絵が与えてくれる幸福

  • 2019.09.06 Friday
  • 12:31

JUGEMテーマ:

絵の具を買いに画材屋へ行き

 

入口にあったミーシャの絵に目を奪われる

 

絵の具を持ってレジへ向かう時

 

広重の絵に心を奪われる

 

買い物を終えて店内を見渡した時

 

ゴッホの絵に意識が揺さぶられる

 

店を出た時 絵の具の入った買い物袋を揺らしながら

 

支払った金額以上に幸せな気分になっていた

勇気の証 第二十話 見える人(2)

  • 2019.09.06 Friday
  • 10:34

JUGEMテーマ:自作小説

目の前に大きな背中がある。
料理長の絹川さんだ。
私はギュっとエル君を抱きしめながら、絹川さんの後ろに隠れていた。
「怖いかい?」
クスっと笑う絹川さんに、引きつった顔でコクコクと頷くことしか出来ない。
彼はジャラジャラと音を鳴らしながら、輪っかに付いたたくさんの鍵をいじっていた。
今から例の古いドアを開けるのだ。
10年前、ここで一人の女性と一匹の猫が亡くなった。
絹川さんからその時の詳しい話を聞かされて、どうにか中を見せてもらえないかと頼んだのだ。
《怖いなあ・・・怖いけど逃げちゃダメだ。》
動物の幽霊は怖いと思わないけど、人間の幽霊には抵抗がある。
得意な人なんていないんだろうけど、私は特にこういうのが苦手だった。
「やっぱりやめとくか?」
あんまりにも怖がるもんだから、絹川さんが心配してくれている。
けどここまで来て引き返すわけにはいかない。
上手くいけばハチロー君を成仏させてあげることが出来るかもしれないんだから。
「・・・・大丈夫です。開けて下さい。」
深呼吸しても恐怖は消えないけど、強がりで誤魔化す。
「大丈夫には見えないけどなあ。」
クスっと笑ってから鍵を差し込んでいる。
木目模様の古いドアは所々傷んでいた。
染みのようなモノがあったり、何かで引っ掻いたようなあとがあったり。
薄くて見えないけど落書きのあともある。
青銅色の取っ手もかなり古びていて、上手く鍵が回らないのか、何度もガチャガチャやっている。
ゴクリと息を呑みながら睨んでいると、「開いたぞ」と言われた。
「・・・・ゴク。」
「ほんとに大丈夫か?」
「はい・・・・・。」
「じゃあ入るか。」
ドアを開き、絹川さんが入っていく。
電気がついて室内が照らされた。
けどLEDでも蛍光灯でもないオレンジ色の電球は、余計にほの暗さを醸し出す。
ぼんやりと浮かび上がる室内を見ただけでも足が竦んだ。
『藤井ちゃんビビりすぎだって。心配しなくても幽霊の気配は感じないから。』
「そ、そう・・・?なら怖がることないね。」
思い切って足を踏み入れる。
前もって絹川さんから聞かされていた通り、中は物置になっていた。
タワーのように積み上げられたパイプ椅子、パズルのようにキッチリと押し込められた長机。
折れた箒に取っ手がないチリ取り。
壁際の本棚は幾つか棚が抜けていて、数冊の本が横たわっている。
それらの全てにホコリが溜まっていて、長い間誰も手を付けていないんだなと一目で分かる状態だった。
「ここに入るのは年に二回の総点検の時くらいだ。みんな嫌がるからいつも俺が点検してる。
まあ点検なんて言っても、ザっと中を見渡すくらいだけど。」
「あの・・・・、」
「なんだ?」
「今は物置になってるけど、昔は違ったんですよね?ここでハチロー君と飼い主さんが亡くなるまでは。」
「ああ、ここは料理人の宿直室だった。今は別の部屋に移ってるが、昔はよくここで寝泊りしたもんだ。」
そう言って乱雑に置かれたシーツや枕やスリッパやを足でどかしながら奥へ進んでいった。
後をついて行くと、一段上がって畳の部屋になっていた。
「ここで寝てたんだ。ロッカーもあの時のままだし。すぐ隣の細いドアの向こうには洗面所とシャワー室がある。
でもってシャワー室の奥にある狭い部屋で・・・・・、」
「亡くなられていたんですね。」
絹川さんは小さく頷き、懐中電灯を照らした。
「シャワー室は灯りのスイッチが壊れてるんだ。あの時からずっとな。」
「・・・・・・・。」
私は息を呑み、「こっちだ」と進んでいく絹川さんについて行く。
