木立の女霊 第六話 友達として

  • 2014.09.18 Thursday
  • 18:56
朱里はベッドの中にうずくまり、枕を抱えて目を閉じていた。
自分の臭いが染み付いた枕を抱えていると、少しだけ安心出来た。
机にはバッテリーを抜いたケータイが置かれていて、液晶は大きくヒビ割れていた。
《俊一・・・会いに来てよ・・・。守ってくれるんやろ・・・。》
昨日の夜に死んだ姉からメールが届き、恐怖に負けて発狂した。
両親の制止を振り切って暴れ回り、箪笥から金づちを取り出してケータイを叩きつけた。
父は「もうすぐ俊一君が来るから安心しろ」と言ってくれたが、いくら待っても彼は来なかった。
《嘘つき・・・守ってくれる言うたのに・・・。》
暴れるだけ暴れて少し落ち着くと、ケータイを拾って自分の部屋に戻った。
そして足で何度も踏みつけて、バッテリーをゴミ箱に捨ててベッドに潜り込んだのだった。
あれからずっとベッドの中にいるので、今が何時かも分からない。
母が何度か様子を見に来たが、何も答えずにベッドにうずくまっているだけだった。
夜道で男に刺されたこと、そして死んだ姉から意味不明なメールが届いたこと。
それらの出来事は、朱里の心に大きなストレスを与えていた。
とにかく、今はここから出たくない。
オシッコに行きたいのを我慢しているが、トイレに行くのさえ億劫だった。
暗いベッドの中でじっと目を瞑っていると、逆に頭が冴えてくる。
何も考えたくないのに、嫌というほど頭の回転がよくなってくる。
朱里は強く枕を握りしめ、身体を丸めて唸った。
《何も考えたくないのに・・・頭は冴えてくる・・・。こうなったら、いっそのこと考えに考えて気を紛らわしたろかな・・・。》
暗いベッドの中で目を開き、自分の息づかいを聞きながら考えを巡らせていった。
《あの時・・・蛍がおったから私は助かった・・・。姉ちゃんのメールの内容から考えると、あの蛍が姉ちゃんってことなんかな?》
俊一が見舞いに来てくれた時、彼は冗談半分に言っていた。
希美が蛍に生まれ変わって守ってくれたのだと。
あの時は笑いながら聞いていたが、今となっては冗談のように笑えない。
《それに、誰かの視線を感じて部屋から逃げようとした時だって、蛍が飛んでたっけ。あれは姉ちゃんが来てくれたってことなんかな?
蛍のままやったら話せへんから、メールでメッセージを伝えようとしたってことかな?》
姉からのメールはよく覚えている。
一回目に来たメールは、朱里に対して謝るような内容だった。
二回目のメールは、俊一を守ってくれというものだ。
そして三回目のメールは、ストーカーに気をつけろというものだった。
その後に四回目のメールが届いた時に、恐怖に負けて発狂した。
《四回目のメールを見る前に、ケータイを壊してしもたからなあ・・・。もしかしたら、あれはストーカーの名前を知らせるメールやったんかもしれんな。》
そう思うと四回目のメールも確認しておくべきだったと後悔したが、あの時はパニックになってどうしようもなかった。
《そのストーカーが誰なんかは分からへん。でも姉ちゃんのメールの内容からすると、きっとストーカーに狙われてるのは俊一なんやろなあ。
じゃないと、あいつに力を貸したってくれなんて言わへんやろうし・・・。》
ではそのストーカーとはいったい誰なのか?朱里は暗いベッドの中でじっと考えた。
《俊一は顔は悪くないから、意外とモテるんよなあ。あたしの知ってる範囲であいつにストーカーしそうな奴っていうたら・・・・・・・、》
まず真っ先に浮かんだのは、元彼女の野々村紗恵だった。プライドが高く、尚且つ独占欲が強い性格だが、彼女がコソコソとあとをつけまわすイメージは湧いてこなかった。
《紗恵やったら、ストーカーなんてまどろっこしい真似せえへんやろな。現にメールを送ってきて会いたいって言うたんやから。でもそうなると他に誰がおるかな?
他にストーカーになりそうな奴っていうたら・・・・。》
じっと考え込んでいると、ある一人の女が浮かんだ。
その女の名前は宗方弓子。
希美が亡くなる半年ほど前、宗方が家に遊びに来たことがあった。あの時は姉が友達を連れて来るなんて珍しいなと驚いた。
《なんか微妙な顔立ちの女やったなあ・・・。ブスっていうブスでもないけど、でも絶対に美人ではないというか・・・。でも性格はハッキリしてるみたいやったなあ。》
考えれば考えるほど、宗方弓子の顔が浮かんでくる。
丸い輪郭に、歳の割には老けた顔。真っ黒な髪は綺麗だったが、全体的な顔立ちは決して美人ではない。
《パーツがな・・・もうちょっとバランスよかったらなあ。なんていうか、あともうちょっとバランスがよかったら美人なんやろうけど・・・。
まあ私が言えた義理とちゃうけど・・・。》
顔に自信がないのは朱里も一緒で、だからこそ男が寄ってくるということもあった。
《だいたい男ってのは、頭の中の9割がヤルことしか考えてないからな・・・。それやったら、大人しい美人より、明るいブスの方がモテるっちゅうことや。》
男というものは美人の前では固くなるが、ブスには気易く話しかけてくる。
もしそこで会話が弾めば、途端に仲良くなることが出来る。
そしてしばらく一緒にいれば、顔より性格の方に重点を置くようになることを知っていた。
《美人は三日で飽きるけど、ブスは三日見れば味が出るっちゅうのはホンマのことや。暗い美人より、明るいブスの方がモテるんや。》
延々と美人と不細工について考える朱里だったが、途中で考えが脱線していることに気づいて思考を止めた。
《アカン、アカン。こんな話はどうでもええねん。今考えなアカンのは・・・ええっと・・・。何やったっけ?・・・・そうそう、宗方弓子や。》
あの微妙な顔立ちを思い出し、枕に顔を押し付けて考えを巡らせてみた。
《あの子って顔はアレやけど、性格はハッキリしてんのよなあ。姉ちゃんとオカンには愛想ようしとったクセに、あたしの前では露骨に嫌そうな雰囲気出してたからなあ・・・。
上手いこと誤魔化してるつもりなんやろうけど、バレバレやっちゅうねん。》
朱里が宗方弓子に対して感じたこと。それは『両極端』な奴であるということだった。
《なんちゅうか、二面性があるわけとちゃうんよな。相手によって態度を変えるというか。本人はバレてないつもりなんやろうけど、分かる人間にはビンビン伝わって来よる。
ああいうタイプって、きっと周りのことが見えてないやろなあ。自分は分かってるつもりなんやろうけど、まったく空気が読めてないというか・・・。
ものっすごい無理して笑ってるし、会話も無理矢理合わせてる感じやし。ああいう女って、男にはモテるもんなんやろか?》
社交的な朱里には多くの友人がいる。
明るい美人に暗い美人、そして明るいブスに暗いブス。
それぞれの特徴はよく把握しているが、宗方弓子はそのどれにも該当しないように思えた。
《あいつが女としてどういうタイプなんかは分からへん。けど・・・人間としてならある程度見当がつくわ。
あれはコソコソ上手いこと立ち回って、自分を誤魔化すタイプの人間や。絶対に相手の正面には立たんやろうな。
もし宗方が俊一に惚れてたとしたら、直接的なアプローチはせえへんやろ。だからと言って、あの子がストーカーやなんて断言出来へんけど・・・。》
丸めた足を抱え、枕に鼻をくっつけてじっくりと考え込む。
「・・・・・・アカン!もうオシッコ我慢出来へん!」
布団を放り投げ、部屋を飛び出して階段を降りていく。そしてトイレに向かう途中で家のチャイムが鳴った。
朱里はビクっと身を竦め、玄関のドアを見つめて立ち竦んだ。鼓動が速くなり、もやもやと恐怖が湧き上がる。
すると台所の方からパタパタとスリッパの音が聞こえ、母が小走りに玄関に向かっていった。
「はいはい、今開けます。」
朱里は階段の影にかくれ、じっと様子を窺う。そしてドアの向こうから現れた人物を見て、思わず声を上げた。
「カッちゃん!」
「おお、退院おめでとう!」
克博はニコリと手を上げ、ケーキの袋を掲げてみせる。
「何?朱里のお友達?」
「うん。いや、友達じゃなくて彼氏。」
「ああ!そうなん?ああ・・・。」
母は指をさして克博を見上げる。
「あ、あの!朱里さんとお付き合いさせて頂いております、四島克博といいます。これ、つまらないものですが・・・。」
克博は畏まった顔で頭を下げ、両手でケーキの袋を差し出した。
「あらあ・・・これはどうも御親切に。まあまあ、どうぞ上がって下さい。」
「はい!失礼します。」
克博は母が揃えたスリッパを履き、落ち着かない表情で家の中を見渡していた。
「カッちゃん!嬉しい!会いに来てくれたんやね!」
朱里は階段の影から飛び出し、ギュッと克博に抱きついた。
「お、おい!こんなとこで・・・。」
「何言うてんのよ。病院で何回もセックスしたクセに。」
「ちょ・・・ちょっとお前・・・。そういうことは・・・・。」
克博はバツの悪い顔でゆっくりと母に顔を向けた。
「ええやん、大人同士なんやからどこでセックスしたって。なあオカン?」
「いやいや、アカンやろ!それはこういう所で言うもんじゃ・・・。」
母は困った顔を見せながら笑い、朱里の頭をパチンと叩いた。
「ゴメンねえ。昔っからデリカシーの無い子で。」
「い、いや・・・そんなことは・・・・。」
「まあまあ、すぐにお茶淹れるから、二階で待っといて。」
「ああ、はい!すみません・・・。」
困惑しながら頭を下げる克博だったが、朱里に引っ張られて転びそうになった。
「さ、さ、部屋行こ!一人で寂しかってん。」
「あ、ああ・・・そやな。ほなちょっとお邪魔させてもらおかな。」
「エッチしてもええよ。」
「いや、だから今日はそういうことでは・・・・・。」
「あ、ごめん。その前にオシッコ。」
慌ててトイレに駆け込み、スッキリした顔で出て来た。
「ほな行こ!」
朱里は笑いながら克博の手を引き、部屋に案内していった。
そして押入れを開けてボロいクッションを取り出し、座布団代わりにポイっと投げた。
「まあまあ、そこ座って。」
「ほな、失礼して・・・。」
そう言ってゆっくりと座ると、「ブッ」と変な音がした。
「あはははは!それオナラの出るクッションやねん。ビックリした?」
「・・・どないリアクションしてええんか分からんわ・・・。」
朱里は満足そうにベッドに腰掛け、足をぶらぶらとさせながら言った。
「来てくれたんは嬉しいけど、連絡くらいくれたらよかったのに。」
「いや、昨日からずっと電話してたんやけど、全然つながらへんかったから。悪いかなと思ったけど来てもた。」
克博は苦笑いしながら頭を掻き、足を崩してクッションを鳴らした。
「ああ、ごめん・・・。ちょっとケータイが壊れてたから。」
「壊れた?どっかに落としたん?」
「いや、そういうことじゃなくて・・・・。」
朱里はぶらぶらと足を振りながら、昨日の夜のことを話した。
克博は真剣な顔で耳を傾けていて、話を聞き終えるとスッと立ち上がった。
「そら怖かったな。可哀想に・・・。」
そう言って優しく朱里を抱きしめ、頭を撫でた。
「ごめん・・・。ちょっと泣きそうやわ・・・。」
「ええやん、泣いても。一人で抱え込むのはアカンで。」
朱里は堪りかねたように泣き出し、ギュッと克博に抱きついた。それは昨日の悲鳴とは違い、声を殺した静かな涙だった。
「大丈夫、俺が守ったる。幽霊なんかなんぼのもんじゃい。」
その言葉に朱里は顔を上げ、ティッシュを取って鼻をすすった。
「ほんまは俊一が来るはずやってん。やのに・・・アイツ来おへんかった・・・。守ったるって言うたクセに・・・・。」
「俊一が?そら珍しいな。あいつは約束を破るような奴とちゃうのに・・・。」
「あたしもそれは知ってる・・・。でも来おへんかってん・・・。」
「そうか・・・。何か理由があったんやって、きっと。」
克博は指で涙を拭ってやり、もう一度抱きしめようとした。
しかしドアがノックされて、サッと離れてクッションに座り直した。
「はいはい、お茶持って来たで。ついでにトコブシヤの高っかいケーキもや。」
「おお!あたしチョコレートな!」
朱里はベッドから飛び上がって盆を奪い取り、テーブルに置いてムシャムシャと頬張り出した。
「あんたなあ・・・せっかく彼氏が来てくれてはんのに・・・。もうちょっと女の子らしい出来んか?」
「彼氏やからこうやって出来るんやんか。それにカッちゃんはあたしのこういうところに惚れたんやで、な?」
「ああ、はい・・・その通りで・・・。」
「こんな子を好きになるなんて・・・克博君も変わってるなあ。」
母は笑いながら盆を下げ、部屋を出て行く。
「ほな二人でゆっくりな。それとエッチなことは禁止やで。この前退院したばっかりなんやから。」
「分かってるって。ほら、若いもんの恋路を邪魔せんと早よ行って。」
「へえへえ、ほなゆっくりね。」
そう言って出て行こうとした母を、克博は立ち上がって呼び止めた。
「あ、あの・・・ちょっといいですか?」
「ほい、なんでしょう?」
「いや・・・実は俊一のことなんですけど・・・。」
「俊一君?あんた俊一君のこと知ってんの?」
すると朱里が克博のケーキを頬張りながら言った。
「カッちゃんは俊一の友達やねん。ていうか、俊一の紹介でカッちゃんと知り合ったんやから。」
「ああ、そうなん。そらまた・・・。」
母は盆を抱えて目を丸くし、克博は勢いを削がれて仕切り直した。
「その・・・俊一のことなんですけど・・・・。あいつ昨日ここへ来るはずやったのに来おへんかったって聞いて・・・・。
でもあいつ人との約束を破るような奴とちゃうし、もしかしたら何かあったんかなと思いまして・・・・。」
「ああ、それねえ・・・。確かに来るはずやったんやけど・・・・。」
大きなため息が、朱里と克博を不安にさせる。母は俯き加減で盆を見つめ、沈んだ口調で言った。
「俊一君・・・また調子悪うなってもたみたいでねえ・・・。」
「調子が悪い?どういうことですか?」
「ほら、希美が亡くなった時に、俊一君えらい落ち込んでたやろ?なんか鬱病みたいになってしもて、家から出られへんかったやんか。」
「ええ、でも最近は良くなってるはずですけど・・・。」
「それがまた調子悪うなってもたんやって、向こうのお父さんから電話があってなあ。そっちに行く予定やったらしいけど、ちょっと今は無理ですって。」
「俊一が・・・また・・・・・。」
克博は心配そうな顔で俯く。小学生の時から付き合いのある克博は、俊一の性格をよく知っていた。
一見大胆で気が強そうに見えて、実はかなり繊細で落ち込みやすいタイプであると。
「俊一・・・カッちゃんとは真逆の性格やからなあ・・・。」
彼の性格をよく知っているのは朱里も同じで、もしかしたら自分よりひどいことになっているかもしれないと考えた。
「希美が亡くなってちょうど一年やからねえ・・・。この前の法事の時も、えらい沈んだ顔してたから・・・。俊一君、けっこう無理しとったんとちゃうかな。」
「・・・・・・・・・。」
克博は思った。どうして自分に相談してくれなかったのだと。
俊一はどうでもいいことはベラベラ喋るが、肝心なところは自分一人で抱え込もうとするクセがある。
去年希美が亡くなって落ち込んだ時、何か力になってやりたいと思った。
しかし俊一は誰とも会おうとせず、電話にさえ出なかった。
克博は困った顔で頭を掻き、朱里に振り向いて言った。
「悪い。今からちょっと俊一の所に行って来るわ。」
「ああ、ほなあたしも行く。」
「いや、朱里ちゃんは家でゆっくり休んどいた方がええやろ。退院したばっかりやし、昨日もあんなことになったんやし。」
「でも俊一はあたしの兄貴みたいなもんやで?ほっとけへんわ。」
朱里は一気にケーキを頬張り、紅茶で流し込んで寝巻を脱いだ。
「コラ!どこで着替えよんねん!」
母に怒られても無視して、パンツ一丁で箪笥を漁る。
「カッちゃん、表に車回しといて。すぐ行くから。」
「お、おお・・・分かった。」
克博はポケットから鍵を取り出して部屋を出て行く。
「ごめんねえ、せっかく来てくれはったのに。ほんま騒々しい子で・・・。」
「いえいえ、そこが好きなんですよ。朱里ちゃんほんまに正直やから、一緒におって楽しいんです。」
「そうそう、カッちゃんはあたしに惚れ切ってんねん。病院でもセックスするくらいにな。」
母は盆で叩くマネをして苦笑いする。
「ほな、お邪魔しました。」
「いいえ、何のお構いも出来んで。またゆっくり来てちょうだい。」
克博は頭を下げ、足早に家を出て行った。
近くの路肩に止めていた車に乗り込み、一息吐いてエンジンを掛けた。
《俊一・・・。お前のことや、きっとまた一人で何かを抱え込んでるんやろ?俺らは友達やないかい。今度は一人で苦しませたりせえへんぞ!》
車を発進させ、家の前に行くと朱里が手を振っていた。
「それ・・・さっきの寝巻とどう違うの?」
「色が違う。それと洗濯もしとる。」
確実によそ行きではない格好をしながら、安いサンダルを鳴らして助手席に乗り込む。
「ほな行くで。ベルトしいや。」
「分かってるって。」
克博は巧みにハンドルを切り、大きなバンで細い路地を抜けていった。

