手の平の裏側 第二話 消えゆく感覚

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:44
冬の冷たい風が、穴の空いた手袋から入りこむ。
遥か遠くまで続く直線道路を、自転車を漕いで進んでいった。
「8時20分か・・・ちょっとやばいな。」
通学前に自慰行為をしたせいで、家を出るのが遅くなってしまった。一番重たいギアに切り替え、足に力を入れて漕いでいく。
俺が通う高校は隣町にあって、自転車を飛ばして30分ほど。ホームルームの開始が8時40分だから、今いる場所からならギリギリ間に合う計算だった。
「やっぱ学校行く前にオナニーするのはやめなあかんな。毎回遅刻になってしまう。」
中学を卒業して高校に上がったものの、やはり今までの違和感は残ったままだった。いや、それどころか、より強力に心を疼かせることがある。
学業にも身が入らず、部活もすぐに辞めてしまった。毎日学校へ行き、ただ机に座って退屈な授業を受けるだけ。
幸い偏差値の高くない学校なので、学業に専念しなくても落第の危険はない。テストでは中間をキープしているし、友達だってまったくいないわけじゃない。
でも・・・やはり今の学校は好きになれなかった。辺鄙な地方都市に立つ学校は、何の面白味もない。
いや、面白味がどうとかではなく、ほとんど自然が無いのだ。校舎の裏側には小さな山がそびえているが、あの山からは何も魅力を感じなかった。
「頂上にエロ本が置かれてる山なんて嫌やからな。それにあの山には・・・なんか魅力を感じへん。きっと神様がおらんのや。」
長い直線道路を抜け、短い橋を渡って坂道を下って行く。雑多な建物に囲まれた路地を抜け、また大きな直線道路が現れる。
ここでとにかく時間を稼がないと、学校に遅れてしまう。ペダルに体重を乗せ、立ち漕ぎでスピードを出していく。
・・・・しばらく走った頃だろうか。急にペダルが重く感じられた。いくら漕いでもスピードが出ず、それどころかどんどん失速していく。
「あれ?これってもしかして・・・・・。」
自転車を降りてタイヤを確認すると、前輪がパンクしていた。
「なんでいきなりパンク?この前空気入れたのに・・・・・。」
スタンドを上げ、じっくりと前輪を確認する。どこに穴が空いているのか分からないが、パンクしてしまったものはしょうがない。
「これは確実に遅刻やな・・・。どうしよ・・・。」
どうしよと呟いたものの、別にどうこうするつもりもなかった。そのままボーっと立ち尽くし、ただ時が過ぎるのを待つ。
「家に帰ろうか・・・。いや、ここからやったら学校に行った方が近いかな。」
しばらく考え込み、学校に向かうことを決めて自転車を押した。パンクした前輪は妙な音を立てながら回転し、腕が疲れてきて立ち止まった。
「しんど・・・・。自転車重いわ。」
スタンドを立てて路肩に駐輪し、歩道に腰掛けて項垂れる。
「やっぱ・・・ギリギリに家を出たらあかんよな。もっと余裕をもって行動せんと。」
余裕をもって行動する。よく親や教師から言われるが、どうにもピンとこなかった。
「余裕ってなんやねん。そんな時間を作ろう思ったら、計画的に行動せなあかんっちゅうことやんか。そんなんまっぴらごめんやな。」
ポケットを漁り、砂糖が解けて歪な形になった飴を舐める。なんだかもう学校にも行きたくなくなってきて、このままどこかへ散策に出かけようかと思い始めていた。
「自転車・・・・置いていくわけにはいかんよな。重いけど持っていこか。」
ハンドルを握って自転車を押し、来た道を引き返す。そのすぐ隣を大型トラックが駆けて行き、路肩に止まっていかついおっさんが降りてきた。
「兄ちゃん、大丈夫か?」
「え?」
「それ、パンクしとんとちゃうんか?学校に行く途中なんやろ?」
ベージュのツナギを着たおっさんは、ツカツカと俺の方に寄って来る。そして身を屈めて自転車を調べ始めた。
「ああ・・・前がパンクしとんやな。」
フニャフニャになった前輪を指で押し、膝に手をついて立ち上がる。
「この近くに自転車屋があったやろ?運んで行ったるわ。」
「いや、大丈夫です・・・・。」
