- 2014.12.31 Wednesday
- 13:46
その名はエスパー伊東。エスパーの名がつく通り、超能力芸を売りにしています。
一分で板の上を釘で埋め尽くしてみせる!
どんなに辛いものでも平気で食べられる。
空手家のボディブローに耐えてみせる!
三分でホワイトボードをマジックで塗りつぶす。
熱いお湯に浸した雑巾を全てかわしてみせる!
平均台の上で、目隠しをして飛んで来るボールを避けてみせる!
どれ一つとして成功したことはなく、散々な結果に終わります。
しかし彼の芸があるところ、笑いの渦が起こります。
まず笑わないでいることは出来ません。
見ているこっちが引くくらいに身体を張って、結果を迎える前に笑いを取るという、すさまじい神業の持ち主でもあります。
彼の芸の定番に、ゴム手袋を頭から被り、鼻息だけで膨らませて割るという芸があります。
おもむろにゴム手袋を取り出し、一生懸命被ろうとします。
しかし被り終える前に・・・・パン!
頭の半分くらいの所で破裂し、千切れたゴム手袋が鼻に引っ掛かっていました。
それでも負けじと挑戦し、何とか鼻の部分まで被ります。
そして一生懸命鼻息で膨らませようとするのですが、パワーが足りずに膨らみません。
それどころか、手袋に溜まった空気が、どうやら鼻の中に押し返されている模様。
しかも隙間から空気が抜けています。
周りにいた芸人が、空気が漏れないようにガムテープで隙間を埋めてあげます。
そしてどうにかゴム手袋を破裂させることに成功すると、中に入っていた桜の花びらが、顔中にへばりついていました。
これを見ていた時、私は腹を抱えて息が出来なくなりました。
他にもテニスラケットの穴を通り抜けるという芸があって、ネットを外したラケットを取り出します。
そして屈伸のような体勢でラケットを通り抜けようとするのですが、お尻の部分で引っ掛かっていました。
この引っ掛かるというのは、エスパー伊東の定番です。
引っ掛かる。固定されているはずの物が動く。セリフを噛む。
エスパー伊東、三種の神器です。
お尻が引っ掛かったエスパーは、進むことも戻ることも出来ません。
完全にラケットに挟まってしまいました。
最後は周りにいた芸人に引っ張られて脱出し、「はいい〜!」と決めポーズを取っていました。
この人、成功してもしなくても、こうやって決めポーズを取るんです。
私はエスパー伊東ほど、腹を抱えて笑った芸人を知りません。
また彼ほど、出て来た時に期待を抱く芸人もいません。
きっと誰も彼の真似を出来ないし、やろうともしないでしょう。
まさにオンリーワン!芸をやれば必ずウケる、ある種の超人なのです。
この人、本当に尊敬します。漫画家の漫画太郎先生と同じ意味で、心の底から視聴者を楽しませてくれる、肉体派の芸人さんです。
この人の芸を見ていると、出川哲郎や上島竜平の肉体派芸人が可愛く見えるほどです。
普通は芸を初めて、それで終わりまでやって、そこで笑いが起きるものです。
けどエスパー伊藤は、芸を初めて、終わりに辿り着く前に笑いを取っています。というより、終わりに辿り着くことがほとんどないんですが・・・・。
天然だとしたら天才だし、計算だとしてもやはり天才です。
エスパー伊東は、笑いを求める者への期待を裏切らない、命を懸けた超人芸人であると思います。
- 2014.12.31 Wednesday
- 13:34
猫又だって、たまには買い物をする。
人間ほど物欲はないが、それでも欲しい物はあったりするのだ。
梅雨が過ぎて夏の匂いが迫る頃、俺は大きな中古書店に来ていた。
ここには高尚な芸術書からエロ本まで、多種多様な本が並んでいる。
しかも中古なので値段も安く、いくら立ち読みしても構わないときている。
ならば暇つぶしにこれほど便利な場所はなく、欲しい本があれば安く手に入るというわけだ。
俺は芸術書の棚でじっと本を読んでいた。
『誰でも分かる水彩画』
最近タカシが水彩にハマったものだから、俺もちょっと勉強してみようと思ったのだ。
「下手なアドバイスをしたら、また機嫌を損ねてしまう。少しは知識を入れておかないと・・・・。」
真剣に本を読み、付け焼刃の知識を叩き込んでいく。
「水彩にも色々種類があるんだなあ・・・。タカシが買ったのはどれだ?」
絵具の種類は幾つもあり、覚えるだけでも大変だった。
しっかりと勉強するつもりが、だんだんと飽きてきて本を閉じた。
「まあいい。家に帰ってゆっくり読もう。」
中古300円のその本を買い、店を出ようとする。しかし書店の向こうに別の店があることに気づき、足を止めた。
「そういえばリサイクルショップも入ってるんだったな。ちょっと覗いていくか。」
本屋のスペースを抜け、リサイクルショップの方に足を踏み入れる。
同じ店舗内に複数の店があるのは便利で、さらに暇つぶしが加速してしまう。
時計にカメラ、貴金属にスマホ、それにフィギュアや帽子など、たくさんの中古品が置かれている。
それらを流し見しながら、奥へと向かって歩いて行った。
すると幾つもギターが並んだスペースがあって、少し興味を惹かれた。
「音楽か・・・・。これもまた芸術、しかしどうやって弾くんだろうな?」
壁にはエレキギター、エレキベースが掛かっていて、その下にはクラシックギターとアコースティックギターが並べられていた。
「値札があるから分かるけど、見た目だけじゃクラシックギターとアコースティックギターの違いも分からない・・・。いったい何が違うんだ?音か?値段か?」
手近にあった一本を取り、ポロロンと鳴らしてみる。そうして何度も鳴らしていると、店員からジロリと睨まれた。
「店の中で鳴らしちゃ迷惑だよな。」
ギターを戻し、店員の視線を避けるように背中を向ける。
もうそろそろ帰ろうかと思い、出口に向かって歩き出した時だった。
「ライアーズ。」
「ん?」
突然誰かに話しかけられ、後ろ振り向く。
「ライアーズ、知ってる?」
「・・・いや、申し訳ないが知らない。」
そこに立っていたのは、くたびれたTシャツに汚れたジャージを穿いた、白髪の男だった。
顔にはいくつも皺が刻まれ、少し背が曲がっている。右手には丸く膨らんだビニール袋を提げ、愛想の良い笑みを浮かべていた。
「ライアーズ、知らない?」
知らないと答えははずなのに、なぜか同じ質問をしてくる。俺はニコリと笑い、「申し訳ないが知りません」と答えた。
「カシミヤ文化ホールって知ってる?」
「いえ。」
「じゃあ星と光の館は?」
「それなら知っています。」
「そこから薬屋の方に歩いて、信号を左に曲がったらあるんよ。」
「ほう。」
「それで文化ホールの中に喫茶店があるんだけど知ってる?」
「・・・・・・・・・・。」
俺は何も答えなかった。そもそも文化ホール自体を知らないのに、中に入っている喫茶店をどうやって知るというのか?
《下手に相手をしていると、無駄に時間を食いそうだ。もうそろそろタカシの所へ行かないといけないし、適当に切り上げるか。》
白髪の男は「知ってる?」と繰り返す。俺は強めに「知りません」と答え、「連れが待っていますので」とその場を後にした。
「明後日にね、そこの喫茶店でライアーズがコンサートやるから。五時からだよ。一人1000円、ワンドリンク付き。子供は無料だから。」
俺は何も答えず、ただ頭を下げて去って行く。そして店から出て、「なんだあのじいさんは・・・」と振り返った。
「いきなりコンサートの勧誘をされても行くわけないだろう。」
そう思いながら店を睨んでいると、さっきのじいさんが出て来た。
そして小走りに駆け寄って来て、手にしたビニール袋を見せつけた。
「ベルト要らない?」
「は?」
「これ、ベルト。買わない?」
「要りません。」
「どうして?」
「理由などないです。そこにリサイクルショップがあるんだから、売って来たらどうですか?」
「買ってくれなかったんよ。」
「そうですか。ではこれで。」
もはや笑顔を見せる気にもなれず、一瞥をくれてから立ち去る。
大きな駐車場を出てから振り返ると、じいさんはいなくなっていた。
「なんなんだアレは・・・・。非常識というか、無礼というか・・・・。」
俺はあの手のタイプが苦手である。
相手の話を聞かず、ただ自分の言いたいことを一方的に言う。これでは会話が成り立たず、意志の疎通など不可能だ。
「この世の中、色んな奴がいるのは分かるが、合う合わないはあるもんだ。どうか二度とあのじいさんと遭遇しませんように。」
水彩画の本を脇に抱え、足早に店を後にした。
*
その日の夕方、タカシにあの変なじいさんの話をしてやった。
すると「ん」と言って、あのじいさんの似顔絵を描いてみせた。
お世辞にも出来がいいとは言えなかったが、特徴はよく捉えている。
俺はその絵を見つめながら、「知ってるのか?」と尋ねた。
「ライアーズ。」
「お前も誘われたのか?」
「七月十日、カシミヤ文化ホールの喫茶店で、五時からやるんよ。ジュースも飲めるし、子供は無料なんよ。」
「よく似てるな。」
「子供は無料なんよ。」
「うん、似てる。」
「子供は無料なんよ。」
「タカシ?」
「子供は・・・・、」
「分かった、行きたいんだな。」
「ジュースが飲めます。」
「それが目的か・・・・。まあいい、コンサートなんて滅多に行く機会がないからな。明後日に行ってみるか?」
「子供は無料なんよ。」
「後でじいさんとばあさんに話してみよう。そう遠くはないし、ダメだとは言わないだろう。」
俺はごろりと寝転がり、大きなあくびをした。
「八兵衛はいつも寝てます。」
「猫だからな。」
「猫じゃありません。猫又です。」
「猫の延長みたいなもんだ。よく寝るのは仕方ない。」
「ムクゲもよく寝ます。」
「そうだったかな?アイツが寝てるところはあまり見たことがないような・・・・。」
「昨日も寝ました。」
「ん?」
「一昨日も寝ました。」
「・・・・・タカシ、ちょっと待て。」
俺は身体を起こし、ためらいがちに尋ねた。
「もしかして・・・・ムクゲがここに来たのか?」
「一昨日の前も寝ました。」
「・・・・その前は?」
「その前も寝ました。」
「いつからここへ来ている?」
「七月二日からです。」
「一週間くらい前からか・・・・。タカシ、それは本当にムクゲなんだな?」
「今日も来ます。」
「今日も・・・・。どうして今まで黙っていた?」
「言ってはダメだと言われました。」
「そうか。でも言っちゃったぞ、お前。」
そう言うと、タカシはピタリとペンを止めた。
「・・・・・・・・・・・・。」
