手の平の裏側 第一話 違和感

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:41
生まれた時から、常にある種の違和感があった。
それは言葉で語るには難しく、かといって感覚的に悟るのも無理があるようなものだった。
誰だって大人になるにつれて、子供の頃に抱いていた不思議な感覚は消えてゆくのだろう。
不思議なことを不思議なことと感じなくなり、未知なる存在に対する興味が失せていく。
もしそうでなければ、およそ人の世で生きて行くのは難しいように思う。
社会に溶け込むには自分を殺す必要があり、あらゆる疑念に目を逸らす必要がある。
いや、目を逸らすというより、そういう感性を消し去る能力がいるのかもしれない。
ならば・・・もしその能力に欠陥があったとすれば、現代の社会では一人前の大人と認められないことになる。
目に映る当たり前の不思議、言葉では語れない感覚的な現象。己の内側に広がる、果てしない宇宙・・・・。
そういうものに対して盲目的になることが、普通に働き、普通の人間として暮らして行く必須条件なのだろう。
ならば・・・・俺は間違いなく社会不適合者ということになる。
真面目に生きねばという葛藤・・・、しかし消えてくれないある種の違和感・・・。
己の外に広がる世界と、己の内に広がる世界は、絶え間ない衝突を続けているのだ。
自立し、自己の生活を確立している人間から見れば、俺はさぞぐうたらな人間だろう。
しかし・・・・考えれば考えるほど、己の外に広がる世界のことはどうでもよくなる。
ただ海を見ている時、ただ無限の宇宙を見上げている時、そういう時だけが、自分が自分であるという、一種の確信がある。
・・・・・全てはただの言葉であるが、それ以外に今の自分を言い表す術が無い。
まるで重荷を背負わされているように息苦しく、しかし海や宇宙を見つめている時は、その重荷が翼に変わる。
そう・・・この肉体が無ければ、今すぐにでも自分の望む世界へ飛んでいける。それは死を望むわけではなく、この現実の世界と隣り合わせに存在する、空想の世界へと旅立つことが出来ることとを意味する。
俺が望むのはただ一つ・・・・この世界を飛び出し、隣り合わせに存在する空想の世界へ行くこと。
今年で三十二歳。俺はこの歳になって、本気で妖精を信じている・・・・・。


            *


校舎の端に位置する音楽室から、青く茂る山が見えている。
先生が指導するリコーダーの音階も忘れ、ただその山に見入っていた。もうすぐ高校受験だが、出来ればあの山の麓にある高校に行きたい。地元では有名な進学校で、何よりいつでも山が見えるのがいい。
しかし残念ながら、俺の学力では遠く及ばない学校である。受験の申し込みはすでに済ませてあり、それは隣町にある辺鄙な地方都市の、何の面白味も無い場所に立っている高校であった。
教師から、ここならばお前の学力でも充分に受かると勧められた。幸い県立高校であるから学費の負担は少ないが、俺はそんな学校に行きたくなかった。だって・・・全然あの山が見えないじゃないか。
生まれた時から、常に傍にあった、あの原生林の覆い茂る美しい山が・・・・・。
ボケっとしたまま授業は終わり、教室に戻って体操着に着替える。次の授業は体育で、俺の苦手なサッカーをするのだ。
「おい清水。お前向こうのチームにいけや。俺んとこいらんから。」
「うん・・・。」
サッカー部でゴールキーパーを務める原口が、陰険な目で睨みつける。その取り巻きの連中も、俺を馬鹿にしたように冷たい視線を向けていた。
原口は取り巻きを連れて下駄箱に向かい、何が楽しいのかニヤニヤしながら運動場へ駆けて行く。
「・・・俺だってお前のチームなんか行きたあないわ・・・・。」
顔を真っ赤にして、泣きそうになるのを我慢しながら着替えていく。すると後ろからポンと肩を叩かれ、「シミっちゃん。気にすんなや。」と笑いかけてくれる友がいた。
「別に気にしてないよ。」
「あんまり肩に力入れんと、適当にボール蹴っとったらええんや。困ったら俺にパス回し。」
