稲松文具店 第二十一話 冴木対隼人(2)

  • 2014.09.10 Wednesday
  • 15:03
隼人の身体は見事に宙を舞い、綺麗な孤を描いて畳に落ちていった。
「一本!」
張りのある大きな声が響き、隼人は茫然と天井を見つめていた。
「ああ・・・・やった・・・・。」
ホッと安堵が押し寄せ、身体じゅうから力が抜けていく。すると祐希さんが俺の肩を叩き、「よくやったわ!えらい!」と言ってガクガクと揺さぶった。
「祐希さん・・・俺、やりましたよ。あなたから教わった技で、あいつをブン投げてやりました。」
「うん、最高の内股だったわ。文句なしの一本よ!」
祐希さんは嬉しそうに拳を握り、俺の胸を突いた。
「ぐッ・・・・くそ!俺を怒らせたのは罠だったか・・・・。」
隼人は大してダメージを受けていない様子で立ち上がる。あまりに綺麗に投げ過ぎた為に、しっかりと受け身をとられてしまったようだ。
未だに怒りの収まらない表情で俺を睨み、まだ襲いかかって来ようとする。
「冴木!一回投げたくらいでいい気になるなよ!まだ終わってないぞ!」
向こうはやる気満々らしいけど・・・こっちに力は残っていない。もう手の内もバレてしまったし、次にやったら確実に負ける・・・。
「どうした!あれほど挑発しておいて、今さら逃げることは許さんぞ!」
「・・・・ほんと面倒くさいな、コイツ・・・・。」
「面倒臭くて結構。負けるよりマシだ!祐希の後ろに隠れていないでさっさと立ち上がれ!それとも何か?いい歳こいて女に守ってもらわなきゃ戦えないか?
お前こそとんだヘタレだな。人をロリコン呼ばわりするなら、お前はただのマザコンかじゃないか!」
「んだとお・・・。いいよ、やってやる!」
残った力を振り絞り、隼人に向かって行く。しかし祐希さんに「やめなさい!」と腕を掴まれた。
「相手の挑発に乗るな!冷静さを欠いたら負けるって言ったでしょ?」
「・・・そ、そうですけど・・・。」
「隼人は君がやったのと同じように、相手を怒らせて叩きのめそうとしているのよ。君は意外とプライドが高いから、マザコンなんて言われたら怒るでしょ?
隼人はそれを狙ってやってるのよ。頭を冷やしなさい。」
「は、はい・・・・・。」
なんだ・・・俺もちゃっかり罠に嵌るところだったのか・・・。一回勝ったくらいで思いあがると、逆転負けするとこだった。
「隼人・・・もう終わりよ。あなたの秘密の部屋、しっかりカメラに収めさせてもらったわ。」
そう言って祐希さんは隼人の後ろを指す。するとそこには課長と溝端さんが立っていた。
「・・・・・・・・・・。」
溝端さんはカメラを手にしていて、何やらポチポチといじり出した。そして無表情のまま隼人に歩み寄り、カメラの液晶を見せつけた。
「これ、よく撮れてるでしょ?」
「・・・・・あ・・・・。」
隼人は言葉を失って固まる。さっきまでの威勢はどこかへ消え去り、顔から血の気が引いていた。
「よくもまあこれだけ集めたもんだわ。十二畳の広さの部屋に、少女マンガがギッシリ。
それにぬいぐるみのせいで足の踏み場も無いわ。」
「・・・うう・・・・・・。」
「唯一くつろげる場所はこのベッドね。でも・・・これってピンクの布団に可愛いウサギのキャラクターが描かれてるわね?
