海の向こう側 第十二話 憧れの人(2)

  • 2018.05.24 Thursday
  • 10:16

JUGEMテーマ:自作小説

思わぬ人との再会は嬉しくもあり、驚きもあり、そして悲しみでもあった。
鈍行の電車に揺られながら、代わり映えのしない山と田んぼばかりの景色にあくびを噛み殺し、ほんの一時間ほど前のことを思い出していた。
駅のベンチで二人、お姉ちゃんと語り合った時間は有意義で、思いもしなかったご褒美を頂いたかのような時間だった。
俺たちは多くのことを話した。
お姉ちゃんは去年に男に性転換していたこと、格闘家は引退して今は大阪でトレーナーをやっていること。
今日はたまたま他のジムに用事があったので、スーツを着て出かけていたこと。
けどそれだけじゃ食えないので、工事現場や交通整理のアルバイトをしていること。
チャンピオンになるのは無理だったけど、いつかは自分のジムを開いて、チャンピオンを育てるのが夢であること。
今年の初めくらいから付き合っている彼女がいて、先月から同棲していること。
美緒ちゃんのことを忘れたことはなくて、また会いたいと思っていたこと。
しかしあの頃は美緒ちゃんに恋愛感情を抱いていたんだとも語った。
でもさすがに中学生に手を出すのはマズいし、俺を困らせるのは避けたかったから、もう会わないようにするしかなかった。
そうしないと自分が辛かったからと。
こっちから友達になろうって言ったクセに、一方的に縁を切ってごめんなさいと謝っていた。
俺は首を振り、なんにも気にしてないよと答え、それよりもイジメから救ってくれたことに感謝を返した。
あとやっくんを追い払ってくれたことにも。
あの時、奴が現れたことに怒りと不快感を覚えたけど、今となってはそれでよかったと思っている。
なぜならやっくんにまつわる話をお姉ちゃんから聞くことで、今まで忘れていたことを思い出し、今までの自分にない視点で人生を見ることが出来るようになったからだ。
やっくんは美桜里君に惚れ、人生初のストーカー行為に及んだ。
その十数年後、俺を美知留君と勘違いして恋心を抱き、今もなお熱い衝動に突き動かされている。
やっくんが美桜里君と俺が別人だと知るチャンスは二度あった。
一つはお姉ちゃんとの再会だ。
やっくんから恋の悩みを聞いたお姉ちゃんは、その記憶は間違いであることを訂正しようとした。
しかし奴は応じなかった。
なぜならお姉ちゃんの説得だけでは、こんがらがった記憶を解くのには充分ではなかったからだ。
やっくんは言った。
ミオちゃんは海の向こう側へ行きたがっていて、だから俺が連れて行ってやると約束したんだと。
ではそのミオちゃんなる人物は俺か?それとも美桜里君か?