原口と同じサッカー部の浅野は、しまりのない顔でニコニコと笑う。
「そうそう、みんな原ちゃんのこと嫌ってるから、シミっちゃんだけ嫌ってんちゃうで。」
そう言って陸上部の伊原も声を掛けてくれる。
その言葉のせいで、俺はかえって泣きそうになる。でも涙が見られるのが嫌なので、あくびをするフリをして誤魔化した。
「ほな行こか。今日は掃除ないから、これ終わったらすぐ帰れるで。」
浅野が先頭を歩き、伊原に「早よ」と促されて後をついていく。運動場では体育教師の長部が待ち構えていて、恰好を付けたサングラスをかけて屈伸をしていた。
「ほな整列。今日の委員長、前へ出て掛け声。」
柔道部の顧問でもある長部は、ドスの利いた声で言う。本日の委員長である山口が前に出て、声を出すのを恥ずかしそうに準備運動の号令を掛けていく。
この時の俺は、心臓が口から飛び出しそうになるほど緊張していた。いや、毎回体育の時間になると、鉄の塊を背負わされたように身体が重くなるのだ。
でも・・・本当に重りが乗りかかっているのは、身体ではなく心の方だと知っている。
浅野も伊原も良い奴だが、やはり原口には逆らえない。サッカーの授業が始まれば、原口の独壇場と化し、俺はいつも攻撃の的にされる。
「ほな偶数と奇数に分かれてチーム組め。ゴールを決めた者には2ポイント。アシストを決めた奴には1ポイントや。」
いったい何のポイントか分からないが、これは長部の口癖だ。そしてこの意味不明なポイントを稼ぐために、無駄にやっきになる者がいる。それが原口だった。
頭が悪いクセに、今さら内申点を稼いだところに何になる?お前なんかいくら頑張っても、高校進学すら危ういのに・・・・・。
心の中ならいくらでも悪態がつける。しかし面と向かって言う勇気など持ち合わせていない。そして長部の適当なチーム分けのせいで、毎回原口のチームに組み込まれるのだ。
偶数と奇数で決めるチーム分けとは、出席番号のことである。俺の番号は16番。原口の番号は10番。必然的に原口と同じチームになってしまう。
口の中が渇き、何を言われるのかと気が気でなくなる。すると案の定、原口は俺を睨みつけて舌打ちをした。
「またお前入ってるし・・・・いらん言うんたやん・・・。」
これ以上ないくらいに不機嫌そうに言い、取り巻き連中と愚痴を言い合う。
《文句があるなら長部に言えや・・・。俺だってお前見たいなアホと組みたあないんじゃボケ・・・。》
この時点で、俺の目には涙が溜まっている。我ながらなんと弱いのだろうと嫌になるが、やはり原口に逆らう勇気は湧いてこない。
サッカーの授業が始まり、センターラインからボールが動く。俺は邪魔にならないように端に寄り、なるべく目立たないように気配を消していた。
この時注意しなければならないのは、浅野に見つからないことだ。あいつは優しさとおせっかいを勘違いしていて、無理矢理ボールを回して来る。
そうなれば地獄というもので、すぐに原口の罵声が飛んでくる。今日こそは何も罵倒されずに終わりたい。そんな儚い望みもむなしく、アホの浅野は「シミっちゃん!」と叫んでパスを寄こして来る。
「・・・・・・・・・・・・・・。」
パニックになる・・・。こちらへ転がって来るボールがスローモーションに見え、いったい何をどうしていいのか分からなくなる。咄嗟に蹴り出した足がボールを払い、サイドラインを越えて、敵のフリースローとなった。
「ああ、もう!だからお前はボールに触んなや!」
「・・・・・・・・・。」
いったい何がそこまで悔しいのか、原口は顔を真っ赤にして怒る。「ほんまお前いらんわあ」と罵られ、何度も舌打ちをされてしまった。
「浅野も清水にパス回すなや。ロクなこと出来んのやから・・・。」
「ごめんごめん。」
浅野はヘラヘラと笑い、俺の肩を叩いて「もっとリラックス」なんて抜かしやがる。
・・・・帰りたい・・・。今すぐここから消えてしまいたい・・・・。
俺は長部の元ヘ走り、「トイレに行かせて下さい」と頭を下げて運動場を抜けだした。
涙を堪えてトイレに駆け込み、悔しさと惨めさで壁を叩いた。
「ボケが!うっさいんじゃ原口!浅野もパス回すなや!」