擦りガラスの細いドアの向こうには洗面所があって、鏡に映った自分に一瞬だけビクっとしてしまった。
『あははは!』
「しょうがないじゃない・・・・怖いんだから。」
エル君は可笑しそうにするけど、私は生きた人間なのだ。
やっぱりこういう状況には抵抗がある。
洗面所の奥にはカーテンがあって、先がシャワー室になっていた。
ひっくり返った桶、転がっているシャンプーとリンス、薄汚れたタオル。
点検の時もザっと見回るだけだと言っていたけど、ほんとにただ見回っているだけらしい。
でもそれは仕方がないのだ。
絹川さんは言っていた。
正直なところ、本当ならこの部屋に入りたくないし、ここにある物にも触れたくないと。
なぜなら友人であった女性が亡くなってしばらくの間、悪夢を見たからだ。
底なし沼のような深い泥に吸い込まれ、誰かに足を引っ張られて、二度と這い上がれない夢を。
友人が亡くなって一ヶ月ほどそんな夢が続いたそうだ。
そしてある日のこと、目を覚ますと枕元に友人が立っていて、こう語りかけてきたらしい。
《私はもうどうやっても生き返れない。諦めてこの世を旅立つ。
だけどハチローのことだけが気がかり。あの子はまだ生きようとしている。私と一緒に・・・・。》
幽霊となってしまった友人が現れたことに驚く絹川さんだったけど、黙って話を聞いていたそうだ。
《一つだけお願いがある。どうにかしてあの子を成仏させてあげてほしい。そうでないといつ悪い幽霊に変わるか分からない。
こんなこと絹川君にしか頼めない。昔からの友達の頼みだと思って、どうかハチローをお願いします。》
そう言い残して消えた。
それ以来、悪夢を見ることはなくなったけど、代わりに子猫の幽霊を見るようになった。
ハチロー君だ。
成仏させてほしいと言われても、何をどうすれば成仏してくれるのか分からない。
言葉も通じない、何を考えてるのかも分からない。
かといって放っておけば悪い霊になってしまうかもしれない。
絹川さんはハチローのことを気にかけながらも、何も出来ないままで10年を過ごしてしまったのだ。
だけど10年の中で、たった一つだけ続けていたことがあった。
ハチロー君がホテルに現れた時には、必ず抱っこして撫でてあげるそうだ。
特に耳の後ろを撫でられるのが好きだそうで、飼い主だった女性もそうやってあやしていたらしい。
『俺にに出来るのはこれくらいだ。これ以上はどうしていいのか分からない。』
そう語っていたので、やはりこの部屋に入ること自体にためらいがあるんだろう。
幽霊と関わりたくない気持ちと、友人の遺言を守ってあげたい気持ち。
二つの気持ちに苛まれながら10年を過ごしてきた絹川さんの苦労は相当なものだろう。
「ほんとにいいのか?」
いきなり懐中電灯を向けてくるので「きゃ!」と驚いてしまった。
「な、なにがですか・・・・?」
「あんたは本気でハチローを成仏させてやろうと思ってるのか?」
「本気です。」
「いくら動物保護のボランティアをしてるからって、幽霊の猫にまでボランティアをする必要があるのか?」
「さっきも言ったけど、関わった以上は責任がありますから。」
「それはつまり・・・・この件を藤井さんが引き継いでくれるってことでいいのか?」
「引き継ぐ?」
「情けないと思うかもしれないが、俺はもう疲れた・・・・。10年も遺言と向き合い続けることに。
そりゃあいつが亡くなったことは俺にも落ち度があった。だけどもう充分だろう?いつまで遺言に縛られていればいい?」
クシャっと表情を歪ませ、疲れた目を見せる。
「俺は今年で55だ。あと10年したらこのホテルを退職することになる。
しかしあと10年も遺言と向き合う自信がない。どうにか頑張って耐えたとしても、その後はどうなる?
俺はもうここの従業員じゃなくなる。なのに毎日ここでハチローが来てないかチェックしなきゃいけないのか?
あいつが悪霊にならないように向き合わなきゃいけないのか?考えただけでも気が滅入ってくる。」
眉間に皺を寄せ、疲れをほぐすように揉んでいる。
「年々気分が重くなっていくんだ・・・・。もし俺のせいでハチローが悪霊になったらどうしようってな。
俺は昔っから霊感があるから、悪霊の恐ろしさはよく知ってるんだ。