・・・・答えは俺である。
今の今まで綺麗さっぱり記憶から抜け落ちていたのだが、よくよく思い出すと俺は高校以前に奴と会っているのだ。
とんでもない偶然の話ではあるが、美桜里君とやっくんが子供の頃に行った海に、実は俺も行っていたのだ。
しかもまったく同じ時期に。
美桜里君は変態さんに「お菓子をあげるから」と連れ出された後、結果的にとはいえやっくんに助けられた。
奴の図々しさは尋常ではないから、きっと大声で「僕にもお菓子!」などと喚いたに違いない。
番犬がギャンギャン吠えると空き巣が撤退するように、小さな猛獣に迫られた変態さんはさぞかし狼狽えただろう。
うるさい子供から逃げ切った変態さんは、水色の屋根をした海の家へ入った。
そこでビールを注文し、一気に流し込み、大きなため息と共に落ち着きを取り戻してから、ぐるりと店内を見渡した。
周りには家族連れや中学生くらいのグループ、それにカップルが大勢いた。
変態さんが物色するのは水着の美女ではなく、海の家の可愛い店員さんでもなく、年端もいかない小さな子供であった。
家族連れが多いということは、比例して子供も多いということであるから、その視線は忙しなく動いていた。
何食わぬ顔で物色をしているものの、よからぬことを企む人間というのは、挙動に不審さが表れるものだ。
もし街中であんなイヤらしい視線を撒き散らしていたら、すぐさま通報されただろう。
だがここは海の家、冴えない風貌の男を気に留める者は少ない。
あの時、俺は冴えない風貌の男に目を留めた数少ない人間だった。
家族と一緒に焼きそばを頬張っていたのだが、人生初の海の家が珍しく、周りをキョロキョロと見渡していた。
そこでふと気づいてしまったのだ、妙に怖い顔で、妙に固い表情で店内を見渡している男に。
ソナーのごとく周囲に振りまかれるその視線は、グルリと旋回して俺の方にも向いた。
ほんの数秒だけ目が合って、しかしまたすぐに別の場所へと視線を逸らしていた。
飯を終えた俺たち家族は店を出て、砂浜でダラダラと過ごしていた。
俺はカキ氷が食べたくなり、親に小遣いをせびって、すぐ近くにあるお店に小銭を握り締めて走った。
一人だと危ないので、親が姉も一緒に行かせようとしたんだけど、面倒くさかったのか立ち上がることすらしなかった。
ちょっとは妹の面倒くらい見ろと説教される姉を残して、カキ氷を買いに走っていく。
メロン味を頼み、カップ一杯に降り注がれた粉雪のようなカキ氷と、それを彩る緑色のシロップに目を爛々とさせていた。
口に入れるとふわりと溶けて、頭がキーンと痛くなってもスプーンが止まらなかった。
だが家族の元へ戻る途中、さっき目が合った男に声を掛けられ、もっと美味しいアイスを買ってやるから向こうのお店へ行こうよと誘われた。
人見知りだった俺は恐怖を感じながら背中を向けたのだが、真後ろには俺と同い年くらいの男の子がいた。
危うくぶつかりそうになり、少し脇へ避けると、その子は「僕にもアイス!」と叫んで男に突撃していった。
お父さんなのかな?と思いながら見ていたが、男は鬱蒼しそうに手を振り、そのまま海から離れて行ってしまった。
しょんぼりとする男の子は、カキ氷を買っていく客を羨ましそうに見つめている。
その姿が妙に可哀想に思えてしまって、気がつけば手に持っていたカキ氷を差し出していた。
男の子はとても喜んだ。
まるで犬みたいにかき込んで、絶対に頭が痛くなってるだろうに、そんなの気にせずに頬張り続けていた。
あっという間に空っぽになり、ポイとカップを捨てるので、俺はそいつを拾ってこう注意した。
ちゃんとゴミ箱に捨てないとダメなんだよと。
周りを見渡せばすぐ近くにゴミ箱があったけど、溢れるほど一杯なので、少し遠くに見えるゴミ箱まで捨てに行った。
男の子はトコトコ後ろをついて来て、俺が捨てる様子を見つめながら、不思議そうな顔をしていた。
ゴミはこうやってちゃんと捨てるんだよと教えると、口を開けたまま分かっているのかいないのか分からない顔で頷いていた。
残念ながらカキ氷は食べられなかったけど、そう嫌な気分じゃなかったのは、その子が喜んでいたからだ。
きっとお小遣いもくれない貧乏な家なんだと勝手に可哀想に思ってしまって、だったら一緒に遊んであげようと、手を引っ張って海辺を歩いたことを覚えている。
水を掛け合ったり、追いかけっこをしたり、他愛ない子供らしい遊びをした。