何度も何度も壁を叩きつけ、拳が赤くなってくる。堪えていた涙があふれ出し、そこへ別の生徒が入って来て個室に隠れた。
「・・・・・・・・・・・・。」
気配を悟られないようにじっと息を殺す。もしここで気づかれたら・・・もしここで泣いていることがバレたら・・・それは死ぬほど恥ずかしい・・・・・。
守る必要すらないプライドを守り、ただただ時間が過ぎるのを待つ。そして誰もいなくなったところでトイレを出て、一目散に校門へ走った。
「・・・アホちゃうか・・・たかがサッカーの授業で・・・。あんな球ころ蹴って何がおもろいねん・・・。十五にもなってアホとちゃうか・・・・。」
悔しさを誤魔化す為に相手を罵り、自分のサッカーが下手くそなことを棚に上げる。
学校を出て壁にもたれ、遠くにみえる青い山を見つめた。
「・・・あそこ行きたい・・・。ずっとあそこにおれたらなあ・・・・。」
そんなことは無理だと分かっていても、どうしても抗えない想いが強くなる。人が集まる場所、人が競う場所・・・・どうしても昔から馴染めなかった。
いったいどうして競う必要があるのか?どうしてあんな球蹴り遊びで馬鹿にされなければいけないのか?考えれば考えるほどどうでもよくなって、フラフラと山の方に向かって歩いていた。
住宅の並ぶ細い路地を通り抜け、川沿いの大通りに抜け出る。そこを右に曲がり、真っ赤に塗られた長い橋を渡って行く。
俺の住むこの街は、川を挟んで大きく様相が異なる。中学校のある川東は、住宅地と低いビルが密集する地方都市。そして橋を渡った川西は、城下町の面影を残す、情緒と自然が溢れる観光地だった。
俺は自分の住む川東より、下町の情緒と自然が残る川西の方が好きだった。
橋を渡って階段を下り、城下町の細い路地を散策していく。突き当りの塀に沿って流れる小川には、放流された鯉が泳いでいた。
「まだおるんやなあ。この前の大雨で流されたと思ってたけど・・・・。」
幼い鯉が生きながらえていることに、ホッと胸をなで下ろす。
「ほなな。死んだらアカンで。」
鯉に手を振り、細い路地を進んで長い坂道に出る。かなり勾配がキツイ坂道だが、これを上ればお気に入りの場所に出る。
サッカーの授業などいくら元気があってもやりたくないが、好きな場所へ続く坂道なら、何の苦もなく上れる。
若干息を切らしながら上までのぼりきると、二手に道が分かれていた。
「右行くか・・・真っすぐ行くか・・・・どうしよ・・・・。」
右に行けば、あの美しい山へ辿り着く。真っすぐ行けば、小さな動物園と見晴らしのいい遊歩道に出る。
「迷うな・・・・・どうしよ・・・・。」
しばし立ち止まって考える。同じ場所でグルグルと回り、優柔不断に決めかねていた。
「まあええわ。先に動物園に行こ。クマ見てからでも山は上れるわ。」
二手に分かれた道を真っすぐ行くことに決め、小さな動物園の入り口に入る。門のすぐ近くには猿の入った檻があり、俺に気づいて木の枝から下りて来る。
「ごめんな。今日はおやつ持ってないねん。また土曜日に持って来るから。」
檻に手を掛けてじっとこちらを見つめる猿に手を振り、左手にある階段を下りてクマの檻に向かう。
そして柵で区切られたギリギリのラインまで近寄り、その逞しい身体に見惚れた。
「ええなあ・・・クマは・・・。ずっと見てても飽きへんで。」
まん丸な身体に、艶やかな黒い毛。そして大きな顔の割に、つぶらで可愛い瞳。頑丈な四肢には小ぶりな鉈のような爪が生えていて、それがこの動物を猛獣であることを印象づける。
「お前もな・・・ほんまなに山におりたいんやろ?こんな狭い場所グルグル回ってさ。いくら回ったって、どこにも行けへんねんぞ?」
大きなツキノワグマは俺を一瞥し、興味もなさそうにそっぽを向く。そして「ふんふん」と鼻息を荒くしながら、糞の散らばった狭い獣舎を歩き回っていた。
「可哀想になあ・・・。お前、どこの山から連れて来られたんや?ここで生まれたわけと違うよな?」
クマは何も答えず、ただ獣舎の中を歩き回っている。それを繰り返せば、いつかどこかへ行けると思っているのか?それともただのストレスからくるものなのか?
