観音菩薩の立つ本堂に、線香の煙が漂っている。
その匂いは心を落ち着かせ、それと同時に頭を冴させた。
野々村有希は外に目をやり、美しい庭を眺めた。
桜は花弁を落とし、代わりに若い緑が彩っている。
地面には萎れた花弁が散らばり、朽ちていく美しさを表現していた。
有希は観音像に向き直り、読経を再開する。
違法な薬が混ざった線香の煙が、有希の頭の一部を刺激して、極楽のような快楽へ誘った。
しばらくして読経を終えると、すぐに線香の火を消した。
そして朋広の部屋に向かい、虚ろな目で服を脱ぎ始めた。
有希は裸になる。そして背中を向けて、ゆっくりと座った。
「前より大きくなってる・・・・。このままじゃ私、悪魔になっちゃう・・・。」
有希は辛そうに、そして悲しそうに呟く。
朋広は数珠を握りしめ、姉の背中に触れた。
そこには観音菩薩の刺青が彫ってあり、凛とした表情で手を広げている。
しかしこの刺青には、一カ所だけ不気味な部分があった。
本来は閉じているはずの目が、誰かに引っ張られるように、瞼を開けようとしているのだ。
そして瞼の奥には、赤く染まった瞳があった。
激しい怒りに燃えるようなその瞳は、見ているだけで不安になるものだった。
朋広はその瞳に触れ、黒光りする数珠を掲げた。
「日に日に開いていくな。これ・・・完全に開いたら・・・・・、」
そう言いかけて、朋広は口を噤む。
「風間さん・・・・まだ生きてるんだよ。幽霊になってさ。お前の中に宿ってる以上、簡単には追い払えない。」
「分かってるわ。だけどどうにかしなきゃいけないじゃない。」
有希はそう言って「いいからいつもと同じようにして」と頼んだ。
朋広は頷き、数珠を握って手を合わせる。そしてじゃりじゃりと数珠を鳴らした。
目を閉じ、瞑想するように身体から力を抜く。
するとその途端に、わらわらと幽霊が集まってきた。
まるで朋広に呼ばれたかのように、彼の周りに群がる。
朋広は目を開け、有希の背中の観音菩薩に触れる。
そして開きかけている瞼に、そっと指を置いた。その指をゆっくりと下に動かすと、ほんの一瞬だけ瞼が閉じる。
不気味な瞳はなりを潜め、菩薩の顔に穏やかさが戻る。
その瞬間、朋広の周りに群がった幽霊が、観音菩薩の方を振り返った。
そして我先にと有希に飛びかかり、救いを求めるかのように、背中の観音菩薩にすがりついた。
朋広はまた手をすり合わせ、数珠の音を鳴らす。
すると群がった幽霊たちは、そのまま観音菩薩の中に吸い込まれていった。
・・・・・この先には、菩薩の救いが待っている・・・・・。
幽霊たちはそう信じて、次から次へと有希に群がる。
そして全ての幽霊が吸い込まれると、有希はビクンと反り返った。
朋広はすかさず有希の背中に触れ、観音菩薩の瞼を開いた。
それと同時に、有希に吸い込まれた幽霊たちの絶叫が響く。
なぜなら救いの菩薩だと信じて飛び込んだその先には、悪魔が待っていたからだ。
風間慎平という、二人の師匠だった悪魔が。
幽霊と悪魔。二つの存在が有希の中で暴れ始め、菩薩の瞼は重くなる。
そして眠るように閉じていった。
「・・・・終わったぞ。」
朋広が言うと、有希はぐったりと倒れ込んだ。
身体じゅうに汗を掻き、三日三晩徹夜でもしたかのように、疲れた顔をしている。
朋広は有希を抱きとめ、布団に寝かせた。
そして手を握りながら、「こんな事を続けてると、いつか死ぬな」と心配した。
「風間さんは、何としてもお前を殺すつもりらしい。」
そう話しかけると、「違うわ・・・・」と笑った。
「殺すんじゃなくて、悪魔にするつもりなのよ。私たちが裏切ったから、復讐するつもりなんだわ・・・。」
「違う。裏切ったのは俺だけだ。いや・・・・そもそも俺は、最初からアイツの事は信用してなかったけど。」
朋広は口元を歪め、握った有希の手を見つめた。
「風間さんは・・・最後の瞬間抵抗しなかった。殺そうと思えば俺を殺せたのに、そうはしなかった。あの人はすんなり俺の手にかかって死んだ。しかも・・・・笑ってやがったんだ・・・・。」
握る手に力を込め、有希の手の感触を確かめる。そうすることで、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いたが、それでも怒りは治まらなかった。
「あの人は、何もかも俺たちに丸投げしやがった。散々自分勝手に人を殺し、俺やお前を利用した。全ては自分の為だ。自分の思想が正しいのだと、満足する為だけの、クソみたいオナニーだ。」
声に熱が籠り、眉間に皺が寄る。有希は朋広の手を握り返し、黙って聞いていた。
「そうやって呆れるほど自分勝手なことをしてきたのに、最後の最後で迷いやがった。あいつは死ぬ間際になって、ようやく自分のやってきたことが間違いだって気づいたんだ。だから笑った。死ねば全てが終わる。自分のやって来た悪行から解放されて、楽になれると。何の責任も取らず、何の尻拭いもせず、俺たちに全てを押しつけて。お前の背中に宿ってるのは、あの人の魂じゃないよ。あの人が楽に逝く為に、わざと自分から切り離した、悪魔の心だ。アイツは自分の醜い心までも、俺たちに押しつけた。そうだろ?」
朋広は姉を見つめ、その胸にそっと顔を近づける。
乳房の間に顔を埋め、そっと胸に触れて、その柔らかさを確かめた。
「有希、俺を抱きしめてくれ。俺だって弱い人間だ。でもお前を支える為に、こうして無理をしてきた。だから俺にも、少しだけ救いを与えてくれよ・・・。」
姉の胸に顔を埋めながら、朋広も彼女の救済を求めた。
有希はそっと弟を抱きしめ、子供をあやすように、ゆっくりと頭を撫でた。
しかし身体の中で暴れる、幽霊と悪魔に力を奪われ、その手を止めた。
そして目を閉じ、「夕方になったら起こして・・・・・研究を始めるの・・・・」と眠った。
朋広はしばらく抱きついていたが、顔を上げて有希の寝顔を見た。
「・・・・唯一の救いは、あの男にお前の身体が汚されていない事だけだよ・・・・。もしお前に手を出していたら、俺はもっと早くアイツを殺していた。」
そう言って有希の唇に触れ、そのまま乳房までなぞる。
姉弟でなければ、そしてお互いの身体に”ある障害”が無ければ、今すぐにでも抱きたかった・・・・。
しかしどんなに願っても、それは無理なことであった。二人はあらゆる意味で、セックスをすることを許されないのだから。
しかし姉弟であるからこそ、離れることなく共に歩んで来た。
だがそれも長くはない・・・・・。近いうちに、今までのように共に歩くことは出来ないだろうと感じていた。
喜恵門という不思議な人間の血を引き、それを以て悪行を重ねてきた風間の行為は、誰にも言い訳できない。
観音菩薩の名前を借りて、気に食わない人間を殺してきた。誰の為でもない、世の中の為でもない・・・・・ただ自己満足の為に。
風間という男の歪んだ思想は、色濃く有希に刷り込まれていた。
もはや純粋な心は歪められ、このまま放っておけば、愛する姉は凶悪な殺人鬼に成り下がる。
朋広はもう一度唇に触れ、その寝息を感じた。
そして部屋を後にして、本堂から離れた所にある、白壁の蔵に向かった。
蔵の傍には二人の僧侶が立っていて、朋広に小さく頭を下げた。
その眼光は鋭く、僧服の上からでも鍛えられた身体をしているのが分かる。
しかし今の広明は、彼らよりも強い。
それは肉体的にも、精神的にも、そして組織内の立場という意味でもだった。
かつて自分を組み伏せた僧侶たちを、今は弟子として従えている。
朋広は僧侶たちに一瞥をくれ、心の中でこう思った。
《・・・この勘違いした連中も、近いうちに居場所を失い、世を彷徨うことになる・・・・。そしてはぐれ者同士で集まり、また徒党を組んで、風間と似たようなことを繰り返すだろうな・・・。》
そう思うと、この僧侶たちをどう処分するか、しっかりと考える必要があった。
僧侶たちはそんな朋広の考えなど知るよしもなく、強者に従う事に喜びを感じていた。
力を求める者ほど、自分より強い者に支配されたがっている。
やたらと肉体や拳を鍛える僧侶の心理を、朋広はよく知っていたし、それを上手く利用している。時が来るまでは、良いように従わせておくつもりだった。
僧侶たちは蔵の鍵を開け、重い木造の扉を引いた。
朋広は足を踏み入れ、埃を被った美術品や、仏像を睨みつけた。
そして床に膝をつき、小さな金属の出っ張りを引いた。
すると床板の一部が外れて、地下へ続く階段が現れた。
中は蛍光灯の明るい光が灯っていて、階段の先まで照らしている。
朋広は手摺りに触れながら、その階段を下りていった。
すると長い廊下が現れ、その奥には千手観音像が立っていた。
かなり大きな像で、人の倍くらいの高さがある。身体から無数の手が生えていて、悩める者たちを救済するように、四方八方に伸びていた。
この千手観音像もまた、本堂の観音菩薩像と同様に、喜恵門の力を宿した仏像だった。
しかも本来なら人を救うはずのその手には、いくつもの頭蓋骨がぶら下がっていた。
朋広はその頭蓋骨を睨み、小さく舌打ちをした。
なぜならその頭蓋骨は、風間が今までに殺してきた、喜恵門の力を受け継ぐ者たちの頭だったからだ。
異なる宗派、異なる宗教と対立していた風間は、何度もそういう者たちを暗殺してきた。
しかし喜恵門の力を受け継ぐ人間は、殺しただけでは終わらないこともある。
風間の怨念が有希に宿っているように、死後も消えない憎悪を抱え、生きた人間を襲うことがある。
それを防ぐ為に、殺した者の頭蓋骨を千手観音の手に預けていた。
そしてこの千手観音に、僧侶たちが朝晩欠かさず経を捧げる。
そうすることで、仏像に宿った喜恵門の力が、死者の力を打ち消していた。
朋広は悔しそうな顔で、千手観音像を睨む。
この千手観音の手には、本当なら風間の頭蓋骨も無いといけない。
風間を殺したあの日、朋広はその頭を切り落として、千手観音の手に預けようと思った。
死した風間が、悪霊化することを恐れたからだ。
しかしそうはいかなかった。
なぜなら途中で邪魔が入ったからだ。
あの日、風間が勉の中から追い払った、悪魔の心。そいつが有希に襲いかかろうとした。
朋広は咄嗟に有希を突き飛ばし、悪魔の勉の前に立った。
そして風間の握っていた短刀を手に取り、悪魔の勉の目を突き刺した。
勉は絶叫し、慌てて逃げようとした。
しかし後を追いかけ、もう一つの目も潰した。
勉は光を失い、発狂したように拳を振り回す。朋広は素早く離れ、有希を抱えて退散した。
そしてしばらくしてから戻ってみると、もう勉はいなかった。
それとなぜか風間の死体も消えていて、近くには銃の模型を構えた老人、そして悪魔の心を取り除かれた、人間の勉が倒れているだけだった。
老人は手を合わせ、戦争がどうたらと呟いているだけで、話しかけても振り向こうとしない。
朋広は倒れた勉をおぶり、有希と共にその場を後にした。
あの時、風間の頭さえ持ち帰っていれば、有希にとり憑くこともなかった。
今さら悔やんでも仕方ないが、それでも後悔は消えなかった。
朋広は千手観音像を睨みながら、廊下の奥へと足を進める。
左右の壁には、それぞれ五つずつ扉があって、右側の三番目の扉の前で足を止めた。
中からは女の喘ぎ声、そして数人の男の罵る声が聞こえる。
朋広は一つ深呼吸をしてから、扉の取っ手を引いた。
