キャラクターと作者の理想の関係 鬼太郎と水木しげる先生

  • 2018.04.02 Monday
  • 14:24

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天才クリエイターはどこが歪んだ人格をしているもの。
そして誰よりも強い我を持ったものだと思います。
周りがこうだからとか、世の中こうだからとか、そういうものに囚われない強引さが必要なんでしょう。
ゲド戦記を作った宮崎吾朗さんは、原作者の方に挨拶に行った時、父である宮崎駿さんとちょっとしたトラブルがあったそうです。
宮崎さんはずっと前からゲド戦記を作りたいと思っていて、でもそれが叶わずにここまで来ました。
なのに息子の吾朗さんがゲド戦記をやることに決まって、とても悔しかったのだとか。
吾朗さん、駿さん、プロデューサーの鈴木敏夫さん。
三人で原作者のお宅へ伺った時、鈴木さんが「彼が監督を務めます」と吾朗さんを紹介している最中、それを押しのけて駿さんが前に出てきたそうです。
そして吾朗さんのことをケチョンケチョンにけなし、「これが私が描いたイメージボードです」と自分の絵を見せたそうです。
この時、鈴木さんは初めて駿さんのことを殴ってやろうかと思ったんだそうですよ。
息子を押しのけ、自分がゲド戦記の監督をやるつもりなのか?
誰もがそう思いますが、駿さんはこう続けたそうです。
私はあなたの作品をやるつもりはない・・・・と。
監督である息子を押しのけ、自分のアピールをしたかと思えば、別に俺は関わる気はないという態度。
この一連の意味不明にも取れる行動は嫉妬からか?それとも息子を失脚させる為か?
多分ですけど、どれでもないんだろうなと思います。
一流のクリエイターって、芸術家としては最高でも、人としてはそうではない場合があります。
おそらくですけど宮崎駿さんは、かつて憧れた作品の原作者を前にして、じっとしていられなかったんじゃないでしょうか。
だからこの一連の行動に意味はないと私は思っています。
理屈じゃない激情というか感性というか、そういうものに突き動かされた故の行動なんじゃないかと。
息子の初監督作品なのに、しかもその原作者に挨拶に行っている時なのに、こういう行動を起こしてしまう。
凡人ならば「何やってんねん!」と批判を食らうでしょうが、そこは天才宮崎駿。
こういった逸話でさえ、彼がいかに天才であるかという裏付けとして捉えられてしまいます。
どこかに歪んだ部分があって、自分でも制御できないほどの我の強さがあって、でもそういったものがなければあれだけの名作を生み出すなんて無理なんだろうと思います。
礼儀正しく丁寧に、常に周りを気遣う人間では、一流のクリエイターに並ぶ仕事は難しいであろうと思います。
むしろ「こっちの方が面白いんだからこっちに変えろ!」とか、「この作品を理解しない奴は何も分かっていない!」みたいな勢いがいるんだと思います。
ダウンタウンの松本さんも、かつては「俺の笑いを理解できない奴はクソだ」みたいなことを言っていましたが、あれって本心なんだと思います。
貶す為に言ってるんじゃなくて、虚勢を張る為に言ってるんでもなくて、自分こそが最高の笑いを提供しているという自覚があったからでしょう。
哲学者の池田晶子先生も仰ってますが、天才は自分の才能を自覚しているんだそうです。
それは根拠のない思い上がりなんかじゃなくて、高いレベルに立っているからこそ、周りが低く見えるから「自分はすごいんだな」と嫌でも自覚するってことなんだと思います。
ただし天才=評価されるという図式にはなりません。
というのも宮崎駿さんは紛うことなき天才ですが、もしも鈴木敏夫さんという名プロデューサーに出会っていなければ、ここまでの成功は治められなかったはずだからです。
自分だけの力じゃないんですよね。
それに天才にも色々種類がいます。
サッカーの天才なら億万長者になれるだろうけど、哲学や文学の天才では難しいと思います。
才能と収入は別と心得よ。
