手の平の裏側 第三話 井の中の蛙

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:46
田植えが始まった初夏の季節を、何も持たずにブラブラと歩く。
午後からは自動車免許の講習が入っているが、なんだか行く気になれずにボンヤリしていた。特に車の免許が欲しいわけではなかったが、大学を辞めてしまったのですることがなく、暇つぶしにと通い始めただけであった。
「なんで大学生っちゅうのは、あんなにアホなんやろなあ。中学の時の思春期が、三割増しくらいで酷くなってるよなあ。」
中学を出て高校を卒業し、少し大人になったかと思いきや、そのほとんどが大学に行くと馬鹿になり下がる。
クソみたいな話題で馬鹿騒ぎし、酒を飲んで暴れたり、子供みたいな悪さをして処分を食らったり・・・。
「アホとちゃうか。もう小学生とちゃうねんぞ?身体だけデカくなって、心は幼児退行してるやんけ。大学って馬鹿になる為に行く場所なんか?」
大学生特有のアホなノリに耐えきれず、二回生の始めに辞めてしまった。親にはずいぶんと怒られたが、まあそれは仕方ない。だってあの人達がお金を出してくれたのだから。
「大金をドブに捨てたようなもんや・・・。大学があんな場所やって分かってたら、最初から行かへんかったのに・・・・。何でも思いつきで行動したらあかんな。」
大学を辞めてから四年、フリーターとしてプラプラ過ごしていた。振り返っても何の感慨もなく、ただ時間が過ぎただけであった。
風が吹き、小さな苗がいっせいに踊り出す。あぜ道に座ってその光景を眺め、水の張った田んぼに指を入れた。
「温いな・・・。」
じんわりと指を包む、濁った田んぼの水。底の泥を掻き回すと、キノコ雲のように黙々と泥が立ち昇った。
「この土の中、ようさん卵があるからな。あと一ヶ月後くらいには、あいつらが孵ってるやろ。」
あいつらとは、田んぼの季節になると現れる、カブトエビやホウネンエビのことであった。
それに混じってオタマジャクシやゲンゴロウも現れる。様々な形の生き物たちが、田んぼの中を遊泳する季節がやって来るのだ。
そうなれば田んぼの中はにぎやかになり、見ているだけでも充分に楽しめる。
「早く孵ってくれへんかなあ。待ち遠しいわ。」
しばらく田んぼを眺め、ケータイで時間を確認してから立ち上がる。時刻は午前九時。
もうすぐバイトが始まる時間で、面倒くさい気持ちを抑えつつ、田んぼを後にした。


            *


「お疲れさまでした。」
午後三時にバイトが終わり、ダラダラとした足取りで家に向かう。免許の講習は午後五時からだから、それまで少しだけ時間があった。
家の近くの本屋にフラリと立ち寄り、ざっとマンガのコーナーを眺めて行く。集めているコミックスの新刊が出ていたので、それを片手に店の中を歩き回った。
政治経済の本のコーナーを抜け、怪しげな本が並ぶ棚に目をやった。
「なんなんやろなあ、これ。ほんまに読む奴とかおるんか?」
いかにもオカルトという感じの本が並ぶ棚を見て、どんなもんかと手に取ってみた。
引き寄せの法則だの、波動だの・・・・そういうものを信じることで人生が変わるらしい。
波動といえば、宇宙戦艦ヤマトの波動砲くらいしか浮かんでこない。
「波動砲のエネルギー源って、いったい何やろ?ガンダムのメガ粒子砲はミノフスキー粒子やけど・・・・波動砲のエネルギーっていったい・・・・・、」
リアルタイムの世代ではないので、ヤマトに関する詳しい知識はない。しばらく考えてみたが、しっくりくる理屈が思いつかずに諦めた。
「まあ・・・なんかアレやな。ごっつい未知のエネルギーなんやろ、多分。」
適当な理屈で納得し、本を棚に戻して歩いて行く。小説のコーナーをざっと眺めるが、たくさんありすぎて誰が誰だが分からない。
有名な作家の本を手に取り、パラパラとめくっていく。
今までほとんど小説など読んだことがないので、とりあえず有名どころの作家の本を買って帰ることにした。
「重いな・・・こんなにようさん読めるかな・・・。」
文庫本ではなくて、ハードカバーで買うことにした為、脇にいっぱいの本を抱えることになってしまった。