その途端、女の喘ぎ声が耳に響き、見たくないものが目に飛び込んで来た。
「・・・・・・・・・。」
無言のまま中に入る。そして壁にもたれかかり、腕を組んで険しい顔をした。
扉の中には、一人の若い女。そして四人の屈強な僧兵がいた。
壁には何本もロウソクが灯っていて、暖色の光を照らしている。
部屋の中央にはテーブルが一つ置かれ、床には女性物の服と下着が散乱していた。
それ以外に物はなく、天井に不動明王の顔が描かれているだけだった。
そんな部屋の中で、女はテーブルの上に寝かされ、男たちから凌辱を受けていた。
屈強な僧兵に押さえつけられ、一糸纏わぬ姿で、ただ辱しめを受けている。
乳房や臀部を撫で回され、髪を掴んで罵られ、口、膣、肛門をペニスで埋められ、どろりとした白い液が、顔や陰部の周りに垂れている。
部屋の中には嫌な臭いがむせ返り、朋広は思わず顔をしかめた。
すると朋広のその表情に、僧兵たちは怯え、動きを止めた。
朋広は何も言わず、手を向けて続けろと合図した。
凌辱が再会され、女は声にならない声で悲鳴を上げる。
涙が頬を伝っていき、いっそのこと殺してくれと言うような目で、朋広を睨んだ。
朋広は彼女の目を睨み返し、何も言わずに凌辱を眺める。
僧兵たちは喜ぶでもなく、興奮するでもなく、ルーチンワークでもこなすような感覚で、ひたすら腰を振っている。
無表情で女を見つめ、凌辱の果てに死のうと、どうでもいいというような目つきだった。
女はそんな僧兵に弄ばれ、やがてビクンと背中をのけ反らした。
朋広は手を上げ、僧兵たちにやめるように合図する。
四人の僧兵はピタリと動きを止め、女から離れていった。
女は肩で息をしながら、短くえづく。口から白い液体が垂れ、虚ろな目で朋広を睨んだ。
「・・・・・・・・・。」
女は口を動かすが、何を言っているのか分からない。
朋広は顔を近づけ、その声を聞き取ろうとした。
その瞬間、女は口を開けて噛みつこうとした。朋広はそれを予想していたかのように、サッと顔を離した。
「まだまだ元気だな。昨日からずっと犯され続けてるってのに。」
そう言って女を見つめ、「勉君と鈴音ちゃんの居場所、そろそろ教えてくれないか?」と尋ねた。
「あんたらが匿ってることは分かってる。家にもあの神社にもいないってことは、別の場所に逃がしたんだろう?」
「・・・・・・・・・・。」
「意地張って黙ってると、あんたの頭も千手観音の手にぶら下がることになる。いい加減喋ってくれよ、星野亜希子さん。」
朋広は再び顔を近づけ、涙と精液で汚れた亜希子の顔を睨んだ。
「俺だって、本当はこんなことはしたくない。でも有希を助ける為だから、仕方なしにやってるんだ。これ以上あんたを苦しめたくないんだよ。」
そう言って亜希子の頭を撫で、「もう意地を張るのはよそうよ」と諭した。
「別にさ、俺は喜恵門の力がどうとか、宗派や宗教の違いがどうとか、そんな事はどうでもいいんだよ。あんたが憎くてやってるわけじゃないし、神道派が嫌いだから責めてるわけでもない。もっといえば、そんな下らないもんは、全部消えちまえばいいと思ってる。」
朋広は亜希子の頭を撫でながら、テーブルの端に腰かけた。
汚れた身体は異臭を放ち、精液に混じって便や尿の臭いが鼻をついて、眉間に皺を寄せた。
「俺にとって大切なのは、有希だけなんだ。でもって、アイツは風間のせいで苦しんでる。死んだ後でも、まだ有希を苦しめようとしているんだ。それをどうにかするには、勉君と鈴音ちゃんの力が必要なんだよ。だから事が終われば、全ての責任は俺が取る。焼くなり煮るなり好きにしてくれて構わない。有希が・・・・また純粋な心を取り戻すなら、俺はどうなったって構わない。」
朋広の声は沈んでいて、それと同時にひどく疲れていた。
目頭を押さえ、「もう終わりにしないと・・・・、」と、誰にでもなく呟いた。
「亜希子さん、昨日神社であんたを捕えた時、あんたの弟は目の色変えて襲いかかってきたよな?彼の目を見た時、俺はピンと来るもんがあった。ああ、こいつも俺と同じで、自分の姉貴にゾッコンなんだなって。自分が生きているのは、愛する姉の為だけで、その姉を守る為なら、自分の命だって惜しくはないんだ。だから彼を殺す時、俺に躊躇いはなかったよ。彼は姉を守ろうとして死に、それはある意味じゃすごく幸せなことだったのかもしれない。そう思うと、ちょっと羨ましくもある。」
そう言って、観音像にぶら下がった頭蓋骨を思い出した。
「彼は今、千手観音の手の中にいるよ。悪霊化されて、俺の邪魔をされちゃ困るからね。でも大丈夫、あんたが勉君と鈴音ちゃんの居場所を教えてくれれば、ちゃんと骨は返してあげるから。身体は燃やしてしまったけど、頭は綺麗なままなんだ。」
疲れた声のまま、朋広は淡々と語る。すると指に激痛を感じて、思わず顔をしかめた。
見ると亜希子が噛みついていて、指を食い千切る勢いで歯を立てていた。
僧兵たちが咄嗟に動いたが、朋広は手を上げて止めた。
「俺の指が欲しけりゃくれてやるよ。一本でも二本でも、なんなら全部でもいい。」
そう言って自分の人差し指を噛み、ごりごりと歯音を立てて、食い千切ってしまった。
それを亜希子の前に吐き出すと、「もう一本いるかい?」と笑った。
「望むものがあるならくれてやる。だけどその代わりに、勉君と鈴音ちゃんの居場所を教えるんだ。そうでなければ、あんたのお父さんも死ぬことになる。どこに隠れていようとも、必ず見つけ出して殺す。そして弟の隣に並べてやるよ。千手観音の手の中で、家族そろってぶら下がってりゃいい。」
鋭い眼光を飛ばしながら、鼻が付くほど顔を近づける。
すると今まで無表情だった亜希子が、ゲラゲラと笑いだした。
「どうした?」
そう尋ねると、亜希子は汚れた顔をニヤけさせて言った。
「・・・・バカ。」
「何?」
「うちの・・・・お父さんを・・・・必ず見つけ出して殺すだって・・・・・?」
「ああ、そうだ。どこに隠れていても無駄だ。」
「だったら・・・・・自分で勉君と鈴音ちゃんを見つけろよ・・・・・。どこにいたって・・・・必ず見つけ出せばいいだろ・・・・・このバカ。」
亜希子は唾液と共に、口の中の精液を吐き飛ばす。
それは朋広の顔にかかり、たらりと垂れていった。
「いくらこんなことしたって・・・・・絶対に口は割らない・・・・・。こんなの・・・・・どうってことないわ・・・・・・。アホな男は・・・・・・レイプすりゃ女が言うことを聞くと思ってる・・・・・。いくらザーメンかけられたって、私は平気・・・・・。」
亜希子は馬鹿にしたように言い捨て、また精液混じりの唾を吐き出す。
それは朋広の手を汚し、蜘蛛の糸のように、たらりと床に落ちていった。
「一番怖いのは・・・・・自分が自分でなくなることよ・・・・。あんただって・・・・お姉さんが変わっていくのが辛かったんでしょ・・・・?このままいけば・・・・・あんた自身も、自分でなくなる・・・・・。」
亜希子は朋広を見据えながら、鬼のような顔で語る。
弟を殺されようとも、凌辱を受けようとも、亜希子の心は死なない。
微塵の怯えも見せずに、見下すような視線を向けていた。
昔ある深夜番組で、モディリアーニという画家の特集をしていました。
この画家は女性画がメインで、顔と首が長い女性を描くというのが特徴です。
だけど一番の特徴は、瞳を描かないということなんです。
目はあるんだけど、そこに瞳がない。不気味なようだけど、でもなぜか魅力があるんです。
この画家の絵は有名なので、名前は知らなくても、絵を見れば分かるかもしれません。
モディリアーニはいつだって瞳を描かず、それが魅力となって名画と呼ばれています。
だけどたった一枚だけ、瞳を描いた作品があるんです。
それは愛する奥さんを描いたものなんですが、これはモディリアーニの作品の中では駄作と言われています。
番組に出演していた評論家は、「泣きが入っている」とバッサリ斬り落としていました。
他の出演者は褒めていたのですが、専門家には駄作に映ったのです。
これを見ていた当時、私も駄作だなんて思いませんでした。
奥さんを愛する気持ちが、瞳を描かせたんだなと感動的に思ったものです。
だけど今思うと、あれはやっぱり駄作だと思い直しました。
絵画・・・・というより、芸術というのは決して情に負けてはいけないんだと思います。
作品として情を描くならいいけど、作者自身が情にほだされてしまったら、その作品には本来宿るべき芸術的な力は失われるからです。
情という言葉は、言い換えれば情けっていうことです。
だから情に傾いた作者は、情けない作品しか作れなくなります。
あの写真家のアラーキーだって、奥さんが亡くなった時、写真集にその死に顔を載せました。
棺桶に入って、ちゃんと化粧をされた綺麗な写真です。
だけど同じ写真家の篠山紀信さんは、辛口のコメントをしていました。
「荒木ほどのやつが、これをやっちゃ駄目だよ」と。
アラーキーは「これでいいんだ」と反論していましたが、篠山さんは納得しませんでした。
というのも、アラーキーは大の愛妻家で、とても奥さんのことを愛していたと思います。
奥さんとの旅行を写真集にしたりと、その愛妻家ぶりは有名です。
だからどうしても奥さんの死に顔を載せたかったのだと思います。
でも篠山さんに言わせれば、それは泣きの入った情の写真だったのだのでしょう。
これは芸術ではなく、自分を慰める為の記念写真。そういう具合に言いたかったのではないかと、私は解釈しています。あくまで私の解釈ですよ。
モディリアーニにしろアラーキーにしろ、偉大な芸術家です。
だけどたった一枚だけ、いつもと違う作品を作ってしまった。
その瞬間だけは、芸術家では無くなってしまったのかもしれません。
情という大きな力にやられて、本来自分にあるべき絵の才能、写真の才能が曇り、情に傾いた作品になってしまう。
人情という目で見れば、二人のやったことは正しいと思います。
だけど人情なんて誰にでもあって、でも芸術の才能というのは、誰にでもあるわけではありません。
そういう誰にもない才能の元に、誰にも真似できない独自の作品が生まれてくるはずです。
情はその才能、そして個性を曇らせてしまう霧のようなものなのでしょう。
だから決して情に負けてはいけない。泣きが入ってはいけないんだと思います。
ゴッホの絵もフェルメールの絵も、情というのは一切感じません。
木村伊兵衛の写真にも、土門拳の写真にも、同じように情は感じません。
そこにあるのは純粋な好奇心、純粋な狂気、そして純粋な作品への情熱だと思います。
そんな純粋な場所に、情なんてものが入る隙間はなくて、もし間違って入ってしまったら、純粋な何かが外へと追いやられてしまいます。
要らないものが中に入り、必要なものが抜け落ちてしまう。
モディリアーニの絵の魅力は、あの不気味な女性の顔です。
アラーキーの写真の魅力は、生々しいまでのエロスです。
でも瞳を描けば普通の顔になってしまうし、棺桶に入った愛しい人の死に顔を載せれば、ただの追悼になってしまう。
不気味さが、そして生々しいエロスが損なわれてしまうのです。
たったその一枚の為に、他の全てまで台無しになってしまうかもしれません。
・・・・・こう考えると、やっぱり芸術の道は修羅の道だと思います。