「大丈夫って、パンクしとるやないか。学校遅れるで?」
「・・・もう時間過ぎてるんです。いっつも遅刻しとるから、このまま行きたあないなあって思って。」
顔を逸らしながら恥ずかしそうに言うと、おっさんは小さく笑った。
「気持ちは分かるけど、このままやったらあかんやろ。ええから助手席に乗れ。おっちゃんが運んで行ったるから。」
「・・・いや、ほんまに大丈夫です。」
「ほなどないすんねん?このまま自転車押して学校に行くんか?ここからどれくらい距離があるんや?」
「・・・・・七キロくらい?」
「そら遠いで。そこまでこれ押して行くつもりか?」
「体力に自信あるから大丈夫です・・・・・。」
おっさんは困ったように笑い、何も言わずに俺を見つめた。
「ケータイは持ってへんのか?家に電話かけて、親に迎えに来てもらうとか。」
「持ってません・・・。」
「ほなこのまま自転車押して行くんか?」
「・・・・・・はい。」
俺は顔を真っ赤にしながら、サッとハンドルを握る。小さく頭を下げ、そそくさとその場を後にした。
かなり歩いてから後ろを振り返ると、おっさんはトラックと一緒に消えていた。
「・・・・・・・・・・・・・。」
申し訳ないことをしたと思った。せっかく善意で助けてくれたのに、それを無碍にしてしまった。
心の中で何度も詫びながら、俯いたまま学校まで歩いて行った。
校門に着いた頃には九時半を回っていて、一時間目の授業が終わる直前だった。今から教室に入るのはためらわれ、駐輪所に自転車を置いて下駄箱に向かった。
ジャージを着た生徒たちが校舎の周りを駆けていき、ダラダラと汗を流しながら白い息を上げている。
冬になれば、体育の時間はもっぱらマラソンになる。球技は嫌いだが個人競技は好きで、特にマラソンは大のお気に入りだった。
一人で黙々と走っていると、余計な葛藤が吹き飛ばされていく。頭に渦をまく様々な考えが整理され、心地の良い疲れが身体をほぐしてくれるのだ。
「体育の授業・・・全部こういうのやったらええのに。球技なんか絶対にやりたあないわ。」
中学の時に原口から受けた傷は、まだ鮮明に残っていた。サッカーにしろソフトボールにしろ、チームで戦う球技にはとうてい慣れることは出来なかった。
青いジャージを着て走る生徒たちを眺めていると、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「今のうちや。」
二時間目までの休憩時間は五分。その隙に、何事もなかったかのように教室に入ればいい。
担任にはあとで事情を言いに行こう。パンクしたという理由なら、きっと納得してくれるはずだ。
サッと上履きに履き替え、カバンを担いで廊下を走っていく。俺の教室は三階にあるので、息を切らしながら階段を駆け上がっていった。
一旦息を整え、廊下に出て様子を窺う。何人かの生徒が廊下で談笑をしていて、その横を通り抜けながら自分の教室に入った。
その途端、中にいた生徒が一斉にこちらを見た。
「・・・・・・・・・・・。」
残念ながら、まだ授業は終わっていなかった。英語の本を持った若い女の教師が、「清水君」と小さく笑う。
「どうしたん?篠山先生から何も連絡なかったけど・・・。」
篠山とは俺の担任である。英語教師の文田は、本を閉じて「座り」と手を向けた。
生徒から向けられる冷たい視線を掻い潜り、真ん中の後ろにある席に座る。
・・・・居心地が悪い・・・・・。
何人かの生徒はまだ俺のことを見ていて、無機質な視線を飛ばしていた。
「じゃあこれでお終いです。」
文田の声が掛かると、学級委員長の岸本が号令をかけた。全員で立ち上がって授業の終わりの挨拶を済ませ、文田は俺の方に手招きをする。
「どうしたん?なんかあった?」
それは問い詰めるような口調ではなく、ただ純粋に疑問に思って尋ねた様子だった。
「自転車がパンクして・・・・。」
「そうなん?じゃあどうやってここまで来たの?」
「自転車を押して来ました・・・・。」
文田は驚いたように目を見開く。わざとらしく「はああ・・・」などと口にし、頷きながら小さく笑った。
