだ。
二人で捜せばきっと見つかるさ。」
電話の向こうで猫の鳴く声が聞こえた。
おそらくモモだろう。
モモも藤井とココを心配しているに違いない。
「じゃあ今からそっちへ行くから。」
俺は立ちあがってそう言った。
「うん、ありがとう。
私ももう少し捜してみる。
うう・・・、有川君。
きっと無事だよね、ココ。」
「当たり前だ。
きっとすぐに見つかるさ。
じゃあ今から行くから電話を切るぞ。」
藤井は泣き声で「うん」と言い、俺は電話を切った。
「出かけるの?」
ドアの近くまで行った俺にモンブランが声をかける。
「ああ、藤井の家のココがいなくなったらしい。
行って一緒に捜してくるよ。」
動物達はみんな心配そうに俺を見つめていた。
「真奈子の力になってやれよ。」
マサカリの言葉に頷き、俺はドアを開けて外に出た。
夜の湿気が肌にまとわりつく。
俺は走って駅まで向かい、その間藤井とココのことを考えていた。
きっと藤井は麻呂の時のことを思い出しているに違いない。
もうココが帰ってこないのではないかと心配でたまらないのだ。
藤井の力になりたい。
その思いだけを胸に、俺は駅まで駆けた。
汗が、体中を濡らしていた。

                                最終話 つづく



勇気のボタン 第十九話 似た者同士(2)

  • 2010.06.18 Friday
  • 10:47

 店内にはクラシックな音楽が流れている。
ぼんやりと明かりが灯る店のランプを見つめ、冷房が少し寒く感じてきたなと思いながら、店を出て行く客を見ていた。
窓の外の通りの人が減ることは無く、この暑い中をせわしなく行き交っている。
俺は暖かい飲み物が欲しくなり、ホットコーヒーを注文した。
「あ、ごめんなさい。無理にって言ってるわけじゃないんです。
もし嫌ならそう言って頂いて結構です。
ただ、私は広田さんも同盟に入ってくれたら嬉しいなあと思って。
無理強いは出来ないけど、真剣に考えてもらえませんか?」
藤井は広田さんに俺達の同盟に参加しないかと持ちかけている。
広田さんは困ったような顔を見せながら、どう答えようか考えているようだった。
手をもじもじさせながら、俯いてテーブルの上を見ている。
「すみません。いきなりこんなことを聞いて。
ご迷惑でしたか?」
申し訳なさそうに尋ねる藤井に、広田さんは首を振った。
バッグの中からハンカチを取り出すと、それを手でくしゃくしゃしながら答えた。
「その、お二人が動物の為に活動をされてるのはとても立派なことだと思います。
でも、その、私なんかが役に立つんだろうかって思って。」
くしゃくしゃにしたハンカチを広げ、それを丁寧に畳んでから広田さんは続けた。
「それに、私今は何かに深く関わることが・・・、怖いっていうんじゃ無いんですけど、何か気が向かないっていうか。」
藤井は真剣に広田さんの話しを聞いている。
俺の注文したホットコーヒーが運ばれてきて、二人に「他に注文は?」と聞いたが、二人とも首を振った。
俺は砂糖とミルクを足しながら、広田さんの顔を見た。
目を伏せて、唇をきゅっと結んでいた。
畳んだハンカチを再びバッグにしまい、ふうっと息をついて自分の手元に視線を落としている。
「藤井さんは、有川さんからどの程度まで私のことを聞いていらっしゃるんですか?」
唐突な質問に、藤井は「はい」と間の抜けた返事をしていた。
「えーっと、私が聞いているのは・・・。」
そう言いながら俺の方に目をやる。
聞いたことを言ってもいいのかどうか迷っているのだろう。
俺は広田さんに、この前マサカリと一緒に散歩に言った時に聞いたことを、全て話したと伝えた。
「そうですか。」
広田さんは呟く。
俺はコーヒーを一口飲んでから広田さんに聞いた。
「すいません。俺、余計なこと喋っちゃいましたかね。」
植物と話が出来ることはともかく、ご主人と別れたことや、マルコのこと、亡くなった息子さんのことまで全て話してしまったのは、広田さんにとって気の悪くした所かもしれない。
俺は「ベラベラ喋っちゃってすいません」と頭を下げて謝った。
しかし広田さんは笑顔で首を振る。
「いえいえ、いいんですよ。
そんなことは。」
テーブルの上で手を組み、優しく藤井を見つめながら広田さんは言った。