奴らにとり憑かれたら不幸な毎日が続くんだよ。起きてる時も寝てる時も怯えなきゃいけない。
ちょっとやそっとじゃ離れてくれないし、油断してると道連れにしようとしてくるんだ。」
「そんなに怖いんですか?悪霊って・・・・。」
「あれは経験した者にしか分からない。悪霊に取り憑かれるなんてごめんだ。」
鳥肌が立ってくる。
霊感のある人はみんな私に忠告してきた。
下手に幽霊に関わるなと。
悪霊は私が想像しているよりずっと恐ろしいってことなんだろう。
「俺に取り憑くだけならまだいい。一番恐ろしいのはこのホテルそのものに悪さをしないかってことだ。
他の従業員、それにお客さん、なんの関係もない人たちを巻き込んでしまうのが一番恐ろしい・・・・。
それだけはなんとしても避けたいんだ。だから今まで耐えてきた・・・・。」
「絹川さん・・・・・。」
何度も私に念を押してくる理由が分かった。
もう肩の荷を降ろしたいのだ。
降ろしたいんだけど、本当に私に預けていいのか判断に困っている。
「いいですよ。」
頷くと「そんな簡単に決めて・・・・」と言いかけたので、「いいんです」」ともう一度頷いた。
「こうして出会ったのも何かの縁だと思うから。」
「霊感でそう思うのか?」
「そうじゃありません。実は霊感に目覚めたのは一昨日の朝なんです。」
「一昨日!?そんな最近なのか!」
「どうして霊感に目覚めたのか自分でも分かりません。けどちゃんと意味があるんだと思います。ハチロー君と出会ったことも、ここにいるエル君と出会ったことも。」
腕に抱くエル君に笑いかけると、応えるように尻尾を振った。
「ダメだ!」
絹川さんは形相を変える。
シャワー室にこだまして耳が痛くなるくらいの声で。
「そんなつい最近に目覚めた人間に引き継がせるわけにはいかない。あんた悪霊の怖さも知らんだろう?」
「霊感のある人から散々注意されました。軽い気持ちで幽霊に関わると危ないって。」
「その通りだ。一昨日に霊感に目覚めた人間が、10年も彷徨っているハチローの魂を成仏させてやれるとは思えない。
それどころか悪霊に変わってしまって、あんたが取り憑かれるかもしれんのだぞ?」
「たしかに霊感に目覚めたのは最近だけど、もう一つ不思議な力があるんです。生まれた時からずっと。」
「不思議な力?なんだそれは?」
「動物と喋れるんです。」
「は・・・はあ?」
呆れ気味に眉を寄せるけど、「本当ですよ」と笑みを返した。
「私は幽霊に関しては素人です。けど動物の気持ちなら分かるし、私の気持ちを伝えることも出来ます。
絹川さんの気持ちだって、私の口を通してなら伝えることが出来る。あの子に伝えたいことがあれば何でも言って下さい。」
信じられないという風な顔をしていたけど、すぐに表情を崩して頷いた。
「そんな馬鹿なと思ったが、霊感だって似たようなもんだよな。死者の声が聞けるんだから。」
「ええ。だから任せて下さい。私が責任を持って引き継ぎます。」
絹川さんは背中を向け、目元を拭う。
「これで楽になれる・・・・感謝するよ。」
大きく息を吸い込み、音がするほど勢いよく吐き出した。
「じゃあ・・・・あのドアを開けるぞ。」
シャワー室の奥に電灯を向け、薄茶色の木造ドアを照らした。
ゆっくりと近づき、取っ手を引く。
「・・・・・ゴク。」
電灯で照らされたドアの向こうには、奈落のような穴がポッカリと空いていた。
「見えるか?」
「はい・・・・。」
横に並んで穴を覗き込む。
電灯で照らされた穴の中には水が溜まっていた。
「不気味だろう?」
「・・・・はい。」
素直に頷くと、「俺もだ」と息を飲んでいた。
「ここに落ちて友人は亡くなった。ハチローと一緒にな。」
「あの・・・・どうして今も水が溜まってるんですか?ここはもう・・・・、」
「もちろん使われていない。穴の下はボイラー室になっていたが、事故があってからは閉鎖された。」
そう、この穴の下にはかつてボイラー室があった。
そして穴の上にはサウナがあったのだ。
一人用の小さなスチームサウナだけど、当時のスタッフの人たちが頼んで備え付けてもらったらしい。
けどこのサウナルームには欠陥があった。
工事を担当した業者が手を抜いていたのだ。
そのせいでサウナルームの床下の強度は下がり、さらには階下にあるボイラー室からの熱と、スチームサウナの蒸気が染み込んで、さらに脆くなってしまった。