クマでない俺には、このクマの気持ちは計りかねた。
「しゃあないよな。こうやって檻に閉じ込められてしもたんや。もしここから脱走したらえらいことになってしまう。銃持ったおっさんとか、警察とかが出て来てズドンや。」
不自由な檻の中で、確実な生を取るか?それとも危険を冒してでも、自分の行くべき道を取るか?やはり・・・この時の俺には計りかねた。
「分からんわ・・・。俺な、ずっと昔からこうやねん・・・。なんかな、周りに上手く合わせられへんから、友達が出来ても家に誘ってもらえへんねん。教室では仲良う喋ってくれるのに、学校が終わったらみんな知らんぷりやねん。これって俺が悪いんかな?声掛けたら、みんな遊んでくれるんやろか?」
返って来るはずのない言葉を投げかけ、ひたすらクマの動きを眺めていた。黒い獣は下を見つめながら延々と歩き、時折クルリと方向を変えていた。
「逆に回ったって無駄やで。いくら歩いても出られへんわ。」
切ない気持が胸を満たし、これ以上見ているのが辛くなってその場を去った。
「・・・なんや、嫌な気分になってしもた。先に山の方に行っといたらよかったな。」
自販機がある休憩所で腰を下ろし、じっと空を見上げる。
「あの空の中に何かあると思うんは俺だけやろか?なんか・・・あの中には手を伸ばしても届かん何かがあるような気がするんやけどなあ・・・。」
さすがに十五にもなれば、これが曖昧なイメージの錯覚だと自覚するようになる。
しかし・・・・それでもこの奇妙な感覚は消えない。今この目に見えている向こう側に、決して手の届かない別の世界があるような気がしてならなかった。
「すぐそこに感じるんやけど・・・・妙な気分や。無いけど在る。そんな気がしてしゃあないわ。」
自分でも何を言っているのか分からず、独り言も馬鹿らしくなって口を噤む。しばらく休憩所のベンチで佇み、「よっしゃ!」と膝を叩いて立ち上がった。
「山登ったろ。今日は晴れてるから、川の向こうまでよう見えるはずや。」
二手に分かれていた道まで戻り、山へと続く細い道を上っていく。途中にある神社に頭を下げ、大昔に作られた茶室を後にして山道の入り口に向かった。
「今日はちょっと風が強いな。崖を登る時は気いつけんとな。」
山道は大きな木立に囲まれていて、中腹までは石造りの階段になっている。そこから上は険しい獣道で、途中は切り立った崖になっていた。
右足を一歩・・・階段に乗せる。トントンとスニーカーで踏みしめ、跳ね返って来る石の感触を確かめる。
「硬いな・・・当たり前やけど。」
何度も登っている山であるが、ここに来るとたまに不気味な感覚に襲われる。言うなれば、夜の神社の鳥居をくぐるような、ある種の覚悟が必要になる。
「入ったらあかん場所ってあるからな・・・。今日は大丈夫やろか?」
しばらく階段を登り、じっと佇んで山の気配を感じる。不気味な時は足が前に進まないが、今日はすんなりと階段を登っていけそうな気がした。
「うん、大丈夫や。山の神様は怒ってはらへん。」
山道の入り口で頭を下げるの忘れていたので、頂上に向かってサッと会釈する。
「お邪魔します。」
パンパンと手を叩き、じっと目を瞑って挨拶をする。
「・・・・・・・・・・・・・・。」
山には神様がいる。ずっと小さい頃からそう感じていた。それは決して見ることも出来ないし、触れることも出来ない。そもそも、特に人間に関わろうとしない。だけど・・・きっと神様がいる。それは確信に近かった。
「山でええ加減なことしとったらバチが当たる。なんとなく・・・そういう気がするな。」
緑のジャージの腕をまくり、深呼吸をしてから山道を登り始める。途中にある湧水で手を洗い、ついでに顔も洗った。
「ああ・・・ベチョベチョや・・・。ハンカチもないし。」
濡れた手をブラブラとさせ、ジャージで顔を拭う。石の階段は遥か先まで続いていて、このまま登って行けば、どこか別の世界に出られそうな気がした。
「そんなわけないって分かってるけど、期待してしまうよなあ・・・。」
・・・・違和感・・・・・。
ここは俺のいる場所じゃない。確かに俺はこの世界に立っているけど、それでも決して拭えない違和感がある。
「これって病気なんかな?俺だけ周りから置いて行かれてるような気がするんやけど。」