「心配するな。お前から聞いたって言わないよ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「大丈夫だ。もしバレてもムクゲは怒ったりしない。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「泣くな。聞いた俺が悪いんだ。お前は何も悪くない。」
タカシはペンを握りしめ、じっと固まったまま動かない。
「分かってる。怒られるのが怖いんじゃないんだよな。言ってはダメだと言われたのに、言ってしまった自分が情けないんだよな。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「さっきも言ったけど、聞いた俺が悪いんだ。泣かなくていい。それより絵を描け。海を泳ぐゴリラなんて面白いじゃないか。」
画用紙にはいつものようにゴリラが描かれていて、海の中を泳いでいた。
海底にはなぜか柿の木が生え、その枝に孔雀が止まっている。
そしていくつかの遊具が並んでいて、裸の男と少年が遊んでいた。
「この裸の男は俺か・・・・。こうして見ると、変態以外の何者でもないな。」
客観的に見る自分の姿に、思っていたより愕然とする。
しかし・・・・この絵は面白い。タカシと出会ってから今までに起きたことが、一枚の画用紙に凝縮されている。
しかもまだまだ完成ではなさそうなので、これからもっと色んなものが描かれるだろう。
「この絵の続きが早く見たい。ほら、泣いてないで描かないと。」
タカシはしばらくぐずっていたが、やがてペンを動かし始めた。
以前に比べると遥かに速く、そして正確に描いていく。
《随分慣れたもんだな。まあずっと描いているから、その分上達も早いんだろう。》
何事も練習次第で上手くなる。物事の上達は、練習なくしてはあり得ない。
タカシの絵はそう教えてくれた気がした。
《しかしそうは言っても、やはり向き不向きはあるもんだ。俺が絵を始めたところで、一年後には猫も描けるかどうか怪しいな。》
真剣にペンを振るうタカシを横目に、再び寝転がる。そしてムクゲのことを思い浮かべた。
《まさか戻って来ていたなんて・・・。ということは、もう完全な人間になったってことか?》
俺はもう一度身を起こし、「なあタカシ?」と尋ねた。
「ムクゲは人間の姿をしていたか?」
「猫です。」
「猫・・・・。じゃあまだ人間になっていないんだな。ならどうして戻って来て・・・・・。」
カミカゼは言っていた。ムクゲは完全な人間になるまでは戻って来ないと。
《あのムクゲが、自分で言い出したことを途中で曲げるとは思えない。何か事情があるのか?》
ムクゲの顔を思い浮かべながら、じっと考える。
しかしいくら考えたところで答えが出るはずもなく、「ここで待つか」と寝転んだ。
「今日もここへ来るんだ。その時に話を聞いてみよう。それに何より、またムクゲに会いたいしな。」
ムクゲが去ってから三ヶ月。大した時間は経っていないが、毎日のように会っていた者がいなくなると寂しい。
だから再び会えるかと思うと、正直嬉しかった。
その日、俺は夜遅くまでタカシの家にいた。
しかしいくら待ってもムクゲは現れず、タカシは眠ってしまった。
時計を見ると午後10時。空には半分欠けた月が浮かんでいて、流れゆく雲を照らしている。
俺は窓を開け、暗くなった庭を見渡してみた。
「・・・・・来ないな。もしかして俺がいるからか?」
ムクゲは鋭い奴だ。だから俺がいるのに気づいて、今日は来ないつもりなのかもしれない。
「もしそうだとしたら、顔を合わせたくない事情があるってことだ。やっぱり気になるな。いったいどうして戻って来た?」
暗い夜空を見上げながら、そっと窓を閉める。
その日はじいさんに許可をもらい、タカシの家に泊まった。
途中で何度か目を覚ましたが、やはりムクゲは来なかった。
次の日も遅くまで居候したが、どんなに待っても来ない。
「やっぱり俺がいるせいか?・・・・・まあいい。無理に会おうと思っても、向こうにその気がないなら仕方がない。いつか会いに来てくれると信じて待つか。」
その日はタカシの家には泊まらず、夜道を一人で帰って行った。
「明日はコンサートか。タカシの奴、意外と楽しみにしていたな。」
俺はタカシの家を振り返り、「また明日」と呟く。
ほのかな夏の香りを感じながら、湿気の漂う夜道を歩いて行った。
*
次の日の朝、俺はタカシの家に行く前に集会所に寄っていた。
ハルとゴンベエは相変わらずイチャついていて、その隣でチョンマゲが毛づくろいをしていた。
「なあチョンマゲ、ちょっといいか?」
そう尋ねると、「ダメだ」と言われた。
「今忙しい。見て分かるだろ?」
「たかが毛づくろいじゃないか。後でも出来る。」
「いいや、そういうわけにはいかない。」
「どうして?」
「どうしてもだ。これはゼントルマンの身だしなみなんだ。」
「・・・・?何を言ってるか分からないぞ。」
そう言って顔をしかめると、ハルが「デートなのよ」と笑った。
「チョンマゲはこれからデートをするの。」
「デート?誰と?」
「それは教えてくれないのよ。でもデートをすることだけは確かなのよねえ?」
ハルは茶化すように笑いかける。チョンマゲは「まあな」と答え、熱心に毛づくろいを続けていた。
「そうやって毛づくろいをするってことは、相手はメス猫だな。」
「いや、そうでもない。」
「じゃあ人間の女か?」
「まあそんなところだ。」
「だったら毛づくろいに意味はない。どうせ人間に化けるんだから。」
そう言ってやると、チョンマゲはピタリと固まった。
「本当だ・・・・・これ意味ないや。」
「気づいてよかったな。なら俺の話を聞いてくれ。」
俺はタカシの家にムクゲが来ていることを耳打ちした。するとチョンマゲは特に驚く様子もなく、「そうか」と答えた。
「驚かないのか?」
「別に。」
「どうして?」
「前から知ってるからだ。アイツはちょくちょくこの町に戻って来ていた。」
「そうなのか?いつ頃からだ?」
「この前のボスの座を巡る戦いの後からだ。」
「・・・・どうして教えてくれなかった?」
「口止めされてたから。」
「でも喋ってるじゃないか。」
「俺が教える前に、お前が知ってたからだ。なら口止めもクソもないだろ。」
「まあ・・・そうだけど・・・・。」
なんだか釈然としなかった。タカシもチョンマゲもムクゲが戻って来ていることを知っていたのに、どうして俺だけが知らないのか?
そう思うと疎外感を感じ、なんとなく拗ねてみた。
「俺だけのけ者か。」
「その通りだ。ハルもゴンベエも知っているからな。」
「なんだって?コイツらもか?」
驚きながらハルとゴンベエを睨むと、二匹して肩を竦めた。
「ムクゲから言わないでって口止めされてたから。」
「そうそう。別にお前をのけ者にしたわけじゃないんだぜ。」
「そう言われると余計に疎外感を感じるよ。どうして俺だけ教えてくれないんだ・・・・。」
そう呟いて項垂れると、はっと気づいたことがあった。
「カミカゼも知ってるのか?」
チョンマゲは「ああ」と答え、「でも会ってないけどな」と言った。
「カミカゼの耳には入ってるはずだ。でもまだ顔を合わせていない。」
「そうか・・・。カミカゼは会いたいだろうに。」
「ムクゲの方に会う気がないんだろ。それにカミカゼも別れたメスを追いかけるような奴じゃない。未練には思っていても、自分から会いに行こうとはしないだろう。」
「そうだな・・・・。でもさ、どうして俺だけ教えてもらえなかったんだろう?たまたまタカシから聞いたからよかったものの、そうじゃなきゃ知らないままだった。何か理由があるのか?」
そう尋ねると、チョンマゲは「ある」と答えた。
「でもまだ言えない。」
「またそれか・・・・。ならゴンベエ、お前が教えてくれよ。どうしてムクゲは口止めをしていたんだ?」
「さあ?」
「さあって・・・・何も知らないのか?」
「理由は聞いてない。なあハル?」
「うん。私たちはたまたまムクゲに会っただけだから。その時に口止めされたの。八兵衛には言わないでって。」
「・・・・・・・・・・。」
「拗ねた?」
「ああ、かなりな。ムクゲとは良い友達だと思っていたのに、こうして俺だけ仲間外れにされた。」
なんだか沈んだ気分になってしまい、晴れた空さえ淀んで見える。
気がつけばトボトボと歩き出していて、「どこ行くの?」と尋ねられた。
「タカシのところだ。今日はコンサートを見に行くんだよ・・・・。」
「へえ、コンサート!で、で、誰の?」
「ライアーズだそうだ。」
「ライアーズ?聞いたことないわね・・・・。」
「俺も聞いたことがないさ。」
「きっとインディーズってやつよ。デビュー前のバンド。」
「ああ、要するに素人か。」
「そんなことないわよ。インディーズでも上手いバンドはたくさんあるんだから。あえてプロにならない人たちだっているのよ。」
「よく知ってるな。誰に聞いた?」
「ムクゲ。彼女って音楽が好きだったから。人間に化けて、よくライブに行ってたみたいよ。」
「へえ、アイツは音楽が好きだったのか。・・・・いや、でも分かる気がするな。アイツも音楽だの絵だのは嫌いじゃなさそうだから。」
「洋楽とかもたくさん知ってたのよ。何とかいうアレとか・・・・何とかいうソレとか・・・・。」
「お前が音楽に興味のないことは分かった。まあとにかく今日は帰る。じゃあな。」
俺は尻尾を振って集会所を後にする。するとゴンベエが「チョンマゲも帰るのか?」と尋ねていた。
「デートだからな。」
「でもそれって夕方からなんじゃ?」
「ゼントルメンは早めに行くもんだ。じゃあな。」
チョンマゲは尻尾を振り、足早に去って行った。
ハルとゴンベエは顔を見合わせ、「ゼントルメンだって」と吹き出していた。
《チョンマゲはデートか。俺以外の猫又は本当に女好きだな。》
チョンマゲの消えた方に尻尾を振り、俺もタカシの元へと向かう。
人間に変化し、電車に乗り、駅を降りてゆっくりと歩いて行く。
すると踏切を越えた辺りで、例のじいさんと出くわした。
「・・・・・・・・・・。」
思わず目が合ってしまう。出来れば引き返したいが、向こうはニコニコとこちらに近づいて来た。
「ライアーズ?」
「・・・・ええ。行きますよ。」
「子供は無料だから。」
「子供も連れて行きます。ちなみに私は興味はありません。あくまで子供が行きたがっているんです。」
「いいよ、ロックは。心が弾けるから。」
じいさんはニコニコと笑い、今日もビニール袋を持っていた。
そして案の定それを売りつけてきた。
「ベルト、要らない?」
「要りません。」
「1000円。」
「要らないと言っている。」
「どうして?」
