勇気のボタン 第十八話 街中の探検

  • 2010.06.16 Wednesday
  • 10:47
 平日でも人が多い街の通りを、胸ポケットにカモン、肩の上にチュウベエを乗せて歩いていた。
肩にインコを乗せた俺を見て、すれ違う人が好奇の目を向けてくる。
居心地の悪さを感じながらも、街の大きな商店街を目指して歩いていた。
今日は電車に乗って隣街まで来ていた。
俺は特に目的は無く、これはカモンから頼まれてのことだった。
「悠一よお、街ってどんなとこだ?」
動物達に餌をやり終えたあと、カモンがお気に入りのブランコにぶら下がりながら聞いてきた。
何を唐突に言うのだろうと思いながら、俺はカモンに近寄ってカゴから出してやった。
勢いよく飛び出してきたカモンは俺の目の前で口をもぐもぐさせながら言った。
「なあ、街ってどんな所なんだ?」
「どんなって・・・。」
急に聞かれても何と答えていいか分からず、そもそもカモンの質問の意図も見えない。
俺が答えに詰まっていると、マサカリがカモンを煽りだした。
「なんだ、なんだ急に。暑さで頭がおかしくなったのか?」
見ているだけで暑苦しくなる顔のマサカリがニヤニヤしながら言う。
「うるせえ。いるだけで部屋の温度が上がるような暑苦しい顔をしたやつは黙ってろ。」
カモンはぷりぷり怒りながらカゴに戻ってブランコに乗った。
「騒々しい所よ。街っていうのは。」
爬虫類を診てくれる動物病院に行く為、ここから離れた街に何度か行ったことのあるマリナが口を開いた。
「人も車も多くて騒がしいし、高い建物ばっかりで圧迫されちゃうわ。
気の落ち着かない所よ。」
マリナの話しを聞いてカモンがまたカゴから飛び出してくる。
「でも色んな物があるんだろう?」
カモンの質問に「そうねえ」とマリナは窓の外を見て呟いた。
「私はいつも動物病院に行くまでの道でしか街を見てないから詳しいことは分からないけど、確かにここよりは色んな物があるわ。」
カモンは目を輝かせながらマリナの話しを聞いている。
「でも物がありすぎるっていうか、やっぱり落ち着かないのよねえ。
私はこの部屋の窓際が一番落ち着くわ。」
そう言ってマリナは窓際に体を預けてリラックスしている。
「カモンは街に興味があるの?」
モンブランが食後のブラッシングをしながら聞いた。
「おう。俺はほとんどこの部屋から出ないからな。
出たとしても近所の河原を悠一の胸ポケットに入ったままちょっと散歩するくらいだ。
だからここより外の世界、街っていうものがどんなもんなのか一度行ってみたいんだ。」
確かにカモンを家から出すことは少ない。
出てもいつも俺の胸ポケットに入ったまま近所をうろつくだけだ。
カモンはそれで満足していると思っていたが、まさか街に興味があったとは。
「俺だって知らねえよ、街なんて。」
マサカリが肉厚の顔を歪めて言う。
「けど興味はねえなあ。俺の縄張りは近所の河原沿いの道って決まってるし、それ以外の所に行こうなんてのはあまり考えなかったな。」
マサカリに同調するように、モンブランも頷く。
「私も外へ出ても、この近所をうろうろするくらいかしら。
まあオスならもっと遠くへ行っちゃうけど、私は今の行動範囲で十分だわ。」
ブラッシング続けながらそう言う。
「きっと、一番広い範囲を動き回っているのはチュウベエよねえ。」
マリナがカモンのカゴの上にとまっているチュウベエに目をやる。
「俺、たくさん飛んで色んなとこ行く。
けど、街まで行ったことは無い。」
羽をパタパタさせながらチュウベエは言った。
カモンはしばらく黙ってみんなの話しを聞き、一旦カゴに戻ってブランコに揺られたあと、また出てきて俺に言った。
「なあ、悠一。
俺を街まで連れて行ってくれよ。」
いきなりのお願いに俺は戸惑った。
カモンを街まで連れて行くって・・・。
「あのなあ、カモン。街っていうのは楽しいことばかりじゃないぞ。
ここと違って危ないことも・・・。」
そう言いかけたとき、カモンは立ちあがって大きな声で言った。
「俺はハムスターだ!」
何が言いたいのか分からず、俺は「はあ」と曖昧な返事をしていた。
カモンは俺の目を見ながら大きな声で続けた。
「俺はマサカリやモンブランより寿命が短い。」
そう言われて俺は固まった。
いつかはこいつらとも別れなくてはならない時がくる。
そしてカモンは、マサカリやモンブランよりもその時が早くやってるくだろう。
いつかカモンがいなくなる。
そう思うと、心がズキンと痛んだ。
「だから、今の内に街ってやつを見てみたいんだ。
ここじゃない、外の世界に、俺は行ってみたい。」
そうカモンに強く言われて、今日は街まで来たわけである。
他の動物達は街に興味が無い為、行きたいとは言わなかったが、唯一チュウベエだけが「俺も行く」と言って半ば強引についてきた。
電車に乗り、街に向かうまでカモンはウキウキとした様子だった。
チュウベエに「楽しそうだな」と言われても聞こえない様子で、窓から流れる外の景色を眺めていた。
駅に着いて外に出ると、「これが街か」と一段を明るい声を出した。
汗で濡れている俺の胸ポケットなど居心地が悪いだろうに、そんなことも気にせず、街に来たことを喜んでいるようだった。
「とりあえず、商店街にでも行こうか。」
俺がそう言うと、カモンは胸ポケットから身を乗り出して聞いてきた。
「商店街?そこはどんな所だ?」
カモンの目はキラキラと輝いていた。
「色んな物が置いてある所だよ。
街へ来た人の多くがそこに行って買い物なんかをするんだ。」
そう言うと、「行く行く、商店街って所へレッツ・ゴーだ!」と意気込んでそこに行きたいとアピールした。
そして商店街の入り口に着くと、「ここか?」と俺を見上げて聞いてきた。
「ああ、そうだよ。ここに色んな物が置いてあるんだ。」
「そうか。じゃあ早く行こうぜ。」
はやる気持ちを抑えられないらしく、俺の胸ポケットでせわしなく動いている。
俺は持って来たハンカチで汗を拭い、胸ポケットにハムスター、肩にインコを乗せたまま商店街へと入った。
中には居酒屋、本屋、CDショップ、アクセサリーショップなど様々な店が並んでいる。
カモンは興奮して「あれは何だ?これは何だ?」とせわしなく俺に問いかけてきた。
そして靴屋の前を通りかかった時、「ちょっとあそこへ寄ってくれ」と言ってきた。
靴屋の前には様々な靴が置かれている。
その内の一つの女性物のヒールに興味を持ったらしく、「あそこへ俺を置いてくれ」と言う。
おれはヒールにカモンを乗せてやった。
カモンはヒールのつま先に潜り込み、「ここは最高の寝床だ」といって出て来なくなった。
「何やってんだ、あいつ。」
チュウベエが呆れたように声を出す。
俺はヒールの中からカモンをつまみ出した。
「あ、コラ。何をする。
俺はあそこが気に入っていたのに。」
カモンが手足をバタバタさせて抗議をする。
「あれは売り物なの。
中でハムスターで寝てたら、手に取った人がびっくりするだろ。」
カモンは「ふん」と言い、俺から顔を背けたが、まだあのヒールが恋しいようだ。
「なあ悠一。あれ買ってくれよ。」
カモンがヒールの方を見て言う。
「ダメだ。あんなもん買ってどうするんだ。
街に連れてくるとは言ったが、何か買ってやるなんて言った覚えは無いぞ。」
俺の言葉に「ケチな野郎」と言葉を残して胸ポケットにすっ込んでしまった。
「カモン、諦めるな。
悠一は甘いから、ねだれば何か買ってくれる。」
肩の上からチュウベエが余計なことを言う。
「お、そうだな。
諦めずにまたトライしてみるか。」
チュウベエに余計なアドバイスを真に受け、カモンは元気を取り戻してはしゃぎだした。
チュウベエめ、いらぬことを言いやがって。
俺が睨んでも、チュウベエは知らん顔をしていた。
それからもカモンは多くの人が行き交う様を珍しそうに見て、「あいつら何が楽しくてここにいるんだ」などと毒を吐きつつ、色んなお店を見ては「おい、悠一。あれ買ってくれ」と何度もせがんだりしてきた。
肩にインコを乗せているのはやはり目立つようで、商店街の中でもじろじろと人に見られていた。
何処か喫茶店にでも入るかな。
そう思って商店街を歩いていた時、少し先に知った顔を見つけた。
あの美しく整った顔、スラリとした体形、間違いない、翔子さんだ。
俺はこんな所で出会えたことが嬉しくなり、声をかけて近づこうとした。
近づこうとして、途中で止まってしまった。
翔子さんが、男性と腕を組んで歩いていたからだ。
俺は間抜けな顔をしたままその場に突っ立ってしまった。
「どうしたんだ、悠一?」
チュウベエに問いかけられても固まったままで、胸ポケットのカモンも訝し気に俺を見ている。
そんな俺を向こうは見つけたようで、翔子さんが男性と腕を組んだまま笑顔でこちらに歩いてきた。
相変わらず美しい。
美しいが、その腕は見知らぬ男性と組んでいる。
「こんにちわ。今日はお買い物ですか?」
翔子さんがニッコリと微笑みながら話しかけてくる。
俺はぎこちないままに「ええ、まあそんな所です」と答えていた。
えーっと、どうしたらいいんだろう?
別にどうすることも無いのだが、何故か俺の頭はパニック状態になっていた。
「あ、これが家で飼ってるハムスターとインコですね。
可愛い。」
翔子さんはカモンとチュウベエを優しく撫で、横にいる男性に「ねえ、可愛いねえ」と同意を求めている。
男性と目が合った俺は慌てて会釈をし、向こうも軽く頭を下げた。
「名前は何て言うんですか?」
翔子さんい問われても、すぐに言葉が出てこず、俺はしばらく固まってから何とか口を開いた。
「え、えーと。ハムスターがカモンで、インコがチュウベエと言います。」
「へえ、そうなんですか。」
翔子さんは笑顔のまま、カモンとチュウベエの名前を呼んで交互に触っている。
俺はそれを見ながら、横にいる男性が気になって仕方なかった。
一体誰なんだ。
確か飼い犬のコロンは彼氏はいないって言ってたけど。
すごく仲の良い友達とかかな。
俺の頭はフル回転で、横にいる男性のことを考えていた。
ひとしきりカモンとチュウベエに触ったあと、翔子さんは俺には見せたことのない笑顔で男性に話しかけた。
「こういう小さな動物も可愛いねえ。
私達も何か飼おうか。」
親し気だ。
すごく親し気だ。
一体どういう関係なんだ?
「翔子さんもお買い物ですか?」
緊張しながら、何とか聞いてみた。
「ええ、それもあるけど・・・。」
翔子さんが言い淀んだ。
何だろう?
俺が考えているうちに翔子さんが続けた。
「デート中なんです、彼と。」
そう言って恥ずかしそうに横の男性を見た。
俺は石のように固まってしまった。
「今お付き合いしている方なんです。
ほら、こちらがいつも話してるたくさんの動物を飼ってる有川さん。」
翔子さんに紹介され、男性は「どうも」と笑いながら挨拶をしてきた。
俺もしどろもどろに挨拶を返した。
背が高く、とても爽やかな印象を受ける人だった。
頭も良さそうで、雰囲気から育ちがいいのが分かった。
そうか、彼氏か。
出来たんだな、彼氏。
まあ翔子さんくらい美人ならすぐに彼氏くらい出来るか。
俺はふうっとため息をついて二人を見た。
横の男性は男の俺から見てもカッコイイと思う。
美男美女でお似合いのカップルだった。
まあ所詮俺なんかが翔子さんとどうにかなるわけは無いと思っていたが、それでもこうやって彼氏を見せられると落ち込むのは何故だろう。
俺はカモンに視線を落とし、またはあっとため息をついた。
「私達、これから映画を観に行くんです。
あんまり有川さんのお買い物の邪魔をしても悪いし、この辺で失礼しますね。
じゃあね、カモンにチュウベエ。」
翔子さんはそう言って笑いながら去って行こうとした。
その時、俺はふと気になって翔子さんを呼び止めた。
「あの。」
「はい。」
笑顔のまま翔子さんが振り向く。
不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「この前の動物の里親探しで猫が欲しいって言ってましたよね。
あの日は子猫をもらって帰ったんですか。」
翔子さんは「ええ」と頷き、また男性に目をやった。
「とても可愛い子がいたんで連れて帰りました。
有川さんの家には及ばないけど、私の家も犬が一匹に猫が二匹になって、結構賑やかになりました。
名前はチャッピーって言うんです。
彼と一緒に考えたんですよ。」
二人は顔を見合わせて笑った。
そうか。
あの頃からもう付き合っていたのか。
二人は笑顔のままじっと見つめ合っていた。
お幸せそうで何よりで。
少し僻む自分を感じながらも、あの里親探しで一匹でも多くの動物がもらわれていったんだなあと思うと嬉しかった。
「今はとっても可愛がってます。
チャッピーもよく私に懐いていて、本当にもらってきてよかったなあって思ってます。」
翔子さんは心底そう言っているようだった。
「そうですか。
それはよかったですね。
大事に飼ってあげて下さい。」
「はい。そうします。」
それからまた翔子さんはカモンとチュウベエにお別れを言い、笑顔で頭を下げて去って行った。
俺はしばらく二人が歩いて行った方を見つめていた。
二人が見えなくなる頃、カモンが口を開いた。
「あれってよお、マサカリが言ってた翔子さんて人だろう。
彼氏出来たんだなあ。」
カモンも二人が去った方を見ていた。
「残念だったな。」
ハムスターに慰められてしまった。
俺は本日三度目のため息をつきかけてやめ、踵を返して商店街を歩いた。
そうだ。
別に翔子さんとどうこうなりたかったわけじゃない。
ただ美人な人に憧れていただけだ。
好きだとか、付き合いたいとか、そんなことはもういいじゃないか。
自分に言い聞かせ、足早に商店街を歩く。
肩にインコを乗せていることに対する好奇の目は、もう気にならなかった。
「大丈夫、悠一には、藤井がいる。」
チュウベエが肩の上からそう言ってくる。
藤井、藤井か。
俺は実際藤井のことをどう思っているんだろう。
もしあそこで男性と腕を組んでいたのが、翔子さんでなく藤井だったら、俺はもっと傷付いただろうか。
色々なことを考え、自分の心の確かめようとした。
しかし答えは出て来ないので、もういらぬことを考えるのはやめようと思った。
「カモン。」
「何だよ。」
いきなり呼ばれて顔を出してきた。
「さっきのヒール、買ってやろうか。」
俺はカモンを撫でながら聞いた。
カモンはしばらく考えた挙句、顔を引っ込めて答えた。
「別にいいや、俺にはお気に入りのカゴがあるし。」
「そうか。」
その日はカモンが満足するまで街を歩いた。
たくさん歩いて日が暮れる頃、カモンは疲れたのか胸ポケットの中で眠っていた。
俺はオレンジ色に染まる街を眺めながら、駅まで歩いた。
垂れる汗をハンカチで拭う。
街にいても、どこからかセミの声が聞こえていた。
俺は耳を澄ましてその鳴き声を聞きいたあと、カモンを一回撫でてから改札を抜けた。
藤井は今頃何をしてるのかな。
俺は大きく欠伸をして、電車に乗り込んだ。