「なんかあと一冊買おか。」
小説のコーナーを後にし、旅行本の棚を眺める。北海道だの四国だの、これでもかというくらいに派手に紹介してある。そのすぐ横の棚に、地元の兵庫県を紹介する本があった。一応は旅行本らしいが、中身は兵庫県の観光名所、それも自然が豊かな場所を紹介してあった。
「そういや、あんまり兵庫県のことなんか知らんもんな。これも買ってみよか。」
どこかで聞いたことがあるが、兵庫県というのは県民性が薄いらしい。元々は別の藩だった場所を無理矢理くっつけたものだから、統一性のいうものがあまりない。
かく言う俺も、地元である播州以外の兵庫県などほとんど知らないのだ。特に北部の方になると、別の県のように言葉も文化も変わるらしい。
本を買って家に帰り、マンガを平らげてから旅行本を眺める。
「凄いな、武田城って・・・まるでラピュタやんか。」
神秘的な雲海の中に、武田城が天空の城のように浮かんでいた。本当にこんな光景があるのかと思うくらい、現実離れした世界のように思えた。
「まさかCGなんてことはないやろし・・・・凄いな、これ。」
現実の世界でも、こんなに空想的な絵が撮れるのだと感心する。その時、心の中にある硬いものがコトリと動いた。
「また反応したな。でもだいたい・・・・うん、これが反応する時は分かってきたわ。」
現実から乖離したものを見せられた時、または感じた時に、この硬いものは動き出す。今までに何度かそのことを経験していて、今となっては驚きもしなかった。
「こういう所、いっぺん行ってみたいな。」
そう思うと、車の免許を取ることに俄然興味が湧いてきた。車さえあれば、自分の望む場所に行ける。今まで身が入らなかった講習を、真剣に受けようかと考えが変わっていった。
兵庫県の案内本には、魅力的な場所がたくさん載っていた。免許を取った時の自分を想像し、ムクムクと夢が膨らんでいく。
時計を見ると午後四時過ぎを指していて、慌てて身支度を整えた。教習所は俺が通っていた高校よりも、もっとずっと向こうにある。自転車を漕いで四十五分ほどなので、もう出ないと間に合わない。
せっかく高校を卒業したのに、また自転車で長距離を走るのはウンザリするが、それでもあそこへ通う楽しみが出来た。
早く免許を取って、自分の行きたい場所に行けるようになりたい。俺は筋金入りの飽き性だが、自分の求めるものはトコトンまで追求する性質なのだ。
その日から真剣に講習を受け出した。教習所に設置されているパソコンで、何度も仮免許の予習を行う。実技練習だって、この日を境にグングンと上達しだした。
結局のところ、物事とはやる気次第でどうにでもなると知った瞬間でもあった。努力の甲斐あって見事に仮免許をパス。そして本試験の筆記講習も通過し、念願の免許を手に入れることが出来た。
車は何でもよかったので、整備士である兄に頼んで、適当に見つくろってもらった。兄に頼んで数日後、中古屋から古いクーペが届き、俺の愛車となった。
さて、準備は整った。これで自分の望む場所に行ける。かなり臭い表現かもしれないが、昔から翼が欲しいと思っていたのだ。自分の望む場所、自分の望む世界へ行ける翼が欲しいと・・・。
今、それはようやく手に入った。黒塗りの古臭いクーペは、まさに魔法の翼のように思えた。


            *


「おはよう。今日どこ行く?」
彫りの深い顔をした、長い黒髪の女の子が手を振って走って来る。
「特に決めてないけど、ドライブしながら行ったらええやん。」
「そやな。あたしカメラ持ってきたんや。後でモデルになって。」
人生で初めて出来た彼女、長溝香織。免許の本試験で明石に行った時、彼女と知り合った。
趣味も性格も違うのに、なぜか話が合って盛り上がった。お互いに試験に合格し、今度一緒にドライブに行こうと約束したのだ。
そして三回目のドライブの時、我慢出来なくなって、自分の気持ちを打ち明けた。恋愛なんて初めての経験だったから、最低の告白のしかただったと思う。
長溝さんは驚いて固まっていたが、はにかみながらOKをくれた。その日の帰りに、生まれて初めてのキスをして、その翌日には初体験まで済ませた。