「・・・・・・悪いけど先を急ぐので。」
もう目を合わせる気にもなれず、じいさんを避けて先を行く。
すると「ライアーズ見たいんよ!」と叫んだ。
俺は足を止め、じいさんを振り返る。その恰好は一昨日とまったく一緒で、くたびれたジャンバーに汚れたジャージだった。
「行きたいなら行けばいいでしょう。」
「お金がないんよ。ベルト買ってくれん?」
「・・・・失礼ですが、ご家族は?」
「おらん。」
「では・・・・家は?」
「ない。」
「・・・・・気を悪くされたらすみません。その・・・・ホームレスということですか?」
「いや。住む場所はあるんよ。でも自分の家じゃないから。」
「居候ということですか?」
「まあ・・・・そんなもん。」
「そうですか。申し訳ありませんが、ベルトは買えません。コンサートに行きたい気持ちは分かるが・・・・、」
「ライアーズ行かせてくれん?」
「・・・・・・・・・・・。」
「お願い。お願いします。」
じいさんはビニール袋を提げたまま、深く頭を下げる。
「やめて下さい。」
俺は慌てて駆け寄り、じいさんの頭を上げさせた。
彼の顔は真剣そのもので、「ベルト買って」と俺の手を握った。
「ロックはいいよ。心が弾けるから。」
「好きなんですか?」
「うん。たくさん聴いた。ツェッぺリンもストーンズも、イーグルスも聴いた。どれもええよ。」
「そうですか・・・・。申し訳ないが、私は音楽に疎いもので・・・・、」
「ツェッぺリンはね、ドラムが凄いから。ジョン・ボーナム、知ってる?」
「いえ、だから音楽には疎くて・・・・、」
「でも死んじゃったんよ、ボーナム。それでツェッぺリンは解散。ロバート・プラントは喉やられたし。移民の歌、聴いたことあるでしょ?」
「移民の歌?聞いたことないです。」
「それはないよ。よくテレビとかでも流れるから。聴いたら絶対に分かるって。ギターはね、ジミー・ペイジ。世界三大ギタリストの一人。後二人はジェフ・ベックとエリック・クラプトン。その後にジミ・ヘンドリックスが出て来て・・・・、」
じいさんの音楽話はとどまるところを知らない。
ジミーなんとかから始まり、ジョンなんとかやリッチーなんとかやらが出て来る。
このままではいつ終わるか分からないので、「ちょっと落ち着いて」と止めた。
「じいさん、急に砕けた口調になって悪いが、俺は人と会う約束がある。」
「いいよ、砕けても。敬語じゃなくていいよ。」
「分かった。なら尋ねるけど、じいさんはどうしてもライアーズのコンサートに行きたいんだな?」
「うん。」
「だからベルトを買ってほしいと?」
「そう。要らん?」
「ベルトは要らないが、じいさんの情熱は伝わった。だから一本買おう。1000円でいいんだな?」
そう言って財布を取り出すと、じいさんはまた手を握ってきた。
「ありがとう!ありがとう!」
「そこまで感謝しなくてもいい。それに頭を上げてくれ。」
「あんた神様。ほんと神様。」
「1000円で神様か・・・・。ずいぶんと安くなったもんだな、神様も。」
じいさんはゴソゴソとビニール袋を漁る。どうやら一番綺麗なやつを選んでいるようだ。
「これ、短いけど。」
「本当に短いな・・・・・。子供用じゃないのか?」
「そう。だって子供の時に買ってもらったやつだから。」
「おいおい・・・・それじゃ思い出の品じゃないのか?」
「いいの、ライアーズ見たいから。はい。」
「・・・・・分かった。じゃあ1000円な。」
ベルトと交換に1000円を渡す。じいさんは嬉しそうにそれを見つめ。ポケットから小銭入れを取り出した。
そして丁寧に折って中に押し込み、「ありがとう!ありがとう!」と何度も頭を下げた。
「いい加減やめてくれ。ただベルトを買っただけだ。」
「じゃあね。今日の五時からだから。子供は無料だから。」
「ああ。じいさんもコンサートを楽しめよ。」
じいさんはニコニコと笑顔を振りまき、嬉しそうに去って行く。
「しつこくベルトを売りたがっていたのはこの為か。よっぽどコンサートに行きたかったんだな。」
俺は買ったベルトをクルクルと丸め、ポケットに押し込んだ。
コンサートが始まるまでまだ時間がある。
タカシに何か買っていってやろうと思い、途中にあるコンビニに寄っていく。
スナック菓子とジュースを買い、じんわりと暑い空気の中を歩いて行った。
かの伝説の空手家、大山倍達。通称マス大山。
一代で極真空手という流派を起こし、アメリカでボクサーやプロレスラーと戦った、真の武人。
そのマス大山が、自分の本の中で、もし猛獣と戦ったらどうなるか?というのを考察しています。
まず結論から言うと、人間は猛獣に勝てないと書いてあります。
パワー、スピード、タフネス、それに爪と牙。
猛獣はあらゆる面において、素手の人間を圧倒しているからです。
特に大型の猛獣、ライオン、トラ、ヒグマに関しては、もし檻の中で戦ったら、ただの一パーセントも勝ち目はないと書いてあります。
だから猛獣を戦う時、相手を倒すことが勝利の条件なら、人間はどうしようもないということです。
武器を持ってこそ、動物と対等に戦えるということですね。
いくら鍛えようがクマの一撃には耐えられないし、ライオンやトラのスピードには勝てません。
もしどうしても素手で勝ちたいというのなら、戦う場所を選ぶ必要があります。
狭い檻の中で戦ってしまったら、どちらかが死ぬまでの戦いになってしまいます。
これでは勝ち目はないので、広い場所で戦う必要があるようです。
猛獣を倒すことを勝利とするのではなく、猛獣が逃げてくれたら勝利とする。
これなら人間にも勝ち目はあると書いてありました。
どんな動物にも弱点はあり、それはほとんどの場合、柔らかい喉元です。
マス大山はヒグマと戦ったという伝説を持っていますが、大人のヒグマと戦う前に、子熊でシュミレーションしてみたようです。
まだ幼い小熊の喉元を狙って、空手の技である貫手を放ちました。もちろん子熊を傷つけないように寸止めしています。
子熊はまだ子供であるにも関わらず、手で貫手を払う仕草を見せたそうです。
要するに、クマは子供のいえども、急所を守る動きが本能的に刷り込まれているということです。
だからいくら喉元が弱点だったとしても、当てるのは至難の業です。
それに向こうも攻撃してくるんだから、そう簡単に弱点を狙うことも出来ません。
ここで結論。素手の人間でも、上手く弱点に攻撃を当てられれば、猛獣を撃退することは可能である。
しかしそれは至難の業であり、易々と撃退出来るものではない。ていうか、ほとんどの場合は殺される。
・・・・あの伝説的な空手家でさえ、猛獣相手となるとほとんど成す術がないようです。
でもこういった具合に冷静にシミレーション出来るからこそ、真の武道家なのでしょう。
自分が強い人間だと知っているから、冷静に戦いというのを分析出来るんでしょうね。
これが「猛獣なんか余裕だぜ!」なんて言う武道家がいたら、逆に勝てそうにないです。
素手の人間が猛獣に勝つ。格闘技や武道が猛獣に勝つ。
どうやらほとんど可能性は無さそうです・・・・。
しかしまあ、それでいいんですよね。
もし勝てる可能性があったら、挑戦しようとする人間がわんさか現れるでしょう。
そうなればただの動物虐待。
そもそも、私は猛獣と格闘家を戦わせることには反対です。
別にトラやライオンと戦って死ぬ格闘家がいたとしても、「こいつ何を馬鹿なことしてんだ」くらいにしか思いません。
そんなもん勝てるわけがないと分かっているし、だいたい格闘家自身が自分で望んでやったことなんだから、それで死んでもやっぱり同情なんてしないでしょう。
でも無理矢理戦わされる方の猛獣は、ただ迷惑なだけでしょうね。
負ければ死ぬし、かといって勝ちそうになると、控えているハンターに撃ち殺される。
まるで時代遅れのコロシアムのようです。現代で何やってんだか・・・・って感じですよね。
だから実際に猛獣を戦わせるのは反対です。
こういうテーマは、頭で夢想するから面白いんですよ。それなら誰も傷つかないし、いくらでも楽しむことが出来ます。
猛獣、もし戦わば。現実にやるのは反対だけど、頭で夢想するならとても楽しいテーマです。
チョンマゲは言った。ボスの座を巡って争うのは普通のことだと。
この町を仕切るカミカゼは、今その座を脅かされようとしていた。
いや・・・彼が負けるとは考えにくいから、危険が迫っているのはヘチョコとモミアゲの方かもしれない。
俺は魚獲りに奮闘するゴンベエたちの元を後にして、しばらく一匹で考えていた。
ボスの座を巡って、猫又同士が喧嘩をする。
それは正しいことなのかもしれないが、良い事なのかどうかは計りかねていた。
しかしじっと考えに耽っていても仕方がない。
時計の針が午後三時を差す頃、電車に揺られてタカシに会いに行った。
じいさんとばあさんに挨拶をして家に上がる。そして部屋の前まで来て、「タカシ」とノックをした。
いつもなら喜んで出て来るのに、今日は部屋に引きこもっている。
襖に耳を立ててみると、中からペンを動かす音が聞こえる。きっと絵を描いているのだろう。
「タカシ、まだ昨日のことを怒っているのか?」
「八兵衛は来なくていいです。」
「昨日は悪かったよ。どう描こうとお前の自由だ。出しゃばった俺が悪かった。」
「八兵衛は来なくていいです。」
「なあタカシ、今日は星と光の館に行かないか?久しぶりにプラネタリウムを見よう。」
「・・・・八兵衛は来なくていいです。」
「絵を描くには広い見聞・・・・、色んなものを見るのが必要だ。一緒にプラネタリウムを見よう。」
「・・・・八兵衛は来なくていいです。」
「どうしてそこまで怒る?いつもは一日あれば機嫌を直してくれるじゃないか。そんなに俺の言ったことが気に障ったのか?」
「・・・・来なくていいです。」
「タカシ、入ってもいいか?」
「来なくていいです。」
「・・・・学校で何かあったか?」
「・・・・・・・・・・・。」
「あったんだな?俺にグチグチ言われたくらいじゃ、お前はここまで怒らない。だから学校で何か言われたんだろう?」
「問題ありません。」
「いいや、ある。もしお前を傷つけた奴がいるのなら、俺はソイツを許さない。何があったのか教えてくれ。」
「問題ありません。」
「・・・・・入るぞ。」
俺は襖に手をかけ、ゆっくりと開けた。タカシは「問題ありません」と続けていたが、俺を見て黙り込んだ。
「タカシ・・・・何があったのか聞かせてくれ。」
「・・・・・・・・・・・。」
「絵はちゃんと描いてるんだな・・・。どれ。」
「ん!」
「大丈夫だ、もう偉そうにアレコレ言ったりしない。隠さないで見せてくれ。」
