稲松文具店 第十三話 北川隼人(2)

  • 2014.08.31 Sunday
  • 19:28
「誰だ?こんな時間に・・・。」
時刻は夜の十時半。やや不審を抱きながら玄関のモニターを見ると、そこには翔子が立っていた。
「なんだあいつ。こんな時間に・・・・・。」
スリッパを鳴らしてドアに向かい、外に立つ翔子を招き入れた。
「どうした?こんな夜遅くに?」
「ええっと・・・ちょっとだけ話したいことがあって・・・。いいかな?」
「別に構わんが・・・。」
居間に歩きながら手招きをすると、翔子はゆっくりと靴を脱いで上がってきた。
スーツを着ているから仕事帰りなのだろう。毎晩よく働くものだと、少し感心する。
「もう飯は食ったのか?」
「ううん、まだだけど・・・。」
「なら出前でもとるか?近くに上手いピザ屋があるぞ。」
「ありがとう。でも・・・今はいい。とても食事が喉を通る気分じゃないから・・・。」
翔子は手を組み、忙しなく指を動かす。こいつがこういうふうにモジモジとする時は、かなり厄介な話をする時のクセだ。
「まあ立ってないで座れ。」
向かいのソファを示すと、小さく「うん・・・」と呟いて腰を下ろす。その顔は暗く俯いたままで、まるで面接を受けるかのように固まっていた。
「・・・お前がそういう態度を見せる時は、とんでもなく良くない事が起こった時だ。
出来れば聞きたくないが・・・・何の話か言ってみろ。」
グラスを掴みながら指を向けると、束ねた髪を揺らしながら顔を上げた。
「あの・・・・明日の対決のことなんだけど・・・・。やめるってことは・・・無理かなと思って・・・。」
「対決をやめる?どういうことだ?」
「ごめんなさい、私から言い出したことなのに・・・。でも今は柔道で対決している場合じゃなくなったのよ。このまま放っておけば、北川家は・・・・。」
翔子は大きな目を開き、射抜くような真っすぐな視線を飛ばしてくる。
これはますます良くないな・・・。こいつがこういう目をする時は、本当にヤバイ状況になっているということだ。
「回りくどいことは嫌だからハッキリ言うね。今私達が本当に戦わなきゃいけない敵は、兄さんじゃなくて溝端さんなの。
彼女は兄さんの計画の真相をかなり前から知っていて、それをエーカクデーの社長に伝えているわ。
だからもし兄さんがエーカクデーの社長の暗殺に乗り出していたら・・・・きっと殺されていたのは兄さんの方だと思う。」
「ハッキリ言い過ぎてどういう事か分からんぞ。詳しく説明しろ。」
テーブルに酒を置き、背筋を伸ばして座りな直した。
「あのね・・・溝端さんは、今回の騒動で知りえたことを、全てエーカクデーに伝えたのよ。」
「な、なんだと!今までの事が外に漏れたっていうのか!」
「うん・・・。彼女は父に雇われたスパイだったけど、雇い主をエーカクデーの社長に変えたみたいなの。それもつい最近・・・。」
「な、なんってこった・・・。あの女め・・・・。」
思わず拳を握って顔をしかめた。俺の誘いを断ったのは、それが理由だったのか・・・。
てっきり苦労人の矜持からくるものだと思っていたのに、どうやら俺の考えが甘かったようだ。
「溝端さんは、お父さんのことを恨んでるわ。私達は裕福な暮らしをしているのに、どうして私だけこんなに貧乏だったのかって・・・。
同じ父親なのに、この差はなんなんだって・・・。だから許せないのよ、私達のことも、北川家のことも。」
「しかしあいつは父に雇われていていたんだろう?そこまで許せないのなら、最初から断ればよかったじゃないか。
いくら金を貰おうが、そこまで憎む相手を雇い主に選ぶものか?」
「・・・それは、きっと事の真相を知ったからだと思う。はっきり言って、お父さんも兄さんもすごく自分勝手だよ。
周りがいくら迷惑しようが、自分がよければそれでいいって考えてる。そういうのを目の当たりにして、溝端さんは許せなかったんじゃないかな?
こういう男たちだからこそ、自分は貧乏を強いられたんだって。」
「・・・・・・・・・・・。」
「世の中はお金じゃ買えないものだってある。溝端さんは、その事をよく知ってると思うわ。だからこそ・・・許せなかったんだと思う。
家族や仲間を平気で苦しめる兄さんたちを。彼女はすごく苦しい生活を送ってきた。
でも兄さんは何不自由なく育ってきたのに、自分の欲の為に家族まで手に掛けようとしている。お金じゃ買えないものを、その手で壊そうとしてるのよ。」
「・・・ずいぶん悪者扱いだな、俺は。」
「当たり前よ。これでもかなり優しく言ってるつもりだから。お母さんを殺すことまで企んで、あの力を自分のものにしようだなんて・・・・。
もし本気でそんなことをするつもりなら、私は兄さんを殺してでも止めるわ。はっきり言って、私はもう兄さんのことは信用できない。
家族だから我慢してるけど・・・本当なら溝端さんみたいに激しく罵ってやりたいわ。」
翔子は怒りを堪えるように息を吸い込んだ。膝の上で握った手が震え、必死に自分の気持ちを落ち着かせようとしている。
「・・・まだ続きがあるんだろ?さっさと言えよ。」
グラスを掴み、翔子から目を逸らして酒を呷った。
「・・・溝端さんは、北川家を憎んでるから復讐しようとした。だからエーカクデーに情報を渡したのよ。
なぜなら、エーカクデーの創始者、ギネス・ヨシムラも北川家のことを憎んでいるから。」
「俺達のじいさんが追い出したからな。そりゃ根に持って当然だろう。」
「溝端さんとギネス・ヨシムラは私達に恨みを持っている。二人の利害は一致してるから、手を組んで北川家を破滅に追いやろうとしているのよ。」
「その事をいつ知った?」
「昨日の夜・・・オウムから聞いて・・・。」
「オウム?オウムって、お前が俺に送ったやつか?」
「うん・・・。あのオウム、溝端さんとそっくりの口調で喋り出したの。もしかしたらと思って聞いていると、彼女の喋っていたことをたくさん記憶していたわ。だから・・・。」
「溝端の企てを知ることが出来たわけか?」
「・・・・うん。」
翔子は俯きがちに目を逸らす。相変わらず指が忙しなく動いていて、口を噤むように唇を噛みしめていた。
「なあ翔子。一つ質問があるんだが?」
「な、何・・・・?」
「お前何か隠してないか?」
「か、隠すって・・・・何を?」
「いくらなんでもオウムから情報を得るなんて無理がないか?確かにオウムは人の言葉を覚えるけど、意味なんて理解してないんだぞ。
だったらどうして都合よく人の弱みとなる言葉を覚えているんだ?」
「そ、それは・・・・。」
「俺があのオウムを飼っている時、ほとんど喋りかけたことはなかった。それにオウムが覚える言葉なんて、『おはよう』とか『こんにちわ』とか、簡単な単語くらいじゃないのか?
特別に教え込ませたんならともかく、ただ人が喋っている内容から、その人物の弱みとなる言葉を覚えたりするか?」
「う、うう・・・・・。」
「それと、どうしてあのオウムが溝端の言葉を覚えているんだ?あいつはお前が引き取ったんだろう?だったら溝端の言葉を覚える機会はないはずだ。
あのオウムは、いったいどこで溝端の喋っている言葉を覚えたんだ?」
「そ、それは・・・・その・・・・・。」
「これは俺の考えだが、あのオウムはダミーじゃないのか?本当はもっと別の方法で情報を集めたんだろう?
盗聴器か何かで俺や溝端の情報を集め、それをオウムに教え込ませただけなんだろう?」
「ち、違う!私は盗聴器なんて・・・・、」
「じゃあどうやって情報を集めたんだ?いくらなんでも、やっぱりオウムってのは無理がある。溝端の言葉を知っていたことも説明がつかんしな。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
「だんまりか・・・。お前がそうやって口を噤む時は、だいたい誰かをかばっている時だ。」
翔子は何も答えない。まるで貝のように口を閉じている。こいつ・・・・やはり誰かをかばっているな。
よくよく考えればおかしなことばかりだ。いくらなんでもオウムはないだろう、オウムは。
父の前に呼び出されてオウムの言葉を聞かされた時は焦ったが、冷静になって考えればやはりおかしい。
翔子はどうにかして情報を手に入れ、それをオウムに教え込ませたのだ。そして、その情報源となる人物が、絶対にどこかにいるはずだ。
・・・・・・誰だ?
俺や溝端の情報を集めることが出来る人物なんて、かなり限られているはずだ。
最初に浮かんだのは祐希だった。
あいつはフリーのライターだし、その気になれば盗聴くらいして情報を集めるだろう。
しかし翔子の性格から考えて、盗聴器を使うなんてことを許すはずがない。
ならば、もっと正当な方法で・・いや、正当よいうより、法律に違反しない形で情報を集めたんだ。
俺達の周りでそんなことが出来る人物といえば・・・・・・冴木しかいない。
奴の超人的な記憶力なら、極秘とされる情報を外へ持ち出すことが可能だ。だからこそスパイとして雇っていたのだから。
「なあ翔子。はっきり聞くぞ?」
「・・・・・・・・・・・。」
翔子は顔を上げない。俯いたまま、じっと手を握りしめている。
「俺と溝端の弱みを握ったのは・・・・・冴木か?」
そう尋ねると、「そ、それは違う!」と強く首を振った。
「冴木君はなんにも関係ない!それだけは信じて!」
「ほんとうか・・・?」
「ほんとうよ!だって冴木君は、うちを辞めて実家に帰るつもりだったんだよ。だったらどうして兄さんや溝端さんの情報を集めるのよ?」
「ううむ・・・・まあ確かに・・・。あの冴木に俺から情報を盗み出す度胸があるとは思えんからなあ。」
「決して冴木君は関係ないわ!これだけは約束する!」
翔子は身を乗り出して睨んでくる。ここまで本気になるということは・・・・・冴木じゃあないな。
こいつは嘘を吐くのが下手だから、もし冴木が犯人ならボロを出しているはずだ。しかしそうなると・・・・いったい誰から情報を手に入れたんだ?
祐希でも冴木でもない。まさか箕輪とかいう社員でもあるまいし・・・・他に誰が・・・?
もしかして、やっぱりオウムから?
「・・・・・・・・・・・・・。」
いくら考えてもこれといった人物が思い浮かばない。しかし・・・・・まあいいか。今はそれより大事なことがある。
「なあ翔子。溝端はエーカクデーと手を組んで俺達を破滅させようとしているんだよな?」
「そうよ。北川家の秘密を世間に公表して、兄さんの計画もバラ撒くつもりでいる。」
「・・・もしそうなったら、北川一族はお終いだな。長年守り続けた秘密が、いま危機に晒されているわけか・・・。」
ここへ来て予想外の展開になってしまった。冴木をぶちのめせば終わりだと思っていたのに、どうやらそう簡単にはいかないらしい。
「それで、お前は俺にどうしてほしいんだ?明日の対決をやめてまで、いったい何をさせる気なんだ?」
「兄さんにはエーカクデーの対応にあたってほしいの。もちろんお父さんと協力してね。
私は冴木君と一緒に、溝端さんを説得するから。」
「説得?何を説得するんだ?」
「決まってるじゃない。いま彼女がやろうとしていることよ。復讐なんかしたって何も変わらないんだから。」
「あいつが説得なんか聞くようなタマか。お前達は大人しくしていればいい。俺が全部カタをつけてやるから。」
そう言うと、翔子は立ち上がってテーブルを叩いた。
「そんなのダメよ!そうやってなんでも強引に解決しようとするから角が立つんじゃない!」
「ならどうしろっていうんだ!お前に溝端が説得出来るとでもいうのか?あいつは俺達のことを憎んでいるんだぞ?聞く耳なんか持つはずがない!」
「そんなことない!溝端さんはきっと私の話を聞いてくれるはずよ。この前の夜に彼女の背中を見た時、寂しさが宿っているのを感じたの・・・。
あれはきっと、出口を探してるんだわ。今の自分から抜け出して、新しい人生を始める為の出口を・・・。
だから真剣に話し合えば、きっと理解してくれるはず。私は・・・・彼女を悪い人だとは思えないから・・・。」
「ふん、人の良さは相変わらずだな。失敗すれば北川家が滅亡するかもしれんというのに・・・。」
「その原因を作ったのは、お父さんと兄さんよ。冴木君にしろお母さんにしろ、あなた達の周りの人間はみんな酷い目に遭ってる。
なのに・・・それを振り返ろうともしないで・・・。元々は全て兄さんが始めたことじゃない。だったら少しは反省して、私の言うことも聞いてよ!」
珍しく金きり声を上げて怒鳴る翔子。怒った時の顔は、母にそっくりだった・・・・。
「お父さんと兄さんは勝手過ぎる!そんなんだから、溝端さんからも恨みを買うのよ。
冴木君は・・・自暴自棄になったキリマンジャロ工業の元社長に刺された。
でも、あの時ほんとうにあの人が刺したかったのは冴木君じゃない、兄さんよ!
それを・・・全部冴木君に背負わせて・・・。お母さんだってボロボロになりながら、稲松文具の為に頑張ってきたのに・・・。
兄さんはいったいいつになったら、そういう人達の気持ちを分かってあげられるようになるの?昔はそこまで冷たい人じゃなかったのに・・・。」
最後はトーンダウンしながら座り込み、目を閉じて疲れた表情をみせた。
「明日の柔道対決で、もし冴木君が勝ったら・・・あることをお願いしようと思ってたの。」
「ある事?」
「・・・兄さんは今でこそ自信たっぷりに何でもこなすけど、昔はそうじゃなかった。
どっちかというと周りの目を気にして、自分の欠点を直そうと努力してたわ。勉強だってスポーツだって、誰にも負けないように必死に努力してたじゃない。
音楽だって、毎日ギターの練習をしてたわ。人に頑張ってる姿を見られるのが嫌だから、こっそりと隠れて練習してさ・・・。私・・・あの頃の兄さんは好きだった・・・。
どんな事でも、一生懸命頑張って乗り越えようとしていたから。」
翔子は疲れた顔で息を吐きながら、手を撫でていた。こういう疲れた顔も、母に似てきたな・・・。
「昔の兄さんは、なんにでも正面からぶつかっていったじゃない。負けてもそれをバネにして、他の人の何倍も努力して戦ってきた。
そういうのがあってこそ今の兄さんなのに、いつの間にか変わってしまったわ。ううん・・・正確には武道と出会ってからだと思う。
空手や柔道を始めてから・・・少しずつ変わっていった気がする。」
「ならお前は、俺が武道をやっていなかったら、こんな人間にならなかったと言うつもりか?
ふん、馬鹿らしい・・・。武道をやったくらいで人格まで変わるわけがないだろう。」
「違う!私が言いたいのはそういうことじゃなくて・・・・。兄さんはきっと武道に才能があったのよ。だって、他の事に比べると明らかに上達が早かったもの。
空手の黒帯だって、一年で取ったでしょ?ほんとなら三年くらいはかかるんだぜって自慢してたじゃない?」
「よく覚えてるな。」
「あの時の兄さんは、ほんとうに嬉しそうだったから・・・。でもそのせいで勘違いしちゃったのかもしれない。
今までは人より上達が遅かったから、どんな事でも必死に努力して身につけてきた。だから自慢はしても、威張り散らすなんてことはなかったし、人を見下すこともなかった。
でも武道の時はそうじゃなかった。すぐに上達するもんだから、天狗になってたじゃない。
今までは努力の積み重ねで上達してきた人が、いきなり才能のあるものに出会ったんだから・・・。でもやっぱりおかしいよ!今の兄さんは兄さんじゃない!
だから・・・もし兄さんが対決に負けたら、冴木君にその顔を覚えていてもらおうと思ったの。」
「俺の負け顔を冴木に?どうしてそんなことをする?」
そう尋ねると、翔子はゆっくりと顔を上げた。疲れと悲しみの混じった表情で、じっと俺を見据える。
「それは・・・昔の兄さんを思い出してほしかったから・・・。」
「言ってる意味が分からんな?ハッキリ要点を言えよ。」
「・・・今の兄さんは、自信過剰に成り過ぎてる。だからもし兄さんが負けたら、その顔を冴木君に覚えてもらって、あとで絵に描き起こしてもらうつもりだったの。
兄さんのことだから、絶対に負けた時の姿なんか写真に撮らせないでしょ?だから冴木君に・・・・、」
「はははは!なるほどな!俺の無様な負けっ面を絵に描いて、後から馬鹿にするつもりだったか。
翔子よ、お前にしては良いアイデアじゃないか。ただ残念ながら、俺は絶対に負けたりは・・・・、」
そう言いかけた時、翔子はまた立ちあがってテーブルを叩いた。
「そうじゃない!昔の兄さんは、負けた時はすごく悔しそうな顔をしてた。そしてその度に人の何倍も努力して上達してきたんじゃない。
だから・・・負けた時の自分の顔を見れば、昔を思い出してくれるんじゃないかって思ったの・・・。
意地悪なやり方だと思ったけど、もう私の言葉なんて全然聞いてくれないから・・・。」
ここへ来て、じわりと翔子の目が潤んだ。しかし決して泣くまいと、目を掻くフリをして誤魔化していた。
「もし対決に負けたら、兄さんには家から出て行ってなんて言ったけど、本気でそんなことは思ってない。
お父さんも兄さんも、今となってはすごく嫌いだけど・・・・心の底から憎むことなんて出来ないよ。だって・・・血のつながった家族なんだから・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
そんなことを言われても、こっちは何と答えていいのか困ってしまう。
生温いノスタルジーに流されるのはゴメンだが、翔子の気持ちは理解できる。別に自分が変わったなんて思わないが、何もかも翔子に背負わせるのは・・・ちと大人げないか。
ここは一つ・・・久しぶりに兄貴らしいところを見せてやるべきかもしれない。
「分かった。お前の言う通りにしよう。」
「兄さん・・・。」
「溝端恵子のことは任せる。何としても奴を説得して、復讐をやめさせてくれ。エーカクデーの方は、俺と父さんが何とかするから。」
「・・・・ありがとう・・・。」
翔子は顔を逸らして涙をぬぐい、気丈な笑顔で振り向いた。
「私が伝えたかったのはそれだけ。明日は冴木君と一緒に溝端さんに会うから、兄さんの方もよろしく。それじゃあ・・・。」
テーブルに置いたバッグを掴み、足早に玄関に向かっていく。
「なあ翔子。」
「何?」
「この騒動が終わったら、お前はどうしたい?俺に冴木との対決をやらせるか?」
「・・・・分からない。それは私だけじゃ決められないから。」
「なら冴木に伝えておけ。俺と戦う覚悟があるなら、いつでも相手になってやるとな。」
「・・・うん、それじゃ。」
翔子は少しだけ微笑み、靴を履いて振り返った。
その目は何かを語っているように思えて、「どうした?」と見つめ返した。
「・・・私・・・この騒動が終わったら会社を辞める・・・。そして・・・あの家からも出ようと思ってる・・・。」
今まで一番憂いのある声だった。しかし・・・強い決意を感じさせる声でもあった。
「そうか。お前の人生だ、好きにしたらいい。」
翔子は小さく頷き、ドアを開けて出て行った。
「やれやれ・・・いきなりやって来て、とんでもない話をしていきやがった。」
寝る気はすっかり削がれ、また酒を注いで呷り出す。
「翔子は・・・逞しくなったな。それに比べて俺は・・・・分からんな。今の俺が正しいのかどうかなんて、考えた事もなかった。」
翔子の言葉は、少なからず俺の心を揺らした。感傷に浸るのは好きではないが、たまには自分と向き合ってみるのもいいかもしれない。
ひたむきに努力をしていた昔を思い出し、グイと酒を呷った。

稲松文具店 第十二話 北川隼人(1)

