稲松文具店〜ボンクラ社員と小さな社長〜 第三十四話 汚泥をすする(3)

  • 2016.05.25 Wednesday
  • 12:01
JUGEMテーマ:自作小説
怪人に屈辱を与えられたその日の夜、俺はまた課長の部屋へ来ていた。
女神の神殿は相変わらず綺麗で、埃一つないほど清潔に保たれている。
だけど今日は、以前のようにはしゃぐ気持ちになれなかった。
今日ここへ来たのは、あの怪人への屈辱を晴らす為だ。
目の前には祐希さんが座っていてる。
そして俺の隣には課長がいて、さらにその横には箕輪さんと美樹ちゃんがいた。
美樹ちゃんはまだ怯えていて、箕輪さんに肩を抱かれている。
時折ズズッと鼻を鳴らしながら、それでも気丈に前を向いていた。
「栗川さん・・・・怖かったね。」
課長は美樹ちゃんの手を握り、「辛かったらいつでも言ってね、送って行くから」と言った。
「・・・・大丈夫です・・・。きっと家に帰っても落ち着かないし・・・・ここならみんながいるから・・・。」
「強いね、栗川さんは。でも本当に無理しないでね。辛くなったらいつでも言ってくれていいから。」
労わるように微笑みかけ、「箕輪さん、栗川さんを見ててあげてね」と言った。
「はい。」
箕輪さんは強く頷き、美樹ちゃんの肩を抱き寄せた。
「じゃあ冴木君・・・・今日のことをもう一度祐希さんに話してあげて。」
「分かりました。」
俺は祐希さんを見つめ、「電話でも言った通りです」と切り出した。
「今日の朝、俺は奴らに誘拐されました。そして怪人のマンションへ連れて行かれて、そこで散々殴られたんです。
その後に美樹ちゃんが出て来て・・・・その・・・・、」
ごにょごにょと言い淀むと、祐希さんは「ちゃんと話す」と睨んだ。
「彼女に気を遣ってる場合じゃないのよ。あなた達の受けた仕打ちは、立派な犯罪なんだから。だから私を呼んだんでしょ。」
「はい・・・・。」
「じゃあ続けて。」
祐希さんは叱るような口調で言う。
俺はもう一度最初から話した。細かいところまで丁寧に説明していると、あの酷い場面の屈辱が燃え上がってきた。
眉間に皺が寄り、気づかないうちに拳を握っていた。
「・・・・これで全部です。」
「なるほど・・・よく分かったわ。」
祐希さんは頷き、「油断し過ぎね」と言った。
「相手は狡猾で冷酷な奴なのよ。注意を怠れば、いつ危険な目に遭うか分からない。そんなの説明しなくても理解してると思ってたけど?」
「祐希さんの言うとおりです・・・。俺のせいで美樹ちゃんは・・・・、」
「言い訳なんかいらないわ。起きたことはしょうがないし、これからは気をつけるようにって言ってるだけ。」
「はい・・・・。」
祐希さんの口調はいつになくキツい。ガックリ項垂れていると、「落ち込んでる場合じゃない」と怒られた。
「顔を上げて。」
「すいません・・・・。」
「君がみんなの中心にいるのよ。だったら情けない顔を見せちゃダメ。誰よりも強気でいないと。」
そう言われて、俺は背筋を伸ばした。
すると課長が「私にも責任がある」と言った。
「みんなに協力を持ちかけたのは私なんです。もっと怪人の動きに注意しておくべきだったのに・・・。」
「それも言い訳よ。翔子ちゃんまで冴木君のレベルに下がったの?」
「そういうことじゃなくて、私たちは約束を破ったから。危険な目に遭わせないって約束したのに・・・・。」
課長は美樹ちゃんの方に身体を向け、「本当にごめんなさい」と頭を下げた。
「全部私が悪い。許してなんて言えないけど、でも謝らせてほしい。」
今日、課長が美樹ちゃんに謝るのは何度目だろう?
あの後、すぐに課長にも電話を入れたら、慌てて店まで飛んで来た。
そして何度も何度も頭を下げ、ひたすら美樹ちゃんに謝っていた。守ってあげられなくてごめん・・・と。
美樹ちゃんはしばらく泣いていたけど、じょじょに落ち着きを取り戻していった。
課長が家まで送ると言うと、『嫌です!』と首を振った。
『みんながいる場所の方が落ち着くから、ここにいたい。それに・・・・悔しい。私も冴木さんも酷い目に遭わせて・・・・・絶対にあいつを見返してやりたい!』
美樹ちゃんはグッと歯を食いしばり、『だから私も戦わせて下さい!』と言った。
『役に立たないかもしれないけど、でもみんなと一緒にいたいんです!』
その言葉に、課長は申し訳なさそうに唇を噛んでいた。
そして今、またこうして頭を下げている。
美樹ちゃんは「課長は悪くありません。もちろん冴木さんも・・・」と呟いた。
「悪いのは全部アイツなんです。だからアイツをやっつけないと、また怖い目に遭う人が出て来る・・・・。」
顔を真っ赤にしながら、まだ鼻をすすっている。でもその目は怒りに満ちていて、彼女もまた屈辱を感じてるんだなと思った。
俺は「美樹ちゃん」と呼び、「俺たちの屈辱、一緒に晴らそうな」と頷きかけた。
「もちろんです!もしアイツを捕まえたら、一発蹴飛ばさせて下さい!」
「何発でも蹴ってやればいいよ。俺だってぶん殴ってやる。」
「あと手下の男たちも。」
「当然だよ。アイツらもサンドバッグみたいに殴ってやる。いくら謝まったって許してやらねえ。」
「一緒にブッ飛ばしましょうね!」
「おう!」
お互いに拳を握り、屈辱を晴らすことを誓い合う。
すると黙って聞いていた箕輪さんも「私にもそいつを殴らせてよ」と言った。
「ウチの店の仲間を酷い目に遭わせて・・・・・絶対にタダじゃ済まさない。」
「箕輪さん・・・顔が鬼みたいになってますよ?」
「当たり前でしょ!あんたはともかく、美樹ちゃんをこんな目に遭わせるなんて・・・・捕まえたら木刀で叩きのめしてやる!」
「いや、それ死んじゃうんじゃ・・・・、」
「地獄の閻魔の所に送ってやるわよ!三途の川の渡し賃まで取り上げてね!」
「それを取り上げたら閻魔の所まで行けないんじゃ・・・・、」
「泳いで行けばいいのよ!途中で溺れて死ねばなおいいわ!」
「いや、三途の川は元々死人が行く所で・・・・、」
「ああムカつく!早くぶん殴ってやりたい!」
「ごへあッ!」
なぜか俺の方に拳が飛んできて、口元に貼った絆創膏が抉れる。
《み・・・みんな怒ってんだな・・・・。俺を殴る意味が分からないけど・・・・。》
ズレた絆創膏を直していると、「私だって・・・」と課長が言った。
「私だってあいつを許せない・・・・・。やり方が卑劣過ぎるし、それに汚過ぎる。」
そう言って拳を握り、「グーで誰かを殴ったことなんてないけど、でも今回だけは・・・」と目を怒らせた。
《課長も怒ってるな・・・・まあ当然だけど。でもパーなら殴ったことがあるのか?》
ちょっとだけ怖くなって、ドキドキしながら課長の拳を見る。
すると箕輪さんが「一緒にぶん殴ってやりましょう!」と拳を伸ばした。
「ごふあッ!」
「そうね!みんなの怒りをぶつけてやろう!」
「ふべッ!・・・か・・・・課長まで・・・・、」
二人の拳に挟まれながら、「なんで俺を殴るの・・・」と絆創膏が落ちていった。
それを見た祐希さんは、笑いながら頷いた。
「みんな闘志満々ね、それでいい。」
そう言って、「これからやる事は簡単よ」と目を鋭くした。
「あの怪人は、人目に隠れてコソコソ動き回るのが得意みたい。だったらどうするか?」
そう言ってゆっくりとみんなを見渡す。
そして俺の所で視線を止め、首を傾げて見せた。
「ええっと・・・・明るい所に引っ張り出す・・・・ですか?」
「その通り。」
「だってこの前祐希さんがそう言ってたから。明るい場所であいつの首根っこを押さえてやれって。」
「あの手のタイプは、コソコソと小細工をするのは上手いのよ。でも誰もが注目する明るい場所だと、途端に弱くなる。」
「俺、あいつのマンションで殴られてる時に思ったんですけど、あいつってすごく気が弱いと思うんですよ。
あそこまでやっておきながら、俺が死んだらどうしようって不安がってたんです。それに会長を怖がって、課長にも手を出せなかったみたいだし。」
「そうよ、あの手の奴は小心者なの。だから堂々と戦うことが出来ないのよ。その為にあれこれと小細工をするわけ。
それをさせない為には、みんなが見ている明るい場所で戦いを挑めばいいわ。そしてもうすぐそういうシチュエーションがやってくるはずよ。」
「選挙ですね。」
祐希さんは頷き「大きなチャンスよ」と言った。
「あの怪人も選挙に出るんでしょ?だったらその時こそが勝負。」
「それは分かるんですけど、でも向こうだって警戒してるはずですよね?また何かの罠を用意してるんじゃ・・・・。」
「さあ、どうかしらね?」
「どういうことですか?」
「君はあの怪人に拷問を受け、しかもそっちのお嬢さんまで人質に取られた。そして絶対に刃向わないと約束させられたのよね?」
「ええ。」
「それもかなりねちっこいやり方だったんでしょ?頭を踏みつけたり、唾を舐めろと言ったり。」
「屈辱ですよ・・・・あれは。」
「わざとそうしたのよ。」
「分かってます。ああやって人をいたぶって楽しんでるんだって・・・、」
「違う。」
「違う?何がです?わざと俺をいじめて楽しんでたんでしょう?」
「そうじゃないわ。」
「いや、そうですよ。じゃなきゃあそこまで屈辱的なことはしないでしょ。」
あの時のことを思い出すと、また屈辱の炎が燃え上がる。
胸が熱くなり、身体まで火照ってくる。全身に怒りが湧いて、拳が固くなった。
すると祐希さんは「普通はそうはならないんだけどね」と笑った。
「え?」
「君・・・すごく怒ってるでしょ?」
「当たり前ですよ!今すぐぶん殴ってやりたいくらいです。誰だってそう思うでしょ?」
怒りながら尋ねると、祐希さんは首を振った。
「あのね・・・普通はそうはならないの。傷つくことはあっても、そこまで怒ることはないわ。」
「どうして?普通怒るでしょ。」
「もちろん怒りはするでしょうけど、それ以上に恐怖や惨めさが勝るのよ。あの怪人のことを思い出す度に、胸の中のプライドが傷つくから。
復讐したいと思っても、また屈辱を受けたらどうしようって恐怖が勝るのよ。」
「もちろん俺だって恐怖はありますよ。それに惨めだと思うし。でもだからこそ腹が立つんじゃないですか。やられっぱなしでいようとは思いませんよ。」
「誰だってプライドがあるわ。それは自分を支える柱でもあるけど、傷ついたら一番痛い場所でもあるの。だから普通は恐怖が勝るものなのよ。」
「俺はそんなことないです。プライドを傷つけられたんなら、じっとしてることなんて出来ませんよ。また傷ついてもいいから、あいつに一発でも入れてやりたい。
だって泣き寝入りしてる方がよっぽど辛いから。」
握った拳を打ち付けながら言うと、祐希さんは「あの怪人は君のことを舐めてたみたいね」と笑った。
「怪人は大きな誤算をしているわ。」
「誤算?」
「あいつは今までにもこうやって、刃向う者を黙らしてきたはず。確か君の会社の白川って常務、演説中に愛人との写真を流されたんでしょう?」
「スクリーンにデカデカとね。あの時の常務・・・完全に放心してたなあ。いつものビシッとした感じが消えて、なんだかショボイおっさんに見えましたよ。」
「それはプライドが粉々になった証拠よ。大勢の前で恥を掻かされて、いても立ってもいられなかったでしょうね。その時のことを思い出す度に、死にたくなるはずだわ。」
「まあ・・・あれは確かに恥ずかしいですよね。女子社員なんて悲鳴を上げてたし。」
「その白川って人、今後二度と怪人に関わろうとは思わないでしょうね。もしまたこんなことがあったら、それこそ屈辱のドン底だから。」
「ちょっと可哀想ですよね。でもあの人も散々女の人を弄んだわけだから、自業自得だとは思いますけど。」
そう答えると、美樹ちゃんがコクリと頷いた。
祐希さんは「他にも大勢の人がプライドを抉られたはずよ」と顔をしかめた。
「翔子ちゃんだって酷いこと言われたんでしょ?」
「ええ・・・・。」
課長は暗い顔になり、「一番触れられたくない部分だったから」と俯いた。
「でも私には支えてくれる人がいたから・・・・。」
「いつもの彼ね。」
「はい。それに・・・・冴木君も。」
そう言って俺を見つめ、「いつも傍にいてくれるんです」と微笑んだ。
「だから私・・・一人じゃないんだって思えました。傷つくことはあっても、支えてくれる人がいるから立ち上がれるんです。」
課長はニコリと微笑み、俺に頷きかける。
「か・・・課長・・・・。」
キュン・・・・とする。今、胸がキュン・・・とした。あの屈辱が一瞬で消えそうなほど、胸がキュン・・・・と・・・。
「にやけ過ぎよバカ。」
箕輪さんにおでこ叩かれ、「また殴った・・・」と唇を尖らせた。
「冴木君。」
祐希さんは真顔になり、「君ならあの怪人を倒せるわ」と言った。
「それだけ屈辱的なことをされれば、誰だって深く傷つく。そして二度と刃向おうなんて思わなくなるわ。
だけど君は違う。殴られれば殴られるほど、屈辱を受ければ受けるほど、さらに怒りが湧いてくる。・・・・いえ、闘志と言い換えてもいいわね。
自分を嘲笑った奴、仲間を傷つけた奴・・・・そいつを絶対に許さないと、激しい闘志が湧き上がる。」
「俺・・・・怒ってますよ。あの屈辱的な仕打ち、それに美樹ちゃんにした酷いこと。」
「だから怪人は誤算してるのよ。あいつは君のプライドをへし折ったつもりでいる。そしてもう二度と刃向わないと思ってるわ。」
「バカですね、あいつ。このまま黙ってるわけないっての。」
「でも怪人はそう思ってるわ。もう自分に敵はいないってね。だからおそらく罠は用意していない。仮にもし何か仕掛けていたとしても、君なら耐えられるはず。」
「二度とあんな奴にやられませんよ、俺は。」
「あの怪人と真っ向から戦えるのは君だけ。だから堂々と正面からぶつかってやればいいのよ。みんなが注目している選挙の時にね。
君ならどんな罠が待っていても怖くはない。そうでしょ?」
「俺はあんな奴怖くありませんよ。でも・・・また周りに手を出してきたら・・・・。」
そう言って隣を振り向くと、美樹ちゃんがビクッと肩を震わせた。
箕輪さんがギュッと肩を抱きしめ、「そうですよ」と言った。
「冴木はともかく、またこっちに手を出してきたら・・・・、」
「それは心配ないわ。私が守ってあげるから。」
「あなたが?」
「だからこそ私を呼んだんでしょう?」
祐希さんはそう言って俺に目を向ける。
「はい。あの怪人は俺が倒すつもりです。だけどまた周りに手を出されたらって思うと・・・・それが怖いんです。
でも祐希さんなら、あいつの小細工なんかに負けないと思って。あいつがどんなに汚い手を使ってきても、絶対に祐希さんの方が上手だろうなって思うから。」
「それ褒めてる?それとも貶してる?」
祐希さんの眉間に皺が寄る。俺は慌てて「褒めてます!褒めてます!」と言った。
「祐希さんを貶すわけないじゃないですか・・・・ははは・・・。」
「いいわよ貶しても。その後どうなっても知らないけど。」
「・・・・・褒めてます、ええ。」
おっかない視線に負けて、シュンと項垂れる。俺・・・多分この人には一生頭が上がらない気がする・・・・。
祐希さんは「まだまだね」と笑う。俺は頭を掻きながら「祐希さんには敵いません」と答えた。
「いつか私を超えてみせてよ。」
「出来るんですかね、俺なんかが・・・・。」
「出来ると思えば出来るわ。出来ないと思えば一生出来ない。」
「そういうもんですか?」
「そういうもんよ。だから選挙だって同じ。自信のない顔で、自信のない演説なんかしてたら誰も投票しないわ。
ほら、たまにいるでしょ?とても政治家になれるような人間じゃないのに、なぜか当選してる人が。」
「いますね、たま〜に。いつも不思議に思うんですよ。なんでこんな人が当選したんだろうって。」
「本気でなれると信じてるからよ。だから自信満々な顔で、自信満々に演説をするわけ。
投票者はその人の過去や経歴なんて調べないから、あくまで選挙活動中の言動で評価するのよ。そして後から化けの皮が剥がれる。」
「俺・・・・けっこう偉そうに演説しちゃったんですよ。ならもしかしたら・・・・、」
「通るかもね。」
「もしそれで社長になったら、俺も失脚しちゃうんですかね・・・・。やっぱアイツじゃダメだったみたいに言われて。」
「それは君次第よ。掴んだチャンスを活かすかどうかは、全て自分に懸ってるからね。」
祐希さんはそう言って、「だから君は選挙のことだけ考えなさい」と言った。
「確か選挙前に、もう一度だけ演説する時間があるんでしょ?」
「ええ。演説っていうか、簡単なスピーチみたいなもんですけど。時間は二分くらいだし。」
「だったらその時こそが勝負ね。君は堂々と演説をすればいい。それこそが、奴を倒す一番の方法よ。」
「俺が社長になったら、絶対にあいつを追い出します。」
「君はあの怪人のことをよく知ってる。社長になれば、今度は君があいつを追い詰める番よ。でもまあ・・・・その前にあの怪人はくたばるでしょうけど。」
「そうなんですか?」
「だって演説の時にこそ、奴を追及することが出来るじゃない。」
「ああ、そっか!」
「自分なら出来ると思いなさい。堂々と胸を張って、堂々とした顔で言ってやればいいの。みんなが見ている明るい場所で、あいつの本性を曝け出してやりなさい。」
祐希さんはビシッと指をさす。俺は頷き、「周りのことはお願いします」と言った。
「美樹ちゃん、箕輪さん、楠店長・・・・それに課長を。」
そう言って課長に目を向けると、「何言ってるの」と怒った。
「私も君と一緒に戦うわ。」
「はい?」
「あのね、今まで黙ってたんだけど・・・・・、」
「ええ・・・・・・。」
「実は私も立候補したの・・・・社長選挙に。」
「・・・・・マジですか?」
思いもしないことを言われて、口を開けたまま固まる。
「だって候補者の人数が少なすぎるから。だから父から言われたのよ。選挙委員長としての責任を取って、お前も立候補しろって。」
「でもそれは課長のせいじゃないのに。」
そう言うと、課長はため息交じりに首を振った。
「だからこそ父は、私に選挙委員長を任せたのよ。候補者が足りなかったら、その責任として私を立候補させる為に。
もし私が当選したら、会社から去ることは出来なくなると思って。」
「課長が社長・・・・素晴らしいじゃないですか!俺は応援しますよ!」
にこやかな笑顔で言うと、「なにバカなこと言ってるの」と怒られた。
「君も候補者なのよ。私を応援してどうするの?」
「でも俺なんかより、絶対に課長の方が相応しいですよ!」
「私はここを辞めるの。稲松文具に縛られない場所へ行って、自分で自分の居場所を見つけたいの。何度も言ってるでしょ。」
「でも・・・・、」
「もう決めたことだから。もし当選したって、すぐに辞任してやるわ。」
課長の眉間に皺が寄る。きっと会長に対して怒ってるんだ。今でもまだ会社に繋ぎ止めようとしているから・・・・。
「選挙には私も出る。あの怪人を倒す為にね。」
「はい・・・・。」
「周りのことは祐希さんに任せておけばいいわ。私たちは明日の選挙に集中しましょ。」
「・・・・・はい。」
俺はガックリと頷く。やっぱり課長は去ってしまうんだなと、捨てられた子犬みたいな気分になった。
それを見た祐希さんは可笑しそうに笑い、「そっちの方もまだまだね」と言った。
「でもいつか願いが叶うと信じなさい。自分なら出来るって。」
「はい・・・・。」
「ああ、それと・・・・。」
「はい?」
「分かってると思うけど、私の仕事は安くないわよ。その辺は大丈夫なんでしょうね?」
「前にやってたスパイの報酬・・・・まだ残ってるんですよ。だから何とか払えると思うんですけど・・・・、」
「もし足りなかったら、三年は私の元でタダ働きしてもらうからね。」
「ええ!三年も?」
「なんなら海外の危険な仕事に飛ばしてもいいんだけど?」
「いえいえいえ!もしもの時は祐希さんの元でコキ使って下さい!ていうかお金はちゃんとあるんで、ええ!」
「なら安心ね。」
祐希さんはニコリと笑う。その笑顔が怖くて、《帰ったらすぐに通帳を確認しなきゃな》と思った。
「冴木さん。」
美樹ちゃんが呼びかけてきて、「絶対に社長になって下さいね!」と拳を握った。
「私、絶対に冴木さんに入れますから。」
「ありがとう。」
すると箕輪さんも「落ちたら承知しないわよ」と睨んだ。
「あんな怪人なんかに負けたら、二度と店に入れてやらないから。」
「負けませんよ、俺は!」
「よろしい。」
そう言って箕輪さんも拳を握る。すると課長も拳を伸ばしてこう言った。
「みんな思いは同じ。私だって一緒に戦うから頑張ろう。」
「課長・・・・俺たちなら出来るって信じましょう!」
俺も拳を握り、みんなの拳を一つに合わせる。
祐希さんが「青春って感じね、羨ましい」と笑った。
選挙は明日、あの怪人と決着をつけるまで、あと半日もない。
握った拳を強く固めて、雪辱を誓った。

稲松文具店〜ボンクラ社員と小さな社長〜 第三十三話 汚泥をすする(2)

  • 2016.05.24 Tuesday
  • 11:39
JUGEMテーマ:自作小説
人質となった美樹ちゃんを助ける為、俺は怪人に頭を下げた。
「二度と刃向いません」
そう言って、美樹ちゃんを解放してくれるように頼んだ。
こんな奴に頭なんて下げたくなかったけど、でも美樹ちゃんを助ける為なら仕方ない・・・・。
すると怪人は俺の前に唾を吐き、それを舐めろと言った。
それが出来ないなら、美樹ちゃんを酷い目に遭わすぞと脅して・・・・・。
俺は舌を伸ばし、怪人の唾を舐める。
その瞬間、言いようのない嫌な感情がこみ上げた。
悔しい・・・・情けない・・・恥ずかしい・・・惨め・・・・そして怒り・・・。
色んな感情が混ざり合って、身体の隅々まで溶けていく。
俺の表情は苦痛に歪む。それを見た怪人はこう言った。
「屈辱でしょ?」
「・・・・・・・・・。」
そう言われて、なるほどと納得した。
このどうしようもない嫌な感情・・・滲めで情けなくて・・・・そこに激しい怒りが湧き上がる。
これが・・・これが屈辱ってもんなのか・・・・。
俺は頭を下げたまま、しばらく動けなかった。
なぜなら今・・・俺の目には涙が溜まっているから。
目が熱くなり、充血しているだろうなって分かるくらいに火照っていた。
怪人は俺の髪を掴み、グイッと上を向かせる。
「・・・・・悔しい?」
「・・・・・・・・・。」
「屈辱でしょ?」
「・・・・・・・・・。」
「一生の残るわよ、屈辱っていうのは。寝てようが起きてようが、遊んでようが働いてようが、一人でいようが誰かといようが、いつだって君の胸に暗い影を落とす。
今後二度と、心の底から笑うことは出来なくなるわ。」
「・・・・・・・・・。」
「君がもしプライドを持たない人間なら、そうはならない。でも殴られても蹴られてもへこたれないってことは、相当なプライドの持ち主ってことよ。
私はそのプライドを傷つけた。それは絶対に治ることはない。時間が経てば経つほどに、真綿で首を絞められるように苦しくなるわ。」
「・・・・・・・・・。」
「君は一生私に呪われる。いつだって私のことを思い出し、悔しさと滲めさと怒りに苛まれる。そして・・・・恐怖を覚えるわ。
君の誇りに付いた傷が、私のことを思い出す度に痛んでくるの。」
そう言って頭を撫で、ゆっくりと立ち上がった。
「さあ、もうお終い。」
ボディガードたちはガッカリした様子で美樹ちゃんから離れる。
いそいそとズボンを上げ、残念そうに舌打ちをした。
「・・・・・・・・・・。」
美樹ちゃんはベッドの上で自分を抱きかかえていた。
胸を隠すように、そして自分を守るように、しっかりと抱いていた。
華奢な身体が小さく震えていて、ヘビに睨まれたカエルのように竦んでいる。
怪人は彼女の前に立ち、頭を撫でる。そして微笑みながら顔を近づけた。
「よかったわね、汚されなくて。」
「・・・・・・・・・・。」
「でも冴木君がまた私に刃向ったら、今日の続きをする。だから・・・そうならないように祈ってなさい。」
ポンポンと頭を叩き、満足そうに笑う。そして踵を返し、「その子たちを帰してあげて」と言った。
「その子たちの店に送ってあげて。そうすれば、彼の仲間が私に恐怖を抱く。絶対に刃向おうなんて思わなくなるわ。」
勝ち誇った笑みを浮かべながら、「それじゃあね」と手を振る。
「私は今から本社に行く。そして立候補してくるわ。もし私の元で働くのが嫌なら、今のうちに辞表を出すことね。」
ヒラヒラと手を振りながら、怪人は去って行く。
残されたボディガードは俺たちに近づき、太い腕で両脇を抱えた。
「いやあ!」
美樹ちゃんは必死に抵抗する。俺は「その子は俺が運ぶ!」と言った。
「お前らは触るな!」
太い腕を振りほどき、美樹ちゃんの元に駆け寄る。
近くにあった毛布で包み、「美樹ちゃん・・・」と呼びかけた。
「・・・・・・・・・・。」
「怖かったね・・・・ごめん。」
「・・・・・・・・・・。」
「もう大丈夫だから。大丈夫・・・・。」
震える背中を撫でながら、何度も「大丈夫」と呼びかける。
美樹ちゃんは毛布の中にうずくまり、声を押し殺して泣いていた。
俺はそっと彼女を抱え上げ、「どけよ」と男たちに行った。
「自分で帰る。そこどけ。」
睨みつけながら歩いて行くと、屈強なボディガードが立ちはだかった。
「送るように言われた。勝手に出て行かれちゃ困る。」
「知るかよ。いいからどけ。」
「刃向うのか?」
「・・・・・・・・・・。」
「その子が傷つくだけだぞ?」
「・・・・・分かったよ。」
美樹ちゃんをしっかりと抱きかかえながら、「ならさっさと送ってくれ」と言った。
ボディガードは「こっちだ」と言い、怪人が消えた方とは別のドアへ歩き出した。
その先にはトイレがあって、中に入るように言われた。
バタンとドアが閉められ、一瞬だけ真っ暗になる。
そしてさっきとは反対側から光が射した。
「隠し扉かよ。」
何の変哲もない壁が、人ひとり通れるくらいの大きさに開いた。
奥からさっきの男が顔を覗かせ、「出て来い」と言った。
「美樹ちゃん・・・もう大丈夫だからね。家に帰れるから。」
毛布にくるまった背中を撫でながら、隠し扉の向こうへ出る。
外は非常階段のすぐ近くで、男に案内されながら降りていった。
そしてマンションの裏口から外に出て、白いワンボックスカーに乗せられた。
「騒ぐなよ。」
そう釘を刺され、両脇には厳つい男たちが乗って来る。
俺は美樹ちゃんを抱えたまま、慰めるように背中を撫でていた。
車が走り出し、外の景色が流れて行く。
小一時間ほど走り続け、店に到着した。
車から降りる時、「分かってると思うが・・・」と運転席のボディガードが言った。
「下手な真似はするなよ。この店の人間全員が不幸になるぞ。」
「分かってるよ。」
「こいつは返す。」
そう言って、俺と美樹ちゃんの所持品を投げ寄こした。
「もういいだろ。早く消えろよ。」
一瞥をくれながらそう言うと、男たちは足早に去って行った。
「・・・・・・・・・・。」
遠ざかる車を睨みながら、美樹ちゃんの背中を撫でる。
「もう大丈夫、店に着いたから。怖い奴らはいないよ。」
ポンポンと背中を叩きながら、店のドアを開ける。
すると中から箕輪さんが飛び出して来て、危うくぶつかりそうになった。
「冴木!あんたどこ行ってたの!?・・・ていうか何その顔・・・血が出てるじゃない!」
「ええ、ちょっと・・・・。」
「それに痣だらけだし・・・服も汚れてるし・・・・まさかまた危険な目に遭ってたの?」
箕輪さんは怯えたように見つめる。グッと喉を鳴らし、唇が小さく震えていた。
「・・・・・北川課長から連絡があったのよ。選挙の会議に来てないって。だからこっちにいないかって電話してきてさ・・・・・。」
「ええ・・・・・。」
「すっごく心配してたわよ。いったい何があったの?」
箕輪さんは顔を引きつらせながら尋ねる。
俺は俯き、何も言い出すことが出来なかった。
「それと美樹ちゃんもまだ来てないのよ。ケータイにも出ないし、家に電話したらもう出かけたって言うし。」
「・・・・・・・・・・。」
「あんた何か知らない?」
そう言って不安そうに詰め寄る。俺は口を開きかけたが、「ここではちょっと・・・」と黙った。
「中で話します。」
「・・・やっぱり何かあったのね?」
「ええ・・・・。」
「ていうかさ、その毛布の塊は何?中に何が入ってんの?」
「これは・・・・・、」
「まさか・・・・爆弾とかじゃないわよね?」
「いえ・・・・、」
「あんたのことだから、何を持ってきてもおかしくないわ。いったい何が入ってんのよ?」
「・・・とりあえず中に入りましょう。」
箕輪さんを押しのけ、店に入る。
「なんなのよいったい・・・・。」
ドアを閉めながら、不安そうに愚痴を漏らす箕輪さん。
すると次の瞬間、美樹ちゃんが毛布から飛び出した。
「箕輪さああああああああん・・・・、」
「え?ちょ・・・ちょっと・・・何!あんた美樹ちゃん!?」
「うわああああああん!箕輪さああああああん!」
いきなり下着姿の美樹ちゃんが飛び出して来て、ギュッと抱きつく。
箕輪さんは軽くパニックを起こしながら、「どうなってんのよ!?」と叫んだ。
「冴木!これはどういうこと!いったい何があったのよ?」
「・・・・・・・・・・・。」
「箕輪さあああああん・・・怖かった・・・・怖かったよおおお・・・・。」
「あんた何で下着なの!?何がどうなって・・・・、」
「もう嫌だあああああ・・・怖い・・・・怖いよおおおお・・・・、」
箕輪さんの首に腕を回し、子供のようにしがみつく美樹ちゃん。
店に響き渡るほどの声で泣きながら、「怖かった・・・怖かったよお・・・」と震えた。
状況を飲み込めない箕輪さんは、「いったいなんなの・・・・」と不安がる。
美樹ちゃんを抱きしめながら、「とにかく服着ないと。事務所へ行こう」と連れて行った。
中にいた店長が追い出され、「呼ぶまで入って来ないでよ」と俺たちを睨む。
バタンとドアが閉じられ、事務所から美樹ちゃんの泣き声だけが響いていた。
「・・・・・・何?」
追い出された店長が、ビクビクしながら俺を見る。
食べかけのアンパンを口に突っ込んだまま、馬鹿みたいに立つ尽くしていた。
《・・・・ごめん。本当にごめん・・・。》
危険な目には遭わせないって約束したのに、こんなに怖い目に遭わせてしまった。
美樹ちゃんの泣き声はまだ響いていて、胸を鷲掴みにされるような痛みが走る。
「ごめん・・・美樹ちゃん。」
彼女を守れなかったことが、とても悔しい。それと同時に、さっきの屈辱が炎のように胸を焼いていた。
「このまま・・・・このまま終わると思うなよ・・・・。」
屈辱を晴らすには、屈辱を与えてくれた敵を倒すしかない。
大切な人を守るには、危害を与えてくる悪者を追い払うしかない。
ポケットに手を入れ、スマホを取り出す。
「・・・ああ、駄目だ。ボコられた時に液晶が壊れてたんだ・・・・。」
俺は店の電話に駆け寄り、受話器を持ち上げた。
掛ける相手はただ一人・・・・・ギャラは高いけど、しっかり仕事をこなしてくれるあの人だ。
「・・・・ああ、もしもし?祐希さん?仕事を・・・・お願いしたいんです。」
散々に殴られたせいで、口の中が切れている。
喋る度に痛みが走り、血の味が広がる。
だけどそれは、俺にとってはいい気つけ薬だった。
あの悔しさを・・・・惨めさを・・・・何度でも蘇らせてくれるから。
胸に燃え広がる屈辱は、怒りよりも激しいエネルギーとなって俺を動かす。
受話器を握りながら、必ずあの怪人に報いると誓った。

稲松文具店〜ボンクラ社員と小さな社長〜 第三十二話 汚泥をすする(1)

  • 2016.05.23 Monday
  • 12:52
JUGEMテーマ:自作小説
どうしようもないピンチになった時、必ずヒーローが助けに来てくれる。
子供の頃は本気でそう思っていた。
俺がヒーローに会えないのは、ピンチになったことが無いからだ!
だったらわざとピンチになって、ヒーローに助けて来てもらおう。
そんな風に考えて、わざと車に撥ねられたことがあった。
今思うとただの自殺行為だけど、あの時は本気でヒーローを信じていたんだ。
テレビで、漫画で、アニメで活躍するヒーローが、きっと助けに来てくれるって・・・・。
でもそんなことはなくて、俺はただ骨を折っただけだった。
わざと赤信号に飛び込み、右折してきた軽四に撥ねられて・・・・・。
ちなみにその軽四の後ろからは、大型トラックが迫っていた。
もし飛び込むタイミングがズレていたら、俺はこの世にいなかったかもしれない。
あの時から、俺はヒーローを信じなくなった。
テレビの特撮ヒーローや、漫画やアニメのヒーローは作り物だと知ったのだ。
だからそういうものに興味を示さなくなったし、何かあれば自分の力でどうにかするしかないと思うようになった。
そして今・・・俺はピンチだ。当然ヒーローは助けに来てくれず、自分の力でどうにかするしかない。
でもどうにも出来ない状況の中で、ただ痛みを味わっていた。
ここは怪人の住むマンション。
俺はここで、殴られ、蹴られ、首を絞めて落とされ・・・・・・。
屈強な男たちから散々に暴力を受け、床に転がされていた。
口からはドロッとした血が流れ、ヨダレと混じって床に垂れていく。
身体は痣だらけで、ちょっと動いただけでも激痛が走るほどだ。
怪人は俺を見下ろし、「どう?」と笑う。
「痛いでしょ?苦しいでしょ?」
「・・・・くたばれクソが。」
「なるほどねえ・・・・やっぱり自分の痛みには強いわけか。」
地味な顔を笑わせながら、「でもこれ以上やると死んじゃうし・・・」と呟く。
「さすがに殺人はまずいからねえ。でもまだまだ刃向う気満々だし・・・・どうしよう?」
「俺は・・・・こんなもんでへこたれたりしないんだよ・・・・。殴られたり蹴られたりしたから何だってんだ・・・・。世の中にはなあ・・・もっと痛いことがあるんだよ。」
「何を痛いと思うかは人ぞれぞれよ。肉体的な痛みに弱い人間もいれば、精神的な痛みに弱い人間もいる。はたまた経済的な痛みとか・・・・、」
「ゴタクなんて聞いてねえよバカ・・・・。気が済んだんなら・・・・とっとと解放しろや。」
そう言ってペッと血を吐きかけ、怪人の足を汚してやった。
「君は肉体と精神、両方の痛みに強いみたいね。」
「ああ、そうだよ・・・・。こう見えても我慢強くてな・・・・だからいくら暴力ふるったって、俺はへばったりしないぞ。」
「そうみたいね。」
「なんなら殺すかよ?まあそんな度胸ないだろうけどな・・・・・。」
「君ごときの為に殺人を犯すなんて割りに合わないわ。でもこのままだとまた私に刃向うし・・・・どうしよう?」
「・・・あのな、言っとくけど俺の周りに手え出したら許さねえぞ。」
「ん?」
「どうせそう考えてんだろ・・・・。俺を痛めつけても無駄なら、周りの奴らを酷い目に遭わそうって。」
「よく分かるわね。」
「俺を潰す為に、でっち上げの記事を載せようとしてたじゃねえか・・・・。課長のことを書いてな。」
「君は大事な人の痛みには弱いと思ったからね。」
「もし・・・・もし課長に手え出してみろ。俺はお前を殺してやるぞ。冗談じゃなくて・・・・本気で殺す。」
歯を食いしばりながら、鬼のような目で睨みつけてやる。
これは脅しじゃなくて本気だ。もし課長を傷つけるような真似をしたら、俺は絶対にこいつを殺す。
例え死刑になろうが、絶対に許さない・・・・地の果てまで追いかけてでも殺してやる・・・・。
「怖い目・・・・本気で言ってるのね。」
「当たり前だろうが・・・・・。課長は俺の女神なんだよ。だから課長の為なら、例え火の中水の中だ・・・・・。」
また血を吐き出し、怪人の足を汚す。
「なるほどね・・・君の覚悟は本物なわけか。」
そう言って肩を竦め「でも心配しないで」と笑った。
「あの子には手を出さない。さすがに誘拐とか痛めつけたりとかは出来ないわ。だって・・・・稲松文具会長の一人娘なんだもの。
もしそんなことをしたら、私の身が危うくなる。君に殺される前に、会長に八つ裂きにされるわ。」
「なら・・・もういいだろうが・・・・。ここで終われよ。」
「でも君はまだ刃向うつもりなんでしょ?」
「当たり前だ・・・・。誰がお前みたいなクソ怪人を見逃すか・・・・。真剣に頑張ってる人達を利用して、たくさん傷つけて・・・・絶対に許さねえ。」
加藤社長のこと、被害に遭ったカップルのこと、他にも大勢の人がこいつのせいで苦しんだ。
本気で頑張ってる人を、何の罪もない人を、ただ自分の為だけに利用した。
そうやって傷つけられた人たちの無念は、いったいどれほどのものだっただろう・・・・。
本当に痛いっていうのは、殴られたり蹴られたりじゃないんだ。
そうやっていい様に弄ばれて、人生を踏みにじられることだ。
「お前のやってることは、ガキのイタズラと同じなんだよ・・・・。」
「へえ。」
「お前は小心者で捻くれてて、なんでも思い通りにいかないと気がすまないガキだ・・・・。思春期のまま大人になったみてえな、ただの頭の悪いガキなんだよ・・・。」
「ボロクソね。」
怪人は可笑しそうに笑い、「否定はしないわ」と言った。
「でもこの状況をどうする?いくら吠えたってどうにも出来ないじゃない?」
「それはお前の方だろ?俺はどんなに痛めつけられたって、お前に従ったりしねえ・・・。かといって殺す度胸もないし、課長にも手を出せない・・・・。
追い詰められてるのはお前の方だろうが・・・・。」
「ほんとにそう思う?」
「思うね・・・。お前は何も出来ない。だからずっとここで俺をいびってりゃいいんだよ・・・・。選挙が終わるまでそうしてりゃいい。
きっと・・・きっとあの人が社長になって、お前を倒してくれる。」
「あの人?」
「地獄から戻ってきたヒーローだよ・・・・。クソみてえな怪人を倒す為にな。」
「何を言ってるのか分からないわ。」
怪人は首を振る。そして「でも君の言ってることは間違ってる」と笑った。
「君を従わせる手段なんていくらでもあるのよ。」
「へえ・・・どんな風に・・・・?」
「こんな風によ。」
怪人はパチンと指を鳴らす。すると奥のドアが開いて、屈強な男が現れた。
その男の腕の中には、一人の女性が捕まっていた。
猿ぐつわを噛まされ、後ろで手を縛られている。
「あ・・・・・・・・、」
俺は身体を起こし、「美樹ちゃん!」と叫んだ。
「ふ・・うう・・・ひゃえきひゃん・・・・、」
「なんで美樹ちゃんが!?」
膝に手を付きながら、痛みを我慢して立ち上がる。
すると怪人が「人質に決まってるでしょ」と言った。
「君は自分の痛みには強い、けど他人の痛みには弱い。だからこうして人質を取ったってわけ。」
「て・・・・てめえ!」
「だって仕方ないでしょ?北川課長には手を出せない。だったら他の人間に手を出すしかないもの。」
「ふざけんなよコラあああ!!」
怒りが噴き上がり、痛みがすっ飛んでいく。気がつけば怪人に殴りかかっていて、でも途中でボディガードに捕まった。
「離せコラああああ!」
思い切り暴れるが、屈強な男たちはビクともしない。
太い腕で俺を持ち上げ、そのまま床に叩きつけた。
「ごおッ・・・・、」
「ちょっと・・・頭から落とさないでよ。死んだらマズイでしょ。」
怪人はそう言って、俺の顔を覗き込む。
「生きてるわよね?」
「・・・・ぐッ・・・・、」
「ほんとに頑丈ね。ほら、頭上げて。」
俺の髪を掴み、強引に前を向かせる。
目の前には美樹ちゃんがいて、「ひゃえきひゃ〜ん・・・・」と泣いていた。
「美樹ちゃん・・・・、」
「ひゃ・・・ひゃんで・・・・、」
美樹ちゃんはブルブルと震えながら、グッと猿ぐつわを噛みしめる。
怪人は「外してあげて」と言い、ボディガードが猿ぐつわを取った。
「あんた大声出すんじゃないわよ。」
美樹ちゃんの髪を掴み、「さもないと冴木みたいになるから」と指さした。
「ふ・・・ふうう・・・・、」
ボロボロと泣きながら、美樹ちゃんは「なんでえ・・・・」と呟く。
「なんでこんな事に・・・・、」
「それは冴木君のせいよ。彼が私に刃向うからこうなった。全部彼が悪いの。」
「さ・・・・冴木さんは・・・・悪い人じゃありません・・・・。」
「何?私に口応えするの?」
ギロっと睨まれ、美樹ちゃんはブルブルと首を振る。
「美樹ちゃん・・・・・・・。危険な目には遭わせないって約束したのに・・・。」
怖がる彼女を見つめながら、「ごめん・・・」と謝る。
「お・・・お店に行こうとしてたら・・・・急にこの人たちが現れて・・・・。それで車に押し込まれて・・・・・、」
「こいつら怪人の手下なんだ・・・・。」
「わ・・・わたし・・・・どうなるんですか・・・・?冴木さんみたいに・・・酷い目に遭わされちゃうんですか・・・・・。」
「そんなことさせない!」
「で、でも!こんなのどうしょうもないじゃないですか!私だってきっと怖い目に遭う!」
「・・・・・・・・・・。」
「助けて・・・・助けて下さい・・・・冴木さん・・・・。」
美樹ちゃんは必死に助けを求める。俺はすぐに助けてあげたかったけど、でもこの状況じゃ・・・・。
怪人は「怖いわよねえ」と美樹ちゃんの頭を撫でる。
「君はいったいどうなっちゃうのかしら?冴木みたいに血まみれになるほど殴られたり・・・・、」
「い・・・・嫌!」
「そうよねえ、暴力は怖いわよねえ。せっかくこんな可愛い顔をしてるんだから、傷つけられたりなんかしたら嫌よね。」
「ご・・・ごめなさい・・・・。大人しくしてるから・・・・殴ったりとかしないで下さい・・・・・。」
「うん、殴らない。殴らないけど・・・・別の酷い目に遭ってもらおうかなあ。」
そう言って美樹ちゃんの髪の毛を引っ張り、ベッドに押し倒した。
「あんた達。」
屈強なボディガードに目配せをして、「この子好きなようにしていいわよ」と言った。
「なかなか可愛い顔してるわ、この子。あんた達も興奮するでしょ?」
不敵な笑みを浮かべながら、「たっぷり可愛がってもらいなさい」と美樹ちゃんに笑いかける。
「い・・・いや・・・・、」
「でも殴られるのは嫌なんでしょ?だったらこうするしかないわ。」
そう言って「ほら、好きにしてあげて」と男たちに言う。
ボディガードたちはお互いに顔を見合わせ、イヤらしい笑みを浮かべた。
そしてゆっくりとベッドを取り囲み、美樹ちゃんに手を伸ばした。
「いやあああああ!」
「やめろテメエらあああああ!」
また怒りが噴き上がり、身体の底から力が湧いてくる。
でも残ったボディガードに首根っこを押さえられ、床に叩きつけられた。
「離せコラああああああ!」
「冴木さん!助けて!」
「てめえら!美樹ちゃんに触んじゃねえ!ぶっ殺すぞ!!」
「いやあああああ!」
「やめろつってんだろおおお!!」
部屋中に響き渡るほどの大声で怒鳴る。すると怪人は「じゃあどうする?」と睨んだ。
「このままじゃ可愛い美樹ちゃんが傷つくわよ?じゃあどうするの?」
「いいからやめろつってんだよ!」
「あ、そ。あんた達、たっぷり犯してあげな。身体の隅々まで全部ね。」
ボディガードたちはニヤリと頷き、美樹ちゃんに覆いかぶさる。
服が引き裂かれ、美樹ちゃんの叫びがこだました。
「いやああああああ!」
「美樹ちゃん!」
「助けて!助けて冴木さあああああん!」
引き裂かれた服が宙を舞い、床にハラリと落ちる。男たちはズボンを下ろしながら、汚れた手を美樹ちゃんに伸ばした。
「やだあああああ!いやあああああああ!!」
「分かった!分かったからもうやめろ!!」
そう叫ぶと、怪人が「あんた達」と止めた。
「ちょっと待って。」
そう言って俺の方を向き、「もう一度」と睨んだ。
「・・・分かったから・・・もう・・・、」
「何が分かったの?」
「もう・・・・刃向わない・・・。だから美樹ちゃんに・・・・酷いことしないでくれ・・・・。」
「声が小さい。もう一度。」
「もう・・・もう刃向わないから!だから美樹ちゃんを助けてくれ!」
床に手をつき、頭を下げる。
怪人は足音を鳴らしながら近づいて来て、「約束よ」と言った。
「次に刃向ったら・・・・今日の続きをする。」
「・・・・・・・・・・。」
「この子の次は箕輪って子よ。二人とも散々に汚されて、あの男たちに孕ませられる。」
「・・・・・・・・・・。」
「ついでにあの楠って店長にも、あんたと同じ目に遭ってもらうわ。あれはあんたみたいには強くない。きっと一生もののトラウマになるわよ。」
「・・・・・・・・・・。」
「どう?今後、絶対に、二度と私に刃向わないって約束出来る?」
怪人は俺の頭を踏みつけ、「どうなのよ?」と体重を掛けた。
グリグリと踵で踏みつけ、床に頭を押しつける。
「・・・・約束します。」
「ん?」
「もう二度と刃向いません・・・・・約束します。」
そう言って「だから美樹ちゃんを助けて下さい!」と頼んだ。
「もう一度。」
「もう刃向いません。だから美樹ちゃんを解放してあげて下さい。」
「ん、上出来。」
頭から足をどけ、代わりに唾を吐いた。
それは俺の目の前に落ちて、「舐めなさい」と言われた。
「それ、舐めて。」
「・・・・・・・・・・。」
「本当に約束するなら舐めて。」
「・・・・・・・・・・。」
「ほら、早く。」
「・・・・・・・・・・。」
「さっきのは嘘なの?ならまたあの子を酷い目に・・・・、」
怪人の言葉を遮るように、俺は唾を舐めた。
それは血と混じって赤く染まり、口の中に滲んだ。
その瞬間、言いようのない嫌な感情がこみ上げた。
悔しい・・・・情けない・・・恥ずかしい・・・惨め・・・・そして怒り・・・。
色んな感情が混ざり合って、身体の隅々まで溶けていく。
俺の表情は苦痛に歪む。それを見た怪人はこう言った。
「屈辱でしょ?」
「・・・・・・・・・。」
そう言われて、なるほどと納得した。
このどうしようもない嫌な感情・・・滲めで情けなくて・・・・そこに激しい怒りが湧き上がる。
これが・・・これが屈辱ってもんなのか・・・・。
俺は頭を下げたまま、しばらく動けなかった。

稲松文具店〜ボンクラ社員と小さな社長〜 第三十一話 信頼を胸に(3)

  • 2016.05.22 Sunday
  • 12:33
JUGEMテーマ:自作小説
名前、性別、顔・・・・・。
ここまで来て、あの怪人がどういう奴なのかだんだん分かって来た。
それは喜ぶべきことなんだけど、伊礼さんは浮かない顔をした。
彼が言うには、ここまで来て「厄介なこと」が分かったらしい。
窓の外に煙を吐きながら、険しい顔でこう言った。
「あの怪人な・・・・、」
「ええ・・・。」
「もう死んでるんだよ。」
「はい?」
「死人なんだ、糸川百合は。」
そう言ってタバコを消し、ポケットに灰皿をしまった。
「今から20年前に事故で亡くなってる。」
「まさか・・・だって生きてるじゃないですか。」
「ああ。だから法律上はってことだ。」
「法律上・・・・。それは法的には死んでるってことですか?」
「そうだ。今から20年前、糸川百合は登山中に遭難してる。すぐに捜索が行われたが、見つけることは出来なかった。そして行方不明のまま七年が過ぎた。」
「ああ、それ知ってます!確か行方不明になって七年経つと、法律上は死んだってことになるんですよね?」
「糸川百合はその後も行方不明のまま。だから今でも死人だ。」
「なら法律上はこの世にいないってことに・・・・。」
「そうだ。ある意味加藤と同じだ。死んでるのに生きてるんだからな。」
それを聞いた俺は、「違います!」と言い返した。
「あんな奴と加藤社長が同じなわけないですよ。全然違います。」
「分かってるよ。俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、自由に生きられる身って意味だ。」
「自由に?」
「相手は死人なんだ。だったら法律や社会のしがらみに囚われる必要はない。だから子供のフリして社長になることも出来るし、顔を変えてどこへでも潜り込むことが出来る。
なぜならいくら正体を探られようが、本人はすでにこの世にいないことになってるんだからな。」
「ああ、そういう意味で同じか・・・・。」
「怪人の名前も分かった、顔も分かった、それに性別も分かった。でも本人はもう死んだことになってる。これが何を意味するか分かるか?」
そう問われて、俺はじっと考え込んだ。
「相手は死人・・・・・。法律にも社会にも囚われない自由の身・・・・。それはつまり・・・・・、」
口元に手を当てながら、名探偵のように考える。でも結局何も思いつかず、「分かりません・・・」と俯いた。
伊礼さんは「ちょっと考えれば分かるだろう」と言うけど、「いや、まったく・・・」と返した。
「俺、こういう推理とか苦手なんですよ。記憶力はいいんですけどね。」
「まったく・・・どうしてここまで来て何も分からない?北川課長の苦労が窺えるな。」
「すみません・・・・・。」
「いいか冴木。死人ってことは、この世のどこにも存在しないってことだ。」
「それはそうでしょ。だって死んだってことになってるんだから。」
「俺は奴が死人であると知った時、正直焦ったよ。なぜならもしここで奴が姿をくらましてしまったら、もう二度と追いかけることが出来なくなるからな。」
「んん〜・・・・それは無いんじゃないですかね?だってあいつは本社も手に入れようとしてるから。」
「そうだな。しかしヤバイと感じたら、すぐにどこかへ消えるかもしれない。」
「そうなってくれたらありがたいですよね。もうアイツはいなくなるわけだから。靴キング!だって安泰ですよ。」
「いいや、駄目だ。奴は必ず捕まえる。そして大勢の人間の前で、その素顔を晒してやるんだ。」
伊礼さんは強い口調で言う。俺は首を傾げ、「でも伊礼さんはあいつは追い払えればいいって考え方だったんじゃないんですか?」と尋ねた。
「やっつけるのが無理なら、追い払うだけでもいいって言ってましたよね?」
「言ったよ。でも気が変わった。加藤の残した手紙を読んで、何としてもあいつにトドメを刺そうと決めた。」
「加藤社長からの手紙ですか・・・・。伊礼さんの方には何て書いてあったんですか?」
そう尋ねると、内ポケットから一枚の封筒を取り出した。
それをポンとテーブルの上に投げ、「読んでみろ」と顎をしゃくった。
「良いことが書いてある。」
「良いこと?」
「読めば分かる。」
そう言って肩を竦める伊礼さん。俺は手を伸ばし、中から手紙を取り出した。
しかしその時、突然部屋のドアが開いた。
「おはよう伊礼君。」
「あ・・・・・・、」
「そっちは冴木君だったわねえ?君もおはよう。」
「・・・・・・・・・・。」
「いよいよ明日が選挙ねえ。私は候補者じゃないけど、本番の前に候補者の顔ぶれを見ておきたくて来ちゃったわ、おほほほほ。」
金ピカの扇子を仰ぎながら、嫌味な笑いを響かせる。
俺はグッと息を飲み、「てめえ・・・」と睨んだ。
「この怪人が!」
「怪人?」
「しらばっくれるな!お前が怪人ってことはもう分かってんだよ!」
そう言いながら詰め寄ると、怪人の後ろから屈強な男たちが現れた。
「なんだお前ら!」
「私のボディガードに決まってるでしょ。君みたいな野蛮な子から身を守る為のね。」
怪人は靴キング!の部長の姿になりすまし、「おほほほほ」と笑う。
「冴木晴香・・・・威勢だけは一人前の青二才。コソコソ動き回っても、私をどうこうすることは出来なくてよ?」
「お前・・・・散々人を騙して・・・何とも思わないのか?」
そう言いながらさらに近づくと、ボディガードが前に出て来た。
「どけお前ら!」
「やめておきなさい。突っかかっても痛い目を見るだけよ?」
「じゃあやってみろ!」
「おほほほほ!青い青い!青臭いわあ!」
怪人はボディガードを押しのけ、俺の前に出て来る。
そして笑顔のまま睨みつけ、「君は後回しよ、ます先に・・・・」と言った。
「伊礼君に用があって来たの。」
そう言ってグイと俺を押しのけ、伊礼さんの方へ向かった。
「おいてめえ!」
追いかけようとすると、後ろからボディガードが掴んできた。
「離せコラ!」
そいつの腕を掴み、祐希さん仕込みの柔道で投げようとする。
でも全然ビクともしなくて、逆に持ち上げられてしまった。
「うお!離せよお前!」
「言っておくけど、その子たちは元プロレスラーだったり、元アメフト選手だったりの猛者よ。君じゃ敵いっこないわ。」
「ぷ・・・・プロレスラー・・・・?」
「大人しくしてるなら怪我はしないわ。そこで見てなさい。」
怪人は勝ち誇ったように言って、伊礼さんの前に立つ。
「おはよう伊礼君。」
明るい声で笑いかけると、伊礼さんは「今までの話・・・聞いてたのか・・・?」と睨んだ。
「ええ、もちろん。」
「・・・・・迂闊だったな。」
「最近のあなたの行動を監視してたのよ。」
「・・・・・・・・・。」
「でもさすがは元腕利きの探偵。なかなか尻尾を掴ませない。だから罠を張って待っていたのよ。」
「罠・・・・?」
「あなた・・・知り合いの探偵を使って、あの男に接触したでしょう?」
「あの男・・・・?まさか!」
「そう、かつて私が騙した可哀想な彼。彼女ともども私のせいで不幸になっちゃって。」
「そうか・・・・罠ってのはそういうことか・・・。」
伊礼さんは悔しそうに息を飲み、「やはり迂闊だったな・・・」と言った。
「あなたが私のことを嗅ぎ回っていたのは知っていた。でも使える人間だから傍に置いておいたのよ。
だけどここ最近、その動きが派手になってきた。このまま放っておくと、きっと大きな障害になる。そう思って・・・・ねえ?先に手を打っておいたの。」
「・・・・・・・・・・。」
「私が騙したあのカップル・・・・女の方は自殺した。そして男の方もまた大きな不幸を背負い込んだのよ。
私に貢ぐ為にあちこちからお金を借りて、今じゃ借金取りに追われる毎日。」
「・・・・・・・・・・。」
「彼はとにかくお金を困ってるわ。だから使いの者を出して、彼にこう伝えたの。『あなたの借金を肩代わりします。でもその代わり、怪しい奴が接触してきたらすぐに連絡を下さい』ってね。」
「なら・・・・あの男に自分の正体を明かしたのか?私は怪人だって。」
「まさか。とあるお金持ちのお婆さんとだけ伝えておいたわ。彼はお金に困ってたからねえ・・・・借金を帳消しにしてくれるなら、喜んで何でもしますって言ってくれたわ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「そして今日の朝・・・彼から私の部下に連絡があった。探偵と名乗る怪しい男が来たって。だけど話を聞く限りじゃ、どうも君本人じゃないみたい。
だから朝から君を監視して、尻尾を掴もうと思ってたのよ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「あなたは私の重要な情報を掴んで浮かれていた。だからこんな場所で、こんなガキにペラペラと色んなことを喋って・・・・・。
でもその油断が命取り。あなたには・・・・消えてもらうわ。」
怪人はボディガードに目を向け、「彼を靴キング!に連れて帰るわ」と言った。
「彼は素行が悪い。探偵を使って人のことを調べるなんて・・・・。そんな奴を選挙に出したら、ウチの会社の良い恥さらしよ。よって彼の立候補は私が取り消します。」
ボディガードは頷き、伊礼さんを羽交い絞めにする。
「クソ!離せ!」
「馬鹿な子・・・・。大人しく従っていれば、それなりの身分でいられたかもしれないのに。」
「誰がお前みたいな怪人に従うか!加藤の会社を乗っ取り、多くの人を騙し、その上本社までも乗っ取ろうとしている。お前は害悪しか振り撒かない寄生虫だ!」
「パラサイト・・・怪人・・・私には色んな呼び名があるわ。でもどの呼び方も気に入っている。みんなが私に憎しみを向け、でも結局何も出来ない。
そして私だけが良い思いをするの。大勢の人間の苦しみの上でね。・・・・最高の幸せよ。」
「心底腐ってやがるな貴様は・・・・。」
「それも褒め言葉よ。ズルいとか汚いとか、卑怯とか嘘つきとか・・・・どれも私の武器だもの。だから・・・褒めてくれてありがとう。」
怪人は「連れて行って」とボディガードに言う。
伊礼さんは引きずられながら、「このまま終わると思うなよ!」と叫んだ。
「お前の思い通りなどさせるものか!必ず叩き伏せてやる!」
「どうぞご自由に。出来るものなら。」
怪人は不適に微笑む。憎らしいほど余裕を見せながら・・・。
伊礼さんは部屋から連れ出され、「さて・・・」と怪人が俺の方を向く。
「君も私の敵ね。」
「お前の敵じゃない奴なんかいるか。ていうか伊礼さんを傷つけてみろ・・・・・タダじゃすまさねえぞ。」
「おほほほ!青い青い!青臭くてイジメたくなるわあ!」
怪人は金ピカの扇子を揺らし、思い切り俺の顔を叩いた。
「伊礼だけじゃない。お前も処分してやるわ。」
「やってみろよクソババア。」
「口だけは一人前ね。どうせほっといても首になるような社員のクセに。」
「その社員を怖がってたのは、どこのどいつだよ?偽の記事をでっち上げて、俺を潰そうとしてたクセに。」
「私は用心深いの。例え相手がミジンコでも、刃向う者は排除する。」
「じゃあやってみろよ。」
「ええ、君も選挙には出られないようにしてあげるわ。だから・・・・私と一緒に行きましょう。二度と刃向う気が起きなくしてやるわ。」
そう言ってボディガードに目配せをする。すると次の瞬間、俺の腹に激痛が走った。
「げはッ・・・・。」
「どう?元プロレスラーのパンチは効くでしょ?」
「う・・・げはッ・・・・・、」
「もう一発くらい殴っといて。暴れないように。」
俺はヨダレを垂らしながら悶える。厳ついボディガードが拳を構え、今度は脇腹を殴ってきた。
「うごッ・・・・・。」
「苦しそうねえ。」
「・・うう・・・・げばああ・・・・・・、」
「あらあら、こんな所で吐いちゃって。でもおれよお、僕。これから与える痛みはこんなもんじゃないわよ。私に刃向ったらどうなるか、きっちり身体で教えてあげるわ。」
怪人は「おほほほほ!」と笑い、「じゃあ行きましょ」と出て行く。
俺はボディガードに担がれたまま、ゲロで汚れた口を拭った。
「くそ・・・・・誰か呼ばないと・・・・。」
顔を上げ、誰かが通らないかと目を向ける。すると怪人は「この階には選挙の関係者以外はいないわよ」と言った。
「候補者は奥の部屋に集まってるわ。余計な人間は入れないの。」
「・・・・・・・・。」
「それにその様子じゃ大して声も出ないでしょ。助けを求めるなんて無理よ。」
「・・・・・・・・・。」
「仮に誰かが君に近づいて来ても、私はこう言うわ。この子は急に体調が悪くなった。それをたまたま私が見つけて、病院へ運んでいる。
ボンクラの一社員より、グループ会社の部長の言うことをみんな信じるわ。だから誰も君を助けたりしない。」
「・・・・・ゴミ野郎。」
「野郎じゃないわ。女だから。」
怪人はツカツカと廊下を歩き、エレベーターに乗り込む。
そして一階まで降りて、大きなフロアを歩いて行った。
「ごきげんよう。」
出勤してくる社員に挨拶をし、受け付けの前を通り過ぎる。
誰もが不審な目を向けて来るが、「この子体調が悪いみたいでね、病院へ連れて行く途中なの」と笑顔を振りまいた。
そのまま出口まで向かい、本社を後にする。そしてピカピカに磨かれたベンツに乗せられて、隣に怪人も乗り込んできた。
「さて冴木君。これからかなり痛いことするけど・・・・・我慢してね。」
「・・・・・・・・・。」
「心配ないわ。殺しはしないから。ああ、それと・・・・後から警察に行っても無駄よ。私はいつだって姿を消せるから。
そして誰も私を追いかけることは出来ない。だって私は死人なんだもの。この世のどこを探したって見つからないのよ。」
そう言って顔に指を食い込ませ、ベリベリと剥ぎ取った。
「初めまして、糸川百合よ。」
「・・・・地味な顔だな・・・・。」
「そうね。でもこの地味な顔こそが最大の武器よ。だって特徴がないってことは、どんな顔にもなれるってことだから。」
怪人は地味な顔を近づけ、ニコリと微笑む。
「選挙には欠員が出た。伊礼君と君、そして白川常務も・・・・。残った候補者はたったの三人、会長はさぞお怒りになるわ。
きっと緊急で候補者を募るはず。だから・・・・私が立候補するわ。」
「お前が・・・・・?」
「だって仕方ないでしょ?加藤君はもう使い物にならないんだから。何があったのか知らないけど、目が覚めたらただのガキに成り下がってた。あれじゃもう利用価値はないわ。」
「・・・・・・・・・・。」
「だから私が出る。そして必ず本社の社長を勝ち取るわ。もしそれを邪魔するなら、絶対に許さない。君の大切な人が傷つくこと・・・覚悟しておくように。」
怪人は笑顔を消し、冷たい視線を向ける。
車が走り出し、俺はどこかへ運ばれていった。
《どっかで拷問するつもりだな・・・・。どうにかしたいけど、どうにも出来ない。・・・・・ちっくしょう!ここまで来てこんな終わり方かよ。》
これから痛い目に遭うのは怖い。でももっと怖いのは、何も出来ずに終わることだった。
怪人は俺の頭を押さえつけ、「おほほほ!」と笑う。
「あ、今は香川の婆さんじゃなかったわ。ついクセで。」
そう言って俺の頭をガッチリ押さえ、肘置きの代わりにした。
どうしようもない悔しさを感じながら、ただ歯ぎしりをするしかなかった。

稲松文具店〜ボンクラ社員と小さな社長〜 第三十話 信頼を胸に(2)

  • 2016.05.21 Saturday
  • 12:49
JUGEMテーマ:自作小説
翌日、選挙の準備の為に本社へ行った。
時刻は朝の7時で、あくびをしながら候補者が集まる会議室へ向かう。
《昨日は一晩中あの怪人を見張ってたからなあ。眠くて仕方ないよ・・・・・。》
病院から出た後、課長と二人で怪人のマンションを見張っていた。
十二回建てのとても大きなマンションで、金持ちしか住めないような高級感がバリバリだった。
当然警備も厳重で、オートロックだけでなく守衛までいる始末。
だから中には入れず、車から様子を窺っていた。
怪人の部屋は最上階の真ん中。
電気が点いているので部屋にはいるんだろうけど、カーテンを引いているから中の様子は分からない。
一晩中見張っていたけど、一歩も外へ出て来ることはなかった。
課長はマンションに出入りする人間に注意していたけど、怪しい奴はいなかった。
だから結局、何の成果もあげられなかった。
《まあ当然だよな。警察だって何日も張り込みとかするんだろうし、一晩見張ったところで何か分かるわけないよな。》
本社の長い廊下を歩き、エレベーターに乗る。
五階のボタンを押し、扉が閉まるのを待っていると、「よう」と伊礼さんが走って来た。
「ああ、おはようございます・・・・。」
「眠そうだな。朝は苦手か?」
笑いながら中に入ってきて、ドアのボタンを押す。
エレベーターは上に向かって動き出し、俺は階数の表示を見上げた。
「一晩中見張ってて、全然寝てないんですよ・・・・・。」
「けっこうキツイもんだろ?張り込みってのは。」
「ええ、まったく・・・・。」
「俺も探偵時代はよくやったよ。張り込みと尾行、この二つが基本だからな。」
「警察とか探偵の大変さがよく分かりましたよ・・・・。しかも何の情報も掴めなかったし。」
「当たり前だ。一晩で何か分かるなら苦労はしないさ。」
伊礼さんは小さく笑い、「俺の方は収穫があったぞ」と言った。
「収穫?あの怪人のことが何か分かったんですか?」
「まあな。」
笑いながら頷き、「もっと小声で喋れ」と言われた。
「どこで聞かれるか分からない。」
「すいません・・・。」
エレベーターのドアが開き、「歩きながら話すよ」と言う。
「何かあいつの正体に繋がることが分かったんですか?」
そう尋ねると、「名前が分かった」と答えた。
「ほ・・・・ホントですか!?」
「声がデカイ。」
「ああ、すいません・・・・。」
会議室までの廊下を歩きながら、「で・・・どんな名前で?」と尋ねた。
「糸川百合だ。」
「百合?それ女の名前じゃないですか。」
「ああ、奴は女だ。」
「でもあのメールじゃ、奴は男だって・・・・・、」
「俺もそう思ってたんだが、どうも違うようだ。」
そう言って「こっちで話そう」と廊下を曲がった。
そして誰もいない部屋のドアを開け、小さく手招きをした。
「あの・・・・あいつが女だって本当なんですか?」
「ああ。」
伊礼さんはドアを閉めながら頷く。
近くのテーブルに腰掛け、「俺もてっきり男だと思ってたんだがなあ」と呟いた。
「あのメールの内容から考えると、男で間違いないと思ってた。」
「俺もそう思いましたよ。課長の説明を聞いて。」
「だから昔の伝手を頼って調べたんだ。そうすると、俺たちは大きな誤解をしていることに気づいた。」
「誤解?」
「あのメール、女の方が被害者だと思ってただろう?」
「ええ。」
「でも実は男の方も被害者だったんだ。」
「・・・・・・はい?」
思わず首を傾げ、「どういうことですか?」と眉を寄せた。
「だってあのメールの女性は自殺したんでしょう?」
「ああ。」
「なら被害者はやっぱり女性じゃないですか。」
「そう、被害者は女性だ。しかし男性の方も被害者なんだよ。」
「・・・・・?まったく分かりません。」
タコみたいに顔をしかめると、「いいか?」と指をさされた。
「あの怪人は、一人二役を演じてたんだよ。」
「一人二役?」
「実は昨日、昔の探偵仲間だった奴に連絡を取ってな。もう一度被害者の家族に会いに行ってもらったんだ。」
「あんな夜遅くからですか?」
「こういうのは迅速な行動が肝心なんだよ。そいつは俺の頼みを受けて、被害に遭った二人の実家へ行った。
すると女の被害者の両親が、気になることを口にした。」
「何です?」
「娘を騙した男を、あの後何度か見たって言うんだ。」
それを聞いて「ほんとに!}と叫んだ。
「だから声が・・・・、」
「すいません・・・・。」
「俺の知り合いはその話を聞いて、一晩中その男を捜してくれたよ。そしたらなんと、すぐ隣の街に住んでやがった。」
「そんな近くに・・・・。」
「俺も聞いた時はビックリしたよ。俺の知り合いはその男に話を聞こうとした。でも何も喋りたくないの一点張りだ。」
伊礼さんは腕を組み、今時珍しい禁煙パイプを咥えた。
「男は何も喋ろうとしなかったが、ちょっと小遣いを渡すとベラベラ話し始めたらしい。」
「なんか賄賂みたいですね・・・。」
「情報を提供してくれる相手に、多少の小遣いをやるだけだ。ちょっと豪華なランチが食える程度だが、口を噤む相手にはけっこう効果的なんだぞ。」
「へえ〜・・・。で、その男は何を喋ったんですか?」
「俺も詐欺に遭ってた。あいつも俺も騙されてたんだ・・・・・。そう言ったそうだ。」
そう言って禁煙パイプを揺らし、タバコを吸いたそうに唇を動かした。
「被害に遭ってたのはその男も一緒なんだ。」
「そこが分からないんですよ。どうして二人とも被害者なのか。」
「男はその女と結婚する気でいた。式の日取りも決めて、あとはみんなに祝福されるのを待つだけだった。
でもある日突然、女は別れを告げてきた。もうあなたに会うことは出来ないと言って。」
「どうして?」
「決まってるだろ?その男も怪人に騙されてたからだ。」
禁煙パイプを俺に向けながら、「怪人は男と女、両方を演じてたんだよ」と言った。
「奴はあるカップルに目を付け、そこから金を騙し取ろうと企んだ。一人を騙すより、二人を同時に騙した方が稼げるからな。」
「それはそうだけど、でもカップルを同時に騙すなんて・・・・、」
「出来るさ、顔を変えれば。奴はある時は男に化けて女に会っていた。またある時は女に化けて男に会っていた。」
「いや、それは無理があるでしょ。いくら何でも気づかれますよ。声だって違うだろうし、体形だって違うし。」
「その疑問はもっともだな。でもあいつは狡賢い。その辺はちゃんと考えてたみたいだ。」
「どんな風に?」
「いいか冴木。人間ってのは、まず相手の顔を見るんだ。」
「はい。」
「最初に顔を見て、その後に他の部分もざっと見る。そしてまた顔に戻る。これが初対面の人間に対する視線の動きだ。」
「ええ。」
「でもって、次から会う時は顔しか見ていない。だから顔さえ同一人物なら、まず別の人間と疑われることはない。」
「いや、でも声とか体形とか・・・・、」
「体形なんざ服で誤魔化せる。」
「・・・・でも身長とか無理なんじゃないですか?そこまで変わってたら気づくでしょ?」
「怪人は女だ。おそらく身長は男ほど高くはない。だから男役を演じる時は、シークレットブーツで誤魔化してたんだろう。」
「でも声は無理でしょ?異性の声マネなんてすぐにバレますよ。」
「そうだな。だったら喋らなきゃいい。」
「はい?」
「喋ってバレるなら何も言わなきゃいいんだ。こんな風にマスクでも付けて。」
懐からマスクを取り出し、「風邪を引いて喉でも傷めたことにすりゃいい」と言った。
「これなら無理に喋る必要はない。仮に喋らなくちゃいけない時でも、短い言葉で誤魔化せる。いつもと声が違うのは、風邪のせいだって誤魔化せるしな。」
「・・・・・・・・・。」
「そんな馬鹿なって思ってるだろ?」
「ええ・・・・。だってどう考えても無理があるっていうか・・・。」
「そうだな。でも人を騙すなんて案外簡単なんだよ。俺は探偵をやってたから、よく浮気の調査もした。
そして俺の所に依頼を持ち込んでくるのは、浮気だと疑う根拠があったからだ。」
「根拠?」
「ほら、女はよく言うだろ?男が浮気したらすぐ分かるって。」
「はい。」
「あれは男が油断してるからそうなるだけだ。別に女に不思議なセンサーが備わってるわけじゃない。」
「そうなんですか?女の人って、そういうのに対して勘が鋭そうだけど?」
「まあ確かに細かい所はよく気づくさ。でも全ての男の浮気がバレるわけじゃないんだ。男が油断さえしなければ、相手を騙すことは可能だ。
逆に女の方だって、油断してるとすぐに浮気がバレる。実際に俺の所へ来る浮気の相談も、半分は男だったからな。」
「そうなんだ・・・・。」
「そもそも女に不思議なセンサーが備わってるなら、結婚詐欺に引っかかることもないだろ?」
「確かに・・・。」
「疑い持たれるってことは、それなりの根拠があるんだ。でも油断さえしなければ、その根拠を完全に隠せる。だから騙し通すことが出来るってわけだ。」
「まあそうですね。ならやっぱり人を騙すのって・・・・、」
「簡単だ。用心深く、そして注意深い奴なら、より上手く相手を騙せる。まさに怪人のような奴ならな。」
伊礼さんは肩を竦めながらパイプを咥える。
「でもその時は上手く騙せたとしても、後々バレるんじゃないですか?声や体形は誤魔化すことが出来ても、本人同士の間で会話が噛み合わなくなったりとか。」
「分かってる。お前はこう言いたいんだろう?その時は騙せても、後々に辻褄の合わないことが出てくるんじゃないかって。」
「そうです。例えば女の方が「この前の映画面白かったね〜」とか言っても、男の方が「それ何のこと?」ってなると思うんですよ。じゃあその時におかしいって気づくはずでしょ。」
「ならない。」
「どうして?」
「なぜなら怪人が相手を騙す時は、金を要求する時だけだからだ。」
「金を?」
「奴は金が欲しいから人を騙すんだ。そしてどんな風に騙すかというと、「実は親が病気になってお金が必要で」とか、「夢を追いたいんだけどお金がなくて」とか。
いかにも理由を付けて金を騙し取る。」
「それ、引っかかる人いるんですか?」
顔をしかめながら尋ねると、伊礼さんはクスっと笑った。
「もし北川課長から「相談があるんだけど・・・」と言われたらどうする?」
「もちろん相談に乗りますよ。だって俺の一番大切な人ですからね。」
「そうだな。ならその次にこう言われたらどうする?「実は父に絶縁されてしまって、会社からも家からも追い出されたの。でもお金が無くて困ってて・・・」と。」
「そりゃもう俺の全財産を渡しますよ!だって俺、課長の為なら火の中水の中・・・・・、」
そう言いかけて、「あ・・・・・」と固まった。
「な?」
「・・・・・・・・・・。」
「人間ってのは、大切な人の言葉なら信用してしまうんだよ。そして困ってるなら力を貸そうとする。」
「・・・・・・・・・・。」
「それにな、金の無心ってのは、恥をしのんで頼って来てるわけだ。大切な人がそうまでして自分を頼って来る。そこにはむしろ、喜びさえ感じるんだよ。」
「・・・・・・・・・・。」
「だから疑うこともなく金を渡す。それに相手に恥をかかせちゃ悪いから、後々に話題に出すこともない。
金を無心する時に、「このことは誰にも言わないでね」なんて申し訳なさそうに言っとけば、ますます話題に出すこともなくなるだろう。」
「・・・・・・・・・・・。」
「そうすりゃ後で本人同士が会ったとしても、そのことが話題に上ることはない。むしろ気を遣って、その時の話を避けるだろう。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「要するに、怪人が相手に会うのは金を無心する時だけ。そしてその時の話題が上がることはない。だから本人同士の間で、会話の辻褄が合わなくなることはないんだ。」
「・・・・・なんか・・・酷いなそれ。そこまで考えてお金を騙し取るなんて・・・・。」
「それが詐欺ってもんさ。」
伊礼さんは窓際へ行き、本物のタバコを咥える。懐からケータイ用の灰皿を出し、シュッとライターを擦った。
「悪いが換気扇回してくれるか?」
「はい・・・・。」
部屋の中に換気扇の音が響く。伊礼さんは外へ向かって煙を飛ばし、ポワっと輪っかを作った。
「あの怪人は一人二役を演じていた。・・・・というのが俺の考えだ。」
「・・・・ただの推測だったんですか?」
「俺の知り合いがその男から話を聞き、それを元に推察しただけだ。男が言うには、女はよく風邪を引いてたらしくてな。
その時は必ずマスクを付けてたそうだ。そしてそういう時に限って、金の無心をしてきたと。」
「なら・・・伊礼さんの推測は当たってるかもってことですね。」
「男の話を聞いて、そう考えただけだ。きっと女にも同じようにして金をせびっていたはずだ。」
「最悪だな・・・・あの怪人。カップルの間に入り込んで、その関係を利用するなんて。」
「まさに寄生虫だ。」
「その男の人・・・・本当のことを知った時、相当傷ついたでしょうね。」
「だから何も喋りたくなかったのさ。でも今は金に困ってて、だから小遣いを渡すと喋ってくれた。」
「もし怪人に目を付けられなかったら、二人は今頃・・・・。」
「さあな。結婚して幸せになってたかもしれないし、どっちかが浮気して離婚していたかもしれない。でもそんなことは誰にも分からない。
消えた未来のことなんて、想像するだけ無駄さ。」
「そうですね・・・。だけど伊礼さんの言ってることが理解出来ました。でもそこからどうやって怪人の名前が分かったんですか?」
そう尋ねると、タバコを咥えたままこっちを振り返った。
「風邪薬。」
「風邪薬・・・・?」
「怪人が男に会う時、いつも風邪だと言ってマスクをしていた。だから男は心配して、薬は飲んでるのかと尋ねたんだ。」
「それで?」
「怪人はコクコクと頷いた。そして自分のバッグから市販の風邪薬を取り出したんだ。」
「用意周到ですね。」
「プロの詐欺師だからな。嘘を補う小道具くらい用意してるさ。しかしそれが仇となった。バッグから薬を取り出す時に、誤ってある物を落としたんだ。」
「ある物?」
「財布さ。」
伊礼さんは煙を飛ばし、「こう・・・ポロっと地面に落ちたんだ」とジェスチャーした。
「男はそれを拾い、彼女に渡そうとした。しかしその時、不思議な物を見たんだ。」
「不思議な物って・・・・何ですか?」
「財布の中に免許証が入ってたんだ。そしてその免許証は女の物じゃなかった。別人の顔と名前が載っていたんだよ。」
それを聞いて、「まさか・・・」と身を乗り出した。
「その免許証・・・・怪人本人の・・・・、」
「ああ。」
「・・・・・・・・・。」
「男は不思議に思い、じっとその免許証を見つめたそうだ。すると女はすぐに奪い取り、ゴホゴホ咳込みながらこう言った。「これは私のじゃなくて、ここへ来る前に拾ったんだ」と。」
「あの・・・・喋ったらバレるんじゃ・・・・、」
「だからゴホゴホ咳込みながらって言ったろ。」
「ああ、咳で誤魔化しながらってことですか?」
「そうだ。男は不思議に思ったが、特に追及はしなかった。でも免許証はバッチリ見てるから、顔と名前は覚えていた。」
「おお!ならその時の名前が・・・・、」
「糸川百合だ。」
「すごい・・・・名前まで分かったんだ。」
「ちなみにその免許証の顔写真は、おそろしく地味な女だったそうだ。だから北川課長から預かった例の写真を、スマホで知り合いの探偵に送った。
それを男に確認してもらうと、あの免許証の顔と同じとのことだ。」
「おおおおお!なら本人確定!」
「名前、素顔、それに性別・・・・怪人の素性がここまで分かってきた。長い間謎だったのに、ここ数日で信じられないくらに情報を掴めた。」
「でも免許証なら年齢や住所も載ってはずですよね?そっちは分からないんですか?」
「名前と顔しか覚えてないそうだ。」
「そうか・・・。でも本名が分かったなら大きな前進ですよね!」
「そうだな。でもここへ来て厄介なことが分かった。」
「厄介なこと?」
「名前と素顔と性別。これだけ分かれば、どこの誰かを特定するのなんざ簡単だ。だから俺はすぐに調べたよ。そして・・・・・ある事実が分かった。」
伊礼さんは大きく煙りを吐きながら、何とも言えない表情になった。
「あの怪人な・・・・、」
「ええ・・・。」
「もう死んでるんだよ。」
「はい・・・・・?」
思いもしないことを言われて、素っ頓狂な声で固まった。

稲松文具店〜ボンクラ社員と小さな社長〜 第二十九話 信頼を胸に(1)

  • 2016.05.20 Friday
  • 13:31
JUGEMテーマ:自作小説
病院の広い個室で、一人の少年がはしゃいでいる。
車のオモチャを持って、「ぶ〜ん!」と楽しそうに走り回っている。
俺は呆然としながら、その少年を見つめていた。
「伊礼さん・・・これって・・・。」
隣に立つ伊礼さんに目を向けると、「目が覚めたらこうなってた」と言った。
「加藤は瀕死の状態だった。いつ死んでもおかしくないほど危険だったらしい。」
「そんなにですか・・・?」
「呼吸が止まり、心臓も何度か停止したそうだ。医者は何かのショック症状だと言っていたが、原因はさっぱりだとさ。」
「そうですか・・・・・。でもこうして目を覚ましてくれたんだからよかったです。だって会社で倒れた時、今にも死にそうなほどだったから・・・。」
走り回る加藤社長を見つめながら言うと、「本当にそう思うか?」と睨まれた。
「確かに加藤は目を覚ました。しかし・・・・これを見て本当によかったと思うのか?」
子供みたいにはしゃぐ加藤社長を見て、伊礼さんは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「命は助かった・・・。でもそれは肉体の話だ。中身はもう・・・・この世にはいないのかもしれない。」
辛そうにそう言って、しばらく加藤社長を眺める。そして「すまん・・」と言って病室を出て行ってしまった。
「あ、伊礼さん!」
追いかけようとすると、「冴木君」と課長が止めた。
「今は一人にしてあげよ。」
「でも・・・・・、」
「私にだって分かる。この少年はもう・・・・加藤社長じゃないって。」
「そ・・・そんなことないですよ!きっと一時的に幼児退行してるだけで・・・・、」
「・・・・・・・・。」
「だってこのんなのおかしいですよ!加藤社長が戻って来たのは、あの怪人を倒す為なんですよ。だったらまだこの世から消えるわけが・・・・、」
「気持ちは分かる。でも・・・・・・、」
課長も加藤社長を見つめ、切なさそうに眉を寄せた。
「冴木君言ってたよね、加藤社長が時間が無いって呟いてたって。」
「・・・・・・・・・・。」
「加藤社長、きっと自分でも分かってたんだと思う。もう時間がそこまで迫ってるって。」
「違いますよ・・・・少し時間が経てば、元に戻るはずです。今はショック症状の影響で・・・・、」
「・・・・そうだね。」
課長はそう言って、これ以上は何も言うまいと黙り込む。
その目はとても悲しんでいて、俺に気を遣っているようにも思えた。
すると伊礼さんが戻ってきて、「冴木・・・ちょっといいか」と呼んだ。
「なんですか・・・?」
「実はな、万が一の時の為に、加藤から手紙を預かってたんだ。一つは俺宛、もう一つはお前にだ。」
そう言って懐から手紙を取り出し、俺に差し出した。
「加藤が病院へ運ばれたって聞いた時、最悪のことを考えた。だからあいつが残した手紙を持って来たんだ。」
「・・・・・・・・・・。」
「あいつは随分とお前のことを気にかけてた。よっぽどお前のことが気に入ってたんだろうな。」
「・・・・・・・・・・。」
「あいつはいつだって周りのことを一番に考える男だったが、でも個人的に誰かに肩入れするような奴じゃないんだ。
俺の知る限り、あいつは博愛主義者とでもいうか・・・・・個人に対して目を掛けることはほとんどなかった。
そんなあいつが、お前には興味を抱いていた。それに期待してたんだ。お前の持つ可能性とやらにな。」
伊礼さんは切ない声でそう言って、「それ、読んでやってくれ」と小さく笑った。
「何が書いてあるのかは知らない。でもきっと良い事さ。あいつの遺言と思って、大事にしてやってくれ。」
ポンと肩を叩き、「俺は会社に戻る」と言った。
「もうここにあいつはいない。でも俺は、あいつの意志を引き継がなきゃいけない。何としてもあの怪人だけは・・・・、」
伊礼さんの顔が憎しみに歪む。そして「そういえば・・・電話で何か言ってたな?」と睨んだ。
「あの怪人の重要な情報を掴んだとか?」
「ええ・・・・。」
「いったいどんな情報だ?」
「・・・・・・・・・・。」
「冴木、悲しいのは分かるが顔を上げろ。戦いはまだ終わってないんだぞ。」
そう言って肩を揺さぶられ、「悲しむのは全部終わってからだ」と励まされた。
「あの怪人が会社に巣食う限り、加藤は浮かばれない。だから今は・・・戦うことが弔いと知れ。」
「・・・・分かってます。でも急にこんな・・・・、」
呑気にはしゃぐ少年を見て、悲しみと切なさがこみ上げる。
手紙を握りしめ、グッと唇を噛んだ。
すると課長が、「素顔と性別が分かったんです」と答えた。
「私たちの知り合いが突き止めてくれました。」
「本当か!?」
伊礼さんはパッと笑顔になる。課長はバッグの中から写真と書類と取り出し、「これを」と渡した。
「車のフロントガラスに顔が映っています。おそらくそれが怪人の素顔です。」
「これが・・・・何とも地味だな。」
「それに書類にはメールのやり取りが印刷されています。その中に怪人の性別を特定できるような内容がありました。」
「すごい・・・・今まで一切謎だったのに。」
伊礼さんは写真と書類を見つめながら、「詳しく聞かせてくれ」と言った。
課長は頷き、淡々とした口調で説明を始める。
その周りを少年が走り回り、無邪気な声を上げていた。
「・・・・・・・・・。」
俺はそっと病室を抜け出し、廊下の椅子に座る。
加藤社長が残した手紙を見つめ、封を開こうと指を伸ばした。
でも途中でやめ、ポケットにしまう。
《これはまだ読まない。もし封を開けるとしたら、それは怪人を倒した後だ。》
ゆっくりと立ち上がり、病院の外へ向かう。
時刻は午後九時前。
病院の庭は外灯に照らされ、ぼんやりとベンチが浮かび上がっている。
近くの自販機でコーヒーを買い、ベンチに座る。
プシュっと缶を開け、手の中でもてあそんだ。
《病院へ来た時、あの怪人はいなかった。加藤社長が目を覚まして、その様子がおかしいことに気づいてからすぐに帰ったそうだけど・・・・。》
あの怪人は加藤社長を利用していた。
孤児院から引き取り、自分の手駒として操っていた。
でも目を覚ました加藤社長は、以前とはまるっきり変わっていた。
見た目だけでなく、中身まで子供に戻ってしまっていた。
きっとそれを見て、もうこの少年は役に立たないと見捨てたんだと思う。
あの怪人は、少年に加藤社長の魂が宿っていたことを知らないから、目を覚まして様子が変わってしまったことに驚いただろう。
でもそれ以上に、利用価値がなくなってしまったことに落胆したはずだ。
だからさっさと少年を見捨て、病院を後にしたに違いない。
「あの少年にとっては、これでよかったんだろうな。加藤社長の魂が抜けて、自分の肉体を取り戻した。それに怪人からも解放されたわけだし。
でも・・・・加藤社長の魂はもうここにはいない。せっかくこの世に戻ってきたのに、何も出来ずに消えちゃうなんて・・・・。」
悔しさがこみあげて、タバコを一本咥える。
火を点け、外灯に向かって煙を飛ばし、それが流れていくのをぼんやり眺めた。
「ずっとあのままってわけにはいかなかったと思う。あれは他人の身体だから、いつかは出ていったはずだ。でも・・・まだ早すぎる。成仏するには早過ぎるよ・・・・加藤社長。」
あの人と知り合って、まだそう時間は経ってない。
だけど俺の中では、とても大きな存在だった。
優秀だし、優しいし、決して弱音を吐かないし。
それにこの世に戻って来てまで、みんなを守ろうとした。あの怪人の手から・・・・・。
だから俺は・・・あの人に憧れた。心の底から、素直にカッコいいと思った。
いつか俺も、こんな風になりたいなって・・・・。
「いきなりいなくなるなんて酷いですよ・・・・。せめて怪人をやっつけるところを見てから・・・。」
いくらぼやいても、もうあの人は戻って来ない。
二度も死人が蘇るとは思えないし、神様だってそう何度もチャンスは与えてくれないだろう。
「あんなにカッコよかったのに、オモチャではしゃぐ子供になっちゃって・・・・。それが本来の姿だって分かってるけど、どうしても切なくなる。
子供の姿でも、ビシッと仕事をしていたあの人と比べてしまうから・・・。」
病室ではしゃぐあの少年を思い浮かべ、もう本当に加藤社長はいなくなってしまったんだなあと実感する。
煙を飛ばしながら、ズズッとコーヒーを飲んだ。
流れゆく煙は外灯に照らされ、もくもくと四方へ散らばっていった。
それを見つめながら、輪っかの煙を飛ばす。
ふわふわと宙へ浮かび、薄っすらと消えていった。
また輪っかを飛ばし、宙に消えていく。
寂しさを誤魔化す為に、俺も子供みたいに遊んだ。
「・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・あれ?」
煙で輪っかを作っていると、ふとあることに気づいた。
「あの少年って・・・・確か・・・・。」
俺は思い出す。初めて加藤社長と出会った、次の日のことを。
あの日の新聞には、確かこう書かれていた。
『稲松文具に最年少社長誕生か!?』
一面にデカデカとそう書かれていた。
そこには加藤社長の顔も載っていて、その横にこんな文字が。
『靴キング!社長 加藤猛君(12)』
あの記事を見た時、俺は驚いた。
まさかクレーマーの婆さんの孫が、グループ会社の社長だなんて思わなかったから。
しかもその孫の年は12歳。
小学六年生にして、一企業の社長。
でもそれは身体が12歳なのであって、中身は違う。
あの少年の魂はれっきとした大人で、しかもバリバリ仕事の出来る人だった。
その魂が抜けた今、少年は本来の姿に戻るはずだ。
「そう・・・元に戻るはずなんだよ。でも戻ってない。あの少年・・・・元通りになんかなってないんだ。」
俺は立ち上がり、大きな病棟を見上げる。
上の階の個室にはあの少年がいて、きっとまだオモチャではしゃぎ回っているはずだ。
「あの子・・・12歳なんだよな?だったらオモチャを持って走回ったりするかな?
ぶ〜んとか言いながらはしゃいでたけど、それってどう考えても12歳にしては子供過ぎるよな。」
俺は自分の子供時代を思い出す。
俺が小学六年生の時、いったいどんな感じだったかを。
「あの頃・・・・まだオモチャで遊んでた記憶はある。でもそれはゲームとかカードバトルしたりとか、そんなんだったはずだ。
車のオモチャを持って走り回るなんてことはなかったな。」
子供の成長には個人差があるから、一概にどんな遊び方をするかなんて言えない
だけどいくらなんでも、あそこまで子供っぽい遊びはしないだろう。
だって車のオモチャではしゃぎ回るなんて、もっと小さい子のやることだから。
「・・・・・・・・・。」
病棟を見上げながら、眉間に皺を寄せる。
「これ、もしかして・・・・・。」
湧き上がった疑問は、ふつふつと強くなる。
いても立ってもいられなくなって、病院へ駆け出した。
しかしすぐに足を止め、ポケットに手を入れる。
さっきもらった手紙を取り出し、「俺の考えが正しければ・・・」と睨んだ。
封を切り、中から手紙を取り出す。
そこには一枚の手紙が入っていて、達筆な文字でこう書かれていた。
《よう冴木!これを読んでるってことは、俺は病院にでも運ばれた後なんだろうな。
なんか最近身体の調子がおかしくてさ、意識が抜けそうになるんだよ。きっともうじき死ぬってことなんだと思う。まあ元々死んでるんだけどな。》
そう書かれた文章の後には絵文字が付いていて、あの人らしいなと思った。
《きっと俺に残された時間は少ない。だって本当はもう死んでるはずなんだし、この身体だって別の人間のものだ。
だからそろそろあの世へ逝けって神様が言ってるんだろうな。だけどこのままくたばるつもりは無い。
俺がこの世に戻って来たのは、あの怪人を倒す為なんだから。それを終えるまでは、石に齧りついてでもこの世にとどまってやる。》
今度は怒ってる絵文字が描かれていて、俺はクスッと笑った。
《いいか冴木。これをお前が読んでるってことは、俺は多分危険な状態なんだと思う。だからこのまま死ぬこともあるわけだ。
その時はこの手紙を捨ててくれていい。だけどもし生きてるなら、このまま最後まで読んでくれ。》
「ちゃんと生きてますよ、加藤社長。」
俺はそう呟き、先の文章を追った。
《俺はお迎えの時間が来るまで道化を演じなきゃいけない。だから前みたいにお喋りするのは無理なんだ。》
「分かってますよ。」
小さく笑い、ゆっくりと先に目を進める。
《もしまだ俺が生きてるなら、とにかく子供のフリをする。それも幼稚園児みたいに小さな子供のフリだ。オモチャで遊んだり、ギャーギャー喚いて走り回ったり。
別に頭がおかしくなったわけじゃないぞ。そうやって徹底的に子供のフリをすることで、あの婆さんの手から離れるのが目的だ。》
「ええ、そうだろうと思いました。」
コクリと頷き、「あれ、明らかに12歳の子供じゃないですから」と言った。
《あの婆さんは俺を利用してるんだ。見た目は子供だけど、知能は大人並の俺を養子に引き取ることで、都合の良い手駒にした。
だけど俺が目を覚ました時、中身まで子供っぽくなってたら、きっと捨てるはずだ。このガキはもう使い物にならなくなったって思ってな。》
「あなたの目論見は上手くいってますよ。あの怪人はあなたを見捨てて帰りましたから。」
《もう俺には時間が無い。だからあの婆さんの傍にいちゃ何も出来ないんだ。限られた時間の中であいつを倒すには、俺だって博打を打たなきゃいけない。
だから俺は、今から死ぬまで子供のフリをする。そうやってあの婆さんの目を欺く。
そうすることで、あいつは本社に取り入る手段を失うからな。でも決して諦めたりはしない。どうにかして本社に手を伸ばそうとするはずだ。》
「俺もそう思います。あんな狡賢い奴が、そう簡単に諦めたりしないだろうから。」
《だけどもう選挙は近い。だからあの婆さんも、今までみたいに用意周到に準備をしている時間は無いんだ。だからそこを狙う。
焦って下手な小細工を打ってきたところを押さえるんだ。》
「もうすでに奴の情報は幾つか掴んでます。伊礼さんにその情報を渡したから、きっと正体を暴いてくれるはずですよ。」
《お前と伊礼の働きに期待してるよ。だけど俺だってただ子供のフリをしてるわけじゃない。
今は言えないけど、実はあの婆さんを倒せるかもしれない武器を一つだけ持ってるんだ。》
「武器?」
俺は首を傾げ、「加藤社長も何か掴んでたのか?」と呟いた。
《でもその武器を使うには、タイミングが重要だ。だから今は誰にも言えない。もしどこかから漏れてしまったら、全て台無しだからな。
でも逆に言えば、それほど強力な武器ってわけだ。その武器を有効に使う為にも、お前と伊礼には期待してるぞ。》
手紙の本文はそこで終わっていて、俺は「なんだろう・・・その武器って?」と唇をすぼめた。
「あの怪人を倒せるほど強力な武器か・・・・・。今はまだ言えないって書いてあるけど、すごく気になるな。」
色々と考えを巡らせるけど、まったく何か分からない。
でもこの人がハッタリを言うはずがないから、その言葉を信じようと思った。
そして本文の下に、PSと続いていた。
《俺さ、こうしてこの世に戻って来られてよかったと思ってるよ。あの怪人を倒せるチャンスを掴んだわけだし、それに親父の建てた会社を守ることも出来るから。
だけどもう一つ良いことがあって、それはお前に出会えたことだ。
冴木、お前は面白い奴だよ。俺が今までに出会った人間の中で、お前みたいな奴はいなかった。
優秀な奴はたくさんいたし、ボンクラだってたくさんいた。だけど優秀でボンクラな奴ってのは初めてだ。
だからお前を見てると面白くてしょうがないよ。》
「これ・・・・褒めてるのか?」
《それに変態的な・・・もとい超人的な記憶力まで持ってて、ちょっと目にしたことでも全部覚えてる。ますます面白い奴だ。
その特別な才能、ちょっと羨ましいよ。だってコンビニでエロ本を立ち読みするだけで、全部覚えられるんだもんな。
レジにエロ本を持って行って、女の子の店員の前で恥ずかしい思いをしなくて済むわけだ(笑)》
「女の子のいるレジになんか持って行きませんよ!ていうかコンビニとかで買わないから!」
《優秀でボンクラ、しかも超人的な記憶力の持ち主。こんな変わった奴はどこを探したっていない。
お前を見てるとまったく飽きないっていうか、腹抱えて笑えるっていうか。》
「これ・・・・絶対に褒めてないな。」
《でもな冴木、お前の一番の魅力は別のところにあるんだ。それが何か分かるか?》
そう問われて、「なんだろう・・・?」と首を傾げた。
「俺の一番の魅力・・・・まったく人見知りをしないこととか?それとも難しいゲームでもけっこう簡単にクリアしちゃうとか?」
色々と考えながら、手紙の先を読んだ。
《お前の一番の魅力、それは信頼だよ。人と人は繋がってなくちゃ生きていけない。その上で一番大切なのが信頼なんだ。
この人なら本音を言える。この人なら任せられる。この人なら本当の自分を曝け出してもいい。
相手にそう思わせるには、お金や名誉じゃダメなんだ。信頼がないとダメなんだよ。
お前はその信頼を持ってる。なぜかは分からないけど、お前に対してなら心を開きたくなってしまうんだ。
だから冴木、この先も変わらないでくれ。成長はするべきだけど、でも中身は変わらないでほしい。
どんなに偉くなろうが、どんなに金持ちになろうが、いつまでも信頼できる冴木でいてくれ。》
手紙の最後にはそう書いてあった。
思わず目が潤み、「加藤社長・・・」と手紙を読み返した。
「俺・・・・嬉しいです。あなたにそこまで言ってもらえるなんて。自分の憧れてる人に信頼されるなんて・・・こんな嬉しいことはないです。」
ギュッと目を押さえ、湿った指を服で拭う。
手紙を戻し、「俺、やりますよ」と頷いた。
「絶対にあなたの信頼を裏切ったりしません。だから見ていて下さい。俺があなたの会社を守るところを。」
ポケットに手紙をしまい、加藤社長がいる病棟を見上げる。
すると伊礼さんが出て来て、「読んだか?」と尋ねた。
「はい。」
「あいつ怪人を化かしやがった。道化を演じてあの怪人の手から離れやがったんだ。」
伊礼さんは可笑しそうに言い「いい気味だよな」と笑った。
「いつもは自分が騙す側なのに、今回は騙されやがった。腹を抱えて笑いたい気分だよ。」
「なら・・・伊礼さんの手紙にも?」
「ああ、さっき読んだ。途中で笑いがこみ上げてきたがな。」
「あの人らしいですよね。一筋縄じゃいかないっていうか。」
「それが魅力だからな。」
「加藤社長・・・俺を信頼してるって書いてました。俺、あの人に憧れてて、だから絶対にその信頼を裏切りたくないんです。」
「俺も裏切りたくないさ。あいつは親友だからな。」
俺たちは顔を見合わせ、笑いながら頷いた。
そこへ課長もやって来て、「冴木君・・・」と呼んだ。
「加藤社長・・・・、」
「分かってます。あの人はまだこの世にいる。」
「君の方が正しかったんだね。あの人はまだ消えていないって。」
「そう簡単にくたばるような人じゃないですよ。だってあの世から戻って来た人なんですから。」
「そうだね。」
課長は小さく頷き、「君はいつだって誰かを信頼してるんだね」と笑った。
「俺が?」
「うん。嘘ついたり逃げたりしないのは、きっと人を信頼してるからよ。そんな君だからこそ、周りも君を信頼するんだと思う。」
「なら・・・課長も俺のことを・・・・、」
「もちろん。」
課長は女神の微笑みでそう答える。
俺は嬉しくなって「なら有川って人よりも・・・?」と尋ねた。
「あの人と俺・・・・どっちが信頼出来ますか!?」
そう言って詰め寄ると、課長は困った顔で「え〜っと・・・」と言った。
「そういうのって・・・・比べるものじゃないと思うから・・・・、」
「でも強いて言うなら!?」
「そんなこと言われても・・・・。」
「そこを何とか!」
「冴木君・・・・顔が怖いよ。」
課長は俺を宥めながら苦笑いする。
「え?ああ!すいません・・・つい興奮しちゃって・・・。」
「私は本当に信頼できる人としか付き合わないの。だから君も信頼してるし、有川さんも信頼してる。それに箕輪さんや栗川さんだって。」
「・・・それって・・・みんな信頼してるってことになるんじゃ・・・・?」
「そうよ。だって信頼に順位なんてないんだから。」
もっともなことを言われ、俺は「そ、そうですよね!」と笑う。
そして《俺が一番じゃないのか・・・》と落ち込むと、伊礼さんに肩を叩かれた。
「冴木よ・・・・。」
「はい・・・・・。」
「今のはマイナスだぞ。」
「はい・・・・?」
「信頼は求めるものじゃない。自然に得られるものだ。なのに他人との信頼を比べるなんて・・・・彼女に嫌われるだけだぞ。」
小声でそう言われて、「はうあ!」と引きつった。
「冴木・・・前から思ってたんだが、お前ってまさか童貞か?」
「な、なんですか伊礼さんまで!?」
「女性に対しての距離の取り方がな・・・・・どうも極端というか。大人しいかと思えば、急に強引になったりする。それは女性経験に乏しい男の特徴だ。」
「ぐはッ!」
「念の為に言っておくが、童貞で30を過ぎても魔法使いにはなれないんだぞ。」
「知ってますよそんなの!」
「いや、お前のことだからな・・・・もしかしたら信じてるんじゃないかと思って・・・・、」
「信じるわけないでしょ!」
唾を飛ばしながら言って、「どいつもこいつも・・・」と唇を尖らせる。
すると課長が「ねえ伊礼さん。素人童貞ってどういう意味ですか?」と尋ねた。
「ああ、それはな、いわゆる風俗で筆おろしを・・・・、」
「あー!あー!言わなくていいですから!!」
「風俗で筆おろし・・・・。風俗は分かるけど、でも筆おろしって・・・何?」
「課長!もうやめましょう!」
「冴木よ・・・まさかお前は素人どうて・・・・、」
「だからもういいってば!」
どいつもこいつも、なぜこんな話にこだわるのか?
俺が童貞かなんてどうでもいいじゃないか!
伊礼さんは「早く卒業しろよ」と言い、課長はまだ「筆おろしって何だろう?」と呟いている。
なんだか頭が痛くなってきて、一気にやる気が削がれた。
《加藤社長・・・この場にあなたもいたら、きっと俺をからかうんでしょうね。だけど出来ることなら、もう一度だけあなたとちゃんと話したい。
童貞ってからかってくれてもいいから、この世から消える前にもう一度・・・・・。》
加藤社長は道化を演じている。きっとこの世から消えるまでそうしているつもりだろう。
それはあの怪人の目を欺く為だと分かっているけど、せめて向こうへ逝くまでに、もう一度きちんと話をしたかった。
叶わない願いだとしても、またあの人の言葉を聞きたい・・・・・。
病棟を見上げ、手紙の入ったポケットを叩いた。

稲松文具店〜ボンクラ社員と小さな社長〜 第二十八話 怪人の素顔(2)

  • 2016.05.19 Thursday
  • 12:49
JUGEMテーマ:自作小説
怪人の正体を掴む為の重要な情報。
祐希さんの持って来た写真の中に、その一つが隠されていた。
それは怪人の素顔・・・・・。
でももうもう一つ重要な情報があるという。
それは怪人から結婚詐欺に遭っていた被害者のメールだ。
「そのメールには、この写真にはない重要な情報があるの。」
そう言いながら、メールを印刷した紙をゆらゆらと振った。
「これに?」
「気づかない?」
「・・・・・いえ、まったく。」
「・・・・・・・・。」
「だって怪しいところといえば、よくオシッコに行くこと。長い間出て来ないこと。そんで出てきた時は肌のノリが良くなってることくらいじゃないですか。
それってつまり、あの怪人は今ほどメイクが上手くなかったってことでしょ?」
「そうね。でもそれだけじゃない。他にも一つ、重要な手がかりがあるのよ。あの怪人を知る上でね。」
「手掛かり・・・ですか?」
「もう一度よく読んでみて。」
そう言われて、俺はまたメールを読み返した。
だけど全然おかしな所は見当たらない。メイクに関するところ以外は。
「・・・・すいません。まったく分かりません。」
首を傾げながら、「課長は何か分かりましたか?」と尋ねる。
すると口元に手を当てて、じっと考え込んでいた。
「課長?」
「・・・・・これ、ちょっと気になるところが・・・・、」
「どこです?」
「ここよ、子供のくだり。」
そう言ってメールの一部を指さした。
《これから始まるんだよ。二人の人生が。きっと新しい家族だって増える。》
《由実は子供好きだもんね。最初は男の子がいい?それとも女の子?》
《どっちでもいい。だって子供は神様からの授かりものだから、男とか女とか関係ないから。》
《そうだね。もし俺たちの子供が出来たら、大事に育てようね。》
《うん!きっと幸せな家族になるよ。二人でがんばろ!》
課長の指さした部分を読みながら、「何か変なところでもあります?」と尋ねた。
「変っていうか、気になることがあるの。」
「どこがです?」
「この文章だと、被害者の女性は間違いなく子供を作るつもりでいるよね?」
「そりゃ当然でしょう?結婚するんだから。」
「そうだね・・・。でもそれって、子供を作る能力があるってことだよね?」
「・・・・はい?」
何が言いたいのか分からず、顔をしかめる。
「このメールの女性は、相手の子供を産むつもりでいる。だって子供は神様からの授かりものだって書いてあるから。」
「うん、まあ・・・・そういうもんじゃないんですか?実際に神様が授けてくれるのかどうかは知らないけど。」
「子供を産む為には、そういう行為が必要になるわ。」
「結婚したら夫婦の営みをするのは当たり前じゃないですか?」
「そうだけど、その当たり前のことをしようとしているってことは、やっぱり子供を作る能力があるってことが前提なのよ。」
「あの・・・・さっきから何が言いたいんですか?俺にはさっぱりなんですけど。」
唇をすぼめながら尋ねると、課長はこう答えた。
「生殖能力があるってことよ。」
そう言って、「ねえ祐希さん」と尋ねた。
「私はこういうのに詳しくないから聞きたいんですけど・・・・。」
「なに?」
「その・・・・さっきこう言いましたよね?怪人は相手を騙す為に、性転換手術をすることもあるって。」
「ええ。実際にそうして相手を騙してるわ。」
「なら・・・・もし性転換手術を行った場合、生殖能力というのはどうなんでしょう?性行為は可能かもしれないけど、実際に子供を作ることは・・・・、」
「無理よ。」
祐希さんはスパッと答えた。
「手術によって、異性の性器を作ることは出来る。だけど実際に精巣や卵巣まで作れるわけじゃないわ。」
「なら手術によって性別を変えたとしても、生殖能力までは変えられないわけですね?」
「ええ。」
「なるほど・・・・それを聞いて、このメールの重要性が分かりました。」
課長は納得したように頷く。祐希さんも「さすが翔子ちゃん、よく気づいたわ」と頷いた。
なんだか俺だけ置いてけぼりにされたような気になって、「俺、寂しいです・・・」と呟いた。
「二人で納得してないで、俺にも教えて下さいよ。」
唇を尖らせながら言うと、「翔子ちゃん、説明してあげて」と祐希さんが振った。
「いい冴木君?」
課長は子供に教える先生みたいに、すごく丁寧な口調になる。
「怪人は性転換手術までして、相手を騙すことがあるの。」
「さっき聞きましたよ。」
「そして手術をしてしまうと、生殖能力は失われる。」
「それも聞きました。」
「ということは、当然子供は作れないよね?」
「それは俺でも分かります。」
「でも相手の女性は、子供を作る気でいる。」
「メールの文章から考えるとそうでしょうね。でもそれの何が変なんですか?怪人は人を騙すのが得意なんだから、性転換してることだってバレないでしょ?」
そう答えると、「そこが重要なのよ」と言われた。
「いい?この女性は怪人の子供を産むつもりでいるわ。ということは、怪人には生殖能力があるってことを知ってるのよ。」
「・・・・・・?」
「この二人は付き合ってたんだから、当然そういう行為もするわよね?」
「そりゃするでしょ。」
「そしてそういう行為をした時に、男性は必ず射精をするでしょ?」
「・・・・・・・・・。」
課長の口から射精という言葉が飛び出し、何とも言えない気持ちになる。
なぜか俺の方が恥ずかしくなって、ちょっとだけ目を逸らしてしまった。
「怪人はこの女性と付き合っている時、そういう行為をしていたはず。そして最後には射精をしていた。」
「まあ・・・・出さない奴はいないと思います、はい・・・。」
「いい?もし・・・もしも怪人を射精をしていなかったら、この女性は変に思うはずよ。どうしてセックスをしておきながら、射精しないんだろうって。」
今度はセックスという言葉が飛び出し、また恥ずかしくなる。
だって課長の口からそういう言葉が出て来るのは・・・・なんかイメージにないから。
「だけどメールの文章を読む限り、この女性はそういう疑問は抱いていない。それはつまり、この時の怪人には射精能力があったってことよ。」
「そ・・・そうですね・・・。」
「ちゃんと聞いてる?ていうかどうして顔が真っ赤なの?」
「いや、何でもないです。続けて下さい・・・・。」
こほんと咳払いをしながら、冷めた紅茶をすすった。
「この女性を騙している時の怪人には、射精能力があった。それはつまり、この時点では性転換手術をしていないって証拠なの。」
「はい・・・・・。」
「ということは・・・・・・?」
「いうことは・・・・・・・?」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・なんで黙るのよ?」
「いや、だって・・・・なんかさっきから恥ずかしくて・・・・。」
顔を真っ赤にしながら、また紅茶をすする。
すると祐希さんが「君ってまさか・・・」と口を開いた。
「君は・・・童貞なの?」
「ぶふぉ!」
紅茶を吹き出し、「な・・・何言ってんですか!」と睨んだ。
「だって顔を真っ赤にしてるから。こういうのに免疫がないのかなと思って。」
「し・・・失敬な!」
「なら童貞じゃないのね?」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・ノーコメントで。」
「まさか・・・・素人童貞とか?」
「違いますよ!ていうか童貞の話なんてどうでもいいでしょ!」
そう言って怒ると、祐希さんはニヤニヤと笑った。
《くっそ〜・・・・絶対に楽しんでるよ、この人。》
覗きはするわ、童貞かと問い詰めるわ・・・・人をからかって何が楽しいんだか。
ムスっとしながら紅茶を飲んでいると、課長が「あの・・・・」と尋ねた。
「素人童貞って・・・・何?」
そう言って俺に目を向ける。
「ぶふぉ!」
「童貞は分かるんだけど、でも童貞に素人とか玄人とかあるの?」
「い・・・いや・・・・それはですね・・・・、」
「ねえ祐希さん。素人童貞って何のことですか?」
「それはね、いわゆる風俗で筆下ろしを・・・・、」
俺はテーブルにカップを叩きつけ、「答えなくていいですから!」と止めた。
「あら、また顔が真っ赤。じゃあやっぱり素人どうて・・・・・、」
「もう童貞の話はいいです!ここでお終い!はいお終い!」
これ以上放っておくと、何を言われるか分からない。
課長はまだ「素人童貞って・・・」と呟いていて、「課長ももうやめましょう!」と止めた。
「今は怪人の話でしょ!?」
「ああ、そうだったね。」
「・・・・・で?なんでしたっけ?どこまで話してたんだっけ・・・・?」
「もう!やっぱりちゃんと聞いてないじゃない。」
課長はムッと睨んで、「人の話はちゃんと聞くように」と怒った。
《ちゃんと聞いてましたよ。でも祐希さんが邪魔をするから・・・・。》
肩を竦めながら、また紅茶をすする。
「ええっと・・・・怪人には生殖能力があって、相手の女性はそれを知っていた。それはつまりその・・・・・。」
「つまり?」
「・・・・・つまり・・・・・分かりません。」
「もう・・・・。」
課長は大きなため息をつき、「どうしてここまで説明して分からないかなあ」と呆れた。
「すいません・・・・。」
「いい?生殖能力があるってことは、性転換手術をしていないってことなの。それはつまり、怪人の本当の性別は男ってことになるわけ。」
「男・・・・・。」
「だってそうでしょ?被害者の女性は、相手の子供を産むつもりでいた。だったら怪人には射精能力があったってことなんだから。」
「・・・・・・ああ!そうか・・・なるほど・・・分かってきた。」
俺は頷き、「手術したら射精出来なくなりますもんね」と言った。
「そうよ。女性から男性に変わったとしても、射精能力まで得るわけじゃない。だから怪人の性別は男なの。」
「ははあ・・・・そういうことだったのか。」
「このメールの一番重要なところは、怪人の性別がハッキリ分かるってことなのよ。」
「なるほどなあ・・・・。今まで一切謎だった奴の情報が、写真とメールで二つも分かったわけだ。」
「そう、素顔と性別がね。」
「それすごいですよ。何もかもが一切謎だったのに、そんな重要なことが二つも分かるなんて。」
「これは大きな前進よ。」
課長は頷き、「顔と性別が分かれば、色々と調べようがあるからね」と言った。
「でも怪人の調査は私たちの仕事じゃない。だからこの情報は伊礼さんに渡しましょ。」
「伊礼さんに?」
「だって彼は元探偵でしょ?しかも腕が良いって言ってたじゃない。」
「加藤社長が言うには、かなりのもんらしいですよ。」
「なら伊礼さんにこの情報を渡しておけば、必ず怪人の素性を突き止めてくれると思う。私たちは怪人の見張りに専念出来るわ。」
「おお、なるほど!なんて言うか・・・・おお!って感じですね。」
「ほんとに分かってる?」
「もちろんですよ。だって俺たちには、伊礼さんだけじゃなくて祐希さんだっているんです。きっとすぐに怪人の正体を掴んでくれるはずですよ。」
そう言って「ね?」と笑いかけると、祐希さんは「悪いんだけど・・・」と肩を竦めた。
「これ以上は協力出来ないのよ。」
「な・・・・なんでですか!?前は力を貸してくれるって・・・・、」
「そうなんだけど、他に仕事が入っちゃってね。」
「そんな・・・・、」
「悪いけど、これは善意の協力でやってることだから。もっと言うなら、ただのボランティアね。」
「ボランティアって・・・・そんな言い方酷いじゃないですか。」
「だって本当のことだもの。いくら君達に協力したって、一円の得にもならない。私は君達みたいに会社に雇われてる身じゃないから、休んだ分だけ収入が減るの。」
「だからって途中で抜けるなんて酷いですよ。せっかくここまで協力してくれたのに。」
「これは私じゃなくて、風間君がやってくれたのよ。でも彼だって仕事がある。ジャーナリストとして、そして喫茶店のマスターとして。」
「あの人・・・・どっちが本業なんですか?」
「今は喫茶店みたいね。元々は趣味で始めたんだけど、今じゃけっこう儲かってるみたい。だから近いうちに喫茶店に専念するって言ってたわ。」
「じゃあなんで俺たちに協力してくれて・・・・、」
「それは私の顔を立ててくれただけ。」
「だけどここで降りるなんて冷たいですよ。せめてもうちょっと協力してもらえませんか?」
ムスっとしながらそう言うと、祐希さんは「あのね・・・」と顔をしかめた。
「私はあなた達の便利屋じゃないのよ。前の事件の時は、黒幕が私にも因縁のある奴だったから力を貸しただけ。でも今回はなんにも私に関係ないもの。」
「それはそうだけど・・・・・、」
「どうしても協力してほしいなら、仕事として依頼してちょうだい。報酬さえもらえるなら、喜んで手を貸すわよ。」
祐希さんは肩を竦めながら、「どうする?」と尋ねる。
俺はしばらく迷ってから、「もしかして・・・」と尋ねた。
「祐希さん、ここまでの仕事に報酬もらってます?」
そう尋ねると、何も言わずに微笑んだ。
「前は聞きぞびれたけど、あなたと加藤社長ってどういう関係なんですか?前に「うみねこ」で会った時、なんかお互いに知ってる感じだったけど。」
「仕事で知り合ったのよ。ほら、加藤社長って元々は企画部長だったでしょ?だから新しい商品が出来た時に、私に撮影を依頼してきたのよ。」
「広告用の写真とかですか?」
「そうよ。私は報酬さえ貰えばジャンルは問わないから。風景も動物もヘアヌードも撮るし、ジャングルや海底にだって行くわ。もちろん広告用の物撮りだってやる。」
「なんか・・・・すごいですね。」
「だってプロだもの。仕事に見合った報酬さえ貰えるなら、選り好みはしないわ。」
「なるほど・・・・。ならやっぱり今回も仕事だったんですね。」
俺は祐希さんの持って来た写真や書類を見つめ、「これって加藤社長から依頼されたんでしょう?」と尋ねた。
「うみねこで会った時、確か仕事だって言ってたはずです。」
「そうね。」
「加藤社長はあなたが筋金入りのプロだって見込んで、多額の報酬を渡して怪人の調査を依頼したんでしょう?何か奴の弱みになるような写真を撮ってきてくれって。」
「正直言うとねそうね。あなた達には黙っていてくれって頼まれてたけど、もう仕事は果たしたから喋っても問題ないわ。」
「なら風間のでっち上げの記事が出るのを防いでくれたのも、加藤社長からの依頼だったんですか?」
「ええ。」
「・・・・・・・・。」
「加藤社長、君のことを心配してたからね。あいつは大きな可能性を秘めてるけど、まだまだ脇が甘いって。
だから万が一に備えて、私に頼んでたのよ。もし何かあったら、冴木を助けてやってほしいって。もちろんその分は報酬を上乗せしてもらったけどね。」
「・・・・・・・・。」
「君はまだ若いから分からないだろうけど、ほとんどの物事には誰かの意図が絡んでるのよ。
偶然起きたことに思えても、実は誰かが糸を引いていた。都合の良い偶然ってそうそう起こるものじゃないからね。」
「・・・・・・・・。」
「ここまでの私の協力は、全て加藤社長からの依頼。でも貰った報酬分は働いたから、これ以上は手を貸せないわ。
後は君たちだけでやるか、もしくは私に仕事として依頼するか。風間君の分の報酬も貰えるなら、彼にも手伝わせるけど・・・・どう?」
そう言って決断を促す。
俺は眉を寄せながら、「祐希さん」と呟いた。
「俺・・・ちょっとあなたのことを尊敬しました。」
「褒めても何も出ないわよ?」
「そんなつもりじゃないですよ。前からすごい人だとは思ってたけど、でも今日ハッキリ分かりました。
あなたは本物のプロなんだなあって。だから加藤社長は、あなたに依頼したんでしょうね。この人なら期待通りの仕事をしてくれるはずだって。」
「なら君もしてみれば?ただし私の仕事は安くないけど。」
「分かってます。だから・・・・今はやめておきます。」
俺はそう言って首を振った。
「祐希さんみたいな人を雇うには、こっちだってそれなりの器じゃないとダメなんだ。俺、あなたを雇うにはまだ早いなって思うから・・・・。
だから今よりもっと偉くなったら、その時はお願いします。」
そう言って頭を下げると、「成長したわね」と笑われた。
「ほんの一カ月前までは、まだまだ子供だったのに。だんだん逞しくなってる。」
「そうですか?あんま変わんないと思うけど。」
「成長っていうのは、意外と自分では分からないものよ。他人から言われて、初めて気づくものだから。」
祐希さんは「加藤社長の言う通り、君は大きな可能性を秘めてるかもね」と微笑んだ。
「楽しみだわ、これからどんな風に成長していくのか。」
「俺、自分でもよく分からないけど、でも今のままじゃダメかなって思ってて。じゃないと仕事も恋も、上手くいきそうにないなって・・・。」
そう言いながら課長を見つめると、向こうも俺を見ていた。
「私も逞しくなったと思う。だから期待してるわ、いつか立派な人になるって。」
「俺、必ず課長に相応しい男になりますよ。だから待ってて下さい。」
拳を握り、「怪人、やっつけましょうね」と言った。
「うん、力を合わせればきっと出来る。」
課長も拳を握り、「祐希さん、ここまでの協力ありがとうございました」と頭を下げた。
「相変わらず良い仕事だなって感心しました。私も見習いたいです。」
「翔子ちゃんにそう言ってもらえると嬉しいわ。」
それを聞いた俺は「もしかして課長は・・・」と尋ねた。
「気づいてたんですか?祐希さんが仕事だから手を貸してくれてるって。」
「もちろん。だってこの人のことはよく知ってるもの。君より前からね。」
「ああ・・・そういえばそっか・・・・。」
「妥協のない筋金入りのプロよ。だからこそ信頼できる。私もいつか、この人に頼んで良かったって思ってもらえるくらいの仕事をしてみたい。」
そう語る課長の顔は、ここじゃないどこかを見ているような気がした。
それはつまり、まだまだ俺の想いは届かないってことなんだろうなと思った。
今課長が真剣に考えているのは、自分の未来のことだ。
人生とか仕事とか、恋愛とは全然ちがった所に目を向けていて、きっと今は振り向いてもらえない。
だから俺だって、今は自分のことを考えるようにしよう。
もちろん課長が俺にとっての一番だけど、でも課長課長って追いかけてるだけじゃダメなんだ。
本当に好きな人に振り向いてほしいなら、脇目もふらずに自分の道を突っ走ることも大事なんだ。
これからどうやってあの怪人を倒すのか?それが今考えるべきことだ。
気を引き締め、必ず追い詰めてやるぞと拳を叩く。
そんな俺を見て、祐希さんは「君たちなら出来るわ」と言った。
「あの怪人は強敵だけど、でも倒せない相手じゃない。顔を変えてコソコソ動き回るような奴だから、その程度の性根しかないってことよ。
みんなの見ている明るい場所で、首根っこを押さえてやりなさい。きっと一発でカタがつくわ。」
そう言って立ち上がり、「それじゃ」とドアへ向かう。
「困ったことがあったら、いつでも連絡して。仕事ならどこへでも飛んで行くから。」
手を振りながら部屋を出て行く。パタンとドアが閉じられ、俺と課長だけになった。
「祐希さんの言う通りだ。あの怪人、俺たちだけでも勝てるはずですよ。」
「そうだね。その為にも、この写真とメールは伊礼さんに渡そう。きっとあいつの正体を暴いてくれる。」
「じゃあ俺伊礼さんに電話しますよ。すごい情報が手に入ったって。」
ポケットからスマホを取り出し、伊礼さんの番号を呼び出す。
するとブルブルとスマホが震えて、液晶に伊礼さんからの着信が表示された。
「向こうから掛けてきた。」
通話ボタンを押し、「もしもし?」と電話に出る。
『冴木か?』
「ええ。実はこっちから電話しようと思ってたんですよ。あの怪人のすごい情報が手に入って・・・・、」
『加藤が目を覚ました。』
「ほんとですか!いつ!?」
『ついさっきだ。俺も病院へ来てる。』
「よかったあ〜・・・・じゃあ俺もすぐに行きます。」
ホッと安心しながらそう言うと、『でも様子がおかしいんだ』と不安そうな声が返ってきた。
「様子がおかしい?」
『ああ。身体はピンピンしてるんだが、どうも様子が変なんだ。』
「変って・・・・どう変なんですか?」
『来れば分かる。とにかく待ってるぞ。』
そう言って電話を切られた。
俺は「なんなんだ?」と首を傾げ、でもすぐにある不安に襲われた。
「・・・・まさか・・・・、」
最悪の予感が頭をよぎり、飛び上がるように駆け出した。
「あ!冴木君・・・・、」
「課長!病院へ行ってきます!」
「待ってよ!何があったのか教えて・・・・・、」
課長の声も無視して、とにかく走る。
エレベーターの前で待ちながら、《早く来いよ!》と苛立った。
《加藤社長・・・・まだ向こうになんか行ってないですよね?あなたの魂は、まだこの世にいなくちゃいけないんですよ。だからどうか無事で・・・・。》
課長が追いかけて来て、「一人でどうやって行くのよ?」と肩を叩いた。
「車ないでしょ?走って行くつもり?」
「・・・・・・・・・・。」
いつもなら、課長の言うことには笑顔で返す。
でも今はそれさえ出来なかった。
遅いエレベーターを睨みながら、ただ加藤社長の無事を祈った。

稲松文具店〜ボンクラ社員と小さな社長〜 第二十七話 怪人の素顔(1)

  • 2016.05.18 Wednesday
  • 10:58
JUGEMテーマ:自作小説
課長の部屋で、三人の人間が向かい合っている。
俺、課長、そして祐希さん。
ここへ来てから色々なことがあった。
課長の好きな人への思い、俺の課長への思い、そして・・・・キス寸前までいったこと。
しかもそのほとんどを、祐希さんに見られていた。
意地悪なこのフリーカメラマンは、ドアに隠れながら俺たちの成り行きを楽しんでいた。
さすがの課長もムっときたのか、祐希さんと目を合わせようとしない。
三人の間には重い空気が流れ、淹れ直した紅茶もすっかり冷めていた。
「その・・・ごめんね二人とも。本当に覗く気はなかったのよ。」
祐希さんは申し訳なさそうに言う。特に課長に対しては気を遣っていた。
「だって若い二人があんなことになってたらドキドキするじゃない?だから・・・ちょっとね、気になっちゃって。」
すまなさそうに言うけど、その口調はあっけらかんとしていた。
《やっぱ覗いてたんじゃないか!》
冷めた紅茶をズズっとすすり、課長の顔色を窺う。
さっきからずっと俯いていて、怒ってるか沈んでるのか分からないような表情だった。
《俺・・・ほんとバカだな。課長には笑っていてほしいなんて言いながら、どうしてあんなことを・・・・。》
もしタイムマシンがあるなら、十分ほど過去に戻ってやり直したい。
でもどうやったって過去は変えられないので、気まずい空気を背負うしかなかった。
祐希さんは何度も課長に話しかけているが、ちっとも返事をしない。
それどころか余計に俯いてしまうだけだった。
「・・・・・・・・・・。」
困ったように肩を竦める祐希さん。そして俺に向かって「何とかしてよ・・・」と小声で言った。
「こうなったのも、元はといえば君の責任でしょ・・・・。」
「なんで俺なんですか・・・。祐希さんが覗いてたのが悪いんでしょ・・・・・。」
「あんな状況になってたら・・・・誰だって覗くわよ・・・・。君だってそうでしょ・・・・?」
「まあ・・・・そうかもしれないけど・・・・・。」
「とにかくこのままじゃ話が出来ない・・・・・どうにか翔子ちゃんの機嫌を直して・・・・・。」
そう言って腕を組み、我関せずという感じで宙を見つめる。
《なんて勝手な人だ・・・・まったく。》
冷めた紅茶をすすりながら、課長の顔を見つめる。
「あの・・・・さっきはそのお・・・・・。」
声が上ずり、祐希さんに睨まれる。
「ほら・・・・ちゃんと謝って・・・・・。」
《くそう・・・・あんただって責任があるんだぞ。》
そう言いたい気持ちを抑えながら、「その・・・さっきはすいませんでした」と頭を下げた。
「課長には笑顔でいてほしいなんて言いながら、いきなりあんなことを・・・・・本当にごめんなさい。」
なんだか子供みたいな謝り方になってしまい、自分でも恥ずかしくなる。
「俺・・・・課長を嫌な気分にさせちゃいました・・・・。だからもし怒ってるなら、好きなだけ罵って下さい。」
恐る恐る顔を上げると、課長はほんのわずかにこっちを見た。
でもすぐに目を逸らし、また俯いてしまった。
《ああ〜・・・・やっぱもうダメだあ・・・・完全に嫌われた・・・・。》
がっくりと項垂れ、何も言うことが出来なくなる。
祐希さんは「ちょっと・・・」と肘をつついてくるけど、もはや謝る気力さえ湧いてこない。
《俺は最低だ・・・・最低のクソ野郎だ・・・・。課長をこんなに悲しませるなんて・・・・。》
今日はもう帰ろう・・・・そう思った。
怪人のことなんてどうでもいいくらいに、課長を傷つけてしまったことがショックだった。
ゆっくりと立ち上がり、ペコリと頭を下げる。
のたのたと歩きながら部屋を出て行こうとすると、「待って」と課長が言った。
「ごめん・・・・さっきのことを怒ってるんじゃないの。」
そう言って俺の傍へ来て、「冴木君が悪いんじゃない」と首を振った。
「ただ自分が情けなくて、嫌になっただけだから・・・・。」
「自分が・・・・?」
課長は小さく頷き、「さっきのはわざとじゃないでしょ?」と尋ねた。
「たまたま冴木君が転んだだけで、だから何も悪くない。悪いのは私。だってもしあのままだったら・・・・、」
「・・・・・・・・・・。」
「勝手だよね、有川さんが好きだとか、君のことをまだ男性として見られないなんて言っておきながら、成り行きにまかせてあんなことになろうとした・・・・。馬鹿みたい。」
「そんな・・・・、」
「私、何やってんだろうって・・・・。仕事でも恋愛でも、いっつも空回りしてばっかり。自分が一番辛いなんて思い込んで、結局何でも逃げてるだけ。
これだと思ったことを、一度も成し遂げたことなんてない・・・・。きっと私が一番情けない。」
そう言って俺の腕を掴み、「だから謝るのは私の方・・・ごめんね」と俯いた。
「今から怪人のことを話し合わなきゃいけないのに、全然関係のないところでへこんで・・・・。」
「課長、そんなに自分を責めないで下さい。その・・・・さっきのは本当に・・・・、」
「うん、分かってる。だから・・・・話すべきことを話し合おう。今やらなきゃいけないのは、あの怪人をどうするかって話し合うことだから。」
そう言って俺の腕を引っ張り、「怪人のことが終わったら、ちゃんと君に向き合う。だから今は・・・・」と顔を上げた。
俺は「はい」と頷き、課長と一緒にソファに戻る。
すると祐希さんが「前よりグッと距離が近くなったわねえ」とニヤニヤした。
「いいものよね、若い頃の恋は。」
「からかわないで下さい。俺と課長は真剣なんです。」
「からかってなんかいないわ。だって私は君たちの恋を応援してるもの。」
そう言って「翔子ちゃん」と笑いかけた。
「気を悪くさせちゃってごめんね。」
「いえ、そんな。」
「まあ若いうちは色々あるわよ。そういうのを経験して大人になっていくもんよ。」
課長は小さく頷き、「じゃあ話を始めましょうか」と表情を変えた。
仕事をしている時みたいに、ビシッと緊張感のある顔になる。
俺も気を引き締め、ビシッと背筋を伸ばした。
「祐希さん、怪人のことで何か情報を掴んだって言ってましたよね?」
課長が尋ねると、「まあね」と頷いた。
「冴木君から聞いてると思うけど、私の弟子だった子がフリージャーナリストをやっててね。性格はクセがあるんだけど、腕は一流なのよ。
それにあの怪人とも面識があるから、すぐに情報を掴んでくれたってわけ。」
そう言ってバッグの中から大きな封筒を取り出した。
「ここにあの怪人に関する資料があるわ。」
封筒を開け、中から写真と書類を取り出す。
写真は全部で三枚あって、書類はクリップで留められていた。
それをテーブルの上に並べ、「まずは写真を見てほしいの」と言った。
俺と課長はじっと写真を覗き込む。
三枚並べられた写真には、右から女、男、そして車が映っていた。
「この男と女の写真・・・もしかして怪人ですか?」
そう尋ねると、祐希さんは「違うわ」と答えた。
「それはあの怪人のせいで亡くなった人よ。」
「な・・・・亡くなった?」
「ええ。どっちも怪人の詐欺に引っかかってね、多額の借金を背負わされたの。」
「じゃあ・・・もしかしてそれを苦にして・・・・、」
「自殺した。」
「・・・・・・・・・・。」
「あの怪人元々は詐欺師なのよ。会社を乗っ取るようになったのはその後ね。」
「詐欺師・・・・。」
「個人を騙してお金を取るより、会社を乗っ取った方が儲かると思ったんでしょうね。」
「なんて酷い奴だ・・・・。人を自殺にまで追い込むなんて・・・・。」
「写真の被害者は結婚詐欺に遭ってたそうよ。」
「結婚詐欺・・・。」
「怪人は男にでも女にでも成りすます。時には性転換手術までやってね。」
「そこまでして人を騙すんですか?」
「そこまでやるから騙されるのよ。上手いこと言って近づいて、嘘八百で人を騙す。そして時には病人を装い、時には夢を追う好青年を演じて、多額のお金を貢がせるの。
相手は完全に騙されてるから、怪人の為にいくらでも尽くそうとする。その結果、借金まみれになるってわけよ。」
「なんて汚いやり方だ。人の善意を踏みじるなんて・・・・。」
「それが詐欺ってものよ。」
俺は写真に写った被害者を見つめ、「この人たち・・・・自分が騙されているのを知らないまま亡くなったんですか?」と尋ねた。
「いいえ、知ってたわ。ていうか知ったからこそ自殺した。」
「・・・・・・・・・・。」
「多額の借金に苦しんではいたけど、でもそれは全て愛する人の為にしたこと。だからどうにか頑張って返そうとしてたみたい。
でも周りにお金のことを相談しているうちに、それは詐欺なんじゃないかって言われたみたいでね。
だからまさかと思って警察に行ったら、怪人と呼ばれる詐欺師がいることを知った。」
「・・・・・・・・・・・。」
「そいつの手口や言動から、ほぼ怪人で間違いないだろうって言われたみたい。だから借金は騙されて背負ったものだと知った。」
「悔しかっただろうな・・・きっと。」
「でしょうね。でも一番の問題はお金じゃない。心を傷つけられたことよ。あんなに愛していたのに、それはただ詐欺師に騙されていただけだった。
それを知った時のショックは、言葉じゃ言えないものだったでしょうね。」
「大切な人に裏切られたら、ショックを受けない方がおかしいですよ。ほんとに悔しかっただろうな。」
「それに加えて借金もあるから、余計に参ったでしょうね。裏切られた心の傷と、多額の借金。どちらか一つなら耐えられたかもしれないけど、二つ重なると・・・・、」
「もういいです・・・それ以上は・・・・。」
俺は写真を見つめながら、改めて怪人の卑劣さを憎んだ。
《傷ついているのは加藤社長だけじゃない。他にも大勢の人があの怪人のせいで・・・・。》
眉間に皺を寄せながら、あのクレーマーの婆さんを思い出す。
あれだって本当の顔じゃないはずで、仮面の下でクスクス笑ってたに違いない。
そう思うと、今すぐぶん殴ってやりたいほど腹が立った。
「被害者のご両親に会って、色々と話を聞いてきたわ。そして息子さんや娘さんが、あの怪人と付き合ってる頃の写真を見せてもらった。
どの写真も幸せそうな顔でね、見てる方が辛くなったわ。」
祐希さんも眉を寄せ、写真に手を伸ばした。
摘まんだのは車の写真で、真剣な目でそれを見ている。
「アルバムの写真を眺めて、どうにかあの怪人の尻尾を掴む物はないか探してみた。すると・・・・この一枚があったわけよ。」
そう言って俺たちの方に車の写真を向けた。
「ここに重要な物が映ってる。何か分かる?」
写真を突きつけ、小さく振って見せる。
俺は顔を近づけて、まじまじとその写真を眺めた。
「これ、どっかの庭で撮ったやつですか?」
「そうよ。後ろに民家が映ってるでしょ?それに周りには植え込みもあって、その近くには門もある。」
「なら被害者の家の庭ってことですか?」
「男性の被害者の方ね。でも周りの景色は重要じゃない。この車を見てほしいの。」
「赤い車ですね。形からしてスポーツカーっぽいですけど・・・・。」
「被害者の車よ。これでよくドライブに行ってたみたい。」
赤い車は中央にデカデカと写っていて、しかもフロントを強調するようなアングルだった。
「これ、車を自慢してる感じですね。なんかカッコよく撮ってる。」
「被害者の男性は車が好きだったみたい。アルバムに何枚も写真があったわ。」
「う〜ん・・・確かにカッコいい車だけど、別におかしな所はないような・・・・、」
「何枚もあった車の写真の中で、これだけ他と違う部分があったのよ。」
「そう言われても車のことは詳しくないからなあ・・・・。」
「車の知識なんていらないわ。よく目を凝らせば分かるはずよ。」
祐希さんはさらに写真を近づける。
俺は目を凝らしながら、「どっか変な所があるかな・・・」と首を傾げた。
すると黙って見ていた課長が、「もしかして・・・」と呟いた。
「冴木君、ここ見て。」
そう言って車のフロントガラスを指さした。
「ここ、映ってる・・・・・。」
「映ってるって・・・・何がですか?」
「顔よ。人の顔が映ってる。」
俺は課長の指さした所に目を凝らした。
すると確かに人の顔が映っていた。
フロントガラスに反射して、斜めを向いた顔が見える。
「ほんとですね、人が映ってる・・・・。」
「この顔は被害者のものじゃないわ。だって女の人だもの。」
「ですね・・・。しかも恐ろしく地味な顔してる。」
「それだけじゃない。なんかこの顔変よ。まるで左右が別人みたい。」
そう言われて、じっとフロントガラスの顔を睨んだ。
すると課長の言う通り、顔の左右で違和感があった。
斜めのこちらを向いている顔は地味なのに、その反対側はすごく美人だった。
まるで二つの顔が一つにくっ付いているように。
「なんなんだこれ・・・・気味が悪いな。」
「顔の真ん中あたりから変わってる。いったいどうしてこんな風に映ってるんだろう?」
「まさか・・・・お化けとか?」
「そんなわけないでしょ。きっと何か理由があるのよ。」
課長は目を凝らし、「なんでこんな風に・・・」と眉を寄せる。
すると祐希さんが「メイクが剥がれてるのよ」と答えた。
「メイク?」
「そう、メイクがね。」
「でもメイクが剥がれたって、普通はこんな風にはならないわ・・・・。」
「普通のメイクならね。だけど特殊メイクならどうかしら?例えば映画で使うような、別人みたいに変わるメイクなら。」
「別人みたいに・・・・・ああ!」
課長は声を出して驚く。
「そうか・・・これってあの怪人の・・・・、」
「その通り。素顔よ。」
祐希さんはテーブルに写真を置き、トントンと叩いた。
「この写真を撮ったのは被害者の男性。そしてその近くには婚約者がいた。」
「でもその婚約者は詐欺師・・・・。顔を変えたあの怪人。」
「どういう理由でメイクが剥がれたのかは知らないけど、バッチリ映ってるわ。」
「でもこれ・・・・本当に怪人だっていう証拠は?」
「あるわ。被害者のご両親に、この写真を見て確認してもらったから。そうしたら、メイクが剥がれていない方の顔は、確かにあの詐欺師だって頷いた。」
「ならやっぱりこれが・・・・。」
課長は息を飲み、「これすごいですよ!」と言った。
「だってこの写真、あの怪人の素顔が映ってることになる。」
「そういうこと。」
「じゃあ怪人の素顔がバレたも同然ですね。」
「これだけでも大きな手掛かりでしょ?」
祐希さんは写真を振りながら笑う。
でも俺は納得のいかないことがあった。
「ねえ祐希さん。あの怪人、すごく用心深い奴なんですよ。」
「みたいね。しかも狡猾いみたいだし。」
「そんな奴が、うっかり素顔を見せますかね?それも写真に写るようなヘマをするなんて・・・・。」
「君の疑問はもっともね。だけどこうは考えられないかしら?」
祐希さんはそう言って、顔の半分を隠した。
「被害者は車の写真を撮っていた。だからレンズは怪人の方を向いていない。となると、怪人は自分が写るなんて思わないわよね?」
「そうですね。けどそれでも・・・・、」
「それとこの写真、素顔の方がフロントガラスを向いている。それはつまり、被害者の方にはメイクをしている顔を向けているってことよ。」
「それは二人の立ち位置によるんじゃないですか?もし怪人が被害者の男性より後ろにいたら、振り返った時に気づかれちゃいますよね?」
「そうね。でも被害者はこの時点では詐欺に引っかかってることに気づいてないわ。怪人が彼の元から消えて、しばらく経ってから気づいたんだもの。」
「でも普通なら気づかれるんじゃないですか?だって顔の半分が別人みたいになってるんですから。」
「それはこの写真を見たから言えることよ。ずっとメイクしている方の顔を向けていれば、気づかれることはないでしょ?」
「いや、そんなの無理なんじゃ・・・・、」
「無理じゃないわ。被害者の男性は車を撮ることに集中してるから、怪人の方をじっくり見てない。ならその間に帰ってしまえば、気づかれることはないわ。」
「でもずっと一緒にいたわけでしょ?だったら車の写真を撮る前に、すでに気づかれてるはずだと思いますけど。」
「それは君の仮定でしかないわ。実際にはいつメイクが剥がれたのか分からない。彼が写真を撮り始めた後かもしれないわ。」
「それこそ祐希さんの仮定じゃ・・・・、」
「現に被害者の男性は、この時点では詐欺に遭っていることに気づいていない。怪人が彼の元から去り、借金だけが残り、その時にようやく騙されていたんじゃないかって疑い始めた。
そして警察に相談に行って、怪人の話を聞かされたわけ。」
「う〜ん・・・・確かにそうだけど・・・・。」
「この写真の時点でメイクが剥がれていることに気づいてるなら、もっと早くに疑問を持ったはずよ。でも実際には、怪人が彼の元から消えるまで疑問を持たなかった。
となると、やっぱりこの時点では気づいていないのよ。」
「そう・・・・なのかな。」
「君の言う通り、怪人は用心深い奴よ。でもうっかり油断して、素顔を曝け出してしまった。しかも写真に写るなんてヘマをしてね。」
祐希さんは自信たっぷりに言い切る。
俺は釈然としなかったけど、これ以上反論出来なかった。
「納得がいかないのも分かるわ。けどね、この写真は15年以上も前のものなの。」
「15年も前・・・・・。」
「そう考えるとね、この頃の怪人は、まだそこまで完璧にメイクを使いこなせなかったんじゃないかって思うのよ。
それが月日を重ねるうちに、どんどん磨かれていった。決して以前のようなヘマはしないと、より注意深くなったのかもしれないわ。」
「なるほど・・・・経験を踏まえて上達したってわけか。」
「確証はないわ。でもそう考えるのが自然だと思う。それにこの写真に写ってるのが怪人じゃないとしたら、いったい誰なのって話よ。
だって顔の左右が別人だなんて、普通はあり得ないでしょ?」
「そうですね。確かにそんな奴はいません。」
祐希さんの説得に納得してしまい、「やっぱこれが怪人の素顔なのか」と見入った。
見れば見るほど地味な顔で、こういう顔なら誰の印象にも残らない。
それに地味な顔ほうが、確かに顔は変えやすいかもしれない。
俺が納得していると、課長が「そっちの書類は?」と尋ねた。
「それも怪人に関することなんでしょう?」
「もちろん。こっちは女性の被害者に関することよ。」
薄い書類の束をパラパラ捲り、「これは被害者とのメールのやり取りを印刷したもの」と言った。
「男の方が怪人、女が被害者ね。ここにも気になることが残ってる。」
そう言って俺と課長に書類を向けた。
「読んでみて。」
課長は書類を受け取り、じっくり読んでいく。
俺も横から覗き込み、メールの文章を追った。
《いよいよ来月が式だね。》
《式場とか決めるのにけっこう手間取ったけど、いい所が予約出来てよかった。》
《高いけどね(笑)でもその分呼ぶ人数は絞って、お金はかからないようにしたし。》
《由実は友達多いもんね。本気出せば100人以上来るんじゃないの?》
《そんなに呼んでも意味ないよ(笑)本当に親しい人だけで充分。》
《真由は優しいね。本当は俺にほとんど友達がいないから、気を遣ってくれたんだろ?》
《そんなことないよ。なんなら優斗と二人だけの式でもよかった。お父さんに反対されなかったらね(笑)》
《父親にとって、娘の結婚式は特別なもんだと思うよ。俺は幼い頃に親を亡くしたから、由実が羨ましい。》
《大丈夫!もうすぐ家族が増えるから。》
《そうだね。俺、由実と家族になるんだよね。》
《ずっと傍にいるからね。優斗はもう一人ぼっちじゃないよ。》
《ありがとう・・・由実と出会えてよかったよ。》
《これから始まるんだよ。二人の人生が。きっと新しい家族だって増える。》
《由実は子供好きだもんね。最初は男の子がいい?それとも女の子?》
《どっちでもいい。だって子供は神様からの授かりものだから、男とか女とか関係ないから。》
《そうだね。もし俺たちの子供が出来たら、大事に育てようね。》
《うん!きっと幸せな家族になるよ。二人でがんばろ!》
《そうだね。でも俺・・・・ちょっと自信ないんだ。》
《どういうこと?》
《ほら、俺ってずっと親がいなかったから、ちゃんと育てられるかなって・・・・。それがすごく不安でさ。》
《そんなの平気よ。だって優斗は優しいから。子供が出来たら、たくさん愛情を注ぐと思う。それに優斗一人で育てるんじゃなくて、私と一緒に育てるんだから。心配しないで。》
《そうだね。俺、いっつも由実に励まされてばっかりだ。きっと結婚してからも迷惑をかけると思うけど、見捨てたりしないでくれよ。》
《そんなの今に始まったことじゃないじゃん(笑)優斗はおっちょこちょいだし、子供みたいに拗ねちゃう時もあるし。でも優斗のそういうところが好き。》
《それ褒めてる?》
《うん、一応(笑)》
《なんか馬鹿にされてるように思えるなあ(笑)》
《だって優斗ってすぐにオシッコいくじゃない。我慢出来ない〜って感じで(笑)》
《昔っからトイレが近いんだよ。おねしょもよくしてたし。》
《しかも絶対に一人で行きたがるよね。けっこう長いこと出て来ないし。》
《なんか残尿感がね(笑)》
《おじさん(笑)》
《もう更年期だよ(笑)》
《しかもなぜかトイレから出てきたらお肌のノリがよくなってるし。もしかして化粧直しでもしてるの(笑)》
《まさか。スッキリして気持ちよくなっただけだよ。オシッコ溜めてると肌にも悪いから。》
《それ男の人のセリフじゃないよね(笑)》
《由実より俺の方がピチピチだぞ。》
《ピチピチって言い方じたいがおじさん臭いから(笑)まだ28なんだからもっと若々しくしようよ(笑)》
メールを読み終え、「これ・・・」と呟いた。
「確かに気になりますね。」
そう言って課長の方を向くと、「そうだね」と頷いた。
「よくオシッコへ行くって書いてあるけど、それって・・・・、」
「きっとメイクを直してるんですよ。だってほら、長いこと出て来ないって書いてあるし。」
「だったら祐希さんの言うとおり、この頃はメイクが完璧じゃなかったのかもね。だから頻繁に直さないといけなかったんだわ。」
「そう考えると、さっきの写真も頷けますね。あれも途中でメイクが剥がれてきて、そこをたまたま撮られちゃった。」
「油断してたんだね、きっと。」
「素顔が分かっただけでも大きな収穫ですよ。あの顔・・・しっかりとこの目に焼き付けましたからね。もし見つけたらすぐに気づくと思います。」
「冴木君の記憶力、役に立ちそうだね。」
「はい。だってあの顔、すごい地味だったから。普通なら誰の印象にも残らないだろうけど、俺の場合はそうはいきません。
頭の中にカメラがあるのと一緒ですから。もし見つけたら絶対に分かるはずです。」
そう言って頷き、「一歩前進ですね」と笑いかけた。
すると祐希さんが「分かってないわね」と言った。
「何がです?怪人の素顔はもう分かって・・・・、」
「そうじゃなくて、そのメールの本当の意味よ。」
「本当の意味?」
「メイクがどうこうの部分はどうでもいいの。だってそんなの、こっちの写真ですでに分かってることなんだから。」
そう言って車の写真を摘まみ、ゆらゆらと振った。

稲松文具店〜ボンクラ社員と小さな社長〜 第二十六話 女神の家へ(2)

  • 2016.05.17 Tuesday
  • 09:50
JUGEMテーマ:自作小説
今日は俺の人生の中で、最も記念すべき日の一つだった。
なんと課長のお部屋・・・もとい女神の神殿に足を踏み入れたのだから。
だけどそこで、見たくない物が目に入った。
机の上に立てられた写真・・・・。そいつが俺の胸を締め付けていた。
課長はその写真を持って来て、ペットの自慢を始める。
でも俺は、ペットなんてどうでもよかった。
だって・・・この写真には、一人の男が写っていたから・・・・・。
「あの・・・・この人って・・・・・、」
「ん?」
「これ・・・・もしかして・・・、」
「うん、そう。これが有川さん。」
「やっぱり・・・・。」
俺が一番聞きたくない名前、そして一番見たくない男の顔だった・・・・。
だってこの人こそが、課長が思いを寄せている人だから・・・・・。
「私の一番の友達なんだ。今まで動物のことで何度か助けてもらって、それからすっごく仲良くなったの。」
「はあ・・・・。」
「それに犬のお散歩コースも同じだから、よく一緒に散歩するんだ。まあ最近は忙しかったから、あんまり会えてないんだけどね。」
「はあ・・・・・・。」
「あ、でも!この前励ましてもらったなあ。あの怪人に酷いこと言われて、河原で落ち込んでたの。そしたら有川さんが通りかかって、色々と悩みを聞いてくれて・・・・、」
「悩みを相談するほど・・・・・ですか?」
「ほんとは彼が来るのを期待してたんだけどね。でもいつもの散歩の時間じゃないから、会えないかなって諦めてたんだ。
でも来てくれた・・・・。有川さんは、私が困ってる時はいつだって目の前に現れてくれる。それで・・・・私を助けてくれるの。」
「俺も・・・・いつも課長の傍にいるつもりなんですけど・・・・・・、」
「彼に悩みとか不安を聞いてもらって、色々と励ましてもらった。そしたらすごく気持ちが楽になって・・・・。やっぱり有川さんは、私にとって特別な人。
他の誰でも代わりの利かない、すごく大切な人なんだ。」
愛おしそうにその写真を眺め、「また一緒にお散歩したいなあ」と呟いた。
・・・・・俺は項垂れたまま沈んでいた。
ノックアウトされたボクサーのように、立ち上がる気力すらない。
「あの・・・・課長は・・・・、」
どうにか顔を上げて尋ねると、まだ嬉しそうに写真を見つめていた。
「課長は・・・・やっぱり・・・その・・・・・、」
「ん?」
「その・・・・有川さんって人が・・・・・その・・・・、」
もごもご口ごもっていると、課長は「どうしたの?」と尋ねた。
「やっぱりどこか体調が悪い?」
「いえ・・・そうじゃなくて・・・・、」
「無理しなくてもいいよ。本当に辛いなら、今日は帰って休んで。」
「平気です・・・・・。」
「じゃあどうしたの?すごく辛そうな顔してるけど?」
そう言われて、俺は無理矢理笑顔を作った。
泣きそうな顔をしながら、「えへへ・・・」と声を出す。
「冴木君?」
「はは・・ははは・・・・課長は・・・やっぱその人が・・・・・、」
「?」
「その人のことが・・・・・好きなんですね・・・・・?」
無理矢理笑いながら尋ねると、課長はビックリしたように固まった。
「いや、だって・・・・前からよく聞かされるから・・・・その人のこと。」
「・・・・・・・・・・・。」
「だからやっぱり好きなのかなあと思って・・・・・、」
「・・・・・・・・・・・。」
「なんか課長・・・・・その人のことを話す時だけ、別人みたいだから・・・・。いつもみたいにビシっとした感じじゃなくて、ほんとにその・・・一人の女性っていうか・・・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
「いや、いいんですよ・・・・答えたくないなら・・・・。別にわざわざ俺に答えるようなことでもないし・・・・・。」
そう言ってまた項垂れると、「好きだよ」と答えた。
「あ・・・・・、」
「冴木君の言う通り、私は有川さんのことが好き。」
「そ、それは・・・・・友達としてですか?それとも・・・・、」
「すごく大切な友達。」
「じゃあ・・・・・、」
「でも男性としても見てる。男の人としても・・・・彼のことが好きなんだ。」
「・・・・・・・・・・。」
何も答えることが出来ず、石みたいに固まる。
悲しみ?怒り?落胆?・・・・なんだかよく分からないけど、どうしようもないほど嫌な気持ちに満たされた。
「でも気持ちを伝えるつもりはない・・・・。だって彼には彼女がいるから。」
「そ、そんな・・・・・だって課長が好きなのに・・・・そいつは彼女なんか・・・・・、」
「出会った頃は彼女はいなかったみたいなんだけどね。でも私が好きになった時には、もう・・・・・、」
「そ、そんなの・・・課長なら遠慮することないですよ!相手が誰だろうと、課長の前なら霞んで・・・・、」
いったい俺は何を言ってるんだろう?
これは要するに、課長の恋は叶わないってことで、俺にとっては良いことのはずじゃないか。
それなのにどうしてこんなフォローをしてるんだろう?
自分でも分からないけど、でも多分・・・・課長の悲しむ顔が見たくなかったのかもしれない。
だから本当の気持ちとは裏腹に、「気持ちを伝えるべきです!」と言った。
「そ、そんなの・・・・相手に彼女がいようといまいと関係ないですよ。だって好きになったんだから!」
「・・・・・・・・・・・。」
「俺、そいつに言ってやりますよ!しょうもない彼女となんか別れて、課長と付き合えって。じゃないと一生後悔するぞって。」
「ありがとう・・・・でもそれは・・・・、」
「遠慮しないで下さい!だって俺、課長の為なら火の中水の中ですから!」
無理矢理笑顔を作り、「ね?」と頷く。
でも課長は首を振った。髪を揺らしながら、「そういうことじゃないの・・・」と言って。
「そうじゃない、そんな単純なものじゃなくて・・・・、」
「単純ですよ、恋なんて!だって要は、相手を好きか嫌いかってことなんだから。だから課長みたいな女神が言えば、その人だってきっと好きになってくれる・・・・、」
「だからそうじゃないの。私じゃ無理なのよ・・・・。」
課長は俺と同じように暗い顔になり、写真を撫でた。
「私には・・・あの二人の間に入ることは出来ない。」
「どうしてですか?課長以上に良い女なんてどこにも・・・・、」
「特別なのよ、あの二人は。あの二人にしか分かり合えなくて、あの二人だけが持ってる特別な絆があるの。だから・・・私にはどうやったって無理。
どう頑張っても、あの二人のようには・・・・・。」
課長の声は悲しく、余計に暗い顔になっていく。
俺は課長がよく話している有川とやらのことを思い出し、「もしかして・・・」と呟いた。
「それ・・・もしかして動物と話せる力のことですか・・・・?」
「うん・・・・。」
「てことは・・・・まさかそいつの彼女にもその力が・・・・、」
「うん・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「あの二人は同じ力を持ってるの。こんな広い世界で、そんな力を持つ者同士が出会った。それってきっと偶然じゃないと思う。
あの二人は、動物の声を聞く為に生まれてきたんだわ。そしてその力で、動物を助ける為に出会った。だから誰よりも深い絆を持ってる。
そこに私の入る余地なんて・・・・。」
課長は声は切なく、辛い気持ちを我慢しているのが分かる。
俺はどうにか励ましてあげたかったけど、でも何も言えない・・・・。
だって俺だって暗い気持ちになってるから・・・・。
だから引きつった笑顔のまま、ゴクゴクと紅茶を飲み干した。
「あ、あの・・・・俺、余計なこと聞いちゃいましたね・・・・・。」
課長の方に身体を向け、「すいません!」と頭を下げる。
「こういうの・・・・ベラベラ聞くことじゃなかったですよね・・・。俺ってほんと無神経なもんで・・・・、」
「ううん、いいの。」
謝る俺に向かって、課長は首を振る。
そして「私だって・・・・冴木君のこと傷つけて・・・・」と呟いた。
「え?課長が俺を・・・傷つける?」
「ええと・・・ほら、その・・・・アレをくれたじゃない。」
今度は課長が口ごもり、恥ずかしそうに目を伏せた。
「ほら・・・その・・・・机の中に・・・・、」
「机の中?」
「・・・・だから・・・手紙をくれたでしょ?その・・・君の気持を書いた手紙を・・・、」
「手紙って・・・・・・ぬあああああああ!!」
俺は頭を押さえて絶叫する。
今の今まですっかり忘れていたことが、「手紙」の一言で蘇った。
「あ!あのですね!あれはですね・・・・その・・・・何と申しますか・・・・・、」
「ごめんね、今までぜんぜん君の気持に気づいてあげられなくて・・・・。」
「いえいえいえいえいえ!そんな滅相もない!こんなミジンコの抜け殻みたいな男の気持ちなんて、そんなもん気を遣わないで下さい!」
頭がパニックになり、「いやあ〜、課長が入れた紅茶は空になっても美味しいなあ!」と何もないカップを口につけた。
「ええっと・・・・・、」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・なんか・・・・暑いですね・・・・。上着脱いじゃおうかな。ついでにネクタイも。」
上着を脱ぎ捨て、ネクタイを外す。ついでにシャツも抜いて、インナーだけになってしまった。
勢い余ってズボンまで脱ぎそうになり、《イカンぞ!》と手を止めた。
《これじゃ襲う気満々みたいじゃないか!落ち着け俺・・・・。》
空になったカップに口をつけ、「祐希さんまだなかな〜」とドアの方を見つめた。
すると課長が「ねえ・・・」と口を開いた。
「あ、はい!なんでございましょう!?」
「あの手紙に書いてあったことなんだけど・・・・、」
「ああ、はいはい!あの駄文でございますね!いえいえ、いいんですよ!課長には好きな人がいるわけで、もうあんなの破り捨てちゃって・・・・、」
「そうじゃなくて、その・・・・私が振り向いてくれないなら・・・・生きてる意味がないなんて・・・あれは本気なの?」
「へ?」
「だってそう書いてあったじゃない。僕の気持ちが伝わらないなら、生きてる意味なんてないみたいな・・・・。あれ、本気なの?」
課長は真剣な目で見つめる。
俺は空になったカップを持ちながら、「あ、あれはですねえ・・・」と目を泳がせた。
「ええっと・・・つまりですね、それくらいに課長のことを想っているということでありまして・・・・、」
「・・・・・・・・・。」
「いやいや!別にあれですよ!本当に死んじゃおうとかそんなこと考えてませんよ!そんなまさか・・・脅迫めいたラブレターなんて・・・・ねえ・・・・。」
視線が宙を彷徨い、ふと加藤社長の顔が浮かんだ。
《くっそ〜・・・・あの人余計なこと書いてくれやがってえええ!》
いくら課長を引き止める為とはいえ、そんな脅迫めいたようなラブレターを出すなんて・・・・ちょっとだけ怒りが湧く。
でもあの人のことは尊敬してるから、そんな怒りはすぐに消えた。
ていうか、多分俺にキッカケを与えてくれたんだと思う。
俺が何も行動を起こさないもんだから、ああいう過激なことを書いて、尻を叩いてくれたのかもしれない。
《でもなあ・・・・やっぱあのラブレターはダメでしょ。あれじゃ絶対に女の人は引くって・・・・。》
もう俺の恋は終わったと思いながら、また暗い顔になる。
すると課長は「ごめんね」と呟いた。
「いやいや・・・いいんですよ、課長には好きな人がいるんだから・・・、」
「・・・・・私はぜんぜん君の気持に気づかなかった。ずっと手の掛かる弟みたいにしか思ってなくて、まさかそんな風に私のことを見てたなんて・・・、」
「ああっと・・・・いや、課長が謝る必要は・・・・、」
「私・・・有川さんのことが好きで、だけど絶対に気持ちは届かないって知ってる。だから彼に会いたい気持ちはあるんだけど、会う度に辛くなるっていうのもあるの。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「でもそれって、冴木君も一緒だったんだよね・・・・。なのにいつも勝手なことに付き合わせて、危険な目にも遭わせて・・・・、」
「いやいや!むしろ俺が迷惑かけてるほうなんで、ええ!」
「冴木君よく言ってるじゃない。私の為なら、火の中水の中って。」
「ええ、もちろんですよ!課長の為ならどこへだって・・・・、」
「君は純粋で優しい子だから、人の為なら危険を顧みない。だから私だろうと箕輪さんだろうと、大切な人の為ならいつだって無茶をする。
そういう意味で、火の中水の中なんて言ってるんだと思ってた。でも・・・・違ったんだね。
そうやって気持ちを伝えようとしてくれてたのに・・・ただ君の優しさに甘えてばかりで・・・・。」
「あ、あの・・・・そんな申し訳なさそうにしないで下さい!そんなの俺が勝手に言ってるだけだから・・・・。」
課長の暗い顔を見るのが嫌で、「もうこんな話は終わりにしましょ!」と笑った。
「今は仕事の話ですよ。もうすぐ祐希さんだって来るだろうし、とにかくあの怪人のことを考えないと。」
どうにか笑顔になってほしくて、「暑いなあ・・・・もうズボンも脱いじゃおうかな!」と冗談を言った。
でも課長は顔を上げない。俯いたまま、「ほんとにごめんね・・・」と呟く。
「君はいつだって色んなものを背負って、みんなの為に頑張ってたのに・・・・。でも私、心のどこかで自分が一番辛いんじゃないかって思ってた。
それってすごく自分勝手なことなのに・・・・そう思う部分があって・・・・・。」
「課長・・・・。」
俺は立ち上がり、「元気出して下さい」と言った。
「俺、暗い顔した課長なんて見たくありません。だからその・・・・俺のことなんかで落ち込まないで下さい。
そんなんだったら、箕輪さんみたいに罵ってくれた方がマシです。」
「でも・・・・・、」
「好きな人に悲しい顔されるほど、辛いことはありませんから。ましてや俺のことで・・・・。」
頭を掻きながら、「笑ってる課長が、一番好きなんです」と言った。
「悲しいことや辛いことはあるだろうけど、でも・・・俺のことでそういう顔をするのは見たくないっていうか・・・・。
課長を苦しめるくらいなら、俺はあなたの目の前からいなくなった方がマシです。だから・・・・笑っていて下さい。」
自分でも何を言ってるのかよく分からないけど、でもそれが素直な気持ちだった。
課長の悲しむ顔なんて見たくなくて、いつだって笑っていてほしい。
だってこの人は俺の女神で、女神にはいつだって微笑んでいてほしいから。
その為に俺が邪魔になら、俺なんかいなくなったって構わない。
まだ気持ちは落ち込んでるけど、でも本気でそう思った。
「・・・・ありがとう、冴木君。」
課長はニコリと微笑み、ゆっくりと立ち上がる。
「君はいつだって真っ直ぐなんだね。誰かの為なら、自分が傷つくことさえいとわない。。」
「いや、そんなことは・・・・、」
「私ね、ずっと君のことを弟みたいに思ってた。だからいきなりあんな手紙を渡されて、ちょっと混乱してたんだ。」
「すいません・・・・。」
「だけど日に日に君が逞しくなっていくのは実感してた。手の掛かる弟から、みんなに頼られる立派な人になる。いつかそうなるんじゃないかって、今はそう思ってる。」
「あ、ありがとうございます・・・・。」
「だから・・・・その・・・・、」
課長は俯き、手をもじもじさせる。
俺は息を飲み、同じように手をもじもじさせた。
ベルトをカチャカチャといじり、不安と緊張を誤魔化す。
「時間を・・・・・くれないかな?」
課長はそう言って顔を上げた。
「今までは弟みたいにしか思えなかったから、急に男性として見るのは・・・・難しいかなって・・・、」
「そ・・・・そうですよね!こんな頼りない男・・・・、」
「そうじゃない!そうじゃなくて・・・・私の方も、心の準備が出来てないっていうか・・・・。」
そう言って俺の目を見つめ、「だから君さえよければ、時間をくれないかな?」と申し訳なさそうな顔をした。
「短い間に色々あり過ぎて、私も気持ちの整理がつかない・・・・。あ!でももし君に好きな人が出来たら、その時はぜんぜん私のことなんか気にしなくていいからね!」
「な・・・何を言ってるんですか!他の人を好きになんてなりませんよ!俺は・・・課長以外の人なんて・・・・・、」
緊張が激しくなり、さらにベルトをいじりまくる。
課長は俯き「今はこういう風にしか答えられなくて・・・・ごめん」と言った。
「あ、謝らないで下さい!俺、課長の為ならいつまでだって待ちますから!例えじいさんになろうが、墓の下に入ろうが・・・・ずっと待ってますから。」
「ありがとう・・・冴木君。」
髪を揺らしながら、小さく頷く課長。
俺は何て言っていいか分からず、「俺も・・・いつもありがとうごいます」と頭を下げた。
何を感謝しているのか分からないけど、でも黙っていることが出来なかった。
課長は可笑しそうに笑い、「これが終わったら、またデートしようか?」と尋ねた。
「ほ、ほんとですか!?」
「前の事件が終わった後もデートしたじゃない。だから私でよかったらまた・・・・、」
「行きます行きます!タキシードを着て花束を持って、白い馬に跨ってお迎えしに行きますよ。」
そう答えると、「それはやめてよ」と笑われた。
さっきまでの変な空気は吹き飛び、課長は笑顔になる。
《やっぱり課長には笑っていてほしい。この人の笑顔が俺の幸せなんだ。》
もじもじと照れながら、さらにベルトをいじる。
するとスルッとズボンが落ちてしまい、派手なチェックのパンツが剥き出しになった。
「あ・・・・・、」
「・・・・・・・・・・・。」
「は・・・はうああああ!!」
課長の前で醜態を晒してしまい、「す・・・すいません!」とズボンを上げる。
でも緊張して上手く穿けず、「くそ・・・」と焦った。
すると課長は「あはははは!」と笑い出し、目に涙を浮かべた。
「なんでズボンが落ちちゃうの!?ほんとに君といると嫌な気持ちも吹き飛んじゃう。」
「は・・・はうあああああわあわ・・・すみません!」
「君がみんなから好かれる理由がよく分かる。だってそこにいるだけで、周りを和ませるもの。」
「いや・・・違うんですよこれは!これはその・・・・・、」
課長はまだ笑っていて、俺は余計に焦ってくる。
早くこんな汚いものを隠さなければと思い、思い切りズボンを掴み上げた。
その時、勢い余って裾を踏んでしまい、「のわ!」とよろけた。
そして課長にぶつかって、押し倒すように倒れてしまった。
「きゃッ!」
「ああ、すいません!」
慌てて身体を起こすと、ふと課長と目が合った。
いくらわざとじゃないとはいえ、こんな姿で課長をソファに押し倒すなんて・・・・。
俺は慌てて「ごごごご・・・ごめんなさい!」と謝り、すぐに立ち上がろうとした。
でもまた裾を踏んづけてしまい、課長の上に倒れそうになる。
これ以上醜態を晒してはいけないと思い、慌てて手をつく。
でも慌てたせいか、課長の両手を押さえる形になってしまった。これじゃまるで、本当に押し倒したみたいに・・・・・。
「あ・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
目が合い、お互いに固まる。
すぐにどかないとと思うけど、でも課長の顔から目が離せなかった。
こんなに近くで課長の顔を見たのは初めてで、鼻が触れそうなほどの距離にいる。
あとほんの数センチ近かったら、それこそ唇が・・・・・。
俺たちは無言のまま、お互いに見つめ合う。
課長の目は真っ直ぐに俺を見ていて、瞳に俺の顔が映っている。
その目はすごく澄んでいて、胸の内を読み取ることが出来ない。
でも少なくとも俺の方は、胸に熱い何かが湧いていた。
なんていうか・・・・そう!天使と悪魔だ!
早くどかなければっていう思いと、自分でもどうしようもない熱い感情とがせめぎ合う。
もし・・・・もし俺がもっと年上の男ならば、理性が勝っただろう。
でも一番好きな人と、こんな近くで見つめ合う・・・・。
抑えられていた本当の気持ちが溢れ出し、「課長・・・」と呟いた。
「他の・・・・他の男なんて・・・付き合わないで下さい・・・・。俺が・・・いつだって傍にいます。いつだって守るし、いつだって笑顔にしてみせます。だから・・・・、」
そう言って息を飲みながら、抵抗出来ない力に襲われる。
ダメだ!と思いながらも、身体が勝手に課長の方へ向かう。
ほんの数センチ先にある・・・・課長の唇へ・・・・・。
きっと怒られるだろうと思いながら、ゆっくりと顔が近づいていく。
だけど課長は、逃げようとも突き放そうともしなかった。
ただじっと俺を見て、まったく表情を変えない。
そして顔が近づくにつれて、ゆっくりと目を閉じていった。
《今日・・・俺の記念する日になる。課長と・・・・最愛の女神と・・・・俺は結ばれて・・・・・。》
俺も目を閉じ、さらに顔を近づける。
唇に課長の吐息を感じ、もはや自分の意志で止めることは出来ない。
息遣い、体温、匂い・・・・愛しい人の全てがすぐそこにあって、あと少しで唇が触れる。
目を閉じていても、あとほんの数ミリで触れると感じていた。
だけどその時、ふと人の気配を感じた。
目を開け、慌てて身を起こす。
そして部屋の中をグルリと見渡すと、ドアの向こうに人影が見えた。
「・・・・・・・・・・。」
じっとその影を見つめていると、課長も身を起こした。
「ごめん・・・」と言いながら立ち上がり、よそよそしい感じて俺から離れていく。
「あの・・・俺・・・・、」
「ごめん・・・・ちょっと着替えてくるね。」
そう言って別の部屋へ行き、バタンとドアを閉じた。
「あ・・・・・、」
さっきまでの熱い感情はどこへやら。
急に寒い風に吹かれたように、頭が冷静になってきた。
「お・・お・・お・・俺は・・・・俺はなんということをおおおおおおお!!」
頭を抱えながら、「うおおおおお!」と叫ぶ。
《最低だ!何をしようとしてたんだ俺は!課長を押し倒して、その上強引に・・・・キスまでしようなんて・・・・。》
・・・・嫌われた・・・・。完璧にそう思った・・・・。
せっかく良い雰囲気で和んだのに、調子に乗ってキスなんてしようと・・・・。
「ああ・・・・もうダメだあ・・・・俺、絶対に嫌われた・・・・・。もうお終いだあああ・・・・・・。」
ソファに倒れ込み、泣きそうになってうずくまる。
するとガチャリとドアが開いて、「もうちょっとだったのにねえ」と誰かが言った。
「せっかく服を脱いで押し倒したんだから、あのまま最後までいっちゃえばよかったのに。」
「あ・・・・ああ・・・・・。」
俺は顔を上げ、ソファの傍に立つ女性を見つめた。
「ごめんね、鍵が開いてたから勝手に上がっちゃった。」
「・・・・・・・・・。」
「あ、でも覗く気はなかったのよ。気を悪くしないでね。」
「ゆ・・・・祐希さあん・・・・・・。」
顔から火が出るほど恥ずかしくなり、両手で覆う。
「顔より下を隠したら?パンツ丸出しよ。」
情けないこの恰好を見て、祐希さんは可笑しそうに笑う。
俺はもじもじと足を動かしながら、「勘弁してよもう・・・・」と嘆いた。

稲松文具店〜ボンクラ社員と小さな社長〜 第二十五話 女神の家へ(1)

  • 2016.05.16 Monday
  • 13:08
JUGEMテーマ:自作小説
ハリマ販売所の営業時間は夜の七時まで。
時計は七時前を指していて、「今日はもう閉めよっか」と箕輪さんがシャッターを下ろした。
「どうせ誰も来ないでしょ。」
「そうですね。じゃあ私、トイレのお掃除してきます。」
美樹ちゃんも閉めの作業に入り、いそいそと動き回る。
俺はそんな二人を見つめながら、「加藤社長・・・・まだ目を覚まさないんですかね?」と尋ねた。
「あれから何時間も経ってるのに、何も連絡がないなんて。まさかすごく危険な状態なんじゃ・・・、」
そう呟くと、課長が「気を揉んでも仕方ないわ」と言った。
「もし何かあったら、きっと伊礼さんから連絡が来ると思う。それまでは私たちのやるべきことをやりましょ。」
そう言って立ち上がり、「私も手伝うわ」と床の掃除を始めた。
すると箕輪さんが「課長!」と叫んだ。
「そんなのいいですから!座ってて下さい。」
「だって早く終わらせて話を進めないと。」
「だからって課長が床掃除なんて・・・・。」
箕輪さんは困ったように眉を寄せ、「こら冴木!」と怒鳴った。
「あんたがやりな!」
「え?ああ・・・・はい。」
「それとゴミ捨ても。事務所のやつも忘れずにね。」
「分かってますよ。」
「分かってないから言ってんのよ。ああそれと、レジには触んなくていいから。あんたがレジチェックやると、差額がない日でも誤差が出るから。」
「失敬な、レジ閉めくらい出来ますよ。」
課長からモップを受け取り、適当に拭いていく。本当は棚の下まで丁寧にやらなきゃいけないんだけど、ぐるっと店の中を回っただけで「はいお終い」とモップを置いた。
「だからちゃんとやれって言ってんでしょ!」
バインダーが飛んできて、「痛ッ!」と頭を押さえる。
「ほんっとに乱暴な・・・・、」
ブツブツ言いながら、いかにも真面目にやってますよという風にモップを掛ける。
「ほら冴木君、早く終わらせないと。」
モタモタする俺を見かねて、課長が手伝ってくれる。
「あ、じゃあ俺レジを閉めます。」
「もう栗川さんが閉めたわ。」
「ならゴミを捨てて・・・・、」
「楠店長がさっき捨ててくれた。」
「ならトレイ掃除を・・・・、」
「それも栗川さんがやった。後はモップだけよ。」
そう言ってテキパキと掃除して、あっという間に終わらせてしまった。
「はいお終い。みんな事務所に集まって。」
課長がパンパンと手を叩き、みんなが集まる。
「また課長に迷惑掛けて、このアンポンタン。」
箕輪さんに嫌味を言われ、「毎度のことですよね」と美樹ちゃんに笑われる。
《くっそ〜・・・・後で絶対に今日の演説を見せてやる。俺だってやる時はやるってことを教えてやるからな!》
仏頂面で椅子に座ると、「はい」と課長がお茶を置いた。
「ああ、どうも!」
「だから課長・・・・本社の人がそんなことを・・・・、」
「いいのよ。だって今はみんなで戦わなくちゃいけないから。本社がどうとか肩書がどうとかなんて関係ないわ。」
そう言って自分も椅子に座り、「もう何度も話してるけど、悪い奴がこの会社を乗っ取ろうとしているの」とみんなを見渡した。
「そいつはパラサイトとか、怪人とか呼ばれてる悪い奴でね。顔を変えてはどこにでも潜り込んで、会社を乗っ取ってしまうの。
現に靴キング!はすでに乗っ取られていて、今度は本社にまで手を伸ばそうとしている。
もしそれを許してしまえば、きっと今までとは違った会社になってしまう。あの怪人一人の為に、みんなが辛い思いをするような会社に。」
課長は重々しい声でそう語る。
ここへ来てから何度も説明したことだけど、確認をするようにもう一度話した。
もちろん加藤社長の秘密を除いて・・・・だけど。
「私と冴木君は、あの怪人を動きを見張るつもりよ。その為にみんなにも協力してほしいんだけど、無理強いは出来ない。」
お茶を見つめながら、「ありがたいことに、みんなは協力してくれるって言ってくれたけど・・・」と微笑んだ。
「でも本当に無理はしなくていいからね。もし嫌ならそう言ってくれて構わない。私に気を遣う必要なんて全然ないから・・・・、」
そう言うと、箕輪さんが「私は喜んで協力しますよ」と頷いた。
「だって課長からのお願いなんだから、断るわけにいかないですよ。それにまた一緒に悪い奴をやっつけられるなんて、ちょっと嬉しいんです。」
課長は「箕輪さん・・・」とはにかんで、「ありがとう」と頷いた。
すると美樹ちゃんも「私も絶対にお手伝いします!」と拳を握った。
「だって課長は、あの女たらしに文句を言ってくれたんですから。私だけじゃなくて、他にも傷ついた女の子が大勢いる・・・・。
でもきっと、私たちだけじゃ何も出来なかったと思います。だから私、絶対にお手伝いします!嫌って言ってもついて行きますから!」
美樹ちゃんは頬を赤くしながら、闘志に溢れていた。
そしてなぜか俺に向かって「冴木さん!私、負けませんからね!」と睨んだ。
「ええっと・・・うん。」
もしかして美樹ちゃんも課長に惚れたとか・・・・・?
意外なところからライバル出現だと思っていると、「ぼ・・・僕は・・・・」と店長が呟いた。
「僕は・・・・その・・・・・、」
「楠店長。さっきも言った通り、私に気を遣う必要はありません。無理なお願いをしているのは私の方なんですから。」
「ああ・・・うう・・・・、」
「断ったからって、恥ずかしいことなんてありませんよ。自分の気持ちに素直になって下さい。」
そう言ってニコリと微笑む課長。
店長はそわそわと鼻をいじり、「僕はあ・・・・・」と呟いた。
「その・・・・何の役にも立たない男で・・・・、」
「そんなことありません。この店の店長は、あなたじゃないと務まらないと思います。」
「で、でも・・・・・実際に店を回してるのは箕輪さんで・・・・最近じゃ美樹ちゃんも仕事が出来るようになってきて・・・・僕と同じくらい役立たずなのって冴木くらいで・・・・。」
さらっと嫌味を言われ、思わず店長を睨む。
「こら、脅さない。」
箕輪さんに注意され、「ふん」と鼻を鳴らした。
「僕は・・・・正直怖い・・・・。店じゃ偉そうにしてるけど、でも本当は憶病な人間で・・・・、」
みんな知ってるよ!とツッコミたかったけど、グッと我慢する。
「相手が悪い奴だっていっても・・・・上に逆らうわけでしょ?それ・・・・やっぱり怖いっていうか・・・・。」
そう言って頭を抱え、「だってここをクビになったら、他に行くとこなんかないもん!」と叫んだ。
「ここくらいなんだよ・・・僕を置いてくれるのは・・・・。でもみんなはいつだって僕を助けてくれるから・・・・協力はしたい・・・・でもやっぱり怖くて・・・。」
「楠店長・・・。」
課長はニコリと笑いかけ、「その気持ちだけで充分です」と頷いた。
「無理をしたっていいことはありません。だからその気持ちだけで、私は嬉しいですよ。」
「うう・・・・嫁さんも帰って来なくて・・・この上仕事まで失ったら・・・・僕は冴木以下に・・・・、」
まだ言うか!と思ったが、箕輪さんが「我慢しなさい・・・」と小声で宥めてくる。
すると美樹ちゃんが「だったら店長は応援係をしましょ!」と言った。
「心の中でみんなを応援すればいいんですよ。頑張れ〜って。」
「応援・・・・・?」
「そうです。心の中でみんなと一緒に戦えばいいんですよ、ね?」
「き・・・君は・・・・本当に優しい子だな・・・・・。」
「だってみんなこの店の仲間じゃないですか。」
「ありがとう・・・・じゃあ僕、応援係をやるよ。」
「そうです!ファイト〜って心の中で叫んでて下さい。」
美樹ちゃんはギュッと拳を握る。店長も「ファイト〜!」と拳を握った。
課長はニコリと微笑み、俺と目を合わせた。
「みんな良い人だね。」
「そうですか?俺はちょっとイラっとしましたけど。」
「まあまあ、そう言わない。」
課長はポンと俺の肩を叩き、「みんなの意志は確認出来たから、話を進めるね」と言った。
「協力してくれるとは言っても、みんなを危険な目に遭わせるわけにはいかない。だから直接的に怪人に関わるのは、私と冴木君だけ。」
そう言って俺に目を向け、「また危険なことになるかもしれないけど、一人では背負わせないから」と頷いた。
「前は君だけ危ない目に遭っちゃって、もう二度とそんなことはさせない。だから私も・・・・、」
「何を言ってるんです!この冴木晴香、課長の為なら火の中水の中!この身を盾にしてでもお守りを・・・・、」
拳を握ってそう言うと、「惚気はいいから話を進めてよ」と箕輪さんがうんざりした。
「要するに、その怪人とやらの監視は課長と冴木がやるってことでしょ?そして私たちはそのお手伝いと?」
「あの怪人を見張るわけだから、こっちも自由に動けるわけじゃないと思うの。もし何かあったら連絡するから、その時は指示に従って動いてほしい。」
「いいですよ、危ないことじゃなければ。ね、美樹ちゃん?」
「はい!私、危ないことは苦手だけど、危なくないことなら平気ですから!」
「それは誰でも同じだと思うけど・・・・・。」
「でも箕輪さん、私たちの役目は重要ですよ!もし二人に何かあった時、私たちが頼りなんですから。」
「そうね。で、具体的には何をすればいいんですか?」
箕輪さんはちょっとだけ不安そうな顔をする。
課長は「連絡役とか、証拠の保存とかね」と答えた。
「伊礼さんや本社と連絡を取ったり、それに私たちが集めた証拠を送ることもあると思う。」
「なるほど。まあ事務作業みたいなもんですね。それなら任せて下さい。」
箕輪さんは自信満々に胸を張る。「そういうのは得意ですから」と言いながら。
「あとは店に来たお客さんの中で、変わった人がいないか注意してて。」
「変わった人・・・・ですか?」
「ほら、以前にクレーマーを装って怪人がやって来たでしょ?加藤社長を連れて。」
「ええ。でもまさか・・・・この店が狙われるとかは・・・・、」
「それは無いと思うわ。だって選挙までもう時間がないもの。ここを狙ったって何の意味もない。無駄なことはしないはずよ。」
「ならいいんですけど・・・・・、」
「でも万が一怪しい人が来たら、すぐに連絡して。絶対にこっちからは近づかないようにね。」
「大丈夫です、何かあったら店長を盾にしますから。」
そう言うと、店長は「ええ!?」と怯えた。
「冗談ですよ、本気にしないで下さい。」
「・・・怖いからやめてよ・・・・・。」
ビクビク肩を竦めながら、不安そうに俯く。
みんなはクスクス笑い、ちょっとだけ場が和んだ。
「選挙まであと一日しかないわ。きっと怪人の動きも活発化してくると思う。だからずっと見張っていれば、必ず何かが掴めると思うの。
みんなには迷惑を掛けるけど、どうかよろしくね。」
課長は真剣な顔でみんなを見渡す。
みんなも真剣な顔で頷きを返し、「さて・・・」と課長は立ち上がった。
「それじゃ今から怪人の監視に入るわ。冴木君、行こう。」
そう言って事務所から出て行こうとする。
俺は「今からですか!?」と眉を寄せた。
「だってあの怪人、まだ加藤社長の傍にいるんじゃ?」
「分かってる。でも私たちには他にも協力者がいるじゃない。まずはその人に会いに行く。」
「他にも?」
「ほら、前の事件の時にも手を貸してくれたでしょ?今回だって、でっち上げの記事が出るのを防いでくれた・・・・、」
「・・・・ああ!そうだった・・・・すっかり忘れてた。」
「彼女も手を貸してくれているんでしょ?きっと今頃何かを掴んでるはずよ。」
「そうですね。あの人仕事が早いから。」
「選挙までの時間は限られてる。モタモタしてられないわ。」
そう言って「ほら早く」と俺の手を引っ張った。
「ええっと・・・じゃあみなさん。そういうことで、一つよろしくお願いします。」
ぺこぺこ頭を下げながら出て行くと、「課長の足引っ張るんじゃないわよ」と言われた。
俺は振り返り、我が店の女傑たちを睨んだ。
「箕輪さん、美樹ちゃん。」
「何よ?」
「何ですか?」
「俺、今日の演説ビシっと決めたんだ。」
「知ってる、パソコンで見てたから。」
「うん、噛まずに喋ってましたね。」
「ちょっとは見直したでしょ?」
「まあね。意外とああいうのは得意なんだなあって。」
「けっこうハッタリとか上手いですよね。そういう意味じゃ感心しました。」
「なんだよそれ?カッコよかっただろ?」
「いや、全然。」
「だって私たち、普段の冴木さんを知ってますからねえ・・・。あの言葉を真に受けてもいいものかどうか・・・、」
二人は素っ気ない感じで言う。
絶対に褒めてもらえると思ったのに、「この〜・・・」と怒りが湧いてきた。
「・・・・ちょっとは褒めてくれえ!!」
子供みたいに地団駄を踏むと、「冗談よ」と二人は笑った。
「すごくカッコよかった、決まってたわよ。」
「うんうん、正直ちょっと見直しました。冴木さんもやる時はやるんだなあって。」
「ホントに?」
「嘘言うわけないでしょ。」
「カッコよかったです、すごく。」
「店長は?俺、カッコよかったでしょ?」
「・・・・嫁さん・・・・いつになったら帰って来てくれるんだろう・・・・。」
「ダメだこのおっさん・・・・。」
顔をしかめていると、「何してるの!」と課長に引っ張られた。
「ええっと・・・じゃあまた。」
手を振りながら、販売所を後にする。
課長の車に乗り込み、「で、今から祐希さんに会いに行くんですか?」と尋ねた。
「うん、もう連絡はしてるから。私の部屋に集合って。」
「か・・・・課長の部屋に!」
「前の事件のあと、すぐに家を出てマンションを借りたの。そこなら誰にも話が聞かれる心配はないから。」
「か・・・・課長の・・・お部屋・・・・、」
「ちょっとちらかってるけど我慢してね。」
「か・・・か・・・課長のお・・・・お部屋あ・・・・・、」
「冴木君?」
「つ・・・ついに・・・・ついに課長のお住まいに足を踏み入れるのか・・・・。ああ、タキシードくらい着てくればよかった!」
「何わけ分かんないこと言ってるの。選挙まであと一日しかないんだから、気を引き締めてよ。」
浮かれる俺をよそに、課長は車を飛ばす。
《課長のお部屋かあ・・・そんな聖域へいよいよ足を踏み入れる時が来たってわけだ。これ、けっこう前進してるんじゃないか?》
妄想病が加速して、「えへへへへ・・・」とにやけてしまう。
初めて遊園地に連れて行ってもられる子供みたいに、とろけそうなほど緩い顔になっていた。


            *


課長のお住まい、もとい女神の神殿は、七階建てのオートロック付きのマンションだった。
販売所からは一時間ほど離れた場所にあって、本社からもそう遠くない。
《課長、まだ家のことが気になってるんだな。お兄さんのこととか、お母さんのこととか。前の事件で色々あったから、まだ家族が心配で近くにいたいんだろうな。》
相変わらず優しい人だなと思いながら、オートロックのドアを潜る。
最近建ったばかりらしいけど、どこを見ても汚れ一つないくらい綺麗だった。
じろじろと周りを見渡しながら、課長の後をついて行く。
エレベーターに乗り込み、緊張しながら息をついた。
課長は無言のままボタンを押し、エレベーターが動き出す。
《二人きりの空間・・・・しかもこれから課長の部屋へ向かうわけで・・・・・。》
いらぬ妄想が加速して、男としての性が目覚めてくる。
《・・・・・いかんいかん!俺は何を想像してるんだ・・・・こともあろうに、課長で卑猥な妄想をするなんて!》
バチン!と頬を叩き、《課長をそういう目的で妄想してはイカン!》と戒めた。
戒めたけど・・・・でも俺だって男だ。
好きな人の部屋に初めて行くわけだから、やっぱりそれはもう・・・・・ねえ?色々とアレやコレやと浮かんでくるわけで。
《くっそ〜・・・・今日こんな事になるなんて分かってれば、タキシードとか花束とか、それに万が一に備えてアイツを財布に忍ばせておくとか・・・・、》
ひたすら妄想に駆られていると、「冴木君」と呼ばれた。
「は・・・はうあ!す、す、すみません!!」
「え?何が?」
「いや、その・・・・変な想像をしてしまいまして・・・・、」
「変な想像って・・・・何?」
「その・・・タキシードにアイツを忍ばせて、財布に花束を着せて・・・・、」
「何それ?」
「いえ、何でもないです・・・・・。」
「もう、しっかりしてよ。これからが正念場なんだから。」
課長は腕を組みながら「早く降りて」と言った。
「え?お・・・降りる?どこにですか?」
「エレベーターに決まってるでしょ。」
「え、あ・・・・はいはい!エレベーターね。はいどうも・・・・。」
いつの間にかドアが開いていて、課長は「もう・・・」とため息をついた。
「大丈夫かな、こんなことで・・・・、」
「大丈夫です!心配いりません!」
俺は鼻息荒くして、「それじゃ参りましょう!女神の神殿はどちらで?」と歩き出した。
「そっちじゃない、こっち。」
「ほほう、こちらに神殿が。ではアレですね、早く参拝せねば。」
「ほんとに大丈夫かな・・・・。」
また大きなため息が聞こえる。俺は《イカンぞ!》自分の妄想病を憎んだ。
《だからダメだって言っただろ!今日はそんなことしに来たんじゃないんだから!》
自分を叱り、頭から妄想を追い払う。
課長は「行き過ぎ」と俺の袖を掴み、「ここが私の部屋」と鍵を取り出した。
「ほお〜・・・・ここが女神の神殿かあ・・・・。」
「あのさ、さっきから神殿って何のこと?」
「決まってるじゃないですか!課長のお住まいのことですよ!」
「だから・・・・何でそれが神殿なのよ?」
「だって課長は女神じゃないですか!もしくは天使!」
「ちょっと!大きな声でやめてよ・・・・他の部屋にも人がいるんだから・・・・、」
課長は恥ずかしそうに周りを見渡す。でも俺は続けた。
「だって事実ですから!誰がなんと言おうと、課長は俺の女神なんです!だから例え火の中水の中・・・・、」
「もういいから!さっさと入って。」
慌てて鍵を開け、俺を中に押し込む。
《はうあ!ついに神殿へ・・・・・、》
課長はパチっと電気を点けて、「上がって」と入っていった。
「で・・・では!不肖冴木晴香・・・・神殿への参拝をば!」
ガチガチに緊張しながら、良い香りのする部屋へと足を踏み入れる。
丁寧に靴を揃えてから、一歩一歩踏みしめるように廊下を歩いた。
「おお・・・・ここが本殿か・・・・。」
廊下のドアの先には、明るいリビングがあった。
とても綺麗に片付いていて、これっぽっちもちらかっていない。
奥にはテレビ、その隣には机とノートパソコン。
中央には小さなテーブルとソファがあって、可愛らしいクッションもあった。
他にはアンティークな小物もあれば、意外なことに動物のぬいぐるみがたくさんあった。
「課長・・・・こういうのが好きなんですか?」
ぬいぐるみを掴むと、課長はニコリと微笑んだ。
「ああ、それ?私こう見えても大の動物好きなんだ。」
「そ、そうでしたか・・・・いやあ、初めて知りました。」
「犬と猫もいるよ。コロンとカレンっていうんだけど、今は実家に預けてるの。忙しくてお散歩にも連れて行ってあげられないから。」
「それはそれは・・・・。」
ゴクリと唾を飲みながら、じっと部屋を見渡す。
課長は「もうすぐ祐希さんも来るはずよ」と言って、キッチンへ向かった。
「お茶淹れるね、座ってて。」
「ああ・・・・はひ!」
緊張のせいで変な声が出てしまい、ちょこんとソファに座る。
「・・・・・・・・・・・。」
こんな時、超人的な記憶力の持ち主でよかったなと思う。
女神の神殿を、しっかりとこの目に焼き付けることが出来るから。
《ドアが幾つかあるな・・・・・。他の部屋に繋がってるのか?それとも押入れか何か?いやいや・・・・もしかしたらバスルームということも・・・・、》
また妄想が始まり、《だからダメだって!》と首を振った。
《そういうことを考えちゃいけないんだよ!そうやって空回りして失敗するんだから。今日は仕事の話!プライベートなことは頭から追い払え!》
またバチン!と頬を叩くと、ふとある物が目に入った。
・・・・・それは写真だった。
ノートパソコンの隣に、ハガキサイズの写真が立てられている。
オシャレなフレームに入っていて、ピースをする課長が写っていた。
「・・・・・・・・・・。」
俺はその写真から目が離せなかった。
だって・・・・課長の隣に、見たくないものが写っていたから・・・・。
「はい、どうぞ。」
課長がお茶を置き、「祐希さんもうすぐ着くって」とスマホを振った。
「後五分くらい。重要な情報を掴んだから、期待しててだって。」
課長は嬉しそうに言い、紅茶を一口飲む。
だけど俺は、沈んだ顔のまま項垂れていた。
課長が「どうしたの?」と心配そうに尋ねて、「どこか調子でも悪い?」と顔を覗き込んだ。
「もし体調が悪いなら、祐希さんが来るまで横になって・・・・、」
「課長・・・・あの写真・・・・、」
項垂れたまま、机の写真を指さす。
すると課長は「ああ、あれ!」と明るい声になった。
「あれ今年の初めに撮ったんだ。私の横に犬と猫がいるでしょ?あれがコロンとカレン。」
嬉しそうに言って、写真を持って来る。
「コロンはトイプードルのメス、カレンも綺麗な毛並みをしたメスなの。どう、可愛いでしょ?」
そう言って写真を見せられても、動物なんか目に入らない。
だって・・・課長の横には、一人の男が写っていたから。
それも仲良さそうに寄り添い、課長は満面の笑みをしている。
「あの・・・・この人って・・・・・、」
「ん?」
「これ・・・・もしかして・・・、」
「うん、そう。これが有川さん。」
「やっぱり・・・・。」
俺が一番聞きたくない名前、そして一番見たくない男の顔だった・・・・。

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