肉体の負債

  • 2019.09.10 Tuesday
  • 11:51

JUGEMテーマ:

痛覚が麻痺し 体の危険信号を見逃す

 

もう限界なのに 休ませてくれと叫んでいるのに

 

暴走する情熱と使命感を受け

 

脳が快楽ホルモンをばら撒き

 

肉体の訴えを無視する

 

そしてツケが回ってくる

 

快楽は幻 蓄積した疲労とダメージは時限爆弾

 

布団の上で数日 歯ぎしりしながら負債を背負う

勇気の証 第二十三話 いつかまた(1)

  • 2019.09.10 Tuesday
  • 10:46

JUGEMテーマ:自作小説

「おい!内藤見なかったか!」
「俺も探してるんだ!アイツ人を抱えたまま調理室に入ってきやがって。包丁奪って出ていきやがったんだ!」
一階のロビーは慌ただしかった。
何人かのボーイさんやシェフが走り回っている。
フロントのお客さんが何事かと目を丸くしていた。
「とにかく探せ!それとオーナーに連絡!」
「したよ!でも出ないんだ。」
「なら・・・・とにかく俺たちだけで探すぞ!大事になる前に見つけるんだ!」
ロビーに集まっていたスタッフたちが散り散りに消えていく。
私は目の前が暗くなるのを感じて、思わず倒れそうになった。
『藤井ちゃん!大丈夫?』
エル君が心配してくれるけど、大丈夫だよとは返せなかった。
《包丁ってなに?それで何をするつもり?》
まさか生きた人間まで手に掛けようとしているのか。
一番ターゲットとして可能性が高いのは・・・・どう考えても私だ。
《肉体を取り戻したって刺された後じゃ意味がない。早く・・・・早く見つけないと!》
不安のあまり動機が膨れ上がる。
幽霊でも心拍数が上がるんだ・・・・なんて余計なことを考えてる場合じゃない。
おそらくホテルの中にはいないだろう。
いくら悪霊でも人一人抱えたままじゃ見つかってしまう。
けど外に逃げたとなると厄介だ。
あの悪霊が行きそうな場所なんてまったく見当がつかない。
闇雲に探したって時間を浪費するだけで、それこそ肉体が見つかっても手遅って可能性も・・・・。
『ねえエル君!悪霊の気配って探れる?』
『近くにいたら分かると思うけど・・・・・この辺りにはいないな。』
『そっか・・・ならやっぱり外ね。』
『ていうか藤井ちゃんだって集中すれば気配を探れるんだぜ。そう教えただろ。』
『そうだったね、ごめん。』
じっとしてても始まらない。
とにかく外へ出てみよう。
ロビーを駆け抜け、海の見える中庭に出る。
陽の高さからしてお昼時くらいだろう。
遠くに雲が流れているものの、空は快晴だった。
海水浴客も大勢いて、楽しそうに賑わっている。
遠目からでもスタイルが良いと分かる黒い水着を着た女性がナンパされていて、軽くあしらっていた。
こんなに天気が良くて平和だと、かえって不安が増していく。
左右を振り返り、どっちに行こうかと迷った時だった。
「おいあんた!」
絹川さんだ。
その後ろにはハチロー君もいる。
『絹川さん!無事だったんですね!』
「なんとかな。」
ニコっと笑うけど顔色は悪い。
何人かのシェフが追いかけてきて、「まだ動かない方がいいですよ」と諫められていた。
「さっきまで溺れてたんでしょ?じっとしてた方がいいですよ。」
「そうですよ。青い顔して廊下を歩いてるのを見た時には幽霊かと思いましたもん。」
ずいぶん後輩から慕われているみたいで、必死に休むようにと説得されていた。
けど「俺のことはいい」と押し返した。
「あんまり騒ぐとお客さんを不安にさせちまう。お前らはいつも通りに仕事してろ。」
「でもボーイがお客さんをさらってどこかに消えちゃったんですよ?しかも包丁まで奪って。」
「これやっぱ警察に言った方がよくないですか。」
「だから心配するなって。オーナーにはあとで俺から報告しとくからよ。」
バンバンと肩を叩いて「ささ、仕事に戻った戻った」とホテルに押しやっていた。
「・・・・さてと。」
振り返り「とりあえずの事情はハチローから聞いたぜ」と頷いた。
「細かい部分は要領の得ないとこもあったけど、だいたいの筋は分かった。まさか亜津子の別れた旦那が亡くなってたとはな。しかも悪霊なんだって?」
『ええ、ハチロー君が悪い幽霊になっちゃったのもあの人のせいです。』
「でもって内藤を乗っ取ったうえに、あんたの肉体まで持ち去ったと。」
『そうなんです!きっと外に逃げたと思うんですけど、どこに行ったのかぜんぜん見当も付かなくて。』
「闇雲に探したってしょうがねえやな。」
腕組みをして困った顔をしているけど、その目は何かを見据えているようだった。
「実はよ、一つだけ心当たりがあるんだ。」
『ほんとですか!』
「ぜったいにそこにいるかどうかは分からねえけどな。」
『教えて下さい!心当たりってどこなんですか!』
詰め寄ると険しい顔でこう答えた。
「離婚したあとに亜津子が住んでたアパートがあるんだ。もし野郎がそのアパートを知ってたら・・・・、」
『そこにいる?』
「亜津子に会いたがってるならそこかもしれねえ。なにせあの場所には・・・・、」
『案内して下さい!今すぐ!』
「・・・・ああ。そう遠くないんだ。こいつで行こう。」
中庭の横には駐輪場があって、小さなバイクが停まっていた。
絹川さんはそのバイクに跨ると、「乗れ」と言った。
『はい!あ、でもこれって50ccのバイクですよね?二人乗りはダメなんじゃ・・・・、』
「今のあんたは幽霊だろ。ニケツしたって二人乗りにはならない。」
『そ、そうですよね!じゃあお願いします。』
荷台に跨ると『俺も!』とエル君が膝に乗ってきた。
『おいハチロー!お前も走ってついて来い!』
『ぼ、僕も行くの・・・・?』
『当たり前だろ!ある意味お前が原因みたいなもんなんだから。』
『僕のせいじゃ・・・・、』
『つべこべ言わずについて来い!』
フシャーと唸ると『分かったよ!』と頷いていた。
まるで本物の兄弟みたいだ。
「んじゃ行くぞ!」
バイクは中庭を突っ切り、ホテル前の通りに出てから海岸沿いを走って行く。
途中で左に曲がって細い路地に入り、まるで迷路のようにあちこちの角を曲がり続け、また細い路地が出てきて10分ほど走った。
パラパラと民家が並んでいたけど、そのうち空き地が目立つようになる。
売り地と看板が立っていたり、砂利だけの更地に草が生えていたり。
絹川さんはバイクを停め、茶色い地面がむき出しになった更地を見つめた。
ロープが張ってあり、すぐ隣に売り地と書かれた看板が立っている。
「なくなってやがる。」
ボソっと呟く。
「ここ最近来てなかったら・・・・いつの間にか取り壊されたみたいだな。」
『そんな!じゃあここにはいないってことですか?』
「いや、そうとも限らねえ。」
バイクから降りて、「噂は聞いてたんだ」と呟いた。
「なんでもこのアパートには幽霊が出るってな。」
『幽霊?』
「二階の端っこの部屋に女の幽霊が出るって噂があったんだよ。ほら?最近はワケあり物件を調べるサイトとかあるだろ?あれにも載ってたしな。」
『あの・・・・その幽霊ってまさか・・・・、』
「亜津子がいたのは二階の端っこの部屋だ。」
『・・・・・・・。』
「ボロいアパートだったからなあ。元々入居者が少ないうえに、そんな噂がたったせいで余計に住む人がいなくなったんだろう。」
『どっちにしろ悪霊はここにはいないってことですよね?唯一の心当たりだったのに・・・・。』
ガックリ項垂れると「諦めるのは早いぞ」と言われた。
「アパートはもうないけど、あれがまだ残ってるかもしれない。」
『あれ?』
「骨だよ。亜津子の骨。」
『骨って・・・亜津子さんの遺骨は実家のお墓なんでしょう?どうしてここに・・・・、』
「俺が埋めた。」
『へ?』
「あいつが親と上手くいってないのは知ってたからな。もし何かあっても実家の墓には入りてくないって言ってたんだ。
だからまあ・・・・ほんとはやっちゃいけないことなんだけど、遺体が焼かれたあとにこっそり骨の一部を拝借してな。
そいつをここの庭に埋めておいた。」
『ほんとですか・・・・それ?』
「今思えばハチローの骨もここに埋めてやるべきだったな。そうすればこいつも寂しい思いをせずにすんだかもしれねえ。」
ハチロー君を振り返り、「悪かったな」と謝った。
「ただあん時はそこまで気が回らなくてよ。なにせ俺だって大事な友達が死んじまって動揺してたから。」
『僕は怒ってないから平気だよ。嫌いなのは悪霊だけだもん。』
二人の会話を背中で聞きながら、アパートがあった敷地に踏み入る。
ロープをすり抜け、まっさらな地面を見渡した。
『・・・・・・・・。』
何も考えず、頭の中を空っぽにする。
ただひたすら精神を集中させ、生き物とは別の気配がないかを探った。
するとほんのわずかに土の中から奇妙な気配を感じた。
膝をつき、手を触れてみる。
『ねえ絹川さん。もしかして亜津子さんの骨を埋めた場所ってここじゃ・・・・、』
そう言って振り返った時だった。
『ちょ、ちょっとどうしたの!』
絹川さん、エル君、ハチロー君。
みんなして倒れていたのだ。
同時にゾワゾワと背筋に悪寒が走る。
見なくても誰がそこにいるかハッキリと分かった。
ドサっと何かが倒れる音がする。
それも二つ。
恐る恐る振り返ると、私の肉体とボーイさんが仰向けに倒れていた。
そして見下ろすようにあの悪霊が・・・・。
目が合っただけで吐きそうになる。
ホテルにいた時とは比べ物にならないほど歪んだ殺気を放っていた。
姿形もすでに人間とはかけ離れている。
全身真っ黒な影になり、アメーバのようにウネウネと蠢いている。
ほんのかすかに頭と手足らしきものが見えるけど、やはり人間とは思えない姿だった。
『アツコ・・・・アイニキタヨ・・・・。』
腕らしき部分には包丁を握っていて、じっと私の肉体を睨んでいる。
『マダココニイルンダロウ・・・・ネムッテルンダロウ・・・・。』
そう言って包丁を振り上げる。
『ちょ、ちょっと!』
止めようとしたけど触れることすら出来ない。
煙みたいにスルリとすり抜けてしまうのだ。
『どうして!こっちだって幽霊なのに!』
だったら包丁を奪おうと思ったけどこれも無理だった。
あっさり振り払われてしまうだけで、それどころか叩かれた部分が黒く染まった。
・・・・もし、もしも全身がこんな風に染まってしまったら、私も彼のような悪霊になってしまうのか?
そう思うと迂闊に近づけない。
《・・・・そうだ!もっと簡単な方法があるじゃない!》
目の前に自分の肉体があるのだ。
これに入れば元通り。
悪霊の凶刃から逃げられるはず・・・・・と思ったんだけど、またしても邪魔されてしまった。
バチンと腕を叩かれ、澱んだ水のように黒く染まっていく。
《いやあ!》
拭っても拭っても落なくて、かえって黒い染みが広がっていく。
悪霊は『アツコ・・・・』と呟き続けている。
『カンジルンダ・・・・ココニイルンダロウ?ハチローヲヒトジチニトッテモスガタヲミセテクレナイナンテ・・・・。
コウナッタラモウ・・・・ムリヤリニデモ・・・・コッチニヨビモドスシカナイ・・・・。』
『無理矢理に呼び戻すってどうやって・・・・、』
『ココニ・・・アタラシイニクタイガアル・・・。コノニクタイニハイレバ・・・・コノヨヘモドッテ・・・コラレル・・・・。』
『新しい肉体って・・・・あなたまさか私の身体を使って・・・・。』
いつまで経っても亜津子さんに会えないものだから、とうとう痺れを切らしたらしい。
この土の中からはほんのかすかに霊気を感じる。
おそらく亜津子さんのものだろう。
私を殺して亜津子さんの魂の入れ物にする気なんだ。
だけどそんなことをしたって絶対に彼女は戻ってこない。
だってここに眠る霊気はわずかなものだ。
彼女の魂そのものが宿っているわけじゃない。
もしそうなら、とっくにこの悪霊は誰かを殺めて亜津子さんの魂を入れたはずだ。
それに何より・・・・、
『いい加減にしろお!』
立ち上がって叫んでいた。
『こんなことして呼び戻したって、彼女はあんたのことなんか認めない!余計に嫌われるだけだ!』
こんな口調で怒鳴ったりしたことがないので声が上ずってしまう。
けどもう我慢出来なかった。
10年間もハチロー君を苦しめ、それで思い通りにいかないと知ると、今度は他人の肉体を利用してまで目的を果たそうとするなんて。
しかもこの悪霊の中にあるのは自分の思いや感情だけで、亜津子さんの気持ちはまったく含まれていない。
もし亜津子さんが彼に会うことを望んでいるのなら、とっくに迎えに来ているはずなのだ。
けど亡くなってから10年も姿を見せないということは、彼のことなんか忘れて成仏している証拠じゃないか。
・・・・しょうじき、私は亜津子さんのことも許せないでいる。
嫌がるハチロー君と心中しようとするし、亡くなってから10年もの間、ハチロー君の前にさえ現れていないんだから。
ほんとうにこの子のことが大事なら、一緒に天国へ連れていったはずだ。
自分だけ成仏してあとはほったらかし。
無責任で思いやりのない飼い主と、身勝手でワガママな悪霊。
私はどちらの味方をすることも出来ない。
私が怒っているのは亜津子さんの為じゃない。
目の前にいるこの悪霊にただ腹が立って仕方ないだけなのだ。
『そんなに彼女に会いたいなら、なんで現世に留まってるのよ!悪霊になんかならずに成仏すればすむ話でしょ!』
そう叫んでも聞いていない。
今にも包丁を振り下ろそうとしている。
『あんた・・・・認めたくないんでしょ?彼女と別れたこと、そして自分たちが死んでしまったことを。
まだ生きてると思ってる。生きて再会して、やり直せると思ってる。そうなんでしょ?』
一歩近づき、『言っとくけどね』と睨みつけた。
『あんたはもう死んでんだ。どうやったって生き返ったりしないし、離婚する前に戻ることも、やり直すことも出来ない。』