木立の女霊 第五話 招かれざる者

  • 2014.09.17 Wednesday
  • 19:49
俊一が飴を持って見舞いに来た二日後、朱里は退院して家に戻っていた。
「はあ〜、やっぱ落ち着くわ。」
荷物を置いてどかっとベッドに転がり、見慣れた天井を眺めた。
「朱里、今日何が食べたい?」
「んん〜、トンカツ。」
「トンカツな。ほなカツカレーにしよか?」
「おお!ええやん。それでいこう。」
朱里の母はドアを閉めて階段を降りていく。
その足音が聞きながら、朱里はケータイを取り出してメールを打った。
『今日退院したよ。なんかお祝いちょうだい。』
そのメールを俊一と克博の二人に送信し、またベッドに寝転んだ。
家に帰って来て安心したのか、ベッドに横になっていると眠くなってきた。
だんだんとまどろんで、意識が薄れていく。
《ああ・・・家って落ち着くわあ・・・・・。》
病院で抱えていた不安と恐怖は、使い慣れたベッドが吸い取っていく。ようやく安心して眠れるかと思うと、一気にまどろみの中へ誘われていった。
しかしその時、部屋の中に何者かの気配を感じて飛び起きた。安堵は一瞬にして消え去り、不安と恐怖が蘇ってくる。
「・・・また、誰かに見られてる・・・・・。」
安心出来るはずだった自分の部屋が、途端に恐ろしい監獄のように思えた。
鼓動が速くなって呼吸も荒くなり、あの時の出来事がフラッシュバックしていく。
「い、嫌や・・・。オカン・・・・。」
慌ててベッドから立ち上がり、ドアへ駆け出していく。
そしてノブを回して部屋を出ようとした時、目の前を何かが横切った。
「な、何・・・・?」
じっと部屋の中を見渡すと、一匹の蛍が飛んでいた。
「蛍?なんでこんなとこに・・・・・。」
恐怖も忘れてその光に見入っていると、突然ケータイが鳴った。
「ビックリした!なんやねん・・・。」
ベッドに置いたケータイを手に取ると、二通のメールが届いていた。
一通は克博からのもので、先ほど送ったメールの返信だった。
『退院おめでとう!今日の夜にトコブシヤのケーキ買っていくよ。』
「これエッチする気満々やん・・・。まあええけど・・・。」
そしてもう一通のメールを確認すると、その差し出し人を見て血の気が引いた。
『希美』
それは姉の名前だった。
去年亡くなった時に姉のメモリーは消したはずで、しかも彼女以外に希美で登録している人物はいなかった。
ケータイを持つ手が震え、このまま床に叩きつけて逃げ出そうかと思った。
しかしまた蛍が目の前を横切り、それを見た途端に急に落ち着いてきた。
「き、きっとなんかの間違いやろ・・・。姉ちゃんなわけあらへん・・・。」
呼吸を整え、しっかりと自分に言い聞かせてからメールを開いた。
『朱里、久しぶりやね。この前は助けてあげられんでごめんね。お姉ちゃんにはあれが精一杯やったから・・・ごめんね。』
「・・・・・・・・・ッ!」
背中に言いようの無い悪寒が駆け抜け、思わずケータイを落としてしまった。
身体じゅうが震え、恐怖のあまり声も出なくなってしまった。
《な、なんなん・・・コレ・・・。なんなんよ・・・・。》
震える目でケータイを見つめていると、また着信音が鳴り響いた。
「いやあッ!オカン!助けてッ!」
朱里は奇声を上げて部屋から逃げ出し、ダッシュで階段を降りて母に抱きついた。
驚いた母は何があったのか尋ねるが、朱里はぶるぶると首を振って抱きつくだけだった。
《怖い・・・怖いわもう・・・。俊一・・・あたし怖い・・・助けて・・・。》
朱里は目を瞑り、子供のように泣くじゃくって気を失った。
暗い意識の底に落ちていく途中、ふっと蛍が横切って姉の顔が浮かんだ。


            *


俊一は自分の机に蛍の写真を並べ、眉を寄せて睨んでいた。
紗恵の撮ってくれた写真はどれもしっかり写っていて、見惚れるほど神秘的なものだった。
「相変わらず上手いよなあ。でも感心しとる場合とちゃう。」
机の上に並べた写真は全部で二十枚。そのうちの二枚に人の顔が写っていた。
蛍の舞う木立の中に浮かぶ、半透明の真っ白な顔。
一枚は広角レンズで撮ったもので、顔が小さくてよく分からない。
しかしもう一つは木立の中をアップで撮ったもので、こちらには鮮明に人の顔が写っていた。
「・・・間違いない・・・。これあの時見た女や。」
その顔はとても美しく、短い髪を揺らしてこちらを睨んでいた。
この写真を撮った時、紗恵は絶叫していた。
『いやあッ!お化けが写っとる!』
衣を裂く悲鳴とはまさにあのことで、紗恵はカメラを置いたまま車に逃げていってしまった。
俊一は紗恵のカメラを拾い上げ、木立の中に向けてファインダーを覗いた。
そして何度かシャッターを押して画像を確認したが、もう女の顔は写っていなかった。
車に戻ると、紗恵はぶるぶると震えてエンジンを掛けていた。
『もう帰ろう!そのメモリーカードあげるわ!カメラだけ返して!』
俊一としてはありがたい言葉で、中からメモリーカードを抜き取ってポケットに入れた。
それを今日の夕方に克博の店に持っていき、綺麗にプリントしてもらった。
『お前の写真・・・アレが写ってるで・・・。』
克博は苦笑いしながら写真を渡してくれた。ことの成り行きを話すと可笑しそうに笑っていた。
『紗恵にとっては災難やったな。まあお前も色々振り回されたことがあるし、これでおあいこやな。』
俊一は家に帰って一服し、気持ちを落ちつけてから写真を並べた。
そして腕を組んでそれを睨み、幽霊の顔と頭に浮かんだ女の顔が同じであることを確認したのだった。
机の端に置いたコーヒーを手に取り、ズズっとすすりながら写真を摘まみあげた。
じっと見ていると怖くなってくるが、それでも目を離さずにはいられなかった。
「顔だけや・・・。あの時は身体もあったのに・・・。」
女の顔さえ除けば、その写真は美しいものだった。月明かりが照らす青白い木立、そしてそこに舞う蛍の光。
しかし女の顔が浮かぶだけで、それは恐怖の光景に変わる。
砂糖を多めに入れたコーヒーが酸っぱく感じられ、写真を置いてタバコに火を点けた。
「気になって確認してみたものの、いったい何がどうなってるんかサッパリ分からん。この女は、なんであの時俺の頭に出て来たんや?」
朱里は言っていた。幽霊というのは、伝えたいことがあるから現れると。
ならばこの女も、もしかしたら自分に伝えたいことがあるのかもしれない。
「でもこんな奴知らんしなあ・・・。それに何で希美のことを・・・。」
いくら記憶を探っても、この女に当てはまるような友達や知り合いはいなかった。
しかし希美の名前を知っているということは、彼女の友達なのかもしれないと考えた。
「でも希美はほとんど友達がおらんはずや・・・。あいつの友達ならだいたい把握してんねんけどなあ・・・。」
俊一が知る希美の友達は、全部で三人しかいなかった。
一人はバイト先で知り合った、立花美佐という地味で大人しい女。
二人目は大学の時の友達で、志士田利夫というこれまた地味で気の弱い男。
そして三人目は、宗方弓子という変わり者の女だった。
宗方は職場で知り合った友達だそうで、とてもではないが美人とは呼べない顔立ちだった。
しかし彼女には不思議なところがあって、なぜだか人の心を読むことに長けていた。
まるでテレパシーかと思うほど鋭く心を読み、的確に言葉を飛ばす辛辣な女だった。
しかし仲の良い友人には非常に優しく、自分の気に入った相手には礼を尽くすタイプに思えた。
俊一も何度か宗方弓子に会っていて、その時はいつも丁寧に話しかけてくれた。
穏やかな口調で笑顔を崩さず、こちらの会話に合わせて話を盛り上げてくれる。
しかしその目は何かを探るように鋭く、どこか油断の出来ない気配を感じていた。
「三人とも希美の葬式の時には来てたけど、それ以来は会ってないなあ。まあ俺の友達とちゃうから当たり前なんやけど・・・。」
あの三人のうち、立花と志士田はどこにでもいる大人しいタイプの人間であった。
しかし宗方には、他の人間とは違う何かを感じることがあった。
それは霊能力や超能力といったオカルト的なものではなく、根本的に人とは違う雰囲気を持っていた。
『両極端』
そういう言葉がピッタリ当てはまる性格だった。
二面性があるというより、相手の出方によって仏にも鬼にもなるタイプ。
そして一度嫌われたら最後、とことんまで辛辣な言葉を投げかけ、相手の心を抉っていく。
恍惚としながら、そして楽しそうに笑いながら・・・。
いつか希美は言っていた。
『弓子は良い子だけど、ちょっと手に負えないところがある』
俊一はなぜかその宗方のことが気になっていた。写真の女とは似ても似つかないが、なぜか気になって仕方がない・・・。
疑問に思えば思うほど、胸の中にもやもやと霧がかかっていき、どうにも気持ち悪くて仕方なかった。
「宗方弓子・・・・・。確か登録したはずやけど・・・・。」
ケータイを手に取り、電話帳を開いていく。ま行を調べていくと、最後の方に彼女の名前があった。
「確か初めて会った時に連絡先を教えてくれたんやったな。向こうから教えてくれるなんて珍しいって、希美が驚いてたけど・・・・・。」
宗方の名前を見つめ、俊一はじっと考えた。
いったい彼女に電話をかけて何をしようというのか?何を話すつもりで、このボタンを押そうとしているのか?
冷静に考えれば、写真に写る女と宗方には何の関係もないことは分かるのに、胸の中の霧が晴れないのはどうしてなのか?
俊一はしばらくケータイを見つめていたが、大きく息を吐いて電話を掛けた。
《あの女と宗方には、何か似たもんを感じる。それをどうにか確かめんことには、心が落ち着かへん・・・・・。》
コールが鳴り始めると、手に汗が滲んできた。
衝動だけで電話を掛けてしまったことが、急に馬鹿らしく思えて恥ずかしくなってきた。
《中々出えへんな・・・。あと三回コールして出えへんかったら切ろう・・・。》
電話に出てほしいという気持ちと、出ないでくれという気持ちが入り混じり、嫌な気分になって手が震える。
そして三回目のコールが鳴り、電話を切ろうとした時に『もしもし?』と聞こえた。
《出た・・・。なんか複雑な気分やな・・・。》
しかしここで電話を切るわけにもいかず、明るい声で「もしもし」と返した。
「あの・・・美坂俊一やけど・・・覚えてるかな?」
『美坂俊一・・・?すいませんけど、知りません。』
「ああ、ええっと、希美の友達の俊一なんやけど、何回か会ったやん?」
『・・・希美という人も知りませんけど・・・。』
「え?希美を知らん・・・?」
一瞬思考が止まり、慌てて尋ねた。
「あ、あの・・・宗方弓子さんじゃないんですか・・・?」
『違いますけど・・・。』
「ああ!すんません!なんか間違えたみたいで!申し訳ありません!」
慌てて電話を切ろうとすると、小さな声で『あの・・・・』と返ってきた。
『実は最近番号を変えたんですけど・・・もしかして前の方が使ってた番号じゃないですか?』
「え?ああ!番号ね、番号を変えたんですね!そうか、なるほど・・・。」
『あの・・・もう切りますけどいいですか?』
「いやいや、すんませんでした!失礼します!」
電話を持って頭を下げ、通話を切って椅子にもたれた。
「ああ・・・ビックリした・・・。そうか、番号が変わってんのか・・・。」
宗方に番号を教わったのは三年も前のことで、こちらから一度も掛けたことはなかった。
「向こうからいっぺんだけ掛かってきたことがあったけど、それも大分前やしなあ・・・。まあ変わってても全然不思議じゃないわな。」
なんだかホッとして胸を撫で下ろしたが、心の中の霧は晴れなかった。
「まあしゃあない、番号変わってんのやから。気晴らしに克博でも誘って飲みに行こかな。」
そう呟いて電話をかけようとした時、急に着信が入った。
表示を見ると『鈴名』となっていて、それは朱里の家の番号だった。
「珍しいな、家から電話がくるなんて。オーナーからやろか?」
不思議に思って電話に出てみると、耳をつんざく女の悲鳴が聞こえた。
あまりの悲鳴の大きさにケータイから耳を離すと、電話からよく知る声が聞こえてきた。
『もしもし!俊一君?』
「ああ、オーナー。どうしたんですか?なんか凄い声がしてますけど・・・。」
『朱里の声やねん・・・。ちょっと手がつけられへんようになってしもて・・・。』
「手がつけられない?なんかあったんですか?」
『実は・・・希美からメールが届いた言うねん・・・。』
「希美から・・・。」
朱里の悲鳴を聞きながら、俊一はケータイを握りしめて座り直した。
『言うてる意味分からんよな・・・。でも朱里のケータイにメールが入ってんねや・・・。希美からのメールが・・・。』
「んなアホな。何かの間違いでしょ。」
にわかには信じられず、椅子から立ち上がってそわそわと部屋の中を歩き始めた。
『いや、ほんまやねん。俺も見たんやけど、確かに希美って表示されてるし・・・。』
「希美って表示が・・・。ああ!もしかして新しい番号の持ち主ちゃいますか?」
『新しい番号・・・?』
「希美のケータイって、あいつが亡くなった時に解約してるでしょ?だから前に希美が使ってた番号を、別の誰かが使ってるんですよ。」
『いや、でもメールやで?』
「同じ会社のケータイやったら番号だけで充分ですよ。」
『そうなんか?』
「ええ、俺と希美もそうでしたから、番号だけでメール出来ますよ。」
しかしオーナーは納得のいかない様子で唸っていた。
重い息づかいが聞こえ、朱里の泣き声と合わさって不安を掻きたてられる。
「どうしたんです?同じ会社と違うとか?」
『いや、そうじゃなくて・・・その・・・メールの内容がな・・・。』
「内容?どんなメールやったんですか?」
やや沈黙が流れたあと、オーナーは重い口調で答えた。
『この前の事件のことが書いてあったんや。守ってやれんでごめんって。』
「守ってやれんでごめん・・・?」
『そうや。お姉ちゃんにはあれくらいしか出来へんって。ごめんな朱里って。』
「そ、それは・・・・・。」
『それだけとちゃうで。その後にも何回かメールが来たんや。朱里、俊一に力を貸してやってくれって。』
「俺に力を・・・?」
『それから・・・俊一、ストーカーに気をつけろ・・・・、や。』
「ストーカー?どういう意味ですか?」
『まったく分からん。でも確かにそう書いてあったで。』
「ストーカー・・・・・。」
なぜか心の霧はもやもやと黒く広がっていき、口から溢れそうなほど胸がざわめき出す。
『もしもし?俊一君?』
呼びかけられてもしばらく答えることが出来ず、ストーカーという言葉だけが頭の中を駆け巡っていた。
『もしもし!聞こえてるか?』
「あ・・・ああ!すいません・・・。あの、今からそっち行っても大丈夫ですか?」
『もちろんや。というより、その為に電話したみたいなもんなんやけど・・・。』
「どういうことですか?」
『いや、俊一君が来てくれたら朱里も落ち着くかと思ってな・・・。だから悪いんやけど・・・よかったら来てくれるか?』
「はい!今からすぐに行きます。」
『すまんな・・・ほな頼むわ。』
「はい、それじゃまたあとで。」
俊一は震える手で電話を切り、素早く着替えて部屋を飛び出した。
「どっか行くん?」
玄関で母に呼び止められ、靴を履きながら立ち上がった。
「ちょっと朱里の家に・・・。なんかパニックになっとるらしくて。」
「パニック?」
「ええっと・・・まあ詳しいことは帰って来てから話すわ。」
「大丈夫なん?朱里ちゃん精神科に通わなアカンって向こうのお母さんが言うてたけど・・・。」
「それも帰ったら話すわ。ほな、ちょっと行ってくるわ!」
「夜遅いから気いつけよ。」
玄関を飛び出し、車庫に向かって車に乗り込む。そしてエンジンを掛け、ヘッドライトを点けたところで恐ろしいものが見えた。
それはあの女の顔だった。
闇を切り裂くヘッドライトの真ん中に、あの女の顔が浮かんでいる。身体はなく、首から上だけがポツンと浮かんでいる。
心臓が口から飛び出そうになるほど驚き、一瞬遅れて恐怖が襲ってきた。
そして何も考えられずにハンドルを握りしめていると、宙に浮かぶ顔は音もなくスーっとこちらに飛んできた。
「うわあああああああッ!」
エンジンを掛けたまま車から飛び出し、慌てて家に逃げ込んだ。
そして玄関の段差に躓いて派手に転がり、鼻を打ちつけて血を流した。
「どうした!」
居間にいた父が新聞を片手に駆け寄り、母は膝をついて俊一を抱き起こした。
「ちょっと、どうしたんそんなに慌てて?」
父と母に心配そうに見つめられ、俊一は声にならない声で答えた。
「ゆ・・・ゆう・・れい・・・。お、お化けが・・・・・。」
両親は怪訝な表情で顔を見合わせ、俊一を立たせて居間に連れていった。
「とりあえず座って落ちつけ。お母さん、水かお茶持ってきたって。」
母はコップに番茶を注いで持って来る。父はティッシュを取って、俊一の鼻血を拭っていた。
「だいぶ派手に転んだな。けっこう出とるぞ・・・。」
「・・・大丈夫や・・・。それより・・・あの幽霊は・・・?」
「お前・・・また調子悪くなってきたんとちゃうか?最近沈んだ顔しとったさかい・・・。」
「違う!ほんまにおったんや!ヘッドライトを点けたら、光の中に人の顔が浮かんで・・・。」
父は困惑した顔で立ち上がり、玄関を出て車庫に向かっていった。
「俊一、お茶飲み。」
「あ、ああ・・・。」
差し出された番茶を一気に飲み干すと、幾分心が落ち着いた。
ソファに座ってがっくり項垂れていると、玄関を開けて父が戻ってきた。
「なんもおらんぞ。」
「え?で、でも・・・俺は確かに・・・。」
「車庫も見たし、家の周りもグルッと回って見てみた。でもな〜んもおらん。」
「・・・・・・・・・・。」
父は俊一の隣に腰を下ろし、ポンと肩を叩いた。
「やっぱりまた調子が悪うなっとんとちゃうか?希美ちゃんが亡くなってちょうど一年やさかい、思い出して気分が沈んどんやろ?」
「それは・・・あるかもしれんけど・・・。」
母はもう一杯お茶を運んで来て、俊一はグイッと飲み干した。
二杯のお茶と両親の顔が心を落ち着かせ、俊一は冷静さを取り戻して立ち上がった。
「ちょっと写真持って来るわ。」
「写真?何の写真や?」
「俺がさっき見た幽霊の写真や。取ってくるから待っとって。」
俊一は父の前を通って階段に向かい、玄関を睨みつけてから自分の部屋へ駆け上がった。
そして部屋に入ると、机の上に並べた写真が乱れていた。
「なんでや・・・?きちんと並べとったのに・・・。」
乱れた写真を手に取っていくと、あることに気がついた。
「あれ・・・あの写真がない・・・。二枚あったはずやのに・・・。」
女の顔が写る心霊写真だけが机の上から消えており、俊一は部屋の中を注意深く探し回った。
机の下、ベッドの上、鞄の中、思いつく限りの所を全て探したが、どこにも見当たらなかった。
「おかしい・・・。確かにここに置いとったはずやのに・・・。」
不思議に思って立ち尽くしていると、頬に生温い風を感じた。
顔を上げると、部屋の窓が半分ほど開いていた。
「変やな・・・。いつもは閉めてるのに・・・・・。」
そう呟きながら窓の外に顔を出すと、また生温い風が吹きつけた。
「もしかして風で飛ばされたとか?」
ぐるりと辺りを見回してみるが、暗くてよく分からない。
「ああ、今日は月が出てないんか。曇ってるんもんな。」
そう呟いて何気なく空を見た時、真上に女の顔があった。
「うおあああああああッ!」
窓枠に頭をぶつけてひっくり返り、悲鳴を聞きつけた両親が部屋に駆け込んで来た。
「どうしたッ!大丈夫か?」
「そ、そこ・・・、窓の外に幽霊が・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
父は少しだけ眉を寄せ、何も言わずに窓の外を覗いた。
「う、上や!上におんのやッ!」
父は上を見渡し、そしてぐるりと辺りを眺めた。
「ど、どや?おるか・・・?」
父はこちらを振り向き、大きく息をついて窓の上に手を伸ばした。
「俊一・・・これが幽霊の正体や。」
「え?・・・何それ・・・?」
父が手にしていた物、それはクシャニクシャになって破れたビニール袋だった。
「雨どいの上に引っ掛かとったわ。今日は風が強いさかいな。どっかから飛ばされて来たんやろ。」
「び、ビニール袋・・・?」
父は袋を持ったまま俊一の前に膝をつき、真っすぐに見つめて言った。
「俊一・・・まだ完全に立ち直ってないみたいやな・・・。」
「え、いや・・・俺はほんまに幽霊を・・・・・。」
「幽霊?これのどこが幽霊や?」
父はカサカサと音を鳴らしてビニール袋を振った。
「こんなもんを幽霊と見間違えるなんて・・・そうとう参ってるんとちゃうか?この前希美ちゃんの法事があって、また気分が落ち込んだんやろ?」
「・・・それは・・・。」
俊一は顔を上げ、父から目を逸らして机を見つめた。
《あの女が写った写真がさえあれば信じてもらえるのに・・・・。》
そう思った時に、ピンと閃いた。
「そうや・・・メモリーがあるやん。」
「メモリー?」
「ちょっと待ってて!」
立ち上がって机に向かい、引き出しを開いてメモリーカードを取り出した。
《よかった・・・これは残ってた・・・。》
机の隅に寄せていたノートパソコンを立ち上げ、メモリーカードを挿して画像を開く。
何枚もの蛍の写真が映し出され、マウスを動かしてあの写真を探していく。
《確か最後の方に・・・・・。》
後ろの画像を順番に開いていくが、どこを探してもあの女が写った写真は見つからなかった。
「そんな・・・何でや?俺は消したりしてへんぞ・・・。」
必死になってマウスを動かし、全ての写真を確認していく。しかしどこにもあの写真はなかった。
「・・・俊一・・・・・。」
父は後ろに立って肩に手を置く。
「ちょっと待ってくれ!絶対にあるはずやねん!」
注意深く探していくが、どれも蛍が写った幻想的な写真だけだった。
全部で二十枚程度しかない写真を何度も調べていくが、やはりあの写真を見つけることは出来なかった。
「俊一、もうええ・・・。」
「いや、絶対にあんねん!克博の店でプリントしてもらったんやから!」
俊一は必死になって画像をクリックしていくが、父はその手を掴んで止めさせた。
「俊一、もうやめなさい。」
「で、でも・・・俺は確かに幽霊の写真を撮ったんや!この中に入ってるはずやねん!」
「分かった、分かったからとりあえず落ち着け。」
「写真だってここにあったんやで!この机の上に並べとったんや!さっきまでは確かにあったんや!」
「ええから、もうええから・・・。」
「それに幽霊だってちゃんと見たんや。そんなビニール袋とちゃう、ほんまもんの幽霊や。ちゃんと人の顔しとって、こっちに向かって飛んで来たんや!」
「分かったから・・・とりあえず下におりて話しよ、な?」
「嫌や!なんで信じてくれへんねん!俺は見たんやぞ!紗恵だって、克博だってその写真を見たんや!俺は嘘なんか言うてへんぞ!信じてくれや!」
「ええ加減にせいッ!」
父は怒鳴り声を上げ、手に持ったビニール袋を振り上げた。
「ええか俊一。お前の見た幽霊はこれや。これがお化けの正体や。」
「・・・・・・・・・・。」
「これが幽霊に見えるか?明るい場所で落ち着いて見たら、これが幽霊に見えるか?」
「・・・・・それは・・・ただの袋や・・・・・。」
「そうや。これはただの袋や。だから幽霊なんかおらん。全部お前の見間違いや。」
「・・・で、でも・・・・俺は・・・・・。」
父はビニール袋をクシャクシャに丸めてゴミ箱に捨て、声を落として言った。
「なあ俊一・・・お前の気持ちは分かる。希美ちゃんが亡くなった時、お前はえらい悲しんでたもんな。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「お前にとって、あの子がどれほど大事な存在やったか、お父さんもお母さんもよう知っとる。ほんまに・・・お前にとっては一番の親友やろう。
ちっちゃい頃からずっと一緒で、お父さんかて希美ちゃんのことは好きやった。それはお母さんも一緒や。だからお前が悲しむ気持ちはよう分かる。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
父は俊一の肩を叩き、背中を押して部屋の外に連れ出した。
「最近ちょっと様子がおかしいとは思ってたんや。お母さんも心配しとったし・・・。だからいっぺんちゃんと話さなあかんと思ってた。
今はとにかく落ち着いて、下に行ってゆっくり話そう、な?」
父の声は優しく、母は辛そうな顔で見つめていた。
「・・・・・分かった。」
「よっしゃ。とりあえずあったかいもんでも飲んで落ち着け。話はそれからや。」
父は俊一の背中を叩いて階段を降りていく。
母は窓を閉め、カーテンを引いてニコリと笑いかけた。
「下おりよ。自分一人で抱えんと、何でも話したら楽になるから。」
俊一は小さく頷いて部屋を見つめた。
生温い風はまだ吹きつけているようで、窓をカタカタと揺らしている。
母が電気を消し、部屋は真っ暗になる。
そしてドアが閉じられる瞬間、一筋の淡い光が見えた。
《・・・蛍・・・・?》
淡い光はすぐに消え、それと同時に胸の中は驚くほど落ち着いていった。
恐怖は消え去り、暖かな風が吹き抜けていく。
そして頭の中で蛍の光が舞い、パッと弾けて希美の顔が浮かんだ。
《希美・・・・・・。》
彼女は生きている時のように優しく微笑み、俊一を見つめている。
そして小さく口を動かして何かをささやいた。
《なんや?何を言おうとしてんのや・・・・?》
希美はまた何かをささやく。俊一は胸に手を当て、そのささやきを聞いていた。
《・・・・大丈夫・・・守るから・・・・。》
そう言ってニコリと微笑み、蛍の姿に変わって何処かへ飛び去っていった。
「さ、下りよ。」
母に促され、俊一は階段を降りていく。
いったい何がどうなっているのか分からないが、希美のささやきは胸を満たし、頭の中でリフレインしている。
途端に感情が込み上げ、階段を降りながらポロリと涙をこぼした。