「それ篠山先生に言うとき。今やったら職員室にいると思うから。」
「はい・・・。」
それだけ言って文田は教室を出て行く。俺は一旦自分の机に戻り、カバンの中身を机に移した。
「お前なに遅れとんどいや。」
後ろからバシンと肩を叩かれ、テニス部の藤沢が俺の机に手をつく。
「ちょっとパンクしてな。」
「パンク・・・・あかんやっちゃなあお前は。」
「そんなん俺のせいちゃうで。タイヤが悪いんや。」
「ちゃんと空気入れてたんか?」
「この前入れたから、もともとタイヤが弱ってたんとちゃうか?自転車漕いでて、急に遅くなった時は焦ったもん。」
藤沢はなかなかの気のいい奴で、「ダッサ!」と笑いながら嘘のない心で俺を馬鹿にする。
それが心地良くて、俺も「うっさい」と返した。
「今からイーグルアイの所に行って来るわ。遅刻した理由言わなあかんねん。」
「三時間目でええやん。どうせ体育なんやから。」
「早い方がええやろ。もうじき大学受験なんやし、内申書に関わるやん。」
「ウソつけ!お前そんなん気にしてへんやろ。」
「まあな。」
笑いながら立ち上がり、教室を出て職員室に向かう。確か次の授業は数学だったはずで、口うるさい教師が来るので早く戻らないといけない。
階段を下り、下級生の教室の前を通り抜けて職員室の前に立つ。ノックをして「失礼します」とドアを開けると、すぐ近くの席に篠山はいた。派手なジャージに日に焼けた肌。机にはイーグルアイと呼ばれる所以の、大きなサングラスが置いてあった。
「先生。」
声を掛けると「おお」と振り返り、書き物をしていた手を止めて俺を見上げる。
「すいません。通学途中にタイヤがパンクして。」
それを聞いた篠山は苦笑いし、「どうやって来たんや?」と不思議そうに尋ねた。
「自転車を押して来ました。」
「どの辺でパンクしたんや?」
「ええっと・・・あの緑色の壁のパン屋がある所からです。」
「あんな所から自転車押して来たんか!」
篠山は腕を組んで可笑しそうに笑い、「帰りはどうするんや?」と真顔で尋ねる。
「・・・・考えてません。」
「ほな家に電話かけろ。誰か車持ってる人おるか?」
「兄ちゃんが休みやったら・・・多分。」
「ほな今から電話せえ。これ使ってええから。」
篠山は自分の机の電話を引っ張り、受話器を寄こしてくる。「すいません」と頭を下げながら受け取り、家の番号をプッシュして誰かが出るのを待った。
「・・・・・・・ああ、おじいちゃん?修輔やけど、今兄ちゃんおる?」
『浩哉か?ちょっと待って。』
受話器の向こうから『浩哉!』と呼びかける声が聞こえる。何度か呼んでいたが、どうやら兄はいないようだった。
『もしもし?今おらんみたいや。』
「分かった。ほなまた後でかける。」
電話を切り、「いないみいたいです」と受話器を返す。
「また昼休みにでもかけてみい。あいつも仕事しとんやろ?」
「はい。それじゃ失礼します。」
俺の兄もこの高校に通っていて、三年の時は篠山が受け持っていた。身内を知られているというのは、なかなか恥ずかしく、そしてやりにくい・・・。
頭を下げて篠山の机を後にし、職員室を出る前に時計を確認した。
「やばい。エッキスが来てまう。」
エッキスとは口うるさい数学教師のことで、Xのことをエッキスと発音するのでつけられたあだ名だ。いつも短い竹の棒を持っていて、数学の教師でありながら歴史を引き合いに出して説教をする。
俺は一目散に廊下を駆け、全力で教室まで戻った。
「・・・・・・・・・・。」
教室の手前に、ちょうどエッキスが来ていた。やばいと思いながら、頭を下げて脇を通り抜ける。
「こら、何しとんじゃ。授業始まる前に教室入っとかんかい。」
「すいません・・・・。」
慌てて教室に入り、息を整えて自分の席に座る。窓際の離れた席から、藤沢がニヤニヤと意味不明な笑いを飛ばしてくる。
俺も笑いを返し、数学の教科書を出して勉強をしているフリをした。
エッキスの話は退屈で、まったく内容が頭に入ってこない。いかにも真剣に授業を受けている様子を装い、窓の外に目をやった。
校庭に立ち並ぶ木々は、冬の寒さに葉を落としていた。空は晴れているのか曇っているのか分からない状態で、薄い光が膜のように覆っていた。