もしかしてこのベッドに寝転びながら少女マンガを読んでるの?ぬいぐるみを抱えたりしながらさ?」
「・・・い・・・いや・・・・。」
溝端さんの表情は、だんだんと嫌味ったらしく変化していく。カメラの画像を次々と送っていき、「ほらほら」と楽しそうに笑っていた。
隼人は堪らず目を逸らすが、サッとカメラを前に出されて強制的に見せつけられる。それはまるで、拷問を受けている囚人のようだった。
「ねえ?よく撮れてるでしょ?ああ、それと部屋に一つだけ机があったから、中を調べさせてもらったの。そ・し・た・ら!もう顔が真っ赤になるくらい恥ずかしい物が出て来たわ!」
「つ・・・机の中を見たのか・・・・。」
「うん。あれも鳥肌が立つくらいメルヘンな机だったわね。白地に赤い模様が入っていて、色んな所に可愛い動物のキャラクターが描かれててさ。
しかも『何とか魔法少女』とかいう幼児向けのアニメの絵も描かれてたじゃない。もうね、恥ずかし過ぎて顔から火が出るかと思った。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「でもね、机の中にはもっと恥ずかしい物が入ってたのよねえ。ほらほら、見てよ冴木。これ傑作でしょ!」
溝端さんは笑いを堪えながらカメラの液晶を向けてくる。するとそこには、確かに赤面したくなるような物が写っていた。
「これ・・・アニメのキャラクターと一緒に・・・自分が映ってるんですか・・・?」
「そうよ!ほら、このゲーム機で撮ったみたいなの。」
溝端さんはポケットからマンテンドーDDSを取り出し、そこに挿さしてあるゲームソフトを取り出した。
「見てこれ!『ピュアラブ☆』に載ってる人気マンガ、『ルリちゃんは魔法少女』のゲームソフトよ。
これってさ、ゲームのカメラで写真を撮れば、魔法少女ルリちゃんと一緒に写れるみたいなの。私も記念に一枚撮ったわ、ほら。」
ゲーム機に保存された画像の中に、ピースサインで魔法少女と写る溝端さんがいた。
そして次々とコマを送っていくと、はにかみながらルリちゃんと写る隼人の姿があった。
「だははははは!傑作でしょこれ〜!もう少女マンガどころの恥ずかしさじゃないわよ〜!これ見つけた時、笑い死ぬかと思ったもん!だははははは!」
溝端さんは腹を抱えてケタケタ笑い、涙まで流している。
そしてその横では、隼人が別の意味で泣きそうな顔をしていた。プルプルと唇を震わせ、耳まで真っ赤にしながら俯いている。
「ねえ隼人。これをネットに流したらどうなるかな?こうやってしっかりあんたの顔まで写ってるのよ。し・か・も!魔法少女ルリちゃんと一緒にさ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「それにあんたってマニアックよねえ。しっかりゲームをやり込んで、色んな衣装を集めてるんだもん。
ほら、これなんか最高!ルリちゃん新体操のコスプレしてるし。しかもあんたはニコニコとピースをして写ってる。
いやあ〜!世界に名だたる稲松文具の社長が、こんな恥ずかしい写真をネットでばら撒かれた日には・・・ねえ?
もう色んな所でネタにされて広まるわよ〜。色んな風に加工されてあちこちで張られるわ。
馬鹿がスレッドを立ち上げる度に、あんたのバカな写真が毎回登場するわけよ。『あの画像早よ』とかいって、赤字で要求されるわよ?だははははは!」
「・・・・や・・・やめてくれ・・・・。」
「え?なんて?何か言った?」
「・・た・・・頼むから・・・やめてくれ・・・。」
「ええ〜!聞こえな〜い!いつもの威勢はどうしたのよ?もっと胸張って言えば〜?僕とルリちゃんの愛の写真をばら撒くのはやめてくれってさ。んん?」
溝端さんは勝ち誇ったように隼人の顔を覗き込む。
きっと・・・鬼の首をとった状態ってこういうことを言うんだろうな・・・。
隼人は完全に意気消沈していて、戦意の欠片も残っていなかった。そして溝端さんに向かって土下座し、「悪かった!」と叫んだ。
「俺が・・・俺が悪かった・・・。だからネットでばら撒くのだけはやめてくれ・・・。」