                                  第 十八話 完


勇気のボタン 第十七話 溜池の愛(5)

  • 2010.06.15 Tuesday
  • 11:00
 夕立が去った後は余計に湿度が上がる。
照りつける太陽に目を細めながら、体から溢れてくる汗をタオルで拭っていた。
カゴに入っている姫子さんは、顔を持ち上げて福太郎君と会えるのを楽しみにしているようだった。
あれからスーパーへ行った俺は、カブトムシやクワガタムシを売っているコーナーで虫用のカゴを見つけ、姫子さん用にそれを買った。
それから藤井の為に体を包むことの出来るくらい大き目のタオルも買って、藤井と姫子さんが待つ場所へと戻った。
藤井は一旦家に帰って着替えたいと言い、藤井のマンションに寄ってから福太郎君のいる池へと向かうことにした。
「汗をかくからタオルも持って行こう。」
そう言って藤井から受け取ったタオルで汗を拭きながら、福太郎君の元へと向かっている最中だった。
「ああ、福太郎さん。
もうすぐ会えるのね。」
姫子さんが目を輝かせながらそう呟く。
亀の表情はよく分からないが、何となく笑っているように思えた。
「よかったね。
また二匹で幸せに暮らせるよ。」
赤いTシャツに膝までの薄い茶色のズボンに着替えた藤井は、抱えているカゴに入っている姫子さんにニッコリ笑いかけた。
びしょ濡れになった俺の服も、太陽の光と暑さでだんだんと乾いてきたが、今度は吹き出す汗で胸元や背中がびっしょりと濡れていた。
俺も着替えたいなあと思いつつ、カゴの中の姫子さんに話しかけた。
「もう捕まらないようにしないとな。
夏だから子供達がまたあの池に生き物を捕まえにくるかもしれないけど、今度は気をつけるんだぞ。」
「はい。
もう離れ離れになるのは嫌ですから、捕まらないように福太郎さんと一緒に気をつけます。」
それから藤井は、福太郎君のどこに惚れたのかとか、愛し合ってどれくらいになるのかとか、色んなことを姫子さんに聞いていた。
藤井の質問に嬉しそうに答えつつ、姫子さんはもうすぐ会える福太郎君に想いを馳せているようだった。
暑い太陽に照らされながら、俺達は福太郎君のいる溜池まで戻って来た。
藤井がカゴを抱えて嬉しそうに池に駆け寄り、「福太郎くーん!」と大きく叫んだ。
「姫子さん連れ戻して来たよー!」
俺達から少し離れた所でぽちゃんと音がして、福太郎君が顔を出した。
藤井が嬉しそうにカゴを持ち上げて姫子さんを見せる。
「姫子!」
「福太郎さん!」
お互いが名前を呼び合い、感動の再会を果たした。
福太郎君が急いで俺達の方に泳ぎ寄って来て、それを見た藤井は姫子さんを池に放した。
「姫子!無事だったんだね。」
「福太郎さん!ずっと私のことを心配してくれていたのね。」
二匹は身を寄せ合い、再び出会えたことを大いに喜んでいるようだった。
「姫子。ずっと・・・、ずっと君のことを考えていたよ!」
「私もよ、福太郎さん!」
「これからはずっと一緒だ。
絶対に君を守ってみせる!」
「福太郎さん・・・、私、嬉しい!」
俺はなんだか痒くなってきて、二匹から目を逸らしたが、藤井は涙ぐんでいた。
「よかった・・・、本当によかった。」
タオルで目尻を拭い、藤井は慈しむような目で二匹を見ていた。
しばらく二匹はいかにお互いが心配していたか、いかに想い続けていたか、そしていかに会いたかったなどを聞いているのも恥ずかしくなるくらいに語り合い、俺はこれがいつまで続くのだろうと黙って眺めていた。
二匹の愛の言葉は尽きることが無いのだろう。
放っていおたら延々と語り合うに違いない。
そしてそれをうんうんと涙ながらに頷きながら見ている藤井。
俺はだんだんと辟易としてきて、咳払いをしてから二匹に話しかけた。
「あのう、お取り込みの所悪いんだけど・・・。」
俺に声をかけられた二匹はハッとしたように顔を上げ、恥ずかしそうにしながら「すみません」と言った。
「あまりに嬉しくてついつい惚気てしまいました。
どうか許して下さい。」
「福太郎さんと会えたことで興奮してしまって。
ごめんなさい。」
二匹は申し訳なさそうに詫びた。
「いいんだよ、気にしなくて。
こんなに愛し合ってる二匹だもの、惚気たって全然構わないよ。
ね、有川君。」
藤井が明るく笑いながら俺の方を見て同意を求めるが、俺は「うん、まあ」と素っ気無い返事をした。
この亀同士が愛し合っているのはよく分かった。
とりあえずは一件落着ということで、俺は家に帰って濡れた服を着替えたかった。
「お二人には本当に感謝しています。
もし力を貸して下さらなかったら、今でも僕たちは離れ離れだったかもしれません。
本当にありがとう。」
福太郎君が少し前に出て丁寧にお礼を言った。
「私も感謝しています。
連れ去られた時は、もう福太郎さんに会えないんだと絶望していました。
全く知らない川で、これから一匹だけで生きていくんだと悲しんでいる所でした。
こうやってまた福太郎さんと会えたのはお二人のおかげです。
私からもお礼を言います。
どうもありがとう。」
二匹のお礼に俺と藤井は顔を見合わせて笑い、その感謝の気持ちを受け取った。
「何もお礼は出来ませんけど・・・。」
福太郎君が首を引っ込めて言う。
鶴の恩返しならぬ、亀の恩返しは無さそうだった。
まあ別に見返りを期待してやったわけじゃないが。
「いいの、いいの、そんなことは。
あなた達がまた会えただけで私達は十分なんだから。」
藤井が目の前で手を振って答える。
「これからは二匹仲良く、いつまでも幸せに暮らしてね。」
「はい、そうします。」
二匹は揃って答えた。
それを見た藤井はうんと一回強く頷いた。
「また元に戻れてよかったな。
これからは捕まらないように気をつけろよ。」
二匹は顔を見合わせ、力強く頷くと言った。
「もう離れることはないように十分気をつけます。
姫子は、俺の人生そのもですから。」
福太郎君が真っすぐ姫子さんの目を見ながら言う。
「私も福太郎さんと離れるのはもうごめんですから、ずっと二匹でいられるように注意します。
私にとっても、福太郎さんは人生そのものですから。」
それから二匹は揃ってお礼を言い、俺達は笑顔で別れを告げて去ろうとした。
しかし俺はふとあることを思い出して池に戻り、福太郎君の目をじっと見た。
そんな俺を見て不思議そうに福太郎君が口を開いた。
「あのう、何か?」
俺はじっと福太郎君の目を見つめてから「いや、何でもないよ」と答えた。
「じゃあね、末長くお幸せに。」
そう言葉を残して藤井の元に駆け寄った。
「何をしてたの?」
藤井が俺を見上げながら聞いてくる。
俺は汗で濡れたシャツをパタパタさせながら言った。
「藤井さ、福太郎君の目に本物の愛を見たって言ってただろう。」
藤井は少し考えるような仕草をしてから答えた。
「うん、そういえば言ったね。」
太陽の光に目を細めながら、藤井は俺を見ていた。
「それがどうかしたの?」
俺はまだシャツをパタパタさせながら、池を振り返って答えた。
「もしかしたら俺にもその本物の愛ってやつが見えるかなあと思ったんだ。」
それを聞いた藤井は、笑いながら問いかけてきた。
「で、どうだった?」
俺はふうっと息を吐き、シャツのパタパタをやめてから答えた。
「よく分からなかった。」
いくら見ても、福太郎君の目から本物の愛を感じ取ることは出来なかった。
それは単に俺が愛を感じ取る力が無いだけなのか?
それとも藤井がたまたまそう感じただけなのか?
実際の所はどうなのか分からないが、それを聞いた藤井は笑顔でこう言った。
「人によって感じることは違うよ。
私は福太郎君の目に本物の愛を感じたけど、それが有川君の目に同じように映るとは限らないんじゃないかな。
きっと有川君には、有川君にしか感じ取れないものがあるよ。」
そう言って俺を前を歩きだした。
自分にしか感じ取れないことか。
何だか哲学的なことを言うなあと思いながら、先を歩く藤井の背中を眺めていた。
その時、藤井に聞きそびれたことが頭に浮かんできた。
「藤井は、彼氏はいるの?」
勇気を振り絞って出した言葉は、タイミングを逃して藤井の耳には届かなかった。
今、あの時の感情がまた蘇ってきた。
急に鼓動が早くなる。
息使いも荒い。
前を歩く藤井に聞いてみたい。
藤井は俺に彼女がいるのかと聞いてきた。
俺はいないと答えた。
なら藤井は?
お前はどうなんだ?
心臓がバクバクいうのを感じながら、聞くなら今だと思った。
勇気を振り絞れ。
喉まで出てきた言葉を、口に出せ。
俺は自分を奮い立たせた。
自分の中で、いつの間にか大きな存在になっていた藤井。
一人でいるより、藤井といる時間の方が楽しいと思えてきた自分がいる。
「私、彼氏がいるの。」
もしそう言われたら、俺は今まで通り藤井に接することが出来るだろうか?
今までと同じように、笑い合えることが出来るだろうか?
怖かった。
答えを聞くのが、とても怖かった。
聞くんじゃなかったと後悔するかもしれない。
でも、喉まで出かかったこの言葉を飲み込むことの方が後悔するような気がした。
「藤井。」
呼びかけられた藤井はキョトンとして俺に振り向く。
いつもと変わらない藤井の顔。
俺は直視出来ないほど緊張していた。
上手く声が出ない。
「どうしたの、有川君?」
近寄って来る藤井。
その呼吸が聞こえそうだった。
首を傾げて俺を見ている。
「あ、あのさ・・・。」
ありったけの勇気を振り絞って声を出した。
「うん?」
藤井が俺の目を真っすぐに見てくる。
俺も藤井の目を真っすぐに見返した。
「姫子さんを捜しに行く前さ、お前俺に彼女がいるかって聞いただろ。」
藤井の体がわずかに固まる。
「まあ俺は彼女なんていないんだけど・・・。」
真っすぐ俺を見る藤井の目に力がこもっているような気がした。
俺はその目を見ながら続けた。
「そ、その。お前はどうなのかなあと思って。」
藤井は動かない。
真っすぐに俺を見たまま、口も開かなかった。
俺は自分に言い聞かせた。
聞け!
ちゃんと言葉に出して、自分が思っていることを聞け!
俺はふうっと深呼吸したあと、藤井の視線を真っすぐに受け止めながら聞いた。
「藤井は、彼氏はいるの?」
返事はすぐには無かった。
藤井の瞳は澄んでいて、俺はその中をじっと見て答えを待った。
ほんの少しの沈黙が、とても長く感じられた。
やがて藤井は大きく笑顔になり、こう答えた。
「いないよ。有川君と一緒。」
そう言ってまた俺の前を歩きだす。
俺は歩きながら、心がフワフワしていた。
さっき藤井が言った言葉が頭の中で繰り返される。
「いないよ。有川君と一緒。」
その言葉が頭を駆け巡り、やがて胸のあたりまで来てそこで広がるように心に溶けていった。
さっきまでの緊張は嘘のように消えていて、今は嬉しさのようなものが心を満たしていた。
そうか。
彼氏はいないか。
前を歩く藤井の背中を見つめながら、俺は笑顔になっていた。
暑い陽射しが降り注ぎ、セミが命の合唱をしている。
汗を含んだ俺のシャツは少し重かったけど、心は弾むように軽かった。
俺は小走りに先を歩く藤井に近寄り、肩を並べて歩いた。
照りつける太陽で、体の中から汗が吹きだしてくる。
まだ、暑い日は続くと思った。

                                 第 十七話 完



勇気のボタン 第十七話 溜池の愛(4)