車という翼、可愛い彼女、素晴らしいものが同時に手に入り、まさに幸せの絶頂だった。
長溝さんは助手席に乗り込み、嬉しそうな顔でカメラをいじっている。おもむろに俺の方にレンズを向け、カシャリとシャッターを切った。
「いきなり撮らんといて、恥ずかしいから。」
「ええから手えどけて。あと前見てて、カメラ目線にならんように。」
「そう言われると余計カメラを意識するわ。」
苦笑いしながら車を走らせ、海辺に向かって走っていく。
「新舞子行くん?」
「多分な。嫌やったら他のところにしよか?」
「なぎさ公園がええな。おんなじ海行くんやったら。」
「ほなそうしよか。」
干潟の綺麗な新舞子を諦め、のどかな遊歩道が広がるなぎさ公園へ向かう。
「運転上達したな。」
「ほんま?でもまだバックが苦手やねん。」
「あたしも苦手。この前壁にぶつけたもん。」
「マジで?大丈夫やったん?」
「家の壁やからな、どうってことないわ。親父は泣いてたけど。」
車は山間の細い道を進んでいく。峠を二つほど越え、大きな通りに出てスピードを上げていく。途中にあるスーパーでお菓子とジュースを買い、長溝さんが俺に食べさせてくれた。
人生でこんなに幸せなことがあるとは思いもよらず、胸に置かれた硬いものの存在など、すっかり頭から消えていた。
幸福と充実感に満たされ、人生初の彼女と惚気あいながら、なぎさ公園の前に着いた。大きな駐車場に車を止め、外に出て背伸びをする。
「やっぱまだ運転中は気い張るわあ・・・・。ちょっと疲れた。」
「お疲れ。帰りは私が運転しよか?」
彼女は運転が大好き。今までのデートの時も、自分から運転すると代わってくれたことがあった。ただし・・・・その腕は危なっかしいが・・・・。
「とりあえず今は大丈夫かな。しんどくなったらお願いするわ。」
「了解〜。」
そう言ってカメラバッグを肩に掲げ、レンズを付け替えて海を写している。カシャリと機械的な音が響き、思わずレンズを覗きこんだ。
「ちょっと、撮られへんやん。」
「いや、中はどうなってんのかと思って。」
「撮ってみる?」
「・・・・ほな、ちょっとだけ。」
カメラを受け取り、しげしげと見つめる。わけの分からないボタンがたくさん付いていて、思わず顔をしかめた。
「どうやって撮るんか分からへん。」
「ここにシャッターがあるやろ?これ押したらええから。」
「・・・・・・・・・・・。」
押したらええからと言われても、それ以外のことはまったく分からない。でもせっかく渡されたので、とりあえず撮ってみる。海に向けて一枚、シャッターを切る。渇いた機械音が響き、わずかにカメラが震えた。
「・・・・・なんか、気持ちええな。」
「そやろ!もっと撮ってええで!フィルムたくさんあるから。」
お言葉に甘え、海に向けて数枚シャッターを切る。砂浜と小さな公園、そして遠くの工場まで続く遊歩道。ファインダーを通して見るそれらは、まるで別の世界ように思えた。
「楽しいな!これ。」
「やろ?君もカメラやりんか。そんなに高くないで。」
「どれくらいすんの?」
「安いのやったら・・・一眼レフで四、五万くらいかな。レンズは別やけど。」
「・・・・それが安いんか高いんか分からんわ。」
カメラを返し、真剣に写真をやってみようかと考える。ファインダーを通して覗く世界、そしてその瞬間を切り取る感覚。どちらも病みつきになりそうだった。
しかし・・・心の中の硬いものは動かない。もし・・・もしもカメラが俺を別の世界へ連れて行ってくれるなら、きっとコイツが反応するはずだ。それなのに、心の中の硬いものは、ウンともスンとも言わなかった。
「・・・・・やっぱり・・・ええかな、カメラは?」
「なんで?楽しいよ。」
「それは分かるけど・・・でもやっぱりやめとく。」
「なんでもやってみな分からへんで?ハマるかもしれへんやん。」
「そうやけど・・・・やっぱりええわ。」
長溝さんは何も言わずに俺を見つめ、無言でスタスタと歩いて行ってしまった。エッキスの時もそうだけど、自分が愛するものを否定的に言われると、誰だって腹が立つのだろう。
別にカメラを馬鹿にしたわけではないが、彼女の機嫌を損ねてしまったようだ。