「私ね、今花を育てているんです。」
「花ですか。」
藤井が聞き返し、広田さんは目を閉じて頷いた。
今の広田さんはおっかさんの雰囲気を全開にしていて、それを見ていたらなんだか心が和んできそうな感じだった。
「パンジーなんですけどね。
窓の近くに置いて大事に育てているんです。」
そう言えば花の種の話しは藤井にしていなかった。
藤井は興味深そうに広田さんの話しを聞いている。
「なんでパンジーを育てているかって言ったらね、その子達が自分を家族にしてくれって言ってきたんです。」
まるで目の前にそのパンジーがあるかのように、広田さんは宙を見ながら目を細めている。
柔らかい笑顔で、宙に向かって暖かい視線を投げていた。
「花がそんなことを言ってきたんですか。」
藤井が驚いたように言う。
そして目を輝かせながら、「素敵だなあ」と呟いた。
「買った時は、種の状態だったんですけどね。
声が聞こえたんですよ。
自分達を家族にして欲しいって。
私ね、息子もマルコも亡くして、これからはひっそりと一人で生きていくんだなあと思っていたんです。
それがね、いきなり家族が出来ちゃって。
毎日話しかけるんですよ。
朝起きたらおはようとか、パートに行く時は行ってきますとか。
花もね、ちゃんと言葉を返してくれます。
おはよう、いってらっしゃい。
他には今日はどんな気分とか、今日は暑いねえとか。」
花のことを話す広田さんはとても嬉しそうだった。
まるで自分の子供のことを語るように、とても優しい口調だった。
俺は、そのパンジーが広田さんの本物の家族なんだなあと感じた。
コーヒーを一口飲み、家で花と語り合う広田さんを思い浮かべてみた。
とても幸せそうな顔をして花に話しかける広田さんが簡単に想像出来た。
藤井は広田さんの話しに聞き入っていた。
俺と同じように花に話しかける広田さんを想像しているのかもしれない。
藤井は手元に視線を落とし、「いいですね、本当の家族みたい」と笑いながら言った。
「ええ、あの子達は私の本当の家族なんです。」
大きく笑顔を見せながら広田さんは答え、宙を見ていた視線を藤井に向けた。
「私ね、今の生活がとても気に入ってるの。
たまに、まだ息子が生きていたら、マルコが生きていたらって思うこともある。
けど、悲しみはもう乗り越えたし、今は新しい家族がいる。
それでいい。
というよりそれ以上のものはいいらないんです。
この穏やかな暮らしがあればそれでいい。」
俺はコーヒーを飲み終え、冷房で寒くなってきた体を擦った。
もうおかわりは注文する気になれず、残った水に口をつけながら広田さんを見ていた。
「あなた達の動物を救う活動は本当に素晴らしいと思う。
けど、今は私はこの生活でいいんです。
面白そうな話しだけど、今はゆっくり暮らしていたいんです。
何かに深く首を突っ込むことなく。」
そして広田さんは藤井に頭を下げて言った。
「だからごめんなさい。その同盟の話しはお受けできません。」
藤井は真剣に広田さんを誘った。
だからこそ、広田さんも真剣に断ったのだろう。
藤井は笑い、「うん」と、おそらく自分に対して一回頷いてから口を開いた。
「いえ、そこまで丁寧に答えて下さってありがとうございました。」
藤井は深く頭を下げた。
嫌なら嫌と、あっさり断ればいいはずだった。
しかし広田さんは、自分の今の生活も交えて話しをし、真剣に藤井を話しを聞き、真剣に断った。
そのことを藤井も理解しているから、頭を下げてすぐに引き下がったのだろう。
「花が家族になるなんて、広田さんから話し聞くまで考えもしませんでした。
やっぱり、植物とお話が出来るっていうのはすごいです。」
広田さんは照れたように笑い、「あなたもすごいわ」と言った。
「自分の力を使って動物達の役に立てることをしようだなんて。
私はそんなこと考えもしなかった。
きっと、今までたくさんの動物達があなた達に救われたんでしょうね。」
感心したような目で藤井を見て、優しい口調で広田さんはそう言う。
「いえ、全然ですよ。
ちゃんと救えなかった子もいますし、そもそもきちんと動物達の役に立ってるのかなって疑問に思うこともあります。」
藤井は真面目に答え、俺の方を見た。
どう?
有川君から見て、この同盟は上手くいってる?
