猫又 八兵衛 第十六話 ロックは死なない(2)

  • 2015.01.01 Thursday
  • 08:38
JUGEMテーマ:自作小説
菓子を買ってタカシに会いに行くと、いつものように絵を描いていた。
庭の石に腰掛け、筆を握って色を塗っている。
「タカシ。」
買ってきた菓子を見せると、タカシはすぐに手を伸ばした。
筆を置き、袋を開けて貪る。
「犬じゃないんだ。もうちょっと落ち着いて食べろ。」
「ん!」
「ああ、早く絵を描きたいのか。でも食べてる時は筆を置け。行儀が悪いから。」
俺は筆を受け取り、水入れの中に浸した。じわりと絵具が広がり、水を赤く染めていく。
「これは一昨日の続きだな。どれ?」
塗りかけの絵を見てみると、以前より登場人物が増えていた。
「これはチョンマゲとムクゲだな。どっちもよく似てる。」
美人の女と温水似の男が、海底でバンザイをしている。
どちらもよく特徴を捉えていて、絵の中が賑やかになる。
「俺と出会ってからのことを描いてるのか?」
「んん。」
「俺が見当たらないが・・・・・ちゃんと描いてくれるんだろうな?」
「問題ないです。」
「そうか。ならカッコよく描いてくれよ。チョンマゲよりカッコ悪かったら拗ねるぞ。」
「問題ないです。」
タカシはあっという間に袋を開け、ジュースを飲んで「ぷはあ!」と言った。
そして絵筆を取り、パレットの絵具をかき混ぜて、また絵に取り掛かった。
「真面目だな、お前は。その努力はいつか実を結ぶよ。」
そう言いながら寝転ぶと、尻に硬い物が当たった。
何かと思って探ってみると、それはじいさんから買ったベルトだった。
「これ、買ったはいいけど邪魔だな。」
ポケットからベルトを取り出し、横に置いて寝転がる。
するとそれを見つけたタカシが、「ん!ん!」と指さした。
「どうした?このベルトが欲しいのか?」
「1000円です。」
「・・・・もしかして、お前もベルトを売りつけられそうになったのか?」
「1000円です。要りませんでした。」
「そうか。ちゃんと断ったんだな。それでいいぞ。要らないものを買う必要はないからな。」
タカシはベルトを手に取り、いそいそとズボンに巻き始めた。
「要らないんじゃなかったのか・・・。」
ベルトを巻いたタカシは、嬉しそうにそれを撫でる。そして再び絵に取り掛かった。
《あのじいさん・・・・子供にまで売ろうとしてまでコンサートに行きたかったのか。俺には理解できない情熱だな。》
ライアーズとやらがどれほど腕の良いバンドかは知らないが、少なくともあのじいさんの心を惹きつけているのは間違いない。
ロックなんてのは若い奴が聞くものだと思っていたが、そうではないことに驚かされた。
「・・・・いや、そうでもないか。ビートルズなんて随分昔のバンドだ。その頃にロックが流行ったのなら、むしろ歳のいった連中の方が好むのかもな。」
今日コンサートに行ったら、またあのじいさんに会うかもしれない。
今度はベルトは買わないぞと思いながら、ウトウトと微睡んでいった。
次に目を覚ましたのは、コンサートの開演真近だった。
時刻は午後四時四十五分。あと十五分で始まってしまう。
「こりゃマズイ。早く行かないと。」
そう言って起き上がると、タカシはまだ絵を描いていた。
「タカシ、とりあえず絵はストップだ。コンサートに行こう。」
「・・・・・・・・。」
「タカシ?」
タカシはじっと絵を睨んでいる。もう完成まで九割という所だが、隅の一角だけ空白だった。
「右下が真っ白じゃないか。どうして何も描かない?」
「浮かびません。」
「ん?ああ、いい絵が浮かばないってことか?」
「迷っています。」
「何を?」
「八兵衛をどこに描いたらいいですか?」
「どこって・・・・この右下しかないじゃないか。ほんのちょっとのスペースだけど。」
「それだと小さくなります。」
「そうだな・・・・。このままだとチョンマゲより小さくなってしまう。それは許しがたい。」
「浮かびません。」