それから一時間ほどなぎさ公園をうろつき、昼飯を食べて別れた。その日以来、長溝さんはしきりにカメラを勧めてきた。しかし・・・俺はやはり拒否した。
・・・・何かが違う・・・・。
確かにカメラは面白いけど、それでも・・・・・シックリこなかった。長溝さんは彼氏と一緒に写真を撮りたかったようで、その夢が叶わないことに不満を抱きだした。
そして・・・俺たちの間に溝が出来た。三週間も連絡を取らない日が続き、ある日別の男と手を繋いで歩いているのを見て、この恋は終わった。人生初の彼女は、あっさりと俺の元から離れていってしまったのだ。
しかしながら、まったく未練というものはなかった。彼女にフラれたら、普通はもっと落ち込むものだと思っていたのに、特にこれといった感情が湧かない。
「きっと・・・本気で好きとちゃうかったんやな、お互い。」
初夏は通りすぎ、本格的に暑い季節に突入する。夏休みを利用して帰省している友達と会い、近所のスーパー銭湯に言ってマッタリと話しこんだ。
「この前彼女が出来てな・・・・それですぐ別れたわ。」
「なんで?」
「・・・さあ?よう分からんけど、お互いのこと好きじゃなかったんかな?」
「好きと違うのに、付き合うもんなんか?」
小学生の時から付き合いのあるこの友達は、俺に負けず劣らず女に縁がない。興味津津で俺の話を聞き、冴えない顔で見つめてくる。
「あのな・・・予想と違って、恋人ってのはそんなにええもんと違うかなって。確かに付き合ってる時は楽しかったけど、今となっては何が楽しかったんか全然分からへんねん。」
「お前なにいっちょ前に喋っとんどいや。」
「お前より経験あるで。0と1とじゃ違うやろ?」
「そらそうやけど・・・・。」
「そんなヘコむなや。話題変えよう。」
それから仕事の話に転がり、今やっているバイトの不満であるとか、理想の女であるとか、内容もない話をとりとめもなく続けた。いったん話が途切れ、沈黙が流れる。
友達は「ちょっと話変わるけどな」と前置きをして、神妙な顔で手元を見つめた。
「あのな・・・俺、最近始めたことがあんねん。」
「何?」
「やきそばを作ってんねん。」
「やきそば?それがどうしたん?」
「あのな・・・やきそばって、色んな具を入れるやんか?」
「うん。」
「それでさ、色々と考えながら作らなあかんわけよ。炒めたりとか、調味料とか。」
「うん。」
「そうやってやきそばを作り出して・・・・俺、ちょっとずつ変わってきたような気がするんや。」
「・・・・どういうこと?」
「だから・・・やきぞばって色々と考えながら作らなあかんやろ?それを人生に置き換えて考えると、そういうやきそばの作り方とか・・・色々と役に立つと思うねん。」
「・・・何言うてるか分からへん。」
「だからな、人生って色々と考えなあかんやろ?」
「うん。」
「それで・・・やきそばも色々考えて作らなあかんわけや。そうやってやきそばを作ってると、俺自身が最近変わってきたような気がするんや。ちょっとだけやけど、前より明るくなったと思うし、社交的になってるはずなんや。」
「やきそばのおかげで?」
「いや、違うって。やきそばを作ることによって、自分の人生がな・・・・・・、」
友は力説する。やきそば作りが、いかに人生に影響を及ぼすかを。俺は喉まで出てかかった言葉を抑えるのに必死で、何も言わずに頷いていた。
《・・・こいつ、アホとちゃうか・・・・。》
しかしこの友人がアホなのは昔から知っているので、あえて何も言うまいと思った。やきそばから人生を啓いてはいけないなんて、そんな決まりはないのだから。
風呂から上がり、他愛ない話を続けていると、もう夜の十一時を過ぎていた。
「もう帰ろうや。」
「そやな。お前はやきそば作らなあかんもんな。」
「ちょっと馬鹿にしてるやろ?」
「そんなことないよ。ちょっとじゃなくて、めっちゃ馬鹿にしてるから。」
「ぬははははは!お前ちょっと体育館の裏来いや。」
「ここ風呂屋やいうねん。どこに体育館があんねん。」
「ぬははははははは!」
昔からの友達というのはいい。気の置けない友達ほど、人生で素晴らしい宝物はないと思う。恋人なんかより、やきそばで人生が変わると思っている友人といるほうが、よっぽど楽しいのだから。
