水面の白影 第六話 池に潜む者(2)

  • 2014.10.05 Sunday
  • 12:34
あの日から四日後、非番で近所の喫茶店に来ていた。テレビでは政治家の不倫から芸能人の結婚に話題が移り、人々の関心の薄さにうんざりしていた。
「どこの誰が結婚しようが、わざわざテレビで流すことか?自分らとは関係ないのに。」
やたらと酸っぱいコーヒーを飲みながら、新聞を広げてテレビの話題を遮った。するとケータイに見知らぬ番号から電話が掛ってきて、もしやと思いながら通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『・・・・ああ、こんにちは。星野といいますが・・・。』
「おお、星野君か。どうや調子は?」
なるべく明るい声で喋りかけると、『少しマシになりました』と返ってきた。
「そうか、そらよかった。ちゃんとご飯は食べてるか?」
『少しだけ・・・・。夜は食べないけど、朝は食べるようにしました。』
「そらええこっちゃ。ちょっとずつでええから、生活を変えていかんとな。」
新聞を脇にどけ、彼との話に耳を傾けた。もう少し早く電話が来ると思っていたから、こうして掛けてきてくれて安心した。
「今な、バミューダって喫茶店におるんやけど知ってるか?」
『はい。駅のコンビニの近くですよね?』
「いや、それと違う。ダイエーの裏手のところや。」
『ダイエーの裏・・・・・ああ、あの小さな店がいっぱい並んでるところの?』
「そやそや、おっちゃん今そこでコーヒー飲んでんねんけど、君も来おへんか?」
『はい・・・・。僕も三和さんとお話したいことがあるんです。でもお金が無いから、別の場所の方が・・・・、』
「なに言うてんねん。お茶くらい奢ったるわ。昼飯は?もう食べたんか?」
『いや・・・まだです。』
「ほなそれも奢ったろ。ここはけっこう食い物もいけるんや。特にカレーがお勧めやで。」
『じゃ、じゃあ・・・・・どうしようかな・・・・。』
「気い遣わんでええからおいで。話したいことがあるから掛けてきたんやろ?それともここが嫌やったら、また警察署で話そか?今度はカツ丼奢ったるで?」
そう尋ねると、慌てて『そっちに行きます』と答えた。
「ははは、冗談や。今日はおっちゃんも休みやから、そんなに慌てんでええよ。ゆっくりおいで。」
『分かりました。歩いて行くから、十分くらいで行けます。』
「おう、ほなまた後でな。」
電話を切ると、背もたれに寄りかかってコーヒーをすすった。
「やっと掛けてきよったか。まあいうても四日しか経ってへんけど・・・・。」
この四日間、ずっと彼のことが気になっていた。それはこの前の話の続きを聞きたかったらでもあるが、それ以上に彼のことが心配だったのだ。
十年以上も前にうつ病に罹った後輩を亡くし、その時の喪失感ときたら今でも消えない。
病気で苦しむ後輩を何とかしてやりたいと思ったが、結局は何も出来ずに終わってしまった。
あいつも星野と同じように繊細な青年だったから、どうしてもこの二人を重ねて見てしまう。
星野に対して親身になるのは、彼の為というよりは自分の傷を癒す為だった。
新聞を広げ、二杯目のコーヒーをすすっていると、喫茶店のドアが開いた。新聞から顔を上げると、そこにはこの前よりいくぶん顔色の良い星野がいた。
「おう、こっちや。」
手を挙げて呼びかけると、小さく会釈を寄こしながら歩いて来た。
「よう来たな。歩きやとちょっと遠いやろ?」
「ええ・・・でも今はあまり車に乗れない状態なので・・・・。」
「そうやな、無理はせんとき。昼飯まだなんやろ。まずは腹ごしらえや。」
マスターを呼んでカレーを注文し、ついでにお勧めのバミューダコーヒーも追加した。
星野はここのカレーに満足したようで、無言でもくもくと頬張っていた。
「どや、ここのカレー美味いやろ?」
「はい、僕辛いの苦手なんですけど、ここのは食べられます。」
「そうか、そらよかった。そのコーヒーも美味いで。」
ここの喫茶店オリジナルのコーヒーにも満足したようで、来た時よりも顔がほころんでいた。星野の気分がほぐれたところで、この前の続きを問いかけた。
「ほなそろそろ聞かせてもらいたいんやけど、ええか?そっちの話を先にするか?」
「いえ・・・三和さんが先にどうぞ。」
「ほうか、ほな聞かせてもらうけど、なんで君はあの少年の目の色を知ってたんや?あれはごく一部の人間しか知らんことやのに、どこであの子の目の色を知った?」
そう問いかけると、星野は真剣な顔でコーヒーを置いた。
「それはこの前説明した通りです。僕はあの子の魂に会ったんです。そこで目の色を知りました。」
「・・・何がどうあっても、その主張は変わらんわけやな?」
「はい。」
「言うとくけど、警察が調べたらすぐに嘘はバレるんやで?君があの少年に会ったことがあるかどうかは、すぐに分かることや。それでも自分の主張を通すんやな?」
「もちろんです。僕は実際にあの子の魂に会ったんです。嘘なんかついていません。」
「ほうか・・・・。ほなあの子の魂に会ったとして、その子は何て言うてたんや?」
「・・・・復讐するって言ってました。」
「復讐?そらまた穏やかやないな?いったい誰に復讐するんや?」
「最初は自分を殺した母に復讐するって言ってました。」
「なるほど、自分を殺した母親を恨んでたわけや?」
「そうです。それで自分の死を納得する為に、人生は意味の無いものだと信じていました。だから僕は・・・彼に目を付けられたんです。」
「・・・・どういうことや?」
腕を組んで睨みつけると、言いづらそうに顔を俯かせた。
「・・・・・僕の人生には何も無いから、あの子が寄って来たんです。こんな無意味な人生を送る僕は、自分のパートナーとして相応しいと思ったんでしょうね。
だから一緒にあの池に沈んでくれと頼まれました。」
「それで・・・君はなんて答えた?」
「最初は怖かったです。でもあの子がどういう目に遭って殺されたかを知ると、一緒に行ってあげてもいいかなと思いました。
でもその代わり、君のお母さんは見逃してあげてくれと頼んだんです。」
「それで、あの子はそれを了承したんか?」
「・・・・だと思います。」
「だと思う?えらい曖昧やな。なんか言いにくいことでもあるんか?」
腕を組んだまま睨みつけると、星野は顔を上げて答えた。
「あの子の魂に会った時、僕は自分の出生の秘密を知りませんでした。だからあの子の言う母親が、今の姉のことだと思っていたんです。」
「・・・・すまん、よう分からへんわ。もうちょっと詳しい言うてくれ。」
「ああ・・・すいません。あの子は僕にこう言ったんですよ。自分を殺したのは、お兄さんのお姉さんだって。だからてっきり、今の姉があの子を殺したと思っていたんです。」
「ははあ・・・・なるほどな。だから君はお姉さんを守るために、あの子と一緒に行ってあげようとしたわけや?」
「はい・・・・。僕は姉のことが好きだから、何としても守ろうと思ったんです。でもあの子の気持ちも理解できるから、何か良い方法はないかと考えました。」
「その結論が、あの子と一緒に池に沈んでやることやったんやな?」
「はい。そうすれば誰も傷つかないし、僕の無意味な人生も少しは役に立つかなって。でもさっきも言った通り、僕はその時は自分の出生の秘密を知りませんでした。
だから僕とあの子の間には、大きな誤解があったと思います。」
「なるほど・・・要するに君はこう言いたいわけや?君は今のお姉さんを守るために、自分を犠牲にしようとした。
けど少年はそれを分かってなかった。てっきり君のもう一人のお姉さんのことやと思ってたわけや。
だからもしその誤解が無ければ、あの子は君の提案を飲んだかどうかは怪しいっちゅうわけやな?」
「はい。僕は嘘をついたつもりはないけど、結果的にはあの子を騙したことになるのかもしれません。僕が守ろうとしたのは、本当の姉じゃなくて今の姉やから。」
「・・・・・・・・・・・。」
真面目過ぎると思った。姉と少年の為に自分を犠牲にする。しかもそこに誤解があったせいで、これまた自分を責めている。
なるほどこういう考えと気質の持ち主なら、いつ心の病に罹ってもおかしくはない。
何でも自分のせいにしていれば、遠からず心が押し潰されるのは明白だ。
この青年に必要なのは、少しでもいいから誰かに責任を背負わせる図太さだ。
しかし口で言っても受け入れるはずはなく、今は黙って話を聞いてやるしかない。俺はタバコに火を点け、目を動かして話の先を促した。
「誤解があったにせよ、あの子は僕の頼みを聞いてくれました。でもその代わりに、別の人間に復讐すると誓ったんです。」
「別の人間?それは誰や?」
「・・・・あの子の父親です。」
予想通りの言葉が返ってきた。ここから先に彼が話すことは、後で俺が聞きたいことにも繋がる。
だから今は黙って話を聞いてやるしかない。この前みたいに黙りこまれたら、せっかく会った意味もなくなってしまうのだから。
星野はコーヒーに飽きたのか、水で口を湿らせていた。そして俺と同じようにタバコを咥え、吹かした煙を目で追っていた。
「あの子の父親は家族に暴力をふるっていたらしいんです。だからあの子は復讐のターゲットを父親に変えたんですよ。
自分の苦しみと、母の苦しみを味あわせる為に・・・・。だからうんと苦しめて殺すと言っていました。」
「そうか・・・・なんともやり切れん話やな。それで・・・その後はどうなったんや?」
「・・・少年は最後にこう忠告していきました。もうあの池には近づくなって。あそこには自分以外にも魂が眠っていて、そいつが僕を襲ったんやと。」
「君を襲った・・・・?」
顔をしかめて尋ねると、星野はこの前と同じような、怪しい光を目に宿した。
「この前、あの池から白い影が出て来たでしょう?気持ちの悪い動きをするやつが。」
「ああ・・・・そういえばそんなもんを見たな。いったいあれは何やったんやと不思議に思っとったが・・・・・それがどうかしたんか?」
すると星野は自分の首を掴み、軽く手形をつけてみせた。
「あの時僕の首に手形がついていたでしょ?あれは自殺した僕の母がやったんです。」
「君のお母さんが・・・・?」
「母は今でもあの池にいて、近くに行くと水面に出て来るんですよ。それでああやって手形をつけて、この子は自分のものだってアピールするんです。」
「・・・・ほな、あの池に眠ってる少年以外の魂っちゅうのは、三十二年前に自殺した君のお母さんやと言うんか?」
「そうです。母は今でもこの世に未練を残していて、まだまだ成仏する気がなさそうなんです。
たくさんの恨みを抱えてるし、何より僕のことが気になって仕方ないみたいだから。」
「なるほど、それであの池にお母さんの遺体が残ってないか聞いたわけやな?」
「はい。もしまだ残ってるなら、引き上げて弔ってあげようと思って。そうすれば、未練を失くして成仏するかもしれないでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
とりあえずここまで話を聞いてみたが、何とも言いがたい内容だった。もしこの青年がうつ病を患っていなければ、お前は馬鹿かと一蹴して出て行くところだ。
「星野君の話はよう分かったけど、一つだけ言わせてもろてええか?」
「はい。」
「・・・・はっきり言うて、俺にはまったく信じられへんわ。そんなオカルトまがいの話をはいそうですかと信じるようじゃ、警察はやってられへんからな。」
もしかしたら傷つくかもしれないと思いながらも、そう言わずにはいられなかった。
「一生懸命話してくれて悪いけど、どうしても信じることが出来へん。」
「・・・・そうですよね。でも・・・それでも僕は嘘はついていません。」
「そうやろな。さっきの話ぶりからすると、君は嘘はついてへんと思う。だからな、こう言うたらあれなんやけど・・・・・、」
気を使いながら言葉を選んでいると、星野は「分かってます」と笑った。
「病気のせいで、頭までオカシイなってると思ってるんでしょ?」
「いや、そこまで言うつもりはないけど・・・・・。」
「いいんです、気を使わないで下さい。こんな話を刑事さんにして、素直に信じてもらえると思っていませんから。」
「なんや?この前と違てえらい余裕があるな?」
「・・・・・きっと、少しずつ生活を変えたからだと思います。お医者さんに言われたんですよ、朝は必ず日光を浴びろって。
そうすることで、脳内で作られるホルモンがあるから。」
「ほう、ちゃんと医者の言うこと聞いてんのやな。えらいやないか。」
「それにご飯だって前より食べるようになりました。朝をちゃんと食べることで、なんだか元気が出て来るんです。ちょっと身体を動かしてみようかなって気になったり。」
「そらますますええこっちゃ。お日さんに当たって散歩でもしたら、心が晴れるやろ?」
「そうですね。少なくとも前よりは調子がいいと思います。でもあんまり調子に乗らないように、少しずつ変えていこうと思ってるんです。」
「そうか、そこまで自分で考えられるようになったんやったら、もう大丈夫やろ。あとは焦らずゆっくり治してたったらええねん。」
「はい。」
星野は嬉しそうに頷く。その顔には少しだけ生気が戻っていて、人間らしい表情が感じられた。
きっと今日俺に会いに来たのは、ただ話を聞いてほしかったのだろう。話の内容はともかく、星野に元気が戻ってきたのは嬉しいことだ。
「まだ話したいことあるか?」
こちらも笑顔で問いかけると、星野は小さく首を振った。
「いえ、もういいです。内に溜めてることを喋ったら、なんだかスッキリしましたから。」
「そうか、ならおっちゃんは役に立ったわけやな?」
「はい。こんなのは誰にも話せないから、聞いてもらえるだけでも嬉しかったです。ありがとうございます。」
星野は満面の笑みで頭を下げる。その顔はどう見ても二十歳そこそこにしか見えず、本当に三十二なのかと疑わしくなってしまう。
しかしまあ、そんなことを俺が心配しても仕方がない。こっちはこっちで聞きたいことがあるわけで、とりあえず一服つけてから切り出した。
「ほなそろそろおっちゃんの話をさせてもらってもええか?」
「はい。」
「実はな・・・・俺はこれでもけっこう驚いてんねや。」
コーヒーをかき混ぜながら言うと、星野はキョトンとした目をしていた。
「君はこの前こう言うてたやろ?自分の実の母は、野々村幸子やって。」
「ええ。」
「野々村幸子は、あの池で死んでた少年、野々村浅斗の祖母や。そんで浅斗を殺した野々村浅子の母親でもある。」
「知ってます。それがどうかしたんですか?」
「どうかしたんですか・・・・・か。それが分からんから困ってるんや。」
タバコを消し、テーブルに肘をついて身を乗り出す。すると星野の目に、あの怪しい光が戻ってきた。
「野々村幸子、野々村浅子、そんで野々村浅斗。全員があの池に縁がある。いくら家族やいうても、あんなちっぽけな池で二人も死んでるんや。それも同じ家族の人間が。」
「・・・・なんか気味が悪いです。」
「星野君もそう思うか?」
「改めてそう言われると、気味悪さを感じます。もしかしたら、ただの偶然じゃないのかなって・・・・。」
「そうやな、偶然とは言い難い。なぜならあの池では最近もう一人死んでるやろ?水田彰男という男が。
こいつは野々村浅子の元旦那で、浅斗の父親や。同じ家族が三人もあそこで死んで、しかもそれに加えて野々村家の血を引く君まで出て来た。
もしあの夜に俺が止めてなかったら、君はあの池の四人目の死人になってたで?これはただの偶然やろか?」
「偶然・・・・とは言いにくいですね。だって僕も野々村家の人間ですから。」
「そうやな。今は星野家の人間やけど、野々村の血も引いとる。だからもし君があそこで死んでたら、同じ身内の人間が四人も死んだことになる。
これはちょっと偶然とは考えにくいよな。」
同意を求めるように強く言うと、星野は素直に頷いた。
「やっぱり偶然じゃないと思います。でも僕から言わせれば、全然不思議なことじゃないですよ。」
「ほう、そらなんでや?」
「だってさっき説明したじゃないですか。水田彰男は浅斗の霊に殺されたって。その浅斗は母親に殺されて、自分と母を苛めていた水田彰男を恨んでいた。」
「・・・・ほな君のお母さんはどう説明する?」
「それも全然不思議じゃないです。お母さんは実の兄の子供を妊娠して、周りに誰も味方がいませんでした。
それなら孤独に耐えかねて自殺したって、ちっとも不思議じゃないですよ。」
「そうやとしても、やっぱり同じ池で三人も死ぬもんかな?それも身内ばっかりやで?これはどうにも納得いかんよなあ・・・・・。」
そう、これは納得いかないのだ。何の関係もない人間なら、ここまで疑問には思わない。
しかしあの池で死んだ人間は、みな野々村家に関係している者ばかりなのだ。しかもその中で、なぜか野々村浅子だけが生きている。
では死んだ三人の人間と、生き残った野々村浅子は、いったい何の違いがあるのか?これも大きな疑問だが、俺には一つの考えがあった。
「なあ星野君・・・・。」
「はい?」
「君の実のお母さんは、ほんまにあの池で自殺したんかな?」
身を乗り出して尋ねると、わずかに星野の目が動いた。
「どういうことですか?」
「君はお母さんが自殺した言うてるけど、それは誰が確認したことなんや?」
「誰って・・・・・それは・・・・・。」
「警察に届けてないってことは、身内だけで処理したっちゅうことや。ならその当時のことを知っとる人間がおるはずなんやけど、それはいったい誰なんや?
それがはっきりせえへんことには、君のお母さんがあの池で自殺したとは言えへんのとちゃうか?」
この前話を聞いた時から、ずっとおかしいと思っていたのだ。野々村幸子があの池で自殺したというのなら、それを確認した人物がいるはずだ。
しかし星野はそのことについてはまったく触れなかった。それはなぜか・・・?自殺を確認した人間をかばう為か、もしくは元々自殺などしていなかったかのどちらかだ。
「ここから先は俺の勝手な想像やけど、やっぱり君のお母さんは自殺なんかしてへんのとちゃうか?どっかで生きてて、君はこっそりお母さんに会ってるんと違うか?」
少し意地悪な質問だと思ったが、相手の本音を探るには怒らせるのが一番だ。しかしあまり彼の病気を刺激するわけにはいかず、質問だけを投げかけて様子を見てみた。
・・・・・何も答えない・・・・。
目に怪しい光を宿すだけで、何も答えるつもりはないらしい。ならばもう少し怒らせてみるか。
「こんなこと言うたら悪いねんけど、俺は君の出生についても疑っとる。いくら何でも兄妹で妊娠はないやろう?
仮にそうなったとしても、実際に子供を産むもんかな?君の出生は君の勝手な妄想で、実際は今のお父さんとお母さんの子供なんと違うか?」
かなりデリケートな質問だが、ここまで聞けばさすがに怒るだろう。・・・・そう思っていたのだが、彼は怒るどころか塞ぎこんでしまった。
《まずいな、こら言い過ぎたか・・・・。》
失敗したかなと頭を掻き、「すまんな、平気か?」と問いかけた。
「・・・・いえ、全然平気です・・・・。」
星野はまったく平気でない顔で言った。しかしその目に宿る光は鋭さを増し、ある種の野性的な野蛮ささえ感じられた。
四日前に思ったとおり、やはりこいつは何かを隠している。そうでなければ、こんな鋭い眼光を放ったりはしないだろう。
彼の目の奥には、やはり触れられたくない何かがあるのだ。
「気い悪うしたんやったら謝るわ。すまんな。」
演技臭く表情を作りながら言うと、星野は急に立ち上がった。
「どうした?もう帰るか?」
「・・・・いえ、ちょっと付き合ってもらいたい場所があるんです。」
「付き合ってもらいたい場所?どこや?」
「あの池です。」
星野は真剣な目で俺を見下ろす。その眼光には、拒否は許さないという力がこもっていた。
「なんやいきなり?俺の言うたことにそんなに腹立てたんか?」
「それもありますけど・・・・でも、どうしても三和さんに知っておいてもらいたいことがあるんです。」
「俺に知ってもらいたいこと?それやったらここで話したらええやないか?」
コーヒーに口をつけながら問いかけると、星野は「それじゃ駄目なんです」と答えた。
「だって三和さんは、まったく僕の話を信じていないじゃないですか。だから今からあの池に行って、僕の母があそこにいることを証明してみせます。」
「証明って・・・・何をどうすんのや?君のお母さんの幽霊にでも会わせてくれるんか?」
冗談交じりに笑いかけると、星野は「そうですよ」と頷いた。
「そうですよって・・・・アホなことを言え。幽霊なんてもんがおるかいな。」
「いいえ、いるんです。でも言葉で言っても信じてもらえないから、一緒に来てほしいんです。僕が呼んだら、きっとお母さんは姿を見せてくれるはずだから。」
「・・・・・・・・・・・・。」
星野の目は真剣そのものだった。刑事である俺の眼光を鋭く睨み返し、何としてでも池に連れて行かせようとしていた。
《こら参ったな・・・・・。あんまり問い詰めたもんやから、また精神が不安定になってしもたか?》
調子に乗ってベラベラ喋ったことを、少し後悔していた。星野の病気はせっかく快方に向かっていたのに、俺のせいで逆戻りとあってはバツが悪い。
そもそも俺が彼に会ったのは、うつ病という病を何とかしてやりたいと思ったからだ。それなのに刑事の顔を見せすぎて、本来の目的を忘れていたようだ。
「・・・よっしゃ!そこまで言うならええやろ。あの池でもどこでも付き合ったる。」
「ほんまですか?ありがとうございます!」
星野はパッと明るい表情になり、まるで少年のような笑顔を見せた。きっとどうあっても、自分の言っていることが正しいと信じてほしいのだろう。
そうすることで彼の病気が和らぐのなら、あの池に付き合うことくらい何てことはない。俺は笑顔で頷き、伝票を摘まんで立ち上がった。
「ほな今から行こか。夕方からちょっと野暮用があるもんでな。」
「分かりました。きっと僕の言っていることが嘘じゃないって証明してみせますよ。」
星野は自信たっぷりに言い、俺を置いて店を出てしまった。
「やっぱり前より元気になってるな。怒りでも自尊心でも、心に力を持つのはええことや。若いうちなら尚更な。」
レジで会計を済ませ、二人して車に乗り込む。そして十分ほど車を走らせると、例の池に到着した。
近くの空き地に車を停め、並んで池に向かう。もう十月だというのに、まだ暑い空気が残っている。
このまま毎年気温が上がっていけば、孫の代には外に出られなくなるかもしれない。
しかし今は地球の温暖化を心配している場合ではなく、もっと別のことを考えねばならなかった。
《どうせ幽霊なんて出てこおへんやろうけど、そんなことはどうでもええねん。いったいどういうリアクションをしてやったら、この子は満足するんやろなあ。》
今日の星野はすこぶる調子がいいようだ。ならばなるべくそれを壊すような真似はしたくない。
ここは幽霊が見えているフリをして、満足させてやるべきか?それとも正直に幽霊などいないと言って、現実を突きつけてやるべきか?
どちらがより星野にとって良いことなのか考えているうちに、池の傍まで到着した。
「相変わらずよう濁ってるな。幽霊より河童が出そうや、なあ?」
冗談交じりに問いかけると、星野は真剣な目で池を睨んでいた。そして俺に手を向け、「お先にどうぞ」と破れたフェンスを示した。
「なあ星野君。その・・・もしもやけど、君のお母さんが出て来おへんかった場合はどうする?」
「・・・・そうですね。その時は、潔く僕の頭がおかしいってことを認めます。でもそれは有り得ないから、とりあえず中へ入って下さい。」
「そうか、ほな君のお母さんに会わせてもらおか。」
破れたフェンスの穴を潜り、ゆっくりと中に入る。池の周りには長い草が伸びていて、やはり幽霊より河童が出て来そうな雰囲気だった。
「で、君のお母さんはどこにおるんや?」
肩をすくめて振り返ると、池の方から音が聞こえた。
「なんや?」
顔をしかめて池を睨むと、星野が石を投げていた。
「お母さん、広明や!この刑事さんに姿を見せたってんか!」
星野は近くの石ころを拾い、フェンスの外から投げていた。石が水面を波立たせ、小さな波紋を作っている。
「いつもは出て来てくれるやんか!早よ顔見せてえな。」
《・・・・あかんな。こら見てられへん・・・・。》
どうやら星野の病気は、まったく快方に向かっていないらしい。彼は本気でここに母の幽霊がいると信じていて、きっとそれを心の拠り所にしているのだろう。
精神的な支えがあるのはいいことだが、その対象がオカルトというのはちょっといただけない。
ここはやはり、ビシっと現実を突きつけてやるべきだろう。それこそが星野を病の底から救い出す第一歩だ。
「なあ星野君、ちょっとええかな。」
「すいません三和さん。今すぐに母を呼びますから。」
「いや・・・・もうええから。とにかく石投げるのはやめようや、な?」
「だって・・・・母が出て来てくれないから。いつもは本当に出て来るんですよ!」
「ああ、分かっとる。でもとりあえず落ち着こ。いったん冷静になって話をしようやないか?」
「僕は冷静です!頭だって正常なんです!おかしいのは心だけで、他はまったく健康なんです!」
《あかんな・・・・話が通じへん・・・・。》
犬を連れた通行人が怪訝な目を向け、足早に去ってしまう。このまま放置しておけば通報されることは確実で、慌ててやめさせようとした。
「星野君、もうええから。ちょっと落ち着こ。」
そう言いながら破れたフェンスを潜ろうとした時、池からひと際大きな音が響いた。
いったいどれだけ大きな石を投げたのかと振り向くと、突然誰かに顔を掴まれた。
「なんや・・・・・!放さんかいコラ!」
身に染みついた動きが、相手の腕をとって捩じり上げる。そしてその腕を見た途端、思わず声を上げそうになった。
《な・・・なんやこの腕・・・・。》
捩じり上げたその腕は、まるで煙のように真っ白で、しかもユラユラと揺れていた。呆気にとられてその腕を睨んでいると、また顔を掴まれた。
今度は爪を立てるように、かなり鋭い掴み方だった。
「放さんかいコラ!俺は警察やど!ワッパ掛けられてもええんかい!」
今日は非番なので、残念ながらワッパは持っていない。しかし刑事に喧嘩を売るとはいい度胸だ。どこの誰だか知らないが、しばらくは不味い飯を食わせてやる!
「暴行の現行犯や!大人しいせんと腕の一本くらいイってまうど!」
また腕を掴み、さっきと同じように捩じり上げようとした。しかし相手はビクともせず、人間とは思えない力で池に引っ張られた。
「ワレコラ!放さんかい!ええ加減にせんとほんまに腕折るど!」
本気で力を込め、顔を掴む腕を捩じろうとした。しかしやはりビクともせず、どんどん池に引っ張れていくだけだった。
《なんやこいつ・・・・俺は柔道三段やぞ。なんで腕が極まらへんねん!》
相手の腕は大して太くない。それにも関わらず、いくら頑張っても外すことが出来なかった。このままではまずいと思い、星野に呼びかけた。
「星野君!すぐに110番してくれ!」
顔を掴まれたままそう叫ぶと、星野は思いもかけないことを呟いた。
「お前は呼んでない。俺が呼んだのは、本当のお母さんの方や。」
いったい何を言っているのか理解出来なかった。その間にもさらに池に引きずられ、とうとう足が浸かってしまった。
「星野君!早よ警察呼ぶんや!このままやったら俺は・・・・・、」
そう言いかけた時、腰の辺りまで水に浸かった。人間とは思えない怪力が、俺を池の中に沈めようとしていた。
「早よ警察呼ばんかい!それとコイツに向かって石投げえ!」
再び激を飛ばすも、星野は何もしてくれなかった。それどころか、「もういいや」と言ってどこかに遠ざかっていった。
「おい!待たんかい!なんで見捨てていくねん!電話くらいかけて警察呼ばんかいや!」
「いや、いいです。今日はお母さんが出て来そうにないから、これ以上は無駄です。」
「無駄ってなんやねん!俺は池に沈みかけとんやぞ?それを置いて帰ろうっちゅうんかい!」
「はい。」
「はい・・・・・て。お前頭オカシイんか!この状況見てなんで帰んねん!普通は助けるやろがい!」
顔を掴まれたまま喉を潰すほどの声で叫んだ。身体は胸の辺りまで水に浸かっていて、もはや抵抗するのも困難だった。すると星野は笑い声を響かせ、淡々とした口調で言った。
「さっき言ったじゃないですか。母が出てこなかったら、僕の頭がおかしいってことだって。だから今日は帰ります。
刑事さんもいつまでも遊んでないで池から出て下さい。そのままだと確実に溺れてしまいますよ?」
「出られるんやったら出とるわい!どうでもええから早よ助け・・・・・、」
そう叫んだ時、もう一本の手が掴みかかってきた。俺はそのまま池に引き込まれ、強い力で底に叩きつけられた。
《あかん!このままやったらマジで死ぬ・・・・・。》
必死に手足をばたつかせて抵抗するが、白い腕は離れてくれない。そして目を動かしてそいつの顔を見た時、一瞬思考が停止してしまった。
《なんでや・・・・?なんでこいつがここにおるんや・・・・・?》
俺を池に引きずり込んだのは、星野の母だった。それも実の母ではなく、現在の星野の母だった。
《どうなっとんや?なんで星野の義母がこんなとこに・・・・・。》
星野の母、美咲は白い顔で俺を睨んでいる。その顔は煙のように揺れていて、まるで蜃気楼のようだった。
いったい何がどうなっているのかは分からないが、とりあえずここから出ないといけない。
俺は星野美咲を蹴り飛ばし、何とかその腕を振りほどいた。そして水面に出ようと底を蹴った時、何か柔らかいものが足に触れた。
《今度はなんや!》
思わず足元を見つめると、そこには人間の死体が沈んでいた。水死体特有の真っ白でパンパンな状態に膨らんでいるが、その面影には見覚えがあった。
《これは星野美咲やないか!なんで池に沈んでるんや!》
呆気にとられて固まっていると、また白い腕が絡んできた。今度は背後からガッチリと掴まれ、絶対に放すまいとしていた。
《ええ加減にせえよコラ!幽霊かなんか知らんけど、警察舐めるんとちゃうど!》
俺は白い腕を掴み、一本背負いの要領で投げ飛ばそうとした。しかし水中で技が極まるはずもなく、そのまま押し倒されてしまった。
《あかん・・・・もう息が続かへん・・・・・。》
激しく動いた為に、肺に溜めこんだ酸素が底をついてしまった。人間というのは溺れるとパニックになるので、もはや冷静に行動することなど出来なかった。
《まだ死にとうない!こんなわけの分からんことで死んでたまるか!》
外にいるはずの星野に助けを求めようと、僅かに残った酸素まで使い切ってしまう。しかし池の底から声が届くはずもなく、だんだんと意識が薄れていった。
《そんなアホな・・・・・こんな場所で死ぬっちゅうんか・・・。こんなわけの分からんことで、俺の人生は・・・・・・・・、》
意識が遠ざかり、胸の苦しさも限界に達する。刑事になって三十五年、星野の人生より長くこの仕事に就いてきた。
今までにも危険なことは何度もあったが、その度に乗り越えてきた。それなのに・・・・それなのに最後は幽霊の手にかかって死ぬというのか?
そんなことは絶対に認めたくない!幽霊なんてわけの分からないものに、俺の人生を終わらされてたまるか!
僅かに光が届く水面に向かって、大きく手を伸ばす。しかしその手も星野美咲に掴まれ、底に転がる遺体に並べられてしまった。
・・・・・今日、この池で俺の人生は終わる。受け入れがたい現実を抱えたまま、暗い意識の底へと沈んでいく。
そして完全に命の灯が消える直前、とんでもないものを見てしまった。
それは星野美咲の横に並ぶ、二つの水死体だった。
《他にも・・・・・ここで死んだ奴が・・・・・。》
二体の死体からは、白い煙のような靄が立ち昇っている。それをじっと見つめていると、やがて人の顔が浮かび上がった。
《あれは・・・・星野優子に星野忠昭・・・・。なんでこの二人まで・・・・・。》
星野広明の家族が、全員この池に沈んでいる。信じられない思いでその光景を見つめていると、やがて完全に意識は途絶えた。
そして次に気がついた時には、この俺自身が白い煙のようになっていた。俺を見捨てた星野広明に、許せない怒りを抱きながら・・・・・・。