「うん、この問題はじっくり考えよう。でも今はコンサートだ。タダでジュースが飲めるぞ。」
そう言って急かすと、タカシはいそいそと画材を片付け始めた。
「絵具を洗うのは帰ってからにしよう。遅れるぞ。」
「絵具は早く洗わないといけません。」
「いいや、お前の絵具なら大丈夫だ。それは透明水彩だろ?だったら後からでも水に溶ける。一緒に洗ってやるから。」
そう言うと、タカシは「ん」と言って家に消えた。そしてすぐに出て来て俺の手を握る。
《中古屋で買った本が役に立ったな。》
一昨日買った本で勉強したおかげで、画材についてのにわか知識が手に入った。
タカシの絵具は透明水彩という種類で、その名の通り透明度が高い絵具だ。
そしてこの絵具は、乾いた後でも水に溶ける。そのことを知っていたおかげで、すんなりとタカシを納得させることが出来た。
《タカシは一度やると言い出したら、下手な理屈では納得しない。でもちゃんと説明すれば理解してくれる。勉強しておいてよかった。》
俺はタカシの手を引き、とりあえず駅まで向かう。
ここからカシミヤ町までは一駅分。ホームに降りると、タカシの手を引いて足早に急いだ。
踏み切りを越え、細い道を抜け、以前のタカシの家を通り過ぎる。そして星と光の館の前までやって来た。
《そこから薬屋の方に向かって、信号を左に曲がるんだったな。》
じいさんが教えてくれた道を思い出し、小走りに向かって行く。
近くにあったコンビニから、ガラス越しに時計が見える。時刻は五時十分を指していた。
「こりゃダメだ・・・・・。」
不思議なもので、遅れると分かった途端に急ぐ気がなくなってしまう。
しかしタカシは早く行きたいようで、俺の手を引いて走った。
「ここがじいさんの言ってた薬屋だな。」
館を越えた右手に、小さな薬局がある。そのすぐ先には信号が見えていて、ちょうど青になっていた。
「タカシ、走るぞ!」
信号まで一気に駆け抜け、左に曲がる。
するとこじんまりとしたホールが見えてきて、「あれか?」と睨んだ。
ホールは不思議な形をしていて、湾曲した屋根の先端がとがっている。
「きっと月をイメージしているんだろうな。」
「三日月です。」
「俺もそう思う。さあ行こう。」
ホールは道の向こうにある。車に注意しながらタカシの手を引き、手前までやってきた。
「小さいけど立派な作りだな。綺麗なガラス張りの壁に、庭と噴水まである。駐車場も大きいじゃないか。」
これを税金の無駄遣いと捉えるかどうかは、まあ人間次第だろう。
俺たちはガラス張りの自動ドアを潜り、中へと入った。
正面には受付、右手には子供が描いた絵が展示されている。
受付の奥には通路があり、トイレのマークが掛かっていた。
「喫茶店はどこだ?」
目を動かしてキョロキョロしていると、受付の男性から「何かお困りですか?」と尋ねられた。
「ええ、ライアーズのコンサートを見に来たんですが。」
「ライアーズ?」
「ここの喫茶店でコンサートをしているはずなんです。」
そう伝えると、男は「ああ・・・・」と何とも言えない顔をした。
「なんか中止になってそうですよ。」
「中止?」
「ええ。ホールがやってるイベントじゃないから、詳しくは分からないんですが・・・・。」
「すみません。その喫茶店はどこに?」
「すぐそこの通路を右に入ったところです。ビビっていう看板が出ていますよ。」
「ありがとうございます。」
俺は頭を下げ、受付の左手にある通路に向かった。するとすぐに緑色の看板が出てきて「ビビ」と大きく書いてあった。
ドアを開けて中に入ると、喫茶店にしてはかなり広かった。しかしそれ以外はどうということはない造りで、奥には音響機材らしきものが置かれていた。
その前には椅子が綺麗に並べられていて、数人の客がガヤガヤと騒いでいた。
入って左手にはカウンターがあり、そこでマスターとおぼしき男が客と喋っている。
その客とは、ベルトを売りつけてきたあのじいさんだった。
「なんか騒がしいな。中止になったってのは本当か?」