その次の日、バイトが休みなので遠くへ出かけた。車に乗って遠出をする時は、絶対に一人に限る。誰かと一緒に行動するのは、近場へ出かける時だけだ。
なぜなら、一人で見知らぬ場所へ行く時ほど、自分と向かい合う最高の時間はないのだから。
「この車・・・・ほとんどエアコン効かへんなあ。まあ中古で三十万やからしゃあないけど・・・・。」
温度設定を最大まで落とし、お気に入りの曲を聴きながら走って行く。とりあえず目指す場所は決めていて、全国でも有数の名瀑に向かうのだ。
この前買った兵庫県の本には、天滝という立派な滝が乗っていた。それはまさに天から降りてくるような、壮大な滝の写真だった。
これは必ず見なければと思い、片道二時間もかかる道のりを走っていく。
「どっかで飯食おか。」
家から出て一時間。国道沿いにあるファミレスに入る。適当に腹ごしらえをし、さらに北を目指して旅立っていく。
途中で大きなダムが目に入り、路肩に車を止めて降りてみた。
「相変わらず凄いな・・・・。」
引原ダムという縦長のダムは、山の間を縫うように遠くまで続いている。黒緑の水面を揺らめかせながら、得体の知れない何かが潜んでいる雰囲気を醸し出していた。
「オカンが言うてたな。このダムの底には村が沈んでるって。」
大昔、ダムの底には集落があったそうだ。それが今は水の底に沈んでいる。かつてその集落に住んでいた人々は、自分たちの住処がダムに沈むとは思ってもいなかっただろう。
「どういう気持ちなんやろな・・・・自分の村が沈むって・・・・。」
ダムを見つめながらじっと考える。この水の底に、かつて人々が暮らしていたことを。
切ないような、寂しいような気持ちがこみ上がり、手すりに身体を預けて項垂れた。
「もし・・・俺の町がこんなふうに沈んだら・・・・きっと悲しいな。いくら時の流れやとしても・・・やっぱり寂しく感じるやろなあ。」
感傷を抱えたまま、しばらくダムを睨む。車に戻り、国道に出て走り出すと、左脇に小さな看板が見えた。
『この先 音水渓谷』
初めて見る看板だった。引原ダムへは何度か来たことがあるが、それは家族に連れられてのことだった。
「こういうことがあるから、遠出は一人に限るんや。大勢でおると気付かんことも、一人ならすぐに気付くからな。」
看板の下には、左に逸れる細い脇道が伸びている。少し迷ったが、ハンドルを切ってその道へ入っていった。
「うわあ・・・・ごっつう細いなあ。通れるか?」
道は急勾配な上に、車がギリギリ一台通れるような狭さだった。慎重に運転しながら、細い橋を渡って坂道を上る。
チラホラと民家が立っているが、あまり人の気配は感じない。舗装された道路をしばらく走ると、大きな石がいくつも転がる、険しい山道に出た。
「これを通っていくんか・・・・なんか冒険やな。」
ワクワクしながら山道に入り、大きな石に気をつけながら進んでいく。ギアをセカンドに落とし、慎重に慎重に走っていく。すると突然パチン!と大きな音が鳴り、思わず身を竦めた。
「なんや今の・・・?何かぶつかったんか?」
車を止めて外に出ると、山道の脇に立つ木から、プラリと枝が垂れ下がっていた。
「ああ・・・これがフロントガラスにぶつかったんやな。スピード落としててよかった。」
木の枝をどかし、再び走って行く。道はさらにゴツゴツと険しくなり、車が激しく揺さぶられる。そして草木のない開けた場所に辿り着いた。少し先は深い森に覆われ、わずかに水の音が聞こえた。
「多分あの先やな。」
車が邪魔にならないように脇に止め、外に出て辺りを見渡す。
「・・・・空気が澄んでる。ええ匂いがするなあ・・・・。」
木と水と空気だけ。あとは自分が踏みしめる大地。深い山の中の風情は、余計なものを排除した神聖な空間だった。
胸いっぱいに空気を吸い込み、水の音が聞こえる方へ向かう。深い森の入り口には、小さな祠が建っていた。
「山の神様かな?龍神っぽいな・・・・知らんけど。」
勝手に龍神と決めつけ、手を合わせて頭を下げる。山を汚さないことを誓い、財布から十円玉を取り出して、祠の前に置いた。