  • 2010.06.14 Monday
  • 10:53
 浅く濁った川に足を浸けながら、滑らないようにして気をつけて歩いた。
夕立の匂いが迫ってきていて、俺は雷鳴を響かせる入道雲を見上げた。
川を風が吹き抜けてきて、夏の湿った空気を運んできた。
「藤井、滑らないように気をつけろよ。」
ワンピースの裾を膝まで上げて結び、川を見つめながら藤井は姫子さんを捜していた。
「うん、結構川の底が滑るね。有川君も気をつけてね。」
さて、川まで来て水の中に入ったものの、どうやって捜そうか。
俺が思案していると、池の時と同じように藤井が大きな声で叫んだ。
「姫子さーん!福太郎君のお願いで捜しに来たよ。
いるんなら返事してー!」
土手の上を犬を連れながら散歩していた人が、何事かと目を向けながら歩いて行く。
「姫子さーん!」
池では大声で亀を呼ぶことを躊躇ったが、今は俺も藤井と同じようにして姫子さんを呼ぶべきだろうか。
迷いなが、中腰になってらやみくもに水の中に手を入れて姫子さんを捜した。
こんなやり方じゃ見つかるわけないか。
俺も藤井と同じように姫子さんの名前を呼び掛けようと腰を立たせた時、足を滑らせて転んでしまった。
「うわ!」
大きな音を立てて水の中に倒れ、一瞬パニックになって手足をバタバタさせてもがいた。
「有川君!」
藤井が叫びながらこっちへ寄ってくる。
まだ俺は手足をばたつかせていた。
「ぐぼう、藤井。」
溺れながら何とか体勢を立て直そうと仰向けの状態から体を捩った。
幸い水は浅く、体勢を変えた俺は何とか川底に手をついて頭を出した。
「大丈夫!?」
近寄ってきた藤井が俺の腕を取って引き起こそうとした。
足を踏ん張って俺を引っ張る手に力が入っている。
そして力いっぱい俺を引き起こそうとした瞬間、藤井も足を滑らせて転んでしまった。
「うわっぷ!」
勢いよく川の中に倒れてしまった。
俺と同じように手足をばたつかせる藤井。
「あ、有川君・・・、うっぷ!」
俺は何とか自力で起き上がり、藤井の手を掴んで川の中から引き起こした。
「お前まだ転んでどうするよ。
大丈夫か?」
藤井ははあはあ言いながら「大丈夫、大丈夫」と何度も頷いた。
「びっくりしたあ。」
顔についた髪を払いながら、藤井は視線の定まらない目でそう言う。
お互いびしょびしょに濡れてしまった。
「危なかったな。
やっぱり浅い川でも気をつけないといけないな。」
「そうだね。
危うく溺れる所だったよ。」
二人して転んでしまったことが何だか恥ずかしくなり、俺は藤井と目が合うと笑ってしまった。
つられて藤井も笑う。
お互いびしょ濡れのまま、しばらく笑っていた。
土手の上を行く人が、また何事かと俺達に視線を向けていた。
「一旦あがろうか。」
「うん。」
そう言って俺達は川からあがり、濡れた服をぎゅっと絞った。
しみ込んでいた水がぽたぽたと地面に落ちる。
俺はふうとため息をつき、何気なく藤井の方を見た。
これは・・・。
藤井は全く気付かず、濡れた髪を絞っていた。
「おい、藤井。」
俺は藤井の体から目を逸らして呼びかけた。
「何?」
きょとんとした目で聞き返してくる藤井に、俺は咳払いを一つしてから言った。
「下着・・・、透けてるぞ。」
そう言われた藤井は、ハッとしたように自分の服を見た。
くっきり浮かび上がる自分の下着を見て、顔を赤くして俯いた。
俺は藤井の体から目を逸らしたまま聞いた。
「どうする?一旦家に戻って着替えるか?」
家に戻ると言っても、この姿のまま戻らないといけないわけで、しかも俺は藤井に着せてやる上着も持っていなかった。
顔を赤らめたまま下着を隠すようにしている藤井に何と言っていいのか、俺は黙り込んでしまった。
二人の間に、何とも言えない空気が流れる。
「ああと、よかったら俺のTシャツを・・・。」
そう言いかけたとき、額にポツリと何かが振ってきた。
俺は空を見上げた。
入道雲が俺達のすぐ近くまで来ていた。
ポツポツと雨が川に当たる音がしてきたかと思うとすぐに、土砂降りの雨がやってきた。
雷のおまけ付きだ。
「ええと、どうする・・・、藤井?」
なるべく体を見ないように藤井に振り返って聞いた。
藤井は下着を隠していた手を離すと、顔を上げて川を見た。
「いい。このまま姫子さんを捜そう。」
力強くそう言った。
そしてまた川の中へと入って行った。
「でも、お前下着が・・・。」
俺の言葉を背中で聞きながら、藤井はもう川に入って「姫子さーん!」と呼びかけていた。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、土砂降りの中姫子さんを捜す藤井を見て、俺も川に入って姫子さんの名前を呼んだ。
雨の音に負けないくらいに声を出して姫子さんに呼びかける。
「有川君。」
藤井がいきなり俺に呼びかける。
「何だ?」
俺は藤井を見ずに答えた。
「あんまりこっちを見ないでね。」
「分かってるよ。」
そう言いながらもチラッとだけ藤井を見た。
びしょびしょに濡れて、下着が透けながらも懸命に姫子さんの名前を呼んでいる。
こいつ、本当に動物のことになると真剣だな。
その姿に感心しつつ、俺も姫子さんの名前を呼び続けた。
やがて夕立はあがり、辺りに太陽の光が戻る頃、俺は一旦川からあがった。
背伸びをして陽光が反射する川を眺める。
夕立のせいか、川は少し増水していた。
しかし藤井はまだ姫子さんを捜していた。
俺は近くの茂みに腰を下ろし、何気なくついた手に何か硬い物が当たったのを感じた。
何だろうと思って見てみると、一匹の亀がそこにいた。
もしかしたらと思って名前を尋ねてみた。
「あのう、もしかして姫子さん?」
その亀はビクっとして首をすくめてしまった。
怯えているのかな。
俺は丁寧に自己紹介から入った。
「こんにちわ。
俺は有川っていう動物と話が出来る変わり者なんだ。」
ビクビクしながらその亀は首を出してきた。
「姫子さんだよね?」
もう一度尋ねると、その亀はコクンと頷いた。
「よかった。
実は福太郎君から頼まれて君のことを捜しにきたんだよ。」
福太郎という言葉に反応するように、姫子さんは顔を動かした。
「彼はものすごく君に会いたがってる。
一緒にあの池に帰ろう。」
「福太郎さん・・・。」
そう呟くと姫子さんは首を伸ばして俺を見た。
「会いたい。
私も福太郎さんに会いたい。
どうか彼の元へ連れて行って下さい。」
俺は笑って頷き、まだ姫子さんを捜している藤井を呼んだ。
「おーい!藤井。
姫子さんいたぞー!」
その声を聞いた藤井は、また転ばないように気をつけながら俺達のほうに近寄って来た。
「ここの茂みにいたんだ。
さっき見つけた所なんだよ。」
藤井は笑顔で姫子さんに近づき、俺と同じように自己紹介をした。
姫子さんは恥ずかしがり屋なのか、また首を引っ込めてしまった。
「よかったあ。
ずっとあなたのことを捜していたのよ。
私達が呼んでる声は聞こえてた?」
藤井は姫子さんの近くにしゃがんだ。
姫子さんは「聞こえてました」と小さく言い、「でも私人間が怖くて・・・。」と泣き入りそうな声で言った。
そりゃあそうだろう。
福太郎君と仲良く暮らしていた所を人間に捕まえられて、それをこんな知らない川に連れてこられた。
そしたら今度はまた別の人間が自分を捜しにやって来た。
きっとこの茂みでずっと身を隠していたのだろう。
「福太郎君のお願いで捜しにきたって声がしたけど、出て行く勇気が無くて・・・。」
姫子さんは申し訳なさそうに言った。
「いいんだよ。
こうやって見つかったんだし。
福太郎君はずっとあなたのことを想って心配してたんだよ。
連れて帰ったらきっと大喜びするよ。」
そう言って藤井は姫子さんを持ち上げ、明るく笑いかけた。
「ありがとうございます。
私も毎日福太郎さんのことを考えていました。
ずっと会いたいって願っていました。
だから早く会いたいです。」
「うん」と藤井は頷き、姫子さんを持ったまま立ち上がった。
福太郎君、君の愛する亀はちゃんと見つけたよ。
これで一件落着かと思ったが、そういえば姫子さんを連れていくカゴを持ってきていないことに気が付いた。
この陽射しの中、ずっと手に持ったまま移動したのでは姫子さんに負担がかかるだろう。
俺は何処かでカゴを買ってこようと思った。
「藤井、この近くに亀を入れるようなカゴを売ってる所はあるか?」
藤井は少し考えた後、ここから川を上って少し歩いた所に大きなスーパーがあると言った。
「そこなら何か売ってるかもな。」
俺はそのスーパーへ行くことにした。
「じゃあちょっとここで待ってて。
姫子さんを入れるカゴを買ってくるから。」
そう言って歩き出す俺を藤井は呼び止めた。
「あ、ちょっと待って!」
「何だ?」
振りかえった俺は「あ、そうか」と思った。
藤井の服は濡れて透けたままだった。
「何か体を包むタオルみたいな物も一緒に買ってきて。」
藤井は姫子さんを抱いたまま茂みに隠れた。
「分かった。
すぐに行って帰ってくるよ。
ちょっとの間待っててくれ。」
藤井はコクンと頷き、俺はそれを確認するとスーパーの方へと走り出した。
夕立がやんで、空はまた青く晴れ渡っている。
過ぎ去った入道雲が、遠くで雷鳴を響かせていた。
びしょにしょに濡れたのは藤井だけでなく、俺も一緒だった。
走る度にズボンが足にまとわりつく。
少しズボンの水を絞り、俺は待っている藤井と姫子さんの為に再び駆け出した。
雨のあがった夏の空気が、優しく頬を撫でているようだった。

                            第 十七話 さらにつづく


勇気のボタン 第十七話 溜池の愛(3)

  • 2010.06.13 Sunday
  • 10:58

子供達にとって、夏は最高の遊び盛りである。
特に夏休みともなれば家族旅行にプールにと様々な遊びで大忙しだろう。
その中でも忘れてはいけないのが、昆虫採集や、生き物を捕まえる遊びである。
小学生にとっては、池にいる亀など絶好の獲物だろう。
例えそこが生き物の採取を禁止された場所だったとしても、そんなものはおかまいなしに自分達の好奇心を満たす為に生き物を捕まえようとするのが子供というものだ。
池にやって来た子供達はよくに日に焼けており、背の高くてほっそりした子と、汗をダラダラ流しているちょっとぽっちゃりした子、そして小柄で機敏そうな子の三人だった。
みんな半袖に膝までのズボンを穿いており、いかにも夏らしい格好だった。
背の高い子が手に網を持っており、ぽっちゃりした子が透明なカゴを持っていた。
池に魚か何かの生き物を採取しに来たことは間違いないようである。
藤井がその子供達を呼びとめ、笑いかけながら声をかけた。
「こんにちわ。池に遊びに来たの?」
知らない大人に話しかけられて、子供達は少し警戒している。
藤井はとにかく笑顔で子供達を警戒させないように努めているようだった。
俺は藤井と子供達から少し離れ、福太郎君が顔を出している所に近寄った。
「姫子さんを連れて行ったのはこの子達か?」
俺は周りに聞こえないように小さく聞いた。
「はい、間違いあません。姫子を連れ去っていった子供達です。」
俺は藤井の背中を見ながら、どうやって子供達に話しをしようか考えていた。
相手は子供。
大人の男の俺が出るより、藤井が話した方が子供達の警戒心も薄いだろう。
そう思っていると福太郎君が悲しそうな、それでいて訴えるような声で話しかけてきた。
「どうか!どうか姫子を取り戻して下さい。
お願いします。
姫子は私の人生そのものなんです。
だからどうか姫子を!」
俺は福太郎君に向かって力強く頷き、藤井の背中をトントンと叩いてこちらを向かせた。
「何?」
子供達となんとか仲良くなろうと必死な藤井は、困った笑顔を見せて聞いていた。
「姫子さんを連れていったのはその子供達だそうだ。」
藤井がうんと一回頷く。
「それでな、男の俺より女のお前の方が子供も警戒しにくいだろうから話し合いは任せていいか?」
藤井はまたうんと頷いた。
チラっと子供達の方を見ると、コソコソと話しをしている俺達を怪しむような目つきで見ていた。
俺は話し合いは藤井に任せ、福太郎君の近くにしゃがんで、後ろからその様子を見守ることにした。
「ごねんね、いきなり話しかけて。
実はちょっと聞きたいことがあるの。
教えてもらえるかな?」
きっと満面の笑みで語りかけているのだろう。
声も優しい。
子供達は戸惑いながらも、背の高い子が少し前に出て藤井に言った。
「おばさん誰?」
藤井は固まった。
きっと笑顔も引きつっていることだろう。
いきなり強烈な一撃を喰らわされてしまった。
「おばさん・・・。」
小さくそう呟くと、藤井は後に続く言葉を失ってしまった。
「なあ、おばさんは失礼じゃねえ?」
小柄な子がそう言った。
「だって他に何て言えばいいんだよ?」
「お姉さんとかあるじゃん。」
背の高いこと子と小柄な子が言い合っている。
「大人の女の人は、みんなおばさんでいいんじゃねえか?」
ぽっちゃりした子が口を開いた。
さあ、どうだ。
立ち直れるか、藤井。
藤井は深呼吸していた。
その間も子供達は藤井を何と呼ぶかで揉めていた。
訳の分からない所で話しが詰まってしまっている。
俺は静かにその様子を見守った。
子供達が藤井の呼び方を揉めている中、当の藤井はふうっと大きく息を吐き出して言った。
「いいよいいよ、おばさんで。」
投げやりな口調だった。
おばさんと呼ばれたことは相当なショックのようであるが、今は子供達から姫子さんのことを聞きだすのが先だと思ったのだろう。
力のこもった手でハンカチで汗を拭いていた。
子供達が藤井を見て、おばさんに呼び方が決まった所でまた口を開いた。
「それで、おばさん誰?何の用?」
元々こういう口調なのか、ぶっきらぼうに背の高い子が聞いてきた。
藤井はハンカチをぎゅっと握りしめ、また優しい声を出して答えた。
「私はよくここの散歩している藤井って言います。
聞きたいことは、あなた達がここで捕まえた亀さんのことなの?」
子供達は顔を見合わせた。
そして何やら話し合ったあと、また背の高い子が聞いてきた。
「その亀がどうかしたの、おばさん?」
おばさんの部分は余計だろう。
きっとそう思っている藤井は、優しい口調を崩すことなく答えた。
「その亀さんね、実は私が飼っていた亀さんなの。
それで飼えなくなったからこの池に離したんだけど、やっぱり可哀想だから飼い戻そうと思って。
だからあたた達が捕まえた亀が今どうしてるのかなあって知りたくて。」
うまいぞ、藤井。
俺は小さな声で背中に呼びかけた。
しかし子供達は訝しげな目つきになっていた。
小柄な子が藤井を見つめながら言った。
「飼ってる亀をここに捨てたの?」
少し怒っているような感じだった。
「そうなの。ちょっと事情があって。
でもやっぱり可哀想だなあと思ってまた飼うことにしたの。
だから、出来たらその亀さんを返して欲しくて。」
おばさんと言われたことのショックを内に隠しながら、藤井が訴えるように子供達に言った。
そうするとぽっちゃりした子が強い口調で言った。
「飼ってる生き物を捨てたらいけないんだぜ。」
その通りだ。
だからこそ藤井は少し黙ってしまった。
次に何を言うか考えているようだった。
「大人なのに、そんなことも知らないのかよ。」
またぶっきらぼうに背の高い子が言う。
どうだ?
まだ闘えるか、藤井。
「そうだね。
私悪いことしちゃったね。
でも今は反省してる。
もう生き物は二度と捨てない。
だからその亀さんを返してもらえないかな?」
もう笑顔は引きつっていることだろう。
藤井の言葉を聞いて、子供達はまた何やら話し始めた。
藤井はふうっとため息をついて汗を拭った。
俺は後ろから応援してるぞ、藤井。
話しを終えた子供達が藤井に向き直った。
背の高い子が網を持ちかえながら口を開いた。
「あの亀なら、川に捨てた。」
「え?」
藤井がすっとんきょうな声をあげる。
「家で飼えないから川に捨てたんだ。」
平然とそう言う子供に、藤井はだんだんと怒りが湧いてきたようである。
「あ、あの。さっき生き物は捨てたらダメって言ってなかったっけ。」
藤井が怒りを裏に孕んだ優しい声で尋ねる。
しかし子供達はけろっとした顔で答えた。
「だって、お母さんが家で飼っちゃダメって言ったんだもん。」
きっと藤井の心は怒りで沸騰していることだろう。
少し肩が震えていた。
「じゃあまたこの池に戻そうとは思わなかったの。」
だんだんと声から優しさが消えていっている。
俺はそれでも静かに藤井を見守った。
背の高いこ子は反撃するようにきつい口調で言った。
「だって俺の家からだと川の方が近かったんだもん。」
納得出来ない藤井も反論する。
「でもこの池にいたんだよ。
飼えないなら普通元にいた池に戻そうとは思わない。」
藤井の言葉に機嫌を損ねたのか、背の高い子は声を荒げた。
「知るかよそんなの!
元はと言えば捨てたそっちが悪いんだろ!」
その言葉を聞いて藤井は大きくため息をついた。
そして俺の方を振り返る。
そんなもんだよ、子供なんて。
心で思ったことが通じたのか、藤井は子供達の方に向き直って言った。
「分かった。
ごめんね、変なことを聞いて。
出来たらその亀さんを捨てた川だけ教えてくれるかな?」
もう諦めの入った感じの声で藤井が聞くと、子供達は渋々といったようにその川の名前を言った。
「ありがとう。
じゃあその川に捜しに行ってみるね。」
そう言うと藤井は俺の所に来て、「ここからそう遠くない川だから今から行こう」と言った。
俺は腰を上げ、福太郎君に「姫子さんを捜してくるよ」よ伝えた。
「どうかよろしくお願いします。」
福太郎君は首を縮めてそう言った。
「じゃあ行こうか。」
藤井の合図とともに俺達が池を離れようとした時、子供達が網を池に入れていた。
それを見た藤井が子供達に近づいて言う。
「あのさあ、君達。ここの生き物は捕っちゃいけないんだよ。
ちゃんと看板にも書いてあるでしょ。」
そう言ってそう書かれた看板を指し示す。
子供達は嫌そうな目つきで藤井を見て、背の高い子がまた藤井に食ってかかった。
「知るかよ、そんなもん。
おばさんに関係無いだろ。」
この言葉で完全に切れた藤井は、ニッコリと子供達に微笑んだあと、急に目を吊り上げて言った。
「ダメなものはダメ!
池の生き物は捕ったいけないって書いてあるでしょう。
他で遊びなさい!」
かなりの剣幕でそう言うと、子供達はぶつぶつ言いながらも、藤井の気迫に押されたようで、池から去っていった。
去り際に「おっかねえおばさん」と捨て台詞を残して。
それを見送った藤井は目を吊り上げたまま言った。
「私はまだおばさんじゃ無いわよ。」
俺は怒る藤井の肩をポンポンと叩き、お疲れさんと言った。
それから川に向かうまで、藤井はプリプリ怒っていた。
その愚痴を聞きながら、「お前の言う通りだ」と相槌を打って歩いた。
「子供なんてあんなもんさ。」
今度は声に出してそう言うと、「私ももっと大人にならなきゃ」と藤井は顔を怒らせたままではあるが、自分の未熟さを恥じているようでもあった。
それから15分ほど歩くと、子供達の言っていた川に着いた。
俺がマサカリの散歩コースにしている近くの川より、随分小さな川だった。
周りは土手になっていて、俺達はそこに立っていた。
「ここの何処かにいるんだね、姫子さん。」
藤井が意気込んだ様子で川を見渡す。
川の周りは草が茂っていて、水も濁っていて中が見えない。
これは捜すに苦労するかもしれないな。
しかし俺の心配をよそに、藤井は希望に満ちた目をしていた。
何としても姫子さんを福太郎君の元へ連れ戻すつもりでいるらしい。
気が付けば空が曇っていた。
そのおかげで太陽の光が弱まり、流れる汗も今は体を冷やしながら乾いていった。
「よし、じゃあ捜そう!」
藤井の掛け声とともに俺達は川の近くまで降りた。
姫子さんを見つけ、無事福太郎君の元に返せるか?
藤井は靴を脱いで川に入るつもりでいた。
俺も靴を脱ぎ、ズボンを捲り上げて、川に入ろうと決めた。
川の流れは緩やかで、水に流される心配は少ないだろう。
それでも注意を払いながら川に足を入れた。
水は冷たいが、体が冷えるほどではない。
俺は雲がかかる空を見上げ、一雨来そうだなと感じていた。
遠くにある入道雲が、雷鳴を響かせていた。