  • 2014.08.30 Saturday
  • 17:03
虫どもが動いていることは知っている。俺の計画を阻止する為、力のない者が集まって涙ぐましい努力を続けているのだ。
かつての恋人、祐希。販売所の社員、箕輪。血のつながった実の妹、翔子。そして・・・・あの頼りない青年、冴木晴香。
誰もかれもが取るにたらない存在で、雑魚がいくら集まったところで結果は見えている。
「アホな奴らだ・・・俺が負けるものか。」
社長室の机に足を乗せ、脆弱な者たちの顔を思い浮かべる。
祐希が敵に回ることは意外ではなかった。彼女が俺に敵意を持っているのは知っていたし、あの性格から考えれば、いつ牙を剥いてもおかしくなかった。
それに翔子の裏切りも予想していた。あいつは母に似て正義感の強いところがあるから、もし真相を知ったら敵に回ると分かっていた。箕輪という社員はよく知らないが、まあ知る必要すらない相手だろう。
しかし意外だったのは、あの冴木晴香が敵に回ったことだ。
人並みはずれた超人的な記憶力を持ち、それを正確に絵に描き起こす力は素晴らしい。
だが・・・中身が脆弱だ。とても誰かと戦えるような気性の持ち主ではないし、強い者には尻尾を振るタイプだと思っていた。
「あの記憶力意外は役立たずのクセに・・・何を勘違いして俺に挑んでくるんだか・・・。」
馬鹿らしくなって小さく笑い、手に持ったペンをクルクルと回した。
翔子は柔道対決などという子供じみた提案を持ちかけてきたが、そんなものはいくらでも潰しようがある。この会社の無能の重役どもは、完全に俺の言いなりなのだ。だからいくらでも裏の手を使うことが出来る。
本来ならばすぐにあの虫どもを叩き潰したいが、そうもいかない理由が目の前にいた。
・・・溝端恵子・・・・。
父が雇った女スパイが、ソファに座ってスマホをいじっている。どこへ行くにもついて来て、俺の行動を逐一監視する厄介な女だ。彼女が父の雇ったスパイだと知った時は驚いたが、言われてみれば・・・まあ納得も出来る。
父は俺と似ていて、目的を達成する為ならば手段を選ばないところがある。周りには人格者で通っているが、あの人が社長職に就くまでに講じた数々の非道を、俺はよく知っているのだから。
「血は争えないよな・・・。俺はあの人の子供だ。そして・・・この女も。」
小さく呟きながら立ち上がり、横目で溝端の様子を窺う。
彼女もまた、あの父の子だ。だったら金で動く人間だという事も理解できる。
きっと父は彼女に大金を積んだのだろう。そうでなければ、俺へのスパイなどと危険な事はしないはずだ。
《・・・この女さえいなければ、今すぐにでもあの虫どもを潰せるのに・・・・。》
溝端恵子は父の雇ったスパイ。ならばここで下手を動きを見せれば、すぐにこちらが不利になる。なんとかこの女を消したいが、今の状況はでは危険過ぎる。
ならば取る手段は一つ。俺が溝端を雇い直せばいい。
父よりももっと多額の報酬を渡せば、彼女は俺に味方するはずだ。そうなれば、わざわざ柔道対決などする必要はない。俺が冴木に負けるとは思っていないが、物事にはマグレというものがある。
だからあんなチンチクリンの童貞男と、わざわざ戦う必要はないのだ。
「なあ、溝端さん。」
「何?」
「・・・君、雇い主を変えてみないか?」
俺は満面の笑みで近づき、彼女の向かいに腰を下ろした。
「父がいくらで君を雇ったのか知らないが、俺はその二倍・・・いや、三倍の報酬を約束しよう。だからどうだ?俺を雇い主に変えてみる気はないか、んん?」
こいつは金で動く人間だ。俺や父と同じように、そういう歪んだ目をしている。ならば雇い主を変えることに迷いはないはずだ。
「・・・どうだ?もし良い返事をくれるのなら・・・・報酬の他に車とマンションも買ってやろう。君は翔子や祐希に味方をしているわけじゃないはずだ。ただ金をもらって動いている。
ならば合理的に考えて、ここは雇い主を俺に変えるべきだと思うが・・・・どうだい?」
「そうねえ・・・・三倍の報酬に車とマンションかあ・・・。」
スマホをいじる手を止め、ボケっと宙を睨んでいる。
《・・・いいぞ、少ない脳ミソでしっかり計算しろ・・・。目の前の餌に飛びつき、俺に尻尾を振るんだ。
そうすれば、約束は必ず守ってやるさ。金も車も、そしてマンションも買ってやる。ただし・・・・その後の身の保障はしないがな・・・。》
こういう輩は、いつどこで人に喋るか分からない。事が終われば用済みなわけで、生きていてもらっては困るのだ。
「溝端さん、決断は早い方がいい。俺は明日、馬鹿な虫ケラどもと戦わなければならんのだ。
そして・・・俺は必ず勝つ!冴木みたいな女も知らん青臭いガキに、負けるわけにはいかないからな。
そうなれば、俺は確実に君を処分する。北川一族の秘密を知り、俺にスパイをした女を・・・・絶対に許すことはない。
だから俺に乗り換えろ。これは金の為だけではなく、君の保身の為でもあるんだ。あまり時間はないから、今ここで決断してもらいたい。」
膝の上で拳を握り、威圧するように睨みつける。すると溝端は、足を踏みならして可笑しそうに笑った。
「あはははは!あんたに乗り換えろって?ないわ〜、それはないわ〜。」
「・・・なぜだ?俺に乗り換える事にデメリットなんてないはずだ。それにこのまま父に雇われていると、君自信が危険に晒されるんだぞ?」
「だから?」
「だからって・・・・。君は金が欲しいんじゃないのか?」
「そうよ。」
「ならどうして俺を笑う?君は俺と同じ種類の人間のはずだ。金や物に執着し、自分のことだけを考える。きっとそういう人間のはずだろう?」
人の性格は目に表れる。だから溝端の人間性は誤魔化せない。どんなに表面を良く見せようが、同じ種類の人間の目は欺けないのだ。
「もし意地を張っているのなら、やめた方がいい。君みたいなタイプは、変に正義感や道徳感を持つと、すぐに身を破滅させるぞ。
今までの人生だって、きっと他人を利用して生きてきたはずだ。周りにバレたら、ブタ箱行きのことだってしてるんじゃないのか?」
「やってるわよ。金持ったアホな男たちを脅して、大金を稼いでたもの。でもね、これだけは言っとくわ。あんたと私は同じじゃない。
例え同じ種類の人間だとしても、歩んできた道は正反対よ。」
「・・・どういうことだ?」
そう尋ねると、溝端は腕を組んで睨み返してきた。
「あんたと私は、同じ父を持つ兄妹よ。こんなに大きな会社の、たくさんお金を持った立派な社長の子供だった。なのに・・・・あんたは貧乏を知らない。
食べ物にも着る物には困ったことはなくて、生きていく為に自分を売ったことなんてないでしょ?でも私は・・・・自分を売るしか生きていく方法がなかった。
あの貧乏な家を飛び出し、学歴も特技もない一六の女が生きていく為には・・・手段なんて選んでられなかったのよ。この気持ち・・・・あんたに分かる?
同じ父親を持ってるのに、一方な何不自由ない暮らしをして、もう一方は不憫な生活を強いられる。だからあんたと私は同じじゃないわ。
辿った道が違えば、見えてくるものだって変わる。そいつがどんなに腐った人間か・・・私の鼻は嫌でも嗅ぎわけるから。」
溝端は無機質に言い放ち、またスマホをいじりだす。
・・・なるほど・・・。過酷な人生を歩んできた者には、それなりの矜持があるらしい。
いくら金が欲しかろうが、気に食わない者には尻尾を振らないというわけか。・・・まあいいさ。そこまで意地を張るなら、事が終わればすぐに消してやる。
「残念だが・・・・それが君の答えなら仕方がない。しかし後で悔やんでも知らないぞ?
泣きついてくる人間にチャンスを与えるほど、俺はお人好しではないからな。」
「ゴメン、今スマホのゲームやってるから黙ってて。あんたの声耳についてウザいから。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
《クズめ・・・・。事が終わったら、いの一番にお前を処分してやる。》
俺は舌打ちをして椅子に座り、じっと溝端を睨みつけていた。


            *


家に帰ってからは、少しばかり身体を動かした。
柔道は得意だが、ここ最近は仕事が忙しくて稽古が出来なかった。よもや冴木に負けることはないだろうが、念には念をだ。
『常住坐臥闘い』
武道の精神は経営に通じるところがあり、常に戦いの準備を怠ってはならない。だからいかに冴木のような弱者が相手でも、決して気を抜いてはいけないのだ。
軽く腕立てを三百回こなし、腹筋背筋ともに四百回をこなし、少し身体が温まってくる。
その後も懸垂やスクワットで身体をほぐし、マンションに呼び寄せた柔道家と乱捕りを行った。
しばらく怠けていたせいでかなり投げられてしまったが、それでも一時間もすれば勘が戻ってくる。俺の得意の内股が綺麗に決まり、続いて寝技の練習にも入った。
送り襟締めや腕ひしぎ、抑え込みの練習にも力を入れた。特に締め技に関しては重点的にやった。冴木に技を教えているのは祐希だから、かならず締め技を使ってくるはずだ。
アナコンダ祐希の名は伊達ではなく、俺でさえも柔道では奴に負け越している。しかも毎回失神させられて・・・・。
だからこの戦いは、祐希へのリベンジでもある。この俺に喧嘩を売ったことを、身をもって後悔させてやるのだ。
久々の稽古で戦いの勘を取り戻し、技にもキレが戻ってきた。これならもう冴木に負ける要素はない。あいつがいかに攻めてこようと、俺に土を付けることは絶対に出来ない。
対決は明日の朝。近くの中学校の道場で行われる。
あまり疲れを残すわけにもいかないので、キリのいいところで稽古を終えて風呂に入った。
「ふう・・・・久々にいい汗をかいた・・・。この騒動が終わったら、また鍛え直さないとな。」
いい感じで張った筋肉をパンと叩き、肩まで湯船につかる。じっと目を閉じて快楽に身を任せ、少しだけ昔を振り返った。
幼いころから目立つことが好きで、学業でもスポーツでも上位に来るように努力した。
友達との遊びも惜しみ、ひたすら自分を磨くことに没頭してきた。
自分の為に頑張ること。これは何ともいえない快感だった。
他人が無駄な時間を過ごしている間に、自分はどんどん成長していっている。そう思うと、何ともいえない優越感に浸れたのだ。そして、俺の努力というのは必ず報われた。
無能が努力してもたかが知れているが、能力のある者が努力を積み重ねれば、常人が到達できない所まで登ることが出来る。
だから小学校や中学校では、俺に並ぶ奴など誰もいなかった。しかし高校に入ると、少し事情が変わった。
学業やスポーツの他に、音楽や絵といった特殊な力を発揮する奴らが現れたのだ。
バンドを組んだり、マンガを描いてみたり、中には高校生で将棋のプロとして活躍する者もいた。別にそういう才能を羨ましいとは思わなかったが、俺より目立つのには腹が立った。
だから俺もバンドを組み、必死にギターの練習をしたのだ。
だが・・・すぐに飽きた。
俺はやると決めたらやる性格だから、他の誰よりもギターの練習をした。
するとメキメキと腕を伸ばし、校内で俺に並ぶ者はいなくなった。
腕試しにと出てみたバンドのイベントでも、俺より上手い奴はいなかった。
高校生なんてのは単純なもので、顔がよくてギターが上手ければ、ワイワイと騒ぎたててくれる。とくにアホな女子どもはキャーキャー喚いて群がってきたものだ・・・。
だから・・・飽きた。
こんな楽器が上手く弾けたところで、それがいったいに何になる?音楽や絵が上手くて、いったい何になるというのだ?そう思うと急に冷めてきて、すぐにバンドを抜けた。
そして学業とスポーツに力を入れ、将来身になることで目立つようにしようと思った。
スポーツは色々とやってみたが、あまりピンとくるものはなかった。
確かに楽しさややりがいはあったが、どうも絵や音楽と同じように思えて仕方なかった。
こんな事をやって、いったい何になるのかと・・・・。
だがそう思っている時に、武道と出会った。最初に始めたのは空手だった。これにはハマった。そしてその後に始めた柔道には、もっとのめり込んだ。
武道の哲学や精神性が、俺の性に合っていたのだ。いつでも敵と戦える心構えを持つことや、常に戦いを意識して準備を怠らないこと。
とくに宮本武蔵の書いた五輪の書には、凄まじいインパクトを受けたものだ。食事中の箸の上げ下げにまで意識が配られ、常に戦いというものを考えている。
素晴らしいと思った。これが・・・こういう思想こそが、俺の求めていたものだと。
それからは目立つことには興味が無くなった。それよりも、もっと自分にとって価値のあるものが存在するはずだと思った。
必死にそれを探しまわった挙句、辿り着いたのが北川家の力だった。昔からあまりに身近にあり過ぎたせいで、すっかり見落としていた。
しかしよくよく考えれば、こんなにすさまじい力は無いのだ。
ならば・・・この力を我がものにすれば、俺にとってより価値のあるものが手に入るはずだと思った。
俺の最終目標は、北川家の力ではない。あの力を手に入れてもっと高みに登り、自分にとってより価値のあるものを見つけたいだけなのだ。
だから・・・ここで邪魔はさせない。俺はまだまだ進化の途中で、誰も並ぶことが出来ない境地まで到達しないといけないのだから。
だから必ず冴木をぶちのめし、虫どもの力が俺に及ばないことを知らせなければ。
「冴木も、祐希も・・・箕輪とかいう女もタダではおかん。しかし・・・翔子をどうするか・・・?俺に逆らったのだから、それなりの罰は必要だが・・・・難しいな。」
翔子のことは昔から可愛がってきた。
それは妹だからということもあるが、それ以上にあいつの能力の高さを認めていたからだ。
かなりトンチンカンな言動をすることもあるが、それでも優秀なことに変わりはない。
あの若さながら、実力で課長の椅子を勝ち取り、新製品のアイデアもバンバン出してくる。
それに物怖じしない性格の為か、重役連中にもしっかりと自分の意見を通す。
プレゼンではこの俺を論破し、有無を言わさず納得させたこともあった。
「あいつは・・・なるべく手元に置いておきたいな。これからもっと成長するだろうから、是非俺の右腕として働いてもらいたいのだが・・・。」
あれだけ優秀な部下は滅多いにいない。しかし翔子は俺のことを嫌っているだろう。
今までは尊敬の念を抱いていたはずだが、事の真相を知って気持ちは変わったはずだ。
「まあいい・・・。翔子のことは追々考えるとしよう。」
風呂から上がり、寝巻のジャージに着替える。ほんとうはガウンでも着ればカッコイイのかもしれないが、どうもこのクセだけは抜けない。
居間でテレビを見ながらくつろぎ、お気に入りの紹興酒を飲みながら明日の事を考える。
《相手は柔道の初心者で、これといってプランを立てる必要もないだろう。少しゆさぶってやれば隙を見せるだろうから、得意の内股で倒してやればいいだけだ。
そしてわざと一本にならないように転がし、寝技で失神させる。まあ・・・長くて一分もかからんだろうな。すぐに終わるさ。》
いつもは三杯飲む酒を一杯だけに控え、早々に眠りにつくことにした。そして電気を消し、ベッドに横たわった瞬間にチャイムが鳴った。
「誰だ?こんな時間に・・・。」
時刻は夜の十時半。やや不審を抱きながら玄関のモニターを見ると、そこには神妙な顔をした翔子が立っていた。

稲松文具店 第十一話 冴木の決意

  • 2014.08.29 Friday
  • 08:55
ケータイ電話の向こうから、ネチネチと嫌味の声が聞こえて来る。
『いきなりキャンセルなんて言われても困るんですけど。もう家の前まで来ちゃったし・・・。』
引越屋は怒りのこもった声でグチグチと攻めたててくる。俺は電話を握ったままひたすら頭を下げ、なんとか引越の予定をキャンセルしてもらった。
「はあ・・・なんで俺が怒られなきゃいけないんだよ・・・。」
ケータイをテーブルの上に置き、柔道着を脱いで私服に着替えていく。そしてペットボトルの蓋をあけて、ボケっとしたままスポーツドリンクを飲み下した。
「こんなに運動したのは何年ぶりだろう?けっこう気持ちいいもんだな。」
運動不足の割にはよく動けたと思うが、それでも筋肉はパンパンに張っている。明日は確実に筋肉痛がやってくるだろう。
「まあいいや。課長の話を聞いて、俺も社長と戦う決心がついたしな。あの若手社長・・・裏でとんでもないことを考えていたんだな。」
ペットボトルの蓋をしめ、背伸びをして首を回す。
そしてテーブルの上に腰掛けて、課長から聞いた話を思い出した。


*******


祐希さんと柔道の練習を終えたあと、箕輪さんが課長をつれて戻ってきた。
課長は相変わらず眩しい笑顔を振りまき、良い匂いのするハンカチで俺の汗をぬぐってくれたのだ。
「冴木君・・・ごめんね。また君を巻き込んじゃって・・・。」
課長は憂いのある顔で俯く。ううん・・・この顔で喪服を着ていたら、うら若き未亡人って感じだな・・。ていうかこれ、前にも想像したっけ?
するとまた箕輪さんにおでこを叩かれてしまった。
「エロい顔してんじゃないわよ、さっきまでへばってたクセに。」
「箕輪さん・・・いちいち叩かないで下さいよ。けっこう痛いんだから、それ。」
畳に手をついて身体を起こし、ギュッと帯を締め直す。
すると課長も立ち上がって俺を見つめた。
「きっと分からないことだらけで混乱してるよね。」
「ええ・・・まあ・・・。大筋のことは祐希さんから聞いたんですが・・・。」
「でもまだ要領を得ない部分があるんでしょ?だから・・・ちゃんと説明するわ。
そして全てを知った上で、もし協力するのが嫌なら・・・その時は断ってくれても構わない。最後は冴木君が決めて。」
そう言って課長は俺の手を取り、力強く頷きかけた。課長・・・なんだかちょっとだけ逞しくみえるな・・・。
「さ、さ、じゃあ詳しい話は更衣室でしてちょうだい。今からこの子たちの稽古をしなきゃいけないから。」
祐希さんは指で更衣室を示し、スタスタと黒沢君達の方へ歩いていった。
「コラ!踏み込みが甘い!そんなんで投げらるか!」
ドスの利いた声で怒鳴りつけ、柔道部の少年たちはビクっと肩をすくめた。
「鬼コーチだな・・・ありゃ。」
俺もブルリと震え、課長に促されて更衣室の中に入って行った。
「うわあ・・・汗臭・・・。消臭くらいしようよ・・・。」
箕輪さんは鼻をつまみ、窓を開けてパタパタと手を振る。俺は課長が座る椅子を引き、「どうぞ」と頭を下げた。
「ありがとう。冴木君も座って。」
俺はササッと回って腰を下ろす。
「祐希さんからはどこまで聞いてる?」
「ええっと・・・北川一族の秘密のことと・・・そして社長が黒幕だってことです。」
「そう・・・。じゃあなぜ社長が黒幕かってことはまだ・・・。」
「聞いてません。それになんで柔道をさせられているのかも・・・。」
そう・・・まだまだ分からないことだらけなのだ。それを説明する為に、きっと課長はここへやって来たんだろう。
「今から全てを冴木君に教えるわけだけど・・・絶対に他言しないって約束できる?」
課長は真剣な目で念を押してくる。それはいつもの顔とは違い、一切の優しさが消えた厳しい表情だった。
「もちろんです。誰にも喋ったりしません。」
「分かった。それじゃあ・・・・、」
それから課長はポツポツと語り始めた。最初は躊躇いがちにだったけど、最後の方は熱のこもった口調になっていた。課長の話はずいぶん長かったけど、それは途中で俺が質問を挟んだり、箕輪さんが余計な合の手をいれたからだ。
そのせいで引越屋にキャンセルの電話を入れることになってしまったんだけど、まあそんなことはどうでもいい。
課長の話は次のようなものだった。
稲松文具の社長、北川隼人は実に欲深い人間で、かなり前から社長の椅子を狙っていた。
だから当時の社長である父親の弱みを握り、それをネタに脅しをかけて社長の椅子を退かせた。その弱みというのが、まあお決まりの愛人だの浮気だのの、しょうもない話だ。
しかしその話を母に聞かせればどうなるか?
ボロボロになるまで稲松文具の為に力を使ってきた母。それは一重に夫の事を愛していたからだ。昔っから籠の中に閉じ込められて生活してきたせいで、社長の母はかなり世間知らずなところがある。
およそ青春なんてものを経験していないから、恋だの愛だのに関してはとにかく疎い。
だから自分の事を愛してくれる夫には、絶対の信頼を置いている。浮気などするはずがないし、決して自分を裏切るようなマネもしない。
人並みの生活を送らせてもらえなかったせいで、有り得ない幻のような愛を信じ込んでいた。それゆえに会社の為に力を使ってきたわけだが、もし夫の浮気を知ればどうなるか?
きっと深く傷つき、もう二度と稲松文具の為に力を使うことはなくなるだろう。
そのことを危惧した当時の社長は、息子の脅しに屈して社長の椅子を明け渡した。肩書きだけの会長職を与えられて・・・・。そして現在の社長、北川隼人は、あの手この手を使って重役の弱みを握り、かなり強引な手段で社長の椅子におさまった。
ワンマン経営なやり方に不満を抱く重役たちは、自分にも後ろめたいところがあるから何も言えないわけだ。
しかしこの時、事態はすでに動き始めていた。なんと北川隼人は、稲松文具の株を土産に、エーカクデーに近づいていったのだ。
その目的はただ一つ。北川一族の力を、完全に我がものにする為だった。
隔世遺伝で引き継がれるこの能力は、ある条件を満たすと男にも発現することがある。
過去に一度だけ、男にこの能力が備わったことがあるそうだ。
しかし当時の経営者達が不吉だと騒ぎ出し、その子を一族から追い出してしまった。
本当は殺されるはずだったが、彼の母が必死にかばって逃がしたそうだ。
そして男にも能力が発現する条件とは・・・・今現在能力を持ってる人間が死に、後継ぎとなる女性がいない場合だ。
これはどういうことかというと、北川一族の力は、絶対に隔世間で発現するようになっている。そして同じ時代に二人の能力者が現れることは、ある例外を除いてほとんどない。一人この力を持つ人間がいれば、その者が死ぬまで絶対にこの力を持つ者は現れない。逆も然りで、北川一族はいつの時代でも、この力を持たない人間はいなかったというこだ。
だから生まれた時は普通の人間でも、この力を持つ者が死ねば、後天的に特殊能力が発現するようになるというわけだ。
北川一族には代々この力が宿っていて、女性が中心の社会となっていた。男はみんな外からやってきたマスオさんで、男にこの力が受け継がれることはまずない。
しかし・・・・・もし女の子が生まれなかったらどうなるか?必ず隔世遺伝で引き継がれるこの能力だが、次の能力者となる女の子がいない場合・・・・それは男が力を受け継ぐことになる。そして男がこの力を受け継ぐことは、北川一族の間では禁忌とされているのだ。なぜならそれは・・・同時に二人の能力者が現れる可能性があるからだ。
男がこの力を引き継いだ場合、後に女の子が生まれると、その子にも力が発現する。
これはもう、北川一族にとって危険極まりないことなのだ。二人の能力者が現れるとなると、その秘密が外に漏れる可能性が高くなる。それに男というのは、特別な才能を持つと野心を抱く。だから・・・過去に一度だけ生まれた男の能力者は、その力を使って自分の会社を立ち上げた。母にかばわれて一族から逃れ、アメリカに渡ってエーカクデーという会社を創ったのだ。男としての野心と、北川一族への復讐の意味もこめて・・・。
一族の人間は、エーカクデーの創始者が能力者であることを知っていた。そしてその秘密の拡散を防ぐために、何度も話し合いの場を設けたらしい。エーカクデーが経営危機に陥った場合、無償で資金援助をすること。それとエーカクデーという会社を守る為に、決して競合相手となるような経営はしないこと。
エーカクデーの創始者と一族の間だけで、そういう密約が交わされたのだ。ここで重要なことは、この密約が交わされた時、この世には二人の能力者が存在したということだ。
エーカクデーの社長と、北川隼人の母だ。
だから北川隼人が力を手に入れる為には、この二人を殺さなければならない。
まずはエーカクデーの会長、ギネス・ヨシムラを暗殺する為に、株を手土産に接近した。
ギネスは今でも一族に恨みを抱いているから、喜んで株を受け取った。北川隼人の本当の狙いも知らずに・・・。そしてもし彼が殺されたら、次は母親である。
二人の能力者がいなくなれば、その能力は別の人間に引き継がれる。だから北川隼人は、一族には内緒で子供を作った。隔世遺伝で引き継がれる能力を継承させる為に・・・。
そして力を受け継いだ子供を操り、北川家の力を完全に自分のものにしようと企んだわけだ。
全ては北川隼人が計画したこと。エーカクデーはただ株を受け取っただけで、スパイなど送り込んでいない。そして稲松文具の乗っ取りも考えていない。ただ北川隼人の指示にしたがって動いているだけにすぎないのだ。
だったらどこからスパイなどという話が出て来たのか?それを尋ねると、課長は詳しく語ってくれた。
そしてそれを聞いた俺は、腰が抜けそうなほど驚いた。なぜなら・・・・スパイだと思われていた人物は、あのアラサー毒女の受付嬢である、溝端恵子だったからだ。
しかしもっと驚いたのはその後だ。彼女は稲松文具の会長に雇われた、味方のスパイだったのだ。息子の卑劣な罠で社長の座を追われた会長は、徹底的に息子のやろうとしていることを調べ上げた。そしてその真意を知り、なんとしても阻止しなければと焦った。
だから・・・溝端恵子を雇った。
彼女は昔の愛人に産ませた実の娘であり、金で動く人間であることを知っていた。
そして多額の報酬を渡し、息子の監視役として常に動向を探らせていた。なんとか息子の弱みを握り、この計画を中止に追い込む為に。だが事態は思うように進展せず、ただ不利になっていくばかりであった。
そして・・・北川隼人は本格的に動き始めた。
稲松文具の乗っ取りと、エーカクデーの社長の暗殺を実行しようとしたのだ。
もう打つ手なし。このままでは完全に北川隼人の思うツボになってしまうと諦めかけた時、事態は変わった。なんと課長が、北川隼人の弱みを握ることに成功したのだ。
その方法というのがまた凄い。
なんと、兄へのプレゼントと称してオウムを送ったのだ。
家族を殺そうと企む冷徹人間のクセに、あの社長は意外と動物好きらしい。妹から送られたオウムを喜んで受け取り、自分のマンションで世話をしていた。
すると、そのオウムは社長がポロっと漏らした言葉を全て覚えていて、その中に弱みとなる情報が含まれていたのだ。
課長はなんやかんやと理由をつけてオウムを預からせてもらい、そのオウムの言葉を会長に聞いてもらった。そして・・・ここから一気に状況が変わり出した。
会長は自分の部屋に社長を呼び出し、オウムから得た情報を突き付けた。
すると見る見るうちに社長の顔色は変わり、マンガのように真っ青になって冷や汗をかき始めたのだ。会長はここぞとばかりに社長を攻めたて、すぐに社長職を退くように警告した。
しかし社長も負けてはいなかった。
もし自分が社長を辞めたら、あなたの不倫のことを母に言うと脅しにかかったのだ。今度は会長が真っ青になる番で、両者ともに冷や汗を流しながら膠着状態に陥った。
その様子を横で見ていた課長は、情けなくて涙が出そうになったという。これが・・・これが稲松文具を仕切ってきた男たちなのかと・・・。こんな奴らの為に、母はボロボロになるまで苦しんだのかと・・・。
しかし感情に流されて二人を怒鳴っても意味はなく、ここは正々堂々と決着をつけたらどうかと持ちかけた。
社長は昔から武道をたしなんでおり、特に柔道が得意だったという。しかしここ最近は社長職で忙しく、ロクにトレーニングが出来ていなかった。だから若いころに柔道をかじっていた会長と試合をし、勝った方が主導権を握るという提案を出した。
しかし会長はすぐにそれを拒否した。
もう七十を超えているし、長いこと柔道から離れているから戦える状態ではないと。
この展開は課長も想定済みだった。だから代案として隼人にこう言ったのだ。
『なら社長と冴木君が戦って下さい。彼はキリマンジャロ工業の元社長からナイフで刺されました。彼一人が悪いわけじゃないのに、これではあまりにも可哀想です。だから責任を取る意味もこめて彼と戦って下さい。そしてもし冴木君が勝ったら・・・・社長にはこの会社から、・・・いえ、北川家から出ていってもらいます。』
そう提案すると、社長は喜んで快諾したという。よもや俺みたいなチンチクリンに負けるはずはないと思い、勝ち誇ったように胸を張っていたそうだ。
それから課長は、箕輪さんと祐希さんに全ての真相を打ち明けた。
箕輪さんには俺に協力を頼むようにお願いし、祐希さんとは綿密に今後の事を相談した。
そして全ての作戦は決まり、こうして俺が呼び出されたわけだ。
社長との対決は三日後。それまでに、なんとか戦えるように頑張らないといけない。課長は相変わらず申し訳なさそうに俯いていたが、俺はその手を取ってこう言った。
「この冴木晴香。命に代えても課長のお力になります!」
そう言うと、課長は涙ぐんで「ありがとう」と頷いてくれた。
ああ・・・もしこの戦いに勝つことが出来たら、もしかしたら俺は課長と・・・・・。
そう思っていたが、そんな下らない下心はあっさりと粉砕された。
「冴木君、私ね・・・決めてることがあるの。この騒動が終わったら、もう北川一族の力に終止符を打とうって。これ以上こんな力の為に、誰かが争うのも傷つくの見たくない・・・。だから、私は誰とも結婚しない。子供も・・・作らないわ・・・。」
課長はとても悲しげな顔でそう呟いた。課長・・・・あなたはそこまで考えて・・・・。
「でも・・・これで全てが終わるわけじゃない・・・。兄には隠し子がいるから、いずれこの力は引き継がれると思う。そればっかりは・・・どうしようもないけど・・・。」
俺は何も言えずに俯き、一つだけ尋ねてみた。
「ねえ課長。どうして俺を選んだんですか?柔道で戦うなら祐希がいるじゃないですか。なのになんで俺を・・・。」
「祐希さんは無理よ。兄はあの人が強いことは知ってるから、きっと挑戦を受けないわ。
それに私の知る限りじゃ、こんな話を受けてくれるのは冴木君しかいなかったの。
でも君なら・・・・きっと兄に勝てると信じてるわ。それとね、もし兄に勝ったら・・・君に覚えていてほしいものがあるの。その超人的な頭脳で、しっかりと記憶に焼きつけてほしいものがあるのよ。」
「俺に覚えていてほしいもの・・・?それはいったい・・・。」
「兄に勝ったら教えるわ。だから・・・今は柔道の練習に励んで。きっと・・・・きっと冴木君なら勝てるって信じてるから。」
課長は俺の手を握り返し、潤んだ瞳で見つめてくる。それはいつものやさしい表情に戻っていて、柔らかな手から温もりが伝わってきた。
「・・・分かりました。俺・・・絶対に社長をぶっ倒しますよ。約束します。」
課長の目を見つめ返し、スッと手を離した。
すると横で見ていた箕輪さんが、ニヤニヤしながら指で突いてきた。
「あんたほんとに分かりやすいわねえ。顔が真っ赤よ。下心出し過ぎ。」
「い、いや・・・これは・・・・。」
「ずっと前から課長に惚れてるもんねえ?どうせなら今告白しちゃいなさいよ。」
面白そうに言って顔を近づけ、グイグイと肘で突いてくる。
「だ、だから・・・そういうわけじゃ・・・・。」
なんでこの人はこんな意地悪をするのか・・・。こういう真面目な場面で茶化すなんて、そろそろロッテンマイヤーさんに似てきたか?
「誰がロッテンマイヤーさんよ!あんなハイジの教育係と一緒にすんな!」
また頭をパチンと叩かれ、俺は心の中で悪態をついた。
それを見ていた課長は可笑しそうに笑い、小さく首を傾げて見つめてきた。
「冴木君・・・いつもありがとね。人の家の事情なのに・・・手を貸してくれて・・・。」
「いやいや!いいんですよ!北川課長の為なら、たとえ火の中、水の中!」
「ふふふ、ねえ・・・もしこの騒動が終わったら、一回デートしない?今まで散々嫌な事をさせてきたわけだし、また騒動に巻き込んじゃったから・・・。だからもし私でよかったら・・・一緒に・・・・。」
ああ・・・・ああああ・・・・・ああああああああ!
これは俺の人生の夜明けか?まさか・・・まさか課長の方からデートのお誘いをしてくれるなんて・・・・。
「課長!俺やりますよ!絶対に北川隼人をシバキ倒してみせます!だから・・・ぜひ・・・俺とその・・・お願いします!」
頭を下げ、ビシッと手を出す。
課長は笑いながらその手を握り、「柔道、頑張ってね」と小さくゆさぶった。