そう言いながら近づくと、タカシは絵を捨ててしまった。
グシャグシャに丸め、ゴミ箱に押し込もうとしている。
「おいおい、せっかく描いたのに・・・・・、」
絵に手を伸ばすと、「これはダメです・・・・」と泣き出してしまった。
「分かった、この絵は見ない。でも・・・・そこまで嫌がる理由はなんだ?どうして泣く?」
「下手糞です。」
「ん?何が?」
「ソーセージと言われました・・・・。」
「ソーセージ?何のことだ?」
「タカシ君の絵はソーセージと言われました。」
「・・・・意味が分からない。タカシ、ちゃんと聞いてやるから、ゆっくり話せ。」
俺はタカシの頭を撫で、椅子に座らせた。そして膝ついて目線を合わせ、そっと手を握った。
「学校で・・・・何か傷つくことがあったんだな?」
「ソーセージと言われました・・・・。」
「それはお前の絵を見て、そう言われたんだな?」
「先生に見せました。ソーセージと言われました・・・。下手糞と言われました。」
「先生がそう言ったんだな?お前の絵は下手糞だと。」
「ソーセージと言われました。下手糞と言われました・・・・。」
「いいや、そんなことはない。お前の絵は立派だよ。・・・・・・それで、どの先生がそんな酷いことを言ったんだ?担任か?それとも図画の先生か?」
そう尋ねると、タカシはゆっくりと首を振った。一瞬だけ俺の目を見つめ、すぐに俯いてしまう。
ズズッと鼻すすり上げ、紅潮した頬に涙が伝っていく。
「タカシ、これは大事なことなんだ。いったどの先生がそんな酷いことを言ったんだ?」
「隣の先生・・・・・・。」
「隣?隣のクラスってことか?」
「四年二組です・・・・・。」
「名前は?」
「樋笠先生です・・・・。」
「じゃあ四年二組の樋笠っていう先生が、お前の絵に酷いことを言ったんだな?」
「ソーセージと言われました・・・・。」
「そこが分からない。その樋笠という先生は、いったい何を見てソーセージと言ったんだ?」
「ドルドル・・・・。」
「ドルドル?」
「ドルドルがソーセージと言われました・・・・。下手糞と言われました・・・・・。」
タカシは傷ついていた・・・・。小さな手が震え、頬がどんどん紅潮していく。
大好きなドルドルをソーセージだと揶揄されたこと、そして一生懸命描いた絵を下手糞と言われたこと。
そのせいでタカシは大きく傷つき、せっかく描いた絵をゴミ箱に捨ててしまった。
俺はそっとその絵を取り上げ、丁寧に広げた。
そこには昨日描いていた、孔雀に乗るドルドルが描かれていた。
背景は相変わらずで、逆さまのドリンクバー、壁についた椅子、そして首の長い店員がいる。
「・・・・タカシ、それはいつ言われたんだ?」
「昨日です・・・・。」
「そうか・・・・・。なら俺は、お前が傷ついているとも知らずに、アレやコレやと余計なことを言っていたわけだ。」
絵を見つめながら、昨日言ったことを思い出す。
その樋笠という教師を、俺は許せない。しかしその教師と似たようなことを、この俺自身がしていたのだと気づかされた。
「どう描こうと本人の自由だ。その道で飯を食ってるならともなく、好きでやってることなら、他人からアレやコレやと文句を付けられる筋合いはないよな。」
俺は丁寧に絵を引き伸ばし、机の上に置いた。
「もうくしゃくしゃになってしまったが、まだ完成じゃないんだろ?」
「・・・・・・・・・・・。」
「捨てちまうほど感情的になるってことは、それだけ真剣に描いていたってことだ。ほら、もう一度ペンを握って、最後まで描けばいい。」
そう言ってタカシの背中を撫でると、じっと絵を睨んでいた。
「ソーセージじゃありません・・・・。」
「ああ、これはソーセージじゃない。立派なゴリラだ。」
「下手糞かもしれません・・・・。」
「そこは認めるんだな・・・・。まあどんなことでも練習だよ。俺だって猫又になって10年、まだまだ失敗だらけだ。だから色々と周りに助けてもらってる。タカシだって、もし辛いことがあったら何でも言えばいい。」
一人で悩みを抱えるのは辛いことである。今俺に出来ることは、タカシの傍にいて支えてやることだ。
だからどんな悩みでも相談してほしかったし、思っていることがあるなら話してほしかった。
しかし・・・・それは無理強いできない。タカシが自分から口を開くまで、待つ必要があるのだ。
「タカシ、この絵が完成したら美術写真家に見てもらおう。」
「?」
「ほら、この前一緒に行っただろ、孔雀焼の写真店に。あの時にいたお姉さんだ。」
「綺麗な写真でした。」
「そうだな。彼女ならきっとお前の絵を真剣に見てくれるはずさ。だからその先生の言ったことは忘れろ。」
「・・・・ん。」
「よし!でも・・・もしまた酷いことを言ってきたら、その時は俺に相談しろよ。・・・・タダじゃおかない。」
思わず感情が高ぶり、目だけが猫に戻ってしまう。タカシはビクリと怯え、俺は「すまん」と謝った。
その日、タカシは頑張って絵を完成させた。夕食を食い、風呂に入った後も、真剣に色鉛筆を動かしていた。
絵は見る見るうちに完成していき、画用紙の中にタカシの世界が刻まれる。
そして夜の九時を回った頃、ようやく絵は完成した。
タカシは大きなあくびをし、布団に入って「問題ないそうです」と呟いた。
「何が問題ないんだ?」
「八兵衛が泊まっても、問題ないそうです。」
「じいさんがとばあさんがそう言ってたのか?」
「・・・・・・・・・。」
「独断か・・・・。悪いがさすがにお前の独断じゃ泊まれない。今日はもう遅いから、また明日会いに来る。」
「問題ないそうです。」
「・・・・いつか泊りがけで遠くへ遊びに行こう。」
「ムクゲも来ますか?」
「・・・・さあな。でももしこの町に戻って来たら誘ってみよう。三人でデカイ動物園にでも行かないかってな。」
「ん。」
「じゃあなタカシ、今日はぐっすり寝ろ。そして次の日曜日にでも、美術写真家に絵を見てもらおう。」
「んん!」
タカシは口元だけ笑わせ、嬉しそうに目を閉じる。そして布団から手を伸ばしてきた。
「分かったよ、寝るまで傍にいてやる。」
俺は小さなその手を握り返し、「おやすみ」とゆすった。
タカシはすぐに眠りに落ち、小さな寝息を立て始めた。
・・・・起こさないようにそっと手を離し、机に置かれた絵を見つめる。
孔雀に乗ったゴリラが、色鮮やかでちぐはぐなファミレスの中を飛んでいる。
「・・・・面白い絵だ。センスのない俺の詩より、遥かに良い出来だ。」
しばらく絵を見つめてから、部屋の電気を消す。居間にいたじいさんとばあさんに頭を下げ、「また明日来ます」と家を後にした。
今日、タカシに会って本当に良かったと思う。
一つはタカシと仲直り出来たこと、もう一つは彼の素晴らしい絵を見れたこと、そして最後に・・・・俺自身の悩みに答えが出たことだ。
「タカシは酷いことを言われても絵を完成させた。ちゃんと自分のやるべきことをやったんだ。ならば俺も・・・・自分に素直になるか。」
チョンマゲの話を聞いてから、ずっと悩んでいた。ヘチョコとモミアゲを放っておくべきか?それとも止めるべきか?
「散々考えたけど、やっぱり放っておくことは出来ない。しかしボスの座を巡って争うのも、また道理だ。ならば俺も、その戦いに参加するしかない。カミカゼの味方となって。」
夜道を歩きながら、遮断機の下りた踏切の前に立つ。
おそらく俺の力ではヘチョコに敵わないだろう。しかしモミアゲの方なら何とか戦えるかもしれない。
もし奴らがカミカゼに戦いを挑んだら、俺はすぐに加勢する。
その為にはカミカゼの傍にいないといけない。
「今日の夜中・・・・カミカゼは集会に来るだろうか?もしやって来たら、ヘチョコたちの企みを伝えないとな。」
踏切のランプが光り、赤く点滅しながら音を鳴らす。
電車が迫り、闇を切り裂いて走って行った。
*
喧嘩が強い・・・・・というのは、オスとして憧れるものだ。
その日の夜中、俺はオスとしてカミカゼに尊敬の念を抱いていた。
夜中の集会にやって来ると、カミカゼが先に来ていた。
そして彼の前には、ボロボロに傷ついた二匹の猫が横たわっていた。
「カミカゼ・・・・・。」
俺は息を飲みながら近づき、哀れに横たわる猫たちを見つめた。
「ヘチョコ、モミアゲ・・・・・。生きてるか?」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・・息はしているな。でも当分立てそうにないな・・・・。」
二匹は辛うじて生きている。しかしこれでもかというくらいに叩きのめされていて、見るのも痛々しいほどだった。
どうしてこんなことになったのか、理解は一瞬で済んだ。
なぜなら俺のすぐ横に、堂々たる風格のボスが座っていたからだ。
「・・・・返り討ちにしたのか?」
そう尋ねると、カミカゼは怖い目で睨んできた。
「八兵衛、お前もコイツらの仲間か?」
「いいや、逆だ。お前に加勢しようと思ってやって来た。でも・・・・その必要はなかったみたいだな。」
「コイツらが俺を狙っていることを知っていたんだな?」
「ああ、昨日その二匹がコソコソ何かを話してたんだよ。それをチョンマゲに相談したら、カミカゼを倒してボスになるつもりなんだろうと。」
「そうか。・・・・で、チョンマゲはなんと?」
「ほっとけって言われたよ。」
「良い答えだ。なのにお前はここへやって来た。どうしてだ?」
「だから加勢する為さ。お前にこの事を伝えようと思って。でもとっくに事は終わってた。だからビックリしてるよ。」
「・・・そうじゃない。」
「ん?」
「どうして俺に加勢しに来たのか聞いてるんだ。」
そう言ってカミカゼは二匹を蹴飛ばした。
「おい!もうそれ以上は・・・・、」
「二度と反抗する気が起きないようにしてやる。」
「もう勝負はついてる。」
「いや、コイツらはきっとまた襲ってくる。特にこっちの若いのはな。」
カミカゼは牙を剥き出し、モミアゲの首に噛みついた。そして足で頭を押さえつけ、そのまま牙を食い込ませていく。
「よせ!死ぬぞ!」
俺は慌てて飛びかかったが、あっさりと振り払われた。モミアゲは今にも死にそうな声で、「助けて・・・・」と呟いた。
「カミカゼ!もうやめてやれ!苦しんでる!」
いくら叫んでもカミカゼは止まらない、そしてモミアゲを持ち上げ、そのまま地面に叩きつけた。
モミアゲの身体がバウンドし、ピクピクと痙攣して動かなくなる。
カミカゼはノシノシと近づいて行き、頭を踏みつけてこう言った。