・・・・冬か・・・これもええ季節や・・・・・。
景色は色をなくし、命は過酷な冷気に晒される。強く生きる者、そして生き残ろうとする執念を持つ者だけが乗り越えられる季節。
人間のように文明を持たない生物にとっては、毎年訪れる試練の時だった。
それはまるで、受験のようにふるいに掛けられることを意味する。怠惰な者や、生命力の無い者は、次なる春を迎えることが許されない。過酷な試練を耐え抜いた者だけが、暖かい春の陽射しに祝福される。
大きな動物も小さな動物も、いや、植物だって、この季節を乗り越える為に、自分なりの戦い方で奮闘している。
土の中で眠る者もいれば、木の皮を齧って飢えをしのぐ者もいる。校庭の木々は光合成を放棄し、ただ夜明けの時が来るのを待っていた。
生き残る為の戦いは様々。眠りについてもいいし、食えるものは何でも食べるという方法でもいい。どちらにせよ、生き抜く為の戦いに変わりはないのだから。
もし自分がそういう世界の中に放り出されたら、いったいどうなるのだろう?三日ともたずに死ぬか、それとも執念で長生きしてみせるか。
そればっかりは、そういう状況になってみないと分からない。しかし・・・生き抜く自信はほとんどなかった。
自然が好きなくせに、その過酷さに耐えうる強さは、きっと俺にはない。
美しいだけが自然ではなく、時に鬼のような厳しい顔もみせる。ならば野生の生き物たちは何故、この過酷な環境を生き抜こうとしているのか?
今年の冬を越えても、また新たな冬がやって来る。延々と続く決まりごとの中で、人間以外の生物たちは、いったい何を思って生きているのだろう?
それが本能だというのはたやすいが、ではなぜそんな本能を持ったのか?それに対する答えなんて、きっとどんな学者でも持っていない。
生き抜こうとする本能や、死に抗おうとする本能は、科学的にいえばDNAに書き込まれているからだろう。
じゃあなんで、そういう情報がDNAに書き込まれているんだろう?死を恐れるのは、種の繁栄を成功させる為かもしれない。それならば、なぜ生き物は繁栄しようとするんだろうか?いったい、いつ、どこで死を恐れるようになり、種族の繁栄を願うようになったのだろう?何が目的で、そういう情報がDNAに書き込まれているのだろう?
・・・・・・・・分からない。まったく分からなくなってきた。
頭の中は激しい渦を巻き、全ての思考がとっ散らかったように拡散していく。
「おい清水、何ボケっとしとんや?」
エッキスが竹の棒で教卓を叩き、切れ長の目で睨んでくる。
「お前ちゃんと聞いとったか?」
「・・・・はい。」
「ほな前へ出てこの公式解いてみい。」
そう言って黒板に書かれた、わけの分からない数式を叩きつける。
「・・・・・・・・・・・・・。」
言われるままに前へ出て、白いチョークを渡される。公式を見つめたまま立ち尽くし、何も出来ずに時間が流れる。
「どうした?早よ解かんかい。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
嫌味な奴だ。解けないことを分かっていながら、じっと俺のことを睨んでいる。このままではラチがあかないので、素直に謝ることにした。
「・・・すいません。聞いてませんでした。」
「そうやろ?なんで授業聞かへんねん?数学嫌いか?」
「・・・・ボーっとしてました。」
「だから何でボーっとしとったんか聞いとんや。数学が嫌いなんか?」
エッキスは数学というものに、異常なこだわりを持つ。そのクセに説教をする時は歴史を引き合いに出すのだから、わけの分からない性格をしている。
案の定、エッキスは歴史を引き合いに出して説教をしてきた。豊臣秀吉がどうのとか、徳川家康の苦労だとか・・・・。果ては息子がやっている歴史ゲームの話にまで及び、いったい何を伝えたいのか分からなくなってきた。
クドクドとした説教を聞き流し、神妙な顔をつくって頷いてみせる。藤沢は笑いを堪えながら見つめていて、なんだか俺も笑いそうになってしまった。
「なにをニヤニヤしとんじゃ!話を聞かんかい!」