*******


あれからすぐに課長は仕事に戻り、箕輪さんも帰って行った。俺は一人更衣室に残され、社長との戦いの決意を固めていた。
「負けるわけにはいかない・・・。課長の為にも・・・デートの為にも。」
飲み干したペットボトルをゴミ箱に放り投げ、ドアを開けて出ていく。黒沢君達はまだ稽古を続けていて、汗まみれになって息をあげていた。
「さすがは全国大会に出るだけある。キツイ練習だなあ。」
そう呟くと、祐希さんが「話は終わったみたいね」と近づいて来た。
「で、どうだった?翔子ちゃんの頼みは受けることにしたの?」
「ええ、もちろんですよ。あんな話を聞かされたら、断るわけにはいきませんからね。
それに・・・もし社長に勝ったら・・・・、」
「デートしてもらえる?」
祐希さんは腕を組んで笑った。
「また顔に出てしましたか?」
「うん、ハッキリとね。でも君も大変ねえ。翔子ちゃんの話を聞いたなら、あの子の気持ちは知ってるでしょ?北川一族の力を終わりにする為に、結婚もしないし子供作らないって。だからどんなに君が頑張ったって、恋人以上の関係にはなれないわよ?」
「それでもいいんです。俺・・・ここまで誰かを好きになったのって、生まれて初めてだから。なんていうか・・・課長の事は女性としてだけじゃなくて、人間としても好きなんですよ。あんなに若いのに、色んな事を背負って戦ってるから・・・。だから俺も・・・ちょっとその強さが欲しいかなあって・・・。」
今日話をしてみて、課長は逞しい人だと思った。色んなものを背負いながらも、それでも弱音なんか吐かない。ただ前を見て、自分のやるべき事をやろうとしている。
そういう強さは・・・今までの俺にはなかった。ダイスケを助けると誓ったのに、その約束も果たせなかった・・・。
でもこのままこの街を離れるのは、良い事じゃないのかもしれない。
スパイなんてもうゴメンだけど、普通の社員として雇ってもらえるなら、また稲松文具で働きたい。自分から辞めといて勝手だけど、社長との戦いに勝ったら、もう一度入社試験を受けてみるのもいいかもしれない・・・。
「冴木君。」
祐希さんは首を傾げて俺の顔を覗きこむ。
「なんですか?」
「今・・・ちょっとだけ男らしい顔してたわよ。」
「え?そうですか?普通だと思いますけど・・・。」
「ううん、何かを決意した顔をしてたわ。いつもそういう風に堂々としてれば、女の子にモテるかもしれないのに。顔は悪くないんだから。」
「そうですかね・・・。でも今はそんな事はどうでもいいです。何としても社長に勝って、課長を安心させてあげないと。だから・・・明日からまたよろしくお願いします!どんな辛い稽古にも耐えてみせるんで、しっかりシゴいて下さい!」
そう言って頭を下げると、祐希さんは「よく言ったわ」と肩を叩いた。
「君を鍛えられる時間は少ない。だから・・・これから猛特訓よ!さあ、もう一度柔道着に着替えて来なさい!マジで地獄をみせてあげるわ。かつてオリンピックの強化選手にも選ばれ・・・締め技の鬼と呼ばれたアナコンダ祐希が、しっかりシゴいてやるわ!」
《・・・怖ええ・・・・。それに掴まれた肩が痛い・・・。どんな握力してんだよ・・・。》
俺はちょっぴり後悔しながら更衣室に戻り、サッと柔道着に着替えた。
「やらなきゃな・・・絶対に社長に勝つんだ!」
パンパン!と頬を叩いて気合を入れ、祐希さんの元へ向かう。
「さあ、今日は夜になるまで特訓よ!気合入れて来い!」
「はい!」
それから数時間、とっぷり日が暮れるまで地獄の稽古が続いた。
どうやら俺には多少の才能があるらしく、祐希さんはまた褒めてくれた。そして稽古を終えて頭を下げ、また明日と約束して家路についた。
「・・・痛たた・・・身体じゅうがミシミシいってる・・・。明日動けるかな・・・これ・・・。」
パンパンに張った筋肉が、歩くたびに悲鳴を上げる。しかし絶対に弱音は吐かない。
課長だって、一つも弱音を吐かずに頑張ってるんだから。
《やってやるさ。課長を楽にしてあげる為に、何としても社長に勝ってみせる!》
俺は足を止め、半分欠けた月を見上げて、拳を握った。

稲松文具店 第十話 冴木晴香、再び(2)

  • 2014.08.28 Thursday
  • 09:07
「お待たせ。じゃあ稽古始めよっか?」
柔道着に着替えた祐希さんが、年季の入った黒帯を巻いて立っていた。
「稽古って・・・・何がですか?」
「何がって・・・決まってるじゃない。ここは柔道場なのよ。だったら柔道の稽古をするに決まってるでしょ?さあさあ、冴木君もさっさと着替えて来なさい。更衣室に君の分の道着を置いてるから。」
「いやいや、どうして俺が柔道の稽古なんか・・・・・、痛ッ!」
また箕輪さんに頭を叩かれてしまった。
「いいからさっさと着替えて来なさいよ。グチグチうるさいんだから・・・。」
あんたこそ人の頭をパンパン叩くなよ・・・・。今日は引越の時間までゆっくり散歩するはずだったのに、強引にこんな所に連れて来やがって・・・。
「何?また文句?」
「・・・・・・いえ、着替えてきます。」
ああ・・・何と情けない・・・・。俺はしょんぼり項垂れながら、トボトボと更衣室に入っていった。
「くそッ!なんなんだよいったい・・・・・。わけの分かんねえことだらけだよ、まったく・・・・。」
更衣室のテーブルには真っ白な道着が置かれていて、それを掴みながらため息を吐いた。
「いいところで逃げ出そうと思ってたけど、なんだかそういう雰囲気じゃなくなったなあ・・・。やっぱり最初からついて来なきゃよかった。」
今さらも文句を言っても仕方なく、とりあえず柔道着に着替えていく。こんな物に袖を通すのは高校生の時以来で、着方がよく分からずに困ってしまった。
「ええっと・・・・帯ってこれでいいんだっけ?・・・ああ、もう!分かんねえや!適当でいいか。」
うろ覚えで白い帯を締め、更衣室のドアを開けて出て行く。
「ええっと・・・着替えてきました。」
すると俺の姿を見た黒沢君が「帯・・・間違えてますよ」とすぐにツッコミを入れてきた。
「ちょっと見せてください。」
そう言って下手くそな巻き方の帯に手を掛け、シュルシュルと結んでいく。
「よし、これでいいです。キツくないですか?」
「うん、まあ・・・・平気かな。」
真っ白な道着に、真っ白な帯。なんだか初々しい気分になって、ちょっと恥ずかしくなってきた。
「さ、さ、照れてないで稽古を始めるわよ。黒沢君達はもう準備運動は終わってるわね?」
「はい。」
「受身は?」
「やりました。」
「よろしい。じゃあ四人で交互に乱捕りしてて。怪我には気をつけてね。」
「はい!」
黒沢君は柔道部のメンバーと乱捕りを始め、技を掛け合っていく。
「それじゃ冴木君は準備運動からね。まずは柔軟から。」
祐希さんは道場の隅に移動し、チョイチョイと手招きをする。
「・・・・・・・・・・・・。」
なんだか分からないけど、こうして道着まで着た以上は付き合うしかないみたいだ。
俺は祐希さんの前に行き、見よう見まねで屈伸運動を始めた。
「あんまり無理しないようにね。」
「はい・・・・。」
高校生の時にやった柔道の授業を思い出し、柔軟運動をこなしていく。そして次に受身の稽古に入り、バシン!畳を叩きつけて倒れていく。
「うんうん、なかなか筋がいいじゃない。これなら勝てるかもね。」
「はい?勝てるって・・・・何がですか?」
「今は稽古に集中しなさい。気を散らしてると怪我するわよ。」
俺と祐希さんは並んで受身の練習を取り、一通り終えたところで休憩に入った。
「けっこう体力あるじゃない。初心者でこれだけやって息が上がらないなんて大したものよ。」
「そ、そうですか・・・・けっこうしんどいですけど・・・・。」
「まあいい運動不足の解消だと思いなさい。それじゃ少し休んだら技の練習に入るわよ。」
「ええ!もうですか?まだ受け身しかやってないのに・・・・。」
「時間が無いのよ。もう戦いの時は迫ってるからね。」
そう言ってニコリと笑い、スポーツドリンクを飲む祐希さん。
あんた・・・いったい何を隠してやがる・・・・。さっきから勝てるとか戦いとか言ってるけど、まさか俺を誰かと戦わせる気じゃないだろうな?
「さて、それじゃそろそろ技の練習に入りましょうか。」
祐希さんは帯を締め直して俺の前に立つ。
「あ、あの・・・・ちょっと聞きたいんですが・・・・、」
「今は練習よ。さあ、組みましょう。」
そう言ってガシっと俺の道着を掴んでくる。なんだよこのパワー・・・これでも女か・・・。
「冴木君、私を投げてみなさい。」
「え?い、いや・・・投げるって・・・。」
「どんな形でもいいわ。思うようにやってみなさい。」
いきなりそんなこと言われてもなあ・・・・。しかし祐希さんの目は本気だった。
いつもの温厚な顔と違い、明らかに武道家の表情になっている。これは・・・ふざけたことしたら怒られるな・・・・。
俺は言われた通りに、祐希さんを投げようとした。足を掛けたり、腕を掴んで背負おうとしたり。でも・・・・まったビクともしない。
まるで地面に根っこでも張っているかのように、その場所から一歩も動かせなかった。
ダメだ・・・・さすがは黒帯・・・投げるなんて出来ないよ。
「もう終わり?それじゃこっちからいくわね。」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「しっかり受け身を取るのよ、いいわね。」
そう忠告した次の瞬間、俺の身体は宙を舞っていた。
「・・・・・・・・ッ!」
グルリと視界が回転し、畳が目の前に迫ってきた。・・・・バシンッ!・・・・と音がする。それと同時に畳を叩いた手が痺れ、軽くパニックを起こした。
「ちゃんと受身が取れたわね。やれば出来るじゃない。」
「・・・・・・・・・・・。」
祐希さんはニコニコしながら俺を立たせ、また組みかかってきた。
「さあ、もういっちょいくわよ。」
「いやいや!ほんとに待ってください!」
「なに?どっか痛めた?」
「いや、そうじゃなくて・・・・・ちゃんと説明して下さいよ!なんでいきなり柔道なんですか?それにさっきの箕輪さんの話も全然分からないし、もう俺には何がなんだか・・・。」
身体から力が抜け、思わずがっくりと項垂れた。祐希さんは俺を離し、「それもそうね」と小さく微笑んだ。
「とりあえず稽古が終ってから話そうと思ってたんだけど、そんなに気になるなら教えた方がいいわね。じゃないと練習にならないから。」
そう言って帯を締め直し、真っすぐに俺を見つめた。
「いい、君には倒してほしい敵がいるの。それは・・・・稲松文具の社長、北川隼人よ。」
「しゃ・・・・社長・・・・?」
俺は素っ頓狂な声で聞き返した。いったいこの人は何を言っているんだ?とうとう頭がおかしくなったのか?
「誰の頭がおかしいって?」
「え?」
「また顔に出てたから。」
「あ・・・ああ!いや・・・すいません・・・。ちょっとあまりにも突拍子のないことだったから、つい・・・・。」
「まあ驚くのも無理はないわね。私だって、真実を知った時はどれほど驚いたか・・・。」
祐希さんは暗い顔で俯き、後ろでくくった髪を払った。そしてふうっと息をはき、また俺を見つめる。
「稲松文具が他の会社に乗っ取られようとしていることは知ってるわよね?」
「もちろんですよ。それが原因であの会社に雇われたんですから。」
「なら稲松文具を乗っ取ろうとしてる会社は知ってる?」
「ええっと・・・確かエーカクデーって会社ですよね?稲松文具にスパイを送って、それで得た情報を元に脅しをかけてるって聞きましたけど。」
祐希さんは小さく頷き、腕を組んで足元を見つめた。その目はとても切なく、いつもの気丈な祐希さんの目ではなかった。
「これは君も知らないことだけど、あの会社の一族には秘密があるのよ。エーカクデーはその秘密を元に脅しをかけてるんだけど・・・その黒幕が北川隼人なのよ。」
なんのことか分からなかった・・・。あの会社の一族の秘密?黒幕が社長?
「混乱してるわね。いいわ、全てを教えてあげる。立ったままじゃあれだから、座って話しましょう。」
祐希さんは俺の横を通り抜け、道場の壁にもたれて座り込む。俺もその隣に腰を下ろし、祐希さんが口を開くのを待った。
「まずは稲松文具のことからね。あの会社を仕切っている北川一族の女性には、ある特殊能力が宿っているのよ。それは・・・・ほんの少し先の未来が見えるという力よ。」
「未来が・・・見える?」
「ウソみたいでしょ?私も翔子ちゃんから聞いた時は信じられなかったわ。でも・・・彼女のお母さんに会って、その力は本物だって確信したの。あの能力は隔世遺伝で受け継がれるらしいから、翔子ちゃんはその力を持っていないわ。
けどお母さんに宿る力は本物だった・・・。それも歴代でナンバーワンじゃないかっていうくらい強力だそうよ。一分先の未来が見えるなんて、会社を経営する上じゃこの上ない武器だもの。稲松文具という会社は、代々この力に頼って会社を大きくしてきた。
もちろんあの会社の成功の秘密は他にもあるけど、でも一番大きいのはこの力ね。だから絶対にこの秘密を外に漏らすわけにはいかないの。もしこれがバレたら・・・・分かるでしょ?」
祐希さんは小さく笑いながら首を傾げる。
確かに未来が見える力があれば、会社を大きくする上で最強の武器となるだろう。
しかし課長のお母さんが本当にその力を持っているとなれば、これは世間が放っておかない。きっとマスコミが群がって面白半分に騒ぎ立て、ネットでも話題になるだろう。
世間はそれに乗じて好き放題なことを言い、やがて最後にはバッシングの嵐がやってくる。
『オカルトに頼る企業』『超能力に頼る卑怯な会社』『真面目にやっている会社に申し訳ないと思え』
様々な言葉が石つぶてのように投げられ、きっと稲松文具はボロボロになる。
しかしそれだけならまだいい。課長のお母さんが本物の超能力者だと知れたら、周りがほうっておかない。良からぬ事を企む人間がわんさか集まり、あの手この手で利用しようとするだろう。いくら稲松文具が大きな会社だといっても、群がってくる者を全て撃退するなんて無理だ。
《・・・そうか・・・だから課長はスパイ活動に手を貸していたんだ・・・・。》
俺にダイスケという馬を助ける事情があるように、課長にはお母さんを守るという事情があったんだ。
だから・・・・あんなスパイまがいの仕事に手を貸して・・・・。
そう考えると、俺なんかより課長の方がもっと苦しい立場に立たされていたのだ。
なのに・・・そんなこと一言もいわなかったな。それどころか、俺にスパイの仕事を辞めるように説得してくれたこともあった・・・。
《課長・・・あなたはどこまで人がいいんですか?そんなことしてたら、いつか祐希さんが言ったみたいになっちゃいますよ。
『人が良すぎるせいで、苦労する』って・・・・。》
俺は課長の顔を思い浮かべ、胸が苦しくなるのを感じた。
「課長は・・・北川家の秘密がバレるのを恐れていたんですね?」
「そうよ。会社の為だけじゃなくて、自分の家族を守る為に頑張っていたの。あの子のお母さんは、とても疲れているように見えたわ。だから翔子ちゃんは、これ以上お母さんを苦しませたくなたっかのよ。この騒動が終わったら、超能力に頼った経営をやめさせるつもりだったみたい。こんな力を使わずに、まっとうに商売をしようって・・・・。」
「課長・・・そんなこと一言も言ってくれなかったな・・・。」
「それは君を守る為よ。もし北川一族の力を知られたら、きっと君はタダじゃすまなかったわよ。隼人のことだから、えげつない手を使ってでも口を封じるはず。あの男は仕事のこととなると、ちょっと人格が変わるからね。翔子ちゃんは、そうならないように君にこの事を伝えなかったのよ。」
「やっぱり・・・人が良すぎですよ、課長は・・・。なんでもかんでも一人で背負いこんで・・・。」
足元に目を落としながら呟くと、「それは君も同じでしょ?」と肩を叩かれた。
「スパイは悪いことだけど、なにも君一人に責任があるわけじゃないわ。私も翔子ちゃんも、同じように責任がある。それに・・・・一番悪いのは隼人なんだから。」
その声には怒りがこもっていて、いつもの強気な祐希さんに戻っていた。
「私はね、あの男のことを信用していたわ。確かに強引で思い上がったところがあるけど、でも悪い男じゃないと思ってた。だからずっと好きだったんだけど・・・・それももう終わりよ。翔子ちゃんから真実を聞かされたら、もう好きになんかなれない。それどころか、怒りさえ湧いてくる・・・・・。」
祐希さんは拳を握って宙を睨みつける。道着から覗く腕は、ギュギュっと絞られた筋肉で震えていた。
「・・・北川一族の秘密のことは分かりました。でも・・・社長が黒幕っていうのが分からないんです。稲松文具はエーカクデーが送り込んだスパイによって、秘密を盗まれたんですよね?なのに、どうして社長が黒幕になるんですか?どう考えても被害者だと思うんですけど・・・・・。」
そう尋ねると、「そこが間違いだったのよ」と睨まれてしまった。
「よくよく考えると、これっておかしな話なのよ。エーカクデーは稲松文具みたいに広いシェアは持っていない。大衆にもあまり浸透していないし、特にアジア圏では名前も知らない人が多い。でもそれは、あのメーカーが格式のあるブランドで売っているからよ。エーカクデーの画材はどれもこれも高いけど、プロの画家やクリエイターにとっては信頼出来るメーカーなの。高い値段に見合う品質を持っているからね。
それでもって、稲松文具は奇抜さと堅実さが売りのメーカーよ。アジアでのシェアは大きいし、大衆にも支持されてるから、売り上げは業界の中でナンバーワン。でもその代わり、エーカクデーのような格式高いブランドは持っていないわ。いくら高級画材を出したところで、エーカクデーの信頼には遠く及ばないのよ。」
「それって要するに、競合相手には成りえないってことですか?」
「そういうこと。分かりやすく例えるなら、海外の高級ブランドショップと、日本の安売り百貨店を比べるようなものね。稲松文具はここ最近欧米にも進出してるけど、今のところはエーカクデーを脅かすような存在じゃないわ。
それにさっきも言ったように、高級画材ではエーカクデーに及ばないからね。格式のあるブランドっていうのは、長年の信用が積み上げるものよ。だからどんなに稲松文具が頑張ったところで、高級ブランドとして認められるにはかなりの時間がかかる。だったら、エーカクデー稲松文具を脅威に感じる理由なんてないのよ。きちんと棲み分けが出来ているんだからね。」
「なるほど・・・言われてみれば確かに・・・・。でもそれじゃあ、どうしてエーカクデーはスパイを送り込んで来たんですか?きちんと棲み分けが出来ているなら、そんなことする必要はないのに。」
そう尋ねると、祐希さんはニコリと笑った。
「この騒動は、表面だけ見てると会社同士の乗っ取りの話よね?エーカクデーが、稲松文具という会社を欲しがってる。だから大量の株を手に入れて乗っ取ろうとしている。でも・・・本当の狙いは別のところにあったとしたらどうかしら?
本当にエーカクデーが、いえ・・・・この騒動の黒幕が欲しがっていたのは、稲松文具じゃなかったとしたらどうかしら?」
「稲松文具が欲しいわけじゃなかったら・・・・・。もしかして・・・北川一族の超能力とか?」
なんとなく思いつきで言っただけなのだが、祐希さんは満面の笑みで俺の頭をグシャグシャと撫でまわした。
「冴木君も鋭いとこあるじゃない。見直したわよ。」
「いや・・・逆にそれしか考えられないんじゃ・・・。」
「君の言うとおり、狙いは北川一族の超能力よ。そして・・・・それを狙っているのは、稲松文具の社長、北川隼人。彼は自分の一族の力を、自分のものだけにしたいのよ。
いえ、もっと正確に言えば、あの力を自分が使えるようにしたいの。その為に、自分の家族さえ罠にかけて稲松文具の社長におさまったんだから。」
祐希さんは吐き捨てるように言い、スポーツドリンクをゴクゴクと飲み干した。
「私ね、ああいう男って許せないのよ。自分を愛してくれる者を平気で利用して、その責任を誰かになすりつけようとするなんて・・・・・。あんな男を愛していたなんて、自分にも腹が立って仕方がない・・・。」
憎らしそうに顔をしかめ、ギリギリと歯を食いしばっている。
・・・怖ええ・・・・・。
なんだかとんでもない話ばかり聞かされて、頭の中は混乱していた。どうやらこの騒動は、俺が思っていたよりもかなり大変な出来事らしい。しかし・・・まだ分からないことがある。どうして北川社長が黒幕なのか?なぜ彼は身内の力を狙っているのか?
それに・・・・どうして俺が社長と戦わなければいけないのか?様々な疑問が渦を巻き、さらに頭が混乱してくる。質問をしたいと思っても、上手く言葉が纏まらずにもどかしく感じていた。しかしそこで、ふとあることに気づいた。
「あれ?箕輪さんは?」
「ああ、彼女なら出掛けて行ったわ。翔子ちゃんを迎えにね。」
「課長を・・・?」
「まあ詳しい話は翔子ちゃんが来てからにしましょ。今は柔道の稽古をしないと。
君には・・・この黒幕と戦ってもらわなきゃいけないんだからね。」
そう言って祐希さんは立ち上がり、大きく背伸びをして帯を締め直した。
「あ、あの・・・・まだ分からないことが・・・、」
「今は柔道に集中して。ほら、すぐに立つ!」
怖い顔で激を飛ばされ、技の練習をさせられる。背負い投げに大外刈り、体落としに巴投げ。果ては関節技や締め技まで叩きこまれた。襟締めを掛けられた時など、一瞬意識が飛んでしまった・・・。
それでも祐希さんは手を休めない。ひたすら技を教え込み、そして乱捕りをさせられる。
どうやら俺には素質があるようで、上達が早いと褒められた。そして稽古を開始してから二時間後、ついに体力が尽きて倒れこんだ。
「すごいわね、こんなに長時間もつなんて。よかったら本気でやってみない?」
「あはは・・・考えときます・・・・。」
もはや一ミリも動くことが出来ずにへばっていると、道場の扉が開いて誰かが入って来た。
「お、冴木の奴死んでるわ。顔が虚ろになってるもん。」
箕輪さんは可笑しそうに笑い、その後ろからもう一人女性が現れた。
「冴木君、久しぶり。」
「か、かちょ〜・・・・・。」
いつものように細身のスーツに身を包んだ課長が、トタトタとこちらへ走って来る。
そして俺の顔を覗きこみ、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんね、また巻き込んで・・・。」
そう言ってハンカチで俺の汗を拭ってくれる。ああ・・・やっぱりあなたは・・・・俺の女神です・・・。
言いようのない喜びを感じながら、ひたすら鼻の下を伸ばす。
「だからあんたは分かりやす過ぎだって・・・。さっきまで死んでたクセに、なに急に元気になってるのよ。」
ムスッとした顔で箕輪さん睨まれ、ペチンとおでこを叩かれてしまった。