愛しい人を想おうが、愛しい人を亡くそうが、それが自分の作品を曇らせてしまうなら、やってはいけないと突きつけられているからです。
愛しい人のことを想うと、誰だってそれをどうにか形に残したいと思うでしょう。
でも才能のある芸術家が、誰でも思うこと、誰でも共感出来るレベルまで落ちてしまうと、人にないその才能が途端に死んでしまいます。
他の誰にも真似できないものが作れるのに、普通のレベルに下がったら意味がないはずです。
心を棘の鞭で叩かれても平気な顔をしているような強さじゃないと、修羅の道は行けないでしょう。
だからやっぱり、芸術の道は過酷だと思います。
自分を慰めることすら許されないなら、心から血を流して歩くほどの痛みが、常に傍にあるわけですから。
翌日、風間はまた有希と朋広に会いに来た。
二人は寺院に連れて行かれ、観音像の前で瞑想をさせれた。
『修行を積めば、思い通りに力を操れる。これから毎日、観音様の前で瞑想に励むように。』
二人は薄暗い堂内で、二時間も瞑想をさせられた。
これを一ヶ月ほど続けていると、やがて二人の身に変化が起きた。
有希は人の色がより鮮明に見えるようになり、揺らめきや濃度で、心理状態まで把握出来るようになった。
朋広は幽霊が見えるだけでなく、直接手で触れたり、会話まで出来るようになった。
風間の言う通り、一ヶ月間の瞑想は、二人の力を引き上げた。
それからさらに二ヶ月の修行を積み、二人は完全に力をコントロール出来るようになった。
人の色を見たくない場合は、その力をオフにすることも出来るし、特定の人間の色だけを見ることも可能になった。
それは朋広も同じで、幽霊を見たくない場合は、視界から消すことが出来る。
それに深いコミュニケーションが出来るようになり、幽霊の心を内を探ることも可能になった。
風間はそんな二人の成長を喜び、『君たちこそ後継者に相応しい』と褒めちぎった。
『さて、修行も大事だが、実践の空気を感じるのも大事だ。今日は僕に同行し、実際に悪魔を祓うところを見てほしい。』
そう言って二人を連れ出し、住宅街の細い路地に向かった。
下校する小学生たちが、有希と朋広の目の前を通り過ぎて行く。
しばらくすると、下校の集団からポツンとはぐれた、一人の少女が歩いて来た。
まだランドセルが大きく感じられるほどの年頃で、俯きながら石を蹴っている。
そしてそのすぐ後ろには、キャップを深く被った男が歩いていた。
チェックのシャツに、薄汚れたスラックス。靴は安物のスニーカーで、無表情のまま目の前の少女を見つめている。
風間は住宅の陰に隠れながら、『あの男、もう三人もの少女に暴行を働いている』と言った。
『この辺りで下校中の小学生が襲われる事件が相次いでいてね、警察から僕たちに捜査協力の依頼が来たのさ。しばらく調べた結果、あの男が怪しいと分かった。そしてさらに調べていくと、あの男の自宅から少女への暴行を撮影したビデオが見つかった。』
それを聞いた有希と朋広は、顔をしかめて男を見つめた。
男はこちらに気づいておらず、目の前の少女に目を向けている。
『あの・・・・証拠があるなら、警察に任せればいいのでは・・・・、』
有希が問いかけると、風間は首を振った。
『いいや、駄目だ。どうせ警察に捕まったところで、出所したらまたやるよ。性犯罪者ってのは、何度でも同じ事を繰り返すんだ。』
『でもそういう犯罪者を裁く為に、法律があるはずです。それに出所した人全員が、再び罪を犯すとは限らないと思います。』
有希は毅然と言い返す。どんな人間でも、罪を悔いて改心する可能性があるはずだと。
しかし風間は首を振った。『悪魔に改心の可能性などないよ』と。
『僕だって、最初は悪魔を諭そうとしたさ。でもね、その度に裏切られるんだ。奴らは平気で嘘をつき、僕たちを欺いた。そしてまた犯罪に走る。あの男だって、今僕たちが裁かなければ、また犠牲になる子供が出てくるんだよ。』
『でも・・・・、』
『いいかい?あの男が捕まった所で、せいぜい数年でシャバに戻って来られるんだ。だけど乱暴された子供は、一生傷ついたままだ。心に深い傷を負い、それは大人になっても消えることはないだろう。』
『そうだとしても、やはりここは警察に・・・・・・、』
『何の罪もない子供が、一生消えることのない傷を抱えてしまう。ずっと苦しむんだよ。だけどあの男はそうじゃない。塀の向こうで何年か大人しくしていれば、それで済んでしまう。そして出てきたらまたやる。強姦で死刑は有り得ないから、欲望に負けて罪を重ねるのさ。』
『だからといって、ここであの人を殺すつもりじゃ・・・・・、』
『ああ、殺す。なぜなら僕たちは、特例で殺人を認められているんだからね。』
『でもそれは、極悪人に限ってのはずです。法律で死刑に出来ないような人間でも、特例の殺人は認められるんですか?』
有希は負けじと言い返す。どんな人間でも、絶対に更生の余地はあるはずだと。その可能性を探ってからでも、裁きを下すのは遅くないと。
風間は唇をすぼめ、有希の顔を見つめた。
理屈で言い返すことは簡単だし、言葉巧みに丸め込むことも出来る。
しかしそれをやったところで、根本的に有希の考えを変えることは出来ないだろうと思った。
風間がじっと考え込んでいると、有希は『やはり警察に任せるべきです』と言った。
『私は先生に出会えて、とても感謝しています。観音様から力を頂き、先生は私たちを鍛えて下さった。でもやっぱり、殺人なんて間違っていると思います。悪人だから殺してもいいだなんて、きっと観音様は望んでおられないはずです。』
有希の凛とした態度は変わらない。例え相手が自分の師匠であっても、正面から言い返す。
朋広は腕を組んで険しい顔をしていて、『俺も同感だな』と呟いた。
そんな二人の態度を見て、風間は困ったように頭を掻いた。そして苦笑いを見せながら、『いいよ、そこまで言うのなら』と肩を竦めた。
『君たちの言うとおり、今回はあの男を見逃そう。』
その言葉を聞いて、有希はホッと笑顔を見せる。しかし風間はすかさずこう言った。
『有希、朋広。君たちはまだ何も知らない。そして何も分かっていない。今日あの男を見逃したことで、この先いったい何が起こるか?自分の目で確かめることになるだろう。』
そう言い残し、風間は引き返す。『後は君たちの好きにしたらいい。警察に行くなりなんなり、思うようにしてみることさ』と手を振りながら。
風間は去り、有希は男を振り返る。
『ねえ朋広、あの人、私たちで自首を促しましょ。』
有希は男に向かって歩いて行くが、朋広はそれを止めた。
『危険だよ。』
『大丈夫よ、こっちには証拠があるんだから。暴行のビデオを押さえてるって言えば、言い逃れは出来ないでしょ?』
『そのビデオはここにはないよ。後で風間さんからビデオを借りて、警察に渡そう。好きにしていいって言ってくれたんだから。』
『駄目よ。あの人は今も子供を狙ってる。すぐ警察に連れて行かないと、また酷いことをするわ。』
『アイツは犯罪者だぞ?正面から話しかけるなんて危険だよ。とにかく警察を呼んで、事情を説明しよう。そもそも捜査協力の依頼をしてきたのは警察なんだから、事情を話せばすぐに捕まえてくれるよ。』
『いいえ、それじゃ駄目。法律で罪は裁けても、あの人の心まで裁くことは出来ない。改心を促さなかったら、きっとまた罪に走るわ。』
『だから・・・・それは俺たちがどうこう出来ることじゃ・・・・、』
『何言ってるのよ、その為に私たちの力があるんじゃない。観音様から授かった御力が。』
有希は朋広の手を払い、男の方へ歩いて行く。
朋広は苦い顔をしながら、渋々姉について行った。
有希は『すみません』と話しかける。男はビクリと振り返り、警戒する目で有希を睨んだ。
『ちょっといいですか?お話しがあるんですが・・・・・、』
そう切り出し、言葉を選びながら、男の罪について言及していく。
子供が暴行されていること、あなたが怪しいということ、そして暴行を撮影したビデオのこと。
有希は丁寧に、そして柔らかい口調で話していった。そして最後に自首を促し、『警察に行きましょう。私たちも付き添ってあげますから』と微笑んだ。
有希は男の色を見る。黄色に少しだけ青が混ざった色が、ひどく揺れていた。
『怖いのは分かります。でもあなたは・・・・少し幼かっただけ。強い黄色が、それを物語ってる。だから更生して大人になれば、罪を重ねることはありません。罪を悔やんで改心すれば、もう子供を狙うだなんて悪さは・・・・・、』
そう言いながら、有希は手を伸ばす。菩薩のような慈愛でもって、男の心を救おうと。
しかしその瞬間、朋広が二人の間に割って入った。
有希の前に立ち、彼女を守るように拳を構える。
『・・・・・・・・。』
男はポケットから、小さなナイフを取り出していた。
それを向けながら、ゆっくりと後ずさる。その顔はひどくうろたえていて、明らかに目が泳いでいた。
朋広はじっと男の目を見据え、自分からは動かない。
刃物を持った相手に対して、下手な刺激を与えたくなかったからだ。
気を抜かず、男のほんの些細な動きにまで気を配る。ナイフに対しての戦いを、頭の中でシュミレーションしていた。
しばらく二人は睨み合い、やがて男の方が朋広の迫力に負けた。
踵を返し、『来るなよ・・・』と釘を刺して、一目散に逃げ去って行く。
有希は『待って!』と追いかけようとしたが、朋広が止めた。
『だから危ないって言ったろ!』
『でも・・・・・、』
『いいから警察に行こう。アイツが今日子供を襲うことはないよ。その間に捕まえてもらうんだ。』
有希は納得していなかったが、朋広はそのまま警察に行った。
事情を話すと、すぐに署長室に通された。
署長と数人の刑事が出て来て、詳しく話を求める。
署長は風間に連絡を取り、二人の話が事実であることを確認した。
有希と朋広は家に帰され、警察は男の自宅に向かった。
しかし男はすでに逃亡していて、家のパソコンから暴行を撮影した映像が見つかった。
警察はすぐに男の追跡を開始し、二日後に拘束した。
その連絡を受けた風間は、有希と朋広を連れて署に向かった。
そして有希と朋広は、そこで目を覆いたくなるような物を見せつけられた。
それは男が子供を暴行する映像だった。
男が逃亡している際、また新たな犠牲者が出たのだ。
『どうせ自分は警察に捕まる。それなら心いくまで好きなことをして、その後に自殺するつもりだった。』
捕まった男は、こう語った。
そしてその言葉通り、男は罪を重ねた。どうせ自殺するのだから、好きなだけ欲望を満たそうと、二日の間に三人もの子供が犠牲になった。
男はその際の犯行を、小型のビデオカメラで撮影していた。
暴行の様子が、順番に画面に映し出される。
おぞましい光景が、署長室のテレビ画面で再生され、有希は口元を覆って涙を流した。
何の力もない幼い子供が、歪んだ心の持ち主に乱暴される。
悲鳴・・・・絶叫・・・・親の名前を叫び、助けを求める・・・・。
血を流し・・・・顔を歪め・・・・地獄を見るよな顔をしながら、だんだんと弱っていく・・・・・。
有希は声を漏らして泣き、画面から顔を逸らした。
朋広は姉の肩を抱きながら、唇を噛みしめてその映像を睨んでいた。
・・・あの時・・・・自分が逃がさなければ・・・・・。
