水面の白影 第九話 巡る季節

  • 2014.10.08 Wednesday
  • 14:37
〜後章〜


セミの鳴く暑い季節になると、必ず母のことを思い出す。いや、毎日のように思い出しているんだけど、夏になると特に強く思い出すのだ。
十年前のあの日、俺は母に見送られて家を出た。無口な弟と並んで歩き、傷だらけのランドセルをいじっていた。
そして一緒に登校する班に合流し、二キロもある学校まで歩いて行ったのだ。学校での生活はいつもと変わらない。
授業が退屈なこともいつも通りだし、想いを寄せていた加奈子ちゃんと上手く話せないのもいつも通りだ。
そしてこのまま何もかもがいつも通りに終わるのだと思っていた。
しかし家に帰った時、いつも通りではないことが起こっていた。朝に出かけた母が、まだ帰って来ないのだ。
別にそれ自体は珍しいことではないけど、何の連絡も寄こさないというのがおかしかった。母は帰りが遅れる時は、必ず連絡を入れるからだ。
祖母が掛けた電話にも出ず、会社にいる父が掛けた電話にも出なかった。みんなは母のことを心配し、先に帰っていた弟は泣きそうになっていた。
この時の俺は、なんだかとても嫌な予感がしていた・・・・。
虫の知らせ?それとも未来予知?まあなんでもいいけど、とにかく暗い未来しか見えなかったのだ。
やがて夜になり、父が帰って来た。そしてまだ母が戻って来ないことを伝えると、すぐに母の実家に向かった。
しかし家から出て来た広明叔父さんは、今日は母は来ていないと言った。てっきりここへ来ていると思った父は、かなり動揺した。
そして片っ端から母の知り合いや友達を当たり、そっちに行っていないかと尋ねていた。
しかし誰も母は来ていないと答え、いったいどこに行ってしまったのだろうかと不安になった。警察に言うべきか言わざるべきか・・・・・父と祖母が長いこと話し合っていた。
父はすぐにでも警察に行くべきだと言っていたけど、祖母は反対した。
『警察のお世話になんかなったら、世間様への体裁が悪い。いずれ帰って来るだろうから、もう少し様子を見よう。』
そう言って一歩も引かなかった。気の弱い父は、祖母の意見に逆らうことが出来ずに頷いていた。
でも次の日になっても、そのまた次の日になっても、母は帰って来なかった。
痺れを切らした父は、とうとう祖母の反対を押し切って警察に行った。
しかし・・・・警察は真面目には捜してくれなかった。これは後から知ったんだけど、警察には民事不介入という大原則があるらしい。
だから大人の人が家に帰って来なくても、事件性がないと調べてくれないそうだ。
警察に頼れなかった父は、探偵を雇って捜してもらおうとしたんだけど、これには祖母が猛反対した。
いつもより百倍くらいグチグチ言って、そこまでするもんじゃないと怒っていた。そしてその後に、とんでもないことを言ったのだ。
『もうあの女のことは忘れなさい。家族を放ってどこかへ行くなんて、神経がどうかしてる証拠。きっと他に男でも作って逃げたんでしょう。』
それを聞いた時、なんて酷いことを言うんだろうと腹を立てた。母は絶対に家族を置いてどこかへ行くような人じゃない。
でもあまりに祖母がまくしたてるもんだから、もしかしたらそうなのかなと思い始めていた。
母と祖母は仲が悪かったから、いい加減我慢が出来なくなって逃げ出したのかもしれない。
子供でもそう思うくらいに、母に対する祖母の態度は酷かったから・・・・・。
父は納得いかない様子で食い下がっていたけど、遂には祖母の説得に折れた。そして探偵を雇うことを諦めて、自分だけで捜し始めた。
でもそうこうしてるうちに会社での昇進が決まって、仕事が忙しくなった。だからいつしか母を捜すことを止め、我が家ではこの話はタブーになっている。
そして今から二年前、父は再婚した。祖母から勧められたお見合いで、ちょっとお金持ちの女性と結婚したのだ。
見た目はあまり美人とは言えないけど、中身はまあまあ良い人だ。それに何より祖母の受けがいいから、今のところは家庭円満にいっている。