中三にもなれば、彼女のいる奴もいるし、初体験を済ませている奴もいる。遊び方だって変わっていくし、自分だけが時間の渦に取り残されているように感じた。
現実の世界は目まぐるしく変化していて、留まることなく流れていく。その波に乗れないのなら、周りから置いて行かれても仕方のないことかもしれない。
「どっかおかしいんや、俺は。きっと・・・おかしいんや・・・・。」
なぜかは分からないが、急にボロボロと涙が溢れて来た。大好きな山を登っているはずなのに、ズクズクと心が痛み出して泣いていた。
自分でも意味が分からない涙。何が悲しいのか、なぜ心が痛むのか・・・・まったく分からずに泣いていた。
涙を拭きながらひたすら山を登り、険しい獣道を歩いて行く。切り立った崖を注意深く進み、かつて城が立っていた頂上までやって来た。
本丸はとっくの昔に無くなっているが、石畳はそのままに残っている。青い苔が覆い、ツルツルと滑って転びそうになる。気をつけながら先へ進み、木立の開けた場所まで歩いた。
「・・・ええ景色や・・・。川が流れてて、遠くまで山が広がってる。その合間に小さい町があって、たくさんの人間がおるんや・・・。」
石畳に腰を下ろし、じっと頂上からの景色を眺める。こういうふうに遠い景色を眺めていると、どう頑張っても言葉に出来ない何かが流れ込んでくる。
それは柔らかく身体を包み、心に疼く傷に染みていく。零れていた涙が止まり、代わりに別の涙が溢れてくる。
それは悲しみの涙とは違い、身体の奥底から湧き出る熱い感情だった。膝を抱えてうずくまり、目を閉じて項垂れる。
人間は・・・・嫌いだった。友も嫌いだし、親なんかもっと嫌いだ。
こちらの話を聞きもせず、ただ自分のことだけをベラベラ喋る親が嫌いだった。だから小学六年生の時から、ほとんど口をきいていない。
向こうは・・・俺のことをどう思っているのだろう?厄介な手のかかる子供だと思っているのだろうか?それとも・・・・。
いくら考えてもキリがなく、またどうでもよくなって顔を上げる。ゆっくりと立ち上がってお尻を払い、険しい山道を下りていく。
この山に来ればスッキリ出来るはずだと思ったのに、心の渦はさらに加速していく。言いようのないギリギリとした痛みが、万華鏡のように胸を砕いていく感触があった。
「・・・怒られるな・・・学校戻ったら・・・。このまま、どこか遠くへ旅に出よか。」
山道を下りて城下町まで戻り、川沿いの通りに出て車を眺める。
赤く塗られた大きな橋を歩き、途中で足を止めて対岸の景色を見つめた。
「昔の蔵がある・・・。あそこにはほとんど行ったことないけど、何があるんやろな。」
橋を渡って階段を下り、通り沿いに続く蔵の壁を眺める。ずいぶん朽ちた風情だが、それは歴史の重みを感じさせる重厚な朽ち方だった。
「ツタが巻いているし、あちこちヒビも入ってる・・・。」
ペタペタと白い壁を触り、ひんやりとした感触を確かめた。
「不思議やな・・・。こんだけ陽が照ってるのに、冬みたいに冷たい。中に何かあるんやろか?」
高い壁を見上げ、ヒビの入った瓦に手を伸ばしてみる。指の先端がわずかに触れて、壁と同じようにひんやりとした感触があった。
「これ・・・登れへんかな・・・。ちょっと中に入ってみたい。」
回りを見渡すと、すぐ近くに大きな木が生えていた。川沿いの道路に根を張っているその巨木は、何百年も昔から生えている、地元では有名な木だった。
根の周りは車が進入しないように舗装されていて、中に土が敷かれている。巨木は道路からはみ出し、川に向かって大きな枝を投げ出している。その身には青々とした葉を茂らせていて、蔵の壁より高く伸びていた。
どう見ても車の通行の邪魔なのだが、歴史ある遺産として市が保護している大木だった。
「あの木・・・・上に登ったらいけるかな?」
巨木に近づき、そっと手を触れてみる。その樹皮は硬く割れていて、長年の月日を感じさせる皺が刻まれていた。
「まるで木の中に血が通ってるみたいやな・・・。この木はなんか温いな。生きてる者の温度っていうか・・・鼓動みたいなもんを感じるわ・・・。」
その温もり、その鼓動、きっと自分の錯覚だろうと思った。木に血は流れていないし、鼓動も刻まない。それなのに、温度と鼓動を感じるのはどういうことか?