                           第 十七話 またまたつづく

 

 

 

 

勇気のボタン 第十七話 溜池の愛(2)

  • 2010.06.12 Saturday
  • 10:57
 気が付けば、セミが鳴いている。
一体いつ頃から鳴き始めていたのだろうと思うが、毎年気が付けば鳴いている。
その音はうるさいようで、しかし確かに今は夏なのだと思わせる安心感のようなものがる。
きっと誰よりも夏を待ちわびている彼らは、土から這い出て来るなり子孫を残すために一生を捧げる。
彼らの音がうるさく、不快だと思わないのは、それは愛を奏でる歌だからだろう。
短い間に子孫の残すパートナーを見つける為に、彼らは愛を込めて熱唱する。
セミの愛。
それはひと夏の燃え上がるような情熱なのかもしれない。
目の前にもまた、愛に燃え上がる一匹の亀と、それを応援する一人の女性がいる。
藤井の提案で始まった亀の恋人捜し。
それが正しい夏の過ごし方なのかどうかは知らないが、やると言った以上はやるしかないのだろう。
ハンカチで汗を拭きながら、藤井は亀の福太郎君に尋ねた。
「じゃあこれから私達があなたの彼女を捜すけど、何か手掛かりが必要だよね。
その姫子さんはどんな亀さんなの?」
福太郎君は首を伸ばし、遠く空を見るように顔を上げて答えた。
「優しい亀です。おっとりしてて、気遣いも出来て。
美しい澄んだ目が印象的な子です。」
藤井は顎に手を当て、「うーん」と考え込んでいる。
そして俺の方を見て聞いた。
「どう思う、有川君?」
「どうって、何が?」
「姫子さんの特徴。
いまいちピンとこないよねえ。」
当たり前だ。
優しくて、気遣いも出来て、澄んだ目を持った亀。
この情報から姫子という亀を捜しあてるつもりでいるのか?
しかし藤井は本気で考え込んでいた。
「何かねえ、もうちょっと手掛かりが欲しいよねえ。
有川君はどう思う?」
また話しを振られて、俺は「どうだろうな」と気の無い返事を返した。
確かに捜すにの手掛かりはいるが、その亀の特徴だけでは見つけるのは至難の業だろう。
俺はもう少し具体的なことを聞いた。
「そう言えば、その姫子さんを連れ去った子供達はたまにここへ来ると言ってなかったか?」
藤井は「ああ!」と言って、ポンと手を打った。
「言った、言ったよ。
福太郎君がそう言ってたもの。
ねえ、福太郎君?」
そろそろ暑くなってきたのか、福太郎君は水の中に入ろうとしていた。
えっちらおっちら体の向きを変え、俺達にお尻を向けながら滑るように水の中に入って行った。
「ええ、その子供達ならたまにここへ来ます。」
水面から顔だけ出した福太郎君が答える。
「最近では何時見たの?」
藤井の問いかけに、福太郎君はすぐに答えた。
「昨日です。三日前にも来ていました。
なんか最近、来る頻度が増えているような気がします。」
それはいいことを聞いた。
もしその子供達に会えれば、姫子がどうなったのかすぐに分かる。
そして今も飼っているのなら、何とか交渉して返してもらえればこの件は解決だ。
「じゃあまずはその子供達を見つけなくちゃね。
もしかしたら今日も来るかもしれないから、ここで待っていようか。」
俺は藤井の意見に賛成し、木の木陰で二人腰を下ろして待つことにした。
木陰にいれば直射日光は防げるが、それでも蒸し暑いのはどうにも出来なかった。
藤井は「ふう」とため息をつきながらハンカチで汗を拭っていた。
「喉乾いてないか?
俺何か飲み物でも飼ってくるよ。
公園の近くに自販機があったから。」
「いいの?」
藤井が俺を見て聞き返す。
「ああ、このままずっと待ってたら脱水症状でも起こしかねないからな。
藤井は何か飲みたい物はあるか?」
俺は立ち上がりながら、藤井を振り返って聞いた。
「何でもいいよ。ありがとう。」
そう言って藤井は自分の財布を取り出そうとする。
「いいよ、飲み物くらい奢るから。
すぐ戻ってくるからちょっとここで待ってて。」
藤井は取り出しかけた財布をしまい、ニッコリ笑ってまた「ありがとう」と言った。
俺は自販機まで行って、水を一本、ウーロン茶を一本買った。
藤井はウーロン茶を選び、俺たちは出てくる汗を拭きながらそれを飲んだ。
生温い風が俺達の頬を撫でる。
俺は水を飲み干し、空になったペットボトルをもてあそんでいた。
「あの亀さん、羨ましいね。」
突然藤井が口を開いた。
俺は訳が分からず、「何が」と聞き返した。
「だって、あんなに心から愛し合える相手がいるんだよ。
いなくなった彼女のことを毎日毎日想ってる。
なんだか、そこまで想える相手がいるって羨ましいなあって。」
藤井はウーロン茶に口をつけながら、池の方を見ている。
汗が落ちる藤井の横顔を見て、俺は聞いた。
「やっぱり女の子ってそういうのに憧れるもの?」
「うーん、どうだろう。」
両手でウーロン茶の缶を持ちながら、藤井は自分の足元を見ていた。
また生温い風が俺達の頬を撫でた。
「そうだね。
そこまで愛することの出来る相手がいるっていうのは、やっぱり、憧れっていうか羨ましいって思うかも。
あの亀さん達は相思相愛なわけでしょ。
きっと姫子さんも福太郎君に会いたいって願ってるはずだし。
そういうのって、何だかいいなあって思う。」
そう言うと藤井はグイッとウーロン茶を飲み、俺の方に視線を向けた。
藤井の方を見ていた俺と目が合い、一瞬沈黙が訪れる。
「有川君は、彼女いるの?」
いきなりそんなことを聞かれて俺は焦った。
もちろん彼女などいない。
しかしそんな質問が藤井から来るとは思ってもいなかったので、俺は「はは、そうだなあ」なんて言いながら藤井から視線を外した。
彼女はいない。
そう言えばいいだけなのに、妙にドキドキしてきて、俺はしばらく黙ってから小さく答えた。
「彼女は、いないよ。」
俺も自分の足元を見ていた。
靴、汚れてるなあとどうでもいいことを考えていた。
「そっか。そうなんだ。」
藤井はウーロン茶を飲みかけてやめ、両手で缶を握りながらそう言った。
あいにく俺は女性に縁が無かった。
いや、縁の無い生活を自分で選んで生きてきただけかもしれない。
一度だけ女性と付き合ったことがあるが、「他に好きな人が出来たから」と言われてあっさり別れられてしまった。
俺は引き留めようともせず、人生で初めて出来た彼女が去るのをあっさりと見送った。
好きだから付き合ったはずなのに、「別れよう」と言われた時、何故かすんなりそれを受け入れてしまった。
元々一人が好きな性格だ。
また一人に戻るだけだと深く考えなかっただけなのか、それとも、本当はその彼女のことがそこまで好きではなかったのか、今でも分からない。
ただ、それ以来俺は女性と付き合っていない。
付き合うような積極的な行動も起こしていなかった。
それでいいと思っていた。
俺は一人でいい。
その方が気が楽だし、好きなように出来る。
ずっとそう思ってきたが、今は藤井と過ごす時間を楽しいと思っている。
これが恋というやつなのか?
それも今の俺には分からなかった。
ただ、藤井が自分の中で大きな存在になりつつあることは実感していた。
藤井はどうなんだろう?
俺のことをどう思っているんだろう?
同じ力を持つ者同士、同盟を組んで活動をしようと言ってきたのは藤井だ。
自分と同じ力を持つ者に出会えて嬉しいとも言っていた。
だったら俺は、藤井にとって単なる同じ力を持つ者同士というだけの友達か?
それとも動物を救うための同盟としてのだけの仲間か?
チラッと見た藤井の横顔からは、何も分からなかった。
藤井は真っすぐに池の方を見ている。
俺に「彼女はいるの?」と聞いてきたことには、何か意味があったのか?
俺は聞き返したくなっていた。
「藤井は、彼氏はいるの?」
同盟として藤井と活動を共にしているが、深いプライベートのことは知らない。
もしかしたら、彼氏がいるのかも。
そう思うと、何だか胸が締め付けられるような思いになった。
俺は聞きたかった。
藤井に彼氏がいるのかどうか。
でも、怖くて聞けなかった。
何が怖いのかは分からない。
けど、口からその言葉を出すには相当な勇気がいった。
俺はふうっと深呼吸をし、もう一度藤井の横顔を見た。
いつもと変わらない藤井。
動物のことを案じ、真っすぐに池を見ている。
そうだ。
そうだった。
藤井はいつだって真っすぐな目をしていた。
俺は、そこに何かを感じていたんじゃないか。
自分には無いものを持っている、何事にも真っすぐと向かい合う藤井に。
俺は勇気を振り絞り、彼氏がいるのか聞こうとした。
動悸が早い。呼吸も荒くなってきた。
言葉が喉まで出てきている。
もう少し、もう少しで言葉が出てくる。
俺は大きく息を吸い込み、そして藤井に聞こうとした。
「あ、あのさ。藤井は彼氏が・・・。」
その時だった。
藤井が何かを見つけたように立ちあがって「来た!」と声を上げた。
見ると池の方を指差している。
そこには3人の小学生くらいの子供達が網とカゴを持って池の前に立っていた。
「ねえ、姫子さんを連れて行った子供達ってあの子達じゃない。
行ってみようよ。」
そう言って藤井は子供達の方に駆けて行ってしまった。
俺は出てきかけていた言葉を宙ぶらりんにさせたまま、はあっとため息をついて立ち上がった。
せっかく振り絞った勇気が。
しかしこういうのは機の逃すと中々聞きにくい。
俺は重い腰を上げ、藤井と子供達の方に向かった。
木陰から出ると、太陽の光がこれでもかってくらいに照りつけてきた。
一気に吹き出る汗を拭いながら、藤井に聞きたかった言葉を胸にしまい込んだ。
日はまだまだ高い。
俺は生温い風を受けながら、こっちを見ている藤井に手をあげて答えた。
焦ることは無いと自分に言い聞かせ、まだまだ暑い夏の日を、体全体で感じ取っていた。
俺の心に、何かが芽生え始めていた。