「おい若僧・・・・・二つ選択肢をやる。好きな方を選べ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「一つ、ここで死ぬ。もう一つ、この町を去る。今すぐどっちか選べ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「聞こえん。はっきり言え。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「そうか。なら傷が癒えたらすぐに消えろ。次に見かけたら殺すぞ。」
そう言って踵を返し、今度はヘチョコの方に向かって行く。
そして同じように頭を踏みつけ、「お前がそそのかしたんだろ?」と睨んだ。
「モミアゲ一匹で俺と戦おうなんて思うわけがない。だからお前があの若僧をそそのかしたんだろう?」
「・・・・・・知るか。」
「そうかい。それはYESと受け取らせてもうらぞ。」
カミカゼはまた牙を剥き出し、ヘチョコに噛みつこうとした。その目は強い殺気がこもっていて、俺の背中がブルリと震えた。
「カミカゼ!」
咄嗟に割って入り、ヘチョコを引き離した。
「もういいだろう。ここまでやれば二度と反抗なんてしないさ。」
「何の保証もない言葉だな。次に襲ってきたら、お前が身代わりにでもなるってのか?」
「いいや、そんなのはゴメンだ。」
「ならどけ。お前ごと殺してもいいんだぞ?」
「無理だな。カミカゼはそんなことをするような奴じゃない。」
「以前ならそうだったかもしれない。でも今は違うぞ。」
そう言った瞬間、本当に飛びかかって来た。俺は力いっぱい抵抗したが、あっさりと組み伏せられてしまう。
そして首に牙を当てられ、グッと刺し込まれそうになった。
《マズイ!これは死ぬ!》
逃げようとしたが、俺の力ではビクともしない。変化の術を使おうにも、尻尾を踏まれているのでそれも無理だった。
《まさか本当に殺そうとするなんて・・・・俺の考えが甘かったか・・・・・。》
カミカゼなら絶対にこんな事をするはずがない。そうタカを括っていた自分の甘さに腹が立つ。
このまま牙を打ち込まれたら死ぬのは確実。しかし逃げる術もないので、もう・・・・どうしようもなかった。
「待て待て。落ち着けお前ら。」
・・・・突然よく知る声が響く。その瞬間に身体が軽くなり、自由に動けるようになった。
「だからほっとけって言っただろ。せっかくの忠告を無視するからこんなことに・・・・。」
そう言って俺の危機を救ったのはチョンマゲだった。いつもの温水洋一似の男に化け、その手にカミカゼを抱いている。
「チョンマゲ・・・・下ろせ。」
「八兵衛に手を出さないか?」
「・・・・邪魔をしないのならな。」
「だそうだ。八兵衛、もうこれ以上関わるな。」
そう言ってカミカゼを下ろし、俺の前に膝をついた。
「危うく死ぬところだったな。スリル満点だったか?」
「笑うところか・・・。それよりヘチョコを助けてやってくれ!このままでは殺される。」
「ああ、そうだな。でも仕方ない。失敗すれば殺されるなんて、それを覚悟の上でやったんだろうから。」
「頼むよ!お前だけが頼りなんだ!アイツを止めてくれ!」
「無理だよ。俺じゃカミカゼに勝てない。下手すりゃこっちまで殺されるからな。」
チョンマゲは俺を抱いたまま、植え込みの近くに腰を下ろした。しかも変化できないように、しっかりと尻尾を掴んでいる。
俺は「止めてくれ」と頼もうとしたが、やめた。いくら頼んだところで、チョンマゲはこのまま見ているだけだろう。
《いいさ。変化が出来ないならもう一つの術がある。》
俺は顔の横に浮かぶ見えない針を動かした。そしてしっかりとカミカゼに狙いを定める。
《ヘチョコは言っていた。読心の術は悟られたら無効化されると。しかし油断している相手なら通用するとも言っていた。》
今のカミカゼは普通じゃない。以前の彼と違って、何かが切れているように感じる。
その心を探る為に針を飛ばしたのだが、アッサリと防がれてしまった。
「俺の心を探ってどうするつもりだ?」
カミカゼがこちらに殺気を向ける。チョンマゲは咄嗟に身構えたが、俺は「下ろしてくれないか?」と頼んだ。
「危ないぞ。殺されるかもしれない。」
「じゃあその時は守ってくれ。」
「自信はないぞ?」
「いいよ。早く下ろしてくれ。」
チョンマゲはためらいがちに俺を下ろし、腕を組んで見下ろした。
カミカゼはまだ俺を睨んでいて、「どうして心を読もうとした?」と威圧してくる。
「どうしてって・・・いつものお前と違う感じがしたからさ。だから心を探ってその原因を掴めば、どうにか止められるんじゃないかと。」
「誰も変わってなんかいない。」
「いいや、さっき自分で言ったじゃないか。以前の俺とは違うって。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「チョンマゲが言っていたぞ。お前は優しい奴だって。だったら勝負のついた相手にトドメを刺すことはないだろう?」
「また襲って来るかもしれない。」
「でもモミアゲにはトドメを刺さなかった。」
「アイツには選択肢をやっただけだ。」
「じゃあヘチョコにも選択肢をくれてやれよ。」
「いや、コイツはそれなりの覚悟をもって挑んできたんだ。きっと死ぬ方を選ぶに決まってる。」
「・・・・じゃあチョンマゲは?コイツだって勝負に負けたのに、こうして生きている。それどころか町に留まることも認めてるじゃないか。」
「ソイツにはもう野心はない。放っておいても問題ないからそうしただけだ。」
「そうか。いくら言っても聞く耳を持たないんだな。ムクゲがいたらこんな事は許さないだろうに・・・・。」
何気なくそう呟くと、カミカゼはポロリとこぼした。
「・・・・アイツがいりゃ・・・・こんなことはしてねえよ。」
それはとても小さな呟きだったが、今までのどんな言葉よりも強い感情がこもっていた。
だから俺は尋ねた。「お前が変わった原因というのは、ムクゲと別れたからか?」・・・と。
カミカゼはすぐには答えなかった。しかしさっきまでの殺気はどこへやら、その目は「そうだ」と認めるように揺れていた。
「カミカゼ・・・・。これは俺の勘だけど、お前がボスになったのはムクゲと関係があるんじゃないのか?」
そう尋ねると、カミカゼは背中を向けた。太い尻尾をブンブンと振り回し、いかにも不機嫌そうにしていた。
「お前がボスになったのが40年前、そしてムクゲと付き合い始めたのも40年前。この二つに何か関係があるのか?」
「・・・・ない。」
「疑わしいな。この数字の一致が偶然とは思えな・・・・・、」
「そうじゃない。俺には何も無いと言ったんだ。」
そう言ってこちらを振り向き、また殺気の宿った目で睨んだ。
「お前の言うとおり、ボスになったことと、ムクゲと付き合い始めたことには関係がある。でもそれは、そんなに勘ぐるようなデカイ問題じゃないんだ。」
「じゃあ聞かせてくれないか?そのデカイ問題じゃないやつとやらを。」
「・・・・カッコをつけたかっただけだ。」
「カッコ・・・・?」
「ムクゲの前で、いい所を見せたかっただけだ。それ以外に理由はない。」
「・・・・それは・・・確かにデカイ問題じゃないな。」
「笑いたきゃ笑え。」
「まさか。実にカミカゼらしい理由だと思うよ。」
そう返すと、苛立たしそうに「チ!」と舌打ちをした。
「俺はな、ムクゲに出会うまで、メスなんざ遊び相手くらいにしか考えてなかった。散々相手を振り回して、飽きたらポイだ。」
「最低だな。」
「自覚はある。でもやめられなかった。しかし・・・・それを本気でやめようと思った瞬間がある。それがムクゲと出会った時だ。アイツは何度俺が言い寄っても落ちなかった。でも俺だって諦めたくなかった。だから何度も気持ちを伝えているうちに、こう言われたんだ。『あなたがボスになって、この町を立派に治めてくれたら付き合ってあげる』ってな。俺がボスになった理由はそれだけだ。そしてアイツに傍にいてもらう為に、常に良いボスでいようと決めた。」
「じゃあムクゲがいなくなったから、もう良いボスを演じるのはやめようと?」
「さっきも言っただろ。俺はただアイツの前でカッコをつけたかっただけだ。でも・・・・もういない。そして二度と俺の元には戻って来ない。だから今の俺には何も無い。ただボスの椅子があるだけで、これだけは失うわけにはいかないんだ。」
それを聞いて、ようやくカミカゼの本心が理解できた。
ここまで徹底的にヘチョコとモミアゲを痛めつけたのは、とにかくボスの椅子を守りたかったから。ただそれだけだった。
ならば確かに今までのカミカゼとは違う。今まではムクゲの為に良いボスを努めていた。
しかし今のカミカゼは、ボスであり続けることだけが目的だった。
この違いは大きく、カミカゼにとっても、この町の猫にとっても重要な問題だった。
「カミカゼ。」
今まで黙っていたチョンマゲが口を開いた。
「今日のところはこの辺で勘弁してやってくれないか?」
「お前も八兵衛と同じことを言うのか。」
「いいや、八兵衛より責任を持って言っている。もしそいつらがまた襲って来たら、俺が身代わりになってやる。」
「信用できない。」
「お前は俺をこの町に留まらせてくれた。負けたら殺されてもおかしくないのに、ちゃんとこの町で生きている。だからこれは恩返しみたいなもんだよ。」
そう答えると、カミカゼはじっと黙り込んだ。太い尻尾を振り回し、チョンマゲを睨んでいる。
「・・・・もういい。白けた。」
そう言って殺気を引っ込め、「その言葉に責任を持てよ」と釘を刺した。
「約束するさ。何かあったら俺が身代わりになる。お前に危害は及ばない。」
「最年長の猫又の言葉・・・・・信用しよう。」
カミカゼは踵を返し、ヘチョコに一瞥をくれてから去って行く。
黒い身体は夜の中へ溶け込み、すぐに姿が見えなくなってしまった。
俺とチョンマゲは顔を見合わせ、ホッとため息をつく。
どうなることかと思ったが、とりあえず誰も殺されなくてよかった。
俺は人間に変化し、傷ついた二匹を抱き上げた。そしてチョンマゲと共に集会所を後にする時、ふと後ろを振り返った。
誰もいなくなった集会所には、月明かりに照らされた血の跡が残っていた。
*
あれから十日が過ぎ、二つのニュースが舞い込んできた。
一つは喜ばしいニュース。しかしもう一つは残念なニュースだ。
まず嬉しいニュースの方から行くと、タカシの絵がある写真雑誌に掲載されたのだ。
美術写真家こと香川和佳子に絵を見せると、喜んで写真を撮り始めた。
和佳子の下した評価は、「私には分からない」だった。
タカシの絵を見て面白いとはしゃぎ、散々悩んで出て来た答えがこれである。
ハッキリ言おう。最高の答えだ!
