霊体解剖 第十話 実験(2)

  • 2015.06.26 Friday
  • 09:39
JUGEMテーマ:自作小説
本殿の近くまで逃げると、鈴音は後ろを振り返った。そこに勉の姿はなく、胸を押さえてホッと息をついた。
しかし追って来ないとも限らないので、急いで社務所に駆け込んだ。
「おじいちゃん!」
引き戸を開けるなり、鼓膜が破れそうなほどの声で叫ぶ。
するとその声を聞きつけて、社務所の奥のドアが開き、祖父たちが出て来た。
「おじいちゃん!」
鈴音は祖父に抱きつき、声を上げて泣いた。
祖父は何事かと戸惑い「どうした?」と肩を揺さぶる。
「おばけ!お兄ちゃんのおばけ!目が無いおばけ!」
「おばけ・・・・・。」
わんわんと泣く鈴音をあやしながら、後ろに立つ星野を振り返った。
「神主さん・・・・・。」
祖父の視線を受けて、星野は鈴音の傍に膝をつく。そして「そのおばけは?」と尋ねた。
「知らん!でも追いかけて来た!家からずっと・・・・、」
「それでここへ逃げて来たのか。」
星野は頷き、「ここなら安心だから」と頭を撫でた。
そして亜希子と基喜を振り返り、一緒に外へ出て行く。
鈴音は「怖かった・・・・」と泣きじゃくり、幼い子供のように、しっかりと祖父に抱きついた。
すると勉が「それってさっき神主さんが言うてた・・・・、」と顔をしかめた。
「それ俺の幽霊やろ?目玉が無いっていうやつ・・・・。」
勉は真剣な目で尋ねるが、祖父は答えない。
今は鈴音を安心させてやる方が先だと、頭を撫でてあやしていた。
「勉、神主さんが戻って来るまで、ここから出ない方がいい。」
「うん・・・・。」
三人は社務所のソファに腰掛け、神主たちが戻って来るのを待った。
重く、暗い空気が流れ、鈴音の泣き声だけが響いている。
すると鈴音の握りしめているスマホから、「もしもし?」と声がした。
「鈴音ちゃん?上手く逃げられた?」
その声を聞いて、勉は「有希さん・・・?」と首を傾げた。
「これ有希さんの声やんか・・・・。なんで鈴音の電話から・・・・?」
不思議に思い、「ちょっとええか?」と言いながら、妹の手からスマホを取った。
一つ息を吐き、緊張しながら「もしもし?」と話しかける。
すると途端に有希は黙ってしまい、しばらくしてから「勉君?」と尋ねた。
「もしもし?有希さん?俺やけど・・・・、」
「ああ、やっぱり勉君。君もそこにいたんだ。」
「うん・・・。あの・・・なんか鈴音がおばけを見たって・・・・、」
勉は立ち上がり、祖父と鈴音から離れていった。
「そうよ、あの日君の心から追い払った、もう一人の君。風間さんを殺した奴よ。」
「・・・・なんで?なんでそいつがまだおるん?アイツは有希さんと朋広君がやっつけた言うてたやん。それになんで有希さんが鈴音の電話を知ってんの?」
「・・・・それは・・・・、」
「今な、神社に来てんねん。そんでここの神主さんから、色々と話を聞いてたんや。」
「話?何の?」
「あんな・・・・実はあの日、俺が帰る前に、家におばけが来てたんや。俺のおばけが・・・。」
「・・・・・それ本当?」
「うん。おじいちゃんが言うてた。俺も初めて知ったんやけど。それでな、おじいちゃんがここの神主さんに相談してたんや。そんで今日はたまたま俺もついて来て、神主さんから話を聞かされた。その・・・・星野喜恵門いう人の・・・・・。」
勉が星野喜恵門という人物の名前を出した途端、有希は黙り込んだ。
「もしもし?」と話しかけても返事をせず、電話の向こうから不穏な気配を感じた。
「もしもし?有希さん?」
「・・・うん、聞いてるわよ。」
「あのな、その星野喜恵門いう人は不思議な力を持ってて、それが代々子供に受け継がれていったんやって。幽霊と話せるとか、人の色が見えるとか、そういう力が子孫に受け継がれていったんやって。」
「それで?」
「それでな、ここの神主さんも喜恵門の子孫やから、そういう力を持ってるらしいんや。それで神主さんの子供も、そういう力を持ってるって言うてた。」
「神主の子供さん?」
「双子の姉弟で、お姉さんの方は人の色が見えて、弟さんは幽霊と話せるんやって。」
「・・・・・・・・。」
「今日ここへ来た時に、お姉さんの亜希子さんに言われたんや。『君、色の一部が抜けてるよ』って。そんで神主さんとおじいちゃんから、俺のおばけのこととか色々と聞かされてな。だから・・・・喋ってもうた、あの日のこと。」
勉が申し訳なさそうに言うと、有希の声色が変わった。
「喋った・・・・?あの日のことを?」
「うん・・・・。」
「どうして?絶対に喋らないって約束したでしょ?」
「そうなんやけど・・・・。でも神主さんとおじいちゃんの話を聞いてると、黙ってられへんと思って。それに亜希子さんが色の一部が抜けてるっていうから、誤魔化してもいずれバレると思って・・・・。」
勉は必死に弁明し、「有希さんなら分かってくれるやろ?」と尋ねた。
「有希さんも人の色が見える言うてたやん。嘘をついたって、色の揺らめきですぐ分かるって。だから亜希子さんにも嘘が通用せえへんと思って、それで・・・・。」
有希を怒らせたくないと思い、どうにか理解を求めようとする。
しかし電話の向こうから声は返って来ない。勉は、もし有希に嫌われたらどうしようかと、気が気ではなかった。
「勉君。」
しばらくの沈黙の後、有希が静かな声で呼びかける。
「その神社の娘さんは、確かに人の色が見えるのね?」
「そう言うてたけど・・・・。でもホンマかどうかは分からへん。」
「でも君はあの日の事を喋ったじゃない。ということは、亜希子さんって人の言うことを信用したってことでしょ?」
「それは・・・・、」
「私ね、勉君のことを信じてるのよ。あなたは悪い心を追い払って、ちゃんとした『人間』になった。それなのに、どうして私との約束を破ったの?それは嘘つきのすることじゃないの?」
「あ・・・・でも・・・・、」
「言い訳なんか聞きたくないわ。君は私よりも、亜希子さんを信用したってことでしょ?」
「違うって!俺は有希さんを信用してるよ!ホンマやって!」
「嘘ね。本当に私を信用してるなら、絶対に喋ったりしなかったはずよ。」
「違う!ホンマに嘘なんかついてへん!ホンマやから!」
勉は声を上げて弁明する。しかし有希の態度は冷たく、「そんなんじゃ、二度とキスなんて出来ないわね」と言った。
「私はこう約束したのよ。立派な大人になったら、またキスしてあげるって。これってどういう意味か分かる?」
「どういう意味って・・・・・・、」
「もし君が立派な大人になったら、恋人になってもいいって意味よ。勉君は悪い心を追い払い、素直で良い子になった。それならいつか、きっと立派な男になるだろうって思ったの。そしてそんな日が来たなら、私は君みたいな人の彼女になりたいって思ったわ。
なのに私を裏切るなんて・・・・・、」
有希の声は沈み、電話の向こうから悲しみが伝わって来る。
勉は「ごめん・・・」と謝り、「ほな・・・・どうしたらええ?」と尋ねた。
「有希さんの言うとおり、俺は嘘つきや・・・・。でも俺、有希さんのこと・・・・・、」
今度は勉の声が沈み、口を噤んでしまった。すると有希は声色を戻し、「いいのよ、悪気はなかったって分かってるから」と優しく言った。
「喋っちゃったものはしょうがないもんね。ごめんね、私も言い方が荒くなっちゃって。」
「ううん、悪いのは俺やから・・・・・。」
「じゃあさ、私のことを信用してくれる?亜希子さんって人より、私の方を選んでくれる?」
「当たり前やん!別に亜希子さんって人なんか、何とも思ってないで。絶対に有希さんを選ぶに決まってるやん。」
「よかった・・・・。私・・・勉君に嫌われたらどうしようかと思った・・・・。」
有希は心底ホッとした声で言う。その声も聞いた勉も、同じようにホッとした。
「俺・・・今はまだ言えへんけど、有希さんに伝えたいことがあんねん。」
「うん・・・。」
「だから立派な大人になったら、きっと気持ちを伝える。だから俺は・・・・もう何があっても有希さんとの約束を守るよ。絶対に。」
勉は真剣に、そして力強く言った。スマホを握る手に力を込め、一生の誓いを立てるように、有希への想いをほのめかせた。
「ありがとう・・・・勉君。」
有希は喜びを込めて、そう返事をした。しかしすぐに険のある声で「あのね・・・」と切り出した。
勉は目に力を込め、有希の言葉に耳を傾ける。
これ以上有希を裏切らない。これ以上絶対に傷つけたりしない。
この先何があっても、有希との約束だけは守る。
勉は忙しなく歩き、さらに祖父と鈴音から離れて行く。
有希にそうしろと言われたからだ。そして周りには誰がいるのか?神主や亜希子と何を話したのか?
祖父や鈴音、それに両親から、私のことで何か聞いていることはあるか?
根掘り葉掘り、細かく聞かれた。
勉は素直に喋り、自分の知る限りのことを教えた。
そして全ての質問に答えると、有希にこれからのことを指示された。
それはとてもではないが、素直に受け入れられる指示ではなかった。
勉は何度も出来ないと断ったが、有希は「それならもういいわ」と、また声色を変えた。
「もう二度と勉君と会うことはないでしょうね。せっかく仲良くなれると思ったのに、私は悲しい・・・・。さっきは信じてくれるって言ったのに・・・・。」
電話の向こうから有希の泣き声が聞こえ、勉はうろたえる。
しかしそれでも、有希の指示を受け入れることは難しかった。
「だって・・・・そんなん無理や・・・。亜希子さんを殺すなんて・・・・。」
そう言って勉が迷っている間に、神主たちが戻って来た。
その事を伝えると、有希はすぐに電話を切れと言った。
「また掛け直すわ。分かってると思うけど、今の話は・・・・、」
「うん、絶対に喋らへん。」
「いい勉君。そいつらは勉君をたぶらかす、悪い奴なんだから。」
「そうやったな。あの人らは、悪い人なんやもんな。」
「そうよ。だから私のお願い・・・・よくよく考えてみて。もし上手くいったら、その時はデートしましょう。もちろんキスだってしてあげる。」
「う・・・ああ・・・・・、」
「私も・・・・勉君のことは好きよ。でも今はまだ、男として好きなわけじゃない。だから私の期待に応えて、立派な大人になって。その時は、本当の意味で君を好きになれると思うから。いつか私を、君の彼女にしてよ。その時を待ってるから。」
そう言って、有希は電話を切った。
勉は有希の顔を思い浮かべ、あの時の唇の感触、そして握った手の感触を思い出した。
今の勉は、色んな意味で混乱していた。
どうして鈴音のスマホに、有希から電話が掛って来たのか?どうして目玉の無いもう一人の自分が生きているのか?
それにどうして有希は、亜希子を殺せなんて指示を出したのか?
勉は混乱し、唇を噛みながら考えていた。
すると亜希子に肩を叩かれ、「どうしたの?」と尋ねられた。
「なんかすごく色が揺らいでるよ。大丈夫?」
「ああ・・・・いや・・・・、」
「大丈夫、ぐるっと見て回ったけど、もう君のおばけはいないわ。」
そう言って勉の肩を叩き、「あれ、君にもあげるからね」と、祖父が手首に着けているものを指差した。
それは小さな勾玉だった。
深い緑をしたヒスイの勾玉で、カラフルな紐で結んである。
一見するとアクセサリーのようにしか見えず、手首に巻いても違和感のない物だった。
「あれを着けてれば、幽霊が襲って来ることはないから。」
「はあ・・・・。」
「そもそも君のおじいちゃんがここへ来たのは、家族分の勾玉を受け取る為だったのよ。
君のおばけは、どうも君の家族を狙ってるみたいだからね。」
亜希子は祖父の勾玉を見つめながら、「で?さっきは誰と話してたの?」と尋ねた。
「え?だ・・・誰とって・・・・、」
「さっき誰かと話してたじゃない。なんかコソコソしながら。」
「え・・・・コソコソなんか・・・・、」
「そう?でもさ、それってどう見ても君のスマホじゃないでしょ?」
そう言って、じっと勉の手を見つめる。
そこには赤色のカバーが着いた、鈴音のスマホがあった。
可愛らしい猫のキャラクターがプリントされたそのカバーは、どう見ても勉が持つような物ではなかった。
「それって妹さんのスマホでしょ?誰と話してたの?お父さん?お母さん?」
「あ・・・ええっと・・・・母ですけど・・・・、」
「ふうん、じゃあちょっと履歴を見せてよ。」
亜希子はクイクイと手を動かし、スマホを寄こせと合図する。
勉は目を逸らし、下手な嘘をついてしまったことを後悔した。
「これは・・・鈴音のやつやから、勝手に見せるわけには・・・・、」
「そっか。じゃあ鈴音ちゃんに聞いてこよ。」
亜希子は踵を返し、鈴音の元に向かう。勉は彼女の背中を睨みながら、焦りを覚えていた。
もし有希と話していたことがバレたら、話の内容まで聞かれるに違いない。
嘘をついて誤魔化しても、亜希子ならそれを見破ってしまう・・・。
勉は焦り、唇をいじりながら考える。
とりあえずこの場から逃げなければ、有希と話していたことがバレてしまう。
もう決して、彼女との約束を破るわけにはいかなかった。
「ごめんおじいちゃん・・・・俺ちょっと家に戻って来る。」
そう言い残し、勉は社務所を出て行く。祖父は「勉!」と呼びかけるが、それを無視して走り去った。
「危ないぞ!これを貰うまで出るな!」
祖父は腕に着けた勾玉を振り、孫を止めようとする。
すると星野が「大丈夫です」と宥めた。
「勉君のことは、うちの子供に任せて下さい。」
そう言って亜希子を振り返り、目で追うように合図した。
亜希子は頷き、いったん自宅に戻ってから、カラフルな紐で結ばれた勾玉を持って来る。
そのうちの一つを祖父に渡し、「これは鈴音ちゃんの分です」と言った。
「他のご家族の分は、後で父と基喜が作ります。」
「あ・・・ああ、これはどうも・・・。」
祖父は勾玉を受け取り、「勉をお願いします」と頭を下げた。
「うん、任せて下さい。仏派の人間には負けませんから。」
そう言い残し、基喜と共に勉を追いかけた。
社務所には祖父と鈴音、それに星野が残される。
星野は「お茶でも」と言い、ペットボトルから湯飲みに注ぎ、鈴音に手渡した。
「これ飲んで、ちょっと落ち着いて。」
鈴音はまだ泣いていたが、祖父に促されてお茶を流し込んだ。
そのおかげで少しだけ落ち着きを取り戻し、涙は止まった。
しかしまだ恐怖は止まらない。ギュッと祖父の手を握り、黙ったまま俯いていた。
祖父は鈴音の背中を撫で、「可哀想に・・・怖かったろう?」と慰める。
鈴音はじんわりと涙ぐみ、また泣き始めた。
「鈴音、悪い奴らってのは、良い顔をして近づいて来るもんだ。その悪い奴らのせいで、俺達は怖い目に遭っとる。」
祖父は静かに、そして怒りを込めたように言う。
鈴音はその言葉の真意は分からなかったが、それでも僅かに感じ取ることはあった。
祖父はきっと、有希と朋広のことを言っているのだと。
目玉の無い兄に追いかけられている時、有希は何の焦りも見せずに、淡々と兄について語っていた。
そしてあの幽霊について、よく知っているかのような口ぶりだった。
鈴音は思い出す。有希が言っていたことを。
『目玉がない勉君が、そこに立ってるんでしょう?それが鈴音ちゃんの知ってるお兄さんよ。無感動で無関心で、解剖にしか興味のない勉君。』
あれはいったいどういう意味なのか?
それに朋広が数珠で動きを封じるだとか、わけの分からないことを言っていた。
以前から有希に対して抱いていた疑問が、さらに膨れ上がる。
謎めいたところがある女性だとは思っていたが、悪い人ではないはずだと信じていた。
しかし今日、その考えは変わった。
有希には得体の知れない恐ろしさがある。
いったい何を考え、何をしようとして、どんな正体を隠しているのか?
謎は深まるばかりで、それに比例して恐怖も増していく。
鈴音は祖父に寄りかかり、ただ身を震わせるしかなかった。
そしてふと自分のスマホが無いことに気づき、辺りを見渡した。
「あたしの電話は・・・・?」
そう呟くと、祖父が「勉が持ってたぞ」と答えた。
「誰かと話してたな。途中で怒鳴ったりもしてたけど、あれはもしかして・・・・・、」
祖父が心配そうに呟くと、「多分野々村有希でしょうな」と星野が答えた。
「佐藤さん、これで分かったでしょう。あんたの孫は、二人とも『奴ら』に利用されとるんですよ。」
「ええ・・・・。」
「今回のは実験でしょうな。勉君の幽霊を、どこまで思い通りに動かせるか?野々村有希はそれを試したかったんでしょう。」
星野は重い口調で言い、自分の湯飲みにお茶を注ぐ。
「あの子たちの師匠である風間慎平は、異端児の中でも、かなりの危険人物だったと聞きます。しかし野々村有希には、彼が邪魔だったんでしょう。もう学ぶことは無いと判断した彼女は、躊躇いなく自分の師を手に掛けたはずです。」
星野はお茶で口を湿らせ、何とも言えない渋い顔をする。
そしてやや間を置いてから、こう結んだ。
「私のご先祖様も、厄介な物を残してくれたもんです。幽霊と話せるだとか、人の色が見えるだとか、そういう如何わしいもんがなければ、人はもっと幸せに生きていけるのに。」
そう言ってお茶を飲み干し、一服つける。
祖父は鈴音を抱きながら、星野の言葉を噛みしめた。
人智を超えた力は、人を不幸にするだけ・・・。
祖父には、星野の言葉がそう感じられた。

霊体解剖 第九話 実験(1)