稲松文具店 第九話 冴木晴香、再び(1)

  • 2014.08.26 Tuesday
  • 20:18
一年住んだマンションの部屋に、紐でくくられたダンボールが並んでいる。
男の独り暮らしというのは質素なもので、こうしてダンボールに纏めてみると、いかに物が少ないかよく分かる。
「ふう・・・・あとは引越屋を待つだけだな。」
俺はダンボールの上に腰掛け、タバコに火を点けて吹かした。ゆらゆらと揺れる煙が窓の外へ流れていき、どこか遠くへ流されていく。
ボケっとそれを見つめながら、ここに来てからのことを振り返っていた。
「なんだか・・・あっという間だったな。まあ一年しか住んでいないから当然だけど、でも・・・・。」
後悔していた・・・・。超人的な記憶力を使ってスパイまがいのことをやり、小さな会社を潰してしまったことを。そして・・・技術者や職人が命を懸けて生み出したものを、あっさり横から奪いとったことを。
「最低だな、俺は・・・。自分の事情を盾にして、やっちゃいけないことをやっちまった。」
ものを創る。何かを生み出す。それは・・・技術者や職人にとっては人生そのものだ。
それを奪いとるということは、その人たちを殺すのに等しいことである。
かつて絵描きを目指していた俺は、そのことを充分に知っていたはずなのに・・・・。
「いくら懺悔したって、俺のやったことは消えないんだ・・・・。それに、俺のせいで傷ついた人たちも・・・。」
これ以上考えるのが苦しくなって、携帯灰皿にタバコを押し入れた。そしてポケットからケータイを取り出し、電話帳の中から実家の番号を呼び出した。
「久しぶりだな・・・家に電話を掛けるのなんて・・・・。」
今日、俺は実家に帰る。もうこの街にいる理由はないし、それにこれ以上ここにいたくない。だから一度実家に帰ろうと思ったんだけど、まだ親には連絡を入れていない。
何度も電話を掛けようと思ったけど、その度にこの手は止まった。
「・・・・俺が帰るって言ったら、あの人たちはなんて言うんだろうな・・・。
怒るか?それとも・・・・喜ぶか?いや、もう俺のことに関心なんてないかもしれないな。」
電話を掛けようと思うたび、様々な想像が思い浮かぶ。それは大きな不安となって襲いかかり、やはり電話を掛けることに躊躇いをおぼえた。
「・・・いいか、このまま帰っちゃえば。家のドアを開けて、ただいまって言えば、それで・・・・。」
電話というのは、相手の顔が見えないぶん恐ろしい・・・。それなら直に顔を合わせて話した方がいいかもしれない。
「・・・分かってるさ、これが言い訳だってことは。でも・・・やっぱりちょっと電話はなあ・・・・・。」
呼び出した実家の番号をキャンセルし、ケータイをしまって立ち上がる。
「さて・・・まだ引越屋が来るまで時間があるし、ちょっとその辺でも散歩してくるか。」
この街も今日で見納め。ならばじっくりとノスタルジーに浸るのも悪くない。
俺は頭に巻いていたタオルを取り、靴を履いて玄関のドアを開けた。
そしてエレベーターで一階に降りて、マンションを出た途端に・・・・固まった。
「よう、久しぶり・・・・・でもないか。一週間前に会ってるもんね。」
そう言って手を上げたのは、箕輪さんだった。白いコンパクトカーにもたれかかり、腕を組んでカッコを付けている。
「まだここにいてくれてよかったわ。ちょっとあんたに頼みがあるの。しばらく付き合ってくれない?」
「・・・・・・・・・・・・。」
嫌だった・・・・。箕輪さんの目は、俺に何かを期待している。いや、面倒なことに巻き込もうとしている。それがどんな面倒事かは分からないが、これ以上面倒くさいことに関わるのはゴメンだった。
「あの・・・悪いんですけど、今日は引越屋さんが来るから・・・・。」
「いつ?」
「え?」
「だから、引越屋はいつ来るの?」
「ええっと・・・・今が九時だから・・・・昼の一時くらいですね・・・。」
「あっそ。だったらたっぷり時間あるじゃない。ちょっと付き合ってよ。」
そう言って、俺の返事も聞かずに車に乗り込む箕輪さん。
「ほら、さっさと乗る!」
助手席側のウィンドウを開け、首を伸ばして俺を睨んでくる。
・・・・なんだよこの人は・・・。なんで俺のマンションまで来てんだ?
・・・ああ・・・絶対に行きたくない・・・。だって、ついていったらダメだって警報が鳴ってるもの、俺の頭の中で・・・。
「あ、あのですね・・・・やっぱり無理・・・・、」
「早く乗れ!もっかい引っぱたくぞ!」
・・・・・怖ええ・・・・。
「じゃ、じゃあ・・・・ちょっとだけ・・・・。」
ああ、俺はなんと気の弱い男なのか・・・。たかが一個上の先輩に脅されただけで、すんなり頷いてしまうなんて・・・。しかし後悔しても時すでに遅し。俺は箕輪さんの車に乗り、しっかりシートベルトまで閉めていた。
「よしよし、それでいいのよ。私はあんたの仕事の尻拭いをしたんだから、頼みごとの一つも聞いてもらわないとね。」
「・・・・・・・・・・・。」
この人・・・・絶対にロッテンマイヤーさんの嫌味を受けてるな・・・。そのストレスが、なぜ俺の方に飛んでくるのか分からないけど・・・。
箕輪さんから顔を逸らし、諦めの混じったため息をつく。ふん、まあいいさ。どうせ今日でこの街ともお別れなんだ。そうなりゃ箕輪さんと会うこともないわけで、適当な所で逃げ出そう・・・。
「ねえ冴木君。」
「は、はい・・・・。」
「途中で逃げたら・・・・シバくからね。」
「・・・・・・はい。」
どうやら見抜かれたらしい。祐希さんにも心の中を見抜かれたし、俺ってそんなに思ってる事が顔に出るのかな?
居心地の悪さを感じながら、箕輪さんの駆る車に運ばれていった。


            *


「さて、ここで下りようか。」
到着した場所は、川を挟んだ向こうにある中学校の前だった。
いったいこんな場所に何の用があるのか知らないが、出来ればこのまま帰りたい・・・。
「ほら、さっさと下りる。」
箕輪さんに促され、嫌々に車から下りた。
中学校か・・・なんか懐かしい感じがするな。でも、ほとんど生徒がいないのはなぜだろう?
「あの・・・誰もいませんね。普通なら体育とかでグランドを使ってる生徒がいるんじゃ?」
「今日は日曜日よ?仕事辞めて曜日がボケてんじゃないの?」
「ああ、日曜日か・・・。てっきり忘れてた・・・。」
よく見るとグランドには野球をしている生徒がいて、掛け声を上げながら走りこみを行っていた。
「うんうん、いいわねえ、若者が頑張る姿は。」
箕輪さんは腕を組んで頷いている。あんただってまだ二五だろ?充分若者じゃないか。
・・・と、偉そうなことを言ったら、何をされるか分からないので黙っておこう。
「あの・・・いったいここに何の用があるんですか?」
「んん?まあもうちょっとすれば分かるわよ。」
そう言って腕時計を睨み、学校の門の前でケータイをいじる箕輪さん。
まったく・・・。人を無理矢理つれて来て事情も説明しないなんて・・・。この先輩のこと嫌いじゃなかったけど、ちょっと嫌になってきたな。
「何?なんか文句あるの?」
「い、いえいえ!なんでも・・・・。」
「あんたってさ、思ってることがすぐ顔に出るって言われない?」
「ええっと、ここ最近は実感することが多いですね。」
「鈍いなあ・・・。うちの会社に入って来た時からずっと顔に出てたじゃん。気づかなかった?」
「自分の顔なんていちいち見ないから分かりません。」
「ああ、それもそうね。」
箕輪さんは興味もなさそうに言い、ひたすらスマホをいじっている。
「あの、箕輪さんは・・・今日は休みなんですか?」
「ああ、私もあそこを辞めたの。」
「ええ!箕輪さんも?そりゃまたなんで?」
「・・・なんかしんどくなってきちゃってさ。ロッテンマイヤーさんはうざいし、あんたの尻拭いはさせられるし。それに・・・・彼氏からプロポーズもされてたしね。」
「おお、じゃあ結婚するんですか?」
「・・・・分からない。そのつもりで仕事を辞めたけど、ちょっと事情が変わってきたから。」
「事情?事情って、いったいどんな・・・・、」
そう言いかけた時、門の向こうから一人の少年が走ってきた。
「誰かこっちに来ますよ?」
「ん?ああ、来た来た。おお〜い、黒沢く〜ん!」
箕輪さんはスマホを片手に手を振り、少年も手を振り返した。
「あれは・・・武道着?柔道部か何かか?」
少年は真っ白な武道着に、黒い帯を巻いていた。そして息を弾ませながら走ってきて、ポンと箕輪さんとハイタッチをする。
「ごめんね、部活中に呼び出しちゃって。」
「いや、大丈夫です。今は休憩中だし。」
「そっかそっか。で、あの人は来てる?」
「ええっと、もうすぐだと思います。先生に話は通してあるから、中に入ってもいいそうですよ。」
「オッケイ〜!それじゃお邪魔しま〜す。」
そう言って門を乗り越えようとする箕輪さん。黒沢と呼ばれた少年は慌てて止めに入り、「裏口から入れますから!」と向こうを指さした。
「ああ、そういうことは早く言ってよ。」
「す、すいません・・・・。」
黒沢君とやら、別に君は悪くないぞ。悪いのはこの頭の抜けたお姉さんで・・・・・、
「だ・か・ら!考えてることが顔に出てるのよ!さっさと校庭の裏に回るわよ。」
パチンとおでこを叩かれ、腕を掴まれて引っ張られていく。
それを見ていた黒沢君は、「誰だ、あの頼りなさそうな人・・・」と呟いていた。