異変に気づいたのは調理スタッフの一人で、すぐに絹川さんに報告した。
歩いただけで床がおかしいと気づくほど脆くなっていて、これは危ないと使用禁止の貼り紙をした。
オーナーにも伝えて、サウナルームは使用しないようにと他の従業員にも通達が出た。
担当した業者に連絡し、その日のうちに来てもらったそうだけど、単に床板が脆くなっているだけだと言って、しっかりとした検査は行われなかった。
近いうちに修理に来るからと業者は引き上げたんだけど、翌日になってさらにおかしな事が起きた。
なぜかシャワールームの電気が点かなくなっていたのだ。
電球を交換しても光らないので、スイッチの故障だろうと、絹川さんもそれ以上のことは考えなかった。
次に業者が来た時に相談すればいい。それくらいに思っていた。
しかしその日の夜、このシャワールームで事故が起きてしまう。
絹川さんの友人が一日だけでいいから泊めてくれないかと頼んできたのだ。
従業員でない者を泊めるわけにはいかないと断ったけど、どうしてもとお願いされた。
理由を聞いても教えてくれなかったが、かなり切羽詰まった様子だったので、一日だけならとOKした。
そして夜、友人の女性が子猫を連れて現れた。
みんなにはからかわれたそうだ。
奥さんにバレたら怒られるぞと。
彼女はただの友人だからと説明したけど、余計にからかわれるだけだった。
この日、絹川さんは当直だったけど、一緒に泊まったりしたら更に誤解を招くと思い、別の部屋で寝ることにした。
『ここは自由に使ってくれていい。ただしサウナルームは調子が悪いので使用しないように。』
彼女はシャワーさえ使えるならそれでいいと頷いた。
けど電気が点かないので、シャワーは女子の部屋のを借りたらどうかとすすめた。
彼女は『お湯が出るなら充分』と、気を遣って断った。
『それにこの子がいれば寂しくないし。』
子猫を抱きしめ、いつも一緒に入るのだと笑っていたそうだ。
絹川さんは寝るまでの間、友人と同じ部屋にいた。
きっと悩みを抱えているんだろうと、相談相手になっていたのだ。
しかしいくら尋ねても、彼女はここへ来た理由を明かさなかった。
五年前に離婚し、子供もいないので、今は一人暮らしのはず。
なのに家に帰りたくないのはどうしてか?
気になる絹川さんだったけど、いくら友達とはいえあまり深く踏み込むのはマナー違反だと思って、それ以上は尋ねなかったそうだ。
そして時計の針が夜の12時を回る頃、自分が寝る部屋へ引き上げることにした。
『じゃあまた明日な。』
そう言い残し、宿直室を後にした。
それから二時間後のこと、嫌な夢にうなされたそうだ。
内容は覚えていないけど、とにかく嫌な気分になる夢で、寝汗を掻いて飛び起きた。
こういう夢を見る時は良くない事が起きるらしく、気持ちを落ち着ける為に顔を洗おうと、部屋の電気を点けた。
『絹川君。』
後ろから声がして振り返ると、友人が立っていた。
霊感の強い絹川さんは、一目見ただけで彼女が幽霊になっていると分かった。
きっと何かあったに違いない!
急いで宿直室まで行き、ノックもそこそこにドアを開けた。
畳の部屋には誰もおらず、もしかしたらシャワーかなと思って声を掛けてみた。
でも返事がない。
胸の中にモヤモヤした嫌な感覚が広がって、『入るぞ!』とシャワー室に駆け込んだ。
中は真っ暗で、スイッチを入れても灯りが点かない。
そういえば故障しているんだったと思い出し、畳の部屋まで懐中電灯を取りに行った。
しかしシャワー室を照らしても姿がない。
外へ出ているんだろうかと考えたけど、すぐにあることを思い出した。
『まさかな・・・・。』
シャワー室の奥にあるサウナルーム。
ここへは入るなと注意しておいた。
恐る恐るドアを開き、中を照らす。
そして目に飛び込んできたものを見て、思わず叫びそうになった。
なんとサウナルームの床が抜け落ち、下にあるボイラー室が丸見えになっていたのだ。
友人はボイラーのすぐ傍で倒れていた。
身体のほとんどが抜け落ちた床の瓦礫に埋もれ、頭と腕だけが覗いている状態だったという。
絹川さんはすぐにボイラー室まで走った。
瓦礫をかき分け、『大丈夫か!』と抱き上げた。