そう言うと真っ黒な影から二つの目が飛び出して、ギロリと私を睨んだ。
『私の肉体を殺したって意味なんかないんだよ。死んだ身体に飛び込んだって死人のままなんだから。』
『・・・・・・・。』
『睨んだって怖くない。』
もう一歩近づくと、ナメクジのように二つの目玉が伸びてきた。
黒ずんだ眼球に私の姿を映している。
恐怖はある・・・・けど怒りの方が勝る。
日本にいる時でも海外にいる時でも、身勝手な人間のせいで苦しむ動物たちをたくさん見てきた。
そういった動物の力になる為に私は生まれてきた。
だからこそ動物と喋ることが出来る。
そう信じているからこそ、身勝手な人間は許せなかった。
この件だってハチロー君が関わっていなかったら、ここまで本気になることはなかっただろう。
この人と亜津子さんの間に何があったのかは分からない。
けど人間同士の諍いだけだったら、危険に身を晒してまで悪霊に関わることはしなかったと思う。
《きっとこの為に霊感に目覚めたんだ。死んでもなお人間に苦しめられる動物がいるから。》
ギロリと睨んでくる悪霊の目を睨み返し、『二つ約束してほしい』と言った。
『まずハチロー君を解放してあげて。あなたの持ってるあの子の首輪を返してほしいの。』
悪霊は何か言おうとしたけど、それを遮ってこう続けた。
『それと私の肉体も返してもらう。私にはまだまだやらなきゃいけないことがあるから、あんたのワガママの犠牲になるつもりはない。』
とことん挑発気味に言う。
すると悪霊は可笑しそうに笑い出した。
『ダマッテキイテレバ・・・・シッタヨウナコトバカリ・・・・。』
『何がよ?』
『サイショニオレヲウラギッタノハ・・・アツコノホウダ・・・・。オレハアイツヲアイシテイタノニ・・・・ホカニオトコヲツクッタ・・・・。』
『不倫されたってわけね。』
『ダカラオレモシカエシニ・・・・ホカノオンナトアソンダ・・・・。デモソンナニタイシタコトハシテイナイ・・・・ホンノイチドカンケイヲモッタダケダ・・・。
ナノニアツコハ・・・・イカリクルッテ・・・・・リコンヲツキツケテキタ・・・・・。
オレハナンドモアヤマッタノニ・・・・ユルシテハクレナカッタ・・・・。アイツダッテ・・・・オレヲウラギッタクセニ・・・・・。』
『要するにお互い様ってことじゃない。』
『ワカレテ・・・・カネモゼンブモッテイカレタ・・・・。ナノニ・・・・アツコハカネニクロウシテイタ・・・・ジゴウジトクダ・・・・。
ギャンブルニハマッテ・・・・ゼンブツギコンダ・・・・ジブンノセイダ・・・・。
タダソレデモ・・・・オレハマダアツコガスキダ・・・・。アイタイ・・・・ヨリヲモドシタイ・・・・。』
なるほど、悪霊の言葉を信じるなら、これはタチの悪い痴話喧嘩でしかないみたいだ。
お互いにどうしようもない人間で、お互いに裏切りあって、お互いに自分のことしか考えていないワガママな人たちだ。
だったらやっぱり私の知ったことじゃない。
痴話喧嘩ならやりたいだけやればいい。
ただし誰にも迷惑を掛けないように、あの世の隅っこで。
『どっちもどっちじゃない。ほんとにハチロー君が可哀想だわ・・・・。お願いだからあの子は解放してよ。』
『アツコニアイタイ・・・・。』
『ハチロー君を人質にしても、亜津子さんが戻って来ないのは分かったでしょ?こんな物まで奪ってあの子を従えようとするなんて。』
ポケットから真っ白な首輪を取り出す。
悪霊は一瞬だけ瞬きをした。
『これハチロー君の首輪でしょ?ボーイさんのポケットの中にあった。さっきくすねといたの。』
ニヤっと笑いながら『油断したね』と挑発する。
『彼を乗っ取った時にポケットに入れたままだったんでしょ?間抜けな悪霊さん。』
首輪をユラユラ振ってみせると、また瞬きをしてから吹き出した。
『ハハハハ!ソンナモノデダマサレルカ!』
そう言って『ホンモノハコッチダ・・・・』と白い首輪を取り出した。
『コレガハチローノクビワダ・・・・。アツコノテヅクリ・・・・ハチローノタカラモノダ・・・・。』
『そう、それそれ。』
さっと手を伸ばし、本物を奪い取る。
『ア・・・・、』
『わざわざ出してくれてありがとう。あ、ちなみにこっちの首輪もハチロー君の首輪なのよ。ただし別のヘチロー君だけど。』
『キ、キサマ・・・・・、』
悪霊は怒りに震えている。
私はその隙に自分の肉体に飛び込んだ。
一瞬だけバチっと電気が走ったような感覚があって、魂と肉体とが結びついていくのを感じた。
「うう・・・・なにこれ・・・・ぜんぜん力が入らない・・・・。」
まるで長い眠りから覚めたみたいに、全身が鉛のように重く感じた。
吐き気もするし頭も痛いし、気分も最悪だ・・・・。
「とにかく逃げなきゃ・・・。」
フラフラ立ち上がると、背後から何かが迫ってくるのを感じた。
咄嗟にしゃがんで頭を庇う。
その瞬間、手に激痛が走った。
「痛ったッ・・・・、」
手の甲から赤い血が流れる。
振り返るとボーイさんが包丁を振り上げていた。
『オマエエエエエ!』
血走った目で包丁を振り回す。
慌てて逃げ出したけど、フラつく足じゃ早く走れない。
『アツコ!アツコオオオオ!』
後ろから髪を引っ張られる。
見上げると包丁を向けて私を睨んでいた。
『私は亜津子さんじゃない!』
『アツコオオオオオ!』
もう話が通じる状態じゃなかった。
振り払おうと思っても信じられないくらいに力が強くて、髪の毛ごと身体を持ち上げられる。
「やめて!」
『アツコオオオオ!』
包丁が迫り、ギュっと目を閉じる。
身を固くして縮こまっていると、『藤井ちゃんになにすんだ!』とエル君の声が響いた。
『俺のご主人に手を出すな!』
顔に飛びついてバリバリ引っ掻いている。
『ジャマダアアアア!』
エル君を引き離し、遠くへ投げ捨てる。
同時にボーイさんから悪霊が分離して、顔を押さえて苦しんでいた。
『グウ・・・オオオオ・・・・、』
「早くこっちに!」
絹川さんが私の手を引っ張る。
それと入れ違うようにハチロー君が飛びかかっていった。
巨体を翻し、獲物に襲いかかるかのように悪霊を組み伏せる。
『お前なんか怖くない・・・・怖くない!』
声は震えているけど、攻撃の手は緩めない。
悪霊にまたがって何度も猫パンチを放つ。
「今のうちに!」
「待って!ボーイさんがまだ・・・、」
彼だって無関係なのだ。
これ以上危険な目に遭わせるわけにはいかない。
絹川さんの手を振りほどき、ボーイさんのもとまで走る。
「おい危ないぞ!」
遅れて絹川さんも追いかけてくる。
投げ飛ばされたエル君も『この野郎おおおお!』と向かってきた。
ハチロー君に加勢して、どうにか悪霊を押さえ込もうとする。
その隙に私と絹川さんでボーイさんを抱えた。
『アツコオオオオオ!』
おぞましい気配が増して、悪霊の叫びが遠吠えのように響き渡る。
エル君もハチロー君も投げ飛ばされて、『アツコオオオオ!』と吠えながら私の首に掴みかかってきた。
「いい加減にしろこの悪霊めがッ・・・・、」
「逃げて!」
助けにくる絹川さんを思いっきり蹴り飛ばす。
ボーイさんを抱えたままアパートの敷地の外まで転げていった。
「痛てて・・・なにすんだ!」
「近くにいたらまた乗っ取られる!早くホテルに逃げて!」
「いやしかし・・・・、」
「いいから早く!!」
自分でも驚くほどの声が出る。
気圧された絹川さんは「わ、分かった・・・」と狼狽えていた。
「すぐに戻ってくるからな!」
バシバシとボーイさんの顔を叩き、「起きろ!」と叫ぶ。
「うう・・・ん・・・なんですか・・・・?休日出勤はごめんですよ・・・・。」
「馬鹿言ってないでバイクに乗れ!」
「ほらもう・・・・そうやっていっつも無理矢理・・・・、」
「グチグチ言ってねえでさっさとしろ!」
「分かりましたよ・・・・出勤すればいいんでしょ・・・・まったくもう・・・・。」
寝ぼけながら後ろに跨る。
バイクはすぐに発進して遠ざかっていった。
『アツコ・・・・アツコ・・・・モドッテキテクレ・・・・・。』
「私は亜津子さんじゃない!」
『アツコオオオオオオ!』
「や、やめて・・・・苦しい・・・・・、」
悪霊から何本も手が伸びてくる。
首も腕もお腹も万力みたいなパワーで絞められて、身動き一つ取れない。
《だ、誰か・・・・助けて!》
呼吸が出来ずに視界がボヤけていく。
その時、悪霊の背後でエル君とハチロー君が何やらゴソゴソしているのが見えた。
『コレか?』
『うん!あーちゃんの気配がするもん。』
『でもこれほんの一部だぜ?こんなんでいいのか?』
『大丈夫だよ!やってみせるから!!』
ハチロー君はゴクンと何かを飲み込む。
そして近くにあった葉っぱを頭に乗せると、ブツブツ唱え始めた。
『アツコ・・・・アツコ・・・・。』
呪文のように呟きながら私を締め上げる悪霊。
けど突然動きを止めて後ろを振り返った。
『久しぶり。』
『ア・・・・アア・・・・・、』
『戻ってきたよ。』
肩までの髪をした大柄な女性が手を広げている。
悪霊は興味もなさそうに私を離し、女性に近づいていった。
『アイタカッタ・・・・ズットマッテイタンダ・・・・。』
何本もの手を広げ、喜びと共に迎えようとしている。
女性は微笑みながら胸へ飛び込む。
しかしその瞬間、悪霊は『フグアアアア!』と悲鳴を上げた。
なんと女性は猛獣のような鋭い爪を伸ばし、悪霊を切り裂いたのだ。
『アツコ・・・・ドウシテ・・・・、』
狼狽える悪霊に向かってまた爪を振り下ろす。
何度も何度も切り裂かれ、ついに倒れる悪霊に、女性はトドメとばかりに噛み付いた。
その顔は人と獣を足したように歪んでいて、まるで猫の幽霊が乗り移ったかのようだった。
『オ・・・オマエ・・・・アツコジャナイナ・・・・。』
必死に女性を引き剥がそうとするけど、そこへエル君が飛びかかって顔を引っ掻いた。
『いい加減成仏しろ!』
『ダ・・・・ダマシタナ・・・・アアアア!』
また悪霊が吠える。
と同時に女性はハチロー君へと姿を変えた。
《あれ・・・もしかして化けてたの?》
この世には化ける動物がいることは知っている。
実際にこの目で見たこともあるのだ。
お稲荷さんと化けタヌキ。
まだ有川君と別れる前のこと、そういった動物たちと関わったことがある。
けどまさかハチロー君まで化けるなんて・・・・、
『・・・・・・。』
『え?誰?』
いま後ろから声が聴こえた。
耳を澄ますとまたボソっとささやく声が・・・・。
『ハチロー・・・・。』
今度はハッキリと聴こえた。
女性の声だ。
その瞬間、ハチロー君が『あーちゃん?』と顔を上げた。
キョロキョロ辺りを見渡し、『やっぱりあーちゃんだ!』と誰もいない空中へ駆けていった。
『アツコ・・・・?』
悪霊も身を起こす。
しかし彼には何も見えていないのか、『ドコダ!』と探していた。
『ごめんね・・・ハチロー・・・・。ほったらかしにして・・・・。』
『あーちゃん!』
何もない空中に頬をすり寄せ、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
じっとその様子を眺めていると、とつぜん手の中が熱くなった。
ハチロー君の首輪がぼんやりと光り、あの子の元へ飛んでいく。
『付けてあげる・・・・・。』
首輪は勝手に動く。
そしてハチロー君の首に触れた瞬間、元の子猫に戻っていた。
『これくらい・・・しか・・・・してあげられない・・・・。ごめんなさい・・・。』
ハチロー君は『あーちゃん!』と叫んだけど、浮力をなくして私の腕に落ちてきた。
『これからは・・・・新しい・・・・飼い主さんといっしょに・・・・。さようなら・・・・。』
声は掠れ、気配も消える。
『アツコオオオオオオ!』
悪霊も空に向かって手を伸ばすけど、もう何も語りかけてこなかった。
『藤井ちゃん!それ潰して!』
エル君が叫ぶ。
「何を?」と聞くと『骨!』と言った。
『ハチローと一緒に落ちてきただろ!あーちゃんの骨!』
「骨って・・・・、」
腕を見ると、ハチロー君のすぐ傍に白い欠片が落ちている。
悪霊も気づいたようで、『アツコオオオオオ!』と向かってきた。
《なんだか分からないけど!》
骨らしき物を握り締め、思いっきり力を込める。
麩菓子みたいにグスグスっと砕ける感触があって、手を広げると何もなくなっていた。
「消えてる・・・・・。」
砕けたって破片は残るはずなのに。
『藤井ちゃん!』
エル君が走ってくる。
『やったな!アイツ消えたぞ!』
「え?」
顔を上げると悪霊はいなくなっていた。
「なんで・・・・?」
『そりゃもう会えないからだろ。』
「会えないって・・・・骨を砕いたから?」
『それがあるから執着してたんだと思うよ。ちょっとでも亜津子って人の気配が残ってたからさ。』
「なるほど・・・・。」
『それに思いっきり無視されてたし。あれじゃどう頑張っても仲良くなんてしてもらえないだろ。』
「もしかしたらだけど、あの骨に宿ってた亜津子さんの霊力ってハチロー君の為だったのかな?
自分が死ぬ時、一緒に連れて行くことが出来なかったから・・・・、」
『それは考えすぎでしょ。ここに骨があったのって絹川のおっちゃんが埋めたからだし。』
「だよね。でも・・・・どうして絹川さんはここに骨を埋めたんだろう?
亜津子さんが実家のお墓に入るのを嫌がってたからって、遺骨を盗んで埋めたりするかな。」
これは間違いなく違法だ。バレたら捕まる可能性だってある。
大事な友達だからここまでしてあげたのか?
それとも何か別の理由があったのか?
「・・・・・・・。」
『どうしたの藤井ちゃん?』
「エル君、ホテルに戻ろう。ちょっと絹川さんに尋ねたいことがあるの。」
アパートのあった敷地から出て、一度だけ振り返る。
もう二度と悪霊なんかに関わるのはゴメンだ。
どうか成仏してくれますようにと祈りを捧げた。