竹の棒を教卓に叩きつけ、般若のような形相で唾を飛ばす。・・・・分かったから、いい加減終われよ・・・。お前の脇、汗でべちょべちょなんだよ・・・。
下手に怒らせてしまったせいで、クドクドと説教は続く。どうでもいい話を延々と聞かされ、そろそろしんどくなってきた・・・。
「なんやその態度?誰が休め言うた?」
「・・・はあ。」
「はあって何や?ちゃんと人の話を聞かんかい!」
「・・・うっさいんじゃエッキス。」
「なんやて?」
エッキスは耳を向けて顔をしかめる。どうやら本当に聞き取れなかったらしい。しかし俺の呟きを聞いた生徒は、クスクスと笑い出す。
「何をわろとんじゃあ!」
激しい怒号を飛ばし、思い切り竹の棒を叩きつけるエッキス。教室はシンと静まりかえり、重い空気が降りる。
「もうええ・・・座っとけ。」
エッキスは棒でしっしっと俺を追い払い、教科書を睨みつけて、淡々と授業を進める。
はっきり言って、エッキスは悪い教師じゃない。少々気難しいところはあるが、授業は熱心だし、数学を愛する気持ちも伝わって来る。
だから・・・悪いのは俺なのだ。ちゃんと授業を聞いていないのだから、怒られるのは当たり前で、不遜な態度は失礼というものだ。
しかし・・・・それすらどうでもいい。ちゃんとしているとか、していないとか、人の話を聞くとか聞かないとか、その全てがどうでもいい。
幼い頃から人に興味がなく、自分の感じていること、自分の考えていることにしか興味がなかった。エッキスには申し訳ないと思うが、俺にとって数学なんてどうでもいいのだ。
その後のマラソンだけは頑張ったが、それ以降の授業はやはり退屈していた。昼休みに兄に電話を取り、学校まで迎えに来てくれるという。
午後の授業を何とか乗り切り、掃除を終えて校門まで出る。藤沢が「じゃあな」と手を振り、ジャージ姿でテニスコートに駆けて行った。
「元気やな。よう部活やる気力なんかあるわ。」
テニスコートでは数人の部員がラケットを振っていた。藤沢もそれに混じり、仲間とラリーを始めていた。
それをボケっと眺めていると、「修輔」と声を掛けられた。後ろを振り向くと、ボンボンと音のうるさい黒い車が止まっていた。いかにもヤンキーが好みそうな車高の低い車で、その中から茶髪で背の低い男が出て来る。
「パンクしたんやって?」
兄は可笑しそうに笑い、タバコを片手に煙を吹かしている。
「緑のパン屋のとこでパンクしてもた。」
「緑のパン屋?・・・ああ、あそこか。」
「だからずっと手で押して来たわ。」
「そらすごいな。」
大して興味もなさそうに言い、「帰ろか」と車の中に戻って行く。
「パンクした自転車はどうしたらええ?」
「ああ・・・俺の車に積まれへんからなあ。今度の土曜に軽トラでも借りて持って帰ろか。」
「分かった。ほな置いとくわ。」
助手席に乗り込み、タバコの煙を逃がす為に窓を開けた。車内には洋楽のロックが大音量でかかっていて、思わずリズムを刻んでしまう。
兄は灰皿にタバコを押し付け、アクセルを踏み込んで急発進させる。
「あ、でも・・・明日はどうやって来たらええんやろ?」
今日は木曜日。明日一日は、学校へ来る足がなくなってしまう。
「俺の昔の自転車使えや。ギアは付いてへんけど、まだ動くはずやから。」
「あのボロい自転車動くん?」
「いけるやろ。」
適当な受け答えで会話は終了し、爆音のロックを聞きながら家に帰った。
その日の夕方、犬を散歩に連れていった。柴だか雑種だかよく分からない犬で、俺が小学生の頃に拾ってきた。
犬を飼うのは禁止のはずだったのに、なぜか許可が下りて飼うことになった。そして俺とこの犬とは馬が合った。
「リン、河原の下で放したろ。」
赤いリードを引っ張って公園を横切り、土手を越えて河原に向かう。堤防の下にはどこの国の植物か分からないものがたくさん生えていて、すぐ目の前さえ見えないほど高く伸びていた。
「あんま遠く行ったらあかんで。」
リードを外すと、リンは嬉しそうに茂みの中へ消えていった。俺も後を追うが、さすがに犬の足には適わない。もうもうと生える高い草木を押しのけ、なんとか河原の傍まで辿り着いた。
「水が多いな、雨も降ってないのに。ダムの水流したんやろか?」