この時もその子はとても喜んでいた。
そして突然にこんなことを言ってきたのだ。
大人になったら僕のお嫁さんになってと。
お嫁さんという言葉は知っていたし、なんとなくの意味もぼんやりと理解していた。
男の人と女の人が一緒に住むんだって、その程度の知識だけど。
けど人見知りだった俺は、今日初めて会ったばかりの子とずっと一緒に住むなんて考えられなかった。
だから断った。お嫁さんなんて嫌だと。
しかしその子は引かなかった。大人になったらお嫁さんになっての一点張りで、いい加減にしつこいなと嫌になり、俺はこんな言葉を返した。
外国に連れて行ってくれるならいいよと。
当時、俺はとある有名な児童文学にハマっていた。男の子の魔法使いが活躍する物語だ。
まだこの世が御伽噺のような世界だと信じていたあの頃、外国へ行けば魔法の世界への入口があって、いつか自分も魔法使いになれるのだと信じていた。
そして外国なるものが、海の向こうにあるのだと親から聞かされていた。
行きたい行きたいと駄々をこねる俺に、大人になったら自分で行けると言われ、早く大人にならないものかとモヤモヤしていた。
姉はそんな俺をゲラゲラと笑い、確かに大人になったら外国へ行けるけど、魔法使いなんて無理だと馬鹿にされて、悔しい思いをした。
またそんな事を言うと怒る両親、早いうちから現実を教えておくべくだと反発する姉。
毎度のように喧嘩が始まって、少々うんざりしながらも、大人になったら絶対に行くのだと誓ったのだ。
そういうことがあって、外国への憧れが強く、海の向こう側には魔法の世界があるのだと思い込むようになっていた。
空と海とが隔てられたあの水平線の向こうには、自分の望むものがある。
だから俺はお嫁さんになる条件として、外国へ連れて行ってくれと頼んだのだ。
しかしやっくんは不思議そうな顔をしていた。
というのも外国というのがよく理解出来なかったらしい。
海はずっとどこまでも続いていると思っていたらしく、そもそもが国だとか海外だとかいう概念がなかったようだ。
まあ俺もそう詳しいわけではなかったが、こことは違う世界があることは知っていたので、拙い言葉でそれを説明した。
そしてこの時に誤解が生じてしまったのだ。
まだ四歳の俺に、上手く外国だとか海外だとか説明するのは困難で、なかなか理解を示してくれないその子にこう言ったのだ。
魔法の世界に行きたいのだと。
しかしこれもまたピンと来なかったようだ。
男の子の彼にとっては、魔法使いよりもなんとか戦隊とか合体ロボの方が良かったらしく、いくら俺が魔法使いについて説明しても、まったく要領を得ることが出来ないでいた。
しかしここじゃない別の世界へ行きたいということだけは理解したらしく、お嫁さんになってくれるなら、僕が海の向こうへ連れて行ってあげると約束した。
それならいいよと俺も頷き、その後は二人で遊んでいたのだが、いつまで経っても帰って来ない俺を心配して、姉が取れ戻しに来た。
あんた何やってんの!と頭を叩かれ、腕を掴まれてズルズルと引きずられた。
するとその子も後をついて来て、お嫁さんお嫁さんと連呼しながら、俺の腕を引っ張った。
姉は誰この子?と尋ねてきて、俺は知らない子とだけ答えた。
シッシと手を払って追い払おうとする姉だったが、奴はその程度で引くようなタマじゃない。
結局家族のいる所までついて来て、母が「僕一人?」とか「親はどこにいるの?」などと尋ねて、父が親の所のまで連れていった。
その翌日である、その子が美桜里君と出会ったのは。
もちろんその男の子とはやっくんのことだ。
やっくんは時間と共に俺と美桜里君の記憶を結びつけて、同一人物としてしまった。
そしてお嫁さんというワードと、海の向こう側へ連れていくという約束だけが残ってしまったのだ・・・・きっと。
ということは、元を辿れば全て俺のせいである。
美桜里君が追い回されたのも、今になって俺を追い掛け回しているのも、あの日の海での出来事が原因である。
高校時代、奴の家庭事情を聞いたことがある。
あまり家のことは話したがらなかったが、たまにポツリと漏らすことがあったのだ。
やっくんには兄貴がいて、それはもう昔っから出来の良い子供だったらしい。
親は常に兄貴の方を可愛がり、自分はそこまで構ってもらった覚えがないと言っていた。