「これは木が出してるもんとちゃう。俺が感じとんや。俺が勝手に・・・・。」
知っていた。木は何も伝えない。人間に対して、何かを伝えようとすることはない。ならば・・・この温もりと鼓動は、俺の内側から出て来ているものだ。
その時・・・ふと妙な感覚を覚えた。上手く言葉に出来なかった違和感が、少しだけ形を持ったように感じた。
しかしすぐに砂のように崩れ去り、またいつもの違和感に戻っていく。
「なんやったんや、今のは・・・・・。」
若干の気味悪さを覚えながら、躊躇いがちに木に登った。太い幹から枝が伸び、蔵の屋根まで続いている。
落ちないように慎重に進み、何とか蔵の壁の屋根まで辿り着いた。
「瓦がグラグラしてるな・・・。ちょっと怖いけど・・・。」
四つん這いで瓦にしがみつき、壁の向こうを見下ろす。大きな蔵は壮年の威厳を感じさせる佇まいで、まるでその中に財宝でも蓄えているようだった。その周りには狭い庭が広がっていて、高い草を茂らせていた。
「こっから飛び降りても大丈夫やろか・・・。」
迷いながら足を伸ばし、ずるずると滑り落ちるように庭に降り立った。高い草が行く手を阻むように立ちふさがり、冒険心をくすぐられながら蔵の扉へ近づいていった。
「なんかドキドキするな・・・。もしかしてすごい財宝とかあったりして。名刀とか小判とか・・・・・。」
ムクムクと妄想を膨らませながら、息を飲みつつ扉に手を掛ける。丸い取っ手は茶色に錆びていて、触れただけでもボロボロと表面が崩れ落ちた。
「ボロイなあ・・・。でも鍵はかかってないみたいや。ちょっとドキドキするけど・・・。」
扉は重かった。しかし開かないことはない。足を踏ん張り、体重を掛けて引っ張る。
古い木で出来た扉は左右に開かれ、蔵の中に光が射しこんだ。
「・・・・・・・・・・・。」
好奇心と恐怖感を持って中を見つめ、ゆっくりと一歩を踏み出す。蔵の中には小さな窓があり、檻のように鉄格子が嵌っていた。そこから光線状に光が射し、土の床を白く照らしている。
「・・・・・・・・・・・。」
誰もいるはずがないのに、息を殺して中の様子を窺った。蔵は外から見たよりも狭く、一目で中に何も無いことが分かった。
「なんや・・・絶対に何かあると思ったのに。つまらんわ。」
期待していた分、落胆は大きかった。ため息を吐くほど拍子抜けして、熱が冷めるように興味が引いていく。
「刀とか小判とか・・・絶対にあると思ったのに・・・。しょうもな。」
吐き捨てるように言い、周りに一瞥をくれてから外に出る。
しかしふと思いついたことがあり、再び中に戻った。
「この中に閉じ込められたらどうなるんやろ?扉を閉めたら雰囲気が変わりそうやな。」
開いた扉に手を掛け、ギチギチと軋む音を鳴らしながら閉めていく。外から差し込む光が細くなり、扉が閉められるのと同時に暗闇が押し寄せて来た。
「怖・・・・。ごっつい不気味や・・・・。」
鉄格子の小さな窓から光が射し、それがかえって不気味だった。光が照らす地面を睨みつけ、そっとその場所に立ってみる。
「・・・なんか、足元だけ温くなってきたな。」
白いスニーカーが光を反射し、まるで輝いているように見える。そっと膝をついて靴に触れ、驚くほど暖かいことに気づいた。
「なんやこれ・・・まるでコタツに入ったみたいに温くなってる。なんでや?」
指でスニーカーをなで、その暖かさを確かめる。そして光の射す小さな窓を見上げてみた。
「・・・・・・・・・・・・。」
何かと目が合った・・・。大きな丸い目が二つ、じっとこちらを見つめている。一瞬悪寒が走るが、その丸い目の正体が分かって安堵に変わった。
「猫か・・・・びっくりした・・・・・。」
ホッと胸をなで下ろし、立ち上がって窓に近づく。
「首輪してないな。野良猫か?」
そっと指を差し出すと、キジトラの大きな猫はササッと逃げていった。
「怖がりやな。何もせえへんよ。」
窓から顔を覗かせると、猫は立ち止まってこちらを睨んでいた。尻尾をピンと立てて警戒し、じっと俺の様子を窺っている。