俺はマスターの方に向かい「すいません」と声を掛けた。
「ライアーズのコンサートを見に来たんですが・・・・。」
そう尋ねると、「ああ、ごめんなさい・・・」と申し訳なさそうに頭を下げた。
「中止になってしまったんですよ。ちょっとボーカルの人が来られなくなって。」
まだ若いマスターは、困り果てたようにそう言った。
「来られないって・・・何かあったんですか?」
「連絡がつかないそうなんです。他のメンバーがいくら電話を掛けても出ないらしくて、どこにいるかも分からないと・・・・。」
「ドタキャンってやつですか?」
「分かりません。今日の朝はこの店で打ち合わせをしていたんですが・・・・。いつもと同じ様子だったし、どうして連絡がつかないのか・・・・。」
マスターは別の客にも声を掛けられ、対応に追われていた。
タカシは俺の腕を引き、「ん?」と漏らした。
「中止だそうだ。ヴォーカルが来ないらしい。」
「?」
「歌う人のことだ。メインがいないんじゃ、そりゃコンサートは無理だな。今から代役を探すわけにもいかないだろうし・・・・。」
俺は店内を見渡し、近くの椅子に腰かけた。
「・・・・ジュースだけもらうか?」
「ん。」
「もうちょっと待とう。マスターは今忙しいから。」
マスターの元には、代わる代わる客が詰め寄る。
中止の理由を尋ねる者、怒りをあらわにする者、連絡のつかないヴォーカルを心配する者。
口々に尋ねる客の中で、あのじいさんがポツンと取り残されていた。
「じいさん。」
声を掛けると、じいさんは悲しそうな顔でこちらを振り向いた。
「こっちへ来て一緒に座らないか?」
「・・・・・・・・・・。」
じいさんは黙ったままこちらに歩き、タカシの隣に腰を下ろした。
その顔は実に残念そうで、絵に描いたような分かりやすい落ち込み方をしている。
ガックリと肩を落とし、「ライアーズ・・・」と呟いた。
「残念だったな、中止になって。あんなに楽しみにしていたのに。」
「いや、別に珍しくないんよ。こういうのが中止になるって・・・。」
「無理をするな。残念ですって顔に書いてある。」
「でも音楽やる人ってたまにこういうことがあるから。途中で帰ったりとかもあるし・・・・。」
「そりゃ大変な世界だな。でもじいさんは今日を楽しみにしていたんだろ?」
「・・・・お金ないもん。」
「深くを聞くつもりはないが、金に困ってるのは見ていれば分かる。」
「次・・・・いつやるんかな?」
「さあな。でも次にコンサートがある時、お金が無かったら困るよな?」
「あの家じゃ肩身が狭いんよ・・・。一応血の繋がりはあるけど、でも居候だから。飯食わしてもらってるだけでもありがたいし・・・。」
「誰にだって事情はある。じいさんは金に困っていて、次にコンサートがあっても見られない。」
「・・・・・・・・・・。」
じいさんは心底悲しそうに俯く。俺はタカシを見つめ、腰に巻いた物を指さした。
「タカシ、悪いんだけどそれを返してくれないか?」
「ん!」
「気に入ってるのは分かる。でもじいさんに返してやりたいんだ。そうでなきゃ、じいさんは次のコンサートを見れない。」
そう言ってじっとタカシを見つめると、素直にベルトを返した。
《やっぱり賢いダ子だ。ちゃんと理由を説明すれば納得する。》
ベルトを受け取った俺は、それをじいさんに差し出した。
「じいさん、悪いがこのベルトは返品する。」
「・・・・・・・・・。」
「サイズが合わないんだ、だから返すよ。ああ、ちなみに一度使ってるから返品代はいらない。」
俺はじいさんの手を取り、ベルトを握らせた。
「次にコンサートがあったら、またベルトを売りに来てくれ。その時はサイズの合うやつをな。」
そう言って笑いかけると、じいさんはじっとベルトを睨んでいた。
そしてそれを握りしめ、なぜか急に泣き出した。
「おいおい・・・・どうして泣く?そんなに中止になったのが辛いのか?」
「違う・・・・違うんよ・・・・・。だって情けないから・・・・。」