兄貴と比べれば確かに出来の悪い子で、いつだって親の言うことなんて聞かなかったし、大学も行きたければ自分の金で行けと釘を刺されていたそうだ。
そもそも高校に上がった時点で、本来ならば一人暮らしをする予定だったという。
とにかく親との折り合いが悪く、中学を出たら家を出ていくつもりだったし、親の方も家賃くらいは払ってやるからとっとと出ていけといったスタンスだったそうだ。
しかし唯一やっくんに理解を示してくれていたお婆ちゃんが、それはあまりに可哀想だからと止めてくれたらしい。
そのお婆ちゃんもやっくんが高校を出る前に亡くなった。
共に暮らすのは折り合いの悪い両親と、昔っから花よ蝶よと過保護にされて、優秀ながら自己愛の塊みたいになってしまった他人に無関心な兄貴だけ。
家族というものに対してまったくと言っていいほど良い思い出がない彼は、心のどこかで自分だけの家庭を欲しがっていたのかもしれない。
四歳の頃の約束をまだ覚えていたのは、そういうことも関係しているんだろうと、少しばかり同情的に考えるようになった。
あの日の海での出来事は、俺にとってはそう大したものではなかった。
しかしやっくんにとってはそうではなかった。
育ってきた環境が違えば、思い出に残りやすい出来事も違うわけで、そこに考えが及ばずにやっくんの行動を否定しても意味がないのだ。
忘れていた過去を思い出したからといって、もちろん奴と付き合う気などない。
四歳の頃に起きた出来事を正しく思い出してくれることが出来たならば、ストーカー行為は止まるかもしれないのだ。
とりあえずやっくんに向き合うのは美桜里君に会ってからでいいだろう。
せっかくこうして電車に乗って、代わり映えのしない退屈な景色に耐えているのだから、今日は美桜里君に会って昔を懐かしもう。
もっとも彼に会う一番の理由はもうない。
お姉ちゃんを鮮明に思い出すことで、今の自分と向き合えるんじゃないかと期待していたが、当のお姉ちゃん本人に会うことが出来たのだから、その意味では目的を果たしたといえる。
今日たまたま同じ電車に乗り合わせ、俺が居眠りに落ちていく途中、偶然お姉ちゃんが隣に座ってきた。
あの瞬間、向こうもこちらに気づいていなかったらしい。
ただなんとなく窓の外を眺めた時、頬杖をしながら惰眠を貪る俺を見て、もしや?と思ったのだそうだ。
最後に会ったのは俺が中学生の時以来だが、童顔であるせいか面影がそのまま残っていたのだろう。
すぐにピンときたそうだ。
俺がどう変化してしまったのか美桜里君から聞いていたので、髪型も服装もボーイッシュなことに違和感はなかったと言っていた。
声を掛けようか迷ったそうだが、自分から縁を切った手前、都合よく話しかけることが出来なかったらしい。
このまま隣にいれば誘惑に負けて声を掛けてしまいそうなので、すぐに席を立ったのだそうだ。
なるべく俺から離れようと、最後尾の車両まで移動して、イヤホンで音楽を聴きながら気を誤魔化していたというわけだ。
ちなみにやっくんがいつ頃から乗っていたのかは知らないという。
あの時の奴の態度から考えて、おそらく最初から尾行していたのだろう。
電車から降り、何かに怯えるように逃げて行く俺を見て、思わず声を掛けたのだとお姉ちゃんは言っていた。
そしてやっくんにはストーカーの気があることを知っていたから、彼が近づいて来るのを見て「まさか美緒ちゃんがターゲットに?」と思って男気を見せてくれたのだった。
あの後、お姉ちゃんとしばらく話をしてから、「それじゃまたね」と手を振って別の電車に乗っていった。
別れる前に連絡先を聞かれたので、LINEの交換をすると「またご飯でも行こ」とメッセージが入っていた。
再会は偶然だとしても、こうしてまた繋がれるのは嬉しい反面、なんだか気が抜けるほど軽い感じで縁が復活したことに戸惑いを覚えている。
俺はずっとお姉ちゃんに会いたいと思っていて、それは向こうも同じだった。
縁を切っていた10年の間、お互いに色んな部分が変わってしまったけど、その理由については正反対だった。
お姉ちゃんは自分の為に自分を変え、俺はお姉ちゃんに会えない寂しさから自分を変えた。
片や己の人生を生き、片や他人の人生を追いかけた10年間・・・・この差はとても大きい。
お姉ちゃんは新たな夢に邁進中で、自分の望む道を歩いている。
なのに俺はどうだろう?