そう聞かれている気がした。
俺は水をグイッと飲んでから、腕を組んで答えた。
「俺達のやってることは、正直どこまで動物達の役に立っているのか分かりません。」
藤井が少し顔を曇らす。
そんな藤井の横顔を見ながら続けた。
「けど、自分達のやっていることが間違いだとも思っていません。
例え救われる動物が少なくても、活動をすること自体に意味があると思っています。」
それを聞いた藤井はパッと笑顔になり、嬉しそうにこっちを見つめていた。
あんまり真っすぐ見つめられて恥ずかしくなり、俺は空になった水のグラスをすすった。
そんな俺達を見て広田さんは笑って頷き、またもやおっかさんの雰囲気を全開にしていた。
「あなた達は、本当に優しい子達ね。」
母のようにそう言い、広田さんはしばらく俺達を見つめていた。
それからまた藤井が口を開いて広田さんとのお喋りを再会し、俺は時折相槌をうちながら二人を眺めていた。
そうして時間が経ち、やがて会話が一段落した所で広田さんは言った。
「今日は本当に楽しかったわ。
ありがとうね、有川さんに藤井さん。」
俺達は笑って顔を見合わせた。
「こちらこそ色んなお話が聞けて楽しかったです。
よかったらまた一緒にお茶でも飲みにいきましょう。」
藤井は笑顔のまま広田さんに言った。
「ええ、是非行きましょう。」
広田さん、今日は本当に楽しかったんだろうなあ。
その笑顔を見ながら、俺はそう思った。
「俺はお隣さんですからね。
またいつでもお話しましょう。」
「ええ、出来たらまたマサカリちゃんの散歩に行きたいです。」
そういえばマサカリも広田さんのことは大いに気に入っている。
あいつもまた広田さんと散歩に行きたいだろう。
「ええ、いつでもいいですよ。
きっとマサカリも喜びます。」
俺がそう言うと広田さんは「ありがとう」と言い、バッグを探って財布を取り出した。
「今日はとっても楽しかったから、私にご馳走させて頂戴。」
そう言って伝票を持って立ち上がる。
「そんな、悪いですよ。
会いたいって言ったにはわたしなのに。」
急いで財布を取り出す藤井を手で制し、「いいんです、払わせて下さい」と言ってカウンターまで歩いて行った。
俺達は後に続き、会計を済ませた広田さんにお礼を言った。
喫茶店を出ると、店内の冷房の効いた空間が嘘だったように暑さが広がっていた。
吹きだす汗を俺達は拭いながら、笑って挨拶をする。
「今日はありがとう、また一緒にお話しましょう。」
ハンカチで額を拭きながら広田さんが言う。
「はい、私もとっても楽しかったです。
また色々お喋りしましょう。」
そう言って藤井は頭を下げた。
「マサカリの散歩も一緒に行きましょうね。」
そう言って俺も軽く頭を下げた。
広田さんは汗を拭きながら笑って俺達を見た。
「どっちも楽しみにしています、それじゃあ」
そう言葉を残し、広田さんも頭を下げて去って行った。
暑い街を行き交う人々の中に紛れて見えなくなるまで、俺達は広田さんの背中を見つめていた。
「どうだった?」
まだ広田さんが去った方を見つめている藤井に聞いた。
藤井はハンカチで首筋の汗を拭うと、ニッコリ笑って答えた。
「うん、とっても楽しかった。
いいおばさんだね、広田さん。」
「ああ、本当に優しい人だよ。」
藤井は満足したように頷き、「これから暇?」と聞いていた。
特に予定の無い俺は「ああ、暇だよ」と手で汗を拭きながら答える。
すると藤井が俺のシャツの裾を引っ張って言った。
「じゃあ映画でも観て行かない。」
俺に異論があるはずもなく、「いいね、行こう」と言うと、藤井は「ふふ」と笑って先に歩き出した。
今日二人を合わせて本当によかった。
お互い色々と話して得るものがあっただろうし、何より楽しかったはずだ。
俺はふと、二人が似ているんじゃないかと思った。
優しい笑顔、柔らかい雰囲気、そして芯に秘めた強さのようなもの。
自分の思った意見ははっきりと言う。
似た者同士の今日の出会いは、出会うべくして出会ったのかもしれない。
「有川君。」
立ち止まってそう考えていた俺を、先を歩いていた藤井が振り返って呼ぶ。
俺は藤井の元に駆け寄り、「どんな映画を見る?」と聞いた。
「うーん、まだ決めてない。
考えながら行こう。」
その意見に賛成な俺は笑って頷いた。
「そうだな、そうしよう。」