「そんな怖がらんでええよ。こっちおいで。」
笑いながら語りかけると、猫は尻尾を立てたまま悠々と歩いて消えていった。
「行ってもた・・・。首輪してなかったけど、毛艶がええから飼い猫なんかな?」
しばらく猫が去った方を見つめ、窓から離れて蔵の中を見渡す。
「扉を閉めても、ただ暗くなっただけや。」
扉を閉めれば、この中が別の空間に変わるのではないかと密かに期待していた。しかしその期待はあっさりと裏切られ、強力な力で現実に引き戻される。
「もう出よか。何もおもろいことなんかなかったわ。」
扉を開け、中に入ったことがバレないようにきっちりと閉める。そしてその時、とても重大な問題に気づいた。
外から入る時は木を伝って来られたが、中から出るにはどうしたらいいのか分からない。蔵の壁はかなり高く、その上にはボロい瓦が乗っかっている。下手に手を掛けてよじ登ると、瓦が落ちて怪我をしそうだった。
「どっかに出口とかないんかな?猫が逃げた方に行ってみるか。」
蔵を回って庭の裏手に出てみる。高い草が邪魔をするが、足で踏みつけて折っていった。
「これだけ草が高いってことは、長いこと誰も入ってないんやろな。ここって元々は何があったんやろ?」
刀もない。小判もない。それどころか、ゴミ一つない蔵だった。せっかく頑張って中に入ったのに、なんだか肩透かしをくらったような気持ちになって落ち込んだ。
「もうとっくにサッカーは終わってるな。今頃学校では騒ぎになっとんちゃうやろか。」
勢いで学校を抜けだしたものの、冷静になってみると怖くなってきた。学校から生徒が姿を消したのだから、きっと大騒ぎになっているに違いない。そう思うと、ここから出たくないという気持ちに駆られた。
「出て行ったら怒られるだけや。こんな所におってもしゃあないけど、やっぱり外には出たあないなあ・・・。」
憂鬱な気分を抱えたまま、再び蔵の前に戻る。腰を下ろして膝を抱え、伝って来た大木をそっと見上げた。
「あの木・・・こうして見てても不思議な感じがする。この蔵と何か関係があるんかな?」
あの木に触れた時に感じた、暖かい温もりと、脈打つような鼓動。その感触は、この手の平が確かに記憶していた。
あれは木から発せられたものではない。あの木に触れて、自分の中から出て来たものだ。
きっとそれは、超能力や霊能力といったいかがわしいものではなく、常に自分の中にあった違和感から生まれたものだった。
「この正体・・・突き止めなあかんな。これをどうにかせん限り、俺はダメな奴のままな気がする。」
蔵の前にもたれかかり、じっと目を瞑る。どれだけそうしていたのかは分からないが、やがて夜がやって来た。星がまたたく夜空を見上げ、ふと違和感が揺れ始める。
それがとても心地良くて、ギュッと手の平を胸に当てた。
この温もりは・・・自分の体温。この鼓動は自分の心臓。でも・・・あの大木から感じた温もりと鼓動は・・・もっと脆いものだった。
手を伸ばせば消えてなくなるような、儚いものだった気がする。
夢心地の気分は、全身を包むように暖かくなっていく。もしここで生きることを放棄すれば、星のまたたく夜空に昇れるんじゃないかと思った。いや・・・そうであってほしいと願った。
「いつか・・・あの宇宙に吸い込まれて、ここじゃないどこかへ行きたい。外国とかそんなんじゃなくて、こことは違う世界へ・・・・・。」
自分の肩を抱き、膝に顔をうずめて丸くなる。全てをここじゃない世界に委ねるように、何もかも崩れて溶けてしまいたい気分だった・・・・・。
その翌日・・・俺は学年主任の教師に発見され、思い切りビンタされた。学校に戻ってからは長部にも殴られ、家では両親から叱責を受けた。
全ての大人が俺に言った言葉・・・・『どれだけ心配したと思っているんだ?』
その時、俺の頭に浮かんだ返し文句は一つだけだった。
・・・・・知るか。

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