川の上流には大きなダムがあり、その近くに母方の実家がある。毎年正月になればよく行っていたが、三年ほど前から一度も行っていない。
「小さい頃は、おばあちゃんの家に行くのが楽しみやったけどなあ。カニとか虫とかようさんおって、見てるだけでも楽しかったわ。」
祖母の家を思い出し、その周りに広がる田園風景を思い描く。山間に立っている祖母の家は、それは美しい自然に囲まれている。
山から流れる水が家の庭を通り、夏でもひんやりと冷たい。
あの田園の光・・・・あの水の輝き・・・・そして山の木々の匂い・・・・・。目を閉じるだけで、鮮明に思い浮かぶ。自然に抱かれているいような心地良さを感じ、身体から力が抜けていく。その時、ふと思った・・・・・。
自分の中にある違和感が、突然消失し始めたのだ。あれほど俺を振り回し、痛いほど胸が疼いた違和感が、何かで中和されたように弱くなっていく。
「これは何やろ・・・。なんか胸の中がスッとする感じがするな。」
モヤモヤとした違和感はなりを潜め、代わりに硬い何かが心に置かれているように感じた。
「・・・・まあええわ。俺もそろそろ普通になって来たってことかもしれんな。」
自分は明らかに周りから遅れている。常にそう思っていた。中学を卒業し、高校に入って大学受験を目の前にしているのに、未だに成長しない自分に焦りを覚えていた。
それもこれも、全てはあの違和感のせいだと思っていた。もしそれが無くなってくれるなら、止まっていた自分の時間が動き出すかもしれないと、密かに期待していた。
「変わるかもしれん・・・・。周りは夢やら彼女やら持ってるのに、俺だけ何も無いままやったから・・・これから変われるかもしれへん。」
なんだか嬉しくなってきて、河原の石をステップしていった。遠くにいるリンが鼻をヒクヒクさせ、何かの臭いを嗅いでいる。
「リン!変なもん食うなよ。また腹壊すぞ。」
軽快に石の上を飛び越え、リンの元に向かう。何を食べているのかと覗きこんだら、鳥の死骸を舐めていた。
「アホ!病気になるぞお前!」
リードを掴んで引き離し、河原を出て土手に上る。離れた場所から見る川はとても綺麗で、艶やかな黒い塊がゆるゆると滑っている。。
「消えていくんや・・・違和感が・・・。嬉しいのに、寂しいと感じるのはなんでやろう。」
心にぽっかり穴が空いているように感じた。その穴の中に、何か硬い物が置かれている。
この硬い物さえなければ完璧なのに・・・・。
そう思っても在るものは仕方なく、自分の力では動かしようがなかった。またいつか、あの違和感が蘇るかもしれない。そうなる前に、俺も人並みにならなければ、きっとこの先行き詰ってしまう。
ぼんやりと自分の未来を想像し、リードを引っ張って帰っていった。
その夜、二階でテレビを見ていた。毎週見ている海外ドラマで、くたびれた感じの刑事と、知的な雰囲気の女性刑事がコンビを組んだ、SF仕立てのミステリーだった。
オープニングに好きなミュージシャンの主題歌が使われているので、どんなもんかと興味を惹かれて見てみたが、これがなかなか面白い。
ある時は人間の犯罪、しかしある時は謎の現象が引き起こす惨劇。その正体は未知の生物であったり、宇宙人であったりするのだが、俺は未知の存在が引き起こす、異常現象の話が好きだった。現実には有り得ない怪物が、人間の常識を上回って怪奇現象を引き起こす。
きっと、この世には科学で説明のつかないことはたくさんある。地底に宇宙人のUFOが眠っているとは言わないが、それでも理屈で説明のつかないことは、確かにある。
エッキスの授業中に考えていたことだって、科学では説明がつかないのだ。
繁殖を促す遺伝子、死を回避しようとする遺伝子。どうしてそんなものを持ったのか、いくら科学が進もうが説明できやしない。
死を恐れるのは、死を怖がる遺伝子があるからだなんて、何の説明にもなっていないのだ。
死を怖がり、それを避ける遺伝子を持とうとするということは、それ以前に死を恐れる何かがあるということだ。そうでなければ、死を怖がる遺伝子なんて持つはずがないのだから。では、その何かの正体とは・・・・・?