奥の方に目を向けると、深い森が続いていた。水の音が大きく聞こえるので、すぐ近くに滝があるのだろう。
険しい足場を慎重に歩き、地面から突き出している岩の上にのぼると、滝の姿が見えた。
「おお・・・小さいけど綺麗な滝やな・・・・・。」
山奥へと続く森から、大量の水が流れ落ちていた。滝の中央には岩があり、二手に分かれて落ちている。
勢いのついた水は白く染まり、下に溜まる滝つぼへと注がれていく。高さは五、六メートルくらいの小ぶりな滝だが、その姿は水墨画のように美しかった。
「・・・・・・・・・・・。」
山から湧き出る澄んだ水。それを取り巻く汚れの無い空気。心の中の硬いものが反応し、コトコトと音を立てて動き回る。
・・・・・・世界が・・・・重なっている・・・・。今見えているこの景色の裏側に、もう一つの世界が重なっている・・・・。
どう頑張っても言葉に出来ない何かが、確かにそこに在るのを感じた。岩から下り、足場に注意しながら滝のふもとまで近づく。夏だというのに水は冷たく、滝から落ちる水しぶきが顔にかかる。
・・・・・在る。ここには・・・ここであって、ここではない世界が在る・・・・。
それは感じることだけが可能な世界で、決して向こう側へ行くことが許されない。しかし、今ひしひしとそれを感じている。
冷たい水で顔を洗い、もう少し先まで滝に近づいてみる。そして・・・何かに止められるように、ピタリと足が動かなくなった。
《・・・ここから先へは、入ってはいけない・・・・。》
・・・自分の声・・・・だったと思う。自分の声が、そう警告してきた。いや、もしかしたらこれは・・・・龍神の声?
《これ以上先に進むべからず。見ているだけでよしとしろ・・・・・。》
「・・・・・・・・・・・・・。」
手を伸ばせば滝に触れられる。それに触れたいと思う自分と、止めようとする自分。
・・・・どっちの声が正しい?触れるべきか?触れざるべきか?
磁石のように反発する二つの声は、山彦のように共鳴して打ち消し合う。そして・・・・俺は手を引っ込めた。
《触れてはいけない・・・・。》
強く・・・・強くそう感じた。ここではない世界へ行きたいと願いながら、その世界へ旅立つことは許されない。
この空間には、必ず別の世界が重なっている。それは確かなのに・・・そこへ行くことは断じて許されない。
・・・・あの世?自分が行こうとしていたのは、あの世なのか?・・・いや、違う。決して生を捨てたいと思っているわけではない。生きることを放棄したいわけじゃない。
しかし・・・・ここは自分の立つべき世界ではない。しっかりと確かな感触があるこの世界は、きっと俺が生まれて来るべき世界ではなかった・・・・。
「・・・・・アホくさ。中学生か、俺は・・・・。中二病じゃあるまいし。」
およそ思春期の時に通りすぎる感覚は、二四歳になっても残っている。なんと馬鹿らしく、恥ずかしい・・・・・。
ここではない世界なんて、あるわけがないのに・・・・。心の中にある硬いものだって、そんなもんはしょせん、俺が勝手に想像しているだけじゃないか。
現実に目を向けるのが嫌で、ただ自分が生み出したイメージの世界に浸かっているだけだ。
そんなものにいくら目を向けたところで、人生が変わるわけじゃない。
これじゃ・・・こんなんじゃ、やきそばを作って人生が変わると思っているのと一緒じゃないか。俺は・・・あいつを笑うことなんて出来やしないんだ。
ゆっくりと立ち上がり、滝を見つめてからその場を後にする。来た道を引き返し、天滝を目指すことをやめて家に帰った。
・・・・俺は幼稚なだけだ。なんで・・・・なんでこんな・・・・・。
部屋に入った途端に、胸に熱いものがこみ上げてきた。それは心の中に置かれた硬いものを溶かし、ドロドロと液状に変えていく。それに同調するように涙が流れ、どうしようもなくなってうずくまった。
・・・・やっぱり俺は・・・おかしい・・・・。たかが自分で創り出したイメージを捨てられないなんて・・・・やっぱりおかしい・・・。
病気なのだと思った。人格か精神に、きっと異常があるに違いない。だからこんなに下らないことで泣いているし、いつまでも足を引っ張られている。