お姉ちゃんに憧れ、会えない寂しさから自分自身がお姉ちゃんの真似をし、しかし俺が知っているお姉ちゃんはもうどこにもいない。
あの頃のお姉ちゃんは過去のもので、俺は今でもそれをなぞっているだけだった。
ということはこの10年の間、俺の人生は止まっていたのだろうか?
電車に揺られながら、自分がとても滑稽に思えてきて、笑いたいような切ないような感情が溢れる。
俺が、俺の周りの誰よりも遅れている。
お姉ちゃんより、やっくんより、美知留より、俺だけがどうしようもなく同じ場所で足踏みをしていたのだ。
真っ直ぐだったり、思い込みが激しかったり、愛憎にまみれていたり。
みんなそれぞれ違っていて、良い悪いはあるにせよ己の人生を歩いている。
この中の誰一人として、己の為以外に生きてはいないのだ。
それは自分勝手な事であるかもしれない。
けどある意味では自分のことを誰よりも可愛がり、自分の人生とか命だとかに責任を持っているとも言える。
・・・・やめよう。
こんな事をいくら考えたところでどうにもならないし、明日になればどうでもよくなるほど思い出せなくなるだろう。
人は変わっていくし、過ぎた時間の中に立つことは出来ない。
今、俺は美桜里君の所へ向かっていて、今日という日の予定をこなせばいいだけなのだ。
難しいことなど知ったことか。
思い出せなかった記憶を思い出し、上手くいけばやっくんの思い込みを解除して、ストーカー行為が止まるかもしれないのだ。
それだけでお姉ちゃんと会った意味はあったし、心なしか心が軽い。
電車の中、現実とうたた寝を繰り返し、美桜里君のいる町までやってきた。
10年ぶりに再会した彼は24には見えないほど大人っぽくなっていて、腕に抱いた子供を笑顔で向けた。
可愛いだろ?と尋ねるので、可愛いと答えると、とても嬉しそうにはにかんでいた。
奥さんもこれまた綺麗な人で、軽く挨拶を交わしてから、家にお邪魔になった。
テーブルを囲んだ美桜里君の家族は、今時こういう家庭があるのかと思うほど、アットホームという言葉が似合った。
このまま何かの広告に使えるんじゃないかってくらいに絵になっていて、あまりの現実感のなさに別世界を訪れた気分になる。
それと同時にどこか儚さを感じるのはなぜだろう?と自問してみたが、ハッキリした答えは出なかった。
幸せ一杯の彼に嫉妬しているのか?
それとも現実感が無さすぎて、これは演技なんじゃないかと思えてしまうからか?