            *


裏門から学校に入った俺たちは、グランドの脇にある柔道場に案内された。
「知ってる?この学校ってすごく武道が強いんだって。特に柔道部は全国大会の常連らしいのよ。」
「へええ・・・その割には人数が少ないですね?」
立派な柔道場には、黒沢君を含めて四人の生徒がいるだけだった。皆が黒帯を締めていて、キレのある技を掛けあっている。
「今日は一人休んでるんで、本当は五人いるんです。」
黒沢君は黒帯に手を掛けながら言う。
「みんな揃って五人か・・・。全国大会の常連の割にはやっぱ少ない気が・・・。」
「初めはもっとたくさんいたんですよ。コーチがすごく美人だから、それに惹かれて入部して来たんですが・・・。練習が厳しくてほとんど辞めちゃったんですよ。」
「ほほう、ここのコーチは美人なのか?」
「はい。実際の年齢よりすごく若くみえる人なんです。でも腕っ節も性格も強いから、みんなちょっと恐れてるんですよ。その分優しいところもたくさんありますけどね。」
黒沢君は、少年らしい笑顔でニコリと笑う。ううん・・・子供にこれだけ好かれるということは、さぞ人格者なんだろうなあ・・・。それでいて美人となれば、これはぜひ一目お目にかかりたいものだ。
「なに鼻の下伸ばしてんのよ。」
箕輪さんにデコピンをかまされ、鼻の頭を押さえた。
「言っとくけど、今日はそのコーチに会いに来たのよ。」
「美人のコーチに・・・ですか?」
「そう。その人は稲松文具に縁のある人で、ちょっと仕事をお願いされちゃってね。」
「・・・・?話が見えませんよ、箕輪さん。ここのコーチは稲松文具に関係のある人なんですか?」
「そうよ。でも社員ってわけじゃないけどね。まあその辺は、あんたの方がよく知ってるんじゃない?」
「・・・・・・?」
いったい何のことを言ってるんだ?俺の方がよく知っている?てことは、ここのコーチは俺の知り合いっていうことか・・・?
首を捻って考えていると、道場の扉がガラガラと空いて一人の女性が入って来た。
「みんなごめんねえ。ちょっと仕事に手間取っちゃって。すぐに稽古を始めるからね。」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
その女性を見て、俺は言葉を失った。・・・・・祐希さんじゃないか!
歳の割に若くて、それに美人のコーチって・・・彼女のことだったのか。祐希さんは靴を脱いで道場に上がり、俺の姿に気づいてニコリと笑った。
「久しぶりね冴木君。背中の傷はもう大丈夫なの?」
いつものようにジーパンとTシャツだけというシンプルな恰好で、長い髪を後ろで束ねている。そして大きなスポーツバッグを肩に掛けて、俺の前に近付いてきた。
「ふふふ、また会うことになるなんて思ってなかったでしょ?」
「・・・ああ、いや・・・・。」
「全部顔に出てるわよ。すぐに着替えてくるからちょっと待っててね。」
そう言って更衣室に入っていき、顔だけ覗かせて手を振っていた。パタンとドアが閉められ、俺は言葉を失くしたまま固まっていた。
「・・・・・・・・・、痛い!なんですか、いきなり叩いて。」
「ボケっとしてんじゃないわよ。あれ、あんたの知ってる人でしょ?」
「ええ・・・ちょっと・・・色々と・・・・。」
「色々と・・・・・スパイの相棒をしてた人よね?」
「・・・・・・ッ!」
今度は箕輪さんの一言に言葉を失くす。
「あははは!あんたってさあ、ほんとに分かりやすいわよねえ。」
「・・・・・・・・・・。」
何故だ?何故箕輪さんがその事を知っているんだ?俺がスパイをやっていたのは、あの会社では社長と課長しか知らないはずなのに・・・。
「全部聞いたのよ、北川課長からね。」
「か、課長から・・・?」
箕輪さんはコクリと頷き、腕を組んで壁にもたれかかった。そしてやや演技臭く顔を作り、天井の明りを見つめる。
「一週間前にあんたと会った夜、家に帰る途中で店に寄ったのよ。そしたら北川課長が来ていてね、私を見つけるなりいきなり駆け寄って来たの。それで隣の喫茶店につれて行かれて、こう言われたわ。力を貸してくれってね。」
「課長が・・・箕輪さんに・・・?」
「うちの会社・・・・もうかなりヤバイところまで来てるみたい・・・。このまま放っておけば、ごく近いうちにエーカクデーって所に乗っ取られるのよ。だからそれを防ぐ為に、もう一度だけあんたに協力してほしいんだって。」
「また・・・俺に・・・。で、でも!それなら何で箕輪さんの所に行ったんですか?
直接俺に言いにくればいいのに。」
そう尋ねると、箕輪さんは不機嫌そうに顔をしかめた。
「あのね、すっごく不愉快な話なんだけど・・・どうも北川課長は勘違いしてたらしいのよ。」
「勘違い?何をですか?」
「・・・私とあんたが付き合ってるって思ってたのよ・・・。」
「は・・・はい?」
いったいそれは何の冗談だろう・・・。確かに箕輪さんのことは嫌いじゃないけど、それは先輩としててであって、女性としては正直遠慮した・・・・、
「痛ッ!」
「だ・か・ら!思ってることが全部顔に出てるのよ!こっちだって、大金積まれてもあんたとなんかゴメンよ!」
鬼のような顔で睨みつけ、イライラしながら足を踏み鳴らす箕輪さん。
・・・・怖ええよ・・・。
「まったく・・・ほんとにいい迷惑だわ!どこをどう見たら私とあんたが付き合ってるように見えるのよ?」
ギリギリと歯を食いしばり、こめかみに薄く血管が浮かんでいた・・・・。
「北川課長が私に会いに来たのは、あんたに気を遣ったからよ。自分が直接言いにいくと、人の良い冴木君は断れないんじゃないかって心配してたわけ。だから彼女の私なら、本音で答えを聞かせてくれると思ってたのよ。課長の頼みを引き受けるかどうかをね?」
「・・・そうだったんですか・・・・課長が・・・また・・・・。」
「その時に全部教えてもらったのよ。あんたのことも、うちの会社のこともね。」
「じゃ、じゃあ・・・・今まで俺がやってきたことは・・・・?」
「もちろん知ってるわよ。あんたを刺したあのオヤジ、うちのせいで潰れた会社の社長だったんでしょ?なんていうか・・・・災難よねえ。あんただけが悪いわけじゃないのに。
その点だけは同情するわ。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
俺は顔を背け、唇を噛んで小さな窓を見つめた。絶対に・・・・絶対に誰にも知られたくないと思っていた・・・・。だから店にも顔を出さず、このまま実家に帰ろうと思っていたのだ。それなのに・・・こうもあっさりと「知ってるわよ」と言われると、やはりショックを受けてしまう。
「落ち込んでんの、あんた?」
「いや・・・別に・・・・。」
「あんたって、後ろ頭にも思ってる事が出るわよね。純粋というか、馬鹿正直というか・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
「でもね、そんなに自分一人でしょいこむことはないと思うわよ。あんたにスパイの話を持ちかけたのは社長なんだし、課長だってそれに手を貸してたわけだし。それに稲松文具の危機なんて、本来はあんたに関係ないんだからさ。そこまで自分を責めたら、しんどくなるだけよ?」
「・・・分かってますよ、そんなことは。でも・・・俺のせいで傷ついた人たちがいるのも事実です。どんなに言い訳したって、それは誤魔化せません・・・。」
そう、いくら言葉を並べたところで、俺のやったことは消えないのだ。だから俺自身が、ここから消える必要がある。この街から、そして稲松文具から・・・・・。
自分を責めながら遠くを見つめていると、ポンと肩を叩かれた。
「言葉で消すのが無理なら、せめて行動で罪滅ぼししなさいよ。その為にここへ連れて来たんだから。」
俺は息を吐いて気持ちを落ち着かせ、箕輪さんを振り返った。
「・・・・さっきからその辺が分からないんですよ。いったいなんでここへつれて来たんですか?今さら俺を祐希さんに会わせて、いったい何をするつもりなんですか?」
「だからさっきも言ったでしょ?北川課長はもう一度だけあんたに手を貸してほしがってるって。そんで私を彼女と勘違いして話を持って来たのよ。だから・・・・引き受けちゃったんだよね、課長の頼み。」
箕輪さんは、意地悪そうに笑って肩を竦めた。
「な・・・なに勝手なこと言ってんですか!どうして俺への頼みを箕輪さんが勝手に・・・、」
そう言いかけた時、また後ろから肩を叩かれた。
「お待たせ。じゃあ稽古始めよっか?」
柔道着に着替えた祐希さんが、年季の入った黒帯を巻いて立っていた。

稲松文具店 第八話 北川翔子(2)

  • 2014.08.25 Monday
  • 19:21
次の日の昼、私は犬の散歩コースの土手を歩いていた。
隣にはブルドッグを連れた青年が歩いていて、私の話に耳を傾けていた。
「・・・・と、いうわけなんですけど・・・どうしたらいいか困っていて・・・。」
ひと通りの事情を説明し、彼の返事を待った。会社が乗っ取られようとしていることも、冴木君のことも、そして母の不思議な力のことも全て話した。
彼なら全てを話しても大丈夫。
決して面白半分に他言するような人ではないし、アドバイスを求めるなら包み隠さず打ち明ける必要がある。それに・・・それだけ彼の事を信頼しているのだ。
知り合って何年か経つが、その間に彼の人柄は充分に理解していたし、なぜか秘密を打ち明けてしまいたくなる独特の雰囲気があった。
「う〜ん・・・・難しい話ですねえ・・・。」
彼、有川悠一は、動物と話せる力を持っている。
その力について直接話し合ったことはないが、長年の付き合いのうちに、そういう特殊な人だと知ることが出来たのだ。私も何度か有川さんに助けられたことがある。
飼い犬が猪にはねられて死にかけた時や、飼い猫が迷っていたのを一緒に捜してもらったのだ。だから・・・あらゆる面において彼を信頼している。
そして・・・動物と話せる力をもって、動物と真剣に向き合うその姿勢は、私の憧れでもあった。
有川さんはいつものように屈託のない顔で宙を睨み、うんうんと唸りながら考えている。
私はゴクリと息を飲み、ただひたすら言葉を待った。
「・・・あのですね・・・・。」
「・・・はい。」
「・・・よく考えたんですけど・・・・。」
「・・・ええ。」
「・・・なんか、難しいなあという言葉しか出てこなくて・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・終わり・・・ですか・・・?」
「・・・・はい・・・。」
すると、隣にいたブルドッグが思い切り噛みついていた。
「痛ッ!何すんだよお前!」
「ウウ〜・・・・・ヴォンヴォン!」
「分かったから噛むな!このデブ犬が!」
「ヴォンヴォンヴォン!」
「はあ?ブルドッグに偉そうに言われたかねえよ!お前が人間社会の何を知ってるってんだ!」
有川さんとブルドッグは取っ組み合いを始め、お互いの顔を殴り合っている。
うんうん・・・まさに予想通りの展開だ。きっと・・・きっとここから、有川さんは何かのアイデアを出してくれるはずだ。
憎きエーカクデーに対抗する為の、心強いアドバイスをくれるはず。
有川さんはしばらくブルドッグと取っ組み合い、はあはあと息を切らしながら「すいません・・・」と謝った。
「いえいえ、いいんですよ。それで、マサカリは何て?」
私はブルドッグの頭を撫でながら尋ねる。
「ええっと・・・ちゃんと真剣に答えろって。だからお前はいつまでたっても甲斐性無しなんだと・・・。」
「あははは!相変わらず毒舌ですね。」
私はマサカリのぽっぺの肉をブニブニ引っ張る。
「俺だってアドバイスしたいのは山々なんですが・・・生憎こういう話は苦手で・・・。
会社とか経営とかよく分からないし・・・・。」
「いいんでんすよ、そんなのは。ていうか、むしろそういうのに疎いから相談したんです。
有川さんならきっと、別の角度から良いアイデアを出してくれるんじゃないかと思って。」
「う〜ん・・・そりゃ買いかぶり過ぎですよ、翔子さん。俺は未だに彼女と遠距離恋愛中で、しかもバイト暮らしのしがない男ですから・・・。」
「でも動物と話せる力を持ってるじゃないですか?」
「いや、それはあまり経営とかと関係ないんじゃ・・・・・。」
「でも、動物には真剣に向き合ってますよね?」
「ま、まあ・・・それは・・・・・。」
「私だって、いつだったかモグラを捜すのを手伝ってあげたはずですよ?」
そう言うと、有川さんはさらに困った顔で「ははは・・・」と苦笑いをみせた。
「う〜ん・・・でもなあ・・・やっぱり俺なんかが力になれないっていうか・・・・。」
するとまたマサカリが吠えだし、お尻にガブリと噛みついていた。
「ほら、マサカリもこう言ってますよ。」
「いや、こいつはただの馬鹿だから・・・・、いだだだだ!噛むなお前!」
「・・・じゃあ、私には向きあってくれないんですか?動物には真剣に向き合うのに、友達の私には・・・・・。」
これは演技ではなく、本気でガッカリしてしまった。。シュンとしながら肩を落としていると、有川さんは慌てながら首を振った。
「いやいや!そういうことじゃなくてですね!これは、ええっと、つまりその・・・・。」
・・・慌てている。よし!きっとここからスイッチが入るはずだ!
さあ、有川さん!あなたの言葉を聞かせて下さい!
「その・・・・。」
「その・・・?」
「ええっと・・・・・。」
「ええっと・・・?」
「・・・難しい話・・・だなあって・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・終わり・・・・ですか・・・・?」
「・・・・いや、その・・・・考えさせてもらえますか?」
「考える?」
「はい。いきなり答えを出すには、ちょっと難しい問題かなあって・・・。」
「あ、ああ!そうですよね!ごめんなさい、私ったらつい焦っちゃって・・・。」
「いえ、翔子さんは大切な友達ですから、ちゃんと答えたいんですけど、急には言葉が出てこなくて・・・。」
有川さんは申し訳なさそうに項垂れる。今度はマサカリが吠えないから、きっと本心からそう言っているんだろう。
「分かりました。じゃあ・・・もし有川さんなりの答えが出たら、あとで連絡をもらえますか?」
「え・・・ええ!もちろんですよ!はい、それはもう・・・。」
「ふふふ、期待してます。」
そう、彼には期待しているのだ。
こうやって真剣に悩んでくれるからこそ、相談相手として信頼出来る。
「それじゃお昼でもご一緒にどうですか?相談に乗ってくれたお礼に奢りますよ。」
「いやいや、悪いですよそんな・・・・、」
有川さんは申し訳なさそうに頭を掻く。すると突然マサカリがリードを引っ張った。
「ヴォンヴォンヴォン!」
「ほら、マサカリは一緒にお昼したいって言ってますよ。有川さんも遠慮せずに行きましょう。」
「ああ・・・ははは・・・すいません・・・。」
苦笑いを見せながらパチン!とマサカリの頭を叩き、一緒に近くの弁当屋まで行く。
そして、久しぶりにほのぼのとした気分で食事をすることが出来た。


            *


その日の午後からは、新製品の開発に追われていた。
案は決まっているものの、細かい所を詰めないといけない。皆が帰った後も一人で残業をこなし、ふうっと息をついて窓の外を見つめた。
「こうやって夜景を見てると・・・この街も賑やかなになったなあ・・・。昔はもっと殺風景だったのに・・・。」
ここ数年で多くの店や建物が増えた。
変わりゆく自分の街を見ていると、ふとノスタルジーに駆られた。
「子供の頃は、動物に囲まれて暮らすのを夢みてたけど、いつの間にか変わっちゃったな・・・。何でも現実的に考えるようになって、高い所へ手を伸ばすのをやめちゃったみたい・・・。これが大人になるってことなら、ちょっと寂しいかなあ・・・。」
今年で二十六になり、ちょっとだけ人生について考えてみる。
今の自分の夢は、ここから独立して自分の会社を持つことだ。家がお金持ちだったから、経済的に不自由を感じることは一度もなかった。
人はそれを羨ましいというが、私にはそうは思えなかった。
いつでもお金があって、いつでも物が手に入るという生活は、時として人から大事なものを奪っていく。お金に恵まれない環境だからこそ、心が恵まれるということはきっとあると思う。たとえ貧乏だったとしても、そこに何か充実したものがあるなら、それこそがきっと人の幸せなんだ。
だから・・・私はここから抜け出したい。この北川家から出て、何もない状態から、自分の力で何かを成してみたい。もう誰かから与えられるのはゴメンだった。
お金も、居場所も、家も、そして・・・仕事も・・・。
「この騒動が終わったら・・・私はここを辞める・・・・。お母さんが楽に暮らせるようになるのを見届けたら、あの家も出なきゃ・・・。」
ポツポツと灯る夜の明かりは、妙に人を感傷的にさせる。私はパチン!と頬を叩き、気合を入れ直してパソコンに向かった。
「さて、しんみりしてないで仕事、仕事。」
カタカタとキーボードを叩き、疲れた目をこすって画面を睨みつける。
すると誰もいないはずのオフィスから「あはは!」と低い笑い声が聞こえた。
「だ、誰・・・?」
怖くなって思わず立ち上がる。すると入り口のドアの所に、例の女スパイが立っていた。
「こんなに遅くまで残業?精が出るわねえ。」
「溝端さん・・・。」
「確か新しい商品が出るのよね?大変よねえ、肩書きはあっても年が若いから、こうやって仕事を押し付けられちゃうのね。」
「・・・いいえ、これは私が自分でやってるだけ。開発っていう重要な部署の課長なんだから、これくらいはやらなきゃ。」
「ふ〜ん・・・真面目ねえ。」
女スパイ、溝端恵子は近くの椅子に腰を下ろし、タバコに火を点けた。
「溝端さん、ここは禁煙だから・・・。」
「それは仕事中の話でしょ?今は誰もいないんだからいいじゃない。」
まるで悪びれる様子もなく、プカプカと煙を吹かしていく。
エーカクデーから送り込まれた彼女は、スパイだとバレた後でも会社に残っている。出来れば今すぐにでもクビにしたいが、向こうの役員がそれを許さない。彼女は監視役としてここに残り続けているのだ。
「・・・ここにいてもいいけど、仕事の邪魔はしないでね。」
私は彼女を無視することに決め、自分の仕事に意識を集中させた。すると案の定、煙を吐きながら嫌味な顔をして絡んできた。
「・・・そんなに仕事が楽しい?」
「・・・・・・・・・。」
「私はね、仕事って嫌いなの。もし宝くじが当たったら、絶対にこんな仕事は辞めるわね。」
「・・・・・・・・・。」
「あんたって、生まれた時から金持ちなんでしょ?ねえ、お金に不自由しない暮らしってどんな気分?やっぱ子供の頃からたくさんお小遣いをもらって、欲しい物は何でも買ってもらえたわけ?」
「・・・・・・・・・。」
「私はね、すんごく貧乏な家に生まれたの。着る物は人からもらったお古ばかりだったし、お年玉なんて縁がなかった。クリスマスでもホットケーキにジャム付けて食べるのが御馳走だったし、正月にお節を食べた記憶もないわ。」
「・・・・・・・・・。」
「だからさ、生まれた時からずっと呪ってたのよね。どうして私は、こんなに貧乏な家に生まれたんだろうって。弁当がみすぼらしいから女友達にもいじめられるし、ロクに風呂にも入れなかったから、男子には臭いってからかわれるし。あの頃は、それが当たり前の生活だって思ってたわ。貧乏人は、お金を持ってる奴になじられても仕方ないんだって。」
「・・・・・・・・・。」
「だから中学を卒業してから、すぐに働き始めた。私って馬鹿だったから、あんまり良い仕事にも就けなくてね。低い収入のクセに仕事が辛いから、すぐに辞めちゃった。」
「・・・・・・・・・。」
「そんでね、そのあと年齢を偽って風俗で働き始めたの。だから、私の初体験は風俗の客だった。脂ぎった小太りのオヤジで、私が処女だって知ったらめちゃくちゃ興奮してたわ。
でもね、事が終わったあとに話をしてたら、私と同い年の娘がいるって分かったの。
だからからかってやろうと思って、自分の本当の年齢を教えたのね。私はまだ十六だって。
そしたらマンガみたいに青くなっちゃってさ!そそくさと帰って行きやがったの!あれは笑えたわ。」
「・・・・・・・・・。」
「でも逆にいえば、それくらいお金が欲しかったのよね。年齢を偽ってでも風俗で働いて、処女を中年のオヤジに捧げても構わないってくらい、お金が欲しかった。もう絶対に・・・貧乏な暮らしはゴメンだって思ってたから。」
「・・・・・・・・・。」
「こういう気持ちって、あんたには絶対に分からないでしょうね。生まれた時からお金に困ったことがなくて、弁当がしょぼくていじめられた経験なんてないでしょ?
あれってけっこうみじめよ。だって悪いのは貧乏な親であって、子供は関係ないんだから。
ロクに稼げない馬鹿親の為に、なんで私がいじめられなきゃいけないんだろうって、いつも思ってたわ。」
「・・・・・・・・・。」
「だからね、どんなことをしてもお金が欲しかった。それで・・・ちょっと商売のやり方を変えたのね。風俗で働くのは相変わらずだったけど、ある事情があって店を転々とするようになったの。なんでか分かる?」
「・・・・・・・・・。」
「それはね、相手を脅してやる為よ。なるべく身分の高そうな男を相手にして、何でも好きなようにさせてあげるの。ビックリするくらい変態的なことでもね。
それで全てが終わったあと、ほんとうの事を教えてやるのよ。私はまだ十六だって。
そうするとね、みんな青い顔をするのよ。そんなのウソだって認めない客には、原付の免許を見せてやったわ。そうすると、さらに真っ青になるのよ。だから私はそこでこう言ってやるわけ。この事をバラされたくなかったら、お金を払えって。」
「・・・・・・・・・。」
「相手はそれなりの身分の人だから、信用が傷つくのを恐れてすぐにお金を払ってくれたわ。でも仕返しとばかりに店に言い付ける人間もいたから、ずっと同じ店にはいられなかったのよね。ああ・・・今思えばボロい商売だったなあ、あれ。
適当におっぱい揉ませて、適当に腰振って、そんで適当に演技して喜んでやってさ。
それで最後に脅すだけだもの。一回の仕事で百万稼いだこともあったわ。なんたって、相手は医者や弁護士だったりするからね。十六の未成年と風俗で遊んだとあっちゃ、身の破滅だもんね、あははは!」
「・・・・・・・・・。」
私はキーボードを叩く手を止め、大きく息を吐いた。そしてゆっくりと彼女の方を振り向き、睨むように視線を飛ばしてやった。
「何よ、仕事が邪魔されて怒っちゃった?」
「・・・・いいえ、あなたにごちゃごちゃ言われたくらいで、集中力は途切れたりしない。」
「あらまあ。悟りを開いた坊さんみたいね。あんた、実は歳サバよんでんじゃないの?」
「・・・ねえ、言いたい事があるならハッキリ言ってくれない?今までの話は、全部私をなじる為の伏線でしょう?」
今までにこういうことは何度もあった。同情を引くような言葉でこちらの気持ちを揺さぶり、優しい顔をみせた途端にゲラゲラ笑う。
『あははは!なにマジになってんの?ダッサ!あはははは!』
そう言って笑ったあと、私のことを徹底的に罵るのだ。
金持ちのボンボン、頭の中がお花畑のバカ女、言葉に出すのも躊躇うような卑猥な言葉を使い、散々に馬鹿にする。だから・・・もう同情なんてしない。
彼女の言葉は、一つも私の気持ちを揺さぶることはない。それが相手を傷つける為の罠だと分かっているから・・・。
「ふうん・・・そんな目ができるんだ。まるでは虫類みたいに無機質な顔してるわよ。」
「あなたの言葉が、私を罵る為のものだって知ってるからね。それで、今日は何を言いに来たの?こんな時間まで残っているくらいだから、どうしても言いたい事があるんじゃないの?」
私はあくまで無機質な目で睨みつける。溝端さんはニヤニヤと笑い、タバコをグリグリと机に押し付けた。そして椅子から立ち上がってこちらに歩いてくる。
「ねえ、いいこと教えてあげるわ。」
「・・・・・・・・・・。」
「もうすぐ、この会社はエーカクデーに乗っ取られる。
一から十まで完璧に乗っ取られるわ。その時は、あんたのお母さんもいいように使われるでしょうね。もし拒否したりなんかすれば・・・・北川一族の秘密のことがバラされるわ。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
「その時には、ここにあんたの椅子はない。あの豪華な家も手放すハメになるでしょうし、生まれて初めて貧乏な生活を味わうはずよ。」
「・・・だから?私は貧乏なんて怖くないわ。だって人の気持ちさえあれば・・・・、」
そう言いかけた時、彼女はバン!と私の机を叩いた。
「はあ?貧乏が怖くないって?あははは!金持ちのボンボンがよく言うわ!」
馬鹿にしたようにゲラゲラ笑い、急に目をつり上げて顔を近づけてきた。
「いい、この頭の中がお花畑のバカ女。金がないってことは、自分を売るしか生きていく方法がないのよ。特に女はね。だから・・・あんたも一回風俗で働いてみたらいいわ。
その綺麗な顔を、脂ぎったオヤジのくっさいアレで、ぐちゃぐちゃに汚されればいいのよ。」
「・・・・・・・・・。」
「ふふふ、もしその気があるなら紹介してあげるわよ、良い風俗店を。変態ばっかりが集まるとんでもない店だけど、稼ぎはいいの。気兼ねせずにいつでも言ってよ・・・ね?」
そう言ってポンポンと私の頭を叩き、ヒールを鳴らしてオフィスから出ていく。
その後ろ姿は勝ち誇ったように勇ましかった。しかし・・・・ほんの少しだけの寂しさが混じっているようにも感じた。
・・・強がっている・・・。素直にそう感じた。そして、彼女はきっと・・・・出口を探している。今の自分から抜け出す出口を、お金というものに取り憑かれた自分から逃げ出す出口を・・・・。
私は頭の良さには少しだけ自信がある。でも感性はトコトン鈍い・・・。そんな私でも、溝端さんの背中に宿る寂しさは感じ取ることが出来た。
「ねえ溝端さん。」
彼女は足を止め、ニヤけた顔のまま振り返る。
「一つだけ聞かせて。どうして今の仕事を始めたの?」
わずかに彼女の表情が変化する。しかしまだニヤけた笑いは残っていた。
「さっきあたなはこう言ってたわよね?もし宝くじが当たったら、こんな仕事は辞めるって。なら・・・今の仕事を良く思ってないんでしょ?
こんなスパイみたいな仕事は・・・もうやりたくないって考えてるんじゃないの?」
私は真っすぐに彼女を見つめる。無機質な目ではなく、一人の人間の目で・・・。
溝端さんはわずかに俯き、ニヤニヤ笑いを消して顔を上げた。
「あんたみたいなボンボンには分からないわ、一生ね。」
それだけ言い残し、カツカツとヒールを鳴らして去って行った。
「・・・・・・・・・・・。」
オフィスには静寂が戻り、窓から夜の明かりだけが飛び込んでくる。それは鈍く足元を映し、私の机の明かりとぶつかって消えていく。
「・・・もう・・・いよいよ大詰めってことね・・・。早く何か手を打たないと・・・本当にこの会社は・・・・。」
諦めの混じった声で呟くと、ブルブルとケータイが振動した。こんな時間に誰だろうと思いながら見てみると、思わず「ああ!」と声が漏れた。
それは昼間に相談した、有川さんからのメールだった。
私は息を飲みながらメールを開き、彼の送ってくれた言葉を食い入るように読んだ。そこには・・・・ほんの微かな希望の光を感じた。それはほんとうに小さな光だったけど、今の私には天からの救いの手のように思えた。
「やっぱり・・・・彼に相談して正解だった・・・。」
胸にケータイを抱きしめ、闇に浮かぶ街の明かりを見つめた。