木立の女霊 第四話 確信を求めて

  • 2014.09.16 Tuesday
  • 14:50
俊一は遅めの朝食を食べながら新聞を眺めていた。
そこには昨日起こった悲惨な事故の写真が、でかでかと印刷してあった。
【電車と乗用車が衝突 踏切を無視か?】
地元で起こった大きな事故とあって、地方向けのローカル新聞は大きく伝えている。
俊一はコーヒーをすすりながら寝癖のついた頭を掻き、じっくりと記事を読んでいった。
「・・・・・・・・・・。」
二度、三度とコーヒーをすすり、事故の凄惨さを伝える文章に背筋が寒くなった。
「車ぐちゃぐちゃやな・・・。なんで遮断機に突っ込んだんや・・・。」
事故の詳細な原因は書かれていないが、最後に気になる文字があった。
【乗用車を運転していた男性は、蛍を撮影しに行った帰りに事故に遭った模様】
「蛍・・・。また蛍か・・・。」
頭の中にあの時の嫌な光景が思い浮かび、途端にコーヒーが苦く感じられて砂糖を足した。
もう一度記事を読み返し、目玉焼きを突きながら新聞を置く。
朝から嫌なものを見たと後悔し、グッと背伸びをして時計に目をやった。
「十時半か。朱里の見舞いにでも行ったるかな・・・。」
今日は仕事が休みだった。特に予定もないので、棒付きの飴でも買っていってやろうかと考えていた。
サッと朝食を平らげ、食器を片づけてシャワーに向かう。
そして寝巻から普段着のジーパンとTシャツに着替え、薄いジャケットを羽織って玄関に向かった。
「あら、ケータイが・・・。」
ポケットにケータイが入っていないことに気づき、踵を返して自分の部屋に向かった。
机の上に置きっぱなしにしていたケータイを確認すると、三通のメールが届いていた。
そのうちの一通は朱里からのもので、今日は見舞いに来るのか?という内容だった。
「寂しがってんのやな。心配せんでも行ったるわい・・・・、と。」
返信を送り、残りのメールを開く。一通は下らないチェーンメールで、即刻削除した。
しかし最後のメールは、差し出し人を見て思わず手を止めた。
「紗恵・・・。なんで今頃メールを・・・・。」
それは一年前に別れた彼女だった。希美の死によって鬱状態となった俊一に愛想を尽かし、メールだけ寄こして別れを告げられた。
『いくら友達でもそこまで落ち込むもん?ほんまは付き合ってたんちゃうん?』
それが最後の言葉だった。
俊一としては特に未練のある女ではなかったが、一体何の用かと思ってメールを開いてみた。
『久しぶり。元気にしてる?よかったら今日会わない?ご飯でも食べに行こうよ。』
「なんやいきなり。一方的にフッといてからに・・・。」
迷わず断りのメールを打とうと思ったが、あることを思いついて気が変わった。
『ええで。でもちょっと用事があるからそれが済んでからでええかな?』
そう返して玄関に向かうと、ポケットの中でケータイが震えた。
取り出して確認すると、可愛らしい絵文字付きでメールが返ってきた。
『いいよ。都合よくなったらメールしてね。』
『了解。ほなまた後で。』
簡単にメールを返し、玄関を出て車に乗り込む。ゆっくりと車庫から出て、細い道を抜けて大通りに出ていった。
「確かあの駄菓子屋潰れたんやったな。コンビニで買っていくか。」
朱里の為に棒付きの飴を買う為、近所のコンビニに向かう。
俊一は車を走らせながら、昨日のことを思い出していた。
《克博の店で見た心霊写真・・・。確かに木立の中に顔が写ってたけど・・・。》
昨日カメラ店に行った時、克博はこっそりと例の写真を見せてくれた。
そこには確かに人の顔らしきものが写っていて、蛍の舞う木立の中からこちらを見つめていた。
しかし辺りは暗く、しかも薄っすらと写っているだけなので、自分が見た女の顔と同じかどうかは分からなかった。
腕を組んでじっと見つめていたが、やがて客が写真を取りに来て、克博は慌ててそれをしまいこんでいた。
《もちっとじっくり見てたら判断出来たかもしれへんけど、まあ仕方ないわな。》
交差点を曲がってすぐ近くのコンビニ入り、車を止めて店に入る。
菓子の棚には飴が売っていて、その中からいくつか選んでカウンターに持っていった。
そして車に戻って一服すると、朱里からメールが入ってきた。
《もし飴ちゃん買ってきてくれるんやったら、オレンジかコーラ味な。》
俊一はレジ袋の中から飴を取り出し、パッケージを睨んだ。
「それやったら早く言うてくれよ。コーラもオレンジも無いわ・・・。」
ぼやきながら車を降り、再び飴を買って朱里の病院を目指した。
平日の昼間であるが、道はかなり込んでいて、うんざりしながら前の車のテールランプを睨んだ。
「最近車増えたよなあ。前はもっと少なかったのに・・・。」
俊一の住む街は、最近何故だか飲食店やマンションが増え始めていた。
今より人や車が増えたら鬱陶しくなると思いつつ、様々な店が出来ることに便利さも感じていた。
「コンビにかてここ二、三年で増えたよなあ。こんなにいらんねんけど・・・。」
窓枠に肘をつき、適当なところで脇道に逸れて細い道を走って行く。
「こういう時は地元の人間は強いよな。通りの渋滞を横目にスイスイ行けるわ。」
ご機嫌で車を走らせながら、メールを送ってきた昔の彼女のことを考えていた。
《今さら何の用があって連絡してきたんか知らんけど、こっちとしてはナイスタイミングや。》
野々村紗恵と知り合ったのは二年前で、それは克博の紹介だった。
紗恵と克博は同じ大学に通っていて、二人とも写真部に入っていた。
当時彼女のいなかった俊一は、紗恵を紹介されて付き合うことになった。
特に恋人が欲しいわけでもなかったが、おせっかいな克博のせいで無理矢理紹介され、紗恵の方がこちらを気に入ってしまった。
悪い子ではなかったが、俊一はイマイチ彼女のことが好きになれなかった。
その理由は希美であった。紗恵は彼女に強く嫉妬し、ことあるごとに俊一から引き離そうとしていた。
もちろん新参の女が割って入ったからといって、二人の関係が壊れるほどやわではなかった。
希美は『恋人なら嫉妬して当たり前』と言っていたが、俊一にとっては鬱陶しいことこの上なかった。
今にして思えば確かに悪かったと思う部分もあるが、それもどうでもいいことだった。
「あいつ・・・希美が死んだ時に喜んでたからな・・・。顔には出さんかったけど、俺には分かる。」
もう二度と会うこともないだろうと思っていたが、彼女の誘いを受けたのには理由があった。
「あいつ写真の腕はプロ級やからな・・・。一応頼んでみよか。」
俊一にはある考えがあった。それは紗恵に蛍の写真を撮ってもらうことだった。
もっと正確にいえば、蛍の舞うあの場所で、心霊写真を撮ってもらうことだった。
昨日克博の店に行った時、俊一はあの心霊写真の撮影場所を聞いていた。
克博と客の会話に耳を傾け、この前自分が蛍を見に行ったのと同じ場所であることを知った。
それなら自分で撮影して、なんとかあの幽霊らしきものを写せないか?
そう思ったが、夜間の撮影が難しいことは知っていて、どうしたものかと悩んでいた。
克博に頼む手もあったが、紗恵の方が写真の腕は上である。それならば彼女に頼んで撮ってもらえばいいと考えた。
写真の腕もあるし、家が金持ちだからプロ仕様の高価なカメラも持っている。
暗い場所で写真を撮るなら、これほどうってつけの人物はいなかった。
「でも心霊写真を撮ってと頼むわけにもいかんからな。なんとか上手い具合に言うしか・・・。」
考えながら車を飛ばし、レジ袋から飴を一つ取り出して舐めた。