彼女は息をしておらず、目も開きっぱなしで、鼓動さえ止まっていた。
すぐに心肺蘇生を試みたけど、それでも息を吹き返さない。
『誰か!誰か来てくれ!』
騒ぎを聞きつけた従業員が集まり、やがて救急車も到着した。
絹川さんは病院まで付き添い、彼女が助かることを祈った。
その時、ふと人の気配を感じて顔を上げると、目の前に彼女が立っていた。
『ハチローは・・・どうなった・・・・?』
それだけ言い残し、すぐに消えてしまった。
絹川さんは諦めずに祈り続けたけど、残念ながら友人は帰らぬ人となってしまった。
ホテルに戻ると、瓦礫の中に死んだ子猫が埋もれていた。
白と茶色の模様で、鈴のついた白い首輪をしていた。
そっと子猫を抱き上げ、『すまん・・・』と謝ったのだった。
・・・・絹川さんは穴の中を照らしながら、「あの時・・・・」と呟く。
「もっとちゃんと注意しておけばよかった。そもそも俺の方が宿直室に泊まっていればこんな事にはならなかった。」
「あの・・・・おこがましいかもしれないですけど、絹川さんの責任じゃ・・・・、」
「考えちまうんだ、ああいうことがあると。あの時こうしていればよかったとか、ああしていれば違った結果になったとか。
無駄だって分かってても考えちまう。この10年ずっと・・・・。」
「絹川さん・・・・・。」
「気づくべきだったんだ。ただ床が脆くなってるだけじゃなくて、底が抜けそうなほどおかしくなっていたことに。
シャワー室の電気が点かなかったのだってそれが原因なんだ。」
「でもそれは警察の調査で初めて分かったことでしょう?手抜き工事が原因で、電気の配線にまで影響が出てったって。そんなの普通は分からないですよ。」
「でも俺には霊感があった。普通の人間より勘が鋭いはずなのに、どうしてあんな風になることを見抜けなかったのか・・・・悔しくて仕方ないんだよ。
見えなくてもいいものが見えたり、悪霊に取り憑かれたりしてるくせに、肝心な時にこの力は役に立たなかった。」
しゃがんで穴の中を睨み、「あいつは何かを悩んでいた」と言った。
「だから俺の所へ来たんだ。それだって未だに分からずじまいだ。挙句にはよ、俺が殺したんじゃないかって噂する奴まで出てきた。」
ただでさえ妙な誤解を受けていたのに、一番最初に発見したのが絹川さんだから、あらぬ疑いを掛けられてしまったのだ。
警察は事故だと判断した。
けど周りからの誤解は消えないままで、そのせいで奥さんと離婚する羽目にまでなってしまった。
「状況から見ればそういう噂が立っても仕方ない。女を泊めて、しかも第一発見者が俺だからな。
けどよ、俺はよくてもあいつに悪いじゃないかよ。そんな誤解されちまって。」
穴の中に目を落としたまま淡々と語る。
声に抑揚はないのに、強い感情がこもっているのが伝わってきた。
「あいつの実家へ葬式に行った時、ハチローも連れてったんだ。」
「ハチロー君を?」
これは聞いてなかったので驚いた。
「あいつよ、実家は長野なんだよ。」
「長野・・・・。」
「だから長野まで連れてったんだ。もう死んじまってるけどよ、ちゃんと腐らないようにドライアイス入れてな。
でもってあいつの傍においてやってくれないかって両親に頼んだんだ。庭にでも埋めてやってくれればって。」
「そ、それで!ハチロー君はどうなったんですか?」
「無理だって断られちまったよ。」
「どうして!?」
「あいつ親と上手くいってなかったんだ。若い時に家出してそれっきりでな。本当は遺体を引き取るのも渋ってたらしい。」
「そんな、自分の子供なのに・・・・、」
「親とはもう二度と会うことはないって言ってたからなあ。あいつにとっても実家へ帰るのは本望じゃなかっただろう。」
「あ、あの・・・ちょっといいですか?」
「なんだ?」
「ハチロー君、引き取ってもらえなかったんですよね?その後はどうしたんですか?」
「埋めたよ。」
「どこに!?」
「少し離れた場所にある公園だ。」
「公園・・・・。」
「あいつの両親が言ってたんだよ。どうしてもって言うなら公園に埋めてやったらどうだってな。
あいつ公園が好きで、家出するまではよく行ってたらしいから。だからまあ・・・・本当はダメなことなんだけど、隅の植え込みに穴を掘ってな。」
「埋めた?」
「ああ。」