                             第 十七話 またつづく

勇気のボタン 第十七話 溜池の愛

  • 2010.06.11 Friday
  • 10:50

どんな動物にだって愛はある。
内に秘めた燃えるような情熱を抱え、相手のことを想い続けるのは人間だけではない。
例えそれが亀であったとしても、愛は確かに存在するのだ。
詩人のようにそう思ってみても、亀の愛なんていまいちピンとこないのが本音だ。
藤井の部屋で紅茶を飲みながら、同盟の活動第5弾として聞かされた話しの内容に、俺は何とも言えない気分になり、どう返答したものかと考えていた。
「この亀さんの愛はきっと本物だよ。
だから私達で何とかしてあげようよ。」
藤井がテーブルから身を乗り出して俺に話しかける。
目の前では二匹の猫がじゃれ合っている。
一匹はモモ。
藤井が俺と知り合った時から飼っていた猫だ。
もう一匹はココ。
藤井と行った動物の里親探しでもらってきた子猫だ。
ココは以前見た時よりも成長していた。
俺は子猫の成長は早いものだなあと思いながら、また紅茶を飲んだ。
「きっと相手の亀のさんのに会いたくて会いたくて仕方がないんだと思う。
私、あの亀さんの目を見て、これは本物の愛だって感じたの。」
藤井は赤いチェックのワンピースを着ていて、髪は頭の上にお団子を乗せたような感じに結ってある。
そんな藤井を見ながら、俺は真剣な愛を秘めた亀の目を想像してみたが、上手くイメージ出来なかった。
「ねえ、いいでしょう。
次の活動はこれにしましょうよ。」
俺は紅茶をテーブルに置いて、ふうっとため息をついた。
藤井の言う同盟の活動第5弾の内容はこうだ。
以前機関車の下にいる猫の親子に里親探しの説得をしたことがあるが、その公園より歩いて20分ほど離れた場所にも公園があるという。
その公園には学校のプールの3分の1くらいの大きさの溜池があり、中には鯉やメダカや亀がいるという。
藤井がココを連れてその公園を散歩していた時、何気なく溜池に近づくと、池から突きだした石の上に一匹の亀がいたという。
日向ぼっこでもしてるのかと思い、藤井は「こんにちわ」とその亀に声をかけたという。
例のごとく、驚いている亀に自分は動物と話が出来ることを伝え、「日向ぼっこしてるの?良い天気だもんね」と言ったらしい。
するとその亀は「ふう」と悲しげな目をして息をつき、「彼女が来ないか待っているんです」と答えたという。
聞けばその亀には相思相愛の亀がいたらしく、その溜池で二匹幸せに暮らしていたのだが、ある日やって来た人間の子供達が、その彼女の亀を捕まえて連れて行ってしまったという。
それ以来、残された亀の方は、彼女の亀を想いながら、またいつか戻って来て欲しいと願いながらずっと待っているのだという。
その彼女を連れ去った子供達は時折公園に来るらしく、その姿を見つけると、石に登っては連れ去られた彼女のことで心がいっぱいになるのだと亀は言ったそうだ。
それを聞いた藤井はその亀の目に本物の愛を見たということで、この亀さんの彼女を捜すことにしようと思ったという。
亀の目に本物の愛が浮かぶのか?
そもそも本物の愛なんてものをどうやって藤井は感じたのか?
疑問は色々とあるが、やると言ったらきかない藤井のことである。
真剣にこちらを見ている藤井に、俺は「いいんじゃないか」と諦めたように言った。
「亀の愛がどういうものか分からないけど、お前はやりたいんだろう?
だったら次の活動はこれにしたらいい。」
そう言って俺は残った紅茶を飲み干した。
「本当?本当にいいの?」
藤井は自分の紅茶を抱えて聞き返す。
「ああ、亀の愛とやらの為にひと肌脱ごう。」
俺は冗談っぽくいっておどけてみせた。
しかし藤井は紅茶を一口飲むと、じゃれ合っていたココを抱えて喜んだ。
「やった!
有川君も賛成してくれるって。
これで亀さんの彼女が捜せるね、ココ。」
藤井の手で遊ばれるココは幸せそうな顔で、されるがままになっていた。
「お前によく懐いてるな。」
「うん、もう私の子供も同然だから、ねえ、ココ。」
ぎゅっと抱きしめられて、ココは「にゃう」と声を出した。
「真奈ちゃん、私は?」
モモが藤井の膝に寄って来る。
「もちろんモモも私の家族だよ。」
そう言って二匹の猫を抱え、その頭に自分の頬を擦り寄せていた。
「うーん、どっちも可愛いねえ。
大好きだよお。」
二匹の猫をこれでもかというくらい撫でまわし、頬を擦り寄せ、抱きしめる藤井を見て、俺は少し笑いながら空になった紅茶のカップをもてあそんでいた。

                       *

「この公園の溜池にいるんだな。」
藤井の家で昼食を食べ、猫達とさんざん戯れたあとに、俺たちは亀のいる公園に来ていた。
「うん。遊具のある向こう側のちょっと歩いた所にあるの。
今日も亀さん出てきてるかな?」
遊具ではしゃぐ子供達を眺めながら、俺たちは溜池へと向かった。
「亀さん、いないねえ。」
池についた藤井が見回してから言う。
溜池は芝生がちょっと盛り上がったような場所にあり、周りをロープで囲ってある。
近くに「危ないのでロープの中に入らないこと」、そして「池の生き物の採取は禁止します」と書かれた看板が立っていた。
周りを見回すと、溜池の奥に林のように木が並んでいて、辺りに人の姿は無かった。
時折吹く風に混じって、公園からはしゃぐ子供達の声が聞こえてくる。
今日も暑い。
俺は額を流れる汗を手で拭って池を覗いた。
「いつも何処にその亀は出てくるの?」
俺が聞くと、藤井もハンカチで汗を拭きながら俺達が立っている近くに突き出た石を指差した。
大人なら手を伸ばせば届くような距離だ。
「亀さーん!いるんなら出てきてー。」
藤井が大声で呼びかける。
もし周りに人がいたら、頭のおかしいカップルだと思われるかもしれなかった。
池には鯉が何匹か泳いでいて、しゃがんで腰を下ろすとメダカが群れを作っているのが見えた。
「亀さーん!」
大声で叫ぶ藤井を見て、俺はその真似をする勇気はなかった。
大人の男女二人して、池に向かって大声で「亀さーん」と呼びかけている姿を人に見られたら、間違いなく暑さで頭がやられた人間だと思われるだろう。
俺は少し離れてその藤井が叫ぶ光景を眺めていた。
近くに木があったので、その木陰で流れる汗を拭った。
藤井はハンカチで汗を拭きながら、まだ「亀さーん」と呼び続けていた。
やれやれ、よくやるよ。
俺は木の近くに腰を下ろした。
風に揺られる葉っぱを仰ぎ見ながら、もう本当に夏だなあと感じていた。
照りつける太陽は容赦無く、高い湿度は不快感を運んでくる。
それでも夏が嫌だと思わないのは、この独特の夏の匂いのせいだろう。
何処か懐かしさを感じさせ、胸が高鳴り、心も体も開放的になるこの匂いが夏の暑さと湿度が作り出す不快感に勝っているのだ。
というより、この暑さと湿度を抜いたら、それはもう夏では無くなってしまうが。
俺が胸いっぱに夏の空気を吸い込み、この季節の匂いを堪能していると藤井が流れる汗も拭かずにこっちへ走ってきた。
「出た!出たよ。亀さん出てきた。」
藤井は俺の前に立つと、ニッコリ笑って俺の手を引っ張った。
汗ばんだ藤井の手の感触が、俺の皮膚を伝って夏の空気と一緒に体の中に入ってくるようだった。
心が少し、躍ったような気がした。
俺は腰を上げ、急かす藤井の後ろついて池まで行った。
「そこにいる亀さんがそうだよ。」
藤井が指差した先には、突きだした石に体を乗せている一匹の亀がいた。
俺はロープぎりぎりまで近付き、亀に挨拶をした。
「やあ、こんにちわ。
俺は有川っていうんだ。
この女の子と一緒で動物と話しが出来る。
今日は本当に暑いねえ。」
亀相手に人間にするような「今日は暑いねえ」なんて言葉を言ってしまった。
亀はその目を少し動かして俺を見たあと、首を伸ばすようにして自己紹介を始めた。
「どうも。僕は亀の福太郎といいます。
この池には長いこと住んでいます。
少し前まではもう一匹亀がいたけど、今は僕だけです。」
そう言うと、少し首を縮こめた。
福太郎君は、俺の手の平よりもいくらか大きな亀だった。
俺はじっと福太郎君の目を見たが、そこに本物の愛があるかどうかは分からなかった。
「ねえ、福太郎君。今日来たのはあなたの彼女のことでお話があるからなの。
前に来た時に言ってたよね。
自分には愛する亀がいるって。
でもここに来た子供達に連れていかれちゃったんだよね。」
福太郎君は小さく「そうです」と答えた。
今、福太郎君の目に悲しみが浮かんでいるのは俺でも分かった。
また首を伸ばし、今度は藤井を見ながら言った。
「姫子というんです。
僕たちは愛し合っていました。
幸せにこの池でずっと暮らしていたんです。
でもある日人間の子供達がやってきて、池の端で休んでいた姫子を捕まえて連れていってしまったんです。
残念ながら僕は何もすることが出来ず、ただ姫子が連れ去られるのを見ているしかありませんでした。」
藤井が悲しそうに聞いている。
福太郎君は続けた。
「姫子は子供達の持っていた透明なカゴに入れられて、何処かへ連れられて行ってしまいました。
その時に姫子と目が合ったんです。
とても悲しそうな目をしていました。
僕はそれ以来、姫子のその目を忘れていません。
そしていつか、あの幸せな日々を取り戻したいと思っているんです。」
「福太郎君・・・。」
藤井が同情したような目でそう呟いた。
この亀の目の中に本物の愛を見た藤井には、福太郎君の気持ちが痛いほど分かるのだろうか。
悲しそうな目で福太郎君を見つめていた。
「ねえ、有川君。」
「うん?」
いきなり話しかけられて、変な声で返事をしてしまった。
「福太郎君の気持ち、聞いたよね。」
強い視線と強い口調でそう言われた。
胸の前で両手を握っている。
もう姫子を捜す気満々である。
「こんなに愛し合ってた二匹なんだよ。
絶対に姫子ちゃんを見つけて福太郎の所に戻してあげなくちゃ。
暑いけど、それに負けないで姫子ちゃんを見つけようね。」
その言葉を聞いた福太郎君がさらに首を伸ばした。
「姫子を捜してくれるんですか?」
藤井は笑って福太郎君を見つめた。
「うん、心配しないで。
福太郎君の願い通り、もう一度二匹で幸せに暮らせるようにしてあげるからね。」
藤井の真剣な言葉を聞いて、福太郎君は急に首を縮こめた。
「ありがとうございます。
僕達の為に、本当にありがとうございます。」
泣いているのだろうか。
福太郎君は甲羅の中に頭をしまいそうなほど首を縮めて、何度もお礼を言った。
「よし!じゃあ姫子を見つけるよ。
有川君。」
暑い陽射しの中、亀の恋人捜しが始まった。
藤井はハンカチを取り出して汗を拭き、一人力強く頷いている。
俺は流れる汗を拭きもせず、ただ暑い夏の空を眺めた。
この暑い中、亀の恋人捜しをすることになるとは思ってもいなかった。
一人気合を入れている藤井を見て、本物の亀の愛とは何なのだろうとまた考えた。
汗が一筋、首から流れ落ちた。

                             第 十七話 つづく

 

 

 

 

 

 

 

勇気のボタン 第十六話 希望の種(5)

  • 2010.06.10 Thursday
  • 10:44

目の前の川は、太陽の暑さも無視してどんどん流れていく。
それが川であることの存在意義であるかのように、ただ海に向かって流れ続けていく。
その中で釣り人が竿をしならせ、夏の風物詩である鮎を狙っている。
そんな光景を眺めながら、広田さんが落ち着くのを待った。
深呼吸はもうしておらず、胸に手を当てて、俺と同じように川を見つめていた。
「運命って分からないものですね。」
広田さんはポツリと呟く。
川を眺めていた視線を、目の前のマサカリに移し、その頭を撫でながら話し出した。
「息子は大きな病気で倒れて危険な状態だったけど、手術が上手くいって、少しずつですが回復していきました。」
俺は川を眺めたまま広田さんの話しを聞いた。
「入院中、息子はいつもマルコに会いたいって言っていました。
マルコに触りたい、あの元気な顔を見たいって。
私は退院したらまたマルコと一緒に散歩に行こうねと言いました。
家に帰ると、マルコはいつも寂しそうな顔をしていました。
ねえ、お兄ちゃんはどこ?どうして家にいないのっていう顔をして。
私はそんな顔を見る度に泣きそうになってマルコを抱きしめたんです。
お兄ちゃんは今病院だよ、でも元気になったらまた一緒に散歩に行こうねって言いながら。
私がそんなふうに悲しい顔を見せると、マルコは尻尾を振って、あの元気な笑顔で私を勇気付けてくれたんです。
寂しいのは自分も同じはずなのに、悲しむ私の顔をみて、マルコは慰めてくれました。」
「本当に優しい子だったんですね、マルコは。」
広田さんは唇をぎゅっと噛みしめて何度も頷いた。
「でも、運命って残酷なものです。
私もマルコも、あんなに息子のことを心配していたのに、早く元気になって欲しいと願っていたのに・・・。」
嗚咽を漏らしながら広田さんは俯いた。
俺はなんだかいたたまれなくなり、優しくその背中を撫でた。
「このおばちゃんえらく悲しんでるな、大丈夫か?」
マサカリが心配そうに俺に声をかける。
俺は何も言わず、ただ広田さんの背中を撫でていた。
「俺が慰めてやるよ、おばちゃん。」
そう言ってマサカリも広田さんの頬を舐めた。
「ありがとう。」
広田さんは俺とマサカリに向かって言った。
目は真っ赤になっていて、悲しみが広田さんを覆っているようだった。
俺は背中を撫でるのをやめ、出来るだけ優しく広田さんを見つめた。
マサカリは広田さんの隣に座って、その体を寄り添うようにピタリとくっつけた。
「ある朝、息子の容態が急変したんです。
先生も看護師さんも、大慌てで息子を助けようとしました。
傍にいた私は、一瞬何が起こったのか分からず、他人事のようにそれを見ていました。
それからすぐに、本当にすぐに息子は息を引き取りました。
まだ19歳でした。
私の半分も生きていないのに、息子はこの世を去ってしまったんです。
先生からご臨終です、と告げられた時も、なんだか他人事のような気がして実感がありませんでした。
だってさっきまで生きていたのに。
少しずつでも、良くなっていっていたのに。
急にこんなことになって、何だ現実じゃない気がして、涙は出ませんでした。
それはお葬式の時もそうでした。
この時も、何か心が上の空っていう感じで、涙は全く出てこなかったんです。
葬式を手伝ってくれた別れた主人も、参列してくれた息子の友達も泣いているのに、私だけ涙が出ませんでした。」
広田さんは横に座っているマサカリを抱き寄せ、頭をくっつけた。
マサカリは、じっと広田さんの呼吸を聞いているようだった。
俺は自分の足元に視線を落とし、愛する者を失った悲しみとはどういうものなのだろうと考えた。
いくら考えても、広田さんの味わった悲しみなんて分からないのだろうけど。
「葬式も終わって一段落した頃、家でぼーっとしてたんです。
小さな仏壇を作ってもらって、息子はその中にいました。
その仏壇の前に座って、ただ何を考えるでもなくぼーっとしていたんです。」
またマサカリが広田さんの頬を舐め、その顔にクンクンと鼻を近づけていた。
「マサカリちゃんは優しいね。」
そういってぎゅっとマサカリを強く抱きしめ、先を続けた。
「そしたらね、マルコが息子の仏壇の前までやってきて座ったんです。
ただじっと座っていました。
私がマルコって呼びかけても、振り返りもせずに。
どうしたんだろうと思ってマルコの顔を見て驚きました。
マルコね、泣いていたんです。
目から涙を流して、息子仏壇の前のじっと座ったまま泣いていたんです。
それを見た瞬間、私の中で何かが弾けました。
気が付くと、私はマルコを抱いて泣いていました。
大声をあげて、息子の名前を呼びながらひたすら泣いていたんです。
悲しいよね、辛いよね。
そう言いながら。
家族を失った悲しみはマルコも一緒でした。
それからしばらく、私はマルコと一緒に泣き続けていたました。
もう涙が枯れるくらいに泣いていました。」
マルコと一緒にそうしたように、広田さんはマサカリを抱いて声をあげて泣いた。
心の悲しみが次から次へと溢れてくるように、広田さんの涙もどんどん溢れ出ていた。
マサカリを抱く腕に力を込め、顔をうずめるようにして、ただ泣いていた。
俺はその声を聞きながら、ずっと川を見ていた。
ただ、何も変わらず流れ続ける川を。
やがて顔をあげた広田さんが、涙を拭いながら俺を見た。
「マサカリちゃん、本当に優しい子ですね。
マルコを思い出します。」
俺はマサカリの方を見て軽く笑った。
マサカリは舌を出しながら、俺達を見ていた。
そして広田さんに近寄ると、その手を優しく舐めた。
広田さんはまたマサカリを抱きしめ、流れ続ける川を見ながら口を開いた。
「息子がいなくなってね、私の家族はマルコだけになりました。
私がマルコを抱いて大泣きした次の日、マルコは悲しむ私に向かっていつもの元気な笑顔で励ましてくれたんです。
自分だって辛いだろうに、私の為に元気に振舞ってくれたんです。
あの子は、本当に人の心の分かる優しい子でした。
自分のことより、悲しんでいる人のこと優先するんです。
そんなマルコを見て、私もしっかりしなきゃと思いました。
息子を失った悲しみはそう簡単には癒えなかったけど、それでも私にはマルコがいました。
だからその後の日々もなんとか乗り越えてこられたんです。
楽しいことも苦しいことも分かち合いながら、ずっとマルコと一緒に生きてきました。」
釣り人がまた何かを釣り上げたようで、いそいそと釣り針から魚を外している。
ただ流れているように見える川の中には、たくさんの命がいるのかもしれない。
俺は見えもしないのに、川の中の魚を探していた。
「最初から分かっていたことですけど、犬は人間とは寿命が違いますものね。
私と息子を励まし、いつも元気に振舞っていたマルコも先月亡くなりました。
最後まで、明るく振舞って私を元気付けようとしてくれていました。
その姿は、マルコがいなくなった今でも鮮明に思い出せます。
悲しむ私や息子を満面の笑顔で勇気付けてくれたこと。
息子と一緒に泥だらけになるまで遊んで帰ってきたこと。
私と息子とマルコで、散歩に行って、タンポポを見つけたこと。
今でも、まるで昨日のことのように思い出せます。
マルコはいつだって、我が家を輝かしてきてくれました。
まるで、今私達に照りつけている太陽のように。」
日はまだ高い。
俺はそれに目を細めながら広田さんに言った。
「マルコは、間違いなく広田さん達の太陽だったんですよ。
太陽がただ明るく僕らを照らすように、ただ川が流れ続けるように、広田さん達を明るく照らし続けることがマルコの役目だったのかもしれません。
自分のことより人のこと。
人間でも植物でも、悲しむものがいるとそれを嗅ぎ分けて、元気にしてくれる。
マルコって、広田さんの言う通り、やっぱり太陽だったんですよ。」
それからまた広田さんはしばらき泣き、それから太陽を見上げて涙を拭いた。
「マルコを亡くしたあと、しばらく茫然としていたんですが、これじゃあダメだと思ったんです。
きっと天国いるマルコは、息子と一緒に私を励ましてくれているんだって思って。
それで生活も改めようと、今のアパートに越してきたんです。
息子と、マルコの思い出を抱えて。」
広田さんはもう涙を流してはいなかった。
隣にいるマサカリにニッコリ笑いかけ、またあのおっかさんの雰囲気を身にまとって柔らかい笑顔を見せている。
釣り人が竿を振り、川に投げ入れている。
俺はそれを合図に立ちあがった。
「行きましょうか。」
広田さんは笑顔のまま頷き、マサカリの紐を持って立ち上がった。
それから俺たちはしばらく歩いた。
マサカリはよく喋り、俺がそれに相槌をうつと、広田さんがマサカリの言葉の訳を求めた。
俺は広田さんとマサカリの通訳になり、流れる川を見ながら歩き続けた。
そして河原沿いの道を離れ、アパートに戻るまで、俺たちは暑い太陽に照らされながら黙って夏の空気を感じながら帰って来た。
広田さんは、ずっとマサカリの紐を持ったままだった。
アパートの部屋の前まで来ると広田さんはお礼を言いながらマサカリの紐を俺に返した。
「マサカリちゃんとの散歩、とても楽しかったです。
それに私の話しを聞いてくれて、どうもありがとう。」
広田さんは深く頭を下げた。
「いえいえ、いいですよ。
僕は暇ですから、よかったらまたいつでも一緒に散歩に行きましょう。」
広田さんは笑ってまた「ありがとう」と言った。
そして部屋に戻ろうとした時、広田さんが言った。
「有川さん。」
「はい?」
広田さんに呼びとめられて、俺は振り返った。
アパートにも、まだ陽射しが入りこんでいた。
俺は目を細めながら広田さんを見た。
「散歩に行く前、どんな花の種を買ったのかってお聞きになりましたよね。」
そう言えば、そんなことを聞いた気がする。
自分の気に入っ花の種を買ったと言っていたと思うが、どういう花が気に入ったのかと聞いた所で、広田さんが植物と会話が出来るという話しになったはずだ。
俺は眩しい陽射しから、手で目を覆いながら聞いた。
「その質問が、どうかしたんですか?」
広田さんはニッコリ笑って答えた。
「私は植物と会話が出来ますよね。
それでね、ホームセンターで花の種を選んでいる時、向こうから話しかけてきたんです。」
広田さんは嬉しそうに頬を緩めた。
俺も笑顔を返しながら聞いた。
「何て言って来たんですか?」
広田さんは胸に手を当て、目を閉じて答えた。
「買ったのはパンジーの種なんですけどね。
その種が、ねえ、私達をあなたの家族にしてよって、そう言ってきたんです。」
それを聞いて、俺は広田さんに言った。
「きっとその種が広田さんのことを気に入ったんですよ。
この人の家族になりたいって思ったからそう言ってきたんでしょう。
これでまた家族が増えますね。」
俺の言葉に広田さんは頷いた。
「ええ、ええ。新しい家族ですよ、あの子達は。
私、大事に育てます。」
それからまた広田さんは頭を下げ、俺とマサカリに向かって言った。
「今日はとても楽しかったです。
本当にありがとう。
マサカリちゃん。
また機会があれば一緒にお散歩しましょうね。」
そして広田さんは「じゃあ」と言って部屋に戻った。
俺は太陽に向かって大きく背伸びをした。
またその力は衰えることなく輝いている。
息子さんとマルコという家族を失った広田さん。
でも、その広田さんの家族になりたいと言ってきたパンジーの種。
その種はきっと、広田さんの希望の種になるだろう。
俺は眩しさに目を細めながら、太陽が輝く空を仰ぎ見た。
暑いけど、ワクワクさせてくれる本格的な夏の到来は、もうすぐだと思った。

                               第 十六話 完

 

 

勇気のボタン 第十六話 希望の種(4)

  • 2010.06.09 Wednesday
  • 10:52
 河原沿いの道を俺達以外にも犬を連れた人達が散歩している。
どの人も暑そうで、タオルやハンカチで汗を拭いていた。
連れられた犬も舌を出しながら体温調節に励んでいた。
「少し先に階段になった堤防がありますから、そこで話しましょうか。」
広田さんは頷き、俺たちは黙ったまま堤防の方へ向かった。
堤防には遠くに犬を連れた人が一人いるだけで、俺は階段を降りながら川の傍まで行って腰を下ろした。
広田さんもその隣に座り、マサカリがちゃぷちゃぷと川の水を飲み始めた。
川が近いせいか、さっきいた場所より少しだけ涼しい気がする。
たまに吹き抜ける風が、生温くも、汗と一緒に熱を奪っていくので心地良かった。
広田さんは、川を見ながら目を細めている。
飼っていた犬のことと、息子さんのことを話すから聞いて欲しいと言われた。
俺はそれに対していいですよと頷いた。
何か重い話しになりそうな雰囲気だった。
俺からは口を開かず、広田さんが喋り出すのを待った。
「いいですねえ、川って。流れを見ているだけで、心が落ち着きます。」
広田さんは、目を細めたまま静かな口調で言う。
「私も犬の散歩の時はよく河原沿いの道を歩きました。」
水を飲み終えたマサカリが「ふう」と行って広田さんの前に座り込む。
俺は広田さんを見て言った。
「確か名前はマルコでしたよね。小さな柴犬の。」
広田さんは頷く。
俺は悲しみの色が浮かぶ目を見たあと、また川に視線を戻した。
「私ね、主人とは別れて息子と二人暮らしだったんです。」
予想していた重い話しが飛び出してきた。
俺は膝を立てて頬杖をつき、なるべく楽な雰囲気を出しながら聞こうと思った。
その方が広田さんも話しやすいような気がしたから。
「息子が中学二年の時に離婚しました。
大分前から主人とは上手くいかなくなっていて、息子のことを考えると可哀想な気もしましたが、主人とはそのことも含めて話し合いをして、お互い納得の上で別れたんです。
その時に私が息子を引き取ることになったんですが、これから女手一つで育てていきかなきゃならないわけでしょう。
主人から多少の養育費はもらえることになっていましたが、それでも大変な生活になるなあと思っていたんです。
だから当時飼っていたマルコを連れて行く気はありませんでした。」
川を眺めていると、長い竿を持った人がいた。
鮎釣りだろうか。
川の魚がぽちゃんと飛び跳ねた。
俺は黙ってその光景を見ていた。
「でもね、息子がどうしてもマルコを連れて行きたいって言うんです。
離れたくないって。
正直マルコの面倒まで見きれる余裕は無かったけど、親の都合でこうなったわけですからね。
可哀想だと思ってマルコも一緒に引き取ったんです。
今では、それで本当によかったと思っています。」
俺はまた広田さんの方を見て言った。
「息子さん、マルコのこと大好きだったんですね。」
「はい」と小さな声で頷く。
広田さんは、川を見つめたままだった。
「息子と二人暮らしを始めた時、これからどうなるのか不安でいっぱいだったけど、マルコはいつも元気に私達を励ましてくれたんです。
私が不安な時、何も言わずに近くに来てただ横でずっと一緒に座ってくれていたり、息子が寂しがっている時、優しく顔を舐めて慰めてあげていたり、あの子は人の気持ちが分かる子でした。
少ない収入に、一人での子育て、とても辛い時期を、あの子はいつも元気に振舞って私達を勇気付けてくれていたんです。」
広田さんの横顔に、涙が見えた。
汗に混じって、それが一筋頬を伝う。
「犬は賢いですよ。人の気持ちがちゃんと分かってる。
特にマルコはそれに敏感だったんでしょうね。
広田さんと息子さんを元気にするのは、自分の役目だと思っていたんじゃないですか。」
「きっとそうだと思います。
本当に人の気持ちが分かる優しい子でしたから。」
広田さんは汗と一緒に涙を拭った。
肩に力が入ってるいのか、少し震えていた。
「マルコは私達の家族でした。
特に息子とマルコは兄弟みたいに仲が良くて。
一度息子が友達と喧嘩してひどく落ち込んで帰ってきたことがあるんです。
私とも口を聞かずに黙って部屋の隅っこで座り込んでいました。
そしたらね、マルコが息子の前に座って笑いかけるんですよ。
私は有川さんみたいに動物の話しが分かるわかじゃありません。
でもあの時のマルコは、ねえ、元気を出してよ、僕がいるからって笑いかけているように見えました。
小さな尻尾を振って、息子に満面の笑顔を見せていました。
それから自分の散歩用の紐を咥えてきて、一緒に遊びに行こうって息子を誘ったんです。
私には動物の声は分からないけど、マルコの声は分かるような気がしました。
それから私と息子とマルコで散歩に出かけたんです。」
釣り人が竿を振って川に投げ入れている。
俺はその光景を見ながら、広田さん達とマルコを想像してみた。
小さな柴犬が、親子に尻尾を振って笑いかけている絵が浮かんだ。
「息子はマルコのお気に入りのボールを持って行きました。
それを使って散々遊びました。
私も息子も、マルコにつられて笑顔になってはしゃいでいました。
それで息子が遠くにボールを投げたんです。
そしたらボールは茂みの中に入ってしまって、マルコも一緒に茂みに飛び込みました。
すぐにボールを咥えて出てくるだろうと思ったら、いつまで経っても出てこないので、私と息子は茂みの中に入りました。」
涙を流す広田さんに、マサカリが心配そうに鼻を近づける。
広田さんはニッコリ笑ってマサカリの頭を撫で、優しい目で見つめながら続けた。
「茂みの中に入るとね、すぐにマルコがいたんです。ボールを咥えてね。
そして私達を見つけると、ボールを離してワンワン吠えるんですよ、自分の右下を見て。
私達は何があるんだろうと思って見てみると、そこにはタンポポが二つ、寄り添うように生えていたんです。
私はタンポポに近づいて、話しかけてみました。」
広田さんはマサカリの頭を撫でるのをやめ、優しい視線だけを向けていた。
「そのタンポポが、何か言っていたんですか?」
広田さんは初めて俺の方を向き、少し笑って答えた。
「ここは日が当たら無いから嫌だ。
もっとたくさん日の当たる所に行きたいって言っていました。
私は二つのタンポポをそっと地面から掘り起こして、茂みの外にある、あまり人に踏まれないような場所に移動させてあげたんです。
そしたらタンポポは、ありがとうって言ってくれました。
マルコが見つけなければ、あのタンポポはずっと茂みの中で生えていたでしょうね。
その時にね、もしかしたらマルコは、人間だけじゃなくて植物の気持ちも分かるのかなって思いました。
悲しんでいる者がいたら、きっとマルコの嗅覚が反応するんでしょうね。
私はマルコの頭を撫でて、えらいねって言ってやりました。
マルコも尻尾を振ってとても喜んでいました。」
悲しみを嗅ぎわける嗅覚か。
俺はその言葉を頭の中で繰り返した。
これもまた、特別な力なのかもしれない。
「マルコは私達に悲しいことや辛いことがあると、すぐに分かるんです。
その匂いを嗅ぎ分けて、いつだって自分の元気を私達に分け与えてくれようとしてくれていました。
そのことで、どれだけ私と息子が救われたか・・・。」
大粒になった広田さんの涙が汗をかき分けて流れ落ちる。
それがマサカリの鼻の頭に当たって、ブシュンとくしゃみをした。
「息子が大学生になるまで、そんなふうにマルコは私達を支えてくれました。
あの子は我が家で、一番明るい家族だったんです。
でもある時、息子がマルコを連れて散歩に行くと、まだ帰ってくる時間じゃ無いのに、マルコだけが紐をつけたまま走って帰ってきたんです。
そして家にいた私のズボンを噛んで引っ張るんでですよ。
私が、どうしたのって?聞いても、マルコは必死に引っ張るだけでした。
すぐにピンときたんです。
息子に何かあったに違いないって。
マルコと一緒にいつもの散歩のコースに急いで行くと、誰かが倒れていて、その周りに何人かの人がいました。
私は心臓がバクバクしてきて、慌てて駆け寄ったんです。
倒れているの息子でした。
すぐに救急車が来て息子は運ばれました。
私もそれに同乗しました。
呼んでも返事をしない息子の顔を見ながら、動揺を通り越してパニックになっていたと思います。
そして病院に着くと、息子はすぐに入院させられました。
くも膜下出血という病気でした。
普通はこんなに若くしてなる病気ではないとお医者様に説明されましたが、息子はそれになってしまったんです。
すぐに手術が行われて、なんとかその場は一命をとりとめましたが、状態はよく無いとのことでした。
ずっと息子の傍にいたかったけど、入院の準備もあるから私は一旦家に帰ったんです。
その時に思い出しました。
そう言えばマルコは放ったらかしだった。
一緒に息子の所まで行ったけど、私は救急車に乗ってしまったからあの後どうしたんだろうって。
でも家に帰るとマルコが戻ってきてました。
鍵もかけずに飛び出したので、まるで家を守っているかのように玄関に座り込んでいたんです。
私はマルコを見た瞬間にその体を抱きしめて泣きました。
どうしよう。
息子に何かあったらどうしようって。
マルコは優しく私を舐めて慰めてくれました。
マルコを抱いてひとしきり泣くと、私も少し落ち着いて入院の為の準備を整えました。
別れた主人にも連絡を入れましたら、とても驚いていて、すぐに病院に来ると言っていました。
私はマルコにお留守番お願いねって言って家を出て、病院に向かったんです。
思えばあの時のマルコの目、とても悲しそうでした。」
一息にそう喋ってから、広田さんは呼吸を整えるかのように深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
マサカリが広田さんの手を舐めている。
マサカリの鼻に、また広田さんの涙が落ちた。
「大丈夫ですか、広田さん。」
俺がそう言って心配そうな目を向けると、「はい、大丈夫です」と涙を拭きながら頷いている。
そして胸を抑えながら「ふう」と息を吐き出した。
「すみません、こんな話しを聞いてもらって。
嫌じゃないですか?」
窺うように広田さんが見つめてくる。
俺は頬杖をやめ、真剣に目を見返して答えた。
「全然嫌じゃないですよ。
広田さんの話しを聞くって言ったじゃないですか。
焦らず、ゆっくり話してくれたらいいですよ。」
広田さんは小さな声で「ありがとうございます」と言った。
話しを聞くだけなら俺にも出来る。
気の利いたことなんて言えないけど、でも誰かに話すことで広田さんが楽になるなら、俺は聞いてあげようと思った。
広田さんはまだ深呼吸を続けている。
俺はその様子を見守った。
マサカリが鼻についた広田さんの涙をペロリと舐め、そして働き者の手に優しく鼻を擦り寄せた。
釣り人が何かを釣り上げたようで、腰につけた入れ物にそれを入れている。
魚がまた、ぽちゃんと川を跳ねた。

                             第 十六話 さらにつづく



勇気のボタン 第十六話 希望の種(3)

  • 2010.06.08 Tuesday
  • 11:09
 夕方になっても強い陽射しが、体の中からどんどん汗を運んでくる。
Tシャツは背中にぺったりと張り付き、靴の中は不快に蒸れている。
本格的に夏になったら、もっと散歩の時間帯を遅くしなければ暑くて仕方がなくなるだろうなと思いながら河原沿いの道を歩く。
マサカリがマーキングする為に方足を持ち上げ、広田さんはそれを黙って見つめている。
それに気付いたマサカリが自慢気に笑い、俺は一体何を自慢しているつもりなのだろうとその顔を眺めた。
「暑いですねえ。」
ここに来るまでずっと黙っていた広田さんが口を開いた。
まだまだ太陽はその熱を放射することに力を注いでいて、それが夏に対する礼儀だと言わんばかりに光と暑さを提供する。
俺は腕で額の汗を拭いながら「そうですね」と相槌をうった。
さて、何から聞けばいいものか?
植物と話が出来るという広田さん。
ここにも人に言っても信じてもらえないような変わり者がいる。
類は友を呼ぶというやつだろうか。
広田さんはずっとマサカリを見つめていて、クンクン臭いを嗅いだり、マーキングしたりする姿に懐かしむような目を向けていた。
きっと飼っていた犬のことを思い出しているのだろう。
俺は広田さんに持っていたマサカリの紐を差し出した。
「よかったら、マサカリの紐を持ちますか?」
広田さんはハッとしたように驚いて、「いいんですか?」と体の前でもじもじ手を組みながら言った。
「構いませんよ、どうぞ。」
俺は広田さんに紐を手渡した。
「お!このおばちゃんが持つのか?
まあ俺は紳士だから優しくエスコートしてやるぜ。」
マサカリは急に胸を張って、肉厚の顔をそれなりに引き締めて歩き出した。
紐を持った広田さんは嬉しそうにしていた。
かつて愛犬を散歩させていた頃を思い出したのか、また目には薄っすら涙が浮かんでいた。
結構涙もろいおばさんだ。
けどその分犬に対してに愛情が強かったとも言える。
思い出すだけでも泣けるくらい、自分の犬を大切に想っていたのだろう。
しばらく黙って歩いたあと、俺は広田さんに聞いた。
「あの、さっきの話しなんですけど。」
広田さんはマサカリから俺の方に視線をやり、やや緊張した面持ちで答えた。
「はい、植物と話しが出来るってことですよね。」
暑い太陽の光を受けながら、広田さんは眩しそうにして言った。
「ほんとうに、おかしな話だとおもうんですが、植物と会話が出来るんです。
まあ会話といっても人間同士のように細かなやり取りが出来るわけじゃないんですが・・・。
何て言うか、お互いの意志の疎通が出来るっていうんですかね。
何となく、考えていることが分かるんですよ。」
広田さんの額にも汗がにじんでいて、それを手で拭ったあと、マサカリの紐を持ちかえて、俺に質問してきた。
「さっき、えっと、すいません、お名前が・・・。」
「有川です。」
「ああ、すいません。有川さんも私と同じだって言われましたけど、やっぱり植物と会話が出来るんですか?」
俺は笑ってからマサカリを指差した。
広田さんはそれを見て不思議そうな顔をする。
「僕が会話出来るのはコイツです。」
マサカリがこっちに向かって顔を上げる。
まだ肉厚の顔をきりりと引き締めている。
「え?マサカリちゃんと会話が出来るってことですか?」
驚いたように聞き返す広田さんに答えた。
「マサカリもです。僕は動物と会話が出来るんですよ。」
藤井以外の人間に、初めて面と向かって言った。
いや、今までにも言ったことはあったが、それは子供の頃のことで、誰にも相手にされなかった。
大人になってから、こんな形できちんと人に言うのはという意味だ。
「それは、その、犬とか猫とか、あと他に飼ってらっしゃる動物なんかもそうなんですか?」
「ええ、そうです。
動物ならみんな話せます。
ちなみに僕の友達にも同じような子が一人います。」
広田さんの目には俺の言葉を疑うような様子は全く無い。
その言葉を素直に受け取り、口に手を当てて「まあ」と大きく驚いていた。
「じゃあマサカリちゃんがお腹が減ったとか、今日は暑いとか言ってたりすると、みんな分かるってことですか?」
「はい。みんな分かります。
人間と会話するのとほとんど変わりません。
犬も猫も、ハムスターもインコもイグアナも、みんな僕に話しかけてきて、僕もそれに答えます。
だから一人暮らしなんですけど、結構家は賑やかなんですよ。」
口に手を当てたまま、「はあ」と感心したようなため息をついている。
俺とマサカリを見比べ、額の汗を拭ってから言った。
「すごいです!そんな人がいたなんて。
じゃあ動物園に行っても、水族館に行っても、動物達が喋っていることが分かるんですね?」
「そうなんです。
だからああいう所に行くと、その動物園の良い所とか不満な所とか、直に動物から聞けるんです。
結構面白いですよ。」
広田さんはうんうんと頷いている。
「そりゃあそうでしょう。
動物とお話が出来るなんて、まるでおとぎ話の世界みたいです。
きっと楽しいんでしょうねえ。」
マサカリがウンコの姿勢に入る。
俺は急いでウンコ用の袋を取り出し、出てきたそいつを袋に入れた。
「でもね、楽しいことばかりじゃ無いんですよ。
聞きたくない悲しい声だって聞こえることがあります。」
「悲しい声?」
広田さんが不思議そうに尋ねた。
「例えば動物の里親探しなんかに行くと、動物達の悲しい声が聞こえるわけです。
みんな真剣に自分を拾ってくれってアピールしてくるから。
飼い主のいない子達ですからね。
その声を直に聞くのは結構辛いものがありますよ。」
広田さんは急に俯いてしまって「ああ」と悲し気な声を出した。
「あと保健所みたいな所なんて絶対に行ける自信がありません。
これから悲しい運命を待つ動物達の声を聞くなんて、きっと僕には耐えられないと思うから。」
広田さんは俯いたまま「そうですよね」と呟いた。
「言葉が分かるってことは、良いことも悪いことも全部耳に入ってくるってことですものね。
世の中の全ての動物が幸せじゃないから、そういう悲しい言葉は余計に響いてくるんですものね。
私も分かります。
植物だって同じだもの。
悲しんでいる子もいる。
日の当らない場所で、一人泣いているような子もいるんです。
それが分かってるのに、私ったらはしゃいじゃったりなんかしてすみません。」
俺に向かって申し訳なさそうにペコリと頭を下げる。
働き者の手が、そわそわと動いて本当に申し訳なさそうだった。
「いえいえ、いいんですよ。
最近はある友達のおかげで、この力があってよかったなあって思うことの方が多いですから。
気にしないで下さい。」
広田さんは「はい」と言ってまた頭を下げた。
俺は先を歩くマサカリのぷりぷりしたお尻を眺めながら、今度は植物と話せることについて広田さんに尋ねてみた。
「僕は広田さんの植物と会話が出来るっていうのにすごく興味があります。
少し話しを聞く限りでは、動物と話せるのとはちょっと違う部分もあるみたいなんですが、具体的にはどんな感じなんですか?」
広田さんは胸に手を当てながら、何か考え込んでいる。
上手く説明出来る言葉を探しているようだった。
俺は答えを急かすことなく、黙ってマサカリのお尻を眺めていた。
広田さんは「うまく言葉に出来なくて申し訳ないんですけど」と前置きをして話しだした。
「何と言うか。お互いの考えていることが分かるっていう感じなんです。
例えば、道端に咲いている花でも、この花はすごく幸せだけど、向こうに咲いている花は少し寂しんでいるなあとか。
花屋さんに行っても、可愛い花ね、なんて言ってあげると、ありがとうって返してくるんです。」
広田さんはまた説明出来る言葉を探すように額に手を当てた。
「テレパシーのようなものですか?」
俺が言うと「そうそう!そんな感じです」と大きく頷く。
「何て言うか。
お互いの考えていることが分かるっていうか。
声として聞こえるんじゃなくて、頭の中に響いてくるような感じなんです。」
俺は興味深く聞いていた。
「何て言えばいいんだろう。
ごめんなさい、上手く言葉に出来なくて。」
広田さんは頭を下げる。
「いえいえ、気にしないで下さい。
でも話しを聞いていると、それって言葉のやり取りが出来るというより、気持ちのやり取りが出来るって感じがしますね。」
俺の言ったことにうんうんと頷き、
「そう言った方がしっくりくるかもしれないです。」
と納得している。
それから広田さんはポンと手を叩いて思い出したように言う。
「植物にはね、記憶もあるんですよ。
長く生きている大きな木だと、たくさんのものを見てきているでしょう。
それを教えてくれたりするんです。」
俺は「へえ」と感心した声をあげていた。
「昔はここに大きな家があったとか、この辺りは今より全然人が少なかったとか、子供達が自分に登って遊んでいたとかね。
私も面白いものだからついつい聞き入っちゃうんですよ。
そしたら木がね、ありがとうって言うんです。
話しを聞いてくれてありがとうって。
きっと木も、長い間に起きたことを誰かに聞いて欲しかったのかなあなんて思いまして。」
木の記憶の話しを聞く。
その方がよっぽどおとぎ話しのような気もする。
「私ね、植物と話しているとほっとするんです。
だからこういう力を授かったことに感謝しているんですよ。」
それを聞いた俺は、そんな考え方もあるのかと思った。
俺は自分の力に感謝したことなんて無かったから。
「そうなんですか。
自分の力に感謝って何だかいい考え方ですね。
僕は自分のことを変なやつだなあと思うことはあっても、感謝なんてしたことは無かったです。」
それを聞いた広田さんはニッコリ笑って答えた。
「この体も心も、そして植物と会話出来る力も、天から、そして親から授かったありがたいものだと思ってますから。
有川さんの、動物とお話出来る力も、素敵だなあと思いますよ。」
おっかさんの雰囲気を出しながら、柔らかい笑顔でそう言われると、母親に褒められた子供のような気分になってしまう。
俺は頭を掻きながら「そうでしょうか」なんて答えていた。
「ええ、そうですよ。」
そう言って広田さんはコクコク頷いている。
「おうおう、えらく二人で話しが盛り上がってんなあ。
俺のことでも話してんのか?」
マサカリがまだ紳士ぶったままの顔で聞いてくる。
俺はその顔に少し笑いながら言ってやった。
「そうだよ。
お前は素敵な犬だなあって広田さんと話してたんだよ。」
「おう!そうか。
やっぱりこのおばちゃんは犬を見る目があるねえ。」
尻尾を振って上機嫌だ。
「あら、今もマサカリちゃんとお話を?」
「ええ、こいつ広田さんのこと本当に気に入っているみたいなんですよ。」
広田さんは「まあ」とマサカリの方を見る。
「私もマサカリちゃんのこと大好きよ。」
そう言いながらマサカリの首の下のマッサージを始める。
この人、本当に犬が好きなんだな。
俺は汗を拭いながらその光景を見ていた。
しばらくマッサージを続けたあと、広田さんは立ち上がって、真剣な表情でこちらを振り返った。
「有川さん。」
「はい。」
真っすぐに目を見て話しかけてくる。
「有川さんて不思議な人ですね。
何だか心に抱えていることをつい話したくなるような感じになってしまいます。」
「そうですか?」
自分ではよく分からないので聞き返していた。
確か、いつか誰かにそんなことを言われた気もするが。
「そうですよ。とっても優しい感じがするからかもしれません。」
そうから広田さんは唇を噛み、ふうと呼吸をしてから言った。
「私の飼っていた犬の話しを聞いてもらっていいですか?」
改まった表情でそう言われて、俺は少し戸惑った。
しかしすぐに、
「ええ、いいですよ。」
と答えた。
広田さんは息を飲み、体の前で手をぎゅっと握りしめてから続けた。
「それと、息子の話も。」
そう言った広田さんの目には悲しみの色が浮かんでいた。
若い一人身の男が住むようなアパートに、一人で越してきた広田さん。
きっと何か事情があるのだろうと思っていたけど、そのことを話そうとしているようだった。
俺は頷き、悲しみを浮かべる広田さんの目を見た。
まだまだ太陽は休む気は無いようで、その熱と光をガンガンと放射してくる。
マサカリが俺と広田さんを不思議そうに見比べ、ブシュンとくしゃみをした。
川を吹き抜ける風が、一瞬だけ俺達の汗を乾かした。

                            第 十六話 またまたつづく


勇気のボタン 第十六話 希望の種(2)

  • 2010.06.07 Monday
  • 14:15
 「あら、おはようございます。」
マサカリの散歩の為に外に出ると、最近お隣に引っ越してきた広田さんに出くわした。
「おはようございます。」
俺も挨拶を返す。
この時期は日が昇るのも早くて、時刻は五時半だが空は明るく、そして青く晴れていた。
俺は心地よい朝の空気を胸いっぱいに吸い、それをゆっくり吐き出して軽く屈伸をした。
「犬のお散歩ですか?」
マサカリを見ながら広田さんが言う。
相変わらずおっかさんの雰囲気を出しながら、柔らかい笑顔で立っている。
「はい、いつもこの時間に連れて行くんです。
ちょっとでも遅れるとうるさくて。」
広田さんは半袖のシャツにジーパン姿、手にはベージュ色の大きなバッグを持っていた。
屈伸を終えた俺はマサカリの頭を撫でて立ち上がり、広田さんに向き直った。
「広田さんも随分お早いですね。何処かへお出かけですか?」
「ええ、これからパートなんです。近くのスーパーで。」
そう言いながらマサカリの方に近づき、その前に腰を下ろしてニッコリ笑う。
「これが昨日言ってたブルドッグのワンちゃんですか?」
「はい、とっても不細工でしょう。」
マサカリは俺の方に向かって「うるせえ」と吠える。
急に吠えたマサカリに広田さんはちょっとびっくりしたようだった。
「すいません。驚かせちゃって。
噛んだりしないから触っても大丈夫ですよ。」
吠えさせたのはお前だろうという目で俺を睨むが、それを無視して広田さんに言った。
「見た目はいかついですけどね。
根は優しいやつなんで安心して下さい。」
広田さんは「そうですか」と言って、軽くマサカリの頭を撫でる。
マサカリは広田さんの手をじっと見つめていたが、俺が働き者だと思った手に興味を持ったのか鼻を近づけてクンクン臭いを嗅いでいた。
「大人しい子ですね。ちょっと見た目は怖そうだけど、よく見ると優しい目をしているのが分かります。」
そう言って広田さんはマサカリの首の下を撫で始めた。
「ヨダレがつかないように気をつけて下さいね。」
広田さんは慣れた手つきでマサカリの首の下を撫でる、というより掻いてやる。
犬を飼っていた人の手つきだ。
マサカリはそれが気持ちいいのか、少し顔を上に持ち上げて目をうっとりさせていた。
「はあ、やっぱり可愛いですね、犬は。
どう?気持ちいい?マサカリちゃん。」
とっても気持ちいいというふうに、マサカリは「ぶふん」と鼻を鳴らした。
それを聞いて広田さんは笑い、首の下から頭に手を置き、また優しく撫で始めた。
「こうしてると、マルコを思い出します。」
満足げなマサカリが、広田さんを気に入ったように足元に鼻を近づけてクンクンしている。
「マルコって確か広田さんが飼ってらっしゃった犬の名前ですよね。
柴犬でしたっけ?」
広田さんはマサカリの頭から手を離して立ち上がると、「ええ、そうです」と嬉しそうに何回も頷いている。
「マルコもこうして首の下をマッサージしてやるのが大好きでね。
マサカリちゃんみたいに目をうっとりさせて気持ちよさそうにしていました。
マッサージをやめると、もっとやってよってクーン、クーンなんて言いながら甘えてきたんです。
それでまた撫でてやるとすっごく尻尾を振って喜ぶんです。
その姿が可愛くってねえ。」
愛おしそうな目つきでマサカリを見ている。
きっと今広田さんの目に移っているのは、マサカリではなくてマルコなのだろう。
「大好きだったんですね、マルコのこと。」
広田さんはまた嬉しそうにうんうんと頷く。
「ええ、大好きでした。私も息子もマルコのことは家族同然だと思っていましたから。
息子なんて、たまにマルコと一緒にお風呂の入って、一緒に寝ていましたから。
マルコもきっと、私達のことを大好きだったと思います。」
広田さんの目には薄っすら涙が浮かんでいた。
俺はそれに気付かないふりをして言った。
「ええ、きっとそうだと思いますよ。
飼い主が愛情を注げば、犬はそれをちゃんと分かってくれますから。
マルコも広田さんや息子さんのことが大好きでしょうがなかったんじゃないかと思いますよ。」
俺がそう言うと、広田さんはグスっと鼻を鳴らして、手で目尻を拭う。
「あら、やだ。すいません。
ちょっと色々と思い出してしまって。」
バッグからいそいそとハンカチを取り出した広田さんは、涙を拭き、鼻をかんだ。
「いいものですよね、犬って。
うちのマサカリでよかったらいつでも撫でてやって下さい。
こいつも喜びますから。」
臭いを嗅ぐのをやめたマサカリが俺の方へ戻ってきた。
機嫌良さそうに「ふん、ふん」と鼻を鳴らしている。
「すいません。昨日からご親切なことばかり言ってもらって。」
広田さんはハンカチを顔に当てつつぺこぺことしている。
昨日、俺は広田さんに好感を持ったが、その感じはますます強くなっていった。
いいおばさんだな。
ハンカチで涙と鼻水を拭いた広田さんは、またそれをいそいそとバッグにしまうと大きく会釈をした。
「それじゃあ私、パートがありますんでこれで失礼します。
マサカリちゃん、撫でさせてくれてどうもありがとう。」
そう言ってまたマサカリの頭を撫で、俺にぺこぺこ頭を下げつつ、広田さんはパートへと向かって行った。
「よかったな、マッサージしてもらえて。おまけにマサカリちゃんだなんて呼んでもらえて。」
上機嫌なマサカリは「おう」と頷いている。
「優しくていいおばちゃんじゃねえか。俺は気に入ったぜ。
マサカリちゃん、なんて呼ばれるのはちょっとくすぐったいけど、でも悪い気はしねえよなあ。
うん、あのおばちゃんはいい人だ。」
マサカリは広田さんの去って行った方を見つめ、大きく頷きながら尻尾を振っていた。
俺もしばらくマサカリと同じように広田さんの去った方を見つめていた。
本当にいい人だと思う。
でも、何故一人暮らしなんだろう。
犬はもういないとしても、ご主人や息子さんはどうしたのかな。
詮索することでも無いのかもしれないが、俺はその理由がとても気になった。
色々と考えを巡らしていると、
「おい、そろそろ散歩に行こうぜ!」
とマサカリが紐を引っ張った。
俺は広田さんの一人暮らしの理由を考えながら、やたらと上機嫌なマサカリの後姿を見て散歩をした。

                        *

その日の夕方だった。
俺が二度目のマサカリの散歩に行こうとしていると、広田さんがアパートに戻ってくるのが見えた。
「お、あのおばさんだぜ。」
見つけたマサカリが嬉しそうに尻尾を振る。
戻って来た広田さんが俺達を見つけ、笑顔で挨拶をしてきた。
「こんにちわ。夕方のお散歩ですか?」
手にはベージュ色の大きなバッグの他に、買い物袋が握られていた。
「こんにちわ。」
俺は広田さんの方を見て少し笑った。
「今から夕方の散歩です。
ここから少し歩いた所にある河原沿いの道が散歩コースなんですよ。
しっかり運動させないと最近太り気味で。」
そう言って俺はマサカリのお腹の肉を掴む。
「おい、やめろ。人の腹を掴むんじゃねえ。」
吠えたマサカリを見て広田さんは声をだして笑う。
「そうねえ、ちょっとぽっちゃりしてるわねえ。
でもそのくらいの方が可愛い気もしますけど。」
マサカリは「そうだ」と言って頷いている。
「あんた分かってるぜ。俺はあんたのことが気に入った。
マサカリちゃんって呼ぶのはあんただけに許すことにしてやろう。」
通じていない言葉を喋りながら、またもマサカリは上機嫌だった。
広田さんはマサカリの前に腰を下ろし、持っていた荷物を置いて朝と同じようにマサカリの首の下をマッサージしてやる。
マサカリはうっとりしていた。
「マサカリ、広田さんのことをすっかり気に入ったみたいです。
広田さん犬の扱いが上手だから。」
それを聞いた広田さんは嬉しそうに「まあ」と言った。
「そうなの?マサカリちゃん。
あんた可愛い子だねえ。
こんないいご主人様を持って幸せ者だよ。
ねえ、マサカリちゃん。」
マサカリちゃんを連呼されると、俺もくすぐったくなってくる。
こいつの顔を見てちゃん付けで呼ぶ人など、生涯広田さんだけだろう。
よかったな、マサカリ。
「私もマルコをよく散歩に連れて行きました。
時には息子と三人でね。
息子が一緒の時にはいつもボールを持って行くんです。
それで遊んでもらうのが好きでねえ、マルコは。
日が暮れるまで息子と一緒にマルコと遊んでいたこともあります。」
広田さんの上手なマッサージに、もうマサカリの顔は幸福絶頂という感じだった。
いかつい肉厚の顔に、気持ち良さそうにとろけそうな目をしているマサカリを見て、俺は少し笑い出しそうになった。
「気持ちいいかい、マサカリちゃん。」
そう言ってマッサージを続ける広田さんを見ていたが、その隣に置かれた買い物袋を見て、俺は思い出したように聞いてみた。
「そう言えば、昨日は花の種は飼えたんですか?」
マサカリを優しそうに見つめていた広田さんは俺に目を上げ、「ああ、はい」と頷いた。
「私、花も大好きなんです。
昨日はお気に入りの花を飼って帰りました。」
満足気に広田さんはそう言う。
「それはよかったですね。
お気に入りの花ってどんな種類の花なんですか?」
何気無い質問だったのだが、広田さん困ったように笑顔を崩してしまった。
「あ、すいません。何か余計なことでも聞いてしまいましたか?」
俺の言葉にぶんぶんと首を振る。
マサカリをマッサージしていた手を止め、少し俯いてから広田さんは答えた。
「いえいえ、そうじゃないんです。
その、何て言うか、お気に入りの花っていうのは種類がどうとかではなくて、その・・・。」
何か言いにくそうにもじもじしている。
何だろう?
何を困っているんだろう?
「あ、いいですよ。
答えにくいことなら無理しなくても。
何となく聞いただけですから。」
そう言う俺に広田さんは「違うんです」とかぶりを振った。
「いえ、あの、すみません。
こういうことを人に言うのはあまり無いというか・・・、もしかしたら始めてかもしれないんですが・・・。」
ますます気になる。
俺は無理に聞いてはいけないと思いながらも、何を言い出すのかちょっと興味があったので黙っていることにした。
広田さんは相変わらずもじもじしながらも、迷うように口を開いた。
「あの、こんなことを言ったら笑われるかもしれませんが・・・、その、私・・・。」
マサカリがもうマッサージしてくれないのかというふうに見ている。
広田さんは軽くマサカリの頭を撫でながら、思い切ったように答えた。
「あの、私、植物とお話が出来るんです。」
「はい?」
俺はすっとんきょうな声をあげていた。
「やっぱりおかしいって思われますよね。
でも本当なんです。
木や草やお花と会話出来るんです。
小さな頃からそうでした。」
俺は固まってしまった。
植物と話が出来る。
そんな馬鹿な、なんて思ってはいけない。
現にここに動物と話せる人間がいるではないか。
それも俺の友達にも一人。
藤井が聞いたら何と言うだろう。
「そんな細かいことまでは無理なんですけどね。
何となくお互いの考えていることが分かるっていうか。
私が言葉を送ると、植物も言葉を返してくれるし、植物から私に話しかけてくることもあるんです。」
広田さん。
僕はあなたを馬鹿にしたりはしませんよ。
安心して下さい。
そう言いたかったが、やっぱり驚いているので固まってしまっていた。
自分が実際に動物と話せる分、広田さんの言葉が嘘とは思えなかった。
「すいません、おかしな話をしてしまって。
やっぱり笑ってしまいますよね。」
困ったように俯いいたままの広田さんに向かって、俺は一つ咳払いをして答えた。
「いいえ、そんなことはありませんよ。
だって俺も・・・。」
そう言いかけた所で広田さんが顔を上げて俺の目を見た。
「俺も広田さんと同じだから。」
広田さんは口に手を当てて驚いている。
まさか自分と同じ人間がいるなんて、そんなふうに顔に書いてあった。
今からはマサカリの散歩の時間。
しかし俺は広田さんともっと話したくなった。
そこで一つ提案してみた。
「広田さん。」
俺の声にビクっとするように体を動かした。
驚いた顔はそのままだ。
「はい?」
固まった広田さんに、俺は笑いかけながら言った。
「よかったら、マサカリの散歩を一緒に行きませんか?
その、広田さんともっとお話ししたいことがあります。」
マサカリは俺の方を見て「え、このおばちゃんも一緒に行くの?」と聞いていた。
俺はコクっと頷く。
「うん、まあ、別にかまわねえけどな、俺は。」
そう言いながら尻尾を振っていた。
「どうですか、広田さん?」
固まった広田さんは、ハッとしたように立ち上がり、両手を体の前で握りしめながら答えた。
「ええ、もちろん構いません。
というより私も一緒に行きたいです。
その、お話したいことは私もたくさんありますから。」
そう言って広田さんは両手を頬に当て、驚いた自分の心臓を落ち着かせようとしているみたいだった。
「そ、それじゃあ荷物だけ置いてくるのでちょっと待っていて下さい。」
そう言って広田さんは自分の部屋に入って行った。
「私、植物とお話しが出来るんです。」
その言葉が頭で響いていた。
広田さんはすぐに出てきた。
まだ両手を頬に当てていた。
俺はマサカリの紐を引っ張り、行こうと合図する。
「おっし、じゃあこのおばちゃんも一緒に散歩に行くか!」
そう言ってマサカリは歩き出し、俺は広田さんを促す。
「行きましょう。
お互い、たくさんお話したいことがあるはずです。」
広田さんは、うんうんと頷き、俺達と一緒に歩き出した。
この季節、太陽はまだその光を高く保っている。
時折吹く風は温く、湿気が体と服の間にまとわりつく。
俺はTシャツの裾をパタパタさせて、服の中を換気させた。
広田さんの話。
もっと詳しく聞きたい。
もっと詳しく知りたい。
そして、俺のことも聞いてもらおう。
河原沿いの散歩道に向かう途中は、何だか不安なような、それでいて楽しみのようなおかしな気分だった。
俺はマサカリの紐を持つ手に力を込めながら、高鳴る胸の鼓動を抑えられずにいた。
まだ高い位置にある太陽が、これからどうなるのか、俺達を見守っているみたいだった。

                             第 十六話 またつづく

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