自分を隠す

  • 2019.09.09 Monday
  • 10:55

JUGEMテーマ:

大きな穴があったら入りたい

 

恥を隠す為じゃない

 

世間から逃げる為でもない

 

ただ自分の姿を見たくないのだ

 

自分から逃げたいのだ

 

光が降り注ぐ場所じゃいつ鏡に映るか分からない

 

水たまりも ガラス窓も 車のフロントだって

 

ありとあらゆる場所に自分がいる

 

見たくないのだ もうゴメンなのだ

 

だから大きな穴を探す

 

頼むから どうか俺の姿を映さないでくれ

 

俺を見て一番傷つくのは俺なんだ

勇気の証 第二十二話 潜む者(2)

  • 2019.09.09 Monday
  • 10:28

JUGEMテーマ:自作小説

人間は悪霊に取り憑かれることがある。
だけど幽霊が悪霊に取り憑かれるなんてことがあるんだろうか。
・・・・・いや、ないとも言えないか。
人が人を呪うように、幽霊が幽霊を呪ったとしてもおかしくない。
元々が害のない幽霊だったとしても、取り憑かれたせいで悪霊に変わってしまうことだってあるんだろう。
例えばハチロー君のように。
『ずっと一緒にいようね。』
サウナルームの穴の下、配管から漏れる水に沈んでハチロー君の声を聴いていた。
この子は本来は悪霊ではなかった。
なかったんだけど、そうなってしまったのはハチロー君の後ろに立つ幽霊のせいだ。
小柄な男性でメガネを掛けている。
真面目そうな顔に真面目そうな雰囲気。
けどハチロー君以上に歪んだ気配を放っていて、その気配はまるで糸のようにハチロー君に絡みついていた。
普通の人よりも少し首が長く、クッキリと痣が残っているのは、首を吊った痕かもしれない。
とにかくこの男性はもう亡くなっているということだけは分かる。
そしてしきりに『アツコ・・・アツコ・・・』と呟いているのだ。
唱えることをやめてしまったら消えてしまうかのようにずっと。
霊感に目覚めた私は勘が冴えている。
そのせいか知らないけど、初めて会うこの男性が誰だか分かってしまった。
けど念の為に尋ねてみる。
『あなたもしかして・・・・ハチロー君の飼い主さんと結婚してた人?』
尋ねてもアツコしか呟かない。
ハチロー君に『この人は?』と聞いても『ずっと一緒にいようね』と求めるばかりだった。
『ずっと一緒だよね。』
『・・・・そうよ。でも私は幽霊のままじゃいられない。もうそろそろ離してくれないかな?』
大きな前足でガッチリと抱えられ、ほとんど身動きが取れないでいた。
私も幽霊なので水の中でも窒息したりはしないけど、同じ幽霊の手から逃れることは出来なかった。
『私は逃げないよ。だから手を離してくれないかな。』
『じゃあ言って。』
『何を?』
『その人に言って。僕とずっと一緒にいるって。もう僕はあーちゃんの猫じゃないから、捕まえてても意味ないよって。』
『やっぱり飼い主さんの元旦那さんだったのね。でもどうしてその人に言わなきゃいけないの?』
『だって僕があーちゃんの猫だと思ってるから。』
『・・・・ねえ。その人ってまだあーちゃんに未練があるの?君と一緒にいれば、いつかあーちゃんが取り返しに来ると思ってるってこと?』
『この人今でもあーちゃんが大好き。だから離してくれない。ずっと追いかけてくる。どこに逃げてもここに戻される。僕もう怖い。もうこの人イヤ。』
悲しそうに俯き、前足でしっかりと私を抱え込む。
『ちょっと!苦しい・・・・・、』
『一緒にいるって言って。』
『ハチロー君・・・・・。』
なるほど、なんとなく見えてきた気がする。
理由は分からないけど、元旦那さんも亡くなってしまったわけで、ずいぶん昔からハチロー君を縛り付けているみたいだ。
そうでなきゃ『ずっと』とか『どこに逃げても』とは言わないだろう。
私はこう思っていた。
動物と話せる私と出会ったが為に、この子は悪霊になってしまったんだと。
でも違う。そうじゃない。
この子はただ助けを求めていたんだ。
動物と話せる力と霊感。
両方を持つ私と出会ったことで、新たな飼い主になってもらおうとした。
そうすることで、この男性から解放されるから。
飼い主が変わればハチロー君を捕まえていたって意味がない。
自分の猫でもないのに、あーちゃんは取り返しに来たりしないだろう。
でもそうなるとこの男性は困る。
強い未練を抱いているようなので、なんとしてもあーちゃんと会う為にハチロー君を手放したくないのだ。
だからこの子を悪霊に変えて私を襲わせた。
今まさに彼の歪んだ殺気が、まるで糸のようにハチロー君に絡みついているから。
これさえなければこの子は可愛い子猫のままだったのに・・・・・。
全ては私の推測だけど、そう確信するほどに、この人からは歪んだ気配を感じていた。
『ねえ言って。僕とずっと一緒にいるって。』
今にも泣きそうな目で見つめるハチロー君に頬を寄せた。
『いる、いるよずっと。これ以上苦しむ必要なんかない。私に任せて。』
顔を上げ、ハチロー君を苦しめている彼に宣言した。
『今は私がこの子の飼い主なんです。あなたの別れた奥さんの猫じゃありません。』
そう言ったけど反応はない。でも続けた。
『この子を捕まえていたって彼女は戻って来ませんよ。だからもう自由にしてあげて下さい。』
伝えて答えを待つ。
すると一瞬だけ陽炎のように揺らいだ。
歪んだ殺気まで波打って、恐怖が肌に焼け付く。
『セッカク・・・ホリダシタノニ・・・・テバナスワケナイダロウ・・・・。』
『掘り出す?なにを?』
『アツコノタマシイニアイニ・・・・ナガノマデイッタ・・・・。デモアイツハイナカッタ・・・・。
カワリニ・・・・コウエンデソノネコヲミツケタ・・・・。ワザワザホリダシテ・・・・ヒトジチニシタノニ・・・・。
ドコノダレカワカラナイヤツニ・・・・・ウバワレテナルモノカ・・・・・。』
『公園から掘り出すって・・・・まさかあなたがハチロー君の遺体を!?』
『テイコウシタカラ・・・・フミツブシテヤッタ・・・・。ボクノカラダヲ・・・・・オモチャニスルナッテ・・・・ネコノブンザイデ・・・・ナマイキニ。』
『踏み潰すって・・・・・、』
『グチャグチャニ・・・・・カタチヲトドメナイホド・・・・。』
『ヒドイ!なんてことを・・・・、』
そう言いかけてふと思うことがあった。
『ねえ?踏み潰したのっていつのことよ?』
『ソンナコトハドウデモ・・・・・、』
『いつ?』
『・・・・アツコガナクナッテスグダ。』
『なら10年前・・・・。おじさんが埋めたっていう猫の死骸とは関係ないわけか・・・・。』
『ナニヲブツブツイッテイル・・・・。』
『あなたがハチロー君を踏み潰したっていう公園、数年後にも潰れた猫の死骸があったのよ。
でも10年前ならとうに土に還ってるから違うなって思っただけで・・・・、』
『ツヨイシネンガアレバ・・・・ネンゲツヲヘテモ・・・ニクタイハノコル・・・・。』
『強い思念・・・。』
『ハチローハ・・・マダイキタトイト・・・・ツヨイシネンヲ・・・イダイテイタ・・・。
スウネンタッテモ・・・・ニクタイガノコッテイタトシテモ・・・オカシクハナイ・・・・。』
『思念が肉体を守るってこと?』
『オレニ・・・フミツブサレタハチローハ・・・・マダウゴイテイタカラナ・・・・。
タマシイノチカラハ・・・・ニクタイヲ・・・コエルコトガアル・・・・。
ゲンニ・・・・ココニウマッタ・・・・アツコノホネダッテ・・・・、』
『亜津子さんの骨がどうかしたの?』
『モウイイ・・・・ムダバナシハジカンノムダダ!』
叫んだ瞬間、ハチロー君にまとわりついている糸が私にも伸びてきた。
『ちょっと・・・・やめて!』
途端に胸が苦しくなる。
おぞましい気配が全身を駆け巡って、自分の魂が気味悪く変質しようとしているのが分かった。
『私まで悪霊にするつもり!?』
『ジャマハサセナイ・・・・。リヨウデキルモノハリヨウスル・・・・・。』
『あなた最低ね!そんなことしたって彼女に嫌われるだけじゃない!もし再会することができたって、口すら聞いてもらえないわよ!!』
『ダイジョウブ・・・・・ヒトジチガイル・・・・・。』
初めて笑顔を見せた。
人の笑顔って和やかになるものだけど、悪霊に微笑まれると恐怖しか感じない。
『コレガアルカギリ・・・・ハチローハジユウニハナレナイ・・・・。』
『そ、それってハチロー君の!』
彼が取り出したのは鈴の付いた真っ白な首輪だった。
『コレハソノネコノタカラモノ・・・・。アツコニツクッテモラッタクビワダ・・・・。コレサエアレバ・・・・ハチローハオレニサカラエナイ・・・・。』
『ひどい・・・・なんでそこまでするのよ!』
『アツコニアイタイ・・・・アノトキハオレガワルカッタ・・・・イットキノキノマヨイデ・・・・・ウラギッテシマッタ・・・・。
デモイマハコウカイシテイル・・・・・。アツコガイナイナラ・・・・イキテイテモイミハナイカラ・・・・・クビヲツッタ・・・・。
イッショニテンゴクヘイコウトオモッテ・・・・オレモイノチヲタッタンダ・・・・、』
『勝手にもほどがある!ここまでひどい事しておいて一緒に天国なんか行けるわけないでしょ!』
なんて理不尽で不条理なんだろう。
なんて自分勝手でワガママなんだろう。
こんな相手じゃ話が通じない。
例え悪霊じゃなかったとしても、話し合って分かり合える相手じゃない。
ハチロー君は俯き、甘える・・・・というより、怖かっているように身を寄せてくる。
私は『ごめんね』と抱きしめた。
『ずっと辛かったね。飼うなんて言いながら君のことなんにも分かってなかった。ごめんね・・・・。』