稲松文具店 第七話 北川翔子(1)

  • 2014.08.24 Sunday
  • 18:28
狭い会議室で、白髪混じりのおじさん達が難しい顔をしている。
そのおじさん達の前で、凛々しい顔をした体格の良い男が、ホワイトボードをバンバンと叩いていた。
「他に?他にアイデアはないか?」
男は武道で鍛えられた胸板を見せつけ、威圧的におじさん達を見渡す。誰もが目を逸らすように俯き、やがて私の方に視線が飛んできた。
「お前は?何かアイデアはないか?」
そう言ってビシっと棒を向けて来る。
「・・・今度の新製品は、奇抜さよりも堅実さを重視した方がいいと思います。だから耐久性や使いやすさに重点を置くべきではないでしょうか?」
私は男の視線を押し返して、ビシリと言ってみせる。
「要するに・・・お前も良いアイデアはないというわけだな?」
「いえ、そういうことではありません。なにもアイデアを出すばかりが、新製品の開発に重要な事ではないと言っているんです。いかに面白い商品であっても、基本的な性能が劣っていれば、きっとお客様は喜んでくれないと思います。だから・・・ここは白川部長の案で決定してよろしいかと。」
「ふうむ・・・まあ確かにここ最近は、話題性を狙った物ばかりが続いていたからな。
・・・・よし!北川課長の言う通り、今回は白川部長の企画でいこう!仕事は早さが肝心、皆すぐに開発にとりかかるように!ではこれにて今日の会議は終了する。」
男は机の上に棒を放り投げ、スタスタと歩いて会議室を出ていった。
「はあ〜・・・終わった・・・・。」
おじさん達は気が抜けたようにため息をつき、ホッと安堵の表情をみせる。
「・・・翔子ちゃん、ごめんね。助け舟を出してもらって。」
少しだけ薄くなった頭を下げながら、白川部長が申し訳なさそうに言う。
「いえいえ、私は私の意見を言っただけですから・・・。」
「その私の意見ってのが、俺達は言えないんだよ・・・。あの社長の逆鱗に触れたら、それこそいつクビが飛ぶか分からないからな。」
白川部長は疲れた顔でネクタイを緩めた。
すると向かいに座っていた段田専務も、たっぷり肉の付いた顔で頷いた。
「あの若いエネルギーはけっこうだと思うが、もうちょっと柔軟になってくれないとオチオチものも言えない。まあ最年少の新社長だから、周りに舐められまいと頑張ってるんだろうけど、それでもねえ・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
先ほど皆に激を飛ばしていた男、彼こそは稲松文具の現社長である、北川隼人だ。
一年前に前社長が引退し、肩書きだけの会長職に収まった。そして後を引き継いだのが、前社長の長男の北川隼人だった。容姿端麗、頭脳明晰、行動力と決断力も抜群で、誰もが社長としての器を認めている。しかしやや周りを顧みないところがあり、その優秀さゆえに人を見下すこともあった。
「・・・心配だなあ・・・このままだとワンマン経営に成りかねんぞ・・・。」
「ですな。前社長は仕事だけでなく、人間的にも素晴らしい方だった。その分やはり息苦しさは拭えない・・・。」
専務と部長は重い声で肩を落とし、周りのおじさん達もそれに同調する。
「しかしまあ・・・仕方ないといえば仕方ないでしょうな。今や我が社は、創立始まって以来の危機に晒されているんですから。」
そう・・・この稲松文具は、今ひじょうに危機的な状況にある。
明治時代の初期から続くこの会社は、北川一族が経営を仕切ってきた。創始者の北川怒部六が私財の全てを投げ打って起こした会社で、今や日本を・・・いや、世界でもトップを走る文具メーカーなのだ。
常識を疑うような奇抜な商品から、プロでも愛用する画材、それに子供たちが気軽に使える文房具など、多種多様な商品で注目を集めている。それに靴と家具も造っていて、最近は新開発した家具がかなりの売上を伸ばしている。他に類を見ない木材加工技術を得たおかげで、家具の分野でも近々トップに躍り出るだろう。
それもこれも、全ては北川一族のユニークな経営によるものだった。
ライオンの牙にでも耐える筆箱、クジラが尾びれで叩いても壊れないペンキャップ、他にも非常食にもなる消しゴムや、微分積分までこなす電卓など。
普通の会社なら一蹴されるようなアイデアでも、この会社の経営者たちは取り入れてきた。
それが話題を呼び、さらには優秀な職人や技術者までも集まってきたおかげで、今の稲松文具がある。
それらはすべて、北川一族の柔軟な思考と精神によるものだ。
『もらえるものはみかんの皮でももらえ。ただし毒には気をつけろ』
これが代々受け継がれてきた、北川一族の精神だった。
そして・・・・私もその血を受け継いでいる。現社長の北川隼人、彼は私の兄である。
幼い頃からよく可愛がってくれて、歳が離れているせいか、もう一人の父親のように感じていた。その兄は今、この会社の危機を救おうと奮闘している。
アメリカの高級画材メーカー、エーカクデーが我が社の株の30パーセントを買い取ったのだ。エーカクデーは欧米での人気は高いものの、アジア圏ではほとんどシェアを持っていない。しかも、どれもこれも目玉が飛び出るほど高い商品ばかりなので、庶民にはまったく手が出せないのだ。あの会社の画材を買うのは、名の知れた画家やクリエイターくらいで、そういう意味では格式の高いブランドになっている。
だが我が社もここ最近、欧米への進出を盛んに行ってきた。岡本八郎やゴボゴなどの有名な画家に、うちの開発した画材を使って絵を描いてもらい、それを宣伝に使って欧米への進出の足掛かりとしてきた。
しかしその事を脅威に感じたエーカクデーが、卑劣な手を使って対抗してきたのだ。
なんと!我が社にスパイを送ってきたのである!
うちのフロントには、少々口の悪い三十過ぎの女性がいる。
彼女はエーカクデーが送り込んできた諜報員であり、社内の男性をたぶらかして情報を収集しているのだ。
そして・・・・決して外に漏らしてはいけない秘密を知られてしまった・・・。
それはうちの会社がここまで大きくなった事に関係する、重要な秘密だった。
北川一族の女性には、隔世遺伝である能力が引き継がれる。それは・・・ほんの少しだけ未来の出来事が読めるという力だ。未来予知などという大層なものではないけど、一分先までの出来事ならほぼ正確に言い当てることが出来る。
もしろん制約もある。先の事を予想する場合、必ずその対象の前に立っていなければならない。それにこの力を使うととても疲れるので、どう頑張っても二日に一度が限界ということだ。しかし商売をするうえで、一分先の未来が予想出来るということは、とてつもない武器である。
たとえば株。モニターで株の情報を見つめていると、一分先までの流れが予想出来る。
そして交渉の時にも役立つ。
もしこういう事を言えば、相手は何と返事をしてくるかと予想出来るのである。
これはもう・・・絶対に我が社に欠かせない力なのだ。
ちなみに私はこの力を持っていないが、母はこの特殊な能力を引き継いでいる。そのせいで、およそプライベートな時間というのは与えられなかった。とにかく会社の為に貢献しないといけないし、下手にこの事を誰かに喋ることも出来ない。
子供の頃からほとんど家に閉じ込められ、外に出るときは必ずお付きの人が同行する。
だから青春らしい青春というのは送っていない。結婚相手でさえ、親に決められてしまったのだ・・・。
しかし逆にいうと、それだけこの力は我が社にとって重要なものであり、決して外へ漏らしてはいけないのだ。だからこの秘密を知っているのは、北川一族の人間と、信頼の厚い重役だけである。
だがエーカクデーが送ってきたあのスパイは、どこからかこの秘密を手に入れた。
もちろん北川一族がこんな事を喋るわけはないので、秘密を知っている重役の誰かがバラしたのだろう。スパイの女は、この秘密をエーカクデーの本社に伝えた。すると、向こうはこれをネタに脅しをかけてきたのだ。
『お前たちの保有している株を、半分我が社に寄こせ。さもなければ、この秘密を世間に公表する』
北川一族の女性の力は、稲松文具の生命線である。もしこれが外部に漏れれば、きっとこの会社はマスコミの餌食にされ、面白半分に弄ばれる。
そうなれば会社の信用はガタ落ち、明治から続く稲松文具は、その終焉を迎えるだろう。
『なんだ、あの会社はそんな卑劣な力に頼っていたのか』と・・・・・。
だからうちの会社は、エーカクデーの要求を飲むしかなかった。30パーセントも株を持たれてしまえば、これはもうどうにも逆らいようがない。きっとエーカクデーは、北川一族の女の力も含めて、丸々この会社を自分のものにするつもりなのだ。
これからもっともっと要求はエスカレートしてくるだろう。
だからこそ、兄は焦っている。今まで以上に会社の利益を上げて、奪われた株を取り返そうと・・・。そして、今度はこちらが反撃に出る番だと・・・。
何とかしてエーカクデーの弱みを握り、向こうの要求を突き返すつもりなのだ。
その為に彼を雇ったんだけど・・・・・。まさかあんなことになるとは思っていなかった。
会社を失い、酒に明けくれて自暴自棄になった男に刺されるなんて・・・・・。
元々すごく大人しい子で、あんなスパイまがいの事をさせたのが間違いだったのだ。
いくら敵の会社の情報を握る為とはいえ、あんな人の良さそうな子に悪事をさせるのは・・・胸が痛んだ・・・。
《ごめんね、冴木君・・・。嫌な事をさせた上に、危険な目に遭わせちゃって・・・。》
エーカクデーの事を散々に言っている私たちだって、他の会社に同じようなことをしてきたのだ。そのせいで小さな会社を潰したこともあったし、あんな人の良い青年を辛い目に遭わせてしまった。
いくら謝っても足りないけど・・・本当の事を知る前に辞めたのはよかったかもしれない。
彼にはうちの会社が危機にあることは教えたけど、北川一族の力のことは教えていないのだ。もしあのまま続けていれば、きっと最後には秘密を知ることになる。
そうなった時・・・きっと兄は彼を放っておかないだろう・・・。一生自分の手元に置いて監視を付けるか、もしくは散々に脅して口を封じるはずだ。
その時・・・私に彼を守ってあげる力はない・・・。
嫌がる事を協力させておきながら、きっと彼を救うことは出来ないだろう。だから冴木君がこの仕事を辞めるように、何度もそれとなく説得してきた。
そして・・・・幸か不幸かあんな事件が起こって、彼は会社を去った・・・・。
うちの会社は危機に晒されたままになったが、冴木君の事を想えばこれでよかった・・・。
いくら窮地に立たされようと、誰かを傷つけてまで仕事をすることに・・・・私は耐えられそうになかったから・・・。
「翔子ちゃん、どうしたボケっとして?」
部長が心配そうに顔を覗きこんでくる。
「ああ、いえ・・・・ちょっと考え事を・・・・。」
「君も大変だな。その若さで課長職になんか就くもんだから、周りからの嫉妬も激しいだろう?課長の椅子は実力で勝ち取ったのに、みんなはそう思っていない。」
「それは仕方のないことです。私は会長の娘ですから、コネだと思われることは覚悟していましたから。」
「そのセリフをうちの息子にも聞かせてやりたいよ。
もう大学二年だというのに・・・未だにフラフラ遊んで将来も決まってないんだから。」
「ふふふ、そんなものですよ、学生のうちなんて。就職したら自由なんて利かないんだから、今のうちにいっぱい遊んでおくべきだと思います。」
そう言いながら書類を持って立ち上がり、頭を下げて会議室を出ていった。
「周りからの嫉妬か・・・。確か部長も嫌味を言っていたような気がするけど・・・。」
そう、基本的に私はこの会社で浮いている。
仕事をやればやるほど、周りから溝を作られていくのだ。
「でも今はそんなことを気にしてる場合じゃない・・・・早くこの状況を何とかしないと・・・。」
悩み事を挙げればキリがないが、どうせ悩むなら大きな事にとことん悩んだ方がいい。
そう思いながら廊下を歩いていると、前からその悩みの種がやってきた。
「ああ、翔子ちゃん。もう会議は終わったの?」
「・・・・・・・・・・・・。」
出た。女スパイである・・・・。
「何よ、そんな顔して。」
「いえ・・・別に・・・・。」
「あのさ、今日の夜に合コンがあるんだけど、翔子ちゃんもいかない?こっちにロクな面子が揃わなくて困ってるのよ。」
「悪いけど、仕事が溜まってるから・・・・。」
「ああ、そうか。その若さで課長だもんねえ。若くして出世するとロクなことがないわよねえ。」
嫌味ったらしく肩を竦めて笑い、女スパイは脇を通り抜けていく。
「合コン、気が変わったら言ってね。翔子ちゃんならいつでも大歓迎だから。」
「・・・・・・・・・・・・。」
私は胸に書類を抱えながら、彼女を去るのをじっと見送った。
「絶対に・・・・この会社は守ってみせる。あなた達の好きになんかさせないわ・・・。」
そう・・・何がなんでもこの会社は守ってみせる。だって・・・母があんなにボロボロになるまで戦ってきたんだから・・・。
しかし今のところは、これといって敵に対抗する手段がない。頼みの綱の冴木君はもういないし、彼にカムバックをお願いするわけにもいかない。
どうしようかと悩みながら歩いていると、ふとある人物の事が浮かんだ。
「彼に・・・・相談してみようかな・・・。多分・・・きっと力になってくれるはず・・・。」
私の周りには、かなり変わった人たちが多い。
未来を見通す母、超人的な記憶力を持つ冴木君。そして・・・・・。
「うん、彼に相談してみよう。変わった力も持ってるし、何より独特の考え方をしてるし・・・何かヒントが見つかるかも・・・。」
部署に戻った私は、ヒソヒソと飛んでくる嫌味を聞き流しながら仕事をこなしていった。
そして家に帰ると、すぐに彼に連絡を取った。
明日の昼、あの河原で会えないかと・・・・・。

稲松文具店 第六話 箕輪凛(2)