アンバランスな感覚が時間と共に加速して、だんだんと口数が少なくなって、そんな俺を見て「何かあった?」と心配してくれる美桜里君に、意識する間もなくこう言ってしまった。
「お姉ちゃんに会ったよ。」
ほんとに!?と驚くので、ほんとだと返すと、彼も彼の奥さんも途端に表情が曇ってしまった。
何をそんなに不安そうな顔をしているのかってほどにトーンダウンして、しばらくの間沈黙に耐えることになった。
「どうしてた?」
突然そう尋ねられて、小さく首を傾げる。
もちろんお姉ちゃんのことを言っているのは分かるが、どうしてた?の意味する主語が分からない。
どうしたもこうしたも駅で一時間ほど話しただけで、特別に美桜里君に伝えるような内容なんてない。
やっくんのことなんて話しても仕方ないし、「普通だったけど」としか答えられなかった。
「普通?どんな風に?」
「どんなって・・・・。仕事で遠くに出かけてたって言ってたけど。」
「仕事?仕事してるの?」
「え?」
「他に何か変わったことない?なんでもいいから。」
彼が身を乗り出すなんて珍しい。
なんでもいいというのならなんでも答えるけど、その前にどうしてそう焦っているのか知りたかった。
「お姉ちゃんなんかあったの?」
遠慮がちに尋ねると、小声で返事をしたのが聞こえて、今度はこっちは身を乗り出してしまった。
「何があったの?」
「身内のことだからそれは・・・・。」
「誰にも言わないから。」
聞きたいという気持ちが止められず、他人の家庭の事情に入ってはいけないなんて常識はあっさりと吹き飛んでいく。
知らない仲ではないし、こういう状況で引き下がれるほど大人でもない。
「教えてよ。」
念を押すように問いかけると、彼は奥さんを振り返った。
彼女は「信用できる友達なんでしょ?」と尋ね返し、彼に決断を委ねる。
「そうだな」と小さな呟きで答えてから、身を乗り出すのをやめて、椅子に身体の全てを預けるかのように深く座り込んだ。
「実はちょっと前から連絡が取れなくなってたんだ。」
「ちょっと前って・・・どれくらい?」
「半年・・・・もっとかな。電話してもメールしても返事がなくて、SNSも全部やめてるみたいなんだ。」
「それっていきなり?なんの前触れもなしに突然?」
「いや、彼女にフラれてからだよ。」
「え?だって今は彼女と同棲してるって言ってたけど・・・・。」
「そうなの!?」
また奥さんと目を合わせる。
いったい何をそんなに気にしているんだろうか?
もしかして彼の奥さんにも関係することなのだろうか。
「お姉ちゃんが言ってた。今年の春くらいに付き合いだして、今は同棲してるって。」
「春から?」
オウム返しに呟いて、「じゃあ新しい彼女なのかな?」と夫に視線を投げた。
「だろうな。」
「てことは立ち直ったってことだよね?」
「だと思うけど・・・・それならなんで連絡を寄越してくれないんだろう?」
しかめっ面をしながら二人で悩んでいるが、俺だけ置いてけぼりは嫌だ。
蚊帳の外っていうのは何より居心地が悪いのだから。
「お姉ちゃん・・・彼女と何かあったの?」
「まあ・・・・。」
言葉を濁そうとするが、ここまで気を持たせておいて何も喋らないってのは我慢できない。
もう一度「教えてよ」と促すと、渋々ながらといった感じで答えてくれた。
「前に付き合ってた彼女のことすごい好きだったんだよ。この先もずっと一緒にいたいって言ってたほどだから。
日本ではまだ同性婚は認められてないから、外国籍を取ってでも結婚したいって。」
「結婚を考えてたほどなのか・・・・。それって相手も同じ?自分もいつか結婚したいって?」
「最初はそう言ってたらしいんだけど、途中からそうじゃなくなったって。
というのも実は他に好きな人がいて、それって前の彼女らしいんだよ。