「ちなみになんですけど、その公園ってもしかして・・・・・、」
私は陽菜ちゃんたちと一緒に行った公園の話をした。
すると「あんたもあそこへ行ったのか?」と驚いていた。
「ええ、そこにハチロー君がいるかもと思って。でも見つけられなかったんです。
陽菜ちゃんの子猫の首輪はあったんだけど、もう一つの首輪がなかったから。」
「俺はちゃんと埋めたぞ。そりゃ肉体は土に還ってるだろうけど、首輪は残ってるはずだ。もし誰かが掘り返したりしてなければな。」
「誰かが掘り返して持ち去ったってことはないと思います。そんなことする人いないだろうし、陽菜ちゃんの方のハチロー君の首輪は残ってたし。」
ポケットからあの公園で見つけた首輪を取り出す。
「これ、絹川さんが知ってるハチロー君の首輪じゃないですよね?」
「違う。こんなんじゃなかった。」
「ならやっぱりあの子の首輪だけ消えてるってことです。それってつまり、あそこに埋まっていたはずのあの子が、どこかへ消えてしまってことかもしれません。」
「けど勝手に消えるはずがないし、かといって掘り返す変わり者もいないだろ。」
「そうなんです。そうなんですけど・・・・、」
私には一つ気になることがあった。
それはあの公園を散歩していたおじさんが見つけた、猫の死骸らしきものだ。
あの死骸は陽菜ちゃんの方のハチロー君のものではない。
考えられるとしたらもう一匹のハチロー君しかいないんだけど、ふとおかしなことに気づいてしまった。
《ハチロー君が死んだのは10年前なんだから、猫の死骸らしきものはハチロー君とは関係ない。》
その死骸はまったく別の猫だったのか?
《そういえばハチロー君、病気で死んだって季美枝ちゃんの猫が言ってたけど、これもおかしな話よね。
だってハチロー君は事故死だもん。いったい何がどうなってるんだろう?》
頭がこんがらがってくる。
私は探偵でもなければ警察でもないから、今までの事実をどう整理すればいいのか分からなかった。
《この謎が解けないと、ハチロー君を成仏させてあげられないような気がする。》
穴の中に目を落とし、じっと見つめる。
ここにはもうボイラーはない。ないけど、さっきからずっと気になってることがあった。
「絹川さん、どうして穴の下に水が溜まってるんですか?」
奈落のような穴の底には、懐中電灯で照らし出された黒い水が浮かんでいる。
絹川さんは「ああ、それはな」と口を開いた。
「下の部屋は排水管の通り道になってるんだが、どうもどこかから漏れてるみたいでな。」
「穴が空いてるってことですか?」
「かもしれん。一ヶ月くらい前からこうなっちまってな、オーナーがそろそろ修理を頼むと言っていた。」
よっこらしょっと立ち上がり、「んじゃそろそろ仕事に戻るわ」と言った。
「藤井さん、あんたも飯食ってからにしたらどうだ?サンドウィッチは出来てるからよ。」
「はい、頂きます。」
実はちょっとお腹が空いていたのだ。
腹が減ってはなんとやら。
まずは遅めの朝食を済ませることにした。
私も立ち上がり、サウナルームを出ようとした・・・・時だった。
背後に嫌な気配を感じて振り返ると、何かに足元をすくわれた。
「あ・・・・、」
叫ぶ間もなく穴に落ちてしまう。
『藤井ちゃん!』
エル君も穴の中に飛び込んでくるけど、私はそのまま水に沈んでしまった。
《なにこれ・・・・水が・・・重い・・・・。》
そう深いわけじゃないのに溺れてしまう。
まるで泥のようにまとわりついてくるのだ。
そして誰かに足を掴まれ、底なし沼へ引き込まれるように、ズブズブと沈んでいった。
《これって・・・・今朝の夢と同じだ・・・・。》
あの悪夢が現実になるなんて・・・・。
呼吸も苦しくなり、意識が遠のいていく。
《誰か助けて!》
泥をかきわけ、必死に手を伸ばす。
すると柔らかい何かに当たった。
《なに・・・このモサモサした感じ・・・・。》
とにかくなんでもいいから助けてほしい。
ガシっとモサモサを掴むと、急に目の前に猫の顔が現れた。
人の身体ほどもある大きな猫の顔が。
白と茶の模様をした猫が見つめている。
真っ白な首輪の鈴がチリンと鳴った。

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