  • 2014.08.23 Saturday
  • 19:31
暖色の照明が、ガラスのカップを鈍く光らせている。
午後六時のファミレスはかなり賑やかで、秘密の話をするにはもってこいの場所だった。
私の目の前では、可愛らしい女の子が肩までのストレートを揺らして、せっせとグラタンを頬張っている。
「よく食べるね。」
「うん、ご飯まだだったから。それに心配事もなくなったし。」
優香ちゃんは、人懐っこい笑顔を浮かべてニコリと笑う。
「よかったね黒沢君。これで君も安心できるでしょ?」
「はい。今夜は久しぶりにぐっすり眠れそうです。」
黒沢君も妹に負けじとニコリと笑い、ジュースの入ったコップを見つめている。
ロッテンマイヤーさんが喫茶店に押し掛けて来てから三十分後、私たちは稲松文具から離れたファミレスに来ていた。
車で黒沢君の家まで行き、優香ちゃんを乗せてここまでやって来たのだ。最初に優香ちゃんの顔を見た時、まるで死人のように生気がなかった。明日この世が終わるみたいな顔をしていて、とても小学生の女の子の表情とは思えなかった。
そして彼女をつれてこのファミレスへやって来て、じっくりと話を聞いたのだ。優香ちゃんは無表情のままポツポツと喋っていたが、やがてジワリと涙を浮かべて泣きだした。
『辛い・・・・。どうしたらいいか分からない・・・。』
そりゃそうだろ・・・こんな幼い女の子が、妊娠したかもしれないと一人で悩んでいたのだから。
私は彼女の隣に座り、安心させるように背中を撫でながら話を聞いていた。時折相槌をうち、時折助け舟を出して、たどたどしい説明を聞き終えた。
そして・・・・話を終えた優香ちゃんに一言、「それ、絶対に妊娠してないよ」と答えた。
黒沢君から聞いた話だけでは、どうも要領を得ない部分があったのだ。
それは相手の男の子のことだった。
いくら身内といえど、男である兄には話しづらいことがあったのだろう。
彼女は早すぎる性行為のことを、後になって非常に後悔していた。
まず、成り行きでそういう事になってしまったというのは間違いで、あれは優香ちゃんから誘った事だったそうだ。
毎週通っているピアノ教室の生徒に、中学三年生の女の子がいるらしい。その子は今でこそ大人しくなっているが、一年ほど前までは非常に荒れていたという。
そして・・・・なんと優香ちゃんと同じ年齢で初体験を済ませたのだそうだ。その話を聞いた優香ちゃんは、興味をそそられて詳しく質問責めにした。自分にとって未知の領域が、次々に頭の中に飛び込んでくる。本来は大人になってからやるべき事が、幼い子供の心に強い刺激を与えてしまった。そして・・・最後にその女の子は言った。
『処女なんかいつ捨てても変わらない。出来る時にやっちゃえ』と・・・・・。
純粋過ぎる優香ちゃんは、その言葉を真に受けてしまった。そういうのは、子供でもやっていいのだと・・・。
すっかり勘違いしてしまった優香ちゃんは、仲の良いボーイフレンドを家に誘った。
黒沢君の話によると、その子とは小四の時から付き合っていたそうだが、それは間違いだった。ただ他の男の子より仲がいいだけで、そしてここ最近で淡い恋心が芽生えてしまったという。
この時の優香ちゃんの頭には、少女マンガのような展開が妄想されていたらしい。
部屋に二人っきりになり、お喋りをしているうちに良いムードになる。そしてどちらからでもなく身体を寄せ合い・・・・・後は・・・アレやコレやと発展していく。
行為を終えた二人はベッドの中で見つめ合い、愛の言葉を囁き合う。そして永遠に一緒にいようと誓いを立て、恋愛マンガのラストシーンのように締めくくられる。
マンガという空想の世界、そしてピアノ教室の女の子から教えられた間違った常識。
純粋過ぎる優香ちゃんは、すっかりそれらの妄想に取りつかれ、恋愛マンガの主人公を演じていたつもりなのだろう。
しかし・・・現実にはそうはいかない。
家にやって来た男の子は、楽しそうに優香ちゃんと喋りあっていた。しかし、いくら待っても良いムードに発展する気配はない。だから少しだけ身体を寄せてモーションをかけると、恥ずかしがって逃げていったという。優香ちゃんはさらに身体を寄せ、ギュッと腕を組む。突然の展開に困惑し、相手の男の子は身を固くしていた。
そして・・・・優香ちゃんがゆっくりと顔を近づけると・・・・向こうは完全に固まった。
次の瞬間には我に返ったように立ち上がり、優香ちゃんを押しのけて部屋を出て行こうとした。だが優香ちゃんは諦めない。いや、諦めないというより、妄想に取りつかれて周りが見えなくなっていた。
去りゆく彼の背中に抱きつき、「修二君のことが好きなの」と囁いた。
う〜ん・・・これじゃ恋愛マンガというより、ドロドロの昼ドラの展開じゃないのか・・・?
そして緊張と驚きで固まる彼の前に立ち、そっと唇を重ねた。そこから先はまあ・・・・詳しいことは省こう・・・・。
しかし要点となることは、本番行為に入る前にあった。
優香ちゃんはピアノ教室の先輩から聞いた知識を元に、手を使って彼のナニを刺激したそうな。最初は嫌がっていた彼も、だんだんと我を忘れていったらしく、刺激と快感に身を任せ始めた。そして・・・・・絶頂に達した時に、ビクン!と大きく身を逸らした。
だがしかし、彼は射精をしなかった。
その後も何度か絶頂に達した瞬間はあったみたいだが、やはり何も出てこない。
これはもう、まだ子供が作れる身体になっていないということだろう。ならばいくら性行為に及ぼうが、子供が出来る可能性はゼロである。
行為を終えた二人は、気が抜けたように放心状態になったという。
そこには、優香ちゃんが妄想で描いた、有り得ないマンガのようなシーンはなかった。
お互いが言葉を失くし、気まずい空気だけが漂っていた。そして時間が経つにつれて、嫌な気持ちがモヤモヤと湧きあがり、凄まじい罪悪感に襲われたという。
彼はそそくさと服を来て立ちあがり、「絶対に誰にも言うなよ!」と怒鳴りつけて逃げ出した。優香ちゃんの方も、すぐに風呂場に駆けこんでシャワーで身体を洗った。
そしてその時・・・初めて現実的な考えが戻ってきた。
『もし妊娠してたら・・・・どうしよう・・・』
彼が射精をしていないことは、優香ちゃん自身も分かっていた。
しかし早すぎる性行為に対する不快感、妄想から目が覚めた現実感が、どんどん理性を奪っていく。
『妊娠、妊娠、妊娠』
その言葉だけが頭を駆け巡り、パニックを起こして風呂場で気絶してしまったという。
それからの間ずっと、一人で抱えて苦しんでいた。もちろん親や教師には相談出来ない。かといって下手に友達に話そうものなら、どこから話が漏れるか分からない。
妊娠していたらという恐怖、そして頼れる者がいないプレッシャーから、とうとう限界を迎えて兄に相談したのだ。
一から十まで詳しく話そうとしたらしいが、恥ずかしさがあって、重要なところは誤魔化してしまった。それに黒沢君も、こういうことに関してはほとんど知識がないので、気の利いたことは言ってあげられなかった。
だから・・・黒沢君までもが苦しむ羽目になった。
そして今日、学校をサボってタバコを吹かし、現実逃避に走っていたというわけだ。
全てを聞き終えた私は、優しく優香ちゃんの頭を撫でた。
「それ、絶対に妊娠してないから大丈夫。保健体育で習わなかった?射精しないと妊娠しないって?」
優香ちゃんは、もちろん知っていると答えた。しかし妊娠の恐怖と、誰にも相談できない苦しさから、最悪の状況だけが頭に浮かんで離れなかった。
私は何度も「大丈夫、絶対に大丈夫」と慰めの言葉をかけ、肩を抱き寄せた。優香ちゃんは私の胸の中で、押し殺した声でしばらく泣いていたのだった。
「もう元気になったね?」
そう尋ねると、優香ちゃんはニコリと笑って頷いた。
熱そうにグラタンを頬張り、兄のジュースを掴んでゴクゴクと飲み干している。
「あんまり食い過ぎるなよ。腹の調子が悪いんだろ?」
「もう平気。なんにも心配はなくなったもん。」
そう言ってまたグラタンを頬張るが、ふと顔を上げて見つめてきた。
「ねえお姉さん?」
「なに?」
「まだ生理がこないんだけど・・・大丈夫だよね?」
「ああ、そのこと?体調が悪い時はそれくらい遅れることもあるわよ。きっと精神的なプレッシャーで遅れてたんだと思う。これで心配ごとはなくなったんだし、もうじきくるんじゃないかな。」
「そっか。じゃあ安心だね。」
優香ちゃんはアッサリとグラタンを平らげ、子供らしい笑顔でニコリと笑う。
「ケーキも頼んでいい?」
すると黒沢君がメニューを取り上げ、唇を尖らせながら怒った。
「お前なあ、心配事がなくなったからって、調子に乗るなよ。」
「いいじゃん。ここんとこ全然ご飯が喉を通らなかったんだから。」
「だからって・・・今日初めて会った人になんでも奢ってもらうなよ。そんなんだからお前は、自業自得で痛い目をみるんだよ。」
「あのさ、お兄ちゃんってやっぱり固いよね?もうちょっと楽に生きたら、友達も増えるし、彼女も出来るかもよ。」
「小学生に偉そうに言われたくねえよ。」
黒沢君は指で優香ちゃんのおでこをトンと押す。優香ちゃんも負けじと鼻を押し返し、小さな兄妹喧嘩が始まった。
いい兄妹ね。でも・・・・今回の一番の被害者って、相手の男の子なんじゃないかな・・・。
気になって彼のことを尋ねてみると、優香ちゃんは悲しそうな顔で俯いた。
「あれから全然口を聞いてくれないの。目も合わせてくれないし・・・。」
「そりゃそうなるでしょ。言っとくけど、悪いのは優香ちゃんの方よ。」
「分かってる・・・。でもね、なんか自慢してるみたいなの。」
「自慢・・・?」
「うん、自分の友達に、俺はもう大人なんだぜ!って。最近すっごく態度も大きいし・・・。」
なるほど・・・・男にとってはそういうものかな・・・。こればっかりは女の私には分からないけど。
「ねえ優香ちゃん、ケーキを頼んでもいいけど、一つだけ約束して。」
「なに?」
「・・・あのね、今回は何事もなかったからよかったけど、もう絶対にこんなことをやっちゃダメよ。」
「・・・はい・・・・。」
さっきまでのテンションはどこへやら、急に昼間の朝顔のように萎れてしまった。
「優香ちゃんのせいで、お兄さんがどれだけ心配していたか・・・ちゃんと分かってるよね?」
「・・・うん・・・。」
「それと、こういう事はもっと大人になってからすること。きちんと大人の身体になって、自分に責任が持てるようになってからじゃないとダメよ。もし本当に妊娠してたら、どれだけ騒ぎになってたか・・・・よく考えること。いいわね?」
「・・・はい、ごめんなさい・・・・。」
「よし!それじゃケーキを頼んでもいいわよ。ほら、黒沢君もジュースばっかり飲んでないで、何か頼みなさいよ。」
優香ちゃんは嬉しそうにケーキを頼み、黒沢君は遠慮がちに安めのクレープを頼んでいた。
この二人、性格がはっきり表に出てて良い兄妹だわ、まったく。
それからしばらくお喋りをして、遅くならないうちに二人を家まで送った。
「ありがとう箕輪さん・・・。僕・・・本当に助かりました・・・。」
「いいのよ、これからはきちんと妹を見てやんなさいよ。」
「はい。」
黒沢君は胸を張って優香ちゃんの頭をポンポンと叩いた。
「優香ちゃんも、あんまり馬鹿なことしてお兄さんを困らしたらダメよ。」
「うん!もう今回ので懲りたから・・・。これからは、お兄ちゃんに彼女が出来るようにサポートしてあげる。」
「だから偉そうに言うなよ。」
兄妹漫才を微笑ましく見つめ、私は手を振ってクラクションを鳴らした。
「じゃあね、しっかり勉強するのよ、学生諸君。」
「うん、ほんとにありがとう。」
「私、お姉さんの店に文房具買いに行くね!」
お騒がせ兄妹に手を振りながら、ゆっくりとアクセルを踏み込んで二人を後にした。
「ああ〜・・・・なんか疲れる一日だった・・・・。ちょっと暇潰しのつもりで話しかけただけなのに・・・まさかこんな展開になるなんてねえ・・・。」
確かにしんどい一日ではあったが、嫌な一日ではなかった。誰かの為に力をかすなんて、いったい何年ぶりだろうと振り返る。
「昔はね、もうちょっと人情味のある人間だったんだけど・・・。いつからこんなにドライになっちゃったんだろ、私・・・。」
あの兄妹のおかげで、少しだけ昔の自分を思い出した。大人になるにつれて、色々な事が面倒くさくなって目を背けてきた。
でも・・・・ほんとうは、もっと面倒見のいい姉御肌的な性格だったはずだ。
「変わるね、人って・・・。冴木の奴も、何か思うところがあって辞めたのかなあ・・・。」
なぜかあの男のことを思い出し、ふと妙な気持ちになる。しょっちゅう遅刻はするわ、仕事はミスをしまくりだわ、しかも辞めた後まで迷惑をかけられる。そう考えるととんでもない奴だが、どこか憎めない男でもあった。
「あいつといる時だけ・・・ちょっと昔の自分に戻ってた気がするなあ・・・。なんか不思議な雰囲気を持ってて、今思うと嫌いじゃなかったな、冴木のこと。・・・いやいや!やめようこんなの!なんであんな奴を思い出して感傷に浸ってんだか・・・。」
頭の中から一気に冴木を削除し、ふと現実的なことを思い出した。
「ああ!そういや仕事場を抜け出したままだったんだ!いや・・・・・・まあいいか、もうそろそろ、ここら辺が辞め時ってことで。彼氏のポロポーズをOKして、このままあそこを辞めちゃおう。」
しばらく悩んでいた事を決意し、アクセルを踏み込んで空いた道をとばしていく。そしてガソリンのメーターが少なくなっていることに気づき、近くのセルフスタンドに車を寄せた。
「はあ・・・どんどん高くなるよね、ガソリンも。いったいいつになったら値上がりが止まるんだろ。」
一人ぼやきながら給油口を開けると、向かい側にいそいそと給油をしている男がいた。
「・・・・・・・・・・・・。」
男は死んだ魚みたいに生気のない顔をしながら、ボケっと宙を睨んでいる。
そして私の視線に気づき、「あ!」と声を上げた。
「・・・箕輪さん・・・。」
バツの悪そうな顔で俯き、ポリポリと頭を掻く男。私はニコリと笑ってチョイチョイと手招きをした。
男は給油を終え、躊躇いながらこちらへ走って来る。
「・・・お久しぶりです・・・・。」
そう言ってペコリと頭を下げ、相変わらずのだらしない顔をみせる。
「ほんと久しぶりね、冴木君。」
私は嘘くさいほどニコニコと笑い、急に目をつり上げて怒鳴った。
「あのねえ!あんたのミスのせいで、どれだけ私が仕事を押し付けられてると思ってんのよ!立つ鳥あとを濁さず!辞めるならそれくらいしていけってんだ!」
「あ、ああ・・・・すいません・・・。でもこれには事情が・・・、」
「うるさい!言い訳無用!」
私の渾身のビンタが、これ以上ないくらい綺麗に冴木の頬を打ち抜く。
夜のガソリンスタンドに、パチン!と渇いた音が響いた。

稲松文具店 第五話 箕輪凛(1)

  • 2014.08.22 Friday
  • 20:23
狭い事務所の電話が忙しなく鳴り響いている。そして処理しなきゃいけない書類が目の前にドッサリ。
私は次々に襲いかかる雑務に対応し、目の回る忙しさの中で愚痴っていた。まったく・・・冴木が辞めたせいでロクに休みも取れやしない・・・。
今から一月前、私の後輩が刺された。会社が倒産し、酒に溺れて自暴自棄になった男に刺されたのだ。幸い命に別条はなかったみたいだけど、しばらく入院することになった。
怪我が治ったら戻ってくるもんだと思っていたのに、あいつはそのまま辞めやがった。
おかげで、そのシワ寄せは私にきている。休日出勤も当たり前、あいつの担当していた仕事のクレームも、なぜか私が引き受けている。
「くそ!冴木の奴め・・・。立つ鳥あとを濁しやがって・・・。自分の仕事のケジメくらいつけてから辞めろってんだ!」
思わず声を荒げてしまい、ロッテンマイヤーさんに睨まれる。私は愛想笑いで誤魔化し、そそくさと目を逸らした。
冴木がいなくなった今、ロッテンマイヤーさんの攻撃の対象は私に移った。毎日毎日嫌味を言われ、バインダーで頭を叩かれることもしばしばある。
そういう意味でも、冴木が辞めたことに腹が立っていた。店長はあいつが辞めた理由を詳しくは知らないと言っていた。冴木と仲の良かった北川課長に聞いても、言葉を濁すばかりで教えてくれない。それもまた、私の中のイライラを募らせた。
もし次に会うことがあったら、一発くらいはひっぱたいてやる!
アホみたいな忙しさに追われ、私はひたすら雑務をこなしていった・・・。


            *


私が稲松文具店に就職したのは三年前だ。
東京にある大学に通っていたのだが、なかなか良い就職先が見つからずに帰郷してきた。
そして私の地元に本拠地を置く文房具メーカー、稲松文具の面接を受けることにした。
地方都市の田舎に本拠をおくこの会社は、日本でトップを走る文具メーカーだ。
世界的にも評価の高い製品を作っていて、特にアジア圏では人気がある。
おまけに靴と家具も作っていて、どちらもそこそこの売上を誇っている。株式も一部上場しているし、誰もが認める一流企業だった。だからこそここを受けたのだが・・・今は後悔している。
この会社は人員採用の間口は広い。やる気さえあれば、中卒でも普通に雇ってくれる。
そして業績さえ伸ばせば、学歴がない人間でも充分上に立てるシステムなのだ。
その謳い文句にウソ偽りはないし、実際に中卒で入社して取締役にまで出世した人もいる。
だから私も・・・・・そう思っていたんだけど、現実はそんなに甘くなかった・・・。
学歴のない人間でも出世出来るシステムというのは、逆にいえば完全実力主義なのだ。
私の通っていた大学は、世間ではそこそこ自慢出来るレベルの所だった。
しかし稲松文具に学歴は関係ない。やる気と業績、この二つだけが出世と給料を決めるのだ。
世間ではよく学歴社会が批判されるが、学歴の関係ない完全な実力主義というのも、かなり厳しい・・・。三年間我慢しながら働いてきたけど・・・・そろそろしんどくなってきた・・・。今付き合ってる彼氏が結婚しないかと言ってくれてるし、もう本気でここを辞めちゃおうかな・・・。
机の中に隠した辞表をいじりながら、ひたすら冴木の馬鹿の尻拭いをしていった。
目まぐるしい雑務から解放されたのは、それから三時間後だった。ようやく冴木の尻拭いも終わりに近づき、多少は仕事が楽になってくる。椅子から立ちあがって大きく背伸びをし、ロッテンマイヤーさんの後ろを通って売り場に出た。
「凛ちゃん。悪いんだけど、あとでココナッツ不動産のデブに連絡しといて。頼んだボールペンの数が合わないってうるさいのよ。」
「それも冴木のミスですか?」
「まだ確認してないけど、多分そうだと思う。」
「・・・・分かりました。ちょっと休憩したらやっときます。」
「悪いわね。ああ、それと出掛けるんなら何か食べ物を買ってきて。飲み物は熱いお茶でね。」
「・・・・・・了解です。」
私はロッテンマイヤーさんの見えない角度から、中指を立ててファックをかます。
そして心の中で悪態をつきながら隣にある喫茶店に入った。
「くそ!ハイジの教育係のくせに偉そうに・・・。今度絶対に眼鏡にチェーンを付けてやるわ。」
もぐもぐとサンドイッチをかみ砕きながら、熱いコーヒーを飲み干す。そして内ポケットから煙草を取り出し、イライラを吐き出すように煙を吹いた。
「ありゃ、もうなくなっちゃった・・・。ま、いっか。もうそろそろタバコもやめようと思ってたし。」
半月前に彼氏からプロポーズを受けたのだが、一つだけ条件を突き付けられていた。
『タバコはやめること。それが条件』
自分からプロポーズをしたくせに、条件を突き付けるとは腹の立つ男だ。
しかし稼ぎはいいし、薬剤師の資格を持っているので食いっぱぐれることもないだろう。
もはや惰性で付き合っているだけの男ではあるが、将来を見据えた結婚を考えると、悪い相手ではない。
「・・・このまま・・・このまま無難に結婚して・・・子供でも産んで暮らすのかなあ・・・。
まあそれも悪くないっちゃ悪くないけど・・・・なんだかなあ・・・。」
いまいち釈然としないのは何故だろう?結婚に夢見る年頃でもないし、有り得ない幻想を追いかけるほど子供でもない。現実的に考えれば、今の職場をやめて専業主婦になるのも悪くはないのに・・・・・・。なんだか釈然としないんだよなあ・・・・。
腕時計をみると休憩開始から三十分が経っていて、もうそろそろ戻る時間だった。
「・・・いいや、もう一杯コーヒー飲んでこ。」
遅れてもロッテンマイヤーさんの嫌味に耐えればいいだけ。あのハゲ店長は女には文句を言えないヘタレだし、ちょっとくらい遅れても問題はなかろう。
マスターにコーヒーのおかわりを注文し、タバコを吸おうと思って手を止めた。
「ああ、もう無いんだっけ?あと一服くらいしたいけど・・・新しいのを買ったらやめられそうにないしなあ・・・。」
空になったタバコの箱をクチャッと丸め、遠くのゴミ箱に投げ捨てる。するとその横に座っていた若い男が目につき、じっと観察してみた。
「あれって・・・まだ中学生ぐらいかな・・・?もくもくタバコを吹かしてるけど・・・・・。」
きょう日中学生がタバコを吹かすのなんて珍しくないけど、私はどうも違和感があった。
一人でもくもくとコーヒーを飲み、そしてタバコを吹かす若い男。それはどう見ても、不良だのヤンキーだのからは程遠い少年だった。
別に見てくれがヤンキーじゃなくても、裏で酒だのタバコだのをやる中学生はいる。
私の中学にだってそういう奴はいたし、何より私自身がそうだったから。
しかし、この少年は違う。見た目が真面目なだけじゃなくて、きっと中身も真面目なんだろうと分かる雰囲気だ。
やや長めの黒髪を綺麗に撫でつけ、白いシャツの上にチェックの上着を着ている。
ズボンはシンプルなジーパンで、「ダメージ加工?何それ?」という具合に一つも汚れがない。足元はいかにも子供がは履きそうなスニーカーで、きっちり長さを揃えて紐が結んであった。顔立ちは・・・・うん、まあ美形といえなくもないかな。
華やかさはないが、こう・・・じっと見ているとカッコイイと思えるくらいには整っている。そして全身からは、気の弱く真面目なオーラが溢れていた。
世の中には真面目を装うニセ真面目人間と、本物の真面目オーラが出ている真の真面目人間がいる。そして真の真面目オーラを出す人間というのは、どこか気の弱さと繊細さを感じさせるのだ。いくら大金を積まれても、絶対に悪事に手を出せるような奴じゃないと、はっきりと分かるオーラがある。
この少年は、まさに真の真面目オーラを身にまとっていた。こうして離れた場所から見ているだけでも、「ああ、こいつ二十歳超えるまで絶対に童貞だな」と悲しいくらいの真面目さがある。そんな少年が、どうしてこんな喫茶店でタバコを吹かしているのか?
それに、今日は確か平日だったははずだ。時間は・・・午後の四時半か・・・。まあ帰宅部なら学校にいなくてもおかしくないか。しかしなぜか興味がそそられる。
ここんとこ面白い事や刺激のある事もなかったし、少しからかうのも悪くないかもしれない。良い具合にタバコを切らしているし、それを口実にちょっと喋りかけてみようか・・・。
椅子から立ち上がって小年に近付き、満面の笑みを浮かべながら「すいません」と話しかけた。
「ちょっとタバコを切らしちゃって。一本頂いてもいいですか?」
少年はキョトンとした目で固まり、タバコを掴んだままじっと見つめていた。
「・・・・・・。」
私は無言で笑いかける。すると少年は脇に置いていたタバコの箱を掴み、オドオドしながら差し出してきた。なんか・・・これだとカツアゲしてるみたいだな・・・。
「じゃあ・・・一本だけもらってもいいかな?」
「・・・・どうぞ。」
「ありがとう。」
そう言って一本だけ抜き取り、向かいの椅子を指さした。
「こっち、座ってもいい?」
そう尋ねると、少年は店内を見渡して不思議そうな顔をしていた。
『他にも席は空いてるじゃねえか』
その目は確かにそう言っていたが、私は拒否を許さない笑顔で笑いかけた。
「・・・どうぞ。」
「ありがと。ライターも借りていい?」
「ああ、はい・・・。」
少年は律義にも火を点けてくれて、恥ずかしそうに俯いた。
う〜ん・・・今の動きを見る限り、タバコを吸い慣れてるわけじゃなさそうね。小さな動作から少年を観察し、煙を吐き出してまた笑顔をみせる。
「君・・・一人で来てるの?」
「ええ、ああ・・・はい・・・。」
「学校は?もう終わった?」
「い、いえ・・・・今日は・・・その・・・・。」
「サボった?」
「はい・・・すいません・・・・。」
「私もよくサボって遊びに行ったわ。何回か補導されたこともあったけどね。君、中学生くらいかな?」
「そうです。中三です。」
「じゃあ十五くらい?」
「いや、まだ十四です。今年の秋に十五になるけど・・・。」
「ふ〜ん・・・いいわよね、それくらいの年齢って。私も一日くらいなら戻ってみたいわ。」
「ああ・・・はあ・・・・。」
他愛ない会話で様子を見る限り、何の変哲もない普通の真面目っ子だ。しかし、だからこそ、こんな子が学校をサボってタバコを吹かしていることに興味が湧いたのだ。
「君さ、いつもこんなことしてるの?」
「え?」
「いや、だから学校をサボってタバコを吸ったりさ。なんだかパッと見た限りじゃ、そういう事をしそうにない子だなあって。」
そう尋ねると、少年は俯いたまま黙り込んでしまった。
「別に責めてるわけじゃないのよ。私だって学生の頃は散々悪さをしたしね。でもなんていうか、君は私みたいな人種とは違うかなあって。ほら、思春期でもまったく悪さをしない子っているでしょ?君はどっちかっていうと、そういう子に思えたから。だからちょっと不思議になって・・・・・ね?」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
だんまりか・・・。これは何か事情があるに違いない。
この年頃の男の子の悩みなんて、だいたい相場は決まっている。家庭に不満があるとか、友達と喧嘩したとか。あとは恋愛がらみだけど、どうもそういうものには縁はなさそうだ。
なら・・・学校でいじめに遭ってるとか?うん、多分これが正解っぽいわね。
真面目そうな子が学校をサボる理由としてはピッタリだし、タバコは気を紛らわすために吸っている。ああ、なんだか展開が読めてくると飽きてきちゃったな・・・。
でもここで「はい、さよなら」もちょっと可哀想だし、年上のお姉さんとして少し相談にでも乗ってやるか。
「もしかして・・・何か悩んでる事でもあるの?」
わざとらしく心配そうな顔を作り、顔を覗きこんでみる。すると少年は鼻を赤くして泣いていた。ああ・・・これは絶対にいじめね・・・。
私はポケットからハンカチを取り出し、目の前に差し出してやった。
「鼻が出てるよ、ほら。」
「・・・・すいません・・・。」
少年はハンカチを受け取り、目と鼻を拭って顔を上げた。パチパチとまばたきを繰り返して息を吸い込み、また目元をぬぐう。そして短くなったタバコをグリグリと灰皿に押しつけた。
「すいません・・・これ・・・。」
申し訳なさそうにハンカチを差し出す少年。
「いいよ、それあげるから。タバコをもらったお礼。」
どうせセールで買った安物だ。人にあげても惜しくはない。
「・・・すいません・・・。」
「さっきから謝ってばっかりだね?君、ちょっと気が弱いでしょ?」
ちょっとどころか大層に弱いと思うが、ここは優しく語りかけて緊張をほぐしてやろう。
それでまあ・・・適当に話を聞いて、それなりにアドバイスでもしてやれば終わりだ。
私は椅子にもたれかかり、腕を組んでタバコをふかした。
「何か悩み事がある?」
「・・・はい。」
「だから学校をサボったんでしょ?」
「・・・そうです。」
「ここで知り合ったのも何かの縁だから、私でよかった話してみて。気の利いたことは言えないかもしれないけどさ。」
首を傾げながら皮肉っぽく笑うと、少年は「いいんですか・・・?」と上目遣いに見上げてきた。
「聞くくらいなら誰でも出来るでしょ?でもあんまり期待されても困るけどね。」
こうして予防線を張っておかないと、後で頼られても面倒くさいというもの。この年頃の男の子ってのは、とにかく惚れやすいからなあ・・・。特に年上の女には。
少年はじっと私を見つめ、恥ずかしそうに顔を逸らした。そしてテーブルの上で手を組み、もじもじと指を動かしている。
「実は・・・・・。」
「うん、実は?」
「俺・・・・・・。」
「うん、君は・・・・・?」
「・・・・妊娠してるんです・・・・。」
「うん、妊娠ね。・・・・・・・・ん?妊娠?」
「はい、妊娠です・・・・。」
「妊娠って・・・・誰が・・・?」
「いや、その・・・俺の・・・・。」
少年は目を瞑って口ごもる。喉が大きく動き、ゴクリと唾を飲む音が聞こえた。そして・・・耳の辺りまで顔が真っ赤になっている。その時、私はピ〜ン!ときた。
はは〜ん・・・・これはいじめじゃなくて女がらみの方だったか・・・。きっと付き合ってる彼女とゴム無しでやっちゃったんだな。私としたことが大きく予想を外してしまった。まだまだ修行が足りないようだ・・・。
しかし予想外の展開に、再び興味が湧いてきた。
こんな真面目そうな子が、もう初体験を済ませているなんて。いったい何があって、どういう成り行きで妊娠に至ったのか?ここは詳しく聞いておくか・・・・。
「じゃあ君の悩み事っていうのは、彼女を妊娠させちゃったことなのね?その時、キチンとゴムをしていなかったの?」
真剣な顔で尋ねると、少年はゆっくりと首を振った。
「・・・違います。」
「違う?違うって何が?」
「その・・・妊娠したのは彼女じゃないんです・・・。」
「え?彼女じゃない?」
意外な答えだった。てっきり彼女だと思っていたのに。なら他に考えられそうなのは・・・。
「もしかして、女友達とやっちゃったとか?」
「・・・いえ、それも違います。」
「彼女でも女友達でもない?じゃあいったい誰が妊娠したのよ?」
まさかここへ来て「飼い猫が妊娠しました」なんてことはあるまい。もしそうだったら、ちょっと怒るぞ・・・。
少年は俯き加減でコーヒーを飲み、気持ちを落ち着かせるように息をついた。
「・・・妊娠したのは・・・妹なんです・・・。」
「・・・・・・ぶッ!」
思わずタバコの煙を咳き込んでしまった。
「ちょ、ちょっと待って!妹・・・・?」
「はい、妹です・・・・。」
「え?え?・・・ていうことは、自分の妹を妊娠させたの・・・?」
そう尋ねると、少年はブルブルと首を振った。
「違いますよ!僕が妊娠させたんじゃありません!」
「あ、ああ・・・・そうよね・・・・。」
よかった・・・。一瞬かなり焦ってしまった・・・。
「で、君の妹さんっていくつなの?」
「小六です。」
「・・・・ぶほッ!」
今度は盛大に煙を吐き出し、鼻に染みて涙が出てきた。
少年は「大丈夫ですか?」とハンカチを差し出してくる。
「あ、ありがと・・・・・・・って、これあんたが鼻をかんだやつじゃない!」
危うく鼻水まみれのハンカチで顔を拭くところだった。私はポイっとハンカチを投げ返し、タバコを灰皿に押しつけて少年を睨んだ。
「ねえ、詳しく聞かせて。小六の女の子が妊娠するってどういうこと?」
「それは・・・・付き合ってる彼氏とセックスして・・・・。」
「・・・ぐほおッ!」
「だ、大丈夫ですか・・・?」
「だ、大丈夫じゃないわよ!ていうかそのハンカチいらないから!」
私はマスターに新しいコーヒーを頼み、少年に手を向けた。
「タバコ・・・もう一本ちょうだい・・・。」
「ああ、はい・・・。ていうか全部あげます・・・。」
そう言ってスッとタバコを差し出し、私はおっさんみたいに咥えて火を点けた。
「・・・で?その付き合ってる彼氏とやらは・・・いったい誰なの?」
「同じクラスの男の子です。小四の時から付き合ってるらしくて・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
どうやら私が知らない間に、世の中は変わっていたらしい。
確かに私が小学生の時でも、誰それが付き合うというのはあった。しかしそれは、もうじき中学に上がるくらいの年齢の子で、付き合うといってもせいぜい手を繋ぐ程度だった。
それが・・・・それが・・・・・妊娠だなんて・・・・・。
この日本はとっくに壊れていたのか?いやいや、私がおばさんなだけで、これが今の子供たちのスタンダードなのだろうか?
・・・・・・そんなわけあるか!いくらなんでも、小六で妊娠はないだろう!
「ねえ君・・・・、ええっと、まだ名前を聞いてなかったわね。」
「ああ、黒沢明っていいます。」
「すごい名前ね。友達にからかわれない?」
「昔の映画監督ですよね?子供より大人の人にからかわれます。」
「まあそうかもね。私は箕輪凛っていうの。ここの隣の文房具屋で働いてるんだけど・・・まあそんな事はどうでもいいわね。ねえ黒沢君、本当に君の妹さんは妊娠したの?いくらなんでも、ちょっと信じられないんだけど・・・・。」
「僕も・・・信じられません・・・・。でも優香がそう言ってたから・・・。」
「優香って妹さんの名前?」
「・・・はい。この前の日曜日に、優香に相談されたんです。もしかしたら妊娠したかもしれないって・・・。それで、これからどうしようって泣かれて・・・。」
「そりゃまあ、そうなるでしょうね。子供が妊娠したなんて事になったら、家庭どころか学校も巻き込んで一大事よ。」
「・・・・ですよね・・・。でも優香に頼まれたんです。『お兄ちゃん助けて!』って。
だから・・・どうにかして俺達だけで解決できないものかと考えてて・・・・。」
「はは〜ん・・・それで学校をサボるほど悩んでたわけだ。こんなタバコまで吸って。」
「はい・・・。もし周りにバレた時のことを考えると、気が気じゃなくて・・・。でも僕は優香に『絶対に守ってやる!』って約束しちゃったから・・・・誰にも相談できなくて・・・。」
なるほど・・・妹との約束を守る為に悩んでたのか・・・。
うんうん、気の弱い男かと思ってたけど、ちょっと見直したぞ黒沢君。しかし現実的に考えて、やっぱり子供だけで解決するのは無理があるだろう。これはもう大騒ぎになることを覚悟して、親に打ち明けるしかないと思うけど・・・。
それが言えないから苦労してんだよね、この子も。軽い気持ちで相談に乗ったら、なんだか重い話が出てきちゃったな。どうする?ここでそれとなくフェードアウトするか?
いくらなんでも、もうそろそろ仕事に戻らないとマズイしな。
私は言い訳を考えながら黒沢君を見つめる。彼は真剣な目で悩んでいて、じっと手元に視線を落としていた。真面目そうな顔・・・真面目そうな雰囲気・・・・。だからこそ真剣に悩んでるわけか・・・・妹の為に・・・。
「ねえ黒沢君、その・・・妹さんが妊娠した経緯を詳しく聞かせてくれないかな?」
「経緯・・・ですか・・・?」
「まあ妊娠してるって言うくらいだから、当然・・・その・・・アレはしてるわけよね?」
「・・・だと思います。そこのところは詳しく聞かなかったから・・・。」
「じゃあさ、その後の事を詳しく教えてほしいの。いったいなんで自分は妊娠したと思ったのか?その事について、ちゃんと話を聞いているはずでしょ?」
「ええっと・・・・生理がないからだと言ってました。」
「他には?」
「・・・なんかお腹の調子がおかしいとか、最近すごくダルイとか・・・。」
「それだけ?」
「はい、僕が聞いたのはそれだけです。」
「じゃあ妊娠検査薬とかは使ってないわけね?」
「・・・・分かりません・・・。優香は絶対に自分は妊娠してるって泣いてたから、きっとそうなんだろうと思っただけで・・・。」
「・・・そう・・。じゃあ生理がないって、どれくらいの期間きてないの?」
「ええっと・・・・二か月くらいって言ってました。」
「二か月か・・・・。じゃあ性行為をしたのはいつ頃なの?」
「ええっと・・・二か月半くらい前だったと言ってました。」
「そっか・・・・なるほど・・・。」
私は腕を組んで考え込んだ。はっきり言って、この段階では何も言えない。体調が悪ければ、二か月くらい生理がこないこともある。
「ねえ、この事は他に誰か知ってるの?」
「いえ・・・僕にだけ話したと言ってました。言いたくても、誰にも言えないからって・・・。」
「まあそうよねえ。小六の女の子に妊娠の話なんか聞かされたら、誰でもビックリしちゃうだろうから。あ!ちなみに・・・・その二か月半前のアレだけど・・・それって初めてだったのかな?もしかしたら今までにも・・・・?」
「いえ、今回が初めてだって言ってました。最初はそんな事をするつもりはなかったんだけど、なんだか気がついたら・・・。」
「やってたと?」
黒沢君は恥ずかしそうにコクリと頷く。
「相手の男の子は・・・ゴムは使ってたのかな?」
「いえ・・・使ってないそうです・・・。」
うん、まあ当然といえば当然か。小六の男の子がコンドームなんか持ち歩くわけないし・・・。
ちょっと話を整理してみようかな・・・。
黒沢君の妹、優香ちゃんは二か月半前にセックスをした。その時、相手はゴムを使っていない。それから二ヶ月の間生理は来ず、なんだかお腹の調子が悪いと。
そして妊娠検査薬は使っておらず、黒沢君以外にはこの事を話していない・・・・か。
これは・・・・分からんなあ・・・・。
体調が悪けりゃ二ヶ月生理がこないことだってあるし、でもゴムを使っていない以上は・・・心配になるわなあ。
それに誰にもこの事を相談出来ないから、さらに不安になって、自分は妊娠していると思い込んでるわけか。
もし黒沢君が、お兄さんではなくお姉さんなら、もうちょっと話は違ったかもしれない。
いくら妹想いの兄でも、男である以上、一から十まで女の悩みを理解することはできないのだから。
「う〜ん・・・・どうしたもんかなあ・・・。」
ちょっとからかうつもりで話しかけたのに、とんでもない方向へ話は転がってしまった。
さすがにここまで来ると、「はい、さよなら」とほっぽり出すわけにもいかない。私は大きくため息をつき、グリグリとタバコを灰皿に押しつけた。
「あのさ、もしよかったら優香ちゃんに会わせてくれないかな?」
「それは・・・優香に聞いてみないと・・・・。」
「じゃあすぐに確認してよ。ケータイ持ってる?」
「いえ・・・。」
「ほんじゃこれ使っていいから、優香ちゃんに連絡取りな。こういうのは、男じゃなくて女同士の方が話しやすいだろうからさ。」
そう言うと、黒沢君は目を丸くして口を開けていた。
「優香に・・・協力してくれるんですか・・・?」
「協力っていうか・・・話を聞くだけよ。今の黒沢君の説明じゃ、本当に妊娠してるかどうか分からないからね。」
「そうなんですか・・・?でも優香は絶対に妊娠してるって・・・、」
「だ・か・ら!それを本当かどうか確かめる為に話をするんでしょうが。いいからさっさと優香ちゃんに電話する。」
「は、はい!でも、これどうやって使うんですか?スマホとかいじったことなくて・・・。」
「まったく・・・・情けないなあ・・・。優香ちゃんの番号は?」
「ええっと・・・・090の・・・・・・、」
中三の兄貴はケータイを持ってなくて、小六の妹はケータイを持ってるわけか。なんだかこの兄妹の力関係が分かるような気がするな・・・。
黒沢君から聞いた番号を打ち込み、コール音が鳴り始める。
「はい、知らない番号だから出ないかもしれないけどね。その時は家にかけな。」
「は、はい・・・すいません・・・。」
黒沢君はペコペコ頭を下げながら電話を握り、ゴクリと喉を鳴らした。そしてすぐに「ああ、もしもし」と緊張した面持ちで目を泳がせた。
まったく・・・なんでこんな面倒に首を突っ込んでんだろ・・・私は・・・・。
冷めたコーヒーに口を着け、椅子にもたれて窓の外を見る。すると鬼の形相をしたロッテンマイヤーさんが、殺気をまとってこちらに向かって来るのが見えた。
「うわ!やば・・・。休憩時間過ぎまくりじゃん・・・。」
私は咄嗟にカウンターに走り、奥に隠れてマスターに呟いた。
「・・・ここにはいないって言って・・・・。」
店に入ってきたロッテンマイヤーさんは、闘牛のように鼻息を荒立ててマスターに詰め寄る。
「・・・誤魔化して・・・・。」
唇だけを動かして合図を送り、私はさらに奥に隠れる。
ああ・・・なんか最悪だわ今日は・・・。
「・・・お姉さん・・・どこ行ったんだろ・・・?」
優香ちゃんと話を終えた黒沢君が、私を捜してキョロキョロと辺りを見回していた。