水面の白影 第五話 池に潜む者

  • 2014.10.04 Saturday
  • 17:41
皆が寝静まった夜、休憩がてらに署を抜け出した。そして月明かりの照らす濁った池に来ていた。
「不気味やな・・・見れば見るほど不気味や・・・・・。」
今から一ヶ月前、一人の女性が署を訪れた。女は野々村浅子と名乗り、五年前に息子を殺したと打ち明けた。新人の警官から彼女を引き渡された時、その顔に見覚えがあった。
かつてこことは別の署にいた時に、息子がいなくなったと駆けこんできた女だ。
彼女は息子を捜してくれと喚いていたが、どうにも嘘臭く感じられた。それは他の仲間も感じていたはずだが、結局なんの証拠も出て来なかったので、女を追及することは出来なかった。
それから五年の月日が経ち、自ら出頭してきた。どういう心境の変化があったのかは知らないが、きっと罪の重さに耐えかねたのだろう。
殺人を犯した者は毎晩のようにその夢を見るという。そして自らの罪に苦しみ、楽になる為に自首をしてくる。それは殺した人間の為ではなく、自分が楽になりたいという欲求の為だ。
「こんな所に息子を捨てるなんて・・・親としての神経を疑うな。」
刑事としてではなく、子供を持つ一人の親としての本音が飛び出す。タバコを咥え、小さな明かりを灯して弔辞を捧げた。
「遺体は引き揚げたけど、魂はまだここに眠ってるかもしれん・・・。どうかこの世に未練を残すことなく天国に・・・・。」
タバコの火を線香の代わりにして、そっと手を合わせた。すると誰かが近づいて来る気配を感じて、拳を握って身構えた。
《誰や?こんな夜中に・・・・。》
タバコを携帯灰皿に押しつけ、眼光を鋭くさせる。近づいて来る人影は明らかにこの池に向かっていて、緊張が高まった。
職業柄、こんな夜中に歩いている人間はどうしても疑ってしまう。ここにはコンビニもないし、街灯さえない。
そんな場所にわざわざ夜中にやって来るなんて、決して普通とは言えなかった。
俺は咄嗟に草陰に隠れた。伸びた草は身を隠すのに充分で、しかも月明かりしなないこの場所では気づかれない。息を殺し、眼光だけ鋭くして気配を窺った。
暗闇の中から一人の男が浮かび上がる。月明かりを受け、青いシルエットで池の傍までやって来た。
《あれは・・・・星野広明か・・・?》
池にやってきた人物は、一月前に起きた事故で関わった青年だった。電線で身体を巻かれ、池で溺死するという変わった事故だった。
被害者の所持品から星野忠昭という男だと分かり、彼の家まで行った。そして遺族に遺体を確認してもらうと、まったくの別人であったのだ。
被害者の本当の名前は水田彰男といい、生活保護を受給する無職の男だった。とにかく酒癖の悪い男らしく、それに女にもだらしがない。
常に何人かの愛人がいて、生活保護と女からの貢物で食っていた男だ。そして複数いる愛人のうちの一人が、星野忠昭と付き合っていた。
星野は不倫をしていて、嫁の目を盗んでは女と会っていた。そして女の家で情事におよんでいる時、たまたま水田がやってきた。
二人は女を巡って口論になり、やがて掴み合いの喧嘩に発展した。その時に星野はひどく痛めつけられ、財布とケータイを奪われてしまった。
財布の方は金銭目的だったが、ケータイを奪ったのは脅しの為だった。二度と自分の女に近づかないようにする為に、不倫の証拠を押さえたというわけだ。
ここまではまあ、男女のもつれでよくある話だ。しかし問題はその後だった。星野を傷めつけた後の水田の行動が、明らかにおかしいのだ。
水田は女の家を出た途端、急に頭を押さえ出した。そして何度も「アサト、アサト・・・」と呪いのように呟き、真っ青な顔になったという。
それまるで、見えない何かに怯えているようだったと、愛人の女が語っていた。
水田は見えない何かに怯えたまま、愛人の車を使って走り去った。そして途中でホームセンターに寄り、高枝切りバサミを購入した。
それを車に積むと、何度も何度も「許してくれ」と泣いていたという。これは複数の店員と客が目撃していて、ここでも見えない何かに怯えているようだったと語っていた。
水田は怯えたまま車を走らせ、この池にやって来た。そして購入した高枝切りバサミを使い、近くに立つ電柱の線を切ったのだ。
それを身体に巻きつけると、ここでもしきりに誰かに謝っていたそうだ。
「お前の目を馬鹿にして悪かった」「お母さんを苛めて悪かった」・・・・と。
そして何かに操られるように、切断した電線を口の中に突っ込んだ。
本人は泣きながら首を振っていたそうだが、まるで見えない手に掴まれ、無理矢理口に押し込まれたようだと、窓から見ていた近所の住人が語っていた。
電線を咥えた水田は感電し、釣り上げられた魚のようにのたうち回っていたという。
しかしここで不思議なことが一つある。普通なら電気の流れる電線を口に入れたりしたら、一瞬で感電死してしまう。
電気のショックで身体は動くだろうが、命は一瞬で絶たれてしまうはずだ。
それにも関わらず、水田はしばらく生きていた。目撃していた近所の住人によると、白い影のようなものが纏わりついていたという。
そして強烈な電気に感電しているのにも関わらず、自分の足で立ち上がった。そのまま池に向かうと、何の迷いもなく飛び込んだという。
水田は感電の痛みと溺れる苦しみを味わいながら、苦痛の表情のまま絶命していった。
不思議なことに、彼の衣服にはなんの焼け跡もついていなかった。転げ回った拍子に落ちた財布とケータイも、まったく電気が通った様子がなかった。
まるで全ての電気が水田を苦しめる為だけに流れたかのように・・・。それに電線を切る為に使った高枝切りバサミは、なぜかどこにも見当たらなかった。
まるで誰かが持ち去ったかのように・・・・・。
水田の不可解な行動と、普通では考えられない不可解な現象。まともに考えても答えが出るはずもなく、事故なのか事件なのかさっぱり分からなかった。
謎は謎のまま残り、こんな厄介な出来事は早急に処理しようということになって、最終的には自殺で片づけられた。
新聞やテレビでは大きく報じられたが、最近起きた政治家と芸能人の不倫のニュースのおかげで、この出来事は世間から関心が薄れていった。
まったくもって意味不明な出来事ではあったが、それ以上に大きな衝撃が後にやって来た。
それは野々村浅子の自首だ。彼女から話を聞いているうちに、水田が前の夫であることが分かった。
そして殺害した息子の名前は浅斗といい、水田が呟いていた名前と同じだった。
それに息子の浅斗は生まれながらにして目が悪く、また野々村浅子も水田から暴力を振るわれていた。
どれもこれもが水田が呟いていた言葉と一致している。だから死した浅斗の魂が、水田を苦しめていかのかもしれないなんて、馬鹿なことまで考えてしまった。
しかし水田が死んだ今となっては真実は分からない。きっとアルコール依存による幻覚、そして勢い余っての自殺であると決着がついた。
警察は時として、真実の追求よりも事態の収拾に力を入れる。それに対して反発があるのは当然だが、今回のような出来事の場合は無駄に長引かせても意味がない。
きっとどこぞのテレビ局が面白おかしく取り上げ、オカルトを交えたネタで引っ張るに決まっているのだから。
そうなれば被害者に近しい人間、関係のあった人間は迷惑をこうむるというもので、話題をかっさらってくれた不倫の政治家には感謝しないといけない。
じっと草陰に隠れながらこの前の事故のことを考えていると、星野広明が動いた。まるで何かに取り憑かれたように、池へと足を進めていったのだ。
《何しとんや?あんまり近づいたら落っこちるぞ。》
こんな暗い中で池に落ちたら、確実に溺れてしまう。しかし星野はさらに足を進めていく。靴が水に浸かり、勾配のついた護岸を下りていく。
こりゃまずいと思い、咄嗟に飛び出して身体を掴んだ。
「待て待て、それ以上行ったら溺れるぞ!」
星野はギョッとして身を固くしていた。俺はおかまいなしに彼を引き上げ、草の茂る地面に座らせた。
「星野君、こんな所でなにをしとんや?」
「え・・・?ああ・・・・・・。」
「暗いから誰か分からんか?この前君に会った刑事や。」
顔を近づけてよく見せると、星野は「ああ・・・」とホッとした様子になった。
「ビックリしたか?」
「ああ・・・ええ・・・・いきなり人が出て来たから・・・・。」
「そらそうやな。逆の立場やったら俺でもビビるわ。」
肩を叩いて笑いかけると、星野も小さく笑った。
《顔に生気がないな・・・。こら病んでる奴の特徴やで。》
警察にはうつ病にかかって辞める奴が多い。そして心を病んだ人間というのは、まるで幽霊のように生気のない顔をしているのだ。今の星野の顔は、まさにうつ病のそれだった。
「こんな時間にどうした?散歩でもしてたんか?」
努めて明るい口調で尋ねると、彼は口を噤んだ。それもそうだろう。心を病んだ人間がこんな場所に来るなんて、目的は限られている。
「君・・・・死のうとしてたんと違うか?」
そう尋ねると、一瞬だけ肩が動いた。
「この前会った時から、ちょっとおかしいと思ってたんや。なんや顔に生気がないし、若い割には妙に達観してるし。今日は前よりもっと生気のない顔してるで。大丈夫か?」
「大丈夫・・・・じゃないと思います・・・・。」
「そうやな、俺もそう思うわ。もしかしてやけど、心の病気に罹ってるんと違うか?」
「・・・はい・・・。」
「ちゃんと薬は飲んでるか?病院には行きよんやろ?」
「ええ・・・たまに・・・・。」
「ほな酒と一緒に飲んだりしてないやろな?」
「・・・・してません・・・・。」
「ほんまか?ちょっと息吐いてみい。」
「・・・嫌です・・・。」
「ちょっとでええねん。口開けて、ハア〜ってしてみい。」
星野は首を振って拒絶するが、じっと睨むと少しだけ口を開けた。
「・・・・・やっぱ飲んでるやないか。どうせ薬も一緒に飲んだんやろ?」
「はい・・・・・。」
「あかんで、そんなことしたら。心の薬っちゅうのは、使い方を間違えたら危険なんや。それが原因で自殺した奴を俺は知ってる。」
そう言うと、星野は興味を惹かれたように顔を上げた。
「俺は刑事なんて仕事をしてるやろ?警察にはうつ病に罹る奴が多いんや。俺が可愛がってた後輩にも、うつ病に罹った奴がおる。
そいつはアホみたいに薬を飲んで、その後に日本酒を一升空けた。そんで麻薬やったみたいにおかしいなってもうて、橋の上から飛び降りてもた。」
「ほんまですか・・・・それ?」
「ほんまや。ヤブ医者がアホみたいな量の薬を渡してな。しかもうんざりするくらい色んな種類のやつをや。
後輩はたった一日で二〇〇錠も薬を飲んで、その後に酒を呷って頭がおかしいなってもた。
そんなアホみたいな飲み方した後輩にも問題があるけど、相手は心を病んでんねや。それやったら薬を渡す医者かて、よう考えて渡さなあかんのに・・・。」
何気なく昔を語ると、その時の怒りと悔しさが蘇ってきた。すると星野は俺の手を撫で、「辛かったですね・・・」と慰めた。
「すまんな、しょうもない愚痴になってしもた。俺が慰められてどうするっちゅう話や。」
笑いながらそう言うと、星野は「そんなことないです」と目を見つめてきた。
「なんでも心に溜めこまんと、人に言わなあかんのです。」
「ははは、死のうとしてた奴がよう言うで。」
「これ、姉ちゃんの受け売りです。」
「おお、あの綺麗なお姉さんか。ええな、あんなべっぴんのお姉ちゃんがおって。」
褒めたつもりでそう言ったのだが、星野は険しい表情になってしまった。
「どうした?なんか気に障ること言うたか?」
「いや・・・こっちのことなんで、気にせんといて下さい。」
「そう言われても、ますます暗い顔になってるで?まあどっちにしたって、このまま君を放っては帰られへん。一緒にお茶でも飲み行かんか?」
「いいです・・・・放っといて下さい・・・。」
星野はうんざりしたように首を振った。うつ病の人間というのは、とにかく人を拒絶したがる。それは分かっているが、自殺未遂の人間を放っては帰れない。
「そうか、ほな警察署に行くか?」
「は?なんで警察に・・・?」
「俺は刑事やで。自殺しようとする人間がおったら、保護するのが仕事や。」
「いや・・・もうしませんから・・・。」
「みんなそう言うねん。悪いけど今すぐ君を保護させてもらうわ。パトカー呼ぶからちょっと待っといてや。」
そう言ってこれみよがしにケータイを取り出すと、慌てて止めに入って来た。
「分かりました!お茶行きますから、警察だけは勘弁して下さい。」
「なんや?えらい慌てて?なんか悪いことでもしたんか?」
「いや・・・そうじゃなくて・・・・。」
星野は困った顔で俺の手を掴む。どうして警察を嫌がるのか、その理由は一つしかなかった。
「家族に会いたくないんやろ?」
「・・・・はい。」
「警察に行ったら、身内に引き取りに来てもらわなあかんもんな?」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「家の中におるくせに、ほとんど家族には顔会わせてないんやろ?部屋の中に引きこもって、死ぬことばっかり考えてるはずや、違うか?」
「・・・・はい・・・・。」
「まあええわ。約束通り俺とお茶飲みに行ってもらおか。ファミレスやったらこの時間でもやってるやろ。向こうに車を停めてるから、一緒に行こうや。」
そう言って肩を叩いて歩き出すと、星野はゆっくりと後ろをついて来た。
「足元気いつけや、暗いから。」
破れたフェンスを潜り、池の外に出る。月明かりは夜の道まで青く照らしていて、それが山の方まで続いている。
あの途中に鳥居でもあれば、さしずめ黄泉の国への入り口のように思えるだろう。
二人して車に向かって歩いていると、星野は唐突に尋ねてきた。
「あの・・・・聞きたいことがあるんです。」
「ん?なんや?」
「この前・・・ここで子供の遺体が引き揚げられましたよね?」
「おお、一ヶ月前にな。ニュースで知ったんか?」
そう聞き返すと、星野は足を止めた。そして思いもよらない事を口走った。
「・・・・ニュースでも・・・です。」
「ニュースでも・・・?どういうことや?」
俺も足を止めて振り返る。星明の顔に月明かりが射し、ますます生気のない顔色になっている。その向こうには不気味に山への道が続いていて、まるで彼が幽霊のように思えた。
「星野君、どういうことか詳しい聞かせてくれ。」
口調が刑事に戻る。彼の方に歩み寄り、鋭い眼光で威圧した。
「君はその事件について何か知ってるんか?もしそれやったら、詳しく話を聞かせてくれんか?」
「・・・・分かりました。でもその前に一つだけ教えてほしいことがあるんです。」
「なんや?」
「子供の遺体を池から引き揚げる時に、中に潜ったはずですよね?」
「そうや。あの子の遺体はコンクリに詰められて沈んどったさかいな。それがどうした?」
「じゃあ・・・・他にも遺体がありませんでしたか?」
「他の遺体?それはどういう意味や?」
「そのままの意味です。この池に、あの子以外の遺体が沈んでいるはずなんです。若い女性の遺体が・・・・。」
星野は月に照らされた青黒い瞳を向けてくる。俺は彼の目を見返し、この青年がただの病人ではないことを悟った。
しばらく沈黙が流れ、やがて俺の方から歩み寄った。すると彼の背後に、一瞬だけ白い影のようなものが見えた。
何かと思って目を凝らすと、それはとても気持ちの悪い動きで池の方に消えていった。
「なんや・・・今のは・・・・。」
妙な汗を掻きながら池を見つめていると、星野は首を押えて痛そうにしていた。
「どうした?」
近寄って首元を覗きこんでみると、そこにはくっきりと人の手形がついていた。
「なんやこれ・・・どうしたんや?」
心配になって手を触れてみると、まるで氷のように冷たかった。
「大丈夫か?首が痛むんか?」
「いえ・・・・大丈夫です。すぐ消えますから。」
星野は目を閉じて首をさすっていた。そして池の方を向き、一言だけ呟いた。
「・・・お母さん・・・・。」
《・・・・・お母さん・・・・・?》
何を言っているのか分からず、眉を寄せて睨んだ。やはりこの青年はこのまま帰すわけにはいかない。じっくりと詳しく話を聞く必要がある。
「星野君、悪いけどやっぱり警察に来てもらおか。」
「それは・・・・・・、」
「嫌とは言わせへんで。いくら拒否しても、君を警察に連れて行くことくらいわけないんや。」
「・・・・・分かりました。どうせファミレスで話せるようなことじゃないですもんね。」
「その通りや。まあこんな所におってもしゃあないから、早よ車に戻ろ。」
彼の背中を押しながら、車を停めてある空き地に戻る。月に雲がかかり、辺りを照らしていた光が消える。池の方を振り返ると、水面にぼんやりと白い影浮かんでいた。