暑い陽射しが降り注ぐ街の通りを、たくさんの人達が行き交っている。
俺達は他愛無いことを笑顔で話しながら、暑い中を行く人達の中に紛れていった。
夏はもう、半分まできていた。

                                 第 十九話 完


勇気のボタン 第十九話 似た者同士

  • 2010.06.17 Thursday
  • 10:50
 冷房の効いた喫茶店で、窓から通りを眺めながらアイスコーヒーを飲んでいた。
店には夏の暑さから逃れようとする人で席は埋まっており、冷房の効いた喫茶店は街行く人々のオアシスのようになっていた。
みんな冷たい物を飲みながら、思い思いの話しをしている光景を、アイスコーヒーを飲みながらぼーっと眺めていた。
最初に店に来たのは俺だった。
「お一人様ですか?」と聞かれ、後から二人来ることを告げると四人掛けのテーブル席に案内された。
まだ来ていない二人分の席を見て、一体この二人は何を話すのだろうと考えていた。
アイスコーヒーの残りが少なくなり、グラスが氷でカランと音を立てる。
俺はおかわりを注文しようかと思って店員さんを呼びかけた時、入口から一人のおばさんが入ってきた。
俺は手を上げてその人を呼び、おばさんは汗を拭きながらこちらへ歩いてきた。
横の椅子に小さなバッグを置き、俺の向かい側によっこらしょっとという感じで腰を下ろした。
「今日も暑いですねえ。
すみません、お待たせしちゃいましたか?」
おばさんの言葉に俺は首を振り、「さっき来た所です」と言って空になりかけたグラスをもてあそんだ。
今日ここに来たおばさんというのは広田さんだ。
俺の隣の部屋に住んでいて、植物と会話が出来るという不思議な力を持っている。
「もう一人はまだ来ていません。
時間に遅れるような子では無いので、もうすぐ来ると思うんですが。」
俺はメニューを広田さんに渡しながらそう言った。
広田さんはまだ汗を拭を拭いていて、俺からメニューを受け取ると「そうですか」と頷いた。
「私、今日は楽しみにして来たんです。
どんなことを話そうか考えていたら、昨日は寝るのが遅くなってしまいました。」
そう言いながらメニューを広げ、俺と同じアイスコーヒーを注文した。
ついでに俺もおかわりを頼み、ウェイトレスが去ったのを見てから広田さんに向かって話かけた。
「相手の子も広田さんと話すのはすごく楽しみにしていますよ。
なんたって広田さんと会いたいって言いだしたのはその子なんですからね。」
俺は水を一口飲み、また窓の外に目をやった。
ネクタイを緩めた人や、日傘を差した人達が行き交っている。
今は7月の下旬。
暑さも大いにその力を振るっており、夏を謳歌するセミの歌声も一層激しくなっていた。
運ばれたきたアイスコーヒーを受け取り、広田さんはグイッとそれを飲んだ。
「こう暑いと喉が渇いてしまって。」
そう言いながらまたグイッと飲む。
グラスの中身は半分にまで減っていた。
「水分補給は大事ですよ。
こう暑いと脱水症状でも起こしかねませんから。」
俺もアイスコーヒーに口をつけた。
俺も一杯目はグイッと飲んだが、さすが二杯目はゆっくりと飲んだ。
「はあ、なんだか緊張してきた。」
冷房は効いているはずなのに、広田さんはハンカチでパタパタと自分の顔を煽っている。
白い肌は紅く火照っているようだった。
俺はそんな広田さんをぼんやり見つめながら、相変わらずおっかさんって感じの人だなあと思っていた。
「お待たせ。」
不意に俺の横で声がして振り向くと、藤井がニコニコしながら立っていた。
俺は「よう」と返事を返し、隣の椅子を引いた。
藤井は肩から掛けていたバッグをテーブルの上に置き、俺の引いた椅子に座った。
白の涼しそうなブラウスに、膝までのヒラヒラとしたスカートを穿いていた。
髪は頭の上で高く結ってある。
顔を見ると広田さんと同じように紅く火照っていた。
首筋を流れる汗をハンカチで拭ったあと、藤井は広田さんに向かって頭を下げた。
「ごめんさない、遅れちゃって。
有川君の友達の藤井と言います。」
挨拶を受けた広田さんも頭を下げ、丁寧に自分の名前を名乗った。
「広田さんのことは有川君から聞いています。
植物とお話が出来るなんてすごいです。
私、今日は本当に楽しみにしてやって来ました。」