別れてからもずっと忘れられなくて、それが辛いから姉ちゃんと付き合ってたみたいで・・・・。」
「ひどいなそれ。自分の傷を癒す為にお姉ちゃんを利用したってこと?」
「だと思う。姉ちゃんがフラれたあと言ってたんだ。
あんな奴だなんて思わなかったって。私は利用されて捨てられただけだって。
彼女が嫌がるから格闘技の道も諦めたってのに。」
「ええ!自分からやめたわけじゃないの?」
思わず叫んでしまって、口の横にヨダレが付いてしまった。
手でサっと拭いながら、「でもあのお姉ちゃんが自分から夢を諦めるなんて・・・」と信じられなかった。
「あんなに一生懸命だったのに。海外にまで行ってやってたんだろ?」
「まあ・・・・・。」
「まあ・・・なに?」
「もちろん格闘技は大好きだったと思うよ。いつだって真剣だったし、チャンピオンになりたいってのも本気だったと思う。
けど一番の理由は違うんだよ。本当は好きな人がいたからなんだ。」
「好きな人?誰・・・?」
「自分を格闘技の世界に引っ張ってくれた先輩。レディース時代にもお世話になってた人で、その頃から好意を抱いてたんだ。
けどあの頃は同性愛者だってことはカミングアウトしてなかったから、ずっと気持ちを抑えたままだった。
それでね、その先輩が選手を引退してトレーナーになったんだって。
ゆくゆくは自分のジムを持ちたいって言ってて、だったら私がそのジムで活躍すれば喜んでくれるんじゃないかって思ってたんだよ。
それが格闘技をやってた一番の理由。」
「今は・・・・その先輩は?」
「格闘技から離れて普通の生活送ってるってさ。今は結婚して家庭を持ってる。
姉ちゃん・・・あの時はかなりショック受けてたよ。
好きだった人が先にその世界から抜けちゃって、しかも結婚しちゃって。姉ちゃんに残されたのは格闘技だけで、ショックを誤魔化す為に前以上に打ち込んでたよ。」
「そうだったんだ・・・。それってちなみにいつ頃のこと?」
「美緒ちゃんに出会う前だね。その人と美緒ちゃん、ちょっと似てたんだよ。それが理由で姉ちゃんはその・・・・ねえ。」
「なるほど・・・・だから俺なんかを好きになったんだ。あんな頼りない子供だったのに。」
ふっと心が軽くなる。
お姉ちゃんほどの人がどうして俺なんかに・・・って不思議だったけど、好きだった人と重ねて見ていたんだったら納得がいく。
俺への好意を抑え込んでいたのは、真面目な性格ゆえに、そんな理由で気持ちを伝えるなんて失礼だと思っていからかもしれない。
もちろん俺がまだ中学生だったからというのもあるだろうけど。
「自分にはこれしかないって、鬼気迫るくらいの感じで打ち込んでたよ。だからチャンピオンにこそなれなかったけど、かなりいい線まで行ってたんだ。
けどだんだんと年齢を重ねて、体力的な問題が出てくるだろ?このまま続けようか迷ってる時に、前に付き合ってた彼女と出会ったんだ。
その子はすごく献身的な性格でさ、格闘技に打ち込む姉ちゃんを支えてくれた。
けどその分寂しがり屋というか、束縛が強い面もあったみたい。
最初は支えてくれてたんだけど、そのうち格闘技なんてやめてって言われたみたいでさ。
危ないし怖いし、もし何かあったらって思うと辛いって。私だってずっと一緒にいたいから、もう格闘技はやめてほしいって。
そう泣きつかれてキッパリ辞めた。でもそれから一ヶ月も経たないくらいに別れを切り出されたんだ。
他に好きな人がいるからって。姉ちゃんはもちろん納得しなかったけど、相手は取り付く島も与えてくれなかったらしい。
一方的に別れを告げられて、連絡しても返事はない。
業を煮やして家まで会いに行ったんだけど、逆に罵られたって言ってたよ。
これ以上付きまとうならストーカーだから、警察に言うよって。」
「なんだよそれ!だって相手だってずっと一緒にいたいって言って、格闘技まで辞めさせたんだろ?