分からないものを分かったように語る奴より、分からないものを分からないと言ってくれる人間の方が、よっぽど信用出来る。
和佳子は分からないながらもタカシの絵を気に入ってくれて、何枚も写真を撮った。
そしてタカシが絵を抱えた一枚が、写真雑誌のコンテストで一位となった。
別にこれはタカシの絵が評価されたわけではないが、タカシはとても喜んでいた。
そして賞を与えた審査員曰く、「くちゃくちゃになった絵を嬉しそうに持っているのが印象的」らしい。
まったくもって絵の評価とは関係ないが、タカシが喜ぶならそれでいい。
嫌味を言ってきた教師のことだけが心配だったが、あれからは特に何もないようである。
タカシはさらに絵に邁進し、今では風景も描くようになっていた。
自閉症を抱えた少年は、一歩一歩地道に未来の画家へと近づいている。
いつか本当の画家になるその時まで、俺はタカシを支えてやろうと決めた。
次に悪いニュースの方であるが、これはかなり寂しい出来事だ。
ヘチョコとモミアゲ、この二匹が町から去ってしまった。
モミアゲはこの町を去るしかなかった。死か追放かの二択を迫られ、この町からの追放を選んだのから。
アイツとはそこまで親しかったわけじゃないが、やはり仲間が去るのは悲しい。
そしてヘチョコの方であるが、彼もまたこの町を去ってしまった。
カミカゼに傷つけられたあの夜、すぐに夜間診療をやっている動物病院に連れて行った。
ヘチョコもモミアゲも命に別状はなかったが、心に刻まれた傷は大きかった。
モミアゲは傷が治るとすぐに町から出て行ったが、ヘチョコはしばらく悩んでいた。
チョンマゲのおかげで一命を取り留め、とりあえずはその事に感謝していた。
しかし時間が経つにつれて、俺たちとは話さなくなってしまった。
特に夜中の集会所にはまったく顔を見せなかった。カミカゼと鉢合わせする可能性があるから、当たり前といえば当たり前だが・・・。
しかしだんだんと朝と夕方にも顔を見せなくなり、どうしているのだろうかと心配になっていた。
すると昨日、「ヘチョコならもう来ないわよ」とハルが言った。
「他の猫が噂してたの。ヘチョコはこの町を出たって。いったい何があったんだろ?八兵衛は何か知ってる?」
俺は「知らない」とだけ答え、今に至るまで沈んだ気持ちでいた。
「あんな大喧嘩があった後じゃ、町にいづらいのは分かる。でも・・・・やはり寂しいな。」
ムクゲ、ヘチョコ、モミアゲ、この半年の間に、三匹も猫又がいなくなってしまった。
俺が生まれる前からこの町にいた猫たちが、たった半年でも三匹も去っていくなんて・・・・。
「異常といえば異常だが、誰かが去る時なんてそんなものかもしれないな。」
そう言って自分を納得させ、植え込みの中で昼寝を続けた。
今は集会の時間ではない。だから誰もいないし、誰の声も聞こえない。
でも去って行った仲間のことを思うと、みんなの声が聞こえてきそうだった。
誰もいない静寂の中、陽射しが降り注いで植え込みに影を作る。
俺はその影を見つめながら、消えた猫又たちのことを思い続けていた。
先日、大きな書店に行ったら、大人向け絵本というのが売られていました。
まず最初に言っておきますが、いかがわしい意味のモノではないですよ。
ちゃんとした普通の絵本なんです。
子供が読む絵本のコーナーの横に、そういう紙が張って並べられていたんです。
それを見た時、大人向けの絵本とはどういうことだろうか?と考えました。
絵本とは本来子供が読むもので、だからといって大人が読んではいけないというものではありません。
大人になってから絵本を開くと、子供の頃には気づかなかったこと、分からなかったことが理解出来る時があります。
百万回生きた猫という絵本は、名作として人気があるけど、あれって内容は子供には理解しづらいと思います。
でも子供の頃に読んで、そして大人になって読んだ時、ようやくその意味が分かったりするものです。
猫が生まれ変わらなくなったのは、もう生まれ変わっても愛しい猫はいないからです。
そして愛する猫と出会い、子供を立派に育てて送り出し、自分の役目を全うしたからです。
猫は満足のいかない人生を送っていたから生まれ変わっていたわけで、誰にも心を開いてはいませんでした。
自分が一番好きで、自分が一番大事だから、ただその生を終わらせたくなかっただけでしょう。
でも一匹の猫との出会いがそれを変え、もう生まれ変わることはなくなりました。
このストーリー、やっぱり子供には理解しづらいように思います。
けど決して大人向けに描かれた絵本だけじゃないことは確かです。
絵本は子供の頃に読んで、そしてまた大人になって読んで、初めてその意味が理解出来るものです。
グリとグラのように、大人になって読んでから、童心に返って嬉しくなる絵本もあるでしょう。
でもやっぱりその前提は、子供に読ませる為のものです。
なのに最初から「大人向け」というのは、いったいどういうことなのか?
別に大人が絵本を読んだっていいんだし、「大人向け」の言葉はいるんですかね?
そもそもそんな言葉を最初にくっ付けたら、子供は読まないだろうし、お母さんも子供に買ってあげようとはしないんじゃないでしょうか?
絵本の売上を上げる為、大人もターゲットにする為にこういう謳い文句を付けたんでしょうか?
なんだかよく分からないけど、どうにも違和感のある言葉です。
「大人向け絵本」・・・・・やっぱり大人向けの部分はいらないんじゃ・・・・。
何度も言うけど、絵本は大人が読んだっていいんです。
そもそも、絵本は子供向けに作られているから、大人が読んでもハッとすることがあるんです。
子供に届くように作るってことは、余計なモノを削ぎ落し、言いたいことや表現したいことを強調するってことです。
だから絵本の絵って、色が原色に近くて、キャラクターの顔が大きいな場合がほとんどです。
子供はそう細かい所まで頭に入らないから、大事な部分だけ大きく、そして強く見せる必要があるんでしょう。
これは漫画も同じで、少年漫画、少女漫画は、やたらと目が大きいです。
あれだって、子供の感性に合わせて作っているからだと思います。
子供向けの作品は、とにかく無駄をなくして、見せるべきところだけ見せる。
だから大人が読んでも感動したり、何かに気づいたりするのに、最初から大人向けに作るって・・・・・絵本の大事な部分は保てるんでしょうか。
大人が喜ぶことを子供風に描いたって、あまり胸に響かないような気がします。
やっぱり子供向けのものだから、大人が読んでも胸を打たれるんですよ。
大人向け絵本とやら・・・・未だによく分かりません。
絵本なら絵本でいいと思うんですが、素人の私には分からない違いがあるのかもしれません。
あれは私が高校生の頃、テレビであるドキュメンタリーを放送していました。
中国人の女性が、日本に来た労働者や留学生を追いかけた番組があったんです。
放送は全部で二回か三回くらいだったと思います。
もうどんなタイトルかも忘れてしまったけど、今でも鮮明に覚えている番組です。
これを追いかけた中国人の女性は、別にテレビやドキュメントのプロではありません。
自分自身が中国から来た、普通の企業に勤める労働者です。
彼女はテレビ局に掛けあい、ドキュメントを作る有志を募っていました。
幸い何人かのスタッフが集まり、番組が作られることになしました。
追いかけたのは、三人の中国人。
一人は娘の学費の為に出稼ぎに来ているお父さん。
一人は日本の小学校にやって来た子供。
最後は裕福な家を出て、日本の大学を受験する為にやって来た青年です。
みんなすごく真剣に生きていて、心に一本筋が通ったような、そういう強さを感じました。
そして最も私の印象に残っているのは、出稼ぎに来たお父さんです。
この方は一人娘がいて、娘さんは日本に住んでいます。
娘さんには医者になるという夢があって、その為に日本へ留学していました。
しかし大学を出て医者になるにはお金がかかるので、お父さんは日本へ出稼ぎに来ていたんです。
当時の中国は今ほど経済的に成長していなくて、日本で働いた方が儲かったんでしょう。
お父さんは日本へ来て仕事を探しますが、あいにく日本語は話せず、しかも特別な資格を持っているわけでもありません。
だから深夜の清掃業や、その他色々と細々した仕事を続けていました。
一つの仕事が終わったら、別の仕事へ行く。
給料は安いから、幾つも掛け持ちしないと稼げなかったんです。
それでも中国で働くより給料は良いので、身体に鞭打って働いていました。
それなりに歳がいっていたと思うけど、毎日毎日掛け持ちで仕事を続けていました。
全ては娘の為です。
これをテレビで見た時、自分の父親と重ねてしまいました。
私の父はサラリーマンですが、とにかく仕事が忙しく、夜中の一時に帰って来て、朝の六時半には家を出ていました。
だから子供の頃は、父と顔を合わせる機会が少なかったんです。
娘さんの為に働くこのお父さんを見た時、父と重ねてしまって、なんだか胸が詰まりました。
家族の為にそこまで働く姿が、私には言いようのないくらいに真っ直ぐで、カッコよく見えたんです。
中国人のお父さんは、娘さんが日本を出るまで働き続けていました。
そして娘さんは、勉強の甲斐あって見事医者になりました。
そしてもっと自分を磨く為、アメリカに渡って医者として働いています。
お父さんは自分の国へ帰り、奥さんとゆっくり暮らしました。
このドキュメンタリーには、余計な演出は一切ありません。
シンプルなナレーションが入っていたくらいで、BGMなんかもほとんどありませんでした。
でも本物のドキュメンタリーって、これでいいんです。
余計なものは削ぎ落して、追いかける対象だけをしっかりと見せてくれる。
私はあの番組から、お父さんの頑張りと娘を想う心、そして娘さんの医者になりたいという努力と、お父さんに感謝する気持ちを感じました。
臭い演出、お涙ちょうだいのBGMはありません。
ただただその映像から、二人の努力や気持ちが伝わって来るんです。
本当に良い番組で、同じクラスでも見ている同級生は多かったです。
普段絶対にそういう番組は見ないだろうと思っていた子も、なぜか見ていて話が合ったんです。
これを創ったのは素人の中国人女性です。協力してくれたスタッフはプロですが、あくまで撮影に協力するだけで、指示は素人女性が出します。
途中体調を崩して挫折しそうになっていましたが、スタッフの人たちは励ますようなことは言いません。
なぜならこの女性が自分から始めたことなんだから、続けるもやめるも自分次第だからです。
彼女がディレクターなんだから、全ては彼女の決断にかかっている。
女性はしばらく入院していましたが、会社の同僚が見舞いに来てくれて、ものすごく喜んでいました。
そしてまたドキュメンタリーを撮ることを決意し、最後まで作り上げました。
この番組から、一組の中国人親子の生きざまというか、強い信念を感じ取りました。
本当に良い番組は、いつまでも記憶に残っています。
高校生の頃にこういう番組に出会えてよかった。
桜の季節が終わり、木々は青い葉を茂らせている。
これはこれで綺麗なもんだと思い、腕枕をしながら見上げていた。
「なあタカシ。たまには風景も描いてみたらどうだ?」
隣で絵を描くタカシに問いかけると、「風景は描きません」と答えた。
「どうして?お前は背景を描くのは苦手だろ?良い練習になるじゃないか。」
「必要ありません。」
「そんなことだと未来の巨匠になれないぞ。もう四年生になったんだ。苦手なことにも挑戦しないと。」
タカシは不満そうに黙り込み、黙々とペンを走らせる。
未来の画家は実に気難しい性格をしていて、俺の意見など聞いちゃいない。
画用紙には孔雀に乗るゴリラが描かれていて、背景はなぜかファミレスの中。
これはこれで面白い絵だが、やはり背景が雑すぎる。
いくらなんでもドリンクバーが上を向いているのはあり得ないだろう。
「なあタカシ、ドリンクバーは下を向いているんだ。じゃないとジュースがこぼれるだろ?」
「問題ありません。」
「それと椅子の並びもおかしいぞ。さすがに壁には椅子はない。誰も座れないからな。」
「問題ありません。」
「それと入口は七つものない。一つあれば充分だ。」
「問題ありません。」
「他にもおかしな所がある。まず窓の形だが、どうして人の顔をしているんだ?