「ふふふ、まさかあんたの土下座が見られるとは思わなかったわ。もっともっといたぶってやりたいけど、まあかなりスッキリしたからもういいわ。」
「じゃ、じゃあ・・・・許してくれるのか?」
隼人の顔がパッと明るくなる。溝端さんはそれにつられるように、ニコリと顔を近づけた。そして急に表情を変え、目をつり上げて隼人の胸ぐらを掴んだ。
「はあ?許す?ふざけたこと言ってんじゃねえぞテメエ!」
「・・あ・・ああ・・・・。」
「こっちは大事な兄妹を人質に取られてんだよ!まずはそれをどうにかするのが先だろうが、ええ!」
「わ、分かった!すぐに連絡を入れて解放する!」
隼人は大慌てでケータイを取り出し、部下に連絡して人質を解放するように伝えた。
「あんた、あの子たちに何もしてないでしょうね・・・?」
胸ぐらを引きよせ、鬼のような顔で睨む溝端さん。隼人はぶるぶると首を振り、「な・・・何もしてない・・・。」と呟いた。
「俺の持っている部屋に軟禁していただけだ・・・・・。食い物も飲み物もあるし・・・ただ部屋から出られないようにしていただけだ。」
「・・・・ほんとでしょうね?」
「ほ、ほんとほんと!天地天明に誓って約束するよ!」
「大げさな言葉を使ってんじゃないわよ、この馬鹿!テメエには反吐が出るほど腹わた煮えくり返ってんだ!き〜っちり謝罪と誠意を見せてもらうわよ、分かったか!」
「は、はいいいいいいい!」
隼人は何度も頭を下げて謝る。そして最後に強烈なビンタを食らって鼻血を出していた。
「とりあえず今はこんなもんで勘弁してやるわ。また後日・・・・じ〜っくりと話をして、謝罪と誠意をみせてもらうから・・・首洗って待っとけ!」
「・・う・・・うう・・・・・。」
溝端さん・・・完勝だな。見ているこっちが気持ちいいくらいだ。
「ねえ祐希。車の鍵かして。あの子たちを迎えに行くから。」
「いいわ、私が送ってく。隼人の弱みは握ったんだし、もう暴れることはないでしょ。」
そう言って課長の前まで歩み寄り、「後は任せる」と笑いかけた。
「それじゃ隼人、また今度・・・。」
溝端さんは隼人の頭を叩いて睨みつける。そして俺の方を見つめて小さく笑った。
「冴木のクセにやるじゃない。見直したわ。」
「いや・・・とにかく夢中だったから・・・。でも溝端さんの兄妹が無事でよかったです。早く迎えに行ってあげて下さい。」
「うん・・・。それじゃここは任せる。しっかしその馬鹿と話をつけなさい。」
祐希さんと溝端さんは手を振って部屋から出て行く。
「あ!外で箕輪さん達が待ってるはずだから、一緒に送って行ってあげて下さい!」
「りょ〜かい!」
祐希さんと溝端さんが去り、さっきまでの騒々しさが嘘のように静寂がおりる。隼人は完全に放心していて、虚ろな目で窓の外を見つめていた。
「兄さん・・・。」
課長が隼人の横に腰を下ろし、そっと手を重ねた。
「溝端さんに・・・かなりキツイこと言われたね。」
「・・・・・・・・・。」
「でも仕方ないよ。兄さんはそれだけのことをしたんだから。」
課長の顔から憂いが消え、いつもの優しい表情に戻っていく。それを知ってから知らずか、隼人はわずかに耳を傾けているようだった。
「私もね、兄さんに言いたいことはいっぱいあった。でも・・・あれだけ言われた後じゃ、兄さん傷つけるだけだからやめておく。」
「・・・・・・・・・・。」
「でもね、一つだけ言わせて。これだけは私の口から兄さんに聞いてほしい。」
課長は両手で隼人の手を握り、真っすぐに向かい合った。隼人は視線を戻し、妹の顔を見つめ返す。
「兄さん、お願いだから昔に戻って。何にでも一生懸命で・・・真っすぐ上を向いていたあの頃の兄さんに。私が伝えたいのは・・・・それだけ。」
課長はギュッと手を握りしめ、小さく微笑んでから立ち上がった。
「冴木君、行こう。」
「ああ・・・はい。でもいいんですか。その人をほったらかして・・・。」
「うん。今の兄さんに必要なのは、自分と向き合うことだから。きっと・・・・正しく自分を見つめてくれるって信じてる。」
課長は一度だけ兄を振り返り、何も言わずに部屋から出て行った。俺は放心した隼人に目をやり、全てを失った男の末路を目に焼き付けた。