あの場で男を捕まえておけば、こんな事態にはならなかったはずだと、酷く悔やんだ。
映像は終わり、室内に重い空気が流れる。
有希はしばらく泣き続け、朋広は苦い顔で足元を見つめていた。
その静寂を破るように、ポツリと風間が言った。
『一番最後に乱暴された女の子だが、発見されて数時間後に亡くなった。お腹の中が、ひどく傷ついていたそうだ・・・。』
有希は顔を上げ、風間を見る。涙の筋をなぞるように、また滴が流れた。
『それに最初に犠牲になった子は、子供が産める身体じゃなくなったそうだ。二番目に暴行に遭った子も、酷いショックで口が利けなくなってる。』
『・・・・・・・・・。』
『心も身体も、まだまだそんなことが出来る年齢じゃないんだ。しかも見知らぬ大人に、力で押さえつけられ、痛みと恐怖を味あわされる。いったいどれほど怖かったか・・・・・。女性の君の方が、僕なんかよりもこの子たちの気持ちが分かるんじゃないか?』
風間は淡々とした口調で語り、ゆっくりと立ち上がった。
『犯人は捕まった。これから裁判にかけられ、しばらくは塀の向こうにいるだろう。でも必ず出て来る。そしてその時、また罪に走るだろう。性犯罪は病気と一緒だ。更生の余地などないんだ。生かしておいたら、この映像と同じことが、また繰り返されるだけさ。』
風間の言葉は、有希の胸を抉る。しかしこれだけでは終わらなかった。
刑事がビデオデッキをいじり、別の映像を再生させたのだ。
そこにはいくつも犯罪の様子が詰まっていて、さらに有希の心を抉った。
傷つく子供、それを楽しむ男。しかもこの映像は、その男が撮影したものであり、後に自分の欲望を満たす為に使う物であった。
『いいかい有希。今回捕まったあの男は、犯行後に自殺するつもりだと語った。しかしそれは嘘だ。もし自殺するつもりなら、暴行の様子をビデオに撮ったりはしないだろう。こうやって映像を残すということは、また後で楽しむつもりだったのさ。アイツは最初から死ぬ気などなかった。ただ自分の欲望を満たしたかっただけなのさ。』
風間の声は相変わらず冷静で、『もういいですよ』とビデオを止めさせた。
有希は酷く傷つき、顔を覆って項垂れている。
その隣では、朋広が激しい怒りを抱いていた。
子供を傷つける凶悪な人間。それはとても許せないものだったが、怒りの源はそれではない。
一番の怒りは、こんな映像を見せつけた、風間に対してだった。
朋広は気づいていた。
風間はあえてこういう映像を見せつけることで、有希の心を乱そうとしていると。
有希はとても芯の強い人間だが、誰かが傷つくことには耐えられない。特に弱者がいたぶられるのは、自分のことのように辛くなる。
有希はとにかく純粋で、この世に本物の悪人などいないと信じているのだ。
そのことを知っている朋広は、風間の意図を見抜いていた。
・・・この男は、有希を洗脳しようとしている・・・・。有希の心を乱し、その後に優しい言葉を投げかけるつもりだ・・・・。
・・・・でもそれは、ただの優しい言葉じゃない。自分の歪んだ思想が織り混ざられた、有希の価値観を書き変える言葉・・・。
朋広は立ち上がり、「出よう」と姉の腕を掴んだ。
有希は身体に力が入らず、椅子から立ち上がろうとしない。
朋広はサッと抱き上げ、会釈を残して部屋から去ろうとした。
すると風間もついて来るので、『あんたは来なくていい』と睨んだ。
『これ以上俺たちに関わらないでくれ。有希が苦しむ。』
『すまない。でもこれは必要な事だったから・・・・・、』
『いいよ、話すことなんてない。もう二度と会わない。』
朋広はそう言い残し、警察を後にした。
有希は自分が守る。あんな男の好きにさせるものか。
そう決意し、家路につくが、翌日にはもう風間に会う羽目になってしまった。
昨日の映像を見せられた有希が、朋広の制止を振り切って風間に会いに行ったのだ。
朋広は仕方なくついて行き、風間に会った。
風間は本堂の中で座っていて、『きっと君たちの方から来てくれると思ったよ』と微笑んだ。
朋広にとって、その笑顔は憎かった。しかし有希はホッとしたように微笑み返し、風間の前に座った。
『昨日・・・・あんなに酷いものを見せられて、私は思いました。観音様から頂いた御力を使って、一人でも多くの弱い者を救えないかと。でも今の私には、それだけの力はありません。だから・・・・もっと鍛えて頂きたいんです。お願いします。』
そう言って手をつき、頭を下げた。それを見た瞬間、朋広は諦めた。
こうなってしまったら、有希はどんな説得も聞かない。
風間に師事し、何が何でも自分の意志を貫こうとする。
有希が頭を下げる姿を見て、朋広は悲しみ、そして風間は喜んだ。
『大丈夫、もっと鍛えてあげるさ。共に世の汚れを祓おう。』
有希の肩をポンと叩き、『君たちに見てほしい物があるんだ』と言った。
『昨日は酷い映像を見せてしまったけど、世の中で起こる惨事は、あれだけじゃない。もっと多くの現実を、君たちに知ってほしいんだ。』
そう言ってニコリと笑い、『別の部屋に行く、ついて来なさい』と本堂を出て行った。
有希は立ち上がり、風間の後を追う。そして朋広とすれ違う瞬間、射抜くような視線を向けた。
『朋広、私を支えて。』
そう言って、有希は本堂を出て行く。
朋広は姉の背中を見つめながら、その言葉を繰り返し頭に浮かべた。
『私を支えて』
朋広にとって、これほど自分を奮い立たせる言葉は無い。
自分が生まれて来たのは、姉を支える為であり、その為だけに生きていると信じていた。
だから何があっても、有希を支える。今も昔も、そしてこれからもそれは変わらないのだと、胸に刻み込んだ。
しかし、有希の想いと朋広の思いは、かなりズレていた。
有希は風間と同じようになりたかった。世の汚れを祓い、弱い者や困っている者を救いたかった。その信念を、朋広に支えてほしかったのだ。
しかし朋広の思いは違った。このまま風間の元にいると、有希の純粋な心が歪められてしまう。そうなる前に、風間の元から引き離す。
必要であれば、風間を殺してでも・・・・・。
朋広にとって有希を支えるということは、その純粋な心を守り抜いてみせるという、そういう意味だった。
この日、二人はそれぞれの決意を胸に、風間から多くの資料を見せられた。
それは世の中で起きる凶悪犯罪の資料で、写真や映像も数多くあった。
そしてその凶悪犯たちがどういう人間であるか、出所後はどういう人生を歩んでいるのか。
そんな資料も、大量に読まされた。
ほとんどの凶悪犯は、家庭に問題があったり、酷い虐待を受けていたり、また幼い頃に事故や事件に巻き込まれ、トラウマを抱えていた。
そういうトラウマが心を歪め、犯罪に走らせる。
こういう者たちを、『反社会的な者』と呼ぶのだと、風間は言った。
そして『反社会的な者』は、悪魔ではないと語った。
彼ら、そして彼女らは、不幸な境遇の中で歪んでしまっただけであり、更生の余地は充分にある。そして救済が可能な者たちであると。
それに対して、『非社会的な者』がいると続けた。
家庭に問題もなく、虐待も受けておらず、これといったトラウマを抱えているわけでもない。
それにも関わらず、幼いころから常軌を逸した考えを持ち、平気で誰かを傷つける。
それは快楽の為であったり、好奇心の為であったり、ただなんとなくであったりと、およそ許すことの出来ない理由であると。
こういう者たちは、生まれながらにして『悪の芽』を抱えており、それが開花した瞬間、『悪魔』になってしまうと。
こういった『非社会的な者』は、母の腹の中にいる時から、すでに悪魔の素養が宿っている。
だから更生の余地などないし、救済する必要もない。
強く、そして熱を振るって、風間はそう語った。
『反社会的な者』の救済は、風間の目的とするところではなかった。
こういう者たちの救済は、別の宗派が行っており、自分たちの仕事は別の所にあると教えた。
それは『非社会的な者』の抹殺。風間の言うところの悪魔退治である。
有希は熱心に話を聞き、真剣な眼差しで資料を読む。
寺院に溜めこまれた多くの資料。それは確実に有希の心に変化を与えた。
悪は悪であり、裁かれても仕方のない存在であると。
風間が長年溜めこんだ多くの資料。ここはいわば、悪魔の記録を集めた図鑑である。
有希は知らず知らずのうちに、『非社会的な者』に憎悪を抱えていた。
弱者をいたぶる悪魔、罪もない人を傷つける悪魔、そういった悪魔は、観音様から授かった力で、粛清していかねばならないと。
有希の純粋な心は、風間の思惑通りに歪められていく。
そんな姉の様子を、朋広は心を痛めながら見つめていた。
あれから十年が経ち、有希も朋広も、風間の跡を継ぐに相応しい力を手に入れた。
そして・・・・・二人の師匠である風間はもういない。
自分の弟子の手によって、その命を消されてしまった。
風間は後悔していた。このままでは有希と朋広が、悪魔の道へ進んでしまうと。
風間は命を失い、肉体を失い、しかしそれでもこの世に留まり続けている。
なぜなら歪んで行く二人の弟子を、どうしても止めたかったから。
そしてあの二人を間違った道へ引きずり込んでしまったことへの、罪滅ぼしをしたかったから。
風間は祈る。観音菩薩に祈る・・・・。
どうかあの二人に、救いがもたらされるようにと・・・・・。
ヘビとムカデ。
双方とも毒を持つ生き物で、しかもとてもしぶとい生き物でもあります。
この国では毒を持つヘビは三種類います。
マムシ、ハブ、そしてヤマカガシです。
毒ヘビとして最も恐れられるのは、この中ではハブでしょう。
大きな身体に大きな牙、そして毒の量が多いので、咬まれたら命を落とす危険もあります。
しかし毒そのものはマムシの方が強いそうで、ヤマカガシはマムシよりも上だそうです。
ただしマムシは毒の量が少なく、ハブに咬まれた時ほど重篤な症状にはなることは少ないようです。
またヤマカガシの牙は口の奥にあるので、咬まれても毒が注入されないケースもあります。
だから危険度から言うと、ハブ、マムシ、ヤマカガシの順になります。
対してムカデですが、これは全ての種類が毒を持っています。
ムカデには肢顎と呼ばれる毒の牙があり、顔からはみ出るほど大きいです。
これは足が牙状に変化したもので、咬む力はとても強いです。
しかも全ての足に毒があるそうなので、牙だけが武器というわけではありません。
虫は自分の身を守る為に、身体の器官を牙なり針に変えることがあります。
ハチの毒針も、元々は産卵管だったものが変化したものです。
ヘビとムカデ。
中国ではこれにカエルとサソリ、そしてトカゲを加えて、五毒と呼ぶそうです。
毒は人間の身体に害を成すものですが、使い用によっては薬にもなります。
そもそも化学的には毒と薬の違いはないそうで、人間に害を与えるか恩恵を与えるかの違いが基準になります。
そういう意味では、ヘビとムカデはどう考えても有害生物です。
この国にいる毒ヘビは充分に人の命を奪う力があり、ムカデも死ぬことはほとんど無いにしろ、咬まれるとハチより痛いと聞きます。
昔友人が太ももを咬まれたことがあるそうですが、咬まれた足がパンパンに腫れ上がったそうです。
どちらも強力な毒の持ち主であり、その容姿も人から嫌われます。
ヘビは絶対に無理!ムカデは見ただけで気持ち悪い!