ウキウキした表情で言う藤井の顔を見て、広田さんも少し緊張がとけたようだった。
手にしていたハンカチをバッグにしまい、広田さんはアイスコーヒーを一口飲んでから話し始めた。
「こちらこそ、有川さんのお友達で動物とお話出来る方ということで、すごく楽しみにして来ました。
なんだかすごいです。
私の近くに動物とお話しが出来る方が二人もいるなんて。
今日はよろしくお願いします。」
もう一度広田さんが頭を下げた。
それを見て藤井がニッコリと笑顔になり、頭を下げ返した。
俺はアイスコーヒーを一口飲み、二人のやり取りを眺めていた。
あの亀の恋人を連れ戻すという同盟の活動を終えた帰り道で、俺は藤井に広田さんのことを話した。
藤井は興味津々でその話しを聞き、是非その広田さんという人に会ってみたいと言いだした。
植物と話せる女性、そのことに藤井は目を輝かせていた。
「ねえ、有川君。私もその人に会って色々とお話をしてみたい。」
そのことを広田さんに伝えると、「私もその方と会ってみたいです」ということだったので、今日二人はこうして会うことになった。
何を話すのかは知らないが、お互いがお互いに興味を持つことは俺にも理解出来た。
二人の都合を合わせ、そして今日という日を迎えた。
俺は二人を交互に見た。
藤井は心の底から楽しみにしている様子で、何から話そうか考えているようだった。
広田さんのほうは、まだいささか緊張している様子で、残ったアイスコーヒーをグイッと飲んでいた。
俺は藤井にメニューを差し出し、「何か飲むか?」と尋ねた。
「うーん、そうねえ。じゃあアイスティーで。」
俺はウェイトレスを呼び、アイスティーを注文した。
二人は挨拶を交わしてから、まだ言葉を発していない。
俺は広田さんに向かった言った。
「そんなに緊張すること無いですよ。
何でも広田さんが思ったことを話してくれたらいいですから。」
広田さんは「はい」と俯き加減に頷き、残ったアイスコーヒーを飲み干した。
氷がカランと鳴り、それを合図にしたかのように藤井が口を開いた。
「なんだか色々聞きたいことがあって迷っちゃうんですけど、一番聞きたいことを聞きますね。
植物とお話出来るってどんな感じなんですか。」
藤井には広田さんから聞いたことを全て話してある。
ご主人と別れていること、マルコという犬がいたこと、そして息子さんが亡くなったことを。
だから気を遣っている部分はあるだろう。
藤井が質問したことは、一番無難で、そして一番聞きたいことでもあったはずだ。
「そうですねえ、何と言いますか。」
広田さんは藤井の質問に対する答えになる言葉を探しているようだった。
頭に手を当てて考えたあと、広田さんは口を開いた。
「有川さんともお話したんですが、動物と話せるというのとは少し違うんです。
何ていうか、お互いの心が分かるというか。
テレパシーみたいな感じです。」
広田さんは以前俺が使ったテレパシーという言葉が気に入ったみたいだった。
自分の言ったことに自分で頷き、「テレパシーみたいです」ともう一度言った。
「へえ。じゃあ私達とは違いますね。
動物とお話する時は、人間と喋るのとほとんど変わりが無いですから。
テレパシーってどんな感じなのかちょっと想像がつかないけど、なんだか超能力者みたいですね。」
広田さんの言葉に感心したように藤井が言う。
「超能力者だなんて大したものじゃありませんよ。」
目の前で手を振って、広田さんは大げさなリアクションをした。
「ただ何となく分かるんです。
この花は何を考えているんだろうとか、この木は何を思っているんだろうとか。
それに対して、私も自分の考えていることを相手に伝えられるというだけなんです。」
広田さんは空になったグラスを両手で持ちながら、照れたように答える。
「それって十分テレパシーですよ。
お互いの気持ちが分かるってことなんですね。
なんか素敵だなあ。」
そう言った藤井は運ばれてきたアイスティーに口をつけながら広田さんを見ている。
今日はこの二人が話す為に集まった日。
俺は余計なことは言わないでおこうと思って大人しくしていると、藤井が「すごいよねえ、広田さん」と同意を求めてきた。
いきなり話しを振られた俺は、「え、あ、そうだな」と曖昧な返事を返してしまった。
それからは二人の質問と答えの応酬が続いた。
今までどんな植物に出会ったのか?