それでも・・・・それでも感じるんだから、仕方ないじゃないか!心に疼く違和感も、足元が浮いているような非現実感も、あの滝の向こうに別の世界が在ると思ったのも、全部ほんとうに感じたんだから仕方ないじゃないか!
ティッシュを丸め、強く目に押し付ける。滲んだ涙がしみていき、それでも目頭は熱いままだった。
「おかしい・・・こんなんおかしいわ・・・絶対に・・・。」
心に置かれた硬いものは、もはやその形をなくして溶けている。それは心を覆うように張りつき、強烈な違和感が蘇ってくる。それも以前より遥かに強力になって・・・・・。
ポケットから財布とケータイを取り出し、机の上に置く。湧き上がる嫌な違和感を抑えるため、タバコを吹かして気持ちを落ち着けた。
「・・・・・・・・・・・。」
ニコチンのおかげでわずかに気が和らぐが、それでも違和感は抑えきれない。机の上のケータイがブルブルと震え、メールの着信を知らせる。差し出し人を見てみると、やきそばの友達からだった。
『明日帰るから、今日も風呂行こうぜ』
絵文字も何もない、質素で簡単なメール。しかも連日でスーパー銭湯に行こうなどと誘ってくる。
「澤井らしいな。」
すぐに返信を送り、風呂に行くことを承諾する。十秒と経たずにメールが返ってきて、『ほなそういうことで、八時に迎えにいく』ということだった。
ケータイを放り投げ、もう一本タバコを吹かす。遠出をするはずだったのに、途中で帰ってきたもんだから予定がなくなってしまった。
やりかけのゲームの続きをするか?それとも本でも読むか?・・・どちらも乗り気になれない。しばらく考えた挙句、この前の田んぼを見に行くことにした。
今ならたくさんの生き物が、水田の海を遊泳していることだろう。タバコなんかより、あれを見ている方がよっぽど心が落ち着きそうだ。
家を出て車に乗り、五分ほど走った所にある本屋に駐車する。本屋の前には、交通量の多い道路が走っていて、車に注意しながら渡る。大きなマンションの脇道を抜け、遮断機のない踏み切りを渡って住宅地を抜けた。
その向こうには低い山がそびえていて、そのふもとにお目当ての田んぼがあった。
用水路のそばに膝をつき、そっと中を覗き込む。
「おお!おるおる。ようさん泳いでるなあ・・・。」
大昔から姿を変えない生き物が、ひと夏の命を謳歌する為に、所狭しと泳ぎ回っている。
赤い身体をもつカブトガニのような姿のカブトエビ。仰向けになりながら、たくさんの脚で水を掻くホウネンエビ。さらにはミジンコに似た形をしたカイエビ。こいつは身体を二枚貝のような殻でおおっていて、その隙間から脚を出して水を掻いでいる。とても小さいので、よく探さないと分からないのだ。
じっくり観察していると、オタマジャクシやゲンゴロウまでいた。
「・・・こいつらには、外の世界がどう見えてるんやろなあ・・・。」
いつだったか、ある哲学者が書いたおかしな文章を読んだことがある。人間は自然から生まれているのだから、自分自身が自然である。だから、わざわざどこかへ出かけて自然を見なくても、いつだって自然はそこにあると。
いかにも言葉に縛られた哲学者が言いそうな屁理屈だと思った。
「そこへ行かな分からへんことがある。この目で見て、肌で感じへんと分からへんことがあるんや。言葉を越えたものが・・・・確かにそこに在るのに・・・・。」
ちなみにその哲学者は、大の犬好きだった。
人間は自分自身が自然なのだから、わざわざ風景など見に行かなくても、自然を感じ取れるはずである。そう書いてあったけど、じゃあなんで犬を飼うんだろう?あれだって自然の産物なのに・・・・・・。
人間は自然から生まれているのだから、遠い場所に出かけて自然風景を見る必要が無いっていうのなら、犬だって飼う必要はないんじゃないか?犬だって自然から生まれているんだし、人間だって自然から生まれているんだ。自分自身に自然を感じられるなら、同じように自然から生まれた犬を飼う必要だってないと思うが・・・・・。
遠い場所へ出かけて自然風景を見るのと、犬を飼う違いっていったい何なんだろう?同じ自然の産物なのに・・・・その違いはどこから来るんだ?
「・・・・好き、やから。理屈どうのこうのじゃなくて、好きやからそうするとしか言われへんよなあ・・・。遠くへ自然を見に行くのも、犬を飼うのも、好きやから以外に理由なんかないやん・・・・。」
始まりは好きだからだったとしても、それを始めることで分かることがある。遠い自然を見にいくことも、犬を飼うことも、自分がそれをやってみることで、初めて分かることだってあるのだ。決して言葉では語れない、それをやった者だけが分かることが・・・。
「この田んぼだって、見に来おへんと分からへんもんなあ。こうしてじっと見つめてると、この田んぼにも一つの世界が広がってるってことが分かる。」
ここで泳ぐ生き物たちは、おそらく外の世界を知らない。いくら水の中から空を見上げても、外に広がる世界は想像するより他にないのだ。
もし言葉が通じたとしても、外の世界や人間の社会のことなど、とてもではないが言葉だけでは伝えきれない・・・・。
そう考えた時、胸にチクリと痛みが走った。強烈な違和感が疼きだし、また涙が溢れそうになる。
「俺は・・・この田んぼの生き物たちを見下してるんや・・・。外に広がる世界を知らんやろ?って。でも・・・それは俺だって同じやん。もしかしたら、俺のおるこの世界だって、一つの田んぼなんかもしれん。今ここで俺が田んぼを覗いてるように、俺の立つ世界だって、外から覗いてる奴がおるかもしれへん。」
・・・・井の中の蛙・・・・。
俺は現実の世界が嫌だと言いながら、自分の立つ足元のことさえ分かっていない。そんな奴が、ここじゃない世界へ行きたいなどと、思い上がりもいいとろこだった。
「・・・ここは、俺のおる世界じゃない。その違和感は消えへんけど、俺はこの世界のことすら知らんのや。・・・いっぺん、挑戦してみよかな・・・。みんながやってるのと同じように、この現実の世界でしっかり生きてみよ。もしそれが無理やったら・・・・また考えなしゃあないけど・・・・。」
今日、ここへ田んぼを見に来たおかげで、一つの答えが出た。
『世界は一つではない』
この田んぼに一つの世界・・・いや、宇宙があるように、俺の立つ足元以外にも、必ず宇宙がある。もしかしたら、それこそが俺の行きたがっている世界なのかもしれない。
「まずは足元からや。就職なり、恋人を見つけるなり・・・まあ夢でもええか。そういう確かなもんを、どうにか手に入れられへんか頑張ってみよか。」
その夜、澤井と風呂に行った。大きなお椀の形をした風呂に入りながら、からかい半分で意地悪な質問をぶつける。
「なあ、やきそばってほんまに人生変わるの?」
半笑いで尋ねると、澤井は身ぶりを交えて力説を始めた。
「だから違うって。やきそばじゃなくて、やきそばを作ることによって、人生に対しての色々なことが・・・・、」
やはり気の置けない友達といる時ほど、心が安らぐ瞬間はない。
胸に疼いていた違和感は、やきそばのおかげで、ひと時だけなりを潜めてくれた。

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