毒があり、なおかつ細長い身体をしていて、ウネウネと動く。
しかもちょっとやそっとじゃ死なないもんだから、余計に恐怖を感じてしまいます。
だけどヘビは酒の中に浸けられて、ハブ酒やマムシ酒になることがあります。
これは滋養強壮に良いそうで、薬に近い役目を果たします。
またムカデも油に浸けておくと、薬になるそうです。
ムカデに咬まれた時にムカデ油を付けると、治りが早いと聞いたことがあります。
どこまで科学的に正しいのか分かりませんが、でも毒が転じて薬になるってことかもしれません。
ヘビもムカデも恐ろしい毒性生物だけど、条件によっては薬になる。
しかもヘビもムカデも、神様としての側面も持っています。
白蛇は神聖な生き物とされ、御神体になっている場合があります。
またムカデも守り神として崇められていたことがあるそうです。
昔の人は毒を持つ生き物が、薬に成り得ることを知っていたのでしょう。
毒こそ毒を打ち払うのに有効であり、それは時に神格化されて、災いを退ける神様になります。
あえて怖い生き物を祭ることで、その脅威から身を守ろうとする考え方です。
ヘビもムカデも嫌われ者だけど、薬になったり神様になったりと、役に立つ面もあるようです。
ヘビなんか干支にだって入っているんだし、この二つの生き物は、昔から畏敬の対象になっていたのでしょう。
毒とおぞましいその容姿。でも悪いと思っていた生き物が、実は悪いだけの生き物じゃなかたってことです。
恐怖を抱く対象は、畏敬の念を勝ち取ることがあるんですね。
ヘビもムカデも、見ただけでゾワっとする生き物です。
だけど薬にも神様にもなれる、実はすごい生き物なのかもしれません。
- 2015.06.27 Saturday
- 09:48
野々村有希は、幼い頃から神童と呼ばれた。
成績優秀、スポーツ万能、絵や音楽も得意とし、何気なく書いた詩が、県のコンクールで金賞を取るほどだった。
それに加えて容姿端麗で、誰にでも分け隔てなく接する、仏のように優しい心を持っていた。
誰が見ても、仏や菩薩の化身ではないかと思うほど、隙のない出来た人間だった。
有希自身、自分が非常に能力の高い人間であることを自覚していた。
自分の美貌もよく知っていたし、どんな分野に進んでも活躍出来る自信があった。
しかし有希の良い所は、それを鼻にかけなかったことである。
自分と対等の者はほとんどいないと思っていたが、だからといって、誰かを見下すようなことはしなかった。
どちらかと言えば、弱い者や困っている者、それに何も出来ない不器用な人間を見ると、放ってはおけない性質だった。
有希に手を差し伸べられた人間は、彼女を救いの女神のように感じた。
同性ならば、有希をマリアのように崇め、異性ならば、すぐに恋に落ちてしまった。
中には同性でも想いを寄せてくる者もいたが、有希は決して嫌な顔を見せなかった。
自分が救った者と恋仲になることはなかったが、そうやって慕ってくれるのは、とても嬉しいことだった。
自分の力で、誰かが救われ、そして幸せになる。
弱い者、救いを求める者、そういう人たちの力になる為に、自分は生まれて来たのだと思っていた。
また双子の弟の朋広も、そんな姉を誇らしく思っていた。
いつだって姉の手伝いをして、彼女の善意を支えた。
常に姉の傍に立って、彼女の右腕となる役目を務めた。
中には姉の美貌や能力に嫉妬したり、勘違いをしてストーカーになるような連中もいたので、そんな奴らから姉を守るのも、朋広の役目だった。
朋広は細身ながらも、格闘技や武道の才能があった。
だから本気でやってみないかと、何度もその道の人間から誘われた。しかし全ての誘いを断った。
自分が腕を磨くのは、姉を為だったからだ。
姉は特別な人間で、多くの人がその救いの手を必要としている。
仏のような、そして女神のような慈愛に溢れる心で、姉が手を差し伸べてくれるのを待っている。
それを分かっていたから、自分は姉の為だけに生きようと決めていた。
姉が人を救う為に生まれてきたのなら、自分は姉を支える為に生まれてきた。
二人の姉弟は、いつ、どんな時でも共に歩み、弱い者や困っている者に手を差し伸べた。
二人は同じ高校へ行き、同じ大学へ進み、社会に出てからも、己の信条を信じて、多くの人を助けてきた。
しかしある時、そんな二人に転機が訪れた。
風間慎平と名乗る男が、二人の前に現れたのだ。
有希の噂を聞きつけた風間は、是非とも自分に力を貸してほしいと頼んだ。
いきなり現れた人間に、力を貸してほしいと頼まれ、二人は首を捻った。すると風間は屈託のない顔で微笑み、場所を変えて話そうと言った。
朋広は断ろうと思ったが、有希は『ついて行こう』と言い出した。
『この人からは、普通の人とは違う何かを感じるわ』
朋広の制止も無視して、有希は風間の車に乗り込んだ。
姉を守る為、仕方なしに朋広もついて行くことになった。
二人が連れて行かれた先は、大きな寺院だった。
門の前には仁王像が立っており、侵入者を見張るように目を光らせている。
中に入ると、砂利の敷き詰められた立派な庭があり、数人の僧侶が出迎えた。
二人は立派な本堂に通され、奥に立つ荘厳な観音像に目を奪われた。
『なんてすごい・・・・。ねえ朋広、神聖な空気を感じない?』
有希は目を輝かせ、朋広もその観音像に漂う、不思議な空気に息を飲んでいた。
やがて袈裟に着替えた風間が現れ、二人の前に座った。
『改めて自己紹介をしよう。僕は風間慎平、観音菩薩から力を授かった、現世の汚れを祓う者だ』
何の恥ずかしげもなく、堂々と言い切るその姿に、朋広は警戒を抱いた。
きっと有希の噂を聞きつけたどこぞの新興宗教が、自分たちの看板にしてやろうとやって来たに違いない。
そう思って早々に退散しようとしたが、そうはいかなかった。
姉を連れて逃げようとした朋広の前に、先ほど出迎えてくれた僧侶たちが立ちはだかったのだ。
僧侶たちの目は険しく、朋広は危険を感じた。
・・・早くここから逃げなければ・・・・・。
朋広は僧侶を殴り倒してでも、ここから逃げるつもりだった。だったのだが・・・・・やられたのは朋広の方だった。
僧侶はとても強く、朋広の拳を軽く捌くと、すぐに組み伏せてしまった。
うつ伏せに倒され、腕を極められて激痛が走る。有希が悲鳴を上げたが、それと同時に風間がやめるように言った。
風間に言われて、僧侶たちは朋広を解放する。そして本堂から逃げられないように、鋭い目で見張った。
有希は朋広に駆け寄り、心配そうに肩を抱く。
風間は『手荒な真似をして申し訳ない』と謝りながらも、その目は僧侶と同じように鋭かった。
そして二人の前に膝をつき、とても穏やかな口調で切り出した。
『君たちにも、僕の使命を手伝ってほしい』
口元は笑っているが、目は決して笑っていない。
これ以上抵抗すればさらに痛い目に遭うと思い、二人は大人しくせざるを得なかった。
風間はもう一度『悪かったね』と謝り、二人を観音菩薩の前に座らせた。
そして自分が何者なのか、どういう使命を帯びて、どういう活動をしているのか。
それを詳しく語った。
話を聞き終えた二人は、ただ黙るしかなかった。
なぜなら、風間の話はとても現実的とは思えなかったからだ。
朋広は顔をしかめ、有希は困ったように唇を噛んでいた。
そんな二人の顔を見て、『そうなるだろうね』と風間は笑った。
そして『論より証拠、君たちにも見てもらおう』と言うと、菩薩像に向かって経文を唱えた。
黒光りする数珠をじゃらじゃら鳴らし、擦り合わせるように手を動かす。
堂内には重い空気が漂い、熱を帯びて息苦しくなっていく。
有希は頭痛を感じて目を瞑り、朋広はそんな姉を心配して、肩を抱いていた。
堂内はさらに熱を帯び、冬だというのに、汗が流れだすほどだった。
そして風間が経文を唱え終えると、有希はビクンと仰け反った。
心配した朋広が『有希!』と呼びかけると、すぐに目を開けた。
有希は真夏の灼熱に焼かれたように汗を流していて、『喉が・・・・』と水を欲しそうにした。
しかしすぐに目を見開いて、『朋広・・・・色が・・・・』と呟いた。
有希は朋広の頭上を指差し、『緑色のもやもやしたのが出てる・・・・』と声を震わせた。
『色が・・・・見える・・・人の色が・・・・。』
そう言い残し、有希は気を失った。
朋広は何度も呼びかけるが、有希は目を覚まさない。
『お前!有希に何した!?』
怒りに駆られた朋広は、風間に殴りかかる。しかしまた僧侶たちに押さえられ、『離せ!』と暴れた。
風間は朋広の前に膝をつき、『本当はお姉さんだけでよかったんだけど・・・』と前置きして、こう続けた。
『双子の弟ということなら、君にも同じ血が流れているはずだ。内に眠る力を開眼させて、お姉さんの力になってあげてほしい。』
そう言って、再び観音像に向き合い、経文を唱えた。
堂内はまた熱を帯び、激しい頭痛が朋広を襲った。
そしてあまりの痛みに頭が割れそうになり、悲鳴を上げて仰け反った。
意識が遠のき、そのまま気絶しそうになる。
ぼやける視界で辺りを見渡すと、堂内にはいつの間にか人が増えていた。
若い男や中年の女、それに年老いた者もいて、うろうろとその辺を歩き回っている。
朋広は不思議に思い、喉を鳴らして唾を飲んだ。
すると風間は、『開眼したようだね』と嬉しそうに笑った。