記憶に残っている動物はあるか?
植物と話せてよかったことはあるか等々、延々と続いた。
広田さんの木の記憶の話しを聞いた時には、「まるでお伽話みたい」と藤井は目を丸くしていた。
他愛のない会話を含みながらも、二人は仲良くなったようだった。
俺は空になったグラスを持ちながら、楽しそうに話す二人を眺めていた。
こうやって話しているのを見ると、親子に見えないこともない。
お互いに心を開いて、気さくに話し合っていた。
「ねえ、すごいねえ。有川君。」
藤井が目をキラキラさせながら俺に聞いてくる。
よっぽど楽しいのだろう。
「ああ、植物と話せるなんてすごいことだ。」
そう言って藤井に相槌をうった。
二人の会話はやむことが無く、俺は三杯目のアイスコーヒーを注文した。
こんなに楽しそうに話してくれるなら、紹介した甲斐があったというのもだ。
俺は二人を笑いながら見つめてアイスコーヒーを口にした。
「こんなにたくさんお話したのは久しぶりです。
楽しいわ。」
広田さんが顔をほころばせる。
「私もすごく楽しいです。
まさか同じような力を持った人が有川君以外にもいたなんて。
この出会いってきっと運命ですよ。」
藤井が胸の前で手を組んで、大げさな口調でそう言った。
「動物とお話しが出来る人が二人、植物とお話出来る人が一人。
こんな組み合わせ滅多にありませんよ。
世の中にどれくらい私達と同じ人がいるのか分からないけど、同じ場所に三人揃うなんて絶対に何かの縁で繋がっているとしか思えません。
やっぱり、これって運命ですよ。」
興奮気味に話す藤井を見て俺は笑い、広田さんは「そうかもしれませんねえ」とにこやかな笑顔を見せている。
二人は話し疲れたのか、ちょっと休憩という感じで一息ついた。
藤井はアイスティーを飲み、広田さんは窓の外を眺めていた。
この二人、もう友達だな。
俺はそう思いながらグラスを口に運び、広田さんと同じように窓の外に目をやった。
そして何気なく藤井の顔を見ると、何やら考え込んでいるような表情になっている。
俺はしばらく藤井の顔を見た。
それに気付いた藤井は急に笑顔になり、アイスティーを口に運んでから広田さんに言った。
「あのう、広田さん。」
呼ばれて広田さんは窓の外から藤井に視線を移す。
藤井は両手でグラスを持ったまま、唇を結んでいた。
何だ?
何を言い出すんだろう?
俺は黙って藤井の方を見続けた。
やがてグラスをテーブルに戻した藤井は、真剣な顔で広田さんに言った。
「私達の同盟に参加しませんか?」
「同盟?」
広田さんが不思議そうに藤井を見る。
俺はいきなり何を言い出すのだろうと、目を丸くして藤井を見た。
藤井の表情は、真剣そのものだった。
「私と有川君で、困った動物達を助けようっていう同盟を組んでいるんです。
動物とお話が出来るから、その力を動物達の役に立てようと思って始めたことなんです。
今まで何度も同盟として有川君と活動してきました。」
藤井は一旦言葉を区切った。
広田さんは藤井の話しを真剣に聞いている。
藤井はアイスティーを一口飲んでから続けた。
「広田さんも植物とお話出来る素晴らしい力を持ってらっしゃいます。
だから、困ってる植物とかを助けることも出来ると思うんです。
それに、その力があれば、困った動物を助ける時にも役に立つかもしれません。
どうですか?
私達の同盟に、参加して下さいませんか。」
最後の方は頼むような口調になっていた。
藤井は真っすぐに広田さんを見つめている。
「はあ、いきなりそう言われましても。」
広田さんは少し困ったような顔をして答えた。
いきなりこんな同盟に参加しないかと誘われたのだ。
困って当然だろう。
俺は知っている。
こうなった時の藤井の真剣さを。
本気で言っているのだ。
あの機関車の下の猫の親子の時を思い出す。
俺は余計な口を挟むのをやめて、ただ黙って二人を見ていることにした。
窓の外には相変わらず暑そうにした人達が歩いている。
誰かが店を出て行き、代わりに別の客が入ってくる。
冷房の効いたこの空間で、俺は口一杯にアイスティーを飲んだ。
グラスの中の氷が、カランと音と立てた。

                                 第 十九話 つづく

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