「分からへん・・・。いくら考えても堂々めぐりや。」
答えの出ない思考を、一旦脇にどかす。画面に映し出される不思議な生物を見つめ、膝を抱えて顔をうずめた。
「現実は、すぐそこにある。でも、そうじゃない世界があるとすれば、それはいったい何何やろな。」
ドラマの中では、主人公の刑事が化け物に襲われている。下水道に住むゾンビのような化け物に、危うく殺されそうになっていた。
もし犬の散歩中に、川からこんな化け物が出て来たらどうするか?頭の中ならいくらでも戦えるが、いざ現実に遭遇したとなれば、何も出来ずに逃げ出すだろう。
この現実の世界に興味がないクセに、もし架空の化け物が現れたら・・・きっと消えてくれと願うに違いない。
「こんなこと本気で考えたってしゃあないな。おらんもんはおらんのやから、出会うことなんかないんや。戦うも逃げ出すもあらへんやん。」
そうは思っても、やはり化け物のことを考えてしまう。それを振り払う為に机に向かい、やりたくもない受験勉強と向き合った。
もう試験まで時間がない。いくらやりたくないことでも、一応は試験を受けるのだから、やれるだけのことはやっておきたかった。
「ちょっとレベルの高いところやから、受かるかどうかは分からへんけど・・・。何もせずに落ちた方が悔しいもんな。」
苦手の英語を克服するため、ひたすら問題集を解いていく。同じ言語でも、国語は得意だが英語は苦手だ。文法の違い、順序の違い、そもそも言葉の違いからして辟易とする。
そのせいで悪い点数ばかり取っていた。これを克服しなければ、きっと大学には受からない。なぜ大学に行かなければならないのかは分からないが、とりあえず行かないといけないらしいから、勉強せざるをえない。
「・・・・・めんどくさ。めんどくさいわ、勉強。」
集中出来ないながらもペンを走らせ、なんとか問題集を解いていく。一通り終わって答え合わせをするが、結果は散々なものだった。
「あかんな、全然出来へん。」
同じ問題を繰り返し解き、とにかく頭に叩き込んでいく。数をこなせば質になる。そのことは高校受験の時に経験済みなので、勉強を繰り返すことに迷いはない。
だが・・・・めんどくさい・・・・。
何とか英単語を頭に叩き入れようとするが、先ほどの化け物が蘇ってきて手を止めた。
「あれは空想のもんや。現実には絶対におらん・・・。でも、そんなこと言うたらドラゴンとか妖怪はどうなるんやろ?そういうのだって絶対におらんけど、みんなが知ってるのはなんでや?誰も会ったことないのに、その存在は知ってるんやもんなあ。」
不思議だった・・・。いないはずのものを、どうして誰もが知っているのか?本や映画で見たからなのか?誰かから聞いたからなのか?いや、きっとそうに違いないんだろうけど、誰しもの頭の中に浮かぶということは、この世に存在していることにはならいないのか?
「人の頭の中は、この世と違うってことはないはずや。だって、人間がこの世の・・・、いや、現実のもんなんやから。」
人間は現実の世界に生きる、確かな存在。なら人間の頭の中だって、現実のものであるはずだ。それなのに、その頭の中にあるドラゴンや妖怪は、空想の存在だ。
これは・・・・矛盾ではないのか?それとも本当は、人間なんてものが空想のものなのか?
実は・・・・俺たち自身が、形を持たない幻のような存在なのか?
取りとめのない考えが暴走し、胸の中の硬いものが動き出す。
「・・・今動いたな・・・。確かにコトコト動いたで・・・。この硬いやつ、大人しいしてないやんか・・・。ただの置物ちゃうでこれ・・・。」
胸に手を当て、じっと触覚を研ぎ澄ます。感じるのは胸の鼓動だけで、それ以外の感触はまったくない。
確かに感じた、あの硬いものの動きは、手の平では捉えられなかった。
「あかんな。普通に触っても無駄や。予想はしとったけど・・・・。」
確かに感じた硬いものの動きは、どんなに神経を集中させても感じ取れない。いや、正確には触覚では触れられないといった方が正しい。
「分かっとった。これは五感では感じ取られへんもんなんや。でも・・・確かにある。俺が・・・俺自身が感じとるんやから、絶対にあるんや。」
モヤモヤとした違和感は消え去った。その代わり、しっかりと形を持った何かが生まれた。
いや、生まれたというより、形を変えただけかもしれない。
消え去ったモヤモヤとした感覚。生まれた確かな感覚。それはしっかりと心の底に根を張り、重量を持った陽炎のように佇んでいた。
 

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