            *


「あかん、あかん、やめときいな。」
朱里はファッション雑誌を閉じて俊一を睨みつけた。
「なんでや?写真を撮ってもらうだけやで。」
腕組みをしてベッドの端に腰かけると、朱里は唇を尖らせて首を振った。
「アカンもんはアカン。あたし、あいつ嫌いやねん。」
そう言ってさらに唇を尖らせ、雑誌を開いて黙りこんだ。
《なにをこんなに意地張ってんねんや・・・?》
病室に入ってすぐに紗恵のことを話すと、朱里は途端に不機嫌になった。
彼女に会う理由をきっちりと説明したのだが、それでも納得しないようだった。
「あの夜に頭に浮かんだ女のことを確かめたいねん。どうしても気になって・・・。」
「そんなんただの想像やん。あんたが勝手に考えただけやろ?」
「いや、あれはそういう感じじゃなかった・・・。想像なんかより、もっと生々しい感じで、言うなればビデオに近いような・・・。」
「でも頭に浮かんだだけやろ?わざわざ昔の女に会ってまで確認することちゃうんやん。」
「そらそうやけど・・・。」
朱里はゴソゴソとレジ袋を漁り、棒付きの飴を取り出して包み紙を剥く。
それを口に咥え、興味も無さそうに雑誌を眺めながら言った。
「どうしても写真が撮りたいんやったら、カッちゃんに頼んだらええやん。」
「でも紗恵の方が写真は上手いねん。それに克博は結構忙しいから・・・。」
「全然忙しくないって。今日の朝だって来たんやし。仕事に行く前に朱里の顔が見たい言うて。顔見るだけじゃなくて、おっぱいも揉んでいきよったけどな。」
「・・・でもなあ・・・・。」
「でももクソもあらへん。カッちゃんに頼んどき。なんやったらあたしから言うといたろか?」
朱里は飴を持ち、ゆらゆら振りながら笑う。
俊一は腕を組んだまま考え込み、朱里と同じように飴を舐めた。
《確かに朱里の言う通りやけど、紗恵の腕は本物やからなあ・・・。もっというなら、克博は知識はあんねんけど、写真の腕は微妙というか・・・。》
何度か克博の写真を見せてもらったことはあるが、お世辞にも上手いとは言えなかった。
それに比べて紗恵の腕は確かで、大きなコンテストで何度も賞を取り、出版社の人間からプロにならないかと誘われたほどだった。
《もしあの場所に幽霊が出たら、紗恵なら確実に撮れるはずや。》
しかしそれを言ったところで朱里は納得をしないだろうと思い、この話はここで終わらせた。
「お前怪我の具合はどうなん?また痛んだりするん?」
そう尋ねると、朱里は飴を咥えたまま背中の右側に手を当てた。
「グリグリすると痛いな。」
「当たり前や。普通の状態やったらどうやねん?」
「もうほとんど大丈夫やな。今だって様子を見る為に入院してるだけやし、傷はほとんど問題ないって先生が言うてたから。」
「そうか、そらよかった。」
安心して頷く俊一だったが、朱里は沈んだ表情で雑誌を放り投げた。
「でも通院はせなアカン・・・。」
「そらそうやろ。七針も縫うたんやから。」
「いや、身体の傷のことじゃなくて、その・・・こっちの方が・・・・。」
そう言って胸に手を当て、ギュッと拳を握った。
「まだ怖いんか?あの時のこと・・?」
「・・・うん。たまに夜中に飛び起きるねん・・・。夢でもよう見るし・・・。先生はPTSDかもしれんって言うてたけど・・・。」
「PTSD・・・?それって確かトラウマのことちゃうの?」
「うん・・・。先生も専門じゃないから詳しいことは言えへんっていうてたけど・・・。でもええ精神科を紹介したるから、そこに行って診てもらいって。」
「・・・そうなんか。そこまで傷ついてたんやな・・・。」
「しんみりせんとてや。あんたがトラウマになったんとちゃうやろ?」
「いいや、まだ自分のことの方がマシや。もうこれ以上、自分の大事な人間が傷付くのは嫌やねん・・・・・。」
「・・・・・・・・・。」
俊一は咥えた飴をガリガリと噛み砕き、プラスチックの棒をへし曲げてゴミ箱に投げ捨てた。
カランと乾いた音が鳴り、ゴミ箱の中へ落ちていく。
その時、嫌なものが目に入ってゴミ箱を見つめた。
「どうしたん?」
「いや・・・ゴミ箱の中に、なんか見たくない物体が・・・。」
それはコンドームだった。明らかに使用済みのもので、グシャグシャとティッシュが絡まっている。
「ああ!カッちゃん・・・、ちゃんと見えんように捨ててって言うたのに・・・。」
朱里はバツが悪そうに呟き、雑誌で顔を隠した。
「あいつ・・・ここでヤっていきよったんか?」
「・・・今日の朝ちょっと・・・。おっぱい揉んだついでに・・・。」
俊一は腰を浮かし、雑誌を取り上げて拳骨を落とした。
「痛ッ!なにすんねん・・・。」
「なにすんねんとちゃうわい!お前ナイフで切られて入院しとんやぞ。いくら個室やからって、やってええことと悪いことがるやろ!」
「でも・・・カッちゃんがどうしてもしたい言うから・・・。」
「断れッ!」
俊一は憮然として座り直し、今度克博に会ったら一発殴ってやろうと思った。
朱里の方をじろりと睨むと、また雑誌で顔を隠した。
「それよりお前、いつ退院するんや?」
「問題がなかったら近いうちにって言うてたけど・・・。」
「そうか。早よ退院出来たらええな。」
そう言って腰を浮かすと、朱里は雑誌から顔を覗かせて言った。
「あ、もう帰る?」
「おお、ちょっと克博の店でも行って来ようと思ってな。」
「・・・ほんまは紗恵と会うんやろ?」
「いいや、会わへん。」
「絶対ウソやん。」
「絶対会わへん。それよりお前、もう二度とここでセックスするなよ。退院して完全に傷が治るまでは待っとけ。」
「分かった。絶対せえへん。」
「・・・ウソやな。」
「お互い様や。」
俊一は笑い、ポケットに手を突っ込んで病室を出て行く。
「あ!そういえばアレ知ってる?」
「アレ?アレってなんや?」
「ほら、今日の新聞に乗ってたやん。」
「もしかして電車と車の事故か?」
「うん、あれ亡くなったんは奥田さん言う人やろ?」
「・・・そうやったかいな?」
「そうやって。あの人な、多分あたしの同級生のお父さんやと思う。」
俊一はわずかに興味を引かれ、朱里のベッドに近づいた。
「マジで?」
「多分そうやと思うわ。中学の時の同級生で、麻子っていう子なんやけどな。お父さんが写真好きで、毎年蛍を撮りに行くって言うてたから。」
「そうなんか・・・・。」
俊一は腕を組んで考え込んだ。そのまましばらく窓の外を睨みつけ、キョトンと見上げる朱里に尋ねた。
「なあ、今でもその子と連絡取れるか?」
「うん、番号は残ってるけど・・・。麻子と連絡取りたいん?」
「その子の親父さん、蛍を撮りに行った帰りに亡くなったんやろ?それやったら、カメラに写真が残ってるかと思ってな。」
「ああ、確かに・・・。でもお父さんが亡くなって昨日の今日やで。それはあまりにも失礼とちゃう?」
「・・・やっぱりそうやんな・・・。いや、ええわ、忘れてくれ。」
俊一は踵を返し、ドアを開けて朱里に指をさした。
「さっきも言うたけど、もうここでセックスしたらアカンぞ。」
「努力するわ。」
俊一は笑って手を振り、朱里の病室を後にした。


            *


三十分ほど走って家に戻ると、門の前に赤いスポーツカーが止まっていた。
「あの車は・・・。」
家の近くまで来て車を止めると、門の向こうに一人の女が立っていた。
「紗恵!」
女はこちらを振り向き、笑顔を見せて走って来る。
「久しぶり!元気やった?」
「まあまあやな。ちょっと車庫に入れるから待っといてくれ。」
慣れた手つきでハンドルを切り、ゆっくりと車庫に入れていく。
そして車を降りて家の前に出ると、紗恵はニコニコとしながら手を振った。
「いつまで待っても連絡ないから来てもた。」
「ああ、ちょっと用事があってな?」
「もしかして朱里ちゃんの病院?」
「なんで知ってんねん・・・?」
意外な顔をして尋ねると、紗恵は当たり前のように答えた。
「みんな知ってるで。新聞に出たんやから。」
「新聞・・・。ああ、そうか・・・。」
「テレビでもちょこっとやってたし。」
「テレビ見いへんから分からんけど、・・・みんな知ってたんか・・・。」
「そらそうやろ。人が刺されたんやから。」
あっけらかんと言う紗恵に腹が立ったが、なんとか笑顔を作って話題を変えた。
「相変わらず目立つ車やな。」
「けっこう昔の奴やけどね。気に入ってんねん。」
紗恵は車のボンネットをポンと叩き、鍵を回して見せた。
《こいつ、ちょっと見いへん間に綺麗になったな・・・。》
元々綺麗な顔立ちであったが、この一年でグッと色っぽくなっていた。
細身のジーパンにTシャツだけというラフな格好だが、これが紗恵のスタイルであった。
ただし髪は前より伸びていて、クセのない真っすぐなストレートに思わず見惚れてしまう。
「どうしたん、じっと見つめて。元カノに再会してハートに火が点いた?」
「いや、すごい綺麗になったな思って・・・。なんかあったんか?」
「まあまあ、ドライブしながら話しよ。」
紗恵は車に乗り込み、俊一は苦笑いしながら助手席に回った。
「ちゃんとベルトしてや。」
「分かってるって。」
「ほな海沿いでも走ろか。途中でご飯でも食べよ。何か食べたいもんある?」
「なんでもええで。・・・いや、ラーメンにしよか。本骨ラーメン。」
「好きやなあ相変わらず。じゃあ行くで。」
紗恵は笑いながらアクセルを踏み、スポーツカーを駆って大通りに出ていく。
《相変わらず男っぽい性格やな。コイツのこういうとこは嫌いじゃないねんなあ。》
彼女と付き合っている時は、いつもこういう感じであった。
人一倍自己主張が強く、とにかく芸術家肌。
そして誰かに引っ張られるより、自分が引っ張っていくタイプであった。
紗恵と一緒にいると、まるで男友達と遊んでいるように感じることがあった。
《彼女じゃなくて友達やったら、もっと仲良く出来たかもしれんなあ・・・。》
恋愛という要素を抜いて考えれば、紗恵は最高の友人であった。
もし彼女が男だったら、親友と呼べるほどの仲になっていたかもしれない。
そう思えるほど、人間としては魅力があった。
しかし異性として付き合えば疲れることは知っていて、いくら綺麗になったからといって、ハートに火が点くなどということはなかった。
紗恵はご機嫌で車を飛ばし、他愛無い世間話をしてくる。
誰それが結婚したとか、同級生が仕事を辞めて起業したとか。
俊一にとってはどうでもいい話であったが、適当に笑って相槌を打っておいた。
「どうしたん?元気なさそうやけど。」
「ちょっと仕事で疲れてるだけや。」
「ああ、確かレストランで働いてるんやろ?すごいな、シェフやんか。」
「そんなええもんちゃうよ。ただの見習いや。・・・ていうか誰に聞いたん?」
「ん?四島君。」
「ああ、克博・・・・・。」
相変わらず口の軽い奴だと思い、顔を逸らして眉を寄せた。
車は大きな国道に出て、紗恵はさらにアクセルを踏んでスピードを出していった。
そしてチラチラと俊一を見つめ、真剣な顔で呟いた。
「あのな、さっき質問したことあるやん?」
「質問?」
「うん、すごい綺麗になったけど、なんかあったんって。」
「ああ、言うたな。」
「・・・実はな、あたし結婚すんねん。」
「おお!マジでか?」
驚いてみせると、紗恵は嬉しそうにはにかんだ。
「で、誰とすんねん?」
「俊一の知らん人。バイクの免許取りに行ってる時に知り合ったんやけど。」
「ほう、バイクの免許取ったんか。」
「うん。その時にたまたま同じ授業になって、話が弾んで仲良くなったんよ。船を造る仕事をしてる人なんやけど、もうすぐ海外に行かなアカンねん。」
「海外?でも結婚するんやろ?」
「そう、だからついて行くねん。トルコまでな。しばらく向こうで暮らすと思う。」
「はあ・・・そらすごいなあ・・・。ほな今日はそれを言う為に誘ったんか?」
「まあな。あんな別れ方やったし、付き合ってる時に色々振り回したこともあったから、一応言うとこうと思って。」
そう言って今日一番嬉しそうに笑った。
「そうか。おめでとう。幸せになってくれよ。」
笑顔で返す俊一だったが、心の中では逆の思いでいた。
《要するに自慢しに来たわけか。自己主張の強さは健在やな・・・。》
おそらく結婚する旦那は苦労するだろう。しかしそんなことは俊一には関係なく、窓の外を流れる景色を見つめながら切り出した。
「あのな、実はちょっと頼みがあんねんけど・・・。」
「ん?なんの頼み?」
「・・・ちょっと蛍の写真を撮ってくれへんかと思ってな。」
「蛍?またなんで?」
俊一は舌で唇を湿らせ、即興で考えた理由で誤魔化した。
「この前蛍を見に行ったんやけど、ものすごい綺麗やってん。だから写真に撮ろうと思ったんやけど、夜の撮影って難しいやん?
だから・・・もしよかったら撮ってくれへんかなと思って・・・。」
躊躇いがちに言うと、紗恵は大きく笑って頷いた。
「全然ええよ!写真は得意やからね。で、いつ行くん?」
「いつでもええよ。・・・いや、いつでもええってことはないな。出来たら早い方がええねんけど・・・。」
「まあそらそうやなあ。蛍の見れる時期は短いから・・・。」
勝手に都合のいい解釈をしてくれているようで、俊一はじっと返事を待った。
紗恵はハンドルを切りながら考え、また大きく頷いて言った。
「じゃあ今日行こか?」
「今日!」
「あ、都合悪い?」
「い、いやいや全然!ありがたいよ!でもそんな急に大丈夫なんか?」
「うん、今日は空いてるし。それに明日から色々準備せなアカンねん。結婚式とか、海外に行く為とかで。」
「ああ、そらそうやな。なんか忙しい時に頼んでもて悪いな。」
「気にせんといて。私も久しぶりに写真撮りたいから。」
「最近は撮ってなかったんか?」
「まあ色々と忙しくてさ。でも腕は落ちてないと思うから安心して。」
「お前の腕がすごいのは知ってるからな。信用してるよ。」
紗恵は満足そうに笑い、さらにご機嫌になって車を飛ばしていく。
「おいおい・・・ちょっと飛ばし過ぎとちゃうか・・・。」
「大丈夫やって、何の為のスポーツカーやと思ってんねん。飛ばしてこその車やで。」
俊一は苦笑いを見せてシートベルトを握った。
なにはともあれ、撮影の約束を取り付けることが出来た。
お礼にラーメンを奢ると言うと、紗恵は手を叩いて喜んでいた。