この子はただの被害者だ。
あーちゃんの、そしてこの悪霊の。
助けてあげたい。だけどどうすればいい?
私に悪霊をやっつける力なんてない。
それどころか全身に絡まった糸のせいで、私までも悪霊になってしまうかもしれない。
もしそうなったら誰がこの子を救うんだろう。
《・・・・そんなの決まってる、私しかいない。飼い主の私が守らないで誰が守るのよ!》
そっとハチロー君から離れ、悪霊の前に立つ。
『あなたのやってることは全て間違ってる。あなたと彼女の間に何があったのかは知らない。
だけどハチロー君を巻き込んでまで自分勝手なことをやるのは許せない。だから・・・・それを返して!』
駆け出し、首輪を奪おうとした。
だけどその瞬間に悪霊は消えてしまった。
まるで手品みたいにパっと。
『どこ!どこ行ったの!?』
まさか潔く成仏したわけじゃないはずだ。
きっと悪いことを企んでるに違いない。
『ハチロー君!とにかくここから逃げよう!』
『ずっと一緒に・・・・、』
『いる!離したりしないから!』
そう言って背中を押した時だった。
頭上から光が差して「大丈夫か!」と声がした。
『絹川さん!』
「だから言わんこっちゃない!そいつはもう悪霊なんだ!飼い主の責任がどうとか言ってる場合じゃ・・・・、」
『違うんです!ハチロー君は悪くない!』
私はさっきまでの出来事を話した。
ほとんど叫びに近いほどの声で。
絹川さんは「そんな馬鹿な・・・・」と狼狽えていた。
「あいつの別れた旦那が悪霊だってのか?」
『ついさっきまでここにいたんです。でもいきなり消えちゃって。』
「しかしこのホテルから悪霊の気配なんて感じたことはないぞ。」
『きっとここに隠れてたんですよ。だって気味悪がって誰も近寄らないんでしょ?だから穴の下に身を潜めてたんです。』
「信じられん・・・・。」
唸る絹川さんだったけど、「とにかく上がってこい」と言った。
「長いこと幽体離脱したままじゃ本物の幽霊になっちまう。あんたの肉体は部屋のベッドに寝かせてあるから、今すぐに・・・・、」
言いかける絹川さんの後ろから人影が現れる。
《ボーイさん?》
あのシルエットはおそらく彼のものだ。
けどその気配は違っていた。
『危ない!』
叫ぶのと同時に絹川さんが殴られる。
後頭部をガツンとやられて、ノックアウトされたボクサーみたいに穴に向かって倒れてしまった。
咄嗟に手を広げたけど、幽霊の私じゃ受け止められない。
そのまま穴の下に落ちて、澱んだ水に沈んでしまった。
『絹川さん!』
呼びかけてもピクリともしない。
『・・・・・・・。』
ボーイさんに取り憑いた悪霊はニヤリとほくそえみ、そのまま立ち去ってしまった。
『どうしてこんな事するのよ!なんで周りを巻き込んでまで・・・・・。』
叫んでも声は届かない。
絹川さんはすぐに意識を取り戻したけど、後頭部を殴られたせいでフラついている。
バタバタと手足をもがくばかりで、水から抜け出せないでいた。
《このままじゃ・・・・。》
早く肉体に戻って助けを呼ばないと。
『ねえハチロー君!私をすぐに部屋まで運んで!』
『ごめんなさい・・・・。』
『え?』
『僕悪いことした。ごめんなさい。』
『ハチロー君・・・・・。』
謝ることなんてないのに・・・・と、抱きしめそうになるのを我慢して、『今は!』と叫んだ。
『絹川さんを助けないと!すぐに私を部屋まで運んで!君に連れてってもらった方が早いから!』
『うん・・・・。』
のそりと立ち上がり、私を咥えて走り出す。
あっという間に部屋に到着したけど、ベッドの上に肉体はなかった。
『あれ?絹川さんはここに寝かせたって言ってたのに。』
部屋を見渡してもどこにもない。
廊下に出ても見当たらない。
『そんな!どこいっちゃったの!?』
頭を押さえて絶叫する。
すると廊下の奥から「お前何してんだ!」と誰かの叫び声が聞こえた。
急いで向かってみると、恰幅のいいベテランといった風情のボーイさんが倒れていた。
頭を押さえて血を流している。
「内藤!お客さんさらってどうするつもりだ!?」
彼の視線の先にはエレベーターがあって、私の肉体を担いだボーイさんが立っていた。
目が合うなりニヤリと笑い、ドアを閉じてしまう。
『ちょっと待って!』
ドアをすり抜けると、もうそこにはカゴはなかった。
けど下の方から音がする。
飛び降りようかどうしようか迷った。
今の私は幽霊だから、暗いエレベーターの中に飛び降りても平気なんだろうけど・・・やっぱり怖い!
『呼んでくる!』
ハチロー君が叫ぶ。
『呼ぶって誰を?』
『エル君!』
『そういえばずっと姿が見えないままだけど、あの子の居場所を知ってるの?』
『うん!』
どこかへ走り去り、すぐにエル君を咥えて戻ってきた。
『はい!』
私の腕にボトっと落とす。
かなりグッタリしているけど・・・・大丈夫なんだろうか?
『エル君!しっかり!』
身体を揺さぶると『ううん・・・・』と目を覚ました。
『藤井ちゃん・・・・?』
『そうよ!今までどこいたの?』
『ハチローの奴に不意打ちを食らったんだ・・・・。後ろからいきなり猫パンチされて、廊下のゴミ箱に捨てられてた。』
『そんな・・・・。』
『俺のことが怖いからやっつけようとしたんだろうな。見つけたらタダじゃおかな・・・・、』
そう言いかけて『ハチロー!』と目を見開いた。
『この野郎!よくもやってくれやがったな!』
頭に飛び乗ってバシバシ猫パンチを食らわせている。
『ごめんなさいごめんなさい!』
『ボコボコにしてやる!』
あまりにパコパコ叩くものだから『もう許してあげて』と止めた。
『離せ!俺の怒りはこんなもんじゃないぞ!』
『事情があるのよ。ハチロー君は被害者、本当の悪霊は別にいたの。』
『なんだって?』
『それより今は絹川さんを助けないと。だけど私の肉体を取り返してたんじゃ間に合わない。ねえエル君、なにかいい方法ない?』
『何を言ってるのかサッパリ。なんかあったの?』
『説明してる暇がないの!幽霊でも溺れてる人間を助ける方法ってある?』
まったく状況が飲み込めないんだろう。しかめっ面をしながら『あるにはあるけど』と言った。
『ほんと!どうすればいいの?』
『乗り移るとか。』
『乗り移る・・・・。』
そういえばあのボーイさんも悪霊に乗り移られていた。
つまり私にも出来るんじゃ・・・・、
『でも難しいよ?そんな簡単にいかないんだ。』
『私じゃ無理?』
『つい最近霊感に目覚めた人じゃ無理だと思う。もっとキャリアのある幽霊じゃないと。』
そう言って『おいハチロー!』と睨んだ。
『なんだかよく分からないけど、藤井ちゃんが困ってる。俺を不意打ちした罰としてなんとかしてこい。』
『ど、どうすればいいの?』
『溺れてる人に乗り移って助ければいいんだ。』
『どうやって?』
『身体に入ればいいんだよ!上手くいったら不意打ちしたことは許してやる。』
『ほんとに!?』
『ほんとだ。だからすぐにその人を助けてこい。』
『うん!すぐ助けてくる!』
クルっと背中を向け、一目散に駆け出していった。
絹川さんはあの子に任せるしかない。
私は肉体を取り戻さないと。
「いきなり殴りやがって・・・・なんなんだアイツ。」
頭を押さえていたボーイさんが立ち上がる。
「こうしちゃおれん!」と駆け出し、スタッフ専用と書かれた扉の向こうに消えていった。
『藤井ちゃん、何がどうなってんの?』
不思議そうにするエル君に『追いかけながら話すよ』と言った。
『追いかける?誰を?』
『いいからついてきて。』
私はカゴのないエレベーターの下を睨んだ。
カゴを吊る何本かの丈夫なワイヤーがまっすぐ伸びている。
こんな風にエレベーターの中を見るのは初めてで、少し不気味な感じもした。
暗くて一番下まで見えないし・・・・・。
『ねえエル君。幽霊ってさ、高いところから飛び降りても平気だよね?』
『もしかしてここから飛び降りるの?』
『うん。その方が早いと思うから。』
『なんだか分からないけど、とにかく急いでるんだよな?飛び降りたってぜんぜん平気だからジャンプしなよ。』
『う、うん・・・・平気だもんね、幽霊だから。』
問題ないとは分かっていても、真っ暗で細いこの場所を飛び降りるには勇気が必要だった。
モタモタしていると『先に行くよ』とエル君が飛び降りてしまう。
『あ、ちょっと・・・・、』
なんの躊躇いもなく下の方へ消えていく。
私も息を飲み、『大丈夫!』と自分に言い聞かせた。
『モタモタしてたらそれこそ肉体に戻れなくなっちゃう。怖がってる場合じゃない!』
幽霊だけど、息を吸い込む真似をして覚悟を決める。
思い切って真っ暗な中へジャンプした。

今日はお休みです

  • 2019.09.08 Sunday
  • 10:16

今日はお休みです。

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    胸を抉る視線

    • 2019.09.07 Saturday
    • 12:26

    JUGEMテーマ:

    弁当を買ったら箸がついていなくて

     

    ベンチに座って手で食べる

     

    小鳥が寄ってきて分け前をねだり

     

    遠くで野良猫も様子を窺っている

     

    これは俺の弁当だと

     

    背中を向けて頬張った

     

    人の目が突き刺さる

     

    食べ物を取られることよりも

     

    哀れみと蔑みの視線の方がよっぽど痛かった

     

    勇気の証 二十一話 潜む者(1)