            *


「自殺未遂の青年を保護した。ちょっと部屋使うで。」
星野の背中を押しながら、受付を通って取調室に向かう。若い警官が「御苦労様です」と挨拶を返し、慣れない様子で酔っぱらいの相手をしていた。
「ほい、中に入ってや。」
取調室のドアを開け、中に手を向ける。星野は緊張した面持ちで部屋の中を見渡していた。
「ドラマで見るのと大差ないやろ?」
「ええ・・・そっくりそのままって感じです。」
「ああいうのはよう調べて作ってあるみたいやからな。まあまあ、そこの椅子に座ってや。」
背中を押してテーブルの前の椅子に座らせ、外に向かって「茶あ持って来て!」と叫んだ。
「飯はもう食ったんか?」
「いや・・・最近食べてなくて・・・・。」
「そらあかんで。食べる気力がないのは分かるけど、身体まで壊したら意味ないからな。」
「・・・はあ・・・・。」
「ああ、言うとくけどカツ丼は出えへんで。あれはドラマだけな。」
「分かってます。」
星野は初めて笑顔を見せた。こうして笑うと、とても三十を超えた男には見えない。元々が童顔ということもあるだろうが、まるで大学生でも通るくらいの年齢に見えた。
「若いってよう言われへんか?」
「ああ・・・言われます。でも子供っぽいとも。」
「ははは、確かにちょっと幼い感じはするな。まるでうちの息子と喋ってるみたいや。」
「息子さんがいてはるんですか?」
「二人な。上が大学生で、下は中学や。どっちもやんちゃで困ったもんやで。」
さっきとは別の若い警官がお茶を運んで来て、頭を下げて去っていく。最近は安易に女にお茶くみを頼めないから、小さな用事を言う時でもいちいち気を使ってしまう。
これも時代だと言えばそれまでだが、どうにも違和感を覚えるのは俺が古い人間だからだろう。
「まあまあ、カツ丼は出えへんけどお茶くらい飲んでや。」
「ありがとうございます。」
「タバコも吸うてええで。」
「ああ・・・じゃあ・・・・。」
遠慮がちにタバコを取り出したので、サッと火を点けてやった。
「すいません。」
「タバコ吸うんやな。まあこっちからすすめといてあれやけど。」
「よく意外だって言われます。」
「そうやろ、あんまり吸いそうな感じやないからな。」
星野はまた笑顔を見せ、美味そうにタバコを吹かしていた。どうやら少しずつ緊張がほぐれてきたようだ。
「ほなそろそろさっきの続きを聞かせてもらおか。タバコ吸いながらでええから。」
「ああ、はい・・・・。」
星野は律儀にタバコを消し、背筋を伸ばして座り直した。
「さっき言うてたアレ・・・・どういうことなんや?あの池に別の遺体が沈んでるって。」
「ああ・・・あれはですね、昔にあそこで自殺をした女性がいるんですよ。」
「自殺・・・?どれくらい前や?」
「ええっと・・・僕が生まれて一年も経ってない頃だから、三十二年近く前です。」
「三十二年か・・・えらい前やな。それで、君はその女性を知ってるんか?」
「はい、その人は野々村幸子っていって、僕の母なんです。」
「君のお母さん?いやでも・・・君のお母さんはまだ生きてはるやないか?」
「いえ・・・今の母は実の母じゃないんです。」
「ほな連れ子かなんかか?」
「・・・・ちょっと複雑なんですけど、最後まで聞いてもらえますか?」
「もちろんや。ゆっくりでええから落ち着いて話し。」
そう言うと星野はニコリと笑い、落ち着いた口調で話し始めた。途中で詰まる部分もあったが、それでも丁寧な口調で淡々と語っていった。
そして説明を終えると、「もう一本タバコいいですか?」と尋ねた。
「おう、好きなだけ吸うてや。」
俺に気を使ってか、こちらが火を点けてやる前に自分のライターを取り出していた。そして深く煙を吸い込み、ここへ来た時よりかなりスッキリした顔をしていた。
「なんか・・・・ちょっと心が軽くなりました。」
「そらそうやろ。そんな秘密はおいそれと人に話せるもんとちゃうからな。ずっと身内だけで抱えてた問題なんやろ?」
「ええ、でも最近まで僕は仲間外れにされてたんですよ。」
「仲間外れ?」
「僕ってあまり精神的に強い方じゃないから、家族が気を使って教えてくれなかったんです。」
「まあなあ・・・・精神的に強くあろうがなかろうが、中々本人には話されへんやろ。それで、君はどうやってそのことを知ったんや?」
そう尋ねると、星野は「笑わないで聞いて下さいよ」と言った。
「あの池で電線で巻かれた事故があったじゃないですか?あの被害者の男の愛人が、僕の父の愛人でもあったんです。」
「それは知っとる。その女を巡って喧嘩になって、財布とケータイを盗られてしもたんやからな。おかげで身元を探るのが遅れたわ。」
「そうですね。それでその財布とケータイを返しに、警察の人が家まで来たでしょ?」
「そら行くよ。事件でない以上は持ち主に返さなあかんからな。」
「でもそれがきっかけで、母に浮気がバレてしまったんです。なんであんたの財布とケータイが盗られてたんかって。」
「ああ・・・そらしゃあないわ。警察はそんなとこまで考慮せえへんからな。」
「ですよね。父は誤魔化しきれなくなって、本当のことを喋っちゃったんです。そしたら母が鬼のように怒っちゃって・・・・・。
妹を妊娠させた前科があるから、今回ばかりは許せなかったんでしょうね。」
「なんというか・・・修羅場が目に浮かぶな。」
「しかも警察の人が来るまでは、どこかに落としたとか嘘をついてたもんだから、余計に怒らせちゃったんです。だから母は勢い余って、昔のことに触れちゃって。」
「君の出生のことを喋ってしもたんか?」
「はい。鬼みたいに喚き散らした後、しまったっていう顔をしてましたけどね。でも言っちゃったもんは取り消せないから、バツが悪そうに黙ってましたけど。」
「そらまた・・・・なんとも言えん展開やな。」
思わず苦笑しそうになるが、何とか笑いを堪えた。俺もタバコを咥え、深く煙を吸い込んで天井に吹きつけた。
「君を見た時、なんか不思議な感じの青年やなと思ったんや。心を病んでるのは分かったけど、でもそれだけじゃない感じはしてた。
なんて言うか・・・・あまりお母さんやお姉さんとは似てないタイプやなと。」
「そりゃそうですよ。母親が別なんですから。」
「そうかあ・・・そんな過去があったとはなあ・・・。それで、君の実のお母さんは自殺したって言うてたけど、それも身内しか知らん事実なんやな?」
「はい、警察は失踪者として扱ったはずです。でも行方不明になって七年経つと、死んだことになるんですよね?」
「法的にはな。でも実際に死んでたわけや。それもあの池の中で。」
「だからお尋ねしたんです。あの池の中に、若い女性の遺体がなかったかって。」
星野はタバコを消し、目に強い光を宿した。その眼光は先ほど池で見た時と同じように、少し不気味に感じられた。俺はその目を見返し、タバコを灰皿に押し付けた。
「残念ながら、あの少年以外の遺体は出ておこへんかったな。」
「そうですか・・・。まあ仕方ないですよね。三十年以上も前のことなんだから。」
「あの少年みたいにコンクリに詰められてたら別やけど、生身のまま飛び込んだんやったら残ってないやろ。池の生き物が分解して、土に還ってるはずや。」
「・・・・・分かりました。それだけ聞ければ充分です。」
星野は納得したように頷き、また生気の無い顔で黙ってしまった。
「君は・・・お母さんのところに行きたかったんか?」
「・・・・どうですかね?自分でもよく分かりません。でも前からなぜかあの池が気になってて、夜中になると行っちゃうんですよ。」
「自殺する為だけじゃなしにか?」
「そうですね・・・。でも頻繁に通うようになったのは、死のうと思ってからです。」
「池の存在は前から知ってたわけや?」
「はい、子供の頃に何度か遊んだので。」
「そうか・・・・ほなこれで君の聞きたいことはお終いやな?」
「はい。ああ・・・でも・・・・。」
「でも・・・・?」
「・・・いや、今はいいです。刑事さんも僕に聞きたいことがあるみたいだから。それが終わってからでいいです。」
星野はお茶をすすり、タバコを吸おうかどうしようか迷っているようだった。
「遠慮せんと吸いや。」
「はい・・・でも切れちゃったんですよね、タバコ・・・。」
「ほな俺のやろ。ちょっとキツイやつやけどな。」
タバコを抜いて差し出すと、星野は会釈しながら受け取った。その時首元に目をやると、さっきの手形が綺麗に消えていた。
「アレ・・・治ったんか?」
そう尋ねて首を指すと、「ああ、ほんまや」と撫でていた。
「あれは自分でやったんか?」
「いや、僕ではないです。」
「ほな誰がやったんや?相当強い力で握らんと、あんな風にはならへんで?」
「・・・・それは後でお話しします。今は刑事さんのお話をどうぞ。」
星野の目にまた怪しげな光が戻って来る。月もないのに月に照らされたような、神秘的で不気味な眼だった。
《こいつ・・・やっぱりちょっとおかしいな・・・。いったい何を隠してんのや?》
ここまで話を聞いて、ただの大人しい青年でないことは分かった。いったいあの眼光の奥には何があるのか、何としても探ってやりたくなった。
湯呑のお茶を飲み干し、正面からこの青年の目を見据えた。普通なら刑事にじっと睨まれると、相手はたじろぐものだ。しかし星野はより眼光を増して睨み返してきた。
「まず聞きたいんやけど、君はあの少年のことをどこで知ったんや?」
「どこで知った・・・・?」
「さっき自分で言うてたやろ?ニュースだけで知ったわけじゃないって。あれはどういう意味なんかなと思ってな。」
「ああ、それはですね・・・・・。」
星野はニコリと笑うが、すぐに暗い顔になった。そしてタバコの火を見つめながら、囁くような声で言った。
「今から言うこと・・・・馬鹿にしないで聞いてもらえますか?」
「馬鹿になんかせえへんよ。何でも話してみ。」
「・・・・僕は確かに精神を病んでいますが、それでも頭は正常なんです。そのことを分かった上で、これから話すことを聞いて下さい。」
随分慎重に前置きするもんだと思った。やはりあの眼の奥には、何か大きな秘密があるらしい。俺は腕を組んで座り直し、じっと彼の話に耳を傾けた。
「実は・・・・あの少年の魂に会ったんです。」
「少年の魂・・・?」
「はい。僕の頭の中に出て来て、あの池に沈められたことを教えてくれたんです。」
「・・・・・・・・・・・。」
・・・・・これは、どう捉えるべきか・・・・・?
夢で見たことを現実と錯覚しているのか?それとも現実と空想の区別がつかないほど、精神を病んでいるということか?俺は精神科医ではないので、彼の心の状態は計りかねる。
しかしまともな状態でないことは確かだ。
「・・・やっぱり頭がおかしいと思いますか?」
「いいや、馬鹿にせえへんって約束したやろ。とりあえず最後まで話してみ。」
「はい・・・・・。」
星野の目に少しばかりの迷いが出る。もし途中で馬鹿にしたら、きっと最後まで話すのをやめてしまうだろう。
しかしまあ、そうなったらそうなったで構わない。ここは警察署であって病院ではない。俺の仕事は犯罪者を捕まえることであって、病人を治すことじゃない。
彼の話す気が失せたのなら、その時が家に帰す時だ。
「ええよ、ちゃんと聞いてるから。遠慮せんと話しみ。」
「はい・・・・。ええっと、それでですね、あの少年はとても可哀想な子なんです。青い瞳をしたとても可愛い子なのに、母親に殺されてしまったんです。
まだ子供なのに、人生に意味が無いって信じることで、自分の死を納得しようとしていました。」
その話を聞いた途端、新しく咥えたタバコを落としてしまった。星野は構わず先を続けようとするが、俺は慌てて止めた。
「ちょ・・・ちょっと待て!今なんて言うた?」
「え?何がですか?」
「いや・・・さっきの話や!あの少年のところのくだりや。もう一回言うてくれ。」
「・・・いいですよ。あの子はとても可哀想な子で、母親に殺されてしまったんです。青い瞳をしたすごく可愛らしい子なのに・・・・・、」
「そ・・・そこでストップ!今のもう一回や!」
「え?・・・・だから、あの子は可哀想な子で・・・・、」
「そこじゃない!その後や!」
「その後・・・・?ああ、青い瞳ってことですか?」
「そうや!君・・・・なんでそのこと知ってんねん?」
「なんでって・・・・直接見たからですよ。あの子は日本人のクセに、青い瞳をしていたんです。それがとても印象的で、今でもはっきりと覚えているんです。」
「いや・・・・直接見たって・・・そんなわけないやろ。あの子はもう死んでるんやぞ?それやったらどうやってそれを知るねん?」
この青年は自分が言っている意味の重大さを理解していない。あの少年の瞳が青いことは、どのメディアでも伝えられていないのだ。
しかも母親が息子を毛嫌いしていたせいで、写真まで全部捨てられていた。
だからあの少年の目の色を知っているのは、あの子を直接見たことがある人物か、捜査であの母親を取り調べた者だけだ。
それなのにこの青年はあの少年の目の色を知っていた。仮にあてずっぽうで適当に言っただけだとしても、普通は日本人の子供の目が青いなんて言わないだろう。
「なあ・・・そこんとこ詳しく教えてくれへんか?なんで君はあの少年の目の色が青いと知ってるんや?ここは大事なところやから、正直に答えてくれ。」
「正直に答えてますよ。僕は直接あの子に会ったんです。魂だけになったあの子が、僕の頭に出て来たんですから。その時にこの目で見ました。」
「いや、だから・・・・それは君の頭の中の話やろ?君はどっかであの子を実際に見たんと違うか?
そうでないとあの子の目の色を知ってる説明がつかへんねん。ここは正直に答えてや、な?」
身を乗り出して見つめると、彼は急に目を伏せてしまった。
「どうした?調子でも悪いか?」
肩を叩いて問いかけると、小さく首を振った。
「いえ・・・・そうじゃなくて・・・。」
「ほなどないしたんや?さっきまであんなにようさん喋ってたやないか。」
「それは・・・・刑事さんが真剣に僕の話を聞いてくれてたからです。でも今はそうじゃない・・・。今は・・・僕のことを頭のおかしい奴やと思ってるんでしょ?」
「それは・・・・・・。」
しまったと思った。とんでもないことを言い出すものだから、つい興奮してしまった。ここは大人しく話を聞くべきだったか・・・・。
案の定、星野は黙り込んでしまった。何を問いかけても答えず、ただ自分の手元を見つめているだけだった。
どうしたものかと困り果てていると、お茶を運んできた若い警官が入って来た。
「すみません三和さん・・・ちょっといいですか?」
「どないした?」
「今年配の夫婦が来られていて、家から抜け出した息子さんを捜しているそうなんです。」
「・・・・なんていう名前や?」
「星野広明というそうです。歳は三十二で、うつ病を患っていると言ってました。」
「・・・・そうか、なら少しだけ待ってもらえ。すぐに行くから。」
「分かりました。」
パタンとドアが閉じられ、俺は星野広明に向かい合った。
「星野君、ご両親が迎えに来られてるそうや。」
「・・・・会いたくないです。」
「そうはいかん。家族が迎えに来た以上、君は帰らなあかんのや。」
「でも・・・・刑事さんは僕の話を聞きたくないんですか?」
「聞きたいよ。でも君は話す気がないんやろ?」
「・・・・親に会うくらいなら、刑事さんに全部話します・・・。」
「そうか。それはありがたいことやけど、今は無理や。君はあくまで自殺未遂で保護されとるだけやからな。
ご両親が迎えに来られた以上、ここには置いとかれへんのや、分かるな?」
「・・・・僕はもう大人です。自分の意志でここにいます。」
「ははは、よう言うわ。死のうとして連れて来られたくせに。」
肩を揺らして笑うと、星野は怒りのこもった目で睨んできた。
《ようやく人間らしい目を見せたな。まだこういう感情が残ってるなら大丈夫やろ。》
俺はテーブルの上の紙とペンを引き寄せ、サッと自分のケータイ番号を書いた。
「また話したくなったら、いつでも掛けてき。」
「・・・・・・・・・・・・。」
星野は黙ってそのメモを見つめ、頭を下げてポケットにしまった。
「ほな帰るか?」
「・・・・・・はい。」
「あんまり落ち込んだらあかんで。自分が思ってるほど、周りは君のことを馬鹿にしたりせえへん。ご両親ならなおさらや。」
彼を立たせ、背中を押して部屋を出て行く。そして両親のところまで連れて行くと、申し訳なさそうに目を伏せていた。
「広明・・・・よかったあ・・・・。」
母はくしゃくしゃに顔を歪めて手を握っていた。横に立つ父も安心したように肩を叩き、小さな笑みを見せていた。
そして何度も頭を下げ、息子の背中を押しながら外へと出て行った。俺も後をついて行き、軽く手を上げて別れを告げた。
父の運転する車の中から、星野は頭を下げた。そして再び怪しげな光を目に宿し、何かを言いたそうにこちらを見つめていた。
《今はゆっくり休め。次に会った時は、嫌っちゅうくらい話を聞かせてもらうから。》
不思議な青年を乗せた車は、吸いこまれるように夜の街へと消えて行った。

水面の白影 第四話 家族を求めて

  • 2014.10.03 Friday
  • 17:44
九月になってもまだセミが鳴いている。小さな頃はこの声が好きだったけど、ある時を境に嫌いになった。
あれはまだ私が三歳の時、母が実の兄の子供を妊娠した。そのせいで親族会議が開かれ、母はお腹の子供をおろすことを強要されたのだ。
しかし必死に抵抗したおかげで、何とか子供を守ることが出来た。
まだ小さかった私は事の重大さに気づかず、ただ弟が出来ることを喜んでいた。やがて弟が産まれ、広明と名づけられた。
白い肌にぷくぷくとした手足をしていて、とても可愛い赤ちゃんだった。私は家族が増えたことを喜んだし、これからいっぱい弟と遊ぶことが出来ると思っていた。
しかしそんな風に幸せを感じていたのは私だけで、大人たちは戸惑っていた。
『実の兄の子を産むなんて、頭がどうかしている』、『それ以前に兄妹でそんな行為に及ぶなんて、精神がおかしいとしか思えない』
親戚も近所の人たちも、辛い言葉を母に投げかけた。その中でも一番酷いことを言ったのは父だった。
『くたばれクズ女!』『気持ち悪い!そんな赤ん坊を近づけるな!』『浅子、あの赤ちゃんに触ったら駄目だよ。手が汚れるから。』
父は鬼のような顔でボロクソに言い、やがては私を連れて家を飛び出した。
正直・・・・私は悲しかった。せっかく弟が出来たのに、どうして離れて暮らさなければいけないのか?
お父さんはどうしてお母さんのことをイジメるのか?お兄ちゃんの子供を産むことは、そんなに悪いことなのか?
三歳の私には分からないことだらけで、広明に会えないことを悲しく思っていた。
けど大人になった今なら、父の怒りが理解できる。周りの大人たちの冷ややかな反応も仕方ないだろう。でもそれは、母と伯父が悪いのであって、広明に責任があるわけじゃない。
あの子はこの世に生を受けて、一人の人間として産まれてきただけなのだから・・・・・。
父に連れられて家を出たあの日、今日みたいにセミが鳴いていた。あの時から私はこの声が嫌いになった。
ボーっと昔のことを考えながら運転していると、広明の家が近づいてきた。
《今日こそは・・・・今日こそは広明に会いたい。血を分けた姉弟なんだから、会って当然なのよ。私は悪いことをしに来ているわけじゃない。》
近くの公民館に車を停めに行くと、一台の車が停まっていた。私はその車の横に停車し、深呼吸をしてから外に出た。
《今まで何度も邪魔されてきた。でも・・・・今日は絶対に会うんだ・・・。私にはもう・・・あの子しかいないんだから・・・・・。》
決意を固くして、広明の家まで向かう。夏草の茂る細い路地を抜け、少しだけ大きな通りに出た。そこを左折して真っ直ぐ歩けば、すぐに広明の家だ。
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
・・・・緊張していた。今までにも何度か会いに来たことはあったが、今日はいつもより緊張している。それはきっと、昨日見た夢のせいだろう。
私はかつて、人を殺したことがある・・・それも自分の息子を・・・・。
愛しいはずの息子だったのに、ある時から憎しみの対象に変わってしまった。それは当時の旦那のせいで、彼はひどく暴力を振るうクセがあった。
素面の時は大人しいのに、酒を飲むと一変してしまうのだ。ことあるごとに私を殴り、そして息子のことまで罵った。
『お前の産んだガキは、ロクに目も見えない。なんで外人みたいに青い瞳をしてるんだ?』
息子は産まれた時から目が悪くて、まるで外国人のように青い瞳をしていた。私はそれを美しいと思っていたのに、旦那は毛嫌いしていた。
『もっとマトモなガキを産めなかったのか?こんな欠陥品産みやがって・・・。』
息子に対する暴力と暴言は日増しに強くなったが、それでも私は息子を守っていた。しかしある時、旦那が口にしてはいけないことを口にした。
『このガキも、お前の家系の遺伝子を持ってるんだろ?いずれ大人になったら、母親のお前を犯して妊娠させたりしてな。』
きっと旦那にとっては、いつもと変わらない暴言の一つだったと思う。しかし私にとっては違った。あの忌まわしい伯父のこと・・・・そして広明を置いて自殺した母のこと。
思い出したくない過去が蘇り、初めて旦那に抵抗した。私は酷く殴られて怪我をしたけど、もうこの旦那とは一緒にいられないと思った。
だから離婚届と指輪を置いて、次の日の朝に息子を連れて家を出たのだ。酔いの冷めた旦那は、ひどく後悔していた。
何度も復縁を迫られたけど、きっぱりと断った。そして慰謝料と養育費を請求しないことを条件に、離婚に同意してくれたのだ。
《これで・・・これでようやく息子と二人だけで暮らせる。きっとここから幸せな家庭が始まるんだ。》
あの時は、必ず幸せな家庭が築けると信じていた。しかし・・・・そうはならなかった。
旦那に言われたあの暴言が気に掛り、どうしても息子を愛することが出来なくなってしまったのだ。
この子ももしかしたら、大人になった時に狂うんじゃないか?旦那の言ったとおり、私はこの子に犯されて、母みたいに身内の子供を妊娠するんじゃないか?
一度そう思い始めると、もう息子を愛することは出来なくなってしまった。触られるのも避けるようになったし、手を繋ぐのでさえ吐き気を覚えるようになった。
《きっと・・・イヤらしい目で私を見てるんだ・・・。今は違ったとしても、性に目覚めた時に何をされるか分かったもんじゃない・・・・。》
母のこと、そして伯父のことは確実にトラウマになっていて、息子と接する度に傷口が抉られるようだった。
そしてあまりに私が冷たくするもんだから、我慢の限界が来た息子が無理矢理に抱きついて来ようとした。
『お母さん、僕のこと嫌わないで。』
泣きそうな目でそう言って、私に抱きついてきた。その時ばかりは、息子に対して申し訳ない気持ちになった。眠っていた愛情も目を覚まし、息子を抱きしめてやったのだ。
でも・・・・無理だった。息子の手がたまたま私の胸に触れた時、ぞわりと悪寒が走った。
《このガキ・・・・もう性に目覚めてる・・・・・。》
怖いと思った・・・・。このまま抱きしめていたら、いったい何をされるんだろうと不安だった。だから息子を突き飛ばし、耳を塞ぎたくなるような言葉でなじった。
息子はひたすらごめんなさいと謝り、そして僕のことを嫌わないでと言った。
『僕なんにも悪いことしてないよ・・・。もう怒らないで・・・・。』
その言葉に一瞬だじろいだけど、それでも私は止まらなかった。そして気がつけば息子の首を絞めにかかっていた。
『苦しい・・・・・お母さん・・・・・。』
あの子は手を伸ばし、目にいっぱい涙を溜めていた。
『ごめんなさい・・・目が悪くてごめんなさい・・・・。外人みたいな目でごめんなさい。』
青い瞳から涙が落ち、必死にの目のことを謝っていた。それを聞いた時、また旦那から言われたあの言葉を思い出した。
『そうだよ、あんたの目が悪いから殺すの。ちゃんと生まれてきてくれれば、こんなことにはならなかった。』
私はとても冷たい声でそう言った。すると息子は抵抗するのをやめ、身体から力を抜いた。そして絶命する前に、一言だけこう呟いた。
『僕・・・・生まれてきたらいけなかったの・・・・・・?』
そう呟いた次の瞬間、あの子の首を折ってしまった。殺すつもりなんて無かったのに、力を入れ過ぎて殺してしまったのだ。
パニックになって息子を放すと、青い目から涙が垂れていた。私の手には細い首の感触が残り、骨を負った時の音がこびりついていた。
しかしパニックになりながらも、不思議と冷静だった。さて、
《この死体をどう処分しようか?やるならなるべく早い方がいい。でも私一人で出来るだろうか?
誰かに相談して協力してもらった方が・・・・・、いやいや!それは駄目だ!下手に人に話せば、かえって危険だ。
唯一の頼りだった父は二年前に他界しているし、今の私には信頼出来る人なんていない。だったら・・・・一人でどうにかするしかない。
絶対に周りにバレることなく、何としてもこの子を処分しないといけない。どうする?どうしたらいい・・・?》
息子の死体を見つめながら、なるべく冷静になって考えた。
《ああ・・・・そうだ。お母さんが自殺したあの池に沈めよう。あそこってけっこう深いし、誰も近づかないから、きっとバレないはずだ。》
そう決めたらすぐに行動に移った。服をしまう大きな箱をひっくり返し、その中に息子を入れた。こういう時は火事場の馬鹿力が出るもので、重い箱を一人で車まで運んだ。
そして人目につかない夜まで待って、車に乗ってあの池に向かった。途中で工事現場があったので、そこからいくらかセメントを拝借した。
父が土建屋だったので、セメントの扱い方は教えてもらったことがある。これで準備は万端。あとはあの池に行き、息子をコンクリートに詰めて沈めるだけだ。
池に着くと、月明かりで青く照らされていた。これはとても幸運なことで、月明かりを頼りにスムーズに作業をこなすことが出来た。
そして全ての準備が整い、箱に蓋をしてから池に滑り込ませた。周りの護岸が急な勾配になっているおかげで、楽に滑り込ませることが出来た。
息子の入った箱は勾配を滑り落ち、池の中へ沈んでいく。それをしっかり確認すると、ドッと疲れが出て来た。
《人を一人処分するって、こんなに大変なんだ・・・・・。》
無理をしたせいで疲れが出て来て、家に帰ってシャワーを浴びた。その日はなぜかぐっすり眠れて、次の日も大して気にはならなかった。
このまま冷静な気持ちが続いているうちに、警察に行って息子の捜索願を出した。
《学校に行った息子が帰って来ないんです!》
警察に事細かに事情を聞かれたが、全て嘘をつき通した。三和という刑事だけは私を疑っていたみたいだけど、結局は最後まで嘘を貫いた。
それから数日間は色々と大変だった。息子を捜すためにビラが貼られたり、地元の新聞に載ったり・・・・・。
しかし時が経つにつれて風化して、今ではあの子のことを覚えているのは私くらいだった。
完璧だと思った。私は大きな仕事をやってのけた。旦那からも息子からも解放されたし、これからまた新しい人生が歩けると思っていた。
しかし・・・・・そうはならなかった。月日が経つにつれて、激しい罪悪感に見舞われたのだ。
息子は毎日のように夢の中に出て来て、私に『お母さん』と呼びかける。そして死ぬ間際に言った『僕・・・生まれてきたらいけなかったの?』と問いかけて来るのだ。
私はその罪悪感に耐えかねて精神を病み、病院へ通うようになった。身体からは生気が失せ、まるで幽霊みたいな顔になってしまった。
息子を殺した罪、そして血を分けた家族が誰もいなくなってしまった孤独。もういっそのこと、私もあの池に身を沈めようかと考えていた。
あそこには息子もいるし、母だっている。ちゃんと謝れば、きっと許してもらえるはずだ。
だから二人の元に行こう。そう決めた時、ふと思い出した。
《いや・・・・まだいる・・・。私には血を分けた弟がいるんだ。》
幼い頃に引き離され、今に至るまで会うことがなかった弟がいる。
《そうだ、私は一人じゃないんだ。だから広明に会いに行こう。きっと向こうだって、生き別れた姉が会いに来たら嬉しいに決まっている。》
そう思って広明の家に行ったのだが、いつも邪魔をされた。広明の偽の母と姉が、毎回私を追い返すのだ。
私はほんの少しだけでもいいから、話をさせてほしいと頼んだ。あの子の出生のことはバラしたりしないから、少しだけでも話をさせてくれと。
しかしあの女たちは、絶対に認めてくれなかった。取りつく島もない様子で、私を追い返したのだ。
それから何度か足を運んだが、結果は同じだった。ならば直接広明に会ってやろうと思ったのだが、あの子は中々家から出て来なかった。
どうやらニートというやつらしく、ほとんど家に籠っているらしい。これでは成す術がない。せっかく血を分けた家族がいるのに、話すどころか会うことさえ出来なかった。
それはとても辛いことで、ますます心を病んでいった。夜になれば息子の夢に襲われるし、昼になれば広明のことを考えてしまう。
だから病院でもらった薬をたくさん飲んだ。それもお酒と一緒に・・・。そうすれば悪い夢には襲われずに済むから。
しかし昨日はたまたま薬を切らしてしまい、素面のまま寝てしまった。そのせいでまた昔の夢を見てしまい、いてもたってもいられなくなって広明に会いに来た。
もう・・・・限界だった・・・・。
今日こそは何としても広明に会う。そしてたくさん話をして、私と一緒に住まないかと誘ってみるつもりだった。
しょせんあの女たちは偽の家族だ。だから私が本当の姉だと名乗り出れば、広明だって私を選ぶに決まっている。
ニートの弟を抱えるのは大変かもしれないが、もう一人でいるのは耐えられない。血の繋がった家族が、誰か一人でいいから傍にいてほしかった。
家の近くまでやって来ると、二階の窓が開いていた。少し離れて様子を窺うと、あの女と若い男がタバコを吹かしていた。
「優子・・・なんで私が来た時はいつもいるのよ・・・・。」
腹立たしく呟きながら、隣に立つ青年を見つめた。
「・・・・あれが広明・・・・?」
三歳の頃に分かれて以来、一度も弟には会っていない。しかしそれでも、一目見て彼が広明だと分かった。
「間違いない、あれが広明だ。あんなに大きくなって・・・・・。」
広明は昔から変わっていなかった。もちろん姿形は変わっているが、それでもあの子の持つ色は昔のままだった。
「ちょっと赤色の入った紫色・・・。邪なものを払って、身を守る色をしてる。」
これは滅多に人には言わないが、私にはその人間が持つ色が見える。優しい人なら淡い色、激しい人なら強い原色、それに変わった人ならシルバーや紫といった具合だ。
他にも様々な色の組み合わせがあるけれど、広明の色は悪くない。悪運から身を守る紫、それでいて闘争心の赤も入っているから、きっと強い子なのだろうと思った。
でも今はちょっと色が弱っているから、もしかしたら最近病気でもしたのかもしれない。それも身体の方ではなく、心の方の病気を・・・・・。
人に喋ると馬鹿にされるから口にしないけど、私には確かに人間の持つ色が見える。そして広明の持つ赤紫の色は、私の持つ黄緑と相性がピッタリだ。
これならば、会って話し合えばすぐに仲良くなれるはずだ。
色の相性は人間の相性。私と広明は、もし姉弟じゃなかったらベストカップルになれるくらいに相性が良かった。
「なんだか自信が出て来たな。こうなれば優子がいようが関係ない。このまま家に乗り込んで、広明を奪い取ってやる。」
そう決意して家に近づくが、やはり足が震えてしまった。私には闘争心の色は宿っていないから、誰かと争うのは苦手なのだ。
「優子は燃え上がるような赤・・・・。それも太陽のように強い光を放ってる。正面からぶつかったって私に勝ち目はないわ・・・。やっぱりここは優子が消えるまで待とう。」
少し離れた電柱に身を潜め、家の様子を窺う。するとしばらくしてから優子が出て来た。
「やばい・・・・。」
慌てて引き返し、コンビニに身を隠す。店から顔を覗かせて様子を窺うと、優子は門のところで広明と喋っていた。
「・・・優子が去ったら、すぐに家に行こう。」
店に入って雑誌を掴み、顔を隠して外の様子を窺う。しかしその時、ふと重要なことに気づいた。
「そういえば公民館に停まってたあの車・・・・あれって確か優子のやつじゃ・・・。」
あの車には見覚えがあった。確か優子は、あれと同じ赤いコンパクトカーに乗っていたはずだ。もしあれが優子の車だとしたら、私が来ていることがバレてしまう。
「優子のやつ・・・前に私の車のナンバーを控えてたからな・・・。もし車が見つかったら、また家に戻っちゃうかもしれない・・・・。」
こうしてはいられないと思い、すぐにコンビニを出て公民館に向かった。幸い優子は家の方を振り返っていて、こちらには気づいていなかった。
今がチャンスとばかりに駆け出し、すぐに公民館まで戻った。そして車を発進させ、近くにあるスーパーまで向かうことにした。
「危なかった・・・・せっかく来たのに、見つかったらまた追い返されちゃう。」
今日こそは何としても広明に会うのだから、優子に見つかるのはまずい。近くのスーパーまで行って車を停め、店に入って時間を潰すことにした。
「広明の色、やっぱりちょっと弱ってたなあ。何か買って行ってあげた方が喜ぶかもしれない。でもあの子の好きな物ってなんだろう?」
広明は私の四つ下だから、今は三十二のはずだ。それくらいの男が喜ぶ食べ物って、いったい何だろう?
前の旦那は辛い物が好きだったけど、広明とは持っている色が違った。それなら辛いものとは反対の、甘いものなら喜ぶかもしれない。
「広明の色の中に、ちょっと幼稚性が見えた・・・。ならケーキとかチョコレートとか、そういう子供が好きな食べ物がいいかも。」
お菓子のコーナーに行き、適当に甘いものを見繕う。そしてケーキとシュークリームを買い、ついでにジュースも買ってやった。
そこで自分の昼ご飯がまだだったことを思い出し、お総菜のコーナーに向かった。
ポテトサラダとキンピラごぼうを買い、自販機でジュースを買ってから食事に取りかかる。するとその時、ふと誰かの視線を感じて顔を上げた。
《なに・・・?誰かに見られてる?》
じっと辺りを見渡すと、トイレットペーパーが山積みされた陰から、真っ赤な強い色が見えた。
《あれは優子の色・・・。あいつ、私が来てたことに気づいてたんだ・・・。》
上手くまいたつもりなのに、どうやら気づかれていたらしい。
《あの女、ずっと私を尾けてたんだ・・・・。やっぱり気に食わない奴・・・。》
優子に見つかった以上、広明に会うのは困難だ。今日のところは大人しく退散した方がいいかもしれない。
私は優子に気づいていないフリをして食事を続けた。するとバッグの中のケータイが鳴って、口をもごもごさせながら確認してみた。
「非通知?イタズラか。」
こういうしょうもない電話を掛けて来る奴にはうんざりしてしまう。いったいイタズラ電話なんかして何が楽しいんだか。
冷めた気分になってケータイを戻そうとした時、ふとその手を止めた。
「・・・・なんで?なんでこのケータイにあの子の色が・・・・?」
手に持つピンクのケータイから、青の混じったシルバーの色が立ち昇っていた。そしてその中に、微かに黒い色が混じっている。
「これって浅斗の色じゃない。それに死人の色も混ざってるし・・・・。まさか・・・いくらなんでもそんなはずは・・・・。」
ケータイを持つ手が震える。息子の浅斗は青とシルバーの色を持っていた。こんな色は珍しいから、浅斗以外に考えられない。しかも死んだ人間が放つ黒い色まで混ざっている。
しばらく無言でケータイを見つめていたが、思い切って通話ボタンを押してみた。すると電話の向こうから、死んだはずの浅斗の声が聞こえて来た。
『もしもし?お母さん?』
「・・・・・・・・・・・。」
驚きのあまり、息が詰まってケータイを落としそうになる。
『分かる?僕だよ、浅斗。』
「・・・・うん、聞こえてる・・・・。」
『死んだのに電話を掛けてビックリした?』
「・・・・ちょっとね。いや・・・・だいぶビックリしたかな・・・・。」
正直に答えると、浅斗はクスクスと笑っていた。その声を聞いた瞬間、胸の中がカッと熱くなった。
今・・・・殺したはずの息子から電話が掛ってきている。どうしてこんな事が起きているのか分からないけど、なぜか胸が熱くなっていた。
『あのね、僕復讐することに決めたから、お母さんに言っておこうと思って。』
「復讐・・・・?ああ・・・そうだね、私が浅斗を殺したんだもんね・・・。恨まれても仕方ないね・・・・。」
『ううん、そうじゃなくて、あの男に復讐するの。僕とお母さんを苦しめた、あの男にね。』
「あの男って・・・・もしかしてお父さんのこと?」
『そうだよ。いっぱい僕を馬鹿にして、お母さんをイジメたあの男。』
「・・・・そう・・・私じゃなくて、お父さんに仕返しするんだ・・・・。でもどうして?浅斗を殺したのはお母さんなのに、どうしてお父さんの方に復讐するの?」
そう尋ねると、浅斗はまたクスクスと笑った。
『本当はね、お母さんに復讐するつもりだったんだ。でもね、気が変わったんだ。優しいお兄さんが、お母さんを許してあげてくれって頼んだから。』
「優しいお兄さん?誰のこと?」
『それはお母さんの弟。広明っていうお兄さんだよ。』
「広明・・・・・。」
まさか浅斗の口から広明の名前が出て来るとは思わず、心臓がトクンと跳ね上がった。
『あのお兄さんね、とっても優しいんだ。僕が一人ぼっちで池の中に沈んでいたら、すごく同情してくれたんだ。死ぬのが怖いクセに、僕と一緒に来てくれるって言ったんだよ。』
「広明が・・・・・。」
『それでね、僕が人生に意味なんて無いって言ったら、そんなことはないって言い返すんだよ。自分は自殺しようとしてたクセに、人生にはちゃんと意味があるって教えてくれたんだ。』
「・・・・・・・・・・・・。」
なぜか胸が詰まる。油断すると、目に溜まった滴がこぼれてしまいそうだった。
『お母さん・・・・泣いてるの?』
「・・・・ちょっとだけね。でもちゃんと聞いてるから大丈夫だよ・・・。」
『うん。あのお兄さんは、はっきりと言ったんだ。人生には意味が無いなんて言えないって。
僕は人生が無意味だって信じることで、自分が死んだことを納得してたのにさ、面と向かってそう言うわけ。子供の僕には、人生に意味が無いなんて酷いことは言えないって。
それでね、自分が一緒に行ってやるから、お母さんを許してやってくれって言うんだ。だから僕は、お兄さんの優しさに免じてお母さんを許すことにしたんだ。
だからもうなんにも苦しまなくていいんだよ。』
「・・・・・・・・・・・・・・。」
泣くのが堪え切れずになって、思わず俯いてしまった。
普通こんなことを言うか?例え母親といえど、自分を殺した相手に向かって、気にしなくていいなんて言えるだろうか?
『お兄さんはね、色々と勘違いをしてたよ。偽物のお姉さんを本物のお姉さんだと思って、けっこうトンチンカンなことを言ってた。
でもね、きっとお母さんが本物のお姉さんだって知っても、同じことを言うと思う。それくらいに優しい人だから、僕はお兄さんのお願いを聞いてあげたんだ。
だからもうお母さんは苦しまなくていいよ。僕はあの男をやっつけて、お母さんの分まで復讐してあげるから。』
浅斗はとても明るい声で言った。それはこの子が生きている時の、真っ直ぐな声と変わらなかった。
「・・・ごめん・・・浅斗・・・・ダメなお母さんでごめん・・・・ごめんね・・・。」
胸の中が熱くなり過ぎて、思わず吐きそうになる。手で口元を押さえ、鼻水と涙でクシャクシャになった顔を拭った。
『いいよ、もう気にしてないから。それよりさ、一つだけ聞いてもいい?』
「・・・うん、いいよ・・・。なんでも聞いて・・・・。」
『僕さ、生まれて来てよかったのかな?僕が生まれてきたことに、ちゃんと意味はあった?』
唐突な質問に、すぐに答えを返すことが出来なかった。しばらく黙ったままケータイを握りしめ、ポロリと出て来た言葉を呟いた。
「・・・分からない・・・・。」
『分からない?自分で産んだクセに?』
「そうだね、お母さんが浅斗を産んだんだもんね・・・。でも生まれてきたことに意味があったかなんて、急には答えられないよ・・・・。」
『そっか・・・残念だなあ・・・・。だって僕はもう時間がないんだ。もうこの世に未練がないから、そろそろ逝かなきゃいけないから・・・・。』
「で、でも・・・・お父さんへの復讐は?それももうどうでもよくなった?」
『ううん、もう終わったんだ。お母さんと電話している間にやっちゃったからね。今は電線がグルグル巻きになって池に浮かんでるよ。』
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
それを聞いて少しだけ怖くなったが、私には何も言う資格はない。なぜなら私だって、浅斗を殺したんだから・・・・。
「ねえ浅斗。あなたが生まれて来たことに意味があるかどうかは、すぐには答えられない。でもね、一つだけ確かなことがあるよ。」
『確かなこと?それはなに?』
「浅斗が産まれてきた時、お母さんはすごく嬉しかったってこと。あの時の感動はずっと忘れないと思う。
だって・・・初めて自分の赤ちゃんを抱いたんだもの。その時の浅斗の温もりは、今でも覚えてる・・・・。」
『そっか・・・。じゃあお母さんが喜んだんなら、僕はちゃんと生まれてきた意味があったんだね。』
「うん・・・・。だから・・・・ごめんね、ほんとうにごめんなさい・・・・。」
『いいよ、それだけ聞ければ満足だから。』
浅斗はクスクスと笑って、『よかった』と呟いた。
『じゃあ僕はもう逝かなくちゃ。未練がなくなったら、あの池から出られるようになったからさ。』
「ずっと寂しい思いをさせてごめんね・・・。一人ぼっちで辛かったね。」
労わるようにそう言うと、浅斗は『一人じゃなかったよ』と答えた。
『だってあの池にいるのは僕だけじゃないもん。確かに一人といえば一人だったけど、それは寂しいって意味だからさ。でも僕以外にも未練のある人がいるんだよね。
まあお母さんなら知ってると思うけど。』
「私なら知ってる?どういうこと?」
『僕より先に、あの池に沈んだ人がいるでしょ?それが誰か、お母さんは知ってるはずだよ?』
そう問われて、眉を寄せて考えてみた。するとすぐに思い当たる人物があって、小さく叫んでしまった。
「ああ!もしかして・・・・私のお母さん?」
『そうだよ。だから僕のおばあちゃんだね。それにあのお兄さんの本当のお母さんでもある。』
「そっか・・・・そうだったね。それを覚えてたから、私は浅斗をあの池に・・・・。」
今の今まですっかり忘れていた。浅斗の言うとおり、母はあそこで命を絶ったんだ。
『あのね、おばあちゃんはまだまだ未練たっぷりなんだ。だからちょっとやそっとじゃあの池から出て行かないよ。
お兄さんには忠告してあるけど、お母さんもなるべくあの池には近づかないようにね。』
「うん・・・。いや、でもちょっと待って!広明に忠告ってことは、あの子に自分の過去を教えたってこと?」
『ううん、教えてないよ。だってあんなに優しくて繊細な人じゃ、きっとますます心を病んじゃうでしょ?だからあの池に近づかないようにって言っただけ。』
「そう・・・そっか・・・。」
この時、私はホッとしていた。なぜなら浅斗と話すうちに、ある決心がついていたからだ。
「ねえ浅斗・・・あなたの遺体は、今でもあの池に沈んでるの?」
『うん、あるよ。一番底の方に沈んでる。』
「そう・・・・分かった・・・。ありがとうね、逝く前に電話してくれて。」
そう言うと、浅斗は照れくさそうに笑った。
『嬉しかった?僕と話せて?』
「うん、すごく嬉しかった。もう二度と浅斗の声を聞くことはないと思ってたから。」
『じゃあさ、最後にこう言ってよ。僕のことが大好きだって。』
「いいよ、何度でも言ってあげる。お母さんは浅斗のことが大好きだよ。だから・・・もし生まれ変わっても、また私の子供に生まれてほしい。
今度は必ず・・・浅斗のことを大切にするから。」
『・・・・・・うん・・・・・。』
電話の向こうで、浅斗も泣いていることが分かった。もし出来るなら、今すぐこの腕で抱きしめたい。もし出来るなら、この命と引き換えにでも生き返らせてあげたい。
無理だと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。
『じゃあね、お母さん・・・・またね。』
「うん、またね、浅斗・・・・大好きだよ・・・・。」
電話は切れ、それと同時に色も消えた。私は大きく息を吸い込み、濡れた目をまたたいた。
「・・・・さて、やらなきゃいけないことが出来たから、さっさと行かなきゃ。」
心は決まった。今私がやるべきことは、広明と会うことじゃない。自分の犯した罪としっかり向き合うことだ。窓の外に目をやり、遠くにいるはずの浅斗を思い浮かべる。
すると車の中から睨んでいる優子と目が合い、しばらく見つめ合ってしまった。
「広明は・・・・あんたの弟。だからもう二度と関わらないわ。」
優子に向かって小さく頭を下げる。向こうはしばらく睨んでいたが、やがてどこかへ走り去ってしまった。
私も店を出て、やるべきことをやりに行く。でもその前に一度だけ広明の家に寄った。
するとなぜか大勢の警官が来ていて、家に近づくことが出来なかった。いったい何があったんだろうかと不安になるが、今は面倒事には関われない。
「広明・・・・きっとあなたは、私が実の姉だっていうことを永遠に知ることはないと思う。でもそれでいい・・・・・。今いる家族を大切にして、幸せになってね。」
名残惜しく広明の家を見つめ、警察署に向かって車を走らせる。途中で優子の車とすれ違ったが、もう彼女と会うこともないだろう。
今の私には何もない。ただ・・・自分の背負った罪があるだけだ。その罪を償う為に、警察署の前に車を停め、ゆっくりと中に入っていく。
いくつかの受付があるが、どこに行けばいいのか分からないので、とりあえず目の前の警官に話しかけた。
「あの・・・・・ちょっといいですか?」
まだ若い警官は愛想良く笑顔を振りまいてくれる。きっと道でも尋ねに来たと思ったんだろう。でもまあ・・・・それも間違いじゃないかもしれない。
私が罪を償うにはどうしたらいいか、若い警官でも教えてくれるだろう。ずっとずっと長い間抱えていた罪を、彼は黙って聞いてくれた。

水面の白影 第三話 遺された者

  • 2014.10.02 Thursday
  • 17:42
九月の半ばはまだまだ暑い。出来ればずっとエアコンの効いた部屋にいたいが、そうもいかない。窓を開けた車を走らせながら、この前のことを思い出した。
数日前に弟が病院に運ばれ、慌ててすっ飛んで行った。幸い命に別条はなかったが、急に呼吸が止まったと聞いた時は生きた心地がしなかった。
無事に退院して今日で十日目だが、一日おきに見舞いに行っている。三十を超えた弟にしょっちゅう見舞いに行くなんて、ただのブラコンだと姑に言われてしまったけど。
「別にええやんか、家族を心配して何が悪いんや。」
もし私がブラコンだとしたら、お前の息子は重度のマザコンだと言ってやりたい。良い人だと思って結婚したのに、何一つ自分の母親に逆らえないのだから。
「もしまた結婚する機会があるなら、もうあんな人はゴメンやわ。」
家事はしない、育児にも参加しない。おまけに四十を過ぎたおっさんだというのに、母親にべったり甘えている。
唯一救いがあるとすれば、それなりに稼ぎがいいことくらいだろう。結婚して身に染みて思うのは、やはり経済力というのは馬鹿に出来ないということだ。
いくら他の部分がダメだろうが、それなりの給料を持って帰って来てくれるのは助かる。
旦那が稼いでくれるおかげで、私はパートにも出ずに済む。そのおかげで育児に専念できるのはありがたかった。
「あのアホ姑にはなるべく子供を預けたくないからな。どんなアホな考えを吹き込まれるか分かったもんじゃないし。」
マザコンじゃない男などいないと、昔に女友達から言われた。しかしあそこまでのマザコンだと知っていれば、やっぱり結婚なんてなかっただろう。
でもそう考えると、うちの弟もかなりのマザコンかもしれない。
「シスコンはマザコンの亜種らしいしけど、もしそうなら広明も重度のマザコンやな。まあ広明を甘やかす私にも責任はあるけどさ。」
そう、広明は重度のマザコン、もといシスコンである。あいつが私に惚れているのは、かなり昔から知っている。
あれはいつだったか、私の寝込みを襲ったことがある。寝ている部屋に侵入して、キスをしたり胸を揉まれたりした。しかもトドメには、太ももに射精までしていきやがった。
あの時は寝たフリをして誤魔化したけど、もしあれ以上の行為に及んでいたら、首根っこを押さえて殴り倒してやるところだった。
「ほんまなら家族会議もんやで。許したったあたしに感謝しいや。」
やっぱり私は広明には甘いらしい。しかし家族会議にかけなかったのは、それなりに理由がある。
まず一つは広明のメンタルの弱さだ。もし両親の前に引っ張り出して、私の寝込みを襲ったなんてことを追及したら、あいつは立ち直れないだろう。
その上で私から嫌われたとあっては、これはもう本当に自殺しかねない。さすがにそこまで追い込むのは可哀想なので、二度とあんなことをしないと約束させることで許してやった。
そして二つ目の理由として、うちの複雑な家庭事情にある。これはガラスのハートの広明には教えていないが、あの子は我が家の子供ではない。
広明は、父が別の女に産ませた異母姉弟なのだ。しかもその女というのが、実の妹である。父は重度のシスコンで、昔っから妹にべったりだった。
それは結婚後も相変わらずで、業を煮やした母が離婚を切り出したことがあった。
その時に少しだけ妹と距離を置いたようだが、母の見えないところではしっかりと会っていた。そして私が産まれて四年後、父は実の妹を妊娠させやがった。
事情を知った母は、親族一同を呼び集めて父とその妹を追及した。
あの時の母の剣幕ときたら今でも覚えている。台所から包丁を持ち出し、父の腹に刺したのだ。幸い隣にいた叔父が止めに入ったので、大事にはならずに済んだけど・・・。
あの時、母は血のついた包丁を握ったまま、父に二つの選択肢を突きつけた。
一つ、私と離婚する。二つ、妹に子供をおろさせて、二度と彼女に会わない。そしてどちらを選ぶにせよ、多額の慰謝料を払うというものだった。
父は迷うことなく二つ目の選択肢を選んだ。そんなに母が好きなら、どうして妹に妊娠などさせたのかと不思議に思ったけど。
父は妹を説得し、何とか子供をおろしてくれないかと頼みこんだ。しかし妹は必死に抵抗し、これ以上中絶を望むなら、全てを暴露してから自殺してやると喚いた。
父は母と妹に挟まれ、泣きそうな顔で困っていた。
結局、父は妥協案を出した。妹には二度と会わない。そして慰謝料も払う。でもその代わり、子供をおろすのだけは許してやってほしいと。
その時のセリフが、「子供に罪は無い。悪いのは僕なんだ!」だった。
確かにその通りだけど、それをお前が言える立場なのかと。
しかしこのセリフは母には効いたようで、少しだけ落ち着きを取り戻した。そして周りの親族からの説得もあって、子供をおろすことだけは許したのだ。
その時の子供が広明である。あの子はしばらくの間は実の母に育てられていたが、やがてその母が自殺してしまった。
どうやら周りに実の兄の子であることがバレたらしく、かなり酷い中傷を受けたらしい。それに向こうの親族も、誰も子育てを手伝ってくれなかった。
夫は子供を連れて出て行ってしまうし、自分の身内からものけ者にされた。
彼女はそれに耐えきれなくなり、広明を残して濁った貯水池に身を沈めたのだ。そうなると、当然広明の引き取り手は父しかいなくなる。
母はもちろん反対していたが、父が無理矢理家に連れて来た。まだ一歳にもなっていなかった広明は、誰が実の母親かなんて分からない。
だから今の母を実の母親と思い、泣き喚いておっぱいをねだっていた。
母性とはすごいもので、あれだけ嫌がっていた母が、やがて広明を受け入れるようになっていた。母乳こそ出ないが、まるで本当の息子のように大事に育てたのだ。
そして月日が経つにつれて、広明の出生のことはタブーになっていった。
きっとあの子はこれから先も真実を知ることは無いだろう。しかしそれでいいと思っている。あの子のメンタルでは、到底この事実には耐えられないだろうから。
これが家族会議を開かなかった二つ目の理由だ。実の妹を妊娠させた父が、どうして姉を襲った広明を責めることが出来る?
それはまさに我が家のタブーに触れることに他ならない。
まあこういう理由もあって、私は広明に甘い。あの子は自分が知らないだけで、かなり重い過去を背負っているのだから。
だからなるべく優しくしてやろうと思った。私もあの子こことは本当の弟のように可愛がったし、今でも大事な弟だと思っている。
だからまあ・・・・あの程度の夜這いなら、イタズラの範疇で許してやることにしたのだ。それに父のやったことに比べたら、全然マシだしね。
いらぬことをグダグダと考えていると、家の近くまで来ていた。近くの公民館に車を停め、家の庭で採れたジャガイモを持って行く。それとお見舞い用に買ったケーキも忘れずに。
チャイムを鳴らすと誰も出てこなかった。今の時間帯、きっと父は仕事だろう。母の方は買い物にでも行っているか?
広明はいるはずだけど、あの子はボケっと考え事をしていると、周りの音が聞こえなくなる。だからどうせ部屋にいるのだろうと思い、勝手にドアを開けて入った。
台所にジャガイモの袋を起き、ケーキを食べる皿を持って二階に上がる。飲み物を忘れたことに気づいたが、後でコーヒーでも淹れればいいだろう。
広明の部屋の前に立ち、ドアをノックする。するとしばらくしてから、「ちょっと待って、今タバコ臭いから」と返事があった。
《あんたの部屋はいつでもタバコ臭いやろ・・・。》
そう思いながら、じっとドアの前で待っていた。
「来てたん?」
ドアが開き、広明が顔だけ覗かせる。私はケーキの箱を持ち上げ、ニコリと笑って見せた。
「うん、さっきな。これケーキ、一緒に食べよ。」
広明が嬉しそうな笑顔を見せる。この子は甘い物が好きだから、必ず喜ぶと思っていたのだ。
相変わらずタバコ臭い部屋に入ると、部屋はムッと湿っていた。すぐにエアコンを掛けさせ、冷たい風に当たって身体を冷やした。
まずは当たり障りのない会話を振り、この子の様子を見た。すると何かを悩んでいるようだったので、相談に乗ってやることにした。
広明はこうしてたまに気を遣ってやらないと、すぐに自分の殻に閉じこもってしまう。
彼女もおらず、友達もロクなのがいないものだから、周りに相談出来ないのも無理はないけど・・・・。
この日はいつもより深い話をした。この子が自分の心の内をさらけ出すのは久しぶりだったので、少し嬉しい気持ちになった。
ネガティブなのは相変わらずだけど、どんなことでも内に溜めこむのはよくない。こうして自分の感情を表に出すだけで、ずいぶんと楽になるはずだ。
しばらく話しこんでいると、時計は午後二時過ぎを指していた。もうすぐ子供が帰って来るから、その前に買い物を済ませないといけない。適当に会話を切り上げ、玄関に向かう。
すると珍しく玄関まで見送りにきてくれて、これまた少しだけ嬉しくなった。
しかしそこで思いもよらぬ質問をされて、少しだけ戸惑った。いったい何を思ったのか、私の初体験のことを尋ねてきたのだ。
《こいつ・・・まだ私にゾッコンなん?》
いい加減彼女でも見つければいいものを、まだ私なんかにご執心らしい。だから手短に答えて去ろうとすると、庭まで追いかけて来た。
どうやら私が妊娠しなかったのかと、不安に思っているらしい。
《これは私の身を案じてるのか?それともただの嫉妬か?どっちや・・・?》
しばらく考えたが、おそらく後者だろう。だからここでも手短に答えて、この繊細な弟を安心させてやった。
しかしこれ以上グチグチ突っ込まれると面倒なので、靴を履いていないことを指摘して家に帰した。私はその隙に門の外に出て、適当に別れを言って家を後にしたのだった。
「あの子相当参ってる感じやな・・・・。あんまり顔色が良くないし、家に帰ったらお母さんに電話するか。」
道の途中で振り返り、家の窓を見上げる。あの子は小さく窓を開けて、じっとこちらの様子を窺っていた。
「まあ三十二やし、ええ加減女が恋しいわなあ・・・・。でもここまで自分の姉に想いを寄せるもんなんかな?
あの子もやっぱりお父さんの血を引いてるってことか?それともどっかで私と血が繋がってないことを知ったとか・・・・・?」
じっと考え込んでいる間も、広明は私のことを見つめていた。いや・・・あれは見つめているというより、睨んでいるといった方が正しい。
「やっぱり相当参ってるな。まあ死にかけた後やし仕方ないか・・・。今日はお母さんに電話して、もう一回病院で診てもらった方がええでって言うとこか。」
踵を返し、車を停めてある公民館まで向かう。その時、あのアホ姑からメールが入って来た。
『まだ戻って来んの?もう隆志と信也が帰って来るで。』
眉を寄せてメールを睨み、舌打ちをした。
「言われんでも分かってますっての。今から帰るがな。」
赤いコンパクトカーを駆り、近くのスーパーに向かった。夕食を考えるのが面倒だったので、もうカレーでいいやと思った。
「ジャガイモはたくさんあるし、ルーも残ってたはずや。あとはニンジンと牛肉を・・・、」
そう呟いて店を歩いていると、見覚えのある顔とすれ違った。
「あれ・・・・・?あの人まさか・・・・・。」
牛肉のパックを手にしたまま、その人物の様子を窺う。茶色に染めた髪に、服装は地味なパーカーとロングスカート。
それに幽霊かと思うほど生気のない顔に、ちょっぴり羨ましくなるような細身のスタイル。
「間違いない、やっぱり浅子や・・・・・。」
彼女は野々村浅子。広明のもう一人の姉である。
「あいつ・・・・こんな所で何しとんや?」
浅子は二つ離れた県に住んでいて、一人息子がいたはずだ。旦那とは別れたと聞いているが、いったい何の用があったこんな所まで来たんだろう?
気づかれないように後を追うと、簡単な惣菜を買ってフードコーナーに向かって行った。そこで紙コップのジュースを買い、テーブルに座って食事を始めた。
「総菜にジュースって・・・・どんな味覚してんねん・・・。」
トイレットペーパーが山積みされた陰に隠れながら、じっと様子を窺う。浅子はケータイを取り出し、誰かと話していた。
「何や?こっちに知り合いでもおるんか?」
浅子とは多少の面識があるが、いつでも幽霊みたいな顔をしていた。まあ母親が実の兄の子供を身ごもり、その後に自殺したんだから無理もないけど。
そう思うと少しだけ同情を覚えるが、それでもこの女のことは好きになれなかった。
「あいつ・・・もしかしてまた広明に会いに来たんか?」
浅子は今までに何度か私の実家に訪ねて来たことがある。そして広明に会わせてほしいと、死にそうな顔で訴えていた。
母の自殺の原因になったのは広明だから、その気持ちは理解出来なくもない。
しかしもし広明の前で余計なことを喋られたら、長年タブーにしてきた我が家の秘密がバレてしまう。
それに何より、広明に余計な負担を掛けさせたくなかった。ただでさえ重い過去を背負っているのに、それを本人に知らせたらどうなるか?
繊細で傷つきやすいあの子のことだから、絶対に気に病むに決まっているのだ。
だからいつも私か母が対応して、門の前で追い払っていた。しかし今実家に向かわれると非常にまずい。母はいないし、私も家に帰る途中だ。
「・・・・・・・・・・・・・・。」
しばらく考えていたが、やはり一度実家に戻った方がいいだろう。もし浅子が広明に会うつもりなら、先回りして阻止しないといけない。
後で姑に嫌味を言われるだろうけど、ここは我慢するしかない。
私はサッと買い物を済ませ、足早にスーパーを出た。外からそっと様子を窺うと、浅子はまだケータイで話していた。
「今のうちに戻らんと。」
姑にメールを打ち、帰りが遅くなることを伝える。するとすぐに返信があり、『弟と自分の子供とどっちが大事なんや?』と聞かれた。
「ほんまうるさいババアやな。どっちも大事やから困ってるんやろ。だいたい今は我が家の秘密がかかっとんや、ちっとは大人しくしとけ。」
車に乗り込み、スマホを助手席に投げる。そしてエンジンを掛けたところで、ガソリンがほとんど無いことに気づいた。
「ああもう!なんでこんな時に!」
思わずハンドルを叩くと、クラクションが鳴ってしまった。ヤバイと思って身を屈めると、浅子がこちらを向いていた。
《まずいな・・・・バレたか?》
もし見つかったのなら、もうここで彼女を阻止するしかない。・・・・いや、よくよく考えたら、ここで阻止した方がいいのか?
「そうやな、わざわざ実家で迎え撃つより、ここで止めた方が早いわ。外に出て来るまで待っとこ。」
私は堂々と座り直し、じっと浅子を睨んだ。すると向こうもこちらに気づいたようで、小さく頭を下げてきた。
「なんで会釈やねん。」
私は憮然とした態度で浅子を睨み、来るなら来いと身構えた。しかし彼女は一向に店から出て来ず、ずっとケータイで話しているだけだった。
「・・・・来おへんな。私がおることに気づいたから、広明に会うのを諦めたか?」
それから一時間ほど待ってみたが、まったく出て来る様子はなかった。
「これは私が帰るまでは出て来おへんつもりやな。それならええわ、このまま実家に戻って、お母さんが帰って来るまで待っとこ。」
ガソリンが少なくなった車を走らせ、近くのセルフスタンドに向かう。そして車を停めて給油していると、またスマホが震えた。
「なんや、またあの姑の嫌味か?」
鬱陶しく思いながらスマホを取り出すと、実家からの電話だった。
「家から?まさか・・・もう浅子が来たとか?」
もしそうだったらまずいと思い、慌てて電話に出た。
「もしもし?お母さん?それとも広明?」
『わたしわたし!今あんたどこにおるん?』
「ああ・・・お母さん。あのな、今近くのスーパーで浅子が・・・・・、」
そう言いかけると、母は私の言葉を遮って叫んだ。
『近くにおるんやったらすぐ帰って来て!早く!』
「どうしたん?やっぱり浅子が来て・・・・・、」
『違うがな!あんな女のことはどうでもええねん!お父さんが・・・・・・、』
「お父さん?お父さんがどないかしたん?」
『・・・・・ええからすぐ帰って来て。お願いやから早く・・・・・。』
母が泣いている・・・・。これはタダ事ではないと思い、すぐに頷いた。
「分かった、すぐ帰るわ。そう遠くない所におるから、十分くらいで帰れる。」
『早く来てよ・・・・頼むわ・・・・・・。』
そう言って母は電話を切った。私は慌てて車に乗り込み、スタンドを後にした。その時またスマホが震えて、急いで確認した。
『優子ちゃん、まだ帰って来れへんの?もう子供ら帰って来てるで。晩御飯も作らなあかんのに、いつまで弟さんのところに入り浸ってんの?
そんなんやから克也とも上手くいかへんのやで。ええ加減そんな弟さんほっといて、きちんとこっちの家のことを・・・・、』
そこまで読んで、スマホを助手席に投げつけた。
「ああもう〜!グチグチとうるさいババアやで!克也と上手くいかへんのはお前がおるからや!」
私が三人目を身ごもったのは、あのババアが旦那に頼みこんだからだ。もう一人くらい孫が欲しい。次は女の子がいいと。
マザコン亭主は母に逆らえず、うんざりするくらい頭を下げてきた。だから仕方なしに行為に及んだのに、これ以上グチグチ言われたら堪ったもんじゃない。
「もう二度とお前の息子なんかと寝えへん!三人も孫がおれば充分やろ!産む方の身にもなれっちゅうねん!」
怒りに任せてハンドルを叩くと、またクラクションが鳴ってしまった。それが腹立たしくて顔をしかめていると、見覚えのある車とすれ違った。
窓越しに中を確認すると、あの女が乗っていた。
「浅子・・・あれ実家の方からやんか・・・。やっぱりあいつが絡んどったか!」
イライラが頂点に達し、思わず拳を握る。もう一度ハンドルを叩くと、またもやクラクションが鳴ってしまった。


            *


「なにこれ・・・・?どういうこと?」
家の前までやって来ると、何台ものパトカーが停まっていた。どれも赤いランプを回していて、数人の警官が話し合っている。
これはますますタダ事ではないと思い、近くに車を停めて駆け寄った。
「あの、すいません!」
声を掛けると、歳のいった警官が訝しそうな目を向けてきた。
「私この家の者なんですけど、何かあったんですか?」
そう言って詰め寄ると、急に表情を崩した。
「ああ、もしかして娘さん?」
「ええ、私はこの家の娘ですけど・・・・。」
「じゃあすぐに中に入って。そこで詳しい話をしますから。」
警官に背中を押されながら家に入ると、居間で母と広明が座っていた。
「優子!」
「お母さん!どうしたん?なんで警察の人がこんなにいっぱい・・・・・、」
周りの警官を見渡しながら尋ねると、母はヒステリックに喚いた。
「えらいことになったんや!なんでか知らんけど、お父さんが・・・、」
「お父さんがどないかしたん?」
そう尋ねると、母は口元を覆って泣き崩れた。すると広明が立ち上がり、「俺から話すよ」と言った。
「あのな姉ちゃん・・・・・落ち着いて聞いてな。」
「ああ・・・うん・・・・。」
落ち着いて聞いてだって?そのセリフは父の身に何かあったとしか考えられない。私は母の手を握り、爆発しそうな心臓を抑え込んだ。
「オトン・・・・亡くなったかもしれん。」
「・・・・亡くなったかもしれん・・・?どういうこと?」
「姉ちゃんが帰って十分くらいしてから、警察の人が来たんや。池で溺れて亡くなった人がおって、それがうちのオトンとちゃうか言うて・・・・。」
「ごめん、どういうことか分かるように言うてよ!」
私も母と同じようにヒステリックな声を上げてしまう。広明が質問の答えになってない事を言うのはいつものことだが、今はそれを我慢出来ない。
射抜くような目で広明を睨みつけていると、横に立つ刑事らしき人が「私から申します」と頭を下げた。
「私、勝野警察署の三和と申します。」
「はあ・・・・。」
「実は今日の午後二時十五分頃、亀池で人が溺れていると通報があったんです。」
「亀池?」
「稲川の橋を渡った向こうにある、小さな貯水池です。今はただの溜め池のようになっていますが、ご存じですか?」
そう言われて記憶を掘り起こすと、閃くものがあった。
「ああ!あの山の近くの十字路の?」
「そうです。あの場所で男性が溺れていると、通行人から通報があったんです。」
「それが父かもしれないってことですか・・・・・?」
「はい。所持品を調べたところ、免許証をお持ちでした。しかし必ずしも本人の物とは限らないので、どなたか身内の方に確認をしていただきたいんです。」
「じゃ、じゃあ・・・まだ父がどうかは分からないってことなんですね?」
「ええ、あくまで所持品から身元を調べただけですから。だから本人かどうかを確認する為にも、遺体の確認をお願いしたいんです。」
それを聞いて少しだけ安心した。赤ちゃんの宿ったお腹をさすり、気持ちを落ち着かせる。そして一つ疑問に思っていたことを尋ねた。
「お話は分かったんですが、でもどうしてこんなに警察の人が来てるんですか?それに刑事さんまで・・・・。ただの事故じゃないってことですか?」
すると三和という刑事は困った表情を見せた。
「これはあまりペラペラ喋れることではないんですが・・・・・・。」
「何かまずいことでもあるんですか?」
「・・・・もし被害者があなたのお父様なら、知る権利があります。しかし今の段階では身元が確定していないので、あまりペラペラと喋ることは・・・・・。」
「それは大丈夫です。もし亡くなったのが父じゃなかったら、誰にも言いません。」
三和は困った顔で頭を撫でていた。警察っていうのは、安易に情報を話せないものらしい。
でも私から言わせれば、被害者が父であれ違う人であれ、いずれは周りに知れることだと思う。じっと見つめていると、やがて三和は小さく頷いた。
「実は・・・・・池の近くの電線が切れていまして、それが被害者の身体に巻きついていたんです。」
「電線が巻きつく・・・・?」
思わず顔をしかめて聞き返してしまう。三和は何度も頷き、少しだけ脂ぎった顔を撫でていた。
「亀池の傍に立つ電柱の線が切れて、被害者の身体に巻きついていました。
もちろん電線には電気が通っていますから、感電したショックで池に落ちたのではないかと考えているんです。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
一瞬何を言っているのか分からなかった。電線が巻きつくだって?いったいどうやったらそんな風になる?
「救急車が向かった時には、電線が巻かれた状態で溺れていたそうです。救急隊が助けようにも、電線が池の中に浸かっている状態ですから、下手に手を出すことは出来ません。
そして警察に通報が来て、我々が向かった時にはもう・・・・・・、」
「・・・・死んでた・・・・・?」
「・・・・はい。」
三和は口を噤み、重々しく目を伏せる。
「それって・・・・普通だと有り得ない状況ですよね?だったらただの事故じゃないってこと・・・・?」
「それはまだ分かりませんが、普通の事故でないことは確かです。それが誰かの手によるものなのか、それとも被害者が自分でやったのか?それを捜査しなければいけないんです。」
なるほど・・・・それでようやく納得がいった。三和は慎重に言葉を選んで話してるけど、要するに事件の可能性があるかもしれないってことだ。
だからこんなにたくさんの警官を連れて来ているわけか・・・・・。
「姉ちゃん。」
神妙な顔で考えていると、広明に肩を叩かれた。
「大丈夫?なんか辛そうやけど・・・・。」
私は微笑みながら頷き、この子の手を握った。
「大丈夫、ちょっとビックリしただけやから。」
「分かるよ、俺だって最初に聞いた時はビックリしたから。でもあんまり心配したら、お腹の赤ちゃんに障るで?」
「・・・・そうやな。」
広明の手を強く握り、またお腹の赤ちゃんを撫でた。三和はそんな私たちを見つめ、少し間を置いてから切り出した。
「とりあえずみなさんそちらに座って下さい。ほら、お母さんも。」
私たちはソファに腰を下ろし、広明を中心に身を寄せ合った。
「お母さんと弟さんにはすでにお話していることなんですが、お姉さんの為にもう一度説明させて下さい。」
三和は柔らかい口調で語りかけ、私を落ち着かせるように肩を叩いた。そして向かいに膝を下ろして、ゆっくりと丁寧に説明してくれた。
「先ほど言った通り、被害者は電線が巻き付いた状態で溺れていました。しかしこれは、どう考えても不自然な状況です。」
そりゃあそうだろう。何かの拍子に電線が切れることはあっても、身体にグルグルと巻きつくだなんて考えられない。ということは、やはり誰かに巻きつけられたってことか?
案の定、三和は私と同じことを考えていた。いや、むしろそう考えるから刑事が来ているわけか。ただの事故なら、わざわざこんなに警察が来ないわけだし・・・・。
「皆さんが疑問に思っている通り、電線が巻きつくなんて不自然です。自分で巻いた可能性が無いわけじゃありませんが、これは少し考えにくいことです。
だから一番可能性があるとしたら、誰かに電線を巻きつけられたということです。」
これはもしかして、殺人ってことなのかな?口を開いて尋ねようとしたが、三和は黙って聞けと視線を飛ばしてきた。
「正直言いますと、警察としては誰かに巻きつけられたと考えています。理由としては、電線の切れ方が明らかに不自然だったからです。
劣化によって自然的に切れたのではなく、何かしらの強い力を加えて切断した痕が見受けられました。」
「誰かが切ったってことですか・・・・?」
「おそらくそうだと思います。どういう方法で切断したのかは分かりませんが、人為的なものに間違いはないでしょう。」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
怖くなってきた・・・・。誰かの手で父が殺されたかもしれないと思うと、急に恐ろしくなってきた。
「姉ちゃん・・・大丈夫?」
「・・・うん、もっと手え握ってて・・・・。」
「分かった。」
広明は私の手を引き寄せ、強く握りしめる。そして母も不安も紛らわすように、広明に身を寄せていた。
「・・・・いいですか?」
三和が全員を見渡して言う。
「被害者に電線を巻きつけたのは、電線を切断したのと同一人物だと思われます。そして池に落ちたのは、きっと感電のショックのせいでしょう。」
「自分で落ちたってことですね?電線の巻き付いた人間を突き落したりなんかしたら、その人も感電するから。」
広明が冷静に言葉を返す。私はこの子の顔を見て、妙な違和感を覚えた。
《さっきから思ってけど、あんまり驚いてないな・・・。なんでや?》
広明は私の視線に気づき、小さく笑ってみせる。そして三和の方に向き直り、話の先を促した。
「・・・・今のところ、分かっているのはここまでです。
もし第三者の手によって被害者が亡くなり、そしてその被害者がお父様だったとしたら、これから色々とお話を聞くことになると思います。」
三和の目は刑事の鋭さを増していく。私は少しだけ怖くなったが、広明は平然とした顔で頷いた。
「分かりました。じゃあ今日はもう・・・・?」
「ええ、引き上げます。しかしどなたか一緒に来て頂いて、遺体の確認をお願いしたんですが?」
「ああ、その為に来られたんですもんね。じゃあ僕が行きます。」
広明はポンと膝を叩いて立ち上がる。それに続いて私も立ち上がろうとした時、三和に止められた。
「遺体の確認はどなたか一人だけでけっこうですよ。」
「じゃあ私が行きます。広明はここでお母さんと一緒に・・・・、」
そう言いかけた時、また三和に止められた。
「被害者の感電はかなりひどくて、全身に大きな火傷を負っているんです。それにしばらく汚れた水の中に浸かってたわけですから・・・・・・・・、」
「・・・・遺体が傷ついてるってことですか?」
「はい。だから出来れば遺体の確認は男性の方がいいかと・・・。」
そう言って三和はじっと広明を見つめた。
「分かりました。ほな僕が行きます。姉ちゃんとオカンはここにおり。」
広明は私と母の手を撫で、「着替えてくるわ」と部屋に向かった。
それを見送ると、私は小さく手を挙げた。
「あの・・・・。」
「どうしました?」
「父に・・・・電話を掛けてみてもいいですか?」
「ああ、被害者が本当にお父さんかどうか確認したいということですか?」
「ええ、もし父じゃなかったら電話に出ると思うし。」
我ながらいいことを言ったと思う。しかし三和は首を振り、「電話には出られないでしょう」と答えた。
「被害者の持っていたケータイはお父様のものなんです。ケータイ会社に確認を取りましたから、間違いありません。」
「あ、ああ・・・・・そうですか・・・・・。」
一気に不安が広がった。それと同時に、なにを馬鹿なことを言ってしまったんだろうと後悔した。私が思いつくようなことなんて、すでに警察が調べているに決まってるのに。
「それにお父様の会社に確認を取ると、今日は出勤されていないようなんです。」
「それほんとですか?」
「ええ、お母さんと弟さんには説明したんですが、お姉さんの方にはまだでしたね。申し訳ありません。」
申し訳ありませんじゃないだろう!そういうことは先に言えよ!これでますます不安が広がったじゃないの!
父の免許証を持っていて、父のケータイを持っていて、それでもって会社にも出勤していない。こんなの不安要素の固まりじゃない!
不安と怒りが込み上げてきて、思わず興奮してしまう。しかしお腹の赤ちゃんにさわると悪いから、何とか気持ちを落ち着かせた。
やがて広明が下りてきて、三和と並んで玄関に向かった。母は意気消沈したままソファに項垂れているので、私だけでも見送りに行った。
「広明、無理せんときよ。この前退院したばっかりなんやから。」
「大丈夫やって。俺もう三十二やで、平安時代ならもうおじいちゃんや。いつまでも子供扱いせんといて。」
そう言って笑う広明の顔は、いつもより逞しく見えた。さっき家に来た時は子供みたいな顔をしていたクセに、ほんの一瞬ですごく大人びて見えた。
「じゃあ行って来る。姉ちゃんはオカンをよろしくな。」
「分かった。何かあったら電話掛けてきてな。」
「うん、ほな。」
広明は三和と並んで玄関を出て行き、パトカーに乗って父の元へ向かって行った。
「あの子・・・いったい何があったんや。急に年相応の顔になってるけど・・・。」
不思議に思いながら居間に戻ると、母が包丁を握って見つめていた。
「ちょと何してんの!アホなことはやめて!」
慌てて包丁を取り上げると、沈んだ目で振り向いた。
「いや・・・身体動かしてたら気い紛れるかなと思って・・・・。」
「・・・料理するつもりやったん?」
「うん・・・。やっぱりあかんかな?こんな時に料理って・・・・。」
「いや、それで気が紛れるんやったらええと思うよ・・・・。」
包丁を返すと、「何か食べたいもんある?」と聞かれた。
「・・・じゃあ・・・・アッサリしたもんで・・・・。」
「ほななんか作るわ。広明が帰って来るまで大人しく待っとき。」
母は冷蔵庫を開け、材料を取り出して何やら作り始めた。私はソファに戻り、頭を掻きむしってスマホを取り出した。
そして家に電話を掛け、帰りがかなり遅くなることを伝えた。
姑は広明以上に脆いメンタルをしているから、こんな事実を告げたら子供たちの面倒をみられなくなるだろう。だから詳しい内容は伏せておいた。
案の定散々嫌味を言われたが、今日ばかりは仕方ない。そして旦那にも電話を掛け、詳しい事情を話した。
すると仕事を早退し、今すぐこっちに来てくれるという。あの旦那が来たところでどうにもならないが、その優しさまで断るのは気が引ける。
まあどっちにせよ、今は広明が戻って来るのを待つしかない。
《もし亡くなったのがお父さんやったら・・・えらいことや。自分の父親が誰かに殺されたかもしれんってことになる・・・・。もしそうなったら、私は正気でおれるやろか?》
不安はますます増していくが、それでも微かな希望はあった。あの父親はある秘密を抱えていて、それを知っているのは私だけなのだ。
《会社に出てないってことは、多分愛人のところに行ってるんや。でもその愛人の連絡先を私は知らんからなあ・・・。まあどっちにしたって、広明が帰って来るのを待つしかないか。》
気を紛らわす為に母の料理を手伝い、無心でジャガイモの皮を剥いた。
《クズみたいな男やけど、どうかお父さんじゃありませんように・・・・・。》
困った時の神頼みとは、まさにこういうことを言うのだろう。信心深くもないくせに、ひたすら神様に祈っていた。
気がつけば、出来上がった料理はアッサリとは程遠いカレーだった・・・・・。

水面の白影 第二話 姉への疑惑

  • 2014.10.01 Wednesday
  • 18:11
あの池に行ってから十日が経っていた。気を失った俺は病院に運ばれたが、幸い命に別状はなかった。
身体の異変もすっかり治まり、退院してからの経過も順調だった。しかし心の方はというと、あの池の水よりドロドロと濁っていた。
「・・・あの少年、どういう意味であんなこと言うたんやろ。」
部屋の窓に肘を掛け、天を突くような夏の雲を見上げる。遠くの方では低く雷が鳴っていて、暗い影を落とし始めていた。
「夕立が来そうやな。窓閉めとこ。」
窓を閉めて椅子に座り、エアコンのスイッチを入れる。吸いかけだったタバコを指に挟み、ポンと灰を落とした。
「・・・・分からんな。あの少年の声は妙に生々しかった。ただの夢かとも思ったけど、どうも違うような・・・・・。」
しかめっ面でタバコを吹かしていると、部屋のドアがノックされた。
「広明、入ってええかな?」
それは姉の声だった。俺が入院して以来、二日に一度は様子を見に来てくれるのだ。
「ちょっと待って、今タバコ臭いから。」
慌てて窓を開け、エアコンを送風モードにして煙を追い払う。そして消臭剤を振りまいてからドアを開けた。
「来てたん?」
「うん、さっきな。これケーキ、一緒に食べよ。」
「おお、ありがとう。小さいの二人も来てんの?」
「いや、二人とも学校。夏休みが終わったから楽やわ。」
姉はケーキの箱を持ったまま、ゆっくりと部屋の中に入って来た。
「この部屋ムッとしてるな。エアコンは?」
「ああ、送風にしたままやった。すぐ直すわ。」
「ほなちょっとお茶淹れて来るから。ケーキ好きなやつ食べててええからね。」
「ありがとう。」
ケーキの箱を受け取り、エアコンを冷房にする。そして姉がコーヒーを運んで来て、向かい合って床に座った。
「身体は大丈夫?」
「まあ大丈夫やな。」
「なんか固まるとか言うてたけど、今は?」
「ああ、それも大丈夫。」
「ほんま?ならよかった。」
姉は安心したようにニコリと笑った。今年で三十八になるはずだが、その美しさは昔から一つも変わらない。
《ほんま老けるってことを知らんよな。二十代でも充分通るで。》
ケーキを突きながら姉の顔に見入っていると、「どうしたん?」と笑われた。
「いや、ほんま老けへんよなあと思って。昔から顔変わってないで。」
「それはあんたも一緒やろ?まだ学生みたいに見えるよ。」
「それは若いっていう意味?それとも子供っぽいってこと?」
「両方やな。元々童顔やし、歳のわりにはちょっと子供っぽいやん?」
「そやな。就職も結婚もしたことないから、まだ子供のままや。今年で三十三になるのに。」
「そういう意味で言うたんと違うよ。」
姉は可笑しそうに笑いながら、小さく自分の腹を撫でた。
「赤ちゃん、今どれくらいやったっけ?」
「一ヶ月半やな。二人で打ち止めにするつもりやったのに、また出来てしもた。」
そう言って眉を寄せていたが、その顔は嬉しそうだった。
「姉ちゃん、次から来る時は言うてな。おちおちタバコ吸うてられへんから。」
「ああ、そんなに気い遣わんでええよ。」
「いや、こっちは遣うで。見舞いに来てくれるのは嬉しいけど、自分のことも心配せんと。」
「ありがとう。」
お腹に新しい命を宿した姉は、いつもより幸せそうだった。
すでに二人の子供がいたとしても、やはり新しい命を身ごもるというのは嬉しいことなのだろうか?こればっかりは男の俺には分からない。
「なあ姉ちゃん。」
「なに?」
「それ、三人目の赤ちゃんやんな?」
「そうやで。ほんまは二人でよかったんやけど、出来たもんはしょうがないから。」
「じゃあ・・・産んだら大事に育てる?」
「当たり前やん。赤ちゃんは神様からの授かりもんやから、大切にせなあかんに決まってるやろ?」
そう言って目を細めて笑うと、少しだけ皺が刻まれた。一見歳を取っていないように見えても、こういう細かいところには歳が出るようだ。
《・・・これが三人目の赤ちゃん・・・。そうやんな、当たり前やんな。姉ちゃんの性格からして、自分の子供は大事に育てるに決まってるよな。》
難しい顔をして考え込んでいると、「どうしたん?」と顔を覗かれた。
「やっぱりまだ体調悪い?」
「いや・・・ちょっと考え事しててん。」
「考え事?なんか悩みがあるんやったら相談に乗ろか?」
「いや、悩みっていうか・・・・なんかよう分からへんことがあってな。それがずっと気になってしゃあないねん。ただの夢かもしれんし、そうでないかもしれんし。」
「そういうのを悩みって言うんやで。あんたは昔っから殻に閉じこもるクセがあるから、また一人で何かを抱え込んでるとちゃう?」
「・・・・そやな。そやけど・・・・・。」
あの少年の声を聞いて以来、ずっと頭に引っ掛かっていることがある。それを姉に尋ねてもいいものかどうか、俺には分からなかった。
《あの少年の言うことがほんまやったとすると、姉ちゃんは自分の子供を殺したことになるよな?
でも姉ちゃんが子供を産んだのは結婚してからや。ほな・・・・やっぱり無いよなあ・・・・。ある程度まで育てた子供を殺したら、周りにバレてまうやん。》
もし姉が結婚前に妊娠していて、それを家族に内緒でおろしていたとしたら?そう考えると、やはりあの少年の言うことは嘘ではないような気がした。
《あの少年の声の感じからたら、多分小学生くらいやろ。大きくても中学生くらいか?じゃあやっぱり産んでから殺してることになるよなあ。》
ケーキを口に運びながら、靄のかかる思考を巡らせる。その時、俺はふと冷静になって考えた。
《待て待て、これやったらあの少年の言葉をそっくりそのまま信じてることになるやん。
あれはただの夢やったかもしれへんのに、あの少年が実際におったことを前提で考えたらあかんのとちゃうか?》
そう、あれはただの夢だったかもしれない。あの夜はパニックになっていたから、きっと幻聴でも聴いたんだろう。
・・・・いや、それにしてはあの声は妙にリアルだった。それに少年の息使いというか、気配みたいなものだって感じたし、やっぱり・・・・・・・。
一人で悶々と考えていると、頬に暖かいものを感じた。顔を上げて見てみると、姉が俺の頬を撫でていた。
「広明、あんたちょっと病んでるんかもしれんね?」
「病んでる?何をや?」
「心の方や。あんたが入院した夜、お父さんから電話が掛ってきた。退院したばっかりやから触れへんかったけど、あんた死のうとしてるんやって?」
「・・・まあ、そやな。これ以上生きてもしゃあないし、みんなに迷惑かけたあないし。」
「何で生きててもしゃあないなんて思うん?」
「それは・・・・どうしようもないクズやからや。恋人もおらん、仕事も出来へん。
夢とか希望とかだって無いし、オトンやってもうじき定年やのに、これ以上スネ齧るわけにはいかんやろ?」
「ほなこういうことや。恋人も仕事もないから、心苦しいて死のうとしてると。」
「まあ・・・・そういうことやな。」
「でもまだ三十二やで?まだまだ人生長いのに、なんでどうしようもないなんて思うん?」
「・・・・だって嫌やん。まだまだ人生が長い言うても、逆に何十年もしょうもない人生送るだけや。それやったら、潔く終わらせた方がええかなって。」
「ほんならあんたが死んだとして、残されたもんはどうしたらええの?お父さんもお母さんもすごい悲しむで?
あたしだってきっと正気じゃおられへんと思う。広明がもし自殺なんかしてもたら、一生トラウマやわ。」
姉は普段とは違って、とても厳しい表情で言った。その声は諭すように穏やかだが、僅かに怒りが含まれていた。
「あんな広明、こういう言い方したら傷つくと思って言わんかったけど、あんなちょっと怖がりすぎとちゃうか?」
「怖がる?何をや?」
「色んなことに挑戦するとか、夢を追いかけてみるとか。あとは仕事や恋愛に対してもそうやと思う。
あんた三十二年も生きてるんやから、今までに好きになった人くらいおるやろ?」
「おるよ。それがどうしたん?」
「じゃあ何か行動を起こした?その子と仲良くなる為に話しかけてみるとか、遊びに誘ってみるとか?」
「出来るわけないやん。俺イジメられてたんやで?誰が俺なんか相手にすんねん。」
「それは高校に入ってからやろ?中学の時はそうじゃなかったやん。」
「そんなん簡単に出来るもんとちゃうやろ。」
「なんでそう思うん?相手の女の子だって、広明に好意を持ってるかもしれへんよ?」
「ないない。それはないわ。」
「だから何でそう思うん?話したこともないのに、自分に好意があるかどうかなんて分からへんやん。」
「分かるって。好意があるんやったら、向こうから話しかけてくるやろ。俺は女子から話しかけられたことなんかないで。」
「ほんまに?一回も?」
「そら・・・一回もないことは無いけど・・・・。」
「じゃあ何かに誘われたことは?学校終わったら一緒に帰ろうとか、休みに一緒に遊ぼうとか。」
「・・・・一緒に帰ろうって言われたことはあるな。」
「じゃあちゃんと誘われてるやん。」
「でもそんなんどうせイタズラやろ。学校終わって待ってたら、待ちぼうけくらって馬鹿にされるだけや。」
「そんなことないよ。女の子って、嫌いな相手を自分から誘ったりせえへんで。」
「だから・・・・・イタズラかもしれへんって言うてるやん。そういうことする女だっておるやろ。さっきから何やねん・・・グチグチ偉そうに・・・・。」
だんだんと腹が立ってきて、姉の買ってきたケーキを脇にどけた。そして窓を開け、姉に煙が届かないようにしてタバコを吹かした。
「だいたいな、姉ちゃんは美人やからええで。そんだけ美人で性格もよかったら、黙ってても男が寄って来るやろ。そんな人間に俺の気持ちが分かるかい。」
だんだんイライラが増して来て、口元を歪めて煙を吐いた。人間というものは、生まれながらにして持っているものが違う。
姉のように美人に生まれる人もいれば、そうでない人もいる。元々から異性にモテる人間の言葉なんて、モテない人間からしてみればただの嫌味でしかない。
「広明・・・・やっぱりあんたは何でも怖がってるわ。」
「何でやねん。これが普通の考え方や。」
「それが普通やと思ってる時点で、あんたはズレてるよ。」
その言葉にカチンときた。確かに自分がズレていることは知っている。しかしそれでも人から指摘されると腹が立つものだ。
「ああ、そうか。ほんなら姉ちゃんは整形したらええねん。一回ブサイクになるように整形して、街を歩いたらええわ。そしたら誰も姉ちゃんをナンパなんかせえへんから。」
「そんなんせんでも、子持ちの三十七の女を誰もナンパせえへんよ。」
「ウソつけ。今でも一人で歩いてたらナンパされるってオカンから聞いたで。それが嫌やから、わざと薄い化粧で出かけるってな。」
「そんなん今は関係ないやん。話がズレてるから、ちょっと戻そうよ。」
「ズラしたんはそっちやろ。俺は質問に答えてるだけや。」
荒い口調で言い返すと、姉は立ち上がって横に並んだ。
「それ、一本ちょうだい。」
「なに?タバコ吸うの?」
「うん、ちょうだい。」
「あかんて、妊娠中やんか。」
「一本くらい大丈夫や。」
「やめとけって。だいたいタバコなんか吸うたことないやん。」
「あるよ。」
思いがけない言葉に、思わず黙ってしまった。すると姉は強引にタバコとライターを奪い取り、慣れた様子で吹かし始めた。
「あ〜・・・久しぶりやからちょっとクラっとする・・・。これ重いやつ?」
「いや・・・そんなに重くはないけど・・・・。」
「そっか・・・。もうやめてだいぶん経つから、ちょっとキツイな・・・・。」
「やめてって・・・前は吸うてたん?」
「うん、高校の時から。」
「マジで・・・・?」
信じられなかった。あの真面目な姉が、高校の時から喫煙していたなんて。姉は驚く俺の顔を見て、「意外やった?」と笑った。
「そら意外やで。まさか高校の時から吸うてたなんて・・・・。」
「みんなそれくらいから吸うてるよ。あんたが知らんだけ。」
「・・・じゃ、じゃあ・・・・酒とかも・・・・?」
「普通に飲むよ。休みの日とか友達と一緒に飲みに行ってたもん。あの頃は今ほど厳しくなかったから、学生でも普通に出してくれたし。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
俺の中で、姉に対するイメージが一瞬で変わった。高校の時からタバコと酒・・・?有り得ない!あの真面目で優しい姉が、そんな不良みたいな真似を・・・・。
「じゃ、じゃあさ・・・・薬とかは・・・・・、」
「ああ、さすがにそれは手え出してないよ。でもやってる子はおったな。注意しても治らんから、その子とは縁を切ったけど。」
「・・・・そうか、そうなんや・・・・・。」
ショックだった。まさか姉がそんなことをしていたなんて・・・。いや、でもよくよく考えれば、俺の同級生でもそんな奴はたくさんいた。
でもまさか姉がそんな奴らと同じだったなんて・・・・・。
ショックのあまり黙ったままタバコを吹かしていると、ポンと肩を叩かれた。
「ビックリした?」
「うん・・・まあ・・・・。」
「どっちかっていうと、そういうのをやってない子の方が少ないよ。みんな真面目そうに見えても、裏ではやることやってるんやから。」
「・・・・じゃあ、姉ちゃんは真面目じゃなかったってこと・・・・?」
上目遣いにそう尋ねると、「そうやで」と笑われた。
「でも逆に言うとな、裏でも表でも真面目な子はほんまに真面目ってことや。例えば広明みたいに。」
そう言ってタバコを吸い、「ああ、もう無理・・・」と気持ち悪そうな顔をしていた。そして灰皿にグリグリと押しつけ、すぐにコーヒーを飲んで口直しをしていた。
「やめた今やから思うけど、これってやっぱり毒やわ・・・。広明も吸い過ぎは注意しいよ。」
まだ気持ち悪そうな顔でそう言って、食べかけのケーキの皿を掴んだ。
「これいる?食べかけやけど?」
「いや、もうええわ。」
「じゃあいらんやつは片付けとくね。」
姉は自分のカップと皿を抱え、ドアに向かう。俺はその後ろ姿を見ながら、いったい姉は何を言いたかったのだろうと考えた。
「・・・なあ姉ちゃん。」
「なに?」
「俺は・・・・遅れてるんかな?みんなが先に進んでるのに、俺だけ何も知らんと遅れてるってことなんかな?」
そう尋ねると、姉は傍まで寄ってきて笑った。
「違うよ、広明はただ真面目やってことを言いたかっただけ。でもそれってすごいええことやで。
でもな、あんまり何でも怖がってると、何も出来へんまま終わってまうで?まだ三十二なんやから、これから何にでも挑戦できるよ。」
「そう・・・かな・・・?まだいけるかな?」
「当たり前やん。みんながタバコ吸うたりお酒飲んだりしてる間、あんたはイジメに耐えてたんや。それだけでも立派なもんやと思う。
もし私やったら、きっと耐えられへんかったと思うから。」
姉はいつもの優しい表情に戻り、小さく頭を撫でた。
「あんたはもっと自信を持ち。真面目で優しい性格しとるし、ちゃんと強いもんも持ってる。
それに姉のあたしから見ても、絶対に顔は悪くないよ。どっちかというイケメンの部類やで。
だからあんたに足りんのは自信だけや。傷つくこともあるかもしれんけど、もう少し勇気を持って前に進み。絶対にええことあるから。」
そう言われると、ほんとにそうなのかなと思ってしまう。長らく姉に相談することなどなかったから、こうして面と向かって励まされると、少しだけ自信が持てそうな気がした。
「じゃあもう帰るな。今から買い物行かなあかんし。」
「大変やな、主婦は。」
「そうやで、あんたもお嫁さん見つけたら大事にせなあかんで。」
姉は笑いながら手を振り、ドアを開けた。俺は玄関まで見送ろうと思い、一階まで降りていった。そして靴を履く姉に向かって、何気なく尋ねてみた。
「なあ姉ちゃん・・・・答えたくなかったらええんやけど・・・・・。」
「なに?どうしたん?」
「いや・・・ごっつ変なこと聞くけど、姉ちゃんの初体験って・・・いつかなと思って。」
「あはは、何それ?どうしたん急に?」
「いや、何となくやけど・・・・。」
赤面しながら黙っていると、バシバシと腕を叩かれた。
「もしかして好きな人でも出来たとか?」
「そうとちゃうけど・・・・いつかなと思って・・・・。いや、答えたくなかったらええねんけど・・・・。」
「別にええよ、答えても。」
姉は靴を履き、真面目な顔で答えた。
「初体験は十六の時やな。」
「十六・・・ほな高校の時か?」
「うん、一個上の先輩とな。」
「付き合ってた人?」
「うん。でも付き合ういうたって、高一の恋愛なんてママゴトみたいなもんやったけど。」
「ママゴトで初体験やってまうもんなんか?」
そう切り返すと、姉は少しだけ困った表情を見せた。
「まあなんというか・・・私がアホやったんやな。付き合って二日目やのに、相手の家にホイホイついて行ってさ。それでまあ・・・半ば無理矢理って感じやったけど・・・・。」
「無理矢理って・・・・それはどういう・・・・?」
「ああ、心配せんといて。別にレイプとかじゃないから。彼氏の家に行くってことは、もしかしたらたらそういう事になるんかなあって覚悟はしてたから。
ただなあ・・・向こうはいきなりやったから、ちょっと準備が整ってなくて・・・・・、」
「準備・・・・・?」
一瞬何のことか分からなかった。生まれてこの方風俗でしかやったことはなく、生の恋愛においては特別な準備がいるのかなと思ってしまった。
すると姉は小さく笑い、「アレのことな」と何かを摘まむフリをしてみせた。
「アレ・・・・ああ!ゴムか?」
「そう、ゴム持ってなかったんや。」
「じゃあゴム無しでやってもたん?」
「うん。あの時はお互い高校生やったから、一旦始めたら止められるわけがないやろ?だからまあ・・・・そのまま・・・・な?」
「ああ・・・・そうか・・・。」
神妙な顔で頷くと、「みんなには内緒やで」と念を押された。
「ほなもう帰るわ。台所にジャガイモ置いてるから、お母さんに言うといて。」
「分かった、気いつけてな。」
「うん、あんたも一人で考え込まんと、何でも相談しいよ。」
「ありがとう、ほなな。」
姉は手を振って出て行く。カラカラと玄関が閉められ、磨りガラスに映るシルエットが遠ざかって行く。
「あ!ちょっと待って!」
俺は慌てて後を追い、庭の門を開こうとする姉を呼び止めた。
「どうしたん?」
「いや・・・もう一つだけ聞かせてほしいねん。」
「うん、ええよ。でもあんまり時間ないから・・・・、」
「大丈夫、すぐ済むから。」
姉と向かい合い、小さく呼吸を整えた。今から尋ねることは、もしかしたらすごく答えにくいことかもしれない。しかしどうしても聞かないわけにはいかなかった。
「あのさ、さっきの初体験の時の話やけど・・・・。」
「うん?」
「その・・・・ゴム無しってことは・・・・その・・・生でやったってことやろ?だからその・・・いわゆるアレは・・・・。」
妙な汗を掻きながらモジモジしていると、姉はクスクスと笑った。
「そんなに気い遣わんでええよ。妊娠したかってこと聞きたいんやろ?」
「ああ・・・まあ・・・・。」
「それは大丈夫。中には出させへんかったから。」
「そ、そうか・・・ほな大丈夫やな。」
「でも万が一があるから、一応妊娠検査薬も使ったけどな。反応は出えへんかったわ。」
「ほなますます安心やな。」
「だから大丈夫って言うたやん。」
姉は安心させるように笑いかけ、俺の足元を指差した。
「靴履いてないで。」
「ああ、急いでたから・・・・。」
慌てて玄関に引き返し、靴を履く。すると姉は門の外に出ていて、ニコリと手を振った。
「色々心配してくれてありがとう。では今は自分のことを心配しとき。さっき私がアドバイスしたこと、忘れたらあかんで。」
「分かってるよ、もうちょっと自信を持ってみるわ。」
「それでよし。ほなまた来るから、お父さんとお母さんによろしく。」
「うん、またな。」
俺も手を振り返し、姉を見送る。そしてすぐに家に戻ると、部屋まで上がって窓の前に立った。
「・・・・・・・・・・・・・。」
じっと息を殺し、姉が去る姿を見送る。
「今日の姉ちゃん変やな・・・。いっつもと感じが違うで・・・・。」
姉がこの部屋に入って来た時、なぜだかいつもと違う雰囲気を感じた。普段はもっとおっとりとした空気を纏っているのに、今日はどこか殺気立っているような気がした。
「普段はケーキなんか買って来おへんやん。ていうか普通ケーキとか持って来るんやったら、退院してすぐとちゃうの?
それに普通やったら絶対にタバコなんか吸うたりせんはずや。もし昔吸うてたとしても、俺の前で吸う意味なんかないやんか。」
姉は一度だけ振り返り、俺の部屋を見上げた。こうなることを予想していたので、ほんの少しだけ窓を開けて、目だけ覗かせていた。
カーテンも引いてあるし、俺が覗いていることには気づくまい。
「・・・・・・・・・・・・。」
じっと姉の顔を見つめた。やはりいつもと違う。どこか険があるというか、尖っているというか・・・・。
「よう考えたら、なんで今の時間に来たんやろ?いつもはもっと早い時間に来るのに。それに酒とかタバコをやってたってバラすのもおかしい。
普段は絶対にそういうことは言わへんもんな。どっちかっていうと、そういうことをしてる奴らを嫌うタイプや。
それに玄関に戻った時に、門の外に出てたのもおかしい。いっつもは待っててくれるやん。それやのに今日は、まるで逃げていくみたいに帰ろうとしてた。あれは絶対に何かあるで。」
一度走り出した疑惑は止まるところを知らない。まるでアメーバが増殖していくように、瞬く間に胸の内を覆っていった。
俺は射抜くような視線で姉を睨んだ。向こうはじっと家を見つめていたが、やがて踵を返して歩き出した。
「・・・・尾けるか?」
自分でも耳を疑うような言葉が出て来た。一番信頼している姉を尾けるなど、頭がどうにかしていると思った。
しかしそれもこれも、全てはあの少年のせいだ。あいつが余計なことを言うから、姉のことが気になって仕方が無いのだ。
「もし姉ちゃんが初体験の時に妊娠してたとしたら、あの少年の言葉にも信憑性が出て来るな。
妊娠したのが十六の時で、そうなると出産は十七くらいか?それでもってみんなに内緒で育てたとして、それが辛くなって子供を殺したとか・・・。
うん、有り得るな。子殺しって意外と多いらしいし、充分に可能性はあるやろ。」
今の俺の胸の中には、姉への猜疑心しかなかった。あれだけ真面目だと思っていた姉が、あれだけ信頼していた姉が、まさか高校の時から不良みたいな真似をしていたなんて。
それに十六でセックスだなんて・・・。しかもだ、相手にゴムをつけさせないでやらせるなんて・・・・。
今までずっと築いてきた姉への信頼は、一気に失われた。今はただ、子供を殺したかもしれない悪人だと疑うことしか出来なかった。
「もうちょっとしたら後を尾けたろ。きっと何か隠してるはずや。」
窓を閉め、とりあえず一服つけて気持ちを落ち着かせる。するとなぜだか急に眠くなってきて、重い瞼を押し上げた。
「眠・・・・最近よう寝てなかったからな・・・・。」
あの池の一件以来、妙に感情が昂ることが多くなって、よく眠れていなかった。
「・・・まあええわ。姉ちゃんを尾けるのは今度にしよ・・・。今は・・・無理や。」
タバコを消し、フラフラと歩いてベッドに倒れ込む。すると瞬く間に睡魔に誘われ、暗い意識の中へと沈んでいった。
・・・・・嫌な・・・・とても嫌な夢を見た・・・・・・。
目の前には高校のブレザーを着た姉がいて、見たこともない男と抱き合っている。
お互いにじっと見つめ合い、やがて唇を重ねて身体をまさぐり始めた。しかし姉は途中で身体を離し、男を突き飛ばした。
そして逃げるように男の元から走り去ろうとするのだが、あっさりと捕まって地面に倒されていた。
姉は叫び声を上げ、必死に抵抗する。しかし男は何度も姉の身体をまさぐり、服を脱がせて下着に手を掛けた。そして獣のように襲いかかり、嫌がる姉を無理矢理犯していった。
俺は姉を助けようとしたが、まったく身体が動かなかった。目の前で大事な人が苦しんでいるのに、何かに固められたように動くことが出来なかった。
《なんでや!姉ちゃんが犯されてしまう!》
男は何度も腰を振り、握り潰すように姉の胸を揉んでいた。姉は泣きながら絶叫し、俺に向かって手を伸ばす。
《・・・・助けて・・・・広明・・・・・。》
助けたい!今すぐに姉ちゃんを助けたい!そう思っても、やはり身体は動かなかった。やがて行為は終わり、姉は死んだような目で放心していた。
そしてそのお腹はぷっくりと膨らんでいて、中から一人の赤ん坊が出て来た。その子は見る見るうちに成長し、やがて小学生くらいの男の子に変わった。
制服を着てランドセルを背負い、姉に向かって「お母さん」と呼んでいる。しかし姉は怒りの形相で我が子を突き飛ばし、首を絞めにかかった。
《やめてよ・・・お母さん・・・・痛い・・・痛いよお・・・・・。》
少年は涙ながらに訴え、目を見開いて手を伸ばす。しかし細い首はボキリと折られ、幼い命は絶たれてしまった。
姉は死んだ我が子をどこかへ引きずり、やがて濁った池に辿り着いた。そして大きな空き箱に投げ入れ、その中にセメントのような物を注いでいった。
少年の死体は箱の中に固められ、そのまま池に捨てられてしまった。
姉はしばらく呆然と佇んでいたが、やがてスッキリとした顔でどこかへ去って行った。
《なんでや・・・なんでこんな酷いことすんねん・・・・。》
何も出来ずに見ていた俺は、あまりの酷い光景に息を飲んでいた。すると池の中から白い煙が立ち上り、ユラユラと揺れ始めた。
それはあの池で見た白い影とよく似ていて、まったく同じ動きをしていた。不出来なクレイアニメのような、独特で気持ちの悪い動き。
それにどこからか月明かりまで射してきて、この前の夜と全く同じ状況になった。
《お兄さん。》
少年の声が響く。あの夜聞いた時とまったく同じ声で、俺の頭に語りかけて来る。
《僕・・・生まれてきたらいけなかったの・・・・?》
白い影が、ユラユラと揺れながら近づいて来る。そして俺の目の前まで来た時、姉の殺した少年の姿に変わった。
《教えてよ。僕は生まれてきちゃいけなかったの?》
少年は澄んだ目で見つめて来る。その瞳はまるで、一点の濁りも無い水のようだった。
《子供はどうやって生まれたかで人生が変わるの?僕がお母さんを酷い目に遭わせたわけじゃないのに、どうして僕が殺されるの?ねえ、教えてよ。》
《・・・・・・・・・・・・・・。》
何も言えなかった。この少年の澄んだ瞳の前では、俺は何も語る言葉を持っていない。しかしそれでも少年は尋ねて来る。
《僕は生まれてきちゃいけない子だったの?なんで殺されなきゃいけないの?》
《僕、なんにも悪いことしてないよ。ほんとだよ。》
《もっとずっと長いこと生きるはずだったんだよ?なんで殺されたの?》
《ねえ、教えてよ。お兄さんなら大人だから知ってるでしょ?》
《お母さんはどうして僕を殺したの?僕は悪くないよ?やっぱり生まれてこない方がよかったの?ねえ教えてよ?》
少年の瞳は、さっきよりさらに澄んでいく。そしてやがては色を失くし、本当の水のようになってしまった。
この少年に・・・何か言葉を掛けてやりたいと思った。しかしどう考えても掛けるべき言葉が見つからなかった。
だから・・・・抱きしめた。強くではなく、そっと抱え込むように、小さな背中に手を回した。
少年の身体は恐ろしいほど冷たく、悲しい色に満ちているように思えた。ずっと抱きしめていると、俺の体温まで奪われそうなほどに・・・・・。
《僕ね、どうしても理由がほしいんだ。だからこう言ってよ。生きてることに意味なんて無いって。そう言ってくれれば、僕は自分が死んだことに納得出来るから。》
その言葉を聞いた時、どうしてこの少年が俺の前に現れたのかが分かった。それは姉への復讐の為ではなく、仲間が欲しかったからだ。
俺の人生には何もない。ただ生きているだけの無意味な生。ならばこんな人生なら、あと何十年生きようが意味がない
だからこの少年は、自分の人生もそうであると言ってほしいのだ。もし姉に殺されず、おじいさんになるまで生きたとしても、そんなものには意味がないと。
いつ死んだって、人間の人生など変わらないと。
《ごめんな・・・・何も言えへん・・・・ごめんな・・・・・・・。》
不思議だった・・・。人生に意味などないと思っていたのに・・・・・そう口にしようと思っていたはずなのに、まったく違う言葉が出て来た。
《人生に意味が無いなんて言えへんよ・・・・。俺は・・・意気地無しで怖がりやから、何も出来へんだけなんや・・・・。
でもほとんどの人は、自分の力で人生を意味のあるものにしてると思う・・・。それは・・・君だってそうやったかもしれへん・・・・。
だから人生に意味が無いなんて言えへんよ・・・・ごめんな・・・・・。》
こんな言葉を掛けるのは、少年にとってはとても酷いことだと分かっている。もし人生に意味があるなら、彼は自分の死を納得出来ないだろう。
しかしそれでも、こんな小さな子供に人生に意味が無いなんて言えなかった。俺の人生に意味が無いからといって、他人の人生まで意味が無いなんて言えない。
なんで俺の人生が無意味だからといって、他人の人生まで無意味だと否定することが出来る?
どうしてこの子の人生まで、無意味だと言うことが出来る?そんなのは、自分勝手な人間のすることだ!
《・・・・・一緒に行こうか?》
少年はピクリと顔を動かした。くっつけた胸から、小さな鼓動も伝わって来た。
《俺は・・・周りに迷惑を掛けてばっかりなんや。何も出来へんし、何も手に入らへん。だからこれ以上生きてても意味がないから、一緒に行こうか?》
身体を離し、じっと少年を見つめた。すると彼の瞳には色が戻り、冷たい身体にもわずかに体温が感じられた。
《いいの?一緒に沈んでくれる?》
《ええよ、一緒に行ったる。でもな、一つだけ約束してくれ。君は多少なりとも姉ちゃんのことを恨んでるやろ?だからな、それを許してやってほしいんや。》
《なんで?僕を殺した人なのに?》
《そうやな・・・でも、俺は君も姉ちゃんも悪いとは思えへんのや。殺されて悔しい気持ちはよく分かるけど、姉ちゃんだってそれは一緒や。
無理矢理男に犯されて、望んでもないのに妊娠してもたんや。だから・・・・・どっちが悪いなんて言えへん・・・・。
もし一番の悪者がおるとしたら、それは姉ちゃんを犯した男や。恨むんやったら、そいつを恨んだらええ。》
務めて穏やかな口調でそう言うと、少年は少し考えてから頷いた。
《・・・・・分かった。それを約束したら、一緒に来てくれる?》
《うん、一緒に行ったる。》
そう答えると、少年は初めて笑顔を見せた。そして俺に抱きついてきて、胸にグッと顔を埋めてきた。
《いい子いい子して。》
《ええよ。》
少年の頭を優しく撫でてやる。柔らかい黒髪が、サラリと指の間を抜けた。この時、これが夢なのかどうか分からなくなっていた。
始めは夢であると自覚していたが、今となっては現実なのか夢なのか分からない。しかしどらちにせよ、この少年と一緒に行ってやる気持ちに変わりはない。
だからもう一度強く抱きしめ、《一緒に行こう》と囁いた。
その瞬間、少年の身体が白い煙に変わった。そして俺の腕からすり抜け、池の方へと戻っていった。
《お兄さん、とっても良い人だね。》
少年は笑顔のまま言う。そしてユラユラと揺れながら、風に煽られるように空中へ拡散していった。
《僕・・・お兄さんを連れて行くのはやめとく。》
《なんでや?別に俺はええねんぞ?一緒に行こうや。》
《でも・・・やっぱりやめとく。だってお兄さん言ってたじゃない、俺はまだ死にたくないって。それって人生が無意味だと思ってたら、絶対に言わないことでしょ?》
《それはそうやけど・・・・でもお前は一人でええんか?》
《ううん、一人じゃないよ。僕ね、復讐することに決めたから。お母さんをイジメた悪い奴を、一緒に連れて行ってやろうと思うんだ。》
《ほな・・・・姉ちゃんを犯した男を知ってんのか?》
《もちろん。だってその人は、よく僕に会いに来てたもの。父親面してオモチャとか買って来るんだ。全部壊して捨てたけどね。》
《そうか・・・・。ほな・・・俺はそれをやめろとは言えんな。》
そう言うと、少年は可笑しそうに笑った。
《当たり前だよ。だってお母さんをイジメた男を恨めって言ったのは、お兄さんなんだから。だからね、うんと苦しませてから、あの池に連れて行くんだ。それじゃあね。》
少年は風に吹かれて何処かへ消え去り、最後に思いもよらぬことを言い残していった。
《お兄さん、もうあの池へ行っちゃダメだよ。あそこにいるのは僕だけじゃないんだから。今度誰かに襲われても、もう助けてあげないよ。》
《なんやて?ほなあの時俺の首を掴んだんは、お前じゃないんか?》
《違うよ。僕はお兄さんと一緒に来て欲しかったから、あの時は助けてあげたんだよ。》
《ほ、ほな・・・・俺の身体が固まったのはいったい・・・・?》
《ああ、あれね。あれはお兄さんの心が病んでて、それでいて《アイツ》に首を掴まれたもんだから、怖くなり過ぎて硬直してただけだよ。多分ね。》
《そ、そんな・・・・・じゃあなんで呼吸まで止まりかけたんや!俺はあの時死にかけたんやぞ!》
《だからそれも同じだよ。怖くなり過ぎて、パニックになって呼吸がしづらくなっただけだと思うよ。まあどっちにしろ、僕はお兄さんには何もしてないからね。それじゃ。》
少年はそう言い残し、完全に気配を消してしまった。俺は月明かりに照らされた池に近づき、濁った水を睨みつけた。
《なんやねん・・・・よう分からへんことだらけや・・・。何がどうなっとんねん?》
これは夢か、それとも現実か?いくら考えても分からなかったが、一つだけ確かなことがある。
《やっぱり俺・・・心を病んでたんや・・・。明日、もういっぺん病院に行ってみよか。》
池のほとりに座り、膝を抱え込んで濁った水を見る。しばらくそのまま見つめていると、何かがプカリと浮かんできた。
それはコンクリートのカスがついた、少年の死体だった。

水面の白影 第一話 水面の影

  • 2014.09.30 Tuesday
  • 12:21
〜前章〜


夏の終わりの温い風が吹く頃、俺は家から数キロ離れた溜池に来ていた。
破れたフェンスから中に入り、コンクリートで舗装された池の際に立つ。ここへ来るのは今日が四度目で、今回こそはこの池に身を投げようと思っていた。
「人工の池いうても、けっこう深いからな。充分死ねるはずやけど・・・。」
時刻は午前一時過ぎ。薄い雲が流れる夜空から、月の光が遠慮がちに射し込んでいる。それは仄暗い池を青く照らし、神秘的ともおぞましいともいえる雰囲気を醸し出していた。
底は・・・・・見えない。水が濁っているせいもあるが、それ以上に底が深いのだ。
あれはいつだったか、ここで遊んでいた中学生が、足を滑らせて溺死した事故があった。上がった水死体はパンパンに膨らみ、不出来な風船のようになっていたと聞いた。
「俺も・・・もうじきあんなんになるんやな・・・。でもええか、生きとっても何にもええことないし・・・。生きてる方が苦痛やわ。」
今年の秋が来れば、俺は三十三になる。生まれてこの方彼女はなし。友達もどうしようもない自分勝手な奴ばかりで、バイトさえ上手くにいかずに首になった。
両親や姉はこんな俺に優しくしてくれるが、それがかえって苦痛だった。三十三にもなろうかという男が、一度も女と付き合ったことがなく、しかも就職さえしたことがない。
ずっと家に引きこもり、夜な夜な散歩に出かけては「人生とは何のか?」などと青臭いことばかり考えていた。
俺の心は、両親や姉に可愛がられていた子供時代でずっと止まったままだった。あの頃はこんな幸せが永遠に続くのだと思っていた。
俺はずっと子供のままで、学校から帰れば母が笑顔で出迎えてくれる。あの頃は友達だってたくさんいたから、暗くなるまで遊んでいた。
そして家に帰って飯を食い、風呂に入るまでは姉と一緒にテレビゲームをしていた。学校に行けばワイワイと楽しくはしゃいでいたし、休日には家族そろってよく出かけていた。
それがいつからか、その幸せが崩れ始めた。あれは・・・そうだな、中学を出た辺りからだ。頭の悪い俺は、自転車で一時間もかかる高校に通う羽目になった。
そこにはヤンキー崩れの馬鹿がたくさんいて、どいつもこいつも粗暴で野蛮な奴ばかりだった。中にはまともな奴もいたが、根が暗くてあまり人と話したがらない奴だった。
それに・・・特に女子は酷かったな。やれサッカーが出来るだの、顔がアイドル風だの、そんな男ばかり追いかける女どもばかりで、目を合わせるのさえ嫌だった。
俺は誰とも話さず、ただ学校と家を往復するだけの日々を送っていた。
しかしそんな単純な日々でさえ、長続きはしなかった。ヤンキー崩れの馬鹿どもと、男を追いかけることしか頭にない尻軽女どもが、俺をイジメの的にしたのだ。
便所に連れて行かれては股間に落書きをされ、弁当を持って行けばゴミ箱に捨てられ、酷い時には家のガラスまで割られたりした。
イジメはどんどんエスカレートしていったが、俺はなんとか頑張って学校に通った。親にはイジメのことは話さず、姉にだけ相談していた。
姉はいつでも優しくしてくれて、まるで自分のことのように泣いてくれていた。そんな姉を見るのが辛かったから、やがては姉にも相談しなくなってしまったけど・・・。
高校を出る頃には、俺はすっかり人間不信になっていた。大学にも行かず、かといって就職もせず、家に引きこもってゲームばかりしていた。
両親や姉は相変わらず俺のことを心配してくれて、さり気なく心の内を聞き出そうとしていた。
しかし身内に心の傷を見られることほど恥ずかしいものはなく、家族に優しくされる度に、ますます自分の殻に閉じこもってしまった。
そんなニート生活が二年も続き、俺は二十歳を超えて成人した。中学の時に仲の良かった奴から成人式の誘いがあったけど、迷わず断った。
いったいどんな顔をして、昔の友人たちに会えばいいのか?それにこの頃には外に出るのさえ億劫になっていたから、誰とも会いたくなかったのだ。
しかし・・・ほんの少しだけ転機が訪れた。それも悪い意味で・・・・・。
ニート生活も三年目になろうかという時、姉が結婚するかもしれないと言い出したのだ。
五つ年上の姉は、弟の俺から見てもかなりの美人だった。昔から整った顔立ちをしていて、性格も抜群に良い。
だからよく男にモテていたし、大学の時には雑誌のモデルをやらないかと誘われたほどだった。
俺はそんな姉が好きだった。もちろん両親も好きだが、姉は俺の中で特別な存在だった。
だからこれからもずっと、俺の傍にいてくれるものだと思っていた。
いつかは結婚してこの家を出て行くことは分かっていたけど、それでも俺の傍から離れることはないだろうと思い込んでいたのだ。
それがいきなり結婚の話なんてするものだから、俺は焦った。頭では理解していても、いざ姉の口からそんなことを聞かされると、いてもたってもいられなくなった。
その話を聞かされた次の日、俺は初めて姉でオナニーをした。正直なところいうと、以前から姉を想像してオナニーをしたいと思っていた。
しかし道徳心と罪悪感が勝り、これだけはやるまいと決めていたのだ。
しかし・・・・やってしまった。電気を消した暗い部屋で、姉の裸体を妄想しながらペニスをこすった。そして射精を終えた時、妙に大胆な気持ちになった。
皆が寝静まった夜、俺は姉の部屋のドアを開けた。時刻は午前二時で、姉はベッドに横たわって寝息を立てていた。季節は夏ということもあって、姉は大胆な恰好で寝ていた。
上にタンクトップだけを着て、下はパンツが見えるんじゃないかというような短パンを穿いていた。
俺はそっと姉に近寄り、しっかりと寝ていることを確認してから、その短パンに手を掛けた。慎重に慎重に短パンを下ろし、下着が露わになったところで、自分のペニスを擦り始めた。
そのうち見ているだけでは我慢出来なくなって、唇を重ねてから胸を揉んだ。
初めて感じる女性の唇、初めて触る女性の胸、気がつけば、姉の太ももに射精をしていた。
その瞬間に耐えがたい罪悪感と嫌悪感に襲われ、慌てて短パンを戻して部屋を逃げ出した。その時、俺は悟った。自分はもうどうしようもないクズなんだなと。
あれほど優しくしてくれた姉に、とんでもないことをしてしまった。一時の感情に任せて、やってはいけないことをやってしまった。
しかし一番悔しかったのは、自分の部屋に戻ってからまた興奮してしまったことだ。悪いことだとは知りながらも、何度も何度も姉の唇と胸の感触を思い出してオナニーをした。
そして次の日の朝、洗面所で姉と顔を合わせた時に、やんわりと言われた。
『女の子の身体に興味があるのは分かるけど、もう二度とあんなことしたらあかんよ。それが約束出来るなら、昨日のは無かったことにしてあげるから。』
そう言われた瞬間、俺はこの世から消えてしまいたいと思った。自分で自分を叩き潰して、粉々にしてしまいたかった。
全て・・・全てバレていたんだ!あの変態そのものの行為が、何もかもお見通しだったんだ!
その日から俺は、姉の顔をまともに見ることが出来なくなった。向こうは今まで通りに接してくれるけど、俺は次第に姉を避けるようになっていた。
そして翌年の春、姉は結婚して家を出て行った。俺は式には参加せず、姉がウェイでングドレスを着ている頃に、また妄想をしてオナニーをしていた。
そんな自分が嫌で、どうにかして変えたいと思った。だからせめてバイトだけでもしようと思い、近くの国民宿舎に面接に行った。
ありがたく採用となり、めでたくニートからは脱却出来た。しかしそこでもまた人間不信に陥ることになった。
仕事そのものは何とか慣れたのだが、人間関係が上手くいかなかったのだ。
周りは大人な人ばかりだったので、目だった嫌がらせなどはなかったけど、それでも陰口を叩かれていることは知っていた。
それは日に日に耳に入るようになり、せっかく始めたバイトなのに辞めたいと思い始めていた。しかしそんな中、一人だけ優しくしてくれる女性がいた。
彼女は俺と同い年の二十二で、一年前にアルバイトから正社員になった人だった。とにかく優しい人で、決して人の悪口を言うようなタイプではなかった。
俺は仕事のほとんどを彼女から教えてもらい、時には仕事終わりに一緒に帰るほど仲良くなっていた。家族以外の異性と一緒に歩くなんて、俺にとっては初めての経験だった。
それはとても嬉しいことだったし、新鮮なことでもあった。そしていつしか彼女に想いを寄せるようになり、悶々と苦しむ日々を送っていた。
この気持ちをどうにかして伝えたいが、上手く言葉に出来ない。かといって、このままでは永遠に悶々とし続けるままだ。
だから思い切って彼女にアプローチしてみようと思った。仕事が終わって一緒に帰っている時に、勇気を振り絞ってデートに誘ってみたのだ。
それはもう、心臓が破裂するんじゃないかというほど緊張しながら・・・・・。
俺の誘いを受けた彼女は、しばらく固まっていた。何も言わず、目を見開いて俺を見つめていた。そして急によそよそしくなり、まったく関係のない話題に変えられてしまった。
《これは・・・流されたんかな・・・?》
せっかく勇気を振り絞ってデートに誘ったのに、何の返事ももらえなかった。俺は落胆しながら家に帰り、なんだか妙に恥ずかしい気分になってしまった。
そして次の日、いつものようにバイトに行くと、彼女は俺を避けるようになっていた。話しかけても適当に相槌を打たれるだけで、俺の傍にはほとんど近づかなくなってしまった。
《やっぱり昨日のはあかんかったんやな。いきなりデートに誘うのは間違いやったんや。》
恋愛経験がまったくない俺にとって、女心は未知の世界だった。でもこれはこれで良い勉強になったかなと、前向きに考えるようにしていた矢先だった。
想いを寄せていたその女性が、俺の陰口を言っているのを聞いてしまったのだ。
彼女にはすでに彼氏がいて、俺からのデートの誘いを不快に思っていたらしい。
そして『怖い』だの『勘違いさせたしまった』だのと、同僚の女性にグチグチと語っていた。それを聞いた日に、俺はバイトを辞めることを決めた。
あれ以来十年、俺は短期のバイトや日雇いの仕事を続け、ただただ生きているだけの無意味な生を送っていた。
結婚した姉はすでに二人の子供が出来ていて、幸せな家庭を築いていた。そして両親は還暦を超えてしまい、父はあと二年ほどで定年を迎える。
そうなれば両親の年金と蓄えだけが頼りになるわけで、俺は今まで以上に家族の厄介者となる。優しい両親は何も口に出さないが、本音では俺のことを疎ましく思っているはすだ。
だからここらで幕を下ろそうと思った。つまらないこの人生に、潔く終止符を打つのだ。
そう覚悟を決めてこの池に来ているのだが、どうにも踏ん切りがつかなかった。家を出る時は本気で自殺するつもりでいるのに、いざ池に飛び込もうとすると二の足を踏んでしまう。
「・・・やっぱ別の方法にするか?首吊りと、飛び下りとか・・・。でもここが一番迷惑を掛けなさそうなんやけどなあ・・・・。」
この溜め池は山の麓の十字路にあった。昔は貯水の意味があったらしいけど、今はただ濁った水を湛えているだけだ。
それにけっこうな深さもあるから、石でも抱いて飛び込めば浮かんでくる心配もない。近くに海があればそこへ飛びこめるが、あいにく海まではかなり遠い。
だからどう考えても、やはりここがベストなのだ。
「・・・あかんあかん、もう考えるのはやめや。パッと飛び込んで、さっさと死の。」
近くに転がる石をポケットに突っ込み、間違っても浮かんでこないようにする。そして深く息を吸い込み、この目で見る最後の景色を焼きつけた。
「この町に生まれて三十二年、楽しかったのは子供の頃だけや。でもそれはオトンやオカン、姉ちゃんが与えてくれてた幸せなんやな。
俺は・・・・自分の力だけでは幸せになれそうにないわ。彼女も出来へんし、仕事も続かへん。これ以上生きても、飯食ってウンコするだけや。」
もう迷ってはいけない。これ以上生きたところで、何の希望もないのだから。
「ごめんな、姉ちゃん。ごめんな、オトンとオカン。俺はもうあかんわ。いっぱい大事にしてくれたのに、何にも出来へんかった。ほんまごめん・・・・・。」
ポケットに入れた石を握り、強く目を閉じる。深呼吸を二、三回繰り返し、ゆっくりと目を開けてから池に進んでいった。
そしていざ水の中に入ろうとした時、池の水面を何かが横切った。
「何や?鳥か?」
月明かりを頼りに目を凝らしてみると、水面の上に何かが揺らいでいた。
「鳥・・・・ちゃうな。なんやろ、木でも生えてんのか?」
水面に揺れるその何かは、煙のように不安定な形をしていた。温い風に煽られて左右に揺れ、時折不規則な動きを見せている。
それはとても気持ちの悪い動きで、出来の悪いクレイアニメのようだった。
「・・・・・・・・・・・・。」
俺はじっとその白い何かに見入った。自殺することも忘れ、水面を這うように揺れる謎の物体に、恐怖と好奇心を覚えていた。
「見れば見るほど気持ち悪いな。ていうかマジであれなんやねん?生き物か?」
興味をそそられ、池の方へとさらに足を進める。くるぶしまで水に浸かり、靴の中がじんわりと濡れていった。
「鳥でもない、木でもない・・・・何かの煙か?」
そう考えた時、ふと閃くものがあった。
「ああ、これ知ってるわ。池から昇るガスとか水蒸気とかが、月明かりに照らされて幽霊みたいに見える奴や。」
謎がとけてホッとすると、急に自殺する気力が失せてきた。
「・・・・・あかんな、今日も失敗や。」
池から離れ、破れたフェンスを潜って外に出る。濡れた靴から水を落とし、仄暗い池を振り返った。
「次・・・・・やな。次こそは死ななあかん。明日か明後日か、またここに来よう。」
そう決意して、家路に向かって歩き出す。しかしその瞬間、突然誰かに首を掴まれ、後ろに引きずられた。
「ああああああ!」
思わず叫び声が出て、全身の筋肉が硬直した。反射的に首を掴む手を払い、全力で逃げ出した。
「な、なんやねん!誰かおるんか!」
いきなりの出来事に、手の平は冷や汗で濡れていた。自殺をする覚悟はあっても、誰かに襲われる覚悟などない。自分の意志で死ぬのと、誰かに殺されるのとではわけが違う。
濡れた靴をペタペタ言わせながら、家までの道のりを駆け抜ける。こんなに本気で走ったのは、高校の時のマラソン以来だろう。
家に着く頃には顎を上げて息をしていて、膝がブルブルと震えていた。それに全身に嫌な汗を掻いているし、何より恐怖でいっぱいだった。
《とりあえず家に入って落ち着こう・・・・・。》
ポケットから鍵を取り出し、玄関のドアを開ける。家族が寝静まった家は、とても暗くて不気味だった。
靴を玄関に脱ぎ捨て、自分の部屋に上がって倒れ込む。小さな冷蔵庫からお茶を取り出し、一気に呷って息をついた。
「何や・・・あれは何やったんやろ・・・・・。いきなり後ろから掴みかかってきたけど・・・・・。」
そう呟いて首元を触ると、おかしなことに気づいた。
「あれ?なんか・・・・・首が固まってる・・・・。」
まるで石膏で固められたみたいに、首がガチガチに固まっていた。頭を上げ下げすることも出来ず、左右に振ることも出来ない。
「なんやこれ・・・・どうなってんの・・・・・。」
恐ろしさを覚えて首を触っていると、いつの間にか背中までが固まり始めていた。
「ちょっと・・・・なんやねん!どうなってんねん!」
慌てて立ち上がり、意味もなく部屋をウロウロとする。すると何もない所でつまづき、床に倒れて鼻を打ちつけた。
「痛・・・・・・。」
赤くなった鼻を押えていると、足にも違和感を覚えた。まさかとは思って触ってみると、首や背中と同様に固まり始めていた。
「嫌や・・・・ちょっとオトン!来てんか!身体が変やねん!助けて!」
大声で叫ぶと、一階で寝ていた両親が駆け込んできた。
「どうしたん?」
母が心配そうに近づき、顔を覗き込んでくる。そして俺の顔を見た途端、小さく悲鳴を上げた。
「あんたどうしたん!顔が真っ白やで!」
「なんか身体がおかしいねん。首とか足とか固まってもて、動かへんようになってもた・・・・・・。」
「首と足?」
母は怪訝そうに眉を寄せ、俺の首と足に触れてきた。
「・・・・確かにちょっと強張ってるけど、固まってるなんてことはないで。」
「そんなことあるかい!石膏みたいに固まってるやん!全然動かへんねんて!」
そう言って首を動かしてみると、さっきまでの異変が嘘のように動いた。
「あれ?今は動くわ・・・・。」
「ほな足は?」
「足も・・・・・動くな。いや、でもさっきはほんまに動かへんかってん。」
真剣な目で訴えるも、母は困った顔で腕をさすっているだけだった。すると黙って見ていた父が、俺の前に膝をついた。
「お前ここんところよう夜中に出かけてるけど、何をしてんねや?」
「何って・・・・別に・・・・・。」
「あのな、これはお母さんともよう話してたんやけど、お前・・・・・もしかして死のうとしてるんと違うか?」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
見抜かれているとは思わなかった。鈍い両親のことだから、絶対にバレていないと思っていた。何も答えられずに黙っていると、思い切り頬を叩かれた。
「ええ加減なことすんなよ!散々迷惑かけとるクセに、勝手に死ぬ奴があるかい!」
父は本気で怒っていた。普段は見せない厳しい表情をして、目を見開いて睨んでいた。
「ええか広明、お父さんもお母さんも、どれだけお前のことを心配してると思ってんねん。
お姉ちゃんだってそうや。家に帰って来る度に、ずっとお前のことを気に掛けとる。
それやのに勝手に死のうとする奴があるかい!そんなことするんやったら、この家出て行って二度と顔を見せるな!」
父の怒鳴り声がキンキンと耳に響く。それは今までに聞いたことのないくらい大きな声で、思わず恐怖を感じてしまった。
「お父さん、夜やから大きな声だしなや・・・・・。」
母が険しい表情で取りなし、心配そうに俺の肩を撫でた。
「あのな広明、これも前からお父さんと相談しとったんやけど、いっぺん病院に行ってみいへんか?」
「病院?なんで?」
「なんでって、最近のあんた明らかにおかしいやんか。そら小さい頃から変わったところはあったけど、最近はちょっと変やで。
だからいっぺん病院に行って、きちんと診てもろた方がええと思うわ。」
「・・・嫌や、なんで病院なんか行かなあかんねん・・・・・。」
「でもこのままやったら、あんたほんまに何しでかすか分からへんで?お父さんもさっき言うたけど、みんな広明のことが心配なんや。
だからいっぺんだけでも病院に行ってみよ。別に入院せえとかそういうわけじゃないから。」
母の目は本気だった。小さく瞳を揺らしながら、グッと唇を噛んでいる。それを見た時、これはどんなに拒否しても無理だなと悟った。
一度こういう表情になると、何を言い返そうが意地でも後ろに引かないからだ。
「・・・・・いっぺんだけでええんやな?」
「そや、いっぺんだけや。でもそれでもし病気やとか診断されたら、ちゃんと通わなあかんよ?」
「だから嫌や言うてるやん!俺はどっこもおかしいない!何にも病気とかなってへんわ!」
近くにあった雑誌を投げつけ、言葉になっていない言葉を喚き散らした。そして何を思ったのか、二階の窓から飛び降りようとしてしまった。
父と母は慌てて止めに入り、俺はわけの分からない言葉を喚いている。隣の家の窓に電気が点き、何事かと顔を覗かせていた。
やがて俺は力尽き、倒れるように床にへたりこんだ。両親は窓を閉めてカーテンを引き、夜中だというのに姉に電話を掛けていた。そんな両親の姿を見ながら、俺は心の中で呟いた。
《病院なんか行くくらいやったら死んだ方がマシや。俺はどっこもおかしいない。おかしいのは周りの方なんや。》
そう、俺はおかしくない。悪いのは俺のことを理解しない周りの人間なんだ。そう思った時、また身体が固まっていた。首、背中、足ときて、最後は胸の辺りまで苦しくなった。
「おい広明、また顔色悪いぞ。大丈夫か?」
父がケータイを片手に、不安そうに俺の肩を揺さぶる。その隣では母が泣きそうな顔をしていた。
「おかしいない・・・俺は何にもおかしいないねん・・・。でも、もう生きてるのが嫌やから・・・迷惑かけたくないから、死のうと思っただけやねん・・・。
ええ加減自由にさせてえや・・・・・。」
親の前では絶対に口に出すまいと思っていたのに、感情が昂ったせいで口にしてしまった。
もうこれで完全に病院に連れて行かれるだろう。それも入院のおまけ付きで。
いらぬことを口走って両親を不安にさせた時、ついに全身が固まってしまった。そして呼吸まで苦しくなり、胸を押えてもがき回った。
「おい広明!お母さん、救急車や!早よ呼んで!」
父はケータイを握っていることも忘れ、母に一階の電話まで走らせた。その間にもどんどん呼吸は苦しくなり、遂には死を覚悟した。
《ここで死ぬんか・・・。こんなんやったら、池に行った時に死んどいた方がよかった。それなら誰にも迷惑かけへんかったのに・・・・・。》
呼吸が出来ないせいで意識が遠のいていく。このまま気を失えば、きっと二度と目を覚ますことはないだろう。
今・・・目の前に死がぶら下げられている。現実に死に直面した時、俺は心の底から謝った。
《ごめんなさい!ほんまごめんなさい!まだ死にたあない!死にたあないんや!死んでもええなんて嘘やから、許して下さい!》
いったい誰に謝っているのか分からないが、とにかくひたすら謝った。神でも仏でもいいから、俺を救い出してほしかった。
そうやって心の底から生を願った時、ふと誰かの声が聞こえた。
『ねえ、どうして生きたいの?生きて何をするの?』
それは子供の声だった。少年か少女か、どちらかは分からないが、確かに子供の声が聞こえた。
『生きて何をするの?どうせいつか死ぬんだよ。五十年後に死ぬのと、今死ぬのと何が変わらないの?死んだら全部無くなっちゃうのに、どうして生きようとするの?』
死の際にありながら、随分と哲学的なことを問う子供だなと冷静に考えていた。
『お兄さんもおいでよ。あの池に来て一緒に沈もう。どうせ生きていたって、人生に意味なんて無いんだから。死んで楽になっちゃおうよ。』
その言葉を聞いた時、このまま死んでもいいかなと思った。この子供の言うとおり、確かに俺の人生に意味なんてない。それどころか、周りにとっては厄介者でしかない。
だからこのまま死に身を委ねようとした。このまま楽になって、何もかも無かったことにしようと思った。でも・・・それはやはり無理だった。
《・・・・怖い・・・・。やっぱり死ぬのは怖いねん・・・・。例えやることがなくても、俺は生きていたい。
だから・・・・許してくれ。まだ生きたいねん、お願いやから・・・・・。》
意識が遠のく中で、頬に熱いものが伝っていった。それはまさに生きたいと願う心の叫びだった。するとその子供は、冷めた口調で語りかけてきた。
『あのね、僕は親に殺されたんだ。この先ずっと生きるはずだったのに、無理矢理人生を終わらせられたんだ。
だから僕は認めないよ。生きてることに意味があるなんて絶対に認めない。だってそうじゃなきゃ僕は納得できないもの。
生きていることが無意味じゃなかったら、僕はどうやって自分が死んだことを納得すればいいのさ?』
僕・・・・と言った。ということはこの子供は少年なのだろう。
声の感じからして小学生くらいだと思うが、その歳で死んでしまうとは同情を覚えずにいられなかった。何も答えられずに黙っていると、少年はまた語りかけてきた。
『いいよ、今は見逃してあげる。でもまた来るからね。』
恐ろしいことを言って、少年はクスクスと笑う。そして去り際にとんでもないことを言い残していった。
『お兄さんが僕から逃れる方法が一つだけあるよ。それはね・・・・お兄さんのお姉さんを殺すことさ。』
《俺の姉ちゃんを・・・殺す・・・・?》
『うん、だって僕を殺したのは、お兄さんのお姉さんなんだから。だから僕の代わりに仇を討ってくれたら、もう二度とお兄さんに関わらない。それじゃね。』
少年の気配が遠ざかり、それと同時に俺の意識も失われていく。完全に闇に落ちる前、身体の硬直が解けて息が出来るようになっていた。
しかし気を失うことは止められず、意識がブラックアウトした。無音の海底を漂うように、言いようのない絶望の中を泳がされているようだった。
《・・・・・・・・・。》
《・・・・・・・・・・・・・。》
《・・・・・・・・・・・・・・・・・。》
どれくらい時間が経っただろう。微かに光を感じて、薄っすらと目を開けた。周りの視界はぼんやりと歪んでいるが、誰かが手を握っている感触があった。
なんとか首を動かして目を向けると、そこには泣きそうな顔をした姉がいた。

新しい小説

  • 2014.09.30 Tuesday
  • 12:16
新しい小説を書きます。『水面の白影』という小説です。
前回に引き続きホラーになりますが、よければ読んで下さい。

 

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