「情けない?何が?」
じいさんは人目もはばからず、声を出して泣いた。マスターに詰め寄っていた客が、何事かと目を向ける。
「僕・・・・今年で七二なんよ・・・・。」
「うん、年相応の見た目だと思うぞ。」
「この歳まで・・・・女の人と付き合ったことがないんよ・・・・。まともに働いたことだってない・・・・。」
「まあ色んな人間がいるさ。」
「今じゃ兄貴の息子に世話になっとる・・・・。甥っ子に飯食わしてもらっとるんよ・・・・。」
「甥っ子だって家族みたいなもんだ。」
「でも僕の子供じゃない・・・・。子供の時にツェッぺリンを聴いて、ロックが好きになって・・・・ずっと夢中だった・・・・。僕・・・・ずっと音楽しかなかったから・・・・。自分で演奏出来んから、人のを聴くしかなくて・・・・。」
「誰だって得手不得手がある。悲しむことはない。」
「でも夢見てた・・・。いつかプロになって、大きな世界で演奏できるって・・・・。
そうやって夢見たまま、こんな歳になってしたっまんよ・・・・。七二年生きてきて、何もない・・・・。
若い人に気い使われて・・・・同情までされて・・・・情けない・・・・。」
「別に同情なんかじゃないさ。ただベルトを返しただけだ。」
じいさんはまだ泣いていて、ごそごそとポケットを漁り始めた。
そして小銭入れを取り出し、中から千円を抜き出す。
「これ・・・・。」
「いいよ、それは要らない。」
「だって情けないから・・・・。」
「さっきも言っただろ。使用済の物を返品したんだ。金はいらない。」
「・・・・・・・・・・・。」
「もう泣くなよ。みんな見てるぞ。」
周りの客はじっとこちらを見つめていて、マスターがゆっくりと歩いて来た。
「すいません・・・・。こんなに楽しみにしてもらってたのに・・・。」
じいさんは俯いたまま首を振る。ギュッとベルトを握りしめ、「情けない・・・」と繰り返していた。
「そんなことないですよ。今日ここに集まった人は、みんな音楽が好きなんです。それはおじいさんも一緒でしょう?」
マスターがそう言うと、詰め寄っていた客たちは静かになった。
そして客の中から若い男が歩いて来て、「俺も童貞っすよ」と笑った。
「あんたまだ若いじゃない・・・・・。」
「いやいや、こう見えても今年で二六っす。」
「三十までなら大丈夫だよ・・・・。」
「ああ、魔法使いになれるっていうアレ?」
「・・・・・何それ?」
じいさんは顔を上げ、その若い男を見つめた。
「俺もバイトしながらバンドやってるんす。今さらプロになるのは難しいけど、でもやめらんなくって。」
「ダメだよ・・・・こんなジジイになっちゃうよ・・・・。」
「それでもいいっす。俺ってせっかく入った会社をソッコーやめて、やっぱ音楽しかねえだろって感じで今まで来てるんすよ。まあ親にはシバかれましたけど。」
そう言って可笑しそうに笑い、「また次があるっすよ」とじいさんの肩を叩いた。
「ねえ、アンタもそう思うでしょ?」
いきなりこっちに振られ、一瞬だけドキリとしてしまう。俺は「そうだな」と答え、「コーヒーでも飲むか?」とじいさんに尋ねた。
「マスター、コンサートは中止になっても店は営業中でしょう?」
そう尋ねると「え?・・・ああ!もちろん」と頷いた。
「ならコーヒー二つ。あとオレンジジュースを一つ。サンドイッチも貰おうかな。」
「あ、じゃあ俺も。カレーいいっすか?」
マスターは「分かりました」と笑い、カウンターの奥へと引っ込んでいく。
他の客も席につき、口々に注文をしていた。
マスターは忙しなく動き回り、バイトらしき二人の若者に指示を出していた。
「じいさん凄いっすね。その歳まで音楽一本なんて。」
男は真剣な顔でそう言い、「ここ奢りますよ」と肩を叩いた。
「いいよ・・・・余計情けなくなる・・・・。」
「いやいや、奢るのはそこの人で。」
そう言って俺を見つめ、「いいっすよね?」と笑った。
「元々そのつもりだ。でもアンタは自分で払え。」