    • 2019.09.07 Saturday
    • 10:24

    JUGEMテーマ:自作小説

    幽霊にも色々いる。
    守護霊、浮遊霊、地縛霊、そして悪霊。
    知識はあっても、具体的にどう違うのかは分からなかった。
    なにせ一昨日に霊感に目覚めたばかりなので、幽霊は幽霊としか思えない。
    けど人間にも色んな人がいるように、幽霊にも色んなタイプがいるんだろう。
    私は今、怖い幽霊に捕まっていた。
    鬼頭さんや陽菜ちゃんのお母さんや絹川さんが忠告してくれたのに、油断していたせいで取り憑かれてしまったのだ。
    「大丈夫かい?」
    絹川さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
    私は目を閉じ、黙ったまま俯くしかなかった。
    だって目を開けたら悪霊の姿が飛び込んでくる。
    ベッドのすぐ隣に立つハチロー君が・・・・。
    「やっぱり病院へ行った方がいいんじゃないですか?」
    ボーイさんが言うけど、絹川さんは「病院じゃどうにもならん」と答えた。
    《ほんと私はドジだ。油断してたからこんなことに!》
    ・・・・ここは私の泊まっている部屋。
    ついさっきまで水の中に沈んでいた。
    足をすべらせ、穴の中に落ちてしまったせいで。
    でもあれはつまづいたとか転んだとかじゃない。
    ハチロー君の仕業だ。
    そう深くない水なのに溺れてしまったのは、あの子が私を離さなかったから。
    なぜなら私の命を奪おうとしていたから。
    『ずっと一緒にいよ。』
    遠のく意識の中でそう語りかけてきた。
    もちろん断った。
    だって死にたくない。野生動物保護のボランティアだってまだ一年しかやっていないのだ。
    《ごめん、私は幽霊になることは出来ない。》
    そう答えた瞬間に意識を失い、次に目を開けた時には部屋のベッドに寝かされていた。
    すぐ傍には恐ろしい幽霊になってしまったハチロー君がいる。
    なにせ顔だけで人間くらいの大きさがあるのだ。
    全身だと人間の三倍近い大きさだ。
    変わったのは身体の大きさだけじゃない。
    目は真っ赤に血走り、毛はずぶ濡れになって、あちこちに怪我を負っている。
    何より傍にいるだけで身震いするほどの嫌な気配が伝わってくるのだ。
    湿り気の強い空気のように、いくら振り払ってもまとわり付く感触のせいで、鳥肌が立ちっぱなしだった。
    「やっぱりやめた方がよかったんだ。いくら動物と話せるといっても相手は幽霊だ。一昨日に霊感に目覚めたばかりじゃ手に余る。」
    絹川さんは申し訳なさそうに言う。
    「俺が情けないせいで・・・・すまん。」
    「謝らないで下さい・・・・私はまだ諦めたわけじゃないですから。」
    「ハチローを成仏させようってのか?それはやめた方がいい。こいつは俺が責任をもって・・・・、」
    「無理です。もう私に取り憑いてるから。」
    成仏するまではぜったいに私から離れない。
    ハチロー君の強い感情が肌を通して伝わってくるのだ。
    「絹川さん、ボーイさん、席を外してもらえませんか。」
    「席を外すって・・・・、」
    「ダメですよ。顔色だって悪いし唇も紫色だし。やっぱり病院に行きましょ。」
    「私なら平気です。」
    「平気なわけないだろう。いつハチローが悪さをするか分からん。こいつはもう悪霊になっちまったんだ。」
    怯える絹川さんの声が響く。
    それでも私は「いいんです」と言った。
    「私とハチロー君だけにして下さい。」
    「しかし・・・・、」
    「大丈夫、エル君がいるから。」
    腕の中で大人しく座っているこの子がいなかったら、私はあのまま死んでいたかもしれない。
    ハチロー君が私を連れて行こうとした時、この子が必死に守ってくれたのだ。
    全身の毛を逆立て、フシャー!と唸り、鼻面に皺を寄せて牙を剥いていた。
    あの時の迫力は尋常じゃなかった。
    ハチロー君はその気迫に圧され、私を連れて行くことが出来なかった。
    《ありがとね、エル君。》
    頭を撫でると、グルグルと喉を鳴らしていた。
    「ハチロー君は私を狙ってるんです。だったら私の声しか届かない。」
    「ほんとにいいのか?何かあってからじゃ遅いんだぞ。」
    「そうですよ。今からでも病院に・・・・、」
    「大丈夫、必ずこの子を成仏させてみせます。」
    二人は沈黙する。
    「そこまで言うなら・・・・」と絹川さんが立ち上がった。
    「しかし無理はするなよ。もし何かあったらすぐに助けを呼ぶんだ。」
    「私も力になれることがあったら言って下さい。すっ飛んできますから。」
    「ありがとう。」
    二人の足音が遠ざかっていく。
    パタンとドアが閉じられて、部屋の中は静まり返った。
    恐る恐る目を開け、怖いのを我慢して隣を見る。
    悪霊となったハチロー君はじっとこっちを睨んでいた。
    大きな二つの目は瞳孔が縦長に伸び、獲物を狙うような視線に思わず身震いする。
    私と出会った時は可愛らしい子猫だったのに、今は見るのもおぞましい悪霊になってしまった。
    ・・・・きっと私のせいだ。
    飼い主を失い、その現実を受け入れられずに10年も幽霊をやっていた。
    そこへ動物と話せる私が現れて、10年分の孤独とか悲しみが爆発してこうなってしまったんだろう・・・・と思っている。
    「ねえハチロー君。私にどうしてほしい?」
    答えは分かっているけどあえて尋ねる。
    すると間髪置かずに『ずっと一緒にいたい』と答えた。
    『あのね、あのお兄さんね・・・・、』
    「あのお兄さん?」
    『車に撥ねられた兄さん。』
    「・・・・ああ、常沼君。彼がどうかしたの?」
    『死にかけたでしょ?じゃあ藤井ちゃんも事故して死んだら幽霊になるから、僕と一緒にいられるよね。』
    「なるほどね・・・あれを見て私を幽霊にしようと思ったわけか。」
    『僕ね、思い出した。』
    「なにを?」
    『あーちゃんが一緒に死のうねって言ってたの。』
    「あーちゃん?」
    『ご主人。』
    「ご主人って・・・・ここで亡くなった女性のこと?」
    『事故したお兄さんも死にたいって言ってたでしょ?でも助かったでしょ?あれ見て思い出した。あーちゃんも死のうとしたけど、死ななかったこと。』
    「え!それどういうこと・・・・、」
    身を乗り出すと、ハチロー君が私を捕まえようと手を伸ばしてきた。
    けどエル君がフシャー!っと唸ってその手を払う。
    怯えたハチロー君はビクっと後ずさった。
    『藤井ちゃんに悪いことするな!』
    今にも飛びかかろうとしている。
    ハチロー君は怯えたように目を逸らした。
    「エル君、そこまで脅さなくても・・・・、」
    『だってこいつ本気で藤井ちゃんを殺そうとしてるんだぜ。俺が猫じゃなかったらとうに殺されてるよ。』
    「猫同士だからお兄さんのエル君を怖がってるってこと?」
    『うん。もし俺がネズミの幽霊だったらパクって食われてるね。』
    「それはそうだろうけど・・・・。」
    同族だからこそ感じる恐怖があるのかもしれない。
    とにかくエル君がいてくれるなら、あの世に連れて行かれる心配はなさそうだ。
    小さいけど頼もしいボディガードを「ありがとね」と抱きしめた。
    「ハチロー君、こっちを見て。」
    怯えるハチロー君に向かって語りかけると、何も言わずに背中を向けてしまった。
    そして壁をすり抜けてどこかへ去ってしまう。
    「あ、ちょっと!」
    慌てて部屋の外に駆け出す。
    すると食事を運ぼうとしていたボーイさんと出くわして、荷台にぶつかってしまった。
    ガラガラと音を立てて落ちていく料理と食器。
    「ごめんなさい!」と拾おうとすると、「平気ですから」と荷台を立て直していた。
    「それよりどうしたんですか?血相変えて。」
    「ハチロー君が消えちゃったのよ!」
    「ハチローって・・・・あの悪霊の?」
    「どこに行ったか見ませんでした?」
    「幽霊は見えないもんで。」
    「ですよね・・・・。」
    「あ、絹川さん呼んできましょうか?」
    「はい!・・・いや、やっぱりいいです。」
    「どうして?霊感のある人じゃないと分からないでしょ。」
    「だって私が引き継いたんです。責任をもってハチロー君を成仏させるって。なのにこんなにすぐ絹川さんを頼れない。」
    「そんなこと言ってる場合じゃないと思いますけど・・・・、」
    ボーイさんの言うことはもっともだけど、これ以上絹川さんに負担を背負わせたくなかった。
    10年も苦しんできて、ようやく解放されたばっかりだっていうのに。
    《どうにかしなきゃ。》
    とは言っても一人では手に余る。
    ここはエル君にお願いするしかない。
    「ねえエル君、手分けしてハチロー君を・・・・、」
    そう言って振り返るとどこにもいなかった。
    「あれ?エル君!」
    またどこかに行ってしまったんだろうか?
    何度呼んでも返事がなくて、ボーイさんが「やっぱり絹川さんにも手伝ってもらいましょう」と言った。
    「悪霊って怖いんでしょ?ほっといたらどうなるか。」
    「・・・・そうだね。意地張ってても仕方ない。もし他の人に危害を加えたりしたら・・・・、」
    「うわあ!藤井さん後ろ!!」
    ボーイさんがいきなり腰を抜かす。
    私は振り返る前から背後に何がいるのか悟った。
    一瞬にして全身に鳥肌が立つほどの気配がそこにある。
    霊感のないボーイさんでも見えてしまうほど、今のあの子は強烈な殺気を走らせていた。
    「藤井さん!早くこっちへ!」
    手招きをするボーイさん。
    私は小さく首を振った。
    もう逃げられない。
    エル君がいないんじゃこの子を追い払うことは出来ないのだ。
    襟元に噛み付かれ、親猫が子猫を運ぶ時みたいに私を連れ去る。
    「もしもし絹川さん!大変です!すぐ来て下さい!!」
    ボーイさんが電話を掛けている。
    私はその間にどんどん遠ざかっていく。
    その時、ふとおかしなものが目に入った。
    ボーイさんの近くに私が倒れているのだ。
    でも私は今ハチロー君に捕まっているわけで・・・、
    《・・・あ、これもしかして幽体離脱?》
    瀕死の状態にあった常沼君が会いに来た時のように、私の魂も肉体から抜け出てしまったらしい。
    けど彼の場合は自分の意思だけど、私の場合は違う。
    ということはこれって、もう死んじゃったも同然なのかもしれない。
    だってもしこのまま肉体に戻れなかったらずっと幽霊のままだ。
    『ずっと一緒にいようね。』
    『待って!私はまだ死にたく・・・・、』
    『捨てるの?』
    『え?』
    『責任があるんでしょ。』
    『もちろん捨てたりしない。けど死ぬつもりもない。お願いだからちょっと落ち着いて!』
    『一緒にいようね。』
    いくら叫んでも離してくれない。
    ハチロー君に咥えられたまま、二階にある古いドアの前まで連れて来られた。
    『ここは宿直室だった部屋・・・・。』
    かつて自分が死んだ場所へ来て何をするつもりなんだろう?
    スルリとドアを抜けて、シャワー室の奥にあるドアの前で私を下ろした。
    『サウナルーム・・・・。』
    ここはハチロー君にとって辛い場所のはずだ。
    なのに私と一緒に来るってことは、なにか伝えたいことがあるのかもしれない。
    『一緒にいようね。』
    血走った目を向けて言う。
    ぜったいに逃がさない・・・そんな意志が伝わってくる。
    『そんな目をしなくても逃げないよ。』
    抵抗しても無駄だろう。
    かといって自分の命を諦めるつもりはない。
    悪霊から解放されるたった一つの方法は成仏させてあげること。
    だったらこの子が何をしようとしているのか知る必要がある。
    『ここはハチロー君が亡くなった場所だよね?実はずっと不思議に思ってることがあるんだけど、君は飼い主さんと一緒にサウナルームに入ってたの?』
    猫と一緒にお風呂に入る人はいる。
    けどさすがにサウナは聞いたことがない。
    猫にサウナは暑すぎる。一緒に入るなんて危険なこと、自分の死後もハチロー君のことを気にしていた飼い主さんがやるとは思えない。
    『君は飼い主さんと一緒に穴の下で亡くなっていた。でも一緒に入っていたとは考えいにくい。じゃあどうして同じ場所に倒れていたの?』
    尋ねても答えない。言いたくないことがあるんだろうか。
    『君は瓦礫の下に倒れてたんだよね?ということは飼い主さんと一緒に落ちたことになる。
    けど飼い主さんは君を大事にしていたはず。サウナに連れて入るなんて、そんなことするはずがないと思うの。
    べえ、どうして瓦礫の下にいたの?』
    『・・・・・・・。』
    『ハチロー君?』
    『あーちゃんなんか大キライ。』
    ボソっと呟く。
    自分の飼い主を嫌い?
    なぜ?
    『それはもしかして、あーちゃんが君と一緒に死のうとしていたから?君にとっては無理やり殺されるのと同じだよね?だから嫌いなの?』
    『僕思い出したもん。あーちゃんは僕と一緒に死のうとして、でも死ななかった。』
    『それさっきも言ってたね。まさかあーちゃんは自殺しようとしていたってこと?』
    『お金もないし、離婚したし、あと病気にもなったし。だから死ぬって言ってた。』
    『病気?』
    『悪い病気になって、病院にいっても辛いから、行きたくないって。もう私にはなんにもないから死にたいって。』
    『人生に絶望してってことね?』
    『いつもね、ボーっとしながらもう死にたいなって言ってた。山とか森に行って死のうとしたけど、上手くいかなくて生きたままだったよ。』
    『そっか・・・・そういう願望があったんだ。』
    人間は一つの辛いことには耐えられるけど、幾つも重なると限界がくる。
    足し算じゃなくて掛け算で膨らむのが心の重圧だ。
    それに耐えられなくなった時、命を絶とうとするものなのかもしれない。
    『あーちゃんはね、この部屋で死ぬつもりだった。それで僕は嫌なのに殺そうとした。だからここに逃げた。』
    『ここに逃げるって・・・・サウナルームに?』
    『だってこの部屋で一緒に死のうとしたんだもん。だから逃げた。でも捕まえようとしてくるから暗い部屋に逃げたんだ。だって人間は暗いところ見えないでしょ。』
    『自分の身を守ろうとしてサウナルームに逃げたってことね。』
    『シャワーの部屋は暗かったし、それにサウナのドアがちょっとだけ開いてたから。隠れてたら見つからないと思った。』
    『怖かっただろうね・・・可哀想に。でもあーちゃんはどうしてこの場所を選んだの?友達の職場なのに。』
    『知らない。なんか友達がいるからって言ってた。』
    『友達がいるから・・・・か。』
    誰だって孤独は寂しい。
    それは自殺しようとする人間だって同じなのかもしれない。
    山や海で死んでしまえば、死んだあとも一人きりになってしまう。
    けど友達のいる場所なら違う。
    死を悲しんでもらえるし、昔からの仲だったら弔ってもらうことも出来るかもしれない。
    離婚して、さらに両親とも上手くいっていなかった彼女にとっては、絹川さんのいるこの場所が最後の砦だった可能性はある。
    《だからここへ来た理由を絹川さんが尋ねても答えなかったんだ・・・・。今から死にますなんて言えないから。》
    きっと彼女は絹川さんに看取ってほしかったんだろう。
    それに自分が死んだ後じゃハチロー君を連れて行くことは出来ない。
    だから先に手にかけようとした。
    それを嫌がったハチロー君はサウナルームへ逃げた。
    彼女はそれを追いかけてあんなことに・・・・・。
    《これってつまり、入りたくてサウナルームに入ったわけじゃないってことよね。ハチロー君を追いかけて中に入って、捕まえようとしている間に床が抜けてしまった。
    ということはこの事故って、絹川さんにはぜんぜん責任がないじゃない!なのに遺言のせいで10年も苦しんでたなんて・・・・。》
    会ったことのない人を悪く言いたくないけど、彼女に対してちょっと怒りが沸いてくる。
    大事な猫と友達なのに、どうして苦しめるようなことをしたんだろう。
    いくら人生に絶望したからって、周りを巻き込んでいいはずがないのに!
    『僕まだ死んでないよ。』
    『え?』
    『こうして生きてるよ。』
    『ハチロー君・・・・・。』
    『あーちゃんがね、僕を捕まえようとしててね、それですごい音がして床が抜けたの。でも僕はピョンってジャンプして外に逃げようとしたんだ。
    そうしたらね、あーちゃんが僕の足を掴んでね、引っ張って一緒に落ちたんだ。』
    『引っ張ってって・・・・。そこまでして無理矢理一緒に死のうとするなんて・・・・、』
    『それでね、下に落ちてね、ガラガラっていっぱい床が壊れたのが落ちてきて埋まっちゃった。
    でも目を開けたらあーちゃんはいなくなってて、代わりに知らない人間がたくさんいた。』
    『ということは、ハチロー君は落ちた時点ではまだ生きてたってことなのね?』
    『ずっと生きてるよ。死んでなんかないもん。死んだのはあーちゃんだけ。』
    『・・・・ねえ、その話って誰かにしたことはある?』
    『うん。』
    『だれ!?』
    『猫。』
    『どの猫!?』
    『忘れた。』
    『もしかしてだけど・・・・季美枝ちゃんの猫じゃない?あの子言ってたのよ、君は病気で死んだって。
    あれって勘違いしてるんじゃないのかな?飼い主さんが亡くなった話を、ハチロー君が亡くなった話だと勘違いして覚えてたとか。』
    『知らない。』
    『ほんとに?』
    『分かんない。』
    『・・・・・・。』
    この子が本当のことを言っているのかどうか?
    他にも話を聞いた誰かがいれば確認が取れるんだけど、それは難しいようだった。
    今さら季美枝ちゃんの猫に聞いてもハッキリしないだろう。
    ただ一つだけハッキリしていることがある。
    ハチロー君はまだ自分が生きていると信じている。
    10年も幽霊でい続けて、今は悪霊になってしまった。
    だったら言葉で説得したところで成仏なんてしないだろう。
    《なにか・・・なにかないかな?》
    自分が死んだと納得させられるものがあれば、成仏させてあげることが出来るかもしれない。
    『藤井ちゃんは僕と一緒にいるよね。』
    『もちろんよ。だけどハチロー君のやり方は間違ってる。私を無理矢理に幽体離脱させるなんて・・・・、』
    そう言いかけてハっと気づいた。
    『ねえハチロー君。どうして私の魂を抜いたの?』
    この子は自分が生きていると思い込んでいる。
    だったらどうして私の魂を抜いたんだろう?
    生きてると思ってるなら、今までのように一緒にいればいいだけなのに。
    《ほんとはもう死んでるって自覚してる?でもそれを認めたくないだけなんじゃ・・・・、》
    『あの時すごい怖かった。』
    『え?』
    『僕が穴から逃げようとした時、ガシって足を掴まれて。穴に引きずり込まれて息が出来なくなったもん。』
    『息が?もしかして一瞬で落ちたわけじゃないの?』
    『違うよ。だってあーちゃんは穴の端っこにしがみついてたもん。それで穴が重くなってバキバキっていって崩れたの。
    僕は穴に挟まったままで、だから息ができなくて苦しかった。』
    『穴に埋まったまま苦しかった・・・・・。』
    それって私が見た夢と一緒だ。
    そして絹川さんも同じ夢を見たと言っていた。
    『ねえハチロー君。君さ、私の夢に入ってきた?今日すごく嫌な夢を見たんだけど、君が苦しんだ時とまったく同じ状況なのよ。あれは君の仕業だったの?』
    『そんなことしてない。』
    『なら絹川さんには?10年前、彼の夢に入ったりしてない?』
    『してない。人間の夢なんか興味ない。』
    『じゃあどうして・・・・。』
    『ねえ。ずっと一緒にいよ。』
    『さっきも言ったけど、私はハチロー君を捨てたりしない。だからずっと一緒だよ。』
    『ずっと一緒って言って。』
    『うん、ずっと一緒だよ。』
    『そうじゃなくて、このドアの向こうに。』
    『ドアの向こう?サウナルームにってこと?』
    『聞こえるように。』
    『聞こえるようにって・・・・誰に?』
    『ねえ言って。』
    『どうしてそんなこと・・・・、』
    『いいから言って。』
    『ねえ待って。君の飼い主さんはもう亡くなってるのよ。そして君も・・・・、』
    言いかけた瞬間、ドアの向こうで誰かが動く気配がした。
    ガチャっと取っ手が動き、ゆっくりとドアが開いていく。
    「だ、誰かいるの・・・・?」
    怖くなり、後ずさる。
    けどハチロー君に『言って』と押し戻された。
    『ちょっと待って!言うっていったい誰に?』
    ドアはどんどん開いていって、奥から嫌な気配が溢れる。
    ここにいたくない!
    そう思った。今すぐ走って逃げ出したいと。
    けどハチロー君は離してくれない。
    ドアは完全に開き、異様な気配も増していく
    《な・・・何かが迫ってくる・・・・。》
    真っ暗なサウナルームを睨んでいると、とつぜん二つの手が飛び出してきた。
    私の首を締め上げ、中に引きずり込もうとする。
    とてつもない怪力で抗うことが出来ない。
    《いや!誰か!!》
    必死に助けを求めるけど声すら出せない。
    目を閉じて苦しんでいると、頭の中に男の人の声が響いてきた。
    『アツコ・・・・・。』

    絵が与えてくれる幸福

    • 2019.09.06 Friday
    • 12:31

    JUGEMテーマ:

    絵の具を買いに画材屋へ行き

     

    入口にあったミーシャの絵に目を奪われる

     

    絵の具を持ってレジへ向かう時

     

    広重の絵に心を奪われる

     

    買い物を終えて店内を見渡した時

     

    ゴッホの絵に意識が揺さぶられる

     

    店を出た時 絵の具の入った買い物袋を揺らしながら

     

    支払った金額以上に幸せな気分になっていた

    勇気の証 第二十話 見える人(2)

    • 2019.09.06 Friday
    • 10:34

    JUGEMテーマ:自作小説

    目の前に大きな背中がある。
    料理長の絹川さんだ。
    私はギュっとエル君を抱きしめながら、絹川さんの後ろに隠れていた。
    「怖いかい?」
    クスっと笑う絹川さんに、引きつった顔でコクコクと頷くことしか出来ない。
    彼はジャラジャラと音を鳴らしながら、輪っかに付いたたくさんの鍵をいじっていた。
    今から例の古いドアを開けるのだ。
    10年前、ここで一人の女性と一匹の猫が亡くなった。
    絹川さんからその時の詳しい話を聞かされて、どうにか中を見せてもらえないかと頼んだのだ。
    《怖いなあ・・・怖いけど逃げちゃダメだ。》
    動物の幽霊は怖いと思わないけど、人間の幽霊には抵抗がある。
    得意な人なんていないんだろうけど、私は特にこういうのが苦手だった。
    「やっぱりやめとくか?」
    あんまりにも怖がるもんだから、絹川さんが心配してくれている。
    けどここまで来て引き返すわけにはいかない。
    上手くいけばハチロー君を成仏させてあげることが出来るかもしれないんだから。
    「・・・・大丈夫です。開けて下さい。」
    深呼吸しても恐怖は消えないけど、強がりで誤魔化す。
    「大丈夫には見えないけどなあ。」
    クスっと笑ってから鍵を差し込んでいる。
    木目模様の古いドアは所々傷んでいた。
    染みのようなモノがあったり、何かで引っ掻いたようなあとがあったり。
    薄くて見えないけど落書きのあともある。
    青銅色の取っ手もかなり古びていて、上手く鍵が回らないのか、何度もガチャガチャやっている。
    ゴクリと息を呑みながら睨んでいると、「開いたぞ」と言われた。
    「・・・・ゴク。」
    「ほんとに大丈夫か?」
    「はい・・・・・。」
    「じゃあ入るか。」
    ドアを開き、絹川さんが入っていく。
    電気がついて室内が照らされた。
    けどLEDでも蛍光灯でもないオレンジ色の電球は、余計にほの暗さを醸し出す。
    ぼんやりと浮かび上がる室内を見ただけでも足が竦んだ。
    『藤井ちゃんビビりすぎだって。心配しなくても幽霊の気配は感じないから。』
    「そ、そう・・・?なら怖がることないね。」
    思い切って足を踏み入れる。
    前もって絹川さんから聞かされていた通り、中は物置になっていた。
    タワーのように積み上げられたパイプ椅子、パズルのようにキッチリと押し込められた長机。
    折れた箒に取っ手がないチリ取り。
    壁際の本棚は幾つか棚が抜けていて、数冊の本が横たわっている。
    それらの全てにホコリが溜まっていて、長い間誰も手を付けていないんだなと一目で分かる状態だった。
    「ここに入るのは年に二回の総点検の時くらいだ。みんな嫌がるからいつも俺が点検してる。
    まあ点検なんて言っても、ザっと中を見渡すくらいだけど。」
    「あの・・・・、」
    「なんだ?」
    「今は物置になってるけど、昔は違ったんですよね?ここでハチロー君と飼い主さんが亡くなるまでは。」
    「ああ、ここは料理人の宿直室だった。今は別の部屋に移ってるが、昔はよくここで寝泊りしたもんだ。」
    そう言って乱雑に置かれたシーツや枕やスリッパやを足でどかしながら奥へ進んでいった。
    後をついて行くと、一段上がって畳の部屋になっていた。
    「ここで寝てたんだ。ロッカーもあの時のままだし。すぐ隣の細いドアの向こうには洗面所とシャワー室がある。
    でもってシャワー室の奥にある狭い部屋で・・・・・、」
    「亡くなられていたんですね。」
    絹川さんは小さく頷き、懐中電灯を照らした。
    「シャワー室は灯りのスイッチが壊れてるんだ。あの時からずっとな。」
    「・・・・・・・。」
    私は息を呑み、「こっちだ」と進んでいく絹川さんについて行く。
    擦りガラスの細いドアの向こうには洗面所があって、鏡に映った自分に一瞬だけビクっとしてしまった。
    『あははは!』
    「しょうがないじゃない・・・・怖いんだから。」
    エル君は可笑しそうにするけど、私は生きた人間なのだ。
    やっぱりこういう状況には抵抗がある。
    洗面所の奥にはカーテンがあって、先がシャワー室になっていた。
    ひっくり返った桶、転がっているシャンプーとリンス、薄汚れたタオル。
    点検の時もザっと見回るだけだと言っていたけど、ほんとにただ見回っているだけらしい。
    でもそれは仕方がないのだ。
    絹川さんは言っていた。
    正直なところ、本当ならこの部屋に入りたくないし、ここにある物にも触れたくないと。
    なぜなら友人であった女性が亡くなってしばらくの間、悪夢を見たからだ。
    底なし沼のような深い泥に吸い込まれ、誰かに足を引っ張られて、二度と這い上がれない夢を。
    友人が亡くなって一ヶ月ほどそんな夢が続いたそうだ。
    そしてある日のこと、目を覚ますと枕元に友人が立っていて、こう語りかけてきたらしい。
    《私はもうどうやっても生き返れない。諦めてこの世を旅立つ。
    だけどハチローのことだけが気がかり。あの子はまだ生きようとしている。私と一緒に・・・・。》
    幽霊となってしまった友人が現れたことに驚く絹川さんだったけど、黙って話を聞いていたそうだ。
    《一つだけお願いがある。どうにかしてあの子を成仏させてあげてほしい。そうでないといつ悪い幽霊に変わるか分からない。
    こんなこと絹川君にしか頼めない。昔からの友達の頼みだと思って、どうかハチローをお願いします。》
    そう言い残して消えた。
    それ以来、悪夢を見ることはなくなったけど、代わりに子猫の幽霊を見るようになった。
    ハチロー君だ。
    成仏させてほしいと言われても、何をどうすれば成仏してくれるのか分からない。
    言葉も通じない、何を考えてるのかも分からない。
    かといって放っておけば悪い霊になってしまうかもしれない。
    絹川さんはハチローのことを気にかけながらも、何も出来ないままで10年を過ごしてしまったのだ。
    だけど10年の中で、たった一つだけ続けていたことがあった。
    ハチロー君がホテルに現れた時には、必ず抱っこして撫でてあげるそうだ。
    特に耳の後ろを撫でられるのが好きだそうで、飼い主だった女性もそうやってあやしていたらしい。
    『俺にに出来るのはこれくらいだ。これ以上はどうしていいのか分からない。』
    そう語っていたので、やはりこの部屋に入ること自体にためらいがあるんだろう。
    幽霊と関わりたくない気持ちと、友人の遺言を守ってあげたい気持ち。
    二つの気持ちに苛まれながら10年を過ごしてきた絹川さんの苦労は相当なものだろう。
    「ほんとにいいのか?」
    いきなり懐中電灯を向けてくるので「きゃ!」と驚いてしまった。
    「な、なにがですか・・・・?」
    「あんたは本気でハチローを成仏させてやろうと思ってるのか?」
    「本気です。」
    「いくら動物保護のボランティアをしてるからって、幽霊の猫にまでボランティアをする必要があるのか?」
    「さっきも言ったけど、関わった以上は責任がありますから。」
    「それはつまり・・・・この件を藤井さんが引き継いでくれるってことでいいのか?」
    「引き継ぐ?」
    「情けないと思うかもしれないが、俺はもう疲れた・・・・。10年も遺言と向き合い続けることに。
    そりゃあいつが亡くなったことは俺にも落ち度があった。だけどもう充分だろう?いつまで遺言に縛られていればいい?」
    クシャっと表情を歪ませ、疲れた目を見せる。
    「俺は今年で55だ。あと10年したらこのホテルを退職することになる。
    しかしあと10年も遺言と向き合う自信がない。どうにか頑張って耐えたとしても、その後はどうなる?
    俺はもうここの従業員じゃなくなる。なのに毎日ここでハチローが来てないかチェックしなきゃいけないのか?
    あいつが悪霊にならないように向き合わなきゃいけないのか?考えただけでも気が滅入ってくる。」
    眉間に皺を寄せ、疲れをほぐすように揉んでいる。
    「年々気分が重くなっていくんだ・・・・。もし俺のせいでハチローが悪霊になったらどうしようってな。
    俺は昔っから霊感があるから、悪霊の恐ろしさはよく知ってるんだ。
    奴らにとり憑かれたら不幸な毎日が続くんだよ。起きてる時も寝てる時も怯えなきゃいけない。
    ちょっとやそっとじゃ離れてくれないし、油断してると道連れにしようとしてくるんだ。」
    「そんなに怖いんですか?悪霊って・・・・。」
    「あれは経験した者にしか分からない。悪霊に取り憑かれるなんてごめんだ。」
    鳥肌が立ってくる。
    霊感のある人はみんな私に忠告してきた。
    下手に幽霊に関わるなと。
    悪霊は私が想像しているよりずっと恐ろしいってことなんだろう。
    「俺に取り憑くだけならまだいい。一番恐ろしいのはこのホテルそのものに悪さをしないかってことだ。
    他の従業員、それにお客さん、なんの関係もない人たちを巻き込んでしまうのが一番恐ろしい・・・・。
    それだけはなんとしても避けたいんだ。だから今まで耐えてきた・・・・。」
    「絹川さん・・・・・。」
    何度も私に念を押してくる理由が分かった。
    もう肩の荷を降ろしたいのだ。
    降ろしたいんだけど、本当に私に預けていいのか判断に困っている。
    「いいですよ。」
    頷くと「そんな簡単に決めて・・・・」と言いかけたので、「いいんです」」ともう一度頷いた。
    「こうして出会ったのも何かの縁だと思うから。」
    「霊感でそう思うのか?」
    「そうじゃありません。実は霊感に目覚めたのは一昨日の朝なんです。」
    「一昨日!?そんな最近なのか!」
    「どうして霊感に目覚めたのか自分でも分かりません。けどちゃんと意味があるんだと思います。ハチロー君と出会ったことも、ここにいるエル君と出会ったことも。」
    腕に抱くエル君に笑いかけると、応えるように尻尾を振った。
    「ダメだ!」
    絹川さんは形相を変える。
    シャワー室にこだまして耳が痛くなるくらいの声で。
    「そんなつい最近に目覚めた人間に引き継がせるわけにはいかない。あんた悪霊の怖さも知らんだろう?」
    「霊感のある人から散々注意されました。軽い気持ちで幽霊に関わると危ないって。」
    「その通りだ。一昨日に霊感に目覚めた人間が、10年も彷徨っているハチローの魂を成仏させてやれるとは思えない。
    それどころか悪霊に変わってしまって、あんたが取り憑かれるかもしれんのだぞ?」
    「たしかに霊感に目覚めたのは最近だけど、もう一つ不思議な力があるんです。生まれた時からずっと。」
    「不思議な力?なんだそれは?」
    「動物と喋れるんです。」
    「は・・・はあ?」
    呆れ気味に眉を寄せるけど、「本当ですよ」と笑みを返した。
    「私は幽霊に関しては素人です。けど動物の気持ちなら分かるし、私の気持ちを伝えることも出来ます。
    絹川さんの気持ちだって、私の口を通してなら伝えることが出来る。あの子に伝えたいことがあれば何でも言って下さい。」
    信じられないという風な顔をしていたけど、すぐに表情を崩して頷いた。
    「そんな馬鹿なと思ったが、霊感だって似たようなもんだよな。死者の声が聞けるんだから。」
    「ええ。だから任せて下さい。私が責任を持って引き継ぎます。」
    絹川さんは背中を向け、目元を拭う。
    「これで楽になれる・・・・感謝するよ。」
    大きく息を吸い込み、音がするほど勢いよく吐き出した。
    「じゃあ・・・・あのドアを開けるぞ。」
    シャワー室の奥に電灯を向け、薄茶色の木造ドアを照らした。
    ゆっくりと近づき、取っ手を引く。
    「・・・・・ゴク。」
    電灯で照らされたドアの向こうには、奈落のような穴がポッカリと空いていた。
    「見えるか?」
    「はい・・・・。」
    横に並んで穴を覗き込む。
    電灯で照らされた穴の中には水が溜まっていた。
    「不気味だろう?」
    「・・・・はい。」
    素直に頷くと、「俺もだ」と息を飲んでいた。
    「ここに落ちて友人は亡くなった。ハチローと一緒にな。」
    「あの・・・・どうして今も水が溜まってるんですか?ここはもう・・・・、」
    「もちろん使われていない。穴の下はボイラー室になっていたが、事故があってからは閉鎖された。」
    そう、この穴の下にはかつてボイラー室があった。
    そして穴の上にはサウナがあったのだ。
    一人用の小さなスチームサウナだけど、当時のスタッフの人たちが頼んで備え付けてもらったらしい。
    けどこのサウナルームには欠陥があった。
    工事を担当した業者が手を抜いていたのだ。
    そのせいでサウナルームの床下の強度は下がり、さらには階下にあるボイラー室からの熱と、スチームサウナの蒸気が染み込んで、さらに脆くなってしまった。
    異変に気づいたのは調理スタッフの一人で、すぐに絹川さんに報告した。
    歩いただけで床がおかしいと気づくほど脆くなっていて、これは危ないと使用禁止の貼り紙をした。
    オーナーにも伝えて、サウナルームは使用しないようにと他の従業員にも通達が出た。
    担当した業者に連絡し、その日のうちに来てもらったそうだけど、単に床板が脆くなっているだけだと言って、しっかりとした検査は行われなかった。
    近いうちに修理に来るからと業者は引き上げたんだけど、翌日になってさらにおかしな事が起きた。
    なぜかシャワールームの電気が点かなくなっていたのだ。
    電球を交換しても光らないので、スイッチの故障だろうと、絹川さんもそれ以上のことは考えなかった。
    次に業者が来た時に相談すればいい。それくらいに思っていた。
    しかしその日の夜、このシャワールームで事故が起きてしまう。
    絹川さんの友人が一日だけでいいから泊めてくれないかと頼んできたのだ。
    従業員でない者を泊めるわけにはいかないと断ったけど、どうしてもとお願いされた。
    理由を聞いても教えてくれなかったが、かなり切羽詰まった様子だったので、一日だけならとOKした。
    そして夜、友人の女性が子猫を連れて現れた。
    みんなにはからかわれたそうだ。
    奥さんにバレたら怒られるぞと。
    彼女はただの友人だからと説明したけど、余計にからかわれるだけだった。
    この日、絹川さんは当直だったけど、一緒に泊まったりしたら更に誤解を招くと思い、別の部屋で寝ることにした。
    『ここは自由に使ってくれていい。ただしサウナルームは調子が悪いので使用しないように。』
    彼女はシャワーさえ使えるならそれでいいと頷いた。
    けど電気が点かないので、シャワーは女子の部屋のを借りたらどうかとすすめた。
    彼女は『お湯が出るなら充分』と、気を遣って断った。
    『それにこの子がいれば寂しくないし。』
    子猫を抱きしめ、いつも一緒に入るのだと笑っていたそうだ。
    絹川さんは寝るまでの間、友人と同じ部屋にいた。
    きっと悩みを抱えているんだろうと、相談相手になっていたのだ。
    しかしいくら尋ねても、彼女はここへ来た理由を明かさなかった。
    五年前に離婚し、子供もいないので、今は一人暮らしのはず。
    なのに家に帰りたくないのはどうしてか?
    気になる絹川さんだったけど、いくら友達とはいえあまり深く踏み込むのはマナー違反だと思って、それ以上は尋ねなかったそうだ。
    そして時計の針が夜の12時を回る頃、自分が寝る部屋へ引き上げることにした。
    『じゃあまた明日な。』
    そう言い残し、宿直室を後にした。
    それから二時間後のこと、嫌な夢にうなされたそうだ。
    内容は覚えていないけど、とにかく嫌な気分になる夢で、寝汗を掻いて飛び起きた。
    こういう夢を見る時は良くない事が起きるらしく、気持ちを落ち着ける為に顔を洗おうと、部屋の電気を点けた。
    『絹川君。』
    後ろから声がして振り返ると、友人が立っていた。
    霊感の強い絹川さんは、一目見ただけで彼女が幽霊になっていると分かった。
    きっと何かあったに違いない!
    急いで宿直室まで行き、ノックもそこそこにドアを開けた。
    畳の部屋には誰もおらず、もしかしたらシャワーかなと思って声を掛けてみた。
    でも返事がない。
    胸の中にモヤモヤした嫌な感覚が広がって、『入るぞ!』とシャワー室に駆け込んだ。
    中は真っ暗で、スイッチを入れても灯りが点かない。
    そういえば故障しているんだったと思い出し、畳の部屋まで懐中電灯を取りに行った。
    しかしシャワー室を照らしても姿がない。
    外へ出ているんだろうかと考えたけど、すぐにあることを思い出した。
    『まさかな・・・・。』
    シャワー室の奥にあるサウナルーム。
    ここへは入るなと注意しておいた。
    恐る恐るドアを開き、中を照らす。
    そして目に飛び込んできたものを見て、思わず叫びそうになった。
    なんとサウナルームの床が抜け落ち、下にあるボイラー室が丸見えになっていたのだ。
    友人はボイラーのすぐ傍で倒れていた。
    身体のほとんどが抜け落ちた床の瓦礫に埋もれ、頭と腕だけが覗いている状態だったという。
    絹川さんはすぐにボイラー室まで走った。
    瓦礫をかき分け、『大丈夫か!』と抱き上げた。
    彼女は息をしておらず、目も開きっぱなしで、鼓動さえ止まっていた。
    すぐに心肺蘇生を試みたけど、それでも息を吹き返さない。
    『誰か!誰か来てくれ!』
    騒ぎを聞きつけた従業員が集まり、やがて救急車も到着した。
    絹川さんは病院まで付き添い、彼女が助かることを祈った。
    その時、ふと人の気配を感じて顔を上げると、目の前に彼女が立っていた。
    『ハチローは・・・どうなった・・・・?』
    それだけ言い残し、すぐに消えてしまった。
    絹川さんは諦めずに祈り続けたけど、残念ながら友人は帰らぬ人となってしまった。
    ホテルに戻ると、瓦礫の中に死んだ子猫が埋もれていた。
    白と茶色の模様で、鈴のついた白い首輪をしていた。
    そっと子猫を抱き上げ、『すまん・・・』と謝ったのだった。
    ・・・・絹川さんは穴の中を照らしながら、「あの時・・・・」と呟く。
    「もっとちゃんと注意しておけばよかった。そもそも俺の方が宿直室に泊まっていればこんな事にはならなかった。」
    「あの・・・・おこがましいかもしれないですけど、絹川さんの責任じゃ・・・・、」
    「考えちまうんだ、ああいうことがあると。あの時こうしていればよかったとか、ああしていれば違った結果になったとか。
    無駄だって分かってても考えちまう。この10年ずっと・・・・。」
    「絹川さん・・・・・。」
    「気づくべきだったんだ。ただ床が脆くなってるだけじゃなくて、底が抜けそうなほどおかしくなっていたことに。
    シャワー室の電気が点かなかったのだってそれが原因なんだ。」
    「でもそれは警察の調査で初めて分かったことでしょう?手抜き工事が原因で、電気の配線にまで影響が出てったって。そんなの普通は分からないですよ。」
    「でも俺には霊感があった。普通の人間より勘が鋭いはずなのに、どうしてあんな風になることを見抜けなかったのか・・・・悔しくて仕方ないんだよ。
    見えなくてもいいものが見えたり、悪霊に取り憑かれたりしてるくせに、肝心な時にこの力は役に立たなかった。」
    しゃがんで穴の中を睨み、「あいつは何かを悩んでいた」と言った。
    「だから俺の所へ来たんだ。それだって未だに分からずじまいだ。挙句にはよ、俺が殺したんじゃないかって噂する奴まで出てきた。」
    ただでさえ妙な誤解を受けていたのに、一番最初に発見したのが絹川さんだから、あらぬ疑いを掛けられてしまったのだ。
    警察は事故だと判断した。
    けど周りからの誤解は消えないままで、そのせいで奥さんと離婚する羽目にまでなってしまった。
    「状況から見ればそういう噂が立っても仕方ない。女を泊めて、しかも第一発見者が俺だからな。
    けどよ、俺はよくてもあいつに悪いじゃないかよ。そんな誤解されちまって。」
    穴の中に目を落としたまま淡々と語る。
    声に抑揚はないのに、強い感情がこもっているのが伝わってきた。
    「あいつの実家へ葬式に行った時、ハチローも連れてったんだ。」
    「ハチロー君を?」
    これは聞いてなかったので驚いた。
    「あいつよ、実家は長野なんだよ。」
    「長野・・・・。」
    「だから長野まで連れてったんだ。もう死んじまってるけどよ、ちゃんと腐らないようにドライアイス入れてな。
    でもってあいつの傍においてやってくれないかって両親に頼んだんだ。庭にでも埋めてやってくれればって。」
    「そ、それで!ハチロー君はどうなったんですか?」
    「無理だって断られちまったよ。」
    「どうして!?」
    「あいつ親と上手くいってなかったんだ。若い時に家出してそれっきりでな。本当は遺体を引き取るのも渋ってたらしい。」
    「そんな、自分の子供なのに・・・・、」
    「親とはもう二度と会うことはないって言ってたからなあ。あいつにとっても実家へ帰るのは本望じゃなかっただろう。」
    「あ、あの・・・ちょっといいですか?」
    「なんだ?」
    「ハチロー君、引き取ってもらえなかったんですよね?その後はどうしたんですか?」
    「埋めたよ。」
    「どこに!?」
    「少し離れた場所にある公園だ。」
    「公園・・・・。」
    「あいつの両親が言ってたんだよ。どうしてもって言うなら公園に埋めてやったらどうだってな。
    あいつ公園が好きで、家出するまではよく行ってたらしいから。だからまあ・・・・本当はダメなことなんだけど、隅の植え込みに穴を掘ってな。」
    「埋めた?」
    「ああ。」
    「ちなみになんですけど、その公園ってもしかして・・・・・、」
    私は陽菜ちゃんたちと一緒に行った公園の話をした。
    すると「あんたもあそこへ行ったのか?」と驚いていた。
    「ええ、そこにハチロー君がいるかもと思って。でも見つけられなかったんです。
    陽菜ちゃんの子猫の首輪はあったんだけど、もう一つの首輪がなかったから。」
    「俺はちゃんと埋めたぞ。そりゃ肉体は土に還ってるだろうけど、首輪は残ってるはずだ。もし誰かが掘り返したりしてなければな。」
    「誰かが掘り返して持ち去ったってことはないと思います。そんなことする人いないだろうし、陽菜ちゃんの方のハチロー君の首輪は残ってたし。」
    ポケットからあの公園で見つけた首輪を取り出す。
    「これ、絹川さんが知ってるハチロー君の首輪じゃないですよね?」
    「違う。こんなんじゃなかった。」
    「ならやっぱりあの子の首輪だけ消えてるってことです。それってつまり、あそこに埋まっていたはずのあの子が、どこかへ消えてしまってことかもしれません。」
    「けど勝手に消えるはずがないし、かといって掘り返す変わり者もいないだろ。」
    「そうなんです。そうなんですけど・・・・、」
    私には一つ気になることがあった。
    それはあの公園を散歩していたおじさんが見つけた、猫の死骸らしきものだ。
    あの死骸は陽菜ちゃんの方のハチロー君のものではない。
    考えられるとしたらもう一匹のハチロー君しかいないんだけど、ふとおかしなことに気づいてしまった。
    《ハチロー君が死んだのは10年前なんだから、猫の死骸らしきものはハチロー君とは関係ない。》
    その死骸はまったく別の猫だったのか?
    《そういえばハチロー君、病気で死んだって季美枝ちゃんの猫が言ってたけど、これもおかしな話よね。
    だってハチロー君は事故死だもん。いったい何がどうなってるんだろう?》
    頭がこんがらがってくる。
    私は探偵でもなければ警察でもないから、今までの事実をどう整理すればいいのか分からなかった。
    《この謎が解けないと、ハチロー君を成仏させてあげられないような気がする。》
    穴の中に目を落とし、じっと見つめる。
    ここにはもうボイラーはない。ないけど、さっきからずっと気になってることがあった。
    「絹川さん、どうして穴の下に水が溜まってるんですか?」
    奈落のような穴の底には、懐中電灯で照らし出された黒い水が浮かんでいる。
    絹川さんは「ああ、それはな」と口を開いた。
    「下の部屋は排水管の通り道になってるんだが、どうもどこかから漏れてるみたいでな。」
    「穴が空いてるってことですか?」
    「かもしれん。一ヶ月くらい前からこうなっちまってな、オーナーがそろそろ修理を頼むと言っていた。」
    よっこらしょっと立ち上がり、「んじゃそろそろ仕事に戻るわ」と言った。
    「藤井さん、あんたも飯食ってからにしたらどうだ?サンドウィッチは出来てるからよ。」
    「はい、頂きます。」
    実はちょっとお腹が空いていたのだ。
    腹が減ってはなんとやら。
    まずは遅めの朝食を済ませることにした。
    私も立ち上がり、サウナルームを出ようとした・・・・時だった。
    背後に嫌な気配を感じて振り返ると、何かに足元をすくわれた。
    「あ・・・・、」
    叫ぶ間もなく穴に落ちてしまう。
    『藤井ちゃん!』
    エル君も穴の中に飛び込んでくるけど、私はそのまま水に沈んでしまった。
    《なにこれ・・・・水が・・・重い・・・・。》
    そう深いわけじゃないのに溺れてしまう。
    まるで泥のようにまとわりついてくるのだ。
    そして誰かに足を掴まれ、底なし沼へ引き込まれるように、ズブズブと沈んでいった。
    《これって・・・・今朝の夢と同じだ・・・・。》
    あの悪夢が現実になるなんて・・・・。
    呼吸も苦しくなり、意識が遠のいていく。
    《誰か助けて!》
    泥をかきわけ、必死に手を伸ばす。
    すると柔らかい何かに当たった。
    《なに・・・このモサモサした感じ・・・・。》
    とにかくなんでもいいから助けてほしい。
    ガシっとモサモサを掴むと、急に目の前に猫の顔が現れた。
    人の身体ほどもある大きな猫の顔が。
    白と茶の模様をした猫が見つめている。
    真っ白な首輪の鈴がチリンと鳴った。

    目を逸らして歩く

    • 2019.09.05 Thursday
    • 13:56

    JUGEMテーマ:

    茶ばんだ葉っぱが足元を掠めていく

     

    見上げた木々は青さを失い

     

    根っこの隙間からトカゲが顔を出していた

     

    踏み出した足に驚いたバッタたちが

     

    四方へ飛び出し遠ざかる

     

    トンボの群れが頭上で旋回し

     

    僕は足元を見ないまま歩き続けた

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