《・・・いや、違うな。全てを失ったわけじゃないか。きっと余計なものが削ぎ落されたんだろう。》
放心しているけど、どこかスッキリした顔をしている・・・・・ように見えるのは買いかぶりか?まあいい。全ては終わったんだ。
俺も早く厄介事から解放されて、自分の人生と向き合う時間がほしい。首にはまだ締められた痛みが残っているけど、まあ大したことはないだろう。誰も怪我をしなくて良かった。
膝に手をついてゆっくりと立ち上がると、段田が目を覚ました。
「おお、なんだ?ボンボンが放心してる・・・。」
「もう全部終わったんだよ。今は一人にしといてやろう。」
段田は眉を寄せて隼人を睨んでいたが、フッと表情を緩めて立ち上がった。
そして二人で部屋を出ようとした時、ある人物がいないことに気づいた。
「あれ?ロッテンマイヤーさんは?」
「ああ、いねえな。じゃあ家に帰ったんだろう。あいつは面倒事があるとすぐに逃げるからな。ほっといても余計な事は喋らんだろうぜ。」
「確かに。」
段田はつまらなさそうにあくびをし、スタスタと出て行く。
俺は引き戸の前で立ち止まり、隼人の背中を見つめてから部屋を後にした。


            *


外に出ると潮風が吹いていて、心が洗われるような心地良さだった。
「なんかここ最近はドロドロしたことばかりだったから、やっとホッと出来た。ああ・・・心配事がないって素晴らしい。」
海を眺めながらそう言うと、隣に立つ課長が眩しい笑顔で頷いた。
「そうだね。心配事がないって素晴らしいと思う。けど・・・またいつか、何かを抱え込むんだろうね。」
「そうですね・・・。でも今はそんなこと考えるのはやめましょうよ。やっと全てが終わったばかりなんだから。」
「うん。でもいいよね、何も気にせずに海を眺めていられるって。すごく幸せなことだって感じる・・・。」
課長は潮風に身を任せるように目を閉じる。海の光を全身で受けながら、胸いっぱいに潮の香りを嗅いでいた。
《いい、いいなあ・・・課長・・・。やっぱり俺は・・・本気で課長のことを・・・・。》
「何ニヤニヤしてんだよ。」
じっと課長に見惚れていると、段田に背中を突かれた。
「いや・・・別にニヤニヤなんてしてないだろ・・・。」
「お前・・・北川課長に惚れてんだろ?」
「なッ!・・・いきなり何を・・・・。」
「顔見りゃ一発で分かるって。まああれだ、若いうちの恋は若いうちしか出来ねえ。お前にとっちゃ高嶺の花だろうが、いっちょアタックしてみろよ。万が一ってことだってあるぜ?」
「そ・・・そうかな・・・?」
「おお!馬鹿が真に受けてらあ。お前女と付き合ったことないだろ?」
「うるさいな!せっかく課長の美しい横顔を見てるんだから邪魔すんなよ。」
「ははは!でも本気で好きなら気持ちは伝えてみな。黙ったままじゃ恋は実らねえぜ。それじゃ、俺はやる事があるからこれで。」
段田はくるりと背を向け、手を振って去って行った。
「あいつ・・・あのまま逃げる気じゃないだろうな?」
段田の背中を見送り、また課長の横顔に視線を戻す。
《この人は・・・俺より色んなものを背負っていたんだよな。これまでも・・・そしてこれからも。》
いくら全てが終わったとはいえ、課長は北川家の血を引いている。ならばそれを背負う覚悟が必要なわけで・・・・・って、いや、そうでもないか。
背負うかどうかは自分で決めればいいんだし、いくら北川家の血を引いていても、課長だって一人の人間なんだから、自分の人生を選択する自由はあるはずだ。
何より、今の課長の顔は自由を求めている気がする。俺はしばらく課長の横に立ち、一緒に海を見つめていた。
空から降る光を煌めかせ、瀬戸内の海は穏やかに揺らいでいる。
「・・・・・ねえ、冴木君。」
課長は海の風を感じながら、前を向いたまま尋ねてくる。
「はい。」
「君はこれからどうするの?やっぱり実家に帰る?」
「・・・分かりません。俺も・・・自分の人生を見つめる時間がほしいから。もしかしたらまた稲松文具にお世話になるかも。」
「・・・そっか。でも焦ることはないよ。じっくり考えればいいと思う。そして・・・もし稲松文具に戻る気があるなら、私に言って。
君にはたくさん迷惑をかけたから、それくらいはさせてほしいの。」
「・・・ありがとうございます。」
「ああ、それと・・・。ちゃんと約束は守らなきゃね。」
「約束?」
「うん。もしこの騒動が終わったら、一度デートしようって言ったでしょ?」
「あああ!そうです!言ってました!ええ、それは言ってましたとも!」
「ふふふ、私でよかったらいつでも言って。予定を空けておくから。」
「わ、分かりました!この冴木晴香!課長の為なら、火の中、水の中ですよ!」
課長は可笑しそうに笑い、海を眺めながら小さく頷いた。
「それじゃ私たちも帰ろうか。家まで送って行くよ。」
「ああ、はい!喜んで!」
ああ・・・今日はなんて良い日なんだ・・・。隼人を倒して全ては解決したし、課長とデートの約束をしたし・・・なんか生まれて初めて人生バラ色って感じだ。
「冴木君?どうしたの、ボーっとして?」
「いえいえ、なんでも!さ、さ、行きましょう!」
俺と課長は並んで海沿いの道を歩き出す。時折課長は俺の方を向いて微笑み、柔らかい笑顔で前を見つめていた。
《きっと・・・俺は本気で好きになってしまったんだな・・・この人のことを・・・。
だから今度のデートの時に・・・自分の気持ちを伝えよう。最高のデートを用意して、課長に対する気持ちを・・・・。》
胸に言いようのない熱さがこみ上げ、これ以上課長を見ることが出来なかった。だって・・・このままずっと見ていたら、今この場所で気持ちを伝えてしまいそうだから・・・。
何も言葉を交わさず、ただ並んで歩いていく。すると後ろから誰かの足音が聞こえ、ゆっくりと振り返った。
「あれは・・・・女将さん?」
桃色の着物を着た女将さんが、何かを手にして走って来る。
「そういや旅館を出る時にはいなかったけど・・・いったいどこにいたんだ?」
旅館に続く道から、女将さんは必死にこちらに走って来る。何かを手に持ち、追い詰められた形相で俺たちを睨んでいる。
「・・・もしかして、隼人がまた暴れてるとかじゃ・・・。ねえ課長。ちょっと旅館に戻った方が・・・。」
そう言って後ろを振り向くと、課長は海を見つめながら先へ行っていた。どうやら女将さんがこちらに向かっていることに気づいていないらしい。
「課長!女将さんがこっちに走って来てますよ!ちょっと旅館に戻った方が・・・・、」
その時、ドンと背中に衝撃が走った。
「な・・・なんだ?」
ゆっくりと後ろを振り向くと、女将さんが狂ったような目で俺を睨みつけていた。
「・・あ・・・ああ・・・・・。」
女将さんはブルブルと唇を震わせ、よろめきながら後ずさっていく。そして踵を返して素早く逃げて行った。
「・・・・・・・・・・。」
俺は・・・知ってるぞ・・・。背中に走るこの感触を・・・。鋭く、そして焼けつくようなこの痛みを・・・。それもつい最近に経験している。
背中に手を回し、痛みが走る場所に触れてみる。すると案の定、硬くて冷たい物が手に触れた。
「これ・・・・また・・・ナイフじゃねえか・・・。」
手にはべっとりと血が付いていて、焼けつくような痛みが襲ってくる。足元から地面を踏んでいる感覚が消え、膝から力が抜けて崩れ落ちた。
《なんだよ・・・また刺されたのかよ・・・。しかも・・・前よりヤバイ感じがするんだけど・・・大丈夫かれ・・・・・?》
痛みとショックで意識が朦朧としていき、身体から力が抜けていく。すると誰かの叫び声が聞こえて、こちらに走って来る気配を感じた。
「冴木君ッ!」
それは課長だった。必死に俺の名前を叫び、引きつった顔で見下ろしている。
《・・・課長・・・泣いてるんですか・・・?》
課長の目には涙が溜まっていて、狂ったように俺の名前を叫んでいる。
そしてケータイを取り出し、どこかへ電話を掛けていた。
《・・・課長の・・・手が・・・頬に触れてる・・・暖かい・・・・。》
俺はその手を握り返し、ゆっくりと目を閉じる。闇に落ちていく直前、一瞬だけ走馬灯が走った。

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