木立の女霊 第三話 撮ってはいけないもの

  • 2014.09.15 Monday
  • 20:31
北井勉は警察の取り調べ室にいた。
女を刃物で刺して捕まり、おっかない顔をした刑事に取り調べを受けていた。
横にはもう一人強面の刑事が立っていて、腕を組んで睨みつけている。
北井は容疑を認めていた。一方的に好意を抱き、想いを伝える勇気が無いのでストーカーと化していたことを。
そしてとうとう自分の気持ちを抑えられなくなり、東京からその女を追って、今日の朝彼女の家に行ったことを。
家から出て来た女に気持ちを伝えると、向こうは怪訝な顔をした。そして逆に問い詰められた。
『あんた、最近私のことつけたりしてなかった?』
正直に頷くと、女は怒り狂って鞄で叩きつけ、さんざんに罵って家に逃げていった。
『きしょい』『きもい』『変態』『ストーカー』『二度と来るな』
それらの言葉は北井の胸を抉り、彼女に対する好意は一瞬にして憎悪に変わった。
そして金物を扱う店から果物ナイフを購入し、じっと女の家の前に張り付いていた。
夜になると女は現れ、北井は距離をおいて尾行した。
女はカラオケ店の前で一人の男と合流し、店に入っていった。
そのことがまた憎悪を掻き立て、北井はポケットのナイフを握りしめて佇んでいた。
カラオケ店から出て来た女は、ずいぶん酔っぱらっているようだった。
男は女の肩に手を回し、顔を寄せてキスをしていた。
北井の憎悪はますます膨らみ、もはや女を殺すことに躊躇いはなかった。
女はしばらくキスを続けたあと、男と別れて家に向かった。そして途中でコンビニに入り、買い物をしてから出て来た。
北井は電柱の影にじっと身を潜め、ポケットからナイフを取り出した。
女はあたりを見回してからコンビニの駐車場を抜け、歩道を歩いていく。
膨らんだ憎悪はもはや抑えることが出来ず、気がつけばナイフを構えて女に向かっていた。
女はこちらに気づき、恐怖に怯えて身を竦めた。北井は隙だらけの彼女にナイフを構えて突進する。
しかしその時だった。目の前を何かが横切り、一瞬だけ注意が逸れた。
それは蛍だった。ゆらゆらと揺れながら、淡い光を放って空に向かって飛んでいく。
女は持っていた買い物袋を投げつけ、北井が怯んだ隙に逃げ出した。
我に返った北井はナイフを構え直し、奇声をあげて彼女にぶつかった。
手に握るナイフから確かな感触が伝わり、じっとりと赤い血が流れてくる。
女はその場にうずくまり、背中をおさえて泣き喚いていた。
北井は女の血で濡れたナイフを見つめ、震える手で強く握りしめた。
そして女に馬乗りになり、首元にナイフを突き刺そうとした瞬間に、また蛍が横切った。
じっとその光を見つめていると、顔面に衝撃が走って吹き飛ばされた。
『何やっとんじゃテメエッ!』
北井は何者かに顔を蹴り飛ばされていた。鼻を押さえながら見上げると、それは女とキスをしていたあの男だった。
『殺すぞこのガキッ!』
男はもう一度北井の顔を蹴り飛ばし、腕を捻じり上げてナイフを奪った。
そして馬乗りになり、滅茶苦茶に殴りつけた。まるで総合格闘技の試合のように、雨あられと拳を降らせた。
それを見ていたコンビニの客が警察を呼び、男は駆け付けた警官によって引き離され、北井は手錠をかけられてパトカーに押し込まれた。
遅れてやって来た救急車が女を病院へ運び、北井も簡単に治療を受けてからここへ連れて来られた。
目の前に座る刑事は、口調こそ穏やかだが眼光は鋭く、それは確実に相手を威圧するものだった。
横に立つ刑事もピリピリと殺気を放ち、北井はようやく事態の深刻さを理解し始めた。
これから自分はどうなるのか?あの女の傷は深いのか?
もし死んでしまったら、自分は殺人罪で死刑になるのか?
そう考えると震えが止まらず、口が渇いて呂律が回らなくなる。
しかしそれよりも、もっと気になることがあった。
それは目の前を飛んでいった蛍のことであった。どうしてあんな場所に蛍が飛んでいたのか?
蛍というのは水の綺麗な川にいるものではないのか?
都会育ちの北井は蛍に詳しくもないし、人生で見たのはあれが二度目だった。
しかし確かなことが一つある。
それはあの時蛍が目の前を横切らなければ、確実に女を殺していたということだ。
間違いなく殺人者になり、もっと厳しい取り調べを受けていただろう。
そう思うとさらに恐怖が湧き上がり、思わず涙が出てきた。
しかし逆に考えれば、あの蛍のおかげで殺人者にならずにすんだ。
事の重大さを理解して冷静さを取り戻した今、あの蛍に感謝の念さえ抱いていた。
北井は涙を拭い、刑事に向かって深く頭を下げた。
「・・・ごめんなさい・・・。すいませんでした・・・。」
俺に謝ってどうすると言われ、北井はまた涙を拭って謝った。


            *


朱里は病院の窓から外を眺めていた。
初夏の臭いは窓越しでも伝わるような気がして、思わず鼻を動かした。
「おう!調子はどうや?」
声を掛けられて振り返ると、俊一が漫画雑誌を持って立っていた。
「これ今週号な。ここ置いとくで。」
「ありがとう・・・。」
俊一はベッドの端に腰かけ、腕を組んで窓の外を見つめた。
「あそこの葉っぱが全部落ちたら、あたし死ぬんかなあ・・・。」
朱里は唐突に暗い顔になり、重々しい口調で呟く。
「そうやなあ・・・。青々と茂ってるから、全部落ちるまで大分かかると思うで。」
「大分かかるって、どれくらい?」
「さあなあ・・・。なんやったら木を揺すって葉っぱ全部落としてこよか?」
ふざけたように言うと、朱里は少しだけ笑った。
そしてテーブルに置かれた漫画雑誌を取り、パラパラと捲りながらベッドにもたれた。
「あのな、あんたに言わなアカンなことがあんねん。」
「なんや、改まって。」
「カッちゃんのことなんやけど・・・。」
「カっちゃん?」
「克博のことやん。あんたの友達の。」
「ああ、カッちゃんて・・・・・。」
「あたしな、あの人と付き合うことにしてん。」
「おお、そうか。」
「あの人が助けてくれへんかったら、あたし死んでたと思う。だからな、今日の朝来た時に告白してん。付き合ってって。」
「カッちゃんはOKしたんか?」
「めっちゃ喜んでたわ。思い切りキスされて、ちょっとおっぱい揉まれたわ。」
「そうか、あいつらしいな・・・・。」
元気なことで何よりだと思った。あの日病院に駆けつけると、朱里は死人のような顔で俯いていた。
幸い身体の傷は浅かったが、心には深い痛手を負っていた。
あれから一週間、朱里は塞ぎ込んだままだったが、今日ようやく軽口を叩くようになってホッとした。
俊一は朱里の頭を撫で、申し訳無さそうに呟いた。
「すまんな、守ったる言うたのに・・・。」
「ええよ、カッちゃんが守ってくれたから。」
「・・・ほんまに生きててくれてよかった。もしお前まで死んでたら、俺は首吊ってたかもしれんな・・・。」
「やめてえや。重いわそんなん。」
朱里は漫画を持ち上げ、顔を隠して足の指を動かしていた。
「今日はおばちゃんは?」
「もうちょっと前に帰った。また夕方来るって言うてたけど。」
「そうか。東京へはしばらく帰らへんのやろ?」
「まあこういうことになったからなあ・・・。店長もしばらく休んでええって言うてくれてるし、しばらく地元におるわ。」
「そうやな、それがええ。」
俊一はその言葉に安心していた。もしまた朱里の身に何かあったらと思うと、気が気ではなかった。
ベッドの上で胡坐を掻き、窓の外を眺めながら安堵に浸っていると、朱里は漫画から顔を上げて言った。
「今日な、警察の人が来てん。」
「ああ、そうなん?」
「それでな、あたしを刺した奴が言うてたらしいんやけど、蛍を見たんやって。」
「蛍?」
「うん、あたしを刺す直前に、目の前に蛍が飛んで行ったんやって。」
「蛍って・・・。お前が刺されたんはコンビニの前やろ?そんなもんおるわけないやん。」
「そうやねん。あたしもそんなもん見てへんからな。でも・・・あの男は確かに蛍を見たって言い張ってるらしいわ。そのせいで注意が逸れて、一瞬刺すのが遅れたって。」
「・・・蛍・・・。なんか最近ようその言葉を聞く気がするなあ・・・。」
俊一は思い出していた。あの日、この病院に来る時に浮かんだ光景を。
木立の中に蛍が舞い、その奥にこちらを見つめる人の顔があった。
それは女の顔で、こちらに寄って来てこう呟いた。
《・・・会いたい?・・・ねえ、会いたい?・・・希美ちゃんに・・・・・。》
あの時は思考が止まり、思わず赤信号に突っ込んでトラックとぶつかるところだった。
思い出しただけでもぶるっと肩が震え、蛍という言葉に嫌悪さえ覚え始めていた。
「どうしたん?思い詰めた顔して・・・。」
「なんでもない。ちょっと仕事で疲れてるだけや。」
笑って誤魔化し、しばらく話をしてから立ち上がった。
「もう帰る?」
「うん、いま仕事中やねん。オーナーに許可もらって見舞いに来ただけやから。」
「オトンも心配症やからな。自分で来たらええのに。」
「いや、俺に気を遣ってくれただけやろ。沈んだ顔しとったさかい。」
俊一はガシガシと朱里の頭を撫で、ポケットから飴玉を取り出した。
「これやるわ。ハッカ味やけど。」
「いらんわ。ハッカ嫌いやねん。あたし棒付きの飴しか舐めへんし。」
「・・・それ下ネタちゃうよな?」
「ちゃうわ馬鹿タレ。さっさと仕事戻ってこい。」
俊一は笑いながら「ほな」と手を挙げ、病室を出て行く。
「なあ。」
「ん?なんや?」
振り返ると、朱里は思い詰めた顔でこちらを睨んでいた。
「もう・・・ないよな、こんなこと?」
「こんなこと?」
「だから・・・人に刺されたり・・・。」
朱里の目からスッと涙が落ちる。漫画を持つ手が震え、堪りかねたように顔を覆って泣き出した。
俊一はそれを見て俯き、朱里の所に戻って抱きしめた。
「大丈夫や、大丈夫。もうこんなことあらへん。大丈夫や・・・。」
そう言って震える背中を撫でると、朱里は腕を掴んで呟いた。
「・・・怖いねん・・・。ほんまに殺されるか思った・・・。今でも怖いねん・・・。」
「・・・大丈夫や。ここには俺もおるし、おっちゃんもおばちゃんもおる。なんも心配せんでええ。」
「でも・・・ずっと傍におるわけとちゃうやん・・・。一人の時にまた刺されるかもしれへんやん・・・。」
「犯人は捕まったんや。あいつは刑務所いきや。」
「出てきたらまた来るかもしれへんやんか!死刑にしてや・・・あいつ・・・。」
「・・・・・・・・・。」
俊一は幼い子供を慰めるように抱きしめ、しばらく好きなように泣かせていた。
朱里の涙が手の甲を濡らし、鼻水が指にからみつく。
脇にあったティッシュでそっと顔を拭ってやり、頬を挟んで言い聞かせた。
「ええか、朱里。もしまたあいつが来たら、俺が死刑にしたる。絶対にお前を傷つけさせへん・・・約束する。」
「・・・ほんまに・・・?」
「ほんまや。前にも言うたやろ。妹を守るのは兄貴の役目やって。」
もう一度強く抱きしめ、頭を撫でて頷きかけた。
朱里はティッシュを掴んで鼻をすすり、赤い目を向けて言った。
「ごめん・・・。なんか堪えきれへんようになってもて・・・。」
「謝ることあるかい。なんでも言うたらええねん。」
俊一はハッカの飴を握らせ、その手を振って笑いかけた。
「それにな、希美がきっと守ってくれる。天国からいつでもお前のこと助けに来てくれる。」
「・・・そうかな?あたし姉ちゃんのこと嫌ってたのに・・・。」
「あいつはお前のこと好きやったぞ。だから守ってくれる。今回だって、もしかしたら希美が守ってくれたんかもしれへんで。」
「・・・どういうこと?」
見上げる朱里から視線を逸らし、俊一は俯いて肩を落とした。
「お前を刺した奴、蛍を見たから刺すのが遅れたんやろ?それやったら、その蛍は希美やったんかもしれん。ほら、あいつ蛍好きやったやろ?
だから助けに来てくれたんや。絶対にそうやで。」
「そうかな・・・?」
「そうや。間違いない。」
朱里はティッシュを掴んだまま考え込み、顔を上げて呟いた。
「ほんなら、姉ちゃん虫に生まれ変わったいうことかな?」
「・・・う〜ん、それはなんか嫌やな・・・。せめて哺乳類じゃないと・・・。」
真面目な顔で言うと、朱里はプッと吹き出した。
俊一は握った手を揺さぶって笑いかけ、肩を叩いて尋ねた。
「もう少しここにおろか?」
「ううん、もう大丈夫。ありがとう。」
「そうか。ほなまた来るさかい。大人しくして早よ怪我治せよ。」
「うん、それと次は棒付きの飴な。」
朱里はハッカの飴を振って見せ、俊一は手を振り返して病室をあとにした。
外に出ると空は曇っていて、湿った風が頬に絡みつく。
「こら一雨きそうやな。まあ車やからええけど。」
駐車場に向かいながら俊一はあることを思っていた。
それは蛍のことだった。
朱里を刺そうとした男は、蛍に気を取られて刺すのが遅れた。しかしそのおかげで朱里は生きている。
そしてあの夜、病院に向かう途中に浮かんだ光景。あれも蛍の舞う木立だった。
「蛍・・・蛍ねえ。そういや克博も、蛍の写真に幽霊が写ってるとか言うてたけど・・・。」
そう呟きながら、ふと思いついて立ち止まった。
しばらく佇んで考え込み、ケータイを取り出して克博にかけた。
数回のコールのあと、『もしもし』とよく知る声が聞こえた。
「ああ、ちょっと聞きたいことがあんねんけど、今大丈夫か?」
『ええで、休憩中やから。』
俊一は少し間を置き、息を吐いてから切り出した。
「お前さ、蛍の心霊写真がどうとか言うてたんやん?」
『おお、木立の顔のやつな。』
「あれさ、ちょっと見せてもらえへんかな?」
そう尋ねると、困ったような笑い声が返ってきた。
『悪いけどそら無理やわ。いくら友達でもお客さんの写真を勝手に見せるわけにはイカンな。』
「いや、そら分かっとるけど。でもどうしても気になることがあんねん。」
『気になること?何やねん?』
俊一は目の前を通り過ぎていく車椅子の患者を見つめながら、やや躊躇いがちに答えた。
「実はな、この前朱里の病院に来る時に・・・・・、」
あの恐怖の光景を思い出しながら、ゆっくりと説明していった。
克博は黙って話を聞いていて、時々相槌を打ちながら俊一の説明に聞き入っていた。
そして全てを聞き終えると、低い声で『う〜ん・・・』と唸った。
『お前がそういう話をするなんて珍しいな。オカルトは嫌いとちゃうの?』
「嫌いやで。でもあの光景が頭から離れへんねん。あの時浮かんだ光景は、木立の中から出て来る女や。
お前んとこの心霊写真も木立に浮かぶ顔やろ?もしかしたら同じもんやったりしてと思ってな・・・。」
『そうか・・・。お前がおふざけでこういうこと言うわけないしな・・・。ごめん、ちょっと待っとれ。』
克博は電話から離れたようで、俊一はじっと佇んで病院を出入りする患者を眺めていた。
そして一分もしない間に、『もしもし』と声が返ってきた。
『今確認したら、まだその写真残ってるわ。お客さんが取りに来る前やったら見せられるで。』
「おお、そうか。すまんな。ほな今からすぐ行くわ。」
『なるべく早く来いよ。お客さんが取りに来たらおしまいやからな。』
「分かっとる。ほなまた後で。」
電話を切り、素早く駆けて車に乗り込んだ。青いコンパクトカーは駐車場から国道へ滑り出し、一気にスピードを上げて走って行く。
《俺の見たあの女は、まさか幽霊やったんか?とても頭の中の映像とは思えんほど生々しかったけど・・・。いや、でも、まさかな・・・・・。》
その疑問を解き明かす為、俊一は克博の待つカメラ店に向かう。
淀んだ雲が小雨を降らせ、車の窓を滲ませていた。


            *


カメラ店の常連である奥田は、また蛍を撮りに来ていた。
長靴を履いて浅い小川に入り、頑丈な三脚を立ててカメラをいじっていた。
蛍の撮影はなかなか難しいが、そういう写真だからこそ燃えていた。
この前プリントした蛍の写真はかなり出来がよかったが、今一つ満足出来なかった。
「今度は月も入れて撮ったろ。その方が神秘的に写るやろ。」
今夜は満月で、夜空は雲一つなく晴れていた。
奥田はこの日の為に用意した新しい広角レンズを装着し、デジタル一眼レフの設定を操作していく。
「俺もとうとうデジカメで撮るようになってしもたか・・・。まあこれも時代やな。」
フィルムの写真にこだわりを持っていたが、半年前に買ったデジタル一眼レフの性能の高さに感心し、今回の撮影はこれで臨もうと決めていた。
慣れないカメラの操作に苦戦しながら、なんとか設定を終えて撮影の準備を整えた。
「今日もようさん蛍が飛んどる。月も綺麗に出てるし、こら絶好のコンディションやな。」
奥田の胸は弾み、カメラにレリーズを付けて腰を落とした。
ファインダーには見事に満月と蛍が収まっていて、ゆっくりとレリーズのシャッターを切った。
夜間の撮影は長時間露光という方法になる。特に蛍のような淡い光を撮る為には、数分間シャッターを開きっぱなしにないといけない。
シャッターボタンをロックし、腕を組んで目の前の蛍を睨んだ。
「ええのが撮れてくれよ。」
アウトドアジャケットから暖かい缶コーヒーを取り出し、ちびちびと飲んでいく。
時計を確認すると撮影から一分が立っていて、経験からいうとあと三分はシャッターを開いておく必要があった。
この時間に次のアングルを考えるのも大事なことで、舞い踊る蛍を見つめながらじっと考え込んだ。
すると暗い木立の中で何かが動き、缶コーヒーを握りしめて注意深く見つめた。
「なんや?鹿でもおるんか?」
木立の中では白い物体がゆらゆらと動き、音も無く移動していく。
「・・・鹿ちゃうな。これはもしかして・・・。」
奥田の頭に浮かんだもの、それはミミズクだった。
この山には今でもミミズクが生息していて、いつか写真に収めてやろうと決めていた。
「ええチャンスが巡ってきたわ。蛍のついでにミミズクも頂きや。」
土手には予備の機材が置かれていて、中型のデジタル一眼に望遠レンズを装着して構えた。
「ええっと、感度設定のボタンは・・・・。」
ISO感度という数字をかなり高めに設定し、暗い場所でも撮影出来るように調整していく。
木立の暗闇の中を撮るのは無理だが、月明かりのある空に飛び出てくれれば、三脚無しでも充分に写すことが出来る。
奥田はカメラを構えたまま元の場所に戻り、じっと木立の中を睨んだ。
白い物体はまだゆらゆらと揺れていて、奥田は望遠レンズを伸ばしてファインダーを覗き込んだ。
「絶対にミミズクやろ。それ以外考えられへん。」
胸は高まり、手動でピントを合わせて白い何かを覗きむ。
ぼやけるファインダーが鮮明に被写体を写しだし、奥田の目に恐ろしいものが飛びこんで来た。
「な、なんやこれは・・・・・。」
ファインダーに写った白い物体の正体。それは人の顔だった。
身体はなく、顔だけが浮かんでゆらゆらと揺れている。
思わず目を離した奥田だったが、恐怖より好奇心が勝って再びファインダーを覗いた。
ゆらゆらと揺れる顔は、音も無く木立の中を飛び回り、その周りを蛍が舞っている。
「これは・・・女か・・・?」
木立に浮かぶ顔は、短い髪をした女だった。その顔は薄く透けて、半透明に白んでいる。
そしてじっとファインダーを覗き込んでいると、ピタリと目が合った。
奥田の鼓動は跳ね上がり、思わずシャッターを押してしまった。
カシャンと機械的な音が響き、その瞬間に女は顔を怒らせた。
「こ、これすごいぞ・・・。ほんまもんの心霊写真やないか・・・・・。」
奥田は興奮を抑え切れず、何度もシャッターを押して行く。蛍を撮りに来たことも忘れ、この世ならざるものに目を奪われていた。
シャッターを切る度に女の怒りは増し、般若のように顔を怒らせて口を開けた。
そして途端に真顔になり、音も無くスーッとこちらに飛んで来た。
さすがに恐怖を覚えてファインダーから目を上げると、女は真顔でこちらを睨んでいた。
それは不出来なパペットアニメのようにぎこちなく、気持ちの悪い動きだった。
「こらまずい!早よ逃げんと・・・。」
蛍を撮る為に設置していたカメラを掴み、一目散に土手に駆け上がった。
そして予備の機材の入ったバッグを素早く肩にかけ、土手の急こう配を走って行く。
「すごい写真が撮れたで!何かの番組に応募したろ!」
恐怖より、喜びと興奮の方が勝っていた。
これはきっと話題になる。テレビ番組に送れば、賞金だって貰えるかもしれない。
そうなれば欲しいカメラも手に入るし、仲間にだって自慢出来る。
奥田は後ろを振り向き、追って来る女の顔を睨んだ。
「鈍間が!追いつけるもんなら追いついてみんかい!」
追って来る女の動きは遅く、奥田は挑発しながら笑いを見せた。
そして土手の入り口に止めてある車に乗り込み、後部座席に機材を放り投げてエンジンを掛けた。
ギアを入れ、サイドブレーキを入れてアクセルを踏み込む。
車は土手の砂利道を走り、国道に出てスピードを上げていった。
「へッ!鈍間が!どんくさいやっちゃ!」
奥田は勝ち誇ったように笑い、ルームミラーを睨んだ。
遥か後方に女の顔が浮かんでいて、ぎこちない動きで追って来る。
「いくら幽霊でも車に敵うかい!振り切ったるわ!」
思い切りアクセルを踏み、女が映るルームミラーに悪態をつく。
しかし奥田は気づいていなかった。遮断機の下りた線路に突っ込もうとしていることを。
ルームミラーに気を取られたまま、さらにアクセルを踏み込んでスピードを上げていく。
そして遮断機の赤ランプと警告音に気づいた時にはもう遅かった。
車は遮断機をへし折って線路に侵入し、走って来た電車と衝突して吹き飛ばされた。
大きなワゴン車だったが、さすがに電車の前では小石のように弾き飛ばされ、原型を留めないほど押し潰されて民家に激突した。
電車は急停車し、運転手が車に駆け寄る。
「大丈夫ですかッ!」
慌てて中を覗き込むと、車と同じように原型を留めていない奥田の姿があった。
ぶつけられた民家から怯えた表情で家人が現れ、電車に乗る客は呆然としてその光景を見つめていた。
ひしゃげたドアからカメラが転がり落ち、車からはゆっくりと赤い血が流れ出ていた。

木立の女霊 第二話 写るはずのないもの

  • 2014.09.14 Sunday
  • 18:20
俊一の友人、四島克博はカメラ店で働いていた。
朝早くに俊一からメールをもらい、今晩飲みに行かないかと誘われていた。
「あいつから誘いをくれるとは珍しいよなあ。まあそんだけ元気になったっちゅうことか。」
仕事が終わるまであと三十分ほど。克博は客の持って来たフィルムをスキャナーにかけ、画面に表示された写真をプリントしていく。
「おお、蛍か。今年初めてやな。」
この時期になると、アマチュアカメラマンがこぞって蛍の写真を持ってくる。
上手なものもあればそうでないものもあり、画面に映される写真は見事なものだった。
「さすが奥田さん。毎年ええ写真撮ってはるわ。」
蛍は撮影が難しいが、奥田という常連は毎年惚れ惚れするような写真を撮ってくる。
克博は明るさと色調を調整し、丁寧にプリントしていく。しかし途中で気になる写真があって手を止めた。
「ん?なんやこれ、光が入ってんのか?」
それは木立の中を飛び回る蛍を写したものだった。
手前に小川を入れ、月明かりに照らされた山の木立に蛍の光線が走っている。
しかし蛍が飛び交うその奥に、うっすらと人の顔らしきものが見えた。
「う〜ん、もしかして多重露光してんのか?」
同じフィルムで続けて写真を撮ると、前に撮った写真の上に新しい写真を写すことが出来る。
奥田の使用しているカメラはマニュアル式の二眼レフであり、フィルムの巻き上げを忘れるとこういう具合に写ることがあった。
そのことを知っている克博は、大して気にもとめずにプリントを続けていった。
それから十分後、仕上がった写真をチェックすると、やはり人の顔が写っていた。薄っすらと、そして透き通るように。
チェックを終えた写真を袋に入れ、カウンターに向かって客の名前を呼んだ。
「奥田さ〜ん!仕上がりました。」
カメラのカタログを見ていた奥田は、それを戻して手を挙げた。
「相変わらず仕上がりが早いな。」
「今日は空いてますからね。」
笑顔で応対し、袋を開けて出来あがったばかりの写真をカウンターに並べて行く。
「今年もええ写真撮ってはりますね。」
「そうか?俺はこれがお気に入りなんやけどなあ。」
克博は客の言葉にうなずき、笑顔を崩さずに応対を続ける。
馴染みの客といえど油断は禁物で、気を抜けば一瞬で機嫌が悪くなることがある。
しかしあまりにおべっかを使ってもかえって嫌がられるので、上手い具合にバランスを取りながら奥田の写真を褒めていった。
「上手い具合に焼いてくれてるなあ。」
「いや、元々の写真がええからですよ。それよりちょっとこの写真なんですけど・・・。」
克博はカウンターに並べた写真の一枚を指差した。
「これ、もしかしたら多重露光になってるんちゃうか思ってね。」
「多重露光?そんなんしてへんで。」
「・・・ここの木立のとこにですね、薄っすらと人の顔があるから、もしかしたらと思ってね。」
「人の顔?どれや?」
奥田は克博が指差した写真をじっと覗き込む。そして木立に浮かぶ顔を見て首を捻った。
「・・・ほんまやな。間違えて多重露光したんかな?」
「このフィルムで人とか撮りましたか?」
「いいや、俺は風景しか撮らんからな。でも確かに人の顔が写っとるな。」
奥田は不思議そうに何度も首を傾げ、難しい顔で写真を睨んでいる。
「・・・まさかお化けやったりしてな。」
茶化すようにそう言って、ポンと写真を叩いた。
「まあええわ。他のはよう撮れてるからな。ほなお会計してくれるか?」
「はい。ええっと、2L判が十二枚ですから・・・・・、」
会計を済まして写真を渡し、頭を下げて奥田を見送った。
顔を上げて時計を見ると、もう閉店の五分前になっていた。
「もうそろそろ閉めに入ろか。」
アルバイトに指示を出して閉店の準備を進め、仕事を終えて事務所で一服する。
「今日は暇すぎやったな。逆に疲れたわ・・・。」
タバコを吹かしながら首を回し、挨拶をして帰って行くアルバイトに手を振った。
冷蔵庫からお茶を取り出し、キャップを開けながらケータイを確認した。
《仕事終わったか?9時に黒木屋に集合にしようと思ってんねんけどええか?》
タバコを消し、ペットボトルのお茶に口をつけながら返信した。
《了解。ちょっと遅れるかもしれへんけどな。》
するとすぐにメールが返って来た。
《朱里も一緒なんやけどええかな?こっちに帰って来てるから誘ったんやけど。》
朱里とは誰のことかと考えたが、パッと思い出して返信した。
《希美ちゃんの妹やな、かまへんよ。》
《ほな黒木屋で待ってるわ。早く来いよ。》
ケータイを机の上に投げ出し、もう一度首をまわして時計を睨んだ。
「8時30分か。もう一服してから行こか・・・。」
新しいタバコに火を点け、天井に向かって煙を吐き出す。
どうということのない一日だったが、なぜかあの写真が頭から離れなかった。
「あの木立に浮かぶ顔・・・多重露光しか考えられへんけど・・・。」
写真に詳しい克博は知っていた。心霊写真など存在しないということを。
写真というのはいくらでも加工のできる物なので、幽霊が写っているように見せかけることなど造作もない。
それはフィルムの写真でも充分に可能であるし、ましてやデジタルカメラの時代とあっては誰でも簡単に出来ることだった。
心霊写真は人の作り物であるというのは、写真に詳しい人間なら誰でも知っている。
しかし、どうしてもあの写真が頭から離れなかった。
「まさか本物の幽霊っちゅうことは無いやろうし・・・。」
しばらく考え込んでいると、時計は9時前を指していた。
「ああ、こらヤバイ。早よ行かんと。」
慌てて立ち上がり、店の電気を消して鍵をかけた。
いつものように車に乗り込もうとするが、酒を飲みに行くことを思い出して鍵をしまう。
徒歩では少し距離があるが、散歩がてらに歩いて行った。


            *


「おう、こっちこっち!」
黒木屋に到着すると、奥の座席で俊一が手を振っていた。
克博は小走りに駆け寄り、靴を脱ぎながら謝った。
「すまん、遅うなってもて。」
「なんや、残業か?」
「いや、ちょっと考え事をな・・・。」
そう言って座ると、目の前にむっつりした表情の女が肘をついていた。
「ああ、ええっと・・・希美ちゃんの妹さんやんね?」
ニコリと笑いかけると、目だけを向けて小さく頷いた。
「俺のこと覚えてる?確か何度か会ってるんやけど。」
「知ってるで。うちの姉ちゃんにフラれた一人やもんな。」
「嫌な覚え方しとるな・・・。」
克博は困ったように笑い、胡坐を掻いて注文ボタンを押した。
やって来た店員にビールと唐揚げを頼み、ついでにビビンバも頼んだ。
「唐揚げあるのに。」
朱里は肘をつきながら食べかけの唐揚げを指さす。
「それちょっと齧ってるやん・・・。出来たら新しいのがええな。」
「細かいこと気にするんやな。姉ちゃんにフラれるわけや。」
「ははは・・・なんか・・・キツイな君。」
俊一はビールを飲みながら笑い、克博の肩を叩いた。
「悪気はないねん。昔っからこういう奴でな。」
「そうそう。あたし姉ちゃんと正反対やねん。顔と性格が。」
満面の笑みで言う朱里に、どう言葉を返していいのか分からない克博だった。
「まあまあ、すぐ慣れるから。あんまり気にせんとき。」
「そ、そうか・・・。まあよろしく。」
注文したビールが運ばれてきて、三人は改めて乾杯をした。
酒の入った克博は饒舌になり、すぐに朱里と打ち解けていった。
ワイワイと談笑を楽しみ、朱里がふざけて齧りかけの唐揚げを食べさした。
「お前ら仲ええやん。付き合えや。」
「そうやな。俺いま彼女おらんし、どう?」
「セックスだけやったらええで。でも恋愛は勘弁。この前彼氏と別れたばっかりやから。」
恥じらいもなく言い切る朱里に、克博は好意を抱き始めていた。
『女は顔じゃなくて性格や』
これは克博の揺るがぬ信念であり、希美に惚れたのも美人だからではなかった。
大人しくも優しい彼女の性格に惚れ、愛を告白して撃沈したのだった。
そして朱里の竹を割ったようなスッキリした性格は、充分に恋愛対象になるものだった。
「なあ、あとでメルアド交換しよか。」
「ええけどセックスだけな。愛だの恋だのは無しやで。」
「こんなとこでセックス連呼すんな。」
俊一はデコピンをかまし、朱里はむっつりと頬を膨らませてビビンバを掻き混ぜた。
「ほんまおもろい子やな。こんな女の子が傍におったら元気出るわ。」
「でもラーメン奢らされるで。高いやつ三杯も。」
克博は酒を飲みながら笑い、箸で唐揚げを突きながら言った。
「そういや今日変わった写真があってな。」
「変わった写真?」
「蛍の写真なんやけど、ちょっと気になるもんが写ってたんや。」
「なんやねん、気になるもんて?」
克博は唐揚げに箸を突き刺し、ビールを飲んで言いづらそうにする。
「あたしも気になるわ。何が写ってたん?」
朱里が興味深そうに身を乗り出すと、克博はニコリと笑って言った。
「幽霊や。」
「・・・幽霊?」
「そや、蛍が飛び交う木立の中に、薄っすらと人の顔が写ってたんや。」
顔を近づけながら言うと、朱里は怯えた表情で目を逸らした。
「なんや、お前怖がってんのか?」
俊一がからかうと、朱里はチビチビと酒を舐めながら肩を震わせた。
「あたし・・・こういうの苦手やねん。苦手やねんけど・・・もっと聞かせて。」
「怖いんやったら聞くなや。」
「怖いから聞きたいんやんか。辛いもん食べたいのと一緒や。」
目をキラキラとさせる朱里に見つめられ、克博は腕を組んで頷いた。
「あれは間違いなく人の顔やった。でも・・・本物の人間やったらもっとはっきり写ってると思う。」
「・・・てことは、やっぱり幽霊?」
「そやなあ・・・。写真なんていくらでも加工出来るから、心霊写真なんてほとんど偽物なんやけど・・・。でもあの写真は本物の幽霊っぽかったなあ。」
「本物の幽霊っぽいって・・・お前見たことあんのか?」
「いや、無いけどさ。でも何となく分かるやん。あ、これ本物やって。」
「分かるかそんなもん。本物見てないのに、なんで本物って分かるねん。」
俊一はこの手の話が嫌いだった。
幽霊だの前世だの、オカルトにはまる人間の気がしれなかった。
しかしそうなると、蛍の光に人の魂を感じた自分は、オカルトにはまって無いと言えるのか?
あの光は確かに人の魂を連想させ、死者の浮遊会のようにさえ思えた。
「あたしは信じるで・・・。それ絶対に自縛霊やわ・・・。」
「昔にそこで死んだ人とか?」
「そうや、きっと成仏出来へん理由があんねん。幽霊って、何かを使えたくて現れるっていうやん。」
「何かをなあ・・・。パソコンのエロい画像消しといてくれとか?」
「・・・理由としてはアリやな。あたしやったら、昔の男の写真燃やしといてくれって言うわ。」
それだったら死ぬ前に燃やしておけと言いたくなる俊一だったが、盛り上がる二人の邪魔をするのは悪いと思って黙っていた。
《こいつら意外と気が合うやんか。ほんまに付き合ったらええのに・・・。》
朱里がぐちゃぐちゃに掻き混ぜたビビンバを食べながら、楽しそうに笑う二人を見つめた。
《希美・・・俺も、またお前と笑い合いたいな・・・・。》
それが叶わぬことだと知っていても、どうしてもそう願ってしまう。
希美がいるのが当たり前で、一年経った今でも彼女の影を追ってしまう自分が情けなかった。
「どうしたん?暗い顔して。」
朱里が割り箸で頬を突き、下から顔を覗き込んでくる。
「何でもない。何でもないよ・・・・・。」
「どうせ姉ちゃんのこと考えてたんやろ?」
「いいや・・・・。」
「顔に書いてあるで。希美に会いたい、希美〜って。」
「・・・お前は会いたくないんか?姉ちゃんやのに。」
「だってもう死んでしもたんやから会われへんやん。仕方ないやん。」
「幽霊の話しとるくせに、えらいまともな意見やな。」
「ソレはソレ。コレはコレや。」
朱里は平然とした顔でチューハイを呷る。
克博は真剣な顔でビビンバをすくい、口に運んで美味そうに頬張った。
「朱里ちゃんの掻き混ぜたビビンバ美味いわ。」
「は?アホとちゃう?誰が掻き混ぜても一緒やし。」
「いいや、朱里ちゃんが混ぜると美味い。な、俊一?」
「・・・余計不味くなるわ・・・。」
場を和ませる為に言った克博の言葉はあっさりと流され、俊一の暗い顔が三人の会話を途切らせた。
しばらく沈黙が続き、克博は店員を呼んでビールを追加した。
「他なんかいるか?」
「いらん・・・。」
「あ!あたしミニラーメン!」
店員が去ったあとも俊一は黙ったままで、克博はドンと肘で突いた。
「ええ加減暗い顔やめえ。せっかく楽しく飲んでんねんから。」
「・・・そやな、すまん。」
「話題変えよか?前世の話とか。」
「またオカルトやん。」
「う〜ん、じゃあ何がええ?朱里ちゃんは何の話したい?」
「セックス。」
「それは話し合うもんじゃなくてヤルもんやから・・・。」
また沈黙が続き、俊一は運ばれてきたラーメンをすすった。
「それあたしのやん!」
「夕方に三杯も食べたやろ。どんだけ食うたら気がすむねん。」
朱里はむっつりと頬を膨らませ、また店員を呼んでラーメンを注文していた。
「ああ、そういやお前、今日の話やけど・・・、」
「今日の話?」
「そや、誰かに見られてるとかいうやつ。」
「ああ、誰かの視線を感じるって話のこと?」
俊一はラーメンをすすりながら頷き、克博はタバコに火を点けて首を傾げた。
「何の話?」
「いや、こいつがな、誰かの視線を感じる言うねん。」
「ほう・・・誰かの視線なあ・・・。いつから?」
「二週間くらい前から。」
「誰かにつけられてるとかちゃうの?」
「分からへん・・・。でもこっちに帰って来てからはまだ感じてないけど・・・。」
「こっちに帰る?」
「ああ、コイツ普段は東京に住んでんねん。」
俊一はあっと言う間にミニラーメンを平らげ、腹をさすって壁にもたれた。
「でもちょっと心配やな。ただの勘違いとかやったらええけど、ほんまにストーカーやったらまずいよな?お前なんか身に覚えないの?」
「例えば?」
「ボロカスに男を捨てたとか。」
「たまにあるな。でもそれは向こうが悪いからやし、東京に行ってからはそんなことしてへんし・・・。なあ、やっぱりストーカーやと思う?」
朱里は初めて心配そうな顔を見せた。それは本気で怖がっている顔で、俊一は頭を撫でて笑いかけた。
「大丈夫や、心配すんな。俺が守ったる。」
「ほんまに?」
「ほんまや。お前は妹みたいなもんやからな。妹を守るのは兄貴の役目や。」
朱里は安心したように頷き、運ばれて来たラーメンをズズっとすすった。
「俺も守ったるよ。」
克博は真剣な顔で言い、テーブルに肘をついて身を乗り出した。
「俺が朱里ちゃんのこと守ったる!だから心配せんでええ。」
「あのな、何回も言うけどセックス以上のことはお断りやから。」
それからしばらく他愛の無い話を続け、克博と朱里は連絡先を交換していた。
《こいつらほんまに付き合うかもな・・・。》
一見軽い女に見えるが、朱里は気に食わない男とは絶対に喋らない。
ましてや連絡先を交換するなど、もっと有り得ない。
短時間でここまで打ち解けるのは、それだけ克博に好感を持っているということだった。
店を出ると湿った風が吹きつけ、空は雲に覆われて真っ暗だった。
「オトンがもうすぐ迎えに来るはずやけど、あんたも一緒に乗って行く?」
「ええの?」
克博は嬉しそうに頷き、また二人の談笑が始まる。
俊一は雲で覆われた夜空を見上げ、また希美の影を追って蛍の光を思い出していた。


            *


翌日、仕事に出掛けようと靴を履いている俊一の元に、克博からメールが送られて来た。
『また心霊写真が来た。昨日とおんなじように木立の間に写っとる。
ちなみに別の人の写真やで。これってほんまに本物の幽霊かな?』
メールを返そうとする俊一だったが、ケータイの時刻は12時43分を指している。
遅番の今日は午後1時までに入らねばならず、とりあえず玄関を出て車に乗り込んだ。
『すまん。今忙しいからまたメールするわ』
素早くメールを返し、仕事場に向かう。制服に着替えてエプロンを巻き、忙しい厨房に立って仕事をこなしていった。
昨日の酒が残っているせいか手元が狂い、魚を変な形に切ってしまって先輩にどやされた。
そして休憩時間に朝のメールを打ち返した。
『心霊写真ってそうそうあるもんなんか?何かの見間違えちゃうか?』
そう送ってタバコを吹かしていると、しばらくしてからメールが返ってきた。
『いいや、絶対に人の顔や。俺かて素人とちゃうから、写ってるもんの区別くらい出来るわ。昨日とおんなじように、蛍の飛ぶ木立の間に写っとる。』
俊一はそれを読んでしばらく考え込み、またメールを返した。
『なあ、その蛍ってどこで撮ったやつなん?』
そう送って返信を待つが、休憩時間が終わっても返ってこなかった。
「仕事中なんかな?そのうち返ってくるか。」
椅子から立ち上がって大きく背伸びをし、肩を回して仕事に戻っていく。
酒が抜けて手元の狂いもなくなり、忙しいディナーの時間帯も無事切り抜けることが出来た。
そして仕事を終えて同僚達と談笑し、私服に着替えてタバコに火を点けた。
すると突然事務所のドアが開かれ、オーナーが切羽詰まった表情で私物を取りに来た。
「どうかしたんですか?」
俊一が声をかけると、オーナーは顔面蒼白で唇を震わせながら言った。
「朱里が刺された。」
「刺された?」
「さっき警察から電話があったんや。コンビニから出て来た所を、待ち伏せしてた男に刺されたって。」
事務所の空気が凍りつき、俊一はタバコを消して詰め寄った。
「朱里は大丈夫なんですか?」
「今病院に運ばれとるそうや。幸い命に別条は無いそうやが・・・、とりあえず病院に行ってくるわ。」
オーナーは慌てて駆け出して行き、俊一も鞄を掴んでそれを追いかけた。
「待って下さい!僕も行きます!」
「あ、ああ・・・そうか・・・。ほな隣に乗れ!」
大きなSUV車のドアを開け、素早く乗り込む。オーナーはエンジンを掛け、アクセルを踏んで走り出した。
「どこの病院ですか?」
「広鉄中央病院や言うてたけど・・・。ナビで出るかな?」
「場所知ってるさかい案内しますよ!」
「そうか、ほな頼むわ。」
オーナーは平静を失ってハンドルを切り損ね、歩道のブロックに乗り上げた。
「か、代わりますよ、運転。」
「・・・ああ、すまん・・・・・。」
車から降りて席を代わり、後ろへ引いてブロックから降りた。
そして誰も走っていない田舎の国道を飛ばし、信号を曲がって病院を目指した。
《朱里・・・今行ったるからな!》
俊一は前を見据えてハンドルを握り、オーナーは助手席で頭を抱えていた。
それを横目で見ていると、ぎゅっと胸が締めつけられた。
《去年希美があんなことになって、今年は朱里が・・・。》
娘が二人も不幸に巻き込まれたオーナーのことを考えると、掛ける言葉が何も見つからなかった。
《朱里は誰かに見られてる感じがするって言うてたけど、それと関係があんのか?》
頭の中に様々な考えが浮かび、鼓動が速くなっていく。
時刻は夜の十時半。地方都市は眠りに就く時間で、街の灯りはほとんど消えている。
辺りはコンビニやスーパーの灯りしかなく、所々に民家の光が灯っているだけだった。
それらの灯りを眺めていると、ふとある感覚に襲われた。
《ん?なんや・・・。今、確かに蛍の光が・・・。》
流れて行く街の灯りの中に、確かに蛍の光があった。
いや、正確には連想していた。俊一の頭の中に、この前見た蛍の光が思い浮かんでいた。
それは写真のように鮮明で、そして木立のざわめきまで聞こえるほど生々しく・・・。
俊一は少し車のスピードを落とし、息を吐いて気持ちを落ち着かせた。
「どうした?早よ行かんと朱里が・・・。」
「ああ、すいません。ちょっと気が動転してもて・・・。」
「・・・そやな。俊君にとっても、朱里は家族みたいなもんやもんな・・・。」
オーナーの目に薄っすらと涙が浮かび、俊一はいたたまれない気持ちになって唾を飲んだ。
もう一度大きく息を吐き、なんとか気持ちを落ち着かせた。
しかし頭に浮かぶ蛍の光はより鮮明さを増し、痛みさえ伴って思考を揺さぶってくる。
必死にハンドルを握り、平静を装って歯を食いしばっていると、恐るべきものが見えた。
それは木立の中に浮かぶ人の顔だった。
薄っすらと、そして透けるような顔でこちらを睨んでいる。
木立に浮かぶその顔は、だんだんとこちらに近づいてくる。
暗い山の木々の中から歩きだし、小川の水面を歩いて土手を上って来る。
それは女だった。色白の肌、そしてクリーム色のワンピースを着た髪の短い女だった。
女は目の前に迫り、美しい顔を笑わせて何かを呟く。
俊一は恐怖に固まり、ハンドルを握ったまま赤信号に向かっていく。
「お、おい・・・俊一君・・・?」
「・・・・・・・・・・。」
女が目の前で呟く言葉。それは俊一の心を乱した。
《・・・会いたい?・・・ねえ、会いたい?・・・希美ちゃんに・・・・・。》
恐怖と女の言葉に混乱し、気がつけばアクセルを踏み込んでいた。
俊一の駆る車は赤信号に向かってスピードを増す。オーナーは慌ててサイドブレーキを握り、力いっぱい引いた。
車は信号の手前で止まり、交差点を大型トラックが駆け抜けていく。
「俊一君!大丈夫かッ?」
放心状態になって震える俊一を見つめ、オーナーは肩を掴んで揺らした。
「運転代わろう・・・。おっちゃんはもう大丈夫やから、な?」
俊一は何も答えず、頭に浮かぶ女の顔を見つめていた。
彼女は手を振り、幽霊のようにスッと木立の中へと消えていった・・・。

木立の女霊 第一話 木陰の視線

  • 2014.09.13 Saturday
  • 18:47
蛍が舞っている。
初夏の星空の下を、ゆらゆらと踊るように舞っている。
月明かりが川面を青く光らせ、茂る草にポツポツと光が灯っている。
「綺麗やな・・・。」
周りには誰もいない。先ほどまではまばらに人がいたが、さすがに夜中の一時ともなれば皆帰っていく。
無礼な輩はおかまいなしに懐中電灯を照らし、蛍の光をあっさりと掻き消してしまう。
そういう厄介なのがいなくなって、蛍は存分にその光を輝かせている。
澄んだ小川、鬱蒼と茂る青い草。
そしてその後ろには鹿やキツネが多く住みつく原生の山。
まったく人の手が入っていないわけではないが、それでもほぼ手つかずの自然が残っている。
蛍は揺れる。草から飛び上がり、青い川面の上を踊りまわる。
「ずっと見てられるなあ・・・。」
美坂俊一は蛍の光が好きだった。
闇に舞う蛍の光は、どの芸術品よりも美しく、どの音楽よりも幻想的に感じられた。
それはまるで、生きた宝石のように綺麗で、そして死者の魂のように儚い光だった。
『この世ならざるもの』
俊一は熱心な宗教信者ではないが、蛍の光は死者の魂のように思えて仕方なかった。
「今年もお前と一緒に蛍が見れると思ってたのになあ・・・。」
蛍の光は死者の魂。俊一がそう思うには理由があった。
今から一年前、親友が事故で死んだ。
小学生の時から大学を卒業するまで、その親友はいつでも傍にいた。
同じ大学に通い、同じサークルに入り、ほとんど家族のような存在だった。
「なんで希美が死ななあかんねん・・・。なんで運転した奴が生き残ってんねん・・・。」
親友の鈴名希美が死んだのは、信号を無視した車が歩道に突っ込んで来たせいだった。
運転していた人間は、救急車を呼ぶこともなくそのまま走り去った。
「即死やったから、救急車が来ても意味ないけど・・・。でも・・・許せんわ・・・。」
足元に一匹の蛍が舞い降り、俊一はそっと手で包んだ。
「ただの虫やな、近くで見ると・・・。」
宙に向かって放ると、蛍は羽を開いて川面に飛んでいく。
そして山の木立の中を舞い、それを追うように数匹の蛍が木立をぬっていく。
「死んだらええねん・・・。希美を撥ねた奴・・・。ほんまに死んだらええねん・・・。」
希美を撥ねた犯人はまだ捕まっていない。
大切な親友を殺しておいて、何の罰も受けずにのうのうと暮らしているかと思うと、その犯人に対して殺意が芽生えてきた。
《自分に負けたらあかん。怒りとか憎しみに負けるってことは、自分に負けてるんや。》
不意に親友の言葉を思い出し、目頭が熱くなる。
もし希美がここにいたら、きっとそう言うだろう。
小学生のころからの口癖で、何度もこの言葉に励まされてきた。
「分かってんねん・・・お前の言う通りや。でもな、そない簡単に割り切れるかい。お前かて、立場が逆やったら悲しむやろ?こういうのは理屈とちゃうんや・・・。」
俊一は木立の中の蛍を見つめる。まるでそこに希美の魂がいるように・・・・・。
一瞬風が吹き、山の木々が暗闇の中で揺れた。
ざわざわと葉音が聞こえ、小さく鳴いていたミミズクがどこかへ飛び出していく。
「ホー、ホー、ってな、ミミズクの声は。あいつらは夜目が利くけど、どんな具合に蛍が見えてんのやろなあ・・・。」
それから一時間ほど蛍を眺めていると、アマチュアカメラマンが三脚を担いでやって来た。
小川沿いの土手を注意深く下り、長靴を履いた足で水の中に入っていく。
「毎年蛍を撮りに来る人がおるな。じっと水の中に立って、えらいもんやな・・・。」
俊一はポケットに手を突っ込み、土手を歩いて行く。
「また来年、また来年来るわ。その時は、俺もカメラ持って来よかな。」
月明かりに照らされた土手の道を歩き、車を止めているコンビニまで向かう。
俊一は一度だけ振り返り、夜の闇を舞う蛍を見つめた。
目に刻むように、そして頭の中に写真を撮るように、しっかりと見つめた。
「・・・・・また来年な。」
コンビニまで歩き、最近買い換えた新車に乗って帰っていく。
夜の国道はほとんど車が走っておらず、いつもより飛ばしながら青い信号を曲がっていった。
しかし俊一は知らない。
木立の中から彼を覗く者がいたことを。
じっと息を潜め、木陰から彼を見つめている者がいたことを・・・・・。
『蛍の光は死者の魂』
月夜の木陰に潜む光は、この世ならざるもの。それはまさに『死者の魂』であった。
俊一は知らない。木立の中に死者がいたことを。恐ろしい視線を向けられていたことを。
そして、その者に目をつけられていることを・・・。


            *


「姉ちゃん、どんだけあの人の写真撮ってんねん・・・。」
鈴名朱里は姉のアルバムを捲っていた。
連休を利用して東京から関西の実家に帰り、一年前に亡くなった姉の部屋に籠っていた。
両親は姉の思い出を残しておく為に部屋をそのままにしていて、本棚や押入れには大量のアルバムが眠っていた。
朱里は暇つぶしにと姉の部屋を漁り、あぐらを掻いてせんべいを齧りながらアルバムを眺めていた。
「どれもこれもアイツの写真ばっかりやな。ここまで好きなんやったら、何で付き合わへんかってん。奥手にも程があるやろ・・・。」
ため息交じりにせんべいを齧り、床に落ちたカスをパッパと手で払っていく。
アルバムは捲れど捲れど同じ男の写真ばかりで、いい加減うんざりしてきてパタンと閉じた。
「生きてる時から面白味の無い人やったけど、死んでからもつまらん人やわ・・・。あの人、あの世でもほとんど友達おらんのとちゃう?」
朱里は閉じたアルバムを足で押しのけ、大の字になって寝転んだ。
「一年経っても部屋は綺麗なままや。オカン、こまめに掃除しとんやな・・・。」
床の染みをガリガリと爪で削り、つまらなさそうに息を吐く。
せっかく帰郷したのに友達は誰もつかまらず、一人退屈な休日を過ごすことになってしまった。
いい暇つぶしになると思った姉の部屋は、何の面白味もなくて五分足らずで飽きてしまった。
「暇や・・・何の為の休日やろ。これやったら向こうにおった方がマシやった・・・。」
今さら帰郷したことを後悔し、だからと言って今さら東京に戻るのも面倒くさい。
せっかく溜まった有給を消化しているのだから、何か特別なことをしないと。
そう思ったが、楽しそうなことは何も思いつかず、だんだんとウトウトとしてきて目を閉じた。
「オトンもオカンも、なんで姉ちゃんのことあんなに可愛がってたんやろなあ・・・。
あたしは・・・あの人のこと嫌いや。せっかく美人やのに、それを活かそうとせえへんなんて。」
姉の希美はとにかく美人であった。柔らかい栗色の髪に、ハーフと間違われるような白い肌と、女優のように整った顔立ちをしていた。
何年か前に東京に遊びに来た時、一緒に街を歩いていると、芸能事務所の人間から声をかけられたほどだった。
朱里はそんな姉の美貌が羨ましかったが、彼女の性格だけは嫌いだった。
「あんなに美人なんやから、もっと自信持ったらええのに・・・。不細工な私でも、ちゃんと自信持って生きてんねんから・・・。」
希美はとにかく引っ込み思案だった。
人と喋るのが苦手で、友達も少なく、恋人さえいなかった。そしていつでもあの男の傍にくっついているのだ。
その美貌のおかげで何人もの良い男に迫られたのに、態度がハッキリしないもんだから他のブスな女に取られていた。
「腹立つわ、姉ちゃん。私が死ぬほど欲しいもん持ってるクセに、なんでもっと人生楽しまへんかったん?まだ二十七やってんで?しかも処女やってんで?
何が悲しいてあの世に逝ってしまいよってん・・・。」
いくら嫌いと思っても、やはり身内が亡くなったことは悲しかった。
不意に蘇った幼い日の記憶が、朱里の目尻を濡らしていく。
「あかん!やめや、やめや!なんであの人の為に泣かなアカンねん。せっかくの休日がしみったれてしまう。」
眠い目をこすって身体を起こし、床に放り投げていたケータイを拾った。
「気が乗らんけど、誰か男友達でも捕まえよか。ヤラセたる言うたら遊んでくれるやろ。」
退屈な姉の部屋を後にし、セックスを餌に男友達を遊びに誘う。
メールを送った男友達はあっさりと誘いに乗り、少々うんざりしながらシャワーを浴びにいった。
そしてジーパンにTシャツ、ホームセンターの安物の靴を履いて出掛けて行った。


            *


俊一は仕事用の制服から私服に着替え、裏口のドアを開けて外に出た。
「ほな、お先に失礼します。」
「おう、今日は早番やったか。お疲れさん。」
通りかかったオーナーに頭を下げ、駐車場に向かって車に乗り込んだ。
『レストラン喫茶 うみねこ』
座席にもたれてタバコに火を点け、店の看板を見上げた。
「ここに転職して半年か・・・。よう続いたな、俺。」
窓を開けて煙を吐き出し、半年前にここへ来た時のことを思い出していた。
希美が死んだせいで鬱状態となっていた俊一は、当時やっていた仕事を休職していた。
しかしある日突然電話がかかってきて、解雇を言い渡された。
一年の休職のはずが、わずか二カ月足らずでクビになってしまった。
そのこと自体はどうでもよかったのだが、それを憐れに思ったここのオーナーが声を掛けてくれたのだった。
『うちで働かへんか?大した給料は出されへんけど。』
笑いながらそう言ったオーナーは、希美の父であった。
昔からずっと可愛がってくれていた希美の父は、死人のように気力を失くした俊一を放っておくことが出来なかった。
『元気になってからでええから、うちに来い。』
俊一はその言葉に甘え、徐々に元気を取り戻してからここで働くことになった。
「料理のことなんてまったく知らんのに、どうにかなるもんや。」
感慨深く呟いてエンジンを掛け、タバコを灰皿に押し付けて車を出した。
そして大きな通りを走って家に帰る途中、よく知る顔を見かけた。
車を脇に止めてクラクションを鳴らし、窓を開けて手を振った。
「おい!朱里!」
歩道を歩いていた女は名前を呼ばれて振り返り、俊一を見つけて顔をしかめた。
「ははは、そんなに嫌そうな顔すんなや。」
「別に嫌な顔なんかしてへん。ウザッって思っただけや。」
「おんなじやんか。まあええわ、久しぶりやし飯でも食べに行かんか?奢ったるで。」
「マジ?」
朱里は頭を掻き、腕を組んで考え込んだ。
飯を奢ってくれるというのなら、わざわざセックスで釣った男と遊ばなくてもいいかもしれない。
朱里は組んでいた腕をほどいて、俊一の車に駆け寄った。
「別に付き合ってもええけど、安い店は勘弁な。」
「なんや、東京におったら舌が肥えたんか?」
「べつにそういうわけとちゃうけど、でも今日はファミレスだのハンバーガーだのはあんまり食べたい気分じゃないねん。」
「かまへんで。久しぶりやから何でも奢ったる。まあ俺の財布の許す範囲でやけどな。」
それを聞いた朱里はニコリと笑い、助手席のドアを開けて素早く乗り込んだ。
「あたし、ラーメンがええな。」
「なんや、安い食べもんは嫌や言うたんちゃうんか?」
「だから安くないラーメンや。本骨ラーメンの特盛りチャーシューな。」
「・・・太るで、お前。」
俊一は笑いながら車を出し、朱里は遊ぶはずだった男に適当なメールを打って断った。
「こっちに帰って来てたんやな。」
「うん、昨日な。」
「連絡くらいくれたらええのに。」
「なんであんたに連絡あげなアカンの?彼氏でも友達でもないのに。」
「そやな、でも妹みないなもんや。」
「キショいわ、それ。」
俊一は嬉しかった。朱里と会ったのは希美の法事以来で、最近は連絡も寄こさないのでどうしたのかと心配になっていた。
「東京はどうや?仕事は順調か?」
「まあまあやな・・・。」
「お前がそういう返事をする時は、だいたい上手くいってへん時や。何かあったんか?」
「別に・・・。あ、でも・・・、」
「でも?」
「・・・やっぱええわ。」
「なんやそれ?」
声を出して笑い、信号が赤に変わって車を止めた。
俊一はじっと朱里を見つめ、彼女の顔を覗き込んだ。
「・・・お前、もしかして泣いてんのか?」
「・・・・・・・・。」
朱里は赤くなった目をこすって鼻をすすっていた。俊一に会ったことで、また幼い頃の記憶が蘇ってきた。
姉の為に泣くなどゴメンだと思っていたのに、涙はどうしようもなく溢れてくる。
「なんかあったか?俺でよかったら言うてみい。」
俊一は心配そうに顔を覗き込むが、朱里は目を拭って首を振った。
「・・・姉ちゃんのアルバムを見ててん・・・。」
「希美のアルバムを・・・?」
「・・・暇やったから、ちょっとの間パラパラ見てたんや・・・。そしたら、あの人のアルバム・・・あんたの写真ばっかりや・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
信号が青に変わり、車はゆっくりと滑り出していく。俊一は少しだけ窓を開け、前を向いたまま尋ねた。
「そのアルバム・・・俺ばっかりやったんか?」
「そう言うてるやん・・・。」
「全部見たんか、アルバム?」
「いいや、途中で止めた・・・。でも、絶対他のアルバムもおんなじ写真ばっかりやと思う。」
「・・・そうか・・・。」
俊一の胸がざわざわと疼き出す。それを誤魔化す為にタバコを咥えた。
すると朱里はそのタバコを奪い、火を点けて美味そうに吹かした。
「お前、タバコ吸うんやな。」
「・・・ちょっと気持ちが落ち着かへん時にな・・・。でもあんたのこれキツイわ・・・・・。」
朱里は顔をしかめてタバコを吸い、窓の外を見つめながら言った。
「なあ、やっぱ聞いてもええ?」
「ん?なんや?」
「あのな・・・・、」
朱里はゆっくりと煙を吐きながら俊一を見つめた。
「あんた、何で姉ちゃんと付き合わへんかったん?」
「なんやねん、いきなり。」
俊一は笑って朱里を見るが、彼女の目は真剣だった。
「だっておかしいやん。ずっと昔から一緒におって、気持ち悪いくらいベッタリくっついていたやん?
それやったら姉ちゃんの気持ち知ってたはずやろ?なんで付き合わへんかったん?」
「・・・・・・・・・。」
再び赤信号で止まり、朱里は灰皿にタバコを押し付ける。
「あんたかて、姉ちゃんが死んだ時ごっつう泣いてたやん。しかも鬱病みたいになって引きこもってさ。それやったら、あんたかて姉ちゃんのこと好きやったんやろ?
なんで言わへんかったん?姉ちゃんあんな性格やから、自分からはよう言わんって分かってるやんか。それやったら、あんたから好きやって言うたったらよかったやん。」
「・・・・・・・・・・。」
目の前の横断歩道を、犬を連れたばあさんが歩いて行く。犬は一瞬だけこちらを見て尻尾を振り、リードを引かれて去っていく。
俊一は何も答えないまま、青になった信号を走り出した。
「なんか言うたら?」
「・・・何を言うねん?」
「知らんがな。聞いてんのあたしやし。」
「・・・そやな。」
遠くの方にラーメン屋の大きな看板が見えて、俊一はぼそりと呟く。
「本骨ラーメンや。久しぶりに来たな。」
「ちょっと、質問に答えてえや。」
俊一はハンドルを切ってラーメン屋の駐車場に入り、エンジンを切って項垂れた。
「どうしたん?これ、聞かん方がよかった?」
「いいや、そういうわけとちゃうけど・・・。でも何て言うか、好きやからこそ付き合えへんってあるやんか・・・。」
「・・・そういうもん?」
「あいつは・・・俺の親友であり、家族なんや。だから大事にしとったし、いっつも一緒におった。でも・・・だからこそ女としては見られへん。
もし付き合うことになったら、多分今までの関係は壊れる。そう思ったから・・・。」
「でもあの人二十七で死んでしもたんやで。しかも処女や。一回くらい抱いたったらよかったやん。」
「そういうもんとちゃうねん。あいつは・・・俺の分身ちゅうか、二人で一つみたいに思ってたから・・・。そういうもんとちゃうねん・・・。」
「ごめん、聞かん方がよかったな・・・。」
俊一はハンドルを握ったまま項垂れ、朱里は腕を組んで宙を睨んでいた。
「ラーメン・・・食べよか?」
「そやな。あたし二杯食べるけど、ええよな?」
俊一は俯いたまま小さく笑い、朱里をじっと睨んだ。
「何よ?」
「いや、お前は能天気でええなと。」
「・・・ラーメン三杯な。あとギョーザとチャーハンも。」
朱里はその言葉通り、本当にラーメン三杯を平らげた。もちろんギョーザとチャーハンも。
妊婦のように大きくなった腹を撫で、店から出てからさらにジュースを買っていた。
「お前ほんまに太るぞ。」
「ええやん、体形気にして美味いもん我慢するなんてアホらしいわ。」
二人は車に乗り込み、無言で国道を走っていく。そして朱里の家に着くと、彼女は大きなお腹をさすりながら車を降りた。
「あと四日はおるから、またラーメン奢ってや。」
「アホ言え、どんだけ財布が軽うなったと思ってんねん。」
朱里は声を出して笑い、門を開けて玄関に向かう。しかし途中で振り返り、真面目な顔で尋ねた。
「あのさ、ちょっと気になることがあんねん。」
「気になること?なんや?」
「実はな・・・最近誰かに見られてる気がすんねん・・・。」
「誰かに見られてる?ストーカーでもおんのか?」
「いや、分からんけど・・・。でも誰かの視線を感じんねん。」
「いつからや?」
「ここ二週間くらいかな・・・。何か気持ち悪うて・・・。」
「なるほど、それで元気が無かったんやな。」
俊一は笑って手招きをし、傍に来た朱里の頭を撫でた。
「気にすんな。誰もお前のことなんかストーカーせえへん。」
「何よそれ?」
「心配すんなってことや。何かあったら俺の家に来い。手え握って一緒に寝たる。」
「きっしょッ!」
朱里はぶるっと肩を震わせ、腕をさすりながら帰って行く。
「でもほんまに何かあったらすぐに言えよ!」
「分かってるって。ラーメンごちそうさん。」
そう言って手を振り、家の中へ戻っていった。
「誰かの視線なあ・・・。あいつをつけ回す変わり者でもおるんかいな?」
俊一はぼやきながら車を走らせ、自分の家へと向かう。
《久々に朱里に会えてよかった。アイツの能天気さは元気が出るわ。》
ラーメン三杯は無駄ではなかったと思いつつ、軽くなった財布をポンと叩いた。

新しい小説

  • 2014.09.12 Friday
  • 19:42
これで稲松文具店はお終いです。明日からは新しい小説を載せます。
『木立の女霊』というタイトルで、ホラー小説になります。
ダナエの神話の続きは、まだまだ書き上がらないので、しばらく先になりそうです。
明日から『木立の女霊』を載せますので、よかったら読んで下さい。

 

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