  • 2015.06.25 Thursday
  • 14:06
JUGEMテーマ:自作小説
桜並木の下を、馬に乗った鎧武者が行進していく。
その後ろには、槍を掲げた歩兵が歩き、回りにはアマチュアカメラマンが群がっている。
鈴音は兄と並んで歩きながら、新学期が始まって最初の日曜を楽しんでいた。
「いよいよ受験が近づいてきた・・・。」
楽しい気持ちのはずが、ふと来年の高校受験がよぎり、一瞬暗い気持ちになる。
桜並木のベンチに腰掛け、行進していく武者たちを眺めた。
勉は妹の隣に腰を下ろし、同じように鎧武者を眺める。
「俺は高校へは行かん。来年受験する手もあるけど、働くことにした。」
「お兄ちゃんにはその方が合ってると思う。何の仕事するん?」
「まだはっきり決めてないけど、何か物を創る仕事がええな。」
「ええやん。夢があるんやったら。」
鈴音はベンチに手を付き、足をぶらぶらさせた。
鎧武者は橋を渡り、出発地点の神社に戻ろうとしている。
鈴音は遠目にそれを眺めながら、ふと兄に視線を向けた。
兄は以前とは打って変わって、とても人間らしい表情をしていた。
今では感情が表に出るし、好きな人もいるという。
以前の兄では考えられないことばかりで、鈴音は安心と喜びを覚えていた。
今から半月前、鈴音は両親と共に、兄に会いに来た。
本当なら絶対に行く気などなかったが、有希と朋広から、会いに行ってあげてほしいと頼まれたのだ。
二人は兄の事をよく知っていて、まるで身近に接してきたかのような口ぶりだった。
鈴音はそのことを疑問に思い、二人に尋ねた。
しかし相変わらずはぐらかされるばかりで、「いずれ機会があったらね」と微笑まれた。
そして兄に会ったならば、私たちのことは伏せておいて欲しいと頼まれた。
「約束よ、鈴音ちゃん。私たちと鈴音ちゃんが友達だってこと、お兄さんには内緒にしておいて。そうすれば、私たちは友達のままでいられるから。」
有希にそう言われ、鈴音は頷くしかなかった。
今や鈴音にとって、あの二人はかけがえのない友達である。
特に有希に対しては、崇拝にも近い念を抱いていた。
だから兄に会いに来た時、二人のことは決して話さなかった。
しかし兄は二人のことを知っていて、自分の保護官だったと語った。
鈴音の中に、またあの二人に対しての疑問が芽生えた。
自分と同じ中学生なのに、児童福祉施設の保護官・・・・・。
謎は深まるばかりだったが、考え込むのはやめにした。
なぜなら鈴音は薄々感づいていたからだ。あの二人が、ただの中学生ではないことを。
だからあの二人のことは知らない振りをして、兄の話に耳を傾けていた。
兄はとても明るくなっていて、表情も豊かだった。
以前とは比べものにならないくらい、口数も多かった。
そして有希に恋をしていると聞いて、一瞬口を開けっ放しに固まってしまった。
有希にキスをされ、手を繋いで歩いた・・・・。
嬉しそうに語る兄に、鈴音はただ唖然とするしかなかった。
有希が・・・・・どうして・・・・?
そう思ったが、それでも二人のことは口に出さない。
どうやら父と母は事情を知っているようだったが、鈴音と同じように、あの二人のことを知らない振りをしていた。
兄は家族との再会に喜び、鈴音にも明るく接した。
一緒に散歩にでも行かないかと誘われ、躊躇いながらも、田園の広がる景色を歩いた。
兄はよく喋り、そして迷惑を掛けたことを謝った。
頭を下げ、「ごめんな・・・・」と。
その時、鈴音はなぜか泣いてしまった。
あの無感動で無関心な兄が、こうして正面から謝るだなんて、予想もしていなかった。
その日、鈴音もよく喋った。
二人が兄妹として生まれてから、ほとんど口を利くことなんてなかったから、とても楽しく、新鮮な時間だった。
兄は「いつか立派な大人になって、もういっぺん有希さんと会うんや」と目を輝かせて語り、鈴音に向かってニコリと微笑んだ。
兄と過ごした一日。
その日は特別な時間となり、黒く固まっていた鈴音の心を溶かし始めた。
学校へ行きたくない、外へ出たくない、誰もかれもが自分を犯罪者の妹だと噂する。
全ては兄が原因であり、そのせいで暗い性格になっていた。
しかしこの日、もう自分を苦しめる兄はいないのだと気づいた。
鈴音の嫌っていた兄はどこかへ去り、今は別人のように明るく笑っている。
だからもう、何も心配することはない。
鈴音は家に帰ってから、兄に会いに行ってよかたっと、電話で有希に伝えた。
有希は笑いながら、「それはよかった」と喜んでくれて、これからも仲良くねと励ましてくれた。
あの日から今日まで、鈴音はほとんど元通りに明るくなった。
学校へも通うようになり、白い目とヒソヒソ話に嫌な思いをしながらも、どうにか友達が出来たのだ。
春休みには一緒にカラオケへ行ったり、どんなタイプの男が好きかとか、楽しくはしゃぐ時間を過ごした。
そして新学期。
鈴音は中学三年生になり、有希と朋宏は卒業していった。
もちろん二人は、今でも仲好くしてくれる。
しかし兄には決して言わないようにと、まだ釘を刺されていた。
隣に座る兄は、ぼんやりと桜を眺めている。
その顔は緩んでいて、きっと有希のことを考えているんだろうと、鈴音は可笑しくなった。
しばらくベンチに座り、桜景色を堪能する。
家に帰る途中、駄菓子屋でアイスを買って、仲良く田園の中を歩いた。
「お兄ちゃん、ずっとこっちにおるん?」
何気なく尋ねると、「それは無理っぽいな」と答えた。
「おばあちゃんがな、あんまり俺がおるのに、ええ気がしてないみたいやねん。だから戻ると思う。」
「そうなんや。ほな近いうちに帰って来るってこと?」
「多分な。でも長い間はおらんと思う。やっぱり俺のことで噂する人がおるやろし、そうなったら鈴音も嫌やろ?」
「それは・・・・まあ・・・・、」
「これ以上な、周りに迷惑かけたあないねん。だから早よ働いて、自分一人で暮らす。」
「でもまだ15やで?一人で暮らせる?」
「今年で16や。」
「いっこしか変わらへんやん。」
「大丈夫や。16で東京に一人で言って、世界チャンピオンになった人だっておるんやで。」
「世界チャンピオン?なんの?」
「ボクシング。畑山いう人。その人の本で読んだんや。」
「ほなお兄ちゃんもボクシングやる気?」
そう尋ねると、勉は「まさか」と笑った。
「別にそんな大きな世界じゃなくてええねん。立派な大人になれれば、それでええねん。」
「それってあれやろ?また有希さんにキスしてほしいんやろ?」
鈴音は笑いながら茶化す。勉は頬を赤くして、誤魔化すようにアイスを頬張った。
家に戻ると、父と母は買い物に出かけていた。
祖母は二人の買い物について行き、残された祖父が居間でタバコをふかしていた。
「ただいま。」
勉が言うと、「おう」と笑った。
祖父はタバコを消し、膝に手をついて立ち上がる。
そして農作業着を脱ぎ、余所行き用の服に着替えた。
「出かけるん?」
鈴音が尋ねると、「ちょっと神社にな」と答えた。
「お前らも行くか?田園の向こうの所まで。」
薄手のジャケットを羽織りながら、祖父は顔の皺を深くして笑う。
そして柱にかかった鏡を見て、着替えた服を整えた。
鈴音は「私はええわ」と答えたが、勉は「行く」と言った。
祖父は頷き、庭に向かって軽トラを回した。
「ほな鈴音、留守番しといてな。」
「うん。後でゲームしよ。」
「ゴルフのやつな。ええで。」
勉は手を振り、祖父の待つ軽トラに向かう。
鈴音は玄関まで見送り、田園の向こうに消える二人に手を振った。
「一人や、暇やな。」
家に戻り、二階の部屋に行く。しばらく一人でゲームをしていたが、退屈になってやめた。
一階に下り、新聞を開いて、ドラマの再放送を見つける。
テレビをつけ、主人公の痛快で軽快な長台詞を聞きながら、スナックを頬張った。
するとその時、ふと人の気配を感じて振り返った。
「・・・・・・・・。」
今、誰かが後ろを横切った・・・。
もしかして誰かが帰って来たのかなと思い、家の中を探した。
しかし誰もおらず、少し怖くなってテレビに戻った。
ドラマが佳境にさしかかり、主人公の弁護士のセリフが熱を帯びていく。
するとまたしても人の気配を感じ、「誰・・・・?」と振り返った。
ゆっくりと立ち上がり、注意深く辺りを見渡す。
家の中にはテレビの音だけが響き、誰かがいるような物音は聞こえない。
「・・・・・・・・。」
鈴音は嫌な予感がした。
元々怖がりの性質なので、幽霊だのオカルトだのは苦手である。
一人で家にいるのは嫌だと思い、玄関に行って靴を履いた。
庭に出ると、田園の風景が心を落ち着かせた。
稲のない時期でも、田んぼが広がる景色はいいもので、胸に湧き上がる不安を抑えてくれた。
鈴音は誰かが帰って来るまで、庭にいようと思った。
ポツンと置かれた椅子に腰かけ、スマホを取り出して電話をかけた。
相手は有希で、電話に出てほしいと願いながら、しばらくコール音を聞く。
すると「もしもし?」と声がして、ほっと息をついた。
鈴音は兄の所に来ていることを伝え、今は一人で暇だと愚痴った。
有希は「そうなんだ」と笑い、鈴音のお喋りに付き合ってくれた。
するとまた人の気配が横切り、後ろを振り返った。
そしてなぜか物置が気になって、半開きになったシャッターを睨んだ。
「もしもし?鈴音ちゃん?」
有希が話しかけてきても、しばらく返せなかった。
「もしもし?聴こえる?」
有希は心配そうに尋ねる。鈴音は「うん・・・」と短く答え、物置に向かって足を進めた。
怖がりのクセに、どうして物置に向かおうとするのか?
自分でも分からなかったが、どうしてもあの中が気になって仕方なかった。
有希が電話の向こうから話しかけて来るが、鈴音は生返事しか返さない。
そして半開きになったシャッターの前まで来ると、身をかがめて中を覗いた。
「・・・・・・・・・。」
外から射し込む光のおかげで、中がよく見える。
古いトラクター、錆びたスコップ。それに天井からぶら下がった玉ねぎに、積み上がった肥料の袋。
鈴音は注意深く見渡し、ある一か所に目を止めた。
それは目玉模様の風船だった。
鳥除けの為に田んぼに張るもので、黄色地に、黒と赤の丸い目玉が描かれている。
空気の抜けたその風船を睨み、じっと注意を凝らす。
すると僅かにその目玉が動いていることに気づき、目を細めて睨んだ。
しぼんだ目玉に空気が入っていき、ふらりと宙に浮かぶ。
鈴音は唖然として、ゆっくりとスマホのカメラを向けた。
有希が「鈴音ちゃん」と呼びかけるが、それを無視して通話を切る。
カメラモードを起動させ、宙に浮かぶ目玉に向かって、シャッターを切った。
カシャリと音が鳴り、物置にこだまする。
画面には宙に浮かぶ風船が映され、鈴音はその写真を有希に送った。
その時、ふと目の前に人の気配を感じ、ゆっくりと顔を上げた。
次の瞬間、鈴音は短く悲鳴を上げ、心臓がドクンと跳ねた。
「・・・・・・・・・。」
鈴音の目の前に、兄が立っていた。
しかしそれは鈴音の知る兄ではなかった。
なぜなら目玉が無かったからだ。
二つの眼孔が、仄暗い洞窟のように、不気味な闇に染まっている。
目玉の無い人間の顔というのは、とてもではないが直視出来るものではなかった。
特に鈴音のような子供にとって、それは恐怖以外の何者でもない。
鈴音は後ずさり、スマホを握りしめて逃げ出した。
庭から出て、田園を縫うあぜ道を走っていく。
遠くには神社の森が見えていて、あそこまで逃げようと駆け抜けた。
しかし兄は追いかけて来る。
鈴音の足音に遭わせるように、タッタッタとあぜ道を駆け、空洞になった目で睨んでいる。
鈴音は怖くて振り向くことが出来ない。
顔は血の気が引き、声にならない声で叫び、足がもつれそうになるのを我慢しながら、必死に神社の森を目指した。
その時、スマホからメールの着信音が鳴った。
しかし鈴音にそれを見る余裕などない。
目玉のない兄から逃げる為に、ただただ走った。
背後からの足音は、だんだんと距離を縮めてくる。
このままでは追いつかれると思い、振り向きざまにスマホを投げつけた。
それは上手く兄の眉間に当たり、一瞬だけ怯んだ。
しかしそのせいで怒らせてしまい、兄は怒りの形相で追って来た。
鈴音は逃げる。ひたすら逃げる・・・・。
神社の森までは、後100メートルほど。あそこまで行けば祖父がいる。そして鈴音の知っている兄もいる。
助けを求める為、必死に走り抜けた。
そしてどうにか森の入り口に辿り着いた時、身体が後ろに引っ張られた。
鈴音は宙を舞い、背中からアスファルトに叩きつけられる。
背中から胸にかけて衝撃が走り、えづきながらヨダレを吐いた。
上手く呼吸が出来ず、何度も咳き込みながら、ふと顔を上げた。
「・・・・・・・・。」
鈴音は言葉を失う。なぜなら顔を上げたすぐ傍には、目の無い兄の顔があったからだ。
恐怖を通り越し、鈴音はかえって冷静になってしまった。
もう逃げることは出来ない・・・・・。そう思うと、身体から力が抜けていった。
冷静になって兄を見ると、目玉がないこと以外にも、おかしな部分があることに気づいた。
まず服が汚れている。どこかで転んだかのように、泥だらけになっていた。
それにその服は、今日兄が着ていたものと違う。
他にも妙な部分があった。それは数珠だ。
よく見ると、兄は右手首に数珠を巻いていた。
それは黒光りする立派な数珠で、鈴音はこういう数珠を見たことがあった。
それは親戚の葬式や法事の時、お経を上げにやってきた坊さんが着けているのと、同じくらいに立派な数珠だった。
素人の鈴音にでも、それが高価な物であると分かった。
しかし・・・・葬式や法事以外で、どこかでこの数珠を見たことがあった。
それはいつ?どこで?どうやって見たのか?
鈴音は兄に睨まれながら、必死に思い出そうとした。
その時、兄が鈴音の投げたスマホを握っているのに気がついた。
先ほどまで有希と電話をしていたそのスマホは、田んぼの土がついて汚れていた。
それを見た時、鈴音は思い出した。
兄が持っている立派な数珠は、あの初老の男が持っていた数珠と、よく似ていると。
鈴音が初登校の日に顔を合わせ、教育委員会のお偉いさんだと勘違いし、その後に有希からカウンセラーであると教えられた、あの男も数珠を持っていた。
スーツの袖に隠れて分かりづらかったが、あの男も確かに数珠を巻いていた。これとよく似たような数珠を・・・・・。
そう気づいた時、またスマホが鳴った。
今度は電話を知らせる着信で、鈴音は咄嗟に兄の手から奪い取った。
きっと鈴音からの電話に違いない。
彼女なら、この状況をどうしたらいいか教えてくれるかもしれない。
そう期待を抱き、スマホを耳に当てながら、ゆっくりと立ち上がった。
兄は動かず、空洞になった目で睨んでいる。
鈴音はじりじりと後ずさり、「もしもし?」と震えながら話しかけた。
「有希ちゃん?」
名前を呼ぶと、「鈴音ちゃん?」と返ってきた。
その途端、安堵と共に、また恐怖が押し寄せてきた。
有希なら私を助けてくれるかもしれない・・・・。
そう期待を抱いた途端、また恐怖が戻って来たのだ。
「有希ちゃん!変な奴がおる!目玉がなくて、お兄ちゃんの顔してるんやけど、でもお兄ちゃんじゃない!怖いよ・・・・・。」
一息でまくしたて、有希の返事を待つ。早く助けてくれと願いながら、じんわりと涙が溜まり、視界がぼやけていった。
すると有希は、鈴音が予想もしないことを言った。
「あのね鈴音ちゃん、それはあなたの知ってるお兄さんよ。」
「え?何・・・・?」
何を言っているのか分からず、上ずった声で聞き返す。
「目玉がない勉君が、そこに立ってるんでしょう?それが鈴音ちゃんの知ってるお兄さんよ。無感動で無関心で、解剖にしか興味のない勉君。鈴音ちゃんが生まれてから、ずっと一緒に過ごしてきた勉君よ。」
有希は淡々として口調で語る。鈴音は一瞬、有希の頭がおかしくなったのかと思った。
しかし有希は続ける。淡々とした口調で、さらに意味不明なことを言いだした。
「さっきメールをくれたでしょ?写真付きの。あれね、勉君が風船を膨らませていたのよ。彼は目玉が無いから、それを欲しがってるの。鈴音ちゃんを追いかけ回してるのは、あなたの目玉を狙ってるから。」
「は・・・・?」
目玉を狙う・・・?鈴音には理解不能な言葉だったが、有希は真剣に語る。
「その勉君は、解剖にしか興味がないの。でも目がないと、上手く解剖出来ないでしょ?それにせっかく解剖しても、それを見ることも出来ない。」
「・・・・・・・・・。」
「彼は音と臭い、それに肌の感覚だけで、周りの気配を探ってるのよ。シャッターを切る音に反応して、鈴音ちゃんを追いかけて来たのね。」
「・・・・・・・・・。」
「いい鈴音ちゃん。もし彼から逃げたいのなら、なるべく音を立てずに逃げること。もし靴を履いてるなら、脱いだ方がいいわ。足音が消えるし、それに臭いが残るから。」
「臭い・・・・?」
「ほら、靴ってけっこう臭うでしょ?だからそれを置いて逃げるの。裸足なら足音も消せるし。」
「・・・・・・・・。」
「大丈夫。その勉君は目が見えないから、臭いを残して音を立てなければ、きっと追って来ないわ。でももし捕まってしまったら、目玉を取られることを覚悟した方がいい。」
「・・・・さっき・・・・掴んで投げられた・・・・・。今はずっと睨んでる・・・・もうアカンてこと・・・・?」
そう尋ねると、有希は「じゃあ数珠のおかげね」と笑った。
「勉君の右手に、黒い数珠が巻かれているでしょう?」
「うん・・・・。」
「それ私の師匠の数珠なんだけど、今は朋広に使わせてるのよ。もしかしたら、その数珠が勉君の動きを封じてるのかも。」
「朋広君の・・・・・?でもこれって、あのカウンセラーの人のやつにそっくりやけど・・・・・、」
「だからそのカウンセラーが、私たちの師匠なのよ。でももういないから、朋広が受け継いだの。あの子は優しいから、勉君にこれ以上罪を重ねてほしくないのよ。だからそんな物を付けて、動きを封じようとしてるってわけ。」
「・・・・・・・・・。」
「ごめんね、何言ってるかさっぱりよね。でもとにかく、今は逃げた方がいいわ。朋広はまだまだ未熟だから、その数珠じゃずっと動きは封じられない。
いつかまた動き出して、必ず襲って来るから。今はどこにいるの?近くに助けを求められそうな場所はある?」
そう問われて、鈴音は神社の森を振り返った。
「今は神社の近くにおる・・・・。おじいちゃんがここに来てて・・・・。」
「ああ、あの鎮守の森の神社ね。いいじゃない、あそこはなかなか霊性の強い良い神社よ。本殿の近くまで逃げれば、勉君は追って来られないかも。」
それを聞いた鈴音は、すぐさま有希の言う通りにした。
靴を脱ぎ、そっと手前に置く。そして兄を見つめながら、ゆっくりと・・・物音を立てずに下がった。
兄は空洞になった目を動かし、鈴音の居場所を探っていた。
視覚以外の全ての感覚を使い、鈴音を捕まえようと気配を窺っている。
「・・・・・・・。」
鈴音は息を飲みながら、少しずつ、少しずつ後ずさる。
こんな風に歩いたのは、子供の頃にだるまさん転んだをした以来である。
抜き足、差し足、忍び足・・・・・一歩一歩神経を集中させ、たった10メートル歩くのに、大きく神経をすり減らした。
兄はまだ気配を探っていて、ふと何かに気づいた。
鼻を動かし、漂う臭いの中から、鈴音の靴に顔を向ける。
そしてその靴に近づこうとした時、まるで重りを付けられているように、ずるずると足を引きずった。
鈴音は思った。きっと手首の数珠のせいで、早く動くことが出来ないのだと。
しかしまったく動けないわけではない。手足は重りを付けたように鈍いが、それでも追って来ようとしている。
今は靴の臭いに引かれているが、それがトカゲの尻尾だと気づいた瞬間、また自分を襲いに来る・・・。
今のうちに逃げなければ、自分の目は・・・・・。
兄は靴に近づいて行く。その度に鈴音の心拍数は上がった。
気持ちが逸り、それは焦りとなって動きに現れる。
抜き足、差し足のつもりが、自分でも気づかないうちに走りだしていた。
幸い裸足になったおかげで、舗装された道路では音は立たない。
しかし神社の森に入ると、そこは砂利道だった。
鈴音は足の裏に痛みを感じ、思わず声を上げそうになる。しかし必死に口を押さえて、声が漏れるのを防いだ。
兄を振り返ると、靴を手に取って臭いを嗅いでいた。
そしてすぐにそれを投げ捨て、また鈴音の気配を探り出した。
早く逃げないと捕まる・・・・・。
焦る心は足を早め、足裏の痛みさえ消えていく。そのおかげで砂利道をものともせずに駆けることが出来た。
しかしそれは大きなミスだった。
敷き詰められた小石は、鈴音の足に踏まれる度に、ジャリジャリと音を立てる。
そしてその音を、勉は聞き逃さなかった。
空洞になった目を向け、砂利の音を頼りに追いかけて来たのだ。
鈴音は悲鳴を上げ、小石を蹴り上げながら駆け抜ける。
足裏の皮が剥がれ、爪の間から血が滲んだが、今は痛みを感じている場合ではない。
鈴音はこの世に生まれてから、一番速く走った。
普段は眠っている筋肉まで目を覚まし、目玉を奪われてなるものかと、身体の隅々まで走ることにエネルギーを注いだ。
そして砂利道を駆け抜けると、石造りの階段を駆け上がった。
この先には本殿があるはずで、その隣には神主の家がある。
幼い頃に一度だけ来たことがあるので、そのことは知っていた。
だからこの階段さえ上がれば、兄を追い払えるかもしれない。
鈴音は二段飛ばしで階段を跳ね、兄に捕まえる前に、どうにか本殿に辿り着いた。
恐る恐る後ろを振り返ると、そこに兄の姿はなかった。

霊体解剖 第八話 標本(2)

  • 2015.06.24 Wednesday
  • 08:18
JUGEMテーマ:自作小説
夕方、一本の電話が掛ってきた。
いつもなら祖母が出るのだが、あいにく今日は寝込んでいる。
勉は「散歩に行く」と出掛け、家には祖父しかいなかった。
重い腰を上げ、「もしもし?」と受話器を取る。
祖父は電話というのが好きではないので、少し荒い口調になった。
しかしすぐに声色を変え、「ああ!」と申し訳なさそうに頭を下げた。
なぜなら電話の主は、あの神主だったからだ。
昨日は保護官に会ってほしいと頼んだのに、何の連絡も寄こさずじまいだった。
その事を心配して、向こうから電話を掛けてきてくれたのだ。
祖父は約束をほったらかしたことを詫び、深く頭を下げた。
神主は「よかったら今からでも窺いますが?」と言ってくれたが、もう保護官がここに来ることはない。
だから丁寧に詫びを入れながら、もうその必要はないと伝えた。
神主は怒ることもなく、「そうですか」と答えた。
しかしこの時、祖父はふと思った。
昨日の出来事は、誰にも話すつもりはない。それに早く忘れたいし、あんなものは幻覚だったと思い込むことにしたい。
しかし昨日の今日では、やはり胸に残ったままである。
だったら信頼を置いているこの神主になら、相談しても良いのではないかと思った。
気がつけば、受話器に向かって喋り始めていた。
昨日起きた不可解な出来事、そして良い意味で勉が変わったことを。
神主は黙ってそれを聞いていて、時折相槌を打った。
そして祖父が全てを話し終えると、「やっぱりそっちに窺いますよ」と言った。
「ちょうど娘が昼飯をたかりに来てるんです。子供二人とそっちに行きますよ。」
その申し出はありがたかったが、祖父は少し躊躇った。
神主が来てくれるのはありがたいが、あの娘は要らない。
人の色だとか幽霊だとか、昨日の今日でそんな話をされたら、余計に気が滅入る。
しかし昨日は、その幽霊をこの目で見たのだ。
いや、あれが幽霊かどうかは分からないが、少なくとも生身の人間ではなかった。
祖父はしばらく迷ってから、「じゃあお願い出来ますか?」と頼んだ。
それから30分もしないうちに、神主が現れた。
二人の子供を引き連れ、「どうも」と言いながら家に上がる。
すると開口一番、亜希子が「あ、ここダメだ・・・」と顔をしかめた。
「ここさ、変な色が残ってる。これ良くないよ。」
重い口調で良い、人の家だというのに、ヅカヅカと歩きまわった。
居間、台所と覗いて回り、寝室を開けた所で、祖母と出くわした。
亜希子は「お邪魔してます」と頭を下げるが、祖母は引きつった顔で後ずさった。
しかし隣に神主がいるのを見つけ、「あら・・・」と口元を押さえた。
「昨日は怖い目に遭われたようで、お気の毒です。」
神主の星野がそう言って頭を下げると、祖母は祖父に目を向けた。
「あ・・・昨日のことは・・・・、」
「神主さんに相談した。誰にも言うまいと思ったが、相談に乗ってもらおうと思って・・・。」
そう説明すると、祖母は暗い顔で俯いた。
祖母も祖父と同様、昨日の事は早く忘れてしまいたかった。
しかしあの恐怖は強く焼きつき、何度も記憶に蘇ってくる。
それならば誰かに相談して、心の重荷を取り払ってもらった方が、気が休まるかもしれないと思った。
「あの・・・どうぞお座りになって下さい。」
会釈を残し、台所にお茶を淹れにいく。体調を崩しているせいで、その足取りはいつもより重い。
星野は「いえ、お構いは・・・、」と言おうとしたが、聞こえていない様子で台所に消えた。
「身体を動かしていた方が、気が紛れるんでしょう。好きにさせてやって下さい。」
祖父は居間に戻り、座布団を敷いた。
しかし数が足りなかったので、仏間の押し入れに向かった。
引き戸を開けて仏間に入ると、亜希子も勝手に入り込み、仏壇の菩薩像を睨んだ。
その目はとても真剣で、まるで目に見えない何かを探っているような視線だった。
そして一言、ぽつりと漏らした。
「これ、死人が・・・・、」
その呟きを聞いて、祖父は「死人?」と顔をしかめる。
亜希子は背中を向けたまま、「この菩薩様、死人を宿してらっしゃるよ・・・」と答えた。
「黒い色が出ているんです。黒は死者の色で、生きた人間から出る色じゃありません。」
「いや・・・それは菩薩像だが・・・・、」
「だから死人が宿ってるんですよ。普通は像から色が見えたりしません。でもごく稀にあるんですよ、物から色が出ることが。そういう場合は、大抵黒い色なんです。肉体を失った死者が、物に宿ってるんですよ。」
「・・・・・・・・・。」
祖父は何と答えていいか分からず、ゆっくりと押入れを開けて、座布団を取り出した。
法事の時にしか使わない座布団なので、汚れや皺がほとんどない。
その綺麗な座布団を握りながら、「私は幽霊だとか何とか、そういうものは嫌いでして・・・・、」と口を開いた。
「どうも好かんのです、そういう話は。」
「誰だって嫌いでしょう、そんなの。」
「・・・そういう意味ではなく、オカルトがどうとか、そういう意味です。」
「ああ、インチキ臭いと?」
「そうです。でもね・・・昨日はそのインチキ臭い体験をした。ここで・・・人形がひとりでにバラバラになったんですよ。それでね、目玉が抉られて、そいつが宙に浮いていました。なんというか・・・・おぞましいとしか言いようのない光景で・・・・、」
「そりゃあ怖かったでしょうね。」
「・・・・早く忘れたいんだが、頭に強く焼き付いとるんですよ。あの時・・・・頭にあの人の声が響かなければ、私の目玉が取られていたかもと思うと・・・・。」
祖父は強く座布団を握りしめる。綺麗な表面に幾つも皺が走り、刺さるように指が喰い込んでいく。
そして躊躇いがちに、亜希子の方を向いた。
「その菩薩様・・・・死人が宿ってると言いましたが、もしかしたらそいつが昨日の・・・・・、」
「どうでしょうね?私は色が見えるだけだから、これ以上は何とも。後は基喜に任せるしかないです。」
「ああ・・・弟さん。幽霊が見えるんだとか?」
「そうなんですよ。でもいつもってわけじゃないんです。今日は力を発揮してくれるといいんだけど。」
亜希子はしばらく仏壇を眺め、それからグルリと仏間を見渡した。
「ここには菩薩様に宿る黒い色と、もう一つ変な色が漂っているんです。」
「変な色?家の中にですか?」
「なんていうか・・・・ほんと変な色。金に紫、それにちょっとだけグレーが混じってる。あんまり良い色じゃないですよ、これ。」
「良い色じゃないというのは・・・・どんな具合に?」
「金はね、神々しさを示すものなんです。この色を持つ人って、神懸り的なすごいパワーを発揮するんですよ。それに強運の持ち主でもあります。ただ我が強いから、周りを振り回すこともしょっちゅう。優秀だけど自己中心的な人に多い色ですね。」
「はあ・・・・。」
「紫は悪いものを打ち払う力があるんです。悪運が強いというか、何かに守られてるってことです。それに芸術的な感性を示すものだから、かなり感覚が鋭い人間ですよ。」
「感覚が・・・・。じゃあグレーは?」
「これね、良くない色なんです。グレーって黒が混ざってるってことだから、死を暗示させる色なんですよ。でも白が混ざった色でもあるから、純粋さも持ってるんです。死と純粋さを合わせた色っていうのは、一言でいうと子供の残忍さだと思って下さい。」
「子供の残忍さ・・・・ですか?」
「ほら、子供って平気で残酷な事をするでしょう?虫の足を千切ったり、人の大事なものを壊したり。」
「まあそうですが・・・・でもそれは子供なら誰でもあることじゃ・・・・。」
「そうなんですけど、それが色として出るってことは、そういう残忍さを、自分の中に消えない性質として持ってるってことなんです。」
「ならその色の持ち主は、子供ってことですか?」
「いいえ、これは大人の色です。子供はもっと不安定に揺らいでいるから。」
「はあ・・・・。」
「普通は大人になるにつれて、子供の時の残忍さは消えるか、心の奥底に抑え込まれるものなんです。でもこの色の持ち主はそうじゃない。今でも強く、その残忍さを残しているんです。」
「じゃあ要するに・・・・・・どういうことなんでしょうか?」
祖父は半分本気で、そして半分呆れて尋ねる。
亜希子は腕を汲み、家の中に漂う色を見つめながら答えた。
「・・・・こういう色を持つ人って、目的の為なら手段を選ばないでしょうね。自己中心的で、しかも子供の無邪気な残忍性を持っているから。それに神懸り的な力の持ち主で、強運に守られている。それに加えて、恐ろしく感性が鋭い。だから自己中心的な行動ながらも、思い通りの結果が出せる。最終的には万能感に浸って、自分は特別な人間だと思い込むでしょう。そうなった時、ほとんど手が付けられないかも・・・・。」
亜希子は顔をしかめ、「私の嫌いなタイプの人間です」と結んだ。
祖父はどこまで本気で受け取っていいのか分からず、ただ唖然としていた。
「あの・・・・家の中に色が見えると言いますが、ここには私と家内、それにあんた達しかいませんが・・・・。」
「いえ、この色はここにいる誰のものでもありません。この色はきっと残り香です。」
「残り香?」
「最近までこの家にいた誰かのものってことですよ。」
「・・・・ということは、勉か・・・・あの保護官たちか・・・・。」
祖父は独り言のように呟き、孫と保護官たちの顔を思い浮かべた。
亜希子はこの色の持ち主を、自己中心的で強運の持ち主であり、なおかつ高い能力を備えていると言った。
それを考えると、勉は有り得ないだろうと思った。
勉は自己中心的というより、周りに興味がないだけであり、それに強い運の持ち主かと聞かれれば、そうでもないような気がした。
また高い能力の持ち主かと問われれば、孫ということを贔屓目に見ても、そうだとは答えにくい。
勉はある一点には力を発揮しそうだが、それ以外の面に関しては無頓着で、総合的に見れば、人の助けが無ければ生きていけない人間のように思えた。
それならば、この色の持ち主は勉ではないと考えた。
となるとあの保護官のうちの誰かということになるが、祖父にはピンと来る人物がいた。
その人物のことを詳しく知っているわけではないが、亜希子が分析した結果に当てはまるとすれば、あの人物が一番近いだろうと思った。
顎に手を当てて考え込む祖父に、「心当たりが?」と亜希子が尋ねる。
「いや、まあ・・・・・、」
「気になることがあるなら相談して下さいね。その為に来たんですから。」
「そうでしたな。まあ・・・今は何とも言えません。とりあえず神主さんに相談させて頂いてからで。」
「分かりました。後で基喜にも、あの菩薩様を見てもらいましょ。ここへ来る途中にも、幽霊が鬱陶しいとか言ってたから、今日は力を発揮してくれるかも。」
「はあ・・・・。」
生返事をしながら、二人は仏間を出る。
仏壇に立つ菩薩像が、何かを伝えたそうに、二人の背中を見つめていた。


            *


夜空にかかる薄い雲が、風に煽られてゆっくりと流れて行く。
月は薄い雲の向こうに消え、青白い光だけが漏れている。
勉は二階の窓から、月を眺めていた。
今、勉の心は、この世に生まれてから一番晴れている。
いつだって、どんな時だって、無感動で無関心、解剖以外に興味がなかった。
しかし今は違う。
空に流れる雲、漏れる月の明かり。
それらを美しいと思い、詩でも詠んでみたい気分になっていた。
もう解剖なんてどうでもいい・・・・生き物をバラすなんて、野蛮人のすることだと思っていた。
自分はもう野蛮人ではなく、無感動で無関心な人間でもない。
それこもこれも、全ては有希のおかげだった。
勉は思い返す。一月前の、あの日の出来事を。


            *****


あの日の朝、勉は人を殺しに出かけた。
なぜ殺しに出かけたかというと、もう一度人間の眼球を手に入れたかったからだ。
バスに乗り、北へ向かい、山間にある集落へ行った。
そこは見事な棚田が広がる集落で、ここなら人を殺しても、見つかる可能性は低いと考えた。
時刻は午前六時。
勉は棚田に上に建つ納屋に向かい、その中に身を潜めた。
しばらくすると、銃の模型を担いだ老人が現れ、棚田の向こうから昇る陽に、敬礼を送った。
勉はこの老人に狙いを定め、リュックの中からビニール紐を取り出した。
紐で首を絞めれば、どんな人間でも簡単に死ぬ。
勉のような非力な少年でも、大の大人を殺すことの出来る、シンプルにして確実な方法。
それに何より、死体が汚れない。死体が汚れないということは、自分も汚れない。
簡単、確実、清潔、三拍子そろった完璧な方法で、目の前の獲物を狙っていた。
この日の為に仕入れた知識、この日の為に用意した道具。
準備は整っていて、あとは実行に移すだけ。
勉の胸は、飼育員の目玉を手に取った時と同じように、軽快に弾んでいた。
あの時は、楽しい夏休みを邪魔され、途中で遊園地から追い出されてしまった。
しかし今度は違う。
メリーゴーランドにも、観覧車にも、そしてジェットコースターにもお化け屋敷にも入ってやる。
そう胸に誓い、そっと納屋から出た。
老人はまだ敬礼を捧げていて、勉に狙われていることなど知らない。
棚田は老人の目には戦場に映っていて、ここは祖国から離れた、遠い南国なのだ。
勉はゆっくりと忍び寄る。
足音を殺し、脱力した手で紐を持ち、射抜くような視線で、老人の首を見据える。
じょじょに距離が狭まり、あと一息で老人の首に手が届く・・・・・。
しかしその時、ふと老人が振り返った。
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
二人の目が合い、沈黙が流れる。
言葉を発しないのは二人とも同じだが、目の色は違っていた。
狼狽える勉の視線に対し、老人は実に冷静で、殺気の宿った目をしていた。
そして肩に掛けた銃の模型を構え、引き金に指をかけた。
「動くな!」
老人が鋭く叫ぶ。その声には迫力があり、勉は思わず竦んだ。
この時、勉は新鮮な気持ちになった。
いつだって感情を動かさないはずの自分が、老人の声に竦んだからだ。

自分が心を動かすのは解剖だけだと思っていたのに、この老人の声には、肝を震え上がらせる迫力があった。
老人はピタリと狙いを定め、勉の眉間を狙っている。
勉は思い出していた。いつか見たテレビで、ヒョウに睨まれて動けなくなった鳥のことを。
あの時はさっさと逃げればいいではないかと思ったが、今なら動けなくなった鳥の気持ちが分かる。
あれは逃げたくても逃げられない、貫通するような眼光にやられていたのだ。
今この場において、ヒョウはこの老人、そして自分は鳥だった。
老人の向けている銃はただの模型で、人を殺すことなど出来ない。
しかしそれでも、勉は動けなかった。
もしあの銃が本物ならば、自分はここで死ぬ・・・・・。
逃げられない死、避けられない死、老人の声にはそんな迫力が宿っていて、だからこそ自分は竦んだ。
そう思った時、勉は初めて気づいた。
自分はいつだって解剖する立場で、その為に生き物を殺すこともあった。
しかしもし立場が逆であったら、自分はいったい、どこまで感情を動かさずにいられるか?
想像力を働かせ、狩られる立場の気持ちになってみる。
それは勉にとっては難しい事であったが、必死に狩られる側の気持ちになろうとしてみた。
そうやって想像力を膨らませていると、こめかみに衝撃が走った。
その場に倒れ、頭を押さえてうずくまる。
顔を上げると、眉間に銃口が突き付けられた。その奥には、魂までも貫きそうな、老人の研ぎ澄まされた眼光があった。
勉は自分でも意識しないうちに、両手を挙げていた。
「ごめんなさい・・・・・。」
それは、勉が初めて口にする言葉だった。
今まで誰かに謝ったことなどない。
感情を動かさない勉にとって、いくら他人を傷つけようとも、それが悪いことだと思う気持ちがなかったからだ。
しかし・・・勉は初めて謝った。
老人の気迫に怯え、模型の銃に死の恐怖を覚え、自分で自分を守る為に謝った。
それは誰かの為の謝罪ではなく、死にたくないという、自分の為の謝罪であった。
この時勉は気づいた。
これが・・・・狩られる立場の気持ちなんだと。
解剖されるために、勉に殺された生き物。
虫、トカゲ、カエル、小鳥、それに殺しこそしていないが、あの飼育員・・・。
みんな、どの生き物だって、自分の手に掛かる瞬間に、死にたくないと願ったはずだ。
勉の目から涙がこぼれ、また「ごめんなさい・・・」と呟いた。

もう誰も傷つけないし、誰も殺さない。だから自分を殺さないでほしい。
これからは酷いことをしないと誓うから、どうか命だけは見逃してほしい・・・。
自分は・・・・・まだ生きていたい・・・。
勉は声を上げて泣いた。
むせび、鼻水で顔を汚し、死ぬのは嫌だと、何度も助けを乞うた。
そんな勉を見た老人は、おかしな行動に出た。
勉の眉間に突き付けていた銃口を、なぜか上に向けていったのだ。
ゆっくりと銃をもたげ、まるで誰かが立ち上がる動きに合わせるように、ピタリと狙いを定める。
「動くな!」
老人は叫ぶ。それは勉に言っているのではなかった。
なぜなら老人の目は、明らかに勉を見ていない。
倒れた勉の上に視線を向け、何もない空中を睨んでいる。

老人の不可解な行動に、勉は呆気に取られる。
いったいこの老人は、誰に銃を向けている・・・?
この場には自分と老人しかいないはずなのに、誰を撃とうとしている・・・?
混乱しながら、殴られたこめかみの痛みさえ忘れる。
すると背後から誰かが迫って来て、勉の脇を抱えた。
ビクリとして目を向けると、それは朋広だった。
「立てるか?」と尋ね、力任せに勉を持ち上げる。
朋広は細身に似合わない腕力で、軽々と勉を担ぎ上げ、老人の前から離れて行く。
そして納屋の前まで戻ると、そこには有希と初老の男がいた。
「大丈夫?」
有希が膝をつき、勉のこめかみに手を当てる。
初老の男、風間も勉を心配し、「よかった・・」と連呼した。
「ギリギリまで待ってよかったよ。やっぱり君は人間だった。」
そう言って勉の頭を撫で、老人に目を向けた。
そして老人の手前に視線を移し、何もない空中を睨んだ。まるでそこに誰かがいるかのように・・・。
「有希、朋広。僕の最後の仕事だ。しっかり見て、学ぶように。」
風間は鬼気迫る声で言い、老人の方に歩いて行く。
その手には黒光りする数珠と、白木の短刀を握っていた。
勉はわけが分からず、有希と朋広に目を向ける。
二人は風間の背中を見つめていて、悲しいような、そして好奇に湧くような視線を向けていた。
有希が「朋広」と口を開く。すると朋広は無言で頷いた。
そして申し訳なそうな目で勉を見つめ、「すまん」と一言呟いた。
次の瞬間、勉の顎に鋭い衝撃が走った。
痛くはないが、頭の中が上下左右に揺さぶられるような感覚があって、そのまま気絶した。
そして次に目を開けた時には、朋広におぶられて、家の近くまで来ていた。
隣には有希が歩いていて、風間はいない。
目が覚めた勉は、二人からあの後のことを聞かされた。
それは勉の想像を超えるものだったし、すぐに受け入られる内容ではなかった。
それにどこまで信じていいのか分からないし、何も答えることが出来なかった。

勉は混乱を抱えたまま、祖父の家を見る。
すると有希が両手で頬を挟んできて、そのまま唇を重ねた。
「キスしたの初めて?」
そう言ってニコリと笑う。
長い黒髪が揺れ、勉は有希に見惚れる。
「勉君はもう大丈夫。今の君は人間よ。いつか立派に大人になったら、またキスしてあげるわ。」
その言葉は、勉の心に淡い気持ちを芽生えさせた。
先ほど二人の口から、信じがたい話を聞かされたばかりだというのに、そんなものは一瞬にして消えてしまった。
勉の胸にあるのは、有希の唇の感触、そして彼女に対して、言いようのないムズムズとした感情だった。
「手を繋いであげるわ。」
有希は勉の手を取り、家までの道のりを歩いて行く。
勉にとって、初めて握る、家族以外の女性の手。
柔らかく、暖かく、胸に芽生えたムズムズとした感情が、熱を帯びていく。
「今の気持ちを忘れないでね。そうすれば、いつかこうやって手を繋いで歩ける人と出会えるわ。だって君は人間なんだから。」
有希の口調は優しい。勉は妙な高揚感と、涙が出そうな感情に溢れていた。
・・・自分は人間・・・。
有希の言ったその言葉が、ぐるぐると頭を回る。
勉は今、初めて自分が自分であるような気がしていた。


            *****



ゆっくりと雲が流れ、やがて月が顔を出す。
あの日のことを思い返す度に、有希の唇の感触、そして手の温もりが蘇った。
自分は今、恋をしている。
それは叶わぬ恋だが、今までの自分にはなかった感情だ。
勉は何度も何度も有希の顔を思い浮かべ、彼女に対しての想いを募らせていく。
なぜ有希がキスをしたのか?なぜ手を握ったのか?
それはきっと、自分を勇気づける為だと分かっていた。
自分に恋をさせる事で、人生を前向きに歩かせようとしているのだ。
なぜなら自分が『人間』になる為に、一人の人間が死んでしまったのだから・・・。
その事を重荷に感じないように、有希は自分の胸に恋を残してくれた。
それは分かっているが、勉はまだ少年である。
頭では理解出来ても、心は完全に有希に向かっている。
きっともう、二度と会うことはないだろう。
そして初めてのキスの思い出として、これから先も忘れることはないだろう。
勉の胸には、有希という女性が星のように輝いていた。
あの日の思い出は、決して忘れない。
もはや解剖に興味はなく、いつか有希のような人と出会いたいと、月に向かってその事だけを願っていた。
有希のくれたキス、有希が繋いでくれた手。
勉の胸には、その二つの出来事が、標本のようにしっかりと貼り付けてある。
この二つがある限り、自分はいつだって自分であると、月に向けて有希への詩を綴った。

 

霊体解剖 第七話 標本(1)

  • 2015.06.23 Tuesday
  • 13:52
JUGEMテーマ:自作小説
棚田の広がる集落の小川に、死体が沈んでいた。
頭が割れ、首が後ろにねじ曲がっている。
丸一日川に浸かっていたその死体は、水を吸って柔らかくなっていた。
川底から沢蟹が現れ、せっせと死体の肉をついばむ。
小魚もそれにまじって、頭の割れ目から中身をつついていた。
朝早く野良仕事にやって来た老人が、死体の最初の発見者だった。
老人は死体を見ても、さして驚かなかった。
かつて太平洋戦争で従軍した時のことが蘇り、その死体を仲間の骸だと思い込んだのだ。
小川の傍に下り、死体の前に立ち、かつて共に戦った仲間の名を呼ぶ。
老人は木製の銃の模型を担いでいて、悲しそうに死体の傍に佇む。
いったいいつになったら戦争は終わるのだろうかと、祖国に残した家族を思い浮かべていた。
するとそこへ、その家族がやって来た。
それは老人の息子で、寝床に見当たらない父を心配して、棚田までやって来たのだ。
息子は父を見つけ、いったい小川の傍で何をやっているのだろうかと近づいた。
そして川に死体が沈んでいるのを見つけ、短く悲鳴を上げた。
痴呆の入った父の腕を掴み、すぐに川から上がらせる。
軽トラで細い山道を下り、家に着くなり、すぐに通報した。
やがて警察がやって来て、老人とその息子と一緒に、小川に駆け付けた。
しかし死体は忽然と消えており、息子は首を捻った。
もしや流されたのかと思い、下流の方まで下ってみた。
しかしどこにも死体は見当たらず、また首を捻るしかなかった。
警察は本当に死体があったのかと尋ね、訝しく顔をしかめた。
すると老人が銃の模型を担ぎ直し、死体のあった川に敬礼を送った。
あいつはきっと、祖国に帰ったのだ・・・と。
第一発見者はこの老人であり、しかも痴呆が入っている。
警察はただの見間違えだろうと、その場から引き上げてしまった。
息子は確かに見たんだと訴えるが、死体がない以上、警察は取り合わない。
息子は釈然とせず、唇をいじって怒りを抑える。
老人はまだ敬礼を捧げていて、いったいいつになったら戦争が終わるのかと、目に涙を浮かべていた。


             *


勉が朝早く出掛けた次の日、祖父にとって嬉しいニュースがあった。
なんと保護官が引き上げるというのだ。
「勉君はもう大丈夫だと思います。時間はかかるかもしれないけど、社会に馴染むことは出来るでしょう。」
有希は笑顔でそう言った。
彼女の隣では、朋広が浮かない顔で立っていた。
今日は二人しかおらず、初老の男の姿が見えない。
祖父は「あの人は?」と尋ねた。
「別の少年の所へ行っています。だから今日は私たちだけ。」
有希はまた笑う。そして「あの線香をお返し頂けますか?」と言った。
「あれはもう勉君には必要ありませんから。」
口調は穏やかだが、目には殺気のようなものが宿っていて、祖父はそれを見逃さなかった。
「申し訳ないが、水に濡らしてしまって。畑に捨ててしまったよ。」
そう答えると、有希の顔から笑みが消えた。
「捨てた?どういう風に?」
「燃やした。湿っていたが、ゴミと一緒に焼いたら、全て灰になったよ。だから返せなくて申し訳ないが・・・・、」
「いえ、それならいいんです。あれは心を落ち着かせる効果があるけど、今の勉君には必要ありませんから。もしどこかに残っていたら、同じように焼却して下さい。」
有希は笑顔に戻り、にこやかに言う。
祖父は何も言わずに頷き、玄関まで二人を見送った。
するとそこへ勉が現れ、ぺこりと頭を下げた。
「あの・・・・ありがとうございました。」
そう言って、実に少年らしい笑顔で微笑んだ。
有希はその笑顔を見るなり、「大丈夫、ちゃんと社会に馴染めるわ」と答えた。
「これから先、過去の事件で理不尽な扱いを受ける事があるかもしれない。でも勉君なら大丈夫。君はもう・・・立派な人間よ。」
「はい・・・。」
勉は弾けた笑顔を見せ、また頭を下げた。
祖父も同じように頭を下げ、有希と朋広は会釈を返す。
そして手を振りながら、車に乗り込んだ。
二回ほどクラクションを鳴らし、有希はまた手を振る。
その笑顔は菩薩のように優しく、勉はじっと彼女の顔に見入っていた。
「有希さん・・・。」
小さく呟き、恥ずかしそうに頬を赤くする。
今、勉の心には、かつてなかった感情が芽生えていた。
・・・・恋愛・・・・。
異性を好きになる。誰かに想いを寄せる。
それが叶わない恋であったとしても、胸の中に淡い恋心が芽生えていた。
勉は玄関から出て、車が見えなくなるまで手を振り続けた。
祖父はそんな勉を見ながら、複雑な思いを抱えていた。
少年らしく笑う勉、異性に恋をしている勉。
そのどちらも、祖父の知らない勉の顔だった。
今の勉は、実に少年らしい顔をしている。
年相応の、素直で、若くて、青臭い感情を抱えた、中学生らしい表情をしていた。
それはとても嬉しいことだし、あの保護官がいなくなるのも、それと同じくらいに嬉しいことだった。
勉は森の向こうに消えた車を、じっと見つめている。
有希への恋心を抱えながら、キラキラと光る瞳で佇んでいる。
祖父は家の中に引き返し、居間に腰を下ろした。
一服つけ、飲みかけのお茶を流し込む。
居間には自分だけで、祖母は体調を崩して寝込んでいる。
時計を見ると午前11時で、昼は出前でも取ろうかと考えた。
しかし昼飯への考えは、すぐに別の考えへとシフトしていく。
祖父は思い返していた。昨日、家に帰って来てからの出来事を。
不可解で、謎に満ちていて、そして背筋が寒くなるような、あの恐ろしい出来事を・・・・・。


            *****


昨日、家に帰って来ると、祖母が抱きついてきた。
震えながらトイレに隠れ、自分の姿を見るなり、まるで子供のように抱きついてきた。
祖母が落ち着くまでには、一時間ほどかかった。そしてその間に、奇妙な出来事があった。
祖父は祖母の肩を抱きながら、寝室に寝かせた。
祖母は頭から布団を被り、まだ震えている。
話しかけても返事をせず、落ち着くまで何も聞くことが出来そうになかった。
祖父はその間、ずっと布団の傍にいた。
しかしふと人の気配を感じ、後ろを振り向いた。
「・・・・・・・・・。」
誰もいない・・・。確かに人の気配がしたと思ったのに、見渡しても誰もいない。
ただの錯覚かと思い、気にも留めずに祖母の手を握り続けた。
しかしまた人の気配を感じ、思わず立ちあがった。
「誰かいるのか?」
布団から離れ、居間に向かう。
誰もおらず、時計の針の音だけが聞こえる。
台所、トイレ、二階の部屋も確認してみたが、やはり誰もいない。
妙だなと思いながら一階に戻ると、異変があった。
片づけたはずの台所が、また散らかっていたのだ。
包丁が床に落ち、まな板の野菜が散乱している。
しかも水まで出しっぱなしになっていて、さすがにおかしいと思った。
一瞬、勉が帰って来ているのかと思った。
しかし玄関に靴はなく、自分と祖母の分があるだけだ。
「空き巣か?」
嫌な予感がよぎり、拳が硬くなる。
何年か前に、一度だけ空き巣に入られたことがあった。
あの時は、物置きに通じる小さなドアから入られた。
祖父は居間のタンスの後ろに隠してある、護身用の木刀を持った。
そして物置きに繋がるドアの前まで来て、慎重に手を伸ばした。
・・・・・ゆっくりとドアを開け、物置きの中を見渡す。
半開きになったシャッターから光が射し、中を照らしている。
古びたトラクター、錆びたスコップや草刈り鎌。
積み上がった肥料の袋に、干しっぱなしにしてある玉ねぎ。
慎重に中を確認するが、誰かが隠れている様子はなかった。
ほっと息をつき、後ろを振り返る。
家に戻り、物置へ通じるドアに鍵を掛けて、寝室に戻った。
そして祖母の寝ている布団に近づこうとした時、恐ろしいものを目にした。
「つ・・・・・勉・・・・?」
布団の傍に、勉が立っていた。
朝に出掛けた時と同じ格好だが、その服は土にまみれている。
それに足元は濡れていて、畳に染みが出来ていた。
しかし何より恐ろしいのは、目が無いことだ。
二つの眼球が抜け落ちたように、空洞になっている。
そして空洞になった眼孔からは、たらりと血が流れていた。
勉は一瞬だけ祖父を振り向き、すぐに消えてしまった。
「・・・・・・・・・・。」
祖父は木刀を持ったまま固まっていた。
背筋に冷たい汗が流れ、嫌な感じにシャツを張りつかせる。
足元は震えていて、畳に残った染みに、じっと目を向けていた。
それからも度々人の気配を感じ、恐怖のあまり、いてもたってもいられなくなった。
いったん祖母の元を離れ、気分を落ち着かせようと外に向かう。
その時、ふと仏間を振り返った。
「・・・・・・・・・・・・・。」
自分でも、なぜ仏間が気になったのか分からない。
しかし気がつけば仏間に入っていて、今日勉が解剖する予定だった、西洋人形に目を向けた。
しばらく人形を見つめていると、首に亀裂が走った。
そして刃物で切断されたように、ぼとりと畳に落ちてしまった。
「・・・・・・・・・・。」
祖父は戦慄し、一歩後ずさる。
人形はカタカタと揺れて、今度は腕が落ちた。
服も切り裂かれ、落ちた首が一人でに宙に浮く。
そして目玉の周りに切り傷が出来て、そのまま抉り取られてしまった。
「だ・・・・誰だ・・・・?」
この部屋には誰かがいる・・・・。目で見ることは出来ない、何かが潜んでいる・・・・。
祖父は寝室に戻り、木刀を手にする。
そして再び仏間に戻った時、人形はバラバラにされていた。
しかも目玉のない顔が宙に浮いていて、顔にいくつも切り傷が出来ていく。
抉られた目玉はテーブルの上に置かれていて、綺麗に並べられていた。
やがて顔が畳に落ち、目玉が宙に浮く。
そして人の顔に埋め込まれたかのように、祖父と同じ目線の高さで、綺麗に横に並んだ。
その瞬間、祖父は奇声を上げて木刀を振りかぶった。
・・・この部屋には何かがいる・・・・・。
そいつを叩きのめそうと、血走った目で殴りかかった。
しかし木刀を振り下ろそうとした瞬間、誰かの声が聞こえた。
《扉を・・・・・。》
聞き覚えのある声が耳に入ってくる。
祖父は動きを止め、いったいどこから飛んで来たのか分からないその声に、しばらく動くことが出来なかった。
《扉を・・・・仏壇の・・・・・、》
再び声が聞こえ、その声の主が誰であるかが分かった。
それは保護官の初老の男であった。
祖父は混乱したが、また《扉を・・・・、》と声が響く。
《早く・・・・、》と促され、仏壇に目をやった。
すると朝は開いていたはずの仏壇の扉が、なぜか閉じられていた。
祖父は木刀を構えながら、宙に浮く目玉を迂回して仏壇に近づいた。
するとその瞬間、目玉がこちらを向いた。
抉り取られた人形の目玉と視線が合い、その途端に寒気が走った。
二つの目玉は、明らかに敵意を放っていた。
それは鋭く切り付けるような敵意で、すぐさま貫くような殺気に変わる。
祖父の皮膚はプツプツと泡立ち、弾かれたように仏壇に手を掛けた。
早く仏壇の扉を開かないと、自分が殺される・・・。
人形の目玉は祖父を見ている。いや、正確には、祖父の目玉を睨んでいた。
早くしないと・・・・俺の目が・・・・・・。
祖父は分かっていた。
この部屋にいる何者かが、やたらと目玉に執着していることを。
そして、自分の目玉に興味を向けていることを。
素早く扉を引き、仏壇を倒す勢いで開けた。
観音開きの扉が、勢いよく開かれる。
中には小さな菩薩像が立っていて、その姿が露わになるのと同時に、宙に浮く目玉が畳に落ちた。
そして短く悲鳴が聞こえ、誰かが走り去る足音が響く。
・・・・部屋はしんと静まり返る。
・・・・部屋の中から、人のいる気配は消え去った。
祖父は木刀を持ったまま立ち尽くし、息を吐きながら、瞬きを繰り返した。
心臓の音が速く、そして大きくなっていく。
身体じゅうに嫌な汗がまみれ、シャツが背中に張り付いている。
木刀を落とし、目を閉じながら仏壇の前に座った。
朝に立てた線香はとうに灰に変わり、仏壇の引き出しから、以前まで使っていた線香を取り出した。
ライターを持ち、線香に火を近づける。
手が震えるせいで、なかなか火が着かない。
しかしどうにか赤い火を灯らせ、仏壇の前に立てた。
鐘を鳴らし、手を合わせて項垂れる。
強く目を閉じながら、無心で菩薩像に祈りを捧げた。
何十年も嗅いでいる線香の匂いが、少しだけ心を落ち着かせる。
それと同時に、先ほどの出来事は、いったいなんだったのだろうと考えた。
畳には分解された人形が散らばり、抉られた目玉が転がっている。
祖父は手を伸ばし、小さなその目玉を手に取った。
木で作られた目玉は、コロコロと手の平で転がる。
しかし転がった後には、ねっとりと赤い液体がついていた。
祖父は悲鳴を上げそうになり、慌てて目玉を投げ捨てた。
手の平に付いた赤い液体・・・・。それは血のように思えたが、深くは考えたくなかった。
すぐに手を洗い、仏壇に頭を下げてから寝室に戻った。
しばらく何も考えず、ぼんやりと座りこむ。
やがて落ち着きを取り戻した祖母は、祖父がいない間に何があったのかを語り出した。
昼食の用意をしていると、ふと気配を感じて振り返ってみたら、そこに勉が立っていた。
それを見た途端、稲妻のように悪寒が駆け抜け、目の前に立っている勉は、生きた人間ではないと直感した。
目玉がなく、誰かと争ったかのように、服が汚れていたからだ。
勉の幽霊は、祖母の目玉を欲しそうにしていた。
祖母は包丁を振り回し、勉の幽霊を追い払おうとした。
そしてトイレに逃げ込み、鍵を掛けて震えていた。
その話を聞いた祖父は、またしても背筋が寒くなった。
祖母の見た勉、そして自分の見た勉。
どちらも服が汚れ、そして目玉がない。
そして失った目玉を取り戻そうとするかのように、他人の目玉を欲しがっていた・・・。
祖父も祖母も、言葉を失くして震えるしかなかった。
それから二時間ほどしてから、勉が帰って来た。
今度は幽霊ではなく、本物の勉だった。
目玉はあるし、服も汚れていない。
勉は有希と朋広に付き添われ、とても疲れた顔をしていた。
そして部屋に戻るなり、すぐに眠ってしまった。
祖父は有希に尋ねた。いったいどこへ行っていたのかと。
すると有希はこう答えた。
『勉君に宿った、悪い心を追い払っていたんです。』
そう言ってニコリと微笑み、長い髪を揺らした。
この日、祖母は恐怖からくるストレスで体調を崩し、寝室に籠りっぱなしだった。
代わりに有希が風呂を沸かし、夕食の準備をし、布団まで敷いてから、家を去った。
祖父は帰り際に、「風間さんは・・・・?」と初老の男のことを尋ねた。
すると有希は「風間さんなら、先に帰られました。きっともう・・・・二度とお会いすることはないと思います」と微笑んだ。
祖父は訝しく顔をしかめ、唇を結んだ。
今日・・・・この家で起きたことは、有希と朋広には話さなかった。
何度か迷ったが、話さない方がいいような気がしたのだ。
この二人は、きっと何かを隠している。それを探りたいと思う気持ちはあったが、それ以上に厄介事は御免だという思いが勝った。
勉が無事に帰って来てくれたんだから、それでいいじゃないか・・・・。
そう思うことにして、この日は二人を見送ったのだった。


            *****


昨日の事を思い出していると、灰皿には三本の吸い殻が溜まっていた。
四本目を咥え、昨日の忌まわしい出来事を振り払うかのように、深く煙を吸い込んだ。
あれはいったい何だったのか・・・・?
勉はこうして無事に帰って来たし、何よりも以前とは良い意味で変わっている。
今日、勉は朝に顔を合わせるなり、「おはよう」と微笑んだ。
この家に来てから、一度だってそんなふうに挨拶をしたことはなかった。
いつだって沈んだ顔をしていて、ここではない別の世界を見ているような目をしていた。
それが打って変わって、実に少年らしい顔になっている。
それはきっと、昨日起きた不可解な出来事と関係している・・・・・。
しかしそのことは口に出さず、これからも出すまいと決めた。
世の中には考えなくていい事というのはあるし、知ってしまったが為に損をする事だってある。
伊達に長く生きてきたわけではなく、見ざる聞かざる言わざるという諺は、人生において無駄な重荷を避ける手段だと、よく分かっていた。
勉が少年らしい顔で笑うようになったのなら、それに越した事はない。
昨日の不可解な出来事は、時間と共に忘れ去り、ふと思い出した時には、あれは幻覚だったと思い込むことにすればいい。
吐き出した煙をぼんやりと眺めながら、いつかこの煙と同じように、昨日の出来事が記憶から消え去ればいいと思った。

霊体解剖 第六話 観察(2)

  • 2015.06.22 Monday
  • 12:03
JUGEMテーマ:自作小説
翌日の早朝、勉は家を出た。
解剖に必要な道具、そして人を殺すのに必要な道具をリュックに詰め込み、まだ朝靄の残る中を出掛けていった。
遠くまで広がる田園を歩き、小さな影を揺らしている。
住職たちは、二階の窓からその様子を眺めていた。
勉の歩みは早く、田園の向こうにある、神社の森まで向かっている。
「人気のいない所に行くはずだ。北に向かうバスに乗って、川向こうの集落まで行くつもりだろう。」
そう言って時計を確認し、「朝一番のバスは・・・・、」と時間を思い出そうとした。
すると「五時半です」と、勉の祖父の声がした。
住職は振り返り、「おはようございます」と頭を下げた。
祖父は部屋に入って来て、同じように窓の外を睨んだ。
「あの子はどうですか?ちゃんと社会に馴染めそうですか?」
年の割に黒い髪を撫でながら、祖父は心配そうに尋ねる。
住職は「大丈夫です」と答え、努めて柔らかい笑顔を見せた。
勉の祖父は知らない。
住職たちの本当の仕事を、彼らの正体を。
あくまで児童福祉施設の保護官だと思っている。
しかし常に疑いの目を向けていた。この三人は、どこか普通ではないと。特に有希に関しては、得体の知れない不気味さを感じていた。
祖父は頭を下げる。「毎日ご苦労様です」と。
「今日はやけに早い時間からお越しになられたから、お茶も出せまでんで。」
「いえいえ、お気遣いなく。突然早朝にお邪魔してしまって、申し訳なく思っています。」
「勉は・・・・どこへ行くんでしょうか?」
窓から孫の背中を見つめながら、不安そうに漏らす。
そして住職に目を向け、「朝に顔を合わせた時は、いつもより弾んだ笑顔でしたが・・・」と尋ねた。
「まさかとは思いますが、また・・・・・、」
「いえ、その心配はないでしょう。彼の心は快方に向かっています。それは私が保証しますよ。」
「・・・・あんな事件を起こしながら、たった半年でこちらに戻って来た。そんな短い時間で、何かが変わるものでしょうか?」
「それは何とも言えません。しかし良い方向に向かっているのは確かです。しかし勉君が普通の子供とは違うのも事実です。その為に私たちが来ているんです。」
「はあ・・・・。しかしですね、どうも私には、あの子が良い方向へ行っているようには思えんのです。
来る日も来る日も仏間で人形を刻んで、あれで良い方向に行っているとはとても・・・・。」
「無理に欲望を抑え込むのではなく、あえて自由にさせることも必要なんです。
力で抑えつけると、欲望は妙な方向へねじ曲がってしまいますから。」
「元々が妙な方向へ曲がっているじゃないですか。逸れた道を戻すには、早い方がいいと・・・・素人の私なんかはそう思うんですが。」
祖父は唇を結び、勉の背中を見つめる。そして一言こう尋ねた。
「あなた方は、信用してよろしいんでしょうか?」
「もちろんです。勉君の行動や考えをよく調べ、出来る限り受け止めてあげるのが私たちの仕事です。
おじいさんの目には不安に映ることもあるでしょうが、今はこの家だけが勉君の拠り所です。
だからあの子の前では、常に普通でいて下さい。何が心配事があれば、すぐに私に相談して頂ければ。」
「はあ・・・・・。」
祖父は曖昧な返事で頷く。
住職の言うことは、いちいち最もである。
だからこそ、祖父は疑念を抱いていた。
最もらしい理屈を並べる人間ほど、腹の中では何を考えているか分からないと・・・。
しかし彼らは児童福祉施設から派遣された保護官で、それは間違いない。
何度か役所や福祉施設に確認を取ったが、間違いなく本物の保護官であると確認出来た。
しかし祖父の胸には、言いようの無い不安が渦巻く。
このまま彼らに任せていては、勉は良くない道へ向かってしまうと、頭の中で警報が鳴っていた。
住職は頭を下げて部屋を出て行く。有希と朋広も、会釈を残して出て行った。そして家を出て、勉の後を追いかけて行った。
祖父は二階の窓から彼らを見送ると、仏間に向かった。
部屋は綺麗に片付いていて、今日、勉が解剖する予定の人形が置かれている。
それを手に取り、「わざわざこんな事させて・・・・何がしたい?」と苛立った。
すると祖母が仏間に入って来て、仏壇の水とお米を替え始めた。
そして線香を立て、ライターで火を点けてから、丁寧に手を合わせた。
「なあ、その線香・・・保護官の人から渡された物だな?」
そう尋ねると、「そうよ」と頷いた。
「これに替えろって。勉がいる間だけ。」
「そのお香は心に効くとか言ってたな。」
「なんか言ってたわね。匂いが心を落ち着かせるって。」
「不思議だな。心が落ち着くはずなのに、勉は毎日解剖に勤しんでる。変だと思わんか?」
「さあ・・・。でも専門家が言うんだから、きっとそうじゃないの?」
祖母はよっこらしょっと立ち上がり、「勉には悪いけど・・・・」と前置きしてから、重い口を開いた。
「出来ることなら、早く自分の家に戻ってほしい。」
「孫にそんなこと言うな。」
「目の前でなんか言わないわよ。でもね、あの子が帰って来てること、周りはみんな知ってるのよ。」
「こんな田舎だからな。噂はすぐに広まる。」
「あの子が事件を起こしてから、ただでさえ片身が狭いのに、これ以上は勘弁してほしいわ。ちょっと買い物に行く時でさえ、いちいち回りの目が気になっちゃって。」
「こういう時、都会の方が住みやすいんだろうな。」
「私は田舎者だから、都会のことなんて知りません。とにかく早く自分の家に帰ってほしいわ。」
「分かってる。勉を引き取ったのは、俺の一存だからな。」
「ずっと置いておく気じゃないでしょ?」
「・・・・勉次第だな。」
祖父は歯切れ悪く言い、仏間を出ようとした。
「負担を掛けてすまんな。」
「いいわよ、ちょっと愚痴っただけだから。」
二人は仏間を後にして、台所へ向かう。
その時、祖父はふと盆の上に目をやった。
それは先ほど仏壇のお茶と米を替えた盆で、その隅に赤い線香の欠片が残っていた。
何気なく手に取り、匂いを嗅いでみる。
あの住職は、この線香に心を落ち着かせる効果があると言った。
なのに勉の奇行は、以前よりも激しくなっているように思える。
「これ・・・・本当にただの線香だろうな?」
訝しく思い、線香の欠片を睨む。
そしてもう一度仏間に戻り、火の点いた線香を手に取った。
「・・・・・・・・。」
無言で睨み、祖母に「この線香を全部出せ」と言った。
祖母は居間のタンスを開け、束になった線香を渡した。
「なんで居間に?」
「それ、あんまり好きな香りじゃないのよ。だからご先祖様に悪いと思って。」
「お前が嫌いでも、ご先祖様は好きかもしれんぞ。」
「私が仏壇の世話をしてるんです。文句ある?」
祖父は「いいや」と笑い、「これちょっと持って行くぞ」と庭に向かった。
「どうするの?」
「ちょっと調べてもらう。畑仕事が終わったら、そのまま沢島さんの所に行ってくるから。」
「先生の所?今日は病院の日じゃないのに?」
「ああ。ちょっと遅くなるかもわ分からん。先に昼を済ませといてくれ。」
長靴を履き、軽トラに乗って畑に向かう。
二時間ほど野良作業をこなし、あぜ道に腰を下ろして、一服つけた。
畑の野菜はよく育ち、整えられた盛り土に並んで、青く葉を伸ばしている。
それを見つめながら、勉のことを考えた。
昔から変わった子であったが、まさか人間の目玉を抉り出すなんて・・・・。
祖父は振り返る。自分の子供の育て方は、決して間違ってはいなかったはずだと。
だから娘が子供を持った時、自分がしっかりと教育してきたのと同じように、孫にもしっかりと教育を施すだろうと。
事実、娘はしっかりと子供を育てた。
鈴音はオテンバながらも、良い子に育っている。勉だって、不良のように道を逸れたり、好き好んで誰かを傷つける子供ではなかった。
だから娘の教育に落ち度はない。そして娘の旦那も出来た男なので、やはり夫の方にも落ち度はない。
誰も悪くないし、誰もが間違った育て方はしていない。
それなのに、どうしてあんなに凄惨は事件を起こしたのか・・・?
世の中には不可解な事件を起こす輩がいて、そういう人種は、およそ普通の人間とは違った世界に生きているものだと思っていた。
しかし自分の孫が事件を起こしてから、その考えは変わった。
罪を犯す人間、途方もない悪さをする人間というのは、案外普通の人間であるかもしれないと。
勉は変わったところはあれど、根っからの悪者ではないはずだ。
しかし・・・・何かが普通と違う。心か?それとも頭か?いったいどの部分が普通と違うのか分からないが、確かにズレている所がある。
それはきっと、ほんの些細なズレなのだろうと思った。
川の水と同じように、山から流れ出す時点で、ほんの少しだけ行き先がズレてしまった。
しかしほんの小さなズレが、後々に大きなズレとなって、本流とは全く違った方向へ向かってしまう。
本流を外れて、細々と流れるその川は、堤防も何もない。
もし大水が出て水嵩が増せば、簡単に溢れ出てしまうだろう。
祖父は考える。果たしてあの保護官たちは、溢れ出すその川を止められるのだろうかと。
今日の勉は、いつもよりおかしかった。あんな早朝に、やけに弾んだ笑顔で出掛けて行ったからだ。
だから野良仕事を終えて帰る前に、二つほど用事をこなすつもりだった。
一つはあの線香だ。
心を落ち着かせる効果があるというが、どうも疑わしい。
だから知り合いの医者に頼んで、この線香の詳しい成分を調べてもらうつもりだった。
それともう一つ。それはあの保護官たちの正体を探ることだった。
役所と福祉施設に確認すると、間違いなく児童福祉施設の保護官であるとのことだった。
しかし祖父は信用していない。
だから自分が信頼の置ける人物に、彼らの事を相談してみようと思ったのだ。
その人物は、田園の向こうに見える、小さな森の中にいる。
その森は荘厳な鎮守の森で、中に歴史ある神社が建っている。
そこの神主とは古くからの知り合いで、変わり者ながら信頼の出来る人物だった。
祖父はタバコを消し、再び畑仕事に取りかかる。
そして昼前に差しかかる頃、沢島という町医者の所へ向かった。
禿げ頭に眼鏡の沢島は、通院日でもないのに訪れた祖父に、また胃の具合が悪いのかと尋ねた。
祖父は首を振り、持って来た線香を見せた。
詳しい事情を話し、この線香の成分を調べて欲しいと頼む。
島沢は線香を受け取り、ここでは出来ないと首を振る。
しかし祖父の真剣な説得に負けて、母校である大学病院に頼んでみると約束してくれた。
祖父は頭を下げ、結果が分かったらいつでも連絡をくれと、病院を後にする。
そして次に向かったのは、鎮守の森の中にある神社だ。
鳥居を潜り、脇道にある稲荷の社を通り過ぎる。
石造りの階段を上り、本殿の横にある社務所のドアをノックした。
すると若い男が顔を出し、祖父を見るなり頭を下げた。
そして何も言わずに、社務所の中に引っ込んだ。
しばらくしてから、鼻の高い細身の男が出て来る。
髪は真っ白で、よれよれのスラックスとトレーナーを着ていた。
彼はこの神社の神主であり、代々この神社を任される氏子であった。
祖父は頭を下げ、相談がある旨を伝えた。
神主は手招きをし、上がるように言う。
社務所の中は質素で、ソファとテーブル、それにテレビが置かれている。
部屋の奥にはドアがあって、自宅に続いていた。
神主は祖父と向かい合って座り、どんな相談かと尋ねる。
祖父は勉のこと、そして保護官たちのことを話した。
勉は社会に馴染めるのか?根は悪い子ではないのに、どうしてあんな悪さをしたのか?
そして保護官を名乗るあの三人は、本当に信用していいのか?
自分の見立てでは、どうもただの保護官とは思えないので、本職は別にあるのではないか?
それらのことを相談すると、神主は腕を組んで唸った。
そして長いこと考え込んでから、「分からん」と答えた。
「話だけ聞いても分からん。実際に会ってみないことには。」
その意見はもっともで、祖父は是非あの保護官たちに会ってほしいと頼んだ。
しかし神主は乗り気ではなかった。
わざわざ福祉施設の保護官に会い、いったい何をすればいいのか?
祖父の話を聞く限りでは、自分が出て行ってどうにかなる問題ではないように思えた。
勉は凄惨な事件を起こし、そのせいで祖父は神経質になっている。
保護官の言動にも敏感に反応し、ただ不安を膨らませているだけではないのか?
神主にはそう思えて仕方なかった。
しかしわざわざ相談に来てくれたのだから、無碍に追い返すのも忍びない。
どうしたものかと思案の後、息子を呼んで、ヒソヒソと耳打ちをした。
それから二十分後、神社に一台の車がやって来た。
車の中から一人の女が降りてきて、社務所のドアをノックする。
神主はその女を出迎え、祖父に紹介した。
この子は名前は、星野亜希子。自分の娘であると。
神主に娘がいるなど知らなかった祖父は、目を丸くして驚いた。
神主の星野は、驚くのも無理はないと笑った。
娘は死別した妻の実家に引き取られ、最近こちらに越して来たばかりだった。
年は25で、息子の基喜の双子の姉である。
そして「信じるか信じないかは佐藤さんに任せるが・・・・」と前置きしてから、こう話した。
「亜希子は人の持つ色が見えるんですわ。」
「色・・・・ですか?」
「性格とか、思考とか、それにまあ・・・・その他諸々ですな。人間の内面に宿るそういったものが、色となって身体から出るんですわ。亜希子はそれが見えるんです。」
「はあ・・・・・。」
「それに息子の基喜も、ちょっと変わったもんが見えましてな。」
「息子さんも・・・・?彼も色が見えると?」
「いやいや、色じゃありません。まあ・・・・なんというか・・・・、」
星野は歯切れが悪そうに、ゴニョゴニョと口ごもる。すると娘の亜希子が「幽霊ですよ」と答えた。
「はあ?幽霊?」
「はい。弟は幽霊が見えるんです。」
「・・・・・・・・。」
祖父は口を半開きにしたまま、言葉を失くして固まった。
そして星野を振り向き、「神主さん・・・・」と重く呟いた。
「私はね、あんたのことを信用してる。昔から代々この神社を任されて、町の行事でもよくお世話になってるから。」
「いや、あれですよ・・・信じる信じないは・・・・・、」
「そういう問題じゃないでしょう。私はあんたを信用してるから、こうして相談に来たんですよ。」
「分かっとりますよ。でも面白半分にこんな事を言ってるわけじゃない。まあ信じる信じないがお任せしますが・・・・・、」
「勉は今日の朝、いつもと様子が違っていた。また何かやらかす気なんじゃないかと、不安で仕方ないんだ。」
「はい。だから相談に来たんでしょう?」
「保護官たちは勉の後をついて行ったが、私は追いかける勇気がなかった。もし・・・・またあの子が事件を起こしたらと思うと、ついて行く気力が湧かなかった。」
「ええ。」
「でも私は、あの保護官は信用しとらんのです。だからあんたにお願いに来た。あんたは人として信用出来るし、付き合いも長い。だからもし私の相談が煩わしいと思うなら、ここで追い返してくれて結構。」
祖父は膝の上で拳を握り、唇を固く結んだ。
これが長年の付き合いのある相手でなければ、怒鳴り散らして帰っているところだった。
しかし怒りを抑え、その怒りが鎮まるまで、どうにか堪えようとしていた。
亜希子が何かを言いかけようとするが、星野は手でそれを制した。
そして「会ってみましょうか?」と呟いた。
「その保護官とやら、佐藤さんが怪しいと思うなら、それはもしかしたら正しいかもしれない。」
「・・・・・・・・。」
「あんたが真面目な人だっていうのは、私もよく知っています。そのあんたが疑いを持つんだから、そりゃあやっぱりどこか変な奴らなんでしょう。こうしてわざわざ相談に来てくれたんだし、私で出来ることなら、それくらいはしますよ。」
そう言って頷きかけ、「幽霊だのなんだのは、忘れて下さい」と微笑んだ。
「ありゃ娘の戯れ言です。」
「何よ、全部私に押しつける気?」
亜希子がギロリと睨むが、星野は顔をしかめて「堪えろ」と合図した。
「佐藤さんが私を信用しとるというのなら、一度その保護官とやらに会わせてもらえませんか?」
祖父は結んだ口元を開かず、ただ怒りを鎮めようとしていた。
しばらく沈黙が流れ、時計の秒針の音がうるさく感じられるほどだった。
「・・・・お願い出来ますか?」
祖父がようやく口を開く。星野は頷き、「いつにしましょう?」と尋ねた。
「佐藤さんの都合の良い時で・・・と言いたいが、こちらにも予定があるもんで、日取りを決めてもらえるとありがたいんですが・・・・。」
「そうですな。では・・・・・・、」
祖父は思案する。会ってもらえるなら、なるべく早い方がいいと。
だから断られるのを覚悟で、「今日は?」と尋ねた。
「今日は保護官が来とるんです。今は家におりませんが、そのうち帰って来るでしょう。」
「今日ですか・・・・。」
「やはり無理で?」
「いや、私はいいんですが・・・・、」
星野はそう言ってから、亜希子を振り返った。
「今日はあれか?水を汲みに行く日か?」
「そうだけど、でもわざわざ呼んだんだから、私の予定なんか無視するつもりでしょ?」
「佐藤さんは長い付き合いの人だから。ちょっと相談に乗ってあげてよ。」
「だったらこっちの予定なんか聞かないでいいじゃない。嫌味しか聞こえないし。」
亜希子は不満そうに言い、「今日でも大丈夫ですよ」と答えた。
「いや、あんたじゃなくて、神主さんに来てもらえりゃそれでいいんだ。」
「でもお父さんは私を連れて行きますよ。だから呼んだんです。」
「人の色がどうとか・・・・そういうのは遠慮したいんだが・・・・、」
「分かってます。ついて行くだけです。」
そう言ってから、「お住まいは近くで?」と尋ねた。
「ああ、軽トラで来てるよ。車で2、3分ってところかな。」
「じゃあ送って行かなくてもいいですね。」
亜希子はそう言い残し、奥のドアを開けて、自宅の方へと消えていった。
つっけんどんな態度に、祖父は少しムッとした。星野がすかさず「あんな娘で・・・」と宥めた。
「まあ保護官の人らが帰って来たら、連絡を下さい。すぐに窺いますから。」
「ええ、よろしくお願いします。」
祖父は会釈をして、社務所を後にする。
星野と基喜が玄関まで見送り、祖父はまた会釈をする。
そして軽トラを駆って家路についた。
車の時計は午後1時半を指していて、家を出てからかなり時間が経っていることに気づいた。
「帰って来てくれているといいが・・・・。」
勉が出掛けて行ってから、もう七時間以上が経っていた。
どうか何事もなく帰って来ていてほしいと願いながら、庭に軽トラを止める。
玄関を上がり、廊下を歩きながら祖母に呼びかけた。
「おい、勉は帰って来てるか?」
大声で尋ねながら、居間に向かう。すると誰もおらず、「出掛けているのか?」と台所へ向かった。
台所にも祖母はおらず、まな板の上には切りかけの野菜があった。
「なんだ、散らかしたまま。」
みじん切りにされたネギ、白菜、それにフライパンの傍には冷えたご飯が置かれていて、焼き飯を作ろうとしていたことが分かる。
床には包丁落ちており、「危ないな」と拾い上げた。
「便所か?」
包丁を戻し、洗面所の奥にあるトイレへ向かう。
コンコンとノックして「おい」と尋ねると、中から物音がした。
「おい、入ってるのか?」
「・・・・・・・・。」
小さく声が聞こえる。中で誰かが動いている気配があり、「返事をしろ」と言った。
そしてもう一度ノックをすると、突然ドアが開いた。
中から祖母が飛び出してきて、青い顔で抱きつく。
「おい、どうした!?」
何かあったのかと思い、肩を揺さぶる。
すると祖母は青い顔をしたまま、ぶるぶると唇を震わせた。
「お・・・・おばけ・・・・、」
「は?」
「勉のおばけが・・・・・包丁持って・・・・、」
震える声でそう呟き、この世の終わりみたいな顔で、うずくまってしまった。
これはタダ事ではないと思い、「いったい何があった?」と揺さぶった。
しかし祖母は震えてばかりで、何も見たくないという風に、目を閉じてしまった。
「どうしたんだ・・・・。」
祖父は祖母の肩を撫でながら、困った顔で見つめる。
祖母が落ち着いて話を出来るまで、それから一時間かかった。
そしてその一時間の間に、家の中で不可解な出来事が起こった。
その不可解な出来事のせいで、祖父も青い顔をして震えるしかなかった。

霊体解剖 第五話 観察(1)

  • 2015.06.21 Sunday
  • 12:22
JUGEMテーマ:自作小説
ひな祭りが終わる、春の初めの頃。
桜の木はつぼみを付けはじめ、枝の上でメジロが鳴いている。
寒い冬が終わりを告げ、散歩でもしたくなるような陽射しが、ぽかぽかと降り注いでいる。
しかしそんな陽気な一日に、仏間に籠る少年がいた。
それは鈴音の兄、勉であった。
勉は仏間に並んだ雛人形を見つめていた。
ここは母方の祖父母の家で、仏間にはひんやりとした空気が流れていた。
仏壇には菩薩の小さな像が立っていて、じっと勉のことを睨んでいる。
勉は雛人形を持ちながら、菩薩の目を睨み返す。
「文句あるんか?」
仏壇の菩薩は、勉の行いを咎めるように、ただじっと睨んでいる。
その目が気に食わなくて、仏壇の扉を閉めた。
畳に腰を下ろし、雛人形を見つめる。
その手にはカッターナイフを持っていて、熱心に雛人形を解剖していた。
すでに手足は切り落としていて、首にもカッターの痕が残っている。
美しいはずの雛人形が、見るも無残に痛めつけられていた。
今から一ヶ月前、勉は家に帰って来た。
本当なら祖父母の家ではなく、父と母のいる家に帰るはずだった。
しかし鈴音が強く拒否した為、しばらく祖父母の家に預けられることになった。
勉は本来、まだ家に戻ることは出来なかった。
・・・・・人間の眼球を抉り取る。
そんな罪を犯したのだから、おいそれと家に帰れるわけがない。
しかも眼球を取られた飼育員は、車に撥ねられて死んだ。
助けを求める為に、動物園の門から出た所で、車に撥ねられたのだ。
あの時、家に来た白髪の刑事からそう聞かされた。
それを聞いた時、勉は思った。
なんて間抜けな奴なんだと。
大人しく誰かが来るまで待っているとか、事務所の電話を使うとか、色々と方法はあったはずだ。
目が見えない・・・・というより、目がないのだから、フラフラと歩きまわったらどれだけ危険か。
そんなことも分からないアホだから、車に撥ねられて死ぬんだと。
勉はあの飼育員に対して、罪の意識など持ち合わせていなかった。
それどころか、少しばかり感謝さえしていた。
残酷な事件(勉自身はそう思ってはないが)を起こした自分が、わすか半年程度で家に戻れたのには、それなりの理由があった。
あの飼育員は、あの夜勉を犯そうとした。
警察が勉の証言を元に調べた結果、飼育員の口から、勉の唾液が見つかった。
それだけではない。勉のズボンからも、飼育員の精液がわずかに検出されたのだ。
あの夜、飼育員は脅しをかけて、勉を犯そうとした。
だから勉の取った行動は、身を守る為に必要なことだったと、都合よく解釈してくれる人間が現れたのだ。
声高に人権を主張する弁護士、カルトのように子供の純粋さを崇拝する親、メディアに出て名前を売りたい学者。
見ず知らずの大人たちが、声を上げて勉を守ろうとした。
勉はそんな大人たちの声を聞きながら、もっと喚いてくれと心から願った。
なぜなら早く元の生活に戻らなければ、解剖が出来ないからである。
勉自身は、あの行為は身を守る為にやったわけではないと知っている。
自分の犯した罪なのだから、その罪の理由は自分が一番よく知っているのだ。
『ただ人体を解剖したかった。』
それだけのことだったのに、なんとまあ多くの大人が、良い意味で都合よく解釈してくれることか。
この時、勉は少しだけ社会の仕組みを知った。
悪いことをしても、それなりの理由があれば、悪者に味方する人間がいるのだと。
そういう人たちはとても良い人だから、自分が正しいと信じて疑わない。
良い人なら警察も捕まえる事が出来ず、なおかつ耳元でワンワンと吠えられたら、そりゃあ子供の一人くらいさっさと放してやろうと思うんだろうとなと。
そのおかげで、勉は本来よりも早く家に戻ることが出来た。
しかしそれだけが理由ではない。
勉の行為の異常性から、少年院ではなく、児童福祉施設に付属する精神科へ行くことになった。
診断した医師は、勉の思考、人格、感情の動きは、同年代の子供とは大きくかけ離れていると言った。
それは勉が、通常の人間とは違った、心の障害を抱えていることを意味していた。
少なくとも、医者はそう判断した。
勉に必要なのは、罰ではなく治療であり、それと同時に専門家による思考や行動の観察である。
勉は今も解剖に勤しんでいる。
雛人形の首を落とそうと、真面目に、そして真剣にカッターを動かしている。
そして勉の熱心なその行動を、じっと見つめる者がいた。
有希と朋広。
この二人が、仏間の引き戸の隙間から、勉の異常な行動を窺っていた。
勉が精神科にいる間、二人は何度も会いに行っていた。
そして勉の考え、趣味、行動、思想、多くの会話の中から、彼という人間の本質を探ろうとしていた。
二人はカジュアルなスーツに身を包み、胸には児童福祉施設の名札を付けている。
そして二人の後ろには、鋭い眼光をした初老の男が立っていた。
彼は鈴音が教育委員会のお偉いさんだと勘違いした、あの男だった。
有希は学校に常駐するカウンセラーだと説明したが、実はそうではない。
この初老の男は、有希と朋広が師事する、ある寺院の住職だった。
学校でカウンセラーをしているのは事実だが、それが本業ではない。
彼の本職は住職であり、病める心を持つ人間、救いを求める人間に手を差し伸べるのが仕事である。
それと同時に、もう一つ特殊な仕事を抱えていた。
それは悪魔退治である。
悪魔といっても、本物の悪魔ではない。
エクソシストのように、角や蝙蝠の羽を持つ悪魔を退治しているわけではない。
厳密に言うと、悪魔のような心を持った人間の退治である。
この世には、おおよそ普通の人間とはかけ離れた思想、行動、観念を持つ者がいて、それが良い意味で社会に影響をもたらすなら、神や天使と崇められる。
しかし悪い意味で影響を及ぼす場合、それらの人間は悪魔や鬼と恐れられる。
ヤクザ、不良、犯罪者、反社会的な人間であっても、根本的には普通の人間と変わらない。
そういう人間は、ちょっとしたキッカケで、そして恵まれない家庭環境のせいで、悪の道に落ちることがある。
しかし根は普通の人間なので、改心させることは可能である。
それに対して、悪魔の心を持つ人間は、どう頑張っても改心させることは出来ない。
生まれながらにして悪、根本から、そして頭から爪の先まで悪で出来ているので、生まれ変わらせることなど不可能なのだ。
身も凍る猟奇的な殺人犯は、人の命を命と思わない。
『反社会的な者』ではなく、『非社会的な者』たち。それが悪魔である。
そういう類の人種は、改心を求めるのではなく、早急に抹殺することが必要だった。
勉を観察している住職は、そういった悪魔を退治する役目を負っていた。
反社会的な者には改心を求め、非社会的な者には命を以て償ってもらう。
果たして勉はどちらの人種か?
反社会的な者か?それとも非社会的な者か?
しばらくの観察の後、住職は判断を下さねばならない。
改心の見込みがあるなら、菩薩の心を持って手を差し伸べる。
しかしもしそうでないのなら・・・・・勉の命を絶つ必要があった。
悪魔を放置することは許されない。
大きな罪を犯す前に、大勢の犠牲者が出る前に、その存在を抹消しなければいけないのだ。
勉が家に戻ってから、今日で一ヶ月。
住職は未だ判断に苦しんでいた。
これまでの観察の結果、勉の心は、限りなく悪魔に近い。
しかしそれでも、住職は決断を急がない。いや、急がないのではなく、出来る限り先延ばしにしようとしていた。
近く決断をしなければならない時が来るが、その時までは、勉を悪魔と断ずることを避けていた。
なぜなら、いくら悪魔の心を持っているからといって、15歳の少年をこの手に掛けたくなかったからだ。
僧侶の役目は救済である。
病める人間、道に迷う人間、深く悩む人間、そういった人たちを救うのが、仏に仕える者の役目である。
だから出来る限り、改心の可能性を探りたかった。
もし勉を悪魔と断ずれば、長い悪魔退治の人生の中で、初めて子供を手に掛けることになる。
住職は有希と朋広の肩に手を置き、「少しここを離れる」と言った。
そして家の外に向かい、田園の見える庭で、深くため息をついた。
長閑な田園は、心を落ち着かせる。
眉間に皺を寄せ、目頭を押さえ、心に溜まった疲れを吐き出すように、田園に向かって大きく息を吐いた。
それと同時に肩を叩かれ、ゆっくりと振り返る。
そこには有希が立っていて、何も言わずに隣に並んだ。
二人して長閑な田園を眺め、有希がぽつりと漏らす。
「お疲れですね。」
「うん・・・。」
「私もそろそろ限界です。」
「何を言う。まだ疲れるほどのことはしていないだろう。大変なのはこれからだぞ。」
「いえ、そういう意味ではなくて、学生の振りをするのがです。」
そう言って自分の目尻を指さし、「けっこう皺が・・・」と嘆いた。
「ああ・・・そうだな。今年で32だったか?」
「はい。これ以上の手術と薬物は、もう限界かと・・・。」
「辛いかい?」
「何度も顔をいじっていますからね。年相応なら、どんな顔になっていたんだろうと興味はあります。だけどそれ以上に薬の影響が・・・・。」
「若さを保つってのは、リスクがあるからね。そろそろ学校での仕事は、他の者に任せた方がいいかもしれないな。」
住職は労わるように笑みを投げ、「僕ね、これを最後に引退しようと思う・・・」と呟いた。
「さすがに子供を手に掛けるのは気が引ける。これ以上、人の命を奪うのは御免だ。」
「でも相手は悪魔ですよ?」
「いいや、人間だよ。悪魔かどうかなんて、本物の悪魔を見た者にしか分からないだろう。」
「見たことあるんですか?」
「ないよ。悪魔なんているわけないだろう。ありゃ人間の想像の産物だ。だからね、全部人間なんだよ、良いも悪いも。相手を悪魔と断ずることで、僕らは自分達のやっていることを正当化しているに過ぎない。まだ罪も犯していない人間なのに・・・・・その命を奪う資格など誰にもないはずだ。」
「そうですね。でも悪魔・・・・人間が生み出した想像上のという意味ですけど、悪魔に類似した人間はいますよ。そういう人間を放っておけば、必ずと言っていいほど世を乱します。それを粛清する為に、私たちは不思議な力を授かったんだと信じています。」
有希は凛として答える。その目は自信と勇気に満ちていて、微塵の疲れも見せない。
住職は「危険だな・・・」と漏らし、眉間に皺を寄せた。
有希は「何がです?」と首を傾げる。すると住職は笑って答えた。
「ミイラ取りがミイラになるってことさ。」
「私が悪魔に?」
「なってもおかしくない。誰だって仏や天使にもなるし、逆も然りだ。いつ、どんな時でも、人は心に善と悪を持っている。要はバランスの問題だよ。僕は引退する前に、そういう大事なことを、きっちりと君たちに教えておかないといけない。己の力に増長して、ミイラ取りがミイラになった例を、僕はいくつも知ってるからね。」
住職はうんと背伸びをし、踵を返す。
「あの勉という少年は、必ず助けて見せる。僕の弟子がミイラにならないように、最後の仕事をするつもりなんだ。」
そう言い残し、住職は家の中に消えていく。
有希はその背中を見つめながら、「あれはもうダメね・・・」と首を振った。
「相当参ってる。世代交代は近いわね。」
弟子が師を越える日は、そう遠くない。
有希は自信に満ちた目で、目尻の皺を撫でていた。


            *


祖父母の家に戻ってから、勉はずっと仏間にいた。
ここには陰険な目をした菩薩がいるのに、なぜか入り浸ってしまう。
それはきっと、仏間特有の静かな空気のせいだろうと思っていた。
この部屋には、他のどの場所とも違う、とても心地良い空気が流れている。
それは波のない海のように、勉の心を落ち着かせた。
物事に集中する時、心は落ち着いていないといけない。
勉の興味は解剖だけに向かっているので、それを乱されるのは好きではないのだ。
だから保護官である住職、有希、朋広にも、決して仏間には入るなと言ってある。
ここは勉の解剖の間であり、彼らが立ち入ることは許されない。
朝夕に祖母が仏壇の世話に入って来るが、その時以外は誰も入れなかった。
雛人形はとうにバラバラにされていて、今度はタンスに置かれた日本人形の解剖に勤しんでいた。
おかっぱ頭に、綺麗な着物。肌は絹のように真っ白で、その目は無表情に前を見つめている。
勉は着物を切り裂き、人形の眉間にペンチを突き立てる。
意外と硬く、ならばと手足の分解から取りかかった。
勉の手際は素晴らしく、あっさりと手足をバラしていく。
次に胴体、首、顔ときて、最後は目玉をくり抜いて、恍惚とした。
しかし所詮人形は人形。
本物の眼球のように、勉の心を掻き立ててはくれない。
あの飼育員の眼球を手にした時の、えも言えぬ興奮・・・。
勉はそれを欲しがっていた。
もう一度、あの興奮と感動を・・・・もう一度人体の解剖を・・・・・。
すでにバラバラになった人形を、さらに細かく分解していく。
その様子を引き戸の隙間から窺っていた住職は、「有希は、あの子の色の具合は?」と尋ねた。
「ひどく揺れています。人形じゃ我慢出来ないんでしょうね。」
「わざと神経を昂ぶらせるように仕向けてるからね。」
住職はニコリと笑う。
勉は自分の意志で仏間に来ているつもりだが、実はそうではない。
この部屋に灯る線香には、ある薬物が混ぜられていた。
それは人の神経を昂ぶらせ、より鋭く、より敏感に尖らせていく。
住職は勉の祖母に線香を渡し、それを朝夕に焚くように頼んでいた。
もちろん薬物が混ざっていることは内緒で。
おかげで勉の神経は鋭く尖り、解剖への意欲が高まっていく。
有希が「どうして薬物入りの線香を?」と尋ねると、住職は「これでいいんだよ」と答えた。
「さっきも言ったけど、僕はもう疲れてるんだよ。だからあまり長引かせたくない。もう緊張感がもたないんだ。早く勉君の本心を探らないと・・・・・。」
「だからって薬物の混ざった線香を焚くなんて・・・・、」
「良くない事だって分かってるよ。でも無駄に長引かせる気はないんだ。例え違法な薬物を使ってでもね。」
住職は注意深く勉を見つめ、「明日になれば、自分の欲望を押さえられなくなるだろう」と言った。
「きっとあの子は、人体の解剖を決行する。その先に重い罪が待っていたとしても、もう抑えきれない。」
「線香に混ざった薬のせいでね。そうなったら、住職の責任でもありますよ?」
「いいさ、僕がどうなろうと。でもいい加減、こういう事はやめなきゃいけない。僕はね、君達にはもっと別の道を歩んでほしいのさ。だからこれが最後なんだ・・・・。明日、僕はあの子の心から悪魔を追い払ってみせるよ。よく見ておいてほしい。」
そう言って、有希と朋広の肩を叩く。
有希はうんざりしたように首を振るが、朋広は真剣にその言葉を聞いていた。
住職の言う通り、朋広も子供を殺すなんてまっぴら御免だった。
そして住職と同じように、少なからず有希の思想に懸念を抱いていた。
有希は・・・・自分を特別だと思い込んでいる節がある。
このまま突き進んでいけば、最悪は彼女自身が悪魔になるかもしれないと・・・。
だから朋広は期待していた。
勉が人体解剖を決行しようとした時、住職はいったいどんな方法でもって、それを止めるのか?
そしてどんな方法でもって、勉の心から悪魔を追い払うのか?
それをよく目に焼き付け、自分達が住職の跡を継いだ暁には、いかな理由があっても人を殺さないようにしようと。
そんな事を知るよしもない勉は、線香の香りに侵されて、ひたすら人形をバラしていく。
とめどない欲望が膨らみ、自分でも知らないうちに勃起して、下半身を振っていた。

霊体解剖 第四話 分解(2)

  • 2015.06.20 Saturday
  • 11:09
JUGEMテーマ:自作小説
涙で滲む視界の先には、昨日職員室で出くわした、あのひょろ長い男子生徒が立っていた。
「ズボンが・・・・。」
男子生徒はぼそりと呟き、花瓶の当たった腕を押さえている。
その手には一枚のプリントを持っていて、ズボンと同じように濡れていた。
「ごめんね鈴音ちゃん、あれを届けに来ただけだから。」
女子生徒は謝る。そしてニコリと微笑んだ。
鈴音は少しだけ落ち着きを取り戻し、「お母さんは・・・」と尋ねた。
「買い物に行くって。すぐ戻って来るそうよ。」
女子生徒は鈴音を立たせ、居間のソファに座らせる。
そして掃除道具の場所を聞き、床に散乱した花瓶を掃いていった。
朋広と呼ばれた男子生徒は、手持無沙汰で立ち尽くしている。
鈴音と目が合うと、頭を下げながら微笑んだ。
《なんなん・・・・。》
鈴音は呆然として、背筋を伸ばしてソファに座っていた。
緊張と興奮と、そして混乱。
心臓がこれでもかと激しく鳴っていて、居間の中に視線を彷徨わせていた。
やがて女子生徒が戻って来て、「掃除しておいたから」と笑った。
「隣に座ってもいい?」と聞かれたので、何も言わずに頷いた。
朋広も隣に座ろうとするが、女子生徒が手を振って止めた。
「まだ混乱してるから。」
「ああ・・・。」
朋広はさらに手持無沙汰になり、濡れたプリントをいじり出す。
女子生徒は鈴音に手を重ね、小さく微笑みかけた。
そしてゆっくりとした口調で、自己紹介をした。
「私は野々村有希。鈴音ちゃんと同じ学校で、一個上の三年生。そこで手持無沙汰に立っているのは、弟の朋広。双子なんだ。」
そう言ってから、ここへ来た理由を説明した。
その理由は二つあって、一つは学校のプリントを届ける為。
学級だよりのプリントで、今月の行事が書いてある。
それは鈴音に渡す為というより、鈴音の母に渡す為に持ってきた。
もう一つの理由は、学校で鈴音を見かけたから。
有希は「信じる信じないは鈴音ちゃんに任せる」と前置きしてから、その理由を語った。
「私ね、人の持つ色が見えるんだ。その人を包む色、その人から発せられる色が、ハッキリ見えるの。
そしてその色でもって、その人の性格や心理状態が、手に取るように分かるの。」
鈴音は信じられなかったが、有希は「信じる信じないは任せるから」と、笑顔で言った。
転校初日、有希は廊下で鈴音とすれ違った。
その時、鈴音の持つ色がはっきり見えたという。
それはどんな色かというと、ピンクを基調とした中に、白と金が混ざる、とても珍しい色だと言った。
ピンクは愛嬌と幼さを表し、白は純粋を意味する。
そして金は我の強さを示すもので、有希が分析するには、「夢見がちだけど、一本芯の通った強い人間」とのことだった。
しかし鈴音を包むそれらの色は、ひどく揺れていたという。
まるで嵐の日の海のように、高くうねり、そして渦巻くほど荒れていたと。
通常、色がこんな風に荒れることはまずないと言う。
こういう具合に色が揺らめくのは、平穏な日常の中では考えられない、大きなトラブルに巻き込まれた証拠だと。
普段の生活から逸脱する、大きなトラブルに巻き込まれた時、人はひどく動揺する。
強い人間だろうが弱い人間だろうが、大人だろうが子供だろうが、必ず色は揺らめくのだと。
鈴音の場合、身を包む色が、燃え上がる炎かと錯覚するほど、激しく揺れていた。
その事を心配した有希は、話しかけようかどうしようか迷った。
しかしその日は何もせず、すれ違う鈴音を見送った。
次の日、鈴音に話しかけようか迷いながら登校すると、例の噂が広まっていた。
心配した有希は、弟の朋広に相談した。
朋広は朋広で、これまた普通の人間には見えないものが見えるのだが、それは追々話すと笑った。
相談を受けた朋広は、鈴音に話しかけてみようと決めた。
そして有希と二人で職員室に向かい、信頼の置ける大人に相談を持ちかけた。
その大人とは、鈴音が校長室で顔を合わせた、教育委員会のお偉いさんだった。
有希は説明する。あれは教育委員会の人間ではなく、学校に常駐するカウンセラーだと。
有希と朋広から相談を受けたカウンセラーは、校長と教頭、それに担任の教師に話を持ちかけた。
おそらく、鈴音は明日から学校に来なくなるだろうと。
ならば無理はさせず、本人が登校する意志を持つまで、辛抱強く見守ってやるべきだと。
しかし完全に放置するのは、学校側の責任を放り出すのに等しい。
だからここは、有希と朋広に面倒を看させてはどうかと。
そういう経緯があって、二人は鈴音の家を訪れた。
話を聞き終えた鈴音は、色々と疑問だらけだった。
人の色が見える?双子の弟も、人には見えないものが見える?
それに教師たちは見守るだけなのに、どうして二人の生徒が自分の面倒を看るのか?
それだけではない。
そもそも、どうして母は私を置いて買い物に行ったのか?
私と一つしか違わない子供に任せて、どうして家を空けたのか?
今の私がどういう状態か知っているはずなのに、なぜ・・・・・・?
様々な疑問が渦を巻き、鈴音は言葉を失う。
するとそんな鈴音の疑問を見透かしたように、有希が小さく笑った。
「分からないことはたくさんあると思うけど、それも追々話すから。だから今日はこのプリントだけ。」
そう言って朋広に向かって、クイクイと手を動かす。
のっぽの身体を動かしながら、朋広が目の前に近づく。
ゆっくりとプリントを差し出し、「濡れちゃったけど・・・」と苦笑いした。
「・・・・・・・。」
鈴音はそれを受け取り、大きく印字された「学級だより」の文字に目をやる。
その下には今月の行事が並んでいて、ぽろりと漏らした。
「体育祭・・・。」
「うん、今月ね。でも無理して出なくてもいいよ。」
「・・・・・・・。」
「まだ色が揺れてるから、落ち着くまでしばらくかかると思う。でも焦らないで。余計に不安になるし、自分を追い詰めるだけだから。」
そう言って鈴音の手を撫で、そっと立ち上がった。
「今日はこれだけ。また少し日を空けて来るから。でも会いたくなったら連絡してくれていいよ。」
有希は自分のケータイ番号をメモして、鈴音に渡した。
そして「じゃあまたね」と手を振って出て行く。
二人の足音は遠ざかり、玄関のドアが閉じられる。
鈴音は一人残され、いくつもの混乱を抱えたまま、有希のメモを握りしめていた。


            *


夏は過ぎ、紅葉は散り、寒い日は雪がちらつく季節になった。
時間の流れと早いもので、新しい街に引っ越して来てから、もう四カ月が経とうとしていた。
鈴音は相変わらず登校拒否だったが、以前よりは明るくなっていた。
それもこれも、全ては有希と朋広のおかげだった。
あの二人は数日おきに鈴音の家に訪れ、他愛ない話をして帰っていく。
有希は時々、鈴音の色の状態を教えてくれた。
激しくうねっている時もあれば、かなり落ち着いている時もある。
しかし安定して落ち着くには、まだ時間がかかると言われた。
決して無理をせず、焦ってもいけない。
鈴音を支える人間はたくさんいるのだから、不安になっても心配しなくていいし、調子が良い時でも無理をするなと言われた。
有希の言葉は優しく、染みるように胸に響く。
口調はとても滑らかで、子守唄を聴かせる母のように、鈴音の気持ちを落ち着かせた。
鈴音はそのおかげで心の平穏を取り戻しつつあったが、それと同時に、どうして有希の言葉はこんなに胸に響くのだろうと考えた。
有希は自分と一つ違うだけで、まだ中学生だ。
しかしその言葉遣い、言葉選び、さらには話している時の雰囲気は、とても中学生とは思えない。
もっとたくさんの人生経験を積んだ、酸いも甘いも知り尽くしている大人のように思えた。
鈴音は一度だけ尋ねたことがある。
有希は本当に中学生なのかと。
あの時、有希は「さあ、どう思う?」とわざとらしく答えた。
それは冗談で言ったのか?それともわざとらしく見せることで誤魔化したのか?
鈴音には分からなかったが、彼女が本当に中学生かどうかは、大きな問題ではない。
一番重要なのは、あの二人が心の支えになってくれているということだった。特に有希の存在は大きい。
昨日も、あの二人は会いに来てくれた。
いつも通り他愛ない話をして、帰り間際にも、いつもと同じように励ましてくれた。
鈴音はいつも通り見送ろうとしたが、ふと尋ねた。
それは彼女達と知り合ってから、何度もぶつけてきた質問だった。
「有希はほんまに人の色が見えるん?」
そう尋ねると、ニコリと笑って頷いた。
「じゃあ朋広にもそういう力があるん?」
残念ながら、この質問には答えてくれなかった。
これは毎度のことで、有希に人の色が見えるという以上のことを、この二人は決して教えてくれない。
それは両親も同様で、いったいあの二人が何者なのか、何度も尋ねた。
教師や学校は私のことをほったらかしのクセに、どうしてあの二人に任せるのか?
あの日、母はどうして買い物なんかに行って、私とあの二人を残したのか?
何度も何度も尋ねたが、上手く誤魔化されるだけだった。
有希も朋広も、それに大人達も、肝心なところは、私に教えまいとしている。
鈴音にはそう感じられて仕方なかった。
消えない疑問は渦を巻くが、あの二人のおかげで心は落ち着きつつある。
それはとても嬉しいことだったし、ほんの少しだけ、学校に行ってもいいかなと思えるようになっていた。
きっと回りの生徒から、冷たい視線やからかいの言葉を投げられるだろうけど、あの二人がいるなら、どうにか安心出来るかもしれない。
鈴音は前向きに、そして明るくこれからの事を考えるようになっていた。
今日、あの二人は会いに来ない。
続けて会いに来ることはまずない。
寂しいとは思うけど、それは仕方のないことだった。
二人とも中三ということは、来年受験である。
今は12月の半ばなので、最後の追い込みをかけているところだろう。
ならば毎日会いに来られないのは仕方ないし、それに高校生になっても、ちゃんと会いに来てくれると約束してくれた。
だから寂しさを抱きつつも、前向きになろうとする思いに変わりはなかった。
鈴音は弾んだ足取りで階段を下りる。
今日は平日だが、珍しく父がいる。
休日出勤が続いたので、ようやく休みがもらえたと喜んでいた。
鈴音は父に近づき、脇腹をこそばした。
いつもなら笑ってくれるのだが、今日は困った顔で振り向いた。
父はケータイを耳に当てていて、真剣な顔で話している。
きっと仕事の話だろうと思い、鈴音はつまらなさそうにソファに座った。
テレビを付け、ドラマの再放送を見る。
すると電話を終えた父が、満面の笑みで「ええニュースやぞ!」と叫んだ。
鈴音は父を振り向き、「どうしたん?」と尋ねる。
父は満面の笑みを保ったまま、鈴音をどん底に突き落とすようなことを言った。
「喜べ!お兄ちゃんが帰って来るぞ!」
そう言って鈴音の肩を叩き、トイレを掃除していた母の元へ走って行った。
廊下の奥から、「お母さん、ニュースやで!」と嬉しそうな声が響く。
母は「ほんまに!?」と叫び、二人の笑いが家の中にこだました。
「・・・・・・・・・。」
鈴音は呆然としていた。
この街へ引っ越してから、有希と朋広のおかげで、随分と前向きになることが出来た。
この四カ月、地道に、少しずつ、前を向いて歩く努力を続けてきた。
有希に励まされ、朋広のお喋りで笑顔を取り戻し、ようやく学校へ行ってもいいかなと思い始めていた。
そうやって少しずつ努力してきたのに、それが一瞬にして崩壊してしまった。
そもそも、自分がこうやって家に閉じ籠るようになったのは、兄が原因だ。
そしてこれまでの努力は、兄を忘れる為と言い換えてももよかった。
元々嫌いだった兄、その兄が犯罪を犯し、自分は犯罪者の妹として見られるようになった。
兄のことを思い出す度に嫌な気分になったし、あの犯罪を思い出す度に憂鬱になった。
周りから向けられる白い目。ヒソヒソ噂される陰険な話声。
しつこく追い回すマスコミに、プライベートなどお構いなしの警察。
あの時、この世の全ては敵なのだと、鈴音は錯覚していた。
誰もが自分を狩りに来る、恐ろしい狩人のようだと・・・・・。
そこへ有希と朋広という救世主が現れ、鈴音を光のある道に導いてくれた。
鈴音自身も明るさを取り戻す為に努力したし、あの二人は辛抱強くそれを支えてくれた。
このままいけば、元の生活に戻れるかもしれない。
ほんの少し先には、以前と同じように明るい道が待ち受けているはずだ。
それが・・・・それなのに・・・・・。
気がつけば、鈴音は叫んでいた。
テーブルの灰皿を振り上げ、窓に向かって投げていた。
「ふざけんじゃねえよおおお!帰って来んなああああ!」
鈴音の叫びと、ガラスが割れる音が重なり、父と母は驚いて目を向ける。
「あんな奴死刑にしろよ!なんで家に帰って来んの!?刑務所で死ねばいいんだあああああ!!」
せっかく元の生活に戻れると思ったのに、兄が帰って来たら台無しになってしまう。
鈴音は奇声を上げ、手当たり次第に近くの物を投げた。
父と母が止めに入ると、「触んな!」と振り払い、寝室の横の部屋に駆けこんだ。
「知ってんねんで!ここにアイツの持ち物があるんやろ!」
そう言って部屋の中を漁り、兄が持っていた図鑑やオモチャ、それに写真を見つけた。
それを床にぶちまけ、「なんで!?」と叫んだ。
「なんであの人のもん置いてんの!アイツ捕まってんで!もう家族ちゃうやろ!」
狂ったように叫び、廊下の戸棚からカナヅチを取り出す。
「壊したる!こんなもん全部壊したる!」
カナヅチを振り上げ、兄の持ち物を叩き潰していく。
ロボットのオモチャを割り、図鑑を引き千切り、写真は破いて投げ捨てた。
「殺したる!アイツが帰って来たら、このカナヅチでバラバラにしたる!」
そのあまりの剣幕に、両親は何も出来ないでいた。
父は息を飲み、母は呆然と立ち尽くしている。
「殺す!あんな奴殺したる!解剖が好きなんやったら、自分がされたらええねん!あたしがお前をバラバラにしたるからな!」
この日、鈴音は前向きな心を手放した。
有希と朋広と共に努力し、元の生活に戻れるかもしれない心を、自分で放棄した。
兄が・・・・勉がこの家に戻ることは許さない・・・・。
それを阻止する為なら、殺人鬼になってもいいと思っていた。
それくらいに、鈴音の心の中では、兄は悪魔と化していた。
鈴音はカナヅチを振り続ける。
とっくにオモチャは粉々になっていて、床に大きなへこみが出来ている。
それでもカナヅチを止めない。
壊れたオモチャに兄を重ね、この手でバラバラにしてやるのだと、食いしばった口元から血を流していた。

霊体解剖 第三話 分解(1)

  • 2015.06.19 Friday
  • 13:16
JUGEMテーマ:自作小説
九月の一日。
それは学生にとって、ある意味最も憂鬱な日であった。
楽しい夏休みは終わり、いよいよ学校が始まる。
長い休みボケを引きずりながら、多くの生徒が重い足取りで学校へ向かう日だ。
原平鈴音は、重い足取りで学校に向かっていた。
しかし彼女の足取りは、他のどの生徒よりも重い。
なぜならその足が重いのは、夏休みが明けてしまったからではなく、もっと別の理由があったからだ。
夏休みに入ってすぐのこと、兄の勉が捕まった。
あの日は友達とプールに行き、その後はカラオケに行き、また明日と楽しく別れた。
今からしばらく、こんな楽しい日が続く。
そう思って家に帰ると、誰もいなかった。
時刻は夕方の五時前。
門限は五時半だから、いつもより早く帰って来たことになる。
鈴音は家の中を歩き、本当に誰もいないのか確認する。
本当なら大声を出して呼べばいいのだが、そうもいかない理由があった。
鈴音は兄の勉のことを嫌っていたからだ。
感情というものがなく、いったい何を考えているのか分からない。
しかも部屋には大量のスクラップと、解剖した虫やトカゲの死骸がある。
だから兄の部屋の前を通るだけでも嫌だった。
この家一番の厄介者であり、あれさえいなければ、家の中で寛ぐことが出来るのに・・・・・。
二人きりで兄と顔を合わすのが嫌なので、大声を出すのは避けた。
もし出て来られたら、それだけで今日一日の楽しい気分が台無しになりそうだったからだ。
鈴音は一階を見て回り、その後に二階に目をやった。
ゆっくりと階段を上がり、兄の部屋を警戒する。
「・・・・・・・・・・・。」
じっと耳を澄ますが、人の気配は感じない。
鈴音は一階に下り、冷蔵庫から飲みかけのコーラを取り出す。
テレビをつけ、今日遊んだ友達にLINEを返した。
しばらくすると、家の電話が鳴った。
面倒くさいから放っておくと、今度はスマホに電話が掛かってきた。
着信は父からで、「何オトン?」と電話に出る。
鈴音は父のことが好きだった。
顔は渋くてカッコよく、スタイルも良い。しかも子供に対してはとても優しく、母が怒った時にはいつも庇ってくれる。
だから友達からの返信も無視して、すぐに電話に出た。
しかし電話に出た事を、すぐに後悔した。
父は今警察にいて、母と兄も警察にいる。
それは兄が捕まったからであり、詳しいことは帰ってから話すと言われた。
それまでは家にいて、誰が来ても入れるなと言われた。
しかし鈴音は聞いていなかった。
目の前が真っ暗になり、ただ父の言葉に相槌を打っていた。
そして夜遅く帰って来た父に、詳しい話を聞かされた。
鈴音は涙ぐみ、肩を震わせて俯いた。
父は背中を撫でながら、「大丈夫、お兄ちゃんは大丈夫や」と励ましてくれた。
しかし鈴音が泣いているのは、兄の為ではなかった。
自分の家族が、犯罪で捕まる。
とにかくその事がショックで、それと同時に我が身も案じていた。
身内が捕まるなんて、もし周りにバレたらどうなるか?
多感な年頃の鈴音にとって、同級生からどう思われるかというのは、とても重要な問題だ。
この日、鈴音は一睡も出来なかった。
そして兄が捕まってから半月後、別の街に引っ越した。
近所からの噂話、週刊誌やテレビ局からの取材。
そのどれもが鈴音の心にストレスを与えた。
しかし一番の問題は学校だ。
もうみんな、この事件のことは知っている。
警察が家を調べ、学校にも事情聴取に来た。
またテレビでは大きく扱われ、新聞にも兄の事件の事が載っていた。
マスコミは近所に聴き回り、この街で自分たちのことを知らない者はいなくなってしまった。
鈴音はそんな状態で学校へ行くたくなかった。
スマホには心配した友達からの連絡が入って来るが、それと同時に見ず知らずの人間からも、メールやLINEが来るようになった。
心配を装って、興味津々に話を聞き出そうとする者、ただ罵る者、嘲笑う者、いつ、どこで撮ったのか知らないが、兄の写真を送りつけてくる者。
鈴音はすぐにスマホを解約し、転校したいと父に頼んだ。
その提案には父も賛成で、元々そのつもりだったと答えた。
このままこの家にいては、鈴音が参ってしまうと心配していたのだ。
だから別の街に引っ越した。
母方の祖父母が「うちに来い」と言ってくれたが、父はそれを断った。
向こうに厄介になれば迷惑がかかってしまうし、どうせ身内の場所はマスコミに抑えられている。
ならば親戚を頼らずに、まったく違う場所へ引っ越すことになった。
夏休みの残り半分、鈴音は全く知らない土地で過ごした。
気晴らしにと外へ出かけたことがあったが、まったく楽しくなかった。
それどころか、カメラを構えた男に尾け回され、怖くなって交番に逃げ込んだ。
こんな場所までマスコミは追いかけて来る・・・・・。
鈴音は怖くなり、ますます家に引きこもった。
しかし夏休みが明ける前、一つ良い出来事があった。
兄が起こした事件以上に、もっと残酷な事件を起こした未成年がいたのだ。
犯人は兄と同じ中学生で、分かっているだけで五人も殺している。
そして死体を自宅の寺の下に埋め、夜な夜な妙な儀式を行っていた。
犯人曰く、幽霊の解剖を試みようとしていたという。
弥勒菩薩の力を借りて、幽霊の身体を解剖し、死者を生き返らせる実験をしていたと。
なぜそのような事をしたかというと、幼い頃に死別した母に会いたかったからだ。
犯人はとにかく母のことが好きで、人を殺してまで死者復活の可能性を探っていた。
この事はテレビでも新聞でも大きく扱われ、兄の起こした事件はあっという間に隅へ追いやられた。
そのおかげでマスコミがうろつくこともなくなり、世間の話題は新たな事件へとシフトしていった。
鈴音は重い足を引きずりながら、兄以上に凄惨な事件を起こしてくれたその犯人に、感謝していた。
学校へ着き、まずは職員室へ向かう。
そして校長室に案内され、教頭と学年主任、それと鈴音の担任となる教師が、後に続いて来た。
部屋に入ると、そこには校長と初老の男、それに両親が座っていた。
父は鈴音に声を掛ける。問題なく学校へ来られたかと。
鈴音は無言で頷く。
本当なら両親と一緒に登校するはずだったが、鈴音は前日になってそれを拒否した。
『回りから変な噂を立てられたくない』
鈴音は自分の兄が起こした事件に敏感になっていた。
登校初日から両親に付き添われたら、回りから変な目を向けられるのではないかと、神経質になっていたのだ。
だから学校で落ち合うことにして、ここまで一人で歩いて来た。
両親と大勢の大人に囲われながら、鈴音は座っていた。
大人たちは色々と難しいことを話し合っているが、鈴音にはどうでもいいことだった。
彼女が心配することはただ一つ。
自分の兄が犯罪者だとバレることである。
もちろん教師たちは知っているし、そうでなければ学校生活をフォローしてもらえない。
それに話の端々から、初老の男が教育委員会のお偉いさんだと分かった。
大人たちが頭を捻らせて、鈴音により良い学校生活を送らせようと話し合っている。
鈴音は神様に祈っていた。
どうかあの事件の妹だとバレませんように・・・。
大人たちが話し合っている間、鈴音は手に爪を食いこませながら祈っていた。


            *


初登校から次の日、鈴音は神を信じないことにした。
昨日あれだけ祈ったのに、次の日には皆が兄の事件のことを知っていたのだ。
鈴音が最も恐れていた事態が、転校二日目にして訪れてしまった。
静かな学園生活を送れたのは、初日だけ。
昨日は誰も、鈴音の兄が犯罪者であると知らなかった。
そして転校生ということもあって、興味津々に接してくれた。
しかし噂とはどこからでも広がるもので、同級生の一人が、鈴音の兄のことを嗅ぎつけたのだ。
野沢というその同級生は、鈴音のいた街に、従姉妹が住んでいる。
その繋がりで、兄の起こした事件の事がバレてしまった。
《神様なんか嘘やん・・・・。あんだけ祈ったのに・・・。》
鈴音は肩身の狭い思いで、席についていた。
今の所、面と向かって話しかけてくる者はいない。
しかしヒソヒソと話す声はよく聴こえて、俯いて目を逸らすしかなかった。
担任の教師は、生徒たちの異変を感じ取っていた。
もうみんなが気づいている。教室に漂う空気が、鈴音に向けられる視線が、そのことを物語っていた。
だからあえて鈴音に話かけることはなかった
他の教師も、鈴音に解答を求めることはなかった。
転校二日目、鈴音は一言も答えることなく、授業を終えた。
ホームルームが終わると、担任から職員室に来るように言われた。
鈴音はすぐに帰り支度に取り掛かり、教室を後にした。
職員室に向かう途中、多くの生徒から視線を向けられた。
ガラの悪そうな生徒から、面と向かって「ねえ、マジであの犯人の妹?」と尋ねられた。
鈴音は泣きそうになるのを堪え、駆け足で職員室まで向かった。
ここへ入れば、とりあえずは生徒の視線から逃れられる。
そう思ってドアに手を掛けた時、中から細身のひょろ長い男子生徒が出て来た。
思わず目が合い、鈴音はすぐに顔を逸らした。
《みんな知っとる。もう嫌や・・・・。》
明日からは、もう学校に来たくない。
何があっても、絶対に登校すものか・・・。
鈴音は職員室の前で引き返し、すぐに下駄箱に向かった。
どうせ担任と話したところで、みんなの記憶から兄の事件を消せるわけじゃない。
こうやって噂が広まってしまった以上、卒業するまでは、針のむしろの中で生きていくことになる。
最悪はイジメを受けて、ヒソヒソ話では済まなくかる可能性だってある。
大嫌いな兄のせいで、どうして自分が惨めな思いをしないといけないのか?
泣きたいような、怒りたいような、激しい感情が心を揺さぶり、下駄箱で靴を履く頃には泣いていた。
そして逃げ出すように学校を出た。
家までは距離があるが、途中で休むことなく駆け抜けた。
家に着くと、ベッドに潜りこんで泣いた。
もう学校へ行けない・・・・外にも出たくない・・・。
誰もかれもが、自分のことを人殺しの妹だと噂する。
鈴音は、一生部屋に籠っていようと決めた。
その翌日、家のチャイムが鳴らされた。
鈴音は身体を震わせ、頭まで布団を被る。
昨日の事があったので、母はパートを休んで家にいる。
学校から電話があったのも知っているし、父が部屋に来ても入れなかった。
誰にも会いたくないし、話したくもない。
鈴音は布団に包まったまま、やたらと尖っていく神経に、うんざりしていた。
パタパタと足音が聞こえ、ドアをノックする。
それが母だと分かっているが、恐怖を感じて耳を塞いだ。
ドアが開き、足音が中に入って来る。
本当なら鍵をかけて閉じこもりたかったが、生憎新しい部屋には、鍵は付いていない。
兄があんな事をしでかしたから、子供部屋の鍵は禁止になったのだ。
母が布団を揺さぶる。何かを話しかけているが、耳を塞いで遮った。
少しすると、母は部屋を出て行った。
そしてすぐに戻って来たのだが、なぜか足音が増えていた。
二人・・・・いや、三人。
母を含めて三人の人間が、部屋に入ろうとしている。
《誰・・・・誰が来たん・・・?》
教師か?それとも仕事を早退した父か?
誰が来るにせよ、鈴音は顔を出すつもりはなかった。
部屋に三つの足音が入って来て、何かを話している。
耳は塞いでいるものの、隙間から声が漏れてくる。
・・・・子供だった。
母と一緒に入って来たのは、自分と同じ歳くらいの子供の声だった。
それも二つ。
一つは男、もう一つは女。
鈴音は不思議に思い、耳から手を離した。
じっと耳を立てると、どうやら同級生がプリントを持って来たらしい。
それならば部屋に上げずに、玄関で受け取ればいいではないかと、母を恨んだ。
鈴音が一番会いたくないのは、同級生である。
もっというなら、自分と同じ年頃の子供だ。
思春期の鈴音にとって、同年代からの冷めた視線というのが、一番怖かった。
きっと・・・・先生に言われて嫌々家に来たに違いない・・・・。
ならばプリントを渡せばすぐに帰るだろうと思い、早く受け取ってくれと母に願った。
やがて足音の一つが、部屋から出て行く。
出て行ったのは母の足音で、なぜか同級生が残っている。
《なんでよ・・・・早よ帰りいな!》
苛立ちながら、そして焦りながら、目を閉じて布団を掴む。
やがて母が戻って来て、すぐに部屋を出て行った。
男の子の方が、「ありがとうございます」と挨拶を返す。
お茶かお菓子でも置いていったらしく、なぜこの二人を追い返さないのかと、また母を恨んだ。
「・・・・・・・・・。」
鈴音は貝になることを決めた。
顔も出さないし、話しかけてきても返さない。
友達でも何でもないのだから、会う必要もない。
身内にさえ顔を会わせたくないのだから、昨日今日知り合った同級生など、絶対に会ってやるものかと決め込んだ。
鈴音は頑固で、こうと決めたら動かない。
だからこの二人が帰るまで布団から出ないと決めたのだが、そうもいかなくなった。
朝から布団に籠りっぱなしの為、トイレに行きたくて仕方なかったのだ。
二人が帰るのが先か?トイレを堪え切れなくなるのが先か?
それは時間との勝負だったが、鈴音は負けた。
勢いよく布団をはぎ取り、俯いたまま部屋を駆け出す。
階段を下り、トイレに入り、沈んだ顔をして出て来た。
「負けた・・・・。」
鈴音は落ち込む。
こうして部屋を出て来てしまった以上、もう戻ることは出来ない。
絶対に顔を合わせないと決めたのだから、一階の部屋に籠ろうと決めた。
鈴音はしょんぼりと歩き、居間を通って寝室に向かおうとした。
しかしそこで、「ちょっと」と声を掛けられた。
肩を竦ませ、その場に固まる。
声の主は足音を鳴らしながら近づいて来て、「あの・・・、」と呟いた。
少年の声だ・・・・同級生に違いない・・・。
逃げたい・・・と思うが、固まって動けない。
振り返るのは嫌だけど、ここから逃げ出すのも嫌だった。
ここは自分の家なのに、どうしてビクビク逃げ回らないといけないのか?
トイレだってあんなに我慢したし、部屋にも戻れなくなった。
その上、家の中まで尾け回そうというのか?
鈴音の心の中に、小さな怒りの炎が灯る。
警察、マスコミ、近所の噂。それらが嫌で、逃げるようにあの街を出た。
新しい事件が起きてくれたおかげで、どうにかマスコミは厄介払い出来たのに、今度は同級生に追い回されるのか?
しかも家の中まで・・・・。
心に灯った小さな怒りは、一瞬で大きな炎に変わる。
鈴音は奇声を上げながら、「帰れえええええ!」と殴りかかった。
両手を振り上げ、カナヅチを振るように叩きつける。
そして散々叩きつけたあと、思い切り突き飛ばした。
「来るなよおおおおお!追いかけてくんな!ふざけんなお前らあああああ!!」
警察、マスコミ、噂話をしていた近所の人間、その全ての怒りをぶちまけ、耳をつんざく大声で喚いた。
同級生は床に転がっている。
驚いた目を向けながら、手を振って「待て!」と叫ぶ。
紺色のブレザーに、グレーのスラックス。シャツは白で、薄い黄色のネクタイを巻いている。
それは間違いなく鈴音の学校の制服で、男子生徒のものだ。
鈴音はもう、誰にも追い回されたくなかったし、誰からも冷めた視線を向けられたくなかった。
近くにあった花瓶を手に取り、それを投げつける。
花瓶は男子生徒の腕に当たり、床に落ちて割れる。
破片が散らばり、活けてあった花が乱れる。
水が床を濡らし、男子生徒のスラックスにも染みが出来た。
「もう来んなよおおおおお!ふざけんなあああ!」
今度は壁に掛っていた時計を外し、それを持って殴りかかる。
しかしそこで誰かが割って入り、鈴音の腕を掴んだ。
「ごめん!ごめんなさい!」
女の声だった。
それはもう一人の同級生で、必死に鈴音を止めようとした。
「ごめん!ほんとにごめん!」
「何がごめんや!帰れ!帰れや!早よ帰れよおおおおお!」
鈴音は散々暴れ回ったが、意外に女の力は強い。
仕方なく暴れるのをやめ、その場に膝をついた。
「お母さん!お母さああああん!」
母の名前を叫び、居間を振り返る。
すると「お母さんは買い物だよ」と、女が言った。
鈴音は泣きながら振り返る。
そこには紺のブレザーと、白のブラウス、それにグレーのスカートを穿いた女子生徒が立っていた。
彼女は膝をつき、「ごめん」と鈴音の手に触れる。
その手を振り払おうと思ったが、散々暴れた後なので、思うように力が入らなかった。
「ごめんね、驚かせて。」
女子生徒はそう言って、倒れた男子生徒を振り返る。
「朋広。大丈夫?」
「うん、びっくりしたけど・・・・、」
「いきなり声を掛けるからよ。鈴音ちゃん怖がって当たり前じゃない。」
「うん、ごめん・・・。」
男子生徒は立ち上がり、濡れたスラックスを撫でた。
鈴音はじっと男子生徒を見上げる。
溜まった涙で視界がぼやけるが、その顔には見覚えがあった。
それは昨日職員室で出くわした、細身のひょろ長い生徒だった。


 

霊体解剖 第二話 採集(2)

  • 2015.06.18 Thursday
  • 13:07
JUGEMテーマ:自作小説
動物園へ行った翌日、勉は初めて酒を飲んだ。
度数の高いウィスキーで、ワイルドターキーという酒だった。
この酒はずっと昔から家にあって、亡くなった祖父が愛飲していたものだった。
他の家族は誰も飲まないので、今でも台所の引き出しに眠っている。
それを部屋に持って行き、牛乳の空き瓶に注いだ。
瓶の中が琥珀色の酒で満たされ、ラップを巻いて封をする。
「空気が入ったらあかんからな。」
そう言って慎重にラップを巻き、輪ゴムで補強した。
勉は一仕事終えたとばかりに、強い酒で喉を焼く。
吐きそうなほどキツイ酒だが、それでも我慢して飲んだ。
ウィスキーで満たした瓶を持ち、うっとりと見つめる。
「ええな、こうやって見るのも。」
勉は瓶の中に浮かぶ物体を、恍惚と見つめる。
人間の眼球。
ウィスキーで満たされた瓶の中には、昨日奪い取った飼育員の目玉が入っていた。
家に帰ってから、勉はすぐにパソコンを開いた。
『人体』『腐らない』『方法』
この三つのワードで検索すると、ホルマリンという薬を使うことを知った。
名前くらいは聞いたことがあるが、生憎そんな薬品は家にはなかった。
だからとりあえずの処置として、ウィスキーで眼球を保存することにしたのだ。
アルコールが強いなら、腐るのを防いでくれるだろうと。
勉は眼球の入った瓶を見つめながら、これはこれで悪くないと思い始める。
琥珀色の液体の中に浮かぶ、人体のパーツ。
それはとても美しく、妖しく、勉の心を感動に導いた。
「もうええか、ホルマリン。ウィスキーで入れとこ。」
満足いくまで眺めたあと、机の下の引き出しに仕舞う。
グラスに残った酒を飲み、えづきながら目を閉じた。
ゆっくりと目を開け、机の端に目をやる。
こちらにもウィスキーに浸された眼球が置かれていた。
ただし牛乳瓶ではなく、ペットフードの空き缶だった。
こちらには、解剖用の眼球が入っている。
勉は酒を置き、部屋に鍵を掛ける。
ウェットティッシュで手を清め、引き出しからハサミとペンチ、それに小さなペンナイフを取り出した。
それを丁寧に机の上に並べ、手術に臨む医師のように、気持ちを集中させた。
「楽しみや。」
ぽろりと言葉が漏れる。とても素直で、少年らしい弾んだ声だった。
この眼球の中には、たくさんの夢が詰まっている。
分解すればするほど、たくさんの感動に導いてくれる。
勉は思い出していた。
幼い頃、家族で遊園地に行ったことを。
あの時、妹は初めての遊園地に喜んでいた。
目を輝かせ、気が狂ったかと思うほど奇声を上げ、一日中笑顔のままだった。
それは勉にとっても初めての遊園地だったが、妹のようにはしゃがなかった。
ジェットコースターも観覧車も、それに可愛いマスコットの行進も、ちっとも楽しいとは思わなかった。
だから妹がはしゃぐ意味が理解出来なかった。
しかし今なら分かる。
楽しい・・・・面白い・・・・そういうものが、目の前に待っている。
そんな時、人はあんな風に喜ぶんだと。
妹にとっての、初めての遊園地。
それは勉にとっての、初めての人体解剖。
ゆっくりとハサミを持ち、眼球を突いてみる。
ウィスキーの中でゆらりと動き、瞳がこちらを向いた。
「ちゃんと調べたるからな。」
この眼球が、とても愛しいもののように思えてきて、ふと優しい口調になる。
いざ、解剖を・・・・・・。
しかしハサミで眼球を挟んだ時、ドアがノックされた。
続いてガチャガチャとノブが回され、「勉」と母に呼ばれた。
「鍵外して。ちょっと出て来て。」
その瞬間、勉は嫌な予感がした。
それは虫の知らせや、第六感というオカルト的なものではなく、母の声の異変に気付いたからだ。
努めて平静な口調を保っているが、いつもより声が沈んでいる。
こういう時、人は大きな不安を隠している。
そのことを知っている勉は「何なん?」と聞き返した。
「ええから開けて。」
少し声が苛立っている。
勉はすぐに眼球と解剖道具をしまい、「ん?」とドアを開けた。
「何?」
「ちょっと下まで来て。」
母の顔が強張っている。いや、引きつっていると言った方が正しい。
心の不安を隠すように、顔の筋肉を強引に締め上げているような、とても不自然な表情だった。
この時点で、勉は良くない事が起きていると確信した。
「ちょっと待って。」
そう言って部屋に戻り、ウィスキーで満たした牛乳瓶を取り出す。
《これ、取り上げられるんやろな・・・・。》
勉は分かっていた。
なぜ母が不安になっているのか?なぜ自分を呼びに来たのか?
それは警察が来ているから。
ほぼ間違いなく、自分の家に警察が来ている。
昨日、家に帰って来てから、勉は冷静に考えた。
飼育員の眼球を手に入れた時、その興奮のあまり、事後のことは考えていなかった。
しかし冷静さを取り戻すと、大きなミスを犯していることに気づいた。
《あの動物園、防犯カメラが・・・・・・。》
何年か前、動物の檻に爆竹が投げ入れられる事件があった。
酔った学生たちが面白半分にやったものだが、その事件はテレビでも報じられた。
田舎の小さな動物園には、動物を心配するたくさんの声が届いた。
それと同時に、管理がずさんであると叩かれた。
動物小屋のような動物園に、管理もクソもあるのかと思う勉だったが、問題はそんなことではない。
この動物園は市が経営しており、こんな事件が起きたとあっては、体裁上何もせずに放置しておくことは出来なかった。
だからとりあえずの対策として、園内に二か所だけ防犯カメラを付けたのだ。
そのうちの一台は、誰がどう見てもギミック。脅しをかける為の、単なる飾りである。
しかしもう一台はそうではない。
動物園の入り口に設置してあって、出入りする者を監視しているのだ。
このカメラのおかげで、飼育員に唾を吐きかけた男が捕まったことがある。
冷静さを取り戻した勉は、そのことを心配していた。
昨日の夜、自分は門を通って中に入った。
しかし動物園の開園時間は終わっていて、それなら防犯カメラが作動している可能性は無いかもしれないと考えた。
あんな田舎のボロイ動物園である。
一日中カメラを回す為に、金を使うものだろうか?
自分はカメラに写っているのか否か?
どちらとも判断がつかなかったが、門から入ったのは失敗であると思っていた。
そして今日、いざ解剖をしようとすると、母が不安そうに呼びに来た。
勉は思った。結果は黒であると・・・。
手にした牛乳瓶を見つめながら、それを持って部屋を出る。
母は短く悲鳴を上げ、その場に固まる。
勉はゆっくりと階段を下り、玄関の前に立った。
「・・・・・・・・・・。」
勉の予想通り、玄関には警察が来ていた。
スーツの男が一人、制服の警官が二人。
そして勉の抱えた瓶に目をつけ、何も言わずに睨んだ。
「あのな、もう分かってると思うけど・・・・。」
スーツを着た白髪の男が、抑揚のない声で切り出す。
勉は「はい」と答え、手にした瓶を差し出した。
白髪の男はそれを受け取り、鋭い目で睨み付ける。
そして勉に視線を写し、鋭い眼光を保ったまま言った。
「もうお母さんには話してあるから。これから一緒に警察まで来てもらうんやけど、まだ部屋に隠してるもんとかあるか?」
「はい。」
「やろな。ほなちょっと部屋見せてもらうで。」
白髪の男は家に上がり、二人の警官もついて来る。
勉は部屋に案内し、もう一つの眼球を取り出した。
白髪の男は無言でそれを見つめ、「他には?」と尋ねる。
「これだけです。」
「ほんまか?嘘ついてもすぐ分かるで?」
「これだけです。」
勉は軽い用事でも済ませるように答える。
白髪の男は警官と話し合い、その後は母に話しかけた。
部屋の中には幾つも段ボールが積みあがっており、男はそれを指さして母に話しかけている。
母は口元に手を当てながら、ただ「すみません・・・」と連呼していた。
勉にとって、今年は楽しい夏休みになるはずだった。
胸が弾むような、生まれて初めての、楽しい夏休みに。
しかし二日目にして、それは幕を閉じた。
ジェットコースターにも観覧車にも乗ることはなく、いったいどれに乗ろうかと目を輝かせているところで、遊園地から追い出されてしまった。
・・・・・悔しい。
せっかく楽しい夏になるはずだったのに、こんなに簡単に終わってしまうなんて・・・。
悪いのは誰か?
動物園の防犯カメラか?捕まえに来た警察か?
色々と考えを巡らせるが、答えは一つしかなかった。
それはミスを犯した自分だ。
生き物を殺して、解剖の素材を得る。
そんな素晴らしい考えに気づいて、あまりに浮かれ過ぎていた。
防犯カメラがあるなんて知っていたのに、どうして正面から入ってしまったのか?
もっとよく考えて行動すれば、楽しい夏休みは続くはずだったのに・・・。
勉は誓う。次はミスを犯さないと。
唯一の救いは、自分が死刑にならないということ。
あの晩、勉は誰も殺していない。
誰も殺していないなら、死刑になることはあり得ない。
だから次なるチャンスを待って、ミスの無い行動を心掛けようと誓った。
そう強い決意を宿した時、白髪の男がすぐ近くに寄って来た。
そして短く、強くこう呟いた。
「君が酷いことした飼育員さんやけど、今朝亡くなりはった。」
「・・・・・・・・・。」
勉は固まる。予想もしていないことを聞かされ、「なんで・・・」と漏れる。
しかし白髪の男は答えない。これから警察に行って説明するからと、怒りとも悲しみともつかない視線で、勉を射抜いていた。

霊体解剖 第一話 採集(1)

  • 2015.06.17 Wednesday
  • 12:24
JUGEMテーマ:自作小説
日射しが強い夏のことだった。
一学期の終業式を終えた原平勉は、重いバッグを担ぎながら家路についていた。
踏切で足を止め、赤いランプが点滅するのを眺める。
周りには同じ制服を着た学生が、勉と同じように踏切の前に並んでいる。
誰もが明るく、そして両手では抱えきれないほどの希望を感じさせる笑顔で、楽しそうに喋っている。
明日から夏休み。
九月に入るまで、学校に来る必要はない。
毎日が自由に過ごせるということは、中学生にとっては最高の喜びであり、最高の幸せである。
バーベキュー、プール、海、山や川、それに大人には内緒で酒を楽しむ者もいる。
勉は周りの生徒のお喋りを聞きながら、自分とは縁のない、楽しい夏休みの妄想を膨らませていた。
やがて電車が通り過ぎ、周りの生徒たちは踏切を越えていく。
明日から楽しい夏休みが始まる。いや、もうすでに始まっているのだ。
踏切を越えていく生徒たちの背中には、翼が生えているように見える。
原平勉には、その翼がはっきりと見えていた。
自分には無いもの。
・・・・友人、夢、夏休みを楽しむ翼・・・・・。
勉は前を行く生徒を見つめながら、ゆっくりと足を進めた。
自分には、同年代の子供たちが持つ、多くのものが無い。
夏休みを嬉しいと思う心、苛められても痛いと思う感情、誰かを好きになる愛情。
それゆえに、友人も好きな異性もおらず、学校でイジメに遭っても、平気な顔をしていられた。
そしてそれらの事を、不幸だと思ったことは一度もない。
そもそもが、この世にある全てのものを、どうでもいいと思っていた。
学校だけではない。
親も、妹も、庭先に繋がれている犬も、何の感情も湧かない代物だった。
もし明日、家族や飼い犬がミンチにされ、それをハンバーグとして食卓に出されても、平然と食べられる自信があった。
それくらいに、他人に対して無関心、あらゆる出来事に対して無感動だった。
だがしかし、そんな勉にとって、唯一関心のあるモノがあった。
それは『解剖』だった。
生物、無生物問わず、勉は物をバラすのが好きだった。
どうしてそんな事に興味があるのか、自分でもハッキリとは分からない。
しかし少なくとも、『解剖』をしている時だけが、自分が生きていると実感出来た。
ゆえに勉の部屋には、多くのスクラップが積み上がっている。
誰も使わなくなったビデオデッキ、妹が解約したケータイ、幼い頃に買ってもらった戦隊モノの人形。
どれもがバラバラに分解され、切り刻まれ、それらを段ボールに分けて、きっちりと保管している。
それだけではない。
近所で捕まえた虫やトカゲ、川原で拾った何かの骨、自分の乳歯。
そういう物を心ゆくまで分解し、壊し、いったいどういう構造になっているのだろうかと、詳しく調べた。
しかし生き物や、生き物だった物を『解剖』した場合、それらを保管するのには苦労した。
生物は無機物と違って、時間と共に腐るからだ。
一番困ったのは、先代の犬を解剖した時だった。
年老いたポメラニアンは、脳に水ぶくれが出来て死んでしまった。小型犬ということもあって、焼き場には持って行かず、庭に埋めた。
母と妹はひどく悲しんだが、勉は喜んでいた。
なぜならこの死体を使えば、心ゆくまで解剖を楽しめるからだ。
家族が寝静まった夜、勉は年老いたポメラニアンを掘り出した。
それを部屋に運び、カッターとハサミでもって、丁寧に解剖していった。
勉にとっては、初めての本格的な解剖だった。
ミミズやトカゲとはわけが違う。
犬の体はとても複雑に出来ており、解剖に没頭するあまり、気が付けば夜が明けていた。
そのせいで、起こしにやって来た母に見つかり、その日はちょっとした騒ぎになってしまった。
あれ以来、勉は本格的な解剖をしたことがない。
無用になった機械をバラす、捕まえてきた小動物をバラす。
それはそれで楽しいのだが、やはり・・・・もっと本格的な解剖がしたかった。
勉は夏休みには興味がない。嬉しいとも、楽しいとも思わない。
しかし自由な時間が出来るというのはありがたかった。
勉は決めていた。
今年こそは、大きな生き物を解剖しようと。
犬か?猫か?それとも山へ行って、鹿か猪の死体でも見つけて来るか?
・・・・いや、いっそのこと、野垂れ死んだホームレスでも見つけて、人間に手を出してみるか?
勉は思いを巡らせ、いったい何を解剖してやろうかと妄想を膨らませる。
・・・・幸いなことに、勉はこの時点ではまだ、『生き物を殺して解剖の素材を得る』という考えには至っていなかった。
虫や爬虫類などの小動物は、殺してでも解剖の対象にすることがある。
しかし大型の生き物を殺すという発想は、まだ持ち合わせていない。
それは罪悪感から来る、人間的な理性のせいではない。
無感動、無関心の勉は、疑問を持たずに社会の常識を受け入れるクセがある。
だから一般的な社会の通念として、犬や猫、それに人間を殺してはいけないと、心のどこかで歯止めが掛っていた。
しかしその歯止めは非常に脆く、社会の常識に対して疑いを持った時、簡単に外れてしまう危険があった。
勉は家に帰り、夏休みの計画を立てた。
出来れば大きな生き物を解剖したい。
しかし最初から大きな目標を立てるとつまづきそうなので、とりあえずは実現可能な事から始めることにした。
夕食と風呂を済ませ、電気を消して布団に入る時、勉は明日の予定を決めていた。
明日はバスに乗り、近くの海まで行ってみよう。
なぜならあの海辺にはたくさんの野良猫がいて、探せば一匹くらい死体が見つかるかもしれない。
予定が決まった勉は、とてもスッキリした心地で眠りについた。


            *


翌日の昼、勉は海へ来ていた。
ここは干潟が美しく、潮が引けば遠浅の海になる。
海そのものは綺麗とは言い難いが、浜遊びをするには最適な場所なので、小さな子供を連れた家族が、たくさん訪れていた。
勉はそんな家族連れから、少し離れた場所にいた。
浜の奥にはコンクリートで舗装された道があり、喫茶店や海の家が並んでいる。
この通りには空き家が幾つも並んでいて、壊れた重機が放り出された茂みがある。
野良猫は空き家で子猫を産み、大きくなると隣の茂みでうろついている。
勉は短パンにランニングシャツという、昆虫採集でもするような格好で、猫の死骸を探していた。
ここへ来てから、すでに一時間半。
夏の日射しは強く、帽子を被って来ればよかったと後悔した。
茂みの中に隠したペットボトルを呷り、喉の渇きを潤す。
温いお茶は気持ち悪いが、それでも飲まずにはいられなかった。
きっと・・・・きっとどこかにあるはずだ・・・・。
よく探せば、猫の死体一つくらい、必ず見つかる・・・・。
そう信じて、茂みの中、空き家の中を探していく。
しかし一向に見つけられない。
生きた猫はたくさんいるが、死骸は一つも見当たらない。
猫は誰にも見つからない場所で死ぬというが、それは本当のことなんだなと、勉はがっかりした。
いい加減探すのにも飽きてきて、道路の縁に座って海を眺める。
その時、勉はピンと閃いた。
ここは海なのだから、何も猫じゃなくても死骸は見つかるはずだ。
浜に打ち上げられた海藻の中を探せば、それなりに大きな魚の死骸があるかもしれない。
そう思って嬉しくなるが、それなら最初からスーパーで魚を買えばよかったと、すぐに落胆した。
しばらく海を眺めた後、猫のいる空き家を振り返った。
これ以上探した所で、猫の死骸は見つからないだろう。
そう思って、欠伸をしながら目をこすった。
ゆっくりと立ち上がり、尻についた砂を払う。そしてバス停まで戻ろうとした時、一匹の猫が目の前を駆けていった。
「・・・・・・・・・・・。」
勉は無言でそれを見つめる。なぜなら猫の口には、小さなネズミが咥えられていたからだ。
「ああ、そっか・・・・・。」
ここへ来て、勉は初めて思い当たった。
解剖の素材が無いのであれば、自分で作ればいいのだ。
猫を解剖したいなら、わざわざ死骸を探す必要などない。
生きている猫を捕まえて、そいつを解剖すればいいのだと。
どうしてこんな簡単な事に気づかなかったのかと、目の前の霧が晴れた気分になる。
猫のいる空き家に目を向け、ゆっくりと足を近づける。
しかしふと立ち止まって、唇をすぼめながら考え込んだ。
・・・解剖の素材が無いのなら、生き物を捕まえて殺せばいい・・・・。
それなら、わざわざ猫でなくてもいいんじゃないか?
もっと・・・・もっと大きな生き物を、解剖の素材として手に入れる事も出来るはずだ・・・。
勉は踵を返し、足早にバス停に向かう。
海の家でジュースを買い、それを飲みながら、干潟の広がる海を後にした。
家に帰ると、さっそく動物図鑑を開いた。
幼い頃に買ってもらった物なので、ページの中ほどが背表紙から外れている。
それを真剣な目で睨みながら、これだと思う生き物に目を付けた。
それは猿だった。
木の枝に座り、柿を貪る猿の写真に釘づけになっていた。
「ええやん。コイツでいこう。」
分厚い図鑑を閉じ、丁寧に本棚に戻す。
机に駆け寄り、二段目の引き出しから、今までに溜めた小遣いを取り出した。
「・・・・一万二千か。けっこう残ってるな。」
解剖以外のことに興味のない勉は、お金にも興味がない。
もらった小遣いはほとんど使わず、机にしまっていた。
本来ならば、この机には十万以上の貯金があるはずだった。
しかし自分を苛めている生徒たちから、何度か金を要求された為に、貯金を切り崩す羽目になってしまった。
せっかく溜めたお金が減っていくこと、苛めで恐喝に遭うこと。
どちらも普通の子供なら、酷く傷つくことである。
しかし勉はまったく気にしていなかった。
お金も苛めも、勉にとっては便所に捨てたチリ紙に等しい存在だからだ。
もちろん、自分を苛めている生徒たちも・・・・・。
勉は財布の中に小遣いを押し込み、また家を出た。
向かうは近所の動物園。
いや動物園と呼ぶのは忍びないほどの、小さな動物小屋。
そこに行けば、何匹かの猿がいる。
狭い檻に閉じ込められ、いつだって糞の臭いが充満していた。
そんな劣悪な環境だからこそ、勉は喜んだ。
なぜなら猿の入っている檻は、茶色く錆びて脆くなっているからだ。
いつ壊れてもおかしくないような檻で、あれならペンチで壊せると考えたのだ。
そして猿を奪い取り、そいつを解剖してやればいい。
勉はウキウキしながら動物園へ向かう。
しかしペンチを忘れていることに気づき、また家に引き返した。
改めて猿の檻に向かうと、なぜか今日に限って人が多かった。
「ああ、今日から夏休みか・・・・・。」
すぐに思い当たり、勉は猿を奪い取ることを諦める。
そして動物園の入り口横にある事務所に向かい、コンコンとノックをした。
しばらくしてから、陽に焼けた細身の男が出て来る。
汚れた青い作業服に、ヤニ臭い息。それに黄ばんだ歯が、これでもかと唇からはみ出ていた。
《出っ歯や。》
勉は笑いそうになるのを堪え、手短に用件を伝えた。
『解剖をするので、猿を売ってほしい』
そう伝えると、飼育員の男は怪訝な顔をした。
それと同時に事務所の奥を振り返り、誰かを呼んだ。
ゴトリと椅子が動く音がして、恰幅のいい若い男が現れる。
ヤニ臭い飼育員が、その男に勉の要件を伝えた。
すると若い男は勉を睨み、膝に手をついて顔を近づけた。
本当に物が見えているのかと思うくらい細い目が、勉のことを観察する。
頭のてっぺんからつま先まで、舐め回すような視線だった。
若い男は口を開き、勉の名前を尋ねた。
そしてどこから来たのか?どこの学校の生徒なのか?
親は一緒に来ているのかなどなど・・・。
勉は素直に質問に答えた。そしてもう一度、猿を売ってほしいと頼んだ。
ポケットから財布を取り出し、中に詰め込んだ小遣いを見せる。
猿がいくらするのか、勉は知らない。
しかしこれでも足りないというのなら、ローンを組んでほしいと伝えた。
小遣いを溜めてきちんと返すので、信用してほしいと。
二人の男は苦笑いし、どうしたものかと困った。
勉は再度頼みこみ、小遣いの全てを差し出した。
若い男は苦笑いを見せたまま、それは無理だと説明する。
そしてどうして猿を解剖したいのかと尋ねてきた。
勉は解剖したいから、解剖したいのだと素直に答える。
それならば、将来は解剖学者にでもなって、思う存分解剖すればいいと返された。
動物園の動物は、解剖する為にいるのではないし、売ることも出来ない。
だからいくら頼まれようとも、猿は売れないと言った。
その答えを聞いて勉は落胆したが、すぐに気を取り直した。
頭を下げ、動物園を後にして、大人しく家路についた。
そして夜になるのを待ち、皆が寝静まる頃合を見計らって、再び動物園を訪れた。
手にはペンチ、そして犬を病院へ連れて行く時の、大きなゲージを抱えている。
勉は猿の檻に近づき、錆びた鉄にペンチを食い込ませた。
指が震えるほど力を込めると、どうにか檻の一本を切断出来た。
手は痺れるが、切るのは無理じゃない。
そう思って、必死に檻を切断していった。
絶対に猿を解剖したい・・・・・。
その思いだけに駆られて、ひたすら檻を切っていく。
やがて檻の中の猿が、異変を感じて騒ぎ始めた。
勉は痺れる手に鞭を打ち、ひたすら檻を切っていく。
そしてもうすぐ人が通れるスペースを切り取れそうだと思った時、ふと背後に気配を感じた。
思わず振り向くと、そこにはあの若い飼育員が立っていた。
目が合うといきなり殴られ、そして事務所まで連れて行かれた。
・・・・見つかった・・・・。
勉はひどく怒られることを覚悟した。
しかし、別段怖いとは感じない。
罵られることも、殴られることも、学校で日常的に経験している。
だから怒られることは怖くなかった。それよりも、猿を奪い取れなかった事の方が悔しかった。
事務所に連れ込まれた勉は、そのまま床に蹴り倒された。
中には誰もおらず、飼育員が食べていたであろうカップ麺が、机の上で湯気を立てていた。
それをじっと見つめていると、背中に重みを感じた。
それと同時に首筋がこそばゆくなり、股間をギュッと握りしめられた。
飼育員はそのまま勉を組み敷き、親や警察に言われたくなければ、大人しくしていろと脅した。
この時点で、勉は自分が何をされるのかを理解した。
昼間、この飼育員は、舐めま回すような目で自分のことを見ていた。
あれはきっと、自分にイヤらしいことをする為に、妄想を抱いていたのだ。
世の中には子供の男に変な気を起こす奴もいると聞くから、自分がその対象になってしまったのだと理解した。
そしてその推察通り、飼育員は勉を犯そうとした。
ズボンを下ろし、股間を勉の手で握らせる。
ゆっくり手を動かすように言われ、自分も腰を振り始めた。
飼育員の息使いが荒くなり、唇を重ねられる。
舌を押し込まれ、勉のズボンに手をかける。
「・・・・・・・・・・・・。」
勉は冷めた目で飼育員を見ていた。
こんな事をして、いったい何が楽しいのだろうと。
少年にチンポを握らせ、キスをして、いったいどこが楽しいのか?
そういうのは、普通は女に対してするものじゃないのか?
勉は不思議に思い、ただただ冷めた目で飼育員を見ていた。
飼育員の行為はエスカレートしていく。
そしてエスカレートしていく行為を受けながら、勉は考えた。
今、自分の手にはペンチがある。
こいつでこの男を解剖したら、いったいどうなるのだろう?
猿なんかじゃなくて、人間を解剖したら・・・・・。
勉はすぐに行動に出た。
手にしたペンチで、飼育員のペニスを挟んだのだ。
そして何の迷いもなく、そのまま切り付けた。
次の瞬間、飼育員の悲鳴がこだまする。
鼓膜が破れるかと思うほどの、痛ましく、鋭く、大きな叫びだった。
ぬるりと赤い血が流れ、勉の手が汚れる。
飼育員は股間を押さえて、床をのたうち回った。
勉はカチカチとペンチを鳴らしながら、飼育員の股間を見つめた。
赤い血が流れ、股間を押さえる手が濡れている。
ここからではよく見えないので、少し近づいてみることにした。
「・・・・・・・・・。」
・・・少し、ほんの少しだけ、飼育員のペニスが見える。
先端が妙な形に曲がり、そこから血が溢れている。
勉は興味を引かれ、しばらく見つめていた。
胸の中に言いようの無い興奮が湧きあがり、別の場所を切ったらどうなるのだろうと、興味を抑えられなくなった。
だから飼育員の耳を切り付けた。また悲鳴が響き、耳たぶがぶらりと垂れる。
次は頭、次は足の指、その次は鼻を切り付け、注意深く傷口を観察した。
しかし溢れてくる血のせいで、傷口がどうなっているのか、よく分からない。
「動くから・・・・。」
大人しくしてくれれば、もっとよく観察出来るはずだ。
しかし勉の力では、飼育員を押さえ込むことは出来ない。
周りを見渡しても、縛るような紐やロープも見当たらない。
「こんなんやったら、紐かなんか持って来とったらよかったな。」
そう呟いてから、ふと思い出した。
そもそもここへ来たのは、猿を奪う為であり、それを殺して解剖するつもりだった。
「・・・・・・ああ、そうか。こいつも殺せばええんや。」
痛みに苦しむ飼育員を見つめ、どうしてこんな簡単なことを忘れていたのだろうかと、笑顔になった。
人を殺す。命あるものを殺す。
そうすることで、簡単に解剖の素材が得られる。
勉は自分に問うた。
どうして今まで、そういう考えに至らなかったのか?
わざわざ猿を盗まなくても、もっと良い素材が身近にいるじゃないか。
・・・・・人間。
呆れるほどウジャウジャといるこの生き物を殺せば、嫌だというくらいに解剖が出来る。
しかし勉は考える。
解剖の素材が手に入るのはいいが、問題はその後だ。
人を殺すのは重罪で、何人も殺せば死刑もあり得る。
自分は未成年だからと、楽観的ではいられない。
少年の犯罪に対して、今の世間は厳しくなっている。
そのことはニュースやネットなどで知っていて、少しばかり躊躇いを覚えた。
別に死刑は怖くない。しかし死んでしまえば、解剖は出来なくなる。
死後の世界があるのかどうかは知らないが、少なくとも生きてさえいれば、死ぬまでは解剖が出来るはずだ。
そう考えると、解剖がしたいからと言って、安易に人を殺せるものではない。
・・・・刑法・・・・なんと邪魔なものか・・・・。
普段は感情を動かさない勉が、珍しく苛立った。
今、目の前には最高の素材がある。
しかしこいつを殺してしまえば、後々厄介なことになると考えた。
だから散々悩んだ。そして悩んだ挙句、いいことを思いついた。
何も殺す必要はない。
身体の一部を切り取って、それを持ち帰ればいいのだ。
悩みの晴れた勉は、早速実行に移した。
近くにあった椅子を持ち上げ、何度も飼育員を叩きつける。
しかし軽いパイプ椅子では、あまり弱ってくれない。
それならばと、助走を付けて蹴り飛ばした。
靴の先が脇腹にめり込み、飼育員は短くえづく。
それを何度か繰り返すと、ヨダレを垂らして動かなくなった。
「・・・・・・・・・・。」
顔を近づけてみると、息はしているようだった。
これ以上の攻撃は死んでしまうと思い、飼育員が充分に弱っていることを確認してから、カチカチとペンチを鳴らした。
・・・いったいどの部分を持ち帰ろうか・・・・。
最初に切り付けたペニスか?それとも耳か?いや、鼻か?
じっくりと考えたが、どれもしっくり来なかった。
どうせ持ち帰るなら、もっと特別な物がいい。
致命傷にならず、なおかつ解剖のしがいがある人体のパーツ。
それはどこか?
勉は考えを巡らせる。そしてゆっくりと飼育員に近づき、ある部分にペンチを当てた。
それは眼球だった。
人間の眼は、いったいどうなっているのだろう?
自分の手でバラして、直接確かめたかったのだ。
勉は何の迷いも無く、眼底にペンチを刺し込む。
飼育員は大きく叫んだが、抵抗するだけの力は残っていない。
勉は眼球を傷つけないように、丁寧に、そして慎重にペンチを動かして、どうにか取り出した。
「すご・・・・・。」
眼球には、神経や血管が繋がっていた。
自分の手に乗せ、目を輝かせて見つめる。
・・・・神秘的・・・・いや、幻想的か・・・・。
勉の胸は、感動で満たされていた。
初めて目の当たりにする、人間の眼球。
いや、この言い方は正しくないと気づいた。
初めて目にする、裏側まで含めた、人間の眼球。
繋がる神経と血管、顔に埋め込まれている時には、決して見ることの出来ない、目玉の裏側。
勉は嬉しくて泣きそうになった。
まさかこんなに感動するなんて・・・・こんなに胸が満たされるなんて・・・・。
飼育員の眼球は、勉にとっては宝石のように映っていた。
ゆっくりとペンチを動かし、惜しみながら神経と血管を切る。
テーブルの上からティッシュを摘まみ、優し包む。
「これは一生の宝物や。」
大事に両手で包み、それをテーブルの上に置く。
記念すべき、人体解剖の第一歩。この眼球は宝石として取っておくことにした。
「バラす用がいる。」
そう言って、もう一つの眼球を取り出す。
傷つけないように、ゆっくりとペンチをねじ込んで・・・・・。
飼育員は叫び、バタバタと足を動かす。
やめてくれと何度も叫ぶが、勉の耳には届かない。
二つの目が奪われ、それと同時に光を失った。
この飼育員が、この世の景色を見ることは、二度とない。
ペニスを切られた痛みより、その事の方がよっぽど痛く、ヨダレを吐きながら泣いていた。
今日、この世に生まれてから、勉は一番幸せだった。
猿のことなど頭から消え、飼育員の眼球を胸に抱いて、笑顔のまま家路についた。

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