「いいじゃないっすか、俺も分の頼みますよ。ていうかこの子アンタの子供?」
「いいや、知り合いの子だ。」
「へええ。なあ僕、音楽好きか?」
「・・・・・・・・・。」
「人見知り?俺って悪い奴じゃないから警戒すんなよ。」
そう言ってタカシの肩を叩き、スマホを取り出して何かの動画の見せていた。
漏れる音から、それがロックの動画だと分かる。静かなギターが響き、やがて激しく鳴りだした。
「これ、ライアーズっす。見ます?」
「いや、いい。」
俺は断ったが、じいさんは真剣に見入っていた。タカシもまんざらではなさそうで、「ん!ん!」と動画に指をさしていた。
俺としては、コンサートが中止になろうがどうでもいい。
しかしこうしてタカシが喜んでいるのなら、ここへ来た甲斐はあったというものだ。
じいさんは真剣に動画を見つめ、「いいなあ・・・」と呟いた。
「僕、自分が情けないと思うけど、ロックを好きになったことは後悔してないんよ。」
「俺もっすよ。いい加減真面目に働けとかよく言われますけど、知ったことかって思いますもん。最近ロックって下火になってるけど、やっぱカッコいいっすよ、ロック。この先も人気は衰えるかもしれないけど、絶対に死にませんよ、ロックは。」
男はしりきにロックという言葉を口にし、じいさんと熱く語り合っている。
タカシは動画に食いつき、ただじっとライアーズに見入っていた。
この男やじいさんのように、ここまで音楽にのめり込む人間の感覚を、正直俺は理解できない。
しかし何かを好きだという気持ちは理解できる。なぜならこの俺も、センスがないと罵られながらも、詩的な言葉を追及することはやめられないからだ。
今日のことを、タカシは絵に描くだろうか?そう思った時、俺にはすでに詩より大切なものがあることに気づいた。
《今の俺は、なにかにつけてタカシを基準に考えている。コイツが喜べば俺も嬉しいし、コイツが落ち込めば俺も落ち込む。
もう孤独の呪いがどうとかではなくて、俺はタカシの傍にいたいんだな・・・・。》
嬉しそうに動画を見つめるタカシ。それを眺めていると、マスターが足早に駆け寄ってきた。
「あの・・・もしかしたらライブが出来るかもしれません!」
その一言に、沈んでいた客たちが色めきだった。
「ライアーズではないですが、歌の上手い人がいるんです。その人でよければ歌ってくれるって。」
マスターは興奮気味に説明した。客は「?」と感じで首を捻っていたが、男は「いいっすね!」と立ち上がった。
「このまま終わったら、ちょっと寂しいっすもん。で、誰が歌うんすか?」
「いや、それは知らない。でも僕の知り合いが、すごく歌の上手い女性がいるからって。」
「なんか微妙っすね・・・。カラオケが上手いレベルとかじゃないんすか?」
「まあ・・・僕も本人は会ったことはないけどさ。でも知り合い・・・・荒川さんっていうんだけど、その人にライブの中止のことを電話で話したら、すぐに来てくれるって。」
「・・・・女って言ってましたよね?」
「そうらしいよ。音楽が好きで、しかもとびきり美人らしい。」
「来てもらいましょう!」
男は強く頷き、「代役が来るらしいっすよ」とじいさんに詰め寄った。
「ライアーズじゃないけど、でもせっかくだから歌ってもらいましょうよ。」
「・・・・・ロック?」
「さあ?でもこのまま終わるよりいいじゃないすか。もし演歌だったとしても、中止になるよりいいっすよ。」
「・・・・じゃあ、僕も聴きたいな。」
じいさんは素直に頷く。男は俺の方を見つめ、「アンタも聴きたいでしょ?」と同意を求めた。
「どっちでもいい。というより、君が喜んでいるのはその女性が美人だからだろう?」
「いやいや、まさか。音楽に顔は関係ないっすよ。」
そう答える男の顔は緩んでいた。
猫にしろ人間にしろ、美しい異性には弱いもの。それは遺伝子にそう刻まれているのだから抗いようがない。
だから俺はこの男を馬鹿にはしない。しないが・・・・・タカシはどうだろうか?