御大、水木しげる先生の幸せの七か条の一つですが、水木先生もまた天才です。
そういえばまた新しい鬼太郎が始まったみたいです。
今回はかなり絵柄が変わっていて、特に猫娘の変貌ぶりがすごいです。
顔だけでなくスタイルそのものが変化しています。
ものすごく足が長くてモデルみたいな感じなんですよ。
こういった変化には賛否両論があるでしょう。
もしも宮崎駿さんなら「ナウシカをこんな風に変えやがって!」と怒るかもしれません。
しかし水木先生はそうではありませんでした。
猫娘に限らず、鬼太郎のキャラクターって年代によって様変わりしているんですよ。
私が昔に見ていた鬼太郎と、そのあとのシリーズではやはり絵柄が違います。
だんだんと萌えの要素が強くなっていったように思います。
ファンの間ではやはり賛否両論あるようですが、当の水木先生はあまり気にしておられない様子。
その理由を端的に書くとこうです。
「私は長い間妖怪にコキ使われていた。でもそのおかげで私の元へお金を運んで来てくれるようになった。
これから先、時代と共に鬼太郎や猫娘がどう変わろうが、お金を運んで来てくれるならそれでいい。」
とあるインタビューでの記事です。
記者が分かりやすく水木先生の言葉を解説してくれていました。
これ、要するに鬼太郎という漫画を連載する上で、土日祝日もなく描き続け、それどころか睡眠時間も奪われるほど鬼太郎たちの為に時間を使ったってことなんでしょう。
けどその頑張りがあったからこそ、鬼太郎は人気作となって水木先生の懐を潤した。
先生は鬼太郎たちに命を与え、その代わりに鬼太郎たちは先生に楽な生活が出来るようにしてあげたんだと思います。
持ちつ持たれつ、まさに作者とキャラクターの理想の関係ではないかと思います。
鬼太郎や猫娘がどのような形に変貌しようとも、この関係さえ変わらないのであれば、水木先生はとやかく言う気はないってことです。
水木先生は実際に戦争を経験して、その時に片腕を無くされています。
それに現地の村人と共に生活し、とても仲良くなって「ここに留まってくれないか」とお願いされたこともあるそうです。
宮崎駿さんは間違いなく天才だけど、実際に戦地で過ごした経験を持つ水木先生の死生観の前には、その天才たるイメージ力も想像の域を出ることはありません。
水木先生ってすごくお金にこだわる人だったそうです。
あと食べることと寝ることが大好きなんだとか。
戦時中にしろ戦後間もない頃にしろ、食料や物資が乏しい中で生きてこられた方なので、お金のありがたみを知っているんだと思います。
また好きな時に食べたり寝たりできることの平和さも知っているんだと思います。
鬼太郎や猫娘は自分が生み出したキャラクターではあるけど、じゃあなんの為に生み出したのか?
きっと生きる為だったんだろうと思います。
「ゲゲゲの女房」でも描かれていますが、水木先生は最初から漫画家として成功したわけじゃありません。
むしろ貧乏な生活をしてこられました。
だから先生も奥さんも辛い時期を乗り越えて、その先での鬼太郎の成功なんですよね。
先生はきっと妖怪を信じていたと思います。
と当時に生きる為に漫画を描いたわけだろうから、本気で妖怪たちを愛しつつ、クリエイター特有の「俺の領域に触れるな!」という感覚がありません。
鬼太郎たちが人気者になって、次の世代の人たちにも愛されて、そして自分の元にお金が入るなら全然構わない。
これって昔からの鬼太郎ファンも、そして新しい鬼太郎ファンも納得する言葉なんじゃないかと思います。
同じ天才であっても、宮崎駿さんは空を見ている人。
水木先生は現実を映し身として異界を見ている人。
そんな印象を持っています。
どちらが上とかどちらが優れているとかじゃありません。
天才って一括りにされがちだけど、人間である以上個性が出ます。
好き嫌いは誰にでもあれど、それを超えて多くの人を納得させる力がある。
そういう人を天才と呼ぶのかもしれませんね。

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