それに店員の首が長すぎる。これじゃ六ろ首みたいだ。あとフォークとナイフの形だが・・・・・、」
細かく説明していくと、タカシは急に絵を描くのをやめた。そして画材を抱えて玄関に向かって行く。
「タカシ?」
呼んでも返事をせず、そのまま中へ消えようとする。俺は慌てて追いかけ、「待て待て」と手を掴んだ。
「そう不機嫌になるな。」
「・・・・・・・・・。」
「別に嫌味で言ったんじゃない。ただお前ならもっと上手く描けると思ったから・・・・、」
「家の中で描きます。」
「タカシ・・・・。俺はただ・・・・、」
「八兵衛は来なくていいです。」
「機嫌を治してくれ。ちょっと言い過ぎた、悪かったよ。」
「家の中で描きます。八兵衛は来なくていいです。」
タカシは俺の目を見ようとしない。下を向いたまま、むっつりと怒っている。
こうなったらしばらくは機嫌が直らず、ここは潔く退散するしかなかった。
「分かった、今日はもう帰るよ。明日また来る。」
「八兵衛は来なくていいです。」
「じゃあな。夜更かしするなよ。風呂と歯磨きも忘れるな。」
「・・・・・・・・・。」
タカシは家の中へ引っ込んでいく。ピシャリと引き戸が閉められ、擦りガラスの向こうにシルエットが消えていった。
「・・・・ちょっと言い過ぎだったか。まあ一日経てば機嫌も治るだろう。」
俺は踵を返し、庭の外へ出て行く。そして家を見上げて「また明日な」と呟いた。
タカシと出会ってから半年が経った。最初の頃は感情を読むのに苦労したけど、今では手に取るように分かるようになっていた。
もちろん読心の術など使っていない。俺とタカシにそんなものは必要ないし、何よりアイツの心を覗くなんて、それは俺たちの友情に対する裏切りになる。
半年という時間を共にすることで、俺たちは通じ合えるようになった。
多くの言葉を交わさなくても、確かに気持ちの交換が出来るようになった。
しかし・・・そこには一抹の不安もあった。
理解し合うということは、喜びだけでなく痛みや傷も分け合うということだ。
さっきタカシの絵に指摘したことは、明らかに余計なお世話だった。
タカシはただ自分の世界を描いているだけ。それは分かっているのだが、妙な親心が芽生えたせいで、アレやコレやと口を出したくなってしまう。
そしてタカシもまた、度々俺に反発するようになった。以前ならグッと我慢していたことも、今ではハッキリと口に出して表現する。
俺たちは理解を深め、さらに良い友達になった。しかしそれと同時に、ぶつかることも多くなったような気がする。
猫との付き合い方なら熟知しているが、人間の子供となるとそうはいかない。
この先もタカシと良い友達であり続ける為に、俺は努力を続けなければならない。
白紙の画用紙に、二人の未来を描いていくように・・・・・。
「まあ・・・・また明日だ。今度はちゃんと絵を褒めてやろう。」
鼻歌を歌いながら、錆びた踏切を越えて行った。
*
その日の夜中、俺はいつものように夜中の集会に来ていた。
ムクゲがいなくなったのは寂しいが、それでも徐々に慣れてきた。
そのおかげで寂しさは少なくなったが、このまま慣れ過ぎると、いつか忘れてしまうんじゃないかと怖くなる。
そのことをヘチョコに話すと、「考えすぎだよ」と笑われた。
「お前が本当にムクゲのことを想ってるなら、いつまで経っても忘れないはずだ。」
「そいうもんか?」
「そういうもんだ。俺なんかこんなに禿げ禿げだけど、抜けていった体毛のことは忘れない。一本たりともな。」
「なるほど・・・・本当に大事なもんは、いつまで経っても覚えてるってことだな?」
「そういうことだ。でもその分失った時の痛みは辛い。今じゃ朝起きる度に、毛が抜けてないか怯えてるんだ。」
「もう毛なんてないじゃないか。残ってるのはヒゲだけだ。」
「いいや、産毛がある。よく見るんだ。」
じっと目を凝らして見てみると、確かに薄い体毛があった。
「な?ちゃんと生えてるだろ。」
「そうだな。だったら大切にしないと。」
ムクゲのことを相談していたはずなのに、いつの間にか産毛に話がすり替わっている。
中身のない会話はいつものことだが、それでもちょっとだけ話を戻した。
「大事なものは絶対に守らなきゃいけない。でも失う時がやってきたら、どういう心構えをしたらいい?」
「なんだ?何かを失いそうなのか?」
「分からない。今はまだ大丈夫だろうけど・・・・・。でもいつかタカシが大人になったら、俺には見向きもしなくなるんじゃないかと・・・・、」
「なんだよお前、人間のガキに親心が芽生えたのか?」
「どうもそうらしい。最近ぶつかることも増えてな。」
「そりゃ大変だな。それを解決する答えはたった一つだけ、さっさとそのガキから離れることだ。」
「それは出来ない。俺のせいで孤独の呪いがかかってるからな。一人にしたら死んでしまうかもしれないんだ。」
「だったらずっと一緒にいてやることだ。例えどんなに嫌われてもな。」
「嫌われてもか・・・・。辛いな。」
「どうして?」
「いや、どうしてと聞かれても・・・・・、」
「お前がタカシとやらと一緒にいるのは、孤独から守ってやる為だろ?ならお前を必要としない時が来たら、それは孤独から解放されたってことだ。むしろ喜べ。」
「分かってるさ。分かってるが・・・・・・。」
ヘチョコの言うことは正しい。そんなことは俺も分かっている。しかしタカシと一緒にいたいという気持ちは誤魔化せない。
妙な親心を抱えてしまったが為に、この先色々と悩むことになりそうだった。
「なあヘチョコ。その・・・・タカシが孤独から解放される日は来るのかな?」
「ん?」
「いや、いいんだ・・・・。呪いを解く方法を聞きたいわけじゃない。」
「聞いても教えないからな。それもまた・・・・、」
「猫又のルール。それはもう知ってるよ。ただ・・・・・知りたいんだ。この先タカシの呪いが解ける可能性はあるのかと?」
「それはお前次第さ。呪いを解く方法さえ見つけられれば、タカシは救われる。しかしそれと同時に、お前を必要としなくなる時でもあるけどな。」
「またそこに戻って来るのか・・・・・。」
俺はがっくりと項垂れ、タカシとの未来を憂う気持ちに潰されそうだった。親ってのは、いつでもこんなストレスに晒されるものなのか・・・・。
「悩め悩め、若いうちはたくさん悩んで、ストレスを抱えて禿げりゃいいんだ。」
ヘチョコはそう言ってあくびをし、「今日はもう帰るか」と踵を返した。
そしてトコトコと去って行く途中、遠くの方からモミアゲがやって来た。
二匹はお互いの姿に気づき、尻尾を上げて挨拶をする。
「ヘチョコ、捜してたんだ。」
モミアゲはタタッと駆け寄り、「ちょっと聞いてほしいことがある」と言った。
「ああ、この前の嬢のことか?ありゃあちょっと態度が悪かったよなあ。いくら新人でも、もう少し教育してもらわないと・・・・、」
「違うよ、ナナコちゃんのことじゃない。ていうかあの子は良い子だ。」
「ほほう、あんなのが好みか?」
「嬢の好みを話しに来たんじゃない。カミカゼのことで相談があるんだ。」
それを聞いたヘチョコは、急に真顔になった。そして俺の方を振り返り、モミアゲにヒソヒソと耳打ちをした。
二匹は背中を向け、何やら頷き合っている。そしてそのままどこかへ去ろうとした。
「おい、二匹してなんだよ?何をヒソヒソ話してた?」
「いいや、別に。」
モミアゲは俺を睨み、なぜか目を逸らす。そしてヘチョコの方も目を合わせようとはしなかった。
「俺に聞かれたらマズイことでもあるのか?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「答えないつもりか・・・・。いいさ、それなら最近覚えた術で心を覗いてやる。」
俺は見えない針を飛ばし、心の壁に刺そうとした。
「・・・・・・ん?なんだ?針が刺さらない。」
不思議に思って首を捻ると、二匹から笑われた。
「八兵衛よ、お前は未熟だな。」
ヘチョコがケラケラ笑いながら近づいて来る。俺は「何がだ?」と睨み返した。
「いいか、猫又の術は万能じゃないんだ。いつでも力を発揮できると思うなよ。」
「・・・・どういう意味だ?」
「猫又の術は、どれも世の中の常識を超えている。だから悪用されないように、色々と制約が設けられているんだ。」
「知ってるよ。」
「そしてその制約の中には、術が無効化されるってことも含まれてる。」
「無効・・・・?」
「ああ。例えば読心の術の場合だと、相手に術を悟られると無効化される。こちらの心を読まれないように、心の壁を厚くすればいいだけだからな。」
「なんだそりゃ?防ぎ方があるってことか?」
「そういうことだ。俺たち猫又は、お互いが読心の術を使えると知っている。だからよほど油断している時じゃないと、その術は効かないってことだ。残念だったな。」
「・・・・・また俺の知らない事実が・・・・。」
「だから未熟だと言ったんだ。お前がもうちょっとベテランの猫又だったら、俺たちの仲間に加わってもらうんだがなあ・・・・。」
そう言ってヘチョコは笑い、後ろのモミアゲを振り返った。
「さて、どこか別の場所へ行って相談しよう。」
「そうだな。じゃあな、八兵衛。」
二匹は俺を残して去って行く。なんだか強い疎外感を感じ、それと同時に猜疑心が湧いてきた。
「あの二匹・・・・何かを企んでるのか?」
猫又同士が手を組み、何やら企みを練っている。これは・・・・・・ちょっと放っとけない。
もし良からぬことを企んでいるのなら、事を起こす前に阻止しないといけない。
「こういう時に一番頼りになるのがムクゲだった。でももうアイツはいない。となると・・・・・相談できるのはカミカゼかチョンマゲだが・・・・。」
そう呟いて、先ほどの二匹の会話を思い出した。
「カミカゼがどうとか言っていたな。ということはカミカゼもあの二匹の仲間という可能性が・・・・・・。」
しばらく悩み、目を閉じて尻尾を振る。
「・・・・チョンマゲだな。ここは奴に相談するしかない。最年長の猫又だし、良い意見を聞かせてくれるだろう。」
俺はうんと背伸びをし、二匹が去った闇を睨みつける。
「ヘチョコはともかく、モミアゲはちょっと野心的なところがあるからな。余計な事を起こさなきゃいいが・・・。」
米粒ほどの不安が胸の中に落ち、べっとりとへばりついて離れない。
無視してもいいほどの小さな不安だが、やはり・・・・・気になる。
誰もいなくなった集会所を見渡し、良くない事が起こらないように願った。
*
次の日の朝、俺は近所の小川に来ていた。
草が高々と茂り、猫の大きさならすっぽり隠れてしまうほどだ。
その草むらを抜け、小川の傍に立つ。
そこではゴンベエとハル、そしてチョンマゲが川を睨んでいた。
三匹とも真剣な顔で目を寄せていて、チョンマゲが「今だ!」と叫んだ。
ゴンベエは「ほ!」と川に飛び込み、手足をもがいて溺れていた。
「なんで飛び込むのよ!手を入れるだけでいいのに!」
ハルが慌てて助けに行き、ゴンベエの首根っこを咥えて引き上げる。
「・・・・死ぬかと思った。」
そう言って本当に死にそうな顔で震えていて、俺に気づいて「ほほ!」と叫んだ。
「八兵衛じゃないか!なんでこんな所に?」
「他の猫から聞いたんだよ。」
「そうか・・・・。お前も俺の為に駆けつけて・・・・、」
「違う。俺はチョンマゲに会いに来たんだ。お前の魚獲りを応援しに来たわけじゃない。」
「なんだ、冷たい奴め。」
ゴンベエはブルブルと水を飛ばし、再び川を睨んだ。
「ゴンベエ、もう落ちちゃダメよ。」
「いいや、俺は魚獲りを極めるんだ。そうしたらいつでもハルに魚を食べさせてやれるだろ?」