『ほら、見てごらん。以前の君なら見えなかった者たちが、今ならしっかりとその目に映っているはずだ。』
風間は周りに手を向け、辺りをうろつく人々を見つめた。
朋広はまた喉を鳴らし、『信じられない・・・』と漏らした。
『これ・・・・全部死んだ人間か・・・・?』
堂内を歩き回る者たちは、間違いなく人間だった。姿形、服装、動きや仕草、どれをとっても人間だった。
しかしたった一つだけ違いがあって、どの人間も目玉が無いのだ。
眼孔からすっぽりと抜け落ちたように、暗い闇を湛えた空洞になっている。
朋広は戦慄し、失禁しそうなほど震えた。
『ね?論より証拠、僕の話が本当だと信じてくれたろう?』
そう言って、また屈託のない笑顔を見せた。
『朋広君、僕は観音様から力を授かり、世の汚れを祓う使命を帯びている。ここにいる目の無い人間たちは、元々は目玉を持つ、生きた人間だった。しかし僕は、ここにいる人たちを殺す必要があった。なぜならここの人間たちは、人の皮を被った悪魔だからだ。』
風間は目玉のない人間に手を向け、『悪魔に光は必要ない。観音様の目の届く場所で、罪の汚れを祓うまでは』と叫んだ。
『ここにいるのは、世間で言うところの幽霊さ。でもその正体は、肉体から抜け出した人間の心なんだよ。』
『・・・・・・・・・。』
『心はね、人の姿をしているのさ。そして僕も朋広君も、観音様から加護を受け、人の心を見る力、そして話せる力を開眼させた。そして特別な武器を使うと、こうやって殺すことも出来る。』
風間は黒い数珠を握りしめ、懐から白木の短刀を取り出した。
そして辺りを歩き回る幽霊に目を向け、その中の一人に目を付けた。
『よく見ててごらん。』
そう言ってゆっくりと歩き出し、小柄な女の霊の前に立った。
『彼女はね、七人も人を殺した殺人鬼なんだ。しかもその中には、生まれて間もない赤ん坊もいた。他にも自分の恋人や、友人まで手にかけている。そうやって人を殺して、金に代わるものを奪い取る。そんな残酷なことをしておいて、平気でパチンコやホストクラブを楽しむような奴さ。これを悪魔と言わずして何と言う?』
風間は怒りを含んだ声で言い、白木の短刀を抜いた。
『ここへ来て随分たつが、罪を祓おうとする意識はまったくない。それどころか、未だに男と遊ぼうとしている。』
小柄な女の霊は、うろうろと堂内を歩き回っている。しかし動きを観察していると、デタラメに歩いているわけではなかった。
ヒクヒクと鼻を動かし、何かの臭いを探っている。
そして派手なスーツを着た、髪の毛の尖がった男の方に鼻を向け、真っ直ぐに歩き出した。それも嬉しそうに。
女はスーツの男の腕を取り、自分から抱きついて、唇を貪り始める。
しかし男の霊はそれを殴り飛ばし、何度も蹴りつけた。
そこへ他の霊も加わって、リンチでもするかのように、女の霊をいたぶった。
『ね?彼女は悪魔の集まる場所でさえ嫌われる、一番の厄介者なのさ。観音様も、あんな奴には愛想を尽かすだろう。だから僕が代わりに・・・・・こうする。』
風間は短刀を振り上げ、女の脳天に突き刺した。
その途端、耳を塞ぎたくなるような絶叫が響いた。
女は倒れ、頭を押さえてもがいている。風間はトドメとばかりに、数珠を握った手で殴りつけた。
重い音が響き、女の頭が潰れる。身体がピクピクと痙攣していたが、やがて動かなくなってしまった。
『これは処分ね。綺麗な水にしっかり浸けておいて。』
風間に言われて、二人の僧侶が女を運び出す。
堂内は静まり返り、朋広はただ唖然とするしかなかった。
『さて、今日はこんなところかな。とんでもない事ばかり目にして、君もさすがに参ってるだろう。家の近くまで送るから、ゆっくり休んでくれ。』
有希と朋広は僧侶におぶられて、車に乗せられる。そして家の近くまで来ると、『また明日迎えに来るよ』と言われた。
『しばらくは大変だろうけど、すぐに慣れる。君達には、僕の後継者になってもらいたいと思ってるんだ。そのうち仲間も紹介するからさ。』
そう言って朋広の肩を叩き、『お姉さんを頼んだよ』と、まだ気を失っている有希を預けた。
そして帰り際、車の窓を開けてこう言った。
『僕が君たちを鍛える。そして神道派の奴ら、別の仏派の奴ら、そういう邪魔な者たちを、僕たちで打ち負かそうじゃないか。なあに、数では負けてるけど、質ならこっちの方が上だ。僕たちこそが、喜恵門の力を正しく使っているんだと、周りに知らしめてやろうよ。』
そう言い残し、風間は去って行った。
その日の夜、有希と朋広はこれからのことを話し合った。
今日体験した、現実とは思えない出来事。それをどう受け止めたらいいのか、二人で悩んだ。
それに風間の話も、そう簡単に受け入れらない内容だった。
大昔に星野喜恵門なる人物がいて、幽霊や人の色が見える力を持っていた。
喜恵門の死後、それは代々子孫に受け継がれて、現代にまで残っている。
しかし世代を経るごとに、喜恵門の力は薄くなり、やがては消えてしまう。
そうならない為に、多くの仏像や御神体が造られた。
喜恵門の力を色濃く受け継ぐ、過去の者たちが、仏像や御神体に力を宿し、世代を経ても、その力を失わないようにしたのだ。
そして喜恵門の血を引く子孫ならば、仏像や御神体を依り物として、内に眠る力を開眼させることが出来る。
全ての仏像と御神体は、ある神社に祭られていた。しかし明治政府の神仏分離令により、この国の宗教は、一時混乱状態となった。
その際の混乱で、多くの仏像や御神体が行方不明になってしまった。
中には焼却されたり、粉々に壊れてしまった物もある。
しかし数体の仏像と御神体は、未だに残っている。
風間の寺院に立っていた、あの観音菩薩もそのうちの一つだった。
有希と朋広は、その観音菩薩を依り物とし、風間の手で力を開眼させた。
そして風間がなぜそんな事をしたかというと、ある目的の為だった。
『全ての御神体と仏像を、この寺院に集める。喜恵門の力を、僕たちで管理するのさ。それがきっと、世の中にとって一番良いことなんだ。』
風間は全ての仏像と御神体を我が物とし、その力を使って、世の汚れを祓いたいのだと言った。
しかし異なるは宗派や、別の宗教の者が邪魔をしてくるので、とても困っていた。
風間は喜恵門の力を受け継ぐ人間の中でも、仏教系の組織に属していた。
しかし思想や理念が合わず、元いた宗派を追い出されてしまったのだ。
風間は数人の仲間と共に、新たな宗派を立ち上げた。観音菩薩を戴く、この世の救済を目的とした宗派だ。
そのやり方は過激で、世を汚す者がいれば、容赦なく殺してしまう。
悪さを働く人間というのは、心根まで悪に染まっている。そんな人間は、悪魔以外の何物でもないという思想だ。
もちろん改心を促す努力もしてきたが、心根が悪に染まっている者には、馬の耳に念仏であると諦めた。
しかし過激なそのやり方ゆえに、元いた宗派から厳しく糾弾されたり、また神道系の者たちからも、危険人物として敵視されていた。
時には衝突し、酷い時には殺し合いに発展することさえあった。
数で劣る風間の宗派は、戦いとなれば不利になる。だからその過激な活動は、じょじょに成りを潜めていった。
しかし風間は諦めたわけではない。
幽霊と話せるという力を利用して、政界や財界に、細いながらもコネクションを築いた。
そして司法関係の人間にもコネクションを伸ばした。捜査や事件解決に協力するという約束の元に、複数の人間を殺した殺人鬼ならば、その手に掛けてもいいと認めてもらった。
官僚や政治家、それに財界人を味方に付けることで、風間は自分の宗派を維持した。
しかし敵対する宗派や神道系の者たちもまた、国に通ずるコネクションが無いわけではない。
このまま風間と別の宗派が争えば、事は大きくなり、喜恵門の力が明るみに出る可能性がある。
それはすなわち、政治家や官僚、それに司法関係者や財界人が、喜恵門の力を利用していたと、世間に漏れてしまうことを意味する。
そう判断したそれぞれのコネクションの政治家や財界人は、派手な争いは慎むようにと釘を刺した。
喧嘩をしたければしてもいいが、決して大事にしてはいけない。
そう約束するなら、極悪人に限って殺人を許容する。
しかし、もしこの約束を違えたならば、大量殺人、及び国家転覆を狙ったテロとして、国を上げて制裁を加える。
以後は喜恵門の力は国が管理し、一切の宗教人の手には触れさせない。
それぞれのコネクションの政治家や官僚は、喜恵門の力を受け継ぐ者たちに、そう約束させた。
この約束は、喜恵門の力を受け継ぐ、ほとんどの組織が受け入れた。
もちろん風間の宗派のそのうちの一つで、せっかく立ち上げた自分の宗派を、国になど潰させたくなかった。
派手は喧嘩は国を敵に回すが、”節度を守った大人の喧嘩”ならば、国は見逃してくれる。
そして極悪人に限っての条件付きで、殺人まで許容してくれた。
風間は上手く立ち回り、敵対する宗派や宗教の者を、不意をついて殺していった。
それと同時に、世を乱す極悪人を、その手で裁いていった。
しかし長くそんな事を続けていく中で、自分でも気づかないうちに、大きな疲れが溜まっていった。
人を殺すことを日常とする。果たしてそんなことを、観音様は望んでおられるだろうか・・・・・?
世の為とやってきたことだが、今までの自分の歩みを振り返って、それは観音様のご意志に叶っていることだろうか?
その思いは日に日に膨らみ、時間と共に、風間の過激さは成りを潜めた。
風間について来た仲間たちは、彼が勢いを失くしたことに落胆し、袂を別つ者も現れ始めた。
今まで散々人を殺してきたクセに、今さら何を弱気になっているのかと。
元々少なかった仲間は、さらに数を減らし、風間の宗派は力を削がれていった。
そして風間自身も、宗派の頂点から退くことを決意した。
自分が戦えるのは、もって後十年ほど。きっとその頃には、心身共に疲れ果てている。いかに世の汚れを祓う為とはいえ、人を殺すなど出来ないだろうと思った。
自分は近いうちに退く・・・・それならば、後継者を探さなければ・・・・。
この時、風間はある噂を耳にしていた。
『ここから三つ離れた街に、菩薩や女神と呼ばれる女性がいる。彼女は容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能、それに加えて芸術にも秀で、さらには慈愛に溢れる心の持ち主である。そしてその慈愛でもって、弱者や悩める者に手を差し伸べている。一部では、彼女を観音菩薩の化身と崇拝する者たちもいるという。その女性の名前は、野々村有希。幼い頃から神童と呼ばれ、弱者を救う為に生まれて来たような人間だ。』
仲間内からそんな噂を聞き、風間は有希に会ってみたいと思った。
そして自分の眼鏡に叶う者ならば、後継者に育て上げようと考えた。
風間は有希の噂が本当かどうか確かめる為に、しばらく彼女を観察した。
そして数日の観察の後、噂に違わぬどころか、噂以上に聡明で心優しき人物であると分かった。
しかも調べを進めていく内に、有希もまた喜恵門の子孫であることが分かった。
それを知った風間は、飛び上がるほど喜んだ。
有希の人柄、能力、そして喜恵門の血を引いているという事実。
これ以上自分の後継者として相応しい人物はいない。
そして今日、有希に接触してきた。
寺院へ連れて行き、自分の目的や活動内容を話し、そして内に眠る力を開眼させた。
朋広はおまけであったが、しかし彼も力を開眼させることになった。
二人は今日の出来事を、真剣に話し合った。
朋広は、これ以上風間に関わるのはやめるべきだと言った。
奴のやっている事は、ただの犯罪であり、しかも話の内容が事実とするならば、頭のイカれた殺人鬼であると。
しかし有希は違った。
これは観音様が与えて下さった、運命の出会いであると言った。
その証拠に、自分たちは超人的な力を身に着けた。
それは観音様のおかげであるし、風間は私たちを導く使者であると。
朋広はその意見に反対し、考え直すように説得した。
しかし有希は引かない。
今日の出来事は、きっと私たちの人生を変えてくれる。
私は弱い人や、困っている人を助ける為に生まれて来た。だから今日の出来事は、観音様が与えて下さった転機に違いない。
自分の中に眠っていたこの力も、きっと観音様が与えて下さったものだ。それはすなわち、汚れた世の中を救えという意味だ。
そう言って、風間との出会いを運命的なものであるように語った。
有希はとても頑固で、自分がこうだと決めたら、どんな説得も受け入れない。
そんな有希の性格をよく知る朋広は、これ以上説得するのは無理だと諦めた。
それならば、やはり自分が有希を守るしかない。
風間の手から、有希を利用しようとする人間の手から、命に代えても守らなければいけない。
なぜなら自分は、その為に生まれてきたのだから・・・。
朋広は、胸の中にそう覚悟を刻み込んだ。
- 2015.06.27 Saturday
- 08:13
ミナミの帝王という映画があります。
原作は漫画で、映画の主演は竹内力さんです。
高そうなスーツに尖ったグラサン、そして厳つい顔にリーゼント。
まさに強面の金貸しって感じですが、でもカッコいいんですよ。
主役の萬田銀次郎は、誰が相手であれ確実に取り立てます。
僧侶だろうがヤクザだろうが、あらゆる手を使って取り立てを行います。
もちろんそこには危険も付き物で、一度舎弟が刺されることがありました。
だから自分のバックにも大物のヤクザが付いています。
だけどそのヤクザに頼るのは最後の最後で、基本的には自分の力で相手を追い詰めていきます。
銀次郎は決して正義でもないし、善人でもありません。
だけど取り立てる相手も同じように悪どい商売をしているので、それを銀次郎が取り立てるのがカッコいいんです。
正義が悪を追い詰めるのではなく、同じ悪が悪を追い詰めていく。
毒をもって毒を制すという感じで、ある意味では同族での戦いになります。
だけど銀次郎は根っからの悪人かというと、そうでもありません。
彼は彼なりに信念を持っており、あまりに人の道に外れたことはしません。
取り立ては容赦ないけど、でもそれは貸した金を回収する時のみです。
もし怖い取り立てが嫌なら、銀次郎から借りなければ済む話なのです。
銀次郎の方から一般人に寄って来て、あれやこれやと屁理屈で騙すなどということはしません。
あくまで自分のところに借りに来た人間に貸すだけで、利息が違法のトイチであることも最初に説明します。
その上で借りるかどうかを決めるので、借りてしまった人間は、なにがなんでも銀次郎に金を返さないといけないわけです。
だけど劇中では、借りた人間が何らかのトラブルや事件に巻き込まれ、回収が不可能になる場合があります。
そんな時、銀次郎は金を回収する為に、借りた人間に危害を加えたり、さらったりした相手から取り立てを行います。
詐欺師やヤクザがどんなに悪どい商売をしようと関係ないけど、自分の商売を邪魔されたら黙っていないわけです。
そういう場合は金を貸した相手を利用してまで、詐欺師なりヤクザなりを追い詰めていきます。
相手は同族、叩けば埃が出ることを知っているので、内偵捜査やオトリ捜査のような事をして、悪事の証拠を掴んでいきます。
そして最後の見せ場でバーン!とそれを突きつけて、ぐうの音も出ない状況に追い込み、金を回収します。
最後まで金貸しとしての筋を通し、そこにリスクがあたっとしても、ビビッて逃げたりしない。
そしていくら金の為とはいえ、自分の身を落とすような外道のような真似もしない。
自分なりの信念を保ちつつ、でもちゃんと金を回収する。だからカッコいいんです。
別に闇金や違法な取り立てを擁護するわけじゃないけど、でも創作物の中においては、そういうダークヒーローがいてもいいと思います。
本殿の近くまで逃げると、鈴音は後ろを振り返った。そこに勉の姿はなく、胸を押さえてホッと息をついた。
しかし追って来ないとも限らないので、急いで社務所に駆け込んだ。
「おじいちゃん!」
引き戸を開けるなり、鼓膜が破れそうなほどの声で叫ぶ。
するとその声を聞きつけて、社務所の奥のドアが開き、祖父たちが出て来た。
「おじいちゃん!」
鈴音は祖父に抱きつき、声を上げて泣いた。
祖父は何事かと戸惑い「どうした?」と肩を揺さぶる。
「おばけ!お兄ちゃんのおばけ!目が無いおばけ!」
「おばけ・・・・・。」
わんわんと泣く鈴音をあやしながら、後ろに立つ星野を振り返った。
「神主さん・・・・・。」
祖父の視線を受けて、星野は鈴音の傍に膝をつく。そして「そのおばけは?」と尋ねた。
「知らん!でも追いかけて来た!家からずっと・・・・、」
「それでここへ逃げて来たのか。」
星野は頷き、「ここなら安心だから」と頭を撫でた。
そして亜希子と基喜を振り返り、一緒に外へ出て行く。
鈴音は「怖かった・・・・」と泣きじゃくり、幼い子供のように、しっかりと祖父に抱きついた。
すると勉が「それってさっき神主さんが言うてた・・・・、」と顔をしかめた。
「それ俺の幽霊やろ?目玉が無いっていうやつ・・・・。」
勉は真剣な目で尋ねるが、祖父は答えない。
今は鈴音を安心させてやる方が先だと、頭を撫でてあやしていた。
「勉、神主さんが戻って来るまで、ここから出ない方がいい。」
「うん・・・・。」
三人は社務所のソファに腰掛け、神主たちが戻って来るのを待った。
重く、暗い空気が流れ、鈴音の泣き声だけが響いている。
すると鈴音の握りしめているスマホから、「もしもし?」と声がした。
「鈴音ちゃん?上手く逃げられた?」
その声を聞いて、勉は「有希さん・・・?」と首を傾げた。
「これ有希さんの声やんか・・・・。なんで鈴音の電話から・・・・?」
不思議に思い、「ちょっとええか?」と言いながら、妹の手からスマホを取った。
一つ息を吐き、緊張しながら「もしもし?」と話しかける。
すると途端に有希は黙ってしまい、しばらくしてから「勉君?」と尋ねた。
「もしもし?有希さん?俺やけど・・・・、」
「ああ、やっぱり勉君。君もそこにいたんだ。」
「うん・・・。あの・・・なんか鈴音がおばけを見たって・・・・、」
勉は立ち上がり、祖父と鈴音から離れていった。
「そうよ、あの日君の心から追い払った、もう一人の君。風間さんを殺した奴よ。」
「・・・・なんで?なんでそいつがまだおるん?アイツは有希さんと朋広君がやっつけた言うてたやん。それになんで有希さんが鈴音の電話を知ってんの?」
「・・・・それは・・・・、」
「今な、神社に来てんねん。そんでここの神主さんから、色々と話を聞いてたんや。」
「話?何の?」
「あんな・・・・実はあの日、俺が帰る前に、家におばけが来てたんや。俺のおばけが・・・。」
「・・・・・それ本当?」
「うん。おじいちゃんが言うてた。俺も初めて知ったんやけど。それでな、おじいちゃんがここの神主さんに相談してたんや。そんで今日はたまたま俺もついて来て、神主さんから話を聞かされた。その・・・・星野喜恵門いう人の・・・・・。」
勉が星野喜恵門という人物の名前を出した途端、有希は黙り込んだ。
「もしもし?」と話しかけても返事をせず、電話の向こうから不穏な気配を感じた。
「もしもし?有希さん?」
「・・・うん、聞いてるわよ。」
「あのな、その星野喜恵門いう人は不思議な力を持ってて、それが代々子供に受け継がれていったんやって。幽霊と話せるとか、人の色が見えるとか、そういう力が子孫に受け継がれていったんやって。」
「それで?」
「それでな、ここの神主さんも喜恵門の子孫やから、そういう力を持ってるらしいんや。それで神主さんの子供も、そういう力を持ってるって言うてた。」
「神主の子供さん?」
「双子の姉弟で、お姉さんの方は人の色が見えて、弟さんは幽霊と話せるんやって。」
「・・・・・・・・。」
「今日ここへ来た時に、お姉さんの亜希子さんに言われたんや。『君、色の一部が抜けてるよ』って。そんで神主さんとおじいちゃんから、俺のおばけのこととか色々と聞かされてな。だから・・・・喋ってもうた、あの日のこと。」
勉が申し訳なさそうに言うと、有希の声色が変わった。
「喋った・・・・?あの日のことを?」
「うん・・・・。」
「どうして?絶対に喋らないって約束したでしょ?」
「そうなんやけど・・・・。でも神主さんとおじいちゃんの話を聞いてると、黙ってられへんと思って。それに亜希子さんが色の一部が抜けてるっていうから、誤魔化してもいずれバレると思って・・・・。」
勉は必死に弁明し、「有希さんなら分かってくれるやろ?」と尋ねた。
「有希さんも人の色が見える言うてたやん。嘘をついたって、色の揺らめきですぐ分かるって。だから亜希子さんにも嘘が通用せえへんと思って、それで・・・・。」
有希を怒らせたくないと思い、どうにか理解を求めようとする。
しかし電話の向こうから声は返って来ない。勉は、もし有希に嫌われたらどうしようかと、気が気ではなかった。
「勉君。」
しばらくの沈黙の後、有希が静かな声で呼びかける。
「その神社の娘さんは、確かに人の色が見えるのね?」
「そう言うてたけど・・・・。でもホンマかどうかは分からへん。」
「でも君はあの日の事を喋ったじゃない。ということは、亜希子さんって人の言うことを信用したってことでしょ?」
「それは・・・・、」
「私ね、勉君のことを信じてるのよ。あなたは悪い心を追い払って、ちゃんとした『人間』になった。それなのに、どうして私との約束を破ったの?それは嘘つきのすることじゃないの?」
「あ・・・・でも・・・・、」
「言い訳なんか聞きたくないわ。君は私よりも、亜希子さんを信用したってことでしょ?」
「違うって!俺は有希さんを信用してるよ!ホンマやって!」
「嘘ね。本当に私を信用してるなら、絶対に喋ったりしなかったはずよ。」
「違う!ホンマに嘘なんかついてへん!ホンマやから!」
勉は声を上げて弁明する。しかし有希の態度は冷たく、「そんなんじゃ、二度とキスなんて出来ないわね」と言った。
「私はこう約束したのよ。立派な大人になったら、またキスしてあげるって。これってどういう意味か分かる?」
「どういう意味って・・・・・・、」
「もし君が立派な大人になったら、恋人になってもいいって意味よ。勉君は悪い心を追い払い、素直で良い子になった。それならいつか、きっと立派な男になるだろうって思ったの。そしてそんな日が来たなら、私は君みたいな人の彼女になりたいって思ったわ。
なのに私を裏切るなんて・・・・・、」
有希の声は沈み、電話の向こうから悲しみが伝わって来る。
勉は「ごめん・・・」と謝り、「ほな・・・・どうしたらええ?」と尋ねた。
「有希さんの言うとおり、俺は嘘つきや・・・・。でも俺、有希さんのこと・・・・・、」
今度は勉の声が沈み、口を噤んでしまった。すると有希は声色を戻し、「いいのよ、悪気はなかったって分かってるから」と優しく言った。
「喋っちゃったものはしょうがないもんね。ごめんね、私も言い方が荒くなっちゃって。」
「ううん、悪いのは俺やから・・・・・。」
「じゃあさ、私のことを信用してくれる?亜希子さんって人より、私の方を選んでくれる?」
「当たり前やん!別に亜希子さんって人なんか、何とも思ってないで。絶対に有希さんを選ぶに決まってるやん。」
「よかった・・・・。私・・・勉君に嫌われたらどうしようかと思った・・・・。」
有希は心底ホッとした声で言う。その声も聞いた勉も、同じようにホッとした。
「俺・・・今はまだ言えへんけど、有希さんに伝えたいことがあんねん。」
「うん・・・。」
「だから立派な大人になったら、きっと気持ちを伝える。だから俺は・・・・もう何があっても有希さんとの約束を守るよ。絶対に。」
勉は真剣に、そして力強く言った。スマホを握る手に力を込め、一生の誓いを立てるように、有希への想いをほのめかせた。
「ありがとう・・・・勉君。」
有希は喜びを込めて、そう返事をした。しかしすぐに険のある声で「あのね・・・」と切り出した。
勉は目に力を込め、有希の言葉に耳を傾ける。
これ以上有希を裏切らない。これ以上絶対に傷つけたりしない。
この先何があっても、有希との約束だけは守る。
勉は忙しなく歩き、さらに祖父と鈴音から離れて行く。
有希にそうしろと言われたからだ。そして周りには誰がいるのか?神主や亜希子と何を話したのか?
祖父や鈴音、それに両親から、私のことで何か聞いていることはあるか?
根掘り葉掘り、細かく聞かれた。
勉は素直に喋り、自分の知る限りのことを教えた。
そして全ての質問に答えると、有希にこれからのことを指示された。
それはとてもではないが、素直に受け入れられる指示ではなかった。
勉は何度も出来ないと断ったが、有希は「それならもういいわ」と、また声色を変えた。
「もう二度と勉君と会うことはないでしょうね。せっかく仲良くなれると思ったのに、私は悲しい・・・・。さっきは信じてくれるって言ったのに・・・・。」
電話の向こうから有希の泣き声が聞こえ、勉はうろたえる。
しかしそれでも、有希の指示を受け入れることは難しかった。
「だって・・・・そんなん無理や・・・。亜希子さんを殺すなんて・・・・。」
そう言って勉が迷っている間に、神主たちが戻って来た。
その事を伝えると、有希はすぐに電話を切れと言った。
「また掛け直すわ。分かってると思うけど、今の話は・・・・、」
「うん、絶対に喋らへん。」
「いい勉君。そいつらは勉君をたぶらかす、悪い奴なんだから。」
「そうやったな。あの人らは、悪い人なんやもんな。」
「そうよ。だから私のお願い・・・・よくよく考えてみて。もし上手くいったら、その時はデートしましょう。もちろんキスだってしてあげる。」
「う・・・ああ・・・・・、」
「私も・・・・勉君のことは好きよ。でも今はまだ、男として好きなわけじゃない。だから私の期待に応えて、立派な大人になって。その時は、本当の意味で君を好きになれると思うから。いつか私を、君の彼女にしてよ。その時を待ってるから。」
そう言って、有希は電話を切った。
勉は有希の顔を思い浮かべ、あの時の唇の感触、そして握った手の感触を思い出した。
今の勉は、色んな意味で混乱していた。
どうして鈴音のスマホに、有希から電話が掛って来たのか?どうして目玉の無いもう一人の自分が生きているのか?
それにどうして有希は、亜希子を殺せなんて指示を出したのか?
勉は混乱し、唇を噛みながら考えていた。
すると亜希子に肩を叩かれ、「どうしたの?」と尋ねられた。
「なんかすごく色が揺らいでるよ。大丈夫?」
「ああ・・・・いや・・・・、」
「大丈夫、ぐるっと見て回ったけど、もう君のおばけはいないわ。」
そう言って勉の肩を叩き、「あれ、君にもあげるからね」と、祖父が手首に着けているものを指差した。
それは小さな勾玉だった。
深い緑をしたヒスイの勾玉で、カラフルな紐で結んである。
一見するとアクセサリーのようにしか見えず、手首に巻いても違和感のない物だった。
「あれを着けてれば、幽霊が襲って来ることはないから。」
「はあ・・・・。」
「そもそも君のおじいちゃんがここへ来たのは、家族分の勾玉を受け取る為だったのよ。
君のおばけは、どうも君の家族を狙ってるみたいだからね。」
亜希子は祖父の勾玉を見つめながら、「で?さっきは誰と話してたの?」と尋ねた。
「え?だ・・・誰とって・・・・、」
「さっき誰かと話してたじゃない。なんかコソコソしながら。」
「え・・・・コソコソなんか・・・・、」
「そう?でもさ、それってどう見ても君のスマホじゃないでしょ?」
そう言って、じっと勉の手を見つめる。
そこには赤色のカバーが着いた、鈴音のスマホがあった。
可愛らしい猫のキャラクターがプリントされたそのカバーは、どう見ても勉が持つような物ではなかった。
「それって妹さんのスマホでしょ?誰と話してたの?お父さん?お母さん?」
「あ・・・ええっと・・・・母ですけど・・・・、」
「ふうん、じゃあちょっと履歴を見せてよ。」
亜希子はクイクイと手を動かし、スマホを寄こせと合図する。
勉は目を逸らし、下手な嘘をついてしまったことを後悔した。
「これは・・・鈴音のやつやから、勝手に見せるわけには・・・・、」
「そっか。じゃあ鈴音ちゃんに聞いてこよ。」
亜希子は踵を返し、鈴音の元に向かう。勉は彼女の背中を睨みながら、焦りを覚えていた。
もし有希と話していたことがバレたら、話の内容まで聞かれるに違いない。
嘘をついて誤魔化しても、亜希子ならそれを見破ってしまう・・・。
勉は焦り、唇をいじりながら考える。
とりあえずこの場から逃げなければ、有希と話していたことがバレてしまう。
もう決して、彼女との約束を破るわけにはいかなかった。
「ごめんおじいちゃん・・・・俺ちょっと家に戻って来る。」
そう言い残し、勉は社務所を出て行く。祖父は「勉!」と呼びかけるが、それを無視して走り去った。
「危ないぞ!これを貰うまで出るな!」
祖父は腕に着けた勾玉を振り、孫を止めようとする。
すると星野が「大丈夫です」と宥めた。
「勉君のことは、うちの子供に任せて下さい。」
そう言って亜希子を振り返り、目で追うように合図した。
亜希子は頷き、いったん自宅に戻ってから、カラフルな紐で結ばれた勾玉を持って来る。
そのうちの一つを祖父に渡し、「これは鈴音ちゃんの分です」と言った。
「他のご家族の分は、後で父と基喜が作ります。」
「あ・・・ああ、これはどうも・・・。」
祖父は勾玉を受け取り、「勉をお願いします」と頭を下げた。
「うん、任せて下さい。仏派の人間には負けませんから。」
そう言い残し、基喜と共に勉を追いかけた。
社務所には祖父と鈴音、それに星野が残される。
星野は「お茶でも」と言い、ペットボトルから湯飲みに注ぎ、鈴音に手渡した。
「これ飲んで、ちょっと落ち着いて。」
鈴音はまだ泣いていたが、祖父に促されてお茶を流し込んだ。
そのおかげで少しだけ落ち着きを取り戻し、涙は止まった。
しかしまだ恐怖は止まらない。ギュッと祖父の手を握り、黙ったまま俯いていた。
祖父は鈴音の背中を撫で、「可哀想に・・・怖かったろう?」と慰める。
鈴音はじんわりと涙ぐみ、また泣き始めた。
「鈴音、悪い奴らってのは、良い顔をして近づいて来るもんだ。その悪い奴らのせいで、俺達は怖い目に遭っとる。」
祖父は静かに、そして怒りを込めたように言う。
鈴音はその言葉の真意は分からなかったが、それでも僅かに感じ取ることはあった。
祖父はきっと、有希と朋広のことを言っているのだと。
目玉の無い兄に追いかけられている時、有希は何の焦りも見せずに、淡々と兄について語っていた。
そしてあの幽霊について、よく知っているかのような口ぶりだった。
鈴音は思い出す。有希が言っていたことを。
『目玉がない勉君が、そこに立ってるんでしょう?それが鈴音ちゃんの知ってるお兄さんよ。無感動で無関心で、解剖にしか興味のない勉君。』
あれはいったいどういう意味なのか?
それに朋広が数珠で動きを封じるだとか、わけの分からないことを言っていた。
以前から有希に対して抱いていた疑問が、さらに膨れ上がる。
謎めいたところがある女性だとは思っていたが、悪い人ではないはずだと信じていた。
しかし今日、その考えは変わった。
有希には得体の知れない恐ろしさがある。
いったい何を考え、何をしようとして、どんな正体を隠しているのか?
謎は深まるばかりで、それに比例して恐怖も増していく。
鈴音は祖父に寄りかかり、ただ身を震わせるしかなかった。
そしてふと自分のスマホが無いことに気づき、辺りを見渡した。
「あたしの電話は・・・・?」
そう呟くと、祖父が「勉が持ってたぞ」と答えた。
「誰かと話してたな。途中で怒鳴ったりもしてたけど、あれはもしかして・・・・・、」
祖父が心配そうに呟くと、「多分野々村有希でしょうな」と星野が答えた。
「佐藤さん、これで分かったでしょう。あんたの孫は、二人とも『奴ら』に利用されとるんですよ。」
「ええ・・・・。」
「今回のは実験でしょうな。勉君の幽霊を、どこまで思い通りに動かせるか?野々村有希はそれを試したかったんでしょう。」
星野は重い口調で言い、自分の湯飲みにお茶を注ぐ。
「あの子たちの師匠である風間慎平は、異端児の中でも、かなりの危険人物だったと聞きます。しかし野々村有希には、彼が邪魔だったんでしょう。もう学ぶことは無いと判断した彼女は、躊躇いなく自分の師を手に掛けたはずです。」
星野はお茶で口を湿らせ、何とも言えない渋い顔をする。
そしてやや間を置いてから、こう結んだ。
「私のご先祖様も、厄介な物を残してくれたもんです。幽霊と話せるだとか、人の色が見えるだとか、そういう如何わしいもんがなければ、人はもっと幸せに生きていけるのに。」
そう言ってお茶を飲み干し、一服つける。
祖父は鈴音を抱きながら、星野の言葉を噛みしめた。
人智を超えた力は、人を不幸にするだけ・・・。
祖父には、星野の言葉がそう感じられた。
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