「なあタカシ。歌の上手い美人さんが来るらしい。聴きたいか?」
「・・・・・・・・・。」
「まだ動画に釘づけだな。」
タカシは周りの声など聴いちゃいない。ただひたすらライアーズに見入っている。
男は他の客にも「聴きたいっしょ?」と触れ回り、誰もが苦笑いで頷いていた。
マスターは「せっかくなので来てもらいます」と言い、奥へと引っ込んで行った。
流れたと思ったコンサートが復活する。見知らぬ歌手が来るとはいえ、誰もが喜んでいた。
じいさんと男はまた音楽話に華を咲かせ、タカシは勝手にスマホをいじって動画を見ている。
俺はコーヒーとサンドイッチで時間を潰しながら、代打の歌手の到着を待っていた。
壁の時計が六時前を指す頃、入口のドアが開いた。
カランと音が鳴り、くたびれた一人の男が入って来る。
「マスター、お待たせ。代役を連れて来たよ。」
そう言って店に入って来た男を見て、俺はコーヒーを吹き出しそうになった。
「チョンマゲ!」
「おお、八兵衛。」
「おお、じゃないだろ。まさかマスターの知り合いってお前だったのか?」
「そうだよ。電話をもらってここへ来たんだ。」
「・・・お前も音楽好きとは知らなかった・・・。というよりデートはどうしたんだ?」
「だからそのデートの彼女を連れて来たんだよ。」
そう言って後ろを振り向くと、そこには一人の女が立っていた。
「久しぶり。元気にしてた?」
「・・・・・・・・・・。」
女は笑って手を振り、タカシの方へと近づいて行く。
「タカシ君〜!」
そう言って抱き付くと、タカシは動画から目を話した。
「んん!」
「お〜お〜、喜んじゃって。」
タカシは椅子から飛び降り、「んん!」を連発して飛び回った。
女の手を取り、全身で喜びを表している。
「三日くらい会えなかったもねえ。んん〜!」
女はタカシを抱き上げ、愛おしそうに頬ずりをしている。俺は立ち上がり、女の方に歩み寄った。
「ムクゲ・・・・帰って来てたんだな。」
そう尋ねると、ムクゲはバツが悪そうに笑った。
「うん。ちょっと前にね。」
「どうして俺には顔を見せなかった。周りには口止めさえしていたな?」
「怒らないで。ちょっと事情があるのよ。」
「ほう、そりゃ是非聞きたいな。」
そう言って肩を竦めると、ムクゲはタカシを下ろした。
「タカシ君、私はちょっと歌ってくるから、ここで見ててね。」
「ん!」
「大丈夫、また後で戻って来るから。」
ムクゲは俺の方にタカシを押し、「八兵衛と一緒に見てて」と頭を撫でた。
「ごめんね八兵衛。事情は後で説明するから。」
「ああ、納得のいく説明を期待している。」
「聞かない方がよかったって思うかも。」
「そんなに深刻な事情か?」
「かなりね。でもアンタは聞かなきゃいけない。それがアンタが背負った責任だから。」
ムクゲはそう言い残し、タカシに手を振って奥へと消えていく。
男は「めっちゃ美人じゃん!彼女すか?」と尋ね、じいさんは嬉しそうに歌が始まるのを待っている。
俺は椅子に座り、「チョンマゲ」と呟いた。
「どういうことか聞かせてもらおうか?」
「俺の口から言うことはないよ。後でムクゲが教えてくれる。」
そう答えて俺の隣に座り、ズルズルとオレンジジュースをすすった。
「そりゃタカシのだぞ。」
「じゃあ新しいのを頼むよ。マスター、これもう一個。」
「いや、ちょっと準備があるから・・・・、」
「ああ、ごめん。じゃあ後でいいや。」
マスターは奥へ引っ込み、客は期待を込めた目で待っている。
俺は何度かチョンマゲをつついたが、何も答えようとはしなかった。
《何がどうなってる?知らなきゃいいほど深刻な事情ってなんだ?》
俺はムクゲが消えたカウンターの奥を睨みながら、歌が始まるのを待った。
それから数分後、黒いドレスに着替えた・・・・もとい変化したムクゲが現れた。
その後ろではマスターがギターを持って立っている。
「ええっと・・・ライアーズの代打で呼ばれた立川といいます。こんな素人が代打って申し訳ないんですけど、一生懸命歌うので聴いて下さい。」
そう挨拶をした後、マスターがギターを鳴らす。
「洋楽の曲なんですけど、レッチリのアンダー・ザ・ブリッジという曲を歌います。」
ムクゲは目を閉じ、歌に向けて精神を集中させる。マスターのギターがシンプルなメロディを刻み、ゆっくりと歌が始まった。
高く、そして力強い声が響く。たったワンフレーズで、客たちは心を奪われてしまったようだ。
それはこの俺も同じで、予想していたよりも遥かに上手い歌に驚いていた。
じいさんも、タカシも、そして若い男も、何かに取りつかれたかのように聴き入っている。
ムクゲの声はとても伸びやかで、しかも感情を込めるのが上手かった。
アンダー・ザ・ブリッジ。英語の曲なので歌詞は分からないが、でも気持ちは伝わってくる。
橋の下で一人・・・・。そんな感情が歌声に乗って響き、寂しくも美しい音色が店を包んでいた。

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