「ゴンベエ・・・・・。その身の丈に合わない頑張りが素敵・・・・。」
二匹はじっと川を見つめ、獲れそうな魚を探している。俺は「まあ頑張れ」とエールを送り、チョンマゲを振り返った。
「お前がゴンベエを手伝うとはな。あまり他の猫に興味のない奴だと思っていたが?」
そう尋ねると、「そりゃ誤解だよ」と笑った。
「自分で言うのもなんだけど、俺は元々面倒見のいい性格なんだ。」
「初耳だな。」
「そう言われるのも無理はないよ。ここ10年くらい、俺はかなり冷たい猫だったかもしれん。でも最近昔の自分を取り戻したんだよ。お前のおかげさ。」
「俺の?」
「ああ、だって和佳子さんの誤解を解いてくれただろ?」
「あれは誤解じゃなくて、チョンマゲが誤解だと思い込んでいただけだ。」
「そうだな・・・。でも八兵衛が手を貸してくれなかったら、きっと今でも悩んでいたと思う。俺は誰からも恨まれていない。そう思うと心が軽くなって、昔の自分が戻って来たんだ。」
チョンマゲは嬉しそうに言い、魚を獲る二匹に目を向けた。
「もし・・・・もしまた誰かから恨みを買ったら?俺が手を貸したせいで、また誤解されたら?そう思うと、困っている者がいても手を出せなかった・・・・。」
「ドルドルは助けたじゃないか?」
「あれは・・・・そうだな。ちょっとだけ昔の自分が疼いたのかもしれない。ほんの気紛れさ。」
そう言って肩を竦め、「それで?」と問いかけてきた。
「さっき俺に会いに来たって言ってたけど、何か用か?」
「ああ。実はヘチョコとモミアゲのことなんだが・・・・・、」
俺は昨夜の集会のことを話した。二匹がコソコソと何かを企んでいたこと。どうも良からぬ雰囲気を感じたこと。
そのことを話すと、チョンマゲは「ほっとけ」と言った。
「どうして?もし悪いことを企んでるなら・・・・、」
「その心配はない。」
「楽観的だな。何かあってからじゃ遅いぞ?」
「大丈夫だよ。猫又の術を使って悪さを働いたら、それこそルールを犯すことになる。まあ死ぬ覚悟があるなら別だけど、アイツらにそんな度胸はない。」
「ルール・・・またルールか。なあ、いったいそのルールは誰が作ってるんだ?」
「まだ知らなくていい。」
「案の定の答えだな。まあいい、アイツらは放っておいても大丈夫なんだな?」
「ああ、悪さは出来ない。でもその代わり・・・・ボスが交代するかもな。」
「ボス?何のボスだ?」
「この辺り一帯を仕切ってる猫又のボスだ。」
「へえ、そんな奴がいるのか。いったい誰だ?」
「カミカゼ。」
「アイツが・・・・・?」
顔をしかめて驚いていると、「お前・・・・無知が過ぎるだろ・・・」と呆れられた。
「カミカゼはこの町からカシミヤ町までを仕切ってるボスなんだ。アイツは喧嘩も強いし、見た目とは裏腹に意外と優しいところがある。だから20年ほど前からボスをやってるんだ。」
「へええ・・・・そうなのか。でも納得だよ、カミカゼならボスの器を持ってる。多少理不尽はところはあるけど。」
「猫なんて元々そんな性格だよ。俺がボスの座を譲って40年、アイツは上手くやってる。」
「ん?聞き間違えかな・・・・?なんか理解しがたい言葉が聞こえたけど・・・・。」
「ああ、いいよ。そういう反応をされるのは慣れっこだ。でも俺は40年前までこの町を仕切ってたんだ。でもカミカゼにその座を追われた。本当なら行き場を失くして彷徨う予定だったけど、カミカゼは俺がこの町に留まることを許してくれたんだ。アイツは・・・・・優しい奴だよ。」
そう言って川に目を向け、「今だ!」と叫んだ。ゴンベエはまた川に飛び込み、そのまま流されていく。
それをハルが助け、「もう・・・・」と苦笑いを見せていた。
「カミカゼがボスになったのはいい事だ。ゴンベエみたいなドジな猫でも、ちゃんと仲間として認めてくれる。
それに身内が襲われていたら助けてやるし、弱い者イジメなんて絶対にしない。
アイツがボスの座についてから、どれだけこの町の猫たちが平和に暮らしてることか・・・・。」
「お前がボスの時代はそうじゃなかったのか?」
そう尋ねると、「さっきも説明しただろ」と怒られた。
「俺は和佳子さんのことがあったから、なるべく他の奴らに関わらないようにしていたんだ。」
「じゃあ今ほど平和じゃなかったと?」
「・・・・そうだな。外敵には目を光らせていたけど、身内のことはほったらかしだった。だから猫同士の喧嘩は絶えなかったよ。まあそれを見かねたカミカゼが、俺を倒してボスになったんだけどな。」
「へええ、アイツは昔っから喧嘩が強かったんだな。」
「まだ猫又になって20年ちょっとだったよ。なのに200年以上もキャリアのある俺が負けた。しかもその後は上手く町を治めてる。アイツがどれだけ凄い奴か分かるだろ?」
「ああ、アイツのことを見直したよ。正直ムクゲのことがあってから、ちょっと酷い奴だなと思っていたんだ。」
「アイツは不器用なだけなんだ。心の底では、今でもムクゲのことを想ってるはずさ。」
「そうか・・・・。いや、いい話が聞けてよかったよ。不安も解消されたし、これでゆっくり昼寝が出来るってもんだ。」
そう言って草むらに寝転がると、チョンマゲは難しい顔で空を見上げた。
「どうした?そんな顔して?」
「いや・・・・もしかしたらとも思ってな。」
「何が?」
「カミカゼだよ。もしかしたら・・・・アイツはボスの座を追われるかもしれない。」
急に不吉なことを言うので、昼寝どころではなくなった。
「どうして?」と尋ねようとした時、またゴンベエが川に落っこちた。
「おいバカップル!ちょっと静かにしてくれ。」
「まあ酷い!親友が川に落ちたのよ?」
「これで三度目だ。学習しない方が悪い。」
ハルは「酷い友達」と怒り、ゴンベエを助けに行く。
俺はチョンマゲを睨み、「ボスの座を追われるってどういうことだ?」と尋ねた。
「ヘチョコとモミアゲだよ。アイツらは何かを企んでいたんだろ?」
「ああ。・・・・・もしかして、アイツらはカミカゼからボスの座を奪うつもりなのか?」
「だろうな。ヘチョコは顔には出さないが、あまりカミカゼのことは良く思っていない。それにモミアゲは野心的なところがある。だから結託してカミカゼを倒すつもりなんだろう。」
「そりゃ大変じゃないか。すぐにやめさせないと!」
「ほっとけ。」
「なんで!?無駄な争いが起きるかもしれないんだぞ?」
「無駄じゃない。ボスは常にその椅子を狙われるもんだ。寝首を掻く奴が出て来てもおかしくない。」
「そんな・・・・じゃあお前は奴らを止めないのか?」
「ああ。」
「冷たいな・・・。ムクゲがいたらきっと手を貸してくれただろうに・・・・。」
そう皮肉を飛ばすと、「俺がボスのままでよかったか?」と呟いた。
「今この町の猫が平和に暮らせるのは、カミカゼが俺を倒してボスになったからだ。」
「カミカゼはいい奴だ。でもヘチョコとモミアゲは・・・・・、」
「そんなことを今言ったって意味がない。誰だって頂点に立つ時は手段を選ばないもんだ。それは人間も同じで、長いキャリアの中でたくさんそういう奴を見てきた。野心のある奴は、アレやコレやと手を使って上の者を引きずり下ろす。そしていざ頂点に立つと、意外と良い政治をする殿様だっていたんだ。だから猫だって同じかもしれないだろ?」
「ならヘチョコとモミアゲなら良いボスになれると?」
「さあな。そればっかりはなってみないと分からない。けどボスの座を巡って喧嘩をするのは、別に特別な話じゃないんだよ。
だからアイツらのことはほっとけ。どうせ返り討ちに遭うのが落ちだろうしな。」
そう言ってゴンベエの元に行き、「お前は下手クソ過ぎる。よく見とけ」と狩りの手ほどきをしていた。
俺は魚を獲る三匹を見つめながら、カミカゼのことを思っていた。
《カミカゼ、お前はボスの座を狙われているぞ。そのことに気づいているのか?俺はお前に味方して一緒に戦った方がいいか?それとも・・・・チョンマゲの意見に従って、大人しくしていた方がいいのか?・・・・・こうやって困った時、やっぱりムクゲが必要だよな。アイツならきっと良い意見をくれるだろうに。》
チョンマゲの意見は、実に筋が通っていたと思う。ボスの座を巡って争うのは、きっとどこの世界でも一緒だろう。
それはその通りだと分かっているのだが、どうしてもカミカゼにはボスでいたもらいたかった。
「お前が負けるところは見たくないな・・・・・。」
どうやら俺は、カミカゼを応援しているらしい。もし・・・・もしヘチョコとモミアゲが奴に襲いかかったら、俺は黙って見てはいないだろう。
ボスの座を巡る戦いが特別なものじゃないとしたら、気に入ったボスに手を貸すのも特別なことじゃないはずだ。
流れる小川を見つめながら、これからどうするべきかを考える。
川面が滑るように流れていき、ゴンベエが溺れて波紋を立たせていた。
私の住んでいる所は田舎なもので、買い物をする時はよく隣街まで行きます。
ほとんどの場合は車で行くんですが、たまに地元のローカル線を使います。
これは電車じゃなくて、燃料を使って走る列車です。
だからあまりスピードは出ないし、音もうるさいです。
隣街まで出るのにも30近くかかり、しかも30分に一本しか来ません。
しかも山のトンネルを抜けたり、鹿や猪が出て来て止まったりすることもあります。
大阪にいる友人からすると信じられないようですが、でもそれがローカル線の面白いところなんです。
はっきり言って、移動の手段としては優れたものではありません。
車をメインに使う田舎では、ローカル線と言うのはその重要性は大きくない場合もあるのです。
だから廃線になるものもあるでしょう。
けどたま〜に乗ると、なかなか良い物だなあと思う時があります。
目的地まで急がない場合、ローカル線でゆっくりと運ばれるのは、心に余裕が出来て気持ちいいものです。
外には田んぼや山、まばらな民家が並び、それらが窓の外をゆっくりと流れていきます。
古い電車なものだから、線路を走る振動は椅子まで伝わってくるし、音もガタンゴトンと電車特有のものが響きます。
椅子に座り、窓枠に肘をつき、ただぼんやりと外の景色を眺める。
そういったゆっくりとした時間が、ローカル線の中には流れているんです。
朝のラッシュ帯を除けば、乗客はまばらです。
スーツ姿の会社員、制服を着た学生、腰の曲がったおばあちゃんや、ポチポチとゲーム機をいじる子供。
乗客は少なくても、色んな人が乗っています。
ぼんやりと景色を眺めながら、そういう人たちがどこへ向かおうとしているのか想像するのは楽しいですよ。
このゆっくりした電車に乗って、いったい何をしに行くんだろう?
スーツ姿の人や学生は、目的がハッキリしています。通勤や通学の為でしょう。
でも腰の曲がったおばあちゃんや、ゲーム機をいじる子供はどこへ行くんだろうと想像します。
孫に会いに行くのか?離れた所の塾に行くのか?
理由は様々でしょうけど、行き先は別々なのに、同じ電車に乗っているというのが、なんとも不思議に感じられることがあります。
毎日乗るにはちょっと辛いけど、たまになら良い時間を過ごせるなあと思います。
あえてローカル線、あえてゆっくりした乗り物を選ぶ。
ずっと地元の人たちを運ぶローカル線は、やっぱりなくてはならない存在です。
何もかもが高速で便利なモノになったら、それはそれで寂しいですからね。
地元のローカル線に貢献する為にも、ちょっとずつ乗っていこうかと思います。
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