弟は新しい母を気に入っているみたいだけど、俺はそこまで素直になれない。
別に今の母が嫌いなわけじゃないが、どこかへ消えてしまった実の母が、どうしても気になって仕方ないのだ。
そしてそれは、セミの鳴く暑い季節になると思い出す。母がいなくなったのは十月の終わりだけど、あの年の夏は異常に暑かったから、まだセミが鳴いていたのだ。
俺は下着とTシャツを着ながら、ぼんやりと母の顔を思い出していた。息子の俺から見ても綺麗な人で、とても三十七には見えなかった。
芯が強くて優しくて、ちょっと口が悪いことを除けば、すごく良い母親だったと思う。
窓の外を見ながらそんなことを考えていると、隣で寝ている彼女が起きた。眠たそうに俺を見つめ、ハスキーな声で尋ねてくる。
「おはよう、今何時・・・・?」
「ええっと・・・・五時半やな。」
「早ッ・・・・まだまだ学校まで時間あるやん・・・・。」
「いや、なんか目が覚めてもてな。」
そう言うと、彼女の加奈子はだるそうに身を起こした。
「もしかして、またお母さんのこと考えてたん?」
「うん、まあこの季節になるとどうしてもな・・・・。」
「そっか・・・・おばちゃん良い人やったもんね。すごい綺麗やし、大人になったら私もあんな風になりたいって思ってたわ。」
加奈子は俺に気を使い、眠い目をこすって話に付き合ってくれた。恋人として一緒に過ごすのは今年で二年目だが、友達としての付き合いは小学生の頃からだ。
だから我が家の事情をよく知っていて、こうして話に付き合ってくれることがある。
「あんまり気い使わんでええで。今日一時限目から授業入ってんねやろ?」
「うん、哲学な。授業は退屈やけど、あの教授やと単位は取りやすいから。」
「そうか。でも昨日寝るの遅かったやん。俺が代返しといたろか?」
「あ、マジで?ほなお願い。」
加奈子はニコリと笑い、艶めかしい太ももを見せつけてベッドに転んだ。
まったくもって男とは悲しい生き物で、昨日は三回もやったのに、太ももを見せつけられるだけで性欲が湧き上がってくる。
「なあ、寝起きセックスせえへん?」
指でツンツンとつつくと、「イヤ」と言われた。
「昨日散々やったやん。私あの後レポートやってたんやで?もう疲れてるわ。」
「いや・・・そんな時間かけへんから。」
「イヤや、絶対に一回じゃ終わらへんもん。」
「いいや、一回で終わらせる。それも五分以内に!」
「それカッコつけて言うとこ?」
加奈子は可笑しそうに笑い、「しゃあないな・・・・」と面倒くさそうに仰向けになった。そして両手を広げて「ん?」と微笑んだ。
俺は待ってましたとばかりに、不二子を襲うルパンばりに飛びついた。そして形の良い胸に顔を埋めた時、ブルブルとスマホが震えた。
「ケータイ鳴ってんで?」
「後でええよ。」
「出たらええやん。そんなに急がんでも私は逃げへんで?」
「・・・・そうやな、ほな・・・・・。」
心の中で大きく舌打ちをして、加奈子とのセックスを邪魔されたことを怒る。
《誰やねん、こんな時間に・・・・・。まあだいたい見当はつくけど。》
時刻は午前五時半。こんな時間に電話を掛けてくる輩は一人しか考えられない。スマホを取って液晶を見ると、それは案の定弟からだった。
「もしもし?こちら緊急の仕事で時間がありません。手短にどうぞ。」
抑揚のない声でそう言うと、弟の信也はケラケラと笑った。
『また加奈ちゃんの所におるん?』
「そうや。それがどうした?」
『どうせまたセックスしてたんやろ?』
「彼女やったらセックスくらいするやろ。」
『そらそうやけど、でもこの前加奈ちゃん言うてたで。お兄は絶倫やって。』
「絶倫って・・・・子供のクセにしょうもない言葉使うな!」
『何言うてんねん。二つしか違わへんやん。』
信也はまたケラケラと笑い、絶倫を連呼してくる。朝の五時半に電話を掛けてきて、兄に向かって絶倫を連呼するとは・・・・。いったいこいつの頭はどうなってる?