なのに勝手に別れを告げて、その上そんなこと言うなんて・・・・、」
「そういう奴だったってことだよ。姉ちゃんはすごい傷ついてた。
ああ見えてけっこう繊細でさ、周りからは強いとか逞しいって言われるけど、本当はそうじゃないんだ。
ものすごいナイーブだし、けっこう悩むタイプだし。」
美桜里君から話を聞く度、自分の中のお姉ちゃん像が壊れていく。
夢は自分の為じゃなく好きな人の為にやっていて、中身は繊細な人だったなんて思いもしなかった。
俺が抱いていたイメージはその真逆だ。
10年ぶりに会ったお姉ちゃんは変わったと思っていたけど、そうじゃなかったのかもしれない。
俺が勝手なイメージを膨らませ、勝手にこういう人だと決めつけて、偶像崇拝のごとく崇めていただけなのではと迷い始める。
「それからだよ、連絡しても返事が来なくなったのは。」
消え入りそうなトーンの声は、お姉ちゃんへの心配の表れだろう。
身内と連絡が付かないなんて、そりゃあ心配に決まっている。
テーブルに肘をつき、祈るように手を合わせて額に当てている。
奥さんが「実はね・・・」と続きを引き取るように口を開いた。
「その彼女を紹介したの私なんです。」
「そうなんですか・・・?」
「友達に同性愛者の子がいたから紹介してあげたんです。お義姉さん、口には出さなかったけど、恋人が欲しいんだろうなって感じることが多々あったから。
だから私の友達にこういう子がいて、今はフリーなんですって言ったんです。その子も彼女と別れてからずっと寂しがってたから。
よかったらどうかなと思って・・・・。」
なるほど、それで夫婦互いにバツの悪い顔をしていたのだ。
何か喋ろうとする度に目を合わせていたのは、お互いを気遣ってのことなのだろう。
そういう優しさが幸せな家庭を築いているんだろうと思う反面、もしもどちらかの気遣いが無くなってしまったら、途端に崩壊しそうに感じるのは、俺の考え過ぎだろうか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
お姉ちゃんがそんなに苦しんでいたなんて想像もしていなかった分、やはりショックは大きい。
目の前に置かれたコーヒーを飲む気にもなれず、角砂糖を指でつつきながら、このどうしようもない気分をどうすればいいのか考えていた。
俺はずっとお姉ちゃんの真似をして生きてきたわけだが、それは全て幻のお姉ちゃんを真似てのことであり、中身がないにもほどがある人生だ。
やっくん、美知留、お姉ちゃん。
常に誰かに振り回され、でもそれは俺自身が不甲斐ないせいであり、いったい俺という人間はどこに芯があるのだろうと情けなくなってくる。
戯れに角砂糖を入れてかき回し、舐める程度に口をつける。
甘い香りと風味はややベタっとしていて、そういえばいつからブラックを好むようになったのだろうと、どうでもいいことを振り返る。
「なんでミチルを紹介しちゃったんだろ・・・・。」
奥さんの言葉にカップを持つ手が止まり、口につけたまま動けなくなった。
ミチル・・・・?今ミチルと言った。
「あの・・・・・、」
「ん?」と目を向ける奥さんに「そのミチルって人・・・・」と躊躇いながら言葉を押し出す。
「同性愛者なんですよね?」
「そうだよ。だから紹介したんだもん。」
「ちなみにどういう字を書くんですか?」
よっぽど俺の顔が歪んでいたのだろう?「どうしたの?」と不安そうに顎を引く。
「字を教えてくれませんか?漢字でどう書くんです?」
カップを置き、いいから早く答えろと目を鋭くする。
怪訝な表情で夫を見上げる奥さんに代わり、美桜里君が答えてくれた。
「美しいって字に、知性の知。それと留めるって字で美知留・・・・・だったよな?」
奥さんに採点を求めると、無言のまま頷いた。
なんの反応も出来ずに、誰かに押し付けられるかのように頭を垂れてしまう。
何も理解できないまま「美知留」と呪文のように口ずさむしかなかった。

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< September 2019 >>

GA

にほんブログ村

selected entries

categories

archives

recent comment

recommend

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM