手の平の裏側 第四話 恥さらし

  • 2014.05.04 Sunday
  • 23:48
寝静まった夜の街を、一台のバンが走って行く。
後部座席でガタガタ揺られながら、隣に積んである送風機を支えた。
《・・・・帰りたい・・・・。》
猛スピードで高速を走って行くバンに揺られながら、夜空を照らす月を眺めた。
あの日、田んぼを見に行ってから決意した。この現実の世界で、何が出来るか挑戦してみようと。収入の少ないアルバイトをやめ、長時間労働の仕事を探すことにした。いくつか正社員の試験を受けてみたが、見事に落選。それでも諦めずに仕事を探していると、あるコネで深夜の清掃バイトに受かった。
アルバイトといっても、勤務時間は社員と大差はない。給料も悪くないし、福利厚生だってしっかりしている。
面接を受けた時、若い部長さんにこう言われた。
「うちはよっぽどのことが無い限り落とすことはないから。ただまあ・・・続くかどうかは分からへんけどね。けっこうしんどい仕事やから、頑張って続けてねとは言われへん。とりあえず自分で体感してみて。」
頑張りますので、よろしくお願いしますと答えた。その場で採用が決まり、一週間後の夜八時に事務所へ来てくれと言われた。
このバイトの面接、絶対に落ちることはないと分かっていた。なぜなら、ここを紹介してくれたのは、この会社の重役である父なのだから。
別の大きな会社から出向という形で来ていて、本部長という大きな肩書きを持っていた。
いくら面接をしても仕事が決まらない俺を見かねて、うちを受けてみろと言われたのだ。
・・・・受かった時は嬉しかった。アルバイトではあるけれど、真面目にやっていれば正社員登用もあるらしいので、しっかり働こうと思った。
だが、現実はそんなに甘くない。面接の時に部長さんが言った通り、なかなかに大変な仕事だった。
夜の八時か九時くらいに出社し、仕事を終えて帰って来るのは、翌日の朝の八時くらい。
仕事はかなりの重労働で、しかも俺の苦手なチームワークときていた。営業の終わったスーパーなどへ行き、三人から四人くらいのチームで仕事をするのだが、全員の連携が上手く取れていないと仕事が遅れるのだ。
モップで床に洗浄液を塗り、それを特殊な機械で磨いていく。残った洗浄液を水切りで集め、バキュームの機械で吸い取る。その後にモップで水拭きをして、最後にワックスをかける。送風機で乾燥を促し、完全に乾いたら終了。
作業の流れ自体は単純だし、一つ一つの作業も難しくはない。しかし誰かが一人遅れると、作業全体に支障をきたす。
生来チームワークが苦手な俺は、どうしてもこの仕事に馴染めなかった。それに昼夜が逆転するのも辛い・・・・。
せっかく見つけた仕事なのに、五回目の出勤の時には嫌気がさして仕方なかった。たった五回で何かが分かるわけではないが、それでも自分がこの仕事を続けるのは無理だということは分かった。
そして今日・・・・六回目の出勤だった。営業の終わったドラッグストアを清掃し、その後はコンビニを二件回った。帰宅すると朝の八時になっていて、どっと疲れて布団に寝転んだ。
「・・・・しんど・・・もう辞めたい・・・・。」
これが普通のバイトなら、すぐにでも辞めているだろう。しかしながら、今の仕事は親のコネを使って始めたものだ。もし今ここでやめたら、父の顔に泥を塗ることになってしまう。それだけは嫌だと思いつつも、この時点で今の仕事を続ける気は失せていた。次の出勤まで三日間の休みがある。それまでにじっくり考え、結論を出そう。
次の日、仕事の疲れで泥のように眠っていた。目を覚ますと夕方の四時になっていて、何もせずに一日が終わろうとしていることに唖然とする。
「あかんわ・・・こんなん・・・。寝て起きての生活なんて、絶対にあかん・・・。」
現実の世界で挑戦すると決めた。それならば、ただ寝て起きての生活など、断じて許されない。
疲れた身体を布団から引き剥がし、何処でもいいから何処かへ出かけていく。適当に車を走らせ、辿り着いた先は、最近出来たばかりの道の駅だった。
海沿いに立つ道の駅は、新規オープンということもあって賑やかだった。すぐ近くに漁港があるものだから、海の幸を売りにしている。
店内で魚や貝を買えば、それを外に出て炭火焼にすることが出来るらしい。
「上手そうやな・・・ちょっと食べてみよかな。」
店員さんに声をかけると、予想より高い金額であった為に、炭火焼は断念した。
何も買わずにベンチに座り、眼下に広がる海を眺める。
「これ・・・下に降りられるみたいやな・・・。」
道の駅のすぐ傍は、切り立った崖になっていた。その崖の合間に、小さな浜がある。大勢の家族連れやカップルが、ワイワイとはしゃいでいた。
タバコを一服吹かし、缶コーヒーを呷りながら階段を下りていく。小さな浜に降り立ち、穏やかな瀬戸内の海を眺めた。
「・・・同じ海でも、上から見るのと浜から見るのとじゃ違うなあ。」
浜に下りて海を見るということは、海の目線に自分の目線を合わせるということだ。同じ高さに立つことで、その広大さと雄大さが伝わってくる。
堤防のコンクリートに腰を下ろし、缶コーヒーを手にして考え込む。
「今の仕事・・・・やっぱり辞めよか・・・。」
父の顔を考えると、こんなに短期間で辞めることには抵抗があった。しかし幼い頃から、一度嫌だと思ったことは続いた試しがない。
ケータイを手に取り、父に電話を掛ける。
「もしもし、オトン?あのな、申し訳ないんやけど・・・・・、」
今の仕事を辞めたい旨を伝えると、散々に説教をされた。同じ話が延々と続き、後半にはケータイを耳から離していた。
・・・まあ、当然のことだろう・・・・。たった六回行っただけで、その仕事の何が分かるのかというものだ。しかし嫌なものは嫌なので、そこははっきり言うしかない。父は渋々であるが承諾してくれて、その日のうちに会社に辞職したい旨を伝えた。
それから二週間後、俺はまったく違うバイトに勤しんでいた。大きなショッピングモールの中に入っている、オシャレな時計屋だ。
以前のバイトも販売業だったので、きっとここなら続くと思った。しかし・・・・結果は散々・・・。同じ販売業でも、売るものが違えば仕事の内容も変わってくる。時計を見に来る人は多いが、そんなにバカバカ売れるようなものではない。狭い店内では暇を持て余すことが多く、清掃の仕事の時とは逆の辛さを覚えた。
《・・・何やってんねん、俺は・・・・・。》
新しく始めたバイトも、たったの二週間で辞めてしまった。店長にはえらく引き留められたが、やはり嫌だと思ったものは続かない。それに・・・この頃には、若干であるが精神を病みつつあった。
田んぼを見に行ったあの日、現実の世界で頑張ると誓った。それなのに、違和感から生まれるどうしようもないギャップを埋めることは出来なかった。
何時、何処で、何をしていても、やはり強烈な違和感が襲ってくる。仕事に身が入らず、常に自分というものに疑問を持ってしまう。
《また・・・またこいつのせいで俺は・・・・・。》
人と同じように出来ない、人と同じように生きられない・・・。学生の頃、この違和感のせいで周りより遅れていた。皆が大人の階段を上る中、俺はその流れから取り残されていた。幼少期から抱える違和感を拭えないせいで、いつまでも幼稚な世界に浸っていたのだ。
年齢とともに失われるはずの、曖昧で役立たずなイメージの世界。当たり前のことを不思議と感じ、どうでもいいことに疑問を持ってみたりする。
自分・・・自分・・・自分・・・・、そして世界・・・・。
言葉にするのが難しいものほど、強く興味をそそられた。残念ながら、立派な大人になって生きていくには、そういうものは邪魔だった。
だから多くの人がそれを斬り捨てる。当たり前のことは当たり前、どうでもういいことはどうでもいい。自分だの世界だの・・・・細かいことは割り切って、目の前の仕事なり、用事なりをこなす。
そうすることで、生計を立て、恋人を見つけ、家庭を持ち、人生を組み立てていく。
みんな・・・みんなそうやって生きている。辛いことがあっても、嫌なことがあっても、人生とはそういうものだと割り切り、一人の人間として、自立して生きていく。
それこそが強さ、それこそが戦い・・・・・。
いつか校舎の窓から見た、冬の校庭の木々。葉を落とし、いずれ訪れる春を待ちわびて耐えている。戦わねば、生き残らねば、次なる春を迎えられない。
あの時、もし自分が過酷な野生の世界に放り出されたら、生きていけるかどうか分からないと思った。しかし、今なら分かる。きっと俺は、過酷な野生の世界では、一日ともたずに死んでしまう。
もしライオンに生まれ変わったとしたら、狩りが出来ずに死んでしまう。どうして狩りをする必要があるのか?どうして自分はライオンとして生まれたのか?生きていくのに余計なことばかりを考え、その結果・・・・どんな獲物も狩ることが出来ずに餓死していくだろう。シマウマやガゼルに生まれ変わったとしても、結果は同じかもしれない。
あっさりとライオンやヒョウに捕食されるか、もしくは群れからはじき出されて野垂れ死にするか。俺が愛してやまない自然の世界は、俺が生きていけるほど甘い世界ではないと、今なら分かる。
・・・・欠落している・・・・と思った・・・・。
子供の頃に、誰もが持つ不思議な感覚。大人になるにつれて消えるはずの、何の役にも立たない曖昧な感覚。きっと・・・・ほとんどの人は、そういう感覚を殺す術を持っているのだと思う。
そうでなければ、一人の人間・・・いや、一個の生命として、自分の寿命を全うするのは難しい。なのに俺ときたら、どうもそういう能力が欠落しているらしい。
自立し、一人の大人として生きていく為には不要な感覚。成長する上で障害にしかならない、自転車の補助輪のような幼稚な道具。
皆が成虫になる頃、俺だけが芋虫のままだった。いつまで経ってもサナギにすらなれない、トロトロ歩くことしか出来ない芋虫のままだった・・・。


          *


「ありがとうございました。」
店を去る客に頭を下げる。サッと踵を返し、ミニラボにネガを持って行く。
「これ急ぎでお願いします。」
プリンターをいじる女性に声をかけ、またお客さんから声が掛かってカウンターへ走って行った。
清掃の仕事、時計屋の仕事、この二つをあっさり辞めて、一年近くブラブラとしていた。
一人で近場をうろついたり、たまに友達と釣りに行ったり。やきそばの澤井とは、一昨日にも風呂に行った。今でもやきそばを作っているのかと尋ねると、「そんなこと聞くな!」と怒られてしまった。どうやらやきそばでは人生が啓けないことを悟ったらしい。
では俺はというと、古巣に戻っていた。大学を辞めた時、カメラ屋でバイトをしていた。田んぼを見に行ったり、やきそば君と風呂に行ったりしていた時に続けていたバイトだ。
一月ほど前に、たまたま今の店に遊びに来た。すると店長から「もう一回ここで働らかへんか?」と声を掛けられたのだ。
特にやることもなかった俺は、その場であっさりと引き受けた。そしてここへ戻って半月後、アルバイトから準社員に昇格した。
まあ準社員なんていっても、しょせんはアルバイトなんだけど、それでも勤務時間は長くなるし、ちょこっとだけ時給も上がる。社員と同じように手当てや保障だってつくし、安いながらも年二回のボーナスも出る。
これで・・・これで一つ、現実の世界で進むことが出来た。しかし思っていたような充実感はなく、ただ仕事をして時間が過ぎていくという感覚だけだった。相変わらず違和感は拭えないし、自分とか宇宙とか・・・・何の役にも立たないしょうもないことも考えている。きっと・・・・きっとまだ足りないのだろう。
もっともっと現実の世界で確かなものを手にしないと、この違和感は消えないのかもしれない。
それから夏が過ぎ、秋が過ぎ、年も開けて本格的に寒い季節が始まった。暦は一月、それもかなり下旬だ。身を切るような寒さのなか、ブラブラと歩いていつもの場所に行った。
「ええな、この寂れた感じが・・・・。」
いつもの場所とは、家から徒歩で十五分くらいのところにある、あの蔵の近くだった。まだ中学生だった頃に学校を抜けだし、大木によじ登って中に侵入した。
今思えばかなり無茶をしたものだが、あれはあれでいい経験だったと思う。思春期の時の甘酸っぱい感覚が蘇り、じっと蔵の壁を眺める。
今日ここへ来たのは、この蔵が目的ではない。その近くに生えている、あの大木が目当てなのだ。
「いつ見ても壮大な感じがするなあ・・・。」
年季を感じさせる樹皮は、皺を刻んだようにめくれている。パサパサと硬く、そして渇いていた。大木を守る囲いの中に入り、そっと手を触れてみる。
「・・・・・・・・・・・・。」
目を閉じ、五感を研ぎ澄まし、身体から力を抜く。もちろんそんなことをしたって、何かが起こるわけではない。ファンタジーの世界のように、大木の声が聞こえるわけでもなく、木に宿った妖精が現れるわけでもない。
でもここへ来ると、必ずこうするのだ。ただ無心になり、大木の肌に触れる。それだけで俺の心は、ふっと軽くなる。
この木は何も与えてくれない。俺に対して何をしてくれるわけでもない。しかしこの木のおかげで、俺は感じることが出来る。煩わしい現実のこと、心を悩ます違和感のこと、そういう猥雑なもの全てが、この木のおかげで掻き消されていく。
もちろんそれを感じているのは自分なんだけど、その感覚を得るにはこの大木が必要なのだ。
「・・・・・・・・・・。」
気持ちが高揚してくる。それは炎のように激しい高揚ではなく、水が沸騰するような、徐々に沸き立つ高揚であった。
そっと手を離し、ぐるりと辺りを見渡す。誰もいないことを確認して、大木に腕を回した。
身体を預けるように抱きつき、頬をつけて目を瞑る。自分の持っているものを全て委ねるように、大きな大きな木に抱きついた。
頭に何かが触れる・・・・。目を開けて見上げると、垂れ下がった枝が触れていた。
「・・・撫でてくれるんか?」
細い枝に触れ、優しく握りしめる。もう一度目を閉じ、大木に抱きついた。
「・・・・・・・・・・・。」
考えない、感じない・・・・。ただ委ねるように身を任せれば、この木は抱きしめてくれる。俺のちっぽけなこの身体を、そっと包みこんでくれる。
木に腕はない。抱きしめもしない。そんなことは分かっているが、俺はいま確実に抱きしめられている。言葉では言い表せないこと、五感では感じ取れないこと。かといって、霊能力だの超能力だのと、いかがわしい力ではない。
この木が在って、俺が在って・・・・ではこの二つの存在は、いったい何が違うのか?
二つの命を隔てる壁を取り払った時、ちゃんとこの木は抱きしめ返してくれる。お互いが別々のものではないと認識すれば、異なる存在の壁は取り払われる。
生きていくうえで、働くうえで、まったく役に立たないものばかりが磨かれてしまい、とうとう大木を抱きしめるなどといった、傍から見れば頭を疑われる行為にまで出てしまった。もしここを知り合いに見られたら、きっと噂が立つに違いない。
『あいつは頭がおかしい』と。
・・・・・別にいいさ。頭がおかしかろうが、変人だろうが。
まともな職につくより、可愛い彼女を見つけるより、俺にとってはこっちの方が大事なのだから。この大木と抱きしめあえることの方が、よっぽど幸せを感じる。金、恋愛、夢、およそ人が喜ぶものなど、俺はいらない。
ただ・・・もし願いが叶うなら、このまま大木に吸い込まれてしまいたい。サラサラと溶けて、何もかも無くなって・・・・この大木の中に吸い込まれたら、それはどんなに幸せだろう。
限りある命なら、本当に心から望む願いを叶えてほしい。誰に頼めばいいかなんて分からないけど、もし俺の声を聞いてくれる者がいるなら、どうかこの大木と一緒にしてほしい。
・・・・どうか・・・・誰か・・・・・お願いだから・・・・・・。


            *


冬が過ぎ、春がやって来た。赤いリードで犬を引っ張りながら、花見客の残したゴミを蹴り飛ばす。
「ちゃんと持って帰れや、アホどもが。」
家の近くの公園には、毎年美しい桜が咲く。土手の上に並んだ桜の木が、鮮やかな華の道を作り出すのだ。
それは見ているだけでも惚れ惚れするし、風が吹いて花びらが舞うと、この世ではない幻想的な風景となる。
今年もそんな季節がやってきたのは嬉しいことだが、ここへ押し寄せる花見客どもは、どうもマナーがなっていない。騒ぐだけ騒いで、ゴミをほったらかしていく。きちんと持って帰る人もいるんだろうけど、全員がゴミの始末をしないと意味がない。
「楽しむだけやったら誰でも出来る。後始末までやって帰れっちゅうねん。」
近くに落ちていたゴミを拾い、錆びたドラム缶のゴミ箱に投げ入れる。土手の下ではボランティアのおばちゃんが、せっせとゴミを拾っていた。
「リン、なんでも食うなよ。また腹壊すから。」
食い意地の張った犬は、食べ物の残りカスを探して鼻をヒクヒクさせている。リードを引っ張ってゴミから引き離し、土手の階段を下りて帰っていった。
部屋に戻ると、絵具の水入れを掴んで洗面所に向かった。このところ、絵を描くことにハマっているのだ。ちょっとだけ値の張る絵具を買い、ちょっとだけ値の張る筆も買った。
決して上手いとはいえない下絵を机に広げ、バシャバシャと筆を濡らして紙に塗っていく。
使っているのは水彩だった。それも透明水彩という、たっぷり水を含ませて使用する絵具だ。これを使う場合、まず紙に水を塗らないといけない・・・・らしい。らしいというのは、立ち読みをした教本にそう書いてあったからだ。そもそも絵を描くことに決まりごとがあるなんて知らなかったから、とりあえずそのようにしてみる。
なるほど・・・・確かに先に水を塗った方が描きやすい・・・・。
初めて透明水彩を使った時、素直にそう感じた。きっとこういう技法だって、先人の積み重ねからきているものなのだろう。それに対して敬意を払う為、しばらくは水を塗ってから描いていた。そして今日もそうしようと思ったのだが、なんだか面相臭くなってやめた。
「やっぱり絵を描くのに決まりごとがあるなんておかしいわ。好きなように描いたらええねん。」
絵を上手に描くには、それなりの技術がいる。だからとにかく練習をした。模写もやったし、デッサンだってたくさん描いた。そのうえで出して結論・・・・好きなように描くこと。この道で飯を食うつもりならともかく、好きでやっているだけなのだから、誰にも従う必要はないはずだ。
ちなみに何を描いているかというと、コミック風のキャラクターである。今までに出かけた先で見た風景、そしてあの大木・・・。経験と記憶の中に生きるそれらを、絵によって形を持たせたいと思った。
あまり美術の絵を描く気にはなれず、気がつけばコミック風の絵ばかり描いていた。美しい海に立つ、空想のキャラクター。それは時に妖精であるし、時に女神であるし、たまに悪魔だの、龍だのも描く。
俺が見たもの、感じたこと、それらに合致するようなイメージで、ひたすら描いていく。
・・・・絵は良いと思った。まるでマラソンのように、余計な考えが吹き飛んでいく。紙の上に描かれるキャラクターに命を吹き込むことだけを考え、デッサンと配色を決めていく。真っ白な紙に、一から世界を想像する。その行為は、自分を内面の世界に没頭させるにはピッタリだった。
不思議と絵を描いている時だけは、あの違和感は治まってくれた。筆を置くとまた疼きだすのだが、絵を描いている時だけは大人しい。
どうやら・・・・俺は対処療法を見つけたようだ。あの違和感のせいでどうしようもなくなった時、絵を描けばいい。それも真剣に、真面目に、全てのエネルギーを使って描くならば、やはり心の疼きは治まるのだ。
でも、これが一時的なものに過ぎないことも分かっていた。対処療法とは、あくまで痛みや不快感を和らげる為のもの。根本的な解決にはならないのだから。
それでも・・・今は絵を描くことをやめられない。それは違和感を抑える為だけではなく、何かがシックリくる感覚があったからだ。これを続けていれば、何かの出口が見つかるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、ただ筆を走らせていった。
「・・・・・・・・・・・。」
ちょっと疲れた。筆を置き、窓を開けて一服する。見慣れた町を眺めていると、また違和感が疼きだした。
「・・・・ん?」
今・・・・違和感の中に違和感があった。なんとも妙な言い方だと思うが、確かにそう感じた。ずっと俺を悩ませてきた違和感・・・・もしかしたら、それそのものが形を変えようとしているのか?
「・・・・・・・・・・・。」
タバコを吸い尽くし、灰皿に押し付ける。・・・・深く考えるのはやめようと思った。どうせロクなことにならない。自分ではどうしようも出来ないのだし、これはもう・・・うん、ほうっておくしかない。いつかなるようになるだろう。
ただひたすら絵を描き、内面の世界へと没頭していく。描き始めてから三時間後、ケータイにメールが届いた。ブルブルと震える電話を掴み、液晶を確認してみる。
『長溝香織』
差し出し人を見て驚いた。ずっと昔に別れた女が、いきなり何の用かと身構えた。ボタンを押してメールを開くと、予想もしないことが書かれていた。
『久しぶり。最近カメラ屋で働いてるんやね?この前店に行ったらおったから、ちょっと驚いた。そこでちょっとお願いがあるんやけど、私のやってる写真教室を手伝ってくれへんかな?今度の土曜にやるんやけど、人手が足りんから助手をやってほしいの。周りにカメラに詳しい人がおらんから、君に頼みました。いきなりで迷惑かもしれへんけど、よかったらお願いします。』
「・・・・・・・・・・・。」
断ろうと思った。自然消滅で別れた女が、二年近く経ってからいきなりこんなメールを寄こしてくるなんて・・・・。
「・・・・いや、でも・・・別に引き受けてもええかな。断る理由なんて特にないし、カメラにだって詳しくなったし。なによりちょっと面白そうや。」
すぐにメールを返し、写真教室の話を引き受ける。どんな具合にやるのかは知らないが、今までに経験したものではないことは確かだ。
それから五日後、写真教室の日がやって来た。長溝さんは車で迎えに来てくれて、久しぶりにも関わらず、なんの気まずい空気もなしに喋ることが出来た。
「元気にしてた?」
「まあまあかな?自分は?」
「色々あったわ。都会に出て仕事したり、他にもまあ・・・・色々とな。」
「そうか。大変やな。」
「そうやねん。」
髪は以前より短くなっていた。顔立ちもそのままだが、頬に赤い点々が出来ていた。
「それ何?ニキビ?」
「ああ、これな。ニキビやねん。いつの間にかこんなに増えてもてん。病院行ったら薬くれたから、すぐ治ると思うけど。」
「そうか、早く治ったらええな。」
「そやな。」
このドライな会話・・・・昔のままだった。もしかしてこの子は、彼女としてではなく、友達としてなら良い関係になれるかもしれない。
二年近く会っていなかったというのに、ここまで楽に会話が出来る相手も珍しい。普通なら元恋人と再会すれば、もっとギクシャクするもんじゃないのかな?
・・・・きっと、この子はやきそば君と同じ種類の人間なのかもしれない。あれやこれやと人生を模索し、他人から見たら馬鹿なことでも、真剣に取り組んでみる。そういう心意気を持つ奴は、俺は嫌いじゃない。
真面目なことを真面目にやる奴より、馬鹿なことを真面目にやる奴の方が、よっぽど面白いのだから。
長溝さんは、やきそば君と同じ。それならば、俺とも似ていることになる。目的地に着くまでの間、二人の会話が途切れることはなかった。
しょうもないことを真剣に語り合い、愚痴や希望を交えながら、楽しく喋っていた。
車は高速道路を下り、加古川市という街に着く。この街にあるショッピングモールの一室で、写真教室が開かれているらしい。
「教室ってどんなことやんの?」
「どんなって・・・まあマニュアル操作で教えてるな。オートは使わへん。自分で設定して、失敗したりしながら撮るねん。その方が上達も早いしな。」
「そら言えてるわ。」
「生徒は女性限定やねん。おっさんとか来られてもしんどいから。」
「ええんちゃう。おっさんが集まる教室なんてようさんあるからな。同じ女同士の方が気が楽やろ。」
「そやろ!絶対にそう思うやんな?」
「店に来る客かて、中年のおっさんが一番性質悪いからな。例えばさ、お釣りの渡し忘れをしたとするやん?」
「うん。」
「こういう場合な、若い子とかおばちゃんは、しっかり謝って、きちんとお釣りを返せば許してくれるんや。でもおっさんの場合はそうはいかん。あいつら意味不明なプライド持ってるから、お釣りを間違われたっていう事実が許せへんねん。この俺になにを釣りの間違いをしてくれてんねん!・・・みたいな。だからいくら謝ろうが、ネチネチ怒ってみたり、大きい声出して怒鳴ってみたり。アホちゃうか思うわ。」
「ああ〜・・・分かるわ。ごっつう分かる。私も前にコールセンターで働いてたから、だいたい分かるねん。」
「守るプライドなんかないクセに、何を面子気にしてんねんって話やで。小さいミスで切れてる時点で、プライドなんか無いやん。」
「ははは!相当溜まってるな。今の仕事しんどい?」
「・・・・ちょっとな。だんだん接客業いうのがしんどくなってきた。特におっさんは。」
「分かるけど、あんまり言い過ぎたらあかんよ。接客業ってそういうもんやから。おっさんにはおっさんの考えがあるねん。こっちとしてはウザいけどさ。」
「・・・知ってるよ、ちょっと愚痴っただけや。」
しょうもないことを愚痴っている間に、車はショッピングモールに到着した。立体駐車場に車を止め、エレベーターで四階まで上がっていく。
「今日はモデル撮影やねん。友達の女の子に来てもらってるから。」
「そうなん?」
「大学一年のピチピチやで。」
「ピチピチて・・・。今ってそういう表現使わへんやろ?」
「ええやん、ピチピチはピチピチやねん。」
四階に着き、渡り廊下を歩いて店に入る。カルチャーセンターの受付のおばさんと挨拶を交わし、写真教室が行われる部屋に入った。モデルとなるピチピチの子は先に来ていて、簡単に挨拶をすませる。五分ほどの短いミーティングを終え、俺の役割が決まった。
モデル撮影の補助、及び生徒さんの分からない質問に答えること。生徒は全員で六人いる。みんな初心者なので、俺の持っている知識でも充分役に立つとのことだった。
時間が来ると、生徒さん達が集まった。全員おばちゃんだったが、誰もが気のいい人ばかりだった。簡単なレクチャーを行い、長溝さんの知識が及ばない所は、俺がサポートしていく。そして近所にある公園に出かけ、モデル撮影が始まった。
ピチピチの子は、立派にモデルをこなした。モデルをやるなんて初めてだと言っていたが、とても初めてとは思えないくらい様になっていた。
生徒のおばちゃんたちは、「可愛い」だとか「いいね!」と高揚しながらシャッターを切っていく。俺はレフ板という光を反射させる板を持ち、モデルさんの顔を照らしていた。
講師である長溝さんは、なぜか生徒と一緒になってはしゃいでいた。「いいよ!」を連発しながら、自分自身も撮影を楽しんでいた。
《なるほど・・・・こういうやり方もあるんやな。ただ教えるんじゃなくて、生徒と一緒に楽しむんか・・・。》
正直言って、長溝さんの写真に対する知識は乏しい。それでも立派に写真教室をやっていけるのは、一重にこの人柄のおかげだろうと思った。
教えるのではなく、一緒になって楽しむ。その方が、生徒さんだって楽に撮影が出来るのだろう。
二時間の撮影はあっという間に終了し、挨拶を交わして解散する。俺は助手をした報酬に昼飯を奢ってもらい、タバコを二箱買ってもらった。そして家まで送ってもらい、車を降りて手を振った。
「お疲れ様。」
「うん、今日はありがとう。助かったわ。」
「いやいや、こっちこそ楽しかったよ。なんか・・・色々と勉強になったし。」
「ほんま?」
「ほんま、ほんま。」
「じゃあまた手伝ってよ。来月もやるからさ。」
「うん、休みが合えば手伝うよ。」
長溝さんは「ほなな」と手を振り、レトロな外観の車で走り去っていった。
「・・・・楽しかったな、まじで。」
家に入り、タバコを吹かして空を見る。どんな具合になるのか予想もつかなかったが、写真教室は楽しかった。
「引き受けてよかったわ・・・なんかすごい新鮮やった。」
そう、とても新鮮だった。しかし・・・・それ以上のものはない。今回の最大の収穫は、写真教室ではなく、長溝さんと友達になれたことだ。
恋人として付き合うから上手くいかなかった。最初から友達として付き合っておけば、きっとやきそば君と同じように、気の置けない友達になっていただろう。
「ええもんや、友達って・・・。家族でも恋人でもない。でもなんでも馬鹿なことが話し合える。こんな最高の関係って、他にないで。」
その日から、彼女とはちょくちょく遊ぶようになった。俺の予想通り、やはり変わり者だった。でもそれが嬉しい。まともな奴と付き合ったって、きっと俺は長続きしない。
変人で、常識から外れていて、それでいて馬鹿なことを真剣に考える。一見すれば世の中のはみ出し者だけど、誰よりも真面目に人生を考えている。そして真面目に考え過ぎるあまり、なかなか上手くいかない。
俺も、長溝さんも、やきそば君も・・・そういう意味では同じだった。最高の友達が増えたのは嬉しいことだが、ここへきて問題も出てきた。
あの田んぼで誓ったことが、もうそろそろ限界に来ていた。現実の世界で何かを掴み、しっかりと自分の立つ足元を確かめる。そういう誓いは、もうそろそろ耐えられなくなっていた。
仕事は真面目にこなしている。自分でもよく働いている方だと思うし、部長さんから正社員のお誘いもあった。それに人間関係だって、恋人は無理だったけど、最高の友達が出来た。何でも話し合える、馬鹿で真面目な友達が。
夢は・・・・持てなかったな。でも絵にハマったんだから、やりたいことは見つけたわけだ。その道で飯を食おうなんて思わないけど、きっと絵は一生やめないと思う。
かつて自分が持っていなかったものが、たくさん手に入った。現実の世界で確かなものを持てば、きっと何かが見えてくると信じていたから・・・・。
でも、何も変わらない・・・・。あの厄介な違和感は、いっこうに消えてくれない。それどころか、日を増すごとに強くなっている気がする。
いったい自分は何を望んでいるのか?この違和感を消すにはどうしたらいいのか?またもいつものように考え始め、辿り着く先も決まっている。
・・・・自分・・自分・・・自分・・・・・、そして世界や宇宙・・・・。
この感覚はまったく消えてくれない。まともに生きていくには不要な代物なのに、どう足掻いても消えてくれない。この違和感も、自分だの宇宙だのを考える無駄な思考も、俺から離れる気はないらしい。いや、そもそも、俺自身がそれらを手放そうとしていないのかもしれない。
厄介なものだと思いつつ、その実かなり重要なものだと分かっている。もしこの違和感がなくなれば、俺は俺でなくなってしまう。無駄なことを考える思考だって、決して嫌いというわけじゃないんだ。
頑張ったら何かが変わると思っていたけど、そうじゃなかった。変わることを拒否していたのは、この俺自身だと気付かされただけだった。
・・・・どうしよう・・・どうしたらいい・・・・?
いったい誰に尋ねているのか分からない。でも一人で考え込むには限界があった。こういう時、俺は最高の友を持っている。それは長溝さんでも、やきそば君でもない。
あの大木だ。言葉なんて必要ないし、考えることも感じることさえも必要ない。全てを委ねて、そっと包んでくれるあの大木がいるのだ。
家を出て、足早に大木の元に向かう。彼・・・いや、もしかしたら彼女かもしれないが、大木はいつもと同じ場所で、じっと佇んでいた。
そっと手を触れ、目を閉じる。
「・・・・・・・・・・・・・・。」
いつもと同じ、冷たいけど暖かい。腕を回し、強く抱きつく。何も考えず、何も感じず。
頭に枝が触れ、優しく撫でてくれる。しばらくすると、向こうもそっと抱きしめてくれた。
「・・・・やっぱ・・・無理やわ・・・。」
そう、無理だった。俺が踏みしめるこの世界は、やはり俺の立つ世界ではない。ここへ来る度に、強くそう感じる。
それから半年後、俺は心の病にかかった。辞めたいと思っていた仕事を続けたせいか、それともまったく別の理由からか?はっきりとした原因は分からないが、俺の心は病んでしまった。家から出られなくなり、息の詰まる日々が続く。友達にも会わなくなってしまい、あの大木の元へも行けなくなってしまった。
飯を食い、眠り、病院と家を往復するだけの日々。逃げ場もなく、暗い穴の底でうずくまっているような感覚だった。
・・・・・辛い。・・・・俺が・・・・蝕まれていく・・・・。
しだいに心は腫れ上がり、その痛みに耐えかねて自殺を図った。
次に目を開けた時は、病院のベッドの上にいた。手に何かを巻きつけられ、尿道には管が入っている。
家族は心配そうに俺を見下ろし、何かを語りかけてくる。意識がボーっとしているので、何を喋っているのか分からない。でも・・・とりあえず頷いておいた。この時、俺の胸の中には、ある想いだけがあった。
《恥ずかしい・・・・。》
何が恥ずかしいのか分からない。しかし、恥ずかしいという感情だけが胸を満たしている。
家族に迷惑をかけたせいか?それとも上手く生きていけない自分への情けなさからか?
出来ることなら、今すぐにこの世から消えてしまいたい気分だった。
家族が帰り、病室で一人になる。もちろん看護師さんがいるんだけど、精神的には一人ぼっちだった。
その寂しさを紛らわす為か、頭の中では、昔に聴いた童謡がリフレインしている。子供の頃は怖くて仕方なかった童謡が、グルグルと頭の中を回っていた。
『メトロポリタンミュージアム』
深夜の博物館を、一人の少女が冒険するという内容の歌だ。確かNHKで流れていた童謡のはずで、歌に乗せてパペットアニメが流れるのだ。
俺は、この歌とパペットアニメが怖くて怖くて仕方がなかった。
『タイムトラベルは楽しい メトロポリタンミュージアム 赤い靴下でよければ 片っぽあげる』
突然動き出した天使像が、女の子に服を貸してくれと頼むのだ。そして女の子は、赤い靴下を片っぽだけ差し出す。その後はエジプトのファラオの棺桶に出くわし、その中から包帯を巻いたミイラが出て来て、一緒に踊るのだ。最後は女の子が絵の中に閉じ込められて終わる。
歌の内容も、そしてパペットアニメ特有のぎこちない動きも、怖くて怖くて堪らなかった。
しかし・・・それがなぜに今になって思い出されるのか・・・・?
孤独な病室で目を瞑りながら、ただその歌に耳を傾けていた。

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