顔をしかめて電話を睨んでいると、加奈子が可笑しそうに笑っていた。
「ちょっと貸して。」
そう言って手を動かすので、ポイっとスマホを放り投げてやった。
「もしもし?信ちゃん?」
『ああ、加奈ちゃん?ごめんな、セックスの邪魔してもて。』
「ううん、全然いいよ。ていうか助かった。隆志って、昨日三回もやったクセに寝起きセックスしようとか言うてくるから。」
『マジ?正真正銘の絶倫やん。』
「そうやねん。だからそろそろ信ちゃんに乗り換えようかと思って。今フリーやんな?」
『恥ずかしながら、生まれてこのかたフリーやわ。でも加奈ちゃんやったら全然OKやで。俺オナニーとか三日に一回くらいしかせえへんから、絶倫とは程遠いし。』
「ああ、それは少ないな。まだ高校生なんやから、もっとしてもええと思うよ?」
加奈子と信也は、恥じらいもない会話をケラケラと笑いながら楽しんでいる。俺は馬鹿馬鹿しくなってベッドから降りた。
「あ、隆志が妬きもちやいてもた。もう代わるね。」
加奈子はまだケラケラ笑いながら、俺にスマホを差し出した。
「なに弟に妬いてんの?お兄ちゃんのクセに。」
「違うわ、アホらしくなって聞いてられへんだけや。」
「ホンマ?セックスがお預けになって怒ってるだけちゃうの?」
「・・・・まあ、それもあるかな。」
「あはは、やっぱり絶倫やん。」
加奈子は「絶倫、絶倫!」と指を差し、電話の向こうの信也まで絶倫を連呼し始めた。
「お前らええ加減にせえ。俺は絶倫とちゃう。加奈子を愛してるだけや。」
そう言いながらスマホを奪い取ると、『うわあ〜臭あ〜』と信也の声が聞こえてきた。
《こいつ、ほんまに電話切ったろかな・・・・・。》
本気でそう考えるが、加奈子を見て気が変わった。彼女は目を見開いて嬉しそうにしていて、俺のTシャツをクイクイと引っ張った。
「なあ・・・今のもう一回言うて。」
「ん?絶倫。」
「ちがうって!さっき私のこと愛してるって言うたやん。あれ・・・もう一回言うて。」
「イヤや。」
「なんでよ?」
「あれは勢いで言うただけや。そんなもんポンポンと言うもんとちゃうねん。」
「え〜、別にええやんか。隆志ってたまに武士みたいなとこあるよな?」
「そうや、俺は日本に生きる最後の侍やねん。カッコええやろ?」
「あはは、それどっかのお笑い芸人が言うてたやつやん。」
加奈子はまた可笑しそうに笑い、「今日もう一回言うてな。ていうか言わせるから」と言って、タオルケットを被ってしまった。
「誰が言うかっちゅうねん。」
捨てゼリフを残しながら部屋を横切り、小さなバスルームに入った。そして顔だけ覗かせて、「愛してんで」と呟いた。
「言うの早ッ!でも嬉しいからええわ。」
「ええから寝ろ。でないと絶倫モードになんで?」
「それは勘弁。」
加奈子はササッとタオルケットを巻きつけ、亀のように包まってしまった。昔からこいつのことは知っているが、この憎めない性格は今でも変わらない。
そもそも俺は、加奈子の底なしの明るさに惚れたのだ。だから昔のまま変わらないのは嬉しいことだった。
「お母さんはおらんようになったけど、加奈子だけは・・・・ずっと傍におってほしいな。」
思わず本音がこぼれ、もしかしたら聞かれてないかと加奈子を睨んだ。
「・・・もう寝てるっぽいな。のび太君か。」
小さく笑いながらバスルームに入り、スマホを耳に当てて信也に話しかけた。
「もしもし?」
『・・・・・・・・・・・・・・。』
「おい、聞こえてるか?」
『・・・あのなお兄・・・・・。』
「ん?」
『・・・・・・キモッ!そんで臭ッ!』
「うるさいわ!ええから早よ用事を言え。でないとマジで切るぞ?」
だんだん腹が立ってきて、次に実家に帰ったら一発どついてやろうと思った。信也はしばらく笑っていたが、やがて真面目に声になって切り出した。
『まあこんな時間に電話を掛けるくらいやから、もう要件は分かってると思うけど・・・・。』
「ああ、やっぱりアレのことか?」
『うん、アレのこと。』
俺はスマホを持ちかえ、壁に背中を預けながら耳を澄ませた。
「広明の奴、また妙なことしてんのか?」
『この前からずっと監視してるんやけど、またあの池に行ってたわ。そんで・・・例のヤツも見えた。』
「白い煙やな。ほんでどうやった?朋子さん・・・・何か言うてたか?」
『前とは違う色が見えるって言うてたで。なんか緑っぽい色やったかな・・・・。』
「緑なあ・・・・。それって確か穏やかな性格の色やんな?」
『らしいな。俺もよう分からんけど・・・・。でもこの前見た色は激しい赤色やって言うてたから、今回の奴とは違うみたい。』
「そうか・・・・。他になんかあるか?」
『いや、今回はそれだけ。』
「分かった。わざわざ電話してくれて悪いな。」
電話を切り、眉をしかめてあの男の顔を思い出した。
《広明・・・・・お前は絶対に何かを隠してるはずや・・・。いつか絶対に化けの皮を剥いだるからな。》
叔父はいま洋菓子屋の社長をやっている。趣味で始めた菓子作りが、いつの間にか商売として成功してしまったのだ。
元々手先の器用な人で、それに芸術家気質な人だった。だから素人にもかかわらず、ほんの一年ほどでプロに並ぶ菓子を作るようになってしまった。
それはいつしかネットで評判を呼び、テレビで紹介されてから大盛況となった。そして次々に支店を増やし、地元では名士として尊敬されているほどだ。
見た目は四十二には見えない童顔で、しかも抜群に礼儀正しい。そのせいで女性にもよくモテているし、昔からは考えられないほどの自信家になっていた。
今の叔父にとっては、うつ病で引きこもっていたことさえプラスになる。
例えうつ病でも、例えニートでも、こうやって成功出来る可能性があるのだと、周りに知らしめたからだ。
だから誰もが叔父の味方をして、心の底から信用しきっている。
でも・・・・俺は騙されない。俺と信也だけは、何があってもあの男を信用することはない。それは明確な根拠があってそう思うわけじゃなく、幼い頃の記憶からくるものだった。
子供の頃、両親に連れられて何度か母の実家に行ったことがある。広明という男は仕事をしていないものだから、いつも家にいた。
そして愛想よく俺たちの相手をしてくれるのだが、どこか得体の知れない不気味さがあった。
見た目は普通、喋り方も普通、しかし身体から発せられる雰囲気が、まるでこの世のものではないように思えた。
それに何より印象的だったのが、あの目だ。いつもどこを見ているのか分からない目をしていて、しかも独特の眼光があった。
だから俺も信也も、叔父と目を合わせることをとても怖がっていたんだ・・・。
それに・・・・ただの光の加減だとは思うけど、時々叔父の目が青く見えることがあった。
混じりっ気なしの純粋な日本人のはずなのに、なぜか透き通るような青い目をしている時があった。
そのせいで余計に怖くなって、やがては実家に寄りつかなくなった。幸い母も無理に俺たちを連れて行こうとはせず、ほとんどの場合は一人で実家に行っていた。
だから・・・・母がいなくなったあの日だって、絶対に実家に行っていたはずなのだ。そしてその時、家には必ずあの叔父がいたはずだ。
仕事もせずに、あの不気味な雰囲気を漂わせながら・・・・・
《絶対に・・・・絶対にあの日、お母さんは実家に行ったはずなんや。でも広明は嘘をついて誤魔化した。そんなことする理由はただ一つ。何か後ろめたいことがあるからや。》
母がいなくなったあの日、同時に祖父と祖母もいなくなった。一気に三人の人間が行方をくらましたっていうのに、警察は広明を追及しなかった。
いや・・・俺が知らないだけで、もしかしたら捜査の対象になっていたのかもしれない。
でも結局広明は何事もなく今まで生きている。きっと上手い具合に警察を誤魔化して、後ろめたい何かを隠し通したに決まっているんだ。
だから・・・だから俺と信也が、いつか必ずあいつの秘密を暴いてやるつもりでいた。
不登校の弟は時間を持て余しているから、しょっちゅう広明の動向を探っている。それに俺だって、時間の許す限りは広明について調べようとした。
そしてその過程で朋子という女性と会い、力を貸してもらえることになった。彼女は人の持つ色が見えるそうで、その色から様々なことを見抜いてしまう。
かなり寡黙な女性で、あまり自分のことについては喋りたがらない。でもひょんなことで出会ってから、力を貸してもらえることになったのだ。
《また朋子さんにも電話せんとな。ちょっとずつでええから、広明を追い詰めていかんと。》
出来れば今すぐにでも母のことを問い詰めたい。でも中々そうもいかなかった。
こっちは何の力もない大学生と、不登校の高校生の弟。そして不思議な力はあるけれど、びっくりするほど引っ込み思案な朋子さんだけだ。
だから経済的な成功と社会的な信用を勝ち取った叔父に喧嘩を売るのはまだ早い。正面から奴とぶつかればどうなるか?社会に出たことのない俺でも分かるというものだ。
《でも・・・いつか絶対にあいつの秘密を暴いたる。そこには知りたくない事だってあるかもしれへんけど、じっとはしてられへんからな。》
決意を固くしてスマホを握っていると、コンコンとバスルームのドアがノックされた。
「ごめん、トイレ行きたいんやけど・・・・。」
「ああ、ごめん。ていうか入ってくれてええで。」
「イヤや。あんたはよくても、私は音聞かれたくないもん。さっさと風呂場に入るか、そこから出るかにしてよ。」
「じゃあ風呂に入るわ。シャワー借りるで。」
「うん、早くして。もう漏れそうやから・・・・。」
磨りガラス越しに、我慢の限界を迎えた加奈子が映っている。あまり待たせては悪いと思い、風呂場に入ってシャワーを浴びた。
暑いシャワーというのは夏でも気持ちいい。身体の疲れだけでなく、心と頭の疲れまで流してくれるようだった。
「・・・・・・加奈子、デカイ方したな・・・・・・。」
生まれつき耳がいいせいで、聞こえなくてもいい音まで聞こえてしまう。それは時として非常に厄介なもので、知りたくない情報まで手に入れてしまうのだ。
《このことは黙っとこ。下手に口滑らせたら、しばらく機嫌が悪いやろうからな。》
加奈子の機嫌を損ねるということは、加奈子を抱けないことを意味する。奴の機嫌が治るのはとても時間が掛るのだ。
だから余計なことを知ってしまったとしても、決して口にしてはいけない。これ以上加奈子からお預けをくらったら、絶倫の俺は干乾びてしまうだろうから。


            *


大学の講義が終わり、足早に門へと向かう。途中ですれ違った友人から合コンの穴埋めに誘われたが、すぐに手を振って断った。
後ろから「付き合い悪いな」と茶化されるが、「今度誘ってや」と返してその場を切りぬけた。
「加奈子の奴、結局今日は学校に来おへんかったな。やっぱウンコのこと口滑らしたん怒ってるんやろか?」
気をつけようと思っていたのに、何気なく「ウンコしてたな?」とこぼしてしまった。加奈子は枕を掴み、思い切り俺を殴ってからタオルケットに包まってしまった。
こうなると何を言っても許してくれず、あとは時間が解決してくれるのを待つしかない。
今朝のゴタゴタを思い出しながら門の手前まで来ると、とても地味な服装をした女性が立っていた。
グレーのTシャツに薄緑のカーゴパンツ。髪は短いが幽霊のようにダラリと垂れていて、初めて見る人なら確実に避けて通るだろう。
しかし顔はそこそこ美人で、暗い雰囲気さえなければきっとモテるタイプだ。俺は小さく笑いながら手を振り、「朋子さん」と呼びかけた。
すると朋子さんは、ユラリと短い髪を動かして振り向いた。
「・・・・こんにちは・・・。」
「うん、こんにちは。相変わらずお化けみたいやな?」
「そうね・・・・。」
「ごめんな、急に電話して。実家から神戸までは遠かったやろ?」
「そうでもない、車で三時間くらい・・・・。」
「車で三時間ってめっちゃ遠いやん。まあ呼んだんは俺やけど。」
笑いながら言うと、朋子さんは「そうね・・・」と呟いた。
相変わらず感情を計りにくいところはあるけど、それでもだんだんとこの人のことが分かってきた。
「お腹すいてへん?俺まだ昼飯食うてないねん。」
「昼ご飯って・・・・もう夕方の四時よ・・・・?」
「じゃあ晩飯やな。すぐ近くに新しいマックが出来たんや。とりあえずそこで腹ごしらえしようや。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
朋子さんは無言のまま何ともいえない顔で目を閉じた。そして指で前髪をいじり、困ったように首を傾げていた。
《お、喜んでるな。》
髪をいじりながら首を傾げるのは、彼女が喜んでいる時のクセだ。俺は笑いを堪えながら、「ほな行こ」と背中を押した。
大学は山に近いところに建っていて、どこへ向かうにも急な坂道ばかりだ。神戸というのは都会でありながら、山と海に囲まれた自然の宝庫でもある。
あれはいつだったか、イノシシが信号待ちをしていたことがあった。六甲山が近くにあるから、イノシシが出て来ることは珍しくない。
でも信号待ちをするイノシシを見たのは初めてで、そのことを朋子さんに話してみた。
「この前な、イノシシが信号待ちしてたんや。あいつらって意外と賢いんやな。」
笑いながらそう言うと、朋子さんは目を細めながら自分の手をさすった。
「・・・イノシシは頭がいいわよ。」
「そうなん?」
「豚の頭が良いのは知ってるでしょ・・・・?」
「ああ、確か犬より賢いんやったっけ?」
「そう・・・。イノシシは豚の祖先だから、同じように頭がいいの・・・。」
「へええ・・・そら知らんかった。一つ勉強になったわ、ありがとう。」
感謝するように微笑みかけると、朋子さんはさらに腕をさすっていた。
《お、今度は照れてる。》
朋子さんが腕をさするのは、照れている時のクセだ。他にもいくつものクセがあって、そこから彼女の感情を読み取ることが出来る。
《朋子さんって意外と素直やな。最初は気難しい人かと思ったけど、慣れてくると全然そんなことないわ。》
コツさえつかめば、朋子さんはとても話しやすい人だ。ていうか加奈子に比べたらよっぽど扱いやすい。
「あいつは明るいクセにヘソ曲がりなとこがあるからなあ・・・。もうちょっと素直やったらええんやけど・・・・。」
ぼそりとそう呟くと、朋子さんは急に足を止めた。
「ん?どうしたん?」
「・・・マック・・・・通り過ぎた・・・。」
「ええ!ああ・・・・ほんまや。」
朋子さんが指差す方を見ると、真新しいマックの看板が立っていた。
「ごめん、ちょっと考え事してたら見過ごしてもた。」
笑いながら言うと、朋子さんは少しだけ唇の端を上げた。
《あれ・・・・怒ってる?》
少しだけ唇を上げるのは、不機嫌になっている証拠だ。俺はもう一度「ごめんな」と謝り、足早にマックの方へ向かった。
「朋子さん腹へってたんやな。早よ食べに行こ。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
・・・・まだ怒ってる。どうやら相当腹が減っているみたいだ。きっと地元から神戸まで来る為に、食事も取らずに急いで来たんだろう。
《相変わらず真面目な人やな。ここは俺が奢って機嫌直してもらうか。》
二人して坂道を上り、真新しいマックのドアを潜る。夕方時は空いていると思ったが、授業終わりの学生でごった返していた。
「あらあ・・・・こら待たなあかんなあ・・・・。」
頭を掻きながら困っていると、朋子さんは「・・・・他行こう」と出て行ってしまった。
「ごめん・・・確か人が多い場所苦手やったんやな?もうちょっと行ったところにファミレスがあるから・・・・・、」
「・・・・それまでにコンビニがあった・・・。」
「あ、ああ・・・・ほなそこ行く?」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
沈黙したまま歩き出す朋子さん。どうやら俺は、まだまだ彼女のことが分かっていなかったらしい。
《朋子さん・・・・腹減ると機嫌悪くなるんやな、覚えとこ。》
未だに機嫌の治らない朋子さんとコンビニに向かい、俺はオニギリ二つとお茶を買った。
そして朋子さんはというと、オニギリ三つにサンドイッチ二つ、それにパンを一つ買っていて、ついでに一リットルのジュースも買っていた。
「・・・・それ、全部食べるん?」
「・・・・うん。」
「そっか・・・・ほなここ奢るわ。ちょっと待ってな。」
慌てて財布を取り出そうとすると、サッと手で止められた。
「・・・・自分の分は自分で買う。」
「でも今日呼んだんは俺やし、飯くらいやったら・・・・・、」
「いい。学生に奢られるほど落ちぶれてない・・・・・。」
「いや、そういう意味じゃないんやけど・・・・。」
朋子さんの唇が、またクイクイと上がる。俺は素直に「分かりました・・・」と頷き、自分の分だけ清算した。
「ほなこれ持って俺の部屋行こか。ここじゃ落ち着いて話されへんから。」
「・・・・隆志君の部屋・・・・?いつもは店で話してるのに?」
「うん、だってこれ持ったまま店に入られへんやろ?だから今日は俺の部屋で話そ。今朝に信也から電話があったし、朋子さんからも詳しい話を聞きたいから。」
何気なくそう言うと、朋子さんはどこか安心した表情を見せた。
「・・・・よかった、そういう理由なら・・・・。」
「・・・え?いや・・・・そういう理由以外にないけど・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・ん?」
「・・・・・いえ、なんかいやらしいことするつもりなのかなと思って・・・・。」
「せえへんよ!」
慌てて否定すると、朋子さんは疑わしい目で睨んできた。
「だって・・・・隆志君って絶倫なんでしょ・・・・?」
一瞬固まってしまう。そしてすぐに真面目な顔で聞き返した。
「それ、誰から聞いたん?」
「・・・・信也君・・・・。」
「やっぱアイツか!」
「信也君言ってたわよ・・・・隆志君は彼女と九回もやったのに、寝起きでまた五回もやったって・・・。それっていくらなんでも、ちょっとやり過ぎだと思う・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
俺を見る朋子さんの目が急に冷たくなる。唇は大きく持ち上がり、不快指数が最大まで上がってしまったようだ。
「早く行こう・・・。日が暮れたら、隆志君に何をされるか分からないから・・・。」
「・・・・・信也、いつかシバく。」
弟への復讐を誓い、朋子さんと並んで坂道を下りて行く。そして五階建ての俺のマンションまで来た時、自転車置き場に見慣れたバイクが停まっているのに気づいた。
「あれ?これって加奈子のやつじゃ・・・・・。」
オレンジ色のオフロードバイクは加奈子の愛車だ。それに擦り傷の位置も一緒だし、もしやと思って冷や汗が出た。
「どうしたの?」
固まっている俺に向かって、朋子さんが首を傾げる。
「い、いや・・・・・ちょっとな。・・・・あ、今日はやっぱり部屋で話すのはやめとこか?」
「どうして?わざわざここまで来たのに?」
「いや・・・・今日は部屋が散らかってるから・・・・。」
「じゃあなんでここまで誘ったの?最初からそう言えばいいのに・・・・。」
「それはそうなんやけど・・・・今日はちょっと都合が悪いような・・・・・、」
予想外の事態に、軽くパニックになってしまう。というのも、加奈子には広明を追い詰めようとしていることは秘密にしているからだ。
何にでも首を突っ込みたがるアイツのことだから、こんなことがバレたらきっと仲間に加えろと言うに決まっている。
《まずいな・・・・。加奈子に仲間に入られたら、慎重に事を進めてるのがパアや。》
加奈子は稀代のトラブルメーカーでる。もしそんな奴に仲間に入られたら、広明にこちらの行動がバレてしまうではないか。
ここは何としても、加奈子と朋子さんが接触するのは避けねばならない。
「なあ朋子さん・・・・さっきのことやけど、やっぱりホンマやねん。」
「何が?」
「いや、だから・・・・俺が絶倫ってこと。だからな、朋子さんみたいな美人を部屋に招いたら、俺は理性が吹き飛んでしまうかもしれへん。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・いや、ほんまやで!だからな、今日のところはどっか別の場所で・・・・、」
そう言い訳をした時、朋子さんは四階にある俺の部屋を指差した。
「・・・・信也君の色が見える。」
「え?信也の色?」
「あの部屋から黄色と紫の色が見えるの。それも原色に近い強烈な色が・・・。この色は間違いなく信也君のもの・・・・。」
「へ、へええ・・・・そうか。アイツ来てたんか・・・・。」
「それと・・・・もう一つ色が見える。」
「も、もう一つ・・・・・?」
「ピンクと金色が混ざった、とても不思議な色。でも柔らかみのある色だから、きっと女の子だと思う。それも隆志君と同じくらいの、とても若い子・・・・。」
「あ、ああ・・・・そうなんや、へええ・・・・・。」
背中に嫌な汗が溢れる。朋子さん!あんたちょっと怖いよ!俺の部屋に信也と一緒にいる女っていったら、それはもう間違いなく加奈子じゃないか!
「どうしたの?すごく慌ててるけど・・・・・?」
「い、いや・・・・そんなことないよ・・・・。」
「そんなことあるよ。だって隆志君の色が揺らめいてるもの。よっぽど焦ってなきゃ、そんなことにはならない。」
「・・・うん・・・。」
素直に認めてしまった・・・・。どうやら朋子さんの前では嘘は通用しないらしい。
しかしそれでも、絶対に加奈子との接触は避けなければいけない。いったいどうしたものかと困っていると、マンションの入り口から「お兄!」と呼ばれた。
「信也・・・・来てたんか。」
わざとらしい笑顔を見せると、信也はニコリと笑った。
「昼前から来てたんや。そしたら加奈ちゃんから電話があったから、部屋においでよって誘ったわけ。」
「ほ・・・ほほう・・・・そらまた・・・なんとも・・・・。」
「あ、朋子さんもおるやん!こんにちは。」
「こんにちは。」
朋子さんは小さく頭を下げ、髪をいじりながら首を傾げていた。
「あはは、朋子さん機嫌ええやん。ほら、そんなとこおらんと早よ部屋に入りいな。」
信也は朋子さんの手を掴み、ズンズンとマンションの中へ歩いて行く。
「お兄も何してんの?早よ来いな。」
「お、おお・・・・すぐ行く。」
信也と朋子さんは並んでマンションへ入っていく。俺は怒りとも焦りともつかない感情をこらえ、二人が消えた入り口を睨んでいた。
「信也・・・・絶対にシバくからな!」
修羅場になるのを覚悟しつつ、冷や汗を抑えてマンションに入った。

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