稲松文具店 第四話 冴木の仕事(2)

  • 2014.08.21 Thursday
  • 16:41
暦は五月。綺麗に咲いていた桜は花を散らし、今は青々とした葉っぱを揺らしている。
俺は田んぼの中に突っ立って、衣替えを終えた桜の木を見上げていた。
「こういうのもいいもんだよな。桜とは違った美しさがある。」
綺麗な風景が好きだった。
目を奪われるような、そして心が癒されるような、美しい風景が好きだった。
小さな頃から絵が得意で、超人的な記憶力も相まって写真のように繊細な絵が描けた。
子供の頃は神童ともてはやされ、色んなコンクールで賞を取った。
『とても子供の描く絵とは思えない。まるで写真のようだ』
それが俺の絵を見た大人の決まり文句だった。しかし、それはしょせんデッサンに過ぎない。本当に絵描きとして身を立てようと思うと、卓越した想像力が要求されるのだ。
親の反対を押し切って上京し、有名な美大に通ったまではよかった。
しかしその後は・・・・・散々だった。精密さだけなら誰にも負けない自信があったけど、想像力豊かな絵は描けなかった。
『これなら写真でいいよね。絵でやる意味って何?』
誰に見せても同じことを言われた。みんな絵の上手さは褒めてくれるけど、内容は褒めてはくれない。上手いねとは言われても、良い絵だねと言われたことはなかった・・・。
そう・・・俺はただ絵が上手かっただけ。子供の頃から、ただ人より上手に描けただけだったのだ・・・。
だから絵の道を諦め、人の伝手で今の仕事を紹介してもらった。もちろん親にはこの事は言っていない。あの人たちは、今でも俺が絵描きを目指していると思っているのだから。
「難しいよなあ・・・・ものを作るっていうのは・・・。絵もそうだけど、今までに見てきた会社だって・・・みんな苦労してものを作ってたっけ・・・。」
物作りというのは、単なる技術だけじゃない。そこには確かに、職人や技術者の魂がこもっているのだ。画家が絵を描くように、音楽家が作曲をするように・・・。
俺が今までやってきたことは、人が描いた絵を自分のものだと言って発表したようなものだ。
「もう・・・たくさんだな・・・こんなことは・・・・。いくら金が必要だからって・・・・もう・・・こりごりだよ・・・・。」
俺が金を必要としている理由。それはダイスケという馬の為だった。
子供の頃に近所の牧場に住んでいた馬で、勝手に敷地に入っては一緒に遊んでいた。
俺が上京するまでは、しょっちゅう会いに行っていたもんだ。絵のモデルになってもらったことだって何度もある。大学に行く為に上京する時、あいつにだけきちんと別れを告げに行ったんだ。
「もう会えないかもしれないけど、元気でな。」
そう言って鼻を撫でた。しかし、ダイスケとの再会はその三年後にやってきた。
あいつは大学の近くの行楽施設で、狭い場所に住まわされていた。
観光に来た人を乗せるのが仕事で、むせ返るような暑い日でも子供を乗せて働かされていた。かなりしんどそうな顔で、俯きながら観光客を乗せていた・・・・。
それを見た時、俺は泣きそうになった。あいつはもうかなり歳がいっているはずで、こんな暑い日に人を乗せて働かされるなんて・・・。
近くにいた飼育係の人に話をしてみると、元いた牧場が閉鎖してここへ買い取られたということだった。あの時、飼育係のおっさんはこう言った。
「こいつは運がいいよ。本当なら、こんな歳のいった馬は処分されるんだけどね。」
それを聞いた時、俺はそのおっさんに殴りかかってやろうかと思った。
いったいこれのどこが運がいいのか?人間ならとっくに隠居して、ゆっくりと人生を満喫している年齢じゃないか!
しかし馬というのは、犬や猫と違って大きくて重い。何の役にも立たない年老いた馬は、ただそこにいられるだけで迷惑なのだ。金も掛かるし、世話の手間もかかる。
きっとあの牧場にいた馬たちは、ダイスケを残して処分されたに違いない・・・。
そう思うと胸が張り裂けそうになり、俺は飼育係のおっさんに言った。
「こいつは・・・いつか絶対に俺が買い取る。だからその時までちゃんと面倒みとけ!」
おっさんはポカンとして見つめていたけど、俺は本気だった。
だから絵の道で成功して、大金を稼いでダイスケを引き取ってやろうと思っていたんだけど・・・。あいにく絵の世界への道へは進めなかった。
まったく絵の仕事がなかったわけじゃないが、とても馬を引き取って養える稼ぎじゃなかった。だから・・・・今の仕事の誘いが会った時、天の恵みだと思った。
これでダイスケを引き取ることが出来る!俺があいつの為に小さな牧場を作ってやって、安らかに死ねるその時まで、ちゃんと面倒をみてやるんだ。
ダイスケは人見知りな俺にとって、子供の頃からの友達だったんだから。
その想いだけを胸にここまで頑張ってきたけど・・・・やっぱりもう無理だ・・・・。
いくら金を稼ぐ為とはいえ、これ以上誰かの会社を潰すなんて・・・誰かが一生懸命作ったものを奪うなんて・・・・。もうそんなことはしたくない。
仮にも絵の世界を目指した人間が、人が魂をこめて作ったものを奪うなんて、絶対にやっちゃいけないんだ。
俺は茂る葉っぱを見つめながら胸に手を当て、内ポケットから一枚の封筒を取り出した。
『退職届』
キリマンジャロ工業が倒産した時から、俺はずっと考えていた。今の仕事を続けるべきか、辞めるべきか。そして・・・・その答えがこの辞表だ。
「ごめんな・・・ダイスケ・・・お前を助けられそうにないや・・・。」
頭の中に、人を乗せて辛そうに歩くダイスケの姿が思い浮かぶ。
きっと・・・今でもあいつは・・・・・。
辛かった。人並み外れた記憶力は、ダイスケの苦しそうな息使いまで聞こえてくる・・・。
大きく息を吸い込み、頭の中の写真を消して青い葉っぱを見上げる。
「辞表を出したら一度実家に戻ってみるか。もう何年もあの人たちに会ってないしな。」
内ポケットに白い封筒をしまい、少しだけ濡れた目尻を拭って歩き出す。
するとその時、後ろから何かがドン!とぶつかってきた。
「痛ッ!まさか、またあのおっさんが・・・・。」
背中を押さえながら振り向くと、そこにはやはりあの時のおっさんがいた。
キリマンジャロ工業の創始者、赤切栄治が。
「あんたなあ・・・・いい加減にしろよ。いくら温厚な俺でも、二回もこんなことされたら・・・・、」
そう言いかけた時、足から力が抜けて倒れこんだ。
「な、なんだ・・・・。」
立ちあがろうとして地面に手をつくが、まったく力が入らない。そしてふと自分の手を見た時、思わず声が漏れた。
「な・・・なんだ・・・・血か?これは・・・。」
俺の右手には、まっかな赤い液体がべっとりと付いていた。まさかとは思いつつ背中を触ってみると、硬い何かが突き刺さっていた。
「・・・ナ・・・ナイフ・・・・?」
そう呟いた瞬間、赤切栄治は馬乗りになって殴りかかってきた。
「このガキ!見つけたぞ!この前は舐めたマネしてくれやがって・・・・。調子に乗ってんじゃねえぞコラああああ!」
物凄い巻き舌で怒鳴りながら、ガツンガツンと殴りつけてくる。
「・・・・・・・・・ッ!」
俺は咄嗟に腕を上げて顔を守るが、赤切はお構いなしに殴りつけてくる。
「このボケがあ!誰に喧嘩売ってるか分かってんのか、ええコラあああ!俺は一代で会社を興したんだぞ!身を削って会社を育ててきたんだぞ!お前みてえなボケが何調子こいたことしてくれてんだよ、ああコラあああ!殺すぞガキがあああああ!」
「や・・・やめ・・・・・。」
「カタはめっぞクソガキ!あの会社は俺のだ!俺がたてた俺の会社だ!なのに何で俺が追い出されるんだよ、あああコラああああ!株主だか何だか知らねえけど、あれは俺の作ったもんなんだよ!舐めんなよガキコラ!」
こいつ・・・・また酔ってるのか・・・・?なんか表情が普通じゃないぞ・・・・。
いや、それより早く病院へ行かないと俺が死んじまう・・・。おっさんのパンチなんて聞かないけど、背中のナイフはやべえだろ・・・・。
「お前らが欲しいのは俺んとこの技術だけだろ!あれはなあ・・・・あれは俺が死ぬような思いで努力したんだ・・・。色んな本読んで、何日も徹夜して研究に研究を重ねたんだよ!なのに・・・なのに何で俺が・・・追い出されるんだよお・・・・・。
あの会社も、あの技術も俺の人生そのものだったのに・・・あっさりと金で買い叩きやがって・・・。ふざけんじゃねえ!ものを作る意味も知らねえ連中がよお!返せ!俺の会社を返せやああああああ!」
赤切は俺の胸ぐらを掴み、ガンガンと頭を揺さぶってくる。そのせいで背中に刺さったナイフが動き、電気を流されたような激痛が走った。
「いだああああああああああ!やめろコラ!」
「うるせえ!殺す!俺の会社を奪ったあげく、それを潰しやがって・・・・。殺す!カマクラ家具の連中は全員ぶっ殺してやるうううううう!」
「ふざけんな!俺はカマクラ家具の人間じゃねえ!さっさと離せよこの人殺し!」
渇いた田んぼの中で、俺達は大声で罵り合った。
近くに野次馬が集まってくるのが横目に見え、おっさんを突き飛ばして助けを呼んだ。
「誰か!警察と救急車を呼んでくれ!ナイフで刺されたんだ!」
野次馬は一瞬固まっていたが、その中の何人かが咄嗟に行動に移ってくれた。スーツを着た女性がケータイで電話を掛け、ツナギを着たガタイのいい男が二人こちらに走って来る。
赤切は拳を振り上げて襲いかかってくるが、駆け付けたツナギの男たちが取り押さえた。
「離せやコラあああああああ!うわああああああああ!」
「・・・・・・・・・・・・・。」
俺はドッと力が抜けてうつ伏せに倒れる。背中に刺さったナイフを見た野次馬が、小さく悲鳴を上げていた。
なんだよ・・・・ふざけんなよこのおっさん・・・・。
最悪な朝だった。今までにも腹の立つ朝は何度もあったけど、これはロッテンマイヤーさんの嫌味の比じゃない。そして頭が冷静になってきた途端、また背中に激痛を感じて叫んだ。誰かが俺を揺さぶって呼びかけるが、もう顔を上げることも出来ない。
遠のく意識の中で、こちらに走ってくる救急車の音だけが聞こえていた。

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< September 2019 >>

GA

にほんブログ村

selected entries

categories

archives

